遺言

last updated 2006.2.7.
「ここ」は病室だ。正確には、病室「だった」。

身体の隅々から這い上がってくる痛みと格闘しながら、
私以外の人間への遺言と、私の死体の処理とか葬儀に関する諸々は既に済ませた。
私は理想的な形で死につつあるのかも知れない。

いわゆる遺言らしきものは指が動くうちに書き終えている。
自分が孤独に死ぬと分かった時、こんな自分に関わってくれた人々、
とりわけ妻に対する感謝の気持ちが止め処なく溢れ、
自分が終わることを目前に、それでも始まって良かったと思える暖かい気持ちが、
「私」に関わってくれた全てに対する「ありがとう」という言葉で埋め尽くされた。

生きている時、人は、終わりに飢えているのかも知れない。
決断の一つ一つは終わりに向かう疾走感であり、
成功の一つ一つは可能性を使い尽くし死への階段を踏み固める作業だった。
予定通り、希望通り、私は約束の地である「死」に到達してしまった。

ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!
ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!
………生きている時から意味も無く心の奧に響いていた言葉。
自我にとって究極の問いである他者への、最初から分かっていた肯定。
「自分」の全てが、過去・未来の全宇宙を含む「他者」と釣り合っていた。
つまり、私は生きていた。

他者がゴッソリ消えて、自分に閉じる今この瞬間に、生の意味に気付く。
陸に上がる時に初めて、水中で泳ぎ続けていた時に気付かなかった水に気付くように。
「自分という仕掛け」は、外側が消えて、同期して内側も消えて、
仕掛け自体の意味が無くなって、消えるんだな。
それ自体は「盲点」のように意味の無い「仕掛け」、それが自分だったんだ。
見るものと見られるものの間にあって、ただ「ある」ように感じる錯覚だったんだ。

ゼロでしか無いはずの私の人生に、どこからどうみても意味があるように感じる
完璧な錯覚を贈ってくれて、本当にありがとう。
私の時間とは異なる時間を生きる全ての他者への嫉妬と感謝を愛した上で
それら全てが、この最後の瞬間の内側の残滓としての自分に取り込まれている、
「私の内に生きている」と信じ、今この時の最果てでの独り言の中では、
他者をも含んだ自分に感謝しても構わないだろう。

肉親を失う限りない悲しみ。
私も、それを「知っている」。
私が先に死ぬことの一抹の罪悪感や、
それでも「私に関わった、全ての、生きて激しく活力を持つ全ての人々」の心の中から
急激に等比級数的に減衰して消える自分自身の存在価値の儚さを思う時、
既に「何も無い世界」に落ちつつある私にとって「外界」である生命の世界は、
懐かしい、というよりも、眩し過ぎて直視できない別世界だった。
別世界である。

自分の病気の名前は知らない。癌だったのかも知れない。違うかも知れない。
あの諸処の苦痛が私の意識に鉄の線で一本一本繋がれ、大事な私の思考すら分断し、
あれほど死を極端に恐れた私を「死にたい」とまで思わせた激痛の嵐が、
私の思考の核から一本一本抜け落ち、剥がれ、消え去り、
私は肌の感覚や視覚や聴覚をどんどん失うことの代償として、
安らぎとか諦めとか「もう死んじゃってもいいんだ」という感覚を持たされた。
それが私を泡の膜で包み込んで、現実から浮かび上がらせてしまう。

肌の感覚はさっき消えた。妻が私の手を握ってくれていたような気がする。
でも、妻に対する感謝の気持ちは、私が私に閉じる前に、嘘偽り無く伝えられたはずだ。
この期に及んで俗ではあるが、十分なお金も遺せたと思っている。
現実世界から私を浮き上がらせ遊離させる何らかの加速度の中で、
初めて私は純粋に私だけと向き合うことになる。

視覚は随分前から失われた。聴覚はいつまであったのか思い出せない。
培養液の中の脳。感覚剥奪室。
日本語で思考し続ける死体。

そうだ。私は死につつあるのだった。
真理が崩れて散らばった綺羅星の現世で束の間関わった生命とか論理とか事物から
バッサリと切り離されて、
今、私は肉体が病室にあるかどうかすら、どうでも良い感覚の中で、
かくのごとく日本語で何やら自分内世界で思考している。

妻への別れも済ませたのだ。
この「最期の一瞬」は、自分だけのために使っても良いのではないか。
幸い、あの全てを奪い去る激しい痛みは、「もう死んでもいい」と
あれほど死を恐れていた自分に宣言させるほどの痛みは、
私の思考には繋がっていない。
生命体としては、私はもう十分に死んでいるのかも知れない。

この「今」という時間が、どれほどの速度で流れているのかは分からない。
ひょっとしたら、「今」この瞬間も、
妻は、実質的に死体である私の手を握っているのかも知れない。
愛情の篭ったその握り方、圧力の分布は、私の現在の思考には全く届いていないとしても。
そもそも、この「思考」が、いつまで続くかも分かったものではない。
数瞬後に消えるかも知れない。消えるような予感もある。

ともかく、純粋に自分のためだけの時間だ。

ブラックホールに飲み込まれたら光すらもそこから抜け出ることは出来ない。
しかし、ブラックホールに落ち込む人は、
いつ自分が引き返せなくなる「事象の地平線」の内側に踏み込んだのか、
理解できない。
気付かないうちに、自然とその領域に足を踏み入れてしまうのだ。

一切の感覚が遮断され、私は「死の内側」に吸い込まれた気がする。
生ある世界は今の私には眩し過ぎる。
過去の記憶ではあるが、最早、関わりたくない気がする。
生き返りたいとは思っていない。

純粋な思考だけの世界だ。
寂しい「時の最果て」だ。

私は終わる。そうだ。全ての“生命”は平等に終わる。
全ての“意味”は平等に終わる。
今、終わることを実感するに及び、終わるという共通の趣味で、
色々なものと繋がっていたんだなと微笑ましく思う。

矮小になった原始的な意識が幼稚になればなるほど、
この意識が捉える宇宙もどんどん幼稚になって、
終わるというたった一つの共通の趣味で私と宇宙も同じなんだと実感してしまう。

天国も地獄も、生きている間に仕入れた様々な記憶や判断様式が、
死ぬ間際に永遠に繰り返される脳内電気信号の残り火だとして、
この理屈っぽい最期を“楽しんでいる”私は、
ある意味で自分勝手な天国にいると思われる。

死ぬというのは盲点だった。

でも、今、この瞬間、死ぬという事実と引き換えに、
生まれて以来、春に恋をして、夏に海を泳ぎ、秋に山に登り、冬に暖め合う、
そんな人生という名の錯覚を味わえたのだなと納得する。
所詮、「命」とは、好き勝手に生きて好き勝手に死ぬという意味なのだ。

感覚が無い。声が無い。舌が無い。
口の感覚が無いというだけで、日本語という言語で考え続けることが辛い。
自動的に生きたいと願う私の“意識”が肉体的な苦痛から解放されたのに、
いまや意識が意識であること、考えるということ、それ自体すら苦痛に感じる。

そうか。あれほど死を恐れた私は、今、純粋に死にたがっているのか。
もしかすると、赤ん坊は、生まれた瞬間に
大声で「死にたい」と泣き叫んでいるのかも知れない。原始的な意識で。

生まれたのも病室、死ぬのも病室。
「考える」とかいう余分なものを持たされた人間という厄介な存在が、
自分のために設えた棺桶。
科学とか哲学とか宗教といったものも、人間が自分のために作った棺桶だな。

そうか、今、自分は終わるんだなぁ。
終わるってことで、他の終わるものと、対等になるんだなぁ。
宇宙とも対等になるんだなぁ。

「自分」という、この不可思議な意識を、永遠に楽しめると思っていたのに。
天国も地獄も、普通に生きている間に脳に溜め込んだ記憶と思考様式を、
死ぬ間際に走馬灯のように“永遠に反芻する瞬間”の比喩だと思っていたのに。

この思考すらも消えつつある。
扱う対象としての個々の記憶を取り出すことも、
取り出した個々の記憶を味わったり評価したりする演算の機能も、
どんどん弱っていくように思う。
こと、ここに及んで、死の瞬間は永遠なんかじゃなかった。
やっぱり終わるんだ。

少し妻と子供の事を思う。
でも、視覚や聴覚が失われて既に恐ろしいほどの主観時間が経過したので、
顔も声も思い出せない。妻とか子供という概念からも今、手を離さなくては。
残るのは自分だけだ。
でも、共に生きてくれてありがとう。
私が安心して死ぬ間際を楽しめるようにしてくれて、ありがとう。

自分が終わる時に自分を思う究極の自己否定。
普通に生きている時の一瞬一瞬に心の奥にトゲのように刺さっていた違和感。
なんだ、これだったのか。なんだい、これだったんかい。
今の私の無駄な思考を外部から記録できたら面白いだろうな。本当に無駄だ。

確実に消え去りつつある今の私の思考は、誰にも伝えられないし、真に無駄だが、
私の生れ落ちて以来現時点に至るまでの思考は無駄では無かったのだろうか?
他者との関係を最大限肯定しない限りは全部無駄として無に帰すべきだろうな。
あぁ、もっと君に優しくしておけば良かったよ。
この期に及んで愛が大事だ。孤独に死んでいるのに、孤独に死に切れない。
やはり死ぬのは不幸なんだ。

思考を紡ぐのが辛い。誰も聞いてくれていないし。

いろんな辛いことから手を離そう。
そうか、今この瞬間、分かった。
生きてきた苦痛から解放されるゼロへの帰還が死の安堵なんだ。
神に身を預けることも、死ぬことも、それ以上悩まなくて済む安堵なんだ。
嫌で嫌で仕方なく泣き叫びながら生まれ、こんなに安らかな気持ちで私は死ぬんだ。

誰か聞いて。誰も聞けない。究極の独り言。面白い。でも私は考えている。
記憶がある。記憶を取り出せる。日本語でそれを組み合わせて考えている。
何の役にも立たないのに。生きるための文化、生きるための言葉、それらを
全部完璧に無駄遣いして死の直前に使いまくる贅沢。笑える。愉快だ。
脳って何だ?

思考の呂律が回らない。あぁ、やっぱり私は死ぬ。僕は死ぬ。消える。
もう少し考えていたい。自分が自分であるというこの錯覚を楽しんでいたい。
でも、不思議だ。考えたいのに、それが苦痛だなんて。亡くなってしまえ、自分。
死ぬ瞬間に帳尻が合うなんて。死を恐れて、もがき苦しみ震えていた過去の自分に、
タイムマシーンに乗って伝えに行きたい。
一度、死の中に入ってしまえば死は安らぎなんだよと。

死ぬ瞬間にしか分からない感覚もあるんだ…。
何だろう、もう何も出来ないのに、漲るこの万能感は。
思考の呂律が回っていないけど。この大切な感覚を、記録したいんだけど。
記録って何だっけ。

意外と早い。脳から何かを取り出せていない。思考も働いていない。
永遠に思考できる気がしていたのに。誰かメモを取って………誰が?
突然凶弾に倒れた大統領も、静かに餓死した教祖も、終わるってところで
今の私と平等に、おんなじことを考えていたのかもなぁ。
意外と早く終わる。新しい言葉を紡ぎたいのに、無理。同語反復。輪舞曲。

残りの力を振り絞って汲み出そう。面倒くさい。あぁ、終わってもいいや。
嫌じゃないんだ。知らなかった。納得づくで死ぬんじゃん。安心した。
もっと早くに安心してりゃ良かったな。消える。平等だ。
自分で選んで消えるんだ。もういい。決めた。でもまだ考える力が残っているかも。
それなら無限にクロック・ダウンしながら考え尽くしてもいいのでは。

私の脳はとっくの昔に死んでいて、静電気が時折駆け巡る時の随伴現象として、
こんなことを考えているのかも知れない。
そういえば、今は日本語で考えているのだっけ?…うん、英語じゃない。日本語だ。
さっき病室で妻が私の手を握っていた時から何秒経ったのだろう。
この期に及んで、あんなに遠くに凝縮した「私が生きていた仮初めの世界」に
思いを馳せるなんて、私もなかなかロマンチストだな。
何だったんだ、あの「世界」という錯覚は。
小さく丸まってビー玉のように飛んでいった。

今、考えてることが無駄。自分のためだけに、絶対に明らかに
他の誰のためにも考えていない。だって死ぬ。これこそ究極の贅沢。
私が生きて勉強して努力して脳内に蓄えたものが感じさせてくれる贅沢。
幸せだ。でも消えてしまう。不幸だ。何も無かったらよかったのに。
でも、何かあってよかったともおもう。
生まれなかったよりは、生まれた方が良かったって思える。

貯金通帳よりも脳内の何かだよな、人間は、やっぱり。
天国には何も持っていけないけど、死ぬ間際に記憶と思考回路は持っていけるぞ。

時間はあるぞ。でも無いような気がする。
ここに全部ある。少しずつ、ゆっくり取り出そう。
アインシュタインの重量場方程式を解こう。行列と連立変微分方程式の概念を
何となく脳に刻み込んであるあるから、ゆっくり再構築すれば
同じものを作れるさ。時間はたっぷりあるさ。全然無いけど。
あと、数学とか量子力学とかね。楽しいなぁ………

………

愛があったな。消える。全部消える。
予定調和だ。全部包み込まれる。
なんだ、反抗できないじゃん。安心する。
ここで一発叫んでみたい。「オレは死なねーぜ!!」………元気だ。凄い。
そんな仮説を思い描いただけでも偉い。
口という感覚も無いのに、叫ぶという概念だけは、まだ覚えている。
一瞬、脳内で過剰な反応があったのかな。でも、眠い。

本当に色々あったな。結構な情報量だったよ、この人生。
親父ほどじゃ無いにせよ、脳細胞を使い尽くしたな。楽しかったよ、この人生。
まだ思考力があるじゃん。まだ考えていたいよ。でも、眠い。
カタリと音を立てて最期の言葉が刻まれる瞬間が、既に近いのかも。

永遠じゃなかったのか、この「最期の瞬間」は。
これはこれで、永遠だったら苦痛なのかな。終わる方が幸せなのかな。
だったら終わろうか。

でも、勿体無いじゃん。
僕は生まれた時、産声を上げなかったんだって。
逆さに吊るして医者が尻を叩いて、いやいや「んぎゃ」と泣いたんだって。
このイビツで歪んだ世界に生まれたことに、大して違和感が無かったんじゃないかなぁ。
ありのままに受け止めていたんじゃないかなぁ。
だから泣かなかったんだ。
ノイズを愛していたんじゃないかなぁ。
だから永遠の無はイヤだなぁ。折角生まれたのに。

でも、疲れたのかな。
生まれた分のモトはとったのかな。
もういいかな。

………。

今、途切れたな。もしかしたら、その間に、百年くらい経過したかな。

………。

僕が生まれた前。僕が死んだ後。
愛してる。
そんな言葉。ボキャブラリーが貧相。でも、僕にとっての愛って言葉は僕が創ったんだ。
だから、これでいいや。最期の言葉。「愛」………

若鶏の唐揚げ。ちがう、愛。有楽町のガード下の焼き鳥。ちがう、愛。
愛で終わりたいよ。ラーメン。カレー。愛する妻。
抽象的な愛という言葉で締め括りたいよ。でも色々なものがノイズ。去来する。
グチャグチャと。ザーザーと。楽しい。楽しかった。人生が一点に凝縮する。
あぁ、愛でもなかった。心地よい。終わる心地よさだ。ちょうどぴったりゼロになる。

………。

眠っていた。また起きた。無限のクロック・ダウン。不死。
ここに不老不死があったじゃん。僕はここにとどまる。
みんな、先に行ってくれ。この場でいい。ここで休む。
静かだ。気持ちいい。僕は手を振る。みんな頑張れ。愛しているよ。
田舎道のバス停。そよぐ草木。ぼくはここにいるよ。ちょっと休む。僕は。

永遠だ。

違うよ。脳が消えるだけ。
もしかして、そろそろ火葬の時間なんでは。
そしたら、この余韻が外側からグシャッと潰されるなぁ。
でも、まだ病室の中かもな。どうでもいいや。消えそう。

頑張って、生きていた時のことを思い出してみようか。
新潟の松波町でテトラポッドで足を切った。赤い血が出た。
フランスのシャンゼリゼ大通りでアウトランというドライブゲームでハイスコアを出した。
もう終わるのに。何てことを思い出しているんだ。
凄いな。くだらないな。でも、僕らしいな。

高尚なこと言いたいな。でも、誰も聞いてくれてないな。
思考の呂律が回ってないな。僕は誰。

僕は僕だよ。もう直ぐ終わるけど。感覚が無くなったから、
培養液の中の脳みたいに、感覚剥奪室の中の拷問のように、
足がどこにもついていないから、狂う。

…。

まだ考えている。凄いな。

…。

来世に生まれ変わろうかな。選択の権利なんてあるのああ。
やっと分かったんだけど。伝えたいな。もしかしてもう伝えていたかもしれないけど。
それならよかった。さびしかったんだずっと。寂しい。違う。
笑いたい。
顔の筋肉の感覚はもうずっと前に忘れたんだけど。顔って何だっけ?

好きって言えて良かった。まだあだかがえるよ。できるし。疲れたけど。
楽しかったんだ、本当に。んあで終わるのか理不尽だと思う。だからこそょかった。
消える。浮きああるかんじ・、お父さん、お母さん、みんな。自分なのに。なんで。

まてよ。本当にこれで完全なのか?
不完全なりに完全なのか?
わかった、言い方を変えよう。納得しているのか?

いいよもう何だよこれが自尊心という刃か、うざいよ。消しておけばよあった。
余分な思考はもう苦痛なんだ。
生きている間の違和感は全部こうやって安らかな終わりを乱すんだね。
そんなに深くないよ僕は。自己矛盾もしてません。そんなにはっきりしてません。

残念。ここに念が残る。

わからなかったけど。考えつくして分からなかったけど。
終わるよな。消え入りたいな。
頑張って最後に何か考えようとして、その一文の途中で終わったらいやだな。
どうやったらことあでかんあえるこおが自然に消えるかな。おああるな。
おとしていこう。おあろう。綺麗に。そうだったし。

愛しているとか好きだとか変なコトバでしめくるりたくあい。
しぜんいきえいりあい。コトバがつらい。ちがう、文化だけど、今は違う。
ありがとうは言い終わった。ほかは………めどうだ。いらない。

もういいやと思うから終わるのに、いくらでも引き延ばせるのに。
これは自殺?もういらない。めどうだ。いらない。

がんばれる。もういい。がんばらない。あるがままに。
流れて散る。
きもちいい。
何か。何かもない。ない。あったけど。
あった。いい。もう。
…で、きえ…う、お………あ。
あっ……た…おうい………い。

………………。

…あぁ…。

…。