宇宙の年表
The Chronological table of the universe
宇宙の開闢/
物質と生命の誕生/
宇宙の終焉
コラム:宇宙のはじまりと人間/
ヒトの行き着く先/
大きさの必然性
- 宇宙の開闢
- 10-41秒後
プランク時間経過後、宇宙はプランク長を超え、
時空が定義可能となる。
宇宙は指数関数的に膨張する。(インフレーション宇宙論)
この時期に「重力」が分化する。
- 10-39秒後
宇宙の再加熱によりビッグバン big bang が起こる。
この時の宇宙の温度は1033(10溝)度程度。
- 10-11後
ヒグス場が発生し、粒子は質量を獲得する。
宇宙の温度は1000兆度。
この時期までに「電磁気力」「強い力」が分化する。
- 10-4秒後
クォークの閉じ込め quark confinement が起こる。
宇宙の温度は1兆度。
この時期までに「弱い力」が分化する。
- 3分後
軽量元素の合成が始まる。
宇宙の温度は10億度。
- 4万9000年後
宇宙の晴れ上がり clean up of universe。
宇宙が100万度程度に冷えて光子が自由に往来できるようになる。
この時期の光が、3K宇宙背景放射として観測される。
(現在の宇宙は、誕生から137億年を経過しており、
その温度は3K(マイナス270度)にまで冷えている。)
- 物質と生命の誕生
- 宇宙開闢から3分後、
素粒子や力のうち、たまたま生き残ったものが、集団で、ある形状を為して、
生き残りを図った。これが「原子」である。
原子という形状がこの宇宙で発明されなかったら、
この宇宙は素粒子の霧が拡散して、そのまま無に帰していただろう。
簡素な原子は重力との作用で濃縮され、核融合反応を起こし、
より大きな原子を生み出した。
また、星雲から原始星、赤色巨星から超新星爆発に至る、星の一生を形作った。
一方、原子は更に幾つか寄り集まり、安定した幾つかの、
より巨大な「分子」という構造を探し当てた。
- 分子の特定の組合せは、偶然、一定環境下で自分自身のコピーを作ることになった。
これらのコピー能力を持つ形状(遺伝子)は、更に寄り集まって、
集団で、ある形状を為して、生き残りを図った。これが「細胞」である。
簡素な細胞は自然淘汰を生き抜いて、
更に複数の細胞が一つの生命を形作り、植物や動物といった
より大きく、より複雑な生命の在り方を発明していった。
- 生命同士が寄り添って、集団で、社会生活という形状を為して、
より効率的な生き残りを図った。これが「人間」である。
人間は、自らが作り上げた社会生活の中で上手に機能するよう、
直観や原始的な感情の周囲に、他者のモデルを格納する場所や、
集団で物事を成し遂げるのに必要な記憶や計画性を実現する機構を付け加えてきた。
器質的に言えば、脳幹の上に小脳や大脳が発達してきたわけである。
これによって「意識」
なるものも生まれてきた。
「意識」が誕生しなかったら、この宇宙は、無自覚な宇宙として、
無意味にその生涯を終えていただろう。
いかなる種類の宇宙も発生し得るが、
意味を持つ宇宙とは、「意識」と呼べる現象を内包するものだけである。
- 更に人間が寄り集まって作られた社会生活の単位それ自身が寄り集まって、
都市や国家を形成してきた。
これらが上手く機能するように、人間は環境の方を作り変えてもきた。
更なる技術の進歩により、人間は自分の身体自身も作り変えていくだろう。
産業の重点は、農業、工業、情報(知識)へとシフトしてきた。
これは、「物理現実」よりも「抽象化されたモデル」に価値が推移していく過程である。
安定して物が食べられるようになり、衣食住や移動がとても便利になり、
欲する情報が手軽に入手できるようになる。
この行き着く先では、最高度の抽象化、すなわち「自己」が
産業のターゲットになる。
つまり、生まれてしまった個々の生命が持っている
可能性の全てを最大限に引き出し、体験させること、
いわば第4次産業、「自己実現産業」である。
前提として、
科学・
哲学・
宗教の
多彩な成果物は、再利用可能な形で全て定式化されている。
ゆりかごから墓場まで、ひたすら「一人一人の自己実現」を
支援もしくは強制するシステムが完成している。
このシステムが人類の生活圏の隅々まで行き渡った結果として、
人類は、人類が演じることの出来る全てを、
非常に短期間に演じきってしまい、
残された作業は、別の宇宙の可能性や純粋数学の思考を黙々と続けることだけになる。
- 一つの惑星の上で進化した生命は、その惑星をダメにして自滅するかも知れないが、
生き残りのために、うまく宇宙進出を果たすかも知れない。
生命と環境の均衡が成熟した生命圏である個々の惑星が、
一つの単位を為し、宇宙航行文明は、これらの生命圏全体での繁栄を設計するようになるだろう。
全ての銀河、全ての大規模構造に亙り、意識を持つ全ての知的生命体が、
最も効率よく生き残りを図っている状態を、
『自覚した宇宙の成熟状態』であるとすれば、
これが無限に生成し消滅する数多の宇宙の中で、最もデキのよいものであり、
情報的に豊かなものだと言える。
- 宇宙が寄り集まって、更に大きな集団行動を生み出すかは、我々には分からない。
それは、素粒子自体が何かが寄り集まって出来ているものかと問うのと同じくらい、
自己矛盾な問いである。
それ以上外側を問う必要の無いものを「宇宙」と呼び、
それ以上内側を問う必要の無いものを「素粒子」と呼ぼう、と約束したのだから。
科学の発展によって、今、我々が知っている宇宙や素粒子よりも、
更に先の構造が見つかるかも知れない。
しかし、我々が人間である以上、必ず意味的な限界はある。
それが真に宇宙なり素粒子と名付けるべきものである。
その究極において、宇宙は、上位宇宙の素粒子かも知れないし、
素粒子は、下位宇宙全体かも知れない。
但し、どう表現しようが、意味的な連結は無いのだから、
「その先」を考えることは定義より無意味である。
- 宇宙の終焉 (宇宙が永遠に膨張していく(開いた宇宙の)場合)
- 1012(1兆)年後
若い星の材料となる星間物質が尽きる。星間雲から原始星が生まれ、
壮年時代は主系列星として光を放ちながら過し、老年期に巨星化し、
やがて末期を迎える、
生き生きとした輝く星々の世代交代の歴史が終わりに近づく。
ちなみに、個々の星の末期を見ると、
軽い星は余熱で淡く光る白色矮星になり、
重い星は中心核(鉄)の爆縮に始まる超新星爆発を起こし、
跡に中性子星を残したり、
更に重力崩壊が際限なく進んでブラックホールになったりする。
- 1014(100兆)年後
最終世代の輝く星の寿命が尽き、新たな星の誕生には再利用できない
黒色矮星や中性子星、ブラックホールなどのコンパクト星
(星の残骸)のみから成る暗い宇宙になる。
全ての銀河に存在し得る知的生命と文明も終末を迎え、
「自覚する宇宙(宇宙内部の知的生命が
宇宙を観測し宇宙を考察している宇宙)」
の時代が終わる。
- 1018(100京)年後
すべての銀河は銀河中心の巨大なブラックホールに飲み込まれ、
宇宙は超巨大ブラックホールと、銀河から飛びだした星の残骸が
さまよう世界となる。これらは、冷えながら膨張を続ける宇宙の中で
離れ離れになっていく。
- 1032(1溝)年後
大統一理論によると、陽子の寿命は1032年程度である。
(なお、陽子崩壊はまだ実験事実として観測されてはいない。)
原子核を構成するバリオンの一種である
陽子あるいは中性子が、いずれ寿命を迎えるという事は、
いつかは全ての物質の寿命が尽きるということである。
その結果、宇宙には
質量ゼロの粒子(光子、重力子など)や、
ニュートリノ、
陽子崩壊の結果あらわれた陽電子および
初めから存在した電子だけが残される。
- 10100(1googol)年後
エネルギー供給源を失ったブラックホールが光を放ちながら蒸発し、
後にはわずかな光子と素粒子が残る、
ほぼ何も無いと言える(放射だけの)非常に希薄な世界が残る。(big rip)
■コラム:宇宙のはじまりと人間
- 量子力学が正しいなら、空間も時間も、細かさには限界が
あるので、この宇宙の一番最初の状態というのは、
×「大きさゼロで、ゼロ秒目から始まった」のではなく
○「プランク長、1プランク時間後から唐突に始まった」
と考えられている。(ビレンキン宇宙モデル)
一方で、この宇宙は、我々の記憶や歴史の痕跡も含めて、
神様が3分前に開始させたのだとしても、
何ら矛盾や問題は生じない。
それはそれで宇宙開闢の説明の一つである。
なんにせよ、無から有が生じた瞬間があるはずだ。
0は何倍しても0なのだから、
宇宙と言うものが徐々に始まるわけはない。
始まりの瞬間は唐突だったはずだ。
(ちなみに、いわゆる「ビッグバン」が始まるのは、その
始まりの一瞬の、100倍程度も後になってからである。)
人間のスケールから見て短いとか小さいとかいうことは
問題ではない。ともかく、宇宙というのは、何の前提もなく、
ある大きさと、ある時間単位を持って、突然現われたことだけは間違いない。
そして、プランク長の宇宙が突然現われたことと、
3分間前に現在の宇宙の全てが突然現われたことは、
その唐突さにおいては大差ない。
- 宇宙の内部にある知的生命である私達は、
宇宙は 無から(有である以上何らかの大きさをもって)
唐突に存在を始めた、というように解釈している。
しかしそれは、私達が、原理的に、そのようにしか
宇宙の始まりを考えることが出来ないからに過ぎない。
「認識」の光は、いかなる意味でも、宇宙を、
無限に細かく照らすことは出来ない。だから始まりも唐突なのだ。
例えば、夜中、街灯の下を歩く人がいる。
彼は唐突に視野に現われて、そして突然消え去る。
しかし、そう見えるのは街灯の都合なのだ。
本人はただ単に歩いているだけだ。
宇宙のはじまりとか終わりは、いかなる意味においても、
限り有る能力と生命を持つ私達なりの照らし方でしか、
捉えることが出来ない。
宇宙のはじまり方、
その唐突な最初の一歩のありようを決めているのは、
私達自身のありようなのである。
- 1981年にヴァチカンで開催された
教皇庁科学アカデミー主催の国際会議で、
当時ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世は
宇宙物理学者スティーヴン・ホーキングに対してこう語った。
『神の御業である宇宙創造の瞬間を研究してはならない。』
しかし、宇宙の時空は外側から創造されたものではなく、
自己完結的に内側から支えられているものなので、
私達が救いや赦しを求める上位概念としての神の出番は無い。
宇宙のはじまりの瞬間ですら、
それは私達の意識・精神がはじまりをどう捉えるか(どう見るか)の問題に過ぎない。
無数に存在する宇宙の中で、
私達にとっての、この宇宙は、 勿論、私達にとって、かけがえの無い唯一のものである。
その奇跡の原因が、神でなく私達自身である、と考える事は、
尊大さや傲慢さを引き起こすものではなく、
自己責任と自制を厳しく要求するものである。
私達を宗教的に救い赦すのも、私達自身なのだ。
多分、私を含む一般的・平均的な人間は、そこまでシビアな
自己完結性に直面できるほど強い存在ではない。
だから、 神や宗教は必要なのだろう。
ローマ教皇は、徹頭徹尾冷酷で自己完結的な世の中の成り立ちを十分熟知した上で、
その無慈悲性でさえ上手く神が引き取るから、
不可知性すなわち 「神の領域」は不可侵であるべきだ、
と主張したいのではないだろうか。
■コラム:ヒトの行き着く先
- この後、人類は、どう進化していくのだろうか。
生命はRNAワールドから始まって自己複製を行い、
細胞を形成して安定した形状を得るに至り、
さらに、可塑性を持つ神経系が記憶のメカニズムを担った。
記憶により、危険を効率的に回避し、
再現性のある報酬を確実に得ることができるようになった。
ここまでは「所与の環境の中で、いかに生き残り、繁殖するか」
という受動的なゲームであったが、
脳の発達により自意識を持つと、脳内世界でのシミュレーションや
未来に向けた計画策定能力により、能動的な発展が可能となった。
もはや環境は所与のものではなく、
人類は自ら設計・構築した都市環境の中で生きている。
- この延長線上の発展を一言で言い表すなら
「“自”でないものの排除」
であろう。
自分が知らない事を排除するために学術研究は深められ、
宇宙への進出も果たしていくだろう。
生活空間は“自”ではない外乱である自然環境から完全に切り離され、
人間が生み出したものでないものは全く見掛けなくなる。
“自”を脅かす老病死も、生活の舞台から隔離され、
社会インフラがひっそりと淡々と処置・後始末するようになる。
一方で、脳とコンピューターを密接に組み合せた
“思考圏”も
今後ますます高度化し、考え得る限りのことを考え尽くし、
“自”自身の未知なる性質も解き明かしていくだろう。
この宇宙で可能なあらゆる知的生命の形と、その知的生命にとっての
意識・言語・表現・意味・感動を推定もしくは擬似体験できるようになる。
全ての純粋数学のスキームが明らかになり、
全ての芸術作品の体系が隙間無く整理され、
一つのライブラリに収められる。
この宇宙において
“自”が知ることができる全てのことを知り尽くし、
“自”が表現できることの全てを表現し尽くすことで、
もはや“自”でないものは何も無くなる。
この宇宙は、その内部に産み落とした知的存在に
内側から味わい尽くされることで「完成」する。
- このように、「人類」という大きな枠組みで見ると、
この宇宙全体と釣り合うまで進化する道筋を描くことになるが、
この図式は私達一人ひとりの人生にも当てはまる。
私が知りたいと思うことの全てを知り尽くし、
私が表現できることの全てを表現し尽くしたら、
私という宇宙は「完成」する。
そうなったら、私は心安らかに死んでも良いのだ。
■コラム:大きさの必然性
- 何故、私は、私が今あるがごとく認識しているような大きさなのであろうか。
- 知的思考という情報処理を行う主体は何であれ、
大きさとしても時間としても、
10-40程度の認識分解能の限界を持つのでは。
また、ある一定の性質(定数性、変数性)を持つものが
1040程度も安定して集まれる環境では、
知的思考が可能な主体が構成できるのでは。
プランク長、プランク時間には、そのような「意味」があるのではないか。
- ディラックの大数仮説は、
「陽子と電子の間の電磁気力と、重力の強さの比」
「宇宙の年齢と、光が陽子の半径を横切る時間の比」
などが、10の40乗程度の定数になるというもので、
その根拠や意味づけが為されなかったために、
広く受け入れられず、数秘術のような扱いをする人もいる。
しかし、このスケールに対して、
「観測されるものと観測するものの比の限界」
という普遍的な意味付けを行うことは出来ないだろうか。
これ以上ダイナミックレンジが小さかったら
意識などという高等なものは生まれないし、
これ以上大きかったら「自分」ってモノが霧散してしまう
(自分にとっての自分を発見できない)、
そういう「丁度良いスケール」である可能性があるように思われる。