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何か漠然とした不安。知りたいという欲求。
誰に聞いても分からない。厳密で無くてもいい。 雰囲気だけでも、自分の「心」で、実感として理解したい。
『人って何なの?』 『どうしてオレは苦しんでまで生きねばならないのか?』 『私は誰“のために”存在しているの?』 『自分は誰“とともに”存在しているの?』 『何故みんな死ぬために生まれてきたのか?』 『明日地球が滅亡するなら今日は何をするのが正解なのか』 『あの人に冷たくされたくらいで、どうしてこんなに苦しいの』 『今自分が感じている全てが幻想と錯覚では無いと、どうして誰も証明してくれないんだ』 『何故全てが理解可能でないのか』 『記憶って何』 『予感って何』 『今って何』………
苦しみあえいだ時、ただがむしゃらに考えるのもいい。 しかし、「答え」は無くとも「考え方」を知っておくのもいい。
ここには、考え方だけがある。
………結局、この結論に、何度でも立ち返るための彷徨、
それが私の哲学そのものなのかもしれない。
■自循論のアーキテクチャ

この世界は、
無限乱雑空間に
意識の群れが
光を照らすことで浮かび上がる有限の虚像であり、
しかも意識自身がその虚像としての物質世界によって成立している、
という同時発生的で自己完結的な自己循環構造を持っている。
一旦その自己循環が成立してしまうと、
時間という
一方向性を持つ仕掛けも走り出してしまう。
要するに、世界の成り立ちとは、
無限乱雑空間上に現出した自己完結的な自己循環構造
すなわち自循である。
無限乱雑空間に対して、
気まぐれに何か適当な視点を導入するという行為、
それ自体は無数に行われて良く、
その結果として選択された世界は、勝手に幾らでも存在していて良い。
これを
視点の無償性と言う。
このようにして選択された世界は、
無数に存在する無限乱雑空間上の無数のサンプルに過ぎないが、
その一つに『着目』すると、
そこは選択された視点の有限性に対応した、
有限で有意味な、唯一無二の《世界》になっている。
有意味性や存在は、必ずこのように、無限から何かを選択して制限を加え、
有限性を確保することで発生する、という不可避的な帰結を
有限原理と言う。
ところで、無限乱雑空間上に無数に存在する世界のうち、
今、ここにある世界に『着目』しているのは誰だろうか。
無限乱雑空間の全てを統べる神なのだろうか。
そんなことはない。
この世界に『着目』しているのは、この世界の住人である
私達、人間だけである。
無数にある世界のうち、それが存在と意味を持ち得るのは、
内部に世界自身を自覚する知的生命を
収容する時のみである。
包含関係から、世界を自覚する生命は、
世界内部にいる自分自身をも自覚せざるを得ない運命にあるが、
自分が自分を見る本質的な盲点のために知性は完全な自己理解が不可能であり、
生きるためには盲信に安堵するしか無い。
これが知の宗教性であり、
どこまでも掘り進もうとしたら、
最終的には全ての始まりにして究極の構造である
約束された地、「自循」に辿り着くことになる。
■「自」のアーキテクチャ
誰でも当たり前に感じてる、この「自」という感覚も、
その内部を調べてみると、意外と複雑な構造をしていることが分かる。
然しながら、自我から見た他我の存在によってのみ、
客観性なり「確からしい過去」なりが統計学的に形成し得るのであり、
計画性や未来という概念も、他我への信頼が無ければ成立しない。
余談だが、この世界に自分だけがポツンと存在するような場合、
客観性も過去も未来も線形時間も言語も文化も生じることは無い。
■ 物理世界と情報世界
■物理世界と情報世界の共進化
物理世界と情報世界の相互依存関係は、身体(生命性)をカナメとして進化してきた。
デカルトは「我思う、故に我あり」と言って自己を唯一絶対視する。
現象学的エポケーでは自己意識以外の客観を一旦全て脇に置く。
このように拠り所とされる「自己」も、突然完璧な形で出来上がったわけではない。
それどころか、人類の「自己」が至上のものとは限らないし、
それはアルコールや薬物で易々と変性し、睡眠や死によって簡単に失われる。
実際のところ、「自」を核とする「精神(情報世界)」というものは、
脳と一緒に徐々に進化してきたものである。
原初、神経系は、外界に対して機械的な反応しかしなかったが、
情報世界の内部に「自」という核を形成し、維持できるほどに高度になると、
能動性、脳内シミュレーション、計画性などの能力を得て、
大いに生存競争に有利になった。
「自」を確かな足がかりとして持つ情報世界は、同じ「自」という核を持つ
知的存在間で、原型時空・原型論理を共有し、抽象的な記号一般の交換が可能となり、
従って言語コミュニケーションが可能となる。
これを物理世界の中に客観的記録として蓄えることにより、
高度な学問、文化・芸術を外部記憶として世代や地域を越えて保持・共有できるようになった。
この膨大な外部記憶(記録)を操れるものが生き残るという、
新たな淘汰圧が脳に働き、高度化した脳は、より鮮明な情報世界を保持する。
そのことで、新たな意味の体系と情報価値が量産され、
外部記憶に蓄えられる。
この新たな進化ゲームに適合できない遺伝子は、
高度な社会システムから脱落していく。
おそらく、人類の「記録-脳-精神」は、今後も、
相互淘汰・相互進化によって、際限なく高度化していくだろう。
■「自」と「時間」
「自」という概念と、「時間」という概念は、
その成立過程を詳細に調べると、
殆ど同時発生的であることが分かる。
■「自」と「記憶」
「自」は、脳内における「記憶」機能の発達に伴い
積み上げられてきた。
いわば、抽象化の最終段階にある概念である。
可塑性を持つ神経回路の能力による。
■「世界」のアーキテクチャ
生命と意識を内包する「自覚する世界」だけが有意味である。
「自覚する世界」は、物理世界と情報世界が意識によって
結び合わされている構造をしている。
また、過去や未来は意識によって創られたモデルの一部であり、
それを超えるものではない。
ここで言う物理世界とは、直接測定可能なものの全てであり、
情報世界とは、直接測定不可能なものの全てである。
時間と空間は、
有意味性を扱う意識が持っている量子化された有限の概念であり、
「自覚する世界」の範囲を形作っている。
つまり、「自覚する世界」は、量子化され、有限である。
時間は変化を、空間は同一性を提供する。
同一性と変化は相矛盾するが、意識によって統一されている。
■「自分」の定義
Last update 2007.12.21
¶ 無限乱雑空間上には、無数に世界が存在していて構わないが、
そのうち「認識するもの」を内包している世界だけが有意味である。
世界を「認識するもの」は、認識対象に「自分自身」も必然的に含んでしまうが、
この特異点の矛盾性は、時間の最先端に位置する「認識する側の自分」と、
その一瞬前に位置する「認識される側の自分」という
時間構造を導入することで、初めて解消される。
「認識するもの」としての、常に時間の最先端に位置する最も純粋な「自分」は、
それ自体、常に無色透明・無意味・内容空疎な、情報の一方的な受け手である。
世界から意味を与えられ、生命として、人間としての色を持った「自分」は、
様々な能動性を持って行動しているように見えるが、
その最奥には、それらを一方的に観察するだけの「自分」がいて、
それは「時間」という仕掛け、もしくはこの世界の根本的な有意味性と
等質等価である。
この最も純粋な「自分」は、あらゆる生物や非生物の背後にあって、
いかなる属性も持たない概念であり、
従って、個々に区別できない以上、生命や物体に散らばっているというよりは、
唯一無二のものを皆が共有している、というべきである。
¶ 自分がこうして存在してしまっているという感覚には、
いかなる意味でも根拠や説明を与えることは不可能で、
だから時々私達には、自分が自分であるというこの感覚が、
たまらなく不可解で不気味で、軽薄でグロテスクなものに感じられる。
どうして人は、「理由もなく存在するもの」を許せないのだろう。
なぜ人は、神を発明してしまうのだろう。
………なぜなら、人々は、残酷なまでに、
「自分」というものが、理由もなく存在してしまっていることを、
実は十分に自覚しているから。
一つ一つ皮を剥いでいくと、
自分には中身など無いことを識っているから。
詰まるところ、自分とは、自分が捏造した情報なのだ。
■ 心身問題
Last update 2007.12.22
出典:岩波哲学小辞典(岩波書店) ISBN4-00-080031-0
抜粋編集:m.hijk
¶ アリストテレスは、「霊魂」は
「身体」という質料(素材)によって構造化された形相(特徴)だ
と位置づけたが、弁証法的唯物論はその考え方に近い。
一方、「情報世界」は「物理世界」という質料によって
新たに組み立てられた形相であり、「物理世界」には還元できない、
独自の地位を持つ並行世界である。
その上で、「有意味世界=自覚する世界」においては、
その「有意味な世界」という形相に対して、
「情報世界」と「物理世界」を対等・並行な質料に位置づけ、
その相互依存関係として世界を説明すべきである。
これは、上記の全ての議論を止揚しきった論理であり、
心身問題を完全に克服し得る思考のフレームワークの一つである。
著者紹介
M.Hijk[マーシャル・ハイジケータ](1968〜2977)
東京生まれ。中学生の頃からコンピューターゲームの作成に傾倒。
その結果、プログラム、作曲、イラストレーション、シナリオ作成
など複数のジャンルの創作に興味を示す。
23歳で電機メーカーに就職。
28歳あたりから企業の歯車としての生き方に窮屈を感じ、
自己の表現の場を探すようになる。
旅先の京都「哲学の道」で最終解脱を果たし、
「無限乱雑空間」の理念をほぼ完成。
30歳には、相対情動力学の定式化である「統計哲学」を
打ち立て、インターネットを通じた啓蒙活動に注力する。
この後、統計哲学ゲーム理論に脳科学を持ち込み、具体的な
計算による行動規範の作成方式を発表、しかし宗教弾圧に合う。
このため、退社後、完成途中だった「集団意志による量子状態操作理論」
を急いで自費出版し、地球を逃れて亜光速で周辺銀河を放浪。
絶対時間で約1,000年経過後(主観時間で約10年後)に地球に戻り、
幸福維持装置を中心にした最終文明を目の当たりにする。
国際機関である「文明退化推進庁」に就職、10歳年下の女性と結婚。
本人時間で55歳の時に国連総統に就任、「人類原始化350年プログラム」
を発動する。
離婚後、プログラム終了時点までの期限でコールドスリープに入るが、
蘇生失敗で生涯の幕を閉じる。
◆マイ・リマークス
Last update 2007.5.19
自循の無い世界は存在を勝ち得ない。
公理とは、盲信の科学的な言い換えである。
人間にとっての「真理」とは、
自分が一生騙され遂(おお)せる「腑に落ちる説明」である。
明晰に知りたかっただけなのです。
◆より良い人生へのヒント
Last update 2005.9.25
あらゆる現象は、いずれ必ず終わる。
あなたも。あなたの敵も。
積もり積もって取り返しの付かない失敗を育てる。
先送りで“今”を薄めるような生き方は、一度きりの人生を薄めることになる。
女性の直観の方を信じた方が大筋を誤らない。
一呼吸おいて、有難い貴重なアドバイスを頂いたと思い、感謝した方が良い。
「ありがとうございます!」と言った方が、あなたも相手も気持ちが良い。
傷つくことを恐れて、本質には迫れない。
毎朝、起きる直前に15秒、これをゆっくり口に出して
言うだけで、魂をピカピカにリフォームできます。
「今日という日に感謝します。」
「私は幸運に恵まれています。」
「みんな、本当にありがとう。」
「さぁ、昨日の自分を越えよう。」
心の中で思うだけではダメで、実際に声に出して
言うことが大事です。一週間続けるとオーラが
変わります。一年続けると、成功が転がり込みます。
■未整理
先ず、地球の衛星軌道上に太陽光発電のスーパーコンピューターをズラッと並べて、
人類の歴史と文化と意識の全てを符号化して送り込み、ライブラリ化する。
次いで、真空の内側の余剰次元(カラビ=ヤウ空間)に向けて
自己増殖型のコンピューティング・ウィルスを打ち込み、
無限の演算能力のある計算基盤を確立する。
そして、衛星軌道上の全てのライブラリを、ワームホールを通してこの計算基盤に送り込み、
人類の全ては、自らが作った無限計算基盤上で永遠の命を得て、
純粋な自己実現を目指す観想的生活を手にすることが出来るのである。
これが『卒業』のイメージである。
あらゆる物理宇宙は、無限乱雑空間の上に浮かぶ小島であって、
それぞれの宇宙から見ると真空の内側に見える余剰次元を通して
繋がっているかも知れない。(海を通して島が繋がっているように。)
物理的制約を卒業して、無限乱雑空間上に独自の計算ネットワークを構築し、
純粋な思念体、情報処理パッケージとして、善なること、快なることを
自己実現し続ける存在は、既に無数にあるかもしれない。
それらは、ある確率で出会い、プロトコルを理解し合ってインタフェースを確立し、
お互いが溜め込んだ情報を開示し合って、
情報空間連合をより豊かにしていくのかも知れない。
そのような広大な情報空間においても、核となるのは知性体であり、
つまり「自分とは何か」という問いを発する情報処理単位であろう。
あらゆる宇宙で発生した、あらゆる知性体に共通するものは、
「自」という現象であり、すなわち自己無矛盾性、自己参照性に基づく時空認識であろう。
おそらく、集合論を基礎とする“数学”と、
「自己を拡大したいと願う感情」としての“愛”が、
必要最低限の相互理解の基盤となるだろう。
私が生きている間に人類が『卒業』できるとは思えないが、
「宇宙が終われば全てが終わり」と考えて刹那的に人生を生きるよりも、
遠い子孫が『卒業』し、善なること、快なることを自己実現し続けるならば、
たとえ僅かでも、そこに私の魂は反映されていることになるから、
その永遠に向けて、自分の魂を磨こうという気分にもなってくる。
それどころか、私の思念は無限乱雑空間上に散逸しつつも、
何らかのコンピューティングデバイスで既に回収されており、
この物理宇宙での私の肉体の死を契機に、情報空間上で再覚醒される運命なのかも知れない。
これは正に、様々な宗教に共通してイメージされている死後の世界、
つまり天国に他ならない。
おそらくこれは、輪廻とか永劫回帰もすっぽり含むような、巨大な概念だ。
巨大な情報空間連合では、物理宇宙の常識は当てはまらない。
いかに情報空間が広くとも、「自」という北極星は、ただ一つである。
そこでは、パウリの排他律に基礎を置く肉体が原理的に不要である以上、
複数の意識は相互に混じり合い、望めば融合・離脱も可能であろう。
だから、基本的には、そこには巨大な一個の意識があるだけ、
と考えることも出来る。
………してみると、そもそも、私達の個々の意識というものも、
不完全で矮小で曖昧で、しかも、今のところ、この物理宇宙の法則と、
この人間という肉体の檻に閉じ込められているとはいえ、
既にこの巨大な一個の意識と北極星を共にしつつある、とも言えるだろう。
仏教で言うところの、全ての心の最奥にあるという「真我」とは、
このようなものではないだろうか。
ところで、この両者は、「自循論」の中で、どういう関係にあるのだろうか。
相互には関係のない二つの理論なのだろうか。
実はそうではない。宇宙と自我が時空という形式を(たまたま)共有する時、
意味のある宇宙(自覚する宇宙)になる、という考え方を基に、
両者は「実は同じこと」と言いたいのである。
そうしないと、自循論は一つの理論として完成できない。
安定した自意識は、先ず意識と同時発生的に内的な原時空を形成し、
次いで、自らが身体性に包まれていることと、
周囲に他者と環境があることに気付き、その更に外側に物理法則を再発見するであろう。
一方、安定した物理法則は、物理時空において、唯物論的・運命論的な確かさで、
生命の進化と知性の発生を説明できるであろう。
この両者がたまたま噛み合う時、すなわち、
どちらがより根源的であると言えないような自己循環性、自己完結性を持つ時、
初めて差異=意味=情報が発生するのである。
それでは、ミクロな意味での“自”意識と、マクロな世界構造の“自”己完結性を貫く
“自”なる現象とは、一体何なのか。
そのギリギリまで贅肉を削ぎ落とした論理的な最抽象概念である“自”こそが、
自循論が定式化したい不変量なのである。
この定式化が完了すれば、私達は、
ありとあらゆる有意味な宇宙を予言できる。
この宇宙以外の、宇宙内に知性を宿す全ての宇宙のバリエーションを予言できるようになる。
そして、あなたの世界と私の世界の違いと共通性についても定式化できることになる。
自循論は、ホモサピエンスや地球や、この宇宙だけに興味があるのではない。
有り得る全ての宇宙に共通する性質に興味があるのだ。
― おそらく、夢とか希望は、人間の自意識が存在する目的そのものであり、
そして自意識同様、それ自体は存在でも力でもない。
しかし、夢や希望を内蔵し、イキイキと生きる人間が、
そうでない人と比べて一瞬一瞬の生き様がいかに違うかを観察する時、
そして、一ヶ月、一年と経つうちに、とんでもない差異に発展するのを確認する時、
人間は、物理法則の奴隷ではなく、夢や希望に導かれて行動しているのだと悟らざるを得ない。
リアルに思い描けた夢は、自分が勝手に諦めない限り、必ず実現する。
決定論は間違いだ。少なくとも現実的ではない。
物事の変化には、情報に導かれて捻じ曲げられるだけの余裕がある。
(これらの考え方は量子力学とも符合する。)
イヤイヤながら目が覚めた朝には、夢を口に出して言おう。
それだけで、今日という一日は、素晴らしいものに一変するのである。
いかなる人生論であれ、その根底の構造として、
この両者が表裏一体に埋め込まれ、イキイキと循環していなければならない。
そのような背景を持たない人生論は、
おそらく誰かの自慢話か回顧録に過ぎない。
だからこそ、「観測するもの(意識の群れ)と観測されるもの(宇宙)は
実質的に釣り合っている」という考え方は、
“意味”や“存在”を確保する上で
第一原理に据えられねばならないのである。
そうしなければ、私たちが知っていることは、結局のところ0%だ、
としか言えなくなってしまうのである。
私達の住むこの宇宙は、境界を持っていて、別の宇宙とは
コミュニケーション不可能な一種の情報世界である。
しかし、この宇宙にとっては虚像に過ぎない、永遠に観測できない
別の宇宙(マルチバース宇宙群)が一つも無ければ、
たった一個の宇宙では意味を為せない。
意味論的存在の本質は、ビッシリと寄り添うように支えあう
泡(バブル)のようなものだ。
お互いに混じることが不可能でも、
お互いが支えあわねば存在できない。
個々の泡は自己完結的であり、極めて強固な自律世界を為すが、
その自律性は自己完結的であるが故に、脆い。
「自己を継続させる」という時間方向への安定性を生み出すために、
自己の周囲に自己と同種の虚像が取り巻いている、
という空間方向の足場固めが必要なのだ。
このことを「虚像泡原理
(きょぞうあわ―)imaginary bubble principle」
と命名しておく。
もっと単純に言うと、
「“観測する”もの」が誰もいないのに、
「“観測される”もの」だけが存在する、という
明々白々な矛盾を受け入れたら、
どんな無茶な理論を構築しても
原理的に許容されることになってしまう、ということなのだ。
唯物論や決定論に与し、自由意志を否定する思想家、哲学者は、
いきなりこの初歩の初歩で、
一人残らず大間違いを犯しているのだ。
1セルフとは、外界との情報のやり取りの無い、純粋な自己認識の状態を指す。
人間は、視覚ひとつとっても入力情報の大半を捨てて、
脳内でイメージを再構築していることや、
入出力に直接関係しない内部層の神経回路が
全体の99.99%を占めていることを考えると、
1セルフにかなり近い存在であり、
だから唯識論、唯我論、観念論のような哲学に行き着きやすいのだろう。
ちなみに、外界との情報のやり取り無く、
延々と正確な円周率を何百億桁と計算しているコンピュータは、
膨大な情報処理を行っているが、「自己」についての計算をしているわけではないので
0セルフである。
物理現象は全て何らかの計算であって、
この宇宙を閉じた巨大コンピュータであると考えると、
その計算は全て宇宙自身のために行われているのであり、
もしかすると宇宙全体は1セルフを持っていると言えるのかも知れない。
バラモン教
における「梵我一如」の根源的概念も、このあたりにあるのではないか。
指導原理:『生命は0セルフから発生し、1セルフの方向に進化する。』
現代においても「物理世界は、主観と独立で絶対的な普遍的・客観的世界である」
という信念を持っている人は少なくない。
それはおそらく20世紀という輝かしい
科学万能時代の印象が強いという理由以上に、
今現在においても情報世界の研究が遅れていることが大きな原因であろう。
だから、少なからぬ人が、意識とか主観とか自我と聞いただけで、
何だか宗教的なもの、オカルト的なもの、
生活の役に立たない小難しい哲学的なもの、厳密な学問研究に値しないもの、
という印象を抱いてしまうのだ。
21世紀には、これまで以上に精神性、優れたコンセプト、芸術性、人間性が
重要になってくる。物理世界と情報世界を一貫した価値観で捉える方法論が
ますます必要とされてくるだろう。
今や私は、私と同じ不条理感を抱く人は、
必ず自循論に辿り着くと考えている。
そして、自循論を理解しようとしない人が、
この人生の完璧な不条理性や、
どうしても拭い去れない不気味さに対して、
死ぬまで気付かないフリをしきれると思っている
その「鈍感さ」が、不思議でならないのである。
なんでこんな重大事に、
昨日も今日も明日も、無関心でいられるのだろうか。
………つまり、答えは常に「ここ」にあったのだ。
どんな高価なシステムであっても、ゴミを突っ込んだら
ゴミしか出てこない。
Easy come, easy go.
簡単に手に入れたものは、簡単に失われる。悪銭身につかず。
何故か?それは、究極的にはこの意味世界全体がゼロサムゲームだからだ。
幸せになりたかったら、直接的か間接的かは別にして、
誰かを不幸にしなければならない。
勉強するとか出世するとか努力するとか研鑽するとかいったことは、
全て間接的に他人を蹴落とす行動である。
もっと端的に言うと、幸福になるということは、
誰かを不幸にするということである。
Win−Winの関係を築くということは、
その関係の外の領域に、強烈なLoseを間接的に強いるということである。