書籍『金鶏学院の風景』



著者のひとりごと(6)



 父は仕事のために単身赴任のかたちで東京にいた。日進館という賄つきの下宿屋である。よく日新館ですかと聞かれるが日進館である。位置は金鶏学院と白山神社の丁度中間で、白内御殿町の安岡宅にも近かった。現在そこは更地になっており、周囲も原ッパと駐車場である。
 下宿屋は2階建で部屋数は15〜16あった。大体は学生か浪人生が住んでいた。東京商大(いまの一橋大学)の学生で目玉のクリッとした長身の男がいた。詰襟の学生服に角帽をかぶっている写真が残っているところをみると、名刺がわりに配ったのかも知れない。いつも陽気にボルガの舟唄を歌っていたので、みんなは彼を「アイダダボーイ」と呼んでいた。
 また群馬県出身の早稲田大学生がいた。彼は下宿屋の娘に恋をしてしまったのである。下宿屋では父が一人だけ年輩者だったためか、大学生は私の実家にまで訪ねて来て、父に結婚の仲立ちを依頼していた。話はそれだけだったようである。祖母は笑っていたし、父も真剣に話を聞いた様子がない。
 下宿屋の隣にそば屋があった。私はそこで「かけそば」なるものを初めて食べたとき、こんなに美味いものがあるのかと思った。なんの変哲もない、そばに熱い汁をかけただけのものである。だが田舎の子供が食べるものは粗末なものであった。「かけそば」の値段は10銭で、少年の小遣いとしては破格であった。汽車の中で食べた「サンドイッチ」もこれまた美味と感じたものの一つである。
 私の村にも「洋食屋」というのが出来たことがある。だが客が入っているのを見たことはなかった。オムレツか何か作ったらしいが、田舎にはそういう物を食べに行く習慣はなかった。
 あの頃の乗物は石炭をたく汽車であった。それに東京に出かけるのは一日がかりで、夏の暑い日に重たい窓を押し上げると煤煙が否応なしに入ってくる。でも冷房などないから、それで涼を満喫できた。椅子は木製の尻のところが凹んでいるやつだったが坐り心地は悪くなかった。いつかドイツに行ったとき列車の椅子が同じ型だったので非常に懐しかった思いがある。考えるとあれからずいぶん歳月が過ぎ去ったものである。(2003.6.24)


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