この、一回限りの人生の、不気味なまでの無目的性と不条理に立ち向かうためには、 「自分が自分である」という感覚こそが、 世界と宇宙の全てとすら対等である、という真理に、 なんとしても到達せねばならなかったのです。(M.HIJK)


自分って何だろう

何か漠然とした不安。知りたいという欲求。
誰に聞いても分からない。厳密で無くてもいい。 雰囲気だけでも、自分の「心」で、実感として理解したい。
『人って何なの?』 『どうしてオレは苦しんでまで生きねばならないのか?』 『私は誰“のために”存在しているの?』 『自分は誰“とともに”存在しているの?』 『何故みんな死ぬために生まれてきたのか?』 『明日地球が滅亡するなら今日は何をするのが正解なのか』 『あの人に冷たくされたくらいで、どうしてこんなに苦しいの』 『今自分が感じている全てが幻想と錯覚では無いと、どうして誰も証明してくれないんだ』 『何故全てが理解可能でないのか』 『記憶って何』 『予感って何』 『今って何』………
苦しみあえいだ時、ただがむしゃらに考えるのもいい。 しかし、「答え」は無くとも「考え方」を知っておくのもいい。
ここには、考え方だけがある。

−『深い絶望に全身的恐怖を感じ、その限界性と残酷性を知れば知るほど、 今、この瞬間、この世界、この仲間たちと意味を共有している、 という「奇跡」に感動してしまいます。 そして、「愛」を感じることができる生命として 偶然にも自分が存在してしまったことに、 強く感謝せざるを得なくなります。』

人間にとって、一番面白いのは人間なのだ

………結局、この結論に、何度でも立ち返るための彷徨、 それが私の哲学そのものなのかもしれない。


自循論のアーキテクチャ

この世界は、 無限乱雑空間意識の群れが 光を照らすことで浮かび上がる有限の虚像であり、 しかも意識自身がその虚像としての物質世界によって成立している、 という同時発生的で自己完結的な自己循環構造を持っている。 一旦その自己循環が成立してしまうと、 時間という 一方向性を持つ仕掛けも走り出してしまう。 要するに、世界の成り立ちとは、 無限乱雑空間上に現出した自己完結的な自己循環構造 すなわち自循である。
無限乱雑空間に対して、 気まぐれに何か適当な視点を導入するという行為、 それ自体は無数に行われて良く、 その結果として選択された世界は、勝手に幾らでも存在していて良い。 これを 視点の無償性と言う。 このようにして選択された世界は、 無数に存在する無限乱雑空間上の無数のサンプルに過ぎないが、 その一つに『着目』すると、 そこは選択された視点の有限性に対応した、 有限で有意味な、唯一無二の《世界》になっている。 有意味性や存在は、必ずこのように、無限から何かを選択して制限を加え、 有限性を確保することで発生する、という不可避的な帰結を 有限原理と言う。
ところで、無限乱雑空間上に無数に存在する世界のうち、 今、ここにある世界に『着目』しているのは誰だろうか。 無限乱雑空間の全てを統べる神なのだろうか。 そんなことはない。 この世界に『着目』しているのは、この世界の住人である 私達、人間だけである。 無数にある世界のうち、それが存在と意味を持ち得るのは、 内部に世界自身を自覚する知的生命を 収容する時のみである。 包含関係から、世界を自覚する生命は、 世界内部にいる自分自身をも自覚せざるを得ない運命にあるが、 自分が自分を見る本質的な盲点のために知性は完全な自己理解が不可能であり、 生きるためには盲信に安堵するしか無い。 これが知の宗教性であり、 どこまでも掘り進もうとしたら、 最終的には全ての始まりにして究極の構造である 約束された地、「自循」に辿り着くことになる。

「自」のアーキテクチャ
誰でも当たり前に感じてる、この「自」という感覚も、 その内部を調べてみると、意外と複雑な構造をしていることが分かる。
  • ( 1 )   先ず最初にあるのは、何かを知覚し、抽象化して内部に蓄積記録し、 反応して行動し得る何者か、「S」である。 これは、コンピューターを搭載したロボットや、 自我に目覚めていない赤ん坊に擬えられる。 「S」は、ただ単に「Sでないもの」すなわち 「¬S」を参照する。 ここに、あらゆるものに先立つ、 位相幾何学的な意味での「境界」という抽象概念が発生する。 そしてここに「S」と「¬S」の「差異」という、 意味や有限性に関わる原型が存在している。
  • ( 2 )   そのうち、観察対象である「Sでないもの」の内に、 自身の思考や行動と相関のある部分が見出されるであろう。 「Sでないもの」の中に、 (分かり易く言うと)「自分の思い通りになる部分」 としての「1」を発見する。 例えば、右手を上げようと思った時に上がる右手である。 当初は、それが何物であるのかの意味は不明である。
  • ( 3 )   ここに、「見る自分S」と 「見られる自分1」という 本質的な分離が生じている。自分を分離し、対象化し、 異化する、という抽象概念が発生する。 いわば「異化保証分離」であり、 これが、我々が物理学で良く使う線形時間に先立つ 『原型時間』である。 (線形時間は、物理学で数式を扱う上では便利だが、 『原型時間』が持っている本質的な意味論を 全て脱落させて制作した一つの概念に過ぎない。)
  • ( 4 )   一方、「自分と相関の深い(いわば思い通りになる)部分」 の発見の代償として、 「自分と相関の低い(いわば思い通りにならない)部分」としての 「¬S1」も発見される。 余談だが、世界に神が一人だけいるような場合には、 この事情は当てはまらないであろう。
  • ( 5 )   ここに、観察対象である¬Sの中に、 Sと相関の深い部分「1」と、 Sと相関の低い部分「¬S1」の分離、 という抽象概念が発生する。 いわば「同一性保証分離」であり、 これが、我々が物理学で良く使うデカルト座標に先立つ 『原型空間』である。
  • ( 6 )   空間的に分離された観察対象としての1が 『原型時間』を遡って「今」に写像された抽象概念 0が、 先ほどから何物か良く分からなかったSなるものの正体に昇格する。 これが「自我に目覚める」ということである。 S=0である、 という抽象概念が、いわゆる「自」なのであり、 「今ここ (now and here)」という概念の根本になる。 概念空間上でS=0とした方が 効率性が良いことは、生命性・身体性が担保している。 従って、身体性を持たない人工知能が 自然と「自我に目覚める」とは考えにくい。
  • ( 7 )   一方、観察対象の内に分離された「¬S1」は、 環境とか世界として認識されるが、 『原型時間』を遡って得られる「¬S0」 すなわち「今であって、ここで無いもの」について、 自我はこれを直接観測することが出来ない。 自我が存在する「今ここ」と同じ時間にも、 環境や世界はあるはずだと推定されるが、 それを観測し、確認しようと思ったら、それは常に 過去のもの「¬S1」になってしまうのである。 (これが情報伝達速度の上限としての光速の原型的な意味である。) 自我にとって、「自分以外の今」は、永遠に謎である。
  • ( 8 )   そのうち、観察対象である「¬S1」の中に、 自分と同様の生命性・身体性を持つ 他者1が発見されるであろう。
  • ( 9 )   他者も『原型時間』を遡って、他者なりの自我、つまり 他我0を持っているであろう、 と推定されるが、自我はこれを直接観測することは出来ない。 自我にとって、他我は、永遠の謎である。
    然しながら、自我から見た他我の存在によってのみ、 客観性なり「確からしい過去」なりが統計学的に形成し得るのであり、 計画性や未来という概念も、他我への信頼が無ければ成立しない。 余談だが、この世界に自分だけがポツンと存在するような場合、 客観性も過去も未来も線形時間も言語も文化も生じることは無い。
  • 私達が知覚したり認識したり思考したりできる対象は、 厳密に言うと全て過去のものであって、 だから私達は当然『過去のことしか考えられない』。 未来というのは、認識の直接の対象というよりも、 言語的な概念であり、記号やシンボルの一種である。 つまり、過去にある「未来という意味」を考えているに過ぎない。 思考世界の対象の全ては過去であるので、 そこから逆算される「知覚の対象を受け取っているはずの“現在の私”」というのは 過去世界の中にある言語的な概念であり、記号やシンボルの一種に過ぎない。 つまり、過去にある「“現在の私”自身」を見ているに過ぎない。
  • 空間で言えば、鏡に映った自分の像から、自分という実体を想像の中で逆算するように、 「“現在の私”S」(不可思の実体)は、 「過去にある“現在の私”の痕跡S1」を見て、 「“現在の私”自身S0」(可思の虚像)を逆算して推定するしか無いのである。 この逆算には相当な抽象化力が必要であろう。 ただ漫然と周囲の状況を受け止めて行動しているだけの動物には、 こんな複雑な推論ができるとは思えない。 少なくとも人間は、認識できる限りの全ての過去の事象の中に、 過ぎ去った「“現在の私”の痕跡」を発見し、 そこから逆算して、全ての過去の先端にある「“現在の私”自身」を 言語的・情報的・概念的に探し当てたのである。 ひとたび探し当ててしまうと、この概念の毒性は強烈であり、 あらゆる「知覚したり認識したり思考したり」できる対象は、 「“現在の私”自身」が見ている、という関係を強制的に持たされてしまう。
  • 「“現在の私”S」の本体は相変わらず謎(不可思)なのであるが、 認識可能な過去の世界の中に、くっきりと 「“現在の私”自身S0」と、「それが見ている対象S1」 という図式が現われるのである。 これが、「私が見ている」ということを見ているという意味、 すなわち、自覚とか主観の正体である。

物理世界と情報世界
  • 有意味な宇宙とは「物理世界」と「情報世界」の相互依存状態である。
    • 物理世界(客体)には、知的生命(主体)を生み出せる能力がある。
    • 情報世界(主体)には、物理宇宙(客体)を観測できる能力がある。
  • 「身体」は物理世界に属し、「心」は情報世界に属する現象である。
  • 物理世界における個々人の身体は個別のもので、混じり合うことはない。 一方、心を構成する意味ネットワークの概念のうち、抽象度の高いものは 同じものを他人と共有可能で、特に「自」という概念は、 情報世界全体で唯一無二であり、これを全員が共有している。
  • 純粋な「自」という概念は「それ自体で完結」しており、 物理世界の諸法則からも独立に定義される、純粋数学的な絶対概念である。
  • 身体性に強く拘束される無意識層の活動は生物個体に個別のものである。 一方、理性・悟性の層は他者と一部混じり合うことが可能である。 そして「自」という純粋概念は全員が全く同じものを共有している。 これらの狭間に浮かび上がる「意識体験」という情報世界独特の現象は、 常に他者との分離と統合のバランスの中に存在する。 このため、私たちは、おそらく、他人も、私と同じような「私が私である」 という独特の感じを持った意識体験をしているだろう、と推測できる。
  • 人間が60兆個の細胞、1000億個の脳細胞で行っている 莫大な情報処理のうち、意識できている部分というのは、ほんの僅かである。 「氷山の一角」などという比喩では手ぬるい。
  • 情報処理の中でも「自己認識」という形態は非常に特殊で、 なかなか狙って作れるものではないが、 その理由の一つに、意識という現象は、 無意識という莫大な情報処理に支えられている点が挙げられる。 意識の謎を解くには、脳の構造を調べているだけでもダメだし、 意識できる範囲を心理学や哲学で考えてもダメであり、 『感覚・運動器官―無意識―意識―自己核』という 情報処理全体のアーキテクチャを明確にすることによってのみ 達成され得る。
  • 物理世界と一対一に対応するのは、 情報世界の最外周に位置する感覚・運動器官だけであり、 神経繊維上の電気信号をなぞっていく物理的アプローチと、 情報世界の記号がどう変化・発生していくのかの分析は、 感覚・運動器官より内側では時間的・空間的に 直ちにN対Nの複雑な関係になってしまう。 (言い方を変えると、物理世界と情報世界が 綺麗に対応しているのは、その接平面のみである。) 信号が脳に辿り着く前に、物理世界の電気信号と、 情報世界での意味は、うまく対応させられないほど 複雑に絡んでしまっているし、 無意識層に属する意味は、適切な言葉で言い表すのも難しい。
  • 物理世界のこれまでの人類の研究成果と相反せず、 対応を明確にしつつ、 知的存在が発生させた『情報世界』の法則を、 新たに発見し、体系化していくことが、 心身問題を解決に導く正しい戦略である。
  • 有意味な宇宙の構成には、情報宇宙と物理宇宙の両方が必要である。 物理世界が無ければ普遍性や客観性も存在し得ず、 情報世界に属する個々の精神には、 観測する対象も、他者や外部記録との情報交換手段もない。 もし今現在の我々の意識や精神が、肉体から離れて 物理世界と断絶し、情報世界の中で存続できても、 考えるべき対象も話し合うべき相手もいないため、 自律思考も意味出力も即座に減衰し、 活動は早晩停止するだろう。 一方、情報世界が無ければ、一連の物理現象は 何者からも観測されていない事になる。 そもそも物理法則は、 観測する者が知覚できる現象だけを切り取り、 その延長に組み立てられるものである。 つまり物理法則は 徹頭徹尾、間接的または直接的に、 観測者の知覚の範囲にある。 観測する者を仮定しない物理法則の全体とは 無限・無数に複雑・雑多で、 幾らでも秩序を拾い上げることは出来うるであろうが、 秩序を拾い上げる者がいない状態である。 観測者と切り離された物理世界は、 無限次元の中に無秩序に法則が漂う白色雑音の世界だ。 情報世界を抜きに生命や脳の存在意義は考えられないし、 伝達すべき情報が無かったら物理的媒体には意味がない。
  • 意識を持つ生命を生み出せなかった物理世界は 無意味に漂うだけであり、 物理世界との接点を持たない精神だけの情報世界は 情報処理活動を持続できない。 たまたま物理世界と情報世界が噛み合わさった状態となった宇宙だけが 有意味である。 あらゆる宇宙の中からランダムに一つを選択して、 このように見事に物理世界と情報世界の バランスの取れた宇宙を発見できる可能性はほぼ0%であろう。 しかし、現に意識を持続している存在が自分のいる宇宙を分析した時、 見事に物理世界と情報世界がバランスしている可能性は100%である。

物理世界と情報世界の共進化
物理世界と情報世界の相互依存関係は、身体(生命性)をカナメとして進化してきた。
デカルトは「我思う、故に我あり」と言って自己を唯一絶対視する。 現象学的エポケーでは自己意識以外の客観を一旦全て脇に置く。 このように拠り所とされる「自己」も、突然完璧な形で出来上がったわけではない。 それどころか、人類の「自己」が至上のものとは限らないし、 それはアルコールや薬物で易々と変性し、睡眠や死によって簡単に失われる。
実際のところ、「自」を核とする「精神(情報世界)」というものは、 脳と一緒に徐々に進化してきたものである。 原初、神経系は、外界に対して機械的な反応しかしなかったが、 情報世界の内部に「自」という核を形成し、維持できるほどに高度になると、 能動性、脳内シミュレーション、計画性などの能力を得て、 大いに生存競争に有利になった。 「自」を確かな足がかりとして持つ情報世界は、同じ「自」という核を持つ 知的存在間で、原型時空・原型論理を共有し、抽象的な記号一般の交換が可能となり、 従って言語コミュニケーションが可能となる。 これを物理世界の中に客観的記録として蓄えることにより、 高度な学問、文化・芸術を外部記憶として世代や地域を越えて保持・共有できるようになった。
この膨大な外部記憶(記録)を操れるものが生き残るという、 新たな淘汰圧が脳に働き、高度化した脳は、より鮮明な情報世界を保持する。 そのことで、新たな意味の体系と情報価値が量産され、 外部記憶に蓄えられる。 この新たな進化ゲームに適合できない遺伝子は、 高度な社会システムから脱落していく。 おそらく、人類の「記録-脳-精神」は、今後も、 相互淘汰・相互進化によって、際限なく高度化していくだろう。

「自」と「時間」
「自」という概念と、「時間」という概念は、 その成立過程を詳細に調べると、 殆ど同時発生的であることが分かる。
  • 【図・中央】 主観において、知覚したり考えたりできる対象は全て 記憶領域に存在し、その意味では過去に属する。 「考えられる側のもの(対象)」は勿論考えることが可能だが、 「考える側のもの(主体)」自身は当然考えることは不可能である。 この「考えられる側のもの(対象)」の中には、 自己と環境のあらゆる情報が含まれるが、 そこから空間的に抽象化される「環境でないもの」として 自己の痕跡1が得られ、 これを逆算することで自己自身0を探し当て、 このような知性を得るに至った存在は、 更に逆算を一歩進めることで将来の自分-1をも 想定することが出来る。 このように、主観においては過去・現在・未来は、 知性によって抽象化された質的に異なる概念である。
  • 【図・左】 一方、多くの主観が情報を交換する場においては、 この質的な過去・現在・未来の繋がりは、 便宜的に量的な数直線にまで象捨され、 結果として物理的な線形時間が集合的に捏造された。 ここまで抽象化された時間では、既に過去・現在・未来という 質的な意味構造は脱落している。 時間上のある一点を仮に現在として指定すると、 それよりも前が過去、それよりも後が未来、ということになるだけで、 過去・現在・未来の質的な構造は全て失われている。 このような時間の単純化・形式化・量化によって、 自己や他者を含む環境の変化・運動をも、 客観的に記述することが可能となっている。
  • 【図・右】 ひとたび、この物理的な線形時間のイメージが出来上がると、 私達の記憶上に存在する過去・現在・未来という情報の質は、 線形時間上に再解釈されて配置される。 この時、不可思(unthinkable)の主体である自己Sと、 推測された可思(thinkable)の自己0、という 本質的な自己の分離「S≠0」は、 同じ「いわゆる現在」で括られて、同一視「S=0」 されてしまう。 私達が日常生活で感じ、考えている「いわゆる過去・現在・未来」という 文学的な時制は、主観的な(質的)原型時間を、 客観的な(量的)線形時間によって歪めて再解釈したものであり、 この二段階の心理トリックによって、 「自分を自分であると感じているもの」 「考える側のもの(主体)」 が忘れ去られ、唯物論的・機械論的・運命論的な世界観を 易々と信じ込まされてしまうようになるのである。

「自」と「記憶」
「自」は、脳内における「記憶」機能の発達に伴い 積み上げられてきた。 いわば、抽象化の最終段階にある概念である。
  • ( 1 )   共通項を再現する能力(抽象化力)の獲得。
    可塑性を持つ神経回路の能力による。
  • ( 2 )   「〜は離れている」から純粋な「離れている」 という概念の抽出。(距離概念の獲得。) 視聴覚の高度化と抽象化力の合わせ技。
  • ( 3 )   「〜はない」から純粋な「ない」という概念の抽出。 (否定概念の獲得。) 2時点間の異なるエピソード記憶を比較して共通項を抽出する、 意味記憶の能力による。 「〜はない」という概念は、身振り言語では表現できない。 音声言語によってのみ表現できる抽象概念である。 更にこれら全ての表現に共通する「ない」という高次の抽象概念が 脳内で単離されたことになる。
  • ( 4 )   「離れていない」=「ここ(自)」の獲得。 距離概念と否定概念の合わせ技。
  • ( 5 )   「あらゆる対象でない」=「いま・ここ(自)」=「主体」の獲得。 意味記憶と否定概念の合わせ技。 「あらゆる対象」の中には、「ここ(自)」もついでに含まれており、 その結果、否定的自己言及が生じる。 「見る自分」と「見られる自分」という自己の分離であり、 これこそがすなわち主体性の自己発見であり、「時間」の原因でもある。 (「見られる自分」を過去として発見する。) これが「距離概念」と結び付いて、過去-現在-未来という 線形時間概念を形作るのは、更に後の段階になる。

「世界」のアーキテクチャ
生命と意識を内包する「自覚する世界」だけが有意味である。 「自覚する世界」は、物理世界と情報世界が意識によって 結び合わされている構造をしている。 また、過去や未来は意識によって創られたモデルの一部であり、 それを超えるものではない。 ここで言う物理世界とは、直接測定可能なものの全てであり、 情報世界とは、直接測定不可能なものの全てである。 時間と空間は、 有意味性を扱う意識が持っている量子化された有限の概念であり、 「自覚する世界」の範囲を形作っている。 つまり、「自覚する世界」は、量子化され、有限である。 時間は変化を、空間は同一性を提供する。 同一性と変化は相矛盾するが、意識によって統一されている。
  • 今こうしている間にも、無限の宇宙が生まれて消滅しているだろう。 原子すら生まれなかった宇宙もあれば、 生命を育み動物まで産みながら“自覚”を持つ知的存在までは 内包できないまま消滅した宇宙もあるだろう。 そうかと思えば、宇宙の基盤を遥かに越えて 思考世界の方が極端に肥大化した知的存在を内包し、 まるでその宇宙など無かったかの如く、 ひたすら思想にふける、それら無数の超知的存在を 抱える宇宙も存在するだろう。
  • どんな種類の宇宙も、絶対数で言えば無限に存在するであろうが、 おそらく、“自覚”する存在を内包する宇宙は、 思考世界に閉じ篭ってしまう前の状態である確率が、 圧倒的に高いのだろうと思う。 だからこそ私は、物理宇宙と情報宇宙の狭間にあって、 あれこれ思い悩む存在として、割と普通に存在している、 と自覚しているのであろう。

「自分」の定義
Last update 2007.12.21
  1. 純粋な「いま・ここ」の意識。自己参照の最小単位であり、 意識構造の蒸留された特異点であり不動点。無色無味無臭の神秘。 根源的には《時間》という仕掛けと表裏一体で現れる現象。
  2. 「いま・ここ」の周辺に広がり、世界を活き活きと感じ、喜怒哀楽を 覚え、能動性・主体性・人格を持つ、いわゆる意識。物理時間上では、 「いま・ここ」の前後0.5秒くらいの範囲に漂っている。 覚醒時には消える事のない「私が私である」という格別な感じ。
  3. 生物学的な身体。60兆の細胞で形作られ、1000億の脳細胞で 考えている生物。自我境界線、免疫的自己の範囲。物質的実在。 生老病死を持つ。時間的にも空間的にも存在範囲は明確。
  4. 身体が知覚および表現したものの意識における総体。たとえば 風景を視認した結果や、芸術作品を創作する前に脳内にあるモデル も含まれる。実在性に結びつくあらゆる認識の総体。精神的自己。 所有している情報世界の全部。
  5. 環境の中で形成・強制される役割。例えば、生命・人間・男性・ 日本人・部長・夫・父親である私。外圧として自己の認識や表現に 制約を与えると同時に、自己に新たな関係と意味を付加する。自然や 自然や人を「愛する」など、外界との関係性の中にある自分。
  6. 自分に関係することの全て。明瞭な意識だけでなく無意識も含み、 自己の中にある「“他者”や“世界の総体”のモデル」をも含む。 認識・記憶・期待・発見・夢想・感情・理解・決断・放心なども 全て包含する、実在性を超越した「自分にとっての全て」。
¶ 無限乱雑空間上には、無数に世界が存在していて構わないが、 そのうち「認識するもの」を内包している世界だけが有意味である。 世界を「認識するもの」は、認識対象に「自分自身」も必然的に含んでしまうが、 この特異点の矛盾性は、時間の最先端に位置する「認識する側の自分」と、 その一瞬前に位置する「認識される側の自分」という 時間構造を導入することで、初めて解消される。
「認識するもの」としての、常に時間の最先端に位置する最も純粋な「自分」は、 それ自体、常に無色透明・無意味・内容空疎な、情報の一方的な受け手である。 世界から意味を与えられ、生命として、人間としての色を持った「自分」は、 様々な能動性を持って行動しているように見えるが、 その最奥には、それらを一方的に観察するだけの「自分」がいて、 それは「時間」という仕掛け、もしくはこの世界の根本的な有意味性と 等質等価である。 この最も純粋な「自分」は、あらゆる生物や非生物の背後にあって、 いかなる属性も持たない概念であり、 従って、個々に区別できない以上、生命や物体に散らばっているというよりは、 唯一無二のものを皆が共有している、というべきである。
¶ 自分がこうして存在してしまっているという感覚には、 いかなる意味でも根拠や説明を与えることは不可能で、 だから時々私達には、自分が自分であるというこの感覚が、 たまらなく不可解で不気味で、軽薄でグロテスクなものに感じられる。 どうして人は、「理由もなく存在するもの」を許せないのだろう。 なぜ人は、神を発明してしまうのだろう。 ………なぜなら、人々は、残酷なまでに、 「自分」というものが、理由もなく存在してしまっていることを、 実は十分に自覚しているから。 一つ一つ皮を剥いでいくと、 自分には中身など無いことを識っているから。 詰まるところ、自分とは、自分が捏造した情報なのだ。

心身問題
Last update 2007.12.22
  1. 交互作用説: 物心は独立な実体だが、相互作用もする。 (でも、物質界のエネルギー保存則と矛盾するという反論もあるし、 この難点を克服するような再反論も為されている。)
  2. 並行論: 身体と心には並行関係があるだけで相互作用はしない。 身体と心は単一の実体の二つの属性である、と見るなど。 (でも、倫理的な責任といった心的現象の説明がつかない という反論もある。)
  3. 俗流唯物論: 心的現象は全て物理学や生物学の法則に還元できると考える。 (でも、これは、単に心的現象の特質を無視しているだけ、 という反論もある。)
  4. 随伴現象説: 心的現象は生理的過程に随伴して現われるものに過ぎず、 心から身体への因果的作用は無いと考える。 (でも、これは、意志によって身体を動かすという日常的な経験の 説明として受け入れにくい、という反論もある。)
  5. 経験批判論: 直接経験できる感覚要素のみが実在であり、 物心の区別は見解の相違に過ぎない。 (でも、これは、単に物心の区別を無視した 観念論に過ぎない、という反論もある。)
  6. 弁証法的唯物論: 物質を土台とした生命現象は新たな質的特性を持ち、 従って物理現象に還元できない。 同様に、生命現象を土台とした心理・意識現象も新たな質的特性を持ち、 従って生命現象に還元できない。
出典:岩波哲学小辞典(岩波書店) ISBN4-00-080031-0 抜粋編集:m.hijk
¶ アリストテレスは、「霊魂」は 「身体」という質料(素材)によって構造化された形相(特徴)だ と位置づけたが、弁証法的唯物論はその考え方に近い。 一方、「情報世界」は「物理世界」という質料によって 新たに組み立てられた形相であり、「物理世界」には還元できない、 独自の地位を持つ並行世界である。 その上で、「有意味世界=自覚する世界」においては、 その「有意味な世界」という形相に対して、 「情報世界」と「物理世界」を対等・並行な質料に位置づけ、 その相互依存関係として世界を説明すべきである。 これは、上記の全ての議論を止揚しきった論理であり、 心身問題を完全に克服し得る思考のフレームワークの一つである。

著者紹介

M.Hijk[マーシャル・ハイジケータ](1968〜2977)
東京生まれ。中学生の頃からコンピューターゲームの作成に傾倒。 その結果、プログラム、作曲、イラストレーション、シナリオ作成 など複数のジャンルの創作に興味を示す。
23歳で電機メーカーに就職。 28歳あたりから企業の歯車としての生き方に窮屈を感じ、 自己の表現の場を探すようになる。
旅先の京都「哲学の道」で最終解脱を果たし、 「無限乱雑空間」の理念をほぼ完成。 30歳には、相対情動力学の定式化である「統計哲学」を 打ち立て、インターネットを通じた啓蒙活動に注力する。
この後、統計哲学ゲーム理論に脳科学を持ち込み、具体的な 計算による行動規範の作成方式を発表、しかし宗教弾圧に合う。
このため、退社後、完成途中だった「集団意志による量子状態操作理論」 を急いで自費出版し、地球を逃れて亜光速で周辺銀河を放浪。
絶対時間で約1,000年経過後(主観時間で約10年後)に地球に戻り、 幸福維持装置を中心にした最終文明を目の当たりにする。 国際機関である「文明退化推進庁」に就職、10歳年下の女性と結婚。 本人時間で55歳の時に国連総統に就任、「人類原始化350年プログラム」 を発動する。
離婚後、プログラム終了時点までの期限でコールドスリープに入るが、 蘇生失敗で生涯の幕を閉じる。

◆マイ・リマークス
Last update 2007.5.19
  1. とは、 自己と認識できる範囲を 拡大したいと願う感情である。
  2. とは、 今現在、人類が知覚できて説明出来ない事象の総称である。 従って、人間の不完全性のメタファである。
  3. 人間には、人間しかない。
  4. 人間とは、結局のところ、丁度一回分の人生の時間をかけて、 自分の人生を“理解”しようとする生命体である。
  5. 人は皆、例外なく望まずして生まれ、その意味が分からずに死ぬ。
  6. 世界の最小構成単位はクォークではなく自循である。
    自循の無い世界は存在を勝ち得ない。
  7. は宗教であり、盲信に安堵する過程である。
    公理とは、盲信の科学的な言い換えである。
    人間にとっての「真理」とは、 自分が一生騙され遂(おお)せる「腑に落ちる説明」である。
  8. 私は、ただ、「世界を明晰に知ることはできない」ということを、
    明晰に知りたかっただけなのです。
  9. 手段を選ぶよりも目的を選ぶ方が格段に難しい。 人間は究極的には全く無目的な存在だから。

◆より良い人生へのヒント
Last update 2005.9.25
  1. いかなる困難も、いずれ必ず解決する。
    あらゆる現象は、いずれ必ず終わる。
  2. 生命は、しばしば生き残るための意外な方法を探し出す。
    あなたも。あなたの敵も。
  3. “今”を肯定し、本当は気付いている問題を先送りし続ける性癖が
    積もり積もって取り返しの付かない失敗を育てる。
  4. 明日できることなら今日できる。
    先送りで“今”を薄めるような生き方は、一度きりの人生を薄めることになる。
  5. 男性と女性の意見が鋭く対立したら、
    女性の直観の方を信じた方が大筋を誤らない。
  6. 厳しく欠点や間違いを指摘されると、人格攻撃をされたと履き違え易い。
    一呼吸おいて、有難い貴重なアドバイスを頂いたと思い、感謝した方が良い。
  7. 褒められた時、「いえ、そんなことありません」と謙遜するより、
    「ありがとうございます!」と言った方が、あなたも相手も気持ちが良い。
  8. 仕事も恋愛も生き抜くための戦いである。
    傷つくことを恐れて、本質には迫れない。
毎朝、起きる直前に15秒、これをゆっくり口に出して 
言うだけで、魂をピカピカにリフォームできます。 

  「今日という日に感謝します。」 
  「私は幸運に恵まれています。」 
  「みんな、本当にありがとう。」 
  「さぁ、昨日の自分を越えよう。」 

心の中で思うだけではダメで、実際に声に出して 
言うことが大事です。一週間続けるとオーラが 
変わります。一年続けると、成功が転がり込みます。 

■未整理
2010-5-30 (日)
無限乱雑空間の中で無数に繰り返されるビッグバンとインフレーションは、 生命と知性を生み出すための一種の試行錯誤であるのかも知れない。 知性とは非常に大雑把に捉えると「自分とは何か」という問いを発することができる性質であり、 知性は、自分を育んだ舞台としての物理宇宙を科学的に徹底的に調べると同時に、 思考の舞台である情報世界における観想的生活の成り立ちも哲学的に検討しているであろう。 そして、極まった科学は、宇宙の背景にある無限乱雑空間への道を切り開き、 精神は、その物理宇宙を『卒業』するかもしれない。
先ず、地球の衛星軌道上に太陽光発電のスーパーコンピューターをズラッと並べて、 人類の歴史と文化と意識の全てを符号化して送り込み、ライブラリ化する。 次いで、真空の内側の余剰次元(カラビ=ヤウ空間)に向けて 自己増殖型のコンピューティング・ウィルスを打ち込み、 無限の演算能力のある計算基盤を確立する。 そして、衛星軌道上の全てのライブラリを、ワームホールを通してこの計算基盤に送り込み、 人類の全ては、自らが作った無限計算基盤上で永遠の命を得て、 純粋な自己実現を目指す観想的生活を手にすることが出来るのである。 これが『卒業』のイメージである。
あらゆる物理宇宙は、無限乱雑空間の上に浮かぶ小島であって、 それぞれの宇宙から見ると真空の内側に見える余剰次元を通して 繋がっているかも知れない。(海を通して島が繋がっているように。) 物理的制約を卒業して、無限乱雑空間上に独自の計算ネットワークを構築し、 純粋な思念体、情報処理パッケージとして、善なること、快なることを 自己実現し続ける存在は、既に無数にあるかもしれない。 それらは、ある確率で出会い、プロトコルを理解し合ってインタフェースを確立し、 お互いが溜め込んだ情報を開示し合って、 情報空間連合をより豊かにしていくのかも知れない。
そのような広大な情報空間においても、核となるのは知性体であり、 つまり「自分とは何か」という問いを発する情報処理単位であろう。 あらゆる宇宙で発生した、あらゆる知性体に共通するものは、 「自」という現象であり、すなわち自己無矛盾性、自己参照性に基づく時空認識であろう。 おそらく、集合論を基礎とする“数学”と、 「自己を拡大したいと願う感情」としての“愛”が、 必要最低限の相互理解の基盤となるだろう。
私が生きている間に人類が『卒業』できるとは思えないが、 「宇宙が終われば全てが終わり」と考えて刹那的に人生を生きるよりも、 遠い子孫が『卒業』し、善なること、快なることを自己実現し続けるならば、 たとえ僅かでも、そこに私の魂は反映されていることになるから、 その永遠に向けて、自分の魂を磨こうという気分にもなってくる。 それどころか、私の思念は無限乱雑空間上に散逸しつつも、 何らかのコンピューティングデバイスで既に回収されており、 この物理宇宙での私の肉体の死を契機に、情報空間上で再覚醒される運命なのかも知れない。 これは正に、様々な宗教に共通してイメージされている死後の世界、 つまり天国に他ならない。
おそらくこれは、輪廻とか永劫回帰もすっぽり含むような、巨大な概念だ。 巨大な情報空間連合では、物理宇宙の常識は当てはまらない。 いかに情報空間が広くとも、「自」という北極星は、ただ一つである。 そこでは、パウリの排他律に基礎を置く肉体が原理的に不要である以上、 複数の意識は相互に混じり合い、望めば融合・離脱も可能であろう。 だから、基本的には、そこには巨大な一個の意識があるだけ、 と考えることも出来る。 ………してみると、そもそも、私達の個々の意識というものも、 不完全で矮小で曖昧で、しかも、今のところ、この物理宇宙の法則と、 この人間という肉体の檻に閉じ込められているとはいえ、 既にこの巨大な一個の意識と北極星を共にしつつある、とも言えるだろう。 仏教で言うところの、全ての心の最奥にあるという「真我」とは、 このようなものではないだろうか。
2010-3-26 (金)
私が「哲学する理由」は、この“私”という感覚が、 死によって、未来永劫、失われてしまう、という、 この不条理な宇宙と世界に対する違和感の解決、その一点に尽きる。 さまざまな経験と老いが、この違和感を削り取り、 死を「自然なもの」にしてしまうのだが、 そうなると、私が「哲学する理由」も、どんどん揮発していってしまう。
2010-1-21 (木)
「自循論」は、大きく2つの観点から掘り下げられてきた。 一つ目は、「自分が自分であるという、この不思議な感覚」の解明。 これは、入出力の無い(睡眠状態に相当する)脳内定常波が 自のクオリアを形成する、という方向性で一応の解決を見た。 二つ目は、「森羅万象を貫く究極の原理」の探求。 これは、物理法則が生み出した生命と知性が、その物理法則を再発見する、 という自己完結的な自己循環そのものとして見出された。
ところで、この両者は、「自循論」の中で、どういう関係にあるのだろうか。 相互には関係のない二つの理論なのだろうか。 実はそうではない。宇宙と自我が時空という形式を(たまたま)共有する時、 意味のある宇宙(自覚する宇宙)になる、という考え方を基に、 両者は「実は同じこと」と言いたいのである。 そうしないと、自循論は一つの理論として完成できない。
安定した自意識は、先ず意識と同時発生的に内的な原時空を形成し、 次いで、自らが身体性に包まれていることと、 周囲に他者と環境があることに気付き、その更に外側に物理法則を再発見するであろう。 一方、安定した物理法則は、物理時空において、唯物論的・運命論的な確かさで、 生命の進化と知性の発生を説明できるであろう。 この両者がたまたま噛み合う時、すなわち、 どちらがより根源的であると言えないような自己循環性、自己完結性を持つ時、 初めて差異=意味=情報が発生するのである。
それでは、ミクロな意味での“自”意識と、マクロな世界構造の“自”己完結性を貫く “自”なる現象とは、一体何なのか。 そのギリギリまで贅肉を削ぎ落とした論理的な最抽象概念である“自”こそが、 自循論が定式化したい不変量なのである。 この定式化が完了すれば、私達は、 ありとあらゆる有意味な宇宙を予言できる。 この宇宙以外の、宇宙内に知性を宿す全ての宇宙のバリエーションを予言できるようになる。 そして、あなたの世界と私の世界の違いと共通性についても定式化できることになる。
自循論は、ホモサピエンスや地球や、この宇宙だけに興味があるのではない。 有り得る全ての宇宙に共通する性質に興味があるのだ。
2009-7-6 (月)
第一原理を神に求めないなら、 自分に求めるしか無いじゃないか。 無意味の領域から、自分で自分を持ち上げて、 有意味の領域に至らせる奇跡だけが、 誰からも否定されない、唯一の絶対原理じゃないか。 「自分が自分を」という構造が、「時間」なる現象を生む。 「差異」とか「意味」は、「時間」無しには生まれ得ない。 そんな当たり前の真実に背を向けてまで、 神を崇めて「知らないフリ」をしたいのか。 そうまでして、残酷な真実から目を背けたいのか。 この、一回限りの、完膚なきまでに徹底的に無目的で、 不条理で不合理な、人生という最高の価値から。
2008-7-8 (火)
「ヤチマはなんの曇りもない笑顔で、『望むことのなにがすばらしいかというと、 それがどんなものにもまったくなんの影響もおよぼさないことです。 さあ、スイッチを入れて』」(早川書房『ディアスポラ』グレッグ・イーガン、山岸 誠 訳 p.357)
― おそらく、夢とか希望は、人間の自意識が存在する目的そのものであり、 そして自意識同様、それ自体は存在でも力でもない。 しかし、夢や希望を内蔵し、イキイキと生きる人間が、 そうでない人と比べて一瞬一瞬の生き様がいかに違うかを観察する時、 そして、一ヶ月、一年と経つうちに、とんでもない差異に発展するのを確認する時、 人間は、物理法則の奴隷ではなく、夢や希望に導かれて行動しているのだと悟らざるを得ない。 リアルに思い描けた夢は、自分が勝手に諦めない限り、必ず実現する。 決定論は間違いだ。少なくとも現実的ではない。 物事の変化には、情報に導かれて捻じ曲げられるだけの余裕がある。 (これらの考え方は量子力学とも符合する。) イヤイヤながら目が覚めた朝には、夢を口に出して言おう。 それだけで、今日という一日は、素晴らしいものに一変するのである。
2008-6-29 (日)
人生論の究極絶対骨子:
  • [A面] 生命と文明の進化の最先端にある人間として、 歴史の全てを享受・活用し、自らの魂を楽しませ切る。
  • [B面] 自らが生きた証として、何らかの付加価値を 後の世に少しでも多く残せるよう、日々、努力する。
いかなる人生論であれ、その根底の構造として、 この両者が表裏一体に埋め込まれ、イキイキと循環していなければならない。 そのような背景を持たない人生論は、 おそらく誰かの自慢話か回顧録に過ぎない。
2008-6-15 (日)
自分という認識は情報的なものであり、 物理層とは独立した自由度を持っているのだが、 それと同時に自意識を一貫したものとして維持するのに必要な 物理層の法則の一貫性を超えては自由を発揮することはできない。 もし、私が大金を虚空から偽造したり、 高層ビルを瞬時に木っ端微塵にするような自由を 物理層に行使できるとしたら、 物理層の安定性とは所詮その程度のものである以上、 自己認識の安定性も担保されないことになる。 逆に言えば、たかだか137億年程度続いたこの宇宙の 物理法則の安定性と、その一方で許容され得る脆弱性の範囲で、 私達の認識は安定しているし自由でも有り得る。 おそらく、最も完成された知性とは、 物理法則の脆弱性を、自らの自由として完璧に利用し切れる存在であろう。 言わば、物理的自由と情報的自由を、完全に調整できる能力を持ったものであろう。 それと比べれば、まだ私達は、ともすれば自分が物理法則の奴隷ではないかと 戦々恐々としているレベルであり、 この宇宙で可能な自由の、ほんの一部を行使しているに過ぎないと言える。
2008-6-6 (金)
量子力学とか宇宙論とか人間原理を語る前に、 ちょっと立ち止まって当たり前のことを考えてみないか。 あらゆるものの「大きさ」を決める基準が、自分の身体であることを。 あらゆるものの「変化」を決める基準が、自分の時間認識であることを。 「自」を第一原理に据えない限り、 目の前にあるものが何故そこにあるが如くの大きさで在るのかすら 説明することはできない。 プランク定数も、意識という現象を発生させるまでの物理および情報の階層の必要性から 逆算的に説明されるべきものなのだ。
2008-5-27 (火)
宇宙のうち私達が知っている「いわゆる物質」は5%に過ぎず、 銀河の回転速度などから推定されるダークマターが23%、 空間の加速膨張から推定されるダークエネルギーが72%ある、と言われる。 しかし、このように私たちの知覚から間接的に推定される存在が 現在のところ95%だからといって、もうこれ以外に無いとは限らない。 宇宙開闢からの137億年の間に、私たちに 直接的にせよ間接的にせよ知覚されるような現象を たった一回しか起こしていないような、物質との相互作用が 極めて小さい素粒子があったって良い。 そして、勿論、宇宙の終焉まで、一度も知的生命の知覚に 間接的にすら引っ掛からない素粒子が無数にあっても一向に構わない。 この宇宙には、現在私たちが知らないものが95%ある、と言うよりも、 私たちは、この宇宙について、ほぼ100%、何も知らないのである。
だからこそ、「観測するもの(意識の群れ)と観測されるもの(宇宙)は 実質的に釣り合っている」という考え方は、 “意味”や“存在”を確保する上で 第一原理に据えられねばならないのである。 そうしなければ、私たちが知っていることは、結局のところ0%だ、 としか言えなくなってしまうのである。
2008-5-17 (土)
私という意識(自我)は、境界を持っていて、他人と共有不可能な 独立した一種の情報世界である。 しかし、私にとっては虚像に過ぎない、永遠に理解不可能な 他人の自我(他我)が一つも無ければ、 たった一個の自我を維持していくことができない。
私達の住むこの宇宙は、境界を持っていて、別の宇宙とは コミュニケーション不可能な一種の情報世界である。 しかし、この宇宙にとっては虚像に過ぎない、永遠に観測できない 別の宇宙(マルチバース宇宙群)が一つも無ければ、 たった一個の宇宙では意味を為せない。
意味論的存在の本質は、ビッシリと寄り添うように支えあう 泡(バブル)のようなものだ。 お互いに混じることが不可能でも、 お互いが支えあわねば存在できない。 個々の泡は自己完結的であり、極めて強固な自律世界を為すが、 その自律性は自己完結的であるが故に、脆い。 「自己を継続させる」という時間方向への安定性を生み出すために、 自己の周囲に自己と同種の虚像が取り巻いている、 という空間方向の足場固めが必要なのだ。
このことを「虚像泡原理 (きょぞうあわ―)imaginary bubble principle」 と命名しておく。
2008-5-11 (日)
人はどうしても「宇宙の外側」とか「素粒子の内側」とか 「宇宙が誕生する前」とか「宇宙が死んだ後」のことを 知りたがるものである。 これは、究極的には「私が認識できる時空の範囲外が どうなっているかを認識したい」と言っていることになる。 全知全能にならない限り、この問いには最終的な回答は得られない。 そして、全知全能になるということは、「宇宙」という ある範囲を指し示す概念それ自体の意味が消失するということでもある。 勿論、今よりも宇宙の起源に関する知識は深まるだろうし、 宇宙の大きさに関する考え方も書き換わるかも知れない。 しかし、どこまで行っても、 中心にあるのは「私達人類の、意識の群れ」であり、 それ以上でもそれ以下でもない。 私達自身が規定している範囲よりも外側のことを 私達が知りたいと思うことは、静的には一種の矛盾である。 しかし、知りたいと思い続けることは、 意識なる現象、もしくは「愛」の、本質的な性質でもある。
2008-4-22 (火)
私達の脳の作動が徹頭徹尾、物理法則に従っており、 私達の動作は全て決定論で“説明”されてしまうとしても、 それはそれで全く構わない。 「自」という抽象概念を包含する意味ネットワーク空間、 すなわち「情報」は、空中に浮かぶ鉄球の如く、 それ自身で存在を勝ち得てしまっているのだ。 全く異なる物理基盤の上にも、同じ情報空間は構築可能である。 だからこそ、決定論が正しくても、 私達は自己完結的に自由意志を持つし、 自分自身の行動に、道徳的責任を持つ必要もある。
2008-4-13 (日)
この宇宙が 私たちの記憶などと共に三分前に突然作られたとか、 これまで連綿と続いてきたこの宇宙が あと三分後に突如崩壊してしまうとか、 そういう非連続的なことを私たちは無根拠に否定するが、 何を担保にそんな勝手な思い込みをしているかというと、 この宇宙をも認識している『自分が自分である』という主体が、 『いま』を挟み込む、ある程度以上長さの「持続」が無ければ 存在できないほど高級または複雑な性質のものである と理解しているからだ。 そうであるにも関わらず、自意識と独立に 「純粋な科学」や「絶対的な物理法則」が 成立し得ると思っている人は、 必然的に、この『自分が自分である』という感覚を、 どうでもいいもの、錯覚、無くても差し支えないもの、 と考えるしか無くなる。 それは、「意味」と「自由」と「道徳」と「責任」と「意志」を 全て同時に手放してしまう、ということであるのに。
もっと単純に言うと、 「“観測する”もの」が誰もいないのに、 「“観測される”もの」だけが存在する、という 明々白々な矛盾を受け入れたら、 どんな無茶な理論を構築しても 原理的に許容されることになってしまう、ということなのだ。 唯物論や決定論に与し、自由意志を否定する思想家、哲学者は、 いきなりこの初歩の初歩で、 一人残らず大間違いを犯しているのだ。
2008-3-24 (月)
『ここのところ冷え込んだからね。来週あたり少し暖かくなれば、 桜も一気に春が来たと思って咲き始めるだろうよ。』 …このように、私達は様々な反応に「意識」を重ねてみてしまう。 実際、桜には「桜なりの意識」があってもおかしくない。 それは、私達にとっては、ゆっくり過ぎて、あまりに散漫なので、 理解できないだけなのかもしれない。 人間は、脳という複雑なインフラストラクチャの上で 膨大なフィードバックを含む情報処理が可能であるため、 かなり純粋・明瞭に「自分」に対して「意識がある」と重ねみることができる。 結局、「意識の純度」は、 外界に関する情報処理率の低下、と定量化して良さそうだ。 そろそろ、単位「セルフ」の定義を固めたい。
1セルフとは、外界との情報のやり取りの無い、純粋な自己認識の状態を指す。
指導原理:『生命は0セルフから発生し、1セルフの方向に進化する。』
人間は、視覚ひとつとっても入力情報の大半を捨てて、 脳内でイメージを再構築していることや、 入出力に直接関係しない内部層の神経回路が 全体の99.99%を占めていることを考えると、 1セルフにかなり近い存在であり、 だから唯識論、唯我論、観念論のような哲学に行き着きやすいのだろう。 ちなみに、外界との情報のやり取り無く、 延々と正確な円周率を何百億桁と計算しているコンピュータは、 膨大な情報処理を行っているが、「自己」についての計算をしているわけではないので 0セルフである。 物理現象は全て何らかの計算であって、 この宇宙を閉じた巨大コンピュータであると考えると、 その計算は全て宇宙自身のために行われているのであり、 もしかすると宇宙全体は1セルフを持っていると言えるのかも知れない。
バラモン教 における「梵我一如」の根源的概念も、このあたりにあるのではないか。
2008-3-22 (土)
なぜ、世界は一つに繋がっているのだろうか? 実数定義におけるデデキント切断や位相(収束、閉集合、近傍)を見ても、 何かが滑らかに連続に繋がっている、ということは自明では無い。 逆に言えば、連続に繋がっているものから個々のものを 識別できるということも、自明では無い。 素粒子の間に力が働くということに対する 「ある素粒子の間を、別の媒介素粒子が キャッチボールされることで、 その二つの素粒子には力が働いたことになる」 という説明も、分かるような気もするが、しかしながら 「ボールを受け取る瞬間」「ボールを投げる瞬間」に 何が起きているのか、という問いには 答えられていないように思われる。 相対性理論以降、世界は一つの時空連続体と捉えられているが、 時空は何を以って「繋がっている」と言えるのだろうか。 結局のところ、数学・物理学・形而上学を貫く 「繋がっている」ということの本質は、 何なのであろうか。
2008-1-5 (土)
物理世界は、主観と独立な普遍的・客観的世界として 絶対的な地位を占めている、という考え方が支配的だった時代もあった。 一方、フッサールは、晩年の著書『デカルト的省察』で、 「客観」の再定義を検討している。 すなわち、根源的現象としての純粋意識が先ずあって、 その上に相互主観性(間主観性)を置き、 そこから自我と他我を含む万人が共有可能な客観世界が構築される、 という順番で「客観」を捉えている。 そして確かに、物理学は、ニュートン力学から相対性理論、量子力学に至るまで、 徹頭徹尾、人間が直接的または間接的に知覚してきたものを基礎に始まり、 歴史を通して検証され、一歩ずつ組み上げられてきたものであるし、 これからもそうであろう。 根本的に、主観を排除した物理学というのは有り得ないし、 誰もそれを望んでいないし、そもそも人間が人間である限り 『主観と独立した客観的存在』に辿り着くことなど原理的に永久に有り得ない。
現代においても「物理世界は、主観と独立で絶対的な普遍的・客観的世界である」 という信念を持っている人は少なくない。 それはおそらく20世紀という輝かしい 科学万能時代の印象が強いという理由以上に、 今現在においても情報世界の研究が遅れていることが大きな原因であろう。 だから、少なからぬ人が、意識とか主観とか自我と聞いただけで、 何だか宗教的なもの、オカルト的なもの、 生活の役に立たない小難しい哲学的なもの、厳密な学問研究に値しないもの、 という印象を抱いてしまうのだ。
21世紀には、これまで以上に精神性、優れたコンセプト、芸術性、人間性が 重要になってくる。物理世界と情報世界を一貫した価値観で捉える方法論が ますます必要とされてくるだろう。
2007-12-5 (水)
私にとっての私は絶対に理解し尽くせない。 縄跳びを両手に持って、紐を足で踏みつけた時、 腕力だけでは自分自身を持ち上げられないように。 この不可能性を理論的に完璧に理解できたら、 私は毎日を驚きと感動に翻弄されながら幸せに過せると思う。
2007-8-28 (火)
「自循論とは何か」と問われると、 これはこれで壮大な体系なので簡潔に回答するのは難しいのだが、 「なんでアンタは自循論なんか考えているんだ」 と問われたら、比較的端的に回答することが可能だ。 すなわち、 『なぜ、自分は、折角生まれて、 この“自分が自分であるという感じ”を唯一無二の 大切なものだと思っているのに、 この自分はいずれ必ず絶対に死んで 消え去ってしまうのだろうか』 という、絶対的で不気味な不条理に、 少しでも明瞭な理由を与えたかったからである。 そして、この問いには、何兆年かかろうが 明確な回答を与えることは出来ない、という単純な真理を、 言語(またはモデル)によって 明晰に示すことが自循論の使命になっている。
今や私は、私と同じ不条理感を抱く人は、 必ず自循論に辿り着くと考えている。 そして、自循論を理解しようとしない人が、 この人生の完璧な不条理性や、 どうしても拭い去れない不気味さに対して、 死ぬまで気付かないフリをしきれると思っている その「鈍感さ」が、不思議でならないのである。 なんでこんな重大事に、 昨日も今日も明日も、無関心でいられるのだろうか。
2006-06-02 (金)
開闢から1秒の一兆分の一より短い時間内に宇宙は壊れきって、 その150億年もの惰性の果てに今があり、そしていずれ全ては消え去る。 数字の精度はさておき、まぁ、大体、意味世界なんてものは こんな風に偶然始まって崩れきって消えるものだし、 《私達》は、その中の不完全な一瞬のキラメキに過ぎない。 私達が、私達自身が有限の存在であることを否定するほどの 無意味愛好者で無い限り、 私達が持つ“有限の理力”という懐中電灯が 無限乱雑空間に浮かび上がらせる(=見る)有限な意味世界というのは、 私達の身の丈に応じて時間的に始まりがあって終わりがあり、空間的に有限で、 自己を参照しつつ変化するものでしか有り得ない。 このように、この世の成り立ちに関する究極の理論は どう考えても質的には自循論で言い尽くされており、 あとは、現実性を最も良く記述するための 量的なパラメータ調整が残っているだけなのだ。 論理物理学や純粋数学の超大天才でも、日常以外に興味の無い人も、 考え尽くせば必ず辿りつく、このシンプルで強力な概念に、 『自循』以外の名前を誰も着けなかったことは不思議としか言いようが無い。 しかし、全く同じスーパークラスを過去に見つけたという人を確認できない限り、 私は私なりに「これが究極の意味世界の説明である」と言い続けなければならない。 「私が気付いてしまった最初の人だ」と勘違いしている人は誰でも、 きっと同じことをすると思う。
2006-08-19 (土)
「移動や変化」は自然な出来事で、 「生成や消滅」は特別なことのように思える。 しかし、そんなことはない。 「変化や移動」の結果、“何か”が我々の意識に入ったり出たりすることを 「生成や消滅」と呼ぶのである。両者に本質的な差は無い。 真っ暗闇の深夜に街灯で一角だけが照らされている時、 ある人が単に歩いているだけであるにも関わらず、 突然照らされて見えるようになった時に私達はそれを「出現」と感じ、 再び暗い領域に移動した時に「消失」と感じる。 生命が 生まれて死ぬことも、 素粒子 が対生成・対消滅することも、 全ては私達が勝手に設置した街灯(生命性とか物理的観測装置など)による 意識境界を入ったり出たりする“何か”の移動や変化に対して、 勝手なレッテルを貼っただけである。 街灯を勝手に設置しているのは他ならぬ我々自身だ。 何が生まれたように見えようが、何が失われたように見えようが、 他の誰も、それに対して理由とか意味とか原因とか対処法を定義してくれはしない。 自分で自分を見つめる作業がどんなにツラくて果てしなく思えたとしても、 どこまで自己を深めたり広げたりすれば“全て”になるのか想像すら出来なくても、 自分に出来ることの全ては自分を見つめることだけなのである。
………つまり、答えは常に「ここ」にあったのだ。
2006-08-28 (月)
何故、生命は発生して繁栄したのかと問うのでなく、 たまたま発生して繁栄したものが生命なのだと説明するのが正しい。 何故、宇宙は発生して膨張しているのかと問うのでなく、 発生して膨張しているものが宇宙なのだと説明するのが正しい。 何故、人は愚かで目的もなく生きようともがくのかと問うのでなく、 愚かで目的もなく生きようともがくのが人だと説明するのが正しい。 何故、自分は意図せず生まれ、抗っても死ぬのかと問うのでなく、 意図せず生まれ抗って死ぬのが自分だと説明するのが正しい。 ………まぁ、「正しい説明」などというものに、 大した価値など無いのであるが。
2007-3-1 (木)
Garbage in, garbage out.
どんな高価なシステムであっても、ゴミを突っ込んだら ゴミしか出てこない。
Easy come, easy go.
簡単に手に入れたものは、簡単に失われる。悪銭身につかず。
何故か?それは、究極的にはこの意味世界全体がゼロサムゲームだからだ。 幸せになりたかったら、直接的か間接的かは別にして、 誰かを不幸にしなければならない。 勉強するとか出世するとか努力するとか研鑽するとかいったことは、 全て間接的に他人を蹴落とす行動である。 もっと端的に言うと、幸福になるということは、 誰かを不幸にするということである。 Win−Winの関係を築くということは、 その関係の外の領域に、強烈なLoseを間接的に強いるということである。
2006-08-22 (火)
何か苦境に立った時に、自分の外側にある要素を取捨選択したり、 自分の外側の何かを自分から切り離して問題を簡単にしようとするのが 一般的対処策。 一方、苦境の原因が自分の外側にあるのでなく、 全ての原因が自分の内側にあるのだと悟れるまで、 外側のことを知ろうと努力し、自己と見做せる範囲を広げ、 その上で深く納得できる方針を 自分の意志で採択するのが自循論的な対応策。 自循論を採択しない経営者を持つ会社は、 とてもじゃないけど企業の社会的責任など果たせません。 でも、一般的な経営者は絶対に自循論などという 家内制手工業哲学を知らないので、 踏み絵となる言葉は、次のようにした方がいい。 『あなたは人を愛していますか?』 ソツなく「もちろんですよ。」と言える経営者は 肩に力が入っていない真っ直ぐな感性を持っているので、 お近づきになって、色々とご薫陶を賜ると良いと思います。 照れたり怒ったり不思議な顔をする経営者であれば、 あと5年は顔を合わせる必要はありません。