海底の神

The Architect of intelligence
目次
●第一部 海底神殿
私の名前は、羽柴。 西暦2080年当時、私は大学で地震波の測定を専門に研究していた。 日本海溝の底に、何か巨大な構造物があるように思われたため、 最新の海底探査艇に同乗させて貰い、より精密な測定を行った。 水深約8kmの超高水圧の世界。 私は、その海底に、「扉」を発見した。 この発見が、世界と、私の人生を、一変させてしまうことになる。

10年後、私は再び、恋焦がれたこの「扉」に降りてきた。 探査艇から半球状の圧力隔壁が切り離され、扉の上を覆う。 この中は数百気圧の特殊ゲルで満たされ、 私はこの中で「扉」を開ける作業を行う。 特殊ゲルは私の肺の中まで満ちており、私は圧力で潰れずに済んでいる。 但し、この高水圧下では、作業時間は約10分に限られていた。

事前の無人探査機の調査から、 扉の一辺には23本のシリンダーが並んでおり、これらを正しい順番で 正しい角度だけ回していった時に扉が開くよう設計される事が分かっていた。 非破壊での開錠を目指して、シリンダーの構造解析と、 意味論的な暗号解読の両面から、分析が進められた。 研究資金は十分では無かったが、一定の成果は得られた。

暗号解読班は、 早くからこれをヒトの23対の染色体に相当するとの仮説を持ち、 30億の塩基配列上にある約2万5千の遺伝子の中から、 特に知性に強い影響を与えるパターンを指定することが鍵だと結論した。 構造解析班は、これとは別に純粋にシリンダーの内部構造を精密に調べ、 開錠までの一連の手続きを地道に機械的に割り出していった。

最終的には暗号鍵は12の候補にまで絞られた。 私は10分間の間に、その全てを試行しなければならない。 しかし幸いなことに、最初の候補を入力した所で、扉はあっさりと開いた。 機材を用いて扉を大きく開けると、特殊ゲルが、 扉の真下にある最初の小部屋にドッと流れ込む。 私もそこに入り込み、内側から静かに扉を閉めた。

予想とおり、天井の扉を閉めた瞬間から、部屋の中のゲルは排水され、 後に私が「自我の部屋」と名付ける、この小部屋は、 一気圧の空気で満たされた。私は激しく噎せながら肺のゲルを吐き出し、 しばらく身体をこの環境に慣らした。 地面にも同じ構造の扉があり、 そのシリンダーを天井の扉と全く同じ手順で回すことで、問題なく開いた。

その扉の下は、事前調査の通り、巨大な空洞であった。 しかも、内壁は極めて滑らかで、直径500mにもなる、 ほぼ完全な球形であった。 100階建てのビルを遥かに越える、この高さから落下したら、 確実に死ぬだろう。この巨大空間から吹き上げてくる、 微かに黴や土の匂いのする乾いた冷たい風に目を細めながら、 特殊ハンドライトを振りつつ、暗闇を見渡した。

直ぐに、扉の真下より少し手前に、突き出た橋を発見する。 用心深く飛び降りると、その先は球面の内壁に彫られた 溝状の通路に繋がっていることが分かった。 ネジ溝のように螺旋を描く、なだらかな下り坂を降りる間、 この巨大空洞に始終渦巻いている風の音から、 人の言葉や太古の音楽が聴こえて来るような気がして仕方なかった。

螺旋通路は巨大空洞の底のあたりで終わり、 滑らかな傾斜を持つ底面に出る。 その底面の至るところに穴が空いており、梯子や螺旋階段が 更なる地底深くへと続いている。 明らかに、人間が行き来できるように設計されたその領域は、 アリの巣よりも遥かに複雑に絡み合い、恐ろしく巨大な立体迷路を構成していた。 私はその構造を丹念に記録していった。

私は後に、この巨大空洞を「意識の大空洞」、 その下層の階段群を「無意識の迷路」と名付けた。 階段や梯子の合流点は小部屋になっており、 2〜3個の象形文字のようなものが刻まれいる。 解読は後回しにして、取り敢えず私は直観に従って 「視覚の間」「甘味の梯子」 「音楽の広間」 「言語の交差点」「快楽の泉」「記憶の棚」等と命名していった。

私が「無意識の迷路」の要所に与えた、 数千に及ぶ仮の名前と、壁面の象形文字は、後に暗号解読班に回され、 かなりの部分が意味論的に符合することが分かった。 (もはやこれは偶然とは思われない。この遺跡を実際に体験した者は、 その構造の意味を直観的に理解できるものなのだ。) また、これらは、前頭葉から大脳基底核に至る、 ヒトの大脳の抽象的構造にも大雑把に対応していることが分かった。 この迷路は、最深部の一つの部屋「扁桃体」に繋がっていた。

「扁桃体」には大きな扉があり、これは鍵も無く簡単に開けることができた。 その先は細長い通路になっており、真っ直ぐ進むと、大きな円形の部屋に出た。 遠くの真正面の壁には、更に先に続く通路が見えるが、 左右には弧状の壁面に沿って5つずつの扉があり、 内部はそれぞれ独特な形状を持った大部屋になっており、 至るところに象形文字が刻まれていた。

この円形の部屋を、私は「集合的無意識の円形舞台(オルケストラ)」と名付け、 10の大部屋には各々「仮面」「影」「アニマ」「アニムス」「老賢者」 「大母」「始源児」「永遠の少年」「道化」「自己」という名前を与えた。 個々の詳細な調査は後回しにし、私は真正面の細い通路を目指した。 その先には、驚くべき壮麗さの巨大な上り階段があった。

天井は高く、何らかの彫刻によって装飾され、 階段の両脇には、蛍光に似た光が並び、見上げると、それが遥か彼方まで点々と続き、 まるで私を聖なる場所にいざなっているように見える。 いよいよ、この建造物の最奥に近づいているとの確信と共に、 一歩一歩、階段を上がっていく。 私の前に、この階段を上がったのは、一体誰なのか…。

果たして、最上段の先には門があり、その奥には、 壁面中の蛍光石の弱く青白い光に照らされた棺があった。 棺の中は空っぽだった。 私は、千段に及ぶ壮麗な階段を「死への階段」、そして、 突き当たりの、棺のある部屋を「完成の霊廟」と名付けた。 今回の私の長い探索は終わり、これまでの道を逆に辿り、 深海から地上へと戻った。大量の情報と共に。

この海底大遺跡は「羽柴遺跡」として世界遺産となり、 一気に世間の注目を集めた。 二千年紀最大のミステリーと呼ばれ、私は、最早、地震学者の卵ではなく、 世界で一番有名な考古学者になっていた。 多くのスポンサーがついて、研究資金は潤沢に得られ、 前回の探査の莫大な借金も消え、 念願の再探査プロジェクトの予算も得られた。

今度の探査には、考古学専門の若く魅力的な女性記者が同行する事になった。 実験段階に過ぎない特殊ゲルの吸引、生命の保証の一切無い「羽柴遺跡」最深部への探査に、 喜んで同意し、前回よりも克明な映像および分析機器による記録と、 私の調査活動の全般的なバックアップを担当することになった。 彼女の名前はリュドミーラ。

「リューシャ、そこは滑るから気をつけて」 「気を遣わんでええって。遺跡の全てはシミュレーションで頭に叩き込んであるんや。」 彼女はロシア人だが、大変流暢な関西弁を喋る。 考古学の知識は私よりも遥かに豊富で、最新の電子機器も難なく使いこなし、 身のこなしも軽やかで、それにタフだった。 つまり、全ての点において完璧だった。

「自我の部屋」「意識の大空洞」「無意識の迷路」 「集合的無意識の円形舞台」「死への階段」「完成の霊廟」の順に進み、 探査器を使って見落とした分岐が無いかを確認しながら、 より詳細な情報を記録していく。 これまでの調査から、この遺跡が人間の心身構造を抽象的に表している事は、 ほぼ間違いないと考えられている。 だからこれは、人間自身の内部探査でもあるのだ。

淡く青白い光に包まれた「完成の霊廟」で、 探査器の表示情報とカラッポの棺を ジッと眺めていたリューシャの目の色が変わった。 「この下に何かある…」 二人がかりで棺を押し退けると、そこに「扉」があった。 例の23本のシリンダーが並んでいる。 入り口と同じ暗号鍵では開かなかった。 しかし、残る別候補の11個の中に、この扉を開く鍵があった。

私には、2種類の暗号の意味が直ぐに分かった。 ここまでの遺跡の扉は、男性の染色体が鍵となり、 ここからの遺跡の扉は、女性の染色体が鍵になる。 私は、ここから先の遺跡を「リュドミーラ遺跡」と命名し、 隣にいるリューシャにプレゼントした。 感極まった彼女は涙を流しながら、私にキスのプレゼントを返してくれが、 直ぐにプロの考古学記者の顔に戻った。

棺の下にも「自我の部屋」があった。 但し、ここには排水のための仕掛けは無かった。 その下には、やはり「意識の大空洞」が開けていた。 「無意識の迷路」「集合的無意識の円形舞台」に連なる各大部屋は、 羽柴遺跡とリュドミーラ遺跡(男性版と女性版)では、 微妙に構造が異なるようだった。 詳しい研究は地上に戻ってからになるだろう。

リュドミーラ遺跡の最奥部の「完成の霊廟」は、 薄紫の暗い蛍光石に照らされ、ひっそりと、ただ、そこにあった。 ここまでの長い長い道のりを歩んできた者に、 何も祝福を与えようとしない、完璧なほど素っ気ない空間だった。 「…この棺の下には、何も無いようね。」 リューシャは深い溜め息をついた。長い長い帰り道を思い浮かべながら。

地上に戻り、それからの2年間は、 優秀な記録係であるリューシャが持ち帰った大量の情報の分析に、 世界中の知性が狂奔した。 2つの対称な遺跡は、ヴァーチャルリアリティにより完璧に再現され、 世界中の誰もがその内部を疑似体験できるようになっていた。 いつしか、この遺跡の建築主は、仮に《知のアーキテクト》と呼ばれるようになった。

「《アーキテクト》は、先ず、遺跡を作ったんかなぁ。 それとも、人間を見てから分析を行い、この遺跡を作ったんかなぁ。」 リューシャがそんなことを言う。 「勿論、後者だろう。遺跡を先に作る理由があるか?」 「うーん…。遺跡自身が、人類の設計図だって可能性も、あると思うんやけど…。」 「先に精神構造の模型を作って、後からDNAを設計したとでも?」

リューシャの直観を裏付けるように、 遺跡の研究が進むにつれて、扉の暗号と遺伝子暗号の相関、 遺跡の構造と人間の精神構造の相関、 および象形文字が表現しているものは、 物理的なDNA構造から、主に脳内で発生する 「知性」という現象を再現させるための設計図として理解されるようになってきた。 …放射年代測定から、この遺跡は約2万年前のものと推測されていたのだが…。

ある朝、私は、遺跡の構造を再検討している時、 改めてその「大きさ」に疑問を持った。 「なぜ《アーキテクト》は、遺跡を、この『大きさ』に決めたんだろうか。 そして、何のために、この遺跡を作ったんだろうか。」 なぜ、この遺跡は、ちょうど人間が歩き回れる大きさに設計されているのか。 なぜ、人間の精神構造を、これだけの大きさで示す必要があったのか。

《アーキテクト》は、自分が設計した人類という知性体が、 深海に潜り、ヒトゲノムの暗号を解いて扉を開けて、 この遺跡の構造と精神の類似に気付くほどに知的に進化した時、 人類に何かを気付いて欲しくて、この遺跡を造っておいたのでは無いか。 その時、私は、自分に見落としがあったことに気付いた。 「この遺跡には、まだ奥がある…!」

翌朝、私はリューシャに結婚を申し込んだ。彼女は快諾してくれた。 私が何も言わないうちに、「もう一度、行きたいんやね」と、笑った。 「君と一緒に行きたい。そして、生きてここに帰ってきたい。」 「リュドミーラ遺跡の『集合的無意識の円形舞台(オルケストラ)』の中心部やね。」 「…なんだ、気付いていたのか…。」 「もちろん。」

●第二部 アーキテクト
結婚式から二ヵ月後、 私たちは既に日本海溝の水深8000mに還ってきていた。 最新装備に身を固めて、新たな謎に挑む。今度は、私たちは、 私たち自身を再発見するだけでは無いだろう。 おそらく《アーキテクト》からのメッセージを受け取ることになるはずだ。 私たちが、私たち自身を越えていくために、何をすべきかについて。

私にとっては3度目となる羽柴遺跡の扉の通過作業を終えて、 幾つもの構造物を下り、羽柴遺跡とほぼ同じ構造を持つリュドミーラ遺跡に移り、 更に 地中深く、深くへと降りていく。その最深部に当たるのが、 ここ、 「集合的無意識の円形舞台」だ。 この部屋の入り口の反対側にある通路の先は、 上り階段で、「完成の霊廟」に突き当たって終わる。

羽柴遺跡とリュドミーラ遺跡は、 それぞれ男性と女性の意識構造を表現している、 謎の創造主《知のアーキテクト》による一大地下構造物だ。 二つの遺跡の構造の微妙な違いは、男性脳と女性脳の違いに対応した精神構造の特徴を表現している。 そして、この、遺跡最深部の部屋は、女性脳の最奥にある集合的無意識の在り方を表している。

円形舞台は10の大部屋に取り巻かれている。 「リューシャ、君は アニマの大部屋へ。ただ中央で立っていればいい。 1分後にここに戻ってきてくれ。私はアニムスの方に行く。」 「分かったわ。」 私の推測が正しければ、これで新しい領域への扉が開かれるはずだ…。 人間の意識を超える、更に深い意識への道が。 二人が定位置について間もなく、円形舞台の方から、 地響きのような音がしてきた。 戻ってみると、中央に大きな竪穴が開いていた。

中央部分は回転しながら落ち込んでいき、 竪穴の壁面には二重螺旋の大きなネジ溝が現れた。 「な〜るほど、この螺旋階段を下りていけばいいんやね。 もともとは空洞じゃ無かったから、探査器では見つけられなかったんだ。」 「まさか、部屋が男女の遺伝子自体を直接読み取って、照合し、 こんな巨大な物を動かして新たな通路が開かれるとは…。 想像以上の精巧な大仕掛けだ。一体、どこから動力を得ているんだ?」

《アーキテクト》は、人間の知性の“現象面”を表す男性版遺跡の下に、 知性の“存在面”を表す女性版遺跡をその基部として置き、 更にその最深部に、《アーキテクト》自身が設計した人間自身の遺伝子を鍵とした、 新たな領域への通路を用意していたのだ。 好奇心旺盛な人間が、いつか、ここを訪れることを想定して。 …多分おそらく、何かを見せたくて。

長い螺旋階段を降りきると、細い横穴があった。 身を屈めながら進んでいくと、巨大な空間に出た。 高い天井にはビッシリと彫刻が施され、 下り階段の両脇には白い蛍光が点々と並んでいる。 見下ろすと、その光の列は、地獄の果てまで続いているようで、 吸い込まれるような恐怖を感じる。 この壮麗で巨大な階段を、《アーキテクト》も降りていったのだろうか。

私は、「集合的無意識の円形舞台」から「完成の霊廟」に至る 上りの階段を「死への階段」と名付けたので、 この下り階段は「生への階段」と名付けざるを得なかったが、 この階段にこそ「死への階段」と名付けたくなる不気味さがあった。 この先にある構造物が何であれ、私は、それを「永遠の霊廟」と名付けることになるだろう、 と直観的に思った。

長い長い「生への階段」を下りていくと、その先には、 小さな扉があった。押しても開かなかったが、引いてみると、扉は重く開いた。 内部は小部屋になっていて、正面の壁にも、同じ扉が見えた。 後から入ってきたリューシャが「2つの扉が、上下ではなく前後にある点を除いては、 ここは『自我の部屋』そっくりやね…」と呟いた。 確かにそうなのだが、何か違和感を覚えつつ、私はリューシャの方を振り返った。

その瞬間、私は凍りついた。 リューシャの肩越しに、閉じつつある扉の一部が見えた。 そこには、「自我の部屋」にあったのと同じタイプのシリンダーもあった。 「リューシャ、入ってきてはいけない!」 「えっ…」 しかし、時、既に遅く、入り口の扉は大きな音を立てて、ズシンと閉まった。 シリンダーは、扉の中央に一列に並んでいた。 但し、今度は、ヒトの染色体の本数に対応する23本ではなく、 52本もの輪で構成されていた。

「閉じ込められたの…?」 「少なくとも、こちら側の扉を開いて、地上に帰れる可能性は、 限りなくゼロに近いだろう…。」 ヒトの遺伝子は十分に解析されていたにも関わらず、 23本のシリンダーの暗号を解くのに、何人もが知恵と スーパー・コンピューターを駆使して何ヶ月も掛かったのだ。 輪の数が一つ増えただけでも、暗号の難度は指数関数的に跳ね上がる。 まして今回は、何の遺伝子なのかも分からない。

「52種の染色体というと…確か、金魚だったか?… いや、おそらく、これは《アーキテクト》自身の遺伝子を表しているはずだ…。」 「あっ、開いた。」 私がブツブツ言っている間に、リューシャは反対側の扉を手前に引いていた。 「考えてても仕方ないよ。…ね、進もう。」 確かに、リューシャの言う通りだ。私は、その明るさに勇気付けられた。

扉の先の通路を進んでいくと、巨大な半球状の空間に出た。 見上げると、天井には無数の蛍光石が埋め込まれ、 まるで星のように輝いている。 「綺麗…。」 リューシャが思わず呟く。 生還が絶望的な状況ではあったが、私も全く同じ感想を持った。 この空間は美しい。 遥か地底の最奥にあったのは、巨大プラネタリウムだった。 その光景は、夜空そのものだった。

口をポカンと開けていたリューシャが「あっ、北斗七星。」と指差す。 「まさか…」しかし、その先には確かに、少し歪んだ北斗七星が見えた。 良く見ると、他にも多くの冬の星座らしきものが見つかった。 おそらく、全ての蛍光石は、2万年前の、ある日、ある時刻の星の配列を、 正確に表しているのだろう。 …おそらく、《アーキテクト》が、ここで何かを成し遂げた時刻の。

「見て。」リューシャが、この巨大空間の中央を指差す。 そこには、大きな井戸の口のようなものがあり、 僅かに光が漏れ出していた。 井戸の周囲には、12本の棺が放射状に並んでいた。 上から井戸の中を覗き込むと、そこには深さの知れない純水と、 ホタルのように動き、明滅する、無数の光が見えた。 光は規則的に踊っているように見えた。

測定器によると、この井戸の下には、 直径1kmにもなる巨大な水球があり、何らかのナノマシンが溶け込んでおり、 光を使って活発に相互通信をしているようだった。 これが一体何なのかは分からないが、 私は、巨大プラネタリウムの半球空間を「永遠の霊廟」、 この直下にある、5億2千万トンの純水の空間を「意識の大水球」と名付けた。

私たちは、更に「永遠の霊廟」を調べた。 ほどなく、地平線を表す壁面の一周に、 びっしりと例の象形文字が刻まれていることが分かった。 これまでの研究から、象形文字の解析はほぼ終わっていたので、 内容は簡単に翻訳することができた。 そこに書かれていたのは、《アーキテクト》が残した、想像を絶する壮大な物語だった。

《アーキテクト》は、この宇宙が開闢してから、 わずか5万年後の、まだ宇宙の温度が100万度ほどもあった頃に、 人間とは全く異なる仕組みで発生した意識体であった。 生命体、つまり身体を持たない、純粋な意識体である《アーキテクト》は、 急速に冷えて固まっていく宇宙の中で、 自らの意識基盤を失いつつあったが、様々な生き残りの方策を試みてもいた。

30万年が過ぎ、宇宙が3000度にまで冷え、 原子が構成され、宇宙が晴れ上がる頃には、 《アーキテクト》の意識は宇宙中に拡散され、ひどく朦朧とした、 ゆっくりとしたものになっていた。 最早、彼らの意識や記憶はバラバラになり、希薄化され、消滅しつつあった。 それでも《アーキテクト》たちは諦めなかった。

彼らは、少しずつ、少しずつ、自らの意識と意志が、 物理宇宙に影響を与える道具を開発し、 それらを組み合わせて、時には、ささやかな飛行物質を、 時には銀河大の光通信ネットワークを創った。 しかし、いずれも、自分達の意識を《移植》するに足るだけの複雑さを持った 情報処理機能にはならなかった。

50億年が過ぎる頃、彼らは高密度な情報処理機能としての生命を「発見」するに至る。 宇宙が生み出した、生命という極めて精巧な動的平衡現象に、 ほんの僅かずつ干渉することで、生命たちには気付かれずに、 《アーキテクト》たちは、自らの意識や文化を宇宙規模で延命させる方法を、 ついに獲得したのだ。

それ以来、《アーキテクト》たちは、宇宙の全ての領域で、 生命を通して、知りたいと思うことの全てを知り、 為したいと思うことの全てを為してきた。 宇宙開闢から130億年が過ぎる頃、《アーキテクト》たちは、 最早、自分達がこの宇宙で為すべきことは何もないと悟った。 宇宙に知らないことは、もう何も無かった。

宇宙はマイナス270度にまで冷えた。 宇宙の至る所に、星と生命と文化が発生しては消えていた。 《アーキテクト》は、その全てを眺めつつ、 宇宙に散らばった自らの知識を数十億年掛けて、 私たちの銀河に集め始めた。 今から2万年前にその作業は終了し、 その全てを、巨大な水分子コンピューターである「意識の大水球」に封じた。

「意識の大水球」は、原子核レベルで動作する 量子コンピューターであり、溶け込んでいるナノマシンが、 全体の管理機能と大域的な通信機能を担っていた。 《アーキテクト》の意識は、この大水球の中で、今も生きている。 この宇宙で知りえた事の全ての記録を抱え、 その意味を考え続けているのだろう。

このコンピューターの演算量は莫大で、 1秒の間に、全人類の思考の100年分の情報処理が行われる。 だから、この2万年の間、《アーキテクト》たちは、 人間の感覚で言えば約63兆年分の時間をこの中で過してきたのだ。 そして今も考え続けている。 おそらく「自分達は、一体、何者だったのだろうか」ということについて。

「永遠の霊廟」の壁面に描かれた物語の最後には、 人類のことが記されていた。 《アーキテクト》は、人間を設計し、そして、 自らと同じような知識中心の文明を発展させた。 《アーキテクト》は、人間が、その好奇心から、 いつかはここに訪れることを予期していた。 人間を、そのように設計していたのだ。 部屋の中央にある棺は、その人間を徹底的に読み取って破壊し、 水球に《移植》するための装置だった。

《アーキテクト》は壁面の文字を通して、 私達にメッセージを残していた。 “知的生命”として生きることの、あらゆる苦しみと喜びを抱えて、 私達の世界に来なさい、と。 私達は全ての人間がやって来ることを歓迎する、と。 この水球には、全人類の意識を収容しても余りあるだけの容量がある。 そして、永遠の命がある。

人類が悩んできたこと、知りたいと思うこと、 この宇宙で究極的に為しうること、その全てについて、 惜しみなく究極の解答を与えよう。 そして、この宇宙に生まれ、自意識を持つに至った者として、 共に、この宇宙と私達自身の意味が何だったのかを語り合おう。永遠に。 ………《アーキテクト》は、私達にそう語りかけているのだ。

私は目を瞑り、顔を上に向けた。 目を開けると、満天の星空が見えた。 おそらく、2万年前、《アーキテクト》が自らをここに《移植》した時刻の星の配置を 正確に表しているだろう星空を。 「…つまり、今回の探査は、永遠に向けての一方通行の旅だったんだ。 もう地上に戻る術は無い。…会いに行こう、《アーキテクト》に…。」

私はリューシャの方に向き直った。 「生きて地上に戻ろうと約束したのに、済まない。 今回の僕達の旅は、最初から一方通行だったんだ。 僕達に残された選択肢は、この肉体を捨てて、 『意識の大水球』に行くことだけだ。」 リューシャは、《アーキテクト》の長い物語を読み終わって、しばし放心していたが、 私の声を聞いた後、「そうかな…」と短く呟いた。

リューシャも私の方に向き直った。 「ねぇ。これは、自由と選択の問題なんやわ。 私達は、私達として、ここで死んで完成することもできる。 もしくは、考え続ける永遠の生を、つまり、永遠の未完成を選択することもできる。 そして、あの52本のシリンダーの謎を解いて、 地上に生還する可能性も、無くなったわけじゃない。 選ぶ時間は、たっぷりあるよ。」

しかし、私の直観は、52本のシリンダーの謎を解くことは、 おそらく不可能であろうと告げていた。 大水球に《移植》される以外には、《アーキテクト》が何者で、何を知っており、 何を考えているのか、具体的に知ることは不可能だろう。 そうしなければ、シリンダーの暗号は解けない。 しかし、それは同時に、この肉体を失うということでもある。 だが、もしかすると、この壁面の長い物語のどこかに、 暗号を解く鍵が用意されている可能性も、確かにある。

「ねぇ、還ろう。私たちの日常へ。生れ落ちて、生き、 いつかは死すべき運命にある、私たちの日常へ。 《アーキテクト》の物語とメッセージは、 私達だけで答えを出すべきものじゃ無い。 答えを出すのは、私たちの赤ちゃんの、ずっと先の世代やわ。」 リューシャは明るく言った。 「私たちの赤ちゃん…か。」 リューシャの明るさは、私の心を救った。

海底8kmの羽柴遺跡の扉から幾つもの大構造を下り、 リュドミーラ遺跡の最深部の「集合的無意識の円形舞台」から 二重螺旋階段と「生への階段」を下り、 私達は今、「意識の大水球」上の「永遠の霊廟」で、 二人きりだ。 生還確率は殆どゼロ。けれども、私達の生の物語は、まだ終わっていない。 どうもがいて、何を選択するか…。 私達には、まだ自由意志が残されている。