after listening



こうしてハロルド・バッドの諸作を並べてみると、やはり、彼の音楽を私は「聴き込んでしまう」。あまりにも音楽的だから。静謐さや空間を包み込む、気流に舞う無数の粒子のような響きに、アンビエントという言葉をつい口にしてしまうことは許されるだろうけれども...

アンビエントかそうでないかという思考が無意味になると思えるのは常に、あるディスクへのリスナーの思い入れの度合が強い時と、聴き方によって音楽が無数の切り口を示す時だろう。音数の少なさや響きの軽さ・希薄さと、その音楽へかけた制作者の仕事量やインスピレーションの素晴しさは比例しないのだから。天才と熟慮とが、結果的に素晴しい、またシンプルなアンビエントを生み出すことは、数々のディスクが証明している。そんな音楽を時に、聴き手は「音楽的に」鑑賞する。
音楽的、とは自律的な従来のいわゆる「音楽」のこと。空間を彩るツールとしてのアンビエントではなく。イーノとの共同作業の2枚はその意味で微妙な境界上にあるけれど、むしろバッドの音楽の核である浮遊感と無限の淡いグラデーションを持った音楽を、イーノのそれこそアンビエント的なエフェクトで補ったものと考えたほうが、自然ではないだろうか?その証拠に、バッドのソロ・アルバムでのピアノメインの曲の多くは、自足したピアノ曲だ。決して単なる雰囲気作りの、アンビエントの素材としての「ピアノ・サウンド」ではなくて(逆に、そういった音素材としてのピアノで成功したのが、イーノとの共作なのだが)。

そう言えばイーノは、「サウンド・トリートメント」としてクレジットされていることが示唆的だ。バッドの音楽を、イーノがトリートすることで、アンビエント的側面を強調したというのが、私が聴いて得ることになった印象だけれど、どうだろうか。

近年のさまざまな音楽家との共同作業の結果、彼の音楽はどんどん室内楽、あるいは器楽曲的になってきた。シンセサイザーの音の広がりは録音サイトでの自然なエコー感に取ってかわってきた。今後、レコード、ではなく楽譜、つまり他の演奏家を求める音楽が彼の筆(ピアノを弾く指先ではなく)から生まれ、出版されることを想像するのも、楽しいことだ。エフェクトを使わなくとも、既存の楽器そのままの音色を使うコンテクストとコンビネーションが、まったく新しい響きを生み出す音楽家なのだから。





・h o m e・ ・ambient・ ・harold budd・