◇意識とクオリア

Last update 2013.1.12

素粒子の意識/ 自我濃度[セルフ]/ クオリアを巡る対立(1)/ クオリアを巡る対立(2)/ 自-原愛-意識-クオリア/ クオリアの発生/ 現象的意識と無の定位/ 易問-難問-超難問-最難問
素粒子の意識
素粒子にも意識がある

「物質」に過ぎない脳が動作することで、 因果的に「意識」なる現象が生み出されていることは、間違い無い。 しかしそれは、物質的なプロセスに、外部からヒョッコリと 霊的なものが加わって生じるようなものでは無かろう。
そうであれば、「意識」のタネになるような性質が、 もともと既に、真空と素粒子の在り方にも含まれている、 と考えるしか無いだろう。 物理学は、これまでの全ての成果を保存したまま、 「意識」が説明できるように、拡張されねばならないわけだ。

意識の中核にある自のクオリア、すなわち 「自分が自分である感じ」は、 外界のあらゆる対象「ではない」極限として、 つまり「より内側」を計算し続ける極限として、 「イマココ」が求められるプロセスであった。 この時に生じてしまう独特の質感が、 既に素粒子にも埋め込まれている、と考えるのである。
素粒子Aは、 宇宙からその素粒子Aを除いた残りの全てでは無いものとして、 素粒子A自身を再発見するような 情報処理プロセスを内包している、と考えてみよう。 素粒子が集まり、原子になり分子を形成し、 生命(DNA)のような高密度な情報パッケージを経て、 更に脳にまで至った時、 「もともと全ての素粒子が持っていた薄い意識が、 集団的に機能し、 少なくとも人間程度の濃度の自己意識を実現した」 ということである。
逆に言えば、うまく組み合わせて焦点を結べば 濃度の高い自己意識を発生させ得る物質というものは、 どこまで割っても、その自己認識なる性質を 僅かには持っている、ということだ。 (うまく組み合わせて焦点を結ぶために、生命とか 神経網とか脳が必要なのだろう。)

この自己認識密度という考え方を、単位<セルフ>によって 定量的に考察することで、 人間よりも自我の濃い存在を想定したり、 人間の睡眠から覚醒に至る意識の濃さを比較したり、 猫や犬の意識の程度を量的に比較したり、 植物にも意識があるのかということを考察したり、 ウイルスや非生命の意識というものを定義したり、 果ては原子や素粒子にまで意識を考えることが出来るようになる。
おそらく、このような階層を一つ下るごとに、 <セルフ>は何桁か薄まっていくようなものであろうが、 素粒子においても純粋にゼロにはならないのではないか、 というのが、ここでの発想である。

なぜ、僅かではあっても、素粒子にまで、 自己認識を付与できるのであろうか? これは勿論、巨大な謎なのであるが、 物理宇というのは、その内部に生み出した内部観測者が見返した姿である、 という原理原則を踏まえるなら、 素粒子といえども自己認識を持ったものとしてしか見返されない、 すなわち万物は意識されるものであると同時に、 意識するものとしてしか発見されようがないからではないだろうか。
世界というものは、そもそも内部観測者をもつという一点で 自己完結的な世界としての資格を自らに与える、 という原理原則を踏まえるなら、 その存在の全ては即自的なだけでなく対自的でも あらざるを得ないのではないか。

おそらく、平行線を辿るしかないように思われる 唯物論者と唯心論者が、出会うことが出来る地平(境界線)というのは、 ここであろう。 お互いのイイトコドリでもなく、 お互いの潰し合いでもなく、 お互いを丸ごと認めて底から支えあうような、 新しい種類の心身二元論。 自循論が目指している世界観とは、これである。

自我濃度[セルフ]
自我濃度 ( self concentration ) [単位:self] の定義を、 『自我境界線内の全情報処理量のうち、 直接的または間接的に 自我核(イマココ)の演算に参与している処理量の割合』と 定義してみよう。
もしも自我境界線の外部とは一切の情報のやり取りをせず、 内部の情報処理が全て自我核の演算に参与しているなら、 このような存在は 1[self]となるだろう。 自己の存在を意識し続け、自問し続ける、観想的生活者だ。 宇宙は1[self]の存在であろうか? 宇宙は外部との情報とのやり取りが無いから、 1[self]の存在者の候補ではある。 実際、宇宙は内部観測者を含んでおり、 宇宙とは何かということを宇宙自身が分散並行的に 思考していると言える。
しかし、これらの思考が統合されて、宇宙自身の 自我核(イマココ)の計算を行っていると言えるだろうか。 情報伝播速度には光速度という条件があり、 それに比して宇宙は非常に大きいから、 仮に自我核を計算しているとしても、 それは人間にとっての0.1秒が何億年にも相当するような 非常にゆっくりしたものとなるように思われる。 宇宙は膨張し続けているので、自我核の計算は 事実上不可能かも知れない。 もしくはビッグバンによる宇宙開闢から数分以内のどこかで 宇宙は1[self]を経験したかも知れない。

銀河や地球は、これに比べると、 安定した自我境界線の候補を持っている。 だがしかし、自我核(イマココ)の計算を行っていると言えるかが問題だ。 生命進化の淘汰圧も無く、神経系のような情報処理機構も無い、 ただの物質のカタマリである地球の内部に、 偶然に、たとえばその重心を計算し続けようとする部分回路が成立しており、 その重心が自体が地球の外側と比較した内側としての地球のシンボルとして扱われ、 更にはそのシンボル自身よりも内側のシンボルを求め続けるような計算回路が、 どんなに希薄であれ、どんなに不完全であれ、 含まれているという可能性は、ゼロでは無い。
もしそのような計算回路があったとしても、 地球は「人間にとっての一秒」を数千年かけて体験するような 非常に緩慢で希薄な自我濃度しか持たないだろう。 しかしここでは、そのような体験速度は問題にしない。 自我濃度で重要なのは、自我境界内の全情報処理量のうち、 自我核の計算に使われる情報処理量の割合だけだからだ。 地球にとっては地質年代的スケールで時間の流れを感じているとしても、 自我濃度が高ければ、ありありと「自分が自分である」という ナマ体験感を、地球自身は(もしかすると人間よりも強く) 持っているかも知れないのである。

人間の自我濃度はどのくらいだろう。 60兆の体細胞のうち、1000億の脳細胞が、自我計算に直接的または 間接的に参与している、と大雑把に考えれば、 10-2[self]くらいが 人間の自我濃度になるだろう。 これには無意識の情報処理も含まれているが、 外部からの物理的な応力に対して反応する、たとえば皮膚を強く押すと その部分が少々凹む、といった計算そのものは、 自我計算には参与していない、と考えている。 (およそ物理的な存在のうち、計算をしていない、というものは無い。 従って物質であれば何らかの情報処理はしている、と ここでは考える。)
人間以外の動物でも、1kgの身体には1兆個の体細胞があるとして、 体重に占める脳の重さの割合(脳化指数)で先ずは自我濃度を考えてみよう。 イルカ(0.64)は人間に近く、チンパンジー(0.30)、犬(0.14)、猫(0.12)、 ウマ(0.10)は一桁少ない10-3[self]に 分類されると思えば良い。 脳という中央処理装置がある場合には、 先ずはこのようなイメージで大雑把に自我濃度を計算してみよう。

但し、脳が小さくなると、重心→自我シンボル→自我核(イマココ)の連続計算、 という高次処理が機能的に組み上がる可能性は低く (言語を扱えない可能性が高く)、 自我濃度をより低く見積もるような補正係数が必要になるかも知れない。 脳のような自我核(イマココ)の計算に適した明確な構造が無い場合は、 偶然、そのような計算が持続するような(自我核の焦点を結ぶような) 計算回路が安定して生じる確率が重要になってくるだろう。 そのような計算回路が安定して生じたと仮定して、 自我境界内部の全情報処理量に対する自我核の計算に参与している 情報処理の割合を求めれば良いのだが…。
これは海水の中の水分子の連なりが、偶然、人間の脳と同じくらいの 高次の情報処理を行う構造を作り、しかも偶然、これが十分長い時間 安定したとするならば、海水の中に 10-2[self] くらいの自我が発生した、ということを主張するものであるが、 この低い確率を、単に自我濃度値に乗じて良いものかは別問題である。 (そもそも海水の中では安定した自我境界線が定義できず、従って 自我濃度自体も定義できないかも知れない。)

ある程度明瞭な自我核を計算し続けることができる回路が組みあがる確率は、 ある自我濃度値を明瞭に維持できる確率と同様である、 と解釈できるだろうか。 (多くの同様な領域のうち、幾つの個体が自我を持っているか、 という確率を、どの個体も希薄ではあろうが自我を持っている、 という希薄さに、摩り替えるのは確かに無理があるだろう。 このことが言えるためには、プランクサイズ以下には無限の計算回路があり、 どの個体にも安定した自我計算を行う回路(可塑的な情報伝達経路)が ゼロでない確率で含まれる、という前提が必要になってくる。)
もし、任意の領域には(外側から見てもプランク長までの仕組みしか 分からないが、内側に無限の計算プロセスが潜んでおり、 そのうちの一部がゼロで無い確率で自我計算を行えるとし) ゼロでない自我濃度があるとしたら、もしかすると、海水の全体は、 恐ろしく希薄で限りなくゼロに近くはあるが、 有限のある値を持つ意識が生じたり薄れたりしているのかも知れない。

明確な自我境界線の候補を持つ生命と、非生命の場合では、 自我濃度の計算で乗じる係数は異なってくるだろう。 非生命の場合は、無数の計算処理プロセスのうち、 たまたま自我核の計算を維持する確率、という、 限りなくゼロに近い係数を乗じなければならない。
しかし、分子、原子、素粒子といえども、純粋にゼロになることは無い。 (1量子時間内に、どのような複雑な情報処理が行われていても 構わない。それは人間には不可知であるというだけで、 素粒子がいかなる意味でも意識を持っていないことを 保証するものではない。 プランクサイズ以下には無限の計算量があっても構わない。) 実際、素粒子の自我濃度は10-10100000[self] のように馬鹿げて小さい値であるかも知れないが (いや、この値でも大き過ぎるのかも知れないが)、 ともかく、ゼロでない有限の値を持ち得る、と ここでは考えたいのである。
人間の意識だって多元草稿モデルのような意識のモトネタが 焦点を結んでいるだけと言える。 (確かに脳という有限の境界が焦点を結びやすくしている。) ありとあらゆる意識現象とは、素粒子が持っている僅かな意識のタネが うまく焦点を結んでいるだけ、と考えることも可能であろう。

「外側から観られる物質」(客観)と、「内側から観る精神」(主観)は、 どこまで行っても交わらない、そもそも別種の存在だ。 物質である脳が、どのように物理的に機能すれば、 意識現象が因果的に生み出されるか、ということは、 いずれ科学的に解き明かされるだろう。 しかし、そうなったとしても、どうしてこの「内側から観る」という感覚が 生じてくるのかは、そもそもその観点を切り捨てた物理から 説明されることは原理的に有り得ない。
その説明は、素粒子ですら「内側から見る精神」を、殆どゼロに近かろうが、 宿している、と仮説するところまで行き着く。 この仮説を否定しても、「どの程度複雑な情報処理から意識が生じるのか」 という線引きが出来ないという問題に直面するだけだ。

宇宙とは、無限乱雑場たる<実在>の一部が、 原時空・原論理(言語)で切り取られて、 物質的宇宙(外側から観られる性質)と 内部観測者(内側から見る性質)が 丁度重ね描かれるようバランスを取っている奇跡的な領域である。
そして、極小の素粒子から極大の宇宙そのものまで、 自我濃度は定義できる。どのレベルであっても (時間や空間のスケールは様々だが) 何らかの意味で、「私は私である」というクオリア、 ナマ体験感を持っている、と考えることも可能なのだ。

クオリアを巡る対立(1)
クオリア(感覚質)は、あるのか、そんなものは断固として無いのか。
  • (A派)クオリアなど無い。
  • (B派)クオリアは明白に有る。
ネド・ブロックの経験によると、 10歳に満たない自分の娘でも理解できるクオリアについて、 大学生の三分の一は、それが何を意味するのか良く分からないそうだ。
デネットやニコラス・ハンフリーは(A派)に属し、 クオリアなどというものは無いと主張する。そして、 クオリアが有ると信じ込んでしまう何らかの錯覚回路があるのだろうと推測する。
サールは(B派)であり、クオリアや意識は確かに脳の神経活動が引き起こすが、 物理過程には還元不可能な何者かだと主張する。 ネド・ブロックも(B派)であり、これほど明々白々で確実に有るクオリアを 錯覚だと片付ける人々は、認知的な機能障害を持っている可能性があると指摘する。

なぜ、このような対立が生じるのだろうか。 自循論における意識やクオリアの発生機序を踏まえると、 この状況を整理できる可能性がある。
自循論では、クオリアとか意識のような現象は、その核にある 「<私>=この強い現実感」が、健全な脳が覚醒時に行う 自我再計算の連続によって生じる、と考えている。 そもそも、世界とは、「外側から見られる」ものの総体である客観的宇宙と、 「内側から見ている」意識世界が、相互依存している状態である。 そして、脳というスケールにおいて典型的に、両者は無矛盾に重ね合わされている。 脳は、この「内側から見ている」という世界の性質を開示するような 特殊な計算装置であると言える。 この世界の真空や物質が隅々まで隠し持っている「内側から見ている」 という性質を掻き集めて焦点を結び、 私達が正に感じているような、このクオリアや意識を実現しているのである。

人間は、進化の果てに、このような性質を開示する脳を得るに至った。 だがしかし、全員が全員、この機能を同程度に実行できているとは限らない。 なんといっても、人間は、この強い焦点化機能をギリギリ実現した 地球上では最初の生物なのである。 脳の構造のちょっとした違い、構成の違い、神経回路のクセなどで、 この「内向きの焦点強度」の最大値も、人それぞれで違うだろう。 それによって、(A派)、(B派)が分かれてくる、と考えてはどうだろうか。
  • (A派)焦点強度が、ある閾値よりも弱い:
    → 常に「内面のリアリティ」よりも「外面のリアリティ」が勝つ。
    → 内面のクオリア的な性質も、全て客観的事実に従属すると感じ続けて生きてきて、 その信念体系の中で物事を考える。
  • (B派)焦点強度が、ある閾値よりも強い:
    → 常に「外面のリアリティ」よりも「内面のリアリティ」が勝つ。
    → 内面のクオリア的な性質が、かけがえの無い絶対的事実だと感じ続けて生きてきて、 その信念体系の中で物事を考える。
この両者は、ちょっとした違いであり、知性の違いとは全く関係が無い。 言わば、遠視と近視の違いのようなものだ。 お互いに全く悪気は無い。ただ、見えている世界が、本当に違うだけなのだ。

(A派)に属する人々は、クオリアとか、独在性における<私>について、 客観的・科学的立場に固執するあまり不感症を装っているとか、 本当は感じているのに上手く言葉にできないだけなのではない。 本当に、心の底から、外界のリアリティの方が勝つ信念体系の中にあるのだ。
(A派)と(B派)は、脳の機能的には、僅かな違いでも、 覚醒時には常にそのようなリアリティ・バランスの中で生きてきたので、 心の隅々まで、異なった信念体系が組み上げられてる。 だから、相手を自分の信念体系に組み入れよう、などと思ってはならない。 遠視か近視か、肌の色が白いか黒いか、背が高いか低いか、要は そのような「違い」に過ぎない、と考えるべきなのだ。

クオリアを巡る対立(2)
A:「クオリアや現象的意識といったものは、確かに、ある。」
B:「…と、君が発言するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「いや、そうではない。脳神経細胞の作動のような物理的現象として 説明できるようなものではなく、この、現実をリアルに体験している、 という独特の質感、独特の感覚が、確かにあるのだ。」
B:「…と、君が発言するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「問題は、私の発言内容ではない。 口から出た音声・音波は、確かに物理的現象であり、 脳の活動が音声を発生させるまでの一連の動作は 確かに物理的に説明可能だ。私が問題にしているのはそこではない。 私がこうして感じている強い現実感、物理現象には決して還元できない この体験感のことを問題にしている。」
B:「…と、君が感じるように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「それでは説明になっていない。物理的挙動というのは全て、 観測“された”事実から構成されている。 私が問題としているのは、こうして私が意識主体として 観測“している”という事態の特別性のことだ。 観測“された”事実と、こうして観測“している”という体験は、 全く別のものだろう?」
B:「…と、君が信じるように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「いや、これは、私がどう思うとか、個人的に何を信じ込んでいるか、 という問題ではない。あまりにも明白な、誰にでも納得できる、 論理的な帰結なんだ。 “外側から観測された”物理的事実と、 “内側から観測している”現実的体験は、 方向的に全く逆の、重なりようがない、論理的に全く別のものだろう?」
B:「…と、君が錯覚するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「君だって本当は分かっているんだろう? この特別なナマ体験感、この強い現実感。 こうして、この、<私>が、ここにいる、というリアルな質感。 ………確かに、こうして口から出てきた言葉は、 もう言語なる記号一般に格下げされており、 音声なる物理現象に移し変えられており、 私が君に伝えたい質感そのものを伝えられていないこと、 つまり、直接伝えようがないことは、認める。 けれども、この“伝えられない”ものが、君の中にあることを、 君だって認めるだろう?」
B:「…と、君が推測するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「すると何か? 君は、君自身も感じているであろう、その質感を、 君自身も否定せざるを得ないんだぜ? それでいいのか? 明らかに、明々白々に、ありありと感じている、『その感じ』。 ………直接見た事も無い100億光年先の星や、原子核なんかよりも、 圧倒的に“ある”と信じられる、この感じ。 この感じを否定して物理的事実の方だけ肯定するなんて、 本末転倒だろう? ………いや、確かに私から君に向かって、君の中の『その感じ』と 指し示すことは、原理的に出来ないよ。 だが、君が哲学的ゾンビでも無い限り、感じているはずの、 『その感じ』を、君自身も否定はできないはずなんだ。」
B:「…と、君が妄想するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「君は、単に引っ込みがつかなくなって、もしくは 単に科学の成功という権威に寄り添いたいだけで、 全てが物理に還元できると信じたいだけなんじゃないか? 意地を張っているだけなんじゃないか? そもそも、客観的に確認できるとされていること、 顕微鏡や望遠鏡で推定される存在、 そういったものは、物理的な約束事の上に「あることになっている」 ただの共同幻想に過ぎないかも知れないんだぜ。 それを疑ったとしても、『この私という感じ』は、 無いことになんか、絶対にできない。 覚醒時に「<私>は確かに存在するよな?」と自問自答すれば、 「もちろん<私>は存在する」という明白な回答が必ず返ってくる。 この回答は常に絶対だ。」
B:「…と、君が答えるように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「違う。この感覚は、物理過程からは説明できない。」
B:「…と、君が妄信するように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「あぁ、もう分かったよ。君と合意に達するのは不可能なようだな。」
B:「…と、君が諦めるように、脳神経細胞が作動しただけである。」
A:「うるさいな、もう、黙っててくれよ。」
B:「…と、君が怒るように、脳神経細胞が作動しただけである。

自-原愛-意識-クオリア
現象的意識やクオリアの核にある「この私が私であるという感じ」 すなわち強い現実感の核となる<私>。 この<私>というものは、それを言語によって自問する時には 存在するように見えて、問わない時には意識の中に姿を見せない。 実際、<私>は、それが何かと問うて脳が計算する時には、 「<私>では無いありとあらゆるものでは無いもの」 として想定されるものだ。 これは言わば、量的・質的な極限として想定される 純粋無であり、問われた時にだけ姿を現わす 仮想極限概念に与えられた名前である。
私という生命の内部に、“常に”何らかの<私>なるものがある、 という図式で<私>を捉えようとするのは、誤りであろう。 何故なら、私は睡眠時にも、ある種の放心状態の時にも、 <私>を感じていない。<私>は、問われた時にだけ 仮想的に焦点を結ぶ概念である。

自問自答する、という行為自体も、 脳内で可能な限りの努力によって 「Xでは無い、ありとあらゆるものでは無いもの、としてのX」 の解であるX(つまり、この私自身)を計算しようとすること、 すなわち脳の計算がやっていることだ。 この計算が、現象的意識やクオリアの中核にある、 と考えるのが自循論である。
イヌやネコにも、現象的意識はあるだろう。 しかし、このXを求める計算密度が低いから、 意識の明瞭度は非常に低いだろう。 Xという仮想極限、つまり<私>という仮想的不動点が、 明瞭な姿を現わしていないので、 この不動点に関連づけて世界を観る、という <私>の成分も希薄である。 だから、イヌやネコの脳内計算の大部分は、世界に流されている、 世界の状況に機械的に反応しているだけなのであり、 仮想的不動点を中心とした脳内シミュレーションワールド上の計算、 すなわち現象的意識やクオリアを生むような計算の成分は 希薄なのである。自循論では、これを「セルフ値」が低い、と言う。

それでは、現象的意識やクオリアといったものは、 全て「脳の計算」という物理過程に還元されるのだろうか。 ある意味では、還元されるであろう。 そこには何の神秘も無い。 脳は、真空以下の仕組みや量子計算を駆使しているわけでもなかろう。 演算過程の隅々に「自我Xに関連付けて位置づけられる、 ありとあらゆる対象Yでは無いものとしての自我X」が演算され続ける、 そのようなXを計算し続けるような計算機は、 (明瞭さ、セルフ値には程度の差こそあれ)現象的意識やクオリアを持つであろう。
そのような計算過程を実装したロボットに、 君に自我があるかと問えば、あると答えるだろうし、 現象的意識の意味が分かるかと聞けば、分かると答えるだろうし、 クオリアは不思議かと尋ねれば、不思議だと言うだろう。

だがしかし、そこで問題は終わらないのだ。 そのような計算過程によって生まれる、この強い現実感、 これが一体、何故生じるのか、その不思議は、ここまでの議論では まるごと不思議のまま残っている。
現象的意識が脳の計算結果である、という説明だけで満足する人は、 そもそも、この不思議さを扱っていない、 もしくは分かっていないのだ。
結局、この問いに答えるには、「そもそも計算とは何か」を 問わなければならない。 あらゆる物理過程は何らかの計算をやっているとも言えるから、 「そもそも物理過程とは何か」を問うことにも等しい。 だから、「この<私>とは何か」を問うことは、 「この物理宇宙とは何か」を問うことに直結するはずなのだ。

自循論は、存在そのものが、物理宇宙と精神世界 (シミュレーションワールド)の相互依存関係である、 という世界観を持っている(=「極大の自」)。 どちらかの方が、より根源的なものなのでなく、 存在とは、安定容器としての物理宇宙(客観時空や物質の総体)と、 これを認識する内部観測者(現象的意識と情報の総体)が、 無矛盾にお互いを強化し合う、お互いの底を支えあって (ブートストラップ的に)中空に浮かび上がっていく、 そのような姿として描かれる。
意識とは脳の計算結果であるが、脳の計算という物理過程は 意識によってのみ存在することになる、という循環関係にある。 このような循環論法は、何の説明にもなっていない、 と言われるかも知れない。 「渋柿とは渋い味の柿である」「渋さとは渋柿の味である」 という定義からは「渋さ」が説明されたようには思えないように。 その通り。存在に関する自循論の説明は、 それ以上背後に回って説明付けができない地点に突き当たっている。 このような“存在”の“在り方”は (自循論においては「自」と「原愛」という概念装置で説明される 存在の成立機序は)、これ以上の分解が出来ない ギリギリの意味の素粒子なのだ。

世界そのものが、極めて抽象的な意味での「自」と、 「自」同士がお互いの核(相手では無いものとしての自)を 強め合う「原愛」で開闢している。 脳は、そのように成立している世界(「極大の自」)の中にあって (このような物理宇宙の内部観測者であって)、 「あらゆる自分では無いものでは無いもの」という 自我の核(「極小の自」)を計算し続ける。 この仕掛けが、ピタリと平行関係を作っている。 (「極大の自」に「極小の自」が重ね描かれている。)
脳は、長い試行錯誤、長い進化の果てに、いわば 「世界存在を正しく観るメガネ」を実装するに至ったのだ。 この時に生じる世界との平行関係、 世界に焦点が合っているという感覚、強い現実感、 これこそが、現象的意識やクオリアの正体である。

クオリアの発生
「自問自答」とか「内観」とかいったものは、少々、特別な思考モードである。 「考える」「反応する」「思い出す」といった、色々な脳の計算機能と同じく、 脳の部位AからBへの伝達信号の一種には違いないのだが、 出発点Aの表す概念である「私」が、「無」である点が特別なのだ。 Aすなわち私=自我核=無は、無効信号(null)であり、 陽には何のクオリアも伴わない。 それが「この私」という主体感になるのだ。
脳の中を渦巻く電気信号のうち、外来信号や記憶に由来を持つものが クオリアを為す対象となる。 一方、それらには紐付かないもの、何だか分からないもの、 すなわち無効信号(null)が、「私」という独特な感覚に対応する。 思考の出発点A「1+1」から、到達点B「2」に至るとか、 出発点A「昨日のお昼に食べたもの」から、到達点B「ラーメン」に至るとか、 対象A、Bが明確に意識にのぼる思考(A→B)と対照的に、 出発点Aが何者かは分からないが、とにかく何故か問いは発せられ、 ともかく無根拠に到達点Bに至るような思考(X→B)も生じる。 敢えて言葉にするならば、「このB」「私にとってのB」のように Bが思考内に浮かび上がってくるような感じである。 そもそも、私達が何かを意識するということは、須らく 対象Bを「私にとってのB」として認識する、ということである。 その時、「私にとっての」の部分は、通常、意識されているわけではない。 その出発点Aに敢えて名前を与えるとしたら、「私」となるだろう。 つまり、「私」とは、A→Bという思考(脳の部位Aから部位Bへの 信号伝達)において、出発点Aの欠如感に代表して割り当てられた概念なのだ。

脳内には、いつも凄まじく多量の情報が渦巻いている。 脳は非常に複雑なので、その大量の情報計算のどの部分にも、 明確な対象概念にならない無効信号(null)が伴っている。 人間の脳のように、直接入出力に関係しない中間層が99.99%も占めるなら、尚更だ。 それらが〈私〉の正体だ。 脳内には一見無駄な〈私〉が溢れ返っており、 だからこそ、問えばいつでも〈私〉が見つかる。
〈私〉とは、世界で無いものに与えられた名前である。 (それはそうだろう。〈私〉は世界のあらゆるものを一方的に受け取る主観であり、 それが世界の一部であるということは有り得ない。) 脳内にはザワザワと様々な信号が渦巻いているが、 大量の中間層、複雑な反回性回路を持つ人間の脳は、 直接の入力信号に紐付けられない無効信号(null)をタンマリ持っている。 しかし、それらも一個の脳の中にある信号であることは間違いない。 そのような“世界で無いもの”を掻き集めて、それを〈私〉と呼ぶのである。 脳内信号のうち、言語化できないものの総体が〈私〉である、と言っても良い。

「自分とは何か、と問う」と言っても、 それは禅の修業僧だけに可能な特別な問いでは無い。 自分の身体重心を探るように、記憶を照会するように、 普通に誰でも行える思考である。 ただ、そこで引き当てられる概念は、無効信号(null)に由来するもの、 すなわち、“無効信号(null)の降り積もった概念”=“何者でも無い何か” という、非常に説明が難しい、ちょっと特別な概念なのだ。 敢えて言葉にするならば、それは、世界の何者でもない、 世界を観る側の、この〈私〉としか言いようがない。
このようにして見ると、〈私〉とは、 脳内で発生しているノイズの総称・親玉のようなものである。 「外来信号でも記憶でも無いが、私の中で発生しているもの」の別名なのだ。
勿論、そのような得体の知れない無効信号(null)を掻き集めて、 〈私〉というレッテルを貼るまでに至った人間の抽象思考力は凄まじい。 相手に言葉で伝えるために物象化された第一人称の「私」とは異なる、 個々の私自身にしか感じられない(言葉では伝えられない)、 生々しい体験の主体としての成分を取り出して 〈私〉と名付ける、というのは、相当な知的思考力の為せる業だろう。

下等な動物は、入力に対して機械的に反応するだけだ。 環境という「ごった返す有」に翻弄されて、ただただ生きるだけだ。 人間といえども、普段は「ごった返す有」を機械的に計算処理しているだけだ。 しかし、人間は、無効信号(null)の親玉である〈私〉を 操れる(参照できる)ように進化したが故に、 意識すれば、外界の対象を「私にとっての何々」として捉える事ができるようになった。 これが〈私〉なりクオリアの正体である。
ところで、確かに、人間は〈私〉という概念をいつでも操れるし、 クオリアが何かを理解できる。だがしかし、いつでも〈私〉があるわけでは無い。 いつでもクオリアを感じているわけでは無い。これは非常に重要なポイントだ。 〈私〉は、霊魂のように身体に常時備わっている一つの何者か“では無い” ということを思い知るべきだ。それは、問うた時には必ず見つかるが、 問うていない時には無いのである。勿論、クオリアも同様だ。
例えば、本を読んでいる時のことを考えてみよう。 「私は今、何がしたいだろう」と考える。 この時、「私」という概念は、かなり明示的に参照されている。 記憶などを参照し、「そうだ、あの本が読みたい」という結論に至る。 本を手に取る時、そこには「本を手にしている私」と 「紙の束にインクで文字が印刷された本」という関係が成立している。 そして、本を開き、そこに書かれている内容を読み始める。 内容に没頭していくと、一番最初に本を手に取ろうとした時に 参照されていたオリジナルの「私」は、もう消えてしまっている。 私は本の世界に埋没し、ひたすら活字を追い、内容を理解し、 感動したりしている。 この間、実は、私は、ほぼ「ごった返す有」に翻弄されているだけなのだ。 本を読み終わった後、もしくは読んでいる最中にも時々、 「私だったらどうするだろう」「私にとってこの本は何番目に面白いかな」 と、「私」が思考にのぼることは、勿論あって良い。 しかし、本当に本の内容に没頭している、その期間のほぼ全てでは、 〈私〉は“無い”のである。
こんな例を出さずとも、睡眠中は〈私〉など無い、と言えば 事足りるかも知れない。 だがしかし、覚醒時には〈私〉が常にある、というわけでも無い、 ということは、強調しておくべきだ。 〈私〉は、問うた時にいつでも参照できる概念だが、 覚醒時ですら、殆どの時間は、存在しないものなのだ。 〈私〉は時空間内に連続してはいない。 時空間内に連続しているのは、身体や脳の方だ。 〈私〉は都度参照され、都度消え去る。 だから〈私〉は霊魂のようなものでは無い。

(※岩波現代文庫『転校生とブラックジャック』の表記で言えば、 一般化された《私》の方を指して、霊魂のようなものでは無い、と言うべきだろう。 しかし、特化され高度に私秘的な方の〈私〉も、 時空的に連続していない、その都度参照され消え去る概念なのだ、 ということは強調しておく。 〈私〉が時空的に連続する何らかの実在的成分だと信じ込むことから 様々な誤解や擬似問題が派生するからだ。)

無効信号(null)の親玉である〈私〉は、 参照しようと思えばいつでも参照できて、そして言語化不可能で、 脳の一個性に対応して一個あるように思える何者かである。 無効信号(null)は、一切の理解を拒むノイズであり、 だから無効信号P、無効信号Qのように区別をつけることはできない。 だから、無効信号(null)は、量として増えることはなく、 質として強くなることだけができる。 結果として、無効信号(null)が降り積もると、それは 強い内面的無効性として純化されていく。 これが〈私〉の正体なのだ。

以上の議論によって、クオリアと〈私〉の謎は、全て解けただろうか? そんなことは無い。脳のどのような仕組みがクオリアや〈私〉を生むのか、 これを幾ら暴こうとも、この独特の質感、独特の現実感の正体には 繋がらない。ここまでは、まだ折り返し点といったところだ。 だが、「現象的意識や自我の核にあるものは無である」 という論理的な帰結は決定的に重要だ。 そして、物理宇宙もまた、時空の各点が存在の下限としての真空の下に 極限としての無を宿している、と理解できれば、 真空の上にはみ出した物理宇宙の在り方と、 自我核の上にはみ出した精神世界の在り方が、 重ね描かれることこそが、この独特の質感、独特の現実感の正体だ、 と納得することができる。 (だってそうだろう。物理宇宙という中心なき現実と、 精神世界の中にシミュレートされた自我を中心とする意識のスクリーンの、 両方が噛み合う、という形でしか、『現実感』という概念は示せないはずだ。 『現実』だけ、『感』だけ、を論じても、『現実感』の説明には成り得ない。)
個々の精神の在り方や、個々の時空上の物理的性質の在り方は、 共通の性質を持っている。(この共通の性質のことを、 自循論では「自」と呼ぶ。精神世界も物理宇宙も、 「自」という共通のインタフェースを実装している。 このような「自」の実装のされ方を【極小の自】と呼ぶ。) 精神世界は内側から外側、物理宇宙は外側から内側、というベクトルとなって、 相互に重ね描かれる。(相互依存する。) この総体が世界である。 世界自体も、精神世界と物理宇宙を素粒子とする相であり、 やはり「自」を実装している。 (このような「自」の実装のされ方を【極大の自】と呼ぶ。)

現象的意識と無の定位
意識や自我は濃度や分布で表現されるようなものであり、 確たる一個の何か、一つの身体に必然的に一個備わる魂のような何か、 では無い
永井均の独在性も、渡辺恒夫の遍在転生観も、 時空的に連続な確たる一個の何かが仮定されているようだ。 自分の意識を内省しても、そのこと自体は自明に思えるため、 デカルト的にそれを疑わずに来たが、 この思い込みは解体されねばならない、と私は考えている。 解体することで、「そもそも時空とは何か」という、より深い疑問に突き進めるのだ。

現象的意識や自我は、ある記憶と思考回路(この二つは脳の中で別に区別されていない) が、ある様式で作動する時に生じる(随伴する)ものであり、 それ以上でも、それ以下でも無い。 その「ある様式」とは、「無の定位」である。 「あらゆるもので無いもの=自我核」を計算し続けている状態、 と言い換えても良い。そのようにして計算されたシンボルは、 次の瞬間には過去の対象に滑り落ちて、それですら無い最新の無が生じる。 どこまでも何者でも無い最先端にある 生まれたばかりであり続ける無、 それが「私」=「自我核」=「イマココ」の正体である。

この計算の成立事情は、いささか込み入っている。 別に脳は「Y=N(X)」のような否定関数Nの計算を生得的に実装しているわけでは無い。 脳に出来ることは、ヘブ則に従った神経回路網の重み付けの変更だけである。 (魂との連絡路や、微細管による量子計算が行われているわけでは無い。 物理的に見る限り、脳に神秘的なことは何一つ無い。) リンゴと赤の間の重みが強化され、連想され易くなるのと同じように、 前方の景色に対してここにある何者か、 左右から聞こえてくる音に対して中間に位置する何者か、 腹と背中を押されると中身にある何者か、 そういった「何者か」が、外来信号との間で重みが強化され、連想され易くなる。 リンゴや赤と違い、その「何者か」は言語化されず、 しかし脳内の至る所に隠れたシンボルとして降り積もってゆく。 その濃度が高まり、抽象化され、焦点を結んでくる。 「バラバラにある何者かは、実は一つの何者かなのではないか?」 こうして、あらゆる対象ではない一つの何者か、 すなわち「私」に思い至る。 これが自我の発生である。 (いつかここに思い至る事は、身体が閉空間であり、脳が十分な演算力を持っている、 ということによって担保されている。強制的に思い至らせるような仕組みは不要である。)
それまでは、ごった返す外来信号を処理するだけだった脳が、 今度はこの「私」を中心に外来信号を位置付け直す。 この壮大な主客転倒が、「物心がつく」「自我が芽生える」という瞬間であり、 情報が晴れ上がって現象的意識が生じる瞬間でもある。 これは何も、赤ちゃんが子供に育っていく過程だけで見られるものではなく、 深い睡眠から覚醒状態に移行する際にも観測されることであろう。 そして、この「私」なるものが「〜で無い」という計算回路の基盤として 再利用される。 人間が「無」という難しい概念を易々と扱えるのは、 実のところ、脳が無の計算ばっかりをやっているからだ。 このようにして、「私」=「無」を定位し続ける時、 意識と自我が発生する。

私を疑い得ないのは、「確かに私が在るだろうか」という問いを発すると、 自我核の周辺をぐるりと取り囲むように私に関連付くシンボルが無数に存在し、 それは身体性にまで深く結び付いており、必ず確固たるものとして「在る」と 回答できるからである。 しかし、問わない時にも「私」はあるだろうか。 ボーッと空を眺めている時にも「私」はあるだろうか。 ノンレム睡眠時にも、極端な酩酊状態の時にも「私」はあるだろうか。 無いだろう。問えばいつでも焦点が結ばれ答えが得られるが、問わない時には無い。 自我とはそのようなものであろう。 その焦点が、脳内の計算のどこで結ばれるか。 それはどの程度の強度なのか。脳を分割したら、焦点が二箇所以上で結ばれるのか。 そもそも健常な一個の脳に於いても、一箇所で焦点が結ばれているのか、 それとも色々な箇所で多数の焦点が結ばれては消えているだけで、 それらは「あらゆる外来のものでは無い」という共通性質ゆえに、 一個のものと錯覚されているのであろうか。 …そうなのだ。一個の私というのは、錯覚なのだ。 問うた時にその都度焦点が結ばれては消える何かなのだ。

勿論、これで意識の謎が解けたわけではない。 このような知見に基づいて、人工意識を作ることは可能であろう。 その人工意識と膝を突き合わせて語るべき不思議が丸ごと残っている。 どうしてこのような計算プロセスを実現すると、 この不思議な現象的意識が生じるのか。 その不思議さの大半は「多層的な無の定位」というモデルによって 解消されるとしても、もっと根源的な問題が残る。 あなたと私の意識は何故違うのか、 違うのにどうして似たようなものだと想定し合えるのか、 どうして同じ物理法則が適用される異なる空間の2点があるのか、 なぜ空間の各点やフェルミオンは相互排他的であるのか、 なぜ時間は流れているのか。 このような疑問が実感として剥き出しになってくる。
ついには、時空があるから自我が生まれたのか、 自我があるから時空があるように見えるのか、 判然としない地点にまで到達する。 その地点まで来て初めて、「自」という単一原理から、 自我と時空が一挙に成立する、というヴィジョンが開けてくるのだ。

易問-難問-超難問-最難問
心の哲学で扱われている問題とは、およそ以下のようなものであろう。
  • イージー・プロブレム:易問
    脳は、どのように情報処理をしているのか。
  • ハード・プロブレム:難問
    脳の情報処理から、どうして現象的意識やクオリアが生じるのか。
  • ハーダー・プロブレム:超難問
    この私を、平等に現象的意識を持つ他者から、根本的に異なる存在にしている成分とは何か。
  • ハーデスト・プロブレム:最難問
    なぜ、何も存在しないのではなく、宇宙と私が現に存在しているのか。
これらの問題は、相互に関係している。 注意すべきは、易問も最難問に依存しているということだ。 つまり、物質とか物理法則とか時空とかは、そもそも一体何なのか、 なぜ、何も無いのでなく、そのようなものがあるのか、 そこが問われて初めて、情報処理とは何かも言えるようになる、 ということだ。ここをすっ飛ばして易問や難問を解こうとしても、 結局のところ、それは何も解いていないに等しい。

こうして易問‐難問‐超難問‐最難問は、円環を為すことになる。 むしろ、このような問題性の円環構造を理解することが、 心の哲学の問題性を理解する、ということなのである。