単純な精神のモノローグ

A Naught Monologue

エピローグ

少し早く目が覚めてしまい、まだ冷気の溜まった夜明け前の戸外に、なんとなく出てみた。 そして、地平線まで一面の草原に、東を向いて座ってみた。 黒くさざめく地面の先、澄んだ天空に描かれた、 オレンジ色から黒へのグラデーションを見上げる。

吹き亙る風が揺らす草と、漠然と遠い星の世界以外、何も感じることは無い。 私が感じる大きさは、せいぜい大きくて夜空、小さくて埃。 想像力の限りを尽くしても宇宙を遥かに越える存在や 原子の何兆分の一しか無い大きさの世界は感覚的には「わからない」。

東の空が白み、一瞬地平線が輝き、太陽が登り始めた。 私が感じる時間は、せいぜい長くて自分の一生、 短くても1秒より少し細かい程度。 どんなに考えてみても、宇宙の寿命より長い時間の意味とか、 たった今過ぎ去った一京分の一秒には、なんの共感も覚えない。

きっと、人間という生物が最終的に把握できる「大きさ」とか「時間」には、 予め決められた範囲がある。 限界を知り尽くした時、その境界の形は、なんのことはない、 自分の脳味噌の形だったと気付くのだろう。 人間が、人間という「かたち」をしている以上、 人間が感じたり考えたり推測したりできる宇宙の「かたち」も、 決まっているに違いない。

私は立ち上がってズボンについた草を手でパッパと払い、 すっかり星の消えた空に向かって欠伸(あくび)をした。 「私には、知り尽くす事が出来ないという、 永遠の自由が与えられている………。」

もしも死を心底恐れない理性が得られるなら、 そこにはこんな爽やかな諦(あきら)めが必要な筈だ。 そんなことを思っているうちに空はすっかり明るくなっていた。 「考える」という時間の罠に、束の間捕らえられて、 私は、ほんのちょっと未来への時間旅行をした。

振り向くと朝日に照らされた薄汚い丸太小屋がある。 これが私の家。 取り敢えず美味しい珈琲でも点てて、目を覚ますとしよう…。

部分

パンの固くなったハンバーガーを、ゆっくりモシャモシャと食べながら、 宇宙の謎の全てを知りたいと願った。

このように願い、思考している私の脳味噌には、 いくつの細胞があるんだろう。 1万個? 1億個? たとえ1兆個でも、無限じゃない。 宇宙全部の素粒子の数は10の80乗個くらいらしいが、 それよりもずっとずっと少ない。 だって、私は宇宙の中の一部なのだから。 何で、一部でしかないものが、全部を分かるのか。

この世の全部が1個のハンバーガーで、 それ以外には何も無いならば、 ハンバーガーの中の肉の表面の胡椒の一粒が、 どんな想像力を巡らせば、 自分がハンバーガーの一部だと悟ることが出来るのだろう。

テーブルから立ち上がり、 近くにあった縄跳びを、両手で持った。縄の真ん中を足で踏んだ。 両手を思い切り上に上げて、足を浮かせようとした。 無理だった。

やっぱり、宇宙を全部知るなんて、無理だと思った。

不可知と存在

「全部」は絶対にわからない。 ゲーデルさんは、理性で全部は語れないと言った。 ハイゼンベルグさんは、観測で全部を同時に知ることは出来ないと言った。

タマネギの皮を剥いて、剥いて、剥いて、 それでも残る「わからないもの」。 全部は、この「わからないもの」で作られている。 だって、皮を剥いて何も残らないなら、 世の中はとっくの昔にぺちゃんこに潰れて消えて無くなってた筈だよ。

絶対に分からないから、ここに、ある。
¶  不完全性定理では、 「自己参照」と「自己否定」が「証明不可能性」を導き出す。 量子時間が流れていくこの世界では、結局のところ、 「1回の自己参照」と「変化という自己否定」が「存在」を導き出す。
時間とは、自己参照の連鎖だ。 変化とは、自己否定の連鎖だ。 そこには本質的な証明不可能性が盲点のように必ず存在し、 全てを知り得ないことの確証が、 私達の躍動する世界を、単なる凍結した図形に還元することを 防止してくれているのだ。

プロローグ

私は今、何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。 真っ暗だ…………。 ただただ、考えることしか許されていないようだ。 突然、不思議な感覚が私を包み、それがずっと以前から 当たり前だったような気がしてきた。 過去と未来が似たようなものに思えてきたのだ。

私は、「未来」の井戸から水を汲み出し、その冷たさを束の間楽しんだ後、 「過去」の井戸にその水を注いでいる。 未来の井戸の奥底も過去の井戸の奥底も、 なんだか良くわからない。 遥か未来も遥か過去も、私にとってはどうでも良いことのようだ。 すぐ手に届く未来の井戸の表面から汲み取った水を 過去の井戸に流す作業で、 私は「記憶」を作り続ける。 そして、逆に、すぐ手に届く過去の記憶を汲み出して、 未来の井戸に注ぎ込み、「期待」で未来を膨らまし続けるのだ。

完全に忘れてしまった過去も、どうなるかちっとも分からない遥か未来も、 私にとってはどちらもどうでも良いものだ。 私が感じることのできる近い未来が過去に向かって流れ、 同時に近い過去が未来に向かって流れている。 それは「いま」という不動の私の周囲を巡る様々な流れだ。 どれほど世界が移り変わろうが、私にとっての「いま」は、シンプルに絶対だ………

そのとき、突然私は遠くに汽笛が鳴るのを聞いた。 私の住んでいる田舎の小屋の側を通る鉄道に、 最終の汽車が通り過ぎようとしている。 突然、「時間」が戻ってきた。全ては未来から流れて過去に消えていくように思えた。 もしくは、私が過去から未来に向かって全力疾走しているような感じに戻った。 さっきまでの不思議な感覚は、全部、夜霧の中に拡散してしまった。

幻想の作り方

深夜、全ての放送が終わったあと、テレビの砂嵐を見つめた。 光の粒が、右から左に流れていると信じれば、 実際、砂嵐はそういうように動いた。 あるところで渦を巻き、あるところで流れ、あるところで淀んだ。 本当は、なんの規則性もなく、めちゃくちゃなはずの光の点の乱舞。 これが、私の「思い通りに」跳ね回った。

私の思いは私の身体の細胞からできていた。 細胞は分子からできていた。 分子は原子からできていた。 原子は素粒子からできていた。 素粒子も、もしかしたら何かから出来ているかもしれない。

「理屈」は、際限なく、その根拠を求めたがる。 その根拠の根拠を延々と探す。疲れ果てて倒れるまで。 何もかも、それ以上根拠が見つけられず、 脳細胞の限り歩き尽くした時、 この宇宙は、砂嵐の中に「人間」が思い描いた幻想だったと、 誰かが気づくだろう。
¶  「素粒子が、ある一点Aから次の瞬間に別の一点Bに移動した」と言うのと、 「素粒子が、ある一点Aで消滅し、次の瞬間に別の一点Bで生成された」と言うことの 本質的な違いって何だろう。 時間の最小単位より短い間に何が起きているのか 原理的に知ることが出来ず、 同じ状態を持つ個々の素粒子には個性が無いので、 移動なのか生成・消滅の連鎖なのか、区別なんかつけられないはずだ。 多分、素粒子が、何かの《力》に導かれて、だいたいそれに沿っている、と 思い込んだ時に、私は、同じ素粒子が「移動」した、と思うのであり、 そうでない時にはビックリして「消滅」したとか「生成」したとか言うのだろう。
何を《力》と思うかは、結局、私達の意識の性質に依存する。 我々が意識できない《力》の種類が無数にあっても構わないけれど、 意識できないのだから、その《力》に沿った動きも理解できない。 私達は、アプリオリに持つ、限られた《時空認識》と《力》によって、 無限に乱雑な空間から、勝手に、意識し、理解できるものを拾い上げているだけだ。 深夜放送が終わった後のテレビに映る砂嵐から、 図形や動きを勝手に垣間見てしまうように。

全てを知る前に、疲れ果てて倒れることが出来るなんて、幸せだ。 我々人類は、夢を見たまま滅びることが保証されているのだ。 今日も私達は、真理という特異点の周りを、 無邪気に駆け回っている。

知り尽くすことが出来ない証明であるかのように、私は深い眠りに落ちていった。