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金鶏学院と政教社とは深い関係にあった。政教社というのは政治結社で、明治40年1月1日「日本及日本人」という機関誌を発行した。編集主筆は三宅雪嶺である。雪嶺の女婿は後に東条英機と対立した中野正剛である。安岡は学生時代から「日本及日本人」に投稿して名を知られるようになった。
金鶏学院の講師をしていた雑賀博愛は政教社で「日本及日本人」の編集か何かに携っていたらしい。学院出身の鶴巻もそこに就職している。私の父にも就職の話があったらしいが断ったようである。学院と関係していた頃の社長は五百木良三である。
五百木は正岡子規と同郷であるが、医者になる筈のところ性豪放のため政治浪人となり、日本新聞の編集長になったと自分で言っている。彼は大正15年2月震災後の復興期に芝佐久間町に「城南クラブ」を置き、同じ建物内に政教社が入っていた。そして昭和4年経営難に陥った政教社を引き受けたのである。
だが政教社と金鶏学院とは仲良しだったとも言えない。雑賀と鶴巻は昭和10年頃一度政教社と訣別している。
五百木は既に大正10年のいわゆる官中某重大事件で反対運動に加わり、押川、大竹、佃らと一緒に各宮家、山県有朋公に抗議の手紙を書いている。昭和5年のロンドン軍縮条約批准に反対する運動にも加わり、昭和10年の、右翼総がかりの天皇機関説攻撃、国体明徴運動推進にも名を連ねている。金鶏学院そのものは国体明徴運動に一歩距離を置いた冷やかな態度をとっているが、金鶏学院の関係者赤池濃は運動の支持者になっている。
二・二六事件(昭和11年)の後に時局協議会というのが発足したが、五百木はその推薦人の一人でもあった。私の推測だが、雑賀が一時政教社を辞めたのは、国体明徴運動に対する政教社と金鶏学院の姿勢に違いがあったためではあるまいか。その後雑賀は「日本及日本人政教社主幹」に復帰している。(2003.12.4)
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