1997年 7月30日

Air/まごころを君に

警告!


この「独り言」のは、エヴァンゲリオン完結編である「Air/まごころを君に」の
内容(一部、ネタばれ有り)を記載しております。
これから映画をご覧になる予定の方は、ここから先には進まないようにして下さい。


警告!































HARIはエヴンゲリオン劇場版THE END OF EVANGELIONを観てきた。
今回は、TVシリーズでの最終2話とは別の最終2話「第25話・Air」と「第26話・まごころを君に」が描かれている。
TVシリーズでは「崩壊したスケジュール」によって作れなかった「真の」エンディングが見られると期待したのだが・・・
これ、本当に「謎は全て解けた」のだろうか?

これが「庵野監督の望んだ世界」だったのか?
HARIが見た劇場では、映画が終わってスクリーンに幕が引かれた時に場を支配していた空気は感動でも歓喜でも賞賛でも、そして非難でさえもなかった事は確かだった。
HARIは庵野監督が、エヴンゲリオンという作品の幕を自ら引いた事を感じた。

Airは「最後のシ者」に続く話として、「最後の敵」との戦いを中心に進んでいく。
この話に、文句は無い。
前作エンディングの続き「エヴンゲリオン伍号機〜拾参号機」と、復活したアスカの弐号機の壮絶かつ悲惨な戦いも描かれている。
(アスカ、完全に壊れている・・・(^^;。)

だが、「まごころを君に」は何だったのだろうか?
予想通り、破滅型エンディングに向かって走っているは良い。
レイ(又は、思い入れのある人)が人々の死(又は、人としての形が維持できなくなってくる時)に現れるのには、イデオン発動編を思い出してしまった。
3人(一人め、二人め、三人め)のレイが並んでいるシーンは、スターウォーズ「ジェダイの復讐」のパクリかな。

だが、良く分からない事が多すぎる。
結局、リリスが「第二の使徒」だった様だが、使徒の目的が分からない。
レイは、リリスとユイから作られたのだろうか?
碇ゲンドウの「人類補完計画」とゼーレの「人類補完計画」の違いは?
また、「人類補完計画」の目的はミサトの「説明的台詞」で明らかにされつのだが、「人類補完計画」発動後の世界が見えてこない。
ゼーレにとっては、「人類補完計画」は手段ではなく目的だったのだろうか?
ミサトやリツコ、冬月副司令、マヤたちは補完された(あるいは補完計画に取込まれた)らしい事は分かる。
では、アスカはどうなったのだろうか?
エンディングは、シンジがアスカ=「救い又は 逃げる場所」を拒絶した事を現しているのか?
(なら、最後のアスカの「気持ち悪い。」は何を意味しているのだろうか。)

以下は、HARIの推測であるが・・・、 THE END OF EVANGELIONでは、「ぼくはここにいてもいいの?」に対する答えは帰ってこなかった。
だが、当初考えられていたエンディングは、「碇シンジが、自分の存在価値を認める。」=「僕はここにいてもいいんだ。」だったのではないだろうか。
(TVシリーズ最終話の様に。)
そして、人類補完計画発動後に碇シンジが望んだ世界、それがTVシリーズで登場した学園ラブ・コメの世界だったのではないか?
あの「学園ラブ・コメの世界」は、エヴンゲリオンの世界としてはあまりにも唐突すぎるが、そう考えれば納得できなくもない。

今回のエンディングは庵野監督の心理状態を現しているのではないか?
また数年、庵野作品が世に出ないような気がしてならない。;


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