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のちに国家社会主義者として知られた高畠素之のことは本に書いておいた。彼は中学生のときキリスト教の洗礼を受けている。彼が中学の学友会雑誌坂東太郎に載せた「新大和魂の発揮」という文を紹介する。幼さと早熟さが混じり合った文章である。
『凡そ今は、一国の国民として世界に雄飛しようとするには、吾輩は何うしても世界観と国家観との健全なる調和を遂げねばならぬ。然るに、武士道に於てはこの調和が甚だ不完全である。武士道は国家を主眼に置いてあった丈けに、世界てふ考が殆どゼロである。武士道は瞑想よりもむしろ活動の方へ余程傾いて居った。所が基督教に於てはさうではない。基督教は徒に自由平等のみ主張しはしない。之と同時に、彼は服従差別をも重視するものである。基督曰く「ただ真理に由ってのみ自由を得」と、而して曾ては「爾の敵を愛せよ」と叫んだ彼は、「地に刄を出さんために我来れり」と疾呼して、偽善者悪人を鞭うたれたのである。吁、吾輩の今日要求するものは、此の基督の抱かれた如き、完全なる世界観と国家観の調和である。即ち例すれば、かのルーテルが、終日営々としていとも困難な神学上の議論を講じた後、夕暮静かな野原に出で一管の笛を弄んだ如き、あの樫の様な菫の様な、堅き柔き差別観と平等観、国家観との調和の発揮である。宇宙人類のために国家を愛するのが真の愛国人である。徒に外教徒を迫害し、源氏物語を講じたりするのみが健全なる大和魂、愛国心の本領ではない。けれども亦、徒に西洋主義の奴隷となり、舞踏を弄び、西洋料理を食らったりするのみが世界観、博愛主義の真意ではない。この武士道を基礎として、其の上に基督教を建築したものが真の愛国心であり、又博愛主義である。爾うして之が即ち新大和魂である。』。(2003.11.16)
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