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明治維新から日清・日露の戦争までの期間、日本は西欧文明に追随し、近代国家の樹立に向って猛烈な勢いで進んで行った。臥薪嘗胆、富国強兵が目標だったといえよう。幸運にも両戦役に勝利したのであるが、その後には民衆の向上心に弛みが生じ、さらに社会主義的風潮の勃興が見られるようになった。若者の行動は安易になり、快楽追求の傾向が強まったという。政府はそれを改めようとして、むかしからあった若者組を青年団に組み直して行く。民間でも二宮尊徳主義の勤倹治産が叫ばれた。そして明治41年10月13日戌辰詔書が下された。戌辰詔書の全文を掲げて参考に供したい。読みやすいように漢字、仮名遣いは現代風に書き改めておいた。
朕おもうに方今人文日になり月にすすみ東西相より彼此相済しもってその福利を共にす。朕はここに益々国交を修め友義をあつくし列国とともに永くその慶に頼らんことを期す。顧りみるに日進の大勢に伴い文明の恵沢を共にせんとする、固より内国運の発展にまつ。戦後日なお浅く遮政益々更張を要す。よろしく上下心を一にし忠実業に服し、勤倹産をおさめ、これ信これ義醇厚俗をなし華をさり実につき荒怠相誡め自彊やまざるべし。そもそも我が神聖なる祖宗の遺訓と我が光輝ある国史の成跡とは炳として日星のごとし。ここによく格守し淬礪の誠を輸さば国発展の本近くここに在り。朕は方今の世局に処し我が忠良なる臣民の協翼に倚籍して維新の皇猷を恢弘し、祖宗の威徳を対揚せしむることをこいねがう。
爾臣民それよく朕が旨を体せよ。
そして大正7年第一次世界大戦のあと、日本にも徒花のような好景気が訪れたのである。 (2003.10.13)
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