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「藍宇邂逅一周年」***************************************************
『藍宇』に明け暮れた2002年がまもなく過ぎようとしている。これほど時間と精神力と金銭をつぎこむ結果になった映画は、かつてなかったし、今後もないかもしれない。しかもそれがまだ当分終わりそうになく、今や愛着を通り超えて執着というか中毒というか自慰的にすら思えるのだが、このままではやばくないだろうか? 。。。まぁ、従来どおりアクション映画やB級映画も大好きだから、いいか。(<自己完結的強弁)
映画だけではない。原作に対しても俳優に対しても、自分でも苦笑するほどハマってしまった。俳優とはつまり胡軍と劉Y両人である。映画と同様に、今後のことはいざしらず、今なお自分的な視線の向こうで彼らは観察対象として基本的にワンセットなのである。
そして2人の過去作や最新作をしこしこと買い集めたり見たりする中から、あらためて強く感じたのは、『藍宇』におけるフー・ジュンとリウ・イエの演技がいかにただごとじゃなかったかということだ。言い方を換えれば、いかにスタンリー・クワン(關錦鵬)がおそるべき演出力でもって俳優たちの潜在力を引きずり出してみせたかということでもある。
なぜなら、『藍宇』以外の作品で、『藍宇』に匹敵する彼らの演技を私はまだ知らないからである。もちろんそれは個人的見解に過ぎず、『東宮西宮』だってすばらしいじゃないか、『紫蝴蝶』はとてつもない出来かもしれないじゃないか、と言われたら、別に反駁しないし、できない。あくまで私の印象として、『藍宇』はへたすると彼ら2人にとって千載一遇の、生涯を通じてのベスト作品になってしまうかもしれないという予感が現在あるということなのだ。
とりわけフー・ジュンは、それなりにベテラン俳優だっただけになおさら、彼自身「撮影時の心理的疲労は骨身に刻まれて残った。これほど消耗した映画は初めてだった」と語るように、そしてなるほど「台湾版徹子の部屋」こと「小燕有約」にゲスト出演したときの彼の、『藍宇』の1シーンがスクリーンに流れ、それをじっと見つめたまま、シーンが終わっても笑顔がしばらく戻らなかったのを見ても、撮影期間中どれほど彼がぎりぎりまで追いつめられ、それまで俳優としての自己を裏付けていた理論武装や演技メソッドがオールクリアされ、表面的な裸体だけじゃなく心の中まで身ぐるみはがされた末に自分でも知らなかった自分が内側から出てきたというふうな、すさまじい体験をしたことがうかがえるのである。現在撮影中の『天龍八部』もいろいろ苦労はあるようだが、だいたいは肉体的なきつさであって、心血を注いで注いで注ぎまくらないと投入できないようなキャラクターではないはずだ。
リウ・イェはリウ・イェで、どんな役にも入り込む天性を持つがゆえに他の作品でも確かに「まるで彼自身のよう」にモノにしているけれども、たとえば『恋人』あたりは『女コーチ』などに比べれば難役だったかもしれないが、「このキャラクターは、こうなんだ」と彼自身の理解に至るための葛藤は特に感じさせない。持ち前の演技力でクリアできているように思えるのだ。だが『藍宇』は、なりきり方自体がなんというかハンパではない。あるいは、実はなりきっていなかったとしても、声の出し方や笑い方、おし黙っている表情の1つ1つ、まとっている空気からして、他の作品では容易に感じられないほどに深い。シビアな撮影過程がフー・ジュンほどのトラウマをもたらさなかったのは、幸いというべきか彼には最初から「うまく演じなくては」という気負いや自信がなかったからではないか。
しかしながら、いかにタフな俳優でも、役作りのために血を吐くような思いを毎作ごとに繰り返していたら、マジで命をけずってしまう。基本的には真摯に取り組むにせよ、コメディあり、ステレオタイプな役あり、気むずかしい監督との仕事や、演技的に頭うちだと評されて落ち込んだりするスランプもアリでいい。そんな中から、いつかまた「ただごとじゃない」俳優ぶりも見てみたいのである。
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