Harold Budd,Brian Eno with Daniel Lanois
the Pearl

(Editions EG,1982)






「右手のオスティナート」


1980年の『アンビエント2』でのブライアン・イーノとのコラボレーションによる続編。コード楽器、メロディ楽器としてのピアノの響きは一段と後退して、よりアブストラクトな点描が際立つ。イーノのエフェクトもより深く沈む色彩が強くなった。


バッドの全作品中、最も抽象度の高いピアノ演奏をここで聴くことができる。1曲目"Late October"がこのアルバムの音響を読み解く鍵になる。鍵とはオスティナート、である。繰り返されるDとD#のピアノは、旋律と呼ぶにはあまりにもはかなく、自足的で、透明だ。この一つの音の立ち上がりと減衰を聴き入ることは、アンビエント的なある種の体験、つまり響きに満たされた空間に身を置くというよりむしろ、個人的思い入れたっぷりのラヴ・ソングを聴くかのような、ひとつの音という対象への没入の快楽と誘惑を思い起こさせる。アンビエントをじっと見つめて、深く深く聴き込むという、ある種の幸福な(イーノの意図に反した?)矛盾であるかのようだ。

ところでオスティナートつまり「固執音」は、例えば鍵盤音楽で言えば本来は旋律を「右手に歌わせる」ためのものだった。左手の控えめな装飾としての、あるいは、音楽の推進力としての繰り返される低音を意味する用語なのだ(ラヴェル『夜のガスパール』第2曲をぜひ一聴されたい)。そのオスティナートを右手に持って来ると、旋律は不在となるはずのものだが、バッドはそれを、これ以上はないほどの純度を持つ、最もシンプルな単音の旋律にまで昇華させたと言っていいだろう。

彼の音楽の単純性の秘密は、そのあたりにもありそうだ。それは一音の持つ価値を引き出す魔法であるかのような、何かだ。それでも、一聴した印象よりもずっと複雑で大胆な和音の響きという解き難い謎は、残されたままである。

追記

この曲でのピアノは前述のDとD# にアクセントが置かれて繰り返し鳴らされる一種のオスティナートが特徴的なのだが、これは後に続く二つの音とともに、「D#-D-G」というモティーフを作っている。これを聴いて思い出したのは、「Ab-F-Eb」 の3音が至るところに展開されているドビュッシーの『水の反映』。シンプルな素材が変形を繰り返し、人の手垢の付いていない抽象風景を描き出していることに、両曲の近しさを見る。





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