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立会川
東京都の南部、品川区で東京湾に注ぐ京浜運河に合流する2級河川に「立会川」という名のどぶ川がある。水源は合流点から 7、4キロ遡った目黒区碑文谷(ひもんや)の弁天池だが、もともと池の湧水の量はたかが知れていたから、流れの上流では川底の石が頭を出しているような小川だった。昭和20年代までは小魚やエビ、ザリガニなどが棲息し、山の手の子等の遊び場だったのだが、その後平成に至るまでの間に流域の7キロはびっしりと住宅街や商店街で埋め尽くされ、そこから排出される夥しい量の生活排水のため水嵩は増し、川の側壁はコンクリートで固められて川幅は広くなったが、その水の色は墨汁色、悪臭ぷんぷんで、昔のせせらぎは生き物の生息出来ない排水溝と化した。しかもこの汚濁水は東京湾の水質悪化を怖れて、そのまま海に注ぐ運河には放流されず、運河への出口でせき止められて、其処に設置された下水道局のポンプで調整されていたから、川の水は潮の干満の度ごとにただ行きつ戻りつを繰り返すだけで、その結果東京都の水質検査では見事に都内ワースト、ワンの記録をマークした。やがて悪臭に耐えかねて、水を汚した張本人の周辺住民の訴えで、市街地を流れる排水溝の大部分は厚いコンクリートの蓋で覆われ、桜並木の遊歩道となったが、今ではその下をドブ川が流れていることなど、殆んどの住民は忘れている。今は運河の合流点から手前1キロ足らずのあいだの、区の競技場や大井競馬場付近だけが地上に姿を出していて、川の流れの名残りを留めている。この「立会川」という名の由来には諸説あるが、その昔は東海道、今の国道1号線を下って1キロ足らずの所にあった、江戸時代の刑場「鈴ガ森」に後ろ手に縛られ裸馬に乗せられて江戸市中を引き回わされたあげく、首を斬られる運命の死刑囚と、その縁者がこの川を挟んで立ち会い、今架かっている涙橋の辺りで、ひそかに今生(こんじょう)の別れを交わしたという説が最も尤もらしく聞こえる。
鯔(ボラ)
ところが、この命脈の尽きたはずの死のどぶ川に、2003年の2月、突然椿事が発生して世間を騒がせた。それはこのどぶ川に、無数の鯔(ボラ)の大群が出現したというニュースがマスコミで大事件として報じられたのである。テレビ局の放映で、物見 高い老若男女の野次馬が京浜急行立会川駅にどっと降り立ち、この界隈は時ならぬボラフィーバーに沸き立った。商店街では急遽「ボラチャンセール」を開催し、地元出身の演歌歌手によるボラチャン音頭のレコードの発売の企画も発表された。橋の上から眺めた写真では、立会川の水面はボラが折り重なって隙間なく群れをなし、まるでボラで編んだ絨緞を敷き詰めたような異常な大量発生である。芋を洗うようなあまりの混雑で、魚たちも身の丈全部を水面に漬かるスペースがなく、頭を斜めに水面から出して、押すな押すなの押しくら饅頭で立ち泳ぎをしている有り様である。
いったい突如としてこの川に何が起きたのか。テレビの解説によると、手狭になった東京駅の房総線地下駅新設のために馬喰町あたりから掘ったトンネルから湧き出す大量の湧水に手を焼いた国鉄東日本が、思案の末、この水を汚濁ワーストワンで悪名高い立会川まで、地下に埋設した太い下水道管を通して流し込んだため、どぶ川の水質が著しく改善された結果だという。国鉄の最初の計画では、東京駅からすぐ目の先の皇居のお堀に流し込もうとしたが、水質検査の結果、海に近い八重洲の地下水は塩分濃度が非常に高く、首都のど真ん中、皇居の内堀の鯉やカメ、その他の淡水魚が腹を出して一斉にお堀に浮かんできたのでは、賢き辺りの手前もあり、只では済むまいというので、塩辛くてもどうせ魚など寄り付くはずのない立会川に決めたのだという。東京駅から品川の先まで、可成りの距離の下水管の布設工事費は30億。それでも毎年かかる湧水処理費用5億円は6年で元が取れるというのが、お大尽国鉄東日本の計算と報じていた。
真冬の地下水は温かい。魚はその本能の何処でそれを嗅ぎつけたのか、寒のボラが大挙してこの川に集合したのは一年でも一番寒い2月のことだった。
鯔背銀杏
「鯔背銀杏」とは何のことで、何と讀むのか。「ボラセギンナン」ではない。「いなせ、いちょう」と讀み、江戸時代の魚河岸 あたりの「いなせ」な若衆の、髪型のことだそうだ。そのココロは、ちょんまげを低く平たく整え、それを出世魚といって成長にともない名前の変わるボラの前身「いな」の「背鰭」が真ん中辺で曲がっているのを真似て、小粋に曲げて見せる髪型で、それを「鯔背銀杏いなせいちょう」と言う髪型の呼称に転用し、粋で威勢のいいイナセな魚河岸の若衆の間で流行したものらしい。
いま鯔(ボラ)という魚の名前は知っていても、見たことも食べたこともない人が多いはずだ。少なくとも関東地方では昔から魚屋の店頭ではボラは見かけたことはないし、江戸前の寿司屋や天麩羅屋のメニュウにもボラの名前は出てこない。理由は誠に簡単で、近年、東京近辺のボラは不味くて食えたものではないからである。その原因はボラが住む海水と淡水の混じった東京湾沿岸の河口の気水の汚染がひどく、ヘドロと水面に浮遊する廃油の臭気が魚肉に滲み込んでしまっているからだという。不味いと言うのは旨いの反意語だが、本来は程度と比較とそれに個人の好みによる相対的な評価の問題のはずが、残念ながらそれらすべてから遥かに隔絶して評価の対象の埒外の味で、東京のボラは少なくとも人には食べられない魚の仲間になってしまっている。
立会川にボラが出現した途端に、これもどうしてそれを察知したのか、天敵の真っ黒な川鵜の大群が飛来し、付近の屋根や木にとまって羽根を動かしながら、鵜の目鷹の目でボラを狙っている。ボラは水面に浮かんで動きがとれない有り様だから、鵜は長良川の鵜飼で見るように、鮎を捕らえるのに息を殺して首から水に潜る必要はない。しかし人間が不味いと食べない魚をなぜ鵜の鳥は平気で次々に襲うのか。思うに、鵜が川面で立ち泳ぎをしているこの不味いボラを平気で食べるのは、彼等が魚をついばんで舌で味わうことなく、一気に丸ごと文字どうり鵜呑みにするからだとしか考えられない。
ただボラの名誉のために言っておくが「鯔(いな)の頭三合飯」という諺が江戸時代にはあって、身は少なくてもボラの頭さえあれば、それだけで飯が三合も食えるということで、江戸時代にはボラは決して不味い魚ではなかったようだ。それどころか成長するにつれて呼び名が変わる縁起の良い「出世魚」として親しまれてきたらしい。体長2〜3cmの稚魚を「ハク」これが5〜6cmで「オボコ」となるが、人間社会では「オボコ」というのは世慣れぬ生娘(未通女)のことを指す。さらに20〜30cmになるとその背鰭の形から人間が真似た髪型の「イナ」となり、やがて秋になって体長30cmを越えるころ「ボラ」となる。その後、出世魚の終点は体長80cmにもなり「トド」と呼ばれ産卵のため外洋に出て南に回遊する。それ以上先がないことから「トドのつまり」という風に使われるが、功成り名を遂げたというより成れの果てという、あまり芳しくない不首尾の結末を表す言葉の語源となっているのは、この魚の当時の社会での評価と無関係ではないだろう。 同じ出世魚の「鰤ブリ」は関東では「ワカシ」「イナダ」「サワラ」「ブリ」となるが、ブリは江戸庶民にとっては岸では釣れない外洋の高級魚だっらしく、江戸前の庶民文化や芝居の台詞に転用された痕跡は全くない。そこえゆくとボラは江戸の庶民にとっては余程身近な二足三文の下魚だったとみえて、江戸庶民の食生活の貧しさを今に伝えているのかも知れない。それはともかく、江戸が東京になって、頭の上のちょん髷が切り落とされた頃から昭和10年あたりまでの60年ばかりの間は、ボラも江戸前の三大釣魚として命脈を保ってきたが、それが殊に戦後になってからの東京湾の埋め立て、工場廃水の放流などで一時生息が絶望視された江戸前の魚達「いわし」「はぜ」「かわはぎ」「あなご」「きす」などが、下水道が整備され、汚水処理が普及し、湾内各所に人工なぎさが造成されるなど、海の浄化作用が急速に進み、江戸前の魚の復活が話題となる中で、このボラだけが河岸でも料理屋でも未だに食用魚として扱われていない。魚河岸のある築地の本願寺の裏手にも「いなせや鯔背屋」という魚と鍋料理の店が一軒あるが、そこで出てくるのは各種マグロと長崎の地魚だけで、店名にあるボラの姿はない。ボラに縁のある名を看板にしている店でさえこうだから、もはや東京ではボラという魚は金をとって客に喰わせる食材ではないらしい。
ぼらこ
「鯡ニシン」の卵(卵巣)はカズノコで、「鱈タラ」の卵はタラコだから、「鯔ボラ」の卵はボラコであろう。後で聞いた話だが築地の魚河岸にはボラは置いていないが、秋口になるとボラの卵はたまに置いてあると言う話だが未だ見たことはない。
何時もながら、話が飛んで申し訳ないが、私がボラの卵を初めて見たのは地球の裏側のオーストラリア、シドニーの魚市場でのことであった。それも最初に見た時は一体それが何の魚の卵か見 当もつかなかったが、左右一対で一腹の無気味な大きさの魚の卵巣がベタンと台の上に重ねて置いてあった。実は生のタラコでもないかと魚市場に出掛けたのだが、考えてみれば鱈(たら)という魚は鯡(にしん)同様、西洋人の食材としては北欧の寒流の魚のはずだから、オーストラリアではタラは取れない。従ってタラコもない理屈である。この國でもポピュラーなフイッシュ、アンド、チップスはタラの切り身のカラ揚げとポテトチップスだが、そのタラの仕入れは、ひとえにマクドナルドという国際資本の威光であって、地元の漁師の網にはタラはかかってこない。
この國の一般家庭では、日常魚を食べるということはあまり一般的ではない。従って一般大衆相手の魚屋という商売は成り立ちにくいから、市内で見
かけるのは肉屋のブッチャーとベーコンショップばかりで、魚屋は滅多に見かけない。我々日本人はフイッシュイーターだから、週末には旧市内に一ケ所しかないこの魚市場に買い出しに行くのを愉しみにしている。市場で魚を売って
いるのは皆イタリー人とギリシャ人で、此処に行けば日本の近海でとれる馴染みの魚が安く手にはいる。たい(スナッパー)くろだい(ブリム)かつお(ボニト)はまち(キングフイッシュ)きす(ホワイテイング)さより(ガーフイッシュ)こち(フラットヘッド)かわはぎ(レザージャケット)などが代表的な物だが、広い市場の中に10軒ばかりの魚屋が店を出して、どの店も同じ種類の魚を、捌かずに海で泳いでいた姿のまま無造作に山盛りにして売っている。卸し専門では商売にならないとみえて小売りも自由だが、困るのは積上げた魚は丸ごと一匹(ホールフイッシュ)で買はねばならぬことだ。値段をきめる秤りの量目は丸ごとだが、黙っていると渡されるのは頭もハラワタも捨てられた切り身(フィレット)だけになる。兜蒸し用の立派な鯛の頭など、おおざっぱに切り落とされてポイとごみの樽に捨てられてしまう。ここで頭もハラワタも欲しいと言うのはなかなか勇気のいることで、見栄っ張りな日本人はなかなかそれが言い出せずに一匹丸ごと買って来て、台所中魚のウロコだらけにして悪戦苦闘することになる。
ところでその日思いきってタラコの代わりに買った無気味な魚卵の名称を尋ねると魚屋のイタ公が面倒臭そうに「ムレットロー」だと言った。見ても正体の分からぬものが、名前を聞いたからと言って分かるわけがないのだから、家に帰って女房と議論しながら英和辞書を引いた。苦心惨澹の結果ムレットというのはボラのことでローというのは魚の卵のことだとやっと判明した。そして気がついたのは吾々夫婦は二人ともボラという魚を見たことも食べたこともないということであった。従ってボラの卵にお目にかかったのも、その時が始めてだったことになる。
正体が判明するまでに手間のかかったこの「ムレットロー」はその晩の夕食に醤油と砂糖で甘辛く鍋で煮られ、日本式タラコの煮付けの代用品として登場した。煮立った鍋の中で、卵巣の薄皮がはじけ、中からつぶつぶの魚卵のかたまりが盛り上がり、黄金色の花が咲いたような見事さで、味と言い姿といい、「ぼらこ」の煮付けというのは誠に贅沢な珍味であった。この煮付けの正体を子供に聞かれ、我が家ではこれを「ぼらこの煮付け」と称して珍重し、その後も必ず探して買うことになった。
からすみ
この吾が家の創作家庭惣菜のレシピ「ぼらこ」が、実は日本古来から、越前のウニ、三河のコノワタと並んで日本三大珍味と言われる肥前野母の「カラスミ」の原料の生の姿だと判明するのにさして時間はかからなかった。情報は、ぼらこの煮付けを喧伝した女房のもとに、はり巡らされていた日本人学校の母親仲間の情報網から寄せられた。私達夫婦はカラスミなる珍味の正体を確認すべく今度は和英辞典を引いた。しかし何のことはない、カラスミを引いて見つけたのは、ただ「dried
mullet roe」乾燥ボラの子という素っ気ない訳語であった。しかし辞書に外国語で記載が有ると言うことはカラスミやそれに類似した食品が日本以外にも存在する証拠だと考えた。興味を抱いて調べてみると、たしかにカラスミと言うのは秋口に採れたボラの卵を塩漬けにしてから、次に水に浸して塩抜きし、卵巣を静かに揉んで中の卵粒を揉みほぐし、板の上に並べて重しをし、形を整えて2ヵ月間ぐらいかけて展圧、乾燥させるという手のこんだ高価な嗜好食品で、その形状が中国の書道用の墨、すなわち唐の墨(からすみ)に似て細長く硬く平たいことからその名がついたと言うのが通説だった。しかもその名ずけ親が豊臣秀吉らしいと言うのである。安土桃山時代の天正16年(1588)秀吉は朝鮮出兵のため肥前の名護屋(今の佐賀県唐津)に赴いたが、長崎代官、鍋島飛騨守信正が諸領地の長崎湾を形成する野母半島で採れたボラの卵で作った「からすみ」を献上し、その珍味を賞賛された時の話となっている。それ以来「カラスミ」は肥前野母樺島産のボラの卵の加工品をもって最高の珍味と称している。この「カラスミ」の食文化は、グローバルな人類史的規模の拡がりがあり、カラスミの起源は地中海沿岸地域で、その歴史は紀元前にまで遡り、紀元前の古代ギリシア、エジプトでも作られていたようである。それが9世紀にはシルクロードを通って中国にも伝来し、シルクロードの最果て、トドのつまりの日本にも中国から製法が伝わってきたものらしい。しかし中国から伝来した当時の「カラスミ」の原料はボラではなく「鰆サワラ」だったという。今でもイタリー製のボタルガという西洋カラスミはマグロの卵から造ったものもあるらしい。
これを野母半島の沿岸でとれるボラの卵をを原料として製法に工夫をこらし、今の日本の「カラスミ」に定着させたのは肥前長崎の高野勇助という人物である。時代は徳川幕府四代将軍家綱の治世延宝3年(1675)の17世紀末である。昔の長崎奉行所、今の長崎県庁の脇に江戸時代からの老舗「高野屋」が身内だけで受け継いで来た秘伝の製法で「からすみ」を造り続けているが、今の当主は将軍家に迫る13代目だそうだ。秘法というのだから製法の詳細は秘密で、カラスミに共通した決まった作り方は無いことになる。従って世の好事家や居酒屋のおやじさんなどが、それぞれ自家製の秘法でカラスミを作るのは全く自由と言へる。
私が5年の任期を終えて日本に帰る頃、シドニー国際空港の免税土産物売り場にも「カラスミ」と銘打った乾燥ぼらこが現れた。日本の「からすみ」の味を知っている年輩諸氏の評価はこれは僭称で「似て非なるもの」という格付けだった。それは母国イタリーで昔からパスタ用のカラスミを作っているイタリー移民が日本人向けの土産物として作った物だから、僭称の評価は元祖争いと同じで、一方的な評価といえる。日本の贈答用の「カラスミ」は恭しく桐の箱におさまっているが、こっちはセロハンの袋に入っているだけ。ちなみに現在日本の最高級のカラスミは中型の100グラム程度のものでもキロ6万円はするが、当時豪州産はその十分の一以下だったろう。豪州産のカラスミは卵巣の薄皮の卵の粒もほぐさず、乾燥や展圧も足らないとみえて、押すと生干しの柔らかい感触が残っている。これが豪州産カラスミなのであって、手先の不器用なオーストラリア人に卵巣を揉ませたら、皮を破って致命的な製品歩留まりになり商売にならない。この柔らかいカラスミをはじめて見た時、私の脳裏に閃めいたのは、これを大量に仕入れて、日本流の秘法で加工しなおして売り出したら、大儲けが出来ないかということだった。しかし私の仕事は鉱山業で、残念ながら海産物は全くなじまないとして、会社からも一笑に付せられた。仕方がないから帰国する時、土産用に山ほど箱に詰めて持ち帰り、珍しがられて大評判を博したのを覚えている。肉類はビーフジャーキーでもうるさいのに、海産物は面倒な検疫がないと聞いたからである。検疫官に理由を聞いたら、世界中の海はつながっているからねと言った。オーストラリアのボラも日本のボラも、その気になれば泳いで行けるから、ボラのバイキンは防ぎようがないという考へ方だろう。
トドのつまり
昨日私は思い立って品川の立会川に出掛けた。目的はボラが現れた川の今の様子を見て、このところ呻吟中の噺のオチをつけたいと思ったからである。最初この噺のオチは、長崎出身の知人Hさんから聞いた話で、Hさんのお祖父さんがカラスミの原料の新鮮なボラを捕ろうとして船を新造し、長崎から五島へ出漁したまま帰って来なかったという話で締めくくる筈が、肝心のHさんが腰痛で歩行困難となり、新年宴会で詳しい話やカラスミの蘊蓄を披露して貰えなくなったからである。
都営浅草線泉岳寺経由、羽田空港行きの京浜急行で10分足らず、立会川駅で降りる。私は地図馬鹿の自覚があるから駅を出る前に迷子にならないように駅員に川の所在を確めたが「階段を降りたら目の前にある」と言われて行ってみると、なるほど川は正面に鉄の橋を挟んで左右に流れていた。橋の名は町内で名前を募集した結果ボラチャン橋と命名したと看板にある。橋の下の川を覗くがボラの姿はない。川の色は半透明な緑色をしていて川底は見えないが、地下水導入の効果か嫌なドブの匂いは消えていた。川の水面に浮かんだ割り箸が少しずつ右に動いているが、念のため橋の欄干を修理しているオジサンにどっちが川上かと聞いた。「河口は左だよ今は満ち潮だから」割り箸は川上の右に動いているけどねと言った。聞かなければ反対の方へ行くところだった。川沿に商店街はあるが活気のないうらぶれた印象である。暫くすると浜川橋という橋に出た。ここには別名「涙橋」の由来の立て札がある。その傍らには大きな石の鳥居が立っていて天祖神社がその奥に見える。橋の上から又水面を覗くがやはり魚影はない。その時橋の下を大きな鳥の影が潜り抜けて川下の方に消えた。鵜がいるところを見るとボラも何処かにいるはずだと思う。川沿い更に下り、自動車修理工場で一人で仕事中の板金工のオニイさんに声をかけて「もうボラは出ないのか」と尋ねると、仕事の手を休め、わざわざ川端まで出てきて「沢山はいないけど底の方にはいるよ。満潮だから下に潜っているけど、ほら光って見えるのがボラだよ」と言った。何が光るのか、ウロコか目玉か。生憎の曇り空のせいか、この若者には見えるらしい魚影が老人の目には見えない。「見えないよ」では折角の親切のてまえ愛嬌のない話だから、見えた振りをして「どのくらいの大きさだろう」と聞くと「唐Oセンチか25センチぐらいでしょう」と言う。「ほら鵜が来た」というので、そちらを見ると水紋を残して川の中に姿を消した後だった。辺りには鴨らしい水鳥の群れが浮かんでいる。鵜は潛ったまま暫く待っても水面には浮かんで来ない。「鵜は平泳ぎの選手みたいに潜りっ放しで同じ所には浮かんで来ないよ。そこえゆくと茶首や青首の鴨は頭は水に突っ込むけど尻は出したままだ。頭かくして尻隠さずだよ」このオニイさんは一人で退屈していたのだろう。仕事の邪魔をしたのを詫びて別れた。
更に下ると行く手に鉄骨の基礎の上に大きなトタン張りの真四角な建造物が川を跨いで立っていた。そのトタン板には「水に新しいいのちを、立会川の水環境創造事業、東京都下水道局」と書 いてあって、此処が巨大なポンプ小屋らしい。その先は広い運河で、その堤防には「立会川堤防船溜り」という看板が立っていて数隻の釣り舟や屋形船がもやってあった。釣り舟屋の看板にはクロメバル、カレイ、キス、ハゼ、と釣れる予定の魚の名が書いてあったが、今ここの川底に居るはずのボラの名前はやはり其処にもなかった。
駅に引き返す途中の涙橋で天祖神社に立ち寄りお賽銭をあげて拝んで来た。おみくじ売り場の大きな看板に男の本厄は25歳、42歳、61歳で、厄払いをしないと良くないと警告してあった。61歳以上の厄が無いのは、役に立たない老人はもう勝手にしろと言うことか。
私は帰りの電車の中で考えた。男の本厄はボラで言えば「25」が「イナ」で「42」が「ボラ」で「61」が「トド」でそれ以上はトドの詰まりの「なれの果て」だ。乾燥して100グラム以上のカラスミになる「ぼらこ」は魚型から言って60センチ以上のトドの腹からしか取れない。トドは外洋に出て産卵のために南の海に回遊するが、長崎の野母崎沖の海あたりにさしかかった時、卵はちようど頃合に成熟しているのだろう。トドは鮭と同じで産卵すればあとは死ぬだけである。つまりトドの産卵のための南の海への回帰は死出の旅路なのだ。そして私はアッと気がついた。鳶が鷹を産むようにカラスミを腹に抱えているのはメスのトドだけである。役立たずのトドのオスはどうなるのか。私同様、何処で死のうと生きようと勝手な「トドのつまり」の老魚なのだ。私は来年は77歳になる。そこで思い出したが、おみくじ売り場の看板に77歳は喜寿といって、本来なら神社で祝詞をあげ、皆でお祝いしてもらうべき歳なのだと書いてあったようだ。
2月20日07
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