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「藍宇」オリジナルシナリオを読みて ****************************
映画『藍宇』の脚本を担当した魏紹恩によるオリジナル脚本を読んだ。オリジナル脚本というのはつまり、映画を撮影する前に用意されたもの、あるいはしばしばそれに添って映画を撮影したもの。しかし映画製作の常として、(もちろん脚本通りにきちっと撮るタイプの監督もいるようだが)編集を経て映画が完成した後では当初の脚本どおりではないことが多いらしい(まして脚本があってないようなことがしょっちゅうな香港映画ではなおのこと)。その変更が監督あるいは編集マンの判断に基づくものだった場合、特に、本来の脚本とものすごく仕上がりが変わっていたような場合、映画賞の中の脚本賞というのは一体脚本家が大手をふって受けていいものかどうか(むしろそれは編集賞の範疇ではないか)と私は時たま疑問に思うのだが、それはさておき、魏紹恩が台湾金馬奨の最優秀改編脚本賞(原作を改編した脚本に与えられる賞。完全に脚本家の創作であるものには原著脚本賞というのが金馬奨の場合はある)を授賞し、香港金像奨などでもノミネートされていたことは知る人も多いと思う。確かに、私自身の感想として、原作の空気を保持しつつも大胆な改編をほどこし、かつ印象的なセリフをいくつもちりばめた『藍宇』の完成版シナリオはかなり好きである。そして、映画の撮影の進行中、この脚本家は監督と常に現場を共にして脚本の変更に関与していたのだから、脚本を書いた後は煮るなり焼くなりということで監督と編集にお任せの脚本家とはちがって、脚本賞の授賞に値する仕事をしたのだろうと思う。
さて、では変更される前の「100%魏紹恩テイスト」なオリジナル脚本はどんなものだったかというと、すでに台湾のDVDに収録された未使用シーン(監督の許可なく台湾の業者が編集したバージョンあり)からその一端はうかがわれていたのだが、今回文字でその全貌をみたとき、まず驚いたのは「こんなに長かったのか」ということだ。そのまま撮って映画にしたら4時間くらいになってしまいそうな長尺だ。そして、これはいかんともしがたいことだが最初に映画で擦り込まれたインパクトや愛着が先行してしまい、それ以外のものは「やっぱりどれもこれも削って正解じゃん」と思えてしまった。あげく、「なんでこんな長いの書いたんだろう。やっぱり現場で変更していったのは監督のセンスに負うところが多かったのかも」とまで…。
と、失礼ながらそんなことを考えたあと、次に思ったのは、「ところで、彼はそもそもなぜこういうシーンを書いたのか?」ということ。なぜなら、もしそれが原作の一部にそったシーンであるなら脚本家にとって何らかの思い入れがあったと解釈できなくもないが、原作にないシーンもまたいろいろ創作されていたからだ。それはそれでまた何か思い入れを反映しているようで、その意図するところに興味を感じたわけである。創作脚本だったら別に何をどう書いても作家の勝手だと思うが、『藍宇』の場合には一部の世界でかなり話題を呼んだ原作小説というものがある、それをもとにした脚本でありながら原作とちがうものがたくさん付け加えられている、そこに不思議な感覚を覚えたのだ(特にオリジナル脚本のラストシーンにはおったまげた)。ま、そんなのいちいち講釈してみせる作家は普通いないし、読んだままに受けとめてくれればいいと言われるのがおちだろうし、第一こういうのは『藍宇』に限ったことではなく、『ハリー・ポッター』みたいにうっかり設定をいじったら全世界の少年少女から総スカンをくらいかねない場合を除けば、原作に忠実に映画化するということはむしろ逆に原作ファンの批判精神を助長するおそれすらあり、いかに巧みに原作の味をそこなわない創作物として映像化するかが映画人の腕の見せ所とも言えるのだが。
ともあれ、原作とオリジナル脚本と映画と、そして「メイキング・ブルー」、さらに未使用映像とを比べるのは一興であった(ひま人のやることですか?)。たとえば、原作にもオリジナル脚本にも映画にもなかった捍東や藍宇のせりふ(ナレーション)が「メイキング・ブルー」で聞けたり、原作にもオリジナル脚本にもなかったシーンが映画で付け加わっていたり、原作以上にオリジナル脚本にたくさんあった劉征の妻詩玲の出番が映画ではまったくなかったり(演じた女優さんがいたとしたら全カットされたことになる)、まぁいろいろだ。オリジナル脚本に興味がある方は、『藍宇』公式サイトにアップされているのでそちらへ。
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