恋するあの娘はモーモー娘
鈴樹 瑞穂
「がおーっ。」
「ほげぇおー。」
「ぱぱっぱ、ら〜。」
 この廊下はいつ来てもうるさい。左右にずらりと並んだ部屋のそれぞれから、意味不明な奇声が上がっているからだ。自己主張なのだろうか。やけに楽しそうなのは、一体どういうことなのだろう。
 精神病棟の廊下を歩く恰幅のよい医師――とは仮の姿。フェイスマンは変装用の伊達眼鏡の奥から、げんなりとした視線を走らせ、扉に貼られたネームプレートを確認していた。白衣を着込んだ彼が目的の部屋を見つけたのは、長い廊下ももう終わろうかという端の端。
「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイッ。」
 一際威勢のいい奇声が響いてくる、その扉の名前は、こう書かれていた。
『H.M.マードック』
 素早く左右を見回して、看護婦も医者も通っていないのを確認し、そのドアをノックする。
 コン、ココン、コン、ココン、ココン、ココココココ、コン。
 中から開いた扉の隙間に身を滑り込ませる。
 出迎えたマードックは左手を腰に当て、右手の人差し指を立てて、ダメダメのポーズ。
「ハズレ〜。違うじゃん、最後のとこ。」
 言いながら、マードックは壁を叩いた。曰く、コン、コココココココ、ココン。
「大差ないだろ! それより、部屋の場所変わったんなら伝えとけよ。」
「あれ、言わなかった?」
「聞いてナイ! 全くお前の連絡ときたら、わけのわかんない要求ばかり……。」
「へへー。で、持ってきてくれた?」
「持ってきたよ、一応。」
 溜息と共にフェイスマンが白衣の腹に隠していた紙袋を取り出す。
 中から出てきたのは、マードックから要求された着替えである。今回のソレは、スタンドカラーのチャイナ調ロング丈の黒い上着と、黒い細身のパンツ。オマケが黒いサングラス。
 この病院では、月に一度、第3水曜日に映画の上映会がある。侮ることなかれ、割と最新の映画だって上映してしまうのだ。
 嬉々として着替え始めるマードックを見ながら、彼が何の映画を見たか、何となくわかる気のするフェイスマンである。



 病院を抜け出したフェイスマンとマードックが、路肩に停めてあった紺色のバンに素早く乗り込む。
 と、同時に、バンは滑らかに発進した。
 運転席のコングが、マードックの格好を横目で見て、鼻の上に皺を寄せる。
「今度はいってぇ何様のつもりだ、このイカレポンチ。」
 悠々と首を振って、マードックが言い返す。
「俺の名はニャオ。またの名を救世主(メシア)。」
 って、えっへんと胸を張られてもねぇ。
 助手席で地図を開いていたハンニバルが、ミラー越しの視線でフェイスマンに問いかける。
「また病院で映画の上映会があったらしくてさ。」
 ハハ、と乾いた笑いで、フェイスマンが肩を竦めてみせた。
 因みに、アクアドラゴンとフランス映画以外全く見ないハンニバルと、映画そのものに興味を示さないコングには通用しないネタと思われる。ただし、彼らはマードックの奇行を深く気にかけず、あしらうことには慣れている。
「で? 今回メシアの助けを求めてるのはどこの子羊さ?」
「あー、サンディエゴの農場だ。酪農専門の、な。」
 地図に視線を戻しながら、リーダーが言う。
「酪農? ってことは何? 羊じゃなくて牛がいるってこと? 搾り立ての牛乳とか、ソフトクリームとか。」
 メシアの脳裏に浮かんでいるのは、多分マザー牧場。
「まあ、牛はいるだろうね。きっと羊もいると思うよ。もしかしたら豚や鶏も。」
 フェイスマンが、どこからか取り出した手紙をガサガサと広げる。その拍子に落ちた封筒を、マードック……もとい、メシアが拾い上げた。なるほど、送り主はサンディエゴのサミュエル・ファーム。宛先は新聞社。つまり、エンジェルの所に来たものらしい。
「トリソテーは?」
 すっかりなり切っているマードックに、フェイスマンが答える。
「エンジェルなら、あとから合流することになってる。けど、モンキー、それ本人に言わない方がいいぜ。」
 彼女が話題の映画を見逃がすはずもなく(実はフェイスマンは彼女に引きずられて見に行った)、ネタ的には通じるとしても。どこぞの定食のような名前で呼ばれて、機嫌を害されては危険だ。映画のヒロインも十分破壊的だったが、ヒステリーを起こしたエンジェルはその比ではない。



 所変わって、サンディエゴ。
 と言っても、サミュエル・ファームはサンディエゴの手前にあり、市街地とはほど遠い。
 バンを降りたAチームの眼前に広がっているのは、一面のトウモロコシ畑……と、点々と散らばる茶色い物体。
 と、見る間にその物体があちこちから近づいてきた。興味津々といった表情でよそ者を見つめるつぶらな瞳。だが、その図体は、焦げ茶一色。
「牛……?」
 フェイスマンが恐る恐るリーダーにお伺いを立てる。
「うむ。」
 重々しく頷くハンニバル。認められないとばかりに頭を掻きむしるマードック。
「ウソだ! 白黒くないじゃん!」
「こりゃあ肉牛だ、スットコドッコイ。」
 コングは「ホルスタインじゃないのだ」と言いたいらしい。さすが、牛乳に関しては違いのわかる男。
 そして、この不毛な掛け合いを見つめる、案外野次牛根性旺盛な牛の群れ。
 そこへ牛たちを掻き分けて登場したヒゲの青年(ちょっと微妙)。背はあまり高くなく、ずんぐりむっくりしている。
「こらっ、そこで何してる!」
 精一杯厳しい顔をしているつもりなのだろうが、何しろゲジゲジ眉毛にドングリ眼の超童顔ゆえ、怖くない。どちらかと言うと、ユーモラスな感じすらしている。
「サミュエルさん? 俺たちはこの手紙を見て来たんだがね。」
 ハンニバルが掲げた封筒を見て、サミュエルは目に見えて緊張を解いた。
「それじゃ、あなた方が……。」
「ああ。困ってるようなんで、手助けに来た。」
「済まない、僕はまたてっきりジェレミーの仲間かと思ってしまって、失礼なことを。」
「気にしなくていい。」
 サミュエルが慌ててシャツで拭いた手を差し出す。ハンニバルは葉巻を持ち替えて、その手を握り返した。
「スミスだ。こっちはバラカス、ペック、それに――メシアだ。」
 サングラスをかけたままのかなり怪しい部下を親指で指して、リーダーがニヤリとする。
「メシアさんですか。よろしく。」
 サミュエル青年、かなり朴訥な性質らしい。コング、フェイスマンと握手をした後、大真面目に黒服のマードックの手を握り、こう言った。
「あの……暑くないですか? その格好。」
 確かに炎天下のトウモロコシ畑には適さないだろう。襟もきっちりと閉めているし、いつものラフな格好からすれば、格段に着苦しいはずである。それでも、メシアことマードックは殊更平然と首を横に振ってみせた。ただし、観客はサミュエルと牛だけだ。
「いや。いつもこうなんで、気にしないでくれ。」
 その額には汗が浮かんでいる。
「馬鹿が。」
 小さな声でコングが呟いているのも、今回は無視。
「ジェレミーって?」
 フェイスマンの質問に、サミュエルが思い出したように頷いた。
「最初からお話します。立ち話も何ですから、こちらへどうぞ。」
 サミュエル青年に案内され、ぞろぞろと母屋へと向かうAチーム。その後に続く野次牛の群れ。
 しかし、悲しいかな、牛たちは途中の柵に阻まれて、それ以上はついて来られない。
「あれ、乳牛じゃないよね?」
 柵にくっついて見送ってくれる牛たちを振り返って、確かめてしまうフェイスマン。
 サミュエルが事もなげに答える。
「ええ、あれは肉牛です。うちは酪農中心だけど、肉牛も少しだけ育てていて……あ、それは牛の飼料ですよ、メシアさん。人間用のは別にありますから。」
 トウモロコシの皮を剥ぎかけていたマードックは、その言葉にぴたりと手を止めた。



 母屋で期待通り、搾り立てのミルクと茹でトウモロコシを振る舞われながら、Aチームはサミュエル青年から事情を聞いた。
 サミュエル青年は先祖代々受け継いだこのサミュエル・ファームで日々酪農に勤しんでいる。元々、朴訥な性格のサミュエル青年は、どうやら牛と相性がいいらしい。主力は乳製品だが、最近では肉牛にも手を広げ、農場経営は順調だった。
 ところが、最近になって、いささか困ったことが起きた。隣のジェレミー・ファームの息子は、サミュエル青年の同級生だったのだが、学生時代から派手な遊びが好きで、まあ、サミュエル青年とは対照的に農場経営には向かないタイプである。親が健在なのをいいことに、ふらふらしていた。そのジェレミーが、何を思ったのか、突然ロックバンドを結成したのだ。もちろん、それだけなら勝手にやってくれというところだが、お約束通り、親に反対されたジェレミー青年は、練習場を求めてサミュエル・ファームに侵入してくると言う。
「それも、乳牛たちの囲いや、牛舎の前で練習するんです。」
 サミュエル青年はゲジゲジ眉毛を震わせて、拳を握り締め、Aチームに向かって切々と訴えた。
「なるほど。それで、さっきあたしらをジェレミーのバンド仲間と間違えたわけか。」
 満更でもなさそうに頷くハンニバル。その見解にはツッコミ所が満載である。
――そんなわけないじゃん!
 仲間たちを見回し、内心で叫ぶフェイスマン。しかし、サミュエル青年は真顔で頷いた。
「そうなんです。」
 コングが3杯目のミルクに口をつけながら、他人事のように言う。
「別にやらせときゃいいんじゃねえか。牛に音楽を聞かせると牛乳の質がよくなるって聞いたことがあるぜ。」
「それは、クラシックとか……牛が安らぐような類の音楽ではないでしょうか。」
「そのジェレミーって奴の曲はそんなにひどいのか?」
 飽くまで興味本位で、ハンニバルが尋ねた。すると、サミュエル青年は遠い目になった。
「それは……僕の口からはとても言えません。」
――何なんだよ、今の間は!
 またしても内心で叫ぶフェイスマン。今回セリフが回ってこないのは気のせいだろうか。
 そんな一同の顔を見回して、サミュエルがきっぱりと断言した。
「少なくとも、ジェレミーが来るようになってから、うちの乳牛たちの乳の出は3分の2に減りました。乳脂肪分は2%ダウン(当社比)です。」
 朴訥に見えて、牛乳を語らせると熱い男、サミュエル。その迫力に負けて、手にしたコップの中身をついまじまじと見つめてしまうAチーム。
「何度もジェレミーに抗議して、うちの敷地を練習場所にするのをやめてもらおうとしたんですが、昔から言い出したら聞かない男で……。逆ギレして暴力を振るったりするので、僕の力ではもうどうにもなりません。」
 そう言って、サミュエルはマードックの手をがしっと握り締めた。
「どうかお願いです。メシアさん、皆さん。ジェレミーを説得してください。」
「確かにその手の“説得”は得意だけど――。」
 ようやく口を開く機会を見つけたフェイスマン。ここで謝礼の交渉をしなくてはならない。幸いにも、このサミュエル・ファーム、農場経営の方は順調そうだし。
 しかし、フェイスマンが華麗な交渉術を駆使する前に、さっさとマードックが返事をしてしまった。
「わかった。やるだけやってみよう。」
 サングラスを外し、微笑むマードック。斜め45度、カメラ目線。
――ああ、もうっ……!
 内心、天を仰ぎたい気分のフェイスマン。リーダーとコングの方を見るが、彼らはうむうむ、というように頷くばかり。フェイスマンは観念した。仕事としてはどうも気が乗らないものではあるが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかない。



「ここがジェレミー・バンドの練習場所です。」
 サミュエルが指差した場所は、牛舎の真ん前だった。右手には放牧地が広がり、確かに聴衆……もとい聴牛には事欠かない環境である。上手い具合に普段サミュエルが仕事をする飼料畑や母屋からはちょうど死角になっており、楽器を並べていてもすぐには見つけにくい。
「奴らは毎日来るのか?」
 地面にくっきりとついている数組の足跡を検分しながら、ハンニバルが尋ねた。靴跡から見て4人分だが、どうやら1つはサミュエルのゴム長靴らしいので、相手は3人ということになる。
「ええ、大体。時間はまちまちですが。」
「なら簡単だ。俺たちが牛舎に隠れて待ち受けりゃいい。」
 コングの意見はいつものようにシンプルかつ建設的。残りのメンバーとサミュエルにも、それ以外の案はない。
「まあ、一応歓迎の準備はしてからね。」
 ハンニバルが悪戯を思いついたガキ大将のような表情で言い放ち、部下たちも心得顔で頷いた。



〈Aチームのテーマ曲、流れる。〉
 鉄パイプを切るコング。板に掌を向けて何やら念じるが、浮かぶはずもなく、仕方なく両脇に抱えて運ぶメシア。図面を広げて指示を飛ばすハンニバル。溶接を終え、プロテクタを上げるフェイスマン。
 サミュエルが古びた蓄音機を運んでくる。どうやら音が出ないようだ。しきりと首を捻りながら針の様子を見たりしている。コングが貸してみろとばかりにそれを受け取る。やがて流れ出した音楽に、ハンニバルが首にかけた手拭いで汗を拭きながら頷き、フェイスマンがやけに爽やかな笑顔で親指を立てる。牛舎の枠の中で、牛が3匹、音楽に合わせて首を左右に振る。今度こそ白黒のホルスタイン――と思いきや、なぜか真ん中の1頭だけ、焦げ茶色の肉牛である。
 一方その頃、メシアは飛び上がるべく、腰を落とした姿勢でエネルギーを溜め込んでいたが、地面が柔らかくなる気配は一向に見られない……。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



 夕焼けにカラスの鳴き声が響き、空はゆっくりと暗くなってきた。
 放牧場から牛舎に戻された乳牛たちは、綺麗に掃除された房の中で、たっぷりと貰った飼料と水を平らげるのに余念がない。
 サミュエルは乳牛の夕方の世話を終え、今度は鶏に餌をやりに行ったのだろう。遠くの方から微かに鶏の声が聞こえてくる。
 柔らかな咀嚼の音が満ち、実に牧歌的で平和なひと時である。
 が、突然のエレキサウンドが、その調和を掻き乱した。
 ベケベン。
 ジェレミー・バンドが現れた!
「いぇ〜い、可愛い乳牛ちゃんたち、乗ってるかーい!」
 野太い掛け声が、ジェレミーに違いない。
 次いで始まった大音響。
 ジャガジャカジャカジャカ、チャーン(←シンバル)!
 フェイスマンとコングは顔を見合わせ、どちらからともなく、げんなりと首を横に振った。乳牛じゃなくても、乳の出も悪くなり、乳脂肪分も下がりそうな音である。
 出て行こうと進み出たリーダーの腕を、マードックが掴む。振り返った仲間たちに、ニヤリと笑ってみせ、彼は懐から取り出したサングラスをゆっくりとかけた(注・既に辺りは暗い)。



「今日は新曲を披露するぜっ。聞きやがれ、『恋するあの娘はモーモー娘』!」
 ジャカジャン。
 いい気分で歌い始めたジェレミーの頭上から、突然強い光が降り注いだ。
「おお、スポットライト完備?」
 バーン!
 牛舎の壁が手前に倒れ、コングとフェイスマンがあるものを運び出した。それは1メートル四方のお立ち台。ご丁寧にステップまでついている、要するに、朝礼台である。
 そして、堂々とその上に進み出たのはメシア・マードック。サングラス越しにゆっくりとジェレミー・バンドの面々を見渡し、鼻で笑った。
「何だ、てめえは!」
 不快感を露にするジェレミー。しかし、バンドの全貌が、ギター兼ボーカルの彼、シンバル1名、マラカス兼ホイッスル1名では、鼻で笑われても仕方がないのでは……? しかも、みんなお揃いの牛模様Tシャツ。胸に書かれたロゴは、『サンディエゴ・モーモーズ』。ジェレミー・バンド、そういう正式名称だったらしい。そして、洗い晒されたジェレミーのそれが剥げかけ、『サンディエゴ・モモーズ』になっているところもまた、物悲しい。
「私の名はニャオ。サミュエルの要請を受けて来た。お前たちに騒音を撒き散らされ、彼は迷惑している。」
 重々しく言い放つメシア。
「何だとぉ!」
 気色ばむジェレミー・バンド、またの名をサンディエゴ・モーモーズのメンバーたち。
「ここはサミュエル・ファームの敷地だ。以後、ここで練習するのをやめると誓い、おとなしく立ち去ればよし。そうでなければ、こちらにも考えがある。」
「それはこっちの台詞だ!」
 そう叫んで、ジェレミーは、宣誓書を差し出すために進み出ていたフェイスマンに殴りかかった。が、十分予想していたフェイスマンは素早く身を沈めてそれをかわし、空を切ったジェレミーの腕をコングががしっと掴む。
 にいっと歯を見せたコングに、ジェレミーが悔しげに舌打ちした。
「畜生っ。」
 ピーッ!
 リーダーの危機と見て、マラカス兼ホイッスル係がホイッスルを吹き鳴らした。
 すると――どこからか、来るわ来るわ、黒スーツに黒サングラス、べったりと髪を撫でつけたエージェントの大群。いつか有名になった日のために、ジェレミーが雇っているボディガードである。もちろん、同じ格好をしていても微妙に似ていないところはご愛嬌。
 そしてエージェントの群れは雇い主の腕を掴んでいるコングに果敢に飛びかかった。
 コングの腕の一振りで2、3人が振り払われる。が、何しろエージェントたちは数が多い。コングは善戦したが、あっと言う間にわらわらと人海戦術でのしかかり、乗り上げて、小山のように積み上がってくる。実は雇い主のジェレミーも一緒に山の下敷きになっているのだが、そこまでは気がついていないらしい。
 更に余ったエージェントやバンド・メンバー相手に、ハンニバルやフェイスマンも暴れ回っている。
 メシア・マードックは「コングちゃん、ずるい〜。ソレは俺っちの役だってば」などと言いながらうろうろしている。そのついでに成り行きに任せて何人かのエージェントを伸してはいるようだ。そして隙を見ては飛び上がる体勢に入ったりしているが、ナイス・タイミングで阻止してくれるエージェントたちのおかげで、虚しい思いを味わわずに済んでいる。
 黒づくめエージェントの小山がぴくぴくと動き、エージェントが人形よろしく飛んでいく。
 そして中から、コングが、失神しているジェレミーの襟首を掴んで出てきた。
 勝敗は最早つきかけたと見えたが――



 ババーン!
 突如喧騒を貫き響き渡った音に、一同の動きがピタリと止まった。ジェレミーでさえ、正気づいてきょろきょろしている。
 振り返ると、いつの間にか朝礼台の上に、サミュエルが立っていた。作業用のツナギにゴム長、麦藁帽子という格好は昼間のままだが、アコーディオンを抱えた雄姿である。
 全員の視線を集めたサミュエルは、おもむろにアコーディオンの鍵盤に指を走らせ、こう言った。
「ジェレミー! 暴力に訴えるなんて、君は何て卑怯なんだ! 君のやり方は間違っている! ついでに、君の音楽も間違っている!」
 ついでに、じゃなくて、そっちが本題ではないのだろうか。
 しかし、サミュエルは妙に清々しさに溢れた説得力で言い切った。
「そっちがその気なら、僕も戦うぞ! 聞け、『トリオ・ザ・ミルク』!」
 アコーディオンを弾きながら、歌い始めるサミュエル青年。
 牧歌的な農場、殺伐とした戦いの場に、美しいメロディが広がっていく。
 フェイスマンとコングは顔を見合わせた。何だかわからないけど上手い……。聞いているだけで、こう、心が洗われるような気分だ。
 ハンニバルも頷き、マードックは思わずサングラスをむしり取って聞いている。
 ふと気がつくと、エージェントたちも楽しげに輪になって肩を組み、ジェレミー・バンドの演奏中は牛舎の奥に避難していた乳牛たちも柵の近くに戻ってきている。3頭の牛――相も変わらず、両端はホルスタインだが真ん中は焦げ茶色だ――がサミュエルの歌に合わせて揺れている。
 これぞ天上の調べ。これなら牛たちの乳の出もよくなり、乳脂肪分も上がるに違いない。
「うぉおぉおぅ。」
 コングに襟首を掴まれたまま、ジェレミーが号泣している。
「お、忘れてた。」
 コングがぱっと手を離すと、びたんと地面に落ちたジェレミーだが、バネ仕掛けの人形のような動きで立ち上がり、サミュエルが歌う朝礼台へとにじり寄った。
「サミュエル……やっぱお前はすごいよ。なのに、何で俺のバンドの誘いを承諾してくれないんだぁ〜。」
 歌い終えたサミュエルが実に冷静に答えた。
「俺は牛の世話に追われてるんだ。そんな暇はない。」
 びしっと人差し指を突きつけられて、えぐえぐと泣きべそをかくジェレミー。
 サミュエルの演奏が終わった時点でわらわらと帰っていくエージェントたち。
「お、俺は諦めないぞ〜っ!」
 ジェレミーは尚も毒づきながら、バンド・メンバーに両脇を取り押さえられて、ずるずると退場していった。



「どうもありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました。」
 サミュエル青年に丁寧に礼を言われるも、何となく腑に落ちないAチームである。一応、戦ったという事実はあるのだが、自分たちがジェレミーを撃退したとはとても言い難い。マードックに至っては、気が抜けたあまり、メシアの黒服を脱いで、いつもの格好に戻っている。しかし、それを見たサミュエル青年は大真面目な表情で「そっちの方が似合いますよ」などと言ったものだ。
「それで、謝礼のことなんですけど……。」
 恐る恐るといった様子で切り出したサミュエル青年に、リーダーが手を振った。
「いや、それは気にしないでくれ。これだけいろいろとご馳走になったことだし。」
 そう、またしてもお礼と称して、ミルクとトウモロコシの接待を受けているAチームである。サミュエルの歌を聴いた乳牛たちの搾り立てミルクは、確かに前のよりも格段に味がよい。
 さすがのフェイスマンも、今回はこれ以上の謝礼を求める気にはなれなかった。彼にしては珍しく、ミルクを3杯も飲んでしまったからだ。心なしかお肌も艶々。恐るべしサミュエル・ファームのミルク。
 因みにフェイスマンの横では、コングが大ジョッキでミルクをお代わりしてご機嫌だ。
 こうして、彼らは珍しくほのぼのと帰途に就いた。



 数カ月後。
 フェイスマンが調達してきたアジトのリビングで、だらしなくソファに沈んで新聞を読んでいたハンニバルと、ダンベルを上げ下げしていたコングが、同時に身を乗り出した。
 見るともなく流れていたテレビの音楽番組のヒットチャート紹介コーナーで、聞き覚えのある歌声が流れたからである。
 紹介されたタイトルはまさしく『トリオ・ザ・ミルク』。因みにカップリング曲は『恋するあの娘はモーモー娘』。
 2人が思わず画面に釘づけになっていると、慌しくドアが開いて、フェイスマンが駆け込んできた。
「ちょっとちょっと、ハンニバル! コング!」
 興奮した面持ちで振り回しているのは、数カ月前に見たのと同じような大型封筒である。
「サミュエルがこれ! 送ってきたんだ。」
 ばばーん!
 フェイスマンが震える手で取り出したのは、小切手だった。珍しくマトモな仕事料……と言うには少しばかり大きな金額が記入されている。
「手紙によるとさ、彼、ジェレミーのバンドに入ることにしたんだって。」
「知ってる。」
 ハンニバルがテレビを指差す。
画面には折りよく、“農家を中心にメガヒット! ミルクの出をよくする奇跡のモーモー・ソング”、“全米酪農協会の公式ソングに決定”などという、いささか説明的なテロップが表示されていた。
「ま、実際、あの歌は効果があったからな。いろんな意味で。」
 しみじみと呟くハンニバル。
「だがよ、奴がバンドやってる間、牛たちはどうしてるんでい?」
 さすがに心配が細かいコング。フェイスマンが手紙に視線を走らせ、それに答える。
「あ、それは大丈夫。ジェレミーの親父さんが一緒に面倒見てくれることになったらしいよ。サミュエルのCD流してるから、ミルクの出もバッチリなんだってさ。」
 自分のことのように得意気なフェイスマンの手元から、何かがはらりと落ちた。



「おい、何か落としたぞ。」
「あ、いけない。モンキーからも手紙来てたんだ。」
 病院に戻った仲間からの手紙を拾い上げて封を切り、中を読んだフェイスマンは苦笑しながら投げ出した。
「奴さん、どうしてる?」
 リーダーの質問に、肩を竦めて答える。
「元気そうだよ。『トリオ・ザ・ミルク』のCDとモーモー着ぐるみを持ってきてくれってさ。」
「モーモー着ぐるみ?」
「サミュエル&ジェレミー・ファームの牛乳を買うと、抽選で当たるんだ。」
 コングがテーブルに置いてあった応募ハガキを掲げてみせる。
「もうあと4本飲めば応募できるんだよな。」
「それじゃ、その小切手を換金して、買ってきますかね。サミュエル&ジェレミー・ファームの牛乳を3本。帰りにモンキーの見舞いに行って、1本差し入れてやろう。」
 ハンニバルの号令一下、わらわらと外出準備を始めるAチームだった。
【おしまい】

問題1 『トリオ・ザ・ミルク』の歌詞を考えましょう。
問題2 『恋するあの娘はモーモー娘』の歌詞を考えましょう。
模範解答は【こちら

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