書籍『金鶏学院の風景』



著者のひとりごと(5)



 金鶏学院のあった酒井伯爵邸つまり金鶏園の面積について考えてみた。私の記憶している地形をいまの地図に合わせて計算すると大体18,000坪ぐらいになる。現在の広い白山通りは戦後作られたもので、むかしは旧白山通りすなわち中山道がその地区の大通りであった。市電(都電)も走っていた。徳川時代の地図をみるとこの中山道も幅は狭く、道をへだてて酒井邸と土井邸は相対していた。しかし昭和の初め、中山道の両側には商店が並んでいて酒井邸は大通りには面していなかった。記録をみると、安政年間の酒井邸の面積を21,623坪余としているので、一部は民家に売られたのであろう。それでもいま残っている大名屋敷六義園(柳沢吉保邸跡)より少し小さい面積である。むかしの華族階級の財力のほどがしのばれる。
 酒井邸は東北方向から南西方向にかけて緩やかな斜面になっていた。ここは豊島台地突端の扇状地で、東洋大学の裏手は尾根状の高台になっており、そこから広い白山通りに向って下降してきて、白山通りを超えるとまた高くなり、そこから水道橋方向に斜面をなして下っている。東側には本郷台地があり、その間は谷となっている。
 金鶏園の面積を50,000坪あったとする人もいるが、ちょっと大袈裟ではあるまいか。
 また金鶏園は小堀遠州の作った名園と記す本もあるが、これも疑わしい。
 小堀遠州という人は江戸城、御所などの作事にあたり茶室、庭園を造ったという。小堀は江戸前期、近江の人で1647年には死去しているのである。そして小堀遠州が作ったという伝説の庭園は日本各地にあり、これらは高名な小堀遠州にあやかりたい願望から発する自慢話しが根底にあるのではないか、と物の本には書いてある。
 私の調べたところでは、明治になって園藝に趣味のあった酒井忠興氏が巣鴨の庭師清水平七に命じて屋敷に手を加えたのである。植物温室、花壇、苗圃や茶室を設け、池には睡蓮、蒲草を植え藤棚を作ったという。これは一般にも公開され、酒井忠興伯が丹精した珍しい蘭科植物も沢山あり、関東大震災でも被害をうけなかった。小堀遠州が作った名園を東京の庭師が作りかえるというようなことは考えられないのではあるまいか。(2003.6.14)


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