反核・平和運動

北朝鮮の「核実験実施」予告声明に抗議!

10月3日、北朝鮮外務省が核実験を行うことを表明しました。このことを受け、原水禁国民会議で、在朝被爆者のために10月4日から予定していた訪朝団の派遣を延期することを出発直前に決定しました。
平和運動センターと県原水禁は、10月4日付けで「核実験実施声明撤回と核実験の準備を直ちに中止することを求める」抗議文を、北朝鮮・金正日国防委員長あてに送付しました。

また、5日には平和運動センター・県原水禁・県被団協・連合広島など12団体で構成する「核兵器廃絶広島平和連絡会議」で、核実験実施予告声明の撤回と、核実験中止を求める抗議の座り込みを行いました。雨のため原爆資料館下において、緊急の呼びかけにもかかわらず80人が参加しました。
連合広島・宮地会長、県被団協・坪井理事長のあいさつに続き、県原水禁・向井代表委員は、訪朝団派遣延期について「取り残された在朝被爆者の支援が何年も遅れてしまう。いかなる理由があれ、核実験の準備、核兵器保有は許されない。抗議の意味を込め、事態が改善するまで延期することを決めた」と報告されました。最後に慰霊碑に向かって黙とうを行い終了しました。

広島原水禁ニュースより

2006年10月4日

朝鮮民主主義人民共和国
 国防委員長 金 正 日  閣下

原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)
  代表委員 向 井 高 志
    片 山 春 子
    桑 原 知 己
広島県平和運動センター
  議  長 向 井 高 志
(連絡先)〒733-0013
広島市西区横川新町7-22 自治労会館1階
(TEL 082-503-5855 FAX 082-294-4555)

 

 


 

 

 

核実験実施」予告声明に抗議し、撤回と核実験中止を強く求める

10月3日、貴国外務省が、米国の対応について「反共和国孤立政策・圧殺策動が極限点を超えている」として、「北朝鮮科学研究部門では、今後、安全性が保障された核実験を行うことになる。核兵器保有宣言は核実験を前提にしたものである」とする声明を発表しました。

私たち、被爆地ヒロシマの広島県原水禁、広島県平和運動センターは、61年前の体験から「核と人類は共存できない」とする立場で「すべての国の核実験・核兵器」に反対し、平和と核軍縮を訴えてきました。

こうした立場から、今回の「声明」について強く抗議し、「声明」の撤回と核実験の準備を直ちに中止することを求めます。
いかなる理由があれ、いかなる国であれ、核兵器の開発・実験・保有は許されるものではありません。「安全性が徹底的に保障された核実験」などありません。

今回、貴国がこうした「声明」を発表するにいたった背景は、米・ブッシュ政権の核兵器も含む先制攻撃戦略とそれに追従し、軍事大国化をめざす小泉・安倍政権の軍事的・政治的・経済的圧力の強化の結果であることも明らかです。それゆえ米・ブッシュ政権、小泉・安倍政権のこの間の一連の政策にも強く抗議し、政策転換を求め、東北アジアに非核・平和の確立、日朝国交正常化への道を確かなものにするため取り組みを引き続き強化する決意です。

私たちは、今ほど対話と協議が求められているときはないと認識します。
「声明」の結びにある「対話と交渉を通じて朝鮮半島の非核化を実現しようとする我々の原則的な立場に変わりがない」とする言葉の通り、貴国が、2002年のピョンヤン宣言、2005年の六カ国共同声明に基づき、直ちに対話と協議を開始することを強く求めます.


アメリカ合衆国大統領
 ジョージ・ブッシュ 閣下

臨界前核実験の中止を強く求める

アメリカエネルギー省が、8月30日、ネバダ核実験場で通算23回目となる臨界前核実験を実施すると発表した事は、被爆者の気持ちを踏みにじる暴挙であり、私たちは強く抗議し実験中止を求める。
1996年の国連総会は圧倒的多数でCTBTを採択した。この条約はインド・パキスタンなど含め、44ヶ国の署名・批准が条件になっているため、いまだに発効していない。
CTBT採択後も、アメリカ・イギリス・ロシアなどは、爆発を伴わない実験は可能と臨界前核実験を強行している。
臨界前核実験に対し、私たちは一貫して反対している。「臨界前核実験が本当に臨界前なのか、CTBTに合致しているか、国際的には検証がない。実際に反していなくても『信頼の危機』を生み出す」と、1998年ヨーロッパ議会が指摘した通りである。
NPT未加盟国の核拡散には厳しく、自らの核保有には徹底して甘いダブルスタンダードの姿勢をやめ、核拡散防止のために率先して核軍縮を進めるべきである。
アメリカは直ちに実験計画を撤回し、小型核、新型核弾頭などあらゆる核開発を中止することを強く求めるものである。

ヒロシマは改めて訴える

2006年8月30日

原水爆禁止広島県協議会
代表委員 向井 高志
片山 春子
桑原 知己

広島県平和運動センター
議 長  向井 高志

(広島原水禁ニュースより)

労研復刊13号

長崎平和推進協の「被爆者は政治的発言の自粛」要請について

                                         米澤鐵志

322日「朝日新聞」夕刊によれば長崎市の外郭団体である長崎平和推進協会が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求める文書を渡し、これに反発した被爆者等は文書の撤回を求めているが推進協はこれを拒否していると書かれている。

さらに文書の内容として、被爆体験講話を行う場合「意見の分かれる政治的問題についての発言は控えよ」として@天皇の戦争責任A憲法(9条)の改変Bイラクへの自衛隊派遣C有事法制D原子力発電E歴史教育・靖国神社F環境・人権など他領域G一般に不確定な問題の発言(劣化ウランなど)があげられている。

 長崎の「被爆体験の継承を考える市民の会」など被爆者たちは、戦争・原爆を語るに「政治」の問題抜きには語れない、言論の自由に対する侵害として文書の撤回を申し入れているといい、推進協設立の前本島長崎市長も「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかっての道が現れた」と報道されている。

 今の戦前への右傾化の進んでいる中で、先の八項目のような問題で立場を明確にするのが難しい風潮の中で、被爆者は唯一といっていいぐらいそれが出来る。被爆者は体験を語るとき自民党支持者の人や保守的な人でも、あの戦時下の非道な状況を語らざるを得ない。また体験を聞いた市民や学生、子供たちも何故そんな理不尽なことになったかの質問をし平和と反核の重要性を意識する。

 私は小学校、中学校などで被爆の話しをし、日本の戦争責任や、韓国、朝鮮人の被爆と差別の話をしているが、小学生の中には「かって日本は拉致よりもっと酷いことをしたんだなあ」という感想文をくれる。そういう意味でも被爆体験談は今の流れにきつい対抗になりうるし、そのことが今の権力、為政者にとって目障りなのであろう。

 平和推進協というのは京都でも各自治体ごとにあり、婦人団体、青年団体、福祉団体や青年会議所など広範囲の団体が参加しており(長崎も一緒だと思う)宇治では平和月間として毎年記念講演、映画、(去年は吉永小百合の峠三吉の原爆詩や神田香織の講談はだしのゲンをやった)など行い8・15には二度と戦争は繰り返さないという平和の像の前で集会と献花を行い、推進協会長の宇治市長が平和宣言を行うが、その中身は戦争の反省と核兵器廃絶への願いがこめられ非常に格調の高いもので、広島、長崎または沖縄の訪問小・中学生の献花もあり、全市議も参加市民有志も誰でもが参加できた有意義な集会であった。

 ところで長崎の記事を読んで気になることを思い出した。

財団法人京都府原爆被災者の会は40人ぐらいの語り部を持っていて、あらゆる場所で体験講話を繰り広げているが、昨年末語り部交流会の会場で被災者の会会長が「体験講話は事実にもとずいた体験を話すだけにし、戦争反対などの意見は言うべきでなく、聞かれれば個人の意見と前置きして意見を言って欲しい」と要請された。

私は直ちに今の会長の意見はきわめて政治的で、核を語るのに政治や人生観を抜きにした講話はありえない。私の被爆体験の中身は日本の戦争責任とあらゆる戦争に反対する行動の呼びかけであり、それが生存するヒバクシャの任務だと考えていると発言した。

他の人からも被爆を通じて持った人生観や生き方を語るのは当然だという意見が多かったが、米澤さんのような体験講話は被爆者の会の肩書きでなく、被爆者個人としてやって欲しいと要請された。

もともと私は被爆者の会からの要請で体験講話をしたことは無く、昨年の15回の講演も個人に要請されたものばかりだったので、まあ勝手にやるかと思っていたが、会長発言が一つの流れだと考えられれば語り部の中に問題を持ち込む必要があるか考えている。

また平和推進協の中に動きが出れば、今までの路線が変更されないように働きかけねばとおもっている。

2006323日                        米澤鐵志

 




「マスメディアとどう付き合うか」 井上遥

歴史をふりかえってみると、マスメディアの流す情報によって国民の判断力が狂ってしまった例があまりに多い。情報あふれる現代社会を情報の海でおぼれず生きていくためには、苦い過去に学ぶことがとくに必要となる。また、情報を受ける側も常識をもたねばならない。「真珠湾はどこにありますか?」と聞かれて「ハイ、三重県です」と答えるような若者は、心まで簡単に操られてしまうだろう。

マスメディアは何を伝え、何を「伝えなかった」か? 人々はマスメディアにどう影響されたか? そして、われわれはマスメディアとどう付き合うべきだろうか。満州事変から現代までの流れを追いながら考える(注=今はテレビの影響が大きいが、テレビが現れる前の影響力第1位は新聞。あとは出版物・ラジオなどであった。以下、引用した『朝日』は単なる例示。他紙が優れていた、という意味ではまったくない)

                   *

@1931年9月18日、関東軍の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起こす。満州事変の始まりである。戦時国際法の適用を避けるための、「事変」と称する宣戦布告なき戦争であった。この事件について9月19日付『東京朝日』は「本日(注=18日)午後十時半、北大営の西北において暴戻なる支那兵が満鉄線を爆破し、我が守備兵を襲撃したので我が守備隊は時を移さずこれに応戦し、大砲をもって北大営の支那兵を砲撃し北大営の一部を占領した」と、事実関係を正反対に報じた。さらに9月25日付『朝日』でも「日支衝突の導火線 満鉄爆破現場を視る」「支那兵計画的の形跡歴然たり 島本中佐(注=北大営攻略を行った人物)の説明を聞く」の見出しで、ありもしない「支那兵の爆破方法」を紹介した。間違い情報を信じた国民の間には「反支那感情」が高まっていく。32年3月、満州国の建国宣言。33年3月、満州撤退勧告案を採択した国際連盟から日本は脱退する。

この間の報道について江口圭一氏は「柳条湖事件以下の謀略の真相を秘匿し、日本軍への感謝と賛仰の念を煽る一方、中国・連盟・欧米への敵意と憎悪の念をかきたて、民衆を排外主義・軍国主義へ動員する上でマスメディアは絶大な役割を演じた」と述べる(『十五年戦争研究史論』校倉書房)。だが一方で、中国民衆の視点による報道はゼロである。その結果どうなったか。江口氏が注目するのは、「生活に恵まれない人の方がむしろ好戦的であり排外的であった」点である。たとえば9月20日『神戸新聞』に載った「車夫」の言葉「一体から幣原があかんよって支那人になめられるんや。向こうからしかけたんやよって、満州全体、いや、支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持ちになって俺らも助かるんや」など、事件への民衆の「怒りの」反応を引用しつつ、「恐慌でもっとも強く痛めつけられた無産大衆の憤懣は反体制的に結集されないまま国外の敵に向かって吐き出され、その敵を相手に酷寒の異郷で奮戦する同胞への同情に結実された」(同)と指摘する。民衆は情報操作に影響されやすいのである。

★同じころ、ドイツでは33年1月30日、ヒトラー内閣成立。2月27日、ナチスのゲーリングらが仕組んだと見なされる国会議事堂放火事件。国家秘密警察(ゲシュタポ)を作ったゲーリングはナチス幹部としては真っ先に放火現場へ駆けつけ、「そこで大喜びした」という(現場にいた兵士の話)。3月23日、全権委任法成立。そして33年5月には焚書。ゲッベルス宣伝大臣のもと、ドイツ各地で行われ、ヒトラー政権に禁止された書物を焼き払った。禁書の著者の1人、ハインリヒ・ハイネが記した「焚書は序曲にすぎない。本を焼く者は、ついには人間を焼くようになる」(戯曲『アルマンゾル』、1823年)との警告は無視され、のちに強制収用所で「人間が焼かれ」ていったのである。「本を焼く者」とは、「自分の気に入らない言論を抹殺する者」のことでもあり言論抑圧や伏せ字まじりの戦争報道が行われた日本にも「本を焼く者」はいた。7月、ヒトラー内閣は新しい政党の結成を禁止し、ナチス以外のすべてが非合法化される。10月には国際連盟を脱退する。

A37年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日本は中国との泥沼の戦いへ突き進んでいく。事件から3か月後の11月5日未明、日本陸軍は杭州湾岸の金山衛に敵前上陸する。南京攻略戦の始まりである。11月8日付『読売』には「敵軍唖然たり・奇襲の杭州湾上陸」の特大見出しの下に「突如潮の如き大兵団 我陸海軍の威力発揮 上海戦史上を飾る圧巻」「百万の皇軍上陸」「日章旗の下支那良民が道案内」の見出しがおどる。ここで、「『我』陸海軍」は軍隊と一体化した表現であり、今の第2次イラク戦争でのアメリカのテレビと同じ報道姿勢である。「皇軍」とは天皇の軍隊を意味する皇国史観用語。そして「支那『良民』」とはなんと自己中心的な言い方であろう。文中には「○○隻の護送船」「○○部隊」「○○基地」「○○から顔を出して」「○○機」など、「○○」が並ぶ。

12月17日に南京入城を迎えるまでの1か月余りの攻略戦の過程で日本軍による20万人とも言われる中国人大虐殺がおきたが、その実態は国民に知らされないままであった。三越は南京占領直後の15付『朝日』に「南京陥落を祝す」「皇軍万歳」と大きくかかれた半ページ広告を載せ、18日付『東京日日』は「青史に燦たり・南京入城式」「武勲の各隊・粛然堵列 松井大将堂々の閲兵」「敵首都に『君が代』 高く掲ぐ日章旗 瞬間、全将兵感激の涙」と報じた。紙面には喜びが満ちあふれている。しかし、家を焼かれ食料を奪われ家族を殺された中国人への気づかいは、どこにも見あたらないのである。

B39年5月、ノモンハン事件(ハルハ河会戦)が発生し、関東軍はソ連軍との戦いで多数の犠牲者を出したが、実態は国民に知らされなかった。

C雑誌も戦争を強く支える。40年8月21日号『アサヒグラフ』は「ぜいたくは敵だ!」と題する記事を載せた。「戦争はまだ続いている。兵隊はまだ戦っています。しかし、一度街頭を瞥見すれば其処(そこ)には新体制も七・七禁令も興亜奉公日も忘れた旧態依然たる虚飾と有閑とが豊富に取り残されているのに気付きます」と書き、町を歩く女性の服装を写真入りで採点した。「20点」の女性は「三〇度に傾いた帽子(ベレエとルビ付き)、その下にパーマネントと首飾り、腕に腕輪を、手には手袋、しかもどこで手に入れたかシルクの靴下にハイヒール、右手に持ったお買い物、完全無欠の欧米風俗。まさに有閑令嬢の感じ濃厚。『支那で戦っているのは一体何処(どこ)の国だ』とお聞きしたくなります」との酷評を受けている。「なぜ支那で戦う必要があるのか。引き揚げるべきだ」という記事は当然ながら出ない。こうして、雑誌も国民の暮らしを窮屈なふん囲気へと追いやっていったのである。

D41年12月8日の真珠湾攻撃から敗戦までのあいだ、マスメディアは軍隊の宣伝機関と化し事実をゆがめながら先頭に立って国民をあおり続けた。ミッドウェー海戦での敗北を「勝利」であるかのように描き、ガダルカナル戦では「撤退」を「転進」と書き、餓死・病死が続出した悲惨な現実は伝えなかった。原爆投下の翌日、87日付『朝日』に出たのは「B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙った模様である」という程度の記事だ。さらに12日付では「われ等は、かかる新兵器に断じて屈服するものではない」と、事実を直視せずただ強がっている。敗戦のわずか3日前のことであった。また、真珠湾攻撃で戦死した特殊潜航艇乗員9人を「軍神」とたたえた42年3月7日付『朝日』には、三好達治の「九つの真珠のみ名」、吉川英治の「人にして軍神」と題する賛美の文が掲載された。しかし、乗員の残り1人・酒巻少尉が米軍の捕虜になった事実は国民に伝えられていないのである。新聞社自身も積極的に戦争協力の態度をとりつづけた。「軍用機献納運動」「勤労報国隊歌の歌詞募集」「国民決意の標語の募集」はその例である。

E戦後の動きを見よう。

56年5月8日、『西日本新聞』が「水俣で伝染性の奇病」と報じる。しかし熊大研究班は「工場排水が原因」と指摘し、伝染病説を否定した。その後、すでに42年には水俣病患者が発生していたことが病院のカルテから判明した。だが、水俣病は長いあいだ軽視され、報道はまったく不十分であった。

ベトナム戦争報道についてはあまりにも問題が多いので、ここではごく1部だけ例をあげる。64年8月、ジョンソン大統領がトンキン湾事件を口実に北爆開始。ニクソンに代わったあとの71年6月、『ニューヨーク=タイムズ』が国防総省秘密報告を暴露したが、事件当時、米国民は北爆へ向けた謀略の真相を知らされなかった。ジョンソン時代の68年に起きたソンミ虐殺事件もニクソン時代に同紙が記事にした。だが、ソンミの2倍の村人がアメリカ軍に殺されたといわれるニクソン時代のバランアン虐殺は黙殺された。これら同紙の報道の仕方には情報操作のにおいがする、との指摘がなされている。

67年のベトナム戦争の報道で、『朝日』は見出しに「ベトコン」、文中では「民族解放戦線(ベトコン)」を使ったことがある。ゆれ動く報道姿勢の象徴ともいえる。また、ベトナム戦争を命がけで取材し、『戦場の村』など多くの優れた報告を世に送った本多勝一氏によれば、ベトナム戦争時、南ベトナムにいた米人ジャーナリストのほとんどはアメリカ軍から情報を得ることが圧倒的に多く、「○○軍曹はいかに勇敢にベトコンを殺したか」式の記事を書いていた。戦争批判はせいぜい、「今のやり方ではアメリカ合州国にとって戦術的に良くない」といった程度のものであり、「ベトナム人のために良くない」との批判ではなかったというのだ(『ジャーナリスト』本多勝一集18巻、朝日新聞社)。さて、今の第2次イラク戦争の場合、「イラク人のために良くない」との戦争批判は日本のマスメディアにどれだけ登場したのか? 第2次大戦中、「中国人のために良くない」「朝鮮人のために良くない」との批判がどれだけあったのか?

 89年1月の天皇死去報道の際、『朝日』『毎日』『読売』は1面で「崩御」を使っている。異論を許さない非寛容な「自粛一色」社会への雰囲気をつくる上で、マスメディアは戦前の経験にこりず、またしても先導役を果たしたといえよう。

94年6月、松本サリン事件でマスメディアが被害者の河野義行氏を初めから犯人扱いし、人権を侵害した。たいへん罪深いことである。

96年には、「ナチ『ガス室』はなかった」を掲載して廃刊となった『マルコポーロ』(文芸春秋。田中健五社長)の花田紀凱編集長を、朝日が創刊誌『uno!』編集長に迎えた。この人事は社の内外から強い反発を招き、雑誌は大赤字を出してまもなく廃刊に終わったが、桑島久男出版担当役員は失敗の責任を取らなかった。また、2005年、朝日が『週刊朝日』の企画に関して武富士から5000万円を「編集協力費」名目で受け取っていた事実が発覚した。朝日にはそもそも「編集協力費」なるものが存在しない。バレたのは、事件から4年以上も後のことである。この間、自浄作用はまったく機能しなかった。おまけに、このときの箱島信一社長以下への処分は非常に軽い。会社の体質がおかしいのだ。

2006年1月15日付『朝日』には、山名「エベレスト」が12回も書かれた記事が大きな写真つきで載っている。紙面製作者には何も問題意識がないのだろうか。「エベレスト」はイギリス人のインド測量局長官、ジョージ・エベレストにちなむ名だ。そこに生活している人々が使う言葉を少しは尊重してはどうだろうか。チベット名「チョモランマ(大地の母)」、ネパール名「サガルマータ(世界の頂上)」くらい記載すべきだ。ついでだが、アラスカのマッキンリー山は米大統領名にちなむ。これも勝手な言いかただ。先住民はデナリ(偉大なもの)と呼ぶのだから。

2005年、自民党政治家、安倍・中川による、NHK番組への介入事件が明るみに出た。介入を進んで受け入れたNHKの報道が信頼性を欠くのは当然であろう。2005年12月21日、番組改変当時の担当デスク・長井暁氏が東京高裁で証人として述べた言葉の中で、次の個所は『朝日』『毎日』『読売』には載らず『東京』『赤旗』に載った。「NHKの職員がNHKにマイナスになることを言っていいのか、かっとうがあった」(『赤旗』)。「でも、ここで本当のことを言わなければ一生、後悔すると思った。組織人として正しくなくても人間として正しく生きようと思った」(『東京』。『赤旗』もほぼ同文)である。彼は「責任を感じる能力」を持ったジャーナリストの1人だ。

                  *

ここで、「責任を感じる能力」、そして「恥を感じる能力」の意味を、音楽家の生き方を例に考えてみよう。

パブロ・カザルスは、独裁者フランコ(スペイン)への反対を貫いたカタルーニャ出身のチェリストである。ピアニストのコルトー、バイオリンのチボーとトリオを組んでいたことがある。そのコルトーが戦後、フランスのプラードに住むカザルスを訪ねた。そのときの様子が『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(朝日新聞社)に描かれている。

「だれかが玄関のドアをノックした。私がドアを開けると、アルフレッド・コルトーが立っていた。彼を見ると私はひどい痛みを感じた。悲しい過去の日々がまるで昨日起ったかのようによみがえってきた。私たちは立ってお互いに顔をみあわせたまま、一言もいわなかった」

 実はこの来訪の数年前、ナチス支配下のフランスで力添えを頼んできたカザルスに、コルトーは冷ややかな態度で接していた。そのころコルトーはナチスへ協力しており、反ファシズムのカザルスとは立場が違っていたのである。

「そのとき彼の行動が理解できなかった。しかし、まもなく、コルトーが公然たるナチの協力者になったときに、なぜ彼が私にこんな仕打ちをしたか、悲しいかな、わかった。恐ろしいことだ、人は恐怖や野心でとんでもないことをしでかす」

 そして、かつての演奏仲間を前に、コルトーは言う。

「彼はぽっつりぽっつり話しだしたが、目は伏せたままだった。(中略)初め彼は自分のおかした行為を弁明しようと、もそもそと話しだしたので私は止めさせた。すると、せきを切ったように、『ほんとなんだ、パブロ。世間で言ってることは本当なんだ。私はナチと協力したんだ。私は恥ずかしい、ひどく恥ずかしく思っている。君に許しを乞いにやってきたんだ・・・』。これ以上なにも言えなかった」

 しかし、そんなコルトーはまだ、「恥を感じる能力」を持っていた。カザルスは「責任を感じる能力」をも備えていた。「能力」を有するこんな人々がマスメディアに登場すれば、その影響で「考える読者・視聴者」は増えていくだろう。だが一方で、それは権力者にとって危険なことだ。

 ヒトラーは『わが闘争』(角川書店)の中で大衆操縦法に触れている。「ジュンイチロウ・コイズミ」(アメリカ式読み方。この人が従うブッシュ大統領も恐らくそう読むであろう)という名の日本のコイズミ首相の手法ときわめてよく似てはいないだろうか。

「宣伝はだれに向けるべきか? 学識あるインテリゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである!」「(宣伝の)知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない」

最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである。変更のたびに、宣伝によってもたらされるべきものの内容を決して変えてはならず、むしろけっきょくはいつも同じことをいわねばならない」

大衆を引き込むためには難しい言い方をしてはならない、と説くのである。そしてヒトラーは影響力拡大の手段として新聞が重要であることを良く分かっていた。「新聞は一般的に言って、いくら高く評価しても過大評価されるということはありえない」と彼は言う。そして読者を3つのグループに分ける。第1は読んだものを全部信じる人々、第2はまったく信じない人々、第3は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々である。

「第1のグループは数字の上からは、けたはずれの最大グループである。かれらは大衆からなっており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表わしている。(中略)自分で考えるだけの素質もなければ、またそのような教育も受けていない人々は、みなこのグループにはいる。そしてかれらは半ば無能から、半ば無知から、白地に黒く印刷して提供されたものを全部信じる

「第2のグループは数ではまったく決定的に少なくなる」

「第3のグループはけたはずれて最少のグループである。かれらは生まれつきの素質と教育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについてかれ自身の判断を形成することに努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう1度自己の吟味にかけて、その先の結論を引きだすような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ」

 ヒトラーは批判精神の持ち主をきらう。だから、第3グループは目ざわりな存在である。しかし、心配はいらない。

(かれらは)ジャーナリストなどは通例として、真実をただたびたび語るにすぎない詐欺師とみなすことに慣れてしまっている。しかし残念なことは、このようなすぐれた人間の価値が、まさにかれらの知能にだけあるにすぎず、その数にはないことである」

 これで、ヒトラーは安心できる。

「このことは賢明であることに意味がなく、多数がすべてであるような時代における不幸なのだ。大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、決定的な価値はまったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第1のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集なのである」

 ヒトラーは「愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集」を取り込むことに神経を使う。だから、「これらの人々がより低劣な、より無知なあるいはまったく悪意のある教育者の手に落ちるのを妨げることは、もっとも重要な国家および国民の利益である」と考える。では、そのために何をすべきか?

「国家はそのさい、特に新聞を監視しなければならない。なぜなら、新聞の影響はそれが一時的ではなく継続して与えられるから、これらの人間にきわめて強烈でしかも効果的であるのだ。こうした教育が変らぬ調子で、永遠にくり返されることの中に新聞のもつまったく比類のない意味がある」

 だから、言論の自由が保障されると困るのだ。というのは、「あらゆる手段は1つの目的に役立たせなければならない、ということを国家は忘れてはならない」からである。

「国家は断固とした決意で民衆教育のこの手段を確保し、それを国家と国民の役に立たせなければならない」 

事実と真相を語れ」「自由な言論を」とは決して言わない。だれよりも強大な権力を愛したヒトラーは、だれよりも言論の自由をきらったのである。

                    *

いま、当時と同じ誤りを繰り返してはならない。ヒトラーの言う「第3グループの読者」が増えれば世の中は良くなっていくのだ。そのためには情報に受け身で接するだけではいけない。飛びこんでくる情報を鵜のみにせず、「自分の座標軸」を持って受け取る必要がある。そしてマスメディアには意見をどんどん言うべきである。それによって報道する側の緊張感も高まり、情報の流れが一方通行のまま終わらなくなる。意見が紙面・番組に反映されていけばマスメディアの質は高まっていくだろう。もっとも、「いかなる国民も自分の水準を超えるマスメディアを持つことはできない」のかも知れないのではあるが・・・。しかし、もし読者・視聴者の意見が反映されないのであれば、納得のいく新しい媒体の出現に期待せざるをえない。いや、現れるべき時はもう今、きているのではなかろうか。

 


被爆者援護法と村山内閣

―今こそ必要なのは諸運動の連帯と組織力−

広島原水禁常任理事 松江 

労働運動研究1995.1 No.303

 

 

一、国家補償をめざして

 

国家補償にもとつく被爆者援護法

の実現はついに見送られた。それが

被爆敗戦五〇周年を前に、「半世紀に

近い運動に報いる村山内閣の答えで

あった。それはまた学生兵から帰広

し、学友たちの戦死と兄・母をはじ

め多くの友人・知人たちの原爆死へ

のとむらい合戦として、反戦反核運

動を闘ってきた私への村山内閣の答

えでもあった。

ふり返って見れば、私たちの広島

での占領下の闘いは反核よりもまず

反戦であった。広島で反核宣言を初

めて提起したのは一九四九年一〇月

二日(国際反戦デー)にひらいた戦

後最初の平和集会だった。占領軍の

介入もあって緊急動議のかたちを

とって大会宣言を補完したのが反原

爆のアピールだった。そうして翌五

〇年の朝鮮戦争反対の非合法闘争の

時にも、アピールは「朝鮮戦争を直

ちに止めよ。アメリカ帝国主義は朝

鮮から手を引け」というメイン・ス

ローガンの次に「原爆を廃棄せよ」

のアピールであった。こうした運動

のなかで、はじめて反原爆が主要な

目標として掲げられたのは被爆から

九年目の「ビキニ」被災に始まる県

民ぐるみ、国ぐるみの運動からだった。

この反原爆運動(反核運動)を契

機に開かれた一九五五年の第一回世

界大会の宣言がその後の反核運動の

基調となった。「……原水爆被害者の

不幸の実相は、広く世界に知られな

くてはなりません。その救援は世界

的な救援運動を通じて急がなければ

なりません。それが本当の原水爆禁

止運動の基礎であります。原水爆が

禁止されてこそ真に被爆者を救うこ

とができます。……」と。この世界

大会の翌年の五六年三月一九日、広

島の被爆者四〇〜五〇人が、この運

動の熱心な推進者だった広島原水禁

の藤居平一氏を団長に、客車一車を

借切るようにして政府・国会に要求

するため大挙上京した。私もまた亡

くなった板倉君とともに同行した。

このときはじめて国家補償による被

爆者の救援を鳩山首相と衆参両院議

長に要請したのだった。

私は求められて一九八○年九月号

の『労働運動研究』に「社会保障か

国家補償かー原爆被害()者援

護法について」という一文を書いた

ことがあるが、この課題にたいする

態度と意見はその時と少しも変って

いない。またこの要求も四〇年来少

しも変っていない。

現行二法――「原子爆弾被爆者の

医療に関する法律(医療法)(一九

五七年四月)・「原子爆弾被爆者の

特別措置に関する法律(特別措置

)(一九六八年九月)――は社会

保障法の体系に属するものである。

「社会保障とは社会保険と公的扶助

を主柱として最低生活の保障を通じ

て労働力の保全および社会不安の防

除という政策的効果をめざして生ま

れたもので、ドイツのビスマルク立

法を祖にするものである。」(岩波小

辞典)。この二法もまさに国家の恩

恵を与えることによって被爆者の不

満をなだめようとするものに外なら

なかった。それまでは戦争被害全般

に通じる原爆被害ということばをわ

ざわざ被爆者と云いかえることで、

侵略戦争の被害者集団としての性格

を一人一人の被爆者に解体したので

あった。

そのうえこの二法の性格は、放射

線障害を地域的な特殊疾病として扱

い、あたかも風土病のようにその地

域だけに発生するものとして当時広

島・長崎にいた人々の特殊な病気に

している。またもっとも重要な問題

点は放射線障害それ自体を対象とす

るのではなく、放射線障害によって

誘発された病気のみを対象としてい

るが、それは認定制度に集中的にあ

らわれている。現行制度では治療に

よって治癒しない疾病は認定しな

い。「治るから病気がある」というわ

けだ。

しかし要求は当時から今日まで一

貫してこうした社会保障ではなく

家補償の実現であった。それは国家

の戦争責任とそこから生じた被害の

国内における一つの極限としての原

爆被害にたいする、国家の詫びであ

り償いなのである。ことばは同じ「ホ

ショウ」でも内実は天と地ほど違う

のだ。このたびの補完的立法化のな

かで「所得制限の撤廃」は旧来の保

障法のワクを一歩越えた「国家補償」

の一環だと自慢するが、果たしたそ

れを喜ぶ大金持ちがどれだけいると

いうのか。社会保障法のすそに「国

家補償」の匂い袋を入れたに過ぎな

い。そのうえ死者にたいする弔慰金

も年限を限ったうえに被爆手帳を所

有する遺族を対象に交付するとい

う。結局被爆手帳保持者への葬式料

以外の何物でもない。これは国によ

る死者へのとむらいではない。まし

て「国の責任」ということばがある

から「国家補償」的な性格があると

いうに至っては子供でも分かるゴマ

化しである。書こうと書くまいと国

の責任がない法律などあるはずがな

い。

国家補償としての援護法の不可欠

の要素はまず第一に侵略戦争にたい

する国家責任を明らかにして国がそ

の被害を償うことであり、第二には

過去の被害に遡及して死者にお詫び

をすることであり、第三に朝鮮人、

中国人をはじめとして外国人被害者

にたいして日本国家が補償すること

である。

 

二、侵略戦争の「加害」と「被害」

 

侵略戦争には「加害」と「被害」

を切り離すことはできない。それは

侵略戦争にとって避けることのでき

ない宿命である。しかし「被害」は

直接に肉体・精神に打撃を与え、被

害者は直感的に感じることができる

のに対して、「加害」が侵略戦争を

行った国の人々にとって認識される

ためには直接の加害行為の場合を除

いて間接的な追及による反省を必要

とする。被害意識が個人的体験から

出発するのに対して、加害認識が国

家の加害行為の認識を通じてはじめ

て人々の自覚と責任感に進む。

私たちはこの加害認識、加害意識

についてしばしばかつての同盟国と

して侵略戦争を進めたドイツ人の場

合と比較される。ドイツの場合いつ

も引合いに出されるのはヴァイツ

ゼッカー大統領の一九八五年五月一

八日の連邦議会の演説である。「罪の

有無、老若いつれを問わず、われわ

れ全員が過去を引き受けねばなりま

せん。……過去に目を閉ざす者は結

局のところ現在にも盲目となりま

す。」と。ちなみに彼は私より一歳若

く、私と同じ学生兵としてポーラン

ド戦線に送られ、同じように送られ

た兄は戦死している。そうして彼が

語ったこうした考え方は大統領の彼

だけでなく、現在もドイツ人の意識

のなかに大きな位置を占めている。

私は学生兵から解放され帰広して

以来、中国新聞社に入って論説を書

きながら労働運動反戦平和運動に

入ったが、当時日本の知識人や学者

たちがアジアにたいする戦争責任論

や戦時戦後の補償について論じた文

章をほとんど読んだことがない。も

ちろんドイツで戦後早くから始まっ

た学者たちの戦争責任論争に似たも

のも何一つなかった。いや人ごとで

はなく私自身そこまでつきとめてい

なかったし、私の身近な人々の中に

もそうした責任を自覚して問題にす

る人には残念ながら出会わなかっ

た。しかし原爆被害は私にとっても

肉親にとっても、多くの広島の人々

にとっても何よりも切実なもので

あった。

その後、反戦反核運動のなかで「ヒ

ロシマ」と「アウシュビッツ」がし

ばしば並べられて戦争被害の象徴の

ように伝えられ、広島でも全国でも

「ヒロシマ」展と「アウシュビッツ」

展が開かれて多くの人々を集めたこ

とはいうまでもない。しかしふり

返って見れば、「ヒロシマ」と「アウ

シュビツツ」は果たしてそれほどな

じみ易いものだろうか。その一つは

明らかに戦争のもたらした空前絶後

の残虐な被害であるが、もう一つは

世界と歴史にかって例のない残忍な

加害の最たるものではないか。それ

は同じ戦争による残虐残忍な犠牲で

あるが、それを進んで公開提起する

とき、その主体の意識はけっして同

じではないはずである。この二つの

例はある意味では侵略戦争のもたら

した「被害」と「加害」の極限では

ないか。

なゼ日本人はドイツ人と邊うの

か。

そこにはいくつかの条件があると

いえるだろう。それは第一にドイツ

の場合にはヨーロッパの友人として

歴史的にも深く交わり、その文化を

共有し、経済的にも政治的にも過去

も未来も平等に交わり合う隣国の

人々であった。だが日本にとって侵

略の対象となったアジアの国々は明

治国家の建設以来、日清・日露戦争

から始まってほとんど十年おきに五

〇年間もつづいた侵略戦争の対象で

あり、何れも日本より経済、文化の

発達がおくれた途上国であった。そ

こには一九世紀末以来明治国家によ

る「脱亜入欧」の国是にもとづき長

期のアジア戦争によって民衆の眼が

暗まされつづけた侵略の歴史があった。

第二には、戦後占領について日独

の相異があった。ドイツの場合には

アメリカ、イギリス、フランス、ソ

連の四ヵ国分割占領であったが、日

本の場合にはアメリカの単独占領で

あった。結局アメリカ占領軍は日本

をアジア支配の拠点にするために戦

犯を適当に配慮しつつ天皇の戦争責

任や日本のアジア植民地支配を不問

に付した。こうして戦後日本占領は

政治約にも経済約にも完全にアメリ

力一国の思うままに支配され、占領

終結後もその刻印は根づよく日本支

配層の利害と精神に強い影響を残

し、日米安保はその保障となってい

る。

こうした事情のもとで日本では戦

争の「被害」と「加害」は水と油の

ように交わらなかった。だが私たち

はそれをドイツと日本の戦前戦後の

歴史の相異にすべてを帰するわけに

はゆくまい。そこには日本人として

の主体的歴史認識ーけっして受動

的感性的認識ではなく能動的理性的

認識が深く問い直されなくてはなら

ぬ。いま改めて一五年戦争の「加害」

と「被害」を思うとき、このたびの

被爆者援護法をめざす運動は日本の

反戦反核運動に新しい一頁を加える

ことになった。国家補償を要求する

このたびの闘いは残念ながら実らな

かった。しかしこの運動を通じて明

らかにされた被爆者運動の要求が単

に被爆者への厚い保護と保障ではな

く、その根源にさかのぼって戦争の

国家責任を問い、そのもたらした原

爆被害について国家の償いを要求し

た闘いは、改めて日本における一五

年戦争の「被害」と「加害」を別な

ものではないと宣言したからである。

どんな誘惑にも屈せず、どんな美

辞麗句にもだまされることなく、彼

らの圧力とごま化しをしりぞけてた

だひたすらに国家補償を求めたこの

たびの闘いは私に新しい自信を与え

てくれた。それはひたすらに日本国

家の責任を問いつづけてきた朝鮮人

の強制連行による被害や従軍慰安婦

の補償を求める闘いと別なものでは

ないことが明らかにされたからであ

る。それは日本における反戦反核運

動の新たな展開を期待させる新しい

――実は四〇年以前からの古い――

きずなを改めて明らかにしたからで

ある。

 

三、被爆者援護法と村山内閣

 

被爆者援護法に対して村山内閣が

何らかの形でこの法律の質のうえで

国家保障にふみ込む選択をするに違

いないと考えた人はかなり多かった

のではないか。また当の被爆者や被

爆者団体、また今日までそのために

長い間努力してきた人々も、法の性

格のうえで前進することを実現可能

性のある期待として待ち望んでいた

に違いない。私自身も理性的には困

難だと思いながらも気持のうえでは

何らかの前進があるのではないか

と、つい期待せざるを得ない気持ち

だった。それほどこの度の運動は原

爆への怨念を込めた長い闘いだった

からである。しかし期待は見事に裏

切られた。すでにこの内閣には見切

をつけていた私もまさかこんなゴマ

化しをするとは思わなかった。

私は村山内閣が生まれたとき、

とっさに思い出したのは一九四七年

四月に生まれた片山内閣のことだっ

た。マッカーサーは一千万人近い労

働者を結集した「二・一」ストを弾

圧したことでうっ積した政治的な空

気をやわらげるために総選挙を命じ

て人心一新をはかった。生活にあえ

ぐ労働者や国民は何らかの「変革」

を期待していた。一方「二・一」ス

トの挫折はリーダーシップを期待し

た共産党への失望を広げさせてい

た。こうした二重の情勢はまだ手の

よごれていない社会党に期待を抱か

せた。選挙の結果は社会党が一四三

人を獲得して第一党となり、次いで

民主党の一三二人、自由党の一二九

人、国民協同党の三一人、農民党八

人、共産党四人等であった。結局社

会・民主・自由・国協が四党政策協

定を結び、社会・民主・国協三党連

立内閣が社会党首班のもとで生まれ

た。この内閣では七人の社会党員(

)が大臣になった。

この内閣は一方で司法省をなくし

て労働省をつくったり、炭鉱国管法

を通そうとしたが、自由党等から介

入があって、準備した「労働者参加」

は骨抜きとなり、新物価体系制定で

は保守派からの圧力もあって物価よ

り賃金を低くした一八○○円ベース

(公務員)を決定して労働者からき

びしい批判を受けたが、この賃金体

系は職階制賃金に道をひらくもので

もあった。そのうえ内閣の番頭役西

尾末広の収賄事件も発覚して八ヵ月

目の四八年二月、社会党内の対立で

内閣は倒れた。

結局それは保守派との連立内閣が

たどらなければならぬ必然の結果で

あった。片山内閣の教訓として重要

なことは、小差で保守派と連立すれ

ば左右に揺れながらその中間でよう

やく位置が保たれるというほとんど

物理的ともいえる法則に左右される

ということである。こうした歴史的

体験を承知のうえで事前に充分検討

されていたのだろうか。たとえば被

爆者援護法が要求する国家補償を自

民党保守派が受け入れるとでも思っ

ていたのだろうか。侵略戦争の国家

責任とそこから生まれる国家補償法

を「靖国」体質で全身をおおわれ、

ことあるごとに侵略戦争を否定した

り「自衛」戦争論を唱え、未だに慰

安婦をはじめアジアの人々の犠牲を

認めようとしないものが同じ国家補

償を受け入れるはずがない。それど

ころか彼らは地方議会からまず声を

あげさせ、五〇周年を機会に過去の

戦争論に終止符をうとうとしてい

る。総理大臣が海外訪問先の談話で

「反省する」と百遍しゃべってもそ

れで法律ができるわけではないの

だ。すでに党内分裂の収拾もむつか

しそうだし、村山内閣の行方は混沌

としている。「歴史はくりかえす。」

私は新しい情勢の下で依然として

過去の時代と同じように一切の連立

連合を拒否して一人高しと万年少数

野党を貫くことが何よりも立派だと

はいささかも思っていない。新しい

情勢は新しい模索を求めている。今

日の新しい情勢の特徴は戦後来くり

返し追求してきた階級闘争を土台に

した前衛党の政治的ヘゲモニーをめ

ざすことでは扉は開けない。その土

台ともいうべき大衆的な源泉として

の労働組含運動は停滞している。し

かしこれは単に→時的な状況で、や

がて労働組合運動の再高揚が期待さ

れると簡単に考えるわけにはゆか

ぬ。そこには労働組合運動の自立的

な範疇を越えた生産力と生産関係に

係わる新しい技術的変革が起きてい

る。技術革新ということは生産技術

の方法論というだけでなく、生産か

ら生活へ、経済から社会へ巨大で急

速な変化を進めて人々の日常的な行

動と意識に変化を与えている。いつ

かある日に労働者が蜂起して闘いに

立ち上がるという「法則的必然」に

期待するわけにはゆかぬ。

そこで必要なことは長い将来をめ

ざして現実から出発し、たとえジグ

ザグの一進一退であろうと一歩前進

二歩後退であろうと時間をかけたプ

ログラムで変革ーそれは一挙にで

はなく、変革とは気づかぬほどに

ゆっくりとーを準備することであ

る。そこで依拠すべき基盤は労働者

の運動も含めて労働者・市民が現状

に不満をもつ多くの民衆の多様な運

動と結び合うことである。私の経験

だけでも今ほど多様で多目的な民衆

の運動が発展していることは戦後来

経験したことがない。それは反派兵

運動から反核反戦運動、自然・環境

を守る運動から消費生協の運動、反

天皇制運動からフェミニズム運動な

ど、かつてない多様な運動が動いて

いる。ただ残念なことにはそれぞれ

の運動が少数で孤立し、連帯と共同

の追求が弱く分散的な集団に終って

いる。恐らく万を越える全国各地の

運動がまず情報の交換から出発して

必要に応じた共同行動・共同探求が

進めば何とすばらしいことではない

か。

そうして新しい政治運動がこうし

た小組織に呼応しつつ大運動への媒

介を果たし、政治的集団と運動集団

のふれ合いが触発し合いつつ切磋琢

磨していつの日か民主主義的変革を

めざす希望の力が蓄積されるのでは

ないか。グラムシが云うように、経

済的ー同業組合的契機から出発し

て経済的な連帯感を経て政治的な同

盟関係に発展し、さらに知的道徳的

な統一を生み出し、部分的でなく「普

遍的」な平面で白熱的な闘争を開始

してひとつの基本的な社会集団のヘ

ゲモニーを創出してゆくことであ

る。決定的な要素は情勢が有利であ

ると判断されるや否や前進すること

のできる準備がずっと以前からでき

ているように永続的に組織された力

である。

今こそ必要なのは幾たびかの試行

錯誤を犯しつつ諸運動の連帯とそれ

をバックにした永続的に組織された

力をつくることではないか。たとえ

何十年かかっても。

 

 

 

 

労度運動研究 300号記念レセプションより

新しい変革主体の追求を

広島原水禁理事 松江 澄

主催者を代表して今日の催しに多数

ご参加頂いたことにお礼を申し上げま

す。来年は敗戦五〇周年、広島の被爆五

〇周年です。この敗戦五〇周年にむけ

てアジアや日本の侵略戦争の被害者た

ちに戦後補償を実現させようという動

きと並んでもう一つの動きが表われて

います。それは最近広島、島根、山口、

愛媛、奈良県議会などで「あれは侵略戦

争でなくて自衛戦争だ」という発言が

公然と主張され、決議案まで上程され

ています。これは偶然的な動きではな

く、自民党を中心とした日本の支配勢

力が敗戦五〇周年の総括をめぐって私

たちと真っ向から対決しているという

ことです。今後、労研が来年にむけてこ

の問題を深く追求すること、さらに新

しい変革主体、政治主体をどう構築す

るのか、様々な意見を集め、対話と論争

を組織して頂きたいということを要望

して閉会の挨拶に代えます。


特集1 アジアにおける反戦反核運動

原爆・敗戦五〇周年を前に

    ――日本の平和運動を問い直す――

              広島県原水禁常任理事 松江 澄

                労働運動研究 一九九四年八月 No.298掲載

 

 一、 日清戦争一〇〇周年

 

 今年は日清戦争一〇〇周年であり、来年は原爆と敗戦の五〇周年である。

 日清戦争の始まった一八九四年といえば、私が生まれるわずか二五年前である。それは日本軍国主義が東アジアに対して最初に開始した戦争であった。薩長を軸にした明治新政府が成立してからすでに二〇年も経っていた。しかしこの二〇年はけっして容易な年月ではなかった。

 どんな新しい国家体制もそれが旧権力を倒してすぐでき上がるわけではない。古い権力と新しい権力の交代は二、三年毎に替る今の政府とはわけがちがう。それは封建的な国家体制から近代的な国家体制へと一国の枢軸が一八〇度変わるからである。それは薩長政府が明治になったから変わるわけでもないし、明治天皇が即位したから変わるわけではない。一つの国家体制が次の国家体制に変わるためには、多くの年月と犠牲が必要なのだ。新政府はまず古い地方割拠の諸藩の権力を廃止するとともに、多くの抵抗と反乱を制圧しなければならなかった。それは日本で始めての近代的統一国家であった。

 それはまず新しい君主ともなすべき若い酒好きな青年を教え鍛え訓練するとともに、日本で始めての近代国家を形成するために何が必要なのかを先進諸国から学ばなければならなかった。総理大臣以下閣僚の大半と一〇〇名に及ぶ若く俊秀な官僚たちを率いて、一年一〇ヵ月にわたって米欧など一二カ国をたずねて学ぶことは、けっして容易なことではない。それは旧体制を倒しこわす以上に重大な努力とエネルギーを必要としたに違いない。そうして帰国すればすぐ西郷の反乱をせん滅しなければならなかった。

 こうした長い緊迫した年月の準備の後に、ようやくつくられたのが国の基軸ともいうべき憲法(二八八九、明治二二年)であり、それにもとづいて支配する天皇の教理としての教育勅語(一八九〇年)であり、新国家にとってなによりも重要な軍隊が、国民皆兵をめざす徴兵制の抜本的改革によって編成されるのもこの頃であった。

 日清戦争(一八九四、明治二七年)は、天皇制明治帝国がその国づくりを完成して最初に開始した対外戦争であった。そしてそれはその侵略的性格によって、東アジア人民の覚醒を促し、東アジア近代史の転換の契機ともなったのである。それは以後ひきつづく東アジア侵略戦争の最初の布石としての朝鮮半島支配のための第一歩であった。

 それはまたやがて開始する日本帝国主義の日露戦争とともに、半世紀にわたって東アジア支配をめざす「通路」としての朝鮮半島を「日韓併合」という偽名のもとに植民地として支配しつつひきつづき「満州」進出の足場とするものであった。それは五五年後、私が学生兵として牡丹江の東北対ソ戦繰に送られてゆく経路でもあった。

 日清、日露(一九〇四年)にひきつづき第一次大戦下の山東省出兵(一九一四年)からロシア革命干渉軍としてのシベリア出兵(一九一八年)、さらに昭和に入って張作霖爆殺(一九二八年)へと進み、以来「満州事変」(一九三一年)から中国への全面侵略戦争(一九三七年)を経て「太平洋戦争」(一九四一年)へと五年戦争の道をまっしぐらに進みながら、一九四五年の敗戦に至るのである。

 それは日清戦争以来ほぼ一〇年ごとにエスカレートしつつ中国を基軸として東アジアヘの全面侵略戦争として展開され、最後には利権の対立から対米戦争に突入してついに一九四五年八月の原爆と敗戦を迎えたのであった。

 この間、広島は日清戦争で大本営が置かれて天皇の住まう臨時首都として戦争指導の中心地になるとともに、宇品港は中国への最大の出兵基地となり、以来兵器、被服、糧誅三支廠の設置によって全国から集合する軍隊の兵站基地として栄え、日清戦争以来五〇年にわたって日本帝国主義のアジア侵略戦争に重大な役割を果したのであった。私は小学校以来一五年戦争の渦中で育ったが、物心ついて以来、広島ではただの一日もカーキ色の軍服を見ない日はなかった。広島は軍人の町だった。

 

 二、戦後における軍隊の復活

 

 自衛隊がすでに立派な軍隊であり、しかもその兵力がアメリカ、ロシアについで世界第三の軍事力となっていることはすでに広く知られている。しかし、かつての軍国主義日本の平和への転生のあかしとして称揚された憲法第九条と現実を照合すれば、それがすでにどんなにへだたっているかは一目瞭然として明かである。

 事実として日本が「陸海空の戦力」を持ち、しばしば「国際紛争解決の手段として」自衛隊が派遣されて「武力による威嚇又は武力の行使」が行われている。次第に拡大する憲法と現実とのギャップは誰しも否定できぬ。

 そこで私はこの軍隊がどういう状況のもとで産み出され、どういう情勢のもとで肥大していったのかを歴史のなかで確認したいと思う。敗戦後、米軍管理のもとで旧日本軍隊が解体され、以後数年にわたって日本には軍隊はもとより一片の軍事力も存在しなかった。しかし四九年秋の中国革命の成功につづく翌五〇年六月の朝鮮戦争の勃発のなかでマッカーサーは七月八日、吉田首相あての書簡を発し、やがて引揚げる米軍の穴埋めとして、国家警察予備隊七万五〇〇〇人、海上保安隊八〇〇〇人の創設を命じた。

 政府は一九五〇年八月一日付けポツダム政令として警察予備隊令を公布、即日施行して隊員募集が行われ、第一陣七〇〇〇人は八月二三日に入隊した。

 私たちがこの予備隊と初めて出会ったのは五一年八月六日の中国地方平和集会だった。私たちは前年の五〇年「八・六」では戦後初めて米軍管理下、非合法で朝朝戦争と原爆使用に反対する瞬間集会を駅前で行い、翌五一年には講和条約後初めて認められた屋内集会を公安委員会がようやく許可した駅近くの荒神小学校の講堂で開く準備をしていた。

 そのとき突然、会場の回りを異様な服装をした者たちを満載したトラックが走り回っているのを見た。トラックのなかで「折敷け」の姿勢で待機している黒い服を着て銃をもった部隊は緊迫した寡囲気をだだよわせながら、荒神小学校の囲りを何度となく威嚇して走り回った。集会の責任者であった私は中国地方から参加した一〇〇〇名近い活動家たちに報告しつつ、各門に防衛隊をはりつけ、正面には机でバリケードをきずいた。それは発足したばかりの警察予備隊であった。

 

この予備隊がつくられた背景は、米軍の撤収というだけでなく、前年始まった朝鮮戦争で一時期南端まで追つめられた危機感から急がされ、米軍キャンプで急遽、米軍の指導と管理のもとで教育・訓練されたのだった。こうした予備隊の発足とともに海上警備隊も創設され、旧軍人(旧陸軍士官学校・海軍兵学絞出身者)の幹部への採用が急いで行われることになった。

 こうした状況は朝鮮戦争への危機感だけでなく、やがて結ばれる日米安保条約のもと、生まれるときから米軍によって育てられたこの軍隊は、一九五四年、防衛二法の国会通過によって陸・海・空三軍の自衛隊として米軍の最も信頼するパートナーとして誕生したのであった。

 この間の時期は内灘闘争、砂川闘争などの米軍基地反対闘争、つづいて「ビキニ」以来の原水爆禁止運動が広く発展した時期でもあった。この時期は反米基地闘争をはじめ米軍管理下の支配と抵抗、さまざまな権利の抑圧と解放をめぐって、政府と運動が激しく対立・抗争したときだった。だが米軍の指導によってつくられた三軍の結成にたいしてどれだけ闘ったであろうか。

 

 再軍備反対というスローガンはどんな集会でも掲げられたが、五四年早くも自衛隊と改称されたこの軍隊は、ひきつづいて始まる六〇年安保闘争の大きな広がりのなかで、年々に予算を倍化しつつ急速に整備されていった。この軍隊にたいして現実的で有効な反撃が闘われたであろうか。今にして思えば、残念ながら充分闘われなかったと思う。五〇年代の反戦反核闘争には三軍の復活・再建の企てを卵のうちにつぶす戦略がなかった。

 とくに重要なことは、復活された軍隊が生まれ落ちるときから米軍の手で育てられてきたということである。それはけっして独立した日本の軍隊ではなく、日米安保条約のなかでの軍隊であるということだ。日米軍事同盟は経済同盟、政治同盟以上に緊密な関係にある。それは今後われわれが反戦反派兵闘争を闘ううえで確認しておく必要がある。日米関係は想像以上に深い結びつきを持っている。

 しかしそれは日共がいうように、「国家的従属」ではなく日本の支配層の思想に深く染みついている歴史的な「アメリカ・コンプレックス」である。それは一五年戦争の最後の時期にあたる太平洋戦争(日米戦争)を前にしてすでに始まっていた。

 

三、「日本改造計画」の源流

 

 いま悪名高い小沢一郎は容易に見すごせぬ重要な思想潮流の中心的な人物である。たしかに若くして海部内閣の副官房長官となり、つづいて自民党幹事長となって後継首相を一人づつ呼びつけて口答試問をしたことは人々の記憶に新しいところである。その後、自民党を割って新生党の首領となり、以来カゲとなりヒナタとなって政府交代劇のマネージャーとなっている。

 タカ派の声は高く、ことあるごとに噂され、多くの場合にそれは悪役である。だが重要なことはこの若手のリーダーの個人的性格ではなく、その思想的性格なのである。

 彼はしばらく前に、その著書『日本改造計画』のなかで、その後とり沙汰された「普通の国」という意表をついた用語で実は日本を普通でない国に仕立て上げようとしている。彼はその著書のなかで、「国際社会で当然のこととされていることを当然のこととして自らの責任で行うことである。」という。つまり「安全保障」のための「国際貢献」を果せというわけである。このことは、日本が戦後得てきた平和・自由・繁栄のコストを払えということである。

 そこには過去の侵略戦争の反省はひとかけらもなく、ただあるのは商売のように″もうけ″の代金を払えという。そのうえ念が入っているのは、今後とも日米安保の三階建てを建てて、一階はペルリ以来の日米和親条約の延長線上に、二階は太平洋戦争の愚は二度と犯さぬ不戦の誓い、三階は北大西洋条約のような西太平洋条約をつくつて日米防衛の約束をするという。

 そのためには憲法九条に第三項を新たに挿入して、「平和創出のための自衛隊を保有し、国連の指揮下で活動するための『国際連合待機軍』を保有し活動をさせる」べきだという。ここまでくると彼の本音はかなりハッキリしてくる。だがこうした思想の流れは小沢に始まるわけではない。歴代首相もときにはこれに近いことをいってはきたが、ペルリまで持ち出したのは始めてであり、こうした彼の先輩としては、仇のようにいがみ合ったが、近頃は大分よしみを通じているといあわれる中曽根元首相である。

 中曽根は首相になるとすぐ二つの目標を発表した。その第一は、日米関係を中心として自由主義世界の一員としての義務を果すこと、第二は「たくましい文化と福祉の国」をつくるための行政改革と教育改革だと宣言した。彼は訪韓につづいて訪米して「日米は運命共同体」だと大兄得を切った。

 中曽根が主張した「戦後政治の総決算」はおおむねそろばんが外れたが、軍事費一%突破、「日の丸・君が代」と靖国神社参拝など派手な土産を残した。その中曽根が近ごろ佐藤誠三郎、村上泰亮、西部邁らと組んで『共同研究「冷戦以後」』という著作を出版した。

 彼はそのマニフエスト (宣言) とでもいうべき序文でいう。「一国平和主義は日本のとるべき道ではない。憲法は必要に応じて改正もし国連を中心とする安全保障にも当然の協力を行うべき」だと。さらに彼は日米安保条約を軸にして東アジアに政治的屋根を構築すること」を強調し、北米・日本・オセアニア等の強調と共同を進めるための「太平洋経済文化ハウス」の建設を呼びかける。しかも三階建てで。

 中曽根と小沢が似ているのは三階建てだけではない。二人とも札付きのナショナリストであるとともに極めて熱心な日米協調論者であることだ。そうしてもう一つ似ているのは二人とも過去の戦争を反省しているが、それは太平洋戦争と呼ばれる日米戦争なのである。けっして一五年にわたる中国侵略戦争ではないし、アジア各国への侵略戦争でもない。まして日清戦争以来の五〇年戦争でもない。私にはこの共通性が最も気にかかるのだ。戦前の「革新」的知識人集団のなかにこれと共通な性格があるからである。

 その中心的な一人である政治学者の矢部貞治には私も大学時代政治学を教わったことがある。といっても学友といっしょにたった一回だけ講義をきいてその「大東亜共栄圏」論に失望してボイコットし、熱心にきいたのが南原繁の政治学史だった。ところが矢部は公刊された「日記」のなかで、その「国家と宗教」について書いている。「南原先生個人の精神的問題としては刻苦の労作でも、日本の政治に現実に政治学として指導精神を与え得なかったことは当然だ。その意味で政治学の無力という非難の一端を南原さんなども負わねばならぬ」と。

 その矢部は「政治学の責任」を負って、一九三五年の「近衛新体制運動」に参加し近衛首相に接近してそのイデオローグとして活躍し、大政翼賛会に参加して「政治学者としての指導精神」を果たしている。彼は戦後も「大東亜共栄圏」構想は半分は正しかった、と確言する。

 その矢部の大学以来の愛弟子として可愛がられ戦後も師事したのが私より一つ年上の中曽根だった。旧制高校が違えば交わりもない当時の法学部を卒業した彼は海軍主計中尉への道を志願して大尉にまでなったようである。

 戦後、中曽根が代議士に立候補すると矢部は応捷にかけつけ、中曽根は矢部著作集の編纂委員長になり、矢部が総長をした拓殖大学の総長に就任した。師弟の交わりきわめて緊密なものがあった。

 

 四、アジアの人々とともに

 

 この三人はたしかに共通の資質をもっている。だがそれはこの三人だけではない。戦前戦中の知識人層のなかに矢部らと余り変わらぬ人々も少なくなかった。中国は犯してもアメリカとは闘うべきではない、と心中で思っていた人は多いいことを私も知っている。そこにはアメリカと闘ったら負けるという「良識」をもっていた人も少なくないが、その心底には、日本より発達している「白人」の国と自らもその一員であるにもかかわらず後進的アジア人の国とをはっきり差別している人が多かった。もっとも重要な問題はそこにある。

 そのころ、この戦争は今までの英、仏、蘭、など「白人」の支配から、アジアを解放する闘いだと、もっともらしくいいふらす学者や文化人もいた。そういう見方は当時の一部の知識人層にとってわずかな「良心」の支えになっていたのではないか。

そうしてこうした人々にいずれも″日米闘うべからず″という気分があったことも事実である。そこには問題にならぬはどの国力の差による無残な敗北を避ける気持とともに、先進文明国アメリカヘのコンプレックスがあったに違いない。そのアメリカに大敗したうえに、戦後五年近いアメリカ軍の占領は、支配層に近いほどGHQへの屈従とかけひきが日常化してアメリカヘの深い追随を生んだ。

 こうした思想はその後も日米安保を担保に、ひきつづき尾を引いている。そこには依然として「遅れたアジア」への蔑視がある。福沢諭吉の「脱亜入欧」論はけっして死語ではない。いやそれどころか、矢部=中曽根=小沢というラインで厳然として生きている。

 それは明治以来の知識人層の心底に残されているしこりのような思想であり、「エリート」日本の最もなじみ易い思想的潮流ではないか。そこには武力による侵略の前に「心」としての思想的侵略がある。最近の「核問題」にからんで広島でもしばしば起こされている朝鮮人生徒にたいする悪質な襲撃はそのもっとも醜悪な表現である。

 日本の平和運動―反戦反核運動が心すべきことはただ国連の「国際貢献」に反対か賛成かということだけではなく、過去の歴史をどう考えどうとらえるか、ということなのである。それは派兵是か否かというだけでなく、今後の日本の進路にたいする現代日本人の思想的基盤をどこへおくのか、ということである。

 現在政局の混乱のなかで、すみの方から目玉をむいて先の先をにらんでいる中曽根や小沢とその亜流がいることを忘れてはならぬ。


新しい連帯と自立をめざして

  ―被爆四〇年のヒロシマから―

   労働運動研究  1985年5月  No.187号 掲載

松江 澄

 

被爆四0年のヒロシマ

 

 広島は今年の八月六日で被爆四〇年を迎える。被爆四○年はまた日本帝国主義の敗北四〇年でもある。そこでいままでの一〇年ごとに何があったかと思い返す。一〇年(五五年)には第一次高度成長期がはじまるなかで、いわゆる「五五年体制」がととのえられ、日本資本主義は政経ともに戦後発展の基礎をきずく。二〇年(六五年)には日韓基本条約が結ばれ、複活した日本帝国主義による日韓一体化の第一歩がほじまる。三〇年(七五年)には日米共同声明で″反共の壁″としての韓国の位置が確認され、天皇は初めての記者会見で「原爆投下は戦時中でやむをえぬ」と発言。それは昨八四年秋、来日した全斗換大統領と手をとり合って過去の「遺憾なできごと」を水に流したことと照応する。そうしていま四〇年(八五年)、中曽根は行革から教育臨調へと戦後総決算をすすめ、アメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。われわれの被爆四〇年は何から始まるのか。

 八月六日が近づくと、被爆ヒロシマは毎年毎年「あの日」の追憶からはじまる。それは四○年のヒロシマが「八・六」をどのようなかたちで迎えようとも変らない。広島の人々の「八・六」は理念や理論ではなく、四〇年前の情念からはじまる。私もその一人である。学生兵から解放された私が被爆二週間後の広島に帰り、空洞になった駅から見たあのヒロシマは変色した古い写責のように、いまでも私の眼低に焼きついている。そうして、つづいて次々に近しい人々の写真が私のまぶたに浮ぶ。西から東へ探しまわっても見つからなかった兄の遺骨を二つもらったとき、それが兄のものではないと分っていても、改めて兄が殺されたことを実感した。

 たった一人の兄弟で一〇歳も違う兄は医者であったが、絵を画き短詩を創った。物心ついた私が漁った兄の蔵書のなかには、××がたくさんあるプロ文学の何冊かがあった。中学の頃、兄が買ってきた『改造』を便所のなかでこっそり読んだこともあった。彼は私にとって兄であるとともに、最もたよりになるやさしい庇護者であった。

 その兄の中学時代の同期に峠さんという人がいた。彼は、その後の学生時代から昭和初年の「左翼運動」にとびこんで、ときに逮補されていた。昭和十二年、上京する私に母がくれぐれも論したのは、「峠さんのようになるな」ということだった。その峠さんの弟の峠三吉と戦後まもなく出会い、ともに反原爆と革命を語るようになろうとは思いもしなかった。

 その母は被爆三年後、髪の毛が抜け血を失って死んだが、明治七年生れの父は同じ所で被爆しながら九二歳の天寿を全うした。小心で律気な、それでいてどこかキッとしたところのある父を、原民喜「夏の花」の第一部「壊滅の序曲」のなかで発見したのは、父の死後、二度目に読んだときだった。民喜は父の名をとって自らを「正三」と呼びながら、被爆四〇時間前の原商店の日常を書いたこの文章のなかで、私の父を「三津井老人」と名づけていた。そこには、私の思い出のなかにある父のもっとも父らしいところが、短い文のなかで書きつくされていた。

 明治の頃から深いつながりがあったらしい原の家と私の家とのつながりは忘れたが、私が生れたとき父はすでに原の店(ロープやテントを扱っていた)を手伝っていたように思う。家も近所だった原家の子供たちとはよく遊んだが、私より一まわり以上も多い民樹は大学の休暇で時に帰省したとき垣間見るだけで、透きとおるような眼で遠くを見ているよ

うな顔がなにか幻のように見えたのを子供心におぼえている。

 私のことを書きすぎたが、広島にもとから住んでいるものにとって、原爆とは、原爆で失った人々と別にはけっして憶い出すことはない。それはいっきょにこの世を焼きつくし、懐しつくし、人間という人間とその結び合いをすべて無惨に切りさいなむ地獄の悪魔のように思えるのだ。死ぬ前の母は、私に「ピカドンはその目に会った者でなければ分らん」とつぶやいた。このことばは、原爆のすぐ近くにいると思っていた私を無限の遠くにとき放す。それはまた非被爆者である私を、かえって反原爆の運動につきすすませたものでもあった。それは階級や体制という媒介な抜きに私に追ってきた憎しみであり、また切断された人間のつながりを求めるヒロシマの思想でもある。峠三吉が、「人間をかえせ……私につながる人間をかえせ」と詩う理由がそこにある。そうして、その人間を奪ったものこそ原爆であり戦争であり、そのなかに人々をつきやった国家なのだ。まどえ(広島弁で″償え″という意味)、あやまれ、と国に要求する被爆者の心底深い憤りは、声にならずにのみこまれてしまう。

 こうした怨念とでもいうようなものこそ核廃絶の思想であり、後年、「いかなる国の」ということばを呼んだ理由でもある。それは「絶滅兵器」といわれるこの核兵器を、地球上から根だやしにすることであるとともに、この兵器で奪い奪おうとする人間と人間とのつながりを求める、強い欲求でもある。それはまた今日多くの人々が、反核運動のなかで指摘する「核」と人間の、けっしてあい容れない闘いの思想の原型ともいえる。それは未曾有の世界を見た人々のまたとない思念である。

この思想がいまもなお、風の冷たい冬も灼くように暑い夏も、十二年一日のように慰霊碑の前に坐り込みつづける核実験抗議の根底にある。この坐り込み抗議はいま、市内で八カ所、県内で二八ヶ所、県外は山形から長崎まで十三ケ所、最近ではアメリカからヨーロッパまで拡がっている。慰霊碑前では、七三年七月から昨年暮までで通算二八四回目となった。この毎一時間ごとの坐り込みのなかで、その年の「八・六」は準備され、迎えられる。

核廃絶思想とは何か

 

 日共は昨年十二月、ソ連共産党と核兵器について両党会談をひらいて「共同声明」を発表した。宮本議長は、この会談と声明で確認された「核兵器全面禁止・廃絶協定のすみやかな締結とその実現」を、恥ずかしげもなく「反ファッショ統一戦線をつくったときと同じような歴史的意義がある」と自賛している。宮本は帰国後、日共国会議員団での報告で、社会主義国による一方的核軍縮や核廃棄のイニシアチーブは「門外漢」のいう非常識なことだと否定しつつ、「すべての核兵器保有国の同時廃棄」を強調し、「世界全体が核兵器を捨てることに意味があるのです」と、いまはじめて分ったことのように主張する。まことに「常識的」な卓見である。ところでそれはどうすれば実現できるのか。

 同じく日本記者クラブでの講演では、ソ連が賛成したのだから「アメリカがイエスといえば当然核兵器廃絶がすぐできる政治的可能性がある」。その前提条件を今度つくってきたと胸を張り、削減交渉と比べて「廃絶の方が早い。同時安全の原則といいますか、双方がゼロ、ないのがいちばん平等です。もっていることを前提にしたら、どこで『均衡』かということはなかなかむつかしいこととなります」と強調する。

 これはおどろくべき発見である。持っているからつり合いがむつかしい、ないのがいちばん平等だ、とは。シーソーゲームを止めるのにいちばんよい方法は、シーソー自体をとり去ることだとは子供でも思いつかない名案である。そのうえ、アメリカは先般日本の国会ですでに廃絶を確言しているから、じゆうぶん可能性がある、と彼はいう。アメリカがイエスといえば、すべては手品のように解決するというわけだ。

 私はこれを読んで、子供のころ誰でも必ずいちどは聞かされるたとえ話――「猫の首に鈴をつける」という名案を考えだしたねずみたちの話――を思い出す。いま日共が熱心に売り込んでいるこのパンフレットを、ソ連共産党の諸君が読んだら何というだろうか。しかし、この宮本の話は笑いごとではけっしてすまされぬ。それは「核兵器廃絶」を茶飲み話にすることで、ヒロシマの思想を陵辱しているばかりでなく、世界のきびしい現実を戯画化することで大きな罪悪を犯している。

 レーガンに代表されるアメリカ支配階級保守派のもっている反ソ反共思想の根深さを、宮本はいとも軽やかに語っている。彼らはその表向きの宣伝扇動にもかかわらず、すべての帝国主義国の政府がそうであるように、ソ連が実際に核攻撃をしかけてくるとは思っていない。彼らにとって何よりも気がかりなのは、次第に足下に迫る革命と解放の新たな潮流なのだ。中南米、中東、アジアにおける反米反帝運動の胎動は、彼らの恐怖心をそそる。そうしてその火つけ人、扇動者、組織者は、すべて社会主義大国としてのソ連に見えてくる。自らの帝国主義的な支配と収奪が、大地から水が湧き出るように解放と革命の流れを生み出していることが彼らには分からない、いや分るまいとする。それよりも、その張本人をすべてソ連とすることで、一九一七年以来の憎悪の体系は完結する。

 レーガンは、いま「自由」の女神をもって自らを任じつつ、帝国主義陣営の盟主として世界の「自由と民主主義」を防衛するためには、核戦略が必要だと説きまわっている。彼らは核戦略を頂点とする緊張関係をつくり出すことで、離れ勝ちな帝国主義同盟諸国をつなぎとめようとするばかりではない。彼らはいままでどこに原爆をおとし、いつ核兵器を使うとおどしたことか。ヒロシマ・ナガサキにつづいて朝鮮戦争、ベトナム戦争ではなかったか。彼らは対ソ核戦略のかげで、全世界とりわけ解放への途上にある国々を胴喝している。

 しかしまた、この恐るべき「絶滅兵器」は、通常兵器のように繰り返す戦闘ではなく、その一回性――ただ一回の勝負にすべてを賭ける――の思想の故に、競争の当事者を同質化させる。それは「絶滅兵器」の故に、通常兵器と違って国土をまもるという消極的な意味での防衛を許さない。そこでは防衛は報復に転化する。それは一瞬の交戦が壊滅をもたらすからである。ヒロシマとナガサキは、それを「あの日」みずからの都市で先見した。しかしいま、それは全世界に拡がり、やがて″核の冬″は地球のすべてを根絶やしにするという。核兵器は、すでにその所有と使用形態の相異を超えて人類の脅威となり、核兵器を頂点とする軍事的体系の緊張は、階級的な対立を軍事的な対立に変える。

 ちょうど原水禁運動が分裂する前夜、ソ連核実験をめぐって広島の世論がその是非で湧いたとき、日共県委員会の幹部が「社会主義国の死の灰なら喜んでかぶる」と街頭で演説して、人々の嘲笑を買ったことがあった。それは帝国主義軍隊の思想ではあっても、少なくとも社会主義の思想ではない。日共はかつて社会主義と帝国主義を同列視すべきでないと主張しつつ″いかなる″を否定したが、いま宮本は社会主義と帝国主義を同列視して″すべて″を平等にゼロにしようという。

 彼らはいま、全世界の民衆が日夜闘っている反核運動を高みからながめながら、米ソ交渉の道具立てにしようとしている。そこには、深刻な困難さを空想的な安易さですりかえる「指導者」の思想はあっても、人間と人間との結び合いのぬくもりのなかから、新しい反核と解放の力をつくり出そうとするヒロシマの思想はない。だからこそ、旗一つで反核平和の大行進がつくり出そうとする連帯を破壊し、宮本の旗を掲げない「三・二一ヒロシマ行動」は、分裂集会だとレッテルを張って参加を拒否する。それは核廃絶の思想ではない。

 

国際主義と国民主義

 

 広島の反核闘争はまず詩・文学から始まり、五〇年に至ってようやく行動へ継承される。朝鮮戦争下二重権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。

権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。それから四年後、「ビキニ」被爆がおきる。この「ビキニ」から始まる運動は広島と杉並からおこり、またたく間に全国をおおった大衆的国民的な運動である。朝鮮戦争下の闘いがすぐれて戦闘的で国際主義的であったとすれば、「ビキニ」反原爆運動はすぐれて大衆的で国民主義的な運動であった。前者の闘いに結集した人々が階級的な志をもった左翼の活動家であったとすれば、後者の運動に結集した人人は左右を問わず核を否定するまじめな日本人のすべてであった。そこには十五年戦争の反省は全く必要ではなかった。

一方のそれが現状の変革を求める少数派の闘いであるならば、他方のそれは現状の安定をおびやかす「死の灰」への激しい憤りにもえた多数派の運動であった。以来、この二つ

の流れは、継承者は変っても交わることなく今日までつづいている。運動の主流は、もちろん「ビキニ」反原爆運動を継承する日本原水禁運動である。この運動は、その後右と「左」から二度の分裂を重ねたが、この運動のもっている国民主義的な性格は変らなかった。

 私は、原水禁運動が二度目に分裂した直後の一九六五年――それはちょうど被爆二〇年であった――、原水禁を含む日本代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。この集会の主題はベトナム反戦であった。私たち広島からの参加者は、被爆二〇周年原水禁世界大会のバッジをつけ、会議の内でも外でも諸外国の代表に核兵器の恐しさを訴え、世界大会への参加をアピールした。それは多くの代表たちから心のこもった同情と共感で迎えられたが、何かもう一つ心を通わせることができなかった。

 ヨーロッパの代表たちの多くは、何れも戦争とファシズムとの勝利二〇周年記念のバッジをつけていたし、アジア・アフリカの代表たちのなかには私たちを政府の顔とだぶら

せて、その経済的なナショナリズムをきびしく批判した人たちもいた。最後の集会決議をめぐつて、運営委員会から日本代表団にきびしくつきつけられたのは、ベトナム戦争の基

地であり、アジア・太平洋における米核戦略の「かなめ石」としての沖縄基地にたいする日本人民の闘いであった。それは、日本人民がベトナム反戦を闘ううえで、欠くことのできない国際主義的な連帯の任務であった。しかし、この提案を受け入れるために、日本代表団はしはらく時間をとってきびしい論争をしなければならなかった。この集会で、私た

ちの代表団を分裂集団としておしのけようとする原水協系代表団の激しいセクト主義は、各国代表の眉をひそめさせ、意見と組織を異にしても運動の統一を主張する私たちの態度

は圧倒的に多くの代表たちの支持を受けた。

 しかし、私たちの運動に残されている国民主義的な″母斑″は疑いようもなかった。「世界で最初に原爆の惨禍を被った唯一の被爆国民」ということばのなかに、ヨーロッパの人々もアジア・アフリカの人々も、かつての日本帝国主義と、いままた高度成長の波にのってわが物顔に市場で幅をきかす経済大国の″かげ″を見たのではなかったか。それはいまなお広島に残っているもう一つの国際主義的潮流――抽象的で観念的な呼号以外の何物でもない―――によって克服されるようなものではもちろんなかった。この運動が改めて問い直される機会をもったのは、八〇年代世界反核運動とのふれ合いからであった。

 八〇年代以降、広島の運動はしばしばヨーロッパ反核運動との交流を行ない、私もまたプラハ世界平和集会に参加した。

 まず最初にふれ合った西独の運動との交流で、私たちをおどろかせたのはこの運動に参加する人々の膨大な数であった。米ソ両大使館をかこむ「人間の鎖」の壮大さは、「ビキ

ニ」の比ではなかった。しかし、それ以上に私たちを考えさせたのは、それがけっして労働組合や大衆団体の上からの動員によるものでなく、自らの自発的意志にもとづく「下から」の参加であることだった。それでいて、弾圧には柔軟に、しかし不屈に闘う連帯の強さはどこからくるのか。

 もちろん彼らの運動の基礎には、日本と違って、白昼公然とその町に据えつけられようとする核ミサイルがつくり出す現実的な核戦争の脅威があり、そのためのヒロシマ・ナガサキの具体的な研究もあった。しかしなお、乳母車を押しながら、まるでピクニックにでも出かけるように「人間の鎖」に参加する婦人たちを動かしているものは何か。それは、いま体制がうみ出している、失業とイソフレをはじめとしたもろもろの圧迫にたいする、反体制的な感情を含めての闘いであるとは分っていても、なお解き切れない問題であった。

 そうしてそれは、ロンドソ郊外のグリナムコモン基地に搬入されるアメリカの核ミサイルと、女性だけで闘っている婦人活動家の一人が私に語ったことば――「平和は女性の固有の権利」――でいっそう鮮明になった。彼女たちは、日本の基地闘争や反軍闘争で見られるような悲壮感の一かけらもなく、きびしく明るく闘っている。そこにあるのは西欧的近代をとおってきた自立的な市民の顔であり、それはまた自立的なものだけが綯うことができる縄のような連帯であった。

 こうしたヨーロッパ反核運動との交流は、私たちに改めて日本の運動のもっている他律的包括的な性格への反省を迫るものであった。一九八二年の広島「三・二一」、東京「五・二三」、大阪「一〇・二四」 の反核大集会は、当時ヨーロッパからアメリカヘと拡がる世界反核運動と、国連軍縮総会へ向けての運動のなかでひらかれた。それはなお上からの動員という従来の性格を残しながら、集会の形態はかつてなく自立的なものとなった。しかし今年の「三・二一ヒロシマ行動」には、日共系のボイコット、また急いで準備されたということがあったにしても、なお再検討を迫るものがあった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはあったとしても、あのときに見られた活気あふれる自発性はすでに影をひそめていた。

 八二年当時とは状況と条件が違うとはいえ、上からの包括的な運動の性格のもとで、上からの包括性が薄れたとき、いっそう鮮かに見せたわれわれの運動の断面ではないのか。この国民主義的な″母斑″はどうして克服することができるのか。それは西欧から学ぶことで得られるのか。もう一度、西欧的近代へ後戻りすることで、運動の新たな自立と連帯は生れるのか。被爆四〇年は再びその課題を提起している。

 

 欧州からアジアへ

 

 中曾根は首相になる前の行政管理庁長官時代、土光会長とあいたずさえて臨調第一部会をつくったときの報告で、「今回の行政改革は、明治維新以来百余年の近代化の歴史と、戦後三十余年の民主化の歴史をあらためて振り返り、国民と国家の歩むべき方向を新たに設定するための、全面的改革の一環をなすもの」だと強調した。一世紀をへだてた二度の「開港」による近代化と民主化の歴史を、中曾根はわれわれとは違った意味で振り返っている。

 当時中曾根は、行政改革を明治絶新、「戦後マッカーサー改革」につづく「第三の維新」と名づけた。しかし彼は、戦後民主改革の総決算を行い、行革を明治の近代化が敷いたレールと接合することで、再び現代的な「富国強兵」の道を歩むために国民のイデオロギー的再統合の契機にしようとしている。もちろん、この総決算の中には、戦後日本人民が獲得した民主的な諸権利から憲法そのものまで含まれている。中曾根にとって、明治の近代化は継承すべき国民的土台であり、戦後民主改革は克服されるべき「外」からの行き過ぎた「改革」なのだ。そこにわれわれとの根本的な対立がある。それを明らかにするためには、明治の近代化が何であり、何をもたらしたかをもう一度ふり返る必要がある。

 幕末の傑出した思想家である佐久間象山は、「東洋の道徳、西洋の芸術」を説いた。芸術とは科学・技術のことであり、東洋とは結局日本を指すことはいうまでもない。つまり、日本の道徳と西洋の科学・技術との結合によってこそ救国済民の道は成る、ということである。こうした考え方は、象山のみならず、明治維新を思想的に準備した当時の開明的な思想家たちすべてのものであった。象山の弟子で、いっそう国粋主義的な吉田松陰があえて米艦に投じようとしたのも、この思想ではなかったか。たしかに「和魂洋才」の哲学こそ、明治の変革と民近化を押しすすめる原動力ではあったが、それはやがて必然的に「脱亜論」(福沢諭吉)に行きつかざるを得なかった。「西洋の風に倣い、亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現するほどの大英断」を決意することによって、臨調報告がのべるように、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」したのであった。

 明治初年、一年十カ月にも及ぶ岩倉欧米視察団による法律・行政・文化全般にわたる西欧型近代の移植によって、「国家目標としての追いつき型近代化に成功した」(臨調報告)。「和魂洋才」による「脱亜入欧」は、見事に日本をアジアから離陸させたが、離陸が必ず土けむりをあげて草木を強風で押しなびかせるように、「脱亜」は必然的に「征亜」にすすまなければならなかった。

 軍事的で前近代的な性格を残しながら、急速に発展する日本資本主義は、目清・日露の両戦争を経てまたたく間に帝国主義への発展を遂げる。この過程で、大規模な反政府運動であり、自前の権利獲得をめざす最初の闘いでもある自由民権運動を弾圧と懐柔で分裂させながら、最後には日本的ナショナリズムでその思想を萎えさせ、上からの欽定憲法に収斂する。また大正デモクラシーの波頭から始まる階級的、人民的な闘いを、天皇制ファシズムの弾圧とテロルで押しつぶし愛国的ナショナリズムをあおりたてることによって十五年戦争から第二次大戦に突入し、アジア全域への侵略と略奪をほしいままにした。「脱亜」はついに帝国主義的「大東亜共栄圏」にまで、膨張して壊滅した。

 それはただ支配的な軍部と財閥の責めにだけ帰することはできぬ。彼らに、結局はその国民的基盤を提供し利用させたという意味で、それは明治以来の脱亜近代化の帰結ではなかったか。それは大正の中期に生れて軍都広島に育ち、昭和十年代の前期東京に学んで西欧的近代を模索しつつ、最後には帝国主義軍隊に動員された一学徒だけの感傷ではあるまい。

 「和魂」とは、結局、日本的ナショナリズムであり、それは「洋才」としての西洋型近代を自らのなかにとりこみながら、ついに「洋才」を生み出したが「洋魂」を探り得なかった。いやそれどころか、最後には、卑しむべき「洋才」をかなぐりすてて、「和魂」にふさわしい竹槍で本土決戦を呼号しながら、原爆という最英新鋭のアメリカ科学技術兵器の前に敗北した。戦後民主主義闘争は、正面からこの「和魂」=日本的ナショナリズムと対決して、これを地底に封じ込めた。こうして「和魂洋才」は二重の意味で敗れ去った。

 しかしいまそれは、新たな「脱亜」の武器として蘇ろうとしている。戦争による生産手段の破壊は、改めて欧米の近代技術を呼びこむことで急速な日本資本主義の復活と発展を促し、いまでは世界一の技術大国として列強と覇を競いつつ、その経済ナショナリズムはアジア・アフリカから中南米に至るまで、帝国主義の食指をのばしている。中曾根は、戦後民主主義の総決算をすすめることによって、再び「和魂」を地底から呼び戻し、新たな「脱亜入米」のためのイデオロギー的再統合の武器にしょうとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。

 日本原水禁運動はヒロシマ・ナガサキから生れた。それは反戦運動を媒介とするのではなく、帝国主義戦争の背後に落された原爆による、余りにも無惨な破壊への憤りから生れた。それは来るべき人類絶滅の戦争を予見することで、核廃絶と人間回復の思想となり得たが、その破壊の余りの巨大さは、それがアジアの諸民族を殺戮し、その郷土を破壊する太平洋戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。未来を先見したが、過去を省みることができなかった。被爆者と残された者の国家への怨念は、ついに噴出することなく、その声は胸底深くしまい込まれた。

 いま運動の自立といい、国民主義の″母斑″の克服上いうとき、何よりも必要なことは、いまアメリカ極東核戦略に組みこまれて、その生贄にされようとしているアジア・太平洋諸国の人々とともに手をとり合って、日米軍事同盟と闘うことではないか。われわれは再び欧米に学び、その近代的自立のあとをなぞるのではなく、「脱亜入米」によって再びアジアを征覇しょうとする中曾根ナショナリズムと闘って、アジアの民衆と連帯を固めるとき、はじめて自らの自立をかちとることができるのではないか。そうしてそのことは、被爆者の根底にある国家への怨念を晴らすこととけっして別ではない。

 いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降されるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。

 

新しい連帯と自立を

 

 いま中曾根は、日米軍事同盟を強化しつつ、アメリカの核戦略に日本をしばりつけ、対ソ戦の不沈空母にしようとしている。その中曾根がもっとも関心をもっているものに「環

太平洋構想」がある。それは米核戦略の保障のもとに、経済と政治を含む安定した帝国主義的秩序を太平洋につくり出そうと企むことである。

 しかしその試みはキット失敗するに違いない。彼らはすでに太平洋とアジアを敵にまわしている。南太平洋諸国の人々は、核の基地となることも、核の墓場となることも拒否し、ベラウ共和国は米国の圧力を住民投票でハネ返し、「非核憲法」を成立させた。一九七五年フィジーから始まる非核太平洋会議は、毎回ヒロシマの参加を求め、年ごとにその連帯を固めて米極東核戦略と対決し、いまニュージーランドのロンギ政権は公然と米核艦船の寄港を拒否し、オーストラリア政府は米「SDI」への参加をことわった。フィリピン人民はすでにマルコスに見切りをつけ、アメリカ帝国主義からの解放の旗を掲げて人民の民主主義を奪い返そうと闘いに立ち上っている。最も身近な韓国では全斗換の弾圧と懐柔にもかかわらず、民主主義革命の声は地底から次第に音高く響き、日韓人民の連帯のきずなはまだ細くとも鋼線のように張って、どんな妨害をも寄せつけない。

 いまこそわれわれは、旗幟を鮮明にして何よりもまずアジア・太平洋の人々と連帯し、反核反軍事同盟を闘うときである。それはいままで、日本の運動がただひたすらに追求してきた核廃絶の思想とけっして別のものではない。それは被爆者の心底深くいかりを下している、反戦反国家の怨念を受けて闘うとき、必ず向うべき戦場である。われわれはこう

した視点を基軸にして、反トマホーク・反原発・被爆者援護法を一つの闘いとして追求しなければならない。

 反トマホークは何よりも当面する反核闘争の具体的な焦点であり、それはすでに指揮・通信・情報システムを通じて核戦略に組みこまれている自衛隊のそれとともに、反基地核チェックの広い運動と合せて戦線を拡大しなければならない。また反原発闘争はもう一度被爆の原点に還って、被曝と被爆の連続性を確かめ、軍事的な転用とあわせて、日常的な核殺人と闘う反核闘争の前線の位置をとり戻す必要がある。そうしてその根底に、金でもない物でもない、ただひたすらに国家の責任と死者への謝罪を要求する被爆者援護法を据え直すとき、過去の被爆との闘いと未来の被爆との闘いは一つのものとなる。

 戦後日本は「賢明」な吉田茂によって、アメリカの核の傘のもとで日本資本主義を再建して帝国主義復活をなしとげ、いま経済大国として世界の市場を荒し回っている。アメリカ帝国主義は積年の「安保ただ乗り」をとがめつつ、その付けの清算を求め、貿易で取引しながら軍事負担の思い切った増大と核艦船の寄港・全土核基地化を要求している。

 中曾根はいま、戦後民主主義の総決算ばかりでなく、戦後支配階級四〇年の付けを背負わされて決算を迫られている。しかし、前大戦のもたらした破壊、とりわけヒロシマ・ナガサキの記憶は、けっして消えることはなく、ましてアジア・太平洋の人民は十五年戦争と太平洋戦争をひとときも忘れることはない。

 中曾択はいま、アメリカへ行っては軍備を拡大するといいながら、東南アジアを回ってはけっして軍事大国にはならぬと弁明し、国民にたいしては非核三原則をまもるといいながら、アメリカにたいしてはトマホーク寄港を進んで受入れ、ひそかに核基地を建設している。

 いまほど四〇年の矛盾をこめて、″建て前″と″本音″が歴然と分離しているときはない。いまこそこの矛盾を衝いて闘うときである。″建て前″をつきつけて″本音″に迫る大衆的な闘いを進める好機である。

 アジア・太平洋の人々と連帯を固めて共同闘争を強めつつ、日本反核運動の再建と再活性化をはかるときはいまをおいてない。それはいま、日本における労働運動と大衆闘争の閉塞状況をつき破る結節点でもある。この闘いのなかからこそ、自由な民族としての運動の自立を闘いとることができるだろう。新たな連帯と自立をめざして闘おう。被爆四〇年はそれを要求している。                             


反原爆・反原発行動の統一のために!

八・五広島集会基調提起

         一九八五年八月五日

                    八・五集会実行委員会

労働運動研究 198510月 No.192号 掲載

                  報告 松江 澄

 被爆四○年、《八・六ヒロシマ》の

         原点をとりもどそう!

 

被爆四〇年を迎えるいま、私達は もう一度原点にもどり、<八・六ヒロシマ>を闘うことの意味について考えてみよう。

 生き残った原爆被害者が四〇年間背食い続けた苦しみ・悲しみと、死んでいった被爆者の無念さにまず目を向けよう。両親、兄弟柿妹を失って一人で生きて行かなければならなかった幼い子供たち。愛し子を失い、連れ合いを奪われ、あとに残された人達の気持ちは、生きるも死ぬも無念であり、残念であり、言葉に尽くせぬ思いであっただろう。この思いは、だだ自分だけのものでなく、多くの戦争被害者も同じであると気づくのに時間がかかったとしても、それを責めることはできない。しかし四○年たった今こそ、十分に整理する必要がある。

 原爆被害者のこのような苦しみに対して、戦争遂行の責任者たる国は、なんら具体的補償を行ってこなかった。のみならず、被爆者・被爆二世を切り捨て無視して、新たな核開発の踏み台にしてしまった。原子爆弾を実戦使用された唯一の経験は、「核を無くすために先頭に立つ国」としてではなく、核開発のデータを示し、「核先進国」となるために利用されたのだ。

 さらに政府は、原爆被害者だけでなく、多くの戦争被害者を切り捨ててきた。沖縄戦で東京・大阪・呉・大竹・・・・・・・・・と全国各地の空襲で、多くの民間人が殺されていった。この膨大な数の人達に対して、政府は一切その戦争着任をとっていない。

 また、朝鮮を侵略し、朝鮮人を強制連行し、被爆させ、被災させたことについては、その歴史的事実すら認めようとしていない。朝鮮・中国をはじめ、アジアに侵略し、虐殺した歴史を抹殺しようとさえしている。明治以来のアジア侵略の歴史を省みることなく、再び侵略と抑圧・戦争への道を歩み続けているのだ。私達は、今<八・六ヒロシマ>を通して歴史と現実を鋭く見つめ直し、見抜き、行動をおこさなくてはならない。

 

 原爆被害者の『まどえ、あやまれ』の

        怒りを紬にした闘いを!

<八・六ヒロシマ>を闘おうとするとき、この運動の視点と内容をはっきりさせることは、不可欠である。この点を曖昧にしてきたことが、「八・六ハの風化」といわれるものをもたらしたともいえる。私達は、原爆被害者が「まどえ・あやまれ」と怒りの言葉を発することの意味をしっかりととらえ直す必要がある。

 原爆被害者の言うに言われぬ苦しみの経験にたいして、戦争遂行の責任者である国は一体何をしたのか。国は原爆被害者の苦しみに対して、その責任をとるべきである。政府が「二度と国民にこんな思いをさせる戦争はしない」と頭をさげなければ、たとえいくら「金」を出しても絶対に許せない。人民の苦しみに対して何の責任もとらない国だから、今また戦争への道を歩むことになるのだ。その結果苦しめられるのは、いつも人民なのだ。原爆被害者のこの声は、今日の日本の状況を鋭く突いたものであるといえる。

 生き残った原爆被害者に対して、どんなに補償してもしすぎることはない。年老いた被爆者への補償を直ちに闘い取る運動を進めなくてはならない。同時に、被爆者の(既に死んでしまった人も含めて)思いと願いを現実化する課題!核のない世界をつくり、戦争のない世界をつくる――をなおざりにすることは、原爆被害者「援護」の闘いを矮小化し、ねじ曲げることになる。生き残った原爆被害者が、どんな思いをもって今を過ごしているのか、また死んでいった人達は何を思い、何を願いながら死んでいったのかを私達の闘いの軸にすえて、その実現のために闘うことを抜きにしては、原爆被害者「援護」の運動としては決定的に不十分ではなかろうか。

 原爆被害者への補償を闘い取る運動と、核と戦争のない世界を築くためにあらゆる核の開発と戦争準備の政策を止めさせる運動は同時に進められなくてはならない。どちらか一つだけが強調されたり、一方が切り捨てられたりした運動は敵の側に取り込まれ、中途半端なものでごまかされてしまうことになる。

 私達は「被爆者援護」の運動を、原爆被害者の「金でもない、物でもない。まどえ、あやまれ」の怒りを基軸にすえながら、@原爆被害者の生活の補償 A国にあやまらせ、償わせる B朝鮮人・韓国人をはじめとする外国人被害者への補償を闘い取るものとして進めなくてはならない。

まどえ・・・・・・広島弁で「元に戻せ」とか「弁償しろ」という意味。

 

 反原発を闘う八・六を!

 原子力発電の登場の歴史を考えてみれば、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>の極めて重要な課題であることは明らかである。

一九五四年三月、第五福竜丸がビキニ水爆実験の死の灰を裕びるという事件が起きたが、その二週間後には、衆議院で「原子力の国際管理と平和利用、そして核兵器と核実験の禁止」決議がされた。その一方で、核実験反対の運動が大きく盛り上がっていた一九五五年一月、イェーツ米下院議員は「広島への原発建設法案」をアメリカ下院に提出し、三月には「原子炉予算」二億三千五万ドルが国会を通過した。こうして、「核の軍事利用」に反対する声が一番大きい時、アメリカ・日本政府は核兵器と「平和」利用とをことさらに区別する策動をすすめた。核開発を進めるために、「核の軍事利用」に反対するポーズを取り、ヒロシマをも利用して核先進国になる道を歩んできた。 「イェーツ案」!広島原発一号炉にたいして、浜井市長は「死のための原爆が生のために使われることに市民は反対しないだろう」と賛成の意向を示し、日本政府・広島市は受け入れようとした。だがこれに対して、当時の「原水禁運動広島協議金」は、@原水爆に転化される恐れがある A放射性物質が心配である B米国の下で運営される、という理由から直ちに反対の声をあげ、原爆被害者をはじめ、平和運動を闘う人達の力でその意図を打ち砕いた。

 日本政府は当初から、国民の意志を無視して核開発に乗り出すために、「核兵器反対」を唱えた。一方、日本の「原水禁運動」は、もっぱらヒロシマ・ナガサキ・ビキニの「原体験」によりかかるあまり、核全体についての科学的追求が十分できなかったがために、「平和利用」の名のもとでの核開発政策に抗し切れないできたといえる。

 戦争終結直前の一九四五年八月、広島・長崎に原爆が投下された。兵器としての核の威力を知ったアメリカは、軍事的優位性を確立するために、さらなる核の研究・開発を続けようとした。膨大な研究費を必要とする「核」の研究・開発・実験を続けるために、アメリカは、原爆を「金もうけ」にも利用する方法を模索した。発電、推進動力(原子力潜水艦・原子力空母)など核の「熱だけの利用」、すなわち「平和」利用(商業利用)を計画したのである。兵器のためのウラン濃縮、処理にかんする周辺技術をはじめ、様々な核の施設の開発・研究が、民間の「金」を使って進められることになった。非人間的殺戮兵器である原爆は、一九五六年には発電の道具として姿をかえて再び私達の前に現れた。あくなき核兵器の開発はこうして原発と衣がえし、人民の目をごまかしながら進められた。

 <八・六ヒロシマ>は、核兵器に反対すると同時に、「平和利用」という名のあらゆる核にも反対するという重大な課題をかかえていた。しかしこれまでの運動が、十分に反原発に取り組めたとはいいがたい。そういう意味では、いま、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>において非常に重要な役割を果たすことになる。

 反原発の運動は、原発の建設に反対するだけではなく、核燃料サイクルの各分野で核政策に反対してゆく運動であるため、「原発建設反対」「再処理施設反対」「廃棄物処理反対」等々、表面的なスローガンは地域によって一見別々であるかも知れないが、核の開発に反対し、人間と核との同居を拒否する反核運動の重要な運動である。しかし、各地の闘いのなかには、所によっては地域主義的傾向もあるかもしれない。一方では、中国地方の反原発・反火電の運動体のように、電力資本と対決して大きく連携して闘う動きも起きている。

 しかも、核燃料サイクルは全世界にまたがっている。採掘はカナダ・オーストラリアで行われ、再処理をイギリス・フランスに委託したり、核廃案物の太平洋海洋投薬を計画するなど。反原発の闘いは、広く世界の人達と団結した闘いでなくてはならない。

 

 国際連帯で核戦争の脅威と闘う

       反トマホークの運動を!

アメリカの核戦争戦略の「先制第一撃」戦略への転換にともなう、トマホ―ク・バーシングUなとの戦域核兵器の開発と実戦配備は、核戦争の危機を一挙に現実のものにした。小型核弾頭をもったこの種の核兵器は、地上・海上・海中・室中あらゆる所から発射可能であり、しかも驚くべき命中精度をもっている。いったん使用されれば人類の滅亡を招くために実際の使用はないと思われていた核兵器は、いまや通常兵器と同様に実戦使用され、核戦争はいつでもおこりうる状態になっている。そのために、実際に核戦争が起きた時でも、アメリカだけは生き残る準備として、SDI(スター・ウォーズ)計画も進められようとしている。

 このようなアメリカの核戦略にもとづくトマホークの極東配備を認め、艦船の寄港を認めることは、非核三原則を公然とないがしろにするだけでなく、日米安保体制をつうじて日本をアメタカの核戦争戦略のアジア・太平洋地域での最前線にしていくことでもある。実際すでに安保条約は「集団安保」として機能しはじめており、日米合同演習が大規模に行なわれ、自衛隊も韓国軍とともに米軍の指揮下に組み込まれている。

 核兵器の使用を可能にしたもうひとつのことを見落としてはならない。C3Tとよばれる通信システムをはじめ、大型コンピュータ・レーダーなどの通信施設・技術などこれまで一見兵器に見えなかったものが、情報の収集・命令の伝達等をささえ、兵器の精度をあげ、その使用を可能にする童要な役割を担うようになっている。さらに、核戦争を戦ってアメリカだけが生き残るなどという非現実的なSDI計画がもたらす膨大な資金と先端技術に群がる資本家は、まさに「死の商人」として、核戦争の準備を日々進めている。地球全体を戦場とする核戦争は、私達の身近なすみずみのところにはいりこんで準備されつづけているのだ。

 したがって、反トマホークの闘いは、トマホ−クの極東配備に反対する闘いにとどまらず、全国各地にちらばる自衛隊・米軍の基地・施設、通信・レーダー基地などあらゆる軍事施設に反対する闘いとして日常的に取り組まれなくてはならない。私達は、反米・反日・反独裁の闘いに立ち上がる韓国・フィリピンをはじめとするアジアの民衆と共に、アジア・太平洋地域におけるアメリカの核戦争体制としての日米安保体制を打ち破る闘いを作り上げなければならない。ANZASNATOを直撃したニュージーランドやアイスランドの闘いと連携して日米安保を揺るがす国際連帯の運動を強め、アメリカの軍事同盟の国際的な連鎖を断ち切っていかなければならない。身近な課題への闘いから始めながら、それを全国の力へ結集させ、アメリカの国際政策を一つひとつ打ち砕くことによってこそ、核戦争の危機から世界を救い、核兵器を完全に廃絶することができるのである。

 このように、反トマホークの運動は、様々な具体的な課題をもちながら、それらの課題を結び合わせていく運動の焦点としてすすめられるはずである。たとえば、自治体に「非核宣言」を出させるだけでなく、労働者や市民が実際に核の有無を監視する核チェックの運動をどのように作っていくのか、さらにそれを核兵器だけでなく原発にも広げ、「被爆

者援護」の闘いともつなぎ、一つの大きな反戦・反核の運動としてどのように作ってゆくのか――私達はいま大きな課題をかかえている。核兵器を完全に廃絶するための確実な手がかりが、反トマホークの運動として始まっていることを確信しながら、私達はこの大きな課題に取り組んでいくために力を合わせなければならない。全国各地での運動の経験をだしあって具体的にどのような運動が取り組めるのか、どんなことが出来るのかをお互いに学び合っていきたい。

 

  ま  と  め

 

 最後に私達日本人が「反戦・平和」の運動を国際連帯を求めて闘おうとするとき、残された大きな問題を提起しなくてはならない。

 日本の支配階級は明治維新以来、「近代化」の道を西に求め続け、アジア・太平洋地域に対しては、一貫して侵略政策をとる帝国主義への道を歩んできた。原爆被災はその侵略の歴史の帰結であったともいえる。すべてその責任が我々人民にあるとはいわないまでも、帝国主義侵略国の「国民」であったことを不問にすることはできないだろう。「八月五日」までの自分達を見直し、軍都広島の繁栄のもとでどのように生きてきたのか、どのようにして侵略戦争に動員されていったのかを明らかする必要がある。

 八・六の被害があまりにも大きく、与えられた精神的打撃も大きかったが故に、「被害者意識」だけが残ったことを責めるつもりは毛頭ないが、四〇年たった今日こそ、国際連帯をかちとるために、この点を整理しておく時であるといえる。私達は日本という「先進資本主義国」に生きる人民であり、ただちに帝国主義的侵略者になりうる危険性を帯びていることは肝に銘じておく必要がある。私達は、アジア・太平洋地域の民衆と真に連帯をかちとるためにこそ、日本の侵略政策にたいして闘い切らなければならない。

 <八・六ヒロシマ>を、その「瞬間」のなかに閉じ込めることなく、それ以前と以降の歴史の中でとらえるとき、これまで見落とされてきた多くのことが浮かび上がってきた。原爆被害者の「まどえ、あやまれ」とする声は、私達の反戦・反核の闘いの基底にすえられなければならないことが明らかになってきた。私達は反原発の闘いにも、反トマホークの闘いにも、それを貫いていく。そこからアジア・太平洋地域の民衆と連帯する反戦・反核の大きな闘いを作り、核のない世界を私達のものにしていく。

 私達は、被爆四○年の<八・六ヒロシマ>を、かつてない質と内容で闘い取ろうとしている。言葉とムードだけの反戦・反核から抜け出し、反原発・反トマホークという具体的課題を一つひとつ実現していく運動を日常的に闘うことをもって、反戦・反核の運動を作り上げよう。反原発・反基地などの一つひとつの具体的運動課題を「反戦・反核・平和」の内容としてとらえかえし、運動の位置づけを明確にし、日本と世界の状況と結びついた運動として作り上げよう。いろいろな運動課題を生みだしている根底を明らかにし、それに対する共同の「反戦・反核・平和」の闘いを追求しよう。原爆被害者の怒りを軸に、世界中の人々とりわけアジア・太平洋地域の民衆との国際連帯を求める闘いを作り上げよう。

 これまでの四〇年間、ヒロシマ・ナガサキは権力からも利用されてきた。原爆被害者は「被爆者」に切り縮められ、「被爆者」は核開発のために利用されてきた。「平和宣言」を読み上げる平和祈念式典は、軍拡を進める中曽根の同席を許す場になっている。人間のいない模型、生活感の無い物理的被害を陳列する原爆資料館は、はたして原爆の実情を伝えているといえるのだろうか。

 被爆四〇年。今年こそ、私達は<八・ハヒロシマ>を私達自身の手にとりもどさなくてはならない。

 

 八・五広島反戦反核集会報告

 

 八・五広島反戦反核集会は、地元広島をはじめ全国各地から多様な活動をつづける活動家三五〇名が参加して、八月五日午後四時半から広島市社会福祉センターの二階ホールでひらかれた。それは被爆四〇年を期に、日本における反核反戦運動の新たな活路をきりひらくため、被爆地広島の活動家集団が四月以来準備を重ねて意志統一を固め、全国世話人の支援のもとに各地各運動の活動家に呼びかけたものであった。近くは上関反原発運動の先頭に立つ主婦から、遠くははるばる沖縄からかけつけた反基地闘争の活動家まで、いま全国各地で反核・反戦・反原発・反トマ・反基地闘争を闘っている人々が、党派と立湯の相異も認めつつ一堂に結集した最初の「八・六」集会となった。

 会議はまず広島実行委員会の桝谷代表(電産中国地本副委員長)の経過報告と挨拶からはじまり、議長団に同じく広島実行委代表の松江澄(広島原水禁常任理事)と木原省ニ(原発はごめんだ市民の会)、宇田隆(トマホーク配備反対呉市民の会)の三氏を選んだ。議長団はとくにこのたびの集会の目的が単なる運動交流だけでなく、運動の根底についての共通認識を共同で獲得することにあることを強調して協力を要請した。

 会議はまず青田正裕事務局長による基調提起(別掲)の報告からはじまった。広島実行委員会がニカ月以上にわたる討議を通じて共同でつくり上げたこの基調は、今日の反核反戦運動を四〇年前の侵略戦争と被爆の原点からとらえ直し、「まどえ、あやまれ」と戦争・原爆・国家を告発する原爆被害者の心底深い憤りを拠り所に目前の反核反戦闘争を闘うとともに、現代の核を総体として把握することによって反核闘争と反原発闘争の一体化をつよく求め、切迫する情勢のもとで反トマ反基地闘争のいっそうの発展を訴えたものであった。

 基調報告につづいてそれぞれの立場から三人による副報告が行なわれた。まず最初に立った近藤幸四郎氏(広島市原爆被害者の会世話人)は、軍人、軍属、動員学徒など国と一定の身分関係をもつ者は戦災について国家の補償を受けながら、原爆や戦災で殺され傷つき身内を失った一般大衆の遺族は、どんな国家補償もなく切り捨てられていることを、原爆被害者の立場から激しい憤りをこめて告発し、援護法の実現にしつように固執する所以を強く訴えた。またそうした立場からいえば、基調文中被害者要求の第二項「死者への弔意の表明」は明六日再び慰霊式典に参加してうわべだけの「弔意の表明」でゴマ化す中曽根を免罪することになると指摘し、明確で厳密な用語に改めることを求めた。

 次いで報告に立った桝谷暹氏(電産中国副委員長)は、今日原子力発電が全電力の二〇%、日本産業全動力の三〇%を占めていることに留意をうながしつつ、いまや「平和でクリーンな原発」「コストの安い原発」という原発推進論の根拠が事実を通じて破産し、資本の内包する矛盾が深刻化しつつあることを強調した。さらに同氏は、今日もっとも憂慮されているものが大規模な事故の発生であるとのべ、廃炉にともなう既存設備の処分、労働者被曝線量基準、再処理などの問題が最大のネックとなっていることを指摘した。おわりに同氏は、核兵器と原発との一体化を再認識しつつ、核の軍事利用と「平和利用」との分離分断攻撃と闘うことの重要性を訴えた。

 最後に報告した舞田宗孝氏(トマホーク阻止京都連絡会)は、まず世界の人々の「死」とわれわれの「生」が同居していると警告し、トマホ−ク寄港、在日米軍指揮・通信・情報基地が核戦争で果す役割と意味を改めて強調した。同氏は、一〇年間に七〇〇〇発のトマホーク等戦域核兵器を極東の艦船に配備する計画こそ同時多発報復戦略から、進んで限定核戦争の勝利をめざすレーガン世界核戦略の重要な一翼であると指摘した。また同氏は、「京セラ」のように一見平和産業と見えるものが、いつの間にか核戦略体制の部品をつくる軍需産業になっている現代日本の「日常」を告発し、反トマ反基地闘争の追求と合せて、日常周辺の再点検と核チェックの運動を強く訴えた。

 三氏の報告を受けたのち、六時三〇分、会議は休憩に入ったが、この頃には参加者は会場にあふれ、再開された会議は人々の熱気で冷房もきかなくなったなかで討論に移った。議長団は討論に先立って、三つの問題に分けて討議するよう要請して人々の賛同を得た。

 第一のテーマである「被爆と反核反戦」については、多くの人々が討論に参加した。とくに東京空襲の被爆者から、戦争被害と原爆被害とはけっして別のものではない。たしかに原爆被害の比較を絶する傷の深さはあるとしても、歴史的には十五年戦争・太平洋戦争の帰結としての原爆投下であったことを忘れてはならないと、被害の共通なつながりにもとづく連帯を強調する意見は、多くの人々の支持を受けた。また京都から参加した広島原爆の被害者からは、原爆の被害が、いま多くの人々を日常的に殺し傷つけつづけているさまざまな公害とも、けっして無縁ではないことが訴えられた。議長の要請によって発言した沖縄の活動家は、長期にわたって米軍基地と闘う「一坪地主」の闘争を報告しつつ、運動が核兵器だけに限定するのでなく、支配と抑圧を強制する戦争準備体制との全面的な闘いであるべきことを強調し、すでに加害者となっている日本の現状に鋭い眼を向けるべきだと訴えた。

 第二のテーマ「反核と反原発」については、正面から対立する意見も出され、この問題の深い背景をうかがわせた。この問題で最初に口火を切ったのは、大阪で活動する反原発科学者会議から参加した活動家の意見で、副報告の桝谷発言のなかで、すでに原発推進論が根拠を失い、撤退作戦に入っているということへの反論であった。彼は、桝谷意見は原発の自動崩壊論に通じるときびしく批判し、電力資本にとって原発はまだまだ有効性をもつもので、今後さらに推進されると強調した。また同氏は下北半島の核燃料サイクル基地建設の重要性を指摘し、社会党内容認路線の抬頭を強く批判した。こうした討論は「日中原子力協定」と社会党内容認路線という相関する現実的な問題点について、どう対応するかということを強く意識したものであった。だが、この問題や資本の動向についての討論は、改めて機会をもつこととして、再び本来のテーマに帰り、科学者として反原発運動の先頭に立つ高木仁三郎氏の包括的な発言で締めくくられた。同氏は、現代がヒロシマの「キノコ雲」から始った「核」の時代であることを正確に認識し、軍事利用と「平和利用」とを問わず、「核」を生活の総体から受けとめ、原点に還って反核・反原発一体の闘いにとりくむべきだと強く訴えて満揚の拍手を受けた。

 このとき、かねて要請していた李実根氏(広島県朝鮮人被爆者協議会会長)が出席、予定していた朝鮮人被爆者の立場からの特別提起を受けた。季氏は戦前戦後を通じる朝鮮人の日本帝国主義による被害について語った後、靖国神社公式参拝、防衛費一%ワク撤廃など日本の危険な現状に言及しながら、いまこそ備狭なセクト主義や意見の相異による対立を克服して、ともに闘う広い戦線をつくることの必要性と重要性を訴えて満場の拍手を裕びた。

 議長団は時間が残り少なくなったことを告げ、第三のテーマである反トマ闘争と合せて総括的な意見、是非発言したい人々の意見の発表を求めた。このなかで上関原発反対運動で闘っている若い主婦が、子供を抱いて立ち、運動の経過を住民の立場から報告しながら、広い心でともに闘うことを訴えて熱心な拍手を受けた。また、反トマ報告をきいて、何でもない平和産業と思っていた 「京セラ」が、いつの間にか米核戦略の一端をになっていたという指摘に強い衝撃を受け、今さらながら無意識のうちにつかっている「日常」の再点検の重要なことが身にしみたと語る発言には、多くの人々が共感を表明した。時に八時半、まだまだ意見はあったが、会場の関係で止むなく討論を打ち切り、直ちに議長団の集約とまとめに入った。会演の集約と討論のまとめは、議長団を代表して松江議長から発表された。

(会議の集約と討論のまとめ)

(一) 基調提起と副報告を原則的に承認する。

(二) 報告と意見による基調報告の修正

 (1) 被爆者援護の要求第二項目「死者への弔意の表明」を「国にあやまらせ、償なわせる」と改める。

 (2) 反トマホーク運動のなかで「安保条約は集団安保として機能しはじめ・・・・」の集団安保をカツコに入れる。

(三) 討論のまとめ

(1) 初期の運動に「被爆者」ということばはなく、広く原爆の被害者から戦争被害者への連帯の意味をこめて「原爆被害者」ということばで呼んだ。しかし被爆者医療法制定後、原爆被害者を被爆障害をもつ個々の患者としての被爆者に解体し、このことばはいつとなく運動の中に入り込んで通称となった。改めて原爆被害と戦争被害との一体的な把握が重要であることをとらえ直すことによって、いま新たに加害の道に足をふみ入れている中曽根政府にたいする反核・反戦の闘いと原爆被害者の「まどえ、あやまれ」という怨念をはらす闘いとは、けっして別なものではないことを確認する。あの日ヒロシマの時計は八時十五分で永遠に止まったが、歴史の針はそれ以前もそれ以後もたゆみなく動いている。

 

(2)広島の最初の運動は、一九五五年ヒロシマに原発を建設しようとする米日反動の謀略を打ちくだいた。″ヒロシマを焼いた火でヒロシマを照らすことは絶対に許さない″と。 当時の本能的直感的な拒否は、今日 では科学的な追求によって理論的にも実際的にも確かめられた。あのヒロシマの「キノコ雲」から始まった新しい核の時代を生活の総体から受けとめるなら、反核兵器と反原発はけっして別のものではない。だから                                                                                                                         こそ、資本と政府は分離分断によってまず「核」を承認させ、ついで反核運動を反原発運動との分断でやわらげようとしている。われわれは、こうした分離分断攻撃と闘って反核 反原発運動一体化の闘いを押し進めることを確認する。

 

(3)時間の関係もあって、討論は充分発展させることができなかったが、反トマ、反基地、核チェックの運動は、それ自体米日極東核戦略体制と闘う共闘体制として、アジア・太平洋人民との連帯を要求している。また平穏無事と見える「日常」のなかにひそむ戦争と侵略への加担を再点検しつつ、告発することが極めて重要であることを確認する。

 全体を通してとくに強調されたのは、運動の統一であった。李実根氏の特別報告、上関の主婦の発言にあったように、闘うものの統一こそ運動の最大の武器である。同じ意見の  ものがともに闘うことは当然であって、統一ではない。異なった意見をもつものがともに闘うことこそ統一である。今後とも異なる意見については、大胆な討論を深めながら、反核・反戦・反原発・被害者援護をめざし統一して開かおう。

 

 

 以上のまとめを集会にはかり、満場の盛んな拍手で一致して確認した。さらに議長は、この会議の行動的な集約として、翌六日八時半から中電本社前で行なわれる電産中国地本の反核・反戦・反原発ストによる座り込み抗議に皆で参加しようと提案し、全員の拍手で確認し、八時四十五分集会を終った。

 (附記)

 このたびの集会は、いくつかの点で重要な意味があった。その第一は、この集会を準備する過程で広島の統一的な運動主体が形成され、また各運動の全国的な連帯をきりひらく端緒が生れたことである。広島では、いままでもいくつかの「八・六」集会が何度となく行なわれてきたが、今度のように広い範囲で統一的に結集したのは初めてであった。それは被爆四〇年ということもあったが、それ以上に現在の状況と運動への危機感がそうさせたともいえる。

 八月十八日ひらかれた広島実行委員会の総括会議でも、この結びつきを積極的に受けとめ、全実行委員の参加を求めて会議をひらき、ひきつづき県内反核運動のゆるやかな連絡組織をつくって統一的な運動の発展を共同できずこうという提案を確認した。

 既存の原水禁運動に再び分岐と停滞が生れはじめているとき、それと並んで自立的な活動家集団による反核の諸運動が、連帯しながら統一的に活動を展開することは被爆地ヒロシマの反核運動にとって、きわめて重要な役割を果すに違いない。また、今回は必ずしも充分ではなかったが、全国的な労働運動活動家集団、反トマ全国運動をはじめ、各運動各組織からの参加によって、今後の運動の深まりと広がりの基壌をきずいたといってもいいのではないか。

 第二に、集会のもち方に従来と異なる新しい提起をしたことである。従来、このようなテーマで集った幅広い集会では、とかく運動交流に終りがちで、それはそれとして重要な意味があるとしても、かみ合った討論にはなりにくかった。しかし今回は運動の節目でもあり、日本の反核反戦運動がいままでのような被爆の原体験によりかかるだけの受動的国民主義的なものから、いっそう深い根拠と国際性を獲得し、米日極東核戦略体制と対時するアジア・太平洋の反核民衆連帯に一歩ふみ込むためにも、この運動の根底について共通の認識を獲得しようとした。そのため、まず地元広島から共同の基調提起をつくり上げるため、全く平等で自由な討論で努力した。この基調をつくり上げる過程のなかに、古い経験と若い追求の新しい結合があった。

 第三は、この度の集会のなかで不充分ながら討論を通じて獲得した内容である。それは二つの問題に集約できる。その一つは、反核と反戦が四〇年前の歴史からとらえ還すことによって、反核・反戦・反侵略とことばを連ねるだけでなく、被害者の心底深い無言の告発から、日本帝国主義の侵略戦争によるアジア・太平洋民衆への加害と原爆被害・戦争被

害とを、内実において統一的に把握し、いま進められようとしている新たな加害を阻止する闘いと反核・被害者援護の闘いを一つのものとして追求することができたことである。もう一つは、反核と反原発とのかかわりについての追求である。広島の初期の運動としては、一体としてとらえなから、その直後から軍事利用と「平和利用」の分離分断が進められ、原水禁運動内部に「平和利用」についての賛否両論が生れた。それはこの運動の分裂にひきつがれ、「原水協」は条件付反対だが、実際には結果として原発賛成となり、「原水禁」も内部で意見が微妙に二分していた。その後、反原発運動の高まりのなかで「原水禁」はようやく反原発の立場を鮮明にしたが、いままた運動の後退のなかで社会党内に原発容認路線が生れた。それは「日中原子力協定」の問題と深くかかわっている。それは、一般的には資本主義国の原発と社会主義国の原発を、原理的な方法論として統一的にとらえるという問題であり、特殊的には日本における実践的な反原発運動と社会主義運動における原発問題を、どう統一的にとらえるのかという問題である。このたびの集会の討論は、こうした問題意識を内包しつつ新たな探求をはじめる端緒となった。

 反トマ闘争の討論の弱さは、問題が討論の余地なく明確であるということにもよるが、それ以上に実践の弱さの反映でもあつたのではないか。

(一九八五・八・二九 松江 澄

△ 集会の記事は議事録のテープ起し が間に合わず、私のメモにもとづいて書いたので、意見の集約について発言者の意図にそわない点や、重要な意見と問題点を落したこともあるのではないかと懸念している。

 

 広島実行委員会 (○印は代表)

 

宇田  隆(トマホークの配備を許すな呉市民の会)

沖 美保子(公害をなくす三原市民連絡会)

小田原栄子(全金中国工業支部)

川田 澄(全港湾中国地方部会長)

川出 勝(岩国基地監視連絡会)

木原 省二 (原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)

草刈 孝昭(トマホークの配備を許すな呉市民の会代表)

栗原 貞子(詩人)

好村富士彦(広島大学教授)

近藤幸四郎(広島市原爆被害者の会世話人)

伊達  工(全逓広島中央支部長)

塚原 華子(呉YWCA

中田 慎治(原爆擁護ホーム労働組合委員長)

林 修二(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座)

平桜 直之(労働情報広島支局)

広兼 主生(労働運動研究所)

福井 善之(芸南火電阻止連絡協義会)

○桝谷 暹(電産中国地本副委員長)

○松江 澄(広島原水禁常任理事)

 松山 家芳(医師)

 宗像 基(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座代表)

 山崎 一男(大久野島毒ガス障害徴用者協議会会長)

 山田 忠文(全造船三菱広機分会委員長)

 山本 恵司(南民戦事件破弾圧者を救援する広島の会)

 吉田 正裕(原発はごめんだヒロシマ市民の会)

 

全国世話人

市川 誠(総評顧問)

梅林 宏道(トマホークの配備を許すな全国運動)

佐伯 昌和(京都反原発めだかの学校)

清水 英介(前電産中国地本委員長)

西尾 漠(プルトニウム研究会)

樋口 篤三(労働情報編集人)

前野  良(長野大学教授)

横山 好夫(全国労組連事務局長)

 

 「核の冬」を招く爆発量 米ソ兵器の1%程度

 核爆発による地球の寒冷化、いわゆる「核の冬」の研究を続けている米国の天文学者カール・セーガン博士(コーネル大教授)は「核の冬」をもたらす核爆発の規模はこれまでの予想よりはるかに小さく、米ソの戦略・戦域核兵器の一%程度が爆発しただけで到来するという新しい研究結果をまとめた。

 「核の冬」は、米ソが核戦争に突入し、北半球の都市や工業地帯で核爆発が起きた場合、大気中に巻き上げられる紛じんで太陽光線が遮られ、地球上は氷点下の世界になるという現象。

 博士たちは昨年十月、シンポジウムでこのシナリオを発表するにあたって、米ソが保有する戦略・戦域核兵器一万八千発のうち、五分の一が爆発したと想定してデータを処理した。しかし、その後、ソ連の科学者と協力してさらに精密な計算をしたところ、一%程度の爆発でも十分「核の冬」が到来することがわかったという。

 博士は「核爆発による粉じんが攻撃された国から攻撃した国に届くのに十日しかかからない。米ソ両超大国はいずれも、奇襲攻撃によって相手国を破壊すれば、必ず自国をも滅ぼすことになる」といっている。   (朝日新聞から


いま、なぜ「日の丸」「君が代」なのか(パンフより)

             

                   松江 澄
                                          1990年12月1日

目次

原爆との出会い

苦い青春の思い出

日本的ファシズムの思想

「君が代」「日の丸」 


戦後の天皇制

新国家主義とは何か

教育臨調との闘い

「荒れ野の四〇年」―ヴァイツゼツカー

過去に目をつぶるな

いま、われわれは何を

私は、戦前も戦後も呉には随分来たことがありますが、ここ最近は来たことがありませんでした。今日は久し振りに呉にまいりました。

 私は、広島でも高校の先生達といろいろ話をする機会を持っています。 先程紹介していただいた吉田きん、この古田さんのお父さんとは戦後当初、労働組合運動で――「一緒に闘った仲です。今日は主催が呉の教労研で、それ以外の多くの高校の先生方もお見えになっていると思いますが、私も広島で教労研の人達と15年戦争の勉強会を一緒にやったり、いろいろな話し合いを34年ばかり続けています。今日は、呉の高校の先生方――恐らく初めてお会いする方がほとんどだと思いますが、いま問題になっている“なぜいま君が代、日の丸か”“なぜいま天皇か”。こういう問題についてお話し申し上げて皆さんの学習の参考にしていただければ幸いだと思います。初めての方も多いわけですから、私は自分の体験からまずお話を申し上げてみたいと思います。

 

          <原爆との出会い>

 

 私は1919年生まれです。元号で言えば大正8年生まれです。従って原爆と敗戦の年には26歳でした。 当時学生兵として軍隊にひっぱられておりました私が、原爆の後の広島に帰ってきたのがちょうど2週間位後でした。815日の敗戦になって、富士山のふもとにいた私達学生兵は比較的早く復員することができました。ほとんど一昼夜かけて、走ってはとまりとまっては走るような文字通りポロポロの汽車に乗って広島をめざしたのです。それ以前私は、私のいる部隊で「広島は特殊な爆弾で全滅になった」という情報を聞いていました。うつらうつらしながら満員の列車に揺られていますと、汽車が止まって「ひろしま」という駅の人の呼び声にあわててとび起き、人々の背をかき分け泳ぐようにして破れた窓からプラットホームに降り立った私の目にいきなり飛び込んで来たのは、崩れたプラットホームを通して見えた己斐の山でした。そして、こに至るあの全市は完全に焼け野原で、ところどころビルの残骸がわずかに残っているだけでした。

私は全くばうぜんとしました。そしてまず、駅の川向こうにある私の自宅を捜し求めましたが、勿論そこにほ何にもありません。そこで市内をあちこちさまよい歩きました。死体はほとんど片付けられていましたが、何かしらまだブスブスと燃え残っているような感じでした。みゆき橋の方へ向かってちょうど日赤の前まで行きました。あの日赤の中にたくさんの被爆者達がうめき苦しんでいるのも見ました。また引き返して己斐の方へ行きましたら、鉄橋がくずれ落ちて、誰も乗っていない電車が線路の上で傾いているのがいかにも残骸のようでした。

 そうしてほとんどまる一日さがして歩きましたが、勿論私の身内の者も友人も誰ひとり知った人はいません。そこでまた、僅かしかないバスを捜して戸河内の兄嫁の里まで行ってみました。そこで私は初めて、たったひとりの兄弟で、医者をしていて軍医に招集され、どうやら当日郊外の分院からしだいに爆心地の病院をめざして所用のために来た兄がやられたらしいということを聞きました。そして、父親と母親は親戚の者が助けに来て、いま三原にいるということも分りました。それからまた広島へ帰り直して汽車に乗り、三原に着いて父や母に会ったのは、広島へ帰ってから34日後だったと思います。父はもう70を越えていましたがまだ比較的元気でして、母の方がだいぶ弱っており、3年後に―当時ほまだ「原爆症」という言葉はありませんでしたが―髪の毛が抜け、血を失って死にました。

 私ほ三原にしばらくいましたが、しばしば広島にきてあの原爆の焼け野原に立ちました。そうして私はつくづく思いました。一体、この原爆に対して、或いは原爆を落とした今度の戦争に対して、私は何をしたのだろうかと。

 

勿論その当時、戦争に反対することがどんなことであり、果たして反対してもそれがどうなるかということも明白でした。ただ「平和」を口にするだけで憲兵隊にひっぱられたり、警察にひっぱられて留置されるのはまだいい方で、時によると何日でも留置場にぶちこまれるということくらい私も知っていました。 しかし私にとって大切なことは、私があの戦争に対して何が出来たかということではなしに、何をしようとしたのかということでした。そしてまさしく私は、具体的に何一つしようとしなかった。二度とこの原爆を落とさせてはいけない、再び戦争を繰返させてはいけない、しかし同時に、戦争に対して何も出来なかった私を”二度と繰返してはならない”、そんな思いで多くの人々の戦列に伍して、戦後広島の反戦・反核運動、あるいは労働組合運動、そして日本の社会を変革するためにたたかってきたのでした。

 私と中曽根は一つ違いで、謂わば同時代・同学です。私が見たのと同じようなあの戦争のあとの日本を中曽根も見たに違いありません。そしておそらく彼は、悔恨の涙にくれたに違いありません。もっと日本の軍隊が強かったら、もっと日本が金持ちだったら負けはしなかったのにと彼は思ったに違いありません。彼は故郷へ帰って右翼の青年塾、青雲塾を率いて第一回の選挙に出ました。彼は権力の側に立ち、私は権力とたたかう側に立ちました。私はつくづく思いました。同じようなあの戦争の体験、そこに立ちながら人間というものはひとつの事実を全く正反対の立場でとらえることが出来るのだということを。

 

          <苦い青春の思い出>

 

 私がいまふりかえってみて少しでも皆さん方のお役に立つことがあるとすれば、払の体験を通して皆さんに伝えるのが私の責任であり義務であると考えています。その意床で私は、私の吉年時代なぜ戦争に反対出来なかったのかということをもう一度考え直してみたいと思います。 と申しますのは、70年賀保鴇争の時でした。私は若い活動家の諸君達に呼ばれて、戦後広島の反戦・反核運動の話をしたことがあります。話をした後の座談会でその若い人に「いったい、松江さんはどうして戦争に反対しなかったのか。我々は戦後こうして反対しているが、どうして反対しなかったのか」と問いただされました。その問いはまさに正しいと思いました。なぜあのような状態をつくったのか、あるいはつくることを手伝わされたのか、それを率直に皆さんに申し上げる必要があると思います。

 

 私が広島の中学校を出て当時の旧制第一高等学校へ入ったのが昭和13年でした。昭和11年に226事件がありまして、私もたまたま東京にいて日のあたりに見ました。昭和12年は、昭和3年から始まった15年戦争が全面的な侵略戦争になった年でした。その翌年に私は旧制高等学校へ入りました。すでに左翼に対する大弾圧が行われた後で、私たちの学校の中ではどんな小さな社研サークルも一切禁止されていました。皆さんにその当時の状況をよく知ってもらうために申し上げますと、私が高等学校に入った1年の時にはまだあった岩波の白帯―それが2年になりますと、自帯の中でマルクスものと言われている左翼の本は、岩波書店が自発的に発刊をとりやめました。 それでもまだ2年の時には古本屋にありました。ところがわたしが3年の時には、古本屋からも一切のマルクス主義の本がなくなってしまいました。いやマルクス主義だけではなく左翼的な本がなくなってしまったのです。たったわずか3年の問に、そういう急激な変遷のあった時代に、私はちょうど二十歳の自分の青春時代を送っていたのです。

 世の中はすでに軍国主義の嵐が急速に吹きすさみ始めていました。しかし学校の塀の中ではわずかながら、断末魔の酸素吸入のような「カツコ」つきの自由が残っていました。当時教練があって、配属将校が来てうるさく言っていましたが、払はぞうりをはいて、ゲートルのかわりに上と下を赤い紐で括って、「伏せ!」といっても伏せず、「走れ!」といっても走らず、演習が済んだら鉄砲を放りだしていた。,まだ12年の間はそういうことさえ学校の塀の中では出来た時代でした。ちょうど2年の時でしたが、寮を外務省の巡査講習に貸せという申し入れがありました。当時寮の委員長をしていました男は、それを代議員会にはからずに許可しました。 それがわかって、緊急代表員会を開いてケンケンガクガクの議論をして拒否することに決定しました。その自治会長は辞任しました。 その男が実は、自民党の田中派でだいぶ前に防衛庁長官をやった山下元利でありました。また海田の13師団師団長で、広島でパレードをやって問題になり、とうとう逃げ帰った元幕僚会議議長の栗栖弘臣、彼も私たちと一緒の当時の学生仲間でした。

 

 その学校の塀の中にわずかながらあった自由も大学へ入りましたら急速になくなりました。そうして、何とか戦争に行くまいと思って、当時学生の特権だった徴兵延期をしつづけていましが、勅令でその延期が取消されていやおうなしに徴兵検査を受けさせられ、下関の重砲兵隊に放り込まれたのが昭和1810月でした。

 

 そこで私が皆さん方に申し上げたいのは、確かに私たちは苫年時代にずいぶんいろんな本を読みました。むつかしくてわかったかわからないか、わからないような、カントを読んだりヘーゲルを読んだり、二一チェだほショーペンハウ工ルだ、といろいろ読みました。友人と大いに論議もしました。確かに勉強しました。そうして外なる権威は一切否定してわが内なる自由をこそ私たちは讃えあったものです。しかし、その内なる自由がひとたび軍隊の中に放り込まれ、戦争の中に放り込まれたら、まことにみじめに一挙に崩壊しました。そこにあるものはなまやさしい観念ではなかった。私は軍隊の中で見習い士官になった時に、後から続いてきた大学出の学生兵たらに、まわりに誰もいないのを見すかして言ったことがあります。「君たちは軍人であるより前に日本人なんだ。しかし、日本人であるより前に人間であることを忘れるな」と言いましたが、それは私の観念であり、私の言い訳にしかすぎませんでした。文字どおりあの軍隊と戦争は、そういった私たちの青春の観

 

念的な感傷を一挙に崩壊させ、押しつぶしてしまったのです。結局私が思うのに、確かにいろんな本を読んで勉強もした。 しかし、結局それは個人の思想の探求であり、個人の哲学の追及ではなかったのか。社会的なものに対して立ち向い、それを変えたりそれと闘ったりするのではなくて、そういう社会的なものをいつの間にか自分が受け入れて、そのなかで自分がいかに生きるか、自分がいかに死ぬべきかということを捜し求めた。それは結局個人の哲学でしかなかったのではないかと私は思います。

 

 皆さん方は読まれたことがあるかも知れませんが、岩波文庫で最近『きけわだつみの声』がまた出版されました。皆さん方の日教組では「教え子を再び戦場に送るな」。これが反戦の合いことばであったと思います。そして私たちは、その先生方のまたず―つと前の先生方に教えられ、軍隊に放り込まれ戦場に送られた一人でした。謂わば私も「わだつみの声」の一人です。このなかには私たちと親しくしていた者もいます。多くの同世代の者、私よりもっと若い者もいます。そういう仲間たちが書いた遺書がたくさん集められています。

 

 私はこれを読んで思いました。確かにみんな勉強はしている。私たちと同じように考えもした。そして最後には、まことに静かに自分の死を迎えています。しかしそのなかに私が読みとるのは、それがまことに苦しみに満ちたうめきの声であり、また絶叫の声でもあるということです。結局、自分だけの生と死を追い求めた1個の青年が、最後には社会の大きな力の中でつぶされていく、それに対する絶叫の書ではなかろうかと私は思います。

 

 私たちは、いまも新しい危険な動さが始まろうとしている時に、いろいろ勉強することも必要です。考えることも必要です。しかし、私たちがあの青春に行ったようなことを是非二度と繰り返きないでほしいということです。自分たらだけのことではなく、私たちを取り巻く社会はどのように動いていこうとしているのか、それに対して私たらは何をすればいいのか。それが大切なのです。もしそういうことでなく、ただ自分だけの哲学であり、自分だけの人生観であるとするならば、それはまた新しい危検な動きを素通りさせることになりはしないかということです。私たちが自分たちの殻の中に閉じこもって、自分たちの哲学・自分たちの人生しか考えない時に、戦争は足音をひそめて静かに私たちの思想のなかに入ってくるということを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

 

         <日本的ファシズムの思想>

 

 先程、私は1919年生まれだと言いました。自分はまだ若いつもりで、若い人と一緒に活動していますが、いつの間にかすでに67才になりました。私が物心ついて小学校に入ったのが大正15年ですから、まさに昭和の世代とともに生きてきた一人です。私はいわば、今日の主題である「日の丸」と「君が代」に、生まれた時から包まれながら育ってきたと言っても間違いではありません。勿論だからといって、私たち子どもの時に、「天皇」という

神さんがいてそれが一番偉い、などと思ったことはありません。私たちの頃には、学校の校門を入りますとたいがい右の方に「御真影」と称して天皇の写真をかざってある、見ることのできない奉安庫なるものがありました。校門を入る時に、気をつけをしてそっちへ向いて最敬礼しないで入るのを先生に見つかろうものなら、こっぴどくしかられました。「日の丸」はいつもそこに翻っていました。式になると、黒いフロックコートを着た校長先生がうやうやしく日の上に「御貞影」と数奇勅語をささげて私たちの前で朗読して

聞かせました。そうしてその勅語を暗唱させられました。

 

 しかし、小学校の頃悪童たちは後を向いてベロを出したり、あちこちよそ                           

見をしては怒られたものでした。 そういう悪童たちといつも一緒に歩いて帰つたのですが、ある時彼等は私にこう言いました。当時私はどうやら成積が良くて優等生らしく、級長か何かやっていたように思います。

 

「おい松江、天皇は神さんじゃいうが、天皇にゃ子どもがおろうが。どうして生まれたか知っとるか?」それが悪童どもの私に対する質問でありました。私は、「そりゃあ天皇じやいうても人間じゃないか。そりゃあ同じことよ」と答えたのを今でも覚えています。それを聞いたいたずら連中は、大声をあげて喜んで手を叩いてくれました。どうやらそれから私は、彼等の仲間入りを許してもらえたような気がします。

 

 しかし、そういったことがだんだん笑い事でなくなるような時代が、しだいしだいにやってきました。 もう「日の丸」とか「君が代」というのは、いつの場合でもそれを見る人ぞれを聞く人は直立不動で迎えなければならないという時代がやって来たのでした。

 

 こういう時代の中で、日本的なファシズムと言われる抑圧の構造というものは一体何であったのか、私は考えてみました。それは、決してナチスとかムッソリーニと同じではない。確かに共通の民族主義的な排外主義でありましたし、人権や権利一切奪い去るものでした。上から下へ締めあげる体制でしたけれども、そこには独特の日本的な構造があったように私は思います。それは一口で言えば、“集団的無意識”とでも言いましょうか。 例えば隣組でも、地域でも、一定の集団の中でもし誰かが「日の丸」とか「君が代」とか「天皇」について、あるいは「戦争」について、決してひどくはないがちょっと一口でも、批判とまではいかないまでも少しばかり遠慮がちな疑問を出したときにどういう状態がうまれるか。それに対して先頭を切って糾弾するのは当時の学校の先生であったし、或いは近所の床屋さんであったし、或いは神社やお寺の神主さんやお坊さんでもありました。或いは町内ではばのきく町内会長でもありました。そういう人達が、そういうことを言った人を糾弾したときに、他の多くの人々はどういう態度をとったか。自分がみずからそれに対して声を出して批判はしないけれど、それを糾弾することに暗黙の同意を与えていたということです。つまり、そうすることによって自分が批判者ではないというアリバイをつくっていた。 私は、これを仮に“集団的な無意識の思想”とでも言っていいのではないかと思います。そういう行動が紛れもなくあったと私は思います。

 

 あの当時、日本人のすべて一人ひとりが、自らすすんで「戦争万才!」と言って叫び歩いた訳ではありません。戦争に反対することがどんなことになるかということは、誰しも知っていました。しかし必ずしも、すべてがいいとは思っていない人もたくさんいました。しかし、ひとたびそれが口に出されて「異端者」とされた場合、周囲にいる者がみんな一緒になって暗黙の同意を与える、そのことによって自らのアリバイが立証されて自分が罪を免れる、そういう構造があったということです。そしてそういう暗い日本的なファシズムの頂点にあったのがタブーとしての「天皇」であり、その象徴が「日の丸」であり「君が代」であったのです。

 

 私は軍隊に放り込まれたと言いましたが、私はあの軍隊の構造をいま振り返ってみて、先程払の言った“集周的無意識”の、自己のアリバイ立証のために異端者糾弾に暗黙の同意を与えるというあの行動の極限が軍隊にあるのだということを経験を通じて直感しました。少しでもメシを多く食った兵長だとか上等兵だとかが“いじめ”をやる。その”いじめ”の対象とされるのは、どちらかというと人の良い者でした。それに対して、多くの者が黙っていながら実はそれに同意を与えて、一緒にいじめに参加させられる。軍隊の場合ほ強制的にいじめに参加させられたものでした。私は、軍隊の中にそういう暗い日本的なファシズムの構造の極点を見たような気がしました。

 しかしそれは果たして昔の事であろうかということです。いま日本は世界で最高の貿易黒字でどんどん成長を遂げてきた。世界で一番の技術革新。今富士山のふもとではロボットがロボットをつくっている工場がある。世界の産業用ロボットの半分を日本がつくつている。そういう日本の国の産業の中で、企業の中で、こういう“集団的な無意識”によって異端者を村八分にするような構造はないであろうか。或いは、皆さん方の学校の中で、そういう構造がまた息を吹き返してはいないだろうかということです。

 よく学校教育で問題になります”いじめ”。この“いじめ”というものはやはり同じような、形を変えたものでほなかろうかとさえ私は思います。そこでは、決して一人の子どもが一人の子どもをいじめるのではない。必ずそこには集団が形成される。そこに払いじめのリーダーがいる。しかし私が一番問題だと思うのは、リーダーではなく暗黙の同意を与えている子ども達です。そこにこそ戦前から潜んでいた暗い日本的な抑圧の構造がありはしないかということです。そして私たちは、戦前その対極にあつた「日の丸」と「君が代」、「日の丸」と「君が代」によって象徴される「天皇」、この問題をもっと検討してみなければならないと思います。

 

       <「日の丸」と「君が代」>

 

「日の丸」というのは皆さんもご承知でしょうが、「日の丸」の前身といぅのは、太陽をかたどった旗であると言われています。この太陽をかたどった「日の丸」の前身が権力の象徴として出来上がったのは紀元7世紀頃日本の古代天皇制が成立した時期です。それから先、いろいろこうした旗が使われましたが、古代天空制の崩壊と共にやがてそれはなくなりました。この「日の丸」が再び息を吹き返すのは、幕末です。一番最初に使われたのは、商業用だったかも知れません。改めてはつきり公で使われたのは、当時幕府に献上するため、島津藩が日本ではじめてつくった大型船の「昇平丸」が「日の丸」の旗を掲げて品川に入港した時でした。(1854年一安政元年三月)

しかし、この「日の丸」 がはっきり権力の象徴として、天皇のシンボルとして決められたのは明治3年の太政官布告です。そして早くも明治5年には、祝日・祭日に小学校で一斉にこの旗を掲げるよう文部省から通達されたのです。

 

 「君が代」はいったいどうなのか。「君が代」は本来『古今和歌集』にあった歌です。「わが君は/千代に八千代に/さざれ石の/巌となりて/苔のむすまで」「君が代」ではなしに「わが君は」という歌です。これは天皇を含む当時の上流階級、貴人達の個人的な祝い歌でした。それが普及して、多くの人々の中で歌われた祝い歌のようです。

 

 それが再びはっきりと 「天皇の聖なる歌」として復活したのは、明治政府樹立後です。 明治3年、天皇が観兵式をした時、それを迎えるためにフランス人フェントン作曲のこの歌が最初にうたわれました。そうして10年後には、天長節にうたわれるようになった。 そして、日清戦争の前年から一斉に、文部省の通達で小学校が祝日・祭日にうたうことになりました。

 ですから「君が代」「日の丸」は、あの明治革命の結果できあがった明治の政府とその中心にかつぎ上げた近代天皇制、その樹立と共にその歩みが始まったのです。そして始めは緩やかに、しかし次第にあからさまに激しく、この「日の丸」と「君が代」ほ絶えず侵略戦争の先頭に立ち、国民抑圧の旗印として使われるようになったわけです。

 今振り返ってみても、明治以来の80年は、殆ど戦争から戦争でした。台湾征討、つづいて日清戦争、日露戦争。大正に入ってからは、第一次世界大戦に便乗して中国の山東省を攻略する。それ以前に朝群半島に対する侵略が始まる。やがて日韓合併が行われる。またロシア革命への干渉戦争。そうして昭和3年には「満州事変」の火ぶたが切られる。宣戦布告のない15年戦争が始まる。そうして、昭和12年には全面的な中国侵略戦争が開始される。

昭和16年にはアジア・太平洋戦争へと一路突入していった。こうした数々の侵略戦争の先頭に掲げられていたのがこの「日の丸」であり「君が代」です。

 よその国にもいろいろ国歌があり、国旗があります。例えばフランスの国旗と国歌は、フランス革命の中でつくられました。あの三色旗は、そのフランス革命の象徴の旗色です。「ラ・マルセーズ」はその時のたたかいの歌です。アメリカは、新しくあの大陸で独立する戦いの中でつくられた国旗と国歌を持っています。イギリスでさえも、「神よわが皇帝を守り給え」という日本訳で始まるあの国歌でさえ、3節目では「神よ、わが王が法律を守るようにさせ給え」という歌になっています。それは、幾度か国王を死刑に処してきたイギリスの歴史がつくった歌であります。そして、あのヒットラーの時につくられたドイツの国歌、「世界に冠たるドイツ民旗…」という言葉で始まるドイツの国歌。今では、12節は歌わないで第3節以降を歌うようにしているのです。そしていずれも、このような近代国家は法律で国旗と国歌を定めました。

 しかし日本は、「日の丸」も「君が代」も明治以来法律で定めたことはありません。儀礼の歌として「君が代」は始まり、「日の丸」は外国の船と識別するために使われてきました。侵略の血に塗られた真赤な「日の丸」の旗。

それはまだ一回も法律で国旗として制定されたことはまありませんし、また戦後も制定されたことはありません。「君が代」もまたしかりです。特に「君が代」に至っては、あの時代錯誤の歌を、彼らはさすがに国歌として提案することにいささかの躊躇を感ぜざるを得なかったということもあります。

 国旗にしろ国歌にしろ、一口に「国民」の旗、「国民」の歌という形でひとなでにすることはできません。最近さかんに「国民」的ということばが使われます。しかし、「国民」 という言葉が使われ出したのは、日本が侵略戦争を始めてからです。明治初期の自由民権運動の時代に多くの人々が「われわれのための憲法を作れ!」と言った時、彼等は 「人民」という言葉を使いました。天皇は、「臣民」という言葉を使っていました。そして大正に至って「国民」という言葉が普及しました。戦争をすすめるのは「国民」的な課題である。それをしない者は「非国民だ」と言うわけです。戦後「国民」ということばが再び復活しました。私は未だにメーデーの挨拶で「国民」ということばは使わないことにしています。「人民」 ということばを使うことにしています。 なぜかしら今では「人民」というと特別な人間が使うように見なされ始めているのではないでしょうか。では 「国民」という言葉は一体何なんだろうか。「国民的な」ということは一体どんなことだろうか。結局、「国民」ということばは、支配と被支配ということをゴマ化して「君民一体」の共同体的な同一性を表現することばです。ナショナリズムの主体であり、中曽根のいう“日本人のアイデンテイ”のうつわなのです。それは、どの階級がいつ提起するかということによって異なるのです。 戦時中、日本の軍部と支配者たちはその「国民」という名を使ってあの「大東亜戦争」、15年戦争をすすめました。その時の「国民」とは、まさに彼らの立場からの「国民」でした。従って、それに反対して平和のためにたたかう者は「非国民」とされたのです。フランス革命では、当時の新しい階級が自らを解放するためにたたかった、そういう形で彼等はフランスの 「国民的な」課題を提起したのです。 しかし日本では、あの戦争中侵略戦争のために掲げた「日の丸」そのためにうたった「天皇を称える聖なる歌」、それを今あたかも国旗と国歌であるかのように、彼らのいわゆる「国民的な」ものをわれわれ人民に押しつけようとしているのです。

 

        く戦後の天皇制は>

 

 中曽根はつい先だってもテレビでしゃべっていました。「勝っても国家、敗れても国家、栄光と汚辱を一身に裕びるのが国民だ」と。そうして日本人のアイデンティティを説きました。国家のために死ねるもの、それが国民なのだと彼は言いました。いったい、彼によって代表されるこの思想はどこから来たのか。 今日までどのような変遷をたどって来たのか。今なぜいわゆる“新国家主義”の思想が押しつけられようとしているのか。

 

 先程、私は中曽根と一つ違いで同時代だと言いましたが、はからずもある一人の教授を通じて私と中曽根が真反対の立場から関わったということを、つい最近若い政治学者が調べて教えてくれました。当時私たちのいた大学に矢部貞治という政治学者がいました。 彼はまもなく近衛新体制、つまりヒットラーのナチスを頁似た一党独裁の体制を貴族の総理大臣である近衛が考えた当時そのブレーンになった男です。私たちは、この矢部貞治の政治学の講義を聞きました。 それはまさに、大東亜共栄圏の政治学でした。私たちのグループは彼をボイコットすることに決めました。以後、二度と彼の講義は聞さませんでした。 ところが最近わかったのは、中曽根はこの矢部貞治の愛弟子であったということです。だから、中曽根が戦後最初に自分の郷里から衆議院に立候補した時に、矢部貞治は駆けつけて応援をしていますし、又、中曽根は矢部貞治の著作集の編纂委員長もやっている。そして矢部貞治がやった後を受けて、中曽根も拓大の総長をやりました。 つまり、彼と矢部貞治は切っても切れない関係にあるということを、つい最近私は知ることができたわけです。

 そこで矢部貞治の思想とは何か。一口で言えば国民共同体論であり、共同体国家思想とでも言いましょうか。 つまり、国家というものは国民一人ひとりの共同体としてのみ真に国家でありうるのだという考え方です。それが矢部貞治の国家思想であり共同体論です。彼はその政治学を使って、大東亜共栄圏政治学を作りあげました。それで結果中曽根は、この矢部貞治の共同体国家思想を継承しながら、それを焼き直して、いま日本の支配者たちが必要としている新しい国家主義を作ろうとしているのです。

 ところがこの共同体論は、中曽根が戦後初めて言い出したわけではないのです。それ以前がある。ぞれはいつか。 815日の敗戦の直後です。815日、みなさんご承知のようにポツダム宣言を無条件に認めて降伏した。

しかし、無条件と言われるあの降伏の中に、たった一つだけ条件があった。それは「天皇」の護持です。「国体」護持です。神権天皇制を中心とした国体を護持する、この一点だけが当時の支配層が守ろうとした条件でした。 そして、マツカーサーもアメリカもそれを受け入れて、条件付きの無条件降伏を認め、やが′て戦争は終わったのです。

 あの815日当時の支配層のやり口は、まさにク−デタ−です。 日本人のすべてが途方に暮れて自分が何をしていいのかわからない。 そういう空白状態の中で、被らは何とかして戦前の天皇制、戦前の憲法をそのまま継承しながら、その一点だけをとどめてほかはすべて連合軍の言いなりになる。無条件降伏と言いながら、実はそういう条件つきの無条件降伏で、再び自分たちの支配を続けようとしたのです。そして、天皇や国にたてつく者を処罰する治安維持法を依然としてつづけていこうとした。 815日から1カ月もたたない時に山崎内務大臣がそのことを記者団に対して明確に話しています。

それは、当時日本の支配層が、下からの支配階級に対する批判や闘争が起きることを恐れて、いちはやく自分たちの主導権で新しい日本を、彼らにとって一番大切な神権天皇制を中心としたその体制をそのまま引き継いでいこうとしたクーデターでした。 そのクーデタ一は、やがて占領軍からの反撃を受けました。と同時に、日本の国内の労働者・人民の闘いによって反撃を受けなければならなかった。その時に登場したのがこの共同体国家思想・国民共同体論でした。

 結局どういうことなのか。今までは天皇が日本の人民を治めていた。それではいけない。君民一体である。天皇も国民の一人である。天皇を含めた一人ひとりが新しい日本の国をつくる。それが、神権天皇制から象徴天皇制へとなしくずしに転向していった図体護持論の行先だったのです。一部の右派は、一生懸命無条件の団体護持をやろうとしました。反対に、労働者・人民からは反撃が起こりました。当時最初の食料メーデーでは、「朕はたらふく食っている。汝、人民飢えて死ね」と書いたプラカードが立ちました。「天皇空の台所を襲え」という声もありました。そういうなかで当時の支配層は、この国民共同体論によって神権天皇制から象徴天皇制へと転向することにより、「非政治的」な天皇によって政治的に統合する、こういう新たな支配のシステムを作り出したわけです。

 当時の記録に載っていますが、衆議院議員をやっていた自民党の北玲吉が「これで天皇も皇室も安泰になった」と語っています。それが実は国民共同体論でありました。それは、危機に陥った天皇と天皇制を、象徴天皇制へと転向させることによって、一見「非政治的」な天皇でありながら、実はその天皇によって新たにイデオロギー的、政治的な国民統合をすすめようというものでした。そうしてこの考え方は、当時の支配層だけではなしに、革新という名前で実はいつでも支配層と野合する一部の右翼的な「革新」の指導者たち、それを含めた思想的な共同戦線として出来上がったものでもあったのです。こうして「神権天皇制」はみごとに「象徴天皇制」として救い出されました。彼らがまず天皇にやらせたことは、地方をまわるということでした。

広島にも来ました。 そうすることによって、「人間天皇」と称する「非政治的」なシンボルにしたのです。その後隠忍自重して40年、いま彼らはどうしても必要となったこの象徴天皇制を、改めて政治的な統合のシンボルとし公然と担ざ上げなければならなくなったわけです。

 

         <新国家主義とは何か>

 

 確かに日本の資本主義はずいぶん発展しまし。 技術もずいぶん発展しました。しかし、いま彼らが一番困っているのは、どうして支配の方向に日本の人民を統合するのかということです。戦前は、天皇という統合のシンボルがありました。次第に経済的な危機が深まり、矛盾が潜行し始めている。労働者や多くの人民が今は静かにしているが、もうどうにもならないという経済の危機の深まりがしだいしだいに拡がっていくという状態のもとで、たたかいが起きたらどうするか。予防的に先制的にそういう動さを封じるために彼らはシンボルを必要としたのです。そこには、「神権天皇制」から転向した「象徴天皇制」があります。「非政治的」な天皇制があります。彼らは、自分たちの低下してさたイデオロギー的な権威の補強装置としてそれを使わなければならなかったのです。そのために中曽根はいくつかの操作をしました。私たちは中曽根の“新国家主義’’を戦前と同じだと考えたら間違いです。

また、昔のファシズムがやって来たたといえば、余りにも単純過ぎます。彼らはそれほど単純ではありません。何故ならば、今日日本の資本主義経済はすさまじく発展しています。先程も言ったように、技術的にも世界の12位を争うようになっています。貿易も大黒字です。

 そういう状態のなかで中曽根は、一方では昔の国家主義の形を変えた天皇制を担ぎ出すと同時に、片方では、高度に発達した管理社会があります。そういった管理社会と古い.天皇制思想或いは国家思想を混ぜ合せて、新しい国家主義をつくる必要に迫られたのです。もし彼らが高度に発達した技術を中心とした管理社会を完全に無視して、昔と同じような天皇制をかつぎ出そうとするならば、恐らく一見おとなしく見えるいまの現状でさえ、はっきりした批判が吹きでるでしょう。彼らは巧みに、現代の高度な管理社会と結合した新しい国家主義としてそれを生み出そうとしているのです。

 もう一つ彼らは手直しをしました。 戦前の日本は、アジア・太平洋の国々を侵略してきました。しかし、いま彼らはそれを昔のようにはすることができない。しかし実際には、経済的に侵略している。それをもっと甘い砂糖でまぶさなければならない。 そこに彼らは“国際国家”という概念を持ち出しました。高度管理社会と旧式の国家主義とを融合・結び合わせた“新国家主義”、それを日米核軍事同盟と矛盾がないように繁ぎ合わせるためには、彼らのいわゆる“国際国家”という道貝を持って来なければなりませんでした。そういうものとしていま中曽根は、“新国家主義”を振りまいているわけです。

 そういう立場から彼は、栄光も汚辱もすべて国民が一身に担わなければならない、敗北しても国家、勝利しても国家、まさに日本人のアイデンティティを我々は明らかにしなければならないというのです。彼は、そのアイデンティティの象徴・シンボルとして、あの転向した天皇制を再び政治的な統合のシンボルにしようとしているのです。それが、今日天皇制が再び担ぎ出され、「日の丸」と「君が代」が再び打ち振られ、歌われようとしている理由です。

 

 そのためにも中曽根は、レーガンやサツチャーの真似をしながら、急いでいま首相権限の強化を行っています。いま、国際的にも経済危機が深まるなかで、政党の政策媒介機能が非常に低下しています。従ってまた議会の地位が低下しています。高度成長時代には、政党の訳活躍によっていろんな予算がばらまかれました。経済危機になりますとなかなかそんなことはできない。

危機の深まるなかで、予算を手段にして政策を媒介する機能が低下する。議会地位が低下する。そういう状態の中で、レーガンもサツチャーもトップの権限強化をしているのです。明らかにレーガンも、アメリカの国家に対して自らの権限を強化していますし、サツチャーもしかりです。それを“新保守主義”というふうに呼んでいます。中曽根はまさに“新国家主義”に基づいて、国際的な“新保守主義”の日本版を作ろうとしているのです。

 皆さんもよくご存じの行革がそうです。 教育臨調がそうです。今まで予算編成は大蔵省が中心でした。しかし、「行革」というかけ声で作った行革審。

中曽根の好みで適当に人を集めて、答申に従っているようで実は中曽根が吹き込んだ思想を裏返しにして答申させ、道具として審議会を使いながら次第に大蔵省のお株を奪い、首相権限で予算を左右するという傾向が強まっています。また、今度は教育臨調を作ることによって、文部省の機能を、同じような選り好みの審議会を通じて自らの首相権限の中に取り込もうとしています。

 

 いま中曽根は、国家にとって最も重要な行政と財政と教育、この三つを一手に握りしめようとしているのです。それはまさに今日の経済危機を始めとして、世界全体が安泰のように見えて実はは多くの波乱が予想される、そういう新しく変化していく情勢の中で、いざという時の予防反革命的な立場から首相権限、大統領権限を一層強化していく。そういう動さの一環として、彼は“新国家主義”を位置づけようとしているのです。そして彼は、それを着々と進めてきました。

 それは、中曽根が総理大臣をやめたら全部御破産になると思ったら大間違いです。中曽根は明らかにレールを敷きました。 しかし、それは単なる中曽根個人の好みではない。戦後40年経った日本。アメリカの傘の下でそのお陰でもっぱら儲け、諸外国に経済的な侵略をすすめてきた日本。その被らの日本がいま新しい矛盾に直面しようとしている。その内の一つは、辞済の発展にも拘らずそれに見合う政治的、軍事的な構造が弱い。これを何とか強めねばならぬ外国からどんどんお呼びがかかる。日本も仲間入りしないと困る。そういう声を巧みに彼らは利用しながら、何としても日本で世界の12位を争う経済発展にみあうような政治梼造と軍事構造をつくりあげようとしています。 経済と軍事のギャップを彼らはいま埋めようとしているのです。

これは単に中曽根だけではありません。中曽根を個人的に非難する多くの派閥の領袖たち、いや財界の諸君や日本の支配層は、場合によっては中曽根を切っても中曽根が切り開いたこの新しい水脈を何としても守り、もっと拡げていかなければならないと彼らは考えています。それは、戦後40年経った日本の国家のいわば矛盾であり、いま国際的な危機を前に、新たに再構築しようとしている彼らの本来の国家でもあるわけです。彼らはこうして新しい国家主義を国民全体のものにしようとしているのです。私たちは、そういう状態のなかで一体何をしなければならないかを考えねばなりません。皆さん方に一番身近な間題は、今度の教育臨調の問題があります。いったい今日の数育の問題は、何から生まれて来たのか。

 

 

          <教育臨調との闘い>

 

 今日、日本の多くの労働者、その多くの労働者が携わっている日本の生産過程の中で一体どんな状態があらわれているか。そこでほ、昔のような働の連帯はありません。働く者の労働はズタズタに分断されています。 そこでは何がいったい出来るのかはっきりわからないままに、細かく細かく分断された仕事を、ただ結論的に果たしていくだけの仕事を迫られています。彼らにとっては、全体を知る必要はないのです。 自分の労働と他人の労働がどうつながっているかを知る必要もないのです。ただ自分に与えられたごく小き556を過ぎています。昔は良かった。仕事も皆でいっしょにやった。78人で仕事を一緒にやった。仕事が済んだら呉線で通う人も含めて駅の近くの一杯飲み屋に行っ皆でいっしょに焼酎をひっかけたものだ。ところが今はそうじやない。さあ仕事が済んだ、一杯行くかと言うと、ある若者はひとり下宿へ帰ってギターをひくと言うし、ある者は仲間と一緒にマージャンをやると言い、またある者ほ好きな人とデートすると言う。そこには仕事の連帯もないし、人間の連帯もない。下請けの中小企業ですらそういう状態が生まれてきている。それが今日の技術が生んだ日本の産業社会、それを中心にした日本の社会です。そういうなかで生まれ育った子どもたち。ある時には「自殺」という形で現れたり、ある時には「暴走族」という形をとって現れる。そうして自分のアリバイのために集団で人を差別することによって、何かしら自分で安心感を得なければならない程、せっぱつまって追いやられている子どもたち。これは子どもたちの世界であって、実はその奥底に大人の世界があるのではないでしょうか。

 そういうなかで今回の臨調イデオロギーの中心は、「自由」と「個性」 です。いったいどこに「自由」 があるというのでしょうか。どこに「個性」というものがあるのでしょうか。結局それがないが故に、被らは言葉として概念として擦りかえることによってゴマ化そうとしているのです。 教員研修を強化しながら、適格審査によって、まず教員のなかに資本主義的な競争原理を持ち込もうとしているのです。それはまた彼等にとって組合つぶしの最上の手段でもあるのです。

 私たちは、行革の闘いのもたらした教訓を決して忘れてはなりません。彼らはまず、やり方や進め方はいろいろ意見があるだろうが、行政改革は必要なのだ、これは誰しも反対ではないであろうということで、まず、国民的な合意を取り付けました。外堀を埋めたのです。そして次には、いつの間にか行革を行う主体としての行革審を作り上げました。今度の場合にも、ともかくいろいろ意見はあるだろうが、教育の改革が必要ないという者がおるであろうか。こう言って、彼らはまず国民的な合意を取付けようとしています。 そして、今度は文部省がなるか新たに審議会をつくるかは知りませんが、教育臨調を実践するための行政主体を作ろうとするに違いありません。

 しかし私たちにとって必要なのは改革一般ではないのです。何をどのように改革するのかということです。大変な課題ではありますが、皆さん方が毎日の教育実践のなかで現場を基礎にして、今までの教育を内から乗り越える新しい教育の体系の構築を目ざして運動をすすめられることを心から期待するものです。

 

   <「荒れ野の40年」−−ヴァイツゼツカー―>

 

 私は最後に皆さん方に申し上げたいことがあります。皆さんはご覧になったことがあると思いますが、これは『荒れ野の40年』というヴァイツゼツカー西独大統領の演説の全文です。『世界』に一部出たことがありますが、岩波がブックレツトのなかでこれを出しました。これは割合に広く読まれているものです。この中で必要な箇所をごく簡単に皆さんに紹介しておきます。

このヴァイツゼッカーという人は、1920年生まれですから私より一つ若いのですが、彼もまた私と同じように、ドイツの軍隊に学生兵として動員されました。そうして戦って私と同じように兄を殺されました。彼はキリスト教民主党出身です。いわば保守党です。そこから選出された現在の西ドイツの大統領です。

 ドイツの終戦は58日です。彼はこの日国会で、ドイツ人だけではなしにヨーロッパの人々に向かってこう呼びかけています。「たいていのドイツ人は自らの国の大義のために戦い、堪え忍んでいるものと信じていました。ところが、一切は無駄であり、無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであったということが明らかになったのであります。彼ははっきりとこう言い切っています。

「きょうというこの日、我々は勝利の祝典に加わるべき理由は全くありません」194558日が、ドイツ史の誤った流れの終点であることを彼は確認しています。そうして彼が誠実且つ純粋に思い浮かべることを提起している多くの人々がいます。それは、ドイツがつくり出した暴力支配の中で倒れたすべての人々を悲しみのうちに思い浮かへることです。彼があげているのは、600万人のユダヤ人、次にはソ連・ポーランドの無数の死者です。

次には兵士として倒れたドイツ人の同胞、そして虐殺されたジプシー、殺された同性愛の人々、殺害された精神病者、宗教或いは政治上の信念のために死ななければならなかった人々、それから銃殺きれた人質。そうしてまた、広くドイツに占領されたすべての団のレジスタンスの犠牲者に思いを馳せると彼は言っています。そうしてドイツ人としても、レジスタンスをたたかった人々、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス、これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ敬意を表します。良心を曲げるよ

りはむしろ死を選んだ人々を思い浮かべます。

 彼はこうして、あのドイツ軍の行った暴力的な支配が虐殺した多くの人々に敬戮な祈りを誠実なキリスト者として棒げているのです。彼は決して革新ではありません。 彼はドイツの保守党から選ばれた大統領です。

 私たちは、これを彼の特別な個人的な性格の故だとするわけにはいきません。いったい、日本のかつての総理大臣が一人でも、南京の虐殺を始め何百万という中国の民衆を殺したことを思い浮かべ、或いは東南アジアまたは南太平洋で殺 した人々や焼き払った町々のことを心から思い浮かベて悔いを新たにした人があったでしょうか。彼等のなかで、長い間しいたげ、抑圧し、虐殺した朝鮮や韓国の人々に心からの詫びをあらわしたものが一人でも居るでしょうか。 誰一人としていないのです。それどころか中曽根は、あの日を期して、栄光も汚辱もすべて国民だ、勝っても負けても国家だと言いながら、再び靖国神社を公式に奉ろうとしているではありませんか。私たちはこのようなことを決して許してはなりません。

 

         <過去に目をつぶるな>

 

 かつて広島は、40年前に原爆を受けました。私もたった一人の兄を殺され母を殺されました。私の知ってる多くの知人や親戚も失いました。多くの広島の人々或いは呉の人々も空襲で人々を殺されたに違いありません。しかし、今までの私たちの反核運動はいったいどうだったのか。私は今でも思い出しますが、第一回世界大会の時に、あの平和公園で公会堂が満員になって

開かれたあの第一回の時に、「被爆者は生きていて良かった」と言われました。人々は涙を流して、この被爆者のことばを味わいかみしめました。しかし、あの第一回世界大会の中でただの一人でも朝群人被爆者のことを口にした者がいたでしょうか。いなかったのです。それほど、あのビキニの運動は非常に広く大きなものでしたが、国民主義的な性格をもったものでした。だからこそ官民一体であり、右も左も一緒に運動がすすめられたのです。朝鮮人被爆者のことが問題になったのは、70年代になって、戦後はじめから私達と一緒にたたかい続けて来た被爆者協議会の会長をしている李実根君が、原水禁開会総会の時に初めて二度にわたる日本帝国主義の犯罪を告発した時でした。

 私たちはもう一度、払たち自身の反核運動を考え直さなければなりません。

いつの問にか私たちは、歴史の中からあの86日を分断して取り出していたのではないでしょうか。あの原爆の巨大な破壊は、いつの間にか我々から歴史を奪ったのではないか。あの原爆が落ちる1分前に広島の人々は何をしていたのか。 我々は何をしていたのか。呉は大空襲を受けてた。その寸前まで多くの人々は一体なにをしていたのか。私たちはそれを考えなければなりません。あの空襲もあの原爆も、15年以上にわたる日本の侵略戦争の歴史的な帰結であることを。もしそうであるならば、私たちほ再び86日を歴史のなかに返さなければなりません。歴史から分断しないで。

 あの原爆と戦争をもたらしたファシズムの主要な支柱の一つであった日本帝国主義が過去に犯した多くの罪、アジア・太平洋の人々を虐殺し、多くの町々を焼いたそのことを、私たちは(私はあの時すでに26才でしたけれど)経験のない人々に伝えなければならないのではないでしょうか。ヴァイツゼツカーもそれを言っています。確かに今の若い人達は、個人的体験的に言えば責任はない。しかし、それがもしドイツ人の歴史であるとするならば、私たちは経験した者も経験しない者も一緒になってその責任を考えねばならないのではないか。伝えていかなくてはならないのではないか。その思いが、ヴァイツビッカーにあの演説をさせたのです。

 彼は最後にこう言っています。「過去に日をつぶる者は今が見えなくなる」と。確かにその通りです。私たちは、いまのためにこそ決して過去に目をつぶってはいけない。日本帝国主義がどんなに残虐に人々を殺したのか、私たちほその思いをこめて反戦・反核を闘わなければならないと思います。もしそうでないとしたら、私たちは中曽根と同じことになるのではないか。勝っても負けても国家だと言い切る中曽根、栄光も汚辱も一身に浴びるのが国民だと言う中曽根、中曽根の言う国家と国民の枠の中に連れ去られてしまうのではないか。 私たちは、私を含めて過去に皆さんの先輩たちが犯したあやまちを二度と繰り返してはいけない。過去に決して目をつぶらず、私たちはいま次代に向かってはっきりと大地を踏み出さなければならないのではないか。

 

 <いま、われわれは何を>     

 

 もし日本的なファシズムが、私が先程言ったように異端者を無意識のうちに糾弾することによって自己のアリバイを立証しようとするようなそういうものであるとすれば、それほ一人ひとりの自覚的な自立がないところから生まれたと言わなければならないでしょう。近代を駆足で通り過ぎた日本の歴史がもたらしたそういう構造、その構造をそのままにして世界第一の技術革新の国になろうとしている。そういうなかにいる私たちがあやまちを犯すまいとすれば、私たちは、改めて一人ひとりが自立しながら新しい連帯をつくっていかなければならないのではないか。団結も結構です。大切です。しかし、その団結が一人ひとりを擦りつぶすようなものであるならば、場合によつては同じあやまちを繰り返さないとは限らない。

 

 大切なのは結果ではない。どんな方法でどんな過程で、私たちが新しい私たちの砦をつくるかということです。しかしそれは、決してお先真暗ということではありません。中曽根がやっていることをごらんなさい。彼はアメリカヘ行ったら軍備を拡張すると言います。しかし東南アジアをまわった時には、決して日本は軍事大国にはならないと言っています。彼は日本の国民には非核三原則を守ると言います。国連へ行けば核廃絶と言います。そうして、アメリカヘ行けば軍備を一層強化すると言い、日本の国内に軍事基地をつくつているのです。

 今日の日本の支配体制のアキレス鍵は、残念ながら日本の国内というよりかあのアジア・太平洋の民衆です。だから彼は、靖国参拝を中国から指摘されるとあわててすぐ引っ込める。 南京大虐殺の扱いがおかしいと言われると、またその書き直しをする。何故それがアキレス鍵なのか。彼らは今まで、アジア・太平洋を暴力の限りを尽くして支配してきた。そっくりそのままの構造を今後も引き継ぐことによって日本の人民を支配し、また新たな経済侵略、軍事同盟をつくろうとしているからです。だからこそ私たちは、アジア・太平洋の民衆としっかり手を結びあいながら、中曽根の“新国家主義"を打ち倒すために闘わなければなりません。それが私たちの任務ではないでしょうか。

 今日の厳しい情勢の中で、労働運動が発展しているというわけではありません。停滞しています。一人ひとりが首を上げてみては、どこも持っていないと思ってまた首を引っ込めています。いま我々は、何とかしなければならないと思う自覚的・自立的な人々がお互いに横に手を取り合って、新しい砦を築かなければならない大切な時だと思います。特に教育戦線にある皆さん方は、また新たな臨調の教育攻撃に対して、皆さん方の教育現場を砦にしながら横に連帯を深めてたたかっていかれることを心から期待するものです。

 私も67歳だとは言いましたが、まだまだ元気です。明日も反トマの闘争で呉に来ようと思っています。今後とも、広島でも呉でも、若い皆さん方と一緒にたたかい続けるつもりでいます。

 

 どうぞ皆さんが今後一層連帯を深めて、いまの困難な情勢の中で一歩でも二歩でも、私たちの砦を拡げてたたかってゆかれることを心から期持して私のつたない話を終わることにいたします。   (1986628講演in呉)

 

 

  ★★★ 関係図書の紹介 ★★★

 

『ファシズム』 山口定著 (有斐閣選書) 1500

『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』 (地歴社) 1200

『天皇・天皇制の慶史』 井上活著 (明治清書店) 980

『日本の思想』 丸山真男著 (岩波新書) 480

『現代日本の思想』 久野収・鶴見俊輔共著 (岩波新書) 430

『日本史(現代)』 大江志乃夫著 (有斐閣新書) 560

『昭和史年表』 神円文人鳥 (小学館) 950

『昭和時代年表』 中村政則著 (岩波ジュニア新書) 650


加害と被害の二重の苦しみ

 広島で「生物・科学兵器を考える」全国シンポを開催

  松江 澄  

                           「労働者」1993.2.15 第243

 この度、全国シンポジュウム「ヒロシマからの生物・化学兵器を考える」が広島で開かれることになった。

 この催しを企画しながら事務局として準備してきたのは広島在住の若いジャーナリストと市民活動家であった。その契機になったのは、この一月かねてジュネーブでの軍縮会議以来検討されていた生物・化学兵器禁止条約がついに各国によって調印されたことに因んでいる。しかし東京から専門の学者を迎えて「ヒロシマ」で開くことには重要な意味がある。

 広島では誰でも知っているように世界に最初に原爆の犠牲になった都市であり、年老いた被爆者はいまなお原爆病と闘いつづけ若い二世たちは身内に潜む原爆と対決しなければならない。そこに広島と長崎から反核運動が生まれた理由がある。

 しかし一〇年ばかり前から指摘されてきたのは、その被爆による被害アピールだけでよいのか、広島は軍都としてかつて大陸侵略の出港基地だったではないか、という声である。

 私たちが九年前初めて開いた八・五集会で、「一九四五年八月六日」を歴史から抜き出すのではなく歴史に還そう、一五年戦争の歴史の中から軍都ヒロシマをふり返ろうと呼びかけたのもその故であった。

 しかしその広島県の広島市から一時間ばかりの忠海町の沖に地図から消されていた大久野島の工場の中で、中国戦線などで使用されていた「毒ガス」が作られていたのだった。それは「七三一部隊」とも関係があったとも言われている。

 徴用動員で当時十七〜十九才の若者がこの工場で働かされ、生涯かけて闘わなければならない業病にとりつかれていることを、私が知ったのは、一九六六年十二月初めて集まった彼らの集会のときだった。私は彼らの憤りに動かされ、彼らとともに国と闘って、後にようやく「被爆者並み」の措置を手にすることができた。

 だが当時まだこの武器がどこでどのように使われていたかは分かっていなかった。私たちの運動は「毒ガス禁止」をかかげながらも主要には原爆の場合と同じように毒ガスの被害者としての闘いだった。

 しかし今日すでに明らかになったことはその毒ガスが中国国内で多くの人民を苦しめながら虐殺していたという事実であった。その毒ガス兵器がやがて原爆と同じように非人道的な加害以外の何者でもない。ここに広島のもっている加害と被害の二重構造がある。それは何れも十五年に亘る侵略戦争から生まれたものなのだ。私達は改めて広島の加害をつきつけられたのである。

 そこにはこの度のシンポジュウムが広島で開かれる重要な意味があると私は思う。しかしそれは広島だけではの問題ではない。それは広島に象徴的に集約された日本そのものに外ならないのである。

 日時・会場一月三十日(土)午後一時三〇分〜五時三〇分 広島教育会館

 


新しい連帯と自立をめざして

  ―被爆四〇年のヒロシマから―

   労働運動研究  1985年5月  No.187号 掲載

松江 澄

 

被爆四0年のヒロシマ

 

 広島は今年の八月六日で被爆四〇年を迎える。被爆四○年はまた日本帝国主義の敗北四〇年でもある。そこでいままでの一〇年ごとに何があったかと思い返す。一〇年(五五年)には第一次高度成長期がはじまるなかで、いわゆる「五五年体制」がととのえられ、日本資本主義は政経ともに戦後発展の基礎をきずく。二〇年(六五年)には日韓基本条約が結ばれ、複活した日本帝国主義による日韓一体化の第一歩がほじまる。三〇年(七五年)には日米共同声明で″反共の壁″としての韓国の位置が確認され、天皇は初めての記者会見で「原爆投下は戦時中でやむをえぬ」と発言。それは昨八四年秋、来日した全斗換大統領と手をとり合って過去の「遺憾なできごと」を水に流したことと照応する。そうしていま四〇年(八五年)、中曽根は行革から教育臨調へと戦後総決算をすすめ、アメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。われわれの被爆四〇年は何から始まるのか。

 八月六日が近づくと、被爆ヒロシマは毎年毎年「あの日」の追憶からはじまる。それは四○年のヒロシマが「八・六」をどのようなかたちで迎えようとも変らない。広島の人々の「八・六」は理念や理論ではなく、四〇年前の情念からはじまる。私もその一人である。学生兵から解放された私が被爆二週間後の広島に帰り、空洞になった駅から見たあのヒロシマは変色した古い写責のように、いまでも私の眼低に焼きついている。そうして、つづいて次々に近しい人々の写真が私のまぶたに浮ぶ。西から東へ探しまわっても見つからなかった兄の遺骨を二つもらったとき、それが兄のものではないと分っていても、改めて兄が殺されたことを実感した。

 たった一人の兄弟で一〇歳も違う兄は医者であったが、絵を画き短詩を創った。物心ついた私が漁った兄の蔵書のなかには、××がたくさんあるプロ文学の何冊かがあった。中学の頃、兄が買ってきた『改造』を便所のなかでこっそり読んだこともあった。彼は私にとって兄であるとともに、最もたよりになるやさしい庇護者であった。

 その兄の中学時代の同期に峠さんという人がいた。彼は、その後の学生時代から昭和初年の「左翼運動」にとびこんで、ときに逮補されていた。昭和十二年、上京する私に母がくれぐれも論したのは、「峠さんのようになるな」ということだった。その峠さんの弟の峠三吉と戦後まもなく出会い、ともに反原爆と革命を語るようになろうとは思いもしなかった。

 その母は被爆三年後、髪の毛が抜け血を失って死んだが、明治七年生れの父は同じ所で被爆しながら九二歳の天寿を全うした。小心で律気な、それでいてどこかキッとしたところのある父を、原民喜「夏の花」の第一部「壊滅の序曲」のなかで発見したのは、父の死後、二度目に読んだときだった。民喜は父の名をとって自らを「正三」と呼びながら、被爆四〇時間前の原商店の日常を書いたこの文章のなかで、私の父を「三津井老人」と名づけていた。そこには、私の思い出のなかにある父のもっとも父らしいところが、短い文のなかで書きつくされていた。

 明治の頃から深いつながりがあったらしい原の家と私の家とのつながりは忘れたが、私が生れたとき父はすでに原の店(ロープやテントを扱っていた)を手伝っていたように思う。家も近所だった原家の子供たちとはよく遊んだが、私より一まわり以上も多い民樹は大学の休暇で時に帰省したとき垣間見るだけで、透きとおるような眼で遠くを見ているよ

うな顔がなにか幻のように見えたのを子供心におぼえている。

 私のことを書きすぎたが、広島にもとから住んでいるものにとって、原爆とは、原爆で失った人々と別にはけっして憶い出すことはない。それはいっきょにこの世を焼きつくし、懐しつくし、人間という人間とその結び合いをすべて無惨に切りさいなむ地獄の悪魔のように思えるのだ。死ぬ前の母は、私に「ピカドンはその目に会った者でなければ分らん」とつぶやいた。このことばは、原爆のすぐ近くにいると思っていた私を無限の遠くにとき放す。それはまた非被爆者である私を、かえって反原爆の運動につきすすませたものでもあった。それは階級や体制という媒介な抜きに私に追ってきた憎しみであり、また切断された人間のつながりを求めるヒロシマの思想でもある。峠三吉が、「人間をかえせ……私につながる人間をかえせ」と詩う理由がそこにある。そうして、その人間を奪ったものこそ原爆であり戦争であり、そのなかに人々をつきやった国家なのだ。まどえ(広島弁で″償え″という意味)、あやまれ、と国に要求する被爆者の心底深い憤りは、声にならずにのみこまれてしまう。

 こうした怨念とでもいうようなものこそ核廃絶の思想であり、後年、「いかなる国の」ということばを呼んだ理由でもある。それは「絶滅兵器」といわれるこの核兵器を、地球上から根だやしにすることであるとともに、この兵器で奪い奪おうとする人間と人間とのつながりを求める、強い欲求でもある。それはまた今日多くの人々が、反核運動のなかで指摘する「核」と人間の、けっしてあい容れない闘いの思想の原型ともいえる。それは未曾有の世界を見た人々のまたとない思念である。

この思想がいまもなお、風の冷たい冬も灼くように暑い夏も、十二年一日のように慰霊碑の前に坐り込みつづける核実験抗議の根底にある。この坐り込み抗議はいま、市内で八カ所、県内で二八ヶ所、県外は山形から長崎まで十三ケ所、最近ではアメリカからヨーロッパまで拡がっている。慰霊碑前では、七三年七月から昨年暮までで通算二八四回目となった。この毎一時間ごとの坐り込みのなかで、その年の「八・六」は準備され、迎えられる。

核廃絶思想とは何か

 

 日共は昨年十二月、ソ連共産党と核兵器について両党会談をひらいて「共同声明」を発表した。宮本議長は、この会談と声明で確認された「核兵器全面禁止・廃絶協定のすみやかな締結とその実現」を、恥ずかしげもなく「反ファッショ統一戦線をつくったときと同じような歴史的意義がある」と自賛している。宮本は帰国後、日共国会議員団での報告で、社会主義国による一方的核軍縮や核廃棄のイニシアチーブは「門外漢」のいう非常識なことだと否定しつつ、「すべての核兵器保有国の同時廃棄」を強調し、「世界全体が核兵器を捨てることに意味があるのです」と、いまはじめて分ったことのように主張する。まことに「常識的」な卓見である。ところでそれはどうすれば実現できるのか。

 同じく日本記者クラブでの講演では、ソ連が賛成したのだから「アメリカがイエスといえば当然核兵器廃絶がすぐできる政治的可能性がある」。その前提条件を今度つくってきたと胸を張り、削減交渉と比べて「廃絶の方が早い。同時安全の原則といいますか、双方がゼロ、ないのがいちばん平等です。もっていることを前提にしたら、どこで『均衡』かということはなかなかむつかしいこととなります」と強調する。

 これはおどろくべき発見である。持っているからつり合いがむつかしい、ないのがいちばん平等だ、とは。シーソーゲームを止めるのにいちばんよい方法は、シーソー自体をとり去ることだとは子供でも思いつかない名案である。そのうえ、アメリカは先般日本の国会ですでに廃絶を確言しているから、じゆうぶん可能性がある、と彼はいう。アメリカがイエスといえば、すべては手品のように解決するというわけだ。

 私はこれを読んで、子供のころ誰でも必ずいちどは聞かされるたとえ話――「猫の首に鈴をつける」という名案を考えだしたねずみたちの話――を思い出す。いま日共が熱心に売り込んでいるこのパンフレットを、ソ連共産党の諸君が読んだら何というだろうか。しかし、この宮本の話は笑いごとではけっしてすまされぬ。それは「核兵器廃絶」を茶飲み話にすることで、ヒロシマの思想を陵辱しているばかりでなく、世界のきびしい現実を戯画化することで大きな罪悪を犯している。

 レーガンに代表されるアメリカ支配階級保守派のもっている反ソ反共思想の根深さを、宮本はいとも軽やかに語っている。彼らはその表向きの宣伝扇動にもかかわらず、すべての帝国主義国の政府がそうであるように、ソ連が実際に核攻撃をしかけてくるとは思っていない。彼らにとって何よりも気がかりなのは、次第に足下に迫る革命と解放の新たな潮流なのだ。中南米、中東、アジアにおける反米反帝運動の胎動は、彼らの恐怖心をそそる。そうしてその火つけ人、扇動者、組織者は、すべて社会主義大国としてのソ連に見えてくる。自らの帝国主義的な支配と収奪が、大地から水が湧き出るように解放と革命の流れを生み出していることが彼らには分からない、いや分るまいとする。それよりも、その張本人をすべてソ連とすることで、一九一七年以来の憎悪の体系は完結する。

 レーガンは、いま「自由」の女神をもって自らを任じつつ、帝国主義陣営の盟主として世界の「自由と民主主義」を防衛するためには、核戦略が必要だと説きまわっている。彼らは核戦略を頂点とする緊張関係をつくり出すことで、離れ勝ちな帝国主義同盟諸国をつなぎとめようとするばかりではない。彼らはいままでどこに原爆をおとし、いつ核兵器を使うとおどしたことか。ヒロシマ・ナガサキにつづいて朝鮮戦争、ベトナム戦争ではなかったか。彼らは対ソ核戦略のかげで、全世界とりわけ解放への途上にある国々を胴喝している。

 しかしまた、この恐るべき「絶滅兵器」は、通常兵器のように繰り返す戦闘ではなく、その一回性――ただ一回の勝負にすべてを賭ける――の思想の故に、競争の当事者を同質化させる。それは「絶滅兵器」の故に、通常兵器と違って国土をまもるという消極的な意味での防衛を許さない。そこでは防衛は報復に転化する。それは一瞬の交戦が壊滅をもたらすからである。ヒロシマとナガサキは、それを「あの日」みずからの都市で先見した。しかしいま、それは全世界に拡がり、やがて″核の冬″は地球のすべてを根絶やしにするという。核兵器は、すでにその所有と使用形態の相異を超えて人類の脅威となり、核兵器を頂点とする軍事的体系の緊張は、階級的な対立を軍事的な対立に変える。

 ちょうど原水禁運動が分裂する前夜、ソ連核実験をめぐって広島の世論がその是非で湧いたとき、日共県委員会の幹部が「社会主義国の死の灰なら喜んでかぶる」と街頭で演説して、人々の嘲笑を買ったことがあった。それは帝国主義軍隊の思想ではあっても、少なくとも社会主義の思想ではない。日共はかつて社会主義と帝国主義を同列視すべきでないと主張しつつ″いかなる″を否定したが、いま宮本は社会主義と帝国主義を同列視して″すべて″を平等にゼロにしようという。

 彼らはいま、全世界の民衆が日夜闘っている反核運動を高みからながめながら、米ソ交渉の道具立てにしようとしている。そこには、深刻な困難さを空想的な安易さですりかえる「指導者」の思想はあっても、人間と人間との結び合いのぬくもりのなかから、新しい反核と解放の力をつくり出そうとするヒロシマの思想はない。だからこそ、旗一つで反核平和の大行進がつくり出そうとする連帯を破壊し、宮本の旗を掲げない「三・二一ヒロシマ行動」は、分裂集会だとレッテルを張って参加を拒否する。それは核廃絶の思想ではない。

 

国際主義と国民主義

 

 広島の反核闘争はまず詩・文学から始まり、五〇年に至ってようやく行動へ継承される。朝鮮戦争下二重権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。

権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。それから四年後、「ビキニ」被爆がおきる。この「ビキニ」から始まる運動は広島と杉並からおこり、またたく間に全国をおおった大衆的国民的な運動である。朝鮮戦争下の闘いがすぐれて戦闘的で国際主義的であったとすれば、「ビキニ」反原爆運動はすぐれて大衆的で国民主義的な運動であった。前者の闘いに結集した人々が階級的な志をもった左翼の活動家であったとすれば、後者の運動に結集した人人は左右を問わず核を否定するまじめな日本人のすべてであった。そこには十五年戦争の反省は全く必要ではなかった。

一方のそれが現状の変革を求める少数派の闘いであるならば、他方のそれは現状の安定をおびやかす「死の灰」への激しい憤りにもえた多数派の運動であった。以来、この二つ

の流れは、継承者は変っても交わることなく今日までつづいている。運動の主流は、もちろん「ビキニ」反原爆運動を継承する日本原水禁運動である。この運動は、その後右と「左」から二度の分裂を重ねたが、この運動のもっている国民主義的な性格は変らなかった。

 私は、原水禁運動が二度目に分裂した直後の一九六五年――それはちょうど被爆二〇年であった――、原水禁を含む日本代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。この集会の主題はベトナム反戦であった。私たち広島からの参加者は、被爆二〇周年原水禁世界大会のバッジをつけ、会議の内でも外でも諸外国の代表に核兵器の恐しさを訴え、世界大会への参加をアピールした。それは多くの代表たちから心のこもった同情と共感で迎えられたが、何かもう一つ心を通わせることができなかった。

 ヨーロッパの代表たちの多くは、何れも戦争とファシズムとの勝利二〇周年記念のバッジをつけていたし、アジア・アフリカの代表たちのなかには私たちを政府の顔とだぶら

せて、その経済的なナショナリズムをきびしく批判した人たちもいた。最後の集会決議をめぐつて、運営委員会から日本代表団にきびしくつきつけられたのは、ベトナム戦争の基

地であり、アジア・太平洋における米核戦略の「かなめ石」としての沖縄基地にたいする日本人民の闘いであった。それは、日本人民がベトナム反戦を闘ううえで、欠くことのできない国際主義的な連帯の任務であった。しかし、この提案を受け入れるために、日本代表団はしはらく時間をとってきびしい論争をしなければならなかった。この集会で、私た

ちの代表団を分裂集団としておしのけようとする原水協系代表団の激しいセクト主義は、各国代表の眉をひそめさせ、意見と組織を異にしても運動の統一を主張する私たちの態度

は圧倒的に多くの代表たちの支持を受けた。

 しかし、私たちの運動に残されている国民主義的な″母斑″は疑いようもなかった。「世界で最初に原爆の惨禍を被った唯一の被爆国民」ということばのなかに、ヨーロッパの人々もアジア・アフリカの人々も、かつての日本帝国主義と、いままた高度成長の波にのってわが物顔に市場で幅をきかす経済大国の″かげ″を見たのではなかったか。それはいまなお広島に残っているもう一つの国際主義的潮流――抽象的で観念的な呼号以外の何物でもない―――によって克服されるようなものではもちろんなかった。この運動が改めて問い直される機会をもったのは、八〇年代世界反核運動とのふれ合いからであった。

 八〇年代以降、広島の運動はしばしばヨーロッパ反核運動との交流を行ない、私もまたプラハ世界平和集会に参加した。

 まず最初にふれ合った西独の運動との交流で、私たちをおどろかせたのはこの運動に参加する人々の膨大な数であった。米ソ両大使館をかこむ「人間の鎖」の壮大さは、「ビキ

ニ」の比ではなかった。しかし、それ以上に私たちを考えさせたのは、それがけっして労働組合や大衆団体の上からの動員によるものでなく、自らの自発的意志にもとづく「下から」の参加であることだった。それでいて、弾圧には柔軟に、しかし不屈に闘う連帯の強さはどこからくるのか。

 もちろん彼らの運動の基礎には、日本と違って、白昼公然とその町に据えつけられようとする核ミサイルがつくり出す現実的な核戦争の脅威があり、そのためのヒロシマ・ナガサキの具体的な研究もあった。しかしなお、乳母車を押しながら、まるでピクニックにでも出かけるように「人間の鎖」に参加する婦人たちを動かしているものは何か。それは、いま体制がうみ出している、失業とイソフレをはじめとしたもろもろの圧迫にたいする、反体制的な感情を含めての闘いであるとは分っていても、なお解き切れない問題であった。

 そうしてそれは、ロンドソ郊外のグリナムコモン基地に搬入されるアメリカの核ミサイルと、女性だけで闘っている婦人活動家の一人が私に語ったことば――「平和は女性の固有の権利」――でいっそう鮮明になった。彼女たちは、日本の基地闘争や反軍闘争で見られるような悲壮感の一かけらもなく、きびしく明るく闘っている。そこにあるのは西欧的近代をとおってきた自立的な市民の顔であり、それはまた自立的なものだけが綯うことができる縄のような連帯であった。

 こうしたヨーロッパ反核運動との交流は、私たちに改めて日本の運動のもっている他律的包括的な性格への反省を迫るものであった。一九八二年の広島「三・二一」、東京「五・二三」、大阪「一〇・二四」 の反核大集会は、当時ヨーロッパからアメリカヘと拡がる世界反核運動と、国連軍縮総会へ向けての運動のなかでひらかれた。それはなお上からの動員という従来の性格を残しながら、集会の形態はかつてなく自立的なものとなった。しかし今年の「三・二一ヒロシマ行動」には、日共系のボイコット、また急いで準備されたということがあったにしても、なお再検討を迫るものがあった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはあったとしても、あのときに見られた活気あふれる自発性はすでに影をひそめていた。

 八二年当時とは状況と条件が違うとはいえ、上からの包括的な運動の性格のもとで、上からの包括性が薄れたとき、いっそう鮮かに見せたわれわれの運動の断面ではないのか。この国民主義的な″母斑″はどうして克服することができるのか。それは西欧から学ぶことで得られるのか。もう一度、西欧的近代へ後戻りすることで、運動の新たな自立と連帯は生れるのか。被爆四〇年は再びその課題を提起している。

 

 欧州からアジアへ

 

 中曾根は首相になる前の行政管理庁長官時代、土光会長とあいたずさえて臨調第一部会をつくったときの報告で、「今回の行政改革は、明治維新以来百余年の近代化の歴史と、戦後三十余年の民主化の歴史をあらためて振り返り、国民と国家の歩むべき方向を新たに設定するための、全面的改革の一環をなすもの」だと強調した。一世紀をへだてた二度の「開港」による近代化と民主化の歴史を、中曾根はわれわれとは違った意味で振り返っている。

 当時中曾根は、行政改革を明治絶新、「戦後マッカーサー改革」につづく「第三の維新」と名づけた。しかし彼は、戦後民主改革の総決算を行い、行革を明治の近代化が敷いたレールと接合することで、再び現代的な「富国強兵」の道を歩むために国民のイデオロギー的再統合の契機にしようとしている。もちろん、この総決算の中には、戦後日本人民が獲得した民主的な諸権利から憲法そのものまで含まれている。中曾根にとって、明治の近代化は継承すべき国民的土台であり、戦後民主改革は克服されるべき「外」からの行き過ぎた「改革」なのだ。そこにわれわれとの根本的な対立がある。それを明らかにするためには、明治の近代化が何であり、何をもたらしたかをもう一度ふり返る必要がある。

 幕末の傑出した思想家である佐久間象山は、「東洋の道徳、西洋の芸術」を説いた。芸術とは科学・技術のことであり、東洋とは結局日本を指すことはいうまでもない。つまり、日本の道徳と西洋の科学・技術との結合によってこそ救国済民の道は成る、ということである。こうした考え方は、象山のみならず、明治維新を思想的に準備した当時の開明的な思想家たちすべてのものであった。象山の弟子で、いっそう国粋主義的な吉田松陰があえて米艦に投じようとしたのも、この思想ではなかったか。たしかに「和魂洋才」の哲学こそ、明治の変革と民近化を押しすすめる原動力ではあったが、それはやがて必然的に「脱亜論」(福沢諭吉)に行きつかざるを得なかった。「西洋の風に倣い、亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現するほどの大英断」を決意することによって、臨調報告がのべるように、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」したのであった。

 明治初年、一年十カ月にも及ぶ岩倉欧米視察団による法律・行政・文化全般にわたる西欧型近代の移植によって、「国家目標としての追いつき型近代化に成功した」(臨調報告)。「和魂洋才」による「脱亜入欧」は、見事に日本をアジアから離陸させたが、離陸が必ず土けむりをあげて草木を強風で押しなびかせるように、「脱亜」は必然的に「征亜」にすすまなければならなかった。

 軍事的で前近代的な性格を残しながら、急速に発展する日本資本主義は、目清・日露の両戦争を経てまたたく間に帝国主義への発展を遂げる。この過程で、大規模な反政府運動であり、自前の権利獲得をめざす最初の闘いでもある自由民権運動を弾圧と懐柔で分裂させながら、最後には日本的ナショナリズムでその思想を萎えさせ、上からの欽定憲法に収斂する。また大正デモクラシーの波頭から始まる階級的、人民的な闘いを、天皇制ファシズムの弾圧とテロルで押しつぶし愛国的ナショナリズムをあおりたてることによって十五年戦争から第二次大戦に突入し、アジア全域への侵略と略奪をほしいままにした。「脱亜」はついに帝国主義的「大東亜共栄圏」にまで、膨張して壊滅した。

 それはただ支配的な軍部と財閥の責めにだけ帰することはできぬ。彼らに、結局はその国民的基盤を提供し利用させたという意味で、それは明治以来の脱亜近代化の帰結ではなかったか。それは大正の中期に生れて軍都広島に育ち、昭和十年代の前期東京に学んで西欧的近代を模索しつつ、最後には帝国主義軍隊に動員された一学徒だけの感傷ではあるまい。

 「和魂」とは、結局、日本的ナショナリズムであり、それは「洋才」としての西洋型近代を自らのなかにとりこみながら、ついに「洋才」を生み出したが「洋魂」を探り得なかった。いやそれどころか、最後には、卑しむべき「洋才」をかなぐりすてて、「和魂」にふさわしい竹槍で本土決戦を呼号しながら、原爆という最英新鋭のアメリカ科学技術兵器の前に敗北した。戦後民主主義闘争は、正面からこの「和魂」=日本的ナショナリズムと対決して、これを地底に封じ込めた。こうして「和魂洋才」は二重の意味で敗れ去った。

 しかしいまそれは、新たな「脱亜」の武器として蘇ろうとしている。戦争による生産手段の破壊は、改めて欧米の近代技術を呼びこむことで急速な日本資本主義の復活と発展を促し、いまでは世界一の技術大国として列強と覇を競いつつ、その経済ナショナリズムはアジア・アフリカから中南米に至るまで、帝国主義の食指をのばしている。中曾根は、戦後民主主義の総決算をすすめることによって、再び「和魂」を地底から呼び戻し、新たな「脱亜入米」のためのイデオロギー的再統合の武器にしょうとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。

 日本原水禁運動はヒロシマ・ナガサキから生れた。それは反戦運動を媒介とするのではなく、帝国主義戦争の背後に落された原爆による、余りにも無惨な破壊への憤りから生れた。それは来るべき人類絶滅の戦争を予見することで、核廃絶と人間回復の思想となり得たが、その破壊の余りの巨大さは、それがアジアの諸民族を殺戮し、その郷土を破壊する太平洋戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。未来を先見したが、過去を省みることができなかった。被爆者と残された者の国家への怨念は、ついに噴出することなく、その声は胸底深くしまい込まれた。

 いま運動の自立といい、国民主義の″母斑″の克服上いうとき、何よりも必要なことは、いまアメリカ極東核戦略に組みこまれて、その生贄にされようとしているアジア・太平洋諸国の人々とともに手をとり合って、日米軍事同盟と闘うことではないか。われわれは再び欧米に学び、その近代的自立のあとをなぞるのではなく、「脱亜入米」によって再びアジアを征覇しょうとする中曾根ナショナリズムと闘って、アジアの民衆と連帯を固めるとき、はじめて自らの自立をかちとることができるのではないか。そうしてそのことは、被爆者の根底にある国家への怨念を晴らすこととけっして別ではない。

 いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降されるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。

 

新しい連帯と自立を

 

 いま中曾根は、日米軍事同盟を強化しつつ、アメリカの核戦略に日本をしばりつけ、対ソ戦の不沈空母にしようとしている。その中曾根がもっとも関心をもっているものに「環

太平洋構想」がある。それは米核戦略の保障のもとに、経済と政治を含む安定した帝国主義的秩序を太平洋につくり出そうと企むことである。

 しかしその試みはキット失敗するに違いない。彼らはすでに太平洋とアジアを敵にまわしている。南太平洋諸国の人々は、核の基地となることも、核の墓場となることも拒否し、ベラウ共和国は米国の圧力を住民投票でハネ返し、「非核憲法」を成立させた。一九七五年フィジーから始まる非核太平洋会議は、毎回ヒロシマの参加を求め、年ごとにその連帯を固めて米極東核戦略と対決し、いまニュージーランドのロンギ政権は公然と米核艦船の寄港を拒否し、オーストラリア政府は米「SDI」への参加をことわった。フィリピン人民はすでにマルコスに見切りをつけ、アメリカ帝国主義からの解放の旗を掲げて人民の民主主義を奪い返そうと闘いに立ち上っている。最も身近な韓国では全斗換の弾圧と懐柔にもかかわらず、民主主義革命の声は地底から次第に音高く響き、日韓人民の連帯のきずなはまだ細くとも鋼線のように張って、どんな妨害をも寄せつけない。

 いまこそわれわれは、旗幟を鮮明にして何よりもまずアジア・太平洋の人々と連帯し、反核反軍事同盟を闘うときである。それはいままで、日本の運動がただひたすらに追求してきた核廃絶の思想とけっして別のものではない。それは被爆者の心底深くいかりを下している、反戦反国家の怨念を受けて闘うとき、必ず向うべき戦場である。われわれはこう

した視点を基軸にして、反トマホーク・反原発・被爆者援護法を一つの闘いとして追求しなければならない。

 反トマホークは何よりも当面する反核闘争の具体的な焦点であり、それはすでに指揮・通信・情報システムを通じて核戦略に組みこまれている自衛隊のそれとともに、反基地核チェックの広い運動と合せて戦線を拡大しなければならない。また反原発闘争はもう一度被爆の原点に還って、被曝と被爆の連続性を確かめ、軍事的な転用とあわせて、日常的な核殺人と闘う反核闘争の前線の位置をとり戻す必要がある。そうしてその根底に、金でもない物でもない、ただひたすらに国家の責任と死者への謝罪を要求する被爆者援護法を据え直すとき、過去の被爆との闘いと未来の被爆との闘いは一つのものとなる。

 戦後日本は「賢明」な吉田茂によって、アメリカの核の傘のもとで日本資本主義を再建して帝国主義復活をなしとげ、いま経済大国として世界の市場を荒し回っている。アメリカ帝国主義は積年の「安保ただ乗り」をとがめつつ、その付けの清算を求め、貿易で取引しながら軍事負担の思い切った増大と核艦船の寄港・全土核基地化を要求している。

 中曾根はいま、戦後民主主義の総決算ばかりでなく、戦後支配階級四〇年の付けを背負わされて決算を迫られている。しかし、前大戦のもたらした破壊、とりわけヒロシマ・ナガサキの記憶は、けっして消えることはなく、ましてアジア・太平洋の人民は十五年戦争と太平洋戦争をひとときも忘れることはない。

 中曾択はいま、アメリカへ行っては軍備を拡大するといいながら、東南アジアを回ってはけっして軍事大国にはならぬと弁明し、国民にたいしては非核三原則をまもるといいながら、アメリカにたいしてはトマホーク寄港を進んで受入れ、ひそかに核基地を建設している。

 いまほど四〇年の矛盾をこめて、″建て前″と″本音″が歴然と分離しているときはない。いまこそこの矛盾を衝いて闘うときである。″建て前″をつきつけて″本音″に迫る大衆的な闘いを進める好機である。

 アジア・太平洋の人々と連帯を固めて共同闘争を強めつつ、日本反核運動の再建と再活性化をはかるときはいまをおいてない。それはいま、日本における労働運動と大衆闘争の閉塞状況をつき破る結節点でもある。この闘いのなかからこそ、自由な民族としての運動の自立を闘いとることができるだろう。新たな連帯と自立をめざして闘おう。被爆四〇年はそれを要求している。                             


ヒロシマからの提言

 ――ソ連の核実験再開を契機に――

 

松江 澄

                新しい時代 19622月号(新しい時代社)

 

   はじめに

 

 ソ連の核実験は、広島の原水爆禁止運動に「爆発」的な影響を与えた。実験再開声明の八月下旬から十月二十三日の原水協の集会までの二ヵ月間、広島の平和運動家は多かれ少なかれこの問題の渦中にあり、なんらかのかたちでこれに関与した。

 すでにソ連実験を契機として、平和運動に関するいくつかの理論的問題について論文が発表されているが、私は広島の運動――それはある意味で日本の運動の矛盾の集中点でもあると思うのであるが――の中から若干の問題を提出したいと思う。

 

   

 

 ソ連の実験再開声明、ひきつづく実験いらい、広島のほとんどすべての職場と地域で、さまざまな角度から論議がかわされた。広島の市民である以上、この問題について冷淡な無関心さですごすことができないとしてもそれはむしろ当然であろう。その異常な関心は、一六年前の被爆経験と禁止運動、とりわけビキニ以来の実験反対運動が広島市民の心のなかにはっきりと定着していることを物語っていた。ところが、このような関心の深さにもかかわらず、論議にとどまって運動は発展しなかった。それはこの運動を主要に担当する広島の原水爆禁止運動とその組織が、行動の入口で足ぶみをしなければならなかったからである。

 最初の集会から二カ月後の集会にいたるまで、二つの直線的なコースが終始一貫対立し、しばしば激突して分裂の危機さえあらわれた。一つは共産党の実験支持論であり、他の一つは社会党、被爆者、婦人をふくむ実験反対論であった。このあいだにあっても原水協は、実験に対してその中止を要求しつつ、軍備全廃核戦争阻止、日本の非核武装を強く打出すことによって組織の統一を確保することかできた。この二つの集会は、この中間にひらかれた市長主催の抗議集会にくらべても集まりが少なく、ほとんど二つの潮流の意識的な活動家動員の範囲を出ることができなかった。しかし、その発想の極端と持込にの性急さによってその対立は先鋭化されたとはいうものの、多くの職場や地域の平和勢力のなかにあったある種の空気を反映したものであったことも事実であった。

 

 それは決して集会にあらわれた対立的なものでではなくて反対に関連し合ったものであり、また、実験に賛成か反対かと言う単純な発想でもなかった。それほ、どこの国であろうと核実験には反対するという自明の前提のもとになお提出された問題であった。

 一つには、実験にはもちろん反対だが、ただそれだけでは問題の解決にはならないという、

ばく然とではあるが一段と有効的な方法を要求しながら、だからといって「ソ連についてゆく」ような運動への不信感とも結びついている声であった。また他の一つは、ソ連が平和のために闘ってきたことを事実で認めつつ、声明は支持、実験には反対であるが、その公然とした声明に一抹のちゅうちょを感ずる動きであった。しかもこの二つは決してほっきりと分れているものでなく、さまざまな角度で関連し合っていた。

 こうした状態は、広島の運動ときりはなすことのできない被縛者の状況とも無関係ではない。別表に見られるように、その要求は単に実験反対にとどまらず、進んで積極的な平和要求が強いにもかかわらず、われわれの運動への参加はその反対に弱いことを示している。とくに単なる慰霊にとどまる市主催の式典参加率と、運動としての世界大会への参加との相違は注目しなければならない。

 こうした事情は、広島ないし日本の禁止運動について次のようなニ、三の重要な問題を、平和運動家、とくに共産主義者に提起していると思う。

 

 

第一表  被爆者における原水爆禁止の意識

      禁止すべし 止むを得ず認める 必要 判らない 計 

原水爆使用 916% 28%  05%  48% 100%(431)人

貯蔵・製造 856  49   16   79  100 (431

実 験   847  42   07   104  100 (431

 

  第二表  日本の核武装に対する被爆者の意識

       賛成  仕方がない 反対  判らない 計

 

アメリカの 23% 57% 712% 208% 100403)人

核兵器持込

自衛隊  6.5   9.4   58.8 2 5.3   100403)    

核武装

 

  第三表  日米安保条約に対する被爆者の態度(改定前)

 

        改定賛成  現状維持   破棄   判らない   計

 

被 曝 者    46%   119%   40.0%   43.5%  100

全 国 民    11.0    220    200    46.0  100

 

 

    第四表 憲法改定にたいする被爆者の態度

 賛成   反対  その他   判らない   計

 

14.9%   258‰   72%   51.6%   100%(403)人

第五表 被爆者は原水爆禁止の実現可能性をどう考えているか

禁止可能  禁止不可能  その他  判らない   計

30.9%   26.2%   8.8%  34.1%    100%(431)人

第六表  原水爆禁止運動動への参加

集めた   応じた   しない   不明     計

署 名  30%   527%   404%  39%   100%(431)人

第七表  世界大会と記念式典への参加

参加        不参加

世界大会  79%      921%  100%(431)人

市主催式典 29.7       70.3    100 (431)人

 

 

 

 一つには、日本の原水爆禁止運動の性格についての問題である。広島は今までに二回にわたってヨーロッパに原水爆禁止運動のオルグを派遣した。その帰国報告のなかでわれわれの注目をひいたのは広島の被爆経験に対する異常な関心と同情にもかかわらず、ちょうどわれわれが、「アウシエビッツ」に対してもっているような、ある種の観念約な要素があるということである。これは東南アジアへ派遣されたオルグがもたらした、「原爆」と「植民地主義」の相互にある、ある種の感覚的相違と性質をおなじくするものであった。共通な一要素をもちながらも、無視することのできないこうした相違は、原水爆禁止運動を他の種類の平和運動から独自に際立たせるものをもたせるとともに、二つの側面をもたらしている。

 家のなかで銃を撃ち合い、殺し合った経験ではなくて、外で闘った侵略戦争の経験と、それを上回る原爆という強烈で鋭い経験は、戦争と平和の経験的な認識に、ヨーロッパと異なった一定の限定を与えている。戦争と平和をめぐるつばぜり合いのなかから余儀なくされたソ連の核実験に、こうした経験的認識からだけでは直接的、感性的な緊張感が生まれにくいこともある意味では当然ではないだろうか。広島がその経験によりかかるだけであるならばそれは、直接的には、「戦争か、平和か」ではなくて、「原水爆か、その禁止か」であり、世界で唯一の特殊な被爆体験かもたらした、「被爆弾と核爆発」への異常な関心である。しかしこの経験は同時に積極約な普遍性をもっている。なぜならば、現代の基本問題である「戦争か平和か」の問題は、兵器の飛躍的な発達によって、「核兵器かその廃止か」という問題と別なものではないからである。

 第二次大戦後の平和運動が、一方では第二次大戦中の深刻な経験を基礎に広い民主的な性格をもち、他方では巨大な兵器の発達がその経験をもたない多くの、いや、ほとんどの人類をこの運動に参加させることができる条件をつくりだしている以上、広島の経験と運動は特珠日本的な性格をもちつつ、同時に、まさにその理由で世界的な普遍性をもつのではあるまいか。もしそうだとするならは、われわれは世界で唯一の被爆という特珠の経験的な認識の基礎に立ち、その認識に沿って追求しつつ、その経験的認識の壁をやぶって普遍的な「戦争と平和」課題にせまる必要があるのではないか。そうして、これを否定していきなり直線的な発想で「戦争と平和」にかんする階級的立場からソ連の実験支持を打出したところにこそ、共産党の孤立化が生まれ、また他方、経験的な認識に足ぶみをするところにこそ、「悲願」の域を脱しきれない「禁止運動」への失望感がぬぐいきれぬのではあるまいか。

 

   三

 

 二つには、原水爆禁止運動が、共産主義者ないし平和委員会の活動家に対して抱いている不信感である。

 共産主義者はソ連のやることならなんでも無条件に賛成するものだという一定の観念は、禁止運動のなかに容易に抜きがたい底辺をもっていることをこのたびの問題は示していた。「ソ連の手先」という、あいもかわらぬブルジョアジーや反共産主義者のデマゴギーには、平和の行動で反撃を加えることがなによりの「くすり」になるだろう。しかし、もし善意の、したがってわれわれと協力できるはずの友人たちのあいだにこれに似た不信感があるとするならば、われわれは孤立を恐れぬ英雄主義で自己満足しているわけにはゆかない。われわれがこの不信感をとりのぞこうと努力するのは、共産主義者の「名誉」のためではなくて、なによりも事実の問題であるからである。そうして、こうした不信感をとりのぞくために努力することは無駄でないばかりでなく、われわれと政治的見解や戦争の責任者についての意見は異にするが、平和を守る行動では完全に一致することのできる多くの友人たちと協力するうえで、非常に重要な――少なくとも広島ではとりわけ重要な――仕事である。

 すでにのべたように日本の原水爆禁止運動はその特殊な基礎をもっており、そのかぎりでは、いわゆる共産主義者と平和活動家の協力によって展開された「世界平和擁護連動」とは独立した、いわは無党派――もちろんすべての平和運動が政党運動ではないが――の人々によってはじめられた運動である。広島におけるビキニ以来の「禁止運動」発見の事情はそれを示している。われわれは、この運動が共産主義者のイニシアティヴで組織された戦後初期の広島における平和と原水爆禁止の運動と無関係でないばかりか、それを土台としていることを誇りとしているし、それを清算主義的にみる見解に終始反対してきた。

にもかかわらず、知識人、婦人、被爆者のイニシアティヴで始まった百万署名以来の運動が、その後の共産主義者の全面的な参加――そうしてしばしばその中心的な役割の一つの担当――があったにせよ、なお、われわれの運動から「独立」した運動としてその独自に広範な地位を獲得してきたことを認めぬわけにはゆかない。

 そこで二つのことをはっきりさせておく必要がある。一つは、日本の平和運動のなかで独自に創造約な発展をとげた「禁止運動」が、いくつかの弱点と欠陥をもっていたとしても、平和を守る行動のうえで、巨大な積極約貢献をしてきたし、またしているということを正しく認識することである。したがってまた、われわれの平和擁護運動にとってそれがすべてではないが、最大の友人であるということである。他の一つは、にもかかわらず、「禁止運動」が平和を守る活動のうえで、共産主義者に対して多少とも抱いている不信感である。これは一種の矛盾であり、とくに平和を守る巨大な運動が多様な形態と組織で発展する途上で生んだ矛盾である。社会民主主義者から無党派、宗教者にいたるまでの間、この運動での共産主義者のイニシアティヴに対して多かれ少なかれもっている不信ないしは不安がつくり出しているこの矛盾を認識することである。これを矛盾としてとらえることができず、またこの矛盾のなかで主要な側面が世界平和運動への積極約な貫献であることをみることができなかったところに共産党の狐立化があった。

 もちろんこの不信ないし不安には一定の誤解があることは事実であるし、むしろ誤解がすべてであるともいうことができる。われわれは「ソ連だからなんでもついてゆく」のではない。事実においてソ連が平和の最大の守り手であるからこそ、ソ連を支持するのだといつでも言明することができる。しかし、これを単なる「他人」の誤解とだけ批難することができるだろうか。共産主義者はその誤解について責任はないといえるだろうか。

 

   四

 

 この問題のなかには二つの点がふくまれている。一つは、共産主義者が性急にその階級的立場を持ちこむことから産まれるものであるが、これについては今までも多くの論者によって指摘されているからここではふれないことにしたい。 私がとくにいいたいことは他の一つの点である。

 ソ連の核実験再開についての共産党の態度を批判したある原水協の幹部が私につぎのように語ったことがある。「共産党の立場はよく分るが、それにしても戦術が下手だ」と。

また「革新運動」のなかでもいくたびかの論争のなかで、「原則的立場」と「運動上の立場」を使い分けようという意見があらわれた。というよりも、従来から「独自の原則的立場」と「平和の共同行動をすすめる立場からの戦術的妥協」の使い分けが自明のものとして疑われなかった。性急な階級約立場の直線的な持ちこみは、譲歩の末、「ほんとうはソ連の実験を支持するのだが、原水協の統一のため一歩ゆずって、『遺憾の意』にとどめるのなら認めてもよい」と。

 しかし、こうした「戦術的考慮」は誤解をとき、不信と不安をとりのぞくうえで役に立つだろうか。そうではなくて、実は原則論と運動論という二元論こそ、「共産党が平和運動に熱心なのほ革命運動に利用するためだ」といういわれのない非難と不信を生みだしているのではなかろうか。私は、共産主義者のこうした二元論が、われわれと平和を求める多くの友人との心からの温かい接触を、冷たい儀礼上のつきあいにかえているのだと思う。

 平和は共産主義者にとって決してたんなる戦術ではない、それは社会主義がそうであるように、目約そのものであるばかりでなく、真の平和=恒久平和と社会主義とは同義説である。ましてこんにちの異常な兵器の発達がもたらすかも知れない原水爆戦争から人類を守ることは、その「第一義的な任務」であり、「戦争をなくし、氷遠の平和を打ちたてることは共産主義者の歴史的使命である」。

 ソ連は平和を守るために余儀ない実験を「胸をしめつけられる思いで」おこなった。

われわれ日本の共産主義者もまた、平和を守るため、今までもどこの国の核実験にも反対してきたし、またこんにちでも反対している。

さらにまた平和を守るためにこそドイツの平和的な統一と全面軍縮、日本の非核武装を要求して闘うのである。ここにあるのは解きがたい対立的な矛盾でも、戦術的な相違でもなくて、平和のための人民の巨大な統一であり、 われわれは広島の市民抗議集会を右翼が利用しようとしたように、平和運動を戦争の車を廻すための偽者的な「戦術」としている策謀や、ためにする反共主義者を絶えずばくろし、断固粉砕しなければならない。そうしてまた、日本におけるすベての善意な平和を求める国民との接触と協力をさまたげているどんな障害をもとりのぞき、こうした友人と温い友好閑孫をつくりあげることは、平和運動の巨大な統一のために果さねばならない共産主義者の決定的に重要な任務である。

 

   五

 

 われわれにとって日本における平和運動の統一と発展のためにどんな仕事がとりわけ必要なのであろうか。統一をさまたげているどんな小さな石ころをもとりのぞくことは、すでにのべたようにきわめて重要であるが、それにとどまっているだけでは前進はない。統一的前進のために必要なこと、それは多様な運動の特殊性と独自性を認めつつ、具体的で共通な中心政策をさぐりだし、追求し、提起することでイニシアティヴを発揮することであ。

 日本の平和運動のなかには、「世界平和擁護運動」の立場に立っている平和委員会以外に、原水爆禁止運動、仏教もしくはキリスト教の宗教者平和運動、基地反対運動等があり、さらにまた一連の主権回復の運動や友好親善運動も平和運動の側面をもっている。その意味では平和を守る点では一致しながらも多様な形態と組織をもっている。いままでの重要な欠陥の一つは、こうした多様な運動のなかで、共産主義者あるいは平和委員会の活動家が、その運動と政策で巨大な統一をつくりあげるかわりに、それぞれの組織内フラクションとして、性急に組織を通じて自己の立場に近づけようとしたところにあったのではないか、この努力はすでにのべたような二元論と結びついて、フラクション活動によっていかに運動諭を原則論に近づけ、二元論を一元化するかが最大の目標となる。核実験についての原水協、日ソ協会内部でおきた問題はそのもっとも特徴的な、典型ではないか。組織論の欠如――それは別の機会にゆずるが―は、運動と政策のすべてを組織の強引な「つり上げ」に解消し、活動を会議フラクショソニ解消している。この結果、単に共産主義者の孤立化というだけではなく、大衆組織をセクト化し、孤立化させ、ある場合には分裂あるいは破壊にさえ導くのである。

 平和運動を構成している多様な運動の特珠な独自性は否定されてはならない。核実験問題について、「日中」や「日ソ」以上に「原水協」が熱心であったとしても当り前であり、また」平和のための日ソ平和条約や日中国交回復について、「原水協」がそれぞれの友好親善組織ほどの熱意を示さないとしてもそれは不思議ではない。こうした特珠性の尊重とともにとりわけ重要なのは、この多様な運動が組織でではなく、運動で統一できるような中心的な政策を明らかにすることである。

そうして日本的な特殊性を考慮しつつ世界平和に貢献する統一政策こそ、日本の中立化と不可分に結びついている。かつて「原水爆の禁止」はこうした中心的な統一政策であった。しかし平和運動をとりまく周囲の事情が変化する以上、いつまでもそこにだけとどまるわけにはゆかない。新しい条件のもとでの統一政策、それはかならずしも明らかにされているとはいえないし、またおそらくその中味になるにちがいない中立化との関連も多くの国民に明らかに示されているとも思えない。これを正確に提起することは共産主義者の平和運動のなかで果さなければならない努力のなかで最大のものではないだろうか。

 平和と中立化政策の中心的な柱はつぎのようなものではあるまいか。

 第一の柱

 既成の軍事同盟からの離脱――それはまず日米安保条約の軍事条項の廃案――と、切断された友好関係の回復――日ソ平和条約の締結と日中国交回復。

 第二の柱

 中立化、非同盟を定着させるための、大平洋非核武装地帯保障条約の沿岸諸国による締結。 第三の柱

 以上の対外政策と対応する日本の非核武装、自衛隊の廃止と、軍事費の国民生活向上のためのふりむけ。

 

 

 この三つの柱は、国際的には全面軍縮と、国内的には現行憲法によって保障され、また保障する。この意味で、全面軍縮、中立化、護憲運動は、核兵器の禁止を基礎軸として固く統一されている。

 これら一連の要求は決して切り離すべきものではない。なぜならばこれらの要求は、中立化を総体として構成しているからである。したがってこれはまた段階的にとらえるべきものでもない。既成の軍事同盟からの離脱は、他方の対立を解消することによって促進されるだろうし、対立の解消と友好関係の創出は、一方の軍事同盟を口実のないものにするだろう。これを日本の現状誤認と結びつけて分離または段階約にとらえるところから、かの有名な、「革命なければ独立なし、独立なければ中立なし」というテーゼが生まれた。

 また非同盟状態を定着化させるための非核武装地帯の設置要求は、逆に双方の片寄った傾斜を回復することを必要とするし、内外の非核武装計画と呼応していることはいうまでもない。きらに重要なことは、戦時中の経験とこんにちの生活要求に依拠しつつ、軍事費の平和的生産と労働へのふりむけを具体的にかつ大々的に宣伝普及することによって国民生活のなかに平和と中立の要求を定着させることであろう。この点では平和と中立化の政策と、中立化の経済構造との関係をもっとわかりやすく、具体的に明示する必要がある。

それはおそらく、平和と原水爆禁止の「悲願」を実現可能性のある現実的なものとしてうらづけ、平和の統一行動をいっそう力づよく発展させるにちがいないだろうし、当然そのなかで具体的な地位を与えられる被爆者援護の政策は、世界で特殊に重要な位置を占めている被爆者運動を一段と平和と原水爆禁止運動の力づよい源泉にするだろう。

        (一九六一・一一・二九)

 


 

ヒロシマからの年頭所感

松江

 元旦、テレビを入れたらちょうど中曽根の年頭所感の途中だった。しばらくすると彼は日本人のアイデンティティーを強調しはじめた。私は、またしても、と思いながらついこのあいだ若い政治学者から聞いた話を思い出した。中曽根は政治学者矢部貞治と深い師弟の間柄だということであった。

 戦前、私は中曽根とほぼ同時代同じ所で学んでいた――もっとも学ぶものはすでに僅かしかなかったが――ことがことがある。そのころ政治学の講座を担当していたのが矢部貞治であった。一度聞いて嫌気がさした私たちのグループは、いっしょに彼の講義をボイコットすることにした。ところが中曽根は彼の愛弟子としてその熱心な信者であり、戦後も深い交わりがあったという。彼が矢部著作集の編纂委員長だったことも初めて聞いた。矢部は当時「大東亜共栄圏」政渦学を語って近衛新体制=大政翼賛会のブレーンとなり、中曽根はいま日本人のアイデンティティーについて得々としやべり、首相として靖国詣での道をひらいた。その根は矢部の説いた共同体国家論である。中曽根がしばしばいうところの 「国家のために死ねる国民」が祀られるところとしての靖国神社は、日本人のアイデンティティーのふるさとなのである。しかし、その国家とは何かということこそいま問われているのだ。

 二月十一日、私たちは広島ではじめて共同で討論集会をひらくことになった。「『建国記念の日』は何をめざしているのか?」と。昨年十一月、「ストップ・ザ・戦争の道」講座を代表した宗像牧師と、八・五反戦反核集会広島実行委員会を代表した私と二人が呼かけ人となり、十二月八日を期して二・一一実行委員会準備会がつくられた。二度の打合せのなかで、キリスト者、女性、被爆者、部落解放を闘っている人たち四人のパネラ―で討論集会をひらくことになった。この集会の呼びかけには前記二団体の外に、女デルタの会、キリスト者平和の会、広島県高

等学校同和教育協議会などの参加が期待されている。そこでは二月十一日だけでなく、八・六、八・一五へ向けたさまざまなカンパニアが展望されている。

 なかでも人々の関心が深く、すでに論議の対象になっているのは四月二十九日(「天皇誕生日」)に予定されている現天皇在位六〇年を祝う国家行事であり、それに対抗するわれわれのカンパニアである。中曽根たちは、在位六〇年ということで戦前の二〇年と戦後の四〇年を一つの糸でつなぎ通し、はからずも侵略的な天皇制をいま祝うことで自らの正体を暴露し、天皇の役割を絵にかいて見せようとしている。

 自民党極右派があわよくばとたくらむ、戦前の絶対主義天皇制の復活は到底おぼつかないことは、中曽根といえども知っているに違いない。彼らがいまネラッているのは、次第に低下する支配の権威を強力にカバーする重要なイデオロギー的補強装置としての天皇である。戦後占領下でアメリカ軍は「天皇一人で二〇ケ師団に相当する」と語ったが、いま天皇イデオロギーは生半可な反共屋が何十何百人集まろうとも、足元にも及ばぬ影響力をもっている。天皇は「遺憾なできごとであった」とひとごとのように侵略戦争の責任を回避し、「原爆投下は戦時中で止むを得ぬ」とうつかり本音を吐いて、憤った広島の被爆者から公開質問状をつきつけられた。しかし天皇とその追随者たちによるイデオロギー(虚偽意識)的影響力はまだまだ大きくかつ強い。それは行革のもう一つのネライである「強い首相」 の強力な後盾となる。天皇とは何か、それはわれわれにとってどんな意味をもつのか、が問い返きれなくてはならぬ。

 かくして国家・天皇・靖国・戦争・原爆は、それぞれが深くかかわり合い結び合ってわれわれに迫る。今年の八・六、八・一五は、ニ・一一を出発点に、このサイクルを解き明かしつきとめながら展望しなくてはならない。それは広島だけでなく、広く全国のこころざしある人々、とりわけ昨年の八・五集会に参加した人々に向けられて鋭くアピールされなければなるまい。われわれはそのアピールを近く討議して準備することにしている。昨年八月につくり出された新しい流れは、いま、たゆみなく反戦、反差別、反靖国、反天皇を追いつづける他の多くの流れと合流して、今年の夏を迎えることになるだろう。若い活動家たちの口から、意見や考え方の違うものが、一つに結集して大きな流れをつくろうと呼びかけるとき、私はただ心安らかに見守るだけで良いと思いながら、この新しい準備の会合が待ち遠しくなっている。

 昨年は大晦日のアメリカ核実験抗議の座り込みで暮れ、今年は今のところまだ核実験はない。寒さが少しゆるんだ昼、平和公園を散歩する私の目に入るのは例の 「日の丸」 の旗である。今年もきっとやるに違いない核実験への座り込み抗議と、この「日の丸」をつなぐ何かがいつになったら切れるのか、と思いつづける。「日の丸」と「君が代」 の全国調査で広島は、他の府県に比較すれば「徹底」度が悪いという。それが被爆地としてせめてものささやかな抵抗なのか。それにしてもそれが極端に低いのが沖縄だということのなかに、あの一〇万人に近い住民の死者を出した国内戦を思う。国内戦ではなく、原爆で数万の人の命が焼かれるなかで戦争が終った広島との違いが身に沁みる。沖縄と広島が別のものでなくなったとき、われわれの闘いは広くアジア・太平洋へと拡がるのではないか。

 テレビではつづいて、中曽根が虎にちなむことわざを三つも四つも並べ立て、「話し上手」ぶりを茶の間にふりまいていた。「虎は千里を走る」からと張切るが、どうやらこの虎は三、四〇里で息切れしそうである。しかしこのまま中曽根をやめさせるわけにはゆかぬ。何としても大衆的な反撃の糸口だけでもつけなければなるまい。もちろん、国家=天皇=靖国=戦争=原爆は、何も中曽根一人のものではない。彼は戦後来雌伏してきた国家主義が、新たに動き始めるための水先案内にすぎない。われわれが結着をつけなくてはならないのは、この図式そのものなのである。だからこそ先制的に、まずその先頭集団をつぶす必要があるのだ。今年の闘いを展望しながら、私はまた新しい勇気が湧いてくるような気がする。(一九八六・一・一四)

      (広島原水禁常任理事)


建国記念日は何をめざしているのか

―広島の二・一一討論のつどい―

 

二月十一日、かねてから準備が進められていた「二・一一討論のつどい」(「建国記念日は何をめざしているのか」)は、同日午後一時半から広島市中央部の県民文化センターでひらかれた。まず「靖国と天皇」のスライドを上映した後、四人のパネラーからの提起を受けて約三〇〇人の参加者が熱心な討論を行ない、午後五時別掲アピールを採択して解散した。

 この日、「憲法をまもる県民会議」も県労・社会党の支援のもとに初めて講演集会をひらき、約一七〇人の労組組合員等が参加した。また賛同派は、県内主要企業の社長・保守派の議員など一〇〇名にも上る発起人の呼びかけで平和記念館に約七〇〇名を集めて集会をひらき、右翼ばりの天皇「肇国」の奉讃で気勢をあげた。

 「二・一一討論のつどい」は昨年くれ宗像基(ストップ・ザ・戦争への道ひろしま講座)、松江澄(八・五反戦反核集会広島実行委員会)両氏が呼びかけ、十二月八日を期して結成された実行委員会が回を重ねた討論で準備したもので、呼びかけ人は前記二団件のほか次の諸団体が加わり、合せて十四団体となった。デルタ女の会・原発はごめんだヒロシマ市民の会・広島キリスト者平和の会・西中国教区広島西分区・広島女学院教職員組合・広島YMCA有志・自衛官合祀拒否中谷康子さんを支える広島の会・労働情報広島支局・トマホーク配備を許すな呉市民の会・「南民戦事件」被弾圧者を救援する会・広島県同和教育研究協議会・ヒロシマと文学を考える会。

 今まではキリスト者を中心にしたつどいとチラシ配りだけであったが、今年は運動の出発点として、いっそう広い諸勢力が「建国記念日」を告発しようと統一して呼びかけたことが、現状への危機感もあって大きな反響を生み、多彩で多様な活動家がかつてなく結集し、なかでも女性の参加が目立った。

 パネラーも、キリスト者の西沢宏、女性活動家の宮本モヨ、被爆二世の岸本伸三、部落解放を闘う下原隆資の諸氏で、運動仲間からの問題提起ということもあって、参加者から発言し切れぬほど多くの意見発表が求められ、率直で自由な空気のなかで積極的な発言があいついだ。

十九日に反省会をひらいて総括をおこない、この会ほ一旦解散しながら四・二九(「現天皇在位六〇牢記念」) へ向けて新たな実行委員会をつくり直して出発することになった。(中国支局)

 

 二・一一アピール

 

 私達ほ今日「建国記念の日」に集い、さまざまな異なった立場から、この日が何をめざしているのか、について率直に語り合いました。戦後以来、被爆の地ヒロシマで、こんなに多くの人々が一堂に会してこの日のことを論じ合ったのは初めてです。それはまた、意見の違う人々がそれぞれの立場に立ちながら、一つに語り交ったという意味でもかつてない大切な集いでした。

 いま、一見ただの休日に見えながら、この日も、またあくる日も、戦争のための準備が進められて福祉が切り捨てられ、他方ではことさらのように建国記念、天皇在位六〇年、靖国神社の公式参拝、「日の丸」「君が代」の押しつけが すすめられています。再び国のために殺し殺されてしまう――そんな不気味さをヒシヒシと感じます。

  やがて四月二九日が来ます。その日は今「天皇誕生日」と呼ばれていますが、それが今日の「紀元節」と歩調を合わせた戦前の「天長節」であることはいうまでもありません。天皇と天皇制については立場によって意見が違うでしょう。だが、政府が「在位六〇年」と名付け、戦前と戦後を足し合わせて祝うことで、侵略と戦争の歴史を天皇の名で承認させようとする企てだけは、決して許すことは出来ません。この日をどう迎えるかということと、八月六・八月一五日をどう迎えるかということとほ別のことではありません。

 私達はどんなに意見が違っても、ともに今日を出発点にして四月二九日を問い直し、原爆と戦争を問い返し、改めて日本人としての今日のあり方を問い質さなくてはなりません。みんなで語り合い行動し合って四月と八月への新たな出発を 準備しましょう。

 ここヒロシマから県民の皆さんと、全国のすべての人々に呼びかけます。


 

       

 

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原爆投下を招いた鈴木貫太郎内閣の責任

侵略戦争を肯定する奥野氏らも同根

 

東京 岩田英一

 

労働運動研究1995.7

 

戦前の大衆的反戦デモ

 

 今から六四年前の一九三一年九月

一八日は、満州・東三省の軍閥張作

森が日本帝国主義の尖兵となること

を拒否したため、関東軍が列車を爆

発させて張作森を爆殺し、満州事変

勃発の日となった。

 当時、浅草六区映画館街ではトー

キーの採用によって、弁士と楽団が

一挙に職を失い、その数は一万人に

のぼった。この人々のストライキに

西天風という芸名で応援に参加した

私は、深化する恐慌打開のために、

第二次世界大戦は近いと演説してい

たので、満州事変勃発を機に戦争反

対のデモを計画し、九月二七日、浅

草六区公園で争議団を中心に三〇〇

余人によって、数万人の見物人が見

守るなか、反戦デモを断行、百数十

人の警官隊と激突し、交番を占拠し、

私を始め三〇人が警官隊と乱闘の

末、逮捕され、拷問を受けた。

 この大衆的反戦デモは日本歴史上

はじめてのもので、ソ連に本部をお

く国際共産党の日本代表片山潜がこ

れを取り上げて報道し、一躍世界的

な大事件になった。

 このとき映画館屋上から散布した

紅白数千枚の宣伝ビラの冒頭には

「日本帝国主義は満蒙侵略を開始し

た労働者、農民、市民、青年を犠

牲にして、恐慌打開を目指す満蒙侵

略戦争反対!」と記した。奥野誠亮

らはこの戦争がアジア各国を欧米の

植民地から解放した聖戦といってい

るが、とんでもない。

 

天皇制維持を優先

 

 第二次世界大戦の末期、一九四五

年四月三〇日、ソ連軍によって追い

詰められたヒトラーがベルリンで毒

を飲んで自殺すると、米大統領ト

ルーマンは即日日本政府に対してそ

の事実を告げるとともに、後にポツ

ダム宣言の雛形になる無条件降伏を

勧告したが、鈴木貫太郎首相は即日

これを拒否した。

 七月二六日、日本帝国政府に対す

る無条件降伏を求めるポツダム宣言

が発表された。

 総理大臣・鈴木貫太郎海軍大将は、

同宣言第十項の戦争犯罪人の処罰

に、陸海軍大元帥である昭和天皇が

相当し死刑にされる恐れが大である

ため、米国のトルーマン大統領、ソ

連のスターリン首相に立憲君主制

(天皇制)維持を条件に降伏を申し

入れ、その交渉で日時をむだに過ご

している間に、八月六日には広島に、

九日には長崎に原子爆弾が投下さ

れ、数十万人の市民が爆殺された。

 八月九日にはまたソ連軍が参戦し、

満州国は席巻された。

 ここに至って万事窮した鈴木貫太

郎首相は、勝手に立憲君主制(天皇

)が維持されることを条件として、

降伏を申し入れた。

 世界歴史上、こんな馬鹿な降伏を

した国はない。一人の天皇を守るた

めに、原子爆弾による数十万市民の

被爆死をまねき、またソ連軍に降伏

した六十万の関東軍兵士はシベリア

の原野に酷使され、うち五、六万人

がムダな死を遂げた。

 現在、広島・長崎に対する原子爆

弾投下の是非が議論されているが、

原子爆弾が投下されず、馬鹿な日本

軍が抗戦した場合、九州、関東に米

国軍隊が上陸すれば、日本国民が数

百万、米軍数十万が死傷していただ

ろう。

 日本はすでに抗戦能力を失い、原

子爆弾の投下は対ソ戦略の一環でし

かなかったという研究も最近はある

ようだが、硫黄島、沖縄における徹

底抗戦に遭遇した米軍の原爆投下に

ついての理屈を否定するのは、倫理

の問題はあるにしても、難しい。

 原爆投下をまねいた鈴木貫太郎内

閣の責任を合わせて告発するのでな

ければ、道理にもあわず、世界の人々

を納得させることもできない。

 

特高意識そのまま

 

 現国会で戦後五〇年の国会決議を

めぐって、「侵略」「植民地支配」の

文句挿入に反対している人たちは、

侵略戦争を実行した、また、原子爆

弾投下を招いた当時の支配層の思想

を受け継ぐものであり、これらの反

動政治家を国政から引き下ろさない

限り、日本の侵略戦争の責任は消え

ず、再び同じ道を進む危険は大きい。

 それらの代表である奥野誠亮氏

(戦後五十周年国会議員連盟会長)

は第二次大戦末期に宮崎県特高課長

をしていたが、一九六三年一一月の

総選挙で、三重県から立候補し初当

選したとき、衆議院議員会館の個室

に私が訪ね、「特高課長奥野がなぜ追

放されなかったのか」と聞くと、彼

は一瞬ギクリとして、「私が就任した

のは終戦直前だったので、そう悪い

ことはしていない」と言い訳をした。

私が重ねて彼に現在の心境を質問す

ると、「ポツダム宣言の民主条項に賛

成です」としおらしく答えた。

 その彼が八三歳、当選11期、文

相、法相、国土庁長官を経験して自

民党の長老議員になると、だんだん

地金がでてきて、大東亜戦争は欧米

の支配からアジア各国を解放する聖

戦だといっているが、これは特高意

識そのものだ。

 いまの若者は、侵略戦争への進行

を阻止できなかった戦前の歴史を不

思議に思っているようだが、奥野の

ような軍国主義者を排除できなかっ

たことが、戦争への道であったこと

を認識し、今こそ行動を起こし子孫

に対する責任を果たすべきだろう。


反核平和運動と革命運動

―反トマホーク運動の成功のために―

これは、去る三月、東京の学生たちに話した当面する反核平和運

動についての講演に、筆者が手を入れたものである。(編集部)

 

松江

 

労働運動研究 19846月 No.176

 

  今日は三つの問題を提起したいと思う。第一は、君たちがいまとりくもうとしている反トマホーク闘争。これは果たして盛り上がっているのか、盛り上がっていないのか。八二年の反核の大軍はどこへ消えうせたのか。危機感はあるのかどうかということです。

  二つめは、イデオロギーと大衆的な反戦反核運動とのかかわり合いの問題です。私たちは広島で、炎暑の夏も寒風吹きすさぶ冬の日も慰霊碑の前に坐りこんで〃いかなる国〃の核実験・核兵器にも反対する抗議行動をつづけている。一体この〃いかなる〃というスローガンは、中立主義のスローガンなのか。革命的あるいは階級的な立揚に立つ者にとっては、日和見主義的なスローガンなのか、それとも戦闘的なスローガンたり得るのか、という問題をとおして、イデオロギーと運動の問題について提起したい。

 そして最後に、私たちがその一環として闘おうとしている現代反核運動とは何か。それは革命運動と平和運動とのかかわりについて、新たな次元でどうとらえられるべきであろうか。この三つの問題を提起したいと思うのです。

 

核戦争と危機感

 

  そこで第一の問題からはじめよう。はじめに私がふれたように、八二年の反核運動であれだけ多くの人人が集まったことは、この運動はじまって以来のことです。「ビキニ」の反原爆運動ーそれはまさに日本中が炎となって燃えたーの時にも、あれだけの人が集まったことはなかった。二〇万、三〇万、五〇万と、一年の間に三つの都市であれだけの人が集まった。そうして、二〇万も集まると、誰も号令できないことが、まず広島から証明された。新しい運動が芽ばえ始めたと思った。

 いまトマホークー直径が五三センチ、長さが六・ニメートル、それでいて広島の原爆の十五倍の破壊力を持つーが、アメリカのアジア艦隊の百二隻の軍艦にみな取り付けられようとしている。もしこれが全部取り付けられたら、トマホークはいつでも日本の頭ごしにシベリアへ飛ぶ可能性がある。横須賀には去年一年で二十三回もアメリカの艦船が入港している。そういう状況のなかで一体あの八二年反核のエネルギーはどこに消え失せたのか。なぜ危機感がないのか。危機感があったらそれでいいのか。という問題をまず皆さんと考えてみたい。

 たしかに運動がおきるためには、危機感が重要な条件だと思う。たとえば一九五〇年。当時日本はアメリカ帝国主義の占領下にあった。こうした日米二重権力下で朝鮮侵略戦争に反対する闘いをわれわれがやったときには、日本を基地にしてすぐ隣の朝鮮をアメリカ帝国主義が侵略するどいうきびしい危機感がわれわれをとらえ、また目本人、朝鮮人の青年たちをとらえて、日朝青年三百名が中国地方から広島に結集して非合法の反戦闘争を闘った。

 それから四年たった五四年の「ビキニ」の時には、久保山さんが原爆症で亡くなった。それだけではなく、放射能で汚染したマグロを通じる放射能の危機感が全国のすべての台所を襲った。婦人が、青年が、民衆が立ち上がった。そういう危機感から生まれた運動であることには間違いがない。それがたとえひとりひとりの自立的なエネルギーの巨大な集積ではなく、「ビキニ」で点火された国民的な、ナショナルなエネルギーの爆発であったとしても、そういう危機感から生まれた。もちろんそれは核戦争の危機感というよりも、放射能汚染の危機感であった。

 それでは八○年代に入って、疾風のように発展したあのヨーロッパの反核運動はどうか。これはまさに自分たちの住んでいる街の軒先から核戦争への引き金が通じているという、その現実的な危機感からあの運動は起きたに違いない。それでは一体日本のあの八二年の反核大集会にどうしてあんなに集まったのか。危機感はなかったのかあったのが。私は確かにあったと思う。あったと思うが、それはヨーロッパのように自分たちの街の庭に取り付けられる新しい核戦争の道具に対して具体的な抗議行動を起こすという、そういう意味で日本の現実から出発したというよりも、ヨーロッパのあの巨大な反核運動を媒介とした間接的な危機感ではなかったか。だからこそ、いま屋気楼のように消え失せてしまったのではないか。

 それでは一体いま危機はあるのかないのか。危機はもちろんある。先ほども言ったように、トマホークを搭載した艦船が何十回となく日本に寄港することになれば、ドイツやイギリス、オランダに据え付けられる核ミサイルと事実上同じこととなる。もし海中からそれを発射するとすれば、日本列島の上を飛び越え、シベリヤのソ連基地に向けて飛んで行くに違いない。デジタルマップによって、ミサイルは地を這い、谷にかくれ、山を越えながら新しい核戦争の引き金になるに違いない。危機はある。危機はあるのに危機感がない。それはなぜか。ヨーロッパの場合には、明確に公然と陸上で、みんなの見ている前でみんなの街の庭に据え付けられる。極東の核はどうか。同じような核が、海中深く潜行して姿を現わさない。時として姿を現わし、日本に寄港しても、「事前協議」を隠れ蓑にそんな核はあるはずはないとうそぶく。事実が巧みに隠蔽されている。

 もし自然に生まれてくるような危機感を待つのであれば、おそらく私たちは核戦争の前の日いやその瞬間まで危機に気づかないことになるに違いない。だとしたら、私たちはそのべールを剥いで、それがどんな危機であり、それがどんなに日本にわれわれに現実に迫っているかを暴きたてなければならない。そこにヨーロッパの危機との相違もある。

 それでは危機感さえあればそれでいいのか。危機感さえあれば必ず運動がおきてくるだろうか。そうではないと私は思う。あのドイツのヒットラーのナチスが権力をとったときはどうであったか。一方では、左からの革命的危機がしだいに近づきつつあった。そして他方では独占資本主義の深刻な経済恐慌が襲いつつあった。そういう二つの危機の狭間に動揺する中間層の危機感を煽って、巧みに組織することでドイツ・ナチズムはヒットラーの独裁体制を樹立した。日本の戦前の揚合はどうか。

当時の政府は、一方ではアメリカが日本の「生命線」をおびやかすといい、他方では北方からソビエトの赤い熊がネラっていると国民の危機感を煽ってあの戦争をおこした。

 しかしわれわれは外国の例、過去の例を引くまでもない。現にいま中曽根のやっていることを見れば、明らかに国民の危機感を煽っている。ソ連がいつ攻めてくるかわからん、なんとかソ連に対して備えをしなければ目本はやられてしまう。自衛隊を強化しなければならない、と。彼らは国民の危機感を巧みに煽りつつ、自衛隊のいっそうの増強、日米軍事同盟のいっそうの強化をいま押し進めている。とすれば、単なる危機感だけではダメだ。それだけでは人々を運動に組織する条件にもなるが、また同時に支配者が人々を戦争と軍国主義へさそいこむ条件ともなる。双刃のやいばだ。

 支配者たちはいつでも、人民の眼に色眼鏡をかけて真実を隠してしまおうとする。とすれば、われわれは明晰な階級の眼鏡で、真実をはっきり見極めて危機を提起しなければならない。しかし、それだけではやはり力にはならないのではないか。もしそれを客観的な危機感というならば、重要なことは主体的な危機意識をどう組織するかということではないか。つまり、こういう危険な状態のもとで、われわれが立ち上がらなかったなら、あるいは労働者が立ち上がらなかったなら、学生が立ち上がらなかったなら、一体どうなるんだという主体的な危機意識を組織するのでなく、客観的な危機感だけ煽るとしたら、たとえそれが真実であっても闘う力には転化はしないであろうということです。客観的な事実を行動に転化するためには、真実の眼鏡を通して見た事実を正確に知らせながら、ひとりひとりが持っているに違いない主体的な危機をどうくみだすのかということから始めなければならないと私は思います。

 主体的な危機意識こそ客観的な事実と行動との媒介なのです。結局、第一の問題について結論的に言うならば、危機は待っているべきではない。われわれが正確な事実をとらえ、それを人々に伝達しなければならないということ。そしてまた、誰かが上から号令をかけるのを待つの.ではなしに、ひとりひとりが自立的に立ち上ぶる主体的な危機意識を創りだすことでなければならないと思います。そこで私たちは、この危機の問題を通じて第二のテーマに移ることになる。

 

"いかなる"問題の意味

 

 核戦争の危機という場合に、いつでもアメリカの核ミサイルとともにソ連のSS20がひきあいに出される。SS20とパーシングU。あるいはSS20とトマホークという形でわれわれの前に核戦争の危機が提起される。それに対してわれわれはどのように対時するのかという問題です。私は、いかなる国の核兵器も反対であると率直に提起しておきました。アメリカの核兵器であれ、ソ連の核兵器であれ、アメリカの実験であれ、ソ連の実験であれ、私たちは広島で反対しつづけてきた。しかしそれは私が広島人であるからだけではない。それは特殊広島的なものではないと私は考えています。それは単なる中立主義的なスローガンでもないし、また中立主義的なスローガンでもある。中立主義的なスローガンであるから、人々がたくさん参加することは事実です。それでは、本音と立て前を使いわける二枚舌なのかと問われたら、けっしてそうではないと私は答える。本当は社会主義の核実験には反対したくないのだが、みんなと一緒に運動をやらないとまずいから、自分がコミュニストであるにもかかわらず、自分を偽っていかなる国の核兵器にも反対するのかと聞かれたら、ノーと私は答える。

私はむしろ自分がコミュニストであるがゆえに、社会主義的な変革を目指すがゆえに、私はこの〃いかなる〃というスローガンは戦闘的で階級的なスローガンでもありうると考えている。

 このことと関連して、私たちは長い間日本共産党と理論的に闘ってきたし、批判もしてきた。それでは日本共産党はどんな立揚からどんな主張をしていたのか。社会主義の核兵器と帝国主義の核兵器は違う。したがって社会主義の核兵器と帝国主義の核実験は違う。帝国主義の核兵器は核桐喝のための、世界支配の武器である。社会主義の核兵器は帝国主義から社会主義と人類を守るための防衛的な核兵器である。これを同列に論じるべきでないというのが、当時のイデオローグ上田耕一郎の理論であった。だから彼らは、長く停止していた実験を最初にソ連が再開した時に、同じような論法でわれわれに挑んできた。広島では街頭演説で、社会主義国が実験する「死の灰」なら喜んで被りますと言って、人々に嘲笑された共産党県委員会の幹部もいた。そういう上田理論に対してわれわれは徹底して闘ってきた。もっともこの頃の共産党はすっかりボケて、そういうことさえ言わなくなった。

 問題は一体どこにあるのか。二つの問題がある。第一の問題は、このスローガンは誰と敵対するスローガンであるのかということです。〃いかなる"〃という、公然と誰でも納得し誰も反対できない論理のなかで、事実上このスローガンは核兵器をいっそう強化し、それを桐喝の武器にし、あわよくば社会主義もぶっつぶし、人民を殺してまでも死の商人が巨大な利益を得るために使おうとしている帝国主義に対してこそ、立ち向かう戦闘的なスローガンである。

社会主義の核兵器が人類を守るためのものであれば、当然このスローガンを喜んで受け入れるはずです。もう一つは、帝国主義であろうと社会主義であろうと、核兵器に階級性はないということです。誰が持とうと大量殺織の兵器であり自然と人間を破壊しつくす兵器であることに変りはありません。そのうえ核兵器というものは、ただ破壊し殺織するときだけが問題なのではない。さらに問題なのは、引き延ばされ日常化された危機なのです。人類の今日までの可能な限りの英智をしぼって逆に人類皆殺しの手段にその知識と技術を集中してつくったこの武器は、この武器を頂点とした軍事的、日常的なしくみのなかで労働者人民を管理する、そういう性格を持っている。「一朝有事」的な危機意識とコンピュータとの結合は、恐るべき権力的な統合管理を生み出す。そういう意味で私たちが帝国主義的な人民の管理統合に対して闘うのは当然である。しかし同時に。労働者と人民が主人公になる社会主義を創ろうとするならば、私たちはこの核兵器とそのための核体系をそのままにしてはわれわれの目指す社会を創ることはできないであろう。私たちがもし新しい理想社会を求めようとするならば、その前にこの核兵器と核兵器を頂点とした核管理体制を絶滅させなければならないということ。これが私の提起したい二つめの問題です。

 私たちはけっして社会主義と帝国主義を、たとえ社会主義に批判が山ほどあったとしても、同列に論じているのではないし、また同列に論じてはならない。私たちはそれを明確に区別したうえで、なおかつこのスローガンが帝国主義と最も正面から敵対するスローガンであること、さらにまたその管理をも含めて、核兵器そのものの絶滅が新しい社会を創るうえで必要不可欠なものであると、いうこと。そういう意味で私たちは〃いかなる〃国の核兵器、核実験に対して今日まで闘ってきたし、今後とも闘いつづける必要がある。それは特殊広島的なものではない。あるいは特殊日本的なものでもない。

 私は去年の六月、プラハの世界平和大会に行って感じた。私が会場の廊下でどこの国の代表と会っても、広島と聞くと一様に顔をくもらせて私に握手を求めた。会議のなかで必ず広島の名前が出た。あの会議でおそらく最も頻繁に語られた都市の名前は広島であったでしょう。広島、長崎の原体験が、今や人類の原体験、世界の原体験になりつつあると私は実感した。またこの会議のなかで資本主義国の運動を進めている多くの人々が、私たちと同じように汐いかなる"国であろうと核兵器、核実験に反対して闘っているということで、それは単に特殊広島あるいは特殊日本的なものではなく、世界の多くの人々の共通なスローガンになっているということを実感した。

 しかしそれは同時に、広島や日本でも核実験の犠牲だけではなく、帝国主義がくり返している残虐な殺獄に対しても、その痛みを私たちの痛みとすることを求めていると思った。そしてまた、世界の反核運動のなかで、日本が新たな運動の創造には感じました。この〃いかなる〃という問題は、確かに思想にかかわらず多くの人々が共鳴しうる、無党派的な、中立的な、あるいは非階級的なスローガンである。にもかかわらず私たち変革を目指すもの、階級的な立揚に立たうとするものにとっても、これは戦闘的なスローガンたり得ると私は思います。そういう意味で私たちは、私たちの視点、私たちの立場に立ちながら、いっそう多くの大衆と結び合って運動を進めてゆかなければならないと思います。

 

反核運動と統一戦線

 

 そこで私は第三のテーマに移っていきたい。いま皆さんたちが取り組もうとしている反トマホーク闘争は、まさに現代反核運動の一環である。そこで現代反核運動とは何かということです。

日本における過去の運動を比べるならば、現代世界の反核運動は特徴的ないくつかの性格をもっていると思う。その第一は、「ビキニ」からはじまった原水禁運動のようにナショナルと言いきれるような、上からとらえられうる国民的な運動ではないということ。そうではなしに、核ミサイルが設置されるひとつひとつの都市から始まって国際的に拡がった運動である。そしてそのひとつひとつの都市では、決してどこかの組織が上から号令するのではなしに、三人、五人が自立的に立ち上がり連帯して創った運動であるということです。労働組合さえ運動を押えつけようとしているなかで、労働者が下から三々五々自立的に集まって、あの巨大な集会と行動が生まれている。そういう性格の運動である。

それでいて、「優しい戦闘性」とでもいうような性格を持っている。つまり、誰でもが参加し、明るい顔をして手をつないで米ソの大使館を包囲しながら、弾圧されるとなると一人一人が力強い戦士になって連帯して闘い抜く戦闘性、そういうものを持った運動であった。それは本来的に国際的なものでもあった。そういう自立的な国際的な性格を持った運動であるということが、重要な特徴であると私は思います。

そしてまた、もう一つの重要な特徴は、日本のかつての反原爆運動のように、意見の違う課題は次々と切り捨てて、最後に残る最大公約数で「統一」するというものではない。

もちろん日本のように、広島と長崎をくり返すなという一般的なスローガンで終るのでもない。現実に設置されようとしている核ミサイルを撤去せよという具体的な反政府闘争であり、またけっして最大公約数的な「統一」運動ではないということです。彼らは何一つ削らない、何一つ切り捨てない、みんなの持っているどんな要求も出し合い、意見が違っても認め合いながら反核で結ばれる。そして理屈ではなしに、言葉ではなしに、賃金の安いこと、権利が奪われようとしていること、そしてまた失業。あるいは腐敗と退廃。そういった帝国主義の体制が生み出す一切の膿と抑圧に対する憎悪と反感を含めて、その頂点としての反核闘争であるということです。

 これは非常に重要な性格です。みんなそれぞれが持っている反体制的な不満と感情をこめた反核の運動として成立しているということです。

それから三つめの性格についてです。ちょうど昨年七月広島でアジア文学者広島会議が開かれた。そして東南アジアの文学者たちが日本の多くの文学者たちと交流しながら論議をかわしました。おそらく始めてだったと思う。「核、貧困、抑圧からの解放」というのがその会議のテーマだった。単なる反核だけではない。核をはらむ体制が必然的に生みだす貧困と抑圧に反対して闘う運動です。こうして資本主義国内の反核運動にとどまらず、多くの発展途上国の人々と核と貧困と抑圧からの解放を目指して一つに結ばれる、そういう性格を持った運動です。

 もし反体制的な抗議と憤りというものがこの運動の内包であるとすれば、まさにその外延は発展途上国の多くの人民たちの反帝国主義的な怨念とでもいえようか。これは日本の私たちがかつて経験した、あの「ビキ一この運動とは異なる質のものです。そうしてこうした世界の反核運動の波々に揉まれながら、日本の歴史的な原水禁運動は、いま新たな再追求を通じて、世界の運動の一環として立ち上がろうとし始めたということです。その最初の現われ恭、八二年、広島の二〇万人、東京の三〇万人、大阪の五〇万人の集会だっ.た。これだけ人が集まったら、総評の議長や事務局長がどんなに指令してもとおらない。どんなに偉い学者が叫んでも通じない。二〇万人集まれば、誰も号令できないということを知ったのは、日本の運動にとって重要なことであったと思う。

 それは新たな現代世界反核運動とのふれあいのなかで、ようやく生まれ始めた日本の自立的な運動の端緒であった。皆さんは東京の集会へ行ったかどうかは知らないが、いままで喧嘩していたもの同志がとなりあわせで売店をだし、喧嘩しながらでもやはり反核を一緒に闘おうという状態がようやく生まれ始めた。私はこれが本当の統一だと思う。同じ考えを持ったものが一緒に闘うのは統一ではない。それはあたりまえだ。平和運動というのはすぐれて行動で

す。違った意見のものがともに闘うのが本当の統一だということが、ようやく実り始めたのではないか。言いかえれば、それは主体と連帯のかかわりとでも言っていいかもしれない。その主体とは近代的な主体という意味ではない。私が言うのは、近代を駆け足で通り過ぎた日本の運動が置き忘れていた自立的大衆的な主体です。こうした主体が確立されてこそ連帯があり、連帯があるから主体的な自立が必然となるのです。

 

革命運動と反核運動

 

 私が最後に言いたいのは、この運動と革命運動との関わりです。私はかつて反戦闘争の歴史的な発展について書いたことがある。(「平和のための闘争と革命闘争」労研八一号)一八世紀の終りから一九世紀の始め、マルクスやレーニンが生きていた時代、この時代にも平和のための闘いはあった。しかし残念ながら力の弱さから戦争に反対しても、それを食い止めることはできなかった。戦争は避けることはできなかった。

 したがって戦争に反対することは、結局、戦争を生みだす帝国主義を打倒することであり、戦争を内乱に転化することであった。そこでは革命運動と平和運動は別なものではなかった。しかしそれはやがて、第一次世界大戦という未曽有の大規模な戦争を経験した人民の運動が盛り上がるなかで、ファシズムが世界を支配しようとした時期に新たな性格を持ち始めた。

 それは直ちに革命運動や階級闘争と直結するのではなく、ファシズムと戦争に反対するという課題だけで多くの人々が広く結集して闘うという反戦反ファシズム統一戦線の提起であった。しかし同時にまた、闘いとった反戦反ファシズム政府が、労働者政府にいかに接近移行しうるかという追求も行なわれた、いわば過渡的な時期であった。

 そして戦後さらに新たな発展が生まれた。そこではもはや革命闘争と平和擁護運動は完全に分離された。それは二つの大戦を経て、全世界の人民が経験した戦争の残虐さ、それにまた新たな武器とりわけ核兵器がつくり出されるなかで、圧倒的に多くの人々が平和擁護運動に立ち上がるという状況のなかで生まれた新しい性格であった。革命に反対のものでも、労働組合の.ストライキに反対のものでも、どんな思想・信条をもつ人でも誠実に平和を守ろうとする人なら、誰でも参加できるような広いヒューマンな性格を持った運動として発展した。

 そしてそれは、明確に革命闘争とは区別された。しかし果たして全く無関係なのであろうか。かつては戦争の生みだす帝国主義の矛盾の激化を利用しつつ、革命闘争を組織するということであった。現代においては、帝国主義の矛盾が戦争という脱出口を塞がれることから生まれる、いっそうの矛盾の深化をどのように新たな変革に組織しうるかという課題に変わってきた。それは変革を目指すものにとっては、もともと一つであった平和運動と革命運動が、それぞれ別なものとして二つに分離した過程をとおして、再び弁証法的な再統一を求めているということができよう。

 しかしなおかつ、反戦平和運動と革命運動とは明確に区別された運動として追求されなければならない。ところが戦後四〇年近くたった今日、現代反核運動の新しい性格は、この二つの運動のかかわりにどんなものをもたらしたか。かつては一つに結合され、やがて明確に分離されたこの二つの運動において、新しい次元での再結合が生まれ始める兆しを見せ始めたのではないか。

 反核であると同時に、反体制であるような運動。あるいは、帝国主義内の運動だけではなしに、その帝国主義の支配する発展途上国の人民と固く連帯した運動、核と貧困と抑圧がひとつのものとして語られるような運動として起きてきている、この現代反核運動というものは、螺旋状の発展を経ながら、新たな次元で変革の運動と無関係ではなくなってきているのではないか。もちろん、私たちがこの運動に、変革を目指す革命的な運動をセクト的に持ちこんだり引き回したりすることは完全に間違いである。また、この現代反核運動をもって革命運動を代用しようとしたら、これも明確に間違いである。

 しかしなお二つの運動は、人為的にではなくまったく自然に触れ合わざるを得ない。そこに現代帝国主義の凶暴な自然と人間の破壊と抹殺があり、またしたがってそれに対する闘いを否応なく結合させる条件がある。そこに私たちが変革の道を追求しつつも、なおこの運動に正面から取り組まなければならない二重の理由があると思います。もっとも戦闘的なヒュ!マニストとして、そうしてまたもっともヒューマンな階級的活動家として。


追悼・丸木位里さん

松江 澄

 

 労働運動研究 199512月 No.314

 

 丸木位里さんはこの数ヵ月前から病床にあった。年はすでに九〇歳を三年以上すぎていた。私は予定していた一一月上京の折、ぜひお見舞に行こうと思っていた。しかし丸木さんは私を待ってくれなかった。

 このたび上京して埼玉県東松山市の丸木美術館に丸木俊(丸木夫人)さんをたつね、位里さんの霊に花をささげた。大きな写真は変らぬ位里さんそのままだった。

 俊さんと久し振りに会ってつもる話はつきなかった。

 ぜひ食事をといわれて食卓につき、むかし位里さんと食事するとき、「松江さん、ちょっとやろうか」といって酒を持ち出して昼間から二人でちびちびやった思い出を話すうち、私の前に酒があった。久しぶりでなつかしい食卓でちびちびやりながら、俊さんと昔話にふけった。

 私が位里・俊さんと初めて会ったのは一九五〇年の米軍占領下、すでに画かれていた「原爆の図」(一〜三)を広島で、当時数少ない会場が、米軍を恐れて貸してくれないときいて、四九年反核集会をひらいた私たちは、さいわい原爆ドームのすぐ南にあった「五流荘」と呼んでいた所有者も分からぬかなり大きな木造の小屋で、この年の八・六集会をひらいていたので、ここを使おうときめた。

  初めて広島で展示された「原爆の図」を見に訪れる人々は、日増しに多くなった。見る人すべてがまだ日の浅い「あの日」を思い起して感銘したが、中には耐え切れず途中で立ち去る人もいた。以来、丸木さんと私との交わりは始まった。

 丸木さんたちの筆は「原爆」だけにとどまらなかった。生ある者を無残に殺りくする者たちから「南京大虐殺」、さらに世界へと追求して、とどまるところを知らなかった。彼らは筆で反戦反核を闘いつくした。時に訪れる私と位里さんは茶わん酒を傾け合いながら、お互いの運動を語りあうのだった。

 いつか『中国新聞』の記者が「五流荘」の所在をきき、近くの寺などでその所在を確認しようとしたが、分からなかった。先年、私のよく知っている広大の教師(被爆建物調査)が突然電話して、私のいう「五流荘」の写真が見つかり、それが展示してあると知らせてきた。

 私が急いでかけつけて見た展示の中にまさしくあの「五流荘」があった。私の中で五〇年近い前の「原爆の図」がよみがえった。それは、被曝地に入るのを避けたアメリカ軍に代わったオーストラリアの兵士が写したものだった。


座談会・反核・平和運動の現状と今後

広島原水禁 松江 澄

護憲連合  牟礼敦巳

平和事務所 吉田嘉清

 

 労働運動研究 掲載

 

「反核・平和運動の現状と今後」を、長年運動にたずさわってきた平和事務所の吉田嘉清、護憲連合の牟礼敦巳、広島原水禁の松江澄の三氏に、今日までの運動の実情、それをもたらしたものはなんであったのか、今日における運動の中身とはなんであるのか、今後の発展の展望について、忌潭のないご意見をお願いします。〔編集部〕

 

原水禁運動と世界の反核・平和運動

 

松江 昨年の夏、若い人たちが三十一歳になるフィリピンの青年を連れてきた。彼がぼくに言った。「日本の運動に一つ提言がある。一年ぐらい八・六の集会をやめてみたらどうですか」と。私は「君のショヅキソグな提案に賛成だ」と答えたが、これは日本の運動にたいするきびしい逆説的な批判だと思う。

 ぼくが、広島の人間として反省していることの第一は、広島の八・六というものを歴史から分断して原点化する傾向が強かったことだ。だがそれは日本の侵略戦争の帰結であり、同時に新しい核時代の起点でもあった。そこで八・六を歴史のなかに返しながら、いま広島が求むべきものは何か。何を追求すべきなのかを考えなければだめだと思う。それは必然的にアジア・太平洋の民衆との連帯のなかで、広島がどういう役割をはたすべきなのかを問われている。

 もう一つは、日本の原水禁運動は、八・六、八・九の広島・長崎のイベントに代表されるカソパニアの形でしか出てこなかったことだ。それはそれなりに重要だと、いまでも思っているが、それがそこだけからの発想でなく、自分の足元から核の危機にどう迫るのか、どうたぐり寄せていくのかが出てこないと、広島・長崎の八月カンパニアは宙に浮いてしまうのではないか。

 三つ目は、日本の運動は何か最大公約数のようなものがあって、意見が違うと切り捨てて、一致点、一致点と言っているうちに宙に舞い上がって、最後は「核のない社会を」が一致点だということになる。いまは、単に文脈の最後が反対で終るのではなく、核のない社会をめざし内実的にどんなものをつくっていくかが必要なのだが、そのためには、いまの体制が生み出しているさまざまな問題――失業、権利、また政治情勢的にいえば靖国の問題、天皇カンパニアなどのどろどろしたものが、それぞれ独自に闘われながら、それでいてそれが反核運動の内容を形成するようなものとして追求されなければいけないのではないか。ぼくはこの三つの点が反省とあわせて克服しなければならない問題だと思う。

 そういう点で、今後、総評その他の動向いかんでは、日本の原水禁運動といわれるものがどうなるか、重要な時期にさしかかっている情勢のもとで、下からの自立的な諸運動が、労働組合とも連携しながら、新たな運動を形成しなければならない重要な節目にきているのではないか。そういう視点から、原水禁は原水禁として追求しながら、同時に若い活動家たちと、二・一一、四・ニ九、八・六、八・一五と、できるだけ自立的に連合しながら、広い運動につながっていく、あるいは労働組合とも結びあっていく方向を、もう一回探求し直そうと思ってやっているところだ。

 

 牟礼 いままでの運動の成果と反省は、吉田さんが実感として持っていると思うが、ビキニでの被爆を契機とする五〇年代の原水禁運動は、今日いう草の根そのもの、下からの根の広い、また国民を大きく統一した力のある運動だったと、私は思う。それは、五〇年代、六〇年安保の後までつづいたと思うが、六〇年代になって国際的なさまざまな影響もあって、また国内的にもいろいろの思惑があって、日本原水協が六二年から六三年にかけて分裂し原水禁が出来る。そして世界大会だけは、七七年に統一する。そして今日また分裂しかかっている。

 日本の原水爆禁止運動、反核運動は、初期には広島の経験を世界にアピールしていく責任を、ある程度はたしたと思う。六〇年代になって分裂すると、国際的にも来る人たちは当然片寄るし、運動も広がりが失われ、広島などからはけんかするためなら、来なくていい、来てくれるな、ということになり、市民の参加もなくなっていく。

そういう点で、これまでの日本の原水禁運動は、何をくりかえしてきたかをまず反省することが、最初の出発の時点、初心に帰ることが大切ではないか。

 もう一つ言えるのは、日本の原水禁運動は、ヒロシマ・ナガサキの実相を広く世界に訴えていく運動では、それなりの大きな歴史的役割をはたしたと思う。いま、核が人類にとって大きな脅威になる時代になって、その実相を実情にあった形で運動を展開していくのか、あるいは何と結合して、より今日的な次元の原水禁運動のあるべき責任、役割をどうはたすのかという点では欠けている。あまりにもヒロシマ・ナガサキの実情、被爆ということだけが中心になりすぎた嫌いがある。もちろん、私はそれを否定するわけではないが、時代が変化するにしたがって、その持つ意味と歴史的役割を、今日的次元でとらえなおすということが足りなかった、という感じがする。

 

 吉田 七八年に第一回国連軍縮総会があった。それは非同盟運動と世界の反核平和運動が、あまりにもひどい軍拡競争に対し、発展や開発の問題をふくめて転換を迫るためにひらかれた。一つの民衆運動と国際政治が切りむすぶという形でその時は一定の高揚期だった。今の状況はどうかというと、国際的には八○年のヨーロッパの反核運動が、いろいろな国の反核運動を激励して、八三年が運動のピークになった。そして、いま、ヨーロヅパの反核運動は、総括の時期に入っているが、あの時は信じられないような大衆運動の力が西ドイッ、オランダ、ベルギー、イギリス、ノルウェー、ギリシャ、スエーデン、デンマークと、フランスを除く欧州諸国に成盛り上がったのは、SS20に対するパーシングUと巡航ミサイルの配備に反対する闘争だった。

 ヨーロッパの反核運動は、こうしてブロック反対・反核運動、いわゆるNATOとワルシャワ条約のブロック対決に、民衆が割って入るという反核運動が自立的に展開されたので、世論の支持を受けて大きくひろがった。その背景には、核軍縮以外には生き残る道がないことを認識した運動へと思想的にも転換が迫られて、自立的反核運動として成長したわけだ。

 しかし、巡航ミサイルの配備は諸国民の反対にもかかわらず強行されていった。そのなかでヨーロッパの反核運動は、いま、運動をどう見るのか、成果をどう見るのか、今後の展望は、という形で、外的には一種の停滞期に入っている。内的には総括をして次の反核運動をどう生みだすかというところにある。

日本の反核運動もこれとまったく無関係ではなく、同じ問題にぶつかっている。日本の場合は、八四年六月にトマホークの配備があったが、その時に全人民的反トマ闘争をそぐかたちで原水禁運動のゴタゴタが起きている。

 ヨーロッパでは大きなデモンストレーションが起こって国際的な影響「をあたえ、その結果、いろいろな非核政府がつくりだされている。ニュージーランドの非核政府、バヌアツの非核政府、北欧の政府も限定的には非核政府といえるし、ギリシャも非核政府をつくりだしている。そして、これからどうなっていくかという時、イギリスの核武装反対運動ロCNDなどは一方的核軍縮政策を政府にせまりながら、会員がどんどん増えている。本部の有給専従者は三四名だが、ボランティアを入れて約一〇〇名の人が活動している。全会員は五〇万、新しい大衆的な教育をやりながら、保守層にも喰いこみ、核軍縮への転換を自国政府にも国際的にも迫っていくということを、生き生きとやっている。

 今年の復活祭は各地で行動がおこなわれ、人数こそ落ちているが、それでも西ドイッでは三四万人が集まってデモをやっている。

 日本の運動は、今の話にもあるように、初めはあきらかに横型の草の根運動だった。それがいつか、私などの責任が大きいが、縦型の運動になってしまった。これに対する反省が七八年、八二年のイベントのなかで出たが、やりとげる前にいろいろなことが起こってしまった。だからいまは日本の運動をどれだけ横型の運動に変えられるか、そして縦型の運動がこれを激励するものに変えられないだろうかを考えている。

 五〇年代からの運動をふりかえってみると到達点はいろいろある。五〇年代の草の根運動は当然核兵器と人類は共存しえないものとしてやられたのだが、論争自体は防衛核論争を克服しつつきている。現在の軍拡競争の段階で、これ以上核軍拡競争がすすんだら、人類は生き残れなくなるという考え方が、みんなの共通認識になっている。核軍縮ができなければ、核戦争不可避論を認めることにしかならないということは、平和運動、反核運動に理解ある人は、みんな思っている。しかし、政治の場の考え方は、軍備による、核兵器による安全と平和という、保守的なしたがって、横型の運動がどれだけ浸透し、それを転換させうるか、どんな政府ができても、それに軍縮による平和の圧力を、どれだけかけられるかが、今後の中心問題としてあると思う。同時にまた日本の運動が、相当大きな転換を迫られていることは、組織論においても言えると思う。

 

"被爆国日本"の運動の再検討

 

 松江 まず最初に、政策論なり運動論なりがそれぞれ出たわけだが、牟礼さんが言われたビキニ運動と反戦反核の問題には同感だ。日本の運動は、大きく分けて三つの時期があったと思う。一はビキニまで。二はビキニから八二年の国際反核運動まで。三つ目はそれ以後の今日まで。ビキニまでは広島でも占領下で反原爆反戦運動を闘った。また内灘があったし、砂川の反基地闘争もあった。ビキニ運動以来それらが逆にこの運動に収敏されて、上から組みこまれる形になった。それは、ナショナルな性格を持つ運動――被爆国日本という形で取り組まれていった。そのプラスの面としてはものすごい勢いで全国にひろがったという点もあるが、同時に被爆体験は国民的な経験ということで、国民主義的な運動として発展した。だから、被爆者は"生きていてよかった"と言ったんだが、朝鮮人被爆者のことは、ほとんど問題にされなかった。外国代表はきていても、国際的な問題はほとんど出なかった。そこに広がりはあったが、同時に問題もあった。だから、あれはビキニ・反原爆運動としてとらえるのが、むしろ正確だと思う。それに注入的に反戦をどう結合するかということを上からやろうとするから、逆にそれは市民不在になる。そういう意味で、あの運動が掘り起こした大きな源泉は、ある媒体なしには反核反戦運動に発展していけない、その媒体としては、ビキニ以前には労働者の反基地運動、反原爆運動があったが、それもビキニ運動に収敏されてしまった。

 それをもう一度再追求するいいチャンスは八二年の外からの運動とのふれあいだった。あそこから新しい運動が生まれる芽ばえはあったが、それはかならずしも十分発展しなかった。それは、国内的な危機感からというよりも、ヨーロッパの危機感を媒介にしたため、三〇万、四〇万、五〇万集会にはなったが、後に残らない。そこに歴史的に克服しなければならない問題があるのではないか。いま、それが問われているのではないか。

 国民主義的な、ある意味で自立的なものを塗りつぶす形で発展していったものは何か。ヨーロッパでは自立的なものが前提になっているし、アジア・太平洋の運動でもそうである。それを日本では運動論としてではなく本質論として、国際的なものとのふれあいのなかで探っていく必要がある。

 

 吉田 ただね、日本人一般が考えているヒロシマ・ナガサキのイメージは、ヒロシマ・ナガサキの惨禍を自分たちは受けたくない、もちろん世界の人たちにも受けさせてはいけない、という思いがある。それともう一つ、未来戦争に対する否定、核戦争に対する否定の気持ちが被爆者の間には強い。同時に、過去の十五年侵略戦争の結果がこれをもたらしたのだ、したがって過去のああいう自由がない、民主主義がない、勝手に戦争にかりたてられるような時代はいやだ。過去の十五年戦争の否定と、未来戦争に対する否定が、ヒロシマ・ナガサキというカタカナの字のなかに無音心識に組みこまれている。それで、その次なんだ。

 それは何かという場合に、抽象的には非武装憲法という形で、核のない社会を建設しよう、あるいは核軍縮により核兵器のない社会を実現しようというのはいいのだが、具体的な問題については素通りしてしまう弱さがある。

 たとえば広島・長崎の市長のアピールを見ていて、非常によいアピールでもう言うことはない。ところが、隣の岩国について心を痛めるのか、佐世保についてストレートでないにしても気持ちをどうするかということで肉迫するかというと、それはできないし、やれない。しかし、言葉自体はあれを読んだら、アピールとしては感動してしまう。それともう一つ松江さんの言った太平洋の実験の被爆者もいたということについては、非常に落差がある。朝鮮人被爆者についても、痛みはないでしょう。そのギャップがどんどん拡大しているということがある。それをまたナショナリズム大国主義があおるという形になってきている。

 

 松江 つまり広島の原体験とは、何かということだ。ラジカルな形でいえば、八時一五分の前に広島は何をしていたか、ということだ。それは広島の八・六を過小評価するので.はなしに、そういうものとしての深みのなかで、もう一回とらえなおすところに、いまの広島が何をしなければならないかが出てくると思う。

広島にいる者としては、その点をつきつめてつきだしながら、広島は何をなすべきなのか、と問い直す。

 

 牟礼 一九五〇年代に、ベルリンアピールとか、ストックホルムアピールが発表され国際的な反核運動、原水爆禁止運動が大きく高揚した。これは西欧における戦争の危機もあったが、あの時に世界の知識人が、運動をリードするような世論に対す.るアピールを大胆にやった。岩波に集まった平和懇談会の資料などを読んでも、それが日本に大きな影響をもたらしたことも現実にあった。そういう国際的な問題もあるが、国内的には松江さんもいわれたように、平和三原則とか平和四原則とか、基地に反対する運動とか全面講和の運動とか、再軍備に反対する運動とか、五〇年代の朝鮮戦争前後から日本の反戦平和の運動は非常に高揚した。また逆の意味で民主主義を守るということでは、これは原水禁運動ができてから後になるが、警職法反対闘争にしても、教育の勤評反対にしても、あのころの学者文化人の役割は大きかった。労働運動の面では総評ができ、大きく成長する過程であった。そういうものがさまざまな形で日本の反戦平和運動を大きく盛り上げる下地として存在した。それと、ビキニの水爆実験によって久保山さんが犠牲になる。それが生活の場ではマグロが食べられない、どうすればいいのかというように、平和の問題と生活が直結する。そういう点では、五〇年代というのは、今日では想像もできないような国民的な下地が、基盤が形成されていた時代であったということも考えなければならないと思う。

 今日、八○年代に入って運動が高揚してきたといわれるが、これは日本の運動ではなくて、ヨーロッパ、アメリカの運動だ。一つは中性子爆弾の製造と配備、巡航ミサイル、トマホークの配備に対し、新しい核戦争の危機が現実の問題になってきた。これが反核軍縮の運動を大きくスタート台に立たせることになった。七〇年代までは核戦争反対ということでは一致していたが、現実に核戦争がすぐ起こるということは考えられなかった。ところが、八○年代になってから、現実にヨーロッパでは自分たちのところで核戦争が起こる可能性が大きく出てきたことが出発点だ。

 日本の場合は、そういう考え方に立って自分自身が運動しなければならないというよりも、被爆国日本という発想があまりにも強すぎた。七〇年代から八○年代にかけてプロックやその他多くの人から、日本が核基地となっている危険性、核持ちこみは過去も現在もあるという指摘が何回もあったけれども、現実の危機感にはならなかった。

 さきほどから言われているように、被爆国日本、日本のビキニの役割だけで問題が済ませてきたのではないか。日本の場合は八・六とか三・一の行事をいかにこなすか、時期がくるからやらなければという、運動が行事化していた点があったと思う。もう一つ、原水禁運動にしても他の運動にしても、ほとんど政党ごとに組織がつくられている。そうして上からの動員方式、大きく言ってこの三つが日本の運動の欠陥だと思う。

 八二年の国連にいく運動にしても、まさに縦割りであり、行事の一つであった。人はたくさん集めるけれども、一人ひとりの意志がどれだけ核戦争の危機をとらえ、それを行動し横にひろげる運動であったか、われわれに責任があるわけだが、弱かったことを認めざるをえない。三月、五月、十月と、一〇万人、二〇万人、三〇万人規模の集会が三つも八二年におこなわれたが、外国の人から見ると、ちょうど「縁日のような感じだ」という批判があった。その点は、一人ひとりの自覚、創意工夫、あるいは地域の自主性などが、総合的に運動を発展させる前提なのだという運動の思考方法がなかった、たりなかったという反省につながらなければならないと思う。政党の介入とか、さまざまな欠陥が生ずるのは、こういう基本的な視点が弱かったところに、要因があるのではないのか。

 

 松江 さっき話にでた縦の運動を横にするという問題は、塊りだから縦で動くので、横につらねるためには、上からの塊りでなく、自立が前提にならなければ、連帯は出てこない。では、日本にはなかったのかというと、戦後初期の反戦運動にはあった。そうしなければ、上からのお仕着せだけでは運動はおきなかった。今日の運動の状況を打破するには、新たな次元からもう一回現状をつき破りながら、既存の運動を敵対視するのではなく、その運動に参加している人びとも含めて、本当に自立的なものを基礎にした横の運動にしていく問題と、牟礼さんもいわれた、危機があるのになぜ危機感が出てこないのかという問題とは、関係あるのではないのか。大韓航空機事件ひとつとってみても、現実にアジアでの戦争の危機は、ある意味ではヨーロッパ以上にきびしいものがあると思う。たしかにそれが、ヨーロッパのように公然と姿を現わしていないということもあるが、それにしてもみんなうすうすは感じているわけだ。そこからなぜか危機感が出てこないのは、縦の運動を横の運動に切りかえる問題と別のものではないという気がする。

 

地域からの運動の結びつきへ

 

 吉田 ぶつかっている問題は、過去を考えた場合、初期の運動は生活の運動であり、自立的な運動であった。政党はどちらかといえば、激励するというか、そういう性格を帯びていた。一九五〇年代から講和後の運動にしても、学者が全面講和を唱えればそれを下から支え、激励するという……。そこへもう一度もどすには、いろいろな障害があるのもたしかだ。そのためには遠回りのようだが、どうしても自立的な草の根的なものが、育たないかぎりできない。

 そういう転換が、今年あたりから本格的に目に見えるような形で、出てくるような気がする。たとえば三宅島にしても、逗子にしても、緑があれだけがんばっていることは注目に価する。四千人の島が、ともかく札たばで頬をたたかれてもびくとも動かないという運動は、サミットを前にしてワインバーガーも気にしないわけにはいかない。逗子で米軍宿舎反対に投票した人は一万八千人。まさに自立的な、生活に密着した、八○年代の運動の象徴だと思う。

 それと状勢で考えると、レーガンになってからの軍拡競争の政策は、核戦争を限定し管理して勝利することが可能だと、はっきり言いだしていた。しかもそれを持久核戦争体制まで持っていく。これはSDIまでつながる問題だが、実際上勝利することが可能かどうかについては、レーガン自身も世論に負けて、核戦争になればどっちもだめになるといわざるをえなくなっている。そういう意味で、根本的な核軍拡競争の転換を、どこまでも迫らなければならないところにきている。考え方も変えなければならないところにきている。その点の転換ができれば国際政治にも国内政治にも相当な圧力をかけ、変えることができるのではないか。

大衆運動自体からすれば、縦型の運動をいくら組み立てても成功しない局面が露呈しているのが、この一、二年だと思う。縦型の運動をやっている人のなかでも、運動の組み方を変えなければという反省が、出てくるのではないかと期待している。

 

 牟礼 それはいい面であり、結構なことだ。三宅島にしても逗子にしても、平和の問題と生活の問題が結びついて→体化しているところに、非常な強さがある。ところが沖縄の場合などを見ると、いままで、そういう悪い面のなかったところに中央の状勢がストレートに持ちこまれる。今度軍用地の強制収用が二〇年延長される問題でも、中央と同じように政党と労働組合の関係でなかなか統一した県民運動に持っていくことができないでいる。先日もちょっと行ってきたが、第二回の収用委員会は統一した行動がとられているのに、それが大きな形で発展していない。これはなぜかというと、中央の政党あるいは労働運動の問題がストレートに現場に持ちこまれているからだ。八三年、八四年、八五年の原水禁世界大会で露呈した欠陥が、地方にまで大きく影響するという問題が現実に出ている。たとえば労働戦線の統一問題や、政党間の政権構想問題が原水禁運動にももちこまれてくる。原水禁運動になぜこういう問題がもちこまれるのか。

 

 吉田 その通りだ。逗子ではこの問題にある程度解答が出ているがね。

 

 牟礼 そうなんだ。逗子でも三宅島でも、政党が政治的に介入して、そのなかでどうするこうするはさせない、ということになっている。しかし、労働組合にしても政党にしても、それを支えていく、支持していく、それに協力していくというシステムができていないと思う。逗子の場合、学者文化人も熱心で、それで市民、学者文化人、労働組合という、ちょうど五〇年代初期のような組み方ができている。

 

 松江 五〇年代のビキニ運動は、牟礼さんも言うように、政党からではなく市民の問から起きた。組織だって後からできた。あれは地方から起きた運動だ。杉並だって地方なんだ、東京の。ところが割れる時は、政党から、組織から、中央から割れている。割れる時に一番はっきりそういう形が出てくるというのは、日本の政党の衰弱とともに、代行主義がある。協力してどう運動を発展させていくかというより、できたものを取りこまないと気がすまない。その最たるものは共産党だと思うのだが、この悪いくせは社会党にもうつっていった。

 広島でも海田湾埋め立て反対の市民の長期にわたる運動がある。自然と生活が結びついた運動で、政党がはいらない間は運動は発展したが、政党が介入するとだめになる。運動が発展してくると代行的に取りこまれ、挙句のはては政党的な分岐が住民運動の分岐をつくっていくという旧来のパターンになっていく。吉田さんがいうように、これは何とかしなければいかんという状況が生まれつつあるのではないか。

 

 吉田 六〇年代の経験をへているし、七〇年代の経験もへているので、その経験からいうと、たとえば社会主義国のなかの対立からも平和運動はもろに影響を受けている。それがどういう対立であろうと、民主的に自立的にやっていくというのがベトナム反戦運動からの経験だ。アメリカの運動なども、まさにやらざるをえなくなって議会に圧力をかけている。ヨーロッパの運動はそういう経験をしているから、ブロック反対という形で反核運動が出てきている。日本の場合もそれらの経験がどう生かされるか、というところにきている。

 

 牟礼 その点では、運動に対する本質的な一人ひとりの自覚あるいは自主的な創意、工夫がもっと強まらなければだめだ。

 たとえば仙台の西宮弘さんの運動。西宮さんは市内で毎日一時聞、反核・平和・軍縮の辻説法をつづけている。また宇都宮徳馬さんも『軍縮』を毎月発行しているし、学者のなかにも『現代の軍縮』などさまざまな論陣をはっている人たちがいる。

 このような運動がどんどん全国にひろがり、それらの運動が全国的なネットワークをもっていけば、政党の介入にも対応していける。そうでないと、政党や団体とは一線を画しておかなければというような問題がつねに生じてくる。

 このような地域の自主的な運動が、国際的な運動と交流し、共同の行動を発展させられるかだ。今までの世界大会の外国代表にしても、半分以上は政党系列で呼ぶか、団体.で呼ぶか、金を出して来てもらうかだった。運動をやっている同士が本当の共感をえられるような国際代表でなければならない。

 

 吉田 草の根の運動は、西宮さんの会へ行って見ると、よくわかる。人びとは自分の反戦の思いで集まっている。宮城県の副知事をやり、社会党の国会議員を三期やった西宮さんは官僚組織のこともよく知っている。社会党の運動や県評の内情もよく知っている。その彼の結論は、草の根の運動から変えるしかないということである。一人でチラシをつくり、辻説法をやっている。この正月、西宮さんのところでひらかれた会には、八○名参加していた。その三分の一は西宮さんの知っている人、三分の二はチラシに誘われた人だった。若い人も多かったが、みんな問題意識を持ち、非常に活発な議論をやっていた。

 また、私は自立的な平和運動の草の根を発展させなければということで、全国あんぎゃをやっているが、その一つとして名古屋のカトリヅク教会の労働者の話しあいに出たことがある。ほとんどがトヨタの下請けで働いている人たちだが、夜の九時から集まって家族ぐるみ、たのしい話し合いをもっていた。そしてこの人たちは日曜日には"普通の人が普通のことを考える平和のつどい"というのを手づくりでやっている。核の問題、平和の問題もあれは、フィリピンのことを考えてみようとか、自分たちの労働条件の悪さについてイタリアやスペインからの出稼ぎの人たちをふくめて、クタクタになりながら、自分たちのおかれている状況を変え、平和をつくりだす仕事を手づくりでつくりだそうとしている。

 

「自立と連帯」で広がる運動の輪を

 

 松江 若い入たちの運動は、相互に不干渉、不介入でありながら、いっしょにやれるところはやっていこうということで、ベタッとした一枚岩的なものではない。そういう運動がそだちつつあるし、これから大いにでてくるのではないだろうか。だいたい、本当の統一というのは、それぞれに相違があるから行動の統一だよね。その辺をはっきりさせられずにいたところから、ベタッとした一体でなくなると、すぐ敵だということになっていた。そういう思考とはなれて、それぞれが自立的な運動ではあるが連帯して横の運動をつくっていこうという、日本の歴史的な運動を前向きに克服していくひとつの試金石が実は反核運動のなかに端的にでていると思う。

 

吉田 私はそれを「自立と連帯」と表現するのがいいと考えている。それぞれに意見の相違はあるわけだから、ひとつにしばるのではなく、あるがままに重層的に、それぞれのイニシアチブを認めあい、激励しあっていくことだと思う。

 先日の"核兵器廃絶運動連帯"のつどいの席で、茨城の石野久男さんが、反原発を核兵器廃絶と一体と考えているが、ここではどのようにとらえているのかと提起した。これに対して伏見康治さんたちは、原子力はいいものに利用すればいい、悪いものに使うからいけないとの立場にある。双方の間には核兵器廃絶といっても違いがあり、入口に原発反対という門枠をつくってしまったら、そこから引き返してしまう人も当然でてくる。双方が、その相違を理解しあって論議をすすめることは、当然といえば当然だが、話合いの場、連帯の場のあり方にふさわしいものだった。

 安保の問題でも同様だ。逗子の緑の人たちは自分の運動をやればやるほど、政府の側は安保を切り札にだしてくるおけだから、それにぶつからざるをえなくなり、安保っていったいなんだということになってくる。それをわきから眺めていて、緑には安保という入口がないからだ

めだという人たちもいる。

 根底に安保反対、自衛隊反対がないから、あの反核署名はだめだ、質の低いものだというのではどうしようもない。入口にその、門枠をつくってしまって統一を求めるとしたら、運動は無限にせまくなるし、統一自体の中身そのものがなくなるわけだ。率直に言って、私たちは、それをくりかえしてきた。いま、三宅島でも逗子でもその問題をかかえている。しかし実際にやっている人はそれを切りぬけていかなければならないところにもあるわけだ。

 

 牟礼 それは五〇年代の運動が多様な基盤のうえにあったということと関連する。平和運動とは自衛隊のことであり、安保は福祉や教育の問題とつねに結びついていた。たとえば防衛費のGNP%問題をとっても福祉や教育予算に直結している。軍事大国化への道には必然として天皇制の問題もでてくる。それこそクモの糸じゃないけどからみあって、ひとつの社会、ひとつの世界があるわけだから、運動もさまざまに展開されて当然だ。それも互いに認めあうのが前提で、しかもそれぞれが自主的にやっているのだから、双互にその中身への干渉はあってはならない。

 最近、共産党は非核政府をつくろうと訴えているが、安保の容認、自衛隊を認める人はだめだと言うのでは非核政府構想は生まれてこない。あれはだめ、これはだめと言うのではなく、反核で一致するすべての人びとを大きく結集することが大切だ。つねに自分だけのものさしで、個人や団体を排除の対象にしていては非核政府なんてできっこない。天皇や靖国問題などさまざまなことがらが平和と民主主義にひろくかかわるわけだから。この座談会でも求められている運動の中身ということについて、議論すべきは議論し、いっしょにできることについては統一していくという運動の原則は大事に.していきたい。とくに護憲連合にかかわる私たちにしたら、反核、軍縮の究極は軍備を廃絶することによる平和、となる。核兵器をなくすことによる平和―軍縮による平和−を保障する国際的な秩序、国際的な民主主義をどうつくりあげていくのかが、世界の人民の共通の課題だろう。

 

 松江 政策論的にも運動論的にも、一枚岩主義というのは政党による危機感の代行主義的な請け負いと深くかかわっているんじゃなかろうか。ぼくも広島でコシアンではなくツブアンの運動をつくろうやと言っているが、どうも年齢のせいもあってコシアンに馴れているものだからそれがちょくちょく出てくる。ところが若い人たちは、それぞれがツブであることを前提にしている。手をにぎりあえたからといって、自分のものをすてはしない。

 このことがぼくには前途を明るくしている。極端な言い方になるが、今日の事態は、発端がどこにあろうが、すべて反核・平和に至るような状況におかれている。逗子の運動は、その意味では緑から基地に至るというひとつの新しい形だと思う。また失業や賃金も反核・反戦に至る。思い切った内容、多元的な運動があっていい。そこに統一もはじめて生きてくる。

 

 牟礼 国際平和年にあたっての国連の提起でも内容は実にバラエティに富んでいる。これだけ内容が多岐にわたると、お互いにそれぞれの運動を認めあわなければやっていけない。これは国際社会ではあたりまえのことでもあるわけだ。

 

 吉田 国際平和年の運動にしても開発、人権、教育なども核兵器禁止の問題と不可分に結びつく必然性が出てきている。

 

 牟礼 七八年の国連軍縮特別総会の合意文書にもさまざまなものがはいっている。それをつみ重ねていけば必然的に軍縮へ至り、軍備に依存しない平和というストーリーが出来上がることになっている。

 

今後の運動を展望して

 

 松江 日本の運動の自立性の弱さということでは、ヨーロッパで感じたことがある。乳母車をおしながら"人間の鎖"に参加している人たち。そこでまた、西欧志向になるというだけではすまないという問題が出てくるわけだが……。日本の場合、アジア・太平洋地域の民衆との連帯を歴史的にどうつくりあげられるかのなかで、自立を追求していかなければならないし、それが日本の運動の自立ということにもなるのではなかろうか。

 あのビキニのときの運動は官民一体だったものね。今日の事態での運動が官民一体でごまかされてはどうしようもない。その意味で個々の運動の自立と連帯は同時に日本の運動の自立と連帯でもある。それがあってはじめて国際連帯の展望もでるわけで、日本の運動は重要な転換期でもある。

 

 吉田 一〇年前のベトナム戦争とは異なった、発展した意味でのフィリピンを見たわけだ。日本がマルコスを助けてきたことが、同時にどれだけ同国の腐敗、権力の維持にかかわっていたのかは、フィリピソで運動をしていた人たちから指摘されてきたことでもある。これは第三世界の民衆と日本とのよりよいかかわり方を求めるには、民衆の運動が日本政府をチェックする以外にないことを示しているし、われわれの運動の側の大きな責任問題でもある。

 

牟礼 七〇年代から八○年代にかけて、日本にはそれなりの運動はあるが、停滞と考えていい。私は五〇年代から運動にかかわってきたが、今日ほど大衆運動がないことはなかった。

 

 吉田 たとえば今回のレーガンのリビア爆撃に対しても抗議行動が起こっていない。

 

 牟礼 そうなんだ。たとえば三宅島でも逗子でも運動はあるが、それを政治的に結集した効果的な大衆行動がくまれていない。このことについて中央の指導部はもっと反省しなければならない。私自身の反省ということもふくめて、中央のものの考え方――中曽根内閣成立以後どうのこうのではなくて、これをもたらしたものがなんであったのかについて、もっと深刻に考えなければならない。経済大国主義国・日本自体が中曽根的なものを容認しているわけなのだから。中曽根流の「自由主義陣営における日本の国際的責任と役割」、とくに最近の円高傾向などにまきこまれて、語弊があるかもしれないが、半分企業といっしょのような労働者、労働組合が出現している社会状況についても大いに議論されなければならないし、それにどう対応していくかもオープンに論議されていかないと、日本の反戦平和運動、反核軍縮運動の進展も期待できない。

 

 吉田 そこで、こんど"草の根のつどい"をやるについて、意見がよせられているのは、九月十八日=十五年戦争の勃発の日を草の根平和運動の原点とすべし、ということ。ヒロシマ・ナガサキの被爆もたいせつだが、それは九・一八からの八・六、八・九、八・一五であって、きのうからきょう、きょうからあしたへ、たいした変わりはないんじゃないか、まさかそこまで行きはしないだろう、の結末であったということ。

 今日の状勢もまさに同じで、実際にはSDI への参加も民間協力優先で進展している。むかしのように軍服をつけた軍国主義・帝国主義ではなく、日立の労働者と自衛隊員は姿を見ただけでは区別できない。それだけに根っ子のところをおさえないでいると、こっちの身動きができなくなってしまう。まだ間にあうだろうが楽観はできない。日本の軍国化がすすむ一方で第三世界の貧困の問題は解決していない。貧困からの解放、平等化は必然性をもっているのだから、第三世界の民衆はだまっていない。その反撃をうけてから気がついたのではおそい。

 また最近、皇太子の訪韓、さらには中国など社会主義国への訪問が国家間のこととしてすすんでいるが、民衆同士がしっかり手をつないでおかないと、逆に民衆同士が反目しあうことにさえなりかねない。

 

 松江 日本の場合、政府もそうだが、われわれの側にも、自立といっても、変わるのに、内からより外からの刺激が大きな要因となることが多い。それを拒否するわけじゃないが……。

 

 吉田 世界もせまくなっているのだから、それはそれでいいと思う面もある。要するにベルリンに壁をつくっても鳥たちに国境はないわけだし、平和運動も同じだ。互いに学びあい、協力と連帯だ。

 

 松江 すでに言われているが、反戦平和の運動にかぎらず、労働運動の重さがもろにひびいているね。「職場から、職場から」と、縦からだけでなく、横からも見て、たとえば地域の反核運動のなかに労働者も.参加していくというようにならなければね。日本ぐらい労働組合の中に労働者が囲い込まれるというか、枠をはめられて平和運動に参加したり、動員されるのはよそにはない。

それぞれに苦労しながら、ある場合には組合の弾圧をくぐってやっている。その意味では困難ではあるが、いまからやっとほんものの運動が始まるわけだ。

 

 牟礼 私たちにとっていい経験だったのは靖国問題だ。護憲連合としては一貫して反対してきたわけだ。靖国参拝が、中曽根流に言うと、「国民感情であり、なぜ悪い」ということになる。われわれの国内の運動が弱くて、中曽根の靖国参拝をやめさせることはできなかったが、問題が表面化するとアジアの人民がだまっていないということを知るべきだ。日本国内だけでなく、国際的次元でつねにものを見、聞き、とらえていかなければならない時代になっている。

 反核軍縮の運動にしても、もっとも共通性、連帯性のある運動だ。したがって、こまかいことにこだわらず、もっと自由に議論しあっていくことによって、いまの運動はいろいろと欠陥もあるけど、大きくなっていく可能性に期待している。それが人類の生きていく方向でもあるわけだから、これはなにがなんでもやりとげなければならない課題でもあるわけだ。

 

 吉田 その意味で、ことしの八月に向けて、あるいは八月は、どれだけ大きく現状にあった転換をしていけるかが問われている。

 

 松江 それと、お互いにかかわっている運動が、なんらかの形で連帯していける雰囲気をつくること。去年広島でわれわれのやった集会と平和事務所が東京でやった草の根のつどいでも連帯の交歓ができていかなければ……。

 

 牟礼 七七年から八三年まで、それなりにいっしょにやってきた原水禁の世界大会が、なぜうまくいかなかったかと言えば、中央の団体間の一日共闘みたいなものだからだ。各県、地域での共闘がないからだ。まず地域での共闘を定着させること。それができてくれば中央の団体間ですこしくらいの問題が起きてもどうってことないし、第一にそれを無視して中央の団体が勝手に動くことはでぎなくなる。ところが現在は、砂上の楼閣どころか、なんにもないところでの統一であったことをそれぞれが反省すべきだ。

 

 松江 広島からの批判は、東京の机のうえでつくって、それを現地にもってきて、一荒れ吹いたあとは砂漠になってしまうということ。

 

牟礼 集会の宣言やアピールがたくさん出たところで、それはそれぞれの団体の勝手な選択課題であって、それをいっしょにやろうというわけにならない、その場だけのものになっていた。

 統一大会は大事ではあるが、真の統一でもないし、力にもならない。

 

 吉田 それをすこしずつでもと考えている人たちがたくさんいるわけだから、ことしはすこしでもその方向へ行くことを期待している。

 

 牟礼 おととし、きょねんあたりから、その芽はそだってきている。それの全国的ネットワークもつくろうとの気運もでてきているから、平和事務所にも期待している。

 

 吉田 平和事務所がいままでつづいているのも、ある人たちにしたら奇妙なものかもしれなが、みんなが発言し、参加するなかで持続していく。


八・五反戦反核集会ヒロシマからの提起

核文明に対抗する人間宣言に向けて

一、チェルノブイリとヒロシマ

チェルノブイリの事故は広島に新しい衝撃を与えた。それは、髪の毛が完全に抜け落ちたチェルノブイリの被爆者をテレビで見た瞬間、「いままたヒロシマが!」と、背すじを走った戦傑であり、幾千キロもの距離をいっきょに越えて結び合った共通の感情でもあった。

それが原爆投下直後の熱線による巨大な破壊−業火とは違って音もなく静かに地を這う放射能の流れであるだけに、ヒロシマ以上の影響があると聞かされても容易には信じ難いほどであった。

もしチェルノブイリが遠い世界のことのようにしか思えなかったとすれば、それはチェルノブイリが遠いからではなく、四〇年来のヒロシマの苦しみが広島の私たちからも遠くなっていたからではないか。「まどえ、かえせ」という被害者のふかいためいきのような声を私たちの耳がきき分けることができなかったのだ。

二、現代の核危機はいま

この事故のもつ音心味は、原爆と原発がけっして別のものではないことを知らせてくれただけではなかった。

「チェルノブイリ」は私たちに教えている。現代の核危機はヒロシマのように、何時かある時ある所での爆発的な破局としてだけでなく、昨日と同じ今日、明日の生活の日常のなかに、徐々に、ゆっくりと、その破局が準備されていることを。そうしてまた、放射能に国境がな

いことも。

いまレーガンの核戦略に日本をしばりつける中曽根政府のもとで、横須賀、佐世保には一年に二百数十回も核疑惑の米艦船が寄港し、上瀬谷、依佐美などの通信・情報基地からはペンタゴンの指令が日々近海深く潜行する原潜に送られ、沖縄、岩国などの基地からは核装備のととのった爆撃機が飛びたつ準備が行われている。

そのうえ、陸海空自衛隊をそのまま米軍に統合した日米核安保はいま韓国の全斗燥とむすび、極東における日・米・韓の軍事一体化は急速にすすんでいる。北の海と朝鮮半島にいつ危機が爆発しても不思議でない緊張が目にみえない所で毎日毎日つづいている。

私たちは改めて、あたりまえのようにすごしている日常を見つめ直し、とらえ返し、一つ一つの核と闘わなくてはならない。

三、タテの運動とヨコの運動を

非核自治体宣言の運動は、反核・非核運動の新しい領域を獲得した。それは住民が誰でも参加できる非核運動の第一歩である。しかし、すでに全国で九五〇をこえた非核自治体のほとんどは、宣言を出させるまでの広い帯のような住民の運動が解かれ、安堵感とともに運動の空白が生まれていないだろうか。

私たちは非核宣言の内実を点検し、空と港、工場と学園から一切の核を追及追放しなければならぬ。そうして日本の全土を一区画ずつ再点検、再調査し、核とのどんな小さな関わりも許さぬ非核の網でおおいつくさなくてはならぬ。

こうしたヨコの運動とタテの運動――反トマ、反基地、反原発の運動がかたく組み合わされるとき、諸運動はその独自の性格をいっそう強めつつその同質の根拠を共有することができるだろう。なにより重要なことは、核まみれの日本のなかに非核の陣地を作るための反核運動の共同戦線をタテとヨコの両面から追求することである。

四、非核の思想と反核の闘い

そのためにも必要なのは、巨大な科学技術の体系の上に居座って人間を見下し、目にみえぬ管理と支配を通じて浸透する「核」の思想と正面から対抗する、非核の思想である。それは「核」と人聞が共存でぎないことを改めて確認しつつ、核廃絶のもとでのみ実現できる平和で人間的な共同社会をめざす思想である。

かつて広島の栗原貞子は、原爆で傷ついた人間の呻きに満ちた地獄の地下室で、死んでいく人々の協力によって産み落された新しい生を「生ましめんかな」とうたい、峠三吉は原爆で引き裂かれた痛みに喘ぎながら「私につながる人間を返せ」とうたい込んだ。これこそは非核の思想の原点ではなかったか。その意味で、非核の思想とは現代の核文明に対抗する人間の思想である。それは四十一年前ヒロシマの地獄から生まれたが、いまでは核時代に生きる人間の思想として多くの人々をとらえ℃いる。いまは少数でも近い将来にはきっと多数の、そうして人間らしく生きようとするすべての人々の思想となるだろう。それは反核の闘いを導き、反核の闘いは非核の思想をますます拡げるであろう。

五、非核国際連帯の発展のために

反核の闘いは一国だけでは成就できない。現代の戦争は前線と銃後、戦闘員と非戦闘員を区別しないだけでなく、戦時と平時の区別をなくさせ、一切の国境を否定する。核兵器はその所有者と意図の相違を趣えて人類絶滅の兇器となり、攻撃と防御を憎悪と報復に変える。

反核の闘いも非核の陣地も、国境を越えた統一行動と国際連帯によってこそ実現される。いまこそすべての核を包囲するため「人間の鎖」を大洋から大陸まではりめぐらさなくてはならない。そのとき私たちにとってアジア・太平洋の民衆と連帯することは非核国際連帯の最も身近な第一歩である。

しかしそこはすでに早くから米日極東核戦略の基地とされ、核の実験と廃棄の墓場にされていた。ここでは反核の闘いは民族自決の闘いと固く結び合わされている。何故ならば核の支配は民族の自由を奪い取るからである。

かってこれらの地を奪い、いままたアメリヵ帝国主義のパートナーとして極東、核基地を共有している日本の私たちにとっての非核国際連帯とは、闘うアジア・太平洋の民衆と連帯しつつ日本政府とのきびしい闘いを自らに課することでなくてはならない。

六、今後の運動の展望のもとに

いまきびしい情勢のもとで日本の反核運動は新しい画期を迎えている。歴史的な原水禁運動を長期にわたってになってきた巳本原水協と原水禁国民会議は、とりわけ日本共産党の独善的な本流意識とセクト主義によってその提携を断った。

他方では核兵器廃絶運動連帯、反核千人委員会などの新たな全国運動も生まれ、全国各地で運動を続けている自立的で多様な草の根運動と合わせて、いま日本の反核運動は新たな運動の創造と統一をめざして転換期にある。

この背景にはすでに早くからすすめられていた労働戦線の再編成問題がある。近く予定されている全民労協の労連(ナショナル・センター)への移行にともない、とくに終始総評が重要な支柱となってきた原水禁運動なかでも原水禁.国民会議は、新たな選択を迫られるだろう。いま始まっている模索もこうした情勢を見すえながら動いている。

しかしこの運動には主流も支流もない。必要なことは、それぞれの多様な運動がいっそう独自な追求をつづけながら共通の課題のもとでともに闘う行動の統一であり、自立を前提とした広く深い連帯である。私たちはこの転換期にあって新しい情勢と動向を見定めつつ、きびしい核状況と対峙して闘う全国各地の諸運動、また各分野の諸運動と連帯して下からの統一運動の強力なバネとならなければならぬ。

そのためにも重要なことはいっそう多くの労働者、労働組合に呼びかけ、市民運動と労働運動の結び合いによる新しい型の反核運動を追求するなど、運動の新たな展望をきりひらくことである。

七、新ヒロシマ宣言をめざして

いまから三十六年前の今日――八月五日、私たちは朝鮮戦争下最初の八・六闘争を、二重権力の弾圧と数千名の機動隊による厳戒のなかで貼準備していた。この闘いをになったのは広島を中心とした日本人青年労働者達と中国地現から結集した朝鮮人活動家達であった。

それから五年目の今日――八月五日、私たちは明日に迫る初めての原水爆禁止世界大会の準備に忙殺されていた。「ビキニ」以来の爆発的な反原爆国民運動は世界と全国から集まった数千名の代表者達に新しい運動の針路を託し、被爆者ははじめて「生きていてよかった」と訴えた。しかしこの大会では朝鮮人被爆者のことは一言も語られなかった。

私たちは、かつてヒロシマが世界最初の核の被害者だと思いこんでいた。しかしいま私たちは知っている。アメリカやオーストラリアの先住者達がウラン採鉱の最初の被害者であったことを。そうして日本の原水禁運動が始まる端緒であったビキニ実験ではその直下に人々が住んでいたことを。そうしてまたアメリカをはじめとした各国の工場と実験場で多くの人々が傷ついていることを。さらにまたスリーマイルとチェルノブイリの今後の核の被害者のことを。

いま広島はヒロシマであってヒロシマではない。ヒロシマはいまなお、ここ広島で、南太平洋で、チェルノブイリでつづいている。私たちは地球からヒロシマを終わらせるために闘いつづけている。そのために、四十一年前のヒロシマではなく、反核を闘いつづけ非核をかちとるための、いまのヒロシマの宣言として旨本と世界の人々に呼びかけることを提起する。

明年のこの集会を期して、ここに集ったすべての人々とすべての運動の展望と針路を「新ヒロシマ宣言」に結実させよう。それは核時代における最初の人間宣言となるだろう。


特集 核文明に抗して反核・反戦を

自立と連合への再出発を

―原水禁運動の歴史に学んで―

 

松江

労働運動研究 198610

 

戦後40年の闘いから

 

  すでに戦後四〇年たった。この間、反核反戦運動はさまざまな曲折をへて、いま重大な関頭に立っている。

  戦後日本の反戦平和運動は、世界平和運動が情勢の変化と発展にもとつく新しい質と広さをもつようになったことが理解されず、占領下著しく出発が立ち遅れ、反核運動も一九五〇年前後になってようやく開始された。日本で最初に核兵器禁止を大衆集会で要求決議したのは四九月十月二日(国際反戦デー)にひらかれたた平和擁護広島大会であった。ひきつづき五〇年には核兵器禁止を世界に訴えるストックホルム・アピールの署名運動が日本でも広く組織されて六四五万に及び(世界で五億)、朝鮮戦争下では弾圧に抗して反戦反核集会や武器輪送に反対する闘争が闘われた。

  こうした闘いの流れは講和後、各地で大衆的な反基地闘争として発展した。なかでも五三年の内灘米軍試射場反対闘争、砂川の立川墓地拡張反対闘争は、もっとも大衆的で戦闘的な反戦闘争として、折から「プライス勧告」に反対して立ち上った沖縄の米軍基地反対闘争とともに、五〇年代反戦闘争の頂点を形成した。しかしこうした戦後初期の反核・反基地・反戦の闘いは、五四年「ビキニ」から始まる爆発的な反原爆運動の大衆的な高揚の大波に呑まれて、次第に影をひそめることになった。  その後、六〇年代後半から七〇年代初期にかけて、国際的な運動の高揚と呼応してベトナム反戦運動、米原子力空母エソタプライズ佐世保寄港阻止闘争、沖縄闘争などが急速に発展し、戦後二度目の大衆的な反戦反核闘争が激しくたたかわれた。その主体は対立する各急進派セクトを中心とした学生部隊と戦闘的な労働者部隊に加えて、社・共・総評による動員部隊であった。だがこうした闘いも七〇年闘争の終焉とともに後退し、再び数十万の反核大衆集会が組織されるのは八○年代ヨーロッパ反核運動を媒介に、総評が呼びかけたとぎだった。

  一方、五四年以来の原水禁運動は、当初から官民一体の国民運動として左から右までの幅広い大衆が奔流のように全国を浸したが、六〇年安保闘争を前に右から分裂し、つづいて六三年日本共産党による体制論の持込みにより「いかなる」をめぐって「左」から分裂し、以来「原水協」「原水禁」という二大潮流に分.岐して今日に至っている。それを主.要に支えてきたのはそれぞれ日本共産党と総評であった。

  他方、六三年の分岐とともに運動の戦列を離れた婦人、青年などの既存の市民諸団体は七七年からの統一世界大会に参加することで再び戦列に復帰したが、その世界大会が今年再び破産することによって二大潮流とは別に第三の潮流として登場した。

  こうした日本における反核反戦運動の歴史は、われわれに重要な教訓を教えている。その第一は、初期のきわめて具体的で戦闘的な、そうして時として数千数万の労働者を組織する反戦反基地闘争が「ビキニ」反原爆運動のような大衆的で包括的な運動と併存提携しながら独自に癸展するのでなく、国民的な原水禁運動に埋没させられ、ひきつづく怒濤のような六〇年安保闘争の大潮流に押し流されてしまったことである。その後、七〇年闘争に向って再び激発するが、それは反核平和の運動というよりも政治的な反戦闘争というべきであろう。結局、時として激発する反戦闘争はしぼしば高揚したとはいいながら、反核反戦を独自に追求する運動がいつしか大運動、大組織に統合、併呑されてその自立性を失ってきたことは日本の運動に特殊な性格を刻印している。

  したがって第二の教訓として重要なことは、こうした大組織への統合によって具体的な問題意識と運動課題が次第に抽象化されることである。情勢の変化と緩急の要求する運動課題の変化と運動形態の多様性にもかかわらず、原水禁運動の課題と運動は十年一日の如くほとんど不変であり、年中行事のようになっている。それは単なる惰性というだけでなく、方針を異にする諸組織・諸政党がそれぞれ独自の方針で闘いながら行動を統一するのではなく、大団体に統合されるなかで内部の指導権を争う結果、その行動は常に許容される最大公約数の課題に集約される。そこには主体を前提とした連帯、独自の方針と活動を追求しながら共通課題での行動の統一だけが可能とする開かれた自由な行動は生れない。それは行動の統一を組織的な統合で代替する特殊日本的な運動の綾小化に外ならない。

  第三に、その大運動の主要な支柱は常に大労働組合あるいはそのナショナル・センターであり、地方にあっては県労、地区労である。そこでは労働者の参加する運動と市民の運動はほとんど交わらない。そのうえ労働者の参加する運動は、労働者一人ひとりが自主的に参加するというよりも労働者を組織している労働組合の参加による間接参加であり、組合員はその集会に参加することだけがほとんど唯一の反核平和の運動となる。結局、原水禁運動は労働組合あるいは政党の平和運動部となって市民の自立的参加を疎外しつつ、実は労働者階級の独自な反核反戦闘争を疑似市民的な運動で代行することになる。こうした運動と組織の状況はそれを支える労働組合や政党の力の度合に応じて運動の強弱と緩急がきめられることになる。

 

「チエルノブイリ」は何を教えたか

 

  ヨーロッパ反核運動に触発された八二年の広島ー東京ー大阪の連鎖的な反核大集会以後、日本の反核反戦運動は核情勢の緊張にもかかわらず労働組合運動の停滞を反映して再び後退しはじめた。この集会と運動のなかで芽ばえたと思われた自立と連帯の新しい契機もいつとなく土に埋もれようとした。

  こうした情勢のもとで運動の危機感をもつ活動家によって「トマホークの配備を許すな!全国運動」が組織され、各地の反トマ反基地活動をすすめつつ「ュニークな核チェック運動から非核自治体運動など大衆的な基盤の獲得へと運動を前進させた。

  また七〇年代後半の反公害運動から生まれ、その後きびしい資本と権力の弾圧のなかで運動をつづけてきた反原発運動は、中国地方の共同闘争による豊北から上関への勝利的な展望の獲得を拠点に新たな発展を追求しつつあった。その四月もおし迫った下旬、ヨーロッパからの第一報はソ連のヨーロッパ西南部で原発事故が起り、すでに放射能を含んだ雲は西流してヨーロヅパ北部を襲いつつあることを伝え、世界の耳目を聳動させた。やがて一日ごとに新しい情報が伝えられるなかで、人々は改めて重大な事態に直面していることを知った。

 こうしてチェルノブイリ原発事故は世界の人々と国際的な反核運動に、重大な影響を与えることになった。  一九四五年八月六日のヒロシマの「きのこ雲」が新しい核時代の始まりを告げる象徴であるとすれば、チェルノブイリの目に見えない放射能の雲は、現代における恐怖を国境を越えてまざまざと人類に開示する象徴であった。この事故のなかにはスリーマイル事故と合せて、戦後四〇年間のはげしい核開発競争と巨大な技術革新が陰画のようにはめこまれている。それは人類に改めて次のような重大な事実の確認を迫っている。

   その一つは、核のもたらす放射能の影響の巨大さである。ヒロシマの数百倍の放射能がヒロシマのように突然の爆発と巨大な炎ではなく、静かな日常の生活のなかに音もなくしのび込んできたのだ。ヒロシマの被害の大きな部分が瞬時のすさまじい爆発による死傷であったのに比べてチェルノブイリのそれは、いわば「純粋」な放射能の被害であるだけに底知れぬ恐ろしさを思わせた。それはいっきょに全ヨーロッパを襲って大きな影響を与えた。核と放射能

に国境はない。予想される「核の冬」を垣間見る思いである。

  そうして二つ目には改めて原爆と原発―核兵器の爆発と原子力発電所の事故が、種類は違っても全く同じ放射能による影響と被害を与えるということである。それが同じ核の利用の仕方の相違にすぎず、その素材はいつでも相互に転化できることが暴露されてはいたものの、チェルノブイリ事故はその被害が全く同じものであることを改めて事実で証明した。四〇年前、被爆後まもなく頭髪が抜け落ちた経験を持ちながら生きながらえた広島の人々が、モスクワの病床にあるチェルノブイリ被害者の頭を見た瞬間、思わずゾヅとしていまわしいあの"" を思い出したのであった。

  さらに最も重要なことは現代における核危機が、ヒロシマのようにある日ある所を突然襲う爆発的な破局としてだけでなく、昨日と少しも変らぬ今日の生活のなかに、徐々に、ゆっくりと破局が準備されていることである。しかしそれはチェルノブイリだけのことではない。

  「チェルノブイリ」が人類に与えた予兆は世界の反核運動の新たな視野を拡げ、人々に核危機の警鐘を乱打しつつ運動の新しい対応を迫っている。その意味で、ヒロシマ以後がヒロシマ以前と区別されるように、チェルノブイリ以後はチェルノブイリ以前と区別される核時代の新しい画期をつくり出した。

 

核艦船同時寄港の意味するもの

 

  そうした新しい状況のなかで八月二十四日、ニュージャージーをはじめ米核艦船による佐世保・横須賀・呉の旧軍港同時寄港は日本をめぐる核状況の新たな緊迫を告げている。

  すでに米・仏により五〇発を超える原爆・水爆を実験のために投下されて深刻な被害を受けている太平洋諸島の人々はひきつづき米極東核戦略の基地を押しつけられ、いままた日本を含む核廃棄物の捨て場の犠牲にまでされようとしている。われわれは太平洋諸国人民の闘いを通じて核の支配体制が民族の自由を奪うことを知らされた。

  ここで反核非核を闘うことは民族の自由を奪い返す闘いとけっして別のものではない。一九八○年ベラウはアメリカの圧迫を人民投票でしりぞけて非核憲法を採択し、バヌアツは人民の闘いで独立をかちとった。同年同地の非核太平洋会議で採択された「非核太平洋憲章」はまた民族の自由をめざす闘いの宣言でもある。その後ニュージランドはついに日米安保に匹敵するANZUS条約からの事実上の離脱と引き替えに米核艦船寄港拒否をつらぬいた。フィリピンの「二月革命」と韓国民主革命をめざす闘いはますますアメリカ極東核戦略体制の基盤を揺がしている。

  いまアメリカが広い太平洋沿岸で頼りにできるのは、かつての敵でありながらいま「運命共同体」を誓う口本だけである。四〇年前にアジア・太平洋をはげしく奪い合った日米帝国主義はいま軍事同盟を結んで再びアジア・太平洋を今度は核の戦場にしようとしている。自衛隊の米軍への完全な統合のもとに核基地・核通信情報基地がつくられ、日々ペンタゴンの指令は近海を遊ざするアメリカ太平洋艦隊に送られ、いままたかつての日本海軍三大軍港に同時寄港を強行した。国際的な反核運動が再び高揚の兆を見せ、アジア・太平洋の非核をめざす解放運動が進めぼ進むほど、途上国への威嚇をその主要な目的のなかに秘めつつ日米両軍のいっそうの緊密化が進められる。

  三軍港同時寄港は明らかに海上自衛隊と米太平洋艦隊のかつてない共同軍事作戦の準備を意味している。

  それはまた中曽根による新国家主義と一連の軍事化、反動化政.策をすすめる自民党がともかく三〇〇議席を超えたことを重要な政治的支えとしている。それはまた日本人民の反核感情に制約されず、むしろ威嚇的に核慣れを強制することによって半ば公然と「非核三原則」を反古にするためでもある。そのため彼らははじめてヒロシマの隣地―呉港にあえて寄港し、大胆な「聖地」踏み込みを強行した。そこには労働運動の鎮静化と大衆運動の停滞を見定めたうえで進められた彼らの計算がある。

  かつて世界の平和運動のなかで独特の反核運動で際立っていたはずの日本がいま、アジア・太平洋諸国とヨーロッパの反核運動が発展しているのとは逆に、世界反核運動の弱い環になろうとしている事実をわれわれは直視しなければならない。滔々たる後退の流れをわれわれはいかにして塞き止めるべきか。いかにして新たな反撃に転ずべきか。

 

新たな展望をめざして

 

  いま労働戦線の再編成がすすみ新しいナショナル・セソターが生まれようとしている。かつて日本の労働組合運動をリードしてきた国労が分割・民営化攻撃で引き裂かれつつ悪戦苦闘し、行革攻撃によって官公労・公労協がかつての勢いを失った。

  産別以後、あれこれの批判はあったにせよ戦闘的な牽引力であった総評の前途が危ぶまれるとき、それはただ資本主義世界経済の危機を前にした資本の経済的対応というだけでなく、危機のいっそうの顕在化を恐れる支配階級の政治的階級的な制圧にほかならない。それはまた世界で一、二を争う経済構造の発展に比べ、アメリカの「核の傘」で代行してきた軍事構造とそれに見合う政治構造の弱さをいま補強するためのものでもある。総評を支柱とした諸運動は新たな選択を迫られている。

  今年の八・六をめぐる諸清勢はすでにそれを先取りした徴候が表われている。「禁」「協」による駆け引きという細い糸一本でつながれていた「統一」世界大会が破産し、新たに名乗りをあげた「核廃絶運動連帯」がかげから総評=同盟の旗をちらつかぜながら広い知識人の呼びか

けで登場して、一方の「世界大会」を代行し、ますます「本流」をもって任ずるセクト主義的な共産党の「世界大会」と競合している。また八○年代全国的に開花した草の根反核運動はそれぞれ自立的な追求で展望を模索しながらその寄るところを迷っている。こうしたなかで「反トマ運動」「反原発運動」など各地域の自立的な反核反戦組織が新たな連合をめざして共同闘争をすすめ、核艦船寄港闘争ではその先頭で闘った。

  いま、かつてのような大労働組合の主導による反核運動の時代は終った。労働組合が主軸となった三〇年来の運動は新たな運動にその席を譲るときがきた。その運動の担い手は各分野、各地域の自立的な反核反戦組織とその連合になるだろう。労働組合は上から運動に動員されるのではなく、下から組合員の自主的参加が組織されるだろう。

  われわれはいま、大組織による上からの動員の時代が終ったことを確認しつつ、下からの自主的な運動による連合と統一の時代を迎えなければならない。その場合何よりも、大衆との結合を前提にその方向を定め運動形態を選択しなければならない。問題は組織の大小ではなく、その運動のもつ質の大衆性にある。かつて経験したようなエリート代行主義とキヅパリ訣別し、たとえいまその量は少くともその質において新たなる大衆的な展望を獲得するものでなくてはなるまい。さらに重要なことは労働組合員の参加を下から組織することである。一人ひとりの組合員が自らの意志と行動でこの運動に加わることによって、労働者の参加は準備される。強い労働組合が弱い反核運動を上から牽引するのではなく、強い反戦反核の活動が職場を励まして強い労働組合を創るのだ。こうしたなかで生れる下からの労働運動と自立的な市民運動との結合による新しい型の運動こそやがて日本の反核運動をリードするに違いない。

  いま必要なことは、こうした独自な闘いを追求する課題別の運動や地域で組織された自立的な反核市民運動の共同闘争を軸に地域的な反核統一戦線をつくることである。核艦船寄港をめぐって新しい端緒が生れた非核自治体宣言運動の継続的な追求と再点検運動は新たな運動領域を拡げるに違いない。国のことばではなく、その自治体自らのことばで反核非核を主張するか否かは、国に支配される市町村の自治と自立をとり返す重要な試金石である。

  いま非核をめざして反核を闘うことは、すなわち人間の自由と独立をまもることであり、共同体の自治と民族の自由をとり返す闘いでもある。それは一つ一つの闘いによって裏づけられながら一つ一つの闘いを超えてそれをつつむ非核の思想によって鼓吹されなくてはならない。それは人間の回復と解放の思想であり、人類が生きるための思想でもある。

 キューリ夫人が今日の原子力の源となるラジウムを発見したのが前世紀末から今世紀初頭であった。すでにその二〇世紀も暮れようとしている。「ミネルバの梟は日暮れに飛ぶ」とすれば、いま非核の思想は人類と地球をおおいつくして飛翔するときではないか。


天皇訪沖反対闘争と連帯し反戦反核運動の再構築へ

 労働運動研究 19879月 No.215

 

 八月五日〜六日、被爆四二周年を迎えた原水禁大会にあわせて、今年も八七反戦反核実行委員会(代表・松江澄・桝谷逞)の呼びかけで、広島市みゆき会館で「ヒロシマを原点に反戦反核の大きなうねりをつくりだそう!」というスローガンの下に集会が開かれ、全国各地から三百名の活動家が会場を埋めた。

 集会はまず桝谷氏(電産中国地本)の開会挨拶に続き、松江澄氏(広島原水禁87広島集会

常任理事)の基調報告(@八・六ヒロシマの原点を再び問う、Aヒロシマはいま、Bたたかいの再構築のために)が行われた。

 この基調報告に対して、大阪の参加者から「平和運動に天皇制問題を持ちこむことは平和運動の変質をもたらしかねない重要な問題なので慎重にすべきだ。」という質問が出された。これにたいし松江氏から「天皇制に関して実行委でもいろいろ意見があるが、問題は天皇の訪沖反対運動の提起をうけとめて討議するということだ。上からの労働運動が崩壊していく中で、これまでと異なる下からの自主的な運動の連帯が必要になっている、と述べた。

 梅林宏道氏(トマホークの配備を許すな! 全国運動)は、 「日本の反核運動の敗北により、南太平洋の非核運動のトリデのベラウの米核艦船寄港拒否運動が危機に陥っている。ベラウ憲法改悪の国民投票、フイジーの軍事クーデタ、 ニュージーランドの労働党政権の転覆工作などのように、太平洋の非核運動を崩壊させるためのアメリヵの策動は強まっており、日本の反核闘争の責任は大きい」と述べた。

 集会は続いて反トマホーク・反原発、さらに「反天皇制運動の提起を受けとめ原爆被害者の怒りと沖縄・アジア民衆のたたかいを結ぼう!」の三分科会に分かれ討議を行った。反天皇制分科会には二〇〇名が参加し、宗像基氏(牧師・キリスト教社会館館長)が「私は毎年八月六日の広島市長の平和宣言が軍縮や核廃絶を世界に向かって訴えるが、日本の核軍拡や核疑惑には全くふれないのに抗議し『市民による平和宣言』運動を起こしている。二度と戦前の日本には戻らないという意味で 『ノー・モア・ジャパン』 の声を今こそ叫ばなければならない」と述べた。また沖縄から来た宮里那覇市職委員長は今年の秋は天皇訪沖に前後して浩宮はじめ皇族が集中豪雨的に沖縄に来るので『鉄の暴風』ではなく『菊の暴風』だが、沖縄戦で家族をすべて失なった老婆が『天皇が沖縄に来て、上下座して謝って欲しい』と云っており、天皇に対して複雑な感情があるのをよく理解して闘う必要がある」と述べた。第一日目の集会は活発な発言で午後九時過ぎまで続けられたが閉会後に県民文化センターで百名以上参加して夜が更けるまで交流が行われた。

 第二日目は三分科会の報告に続いて沖縄大学学長の新崎盛暉氏から「沖縄・ヒロシマ・天皇」と題する講演の後に集会決議を行って閉会した。


思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起

松江澄『ヒロシマの原点へー自分史としての戦後五〇年』

評者 京都 山本徳二

労働運動研究199510 No.312

 

  ことしの八・五、八・六の広島を久しぶりにたずねた。五〇年という節目であるせいか、各地からの人出で、広島はざわついていた。

 とくに、中国の核実験、フランスの核実験の噂で、原爆禁止・反核運動は、いきおいを加速させ、いまや、全人類的性格を帯びた運動として、国際的な広がりをみせている。この巨大な波のうねりに背を向けた大国の論理は、いかにもわびしくみすぼらしいものという印象を与えている。

 原爆反対の原点ともなる広島で、運動の原点をつくり出したともいえる有力な一人、松江 澄が「自分史」を出版された。

ここ数年来「『私の昭和史』のようなものを書いておきたいと思いつづけてきた」ものを仕上げた労作である。

 

天皇も人間じゃないか

目次にそってかけあしでふれてみよう。

現在史の幕が切っておとされたロシア革命から三年目の一九一九年(大正八年)に、広島で生をうけた松江澄(以下私はでのべる〉は、「貧乏さむらいの子」で「寡黙で小心ではあるが律儀一徹」それでいて「寛容な」父、長兄が物心がつくと自ら東京に出て裁縫学校に学び、自宅で若い娘たちに和裁を教え、家計をたすけた気丈な母との間で、きびしくはあっても心豊かに育まれていった。もう一人、嘉永二年生れの祖母がいた。

「母にしかられるといつでもかばってくれたし、いっしょに出ると帰りにはきっとおぶってくれた。だが家が見えはじめると……私をおろし、何くわぬ顔で二人で玄関を開ける」「昔話をしてくれたのはこの祖母であった」祖母の背中をとおして感じたあたたかさを私はいつまでも忘れない。

大正七年、死者十五万とも十六万ともいわれているスペイン風邪というインフルエンザが猛威をふるった。カチューシャで名高い島村抱月もこの風邪がもとで急逝する。発病後わずか数日で。偉い医学博士が二人もついていてもダメだったと貧乏人は、病魔から逃れるすくいを、民間信仰に求める。松井須磨子のあと追い自殺とともに大正期の有名な話である。米騒動はあまりにも有名である。

大正十五年、広島県立師範学校付属小学校に入学、ついで、広島高等師範学校付属中学校に入学。兄も同じコースをたどっている。

小学校六年生の時のこと、級長の私は、先生の指導をうけながら、余り成績の良くない同級生に放課後、教室で補修授業をやられる。この同級生たちは、通学途上の用心棒の役割を買って出てくれる。また、大人の世界のことを教えてくれる。学校からの帰路に、遊廓の前を歩き、きれいな女性の写真が飾ってあるのを指さして「家の人にきいてみろ」という。たずねた母は、びっくりしたような顔で、何も教えず、二度と行くなときびしく言い渡す。

また、ある日、人通りの少ない町にきて、「天皇はどうして子供をつくったか知っているか」と問いかける。悪童たちの試しである。「現人神」という「神話」への挑戦である。[瞬考えたうえで「天皇も人間じゃないか」と答えた。「人間だから」ということばにこめられた「神」という虚構への抵抗は、その後も私のうちにひそんで動かなかった。

昭和初期、二九年恐慌の痛手からの脱出をはかる支配階級は、対外侵略を本格的に進め、満州に手を染めていく。国内では治安対策を強化する。代表的なものは、張作罧の乗った列車爆破事件であり、共産党の大検挙である。

「私は子供心に推理した。朝鮮人も、部落の人も、日本共産党も、中国人も、従って張作森も、みなそれぞれに違うのに、ある]点で共通のものがあるということだった。その共通な一点とは、日本一えらい人である天皇に敵対する人々であるということであった。しかし私は、それを口にすることはこわかったので、自分の胸におさめておくことにした」

中学四年、軍人の学校志望の学友がふえるなかで、何としても一高へと志を固める。

兄と同じように医者にしようという母の強い希望で、広島高等学校の理乙を強引に受けさせられた。いやいやだから見事に落ち、母にあきらめさせ、文科、一高を認めさせた。一年浪人ののち一高入学。

「愛も真理も木の葉のように吹き散らすファシズムの嵐とは絶縁した別世界」の一高生活を満喫する。青春をかけて人生を勉強する所だった一高を卒業。東大法学部政治学科を受験。また落ち、第二回目の浪人となり翌年入学。二十三歳である。

六月。ミッドゥェイ海戦で連合艦隊の敗北。日米の軍事力の差はひらくばかり。十一月には、スターリングラードでのソ連軍の大反攻。洋の東西で、日独の敗北をつげる鐘が鳴り出した。翌、昭和十八年十月、ついに在学徴集延期臨時特例公布で学徒動員となる。「少々やせていようが、病歴があっても消耗品としての兵士」の必要な軍隊は、十一月に下関重砲兵連隊に入隊せよといってくる。

「軍隊に入ったら馬鹿になれ。考えるな。要らぬことは言うな」と父は懇々と諭し戒め、

母はおろおろと気づかうばかり。

 

 

四〇年前の「借金」を返す

学生服を軍服に着替え、二等兵の新兵生活が始まる。十日も経たぬ間に、満州へ。ソ連との国境間近の牡丹江重砲兵連隊に入る。

「初年兵にとって、人間による「真空地帯一として内務班生活のきびしさと合わせて、自然のきびしさ・:…つき刺すような寒痛は遠慮なく初年兵の皮膚をおそい、油断すれば凍傷となって指や鼻を失うことになるのだ」

五ヵ月のち、見習士官教育のため内地の教育隊に派遣となる。眼前に広がる富士山、静岡県富士岡村にある教育隊の八ヵ月の生活の仕上の卒業試験のなか、トーチカ爆撃の実弾演習で成績をあげ、恩賜賞をもらうことになった。

「一高以来さめた目で批判的に見ていた天皇から物をもらうことには抵抗があった。だからといってことわるだけの勇気もなかった」恩賜の「文鏡」は戦後いつまでものどにささったトゲのように私を刺した。

「七、八年前、私にとって最後の県会が開かれる前に県会事務局長がきて、藍綬褒章がおりることとなったがと問い確かめた。私は、天皇からもらうものは何もないとことわった。……このとき私は四〇年前の借金を返したような気になった」

「文鎮」のおかげか、教育隊付教官として学校に残ることとなった。

八月十五日、「天皇放送」をきいた日、「無慈悲で無茶な戦争に賛成でもなく反対でもなく、ともかく命をながらえ解放された。……お前は生を得るために何を失ったのか。学友や戦友は死を得るためにどれほど多くのものを失ったか」私にとって生涯の課題となった。「まず急ぐことは広島を確かめることだった」

原爆をうけた広島出身ということで、五日目の八月二十日復員できることとなった。

廃嘘の広島に立って

二六歳の復員兵士の目にとびこんできた広島は、のっべらぼうの瓦礫の原だった。

荒野に立って「ふたたびこのような無残な虐殺と殺戮をくり返さないために、私は一生をかけて戦争と原爆に立ち向かうことを心に誓った。それは私の義務であり、それは死んだ人々へのささやかな供養なのだ」

この決意から戦後が始まる。人間として到達した理性の判断をゴマ化しなく生きようとする松江澄の苦闘が始まるのである。

マルクス主義への接近は急速だった。マルクス主義の書物やかつての発禁本を財布をはたいて買った。米にかわるべき兄の医学書の何冊かも書物となった。入党は時間の問題であった。

「日共に入党するまではあらゆるものにたいして批判的で、けっしてのめりこむことのなかった私が、戦争中の反省と転回によって入党して以来、私は私を捨てて党に没頭した。それは私の転生でもあったはずであった」

しかしそれは長くつづかなかった。神のごとき存在だった党を、客観的な考察の対象として見るきっかけは「五〇年分裂」であった。

「戦前の胃春時代に私の精神生活の地中から生えてきたたけのこのような『自立一であり、すべてを疑う.「自由」」が頭をもたげてきた。

「最大のものは虚構の論理11倫理としての「一枚岩』の団結であった」そしていま、「日本的集団主義」とかくれた中心の「天皇」の問題にとりくんでいる。これが、戦前と戦後のけじめをあいまいにしたものではなかったか。

思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起する愉快な本である。

〔社会評論社刊、定価二六七八円、本誌取扱い〕

     
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松江澄さん へ     


世界平和の前進のための提案

―プラハ世界大会に参加して―

松江澄

労働運動研究 19839月 No.167

 

 このたびのプラハ大会には、世界平和運動を構成する三つの基本勢力がかつてない規模で世界的に結集した。すなわち一〇七名という最大の代表団を送ったアメリカと、アメリカ大陸からヨーロッパ・アジア・太平洋までの資本主義国内の反核反戦平和運動。PLOをはじめとした中東、または全アフリカからニカラグアなどラテン・アメリカまでの民族解放運動。そうしてソ連を先頭とした社会主義諸国の代表である。したがってこの大会の最大の課題は、この三つの基本勢力の統一であり、世界平和評議会や運営委員会もそのために格別の慎重な配慮をつくしたといえよう。結果はどうであったか。分科会報告では対立意見はすべて両論併記し、起草委員会で一人の反対もないまでねばり強く慎重に検討された大会アピールは、全構成員の拍手と歓呼で迎えられ、闘う巨大な統一は前進した。しかしその反面、深くつっ込んだ討論は避けられた。いや、むしろこれほどの規模の大会でそれはそもそも無理だったのかも知れない。しかし、三つの勢力の統一という最大の課題に近づくためには、まだまだ多くの問題があるように思う。          

まずソ連が核凍結を!

 まず資本主義国の平和運動と民族解放運動との関係はどうだろうか。

その象徴的なものは、 「連帯フォーラムしに困難をおかして出席したPLOアラファト議長の演説にたいする人々の態度に表われていた。熱烈な拍手の呼応で終始した彼のアピールへの反応のなかで、気のついたことがあった。それは彼が、シオニストとの闘い、アメリカ帝国主義の侵略と干渉との闘いは、平和のための闘いだと叫んだとき、一斉に立上って声援を送った資本主義国の代表たちのうち、「左手に平和の月桂樹を、右手に劔をとって闘う!」と力をこめてアピールしたときには、かなりの人々が腰を下して拍手をしなかったが、それは解放を闘っている代表たちの熱狂振りとは対照的だった。

それは核と抑圧とがけっして別のものではないことを知りながら、剣をとって闘うという闘争形態に、簡単にはなじめない気分を表わしているように思った。しかし、これはけつして相互の不信を表すものではない。

  私が出席しでいた第三分科会(軍拡競争とその阻止について)での討論のなかでは、もっと違った角度から三つの勢力の接近と対立があった。この分科会の討論は、まず「核軍拡競争の性質と方向」をテーマに始まった。そこでは、もちろんアメリカ巡航核ミサイルのヨーロッパ配備が中心的な課題であったが、やがて軍拡の「競争」という概念について論争が始まった。イギリス、西ドイツなど、いまヨーロッパ反核闘争で最も闘っている帝国主義内平和勢力を代表する人々は、異口同音に、原因はともあれこの競争には米ソ両国は双方とも責任があると指摘した。しかし、ニカラグアなど民族解放運動の代表は、社会主義国の代表とともにアメリカの一方的責任を挙げて、競争という概念がまちがっていると主張し、ソ連代表が「アメリカの核武装は攻撃的だがソ連のそれは防衛的だ」とのべたことにうなずいていた。それは明らかに社会主義国=民族解放運動と資本主義国内平和運動との矛盾であった。そこで私は翌日早々発言を求めて述べた。私個人はソ連代表の言うことに同感だが、それでことが済むわけではない。重要なことは理解し認識するだけではなくて、事実上の核軍拡競争の悪循環をどう変えるのか、どう阻止するのか、ということではないか。条約も協定も是非達成しなければならないが、いまだに実現されてはいない。そうして、限りのない核軍拡競争は、いままさに核戦争の危機を生み出している。何よりも必要なことは、協定を実現するためにも、各国人民の帝国主義政府にたいする闘いへの信頼のもとに、平和を愛する核大国(ソ連)がまず自ら一方的に核凍結、核軍縮を行なうという倫理的イニシアチーブをとることだ、と激しい語調で主張した。各国代表は一斉に私をみつめて沈黙した。こうした私の主張は、私がヒロシマ代表であるからだけではない。私は共産主義者の信念として主張した。そういう私の考え方へゆきつくうえで、二つのテーマがあった。

「いかなる」問題の帰結

 その一つは、 「いかなる国」問題以来の共産主義者としての模索と追求である。かつて私は、東京都議選を前に宮本顕治が行った核問題についての「転換」をきびしく批判して『「政策の転換」か「思想の転換」か』を執筆したとき(『労働運動研究』七三年八月号−後に松江澄「原水禁運動の統一と発展のために」に収録) (後に単子本『ヒロシマから―原水禁運動を生きて』青弓社刊に収録)、「転換」以前の日共の理論的支柱となっていた上田耕一郎の論文(「マルクス主義と平和運動」七一年)をとりあげた。結局、上田は、帝国主義の核実験は侵略的であり社会主義の核実験は防衛的であるという立場から、 「いかなる国」は絶対平和主義、中立主義だと批判していた。―いま日共が、「東西ブロック」という言い方で帝国主義と社会主義とを同列においていることと比較して見よ。一八○度の転換だが、立っている地点は同じ民族主義だ。私は「いかなる」の替りに「すべて」を置きかえることでゴマ化そうとしている上田を批判しつつ、次のように書いている。

 「共産主義者が『いかなる国の核実験にも反対』というスローガンを支持するのは、核兵器の製造・貯蔵・開発などが持つ階級的革命的な対立と区別を自明の前提として確認した上で、なおかつこのスローガンが主要には帝国主義への攻撃のスローガンであるからだ。……こうした時期(核開発競争の激化)に、帝国主義の核開発に対する最も鋭い攻撃は、各国人民が自国政府にその開発の停止を迫るとともに、アメリカ帝.国主義によって唯一の核被害を経験した日本の原水爆禁止運動が『すべての核兵器の禁止』という願望にとどまらず、個々の核実験に停止を迫りつつその最も主要な張本人であるアメリカ帝国主義にその道義的な世論と行動で集中的に迫ることであった。それは『いかなる国』という形態でその普遍的な倫理性を公示しながら、内実は帝国主義とりわけアメリカ帝国主義の核政策への最もきびしい対立物となるからである。……われわれ共産主義者は、汎人類的な 『新平和主義』や、また『絶対平和主義、中立主義』の立場からではなく、共産主義者の階級的革命的立場からこのスローガンを支持したのだ」と。 (カッコと傍点は筆者)私はいまでもこの立場をかえていない。そうでなければ、共産主義者としてどうして米ソをはじめ「いかなる国」の核実験にも抗議して慰霊碑の前で坐り込むことができようか。そうしてプラハ大会分科会での私の主張は、この立場の延長と発展的な追求のなかから生れた。

 核戦争から人類の生存をまもることが、現代における最も崇高な課題であるとするならば、実験の停止=開発の停止を直接的にヒューマンな要求として実験する国につきつけるべきだと思う。この場合、両体制の区別という図式から出発するのではなく、人類の生存の必要から生れた倫理的な課題にたいする対応を通じてこそ、両体制の区別は明らかにされるべきだし、多くの人々は先験的な理論としてではなく、事実と経験を通じてこそ両体制の区別を知り、自らの課題を実現する道を見出すはずだという確信が私を支えている。それは、被爆という特殊日本的な条件のもとで、普遍的な真理に接近するための共産主義者の追求だと私は思っている。その意味で、「いかなる国の核実験にも反対」という抗議運動をいま噌歩進めれば、社会主義国こそまず何よりも人民大衆の要求に答えるはずであるという想定のもとに、「いずれかの核大国がまず自ら一方的に核実験を停止せよ」という要求運動に発展させるべきであると思う。そうしてここまでくれば、それは単に核実験の停止だけにとどまるべきではない。「平和を愛する核大国がまず一方的に核軍縮を進めるべきだ」という今回の私の発言に直接つながってくることは言うまでもない。それを第一次ストックホルム・アピール「世界で最初に核兵器を使用する政府は人類にたいする戦争犯罪人とみなす」と対置すれば、「自発的一方的に核軍縮を進める政府こそ人類の平和と生命をまもるうえで最大の友人とみなす」ことができるのではないか。全世界五億の署名を集めた前者のアピールが、核開発競争初期にその開発に歯止めをかけるとともに、当時の情勢のもとでの危険な核兵器使用を喰い止めるための適切な大衆的要求であるとすれば、後者のアピールは核軍拡競争の激化が、その極点に達しつつあるとともに、核戦争の危…機が現実のものとなっているときに、人類の平和と生命をまもるためにこそ必要な大衆的な要求ではなかろうか。

 私にとって今回の主張は「いかなる国」以来の必然的締結なのである。

世界の反核運動に信頼

  しかし、一方では、こういうとら え方考え方に反対の人もいる。ソ連 が一方的に核凍結したり核軍縮すれ ば、かえってそのスキに乗じたアメリカ帝国主義の冒険的な攻撃を許す ことになる。そういう考え方は、甘いばかりでなく極めて危険だという意見である。現に大会の分科会でも、一方的な核凍結はソ連ばかりでなく、全世界にとってもメリットはなく危険であるという意見があった。しかし、それでは結局、否定しながらも事実上は「力の均衡論」に 陥ることになりはしないか。また、もしそうだとすれば、一体どのような手段と展望があるというのか。今日まで十数年間、部分的に協定は結びながらも、結局核開発競争は縮小されるどころか、新しい核兵器の質の向上を含めて、拡大の一途をたどっているのではないのか。核戦争の危機を前にして情勢待ちは許されぬ。

  私は無条件、無限定に一方的核軍縮を主張しているのではない。諸国人民の帝国主義政府にたいする闘いのいっそうの発展を担保として、この課題を提起している。一昨年来の世界的な反核反戦の運動は、けっして目本原水禁運動の世界版でもなく、また国連陳情運動でもない。危機を自覚する帝国主義の巻き返しをねらう核洞喝にたいする諸国人民の自立自衛の運動であり、もはや自らの運命を他にゆだねず、自らが決定しようと立ち上った人民の連合した運動である。だからこそこの運動はただ反核というだけでなく、反核を集中的表現とした重層的多面的な反帝国主義の気分と感情さえ含む広く多様な運動である。この運動のひきつづく発展に信頼をおくことによって、一方的核軍縮を宣言すべきではないのか。もしそうでなければ、何時の日か帝国主義の餓悔を期待するのか、それとも帝国主義を打倒し去るまで競争を引き延すのか。

 世界人民の闘争の発展に信頼をおいた、一方的措置による倫理的でヒューマンなイニシアチーブは、必ずや全世界人民の運動をはげまし発展させ、こうして諸国人民の闘いと社会主義国のイニシアチーブは、固く結びついて帝国主義の野望を帝国主義を絶滅する以前にも粉砕することができるのだ。

いまこそソ連の創意を

 さきに私は、民族解放運動と社会主義との固いきずなについて語った。フォーラムでのアラファト議長の表現によれば、 「ソ連と社会主義諸国は人民解放戦線のトリデである」と。それは、解放のための軍隊と軍事援助を含む資金援助という具体的な力で結びついている信頼関係である。それでは資本主義国内の反核反戦平和運動の場合はどうであろうか。そこで、この問題についての第二のテーマが生れる。それは、社会主義の知的道徳的ヘゲモニーと、それに到る倫理的イニシアチーブである。資本主義国内の運動の場合には民族解放運動の場合と異なり、強いきずなとなるのは社会主義の実例を通じての認識と信頼なのである。

かつて私たちは、社会主義ソ連の実例の力を拠りどころにして、社会主義を宣伝し社会主義をめざして闘ってきた。しかしいま、残念ながら実例に頼るわけにはゆかなくなった。

いやそれどころか、一部の実例はかえって人々の社会主義へのイメージに疑問を抱かせ信頼を遠ざけている。何故そうなのかという問題について、私もここ数年来追求してきたことを近く発表して批判を乞いたいと思うが、それは世界史の発展過程と切り離すことはできないだろう。

 しかし、たとえそうであったとしても、仕方がないとあきらめるべきではない。それは具体的な現実の問題として、世界の労働者と人民の視野のうちにあるからだ。私たちは最近流行のエセ「マルクス」主義者のように、ソ連の悪口を重ねるほど「マルクス」主義的だと思い上る不信の徒をしりぞけつつ、なお労働者階級と共産主義者の側からはっきりと批判し要求する必要がある。もちろんそれは核問題についてだけではない。社会主義国とりわけソ連の実生活のすべてを通じてこそ、信頼は回復されなければならぬ。後年のレーニンの思想をいっそう発展させたグラムシ流にいえば、発達した資本主義国を支配しているブルジョア・ヘゲモニーを奪いかえすためには、カによる支配をくつがえすだけでなく、ブルジョアジーのヘゲモニーに同意を与えている人民のなかに新しい「有機的知識人」としての党が知的道徳的ヘゲモニーをうちたてなければならない。しかしそれは、国内の変革だけではないはずだ。社会主義をトリデとした革命の世界的発展の場合もそうではなかろうか。資本主義国のなかで変革をめざして闘っている私たちにとって、社会主義国がトリデであるとすれば、「それは軍事援助や資金援助ではなく、社会主義の実生活の実例を通ずるその知的道徳的ヘゲモニー、また国際的諸問題にたいする知的道徳的ヘゲモニーではないか。そうして、まずさし当って何よりも必要なのは、核戦争の危機のもとで人類の平和と生命をまもるため、今日の激化する核軍拡競争を縮小から停止に導くための積極的で人道的なイニシアチーブなのである。これがいま共産主義者、そうしてヒロシマで闘っている一共産主義者としての私のゆきついた思想であり、プラハ大会で主張した提起の考え方である。

 世界的規模での知的道徳的ヘゲモニーをめざすイニシアチーブこそが、全世界の人々の平和と生命をまもる運動に応えつつ、さらにその運動を発展させることができる。そうしてつくり上げられる三つの勢力の統一の力こそ、スキに乗ずる帝国主義の核桐喝を封殺することができるだけでなく、帝国主義と凶暴な戦争屋を追いつめることができるのである。   (一九八三・七・二五)

 

 

〔資料()

 これは当初私がスピーチするために予足し、すでに英訳してあったものである。しかし分科会では議長団の要請で、スピーチ、とくに原稿を見ながらの意見発表はやめて、他の人々の意見との対話と討論にしてほしいと強く希望され、一回の発言時間も五分以内と決められた。

そこで私は急いで予定を変更し、私がこの原稿でのべようとした意見を分科会の討論に即して数度に亘って発言した。

 しかしこの原稿もすでに英訳も出来ていたし、全体をまとめて発表することも必要だと思ったので、かなりの部数のコピーをつくって私が会った各国代表に手渡し、また多くの代表たちもそうしているように、パンフ展示用のデスクにも置いたら、またたく間に全部なくなった。

そこでこの文書を原文のまま発表し、私がすでにのべてきたところと合せて、検討、批判の素材としていただきたい。

〔資料〕()大会アピール

核戦争に反対し平和と生命を守るために

 人類はいま決定的な歴史的岐路に立っている。ひとつの誤った方向

をとるなら、世界は後戻りのできない核戦争の奈落に落し込まれかね

ない。

 今日ほど、軍拡競争、特に核軍拡競争が危機的な段階に進行してい

る状況はかつてない。実際に、進められているすべての軍備制限、軍

備縮小のための交渉はその進展を止められつつある。新しい軍事計画

が実行に移されつつある。さらに新しい大量破壊兵器が開発ざれつつ

ある。核兵器の「容認可能性」、「限定的もしくは継続的な核戦争遂行

の可能性」といった考えを人々に押しつけようと目論まれている。

 中束、中央アフリカ、南部アフリカ、東南アジア、極東など世界の

さまざまな地域に破局寸前の情勢が存在している。主権国家にたいす

る侵略行為がなされている。さまざまな諸国間の軍事紛争が外部から

挑発され、政治的経済的独立、民族主権、領土的主権、世界の平和を

求める諸国人民の正当な意志は踏みにじられている。外国軍事基地網

は拡大されつつある。

 特に深刻な脅威となっているのは、西ヨーロッパに第一撃用の新型

核ミサイルを配備することが計画されていることである。この計画の

実施は、核紛争の危険性を著しく高めることとなろう。この核紛争は、

ヨーロッパに限定することはできない。必ずそれは地球的な大虐殺へ

とつながるであろう。ヨーロッパへのミサイル配備を阻止すること、

ヨーロッパ大陸のすべての核軍備を縮小すること、そして世界のすべ

ての核兵器を廃絶することは緊急の課題である。

 ますます深刻化する核戦争の危機を憂慮し、そして平和をまもるた

めの自らの重大な責任を認識し、私たちはチェコスロバキアの首都プ

ラハで六月二十一日から二十六日まで開催された「核戦争に反対し、

平和と生命をまもる世界大会」に集し渇。私たちは世界百三十ニカ

国の市民であり、そこにはさまざまな民族、人種、さまざまな哲学的

見解、宗教的、政治的立場をもった人々が存在する。私たちは労働組

合、平和団体、婦人組織、青年・学生運動、政党、宗教団体など一八四

三の国内団体の代表であり、一〇八の国際的民間団体の代表である。

そしてこの大会には十一の国家間組織の代表も参加したのである。

 私たちは宣言する。

 核戦争準備は人類にたいする最も重大な犯罪行為である。しかし、

戦争は不可避的なものではない。核による大虐殺を防止することはま

だ遅過ぎてはいない。人類を救う手段は人々自身の手の中にあり、各

々の男女がともに断呼として平和のために立ちあがることこそ必要で

ある。

 平和をめざす大衆運動は強い力であり、今日の世界情勢を決定する

要因のひとつとして、世界の政府の政策に影響を与え、平和の方向に

向けさせるだけの力量をもってい.る。

 この広範で多様な平和運動の力はそれらが統一して行動する可能性

と能力の訟かにある。他の問題に関する意見、立場の相異があったと

しても、私たちは、核戦争を防止し平和と生命をまもる共通の目標を

もっている私たちが、それによって分裂させられることはけっしてな

いと確信している。

 私たちはすべての諸国人民に呼びかける。

 一九八三年を新たに自殺的軍拡競争の段階、新たな紛争拡大の段階

への跳躍台とすることを許すな!

 世界の人々の最も緊急な要求の実現のために私たちの努力を集中し

よう!

 ヨーロッパへの新型ミサイル配備反対!

 ヨーロッパに配備されているすべての種類の核兵器の削減に関する

現実的な交渉に賛成!

 すべての核兵器庫を凍結せよ!

東と西、全世界の核兵器反対!

核兵器、通常兵器の軍拡競争停止!

非核地帯に賛成!

全般的かつ完全な軍縮を/

軍事対決ではなく平和的政治交渉を!

世界の資源を平和と生命のために!

すべての民族に平和と自由、独立と繁栄を!

 

 

プラハ大会での演説草稿

 議長ならびに平和のために日夜奮闘しておられる諸国人民の代表の皆さん!

 私はヒロシマから来ました。 「広島原水禁」を代表して皆さんに心からの連帯のご挨拶を送ります。 私が―そうして広島原水禁が―このような世界平和大会に出席するのは今度で二度目です。私がかつて参加したのは今から十八年前の一九六五年、ベトナム戦争のさなかにヘルシンキでひらかれた世界平和大会でした。そうしてこの大会は、イギリスのバナ!ル教授の提案による「多様性のなかの統一を求めて、きびしい対立を粘り強い話し合いで解きながら、大きな成果を挙げました。そうしていま、このプラハ大会にはさらにいっそう多くの平和勢力を代表する人々が参加し、また`この大会に代表は送っていないが、かつてなく多様で自立的な反核反戦の運動が世界中に無数に拡がっているなかでひらかれています。

 そうしてへルシンキ大会では、核兵器については、ベトナム侵略の汚ない戦争の中で使用される危険が大会の関心のなかの一つであったのに比べて、この大会では核戦争を防止することが全面的で中心的な課題となっているのです。それは、この十八年が核をめぐる情勢にとってどんなに重大であったかを示しています。もちろんそれは帝国主義者や戦争屋が十八年前に比べて強くなったからではありません。それどころか、彼等はますます諸国人民から孤立するなかで破滅への恐怖にかられ、時の流れを変えようとヤッキになっているのです。そのためレーガンとその追随者たちは、自分たち自らの恐怖を他国への憎しみにすり変えようと必死のプロパガンダを振りまき、ヨーローパからアジアまで「戦域核」をはりめぐらそうとしています。日本もけっして例外ではありません。中曽根政府はレーガン政権と〃運命共同体"の誓いを立て、ソ連と対抗するため身海峡封鎖の責任を分担し、日本をアメリカのための不沈空母にしようとしています。

 しかし私たちが懸念するのは、それだけではありません。こうした帝国主義の核燗喝は仮想の標的となっている社会主義ソ連の核開発をも促がさずにはおきません。そうして、それはまた帝国主義者たちの新たな核開発と核装備の口実にされるのです。結局、哲学としてではなく事実上の「力の均衡」論がいっそう核開発と核競争を過熱させ、それだけ核戦争の危機を深めるのです。 「核戦争を阻止するための核開発」というレトリックに人々はいら立っているのです。何故ならば、このシーソーゲームには終りがないからです。

 私たちヒロシマ市民は、いかなる国のいかなる種類の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用にたいしても反対してきましたし、今でも反対しつづけています。現実に被爆を体験したヒロシマは、核兵器の所有者や種類によって良し悪しを区別する余裕もないし寛容さも持っていないのです。

 私たちはソ連のヨーロッパにおける自発的な核縮減案を支持します。

しかし、これはまだほんの一歩にすぎません。私たちは核競争の悪循環を断ち切るために、すべての核保有国とりわけ大国の自発的積極的な核軍縮をヒロシマの名において要求します。こうした倫理的なイニシアチーブだけが、今日おちいっている迷路から抜け出す道なのです。もし自国の核優位に乗じて居丈高な核桐喝を行う者がいたとすれば、それはきっと全世界人民の敵として糾弾され、直ちにその地位を失うに違いありません。世界の多くの人々は、核戦争がどんなものであるのかを良く知っているからです。

 私は被爆者ではありません。私が戦争と軍隊から解放されて広島に帰ったのは、原爆が投下された日から二週間後でした。ほとんど人のいない焼野原を一日中さまよい歩いた私が、たった一人の兄弟が爆心地で死んだらしいと知ったのは、五日後、他の町へ逃げのびていた家族と再会したときでした。そして三年後、被爆した母は頭髪が抜け落ち血を失って亡くなりました。被爆直後のヒロシマをさまよい歩いた私の体の中にも、二次放射能が残っているに違いありません。しかし私は被爆者ではないのです。私は亡くなった母がいつも言っていたのを思い出します。

「『ピカ・ドン』の恐しさは体験した者でなければ分らん」と。子供にも伝えようのないむごたらしさのなかに、母はこの世の地獄を見たに違いありません。そうして同じようなことばをつぶやきながら、今年もまた被爆者は四月末現在で一二五一人も亡くなったのです、最近の広島の研究機関の発表によれば、小学生の頃被爆した人々が漸く五〇歳前後になるこの頃、胃癌の罹病率は普通人の四倍も高いのです。もう一つの医学的研究は、幼い時の被爆ほど影響が強いと伝えています。胎内被爆の人々はもちろん、被爆二世の人々も放射能の被害からまぬかれることはでき衷せん。それなのに日本政府は、被爆者が要求しつづけ待ちつづけた国家補償にもとつく被爆者援護法を未だに制定しようとしないのです。

戦争の過去を悔い改め償うことをしない者が、どうして現在の平和を保障することができましょう。

 核兵器のむごたらしさは、瞬時に十数万の人々を殺しただけでなく、三十八年後の今日まで、そうして今後とも長く、人々を殺しつづけていることです。そうしていま、巨大な核兵器と発達した運搬手段のもとでは、たった一つの引き金が直ちに全世界を核戦争に投げ込み、地球を放射能でおおいつくすのです。世界がヒロシマになるのです。そしてヒロシマと違うのは、けっして再び人類と文化はよみがえることはないだろうということです。

 しかし私は、核戦争の恐しさを長崎とともに経験したヒロシマの証人として、皆さんに知らせるためにだけここに来たのではありません。私たちにとってもっと重要なことは、核戦争を防ぐためにいま私たちは何をしなければならないか、どんなにして力を合せなければならないかということです。

 ヒロシマで戦後最初に私たちが反戦反原爆を闘ったのは、一九五〇年朝鮮戦争のときでした。この年の八月六日、日朝両国の青年活動家がともに手をとり合って、朝鮮戦争に反対して、原爆の廃棄を要求し、アメリカ占領軍と日本政府の二重権力による弾圧のもとで闘ったのです。それから四年後、太平洋ビキニ環礁でのアメリカの核実験で、第五福竜丸の久保山機関長が放射能で亡くなり、マグロの汚染を通じて放射能の脅威が実生活に迫ったとき、ヒロシマとナガサキは人々の胸によみがえったのです。日本中の人々が年齢、性別、社会的地位と信条の相異を超えて、反原爆の運動に結集しました。その後二回の分裂を経ながら、ベトナム反戦を他の諸運動とともに闘いましたが、それは「今日」のベトナムのなかに「明日」のヒロシマを見たからです。そうして昨年来、ヨーロッパから起きた反核、反戦の運動に触発されて、いま新しい転機を迎えているのです。

 昨年来世界に拡がった反核反戦の運動は、けっして日本の歴史的な原水爆禁止運動の再生でもなければ、またもちろんその世界的な拡がりというものでもありません。それは帝国主義の冒険的な核戦略と核洞喝にたいする全世界の人民の自立自衛の総反抗の闘いにほかなりません。ヒロシマは、その生き証人として歴史の舞台に呼び出されたのです。この運動は国連の軍縮総会にも大きな影響を与えました。しかしこれは、諸国政府の連合である国連への陳情運動ではありません。それは自らの運命を他にゆだねず、自らが決めようと決心した幾千万幾億の人々の運動であり、それはまた国境を超えた諸国人民の連合による運動なのです。

そのうえこの運動は、けっしてただ反核というだけでなく、今日の腐った帝国主義がもたらすすべてのウミと苦しみにたいする、人々の怒りと憤りのすべての集中点としての反核なのです。

 日本でも、昨年はヒロシマ「三・二一」、東京「五・二三」、大阪「一○・二四」と、それぞれ二〇万人か」ら五〇万人もの人々が反核反戦の旗をかかげて集まりました。私はこうした歴史的な運動から、多くの教訓を学びつつ若干の課題を提起して、皆さんの検討をお願いするものです。

 まず第一に、核戦争を阻止する力は究局的には世界の民衆の力以外にはありません。そうしてそのカは、何よりもそれぞれの国の政府に向けられるとき、最も大きな効果をあげることができるのです。自国政府にたいする闘いこそ、国際連帯の闘いの基礎です。全世界の人民と平和勢力が、自国の政府とりわけ帝国主義政府にたいして、 一切の核と戦争から手を切るよう働きかけ、闘うことこそ今日最も重要な課題ではないでしょうか。

 そうして二つ目に重要なことは、こうした自らの闘いを基盤として、まず同じ大陸同じ大洋の諸国諸民族と連帯して闘うことです。いま広島の文学者たちは、日本の多くの文学者の賛同を得て、「〃核"・貧困・抑圧からの解放を求めて」というテーマのもとに、国際会議を開こうとアジア諸国の文学者たちに呼びかけています。私たちはこの運動と会議を心から支持し、その成功のために協力を惜しみません。核と貧困と抑圧、それはけっして別のものではないのです。過去も、そうして現在も、日本帝国主義はその負い目から逃れることはできません。

 最後に皆さんに訴えたいのは、運動の統一についてです。今日ほど多くの平和運動が世界のすみずみまで拡がっていることはかつてありません。それはどこの指令によるものでもなく、また誰かに誘われたからでもありません。そこには無数の自立した運動があり、それはまた無数の連帯を生み出すに違いありません。

自立性と連帯性はけっしてバラバラな別のものではなく、固く結び合った一つのものです。いま必要なことは「多様性のなかの統一」から一歩進んで「統一の多様性」をこそ探求することではないでしょうか。

 核戦争を防ぐために、平和と生命をまもるために、すべての運動とともに、そうして私たちとは手を結ばないが、闘っているすべての運動とともに闘いましょう!

 私たちヒロシマは皆さんとともに闘います!

 ヒロシマをくりかえさせるな!

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社革の平和闘争と三全総

―社会主義革新運動への反省・その3

内 野 壮 児

労働運動研究 昭和4912月 .62

 

平和をまもる闘争

 第二回全国総会(六二年五月)と第三回全国総会(六三年九月)の期間は、戦争と平和の問題をめぐって日本の労働者階級と人民が、さまざまな複雑な問題に直面した時期であった。

 六二年七月、モスクワで、全般的軍縮と平和のための世界大会がひらかれた。この大会には、帝国主義ブロックを構成する諸国ーアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、日本などから、かつてない多数の平和擁護者が参加したばかりでなく、 「爆弾のない世界」国際会議ーアクラ会議に代表されるアジァ、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国の平和勢力がこれに合流した。歴史上かつてない統一の大会といわれるこの大会は「世界諸国民へのメッセージ」を圧倒的多数(賛成二一八六、反対二、棄権七)で採択し、恒久平和という共通の目標を確認し、全般・完全軍縮の実現のために全力をあげて行動することをあきらかにした。

 軍縮問題に関するソ連政府の見解を表明するために大会に出席したフルシチョフは、戦争の脅威にたいしてソ連の平和共存政策を強調し、完全軍縮のためのソ連案の主要点を説明した。また論争の焦点となっていた平和軍縮闘争と民族独立闘争との関係、階級闘争と平和運動の関係について、その見解を明らかにしたのち、世界的な規模の諸国民の反戦同盟の必要を訴えて、大会の熱狂的な歓迎を受けた。一方中国は、大会の前年十二月の世界平和評議会総会で「軍縮と民族独立のための世界大会」にせよという修正案をだし、否決されていたため、その態度が注目されていたが、茅盾を団長とする十三名の代表団を参加させ、消極的ながら賛成の態度を明らかにした。しかし大会における茅盾の発言は、中国がなおそれまでの見解を改めたのではないことを示していたのである。

 社革は『新しい路線』三六号(七月二十三日号)で大会の経過や結果を詳しく報道するとともに、その主張で、「モスクワ大会の成果をまもり原水禁世界大会を成功させよう」とよびかけた。

 だが第八回原水禁世界大会は混乱のうちに終り、原水禁運動がかつてない深刻な危機におちいったことをばくろした。

 すでに前年の七回大会いご、ソ連の核実験再開をめぐる混乱いらい原水禁運動は停滞と混迷をつづけていた。運動の再建をはかるため、原水禁運動の「基本原則」が決定されたが見るべき進展はなかった。

 大会を前に共産党の発表した方針は、核実験禁止協定や、全般的軍縮協定も、要求としてはかかげるが、これをたたかいとるためには何よりも基地闘争が必要であるというものであり、平和と全般的軍縮との闘争と民族独立のたたかいの密接な関連を強調するものであった。

 一方、社会党は、原水協の「基本原則」が社会党の積極的中立主義に一致することを強調し、この「基本原則」の精神によって大会が成功するよう努力する、原水禁運動の立場から軍縮問題の占める地位をあきらかにし、これに重点をおくべきで、植民地解放闘争に重点をおくべきではないという方針を示した。

 これらの方針の相違はモスクワ大会の成功にまなんで解決できるという希望がもたれたが、七月二十七日のアカハタの内野竹千代論文は、モスクワ大会のメッセージは「軍縮に主題をおいたためにきわめて不充分なものになった」 「日本にとっては適切なものではない」といいきって、大会の前途のただならぬことを予想させたのである。

 こうして大会の諸会議は、社共両党の論争の場となり対立的な空気を増大させた。一致点をまとめる努力は、僅かな例外をのぞいて殆どおこなわれなかった。八月五日夜、ソ連核実験のニュースはこの対立に火をつけた。六日未明、社会党、総評代表から、運営委員会に、ソ連の核実験に抗議せよという動議が提出された。動議が否決されるや、社会党、総評は役員引揚げを決定の上、六日の開会劈頭、緊急動議として提出、会場は混乱におちいってしまった。

大会宣言、決議の提案さえおこなわれず、安井大会総長の経過報告をもって閉会したのである。

 同じ六日の広島大会では別の混乱がおこった。中国五県の代表二千三百名が集ったこの大会では「広島アピール」の採択につづいて「米・ソ両国に核実験中止を要請する電報をうつこと」が採択され、つぎの議事に移ったとき、会場のあちこちから「議長!」 「議長!」と発言をもとめる声がおこり、議場は混乱した。

中華人民土ハ和国代表は演壇にかけ上り、何かを発言し始めて、混乱がはげしくなるばかり、運営委員会の大会採択手続などについての説明後、「原爆許すまじ」の合唱で大会の幕は閉じられたが、合唱の最中、共産党員、民青同盟員は「反対・反対」のシュプレヒコールをおこなった。全体の四分の一たらずの数であった。

 この原水禁運動の危機にあたって社革は『新しい路線』で事実を詳しく報道するとともに、三七号(八月十目)に「平和運動にたいする共産主義者の基本的態度」と題する主張をかかげてその態度をあきらかにした。

 主張はこの危機をみちびいた主要な責任は共産党にあるとして平和運動にたいする共産党の誤った方針を批判している。また社会党のセクト主義を批判し、政党が指導権をうばいあう争いの場となった平和運動自体の弱点を指摘して、その克服の必要を訴えている。

 主張は、今日、平和の擁護が、共産主義者の第一義的任務となっていることをあきらかにし、階級闘争と平和運動との関連を明白にして、平和運動の正しい発展を保障する責任と任務を説く。

 「社会主義の世界体制は、平和を擁護する基本的な力であるとはいえ社会主義だけで平和を守ることはできない。労働者階級は最も強力な平和勢力であっても、労働者階級の力だけで戦争を阻止することはできない。労働者階級が平和を擁護するためには、広汎な同盟者が必要である。

 帝国主義の戦争政策、軍事同盟と基地、彪大な軍備は、経済的にも政治的にも、また思想的にも多くの矛盾をその内部にうみだしている。そこから新しい層が平和を要求して立ちあがってきている。青年、婦人、知識層、宗教家、芸術家、ブルジョアジーの一部まで、平和擁護の問題は国籍や階層の別をこえ全人類的な課題となっている。

 労働者階級、とくにその前衛は、たとえこれらの人々が階級闘争における労働者の立場と一致しない場合があっても、また、社会主義と帝国主義の質的ちがいを正確にしらなくとも、その平和の熱意を積極的に評価し、これと手を結んで幅広い平和の戦線を形成し、その自主的な運動の正しい発展を保障しなければならない。いまでは、このような結集が積極的な役割をはたす時がきているのであり、そこに平和運動の新しい性格がある。」

 主張はまた、ソ連の核実験支持を平和運動に強制しようとした共産党の誤りを批判し、ソ連核実験にたいする自然発生的抗議の性格をあきらかにし、共産主義者のとるべき態度を明確にする。

 またさきにも述べた平和運動の弱点として、職場や農村の下からの運動が弱いことを指摘し、これを克服するために実生活と結びついたさまざまな平和要求にもとつく運動を、その特質に応じて発展させ、平和運動の中心課題にむけてゆくこと、平和委員会からセクト主義を一掃し、職場、農村に基礎をおく大衆的な行動組織とすることを説く。

 そして平和運動と階級闘争のちがいと関連を説明し、さまざまな思想の人との協力を説いて最後にいう。

 「日本の真の支配者をアメリカ帝国主義だと考え、民族の独立、軍事基地の撤去を第一義的課題と考える人々とも、平和擁護の立場から役に立つ具体的な行動でともにたたかう用意がある。

 しかし例えば平和擁護運動をすべて反米独立の民族解放運動の『理論』で規制し、或は『積極中立主義こそ平和の道』と主張して一定の政治的見解を運動に押しつけようとする一切の企図に反対する。

 そして、平和を脅かす実際的な危険をとりのぞき、諸民族の平和的共存と友好を進めるすべての具体的課題について協力を組織することこそ平和運動におけるわれわれ共産主義者の任務である。」

 この主張は社革の平和運動にたいする態度を定立したものとして大きな意義をもったといえよう。

 原水禁大会後、社共両党ともにその立揚を固執し、論争は泥試合の様相さえ呈してきて事実上の分裂が進行し始めた。このような事態のなかで、心ある平和活動家の間には、いつまでも論争をくりかえすのでなく行動を開始することが必要だという空気も生れた。

 社革は、九月十二日の全国常任委員会で、来年一月一日を期し、核実験停止協定を締結させることを、国連、米、ソ、日政府に要請する署名運動を展開することを決定、二十日そのよびかけを発表した。 『新しい路線』第四一号(九月二十日)はこのよびかけを掲載するとともに、核実験停止のための行動をー署名運動の提唱に当って」という主張を発表してその意義をあきらかにした。『新しい路線』にはこの署名簿が刷りこまれた。なおこの提唱には、春日庄次郎の申入れが機縁となったことも記しておかなければならない。

 社革全国常任委員会は、十二月十六目この署名運動を集約して核停協定要請書を、国連ウ・タント事務総長、ケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連首相、池田内閣総理大臣あて送ったが、これにそえられた文書はつぎのように述べている。

 「東京、埼玉、茨城、大阪、広島、福岡、富山などをはじめ、全国各地の平和、労働、社会団体の協力によって、それぞれの地域、経営、学校、農村などで、この運動が熱心にすすめられた。

 とくに東京、大阪、広島などでは各地域原水爆禁止協議会が、これを組織の共同活動としてとり上げ、また鳥取県倉吉市議会をはじめ、多くの地方自治体議会でも、積極的に右協定の実現を要求することが決議された。

 そして、十一月一日おこなわれた国際軍縮要求デー広島集会、十二月三、四日広島市でおこなわれた原水爆禁止と平和のための国民大会でも圧倒的多数の賛成によって、この運動を発展させることが決議され、引続いて全国的な運動として推進されていることを附記する。」

 十月下旬、カリブ海に重大な核戦争の危機が生れた。二十二日、ケネディ米大統領は、ソ連の核ミサイル供与を口実にキューバの海上交通しゃ断を声明、米艦隊を配置するとともにグワンタナム基地の兵力を増強した。社革常任員会はただちに抗議声明を発表して、アメリカ政府の封鎖無条件解除、兵力撤去を要求し、日本政府がアメリカの行為を支持することを糾弾した。情報を聞いた社革教育大支部は緊急行動をきめ、社青同、社学同などに統一行動をよびか

けるとともに、各大学社革支部とも連絡した。また慶大支部は、大学管理法反対デモの学生にアメリカ大使館への抗議行動参加をよびかけた。

 二十四日午後四時、アメリヵ大使館前には、二百三十余名の学生がよびかけに応じて集り、警官隊と対峙するなかで、抗議の叫びをあげた。

 また社革全国常任委員会と東京都委員会も代表をアメリカ大使館に送って抗議し、ケネディ声明の無条件撤回を要求した。

 フルシチョフの基地撤去によって危機が回避され、キューバの独立が擁護されたとき、 『新しい路線』四六号は、これを賢明な処置と支持して「平和擁護の闘いこそキューバの革命を防衛する」という主張をかかげて、平和擁護闘争の強化と平和戦線の統一のために奪闘することをよびかけた。

 キューバ危機に当ってソ連のとった措置にたいして中国共産党は批判的態度をとり、国際論争を燃え上がらせるきっかけとなった。中共はソ連ばかりでなくフランス、イタリア、アメリヵの諸党を修正主義として批判し、当然これにたいする反論をよびおこした。これらの論争は深刻な波紋をよび、わが国の平和運動、労働運動、社会主義運動に重大な影響を与えた。共産主義者のこれにたいする態度が問われたことはいうまでもない。

 第八回大会以後、原水禁運動の事実上の分裂が進行したことは前にも見た通りである。共産党は平和委員会を握って、十月下旬全国各地で基地行進をおこない、十一月二十―二十二日の日本平和大会を反米独立の立場からの平和大会とするため積極的に活動した。

 一方社会党・総評の幹部は、平和活動家の要請による「原水爆禁止と平和のための広島大会」をひらくことを決定した。これは積極的意義をもつとともに、共産党の指導する日本平和大会に対決するセクト的傾向をもまぬかれなかった。広島原水協を中心とする中国地方原水協は、この広島大会を日本原水協が全組織をあげて実現し、原水協の統一を守ることを要求したが、日本原水協は、社共の対立で機能をマヒし、この要求に応えられる状態ではなかった。

 この大会に積極的にとりくんだ平和活動家は、社会党など十三団体のワクを外し、各地に自主的に結集される実行委員会を組織して新しい運動の出発点となるよう努力した。広島大会は核禁協定の締結、日本非核武装宣言、破爆者の医療と生活保障確立の努力などを訴え、一定の成果をのこしたが、なお社会党系というセクト的においを克服することはできなかった。

 この大会の準備過程で、大阪ではモスクワ大会に参加した地評幹部を中心に「全般的軍縮と平和の会」が結成され、モスクワ大会の方向に従って日本の平和運動を発展させる独自の活動を展開することになった。

 このような下部の動きは日本原水協の統一と活動再開を促がした。六三年二月いらい原水協担当常任理事会は意志統一の会議を重ね、舞台裏では総評を仲介に社・共の話合いがおこなわれた。

 二月二十一日、日本原水協担当常任理事会は「いかなる国の核実験にも反対し、この地球上から核実験をなくすため、すべての核保有国による核実験停止協定を即時無条件締結させる」の条項をふくむ四項目の具体的目標をかがけて原水禁運動の統一と強化をはかり、三・一ビキニデーと第九回世界大会をめざして運動を再開することを一致して決定し、声明を発表した。

 しかしビキニデーの前日、二月二十八日、静岡市でひらかられた全国常任理事会は、共産党系理事が、前に承認した声明を保留するという態度に出たため混乱した。担当常任理事の多数が辞職を表明、焼津集会は統一してひらくことができず、原水協はまたもや分裂状態に逆もどりした。

 この惰勢のなかで、広島原水協は五月十九日、各地方原水協ブロックによびかけて会議をもち、原水協担当常任理事会の二・二一声明にもとついて統一することを提案して懇談、六月三日には全国地方原水協代表者会議をひらいて、日本原水協に強く統一を要請した。

 よく知られているように第九回原水禁世界大会はついに分裂した。八月五日、モスクワで部分核停条約が調印された日である。この大会が中ソ論争の舞台となったこともよく知られている。現地にもちこされた担当常任理事会はついに統一的な大会方針を決定できず、大会の準備執行を広島原水協に白紙委任する非常措置をとって、局面の打開をはかったが、開会総会の直前、総評、社会党は不参加を表明し、八月六目、広島原水協も、その委任を返上した。

 こうして、目本原水協はほとんど目共系の役員のみで、大会を強行した。開会総会でおこなわれた森滝基調報告は完全にふみにじられ、日共の主張がストレートに大会の決議にもりこまれた。七日、広島原水協の森滝代表と伊藤事務局長は、声明を発表して、分裂にたいする痛恨の情をのべ、森滝基調報告を基礎として再出発の方途をはかる決意を表明した。

 社革全国常任委員会は七月二十四日、「八・六原水禁世界大会の成功のためにすべての平和擁護者の力を結集しよう」 『新しい路線』六九号(七月二十五日)という長文の声明を発表して基本方針をあきらかにしていたが、西川議長、内藤事務局長、長谷川常任委員を現地に派遣、松江県委員長はじめ広島県委員会とともに、現地指導部を構成して、大会の成功のために活動した。大会は分裂に終ったが、貴重な経験を蓄積したといえよう。

 大会の分裂を報じた『新しい路線』(第七〇号)は「八・六原水爆禁止大会の教訓とわれわれの任務」という主張をかかげて、今後の活動の方向を明らかにしたのである。

第三回全国総会

 第三回全国総会は六三年九月二十二、二十三、二十四の三日間にわたって東京でひらかれた。大会には各組織を代表する代議員と評議員、八月以降支部結成のすすんだ東京、長崎等の各支部の傍聴者あわせて約百名が参加した。

 大会の主要議題となったのは政治報告草案と「社会主義日本への道と新しい党の建設」と題するテーゼ草案、及び会則改正案であった。

 このうちテーゼ草案はとくに統社同との分裂以後、われわれの組織の骨格を定立するものとして要望されていた。六三年一月常任委員会がこれについての討論要綱を発表していらい全国的な討論がおこなわれ、全国委員会の討論を経て、五月二十五日『路線』第六四号で草案が発表されていた。特別な討論誌として『討論』が発刊され、総会までに二号を発行していた。だが大会で出された意見は、さまざまであり、草案についての一致をみることは困難であった。

議長団を中心に設けられた集約委員会に全国常任委員会はテーゼ草案の撤回と簡潔な政治活動の基準を作成することを提案した。これは反対意見がなく、保留四で、総会決議として採択されたが、その全文はつぎのとおりである。

1 今日社会主義世界体制と国際労 働者階級は世界史の動向を決定する主な要因となり、資本主義の全 般的危機は新しい段階に入っている。そのなかで、日本帝国主義は復活し、その客観的諸矛盾が成熟している。

  この情勢のなかで発展してきた 戦後日本の階級闘争、労働運動と 民主主義的大衆運動の経験は、当面の闘争の性格と革命の展望をあ きらかにしている。

2 すなわち現在の日本には、社会 主義的変革を不可避とする内的諸 矛盾が成熟している。日本の社会 主義への道は、当面の平和と民主 主義のための諸闘争の発展、反独 占民主改革の闘争の前進によって 開かれる。日本における社会主義 のための闘争は高度に発達した資 本主義諸国と共通した一般的性格 をもつとともに日本独自の諸条件 から生れる特殊性をもっている。

  第一は独占資本の急速な復活と 発展の基礎となった日本特有の低 賃金構造、それを支える後進的な 経済構造の改革が反独占民主改革 の重要な課題となっていることで あり、第二は戦後の特殊条件から 生れた日米軍事同盟打破と中立の ための闘争が革命の発展過程に重 要な特殊性をあたえていることで ある。

3 そこから、われわれの政治活動 の基準は次の五点に集約される。

 第一、われわれは平和共存路線を とる。この平和共存路線は、日本 の諸条件のもとでは中立路線と不 可分にむすびついている。

 第二、憲法と民主主義を擁護し、 その内容を人民的なものに発展さ せる立場にたつ。戦後日本の民主 主義と憲法は、第二次世界大戦に おける国際労働者階級と民主主義 の勝利の成果の反映であり、労働 者階級と人民の手によって擁護さ れてきた。この民主主義をさらに 拡大し発展させ、経済の領域にも およぼし反独占的性格と人民的内 容をもつものに革新する。

第三、日本における反独占民主経済改革の闘争のとくに重要な課題は、日本の特殊な低賃金構造の打破、低所得者の一掃、都市農村の後進的な経済構造の打破である。

第四、この闘争のなかで反独占諸階層を結集して統一戦線を組織する。反独占民主政府の樹立を中心目標とするこの統一戦線は、人民戦線、第二次大戦中の反ファッショ国民戦線の歴史的継承であると同時に、現代の日本の諸条件に応じてその内容と形態を発展させねばならない。

 反独占民主政府は労働者階級の国家権力への接近の形態である。

こうして、社会主義への平和的移行の可能な条件がつくられる。

 統一戦線に参加する諸階層が闘争のなかで社会主義的方向に前進するためには、社会主義への展望を堅持する労働者階級の指導権の確保が決定的である。

第五、この展望と労働運動、社会主義運動の現状は、労働者階級の新しい前衛党の建設を必至の課題としている。
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三十五年間をふりかえって―戦後反戦反核運動の歴史

松江 澄

二つの教訓―二つの方法論

 私が被爆二週間後の広島に帰り、原爆の廃嘘に立って反戦を思い定め、おそくも四九年ようやく運動の第一歩をふみ出してから今年で三十五年になる。その間革命運動を志してさまざまな曲折を経ながらも、終始離れることなく多くの人々とともに歩んできたのが原水爆禁止運動(反核平和運動)であった。それは私の母と兄を奪って親しいものを殺し、私につながる多くの人々を傷つけ、私の愛する郷土を破壊した戦争と原爆にたいする私の怨念であるとともに、それを越えることなしには新しい社会をひきよせることのできない関(せき)であり、それはまた私自身にとって生きていることのひそかな証でもあった。私はこの運動で多くの人々と交わることができ、この運動から他の運動以上に多くのことを学ぶことができた。なかでも次の二つは私にとってかけ替えのない教訓であるとともに、この運動の歴史をふりかえるための二つの方法論でもある。

 その一つは「統一」ということの意味である。

運動にかかわる多くの人々も私も、なんどこのことばを口にしまた書いてきたことか。それはときに誇らしくときに空しく、そうしてときに満されぬ願望として。私にはいまこのごろようやくこのことばのもつ意味が分ってきたような気がする。

運動にとって統一こそ最大の武器であり、統一とは意見の違うものがともに闘うことである、と。

それは組織の問題ではなく行動の問題である。平和運動が他のどんな運動よりもすぐれて行動であり、この運動が白由な一人一人の市民が平和という共通の願望にもとつく具体的な課題で結ばれた共同の行動であるならば、異なった考えをもつ多くの人々がともに行動しともに闘うことはこの運動のすべてであるともいえよう。その意味で統一とは固定的で閉鎖的なものではなく、絶えず進む新たな創造を前提にした流動的開放的なものであり、したがってそれは常に変化し絶えず発展するものである。

 しかし統一をこのように考えていない人々もいる。私がこの総括を書くに当って拾い読みしたなかでも、主として旧左翼系の人々――かつてこの運動で重要な位置を占め、あるいはこの運動に重大な関心をもちつつ見守ってきた人々――の多くは、この運動三十年の歴史を「生成・発展――分裂・停滞――再生・統一」という図式でとらえている。つまりはじめに在った生成の統一が不幸な分裂を経ていまようやく元のさやに戻る、めでたしということらしい。しかしこうしたとらえ方は発展的ではない。それはどんな理由があるにしても分岐を罪悪視する倫理的な見方である。そこには必ず是非を判定する権威が必要となる。しかしこの運動にはどんな権威もどんな判定も必要ではない。もしあるとすれば運動をすすめる多くの大衆自身である。またこういう考え方は、この運動とは性格を異にする労働組合運動―そこには運動の基底としての共通な生産の場がある―とりわけ日本的企業内労働組合主義の発想から類推する観念的図式である。こうした見方からすれば、「分裂」中の運動は「統一」時に比べて常にその品位は低く、それはただ「再統一」によってのみ救われることになる。そうしてこういう人々の唱える「統一」とはいつの場合でも必ず組織的「統一」目組織の解体合同のことである。だが事実は違う。原水禁運動と反核平和運動の新たな分岐は、権力による意図的な分裂を別として―その場合でもやがて下から大衆的な批判がおこり新しい運動が生れる―いつも新しい運動を生んできた。新しい時代の生んだ反原発運動や広島での無数の「草の根」反核運動はその一例である。こうした多くの新しい運動が共通の課題で行動を統一することができれば、以前よりはるかに大きな運動になる。むしろ問題なのは、本来運動のカンパニア・センターであったはずのものがいつの間にか全国的な指導機関となり、多様な運動を組織のなかにしめつけて規制をはじめるなら、それこそ分岐を生む原因となる。平和運動にとって規律や統制は本来無縁な存在であるからだ。それは組織と運動の混同であり、運動を組織に従属させるものである。歴史はそれを事実と実践で批判した。

 分岐は新たな運動の創造であり、新たな運動の創造は新たな統一を準備する。それはかくされていた主体の発掘であり、その多くの主体によってになわれる新たな連帯でもある。自立的な主体があってこそ連帯があり、連帯は自立的な主体が前提なのだ。それが不明確なところに個と組織の相互埋没がある。それは近代的な意味の「主体」ではない。それは近代を駆け足で通りすぎた日本の運動がいま特殊に求めている現代の大衆的な主体なのである。結局統一とは無数に創られつづける自立的運動による無数の大衆的連帯に他ならぬ。それはこの運動のなかでいまようやく始まろうとしており、それはかつて世界平和運動が「多様性の統一」と呼んだものからさらに進んで「統一の多様性」とでもいうべきものへ発展しはじめている。それはまたヨーロッパ諸国の運動に比べて運動への自立的主体的参加のおくれている日本の大衆的な諸運動の重要な試金石でもある。

 二つめの教訓は、国民的なものと国際的なものとのかかわりである。それは現実的で歴史的な日本と世界との関係の反映であるとともに、運動それ自体のあり方の問題でもある。ひと口に国民的なもの国際的なものといっても、重要なのはどの立場からなのかということである。戦前十五年戦争の時代には、国民的なものとはすなわちあの帝国主義侵略戦争に協力することであり、それに抵抗して反戦平和運動を闘うものは「非国民」とされたが、それはある意味では支配される大衆の側からの国民的課題の提起でもあった。当時の支配者達の国際的な立場は防共協定で結ばれ世界支配をめざす反共ファシズム枢軸にあったし、抵抗する側は反戦反ファシズム人民戦線の立場に立つ国際的連帯であった。国民的課題はその時代とそれをになう主体を超えるものではなく、「誰が、いつ、」提起するのか、ということによって異なる。こうして国民的課題と国際的課題とはその限りで一つに交わる。もちろんそれは一方が他方を代行できるものではない。国民的な舞台を無視した国際主義というならば、それはすでに平和をまもるためのもっとも具体的で有効な実践の場を放棄することになる。また国民的なもので国際的な立場を代行しようとすれば、すでに国境を越えることを前提とした戦争の問題を国民的なワクに閉じ込めることによって、結局は戦争をすすめる支配者の側との融合に陥ることを歴史は教えている。戦争それ自体が国際的な性格をもっている以上、反戦平和の闘いは当然国際的な闘いでなければならないが、それは国民的な舞台でこそはじめて有効な運動となる。国際連帯の基礎は何よりも自国政府にたいする闘いである。

 しかしその視座はヨコに広くタテに深く向けられなければなるまい。とくに帝国主義本国における反戦平和の運動は同じ帝国主義諸国民衆との交流・連帯だけでなく、その帝国主義の政治的・経済的あるいは軍事的な支配と影響のもとにある国々の民衆とのいっそう深い結びつきが必要となる。何故ならば、帝国主義はそれ自体として存立しているのでなく他民族への支配と抑圧はその身体の一部であり、戦争こそ最大の差別と抑圧の体系であるからだ。核と貧困と抑圧とはけっして別のものではない。その意味で日本の運動の国際連帯が具体的に試されるのは、国境を越えるより前に、日本のなかの外国人―なかでも戦前戦後を通じて日本帝国主義の支配と抑圧のまととなっている在日朝鮮人との連帯である。朝鮮戦争のなかでの日朝青年の反戦共闘、また戦後初期の在日朝鮮人連盟との連帯はたしかにその証ではあったが、それはいわばもともと一つの思想から生れたものであり、想想の異なる多くの人々との連帯・共闘には発展しなかった。「ビキニ」以来炎のように燃え拡がった国民的な運動のなかで被爆者が重要な位置を回復したとき、果して朝鮮人被爆者のことが大きな問題になったことがあったであろうか。それが広島でようやく多くの人々にとっても重要な問題として意識されるのは広島県朝鮮人被爆老協議会が組織される前後の七〇年代であり、全面的な統一行動として発展するのは八○年代反核運動のすすむなかであった。私達日本人の反核反戦運動にとって朝鮮人被爆者をどのようにとらえるのか。この視座と行動こそ国際主義の身近な試金石ではないか。

 たしかに戦後日本の、そうして広島の反戦平和運動は、世界と日本の歴史的過程の反映でもある。

しかしそれは単なる反映ではない。それは国民的なものと国際的なものとが交錯しつつ、下からの一人一人に支えられた民衆のヘゲモニーが確立されてくる過程に照応してその対立を克服してきた。下からの自覚的エネルギーが国民的なものをとらえるとき、それはすでに国際的なものと別ではない。

それは第一の方法として設定した自立と連帯とのかかわりが国家のカベをつき破って国際的な拡がりを獲得するからだ。ここでも運動の統一は何より重要である。それは異なった歴史と性格をもつ諸国民の運動の国際的な反核統一戦線としてあらわれる。そうしてその力だけが帝国主義の核戦略をうち破り核軍拡競争をとどめて平和な新しい社会を創る。

 

戦後目本の反核反戦運動

私はすでに述べたような立場か巨戦後呆の反核反戦運動は三つの時期に分けることができると  第一の時期は戦後初めから朝鮮戦争前後までの占領下の反戦反原闘争であり、第二の時期は思う。

「ビキニ」以来の原水爆禁止運動である。第三は八○年代とくに八二年以隆世界的な反核運動が昴揚しつつ日本の運動もその一環となった時期である。

 (第一期)

戦後ただちにはじめられた原爆と人間の追求は芸術・文化の分野からであった。それはよく知られているように、栗原貞子「黒い卵」、原民喜「夏の花」、峠三吉「人間をかえせ」などによってになわれている。これらの人々の作品は、いわゆる原爆詩・文学の最初の礎石となったものである。丸木位里・俊の「原爆の図」はその後の原爆画の先駆であるとともに、その後「南京大虐殺」「アウシュビッッ」「水俣」へとつづく追求の原点となった重要な画業である。そのほか、青年文化協会の大村英幸、広島文化協会の中川秋一などの仕事もけっして忘れてはなるまい。こうした芸術文化の領域に比べて大衆運動の分野では取り組みがおそかった。というよりも原爆後の広島では食べてゆくのがやっとの思いだったからでもある。労働組合は次から次へと組織され生活や権利のための大衆団体も多くつくられ・当時地区労と県労の責任者であった私も駆け回ったが、平和をまもるための運動と組織はつくりもせずつくられもしなかった。平和運動に手が回らぬほど生活のことが多忙であったとはいま思えば言い訳にもなるまい。その意味ではむしろ、どんな状況のもとでもその鋭い感性で人間と事実を直視する芸術家・詩人のひたむきなまなこに心から敬意を表する。

 この時期、はじめは一定の限度内で日本の民主化に熱心だった占領軍が、四九年秋中国革命の勝利が明らかとなり、他方では傾斜生産方式による独占資本の再建がはじまるなかで、アメリカ帝国主義の反共反革命政策にもとついて急速に大衆運動への圧迫を強めてきた。反戦平和運動がはじめて大衆的な規模で登場するのはこうした時期であった。五〇年朝鮮戦争勃発当時の激しい闘いを準備したのは四九年十月の平和擁護広島大会、五〇年三月からの「ストックホルム・アピール」署名運動、同四月の広島平和擁護委員会世話人会の結成、同七月の「平和戦線」(日共中国地ヵ委員会機関紙)での被爆写真公開などであった。五〇年「八・六」の闘いは事実上日共中国地方委員会によって計画され私はその中心の一人となった。それはもちろん朝鮮戦争下の「八・六」を戦闘的な反戦活動家の手で闘いとるためであったが、それ以上にこの年「コミンフォルム批判」をめぐって大分裂した党内闘争で勝つためには国際派の拠点であった広島でこの反帝反戦闘争を是非とも成功させる必要があった。その意味で、の闘争は大衆運勤というより党を中心とした活動家集団の戦闘的な闘いであった。直前になると呉軍政部から私に呼び出しがかかり、当日は市内外に三千名の機動隊が待機している状況のもとではそれも止むを得なかった。文字どおり二重権力による弾圧下の非合法闘争であった。このなかでとくに重要なことは、これを闘ったのが中国地方全域から結集した日朝青年活動家約三百名だったことである。戦後来私達地区労や県労が生活や権利の要求で激しい地域闘争を闘うとき、いつでも強力な同盟軍であったのは在日朝鮮人連盟と部落解放同盟の活動家達であった。四九年六月の日鋼争議の闘いはその典型であった。私は全国どこでもそうなのかと思って朝鮮人の古い活動家にきいてみたら、広島がとくにそうだったという。いま思えばそこには当時の中国地方党の意識的な追求があったと思う。いずれにせよ日本を基地に朝鮮を侵略する帝国主義戦争にたいして日朝両国の青年活動家が被爆地広島でともに手をとって闘ったことは、たとえそれが少数の戦闘的な活動家達であったにせよ国際的な反帝反戦闘争の重要な一環として歴史に残されるべきであると思う。

 しかし原爆についてはサブ・スローガンとして「原爆を直ちに廃棄せよ」と提起したにとどまった。

当時の私達にとっては、原爆以上に重要なのはアメリカ帝国主義の支配また侵略と闘うことであった。

それは私達が原爆のもつ特殊な性質と意味を今日のように追求し得ていなかったというぼかりではない。今にして思えばその戦闘性と尖鋭さは、天皇制ファシズム下における非合法闘争の総括が行なわれないままにその伝統的なセクト主義をも合せ継承したのではないか。権力の弾圧が強ければ強いほど、どんなに緩やかでも被爆ヒロシマの事実から出発して大衆的な運動をすすめつつ、他方で階級的戦闘的な闘いを組織する必要があったのではないか。占領下の闘争目標と運動のやり方については一度改めて総括する必要があるように思う。翌五一年の「八・六」では中国地方的な規模で結集した約一千名の平和集会のなかで、峠三吉のガリ版刷りの詩集『人間をかえせ』が配布され、はじめて原爆とその被害を意識したうえでの報告と討論が行なわれた。五〇年は非合法、五一年は屋内、五二年は野外と、講和が近づくにつれて集会の規制が緩和され、五三年には後のカープ球場となる広場で県労主催の大規模な「八・六」集会となった。

 結局、五〇年前後第一期の運動は、少数ではあるがすぐれて国際主義的な反帝反戦反原爆の闘争だった。被爆という国民的体験は占領軍によってできるだけ隠され薄められ抑圧されたばかりでなく、多くの人々にとってもまだ意識下のものであり心の奥深くしまい込まれていた。ヒロシマの原体験がよみがえり、その怒りがいっきょに噴出するのは「ビキニ」を待たなければならなかった。

 (第二期)

「ビキニ」被爆で久保山機関長が亡くなり、汚染されたマグロの台所に与える恐怖はいっきょに十年前のヒロシマ・ナガサキをよみがえらせた。この年三月十五日に第五福龍丸乗組員が原爆症と判明し水揚げマグロから放射能が検出されてからニヵ月後の五月十五日、かつてない各階各層の人々、とくにいままでこうした運動に無縁であった婦人、青年、文化人等による原水爆禁止広島市民大会がひらかれ、六月四日原水爆禁止署名運動が開始されてからニヵ月半後の八月二十一日には百万を突破するという速度と量のなかにも、炎のように燃え拡がったこの運動のすさまじさがうかがわれる。それはもはや運動というものではなく、県・市から町内会まで、労働組合から婦人会まで、市内から遠く郡部まで、多くの人々が集まり、誰彼となく訴え、遠くまで走り回ったのであった。そこには自民党から共産党まで、左翼から右翼までの人々がいた。それはよく言われるように思想・信条を超えたのではなく、どんな思想・信条も必要ではなかったのだ。ビキニーヒロシマー明日の恐怖は「死の灰」を媒介に結び合って燃焼した。それはようやく講和によって独立を回復し、朝鮮戦争の特需をテコに経済は戦前水準に回復したとはいえ未だ帝国主義の復活にいたらず、その怒りが原爆そのものにだけ向けられている限り右も左も運動をともにすることのできるほど国民的な合意を得たものであった。それは占領下では心の底深くおし込められていたヒロシマの恐怖と怒りが町ぐるみ国ぐるみで爆発した

かのようであった。そこにはどんな新しい組織も必要ではなかった。行政組織から会社まで、すべての既存の組磐そのままこの拡がりをになった。知事や市長が街頭に立ち、村長や婦人会長が筆頭で書名した名簿はまたたく間にすべての市町村をおいつくした。それは下からの一人一人の自立的なエネルギーの巨大な結集というよりも、「ビキニ」によって点火された国民的エネルギーの巨大な爆発であった。それはまた十五年戦争を日常化された意識の変革を必要としない反原爆のエネルギーでもあった。

こうして翌年から原水総禁止世界大会ははじまった。いやむしろ、第一回原水爆禁止世界大会がこの途方もなく巨大な拡がりをはじめて運動化したといえる。大会で決議された広島アピールはこの運動の綱領であった。「原水爆被害者の不幸な実相は広く世界に知られなければなりません。その救済は世界的な救援運動を通じて急がれなければなりません。それが本当の原水爆禁止運動の基礎であります。原水爆が禁止されてこそ真に被害者を救うことができます」ということばはその核心であった。それはまさに世界で最初の被爆国となった日本の国民的なテーゼであった。被爆者は生きていてよかった」と手をとり合って涙を流した。それは被爆による国民的な被害の確認でもあった。しかしそれは、殺されあるいは生きのびて苦しんでいる外国人被爆者とりわけ朝鮮人被爆者の問題が入る余地のないほど国民的なものであった。

第一回大会が終わるとまもなく日本原水協が組織された。広島県原水協はすでに前年の「八・六」直後に結成され、各都道府県原水協は日本原水協につづいて次々に決成された。しかし、ここで重要なのは後日この運動が分裂するときに決定的な役割をになった全国的中央組織である日本原水協の結成である。本来署名運動というカンパニアからはじまり国民的な原水爆禁止運動となったこの運動の恒常的なカンパニア・センターであるはずの日本原水協が、全国的な運動の方針をきめこの運動を左右する指導機関になるのに時間はかからなかった。そのときはまた分岐のはじまりでもあった。第四回大会の年の春、安保改定阻止を第一義的に闘うべきだとする全学連は統一をみだすものとして早くも日本原水協から除名された。しかし翌五九年になると日本原水協は「安保反対」声明を発表し、まもなく安保共闘国民会議に参加した。もしこの運動が原水禁運動に徹しようとするなら、その立場からのみ限定的に「安保反対」にかかわるべきで、まして安保共闘に加入すべきではなかった。それは、原水爆禁止運動の方が安保闘争よりはるかに広い運動でいっそう多くの人々を含むからだ、もっとも問題なのは日本原水協がすでに中枢部を占めつつあった政党フラクションの協議と取り引きで何事も決定できるしくみになりつつあるということであった。ついこの間まで平和運動には見向きもしなかった日共中央は、この巨大な運動の組織的な指導権を握るために全力を挙げた。こうして運動のはじまった時期には自然にできあがっていたカンパニア運動の自由連合的な結びつきが、いつの間にか指導部としての日本原水協常任理事会が旗を振る組織的運動になっていた。自由で多様な運動は次第に組織の決定する方針に忠実な運動になっていった。こうしてまず最初に「安保反対」を口実にした右からの分裂がはじまったのが第五回大会だった。それは六〇年安保から六五年日韓基本条約に至る日本帝国主義の復活を前に、階級対立がようやく激しくなり国民内部の矛盾があらわになってきたことの反映でもあった。国民的なテーゼはまず右から引き裂かれた。

 しかしその翌年の第六回大会から第七回大会にかけて早くも次の論争がはじまった。今度は「左」からの分岐が用意されたが、それは組織の外にではなく組織の内を支配することをめざした。幅広論にたいする筋(すじ)論、反原爆にたいする「平和の敵=アメリカ帝国主義」論の旗をかかげた日共系の論拠は彼等の民族民主革命綱領にあった。それは原水禁運動のみならず一般的には平和運動の存在そのものをも否定する論理であった。どんな思想・信条をもつ人々をも参加できるように、いかなる国をもあらかじめ敵味方とせず、具体的な事実と政策を通じてのみ戦争に反対し平和をまもるという戦後平和運動の大衆的性格そのものが問われていた。地婦協(婦人会)日青協(青年団)をはじめ労働組台とともにこの運動を当初からになってきた諸団体がまず反対したのも当然である。この対立が一般論から具体的なものとしていや応なく激突を追られたのが「ソ連核実験」であった。平和運動の性格からいっても、またとくにこの運動が階級的エネルギーから生れたものでなく国民的なエネルギーの爆発によって生れたものであることからも、「いかなる」国の核実験にも核兵器にも反対するのは当然であり必然でもあった。「いかなる」は特殊ヒロシマ的なものから日本的なものとして改めて確認されなくてはならなかった。

 結局二度目の分岐は中央機関による多数決によって決定的となった。どちらが多く集めるかという動員競争の手続きも裏ではしのぎが削られたが、いずれも組織と機関が舞台であった。奇妙なことにこの分岐は運動の本流がしびれを切らせて外に出ることで決着し、「左」の分岐が原水協そのものとなることによって分岐が「本流」となった。それは単に社共の指導権争いというだけのものではない。

戦後来運動を通じて大衆と結びつき大衆から支えられるというよりも、フラクションによる機関の占領によって党の思うような「大衆」運動を上からつくるという日本共産党の歴史的な病弊はまたしてもここにあらわれた。指導権掌握に失敗した場合には自らが分岐して思うような組織と運動をつくるというやり方は、その後部落解放運動における「全解連」や労働組合運動での「統一労組懇」などですでに実証された。それは一つのメタルの裏表である。彼等にとって一つの運動は一つの組織でなければならず、運動の主人公は大衆ではなく党でなくてはならないのだ。意見の異なるものがともに闘うことこそ統一であるとすれば、彼等のやり方はまさにその正反対物であり、運動と組織の混同でもある。それは日本の運動の歴史的な弱点、悪しき病根の集中的な表現でもある。この日共の悪しき病根はおくればせに社会党にも移された。

 こうして六三年来、全国的な規模では二つの原水禁運動が生れた。しかしそれはけっして無駄な寄り道でもなければ歴史の逆行でもなかった。新たな分岐はきびしい情勢のなかで多くの新しい実りを生んだ。沖縄の闘いとベトナム反戦、また原子力潜水艦・空母寄港反対と反原発運動など、こうした二つの運動は競争的共存のなかでそれなりに運動の幅と厚みを加えた。しかしそれぞれが社=総評と共=平和委員会をその組織的な枢軸としていることで分岐後十年を経て「再統一」が上から東京でもくろまれた。しかし、きびしい情勢のもとでこの運動を十年二十年前の昔にかえす国民的な「再統一」は時代錯誤であった。セレモニーとしての七七統一世界大会は変化する情勢とは無関係に、「ヒロシマをくりかえすな! 核兵器を全廃せよ!」 「統一! 統一! 統一!」と叫んで万雷の拍手を浴びたが、まさにそれだけであった。具体的な課題はすべて「統一」のために見送られた。そのうえ日共の正統派主義―それはいつの場合でも運動より組織の伝統を最大の権威とする宮本主義―は、解体「統一」論の立場をとることで再び運動を組織にすりかえ運動の統一を組織の「統一」に曲げようとした。

しかしそれは終始大衆的な基盤のうえに立って、共通の課題にもとつく共同行動を主張しつづけた広島原水禁などの執拗な努力によってほうむり去られた。しかしそれは批判だけに終ったのではない。

当の広島原水協はもとより、さまざまな団体、多くの草の根連動、すべての人々に広島原水禁が呼びかけつづける共同行動はいまヒロシマから実りはじめている。ヒロシマから口本各地へ、日本から世界各国へ拡がった核実験抗議の座り込み運動の発展はその顕著な一例である。

 それは再び昔に帰る「再統一」ではなく、分岐が生んだ新しい運動の新しい統一である。それは、八○年代反核運動とのふれ合いを通じていっそう明らかとなった。分岐までの原水禁運動は毎年の国際会議で花々しくその国際性を誇示したが、朝鮮人被爆者の問題が深刻な問題として追求されたことはなかった。それはまさに国民運動としての国際連帯であった。朝鮮人被爆者を代表して広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が原爆と日本帝国主義を公然と告発したのは広島では分岐後の七六年、被爆三十一周年原水禁大会開会総会のときだった。

 (第三期)

 この時期の運動は第二期の運動の単なる延長でもないし、またくりかえしでもない。それは、現代帝国主義の危機から生れたレーガンの冒険的な核戦略・核桐喝と果てしない核軍拡競争にたいする全世界人民の自立自衛の国際的な運動とのふれ合いのなかから生れた古くて新しい運動である。

 現代反核運動の第一の特徴は、あれこれの国民的な運動の連合ではなく、世界的な核戦略にたいする一つ一つの都市から生れた運動が国境を越えて結び合う国際的な性格をそれ自体もっていることである。またこの運動は、日本の従来の原水禁運動のように「ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな」と

一般的に核兵器の廃絶を求める運動とちがって、一つ一つの町に現に核ミサイルが配備されようとする事笑にたいする具体的な反政府行動であり、ヒロシマはその証人としていま歴史の舞台に呼び出されているのだ。この運動の「やさしい戦闘性」とでもいうべき性格は、かつてなく多くの人々が参加する幅広い行動でありながら一人一人の断固とした決意だけが表現できるある種のやさしさと激しさとを共存させている。またこの運動の特徴は、意見の相違を削りながら最大公約数としての反核の一点で共同行動をすすめるといういままでの日本的発想と異なり、いまの支配が生み出す失業やインフレなどもろもろの体制悪にたいする憎しみと怒りの感情をこめた表現の集中点としての反核統一行動であることにある。彼等は何一つ削ろうとしていない。またこの運動は「アジア文学者ヒロシマ会議」のテーマが明らかにしているように、「核・貧困・抑圧からの解放をめざして」闘われることによって資本主義世界から第三世界へとその外延を拡げながらその鋭い内包をわれわれにつきつけている。こうしたなかで朝鮮人被爆者の運動と交流はかつてなく発展し、広島県朝被協の代表は国連とアメリカまた西ドイツへとその国際的交流を深めることができた。

 現代世界の反核運動は世界史上かつてなく広くて深い基礎をもつ自立的国際的な運動である。この運動とのふれ合いのなかから生れた八二年の広島・東京・大阪の反核集会はその規模の大きさばかりでなく、自立と連帯の新たな関係―統一運動の新たな発展がはじまったという意味でも画期的に重要なものであった。二十万人集まれば誰も号令できないことがまず広島で証明された。この運動は、核軍拡競争がますます進むなかで核戦争の危機が日常化され、それが人々の住む軒先から引き金に通じているという情勢のもとで自らの命と自らの町をまもるために、その運命を他に委ねることなく自らが決めようと決心した全世界何億何十億の人々の運動の一環である。それは人間を否定する巨大な核兵器そのものを否定するための人間存在をかけた世界的な闘いである。国境を越えたこの運動こそ核戦争を阻止し核兵器を廃絶させる基本的な力である。われわれは世界各国の運動からその形態ではなくその本質を学びつついままでの国民的な原水禁運動の自立的な、再追求を通じて広島の、またあれこれの町の、そうして日本の独自な運動を創造しなければならない。そのためにも意見の和違を切り捨てる日本的国民主義的な発想と決別して、具体的な課題を闘う多くのグループが共闘共存しつつ反核の旗印のもとに結集できる運動をこそ追求しなければならない。自立と連帯、運動の統一は単に運動の方法論の問題ではない。それは何よりも情勢の要求する具体的な課題への具体的な行動が前提である。その意味で、統一とは「誰が、何を」ということを抜きにしては存在し得ぬ。

 それにしても八二年大集会に結集した人々の波々はどこへ消え去ったのか。いまかつての危機感はどこにもない。占領下の運動は少数の活動家ながら現に日本を基地に進められようとした朝鮮侵略戦争の危機感から生れた。「ビキニ」で燃えあがった運動には現実的な久保山さんの死があり、 マグロ汚染による台所の危機感が全国の主婦をゆり動かした。それは核戦争の危機というより核実験のもたらす放射能汚染への危機感であった。そうしていまヨーロッパをおおっている危機感は、核戦争の引き金をもった核、ミサイルが自らの町のその庭にすえつけられることからくる避けようのない現実から生れるものであった。それでは日本における八二年の運動は何であったのか。それは同じような核戦争への危機感ではあったが、朝鮮戦争のときの切迫した気配はなく「ビキニ」には遠く及ばない。それは結局ヨーロッパの危機感に媒介された核戦争への間接的な危機感ではなかったか。だからこそいまその気配が蜃気楼のように消え去ったのではないか。

 しかし、事実と事実から生れる危機はけっして間接的でも観念的でもない。西ドイツやイギリスの核ミサイルが陸上公然と配備されているのに比べて極東の核ミサイルはすでに海中深く潜行して姿を表わさず、時に姿を表わしても「事前協議」という日米共同謀議の隠れみのでゴマ化されている。そのうえ軍事一体化をすすめている韓国が極東最大の米軍核基地であることは半ば公然たる事実である。

いま「トマホーク」が隠れみののほころびから姿をあらわし、日米韓合同演習「チーム・スピリット」が忙しく準備され、「リムパック84」演習への海上自衛隊の参加が公然と語られるとき、志ある全国の人々の運動が下から地方からおこり始めている。しかしそれはまだ序曲でしかない。このほとばしりを受けた労働者や婦人が「ビキニ」のように立ち上るとき、それは三度目の、しかしもっと大きな反核のうねりとなるだろう。危機が目前に在るのに危機感が薄いというこの現実をいかに変えるべきなのか。それは危機があらわれるのを待つことによってではなくわれわれが隠れみのをはがすことによって、そうしてまた誰かが号令を下すのを待つのではなく一人一人自らが立ち上ることによってこそ可能なのである。

(「ヒロシマから」19847月 青弓社 刊より)