嗚呼女難。鴎外逃避行

        

 女難というのは念のために広辞苑を引いてみると「男が女との関係で災難をうけること」とある。総じて世間の男女間のトラブルは、どちらが加害者、被害者とは一概に決めつけられないことが多いから、この概念規定は男性優位の気味があり、フェアーではない。女難にも男の身勝手や周囲のお節介が招く災難もあり、受ける被害も、実はその男本人の「身から出た錆」と考えた方が無難な場合が多い。
 
 明治の大文豪といえば森鴎外と夏目漱石だが、この二人にも揃って女難の相があったことは、夙に世間では知られている。今回私が徘徊した森鴎外の遺跡について言へば、この人の女難の逃避行の範囲は極めて狭い猫の額の範囲である。わけあって、この界隈を3軒転居しているが、その逃避行は今の地下鉄千代田線「根津駅」から、たったひと駅向こうの「千駄木駅」までの約1キロ前後の地域の範囲内である。
 森鴎外が処女作「舞姫」を執筆し、発表したのは明治23年1月(1890)のことである。この日付けがその後の逃避行を決定的に左右する始まりになるから、この年は是非気に留めておいて欲しい。当時鴎外が住んでいたのは、今の根津駅から徒歩15分の池の端3丁目にある男爵赤松則良海軍中将の持ち家だった場所で、今は「水月ホテル鴎外荘」の看板を掲げ、鴎外ゆかりを客寄せの看板にしたホテルになっている。この赤松男爵という人は幕臣で幕末の遣米使節団の一員として勝海舟などと咸臨丸で渡米、後にオランダ留学生に選ばれオランダで船の運用術、砲術、造船学などを学び、その後は明治政府に出仕して海軍中将に就任、1877年には男爵を叙爵している。このオランダ留学生仲間に森家の親戚筋で同郷の津和野出身、15代将軍慶喜の政治顧問、明治初期の思想家、後の貴族院議員の西周(にしあまね)がいた。フィロソフィーを哲学と訳したのはこの人である。森家は津和野藩主、亀井家4万3千石の典医の家系で、鴎外11歳の明治5年に一家は上京し父の静男は千住で医院を開業、鴎外は親戚の西家に寄寓してドイツ語を学んだ。やがて鴎外は20歳で東京大学医学部を卒業と同時に両親の希望で陸軍省に出仕し、明治17年(1884年)衛生学研究のためドイツ留学を命じられ、足掛け4年の留学の後21年(1888)9月8日に日本に帰国している。
 そしてその帰国から4日後の9月12日に鴎外の女難が幕をあげた。彼を慕ってドイツ女のエリス(エリーゼ)が来日し、築地の精養軒に滞在して鴎外からの連絡を待つという事態が起きたのである。この時点では小説『舞姫』は未だ執筆されていないから、この女性が小説のモデルかどうかの詮索は始まっていない。
 鴎外の母親の峰は良妻賢母の見本のようなしっかりした女性で、息子の鴎外が帰朝の暁までに、良い嫁を見つけておこうと親しい西周とかねて相談していた。そこで候補に上ったのが西の友人の赤松男爵の長女登志子であった。 鴎外の帰国を待ち、幼少から大恩ある西周夫妻の媒酌でこの華族の令嬢との婚儀が整う手筈だった。赤松家の閨閥には時の陸軍軍医総監も居り、鴎外の軍医としての出世の為にも申し分のない良縁だと周囲は考えていた。
 そこへそんな事とはつゆ知らない本人の鴎外が帰って来て、その4日後には申し合わせたようにドイツから留学時代の馴染みの女性が追い掛けて来日し、築地のホテルに居直って鴎外からの連絡を待っているという緊急事態が発生したのだから、鴎外には無断で結婚話を進めていた森家一統の周章狼狽ぶりは察するに余りある。この折角整いかけた縁談の成立に漕ぎ着けるためには、森家は隠密裡に女をなんとか説得し、諦めさせて帰国させる必要があった。身内でこの後始末に奔走したのは、鴎外の妹キミ子の夫で鴎外より3歳年上の東京大学医学部教授小金井良精と医学生だった弟の篤次郎の二人である。この人選の理由はこの二人なら身内で世間に漏れる心配がないこと、その身内でドイツに留学しドイツ語でドイツ女を説得出来るのは小金井だけだったからで、立会った篤二郎の方は後年おかげでドイツ語の勉強になったと述懐している。
 説得にあたった小金井が妻のキミ子に「エリスは全く善人だね。むしろ少し足りないぐらいに思はれる。どうしてあんな女と馴染みになったのだろう」と言うと、それを聞いたキミ子は「どうせ路頭の花と思ったからでしょう」と言ったという。つまり鴎外の周囲にとってエリスは少し足りない路頭の花で、留学生から森家が大財閥だというのを真に受けて押し掛けて来た「伯林賎女」と見られていたことになる。来日から約1月後、この別れ話にどう折り合いがついたのか「エリス」はついに翻意し、横浜港から帰国していった。小金井によると 別れ際にエリスは屈託なく船べりでハンカチを振っていたというが、追い返される女は万感こもごもで屈託が無かったはずはない。一方その間の鴎外の行動や心境については本人は語っていないし、その後もエリスとは文通して、受け取った書簡類は生前にすべて焼き捨てているから知るすべはない。鴎外の受けた心の傷や屈託はエリスが帰国した後の鴎外の作品や奇矯な行動で察するほかない。

 エリスが帰国した翌年明治22年(1889)3月6日にはかねてお膳立てされていたとうり西周夫妻の媒酌で海軍中将赤松則良男爵の長女登志子と目出たく結婚、赤松家の持ち家に入居した。そして翌年の1月には処女作「舞姫」が発表されている。
 舞姫のモデルがエリスだという証拠はない。この舞姫という小説は、「主人公の太田豊太郎が留学先で上司により解職免官され、行き場を失ったときエリスによって生活が支えられ、貧しい中にも楽しい日々を送っていた所へ、大臣の秘書官としてやってきた親友に説得されてエリスとの交わりを絶つことを約束させられる。さらに大臣に語学の才能を認められ一緒に帰らぬかという誘いに乗ってしまったため、エリスは妊娠の身で発狂し、主人公は養育費を置いて帰国することになったが、エリス発狂の原因が高熱で意識朦朧の間に訪れた親友がエリスに帰国の真相を明かしたためだと知りその責任を親友に転嫁して『相沢と議りてエリスの毋に微なる生計を営むに足るほどの資本を与え、あわれなる狂女の胎内に遺しし子の生まれむおりの事をも頼みおきぬ。嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されども我脳裡に一點の彼を憎むこころ今日までも残れり』で終っている」
 つまり鴎外がこの新居で想を練り、書き上げた『舞姫』という小説は、出世のために女との恋を捨てた男の話であって、悲恋の物語りなどではなく、男の身勝手が引き起こした一方的な残酷物語である。つまり彼にとってもあの事件の結末はは残酷物語りだったと言うはっきりした想いが込められていたと考えられる。彼の心底にエリスとの結婚という考えが全く無かったとは断言できない。パリ、ロンドンを経由してフランス船で帰って来た鴎外と、タイミングよく4日後にドイツ船の一等船客で来日するなど、二人が示し合せていなかったと言う証拠はない。小説では明日の糧にも窮する妊娠した狂女を捨てて来たと言う残酷物語に仕立てたのは、周囲への思惑のため自分の行った仕打ちは、これと同じ残酷な事なのだという意思表示と考えられる。なぜならこの種の小説の効用は仮面の告白の効用であって、隠しつつ顕わし、嘘を盾として苦しい胸の内を明かす事であり、文豪ならずとも、その辺の三文文士でも使う手だからである。
 この小説が世に出ても、世間にはこれは完全なフィクションだと受け取られた。それは森家や鴎外自身がこのエリス来日の事件の顛末に関しては後年まで黙秘を貫き通したからである。

 男の心底がどうであろうと、結果的に女を泣かせる仕打ちのムクイは必ずバチやタタリとなって降りかかってくる。女難の第二段、後遺症である。ドイツ女が去った翌年(1889)の3月には華族の令嬢登志子と華飾の典をあげ、赤松男爵の持ち家に入居した。年譜を見るとその翌年(1890)9月に登志子との間に長男於菟がこの家で生まれている。そして翌月の同年10月には、なんと生まれたばかりのその於菟と弟二人を連れて、新妻の登志子が留守の間にこの家から逃げ出している。家出した先は千駄木町の借家で、鴎外が千朶山房(せんださんぼう)と呼んだ家である。登志子とはその年離別している。この離婚の前触れが『舞姫』にあった事は明らかで、後年母親の峰が孫の於菟に「あの時私達は気強くあの女(エリス)を帰らせ、お前の母(登志子)を無理に娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母の無い子にした責任は私達にある」と語っている。登志子はその後再婚したが、明治33年(1900)肺結核で死亡した。それを新聞で知った鴎外は「嗚呼是れ我が旧妻なり。於菟の毋なり。眉目妍好ならずといえども、色白く丈高き女子なりき。和漢を讀む事に優れ、その漢籍の如きは未見の白文を誦すること流れる如くなりき。同棲一年故ありて離別す」と語った。
 二人が不和になった理由については様々に言われているが、その中には、鴎外は登志子の器量が好きになれなかったというのがある。女の容貌の品定めは、相手の男の好みに大いに左右され、タデ喰う虫も好きずきの譬えもあるが、彼女は面食い鴎外の好みには合わなかったと考へるしかない。これも随分と勝手な話で、嫌なら嫌だと最初から言えばストトンという歌の文句もある。子供を産ませてから、留守中にその子を抱えて逃げ出すというのは尋常ではない。しかも弟二人が同行していると言うのも腑に落ちない。いずれにしても鴎外にとってはこれも正しく舞姫の生き霊による女難であった。

 逃げ出した旧赤松家の持ち家、池之端のホテルの中庭には鴎外と登志子が住んだその家が今でも残っている。私は其処から地図を頼りに逃避行の跡を辿って見た。先ず地下鉄千代田線が下を走っている表通りの不忍通り(しのばずどうり)に出る。これを左に行けば不忍池沿いに湯島駅だが、そこを右に曲って根津駅を越え、その先の千駄木駅手前の権現裏門坂下を左折して本郷通りに向って坂を登る。坂の左は5代将軍綱吉が建立したツツジの名所根津権現、右は日本医科大学病院である。地図に拠れば鴎外が逃げ込んだ千駄木1丁目の千朶山房という家の跡はこの病院の付近にある事になっているが、この文豪の旧居の文化遺跡の案内表示は何処にも見当たらない。本郷通りに近くなって骨董店で場所を尋ねると、二人で茶を飲んでいた老女が「知らないねえ、もっと手前じゃないの」という。こんな年寄りが知らないのだから誰に聞いても無駄だと諦めて引き返し、最初の路地を左に入って見ると、その先に真新しい碑のごときものが建っているのが見えた。近ずいてみると御影石のその立派な碑には「夏目漱石旧居跡」と記されている。それに拠ると明治36年(1903)英国から帰って直ぐ此処に居を構えた漱石は、此所に住んだ3年9ヵ月の間に、「我が輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などを執筆したとある。この家はそのため「猫の家」として有名で、今は犬山市の明治村に移転されているとある。碑の背後の立派な石塀の上には青銅製の猫の像が尻尾を立てて歩いていた。そして碑文の最後に1行「この家には前に(明治23年10月から25年1月まで)森鴎外も住んでいた」と記してあった。漱石が入居する12年前の明治23年10月というのが、、鴎外が嬰児を含め男4人でこの家に転がり込んだ日である。池之端の登志子の家から此所まで約1、3キロ、権現坂を登るのに息を切らした私の足でも僅か20分足らずの道のりの逃避行である。

 鴎外はここに1年あまり暮らしたあいだ、「山房論文」や小説「文ずかい」などを発表した。その後、今度は山房の前から団子坂に抜ける薮下通りという500mほどの閑静な狭い道を登った高台に家を見つけ、明治25年(1892)にこれを広大な屋敷に改築して観潮楼と名ずけた。鴎外自身の説明に拠れば、「家の前に立って望めば右手に上野の山の端が見え、その端と向岡との間が豁然として開け、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今の私の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である」と言っている。しかし、この楼上から、どんなに目をこらして見ても品川の海など見えないと言った白けた女は、この観潮楼築後10年に後妻としてやってきた美人の後妻志げである。俺が見えるだろうと言うと、皆俺の意を迎えて見えます見えますと言うが、どんな人にだって見える訳はないのだ。俺はお前のその正直な所が好きなんだと言ったというが、白けていても美人は得である。狭い所が嫌いな鴎外は此処の2階の12畳の部屋を書斎兼居間、客間として1922年60歳で没するまで暮らした。鴎外はここで「青年」「雁」や「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説、さらに「渋江抽斎」などの考証史伝を発表するかたわら、明治40年(1907)から観潮楼歌会を催し、与謝野鉄幹、佐々木信綱、斉藤茂吉、上田敏、石川啄木など多数の詩人や歌人が会し、鴎外を中心とする文学者の一大サロンが形成された。
 一方個人的な事情では、鴎外が登志子と離婚したのが明治23年(1890)29歳の時で、判事荒木博臣の長女志げと再婚したのが明治35年(1902)41歳の時だから、観潮楼に父母兄弟同居した最初の10年は独身で女つ気なしの時代が続いたことになる。火の気の無い所には煙りは立たないし火事にもならないから、問題になるような女が居なければ女難も生じない。しかし明治35年(1902)鴎外の再婚を境に、この観潮楼は鴎外にとって家庭的には救いようのない女難の修羅場と化した。鴎外の毋峰は先妻との離婚の理由をあれこれ考え、再婚相手にはバツイチであったが、美人の誉れ高い志げを選んだ。鴎外自身も友人宛に「好い年をして、少々美術品らしき妻を迎え大いに心配したが、万事存外都合良くいっているから御安心乞う」と満更でもない様子だった。豈図らんや、女難は外からばかり来るわけではない。古今東西、一軒の家に自己主張のしっかりした女が二人いれば修羅場は避け難い。それは自分の巣作りを優先にする女の本能からくる業であって、別に特異な現象ではない。鴎外の森家に起きたのも姑の峰と嫁の志げ子とのおきまりの葛藤であった。当初森家の財布の紐は母の峰が握っていて、小遣いの配分は峰の差配下にあり、新入りの志げ子の貰いは薄かったらしいが、女同士の不仲の原因にはどれと言って決まったものなどない。普段の人柄などとは関係なく、相手の存在そのものから、何もかもが気に入らないのだから、相互理解の余地など全くない。
 この対立は早々と表面化し、家族は鴎外、志げとそのご生れる子供達の組と毋峰と継子の於菟、弟の潤三郎の組みの二つのグループに分裂し広い屋敷で食事も別の2所帯が、別々に離れて暮らす事になった。それかあらぬか結婚2年目の1904年、鴎外は日露戦争に出征する際に、妻志げを財産の相続および管理から外す旨の遺言書を作成している。その理由は「長年一緒に暮らしているのに、継子の於菟とは口を利かない。また毋峰と弟潤三郎とは正当な理由なしに同居の継続を拒否し、この3人に対して悪意を抱いていて、自分の死後を託する事はできないと言っていることから、一家分裂の修羅場の様子と、二人の女の間に挟まれて、うろうろと両方に気配りする鴎外の苦悩が思い遣られる。鴎外は小説家だから、前回の女難に際し「舞姫」を書いて思いを晴らしたように、今度はこの修羅場を「半日」という私小説まがいの作品にして解決を計った。鴎外側の志げの子供が、あちらのグループの祖母の方に遊びに行きたいと言うと「あんな人の所に行ってはいけない」といって許さず、行くなら使用人の方に行けと言った。「あんな人」は非道すぎる。と言うような事を書いたのだから、この「半日」は志げの怒りを買って全集への再録を拒まれ長い間日の目を見なかった。しかしこの小説の効果があったのか、鴎外が買い与えて双六(すごろく)で継母と継子が一緒に遊んだと言って父親が泣かんばかりに喜んだという話も残っている。今度訪ねた団子坂上の観潮楼跡にある本郷図書館鴎外記念室の展示室には大美人の志げの写真の横にはこの「半日」の原稿が並んでいた。

 数の比較としてはあまり適当でないが、悪妻の誉れ高い「猫の家」の漱石夫人鏡子は自殺未遂までしながら、漱石の子を7人も産んでいる。嫁姑の争いを見兼ねた妹のキミ子をはじめ親戚一同が考えた「観潮楼」志げとの離婚話にも拘わらず、鴎外は志げになんと212通もの情愛をこめた手紙を書き送っている。西洋でも三大悪妻といえば、ソクラテス、ナポレオン、トルストイの妻が上がっているが、夫婦の間の事は他人には判らない、余計なお世話なのである。この明治の大文豪を大文豪たらしめたのも、女難からの逃避のため、『舞姫』や『猫』などの仮面に隠れ、嘘も方便を盾とする創作の世界に逃避、没頭させた、文豪の妻の功績というべきかも知れない。
               
            
          3月20日07

 
 
 

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