現代でも残って使われている言葉に「墨守」(ぼくしゅ)というのがあります。何がなんでも守りに徹する。専守防衛というのが2500年前にできた語源の意味だったらしいが、広辞苑で今日どういう意味で使われているか調べてみると「(墨子(ぼくし)がよく城を守った故事から)古い習慣や自説を固く守り続けること。融通がきかないこと。」となってしまっています。ついでに同じ辞書の同じページにある「墨子」(紀元前 480年?〜390年?)の項を見ると、「春秋時代の思想家。魯の人。姓は墨(顔が黒かったための綽名ともいう)。名はテキ。宋に仕官して太夫となる。その著「墨子」は現存本五十三編。兼愛説と非戦とを唱えたもので、門弟の説も含まれていると言はれる」とあります。 この墨子とその学派が特異なのは、儒家の祖孔子(紀元前551年〜470年)と墨子とは同郷で、ほぼ同時代に属する思想家であり、戦国時代中期においては儒家と思想界を二分する勢力だったにもかかわらず、今日まで連綿と続いた儒家の譜系のなか、誰一人としてこの墨子の思想はおろか墨子という人物の存在にもふれていない。中国の歴史書、司馬遷(紀元前145年〜没年不詳)の「史記」に於いても「宋の高官だったろう」と類推の記述しかない。 墨子の学派としての形成は儒家についで早く儒学の「仁」の思想を差別愛として批判、「兼愛。天下の利益は平等の思想から生まれ、天下の損害は差別から生ずる。互いに愛し合えば私闘も戦争もなく天下は平和になる。「非攻。人一人殺せば死刑になるのに、百万人殺した将軍がなぜ勲章を貰うのか。これでは、どうして正義と不正義の区別ができるか」と説く一方で、大国の侵略を受けた弱小国を味方してその防御を請け負うなどの実践活動も展開している。 ところが墨子の没後、秦の始皇帝(紀元前221年〜210年)の天下統一ののち、突如として各種文献から墨家に関する記述は一切消滅し、以来この学派は中国の歴史から全く姿を消してしまった。なぜ忽然として消えたのか。焚書坑儒という秦帝国の思想統制にあって、覇権を 競う、力が正義の戦国の世で、侵略戦争を否定し、平和を唱えるのは、時代に逆らう危険思想の一派として、この実戦的思想集団として団結を誇った墨家は一網打尽になったと考えられている。しかも墨家の唱える平和論というのは儒家の「仁」とか現代知識人の平和論とはかけ離れた戦闘的平和論だった。墨子が「非儒」の中で言う平和論は「儒者は、逃げるものは追わず、追いつめられた敵は討たず、敗軍の兵は助ける。などと憐れみを見せたがるが、それは実際の戦争を知らない人間の言葉で、理不尽な侵略戦争をしかけるような連中など、徹底的に叩きのめすべきで、偽善の「仁」などでは戦争という悪循環は解決しない。これは19世紀の中国を代表する文人で革命思想家の魯迅(1881年〜1836)の逆説的な言辞「打落水狗。水に落ちた凶暴な犬は這い上がってくるやつを徹底的に打ちのめせ」というのと共通した考えです。日清戦争(1894〜1895)のあと日本に留学した魯迅の中国の歴史的故事を題材にした「故事新編。Old tales retold」と いう短編集の中で「戦争を止めさせる話」と言う題でこの墨子の話が出てきます。戦国時代の歴史的背景は省略してサワリを紹介すると「楚の国王は新兵器、雲梯(城攻めの梯子)を用いて弱小国の宋を攻め併呑しようと企てた。それを聞いた墨子は楚の軍師、同郷の公輪盤と楚王に会い、勝つと分かっている弱小国を攻めないように説いた。非をつかれて困った楚王は「墨子先生が公輸盤と机上で模擬戦をして守りきったら宋を攻めるのは止めましょう」と約束した。結果、墨子が大勝したが面目を失った公輸盤は「自分には更に勝つ秘策があるが、それは言はないことにしましょう」と言ったが墨子はすかさず「秘策というのは、私をこの場で殺してしまをうと言うのでしょうが、私はすでに弟子たちを防衛のため宋に送っているので、私が殺されても弟子たちが宋を守ってくれます」とやり返した。そのやり取りを見て、すっかり感心した楚王は宋を攻めないことを誓った。その帰り乞食のような身なりで助けた宋の城門で雨宿りしていた墨子は救ったはずの城兵に追い払われてしまうという話。
この逸話から「自説を守るという広辞苑の解釈に辿り着いたところで、この日本にも、自説に固執する変なオジサンが現れたというニュースが入ってきた。 それは自衛隊の航空幕僚長、田母神さんという60歳のオジサンである。こっちは侵略戦争を侵略でないと主張する侵略肯定論です。彼は10年来の旧 知であるアパグループの懸賞論文「真の現代史観」に94人の空自隊員とともに応募して「年来の自説を頑に守り」一等賞に輝き300万円を獲得した。 こっちの変なオジサンの自説とは 1)日本は相手国の了解を得ないで軍を進めたことはない。 2)日本は蒋介石により日中戦争に引き込まれた。 3)日本はルーズベルトの罠にはまり真珠湾を攻撃した。 4)多くのアジア諸国は、大東亜戦争を評価している。 5)だから日本が侵略国家だったというのは正に濡れ衣である。 彼にとって敗戦後の日本がまがりなりにも民主国家に衣替えをして、何を言って時流に逆らっても墨子の時代のように生き埋めにされる心配はなく、更迭ぐらいで済んだのは大変幸せなことです。 この変なオジサンは侵略と植民地支配を認めて謝罪した1995年の村山談話や政府見解を否定し、政府の憲法解釈で禁止されている集団的自衛権の行使を事実上求め、武器使用の制限や攻撃的兵器の保有禁止を「東京裁判」のマインドコントロールだと、自信たっぷりに嘯いたらしい。 私にはこの珍説、暴論の正否をまともに論ずるつもりはない。何を言おうと自衛官にも憲法で保証された言論と表現の自由はあるからです。ただいい年をして馬鹿につける薬はないという感想があるだけです。 私が小学生のころ、支那事変に召集されて行く出征兵士を日の丸を振って見送った定番の歌「天に代わりて不義を撃つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出でたつ父母の国、勝たずば生きて帰らじと誓う心の勇ましさ」相手が不義だと信じるからこそ、こちらの戦争が正義になる。当時日本人の誰もが支那事変を侵略戦争などと夢にも思っていない。ただ明治以来の富国強兵政策の延長で、日本帝国の版図を拡大しようとしただけである。それが今の時代の今の言葉では「侵略」ということになるのです。 19世紀、西欧諸国がアジアの国々を先を争って植民地にしたのは、弱肉強食、力が正義の帝国主義の歴史の成り行きで、その歴史上の事実の善悪を論じて見ても歴史はもとには戻らない。イギリスのインド。オランダのインドネシア。フランスの仏領インドシナ。アメリカのヒリピン。そして日本も遅ればせながらその侵略の歴史の最後尾について、時代遅れの帝国主義を演じ、台湾(1894年)、朝鮮(1910年)満州(1933年)を歴史の流れに従って植民地にしただけです。これが今から言えば「侵略」となるのは戦争に負けて、時代が経過し、21世紀から振り返るからです。このオジサンは日本の植民地獲得が侵略というなら、西欧諸国の植民地獲得戦争はみな侵略だといっていますが、19世紀の植民地獲得戦争は立派な侵略戦争で、どこの国もそれを否定したり、人のせいにして言い訳したという話は聞いたことがない。今アジアには往時の植民地はひとつも残っていない。これも時代と歴史の帰趨なのです。大切なのは冷静な歴史観と時代認識です。 この60歳になる自衛官の脳味噌に、戦争に負けて60年たつのに、当時の小学生の幼稚な無邪気さが残っているのは見事です。「侵略」などと言はれるとそれを濡れ衣と考えて、人のせいにしてでも抗弁しようとするのは、幼稚な頭の働きです。頭の働きが弱い反面、牽強付会の性癖の強い94人の自衛官に殺傷能力のある武器を預けているということは大変怖いことです。なぜなら、一昔前の力が正義の侵略戦争を何としてでも正当化しようとする人達だからです。 この天然記念物のような変なオジサンが無邪気なのは60歳の還暦のせいだとして、似たり寄ったりの歴史観の持ち主はほかにもいます。朝鮮人の 創氏改名は朝鮮人が望んだことだとか、集団的自衛権の行使が出来ないというのは財産があってもそれが使えないのは「禁治産者」のようなものだ、と言って呉れたのは現首相と前首相で、日本人の歴史感覚、時代認識にはなにか似たようなDNAがあります。
文民統制も問題になっていますが、朝鮮戦争の末期、劣勢の国連軍を指揮したマッカーサーは仁川に上陸、北朝鮮軍を分断した勢いに乗って鴨緑江を越え中国領に攻め込み、原子爆弾使用も辞さない構えを見せた所で、ルーズベルトの後を受けた、二流と言われたトルーマン大統領が、日本ではほとんど神格化されていた第一流の連合軍総司令官を突如更迭して、世間をあっと言わせたことを忘れないでほしい。戦争は軍人に任せたらどんどん拡がります。 戦争に歯止めをかけるためには、墨子の言うように始まってからではもう遅い。戦争は始まってしまえば、何がなんでも勝たねばならぬと言う戦争の論理が先行し、それに刃向かえば昔のように「非国民」とか「国賊」とか言はれ、場合によっては墨家のように権力から抹殺される。だから戦争を止めさせようと思うなら、日本人は言論界もメデイヤも戦前のように、国民を戦争にけしかけるばかりでなく、権力側が進める戦争の準備段階で、計画を止めさせる冷徹な歴史観と勇気ある時代認識をもって、墨子の役目を果たすべきだと考えます。 完 |