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金鶏学院で柔術の指導をしていた人に大槻豊という人物がいた。大日本柔道史を読んでみたが、大槻豊という名や大月流柔術に関する記載がないところをみると、それは講道館系統の柔道ではなかったようだ。明治15年講道館を作った嘉納治五郎は柔術を改良して柔道という格闘スポーツを創始した。大月流柔術はもっと古い武術の流派だったのかも知れない。
また剣道は柳生道場に行って稽古することが奨められたことは(4)に記したが、ここは大正14年の大学寮で教えていた所と同じ道場らしい。名前からすると柳生新陰流の柳生一族の血筋のものがやっていたのであろうか。
朝日新聞の昭和9年11月22日の号外をみると、大槻豊は血盟団の一味伊藤広に頼まれて、菱沼五郎を昭和7年2月14日から3月5日まで自宅に隠まっていたことが書かれている。また現代史資料(みすず書房)の中に大槻は勤王党に関係していた、と菱沼が述べた記載がある。文献を調べたが勤王党という結社はみられず、勤王連盟か愛国勤王党のどちらかを指しているのではないか。これをみると四元や池袋のみでなく、金鶏学院関係では多少年長であったろう柔術教師も血盟団のシンパであったことが分かる。井上日召の影響は可成りの範囲まで学院内部に及んでいたかのようである。
また同じく血盟団の小沼正も、金鶏学院卒業者に名をつらねている竹見貫一の実家(横須賀)に潜んでいて、2月1日に東京にあった権藤成卿の家、いわゆる「権藤の空家」に移動している。その頃安岡は金鶏学院の一部を改造して家族ともども住んでいたのに、内部の騒々しさには無頓着であったのか。私は本の中で「若者らが井上の口車に乗せられる状況を察知できなかったのであろうか」と書いておいた。資料の中には、安岡はこれらの動きを知っていたが、自分に累が及ぶことを嫌って黙認したのであろう、と書いたものもある。私も多分気がついていたものと想像する。父のノートの端に、学院出身の野口について身辺を調査するよう安岡が父に命じていたらしい記述があるのだ。ともかくも、昭和5年の秋からの1年間というものは、金鶏学院は残念ながら勉強の場とは遠い環境であったように思われる。(2003.10.29)
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