訪れてくださった方々へ


タペストリー
Multi cultural pedia
   異なる文化を楽しみながら学ぶ事典について


 このページに流れている曲は「生まれてくれてありがとう」(C)中田 毅志氏です。
 地球上にどんなにたくさん人間がいようとも、一人ひとりは取り替えがきかないユニークで大切な存在で、掛け替えのないものというメッセージが伝わってくる曲だと思います。


タペストリー
カウンター設置2005年11月23日
 この事典を営利に使うことはしたくない。いろいろな国(あるいは文化)のたくさんの人々がこの事典の作成を手伝ってくださっている。そして、何よりもこの事典の項目の1つひとつはほとんどが名もない一人、あるいは多くの無名の人々の知恵からなっている。その人々はこれっぽっちも利益を求めなかっただろう。また、名声も得られなかった。例えば、誰がじゃんけんを発明したのだろう。私たちはその名前さえ知ることができない。じゃんけんの発明で私たちの暮らしはどれだけ文化的に豊かに楽しくなっただろう。言ってみればこの事典はそういった無名の人類の、貧しくとも暮らしを楽しくしようとする知恵からなる。

 国際版も作って、いろいろな国の子どもたちから大人がこの事典を1つのきっかけに違う文化の人々と知り合い、友情を築いていくことを最大の喜びとしたい。

 いろいろ同僚に手伝ってもらって作っているので職場(公益法人)でもこの事典を活用してもらいたいと思っている。職場が日本に暮らす外国人や日本語学習、日本語教育を志す人、異文化とともに暮らす社会を作るために出している雑誌、WebPageなどにも発表の機会が得られればと思っている。

 世界に存在する文化はそれぞれ固有のものであり、似通っているものもあれば、驚くほど違っているものも数多い、という現実からこの事典はスタートした。

 世界に暮らすどの人々も自分がたまたま生まれた文化の価値観、尺度、感じ方にどっぷりとつかり、それが一番自然なものと感じている。その文化の違いを紹介し、表面的にはまったく異なって見えるさまざまな文化の底を流れる人間の思いがどれほど似ているものであり、つながりのあるものであるかを明らかにしていきたい。また、異なっていること、違っていることをそのまま受け入れたい。

 世界のさまざまなところに暮らすいろいろな人々はそれぞれ自分の文化を持っている。昔から伝わっている文化は一つひとつが一本の糸(過去から未来へつながる1つの文化)として存在しているが、そのばらばらの糸(それぞれの文化)をつなぎ合わせると気の遠くなるような時間をかけて人類が織ってきた美しいタペストリーが現れる。そのタペストリーは実際に存在しているのだが、あまりにも(時間的にも空間的にも)壮大なものなので(時間と空間に制約を受ける)人の目には今まではっきりと見えなかった。この事典ができていくにしたがってそのタペストリーが少しずつ明らかになっていく。

 民族固有の文化を、ユネスコの世界遺産保存運動のように、人類共通の財産として紹介していきたい。

 ものの行き来が盛んになったあとは人の行き来が盛んになる。これから人の移動はもっと盛んになるだろう。ある文化とある文化が出会うとき、互いの文化をあたたかく見つめる目がなければ、簡単に摩擦は生じてしまうだろう。
 つながりがないとしか見えなかった文化が地下の水脈で通じていることがリアリティーを持って感じられるようにできれば、異文化摩擦、民族紛争に対する新たなアプローチが自然に生まれるのではないか、と思う。そういったことに役立つ事典に育てていきたい。

 異なった文化を知ることは自分の文化をより深く考えることにつながる。異なった考え方を知ることは自分の生き方の選択を広め、人生を豊かにし、自分を文化の束縛から自由にすると同時に気がつかなかった自分の可能性に目を開かせてくれる 。

 一人ひとりが貴重な、得難い文化を背負っている存在で、文化は違いはあっても優劣はない。どの文化も優劣はないどころかどの文化も実はダイヤモンドの原石のように気がついてくれるのを河原で待ってくれているような存在。互いの文化を自然に尊敬せずにはいられなくなる事典がMulti-Cultural-Pedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)。人類のかけがえのない共有財産として育てていきたい。この事典はじゃんけんの発明者とかそういった無名の、なんの報酬も受けなかった人々とその知恵の結晶を大切に伝え続けた人々がいて初めて作ることができる事典。
  Multi-Cultural-Pedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)は世界中のいろいろな文化圏で暮らす人々の知恵を集めている。過去にこの地球に生きた方の知恵の集大成とも言える。そういった名もない人々が制作者。

オムライスにはなぜケチャップをつけるのか

 おもしろい話を読んだ。

 海に黒い大きな生き物がいる。それに関心を示さず名前を付けなかった人々はイルカも鯨もみんな「海の黒い大きな生き物」としか見えなかった。

 大きいものを鯨、小さい方をイルカと名付けた民族は鯨とイルカが見えるようになった。
そんな話だった。「モノ」はそこにあるだけでは人には見えない。名前が生き物を創造するのだ。

 イヌイットは雪や氷に関する膨大な言葉を持つという。モンゴルの人々も馬について数え切れないほどの呼び方を持っている。

「1歳になるまでの馬、1歳の馬、2歳の馬、それぞれ別の名前があるんです」
と言って次々にモンゴル語で馬の名前を言ってくれた。その音色を聞きながらこの国の人々の生活の姿を想像した。

 関心の持ちどころは民族によっても違うし、人によっても違う。人と人とが分かり合う、異文化を理解するというのは簡単なことではないと思う。時間をかけて、心を砕き、何度挫けてもいいという心の余裕を持つことが必要だろう。

 異文化というのは外国と自国だけではない。およそ人と人が出会うところには大なり小なり、考え方、認識の違い、受け止め方、表現の違いというものが必ず存在する。
 日本人と外国人が出会うとき、男と女が出会うとき、大人と子どもが話すとき、名古屋の人と東京の人が出会うとき、MacユーザーとWindowsユーザーが出会うとき、どんなときにもそれは存在する。存在しない出会いなどほんとうはないのだろう。
 普通の人にとってはメタセコイアとラクウショウを見てもどちらも同じ木にしか見えないが、樹木が好きな人にとっては全然別の木に映るものだ。猫が好きな人には同じ三毛猫も一匹いっぴき顔が違って見えるだろう。
 親がお金に困っている姿を見ながら育った子どもは自由よりお金が大切だと思うかも知れないし、裕福な家庭に生まれてもいつも両親のけんかを見ながら育った子どもはお金より愛情が大切だと思うかも知れない。そんな背景が違う人々が出会い、深く付き合おうとするとき、価値観や感じ方や表現方法から摩擦が生じないほうが不思議だろう。

 こんな摩擦が生じたとき、人はその摩擦の解消にすぐ向かいたくなるだろうが、ここでじっとがまんして摩擦の原因を見つめることが何よりも大切だと思う。互いが安易に謝り合う、表面的な解決への誘惑に陥らないでいつまでも「なぜ」と問いかける姿勢を持ち続けたいと思う。それが遠回りに見えても近道だし、本当の目的地にまで通じている道だと思う。 

 寿司に醤油は当たり前。ステーキにソースも、サラダにマヨネーズも、オムライスにケチャップも。でも、その文化圏にない人がまず感じることは「どうして寿司に醤油なのだろうか」、「オムライスにケチャップなのだろうか」ということかもしれない。生まれたときからそうだった文化圏の人には夢にも疑問に思ったことがないことが異なる文化の人にとっては新鮮で不思議なのだ。異文化摩擦のバリエーションはいろいろある。小さな誤解から偏見を生み、互いにレッテルを貼り合い、怒り合い、こじれてひどいときには虐殺に向かう悲惨な歴史が人類がたどってきた道かも知れない。この別の道を歩みたい。違いをおもしろいと思い、楽しみながら、いつか分かり合いたい。
 これはとてもエネルギーを使う作業だし、苦しすぎる行為だし、あまりかっこいい生き方に見えない。 Multiculturalpedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)はそうやって行こうとする人々を励ますトーンで作っていきたい。

 しかし、作りながら民族間の激しい憎悪を見せつけられると関係の修復など不可能ではないかと思うときがある。


 以前から望んでいたオープニングに流させていただきたいと思っている曲は、力強く、明るく、気高く、軽快なメロディーで、チャレンジングなイメージにあふれている。長い曲がりくねった道を歩く旅人にぴったりの曲でこの曲を聴く度に励まされる。
 許可をいただいてぜひMulti-Cultural-Pedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)のオープニングページを開けるとその曲が流れるようにしたいと思っていた。この曲の力を借りてページを創っていきたいと思った。訪れてくれる人もこの曲を聴いたら元気になるだろう、ぜひ使わせていただきたいと思っていた。

 今、その曲がMulti-Cultural-Pedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)にアクセスすると聴けるようになっている。

 作曲された方はこのページに使うことを喜んでくださってクレジットも必要ないと言ってくださったがそれではこちらの気が済まないと何度も言ってオープニングページに何とか謝辞を入れさせていただいた。本当にこの曲を使わせていただけたことに感謝している。


世界の常識

 これからヒトとヒト、モノとモノ、文化と文化の交流はますます盛んになっていくと思います。

 グローバル化とはけっして効率優先を旗印に、共通の、単一のルールを無理に強者が弱者に、多数者が 少数者に押し付けていくことではないと思います。

 それぞれの地域で、それぞれの人々が長い、ながい時間をかけて、培ってきた思いや考え、習慣、文化、 知恵を全人類が共有することがMulticulturalpediaの目指すものです。

 「こうしなければバスに乗り遅れる」とか「世界の常識」という言葉を使って、 それぞれの文化の存在を力づくで否定しようとする動きについては疑問を感じています。

 「世界の文化」は1つではありません。「世界の常識」はこれから少しずつ世界の皆で作り上げていくものです。

 世界の人々は今知り合ったばかりです。今「世界の常識」という言葉を使うとそれは一方の文化圏の他の文化圏への押し付けにしかなりません。

私たちはこの多文化事典を作りながらぞっとするような無力感に時に襲われます。

たとえば「じゃんけん」などの遊び。数十年前まで、 数年前まであったバリエーションが恐ろしい勢いで消えていっています。

 これは日本だけのことではないと思います。

今は当たり前のこととしてこの多文化事典に記述されている世界の身近な習慣も、 かぶと虫やクワガタが日本の山々から姿を消したように、あと数十年もたてば多くが消えていってしまうのではないかと思います。

 世界の均質化の流れは予想以上に速く、年を追うごとに調査は難しくなっていくと思います。 

日本文化は特殊だろうか

  日本文化の「特殊性」がよく言われるが、多文化について研究が進めば、どの文化も「特殊」で、どの文化も「特別」で、どの文化にも根底には人の心が通じているという「普遍性」が明らかになっていくのではないか、と思う。
 この事典を編む前まで、「じゃんけん」は日本の専売特許だと思っていた。「くしゃみ」にまつわる慣習は何のつながりもないと思っていた。「静かにして」というジェスチャーがまさか多くの国で同じとは思ってもいなかった。

 「特殊」というのは誰(どの文化)から見てのことなんだろう。一方の文化がもう一方の文化を特殊と言う場合は相手からすれば自分も特殊だということを忘れているのではないか。自分の価値基準で自分にとって未知のものをはかっていないだろうか。 特殊と言い切れるのは相手を理解する努力を放棄したときにだけ起こることではないだろうか。

 もっとも、どの文化圏の人も自分の文化は他の文化の人には理解しにくいだろうから寛容の気持ちを忘れないようにしたい、といった謙虚な意味で自分の文化を「特殊」と位置づけるのは望ましいことだろう。

 しかし、過度の特殊意識は持つべきではないと思う。私たちの文化は特殊で他の文化圏の人々には到底理解できないといった意識を持ってしまうと、箸を使えただけで、納豆を食べられただけで、カタコトの日本語を話しただけで、「スゴイ」という意識が生まれ、 言われる側にとっては「こんな簡単なことに」と、馬鹿にされているように感じたり、こちらの率直な気持ちとは裏腹に「私たちの文化はあなたには絶対にマスターできっこない」ととても傲慢に聞こえたりしてしまうかもしれない。

 自分の文化は駄目だ、他の文化が羨ましい、といった意味での「特殊」意識はどの文化の人々も持つ必要がないものだし、誤まった意識だと思う。 この地球上には数え切れないほどの文化が存在してきたし、今現在も非常に多くの文化が存在している。  この多文化理解事典を世界中の人々と作りながら世界のさまざまな文化に対する共感、畏敬を感じている。この感覚を世界中の人々と共有したい。

「文化には上下があり、互いの文化にはつながりがない」のだろうか?

 世界各地で昔からそして今も異文化と異文化が衝突している、憎しみが渦巻いている。衝突が起こる原因の一つには「文化には上下があり、互いの文化にはつながりがない」という迷信があるのではないだろうか。
 どの文化もユニークであり、どの文化もたった一つであり、取り替えのきかない、かけがえのない文化であり、どんなに違って見えようともその文化の底を流れるものは私たちと同じ人間の想いである、ということを実感できる事典を創っていきたい。

 日本の各地に見られる「いじめ」などの現象の背後には「異なること、もの」に対する不寛容もあるように感じられる。この事典を通じて、子どもたちが「異なっていて当たり前」「それぞれの存在自体が尊ばれるもの」というように心に余裕を持つようになってくれればこれほどうれしいことはない。

 人はどれだけ残酷になれるのだろう、という言葉があります。この問いは誤まっていると思います。人はどこまでも残酷になれると思います。

 人の目が偏見や差別や思い込みで曇っているときが特にそうです。相手を自分と同じ人間だと見られないとき、自分以下の人間がいると勘違いしてしまうときです。「どんなことをしてもゆるされるんだ、こいつは虫けらのような人間だから」式の考え方に陥っているとき、人はどんな残虐なことでもできることは人類の歴史が何度も、何度も証明し、今も証明を続けています。

 また、恨みや憎しみも積もれば積もるほど、行動はどこまでもエスカレートしてしまいます。世界各地で迫害された方々の話を聞いていると、親や恋人や兄弟や大切な人々を虐殺されたこの方達の心の穴、苦しみ、寂しさ、つらさ、憎しみ、恨み、怒り、復讐心を癒すのは並大抵のことではできないと感じます。

 Multiculturalpediaはこういったこと、方たちに対しては直接は何もできず、無力で歯がゆく思っています。でも、他愛のないことばっかり取り上げているように見られますが、私たちは何とかしたい、何とかしたいと思いながら、この多文化理解事典を作っています。いろいろな文化圏の人々の知恵、考えを取り上げ、互いに敬い合える関係を少しずつ築いていきたいと願って作り続けています。

 人は差別している人、見下している相手にはひどいことが難なくできても、尊敬している人、敬っている相手にはひどいことはできないと考えるからです。

 世界中の方々とこの多文化理解事典を作りながらお互いがよく知らないでいることを自覚し、相互理解を深めていく過程できっと一体感、心の奥底でつながっているという感覚が芽生えるのではないかと思います。人をWe(われわれ)とThey(あの人たち)に分けへだてることなく、私たちという意識を互いに持てるようになるようにMulticulturalpedia(異なる文化を楽しみながら学ぶ事典)はいつまでも制作を続けていきます。

 文化摩擦に疲れた人が立ち寄り、心をゆったりと休めるような、また元気な自分になれるようなサイトに、訪れた人々とともに育てていきたい。

 ご感想など何でも、ひろばに寄せていただければありがたく存じます。


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