松江澄さん死去 戦後の反核運動リード
反核訴えた松江澄さんしのぶ 広島
追悼 松江 澄さん 反戦・反核運動の支柱共産主義運動の大先輩
松江澄さんの真摯さ
月15日 大木透
松江澄さんを悼む 白川真澄
被爆60年のヒロシマ
91フォーラム関西(2/3)での報告内容要旨
「私や私の世代の活動家は『朝鮮人』と言いにくい」もう一つの平和宣言
「地方自治体」の民主的変革をめざして   松江澄
板倉君を思う 松江 澄
内藤知周著作集解説


始めての「ヒロシマ」案内  松江 澄     リンク
ひろしま市民新聞 100号を迎えて  松江 澄
松江 澄著作リスト
松江 澄 意見書 古い「新しい」公式」と新しい「古い公式」   松江 澄

占領の性格と日本の国家権力   松江 澄   前衛 臨時増刊号 団結と前進 第5集 1957年?NEW

地方自治か住民自治か  松江 澄NEW

「市民会議」の結成と新しい住民運動の展開 松江 澄NEW
一九四九年六月―日鋼広島の闘い― 松江 澄NEW

技術革新と労働の疎外(労研通信No.14 1985.10.20刊)
ー新しい社会の展望をめざしてー  松江 澄

生産力発展と労働者ヘゲモニー(労研通信 No.60号 一九八九年七月二〇日)松江 澄

被爆四〇年の「八・六」へ   (労研通信No.八号 1985・4・20) 松江 澄
ポーランドの事態から学ぶこと ―現代社会主義の諸問題ー 松江 澄  

核戦争阻止の闘いと社会主義への平和的移行  松江澄 労研 1985.1 No.183号NEW

被爆四〇年のヒロシマから  松江澄 労研 1985.5 No.187号NEW

「地方自治体」の民主的変革をめざして    『労働者』1978年10月10日 第44号から 一部再録

八・六広島反戦・反核集会報告  松江澄 労研1985.10 No.192NEW

反戦反核運動の再構築へ  「八・五ニュース」レジメ 労働者」 1992.4.15234

十・一九反戦・反核集会に三百人結集

1992.8.5反戦反核広島集会

原爆・敗戦50周年を前に―日本の平和運動を問い直す―  特集1 アジアにおける反戦反核運動  広島県原水禁常任理事 松江 澄

加害と被害の二重の苦しみ  広島で「生物・科学兵器を考える」全国シンポジュウムを開催 松江 澄  「労働者」1993年2月15日 第243号 NEW
現代帝国主義と統一戦線  労働運動研究  松江澄 NEW
新しい党と新しい革命 労働運動研究  松江澄 NEW
日本共産党の「教師聖職」論批判 ひろしま市民新聞 労働運動研究  松江澄NEW
私の昭和思想史
(
五六) 松江澄  新時代 1993.8.15   第249
私の昭和思想史五七)松江 澄  新時代 1993.9.15  第250
私の昭和思想史(五八) 松江 澄  新時代 1993.10.15  第251
私の昭和思想史(五九) 松江澄  新時代 1993.11.15 第252
私の昭和思想史(六〇)  松江澄 新時代 1994.1.15 第253

私の昭和思想史 目次 三二 三三 三四 三五 三六 三七 三八 三九 四〇
四一 四二 四三 四四 四五 四六 四七 四八 四九 五〇NEW
五一NEW 五二NEW 五三NEW 五四NEW 五五NEW 五六 五七 五八 五九 六〇


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松江澄さん死去 戦後の反核運動リード '05/1/16

 原爆投下後の広島で、戦後一貫して反戦反核運動に取り組んだ元広島県原水禁常任理事で元広島県議の松江澄(まつえ・きよし)氏が十五日午前四時十二分、呼吸不全のため広島市中区猫屋町一ノ三の自宅で死去した。八十五歳。広島市中区出身。告別式は十六日、広島市中区上幟町八ノ三三の広島流川教会で。近親者だけで営むため時間は公表していない。喪主は長男洋(ひろし)さん。

 旧制一高を経て東京大在学中に召集され、富士山ろくの陸軍教育隊で敗戦を迎えた。一九四六年、中国新聞社に入り調査・論説を担当。労働運動に打ち込み、四八年に広島県労働組合協議会会長に就任したが、五〇年にレッド・パージを受けた。

 この間、広島で戦後最大級の労働争議とされる四九年の日鋼争議を詩人の峠三吉らとともに指導し、被爆地で初めて「原爆廃棄」を決議した同年の平和集会「平和擁護広島大会」の議長を務めるなど、戦後初期の労働運動や反核運動をリードした。

 五九年から通算五期二十年間、広島県議を務め、六二年には議員に小判が配られた「大判小判事件」を暴露したことでも知られる。著書に「ヒロシマから」「ヒロシマの原点へ」など。

 広島県原水禁の宮崎安男顧問は「核兵器を絶対否定する原水禁運動の理論的な支柱だった。彼の理論のおかげで、政治的な介入から国民運動を守り続けることができた」と功績をしのんでいる。

反核訴えた松江澄さんしのぶ 広島

'05/4/24


 被爆地広島の反戦反核運動の前線に立ち、今年一月に八十五歳で亡くなった松江澄(きよし)さんをしのぶ会が二十三日、広島市西区の広島サンプラザであった。妻祥子さん(78)や親交のあった市民約六十人が集い、思い出を語り合った。

 黙とうの後、会食のテーブルでマイクを回した。「物事を真正面から受け止める人だった」「相手が誰であろうと主張する、強さを持っていた」と故人をしのぶ声が続いた。松江さんは戦後、中国新聞社の論説委員を経て、広島県原水禁の常任理事や県議などを務めた。

 平和運動などを共にした中区白島北町の田中寿さん(81)は「優れた理論家でありながら人情味にあふれた人。大きな人望をあらためて感じた」と惜しんだ。

【写真説明】松江さんとの思い出を語り合う、ゆかりの人々

追悼 松江 澄さん
反戦・反核運動の支柱共産主義運動の大先輩


米占領下の労働
運動と反原爆運動

 広島の反戦反核運動の理論的支柱であり、社会主義運動・共産主義運動の大先輩である、元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長の松江澄さんが一月十五日未明亡くなった。享年八十五歳。
 松江さんは、旧制一高を経て東京大在学中に召集され、中国大陸・満州に放り込まれた。その後、富士山麓の陸軍教育隊で敗戦を迎えた。自分たちの自由な空気が奪われることには学内で抵抗できたが、社会的に抵抗できなかったことを一生涯、原罪として背負い続けておられた。
 被爆直後の二週間目あたりに広島に戻り、「広島駅に降り立つと目の前にいきなり(街並みが一つとして残らず)己斐の山が飛び込んできた」というその廃墟になった故郷の姿を脳裏に焼き付けたのであった。医師をしていた兄の死に場所は探したが判明しなかった。母を三年後、原爆症で失った。この戦争と原爆が松江さんを労働運動と反戦運動、そして革命運動へと導いた。
 一九四六年、中国新聞社に入り中国新聞労組を皮切りに、戦後労働運動の真只中で、四八年に広島県労働組合協議会会長に選ばれる。また、内面の闘争を経て日本共産党に入党。四九年六月から一カ月の歴史的な日鋼(日本製鋼)闘争を指導し、連日一万人を動員した。闘争は敗北し国会考査委員会に引っぱられた。同志には詩人の峠三吉らがいた。五〇年にレッド・パージを受けた。被爆地で初めて「原爆禁止」を決議した四九年の平和集会「平和擁護広島大会」の議長を務め、五○年三月からのストックホルム・アピール署名運動、五○年八・六の非合法集会、五一年八・六屋内集会、五二年八・六屋外集会、五三年八・六屋外大規模集会と米軍占領期の反帝反戦反原爆闘争を担った。

原水禁運動の分裂
と松江氏の立場

 五四年三・一の「ビキニ」被爆を契機に国民主義的な原水爆禁止運動が爆発した。六〇年安保に登りつめる過程での自民党、民社党の右からの分裂、そして、安保後の共産党の「左」からの分裂を乗りこえて、常に指導部として、原水禁運動の発展の力学を防衛し続けた(総評が組織的に右から分裂するように追い込んだ共産党の責任を捉える立場から、ここでは共産党の「左」からの分裂と捉える)。ソ連邦の核武装擁護という共産主義者の立場と米・ソ核実験を同列視しがちな大衆運動としての反核運動のエネルギーを結合しようとしたその苦闘の重さと堅実さが松江さんのポジションを確かなものにした。
 松江さんには、アメリカ合衆国によって原爆を投下された日本の反核運動が大衆的である限り、それは帝国主義に一方的に打撃になるという客観的力学への確信があった。そうであるがゆえに、ソ連邦の核武装擁護が綱領的、政策的に正しくても、階級的革命的立場を大衆運動に対して一方的かつ教条的に押し付けることが百害あって一利なし、という立場に立ちきった。
 この松江さんらの立場が、「いかなる国」問題での分岐において、総評でもなく、共産党でもない、被爆地の広島県原水協(後の俗称:広島県原水禁)の立場を不動のものにした。全国では総評が組織的に日本原水協から右分裂したものの、被爆地では、統一の隊列を守る粘り強い運動を実現したのであった。そして共産党は忍耐強く我慢することができなかった。稚拙な分裂を広島県原水協・被団協に対して行った。とりわけ被害者団体の被団協で強行したことは致命的であり、今日まで、被爆地での共産党の位置を低くするものとなっている。

大衆運動・組織建
設の経験から学ぶ

 五九年に日本共産党初めての県議、以降通算五期で住民運動の先頭に立つ。六一年に内藤知周らと共に社会主義革新運動を結成。その後の労働者党建設の困難な道を歩む。一九四八年から一九六一年の共産党時代、三度の党内闘争で二回の除名、一度の機関罷免処分、ついに新党コースに飛躍した。しかし、その後の三十数年の党建設の闘いは、実を結ばなかった。長谷川浩、内藤知周をはじめ六一年以降の共産党内の批判的精神の潮流は、国際共産主義運動の総括を通して、トロツキズムに結びつくことはなかった。
 広島の第四インター活動家は、七〇年代、松江さんや広兼さんから労働者党建設の方法を、その姿勢を、学ぼうとしたという。私は、松江さん支持者の方が経営する本屋で働きながら、松江さんを存じ上げていたが、親しくおつきあいさせていただくようになったのは、八〇年代後半からだった。反戦反核広島集会の流れでは、九六年まで代表を務めていただいた。
 月一回の学習サークル、平和サークル(平C)では、日本近代史、戦後史、グラムシの獄中ノート、東欧改革・ゴルバチョフ改革、ソ連邦の総括、渓内譲氏の著書をめぐって討論し、いろいろとご教示いただいた。私のスタンスは、エルネスト・マンデルの受け売り一本であったが。九○年の正月には、沖縄で、ご一緒させていただいた。二〇〇〇年の入院の際は、毎日、市民病院に駆けつけさせていただいた。退院後、市民運動の拠点であった場所の高齢者デイサービスに通われるようになり、松江さんを尊敬するスタッフの介護の中で穏やかな晩年を過ごされた。
 ソ連邦解体後、ソ連核実験場のセミパラチンスクを広島県原水禁として初めて訪問した際、松江さんは次のように述べられた。
 「広島県の二倍もあるこの大草原のかなたで、四九年から四十年間にわたって三百二十回も核実験が行われた。二百八十回に及ぶ地下核実験は地底から草原を揺るがせて大地を割り、四十回の大気圏実験はそのたびにヒロシマと同じ『きのこ雲』をこの草原の空に噴き昇らせた。広島より何十倍も重い線量の放射能が草を侵し牛を侵し、風に乗って草原の人々を侵し続けた」。
 松江さんの事実から学び、誤りから率直に転換する姿勢、大衆運動をご都合主義的に引っ張りまわす「指導」への徹底した嫌悪、「コシアン」より「ツブアン」という自立した人々の集合体、組織への熱烈な希望、これらを私たちは学んできた。
 被爆六十年の節目に、広島の運動が飛躍するように、私たちに促すかのような旅立ちであった。
 松江澄さん、長い間、ありがとうございました。あとは私たちが国際的で階級的なこの歴史的事業を引き継いでいきますから。
 (1月31日 久野成章)

松江澄さん死去 戦後の反核運動リード

「地方自治体」の民主的変革をめざして    『労働者』1978年10月10日 第44号から 一部再録


反戦反核運動の再構築へ  「八・五ニュース」レジメ 労働者」 1992.4.15234

松江 澄  レジメ

 

松江代表はレジメにもいとづいて重要だと思う点にについて補強提起した。同氏がとくに強調した第一点は、戦後来の世界と日本の反戦反核運動を規定していた国際的な枠組みは米ソであったが、米ソ核軍縮の対立にひきつづくソ連の崩壊によって、その冷戦構造が終焉したこと、その後あらたに米戦略が提起し実行しているのが、先進諸国をかたらって途上国の粉砕を「選択抑止」し、石油をはじめとする米や先進諸国の権益をまもることであり、湾岸戦争はその集中的な実例であったこと。

 第二に、こうした状況のもとで日米安保が新たにアジア・太平洋「抑止戦略」の枢軸にされようとしており、そのことは沖縄基地をめぐる収容委員会における沖縄施設局の釈明―「日米安保条約はアジア・太平洋地域の平和と安定のために機能を果たしつつある」という新たな解釈によって明らかであり、それはカンボジアPKPへの参加をねらうことから始められようとしていること。

 第三に、そこで一方では冷戦構造の凡壊によって名目を失った大軍備と核武装の廃棄を要求して積極的な攻勢に進むとともに、かつての日本侵略戦争も犠牲を深く心に刻んで償うことを前提に、アジアの民衆と連帯して新たな平和戦略を追求し、そのための縦深の深いネットワークの形成を進めなくてはならぬ、ということであった。

松江氏の提起のなかにある「守勢から攻勢へ」、あるいは自衛隊の縮小についての「ハーフ・オプション」論について活発な議論が交わされた。


十・一九反戦・反核集会に三百人結集

 十月十九日、東京総評会館にて 91反戦反核東京集会が開催された。集会は八月の広島集会と呼応する東京集会実行委員会が主催したもので、広島集会実行委員会の松江澄さんらも参加した実行委員会を積み重ねながら準備されてきたものである。ピースサイクル運動や広範な独立左派の各派も構成団体に入った、反戦・反核運動を主体的に再構築していこうとする意志の結集の場である。
 集会は、実行委員会の西田理さんが経過および基調を提起し、各界・各地の運動からの提起と報告を受け、衆議院議員の長谷百合子さんの国会報告があり、しめくくりとして東京全労協の池田さんから、特別アピールとして十一・二〇集会への結集が呼びかけられた。
 各戦線、各地からの報告には、とりわけNEPAの会の服部さんの報告に見られるように、従来型の公式的運動にとらわれない大胆な試みが示されるなど、各地での取り組みが創意をこらして作られていることを実感させれるものが多かった。
 NEPAの会の報告は、アメリカの環境保護法NEPAを利用して、横須賀基地のNEPA違反を告発し、ワシントン地裁に国防長官、海軍長官を訴えたもので、多くの米軍基地を抱える国々からの反響があるというものであった。
 集会に先立ち、討論集会が開かれ、約六〇人の参加のもと、星野安三郎さん、松江澄さん、吉田嘉清さん、前野良さんらがパネラーとなってPKOによる国際貢献論に対抗する視点を討論した。


板倉君を思う1976710日 『労働者』)         松江 澄

 板倉静夫氏急逝

板倉静雄氏は197677日午前7時急逝骨髄性白血病のため急逝された。享年五十歳。

 

昭和20年、私が共闘委員長だった日鋼争議の闘いの中で、当時三菱広島造船労組の青年部だった彼と会ったのが最初の出会いだった。若くてスマートで、それでいてたくましかった彼と、以来今日まで 27年間、心許した同志の仲だった。

 彼は、レッド・パージで三菱を首切られてから、機関紙活動、労組書記の活動など地味な仕事を続けながら、五十七年の第三回世界大会以来、広島原水協、つづいて広島原水禁の事務局次長として十数年もの間、縁の下の力持ちのような、しかしこの運動にとって他の人に替えられぬ大きな貢献を果たした。早くから運動に参加した被爆者で彼を知らぬ人はいないであろうし、また被爆三県はもちろん中央、地方の原水禁運動の活動家の多くが広島に来れば必ず訪れたものだった。ほんとうに彼は広島の運動の生き字引であり、案内人であった。

 彼ほど、几帳面で器用な反面、奔放で自由な、その上鋭いカンをもっている男も珍しい。彼には、初めての人でも一夜飲んで意気投合すれば一生のつきあいになるほどの人間の深さがあった。彼は多くの人々を愛し、多くの人々もまた彼を愛した。しかし、あの頑健な彼もついに逝った。彼が何度もそのために奔走した白血病のために広島の原水爆禁止運動はまた一人かけ替えのない宝を失った。


初めての「ヒロシマ」案内

                               原水爆禁止広島協議会                              常任理事  松江 澄

  一昨年の秋だったか、久し振りで会った戸村君から単刀直入に、「ヒロシマの平和運動とは何ですか」と問いかけられたことがある。

 戦後来広島で反戦反核運動をつづけてきたつもりだった私は不意を衝かれて、「ともかく自分でやって見るしかないよ」と、答えにならぬ答えしか言えなかった。

 その実直で誠実な彼が一年以上もかかって自分の足で歩き、眼で見きわめながら追求したのがこの書だった。彼は「ヒロシマの今から過去を見て回る会」を皆でつくり、フィールドワークで多くの人々にヒロシマを伝え、「広島案内」という一書をつくりあげたのである。これは彼が一つ一つ歩いて調べたものであり、その殆どのフィルムは彼のレンズがとらえた広島の過去のあかしなのだ。従ってそれはただの地理的な「広島案内」ではない。それは彼によってひらかれた広島の歴史地図なのだ。これをひもとく人は日清、日露の戦争から十五年戦争まで、侵略戦争の加害から原爆の被害まで、一人の日本人として事実を知るために歩き始めるに違いない。こらはまさに広島の遺跡の案内書であるとともに、かって彼が私に問いかけた「ヒロシマの平和運動」の案内書なのである。

 ふり返ってみれば、こうした案内書が出来たのは私の知る限り広島で初めてである。こうした書が戦後はじめて、戦争と原爆の五十年忌を前にしてつくられたことの意味は大きい。いままで広島の加害と被害は多く語られてきた。しかしそれは本来けっしてことばや思想だけの問題ではない。彼は一つの町で起きた二つの課題を足で歩いて堀り起こし、同じように多くの人々に足で歩くことを求めている。それは彼のたゆみない実直で凝り性の職人かたぎがなければ生まれなかった。そうして彼は広島で産まれ、生きて、死んでいった多くの人々や樹木や建物を誠実に歩き求めようとする人々のために一身をつくして労働した平和の職人なのである。

 彼のひたむきな努力と、その努力を助けた多くの人々に心から感謝する。私は一人でも多くの人々がこの書を読み、この書を友としてヒロシマと広島を歩き尋ね求められることを心から期待する。

 すべては事実から始まるからである。



松江澄さんの真摯さ         宇仁宏幸
 
松江さんと初めて会ったのは学生時代だと思うが、頻繁にやりとりをしたのは、1988年から91年にかけての約3年間である。88年にわたしはそれまで勤めていた会社を辞め、大阪にやってきた。そして翌年から5年間、大阪市立大学で経済学を学ぶことになる。当時、大阪では『労研通信』という、総頁数約12ページ、発行部数約2百部の文字通りのミニコミ月刊誌を、京阪神在住の京大OBが中心となって発行していた。第1号は1984年に出されたが、次第に原稿が集まらなくなり発行が滞りがちになっていた。それを建て直す意図も込めて松江さんは『私の昭和思想史』という自分史の連載を1988年6月発行の第46号から始められた。松江さんのおかげでその後『労研通信』は順調な発行に戻った。仕事を辞めたわたしが最も暇だったので、原稿のとりまとめや印刷所との連絡を担当した。松江さんは、毎月原稿用紙約20枚の手書き原稿を送ってこられた。その原稿はペンで丁寧に書かれており、修正箇所はほとんどなかった。おそらく下書きを書いたうえで、それを最後に清書されていたのであろう。原稿提出後に気づいた訂正は電話やはがきで連絡してこられた。発行後には誤植を細かく指摘された。編集も刊行もきちんとしているとはいいがたいミニコミ誌にもかかわらず、松江さんは、非常に真摯な姿勢で、膨大な時間を費やして原稿を執筆された。ものを書くことに関するこの真摯さから、当時研究者を志していたわたしは多くのことを学んだ。『労研通信』は購読料がきちんと徴収されていないこともあり90年末頃から財政難に陥った。わたしたちがワープロ入力を担当することによって経費節減を図ったが、その努力も及ばず、91年4月発行の第81号で廃刊となった。松江さんの『私の昭和思想史』の連載はその後『労働者新聞』に引き継がれた。また『労研通信』に掲載された30回分は、加筆されて、社会評論社から95年に『ヒロシマの原点へ』として出版された。『労研通信』の最後の数号のワープロ入力を担当したせいか、松江さんの手書き原稿約130枚が、わたしの手元に残された。わたしはこの手書き原稿を見るたびに、松江さんの真摯さを思い出す。また、研究者を志した頃のわたしの初心がよみがえる。


『グローカル』673号より

松江澄さんを悼む

白川真澄


 松江澄さんが亡くなられた。反戦平和運動、共産主義運動の大先達であり、被爆地・広島の地で運動に生涯を捧げた人であった。日本共産党に入党し、中国新聞社時代は産別会議議長として労働運動を、そして朝鮮戦争反対の平和運動、原水爆禁止運動を組織された。一九六一年の共産党八回大会を機にして除名された春日庄次郎、内藤知周さんたちと行動を共にしたが、県会議員であった松江さんは大衆的な人気があって、共産党除名後も県会議員に当選することができた。
 私が初めて松江さんにお会いしたのは、一九六六年三月に開かれた「共産主義者の結集と統一をめざす全国会議」の時のことだと思う。私は六四年に共産党を除名されて、志賀義雄さんたちの「日本のこえ」に参加していたが、「日本のこえ」、内藤さん・松江さんたちの「社会主義革新運動」、春日さんの「統一有志会」、それに無所属の共産主義者が一堂に会して、反スターリン主義の潮流ではない新しい前衛党の結成をめざしたのが、この「全国会議」であった。二〇歳代前半の私たちは、ぎっしり満杯の大広間と廊下の敷居に座るのがやっとで、雑誌や機関紙で名前を知っている著名なリーダーたちの演説に聞き入っていた。松江さんは重量感のある音声で爽やかな演説をした人だったが、この会議で松江さんがどんな演説をしたか、また松江さんとどんな会話をしたのかは、よく思いだせない。
 この「全国会議」は紆余曲折を経て、共産主義労働者党の結党(六七年二月)に至るのだが、松江さんの率いる広島の地方組織は当時の私にとっては憧れの目標であった。京都の党組織は学生運動の活動家を主力とし、ようやく職場に活動家を送りこんで労働者の中での組織建設に試行錯誤で手を着け始めていたが、広島の党は国鉄労働者の中に組織をもち、議員を出し広島駅前に事務所を構え、メーデーなどでは社共とならぶ政党として扱われていたからである。
 松江さんは、党の中央委員会の会議などでお会いすると、いつも柔和な笑顔で話しかけてきて、地方組織で活動している私を励ましてくれた。広島に行ったときに、一度自宅に泊めていただいたことがあるが、夫人が内職仕事をされているのに出くわして、職業革命家の生活は大変だなと、つくづく思ったことをよく覚えている。
 しかし、そんな松江さんとの決別は、意外に早く訪れた。ベトナム反戦闘争や全共闘運動の高揚は、共労党が左へ舵を切り、実力闘争に突入していく道を選択させたが、松江さんたちはこれに異を唱えた。反戦青年委員会を組織して、青年労働者を労働組合の枠を踏み越えて立ち上がらせるという私たちが提示した方針は、広島の党組織には受け入れられなかった。労働組合運動の中に根を張ってきた強みが、時代の激しくはやい転換に対応することを逆に妨げたのかもしれない。六九年五月の三回大会で、私たちは松江さんたちと袂を分かつことになった。私は、政治的には当然いいだももさんたちと同じ道を行くことを選択していたが、人間的には深く信頼していた松江さんとの別れは、ちょっと辛いものがあった。何年か後に再会する機会があったが、松江さんは、この時代の青年・学生の反乱を高く評価するようになっておられたようだ。
 共産主義運動そのものの意味が歴史の厳しい点検を受けねばならない時代に入っているが、民衆の解放と反戦平和の信念を貫いた松江さんの生き方を、私はやはり尊敬する。ご冥福をお祈りします。


ひろしま市民新聞
100号記念にあたって
(1979年5月10日発行)

労働者党広島県委員長  松江 澄

70年1月第一号を発行した「労働者新聞」を継承した「ひろしま市民新聞」がこの5月号で100号を迎えた。一口に一〇〇号といいながらその間9年半、その一号に広島の労働者、市民とともにわが党が歩んできた闘いと探求、苦しみと喜びの1こま1こまがある。
 ふりかえれば六一年、誤った政治方針と官僚主義の日本共産党と決別して社会主義革新運動を結成して以来、ただ一途に共産主義運動の革新と統一・社会主義への新しい道を探し求め、六七−六八年総結集をめざして共産主義労働者党を創りながらもまもなくて頭した「左翼」急進主義潮流と闘って再び分離し労働者党全国連絡会議をつくったのが六九年だった。次第に堕落を深める日本共産党と一層拍車をかける「左翼」急進主義とをきびしく批判しながら、独自の道を模索するわれわれの決意と苦悩が第一号主張「奇妙な対立と七〇年代闘争の新しい旗印」の行間にまざまざとある。
 その時から今日まで、それは広島県委員会にとって出発以来いわば第二の時期に当たる。この時期は、忍びよる世界恐慌を前に急激な高成長を遂げた日本資本主義が帝国主義世界体制の再編のなかでその強力な一環を形成し、ひきつづく七四−五年恐慌を通じて一層独占・集中をすすめるとともに「中道」主義で補完しつつ反動的な政治体制へと急いだ時期であった。またこの時期は、資本の大巾上昇をかちとった春闘が恐慌ー不況のなかでの資本の攻撃によってたちまち連敗し、ひきつづく経済危機のもと強力な合理化攻撃をタテにした労働組合の体制内抱え込み戦略に屈し、労働組合運動がかつてない重大な危機に直面した時期でもあった。この時期わが党は大衆運動に根ざした闘いのなかで県市議選に勝利し、労働運動研究会と広島市民会議を運動の二つの柱として追求した。
しかしその後運動の停滞のなかで七五年統一地方選挙では県議選に敗北したが、自らの力でかちとった党組織単一化と新しい政治方針に励まされて活動を再開し、今春の選挙では全党全後援会員の必死の努力で再び県市議選に勝利することができ新たな出発点に立つことになった。この間「市民新聞」は困難をおかして発行をつづけ、近くは新しく若い力を含めて闘いの先頭に立った。
 いま広島県委員会にとって第三の時期が始まろうとしているがそれは日本の階級闘争と革命闘争にとって真に重大な時期でもある。日本帝国主義はその戦後発展の総決算として「有事立法」、「元号法制化」、一連の「治安立法」などを威丈高に掲げその意図をかくそうとはしない。「中道」主義もまたその衣をぬぎすて体制の側に立つことを公然と宣言してはばからず、勢いを得た右翼もまた活発に跳梁し始めている。戦後帝国主義の管理「民主主義」は経済的政治的危機のもとでいまようやく公然たる反動化へふみ出そうとしている。しかしそれを迎え撃つべき労働組合運動と民主主義運動は上から押さえ込まれ社共また闘いを放棄し、「革新」勢力もまた戦後の総決算を強いられている。
 こうした情勢のもとでいま求められているのは、既存の運動と組織のワクを超えた闘いとその連帯である。職場に「城」を創る労働者が各戦線で連帯しつつ地域に「トリデ」をきずく市民、住民の運動と提携し、誠実な知識人、科学者とも手をたずさえて反独占反権力の民主主義戦線を再構築して闘う時期である。いま必要なのは誰にでも通用することばの「民主主義」ではなく、また無視することで闘いを放棄する観念的な「革命論」でもない。いま問われるべきは支配階級の「民主主義」か、労働者・人民の武器となる生きた民主主義かなのだ。それは「戦後民主主義」を総決算する闘いであるとともに、労働者・人民の徹底した民主主義=社会主義への断呼たる闘いでもある。
 わが党が今日まで運動に寄与し得たことはほんの僅かであるかも知れない。しかしそれをけっして手離すことなく握りしめ、まだ解決されていない多くの分野にむかって広島の労働者、市民諸君とともに正面からとりくむことにこそわが党の任務がある。そのために市民新聞がその武器として一層その内容を充実しますます多くの読者と結びつき、生きた機関紙として発展することを心から期待する。
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被爆四〇年の「八・六」へ   (労研通信No.八号 1985・4・20) 松江 澄

「三・二一ヒロシマ行動」は終わった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはったが、あのときのはじけるような下からのはずみはなかった。それは情勢と条件またとりくみの厚さと広さの違いがあるとはいえ、この三年間の運動状況の推移が示すものであった。ともあれ、われわれの運動はすでに今年の「八・六」へ向かって出発した。それは被爆四〇年の運動であるとともに、被爆四〇年からの運動でもなければなるまい。この運動はどこへ向かうべきか。
 被爆四〇年はまた終戦四〇年でもある。一〇年(五五年)には早くも第一次高度成長期が始まるなかでいわゆる「五五年体制」がととのえられ、二〇年(六五年)には「日韓基本条約」が結ばれて政府のいう「日韓一対化」の第一歩が始まる。三〇年(七五年)にはその韓国をアジアの反共「第一線」だと日米で確認し、天皇は「原爆投下は戦時中で止むを得ぬ」と発言する。すしていま四〇年(八五年)、中曽根政府は戦後総決算をすすめつつアメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。中曽根は四〇年前の敗戦に学び、今度はアメリカと「運命共同体」になることでl新たな「富国強兵」の道を歩み始めている。
 日本原水禁運動は、四〇年前の戦争の背後に落とされた原爆の未曽有の破壊への人間的な怒りから生まれた。それは来るべき地球絶滅の戦争を予見することによって人類普遍の核廃絶の思想となった。だがその破壊の余りの巨大さと悲惨さは、それが「日本帝国」によるアジア侵略戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。それは未来を先見したが、果たして過去を深く省みたであろうか。いま中曽根が日米核安保を軸にして「環太平洋構想」で再びアジアに君臨しようとするとき、われわれの何よりの課題はアジア・太平洋の諸国民と深く連帯して日米軍事同盟=極東核戦略体制と闘うことではないか。それは四〇年前の日本の「原罪」を償う道であるとともに、「まどえ、(広島弁で償えという意味)あやまれ」と国の戦争責任を根深く追求する被爆者・被害者の心底の怨念に応える道でもあるのではないか。
 いまニュージランドのロンギ政権は公然と国を挙げて米核艦船の寄港を拒否し、被爆国日本政府のずるい対応をきびしく批判する。中曽根はいまアメリカの「核の傘」のもとで肥えふとった経済大国のツケを」つきつけられ、建前と本音の矛盾に右往左往している。アメリカへ行っては軍事費負担を増大するといいながら東南アジアを回っては軍事大国にはならぬといい、国民に向かっては非核三原則をまもるといいながらレーガンに対してはトマホークの寄港と核戦略基地の建設を約束している。いまこそ「建て前」をつきつけて本音に迫る大衆的な運動をおこし、非核アジア・太平洋をめざす連帯の旗を高く掲げて闘うときではないか。それは被爆者援護法の実現を迫る運動とけっして別なものではない。
(これは「広島原水禁ニュース」のために書いたものを、編集者の了解を得て投稿したものである。)



技術革新と労働の疎外(労研通信No.14 1985.10.20刊)
ー新しい社会の展望をめざしてー
  松江 澄


 
私は一九八一年一月、京都大学現代資本主義研究会の理論研究合宿で「技術革新」について話したことがあった。これは後にテープをおこして復元され、労研一四五号に「誌上講座」として掲載された。私はこのなかで今日の技術の発展を労働手段の最高にして最後の段階ー従って人間と労働手段の転倒の完成ーとしてとらえ、それがもたらす労働過程の分断と労働の全体像の喪失が労働者の意識におよぼす影響について述べた。そうして資本主義社会の産物である最高の技術体系が資本主義社会の産物である最高の技術体系が資本主義生産にとって合目的的なシステムとして作用するように、社会主義になればその同じ機械と技術が社会主義生産に合目的的なシステムとして作用する、ということでよいのであろうかと疑問を提出した。そうして私は、それではいけないはずだと社会主義ー共産主義社会における技術体系=労働手段のあるべき位置についての再検討・再探求という課題を提起した。
 その後私はこの課題が常に念頭にあったが、最近「労働運動プロジェクト・チーム」の数度に亘る討論に参加して多くの実践的知的刺激を受けながら、この課題を再追求する機会を得た。とくに私は、かって私が労働手段=技術体系の問題として提起したものが、実はすぐれて労働そのものの問題ではないのかといま考えている。従ってそれはまた、われわれの追及する新しい社会のあり方と深くかかわり合った課題ではないかとも考えている。そこで前掲載文の文脈に添いながら新しい問題への発展を追及するために一つの試論として提起する。
 私が前記論文のなかでも重要な意味をもつと考えたのは、機械大工業時代における工場での機械は労働者を労働から解放するのではなく、労働の「内容」から解放する、というマルクスの指摘であった。(「資本論」第一部第十三章第四節「工場」)つまり労働が無内容になるということである。それでは労働の「内容」とは何であろうか。マルクスは同じ文章のなかで、機械労働は極度に神経系統を疲れさせるが、また筋肉の多面的な働きを抑圧し、すべての自由な心身の活動を奪ってしまうとのべている。そうしてまた、労働者と労働条件の位置の傾倒は機械装置をもって初めて技術的に明確な現実性を受け取る、と指摘する。
 マルクスが産業革命時代の機械から展望される技術体系を労働手段の最高の形態と考えていたとしても不思議ではない。どんな天才でもその生きた時代に制約される。だが機械と技術は今日、当時では考えられもしなかったほどの著しい飛躍的発展をとげた。それはただ自動機械の速度やしくみがすばらしく発展したというだけでなく、それまでの機械が人間の筋骨にたとえられるなら新しい機械と技術は人間の頭脳ともいうべき質的な飛躍と発展をともなってている。それはすでに人間の「知力の対象化」というよりも、人間そのもの「疑似」対象化とでもいうものである。こうした新しい技術体系は、自由な心身の活動を奪うだけでなく、労働が本来もっている「創造」という質を最後の一かけらまで奪い取り、労働の分断は極点に倒する。
 労働は「人間と自然との過程である。すなわち人間が自然との物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である」、従って人間はその労働の過程において、「彼の外にある自然に働きかけこれを変化させるとともに、同時に彼自身の自然を変化させる。」(「資本論」第一部第五章第一節「労働過程」)、対象である自然(間接的な自然を含めて)を加工するとともに、そのことによって人間が自然にもっている能力を発展させる。対象を変革することによって自らを変革する。それこそが労働が本来もっている「創造」的な質であり、労働の「内容」ではないのか。しかし搾取社会は人間の労働能力を弱めるだけでなく、徐々に労働の分断を内包しつつ資本主義に到ってまず精神労働と肉体労働を完全に分断し、次いでそれぞれの労働をさらに細く分断し、最後に機械と技術がその分断された労働を疑似的な「頭脳」で再統合することによって分断を完成する。そこには労働手段と労働者=技術と人間との最終的な倒がある。
 マルクスは「経済学・哲学手稿」において、資本主義社会では「労働が労働者の本質に属していないこと」、従ってその労働は「ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるため手段」となっていることを、「労働の疎外」と呼んだ。そこでこの疎外を仮に労働の疎外「社会的」疎外というなら、さきにのべた労働の内容からの疎外を労働の「技能的」疎外と呼ぶことはできないであろうか。労働の「社会的」疎外が労働のおかれている位置と本質にかかわるものであるならば、労働の「技能的」疎外とはそれ自体が内包する本性と能力にかかわるものである。
 労働の「技能的」疎外は労働の「社会的」疎外から生まれる。従ってそれは労働の「社会的」疎外がなくなならなければ消滅しない。しかし労働の「社会的」疎外がなくなっても、そのままでは労働の「技能的」疎外は自然にはなくならない。何故ならば、いったん機械と技術の体系によって内面にまできざみ込まれた労働の「技能的」疎外は、かつてそれを生み落とした原因がなくなっても肉体的に残存する。いったん最新の技術と機械に仕えた習性は一朝一夕には消滅しない。それはひきつづき機械・技術による管理を労働者が受け入れる素地となる。それは労働それ自体が本性的にもつ自由な心身の活動とそれが生み出す創造性とを奪うことによって、自由で創造な社会的諸活動を制約する基底となる。
 従って新しい社会は労働の「社会的」疎外の克服をめざして意識的に追求するとともに、労働の「技能的」疎外を消滅させるために目的意識的な努力をすすめなくてはなるまい。こうした疎外からの解放はもちろん権力が移動しただけで自然に実現されるものではない。それは新しい権力のもとで解放をめざす不断の努力によってこそ報われる。そこではじめて労働者が「職場と生産の主人公」になるという闘争のスローガンが現実のものとなり、機械・技術による人間の否定は再否定される。それがいわゆる「自主管理」であはあるまいか。そうして職場と生産の「自主管理」を基底として再構築される社会こそ経済と政治の「自主管理社会」と呼ぶことができるだろう。それは共産主義社会への欠くことのできない過渡である。(一九八五・一〇・九)
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生産力発展と労働者ヘゲモニー(労研通信 No.60号 一九八九年七月二〇日)

松江 澄

 

共産主義(目的社会)とは何か

 「必要に応じてとる」ということを、マルクスは『ゴータ要綱批判』で述べている。これをどうとらえればよいか。マルクスは、それ自体の基礎のうえにつくられた共産主義社会でなしに、資本主義から生まれたばかりの共産主義、すなわち第一段階の社会においては「能力に応じて、労働に応じて」ということを原理的なものとして捉えている。この「労働に応じて」か「必要に応じて」へと、転化=発展することが、共産主義社会の扉を開くというとらえ方をしている。レーニンは、これにつけ加えて、そこで国家が死滅していくと言う問題に照応させている。この「必要に応じて」ということを、何でも無尽蔵にあるから欲しいものだけとれるという意味にとらえるのは正確ではない。「能力に応じて働き、労働に応じて取る」という最初の段階で重要なのは、「労働に応じて」ということは決して“平等”な社会ではないという点である。

 この点で、スターリンもフルシチョフもブレジネフも、また毛沢東も間違いをおかしている。不平等な労働に応じては、不平等な分配が行なわれる。だから、平等ということは権利であって、権利が存在するということは、まだ決して平等な社会ではないということである。権利があるためには権利を保障する国家も必要になる。働き手が三人しかいない十人の家族と二人の家族があるとして、労働に応じて分配すると、何人の家族であるかは考慮にいれられない。だからマルクスはこれをブルジョア的な権利、ブルジョア的な「母斑」と言っている。毛沢東はこれを資本主義が中国において十分発達しなかったところからくる遅れた社会的要因としてとらえ、これをとりのぞくところから問題を組み立てている。ソ連でも、この時期の問題は適当にとばされてしまう。

 マルクスを読むときに注意しなければならないことは、マルクスは『ゴータコ綱領批判』というかなり後期の著作ではじめて、そして唯一の、しかもごく短い文章で、理想社会にふれているにすぎないことである。そこで彼がいっていることは、純粋に培養された資本主義が、一挙に新しい社会に転化したという前提のもとで、純粋な第一段階をとらえて語っているのである。それが第二段階に移るとどうなるということをかという追跡のしかたをしている。現実にある社会がどうなるということを言っているのではない。当時も今もそのような社会はない。現存社会主義はまだそれ以前である。マルクスの資本主義分析の中から生まれた、ある意味では非常に抽象的な、原理的な展望であるといえる。第二段階の「必要に応じて」というのは、第一段階からみると、巨大な時間の差があるということである。これは、作為的に、いつの時期に第二段階にはいったか、あるいははいろうという人為的なものではない。いわば規律か自然の習慣になるように長い時間を経て協同組合社会が生まれてくるという想定をマルクスはしている。

 そのような社会においては規制とか平等というものはなくなり、いわば「己れの欲するところを行いて、法(のり)を超えず」という状態が集団として行なわれる。「必要」というのは『何でもとっていい』という意味ではなく、マルクスの云う「一人の自由が万人の自由と矛盾しない」、あるいは資本論でいっている『自由な人間の連合』としての社会が生まれた状態、そのような社会のルールとして「必要に応じて」を掲げている。これは生産力の高さというより、むしろ、そういう人間のまったく自然な、無作為の状態が、巨大な時間を経て生まれ、そこにはもはや規律もないし、従って国家もない社会状態として想定している。ちょうど原始共産社会における人間が、権威によって結ばれるのではなく、尊厳をもって結ばれていたような時代の社会を高い次元で―もちろん生産力の発展も含めて―再現したような社会としてとらえている。このような視点から『ゴータ綱領批判』のこの部分はよまれるべきである。

 さらにいえば、『経済学哲学手稿』で提起した問題が最後に『ゴータ綱領批判』において到達されたといえる。その間には『資本論』等において、いくつか触れている箇所がある。『経済学哲学手稿』ではそもそも人間の本質は類的な存在であるか、歴史的な現実としての人間は類的な存在から疎外されているということ、それは「人間からの人間疎外」であるという問題を前提としている。そして、キリスト教の伝えるように、一人の男性と一人の女性が婚姻して子供を生んで次第に社会が発展するというのではなく、人間は集団としての存在が実は人間の本質であるととらえている。ところが、社会の発展は生産手段の発展と不可分だが、やがて生産手段が私物化されるなかで物をつくるが、つくった物はつくった人に属さないという「生産物の疎外」が生まれる。マルクスはそこから「労働の疎外」を」導き出している。それを追求する中で搾取論を明らかにしていくことになる。そして資本主義の「墓堀り人」としてのプロレタリアートが、闘いを通じて新しい社会をつくりあげる。このようなものとしての新しい社会が『ゴータ綱領批判』の記述に発展していったと私は思う。

 ただ、この『ゴータ綱領批判』の第二段階の中で、人間が全面的に発達することにより協同組合的な富の泉があふれるような表現がある。必然的にそういう社会になれば人間が全面的に発達するのだから、障害や疎外なしに生産力が全面的に発展し、富があふれんばかりに生まれてくるという想定をマルクスはしている。この点からみて、当時マルクスが経験している現実と比較してかなり進んだ生産力の発展が想定されているが、マルクスの思想としては、生産力の高さもさることながら、必要か必要でないかを「自由」に判断することが、他の人の「自由」の妨げにならないような新しい社会を提起しているととらえることが重要である。まざす新しい社会にとって、生産力の発展はどの程度のものを考えているかと聞かれると、私は答えられないが、大切なことはそのような量的レベルが事前に想定されたり、これでなければだめだということではなく、それをそこに荏んでいる人間あるいは人間の集団が選択し、判断するということこそが必要だと私は考えている。もちろん、ポルポトのように都会を排して、田舎での農業労働を強制するというのは問題外で、一定の生産力は必要であるが、そのレベルはあらかじめ想定できない。

 それに関連して、生産力と生産関係の照応の法則というものが勝手に一人歩きしている。マルクスが棺から起き上がれば「おれはマルクス主義者ではないよ」と言うような、マルクス主義の教条が世界を潤歩している。生産力と生産関係の照応の法則というのは、従来の教条主義的マルクス主義からいうと「生産力の発展が、生産関係の制約によってさまたげられる。そこで社会革命がおきて、停滞していた生産力が再び発展する。また制約によって停滞する。また突破する。」という形で、あたかも生産力が主人公のように、発展と停滞をくり返すという論につくりかえられている。マルクスは『経済学批判序説』でそんなことは何もいっていない。ただ社会革命がどうして起きるかというと、生産力と生産関係が発展の一定の段階になると、照応しない矛盾が生まれ新しい社会革命が起きるということを言っているにすぎない。これが拡大運用されて生産力無限発展論がでてきている。今でも日本共産党はこれに依拠しており、代々木系の学者は「原子力というのは今の社会だから悪いのだ。新しい社会になればすばらしい生産力になる。」と述べ、原発に対する闘争の足をひっぱっている。だんだん変わってきたが、まだそのしっぽが残っている。安全の問題については強調するが、もう一歩つきぬけた原発に対する態度が鮮明ではない。

 生産力と生産関係についていえば、生産力の基礎は、量的には次第に少なくなっても人間の労働であり、生産力と生産関係の両者の中心に立っているのは人間であることを忘れてはならない。そしてマルクスがそうであったように、人間の解放ということを前提にこの問題を捉えていかなければならない。そこではどんなすばらしい生産力もそれが害をなすことになれば、それを制約し、あるいはそれを停止させるということが当然あるはずだし、またなければならない。つまり、人間が主人公であれば、人間が自由に選択し、判断するということがここでも必要になってくる。

 

“労働者が主人公”とは何か

 

 最後に「労働者が主人公」とは何かという問題について述べておきたい。日本のどの労働組合でも一回は『労働者が主人公になる』ということばは使っていると思うが、そのくらいこのことは労働組合運動において強調されてきた。「職場の主人公」「生産の主人公」でなければならないという表現は、諸外国と比較しても、日本がいちばんよく使うのではないだろうか。私も何べんも出会っている。

 人間が人間的な本質的な存在になるということは対象的世界の加工、すなわち生産ということは一人ではできないのであって、そこに類的な存在としての自己自身を再確認する。そういう意味で生産が人間的な制作活動として類的な生活活動であるというというとらえ方は終始一貫してマルクスの基礎にある。労働の外化、すなわち、労働が労働者にとって外的であるということ、労働が労働者の本質に属していないこと、つまり「労働の疎外」からの解放というものが、主体としての労働者が人間的本質を獲得するうえでの最も重要なものとしてとらえられている。

(つづく)

そして私がもう一つつけ加えたいのは、人間か対象的世界を加工して自分の獲得物に変えていくという制作活動をとおして類的存在を発見し、労働が人間自身のものになるという過程で、「自らの解放がすべての人々の解放が自らの解放となる」ような階級、つまりプロレタリアートが形成されるということである。解放の問題がなぜ労働者が提起しなければならないのかというと、労働者は、労働者以外のすべての階級が解放されることを通じてはじめて自らが解放される。同時に自らが解放されるということは自ら以外のすべての階級が解放されるからである。これは『ドイツ・イデオロギー』その他でマルクスが強調しているところである。そういうものとしての労働者にとって、生産の場における労働者のイニシャチブ、生産に対するリーダーシップということは、ある意味では決定的に重要な問題である。

 日本の労働運動を縦糸のように赤い糸でつないでいくとすれば、いちばん最初は戦後八月一五日から始まった北海道における中国人捕虜労働者、朝鮮から強制連行されてきた労働者が先弁を切って闘い始めた炭鉱での闘争である。ここには賃金や労働条件とかをめぐる闘いではない。生産それ自体を自分たちの原点に据え直そうとした。それが飛び火したものが東京における読売争議である。新聞の生産を、戦犯である編集局長や主筆ではなく、彼らを追放して、新聞の生産労働者が握るという闘争であった。長期にわたる闘争で遂に敗れたけれども重要な闘いであった。そういう闘いの系譜が戦後初期には存在し、生産管理闘争と呼ばれた。ところが当時イニシャチブを握っていた共産党によってしだいに、生産管理が賃金闘争の戦術に変えられていく。そして「民族民主革命」の時代になると、生産の自主管理は民族産業防衛闘争にすりかえられてゆく。

 それがもう一度でてきたのは三井三池の闘いである。三井三池の闘争では、労働組合自身が生産現場における闘争委員会連合になっていった。組長を選んだり、生産量を決めたりすることは第一線の生産労働者が合議で決定する状態が出現する。やがてこれはつぶされ、闘争自身も労働組合主義の方向にむけられる。しかし、この闘いの系譜のなかに国鉄・郵政のマル生反対闘争がある。国労・動労の行なった順法闘争では法律を守るということを端緒にして、列車を走らせる速度、時間を、列車を操作する現場の労働者自身が選択し、判断し、決めていった。全逓の場合は、ベルトコンベアの速度を労働者が決定するためのブツダメ闘争がある。これは生産管理闘争と呼ぼうと、自主管理と呼ぼうと、いくたびか労働運動の波をくぐりつつ、時として、出現する重大な闘いである。資本主義社会ではそれが完成することはあり得ない。あり得ないけれどもそれはたえず出現する。

 「労働者が主人公になる」という意味は二つある。一つは労働者が自己の生産・自己の職場の文字どうり主人公になることである。

これはしばしば闘いのなかで出現するが、その延長の上にすべての労働者がそうなるということはありえない。政治革命というもながなければ、それを超えていくことができない。ところが超えたはずの政治革命の後で生まれた生産のなかで、現存社会主義の中でも労働者が主人公になっていない。そこでポーランドのように、現存社会主義労働者が本当の意味で生産の主人公になるという自主管理の問題を改めて闘わなければならなくなる。ポーランドでは粘り強く、数年にわたって闘ってようやく組合が合法化されることになった。これが国際的な労働運動に与える意味は大きい。このような意味でわれわれが追求している新しい社会の重要な萌芽形態ということが、労働者が主人公となることの二つめの意味である。

 さらに労働者が諸階層のリーダーシップをとるということがある。これは決して「おれたちがいちばんえらい。おれたちが解放されなければ解放されない。」ということではなく、労働者が労働者階級でありうるのは、労働者階級以外の層の中にはいっていくことによってはじめて確認されることである。労働組合運動の発展も重要であるが、他の諸階層を含む地域の住民・民衆の闘いを援助し、支援し、リードしていくことが不可欠である。

 労働者が主人公になることと、生産力の上昇とは必ずしもうまくマッチしないといわれるが、それは僅かにその通りで、二兎を追えばどこかで調節し、妥協しなければならない。残念ながら現状では、それを調節し、妥協するというのではなしに、資本の方からいやおうなしにノルマが示され、そのノルマに対する闘いとして、労働者が主人公になることをめざす闘いがある。賃金よりもおれたちはこちらを選ぶという形でこの闘いの姿をあらわすというところに重要な意味がある。社会主義といわれている社会で両方とるというはどうなのかという問題がある。私は案外、労働者が中心になって生産も量も測り、生産の量いかんによって支障がでるものについては停止したり縮小したりする経験的な能力はむしろ現場の労働者は持っていると考えている。しかし、それが非常に難しいのは一つの部門だけではできないことである。本来社会主義というのは、物象化されたなかでばらばらに寸断されているものが、新しい社会の端緒として、もう一度人間的に統一されていかなければならない。その場合、労働者を中心とした生産の統制が、国家官僚によってではなく、生産を基礎にして、生産労働者によってなされなければならない。綿密に計算し、全体的発展という枠の中で必要ならば質的な規制も決めていくべきである。同時に生産と消費については消費の側に立った意見も反映されるものでなければなるまい。大切なことは生産と消費が対立的にではなく統一的に総括できることである。

 

主な質疑応答

 

Q マルクスは非常に遠い先の共産主義のイメージについてコメントしている。いま問題なのは、遠い将来ではなくて、近い将来において、しかもある一定の制限された生産力のもとで、どういう人間的な社会を構想するかということだと思う。

A すぐ近い社会を構想する場合、一国的な展望で生産力の問題を語ってはならない。他方には明日にも食えない状態の諸国がある。自分たちだけでなく、地球上に住んでいる者全体が、お互いに調節をとって、全員が食える状態を達成し、少しでも上昇していける枠組みをどのようにつくるかということが重要である。私は「アジアの民衆との共生」という問題を以前提起したことがある。アジアの民衆から収奪したものを、アジアの民衆へ返すということを、新しく追求すべきわれわれの社会がまず果たすべき課題だと思う。アジアの民衆と共生できるような追及がなければ納得のいく社会は実現できない。日本の生産力だけ高ければいいということではけっして共生できない。日本の生産力の高さというのは単に日本だけでつくりだしたものではない。日本帝国主義は単にアジアだけでなく、世界的規模で展開しているが、特にアジアの場合は戦争による殺戮、収奪がある。日本に高い生産力をもつ社会主義社会が実現したと仮定した場合にアジアの民衆との連帯の中で過去の累積を返すということの具体的な内容は何かということが問われる。

 

戦後初めは「ソ連を見ろ」と云う演説が説得力をもった。今は社会主義の理想としてのソ連像は完全に崩壊している。抽象論ではなく、ある程度具体的に、われわれが追求している社会主義のイメージを提出しないと誰も納得しないだろう。さらに現状分析の中では主体と原動力を析出していかなければならない。技術革新の進むなかでの労働者自身の変貌をみきわめながら、新しい変革の主体はどこにあるのかという問題を解かなければならない。今日のテーマに関していえば、資本のグロバリジェーションによって国家はなくならず、逆に資本に対して、国家が逆襲する力も存在する。今後

必要なのは運動の主体の析出の問題、つまり労働運動とエコロジズム等の他の諸運動との関係をどうとらえて、一つの変革勢力としてどう構成いくのかという問題が明らかにされなければならない。移行過程の問題も、かつてのように権力の打倒を、権力に対する急襲

により奪取するという形態だけで想定することでは不十分である。国家の正当性が希薄になることに対応して、それを利用しながら徐々に変革の端緒を形成すると言う形態も想定しうる。ただ確実にいえることは早くでもゆっくりでも国家の権力を変革しなければ革命にはならないということだ。それだけはわかっているが、それ以外はあいまいなまま残されている。この点では多くの問題がるが、どこからまず手がけていくべきか、整理しなければならない。

 マルクスは共産主義について極めて原理的な提起はしているがその具体的なイメージはマルクスを含めて、当時の社会主義者のだれも提出していない。社会主義社会が現実のものとして現れてくる可能性が必ずしも目の前にあるとはいえなかった当時においては無理もないといえる。しかし社会主義とは何であり、どういう状態になって、それをどういうふうに民衆が動かしていく社会であるかということを明らかにすること、すなわち、社会主義像を原点から再構築することは、現代においては、極めて必要なさぎょうである。その意味では、現存社会主義国がきずきあげたかに見える社会主義像は今日においては留保して新しく再出発したほうがいいだろう。したがって、革命論としては@現状分析 A目標社会 B移行過程という三つの要素があるが、今日においてはまずAの問題、すなわち社会主義像の再構築から始めることが必要であろう。何故ならば目的と目標があるからこそ人々は闘うのだから。社会主義像で納得できれば、次は何をどのようにしてという問題に展開できる。

 

Q ハンガリーのへゲデューシュは『社会主義と官僚制』の中で、一定の効率化を実現するには専門化は必要であり、そこに官僚制の源泉があり、主観的な誤りの結果ではないとしたうえで、官僚機構に対して社会的な統制が行なわれるようなシステムの構築を提言している。専門化の必要性と、労働者の自主管理とはどのように両立されるのか。

 

A 職場における労働者が自分たちの生産を管理するという問題と、労働者のリーダーシップのもとで全国的な経済計算や長期計画をつくるという問題についていっしょにするわけにはゆかない。だが、それを専門家が行なうのではなく、労働者が、その専門家に替わって行なえるようにならなければ本当の社会主義にはならない。それだけしかできないとい

う意味での専門家が生まれれば必然的に官僚化すると思う。日本のように高い段階で、生産力が社会主義になっても下がらない、あるいはますます発展するという前提で新しい社会を考えると、今と同じような産業官僚制を存続し、専門家のリーダーシップで生産を行なうことになってします。新しい社会をつくるということは組織の組立て方自身を変えていくということであり、それが変わることなしに、資本主義と違った社会はでてこない。これまでの考え方は、資本主義の実現したすばらしい生産力をまず獲得し維持発展するという点が強調されすぎていたと思う。新しい生活と生き方、新しい生産や労働のしくみを明らかにしていくことが重要である。旧来の社会主義像は、資本主義にたいする「追いつき追い越せ」路線にあまりにも執着しすぎていた。ソ連や中国のように。

 


松江 澄 氏 政治報告 報告ノートより(労働者党・建設者同盟統一大会政治報告草案 当面の情勢と労働者階級の任務)

こうした情勢のもとでに、いまこそ大衆的な統一闘争で反撃しなければならないにもかかわらず、ブルジョア議会主義とセクト主義におちいった日本共産党は、「統一労組懇」をつくった総評の事実上の分裂をすすめ、「左翼」セクト諸派は依然として誤った党派闘争の思想から抜け切れていない。
 資本主義は労働者の個人主義的意識を強めるが、最近の技術革新と近代化はそれに一層滑車をかけている。生産過程の技術的高度化は一貫した労働過程を分断された部分的労働に置き換え、何をどうしてつくるのかを知っているのは僅かな専門家だけである。また技術革新は流通過程の近代化を促進し、労働者を大衆消費に誘うばかりでなく、生産と消費との間をますます遠ざける。こうしたなかで労働者は知らず知らずのうちに連帯性を奪われ、不安定な孤立を強いられている。ローンでしばられながら必死に生活を自己防衛してきた労働者は闘わない労働組合と政党に不信を強め、増大する棄権層の主な源泉となっている。
 しかし、生活を守るための個人的な努力もすでに限界が迫りつつある。生活の安定と権利の確保を求める大衆的な要求と独占=政府の抑圧は、やがて正面から衝突せざるを得ない。そのときこそ大衆的な抵抗闘争の発展は先進的な闘いの追及と結合して、その鉾先を独占と政府へ向ける。どんな経済的要求、改良闘争であろうと、またいかなる民主主義的要求であろうと、その完全な実現をめざして大衆的な統一闘争で闘うことこそ急務である。
 要求の実現をめざす徹底した闘いは、それを阻む独占=政府と対決し、権力に対する闘いに転化して革命的な闘争への契機を切りひらく。このなかで、弾圧にたいする断固たる闘争はきわめて重要である。今日の危機のもとでは、それがどんな要求であろうととも、徹底した大衆闘争の追及こそ階級闘争を発展させる基礎である。敵の攻撃にたいする抵抗と反撃の大衆的な闘いのなかから、変革をめざす闘いへの展望は切りひらかれる。


幻想の「革新自治体」と真の自治体革新        松江 澄
 
 今日の地方自治体は、憲法と地方自治法によって一定の民主
主義的自治を保障されながら、実際には法と財政を通じて国の
統制下におかれている。
 戦後の民主的改革の中で「地方自治」は画期的な位置を占め
ていた。戦後民主主義闘争の中で沸騰するは地方自治の闘いは
与えられた地方自治制度の枠をのりこえて発展し、しばし支配
階級の肝を冷させたが、「ドッジ・ライン」による改革以後急
速に国の統制が強まり、戦後獲得した警察の自治化、教育委員
会の公選などの諸権利も奪い返され、今日では地方自治体が自
ら決定する行政範囲と能力は限られている。すなわち、すべて
の地方自治体は不当な税配分にもとづく交付税制度によって、
国の定めた基準による一定の行政水準に平準化されながら中央
政府に統制されている。国庫支出金と地方債の制度は一層これ
を強化し、次第に増大する国の委任事務と許認可行政は、それ
に滑車をかけている。行政のうち、生活と権利にかかわる重要
な部分は、すべて国の直接支配の下に置かれ、地方自治体の行
政領域は「ゆりかごから墓場まで」とはいいながら実は地域的
な住民の生活、環境など一部にすぎず、民主主義的自治の保障
は、現在の支配秩序を破壊しない範囲に限定されている。
 しかし、近代化が進み住民生活が多様に発展するなかで、そ
の行政範囲は必然的に拡大し、一見地域住民の「世話役」とも
見える役割りを演じている。こうした現状は、日本共産党がい
うように、あたかも地方自治体には国の地方支配の側面と住民
生活を守る機能との二面があるよう見えるが、それは幻覚であ
る。それは、最大の利益を追求する独占資本主義の発展が必要
とする労働力の維持とその移動・再配置が不可避的に伴う生活
・環境問題の拡大である。地方自治体の最大の「善政」と見ら
れている福祉行政も、その根本は国の定めた「福祉六法」にし
ばりつけて独自な措置は厳重に禁止されている。現行制度のも
とにおける地方自治は、地域住民を「生かさず」支配するため
の官僚的支配機構の重要な一部分を構成している。
 しかし、今までの経験は、革新的だといわれる首長が選ばれ
た場合、行政の重要な側面においていくつかの積極的な前進を
勝ち取ることができることを示している。釧路市等が行った工
場誘致条例反対や土地開発の規制、また東京都の公害防止条例
、朝鮮人大学校の認可、横浜市の米軍戦車輸送反対、鎌倉市等
の自衛隊員募集業務の廃止、あるいは革新首長会による在日朝
鮮人登録認可等がそれである。こうした事例は、今日の制度の
もとでも、首長の決意と大衆の支持があれば事実上政府行政指
導を拒否して、一定の限度内で独自の措置をとり得ることを教
えている。
 だが見逃すことができない重要なことは、地方自治制度とい
う今日の地方自治体運営の根本については、指一本ふれること
ができず、どんな首長のもとでも、予算編成の根本的な点等で
は変りばえしないということである。また独自の措置をとる場
合にも、法律と通達の民主的な側面の解釈と運用による上から
の行政措置として行なわれる場合が多い。したがって事実以上
に「革新」首長の役割が膨大に評価され、住民のなかに「革新
」首長への期待と依存を生み出す傾向が強いが、所詮「善政主
義」の範囲を出ない。ましてこうした「革新」首長の存在を理
由に「革新自治体」と規定するならば、それは全く誤っている
ばかりか、ありもしない幻想を与えることによって住民による
下からの闘い、自治体労働者による内から闘いを圧迫する結果
となる。美濃部都政やみながわ府政の様に、「革新自治体」擁
護のために労働者として権利と賃金を闘う職員労働者の闘争や
、「革新自治体」のもとでも容赦なく発展する住民の闘いを抑
えることで、階級と人民にたいする重要な裏切りを行なう場合
がそれである。イタリアの自治体改革闘争等のように、戦前か
らの闘争が深く刻印している憲法のもとで、労働者階級の闘い
の発展に依拠して構造的な改革の一環を形成している場合と異
なり、憲法上の一般民主主義的な規定にもかかわらず、事実上
法律と制度でがんじがらめにされている日本の地方自治のもと
で、首長個人の性格と直結して機構としての自治体を「革新自
治体」と規定することは、人と機構を混同し政策と制度をすり
替える結果となる。みながわが退陣すれば「革新自治体」が崩
壊して敵となり、美濃部に替わる「革新」首長が出現すれば「
革新都政」が引き続き栄えるほど官僚機構は単純で弱弱しくは
ない。
 「革新」首長の持つ重要な意義は、その選出を目指してた闘
う地域的統一戦線のともに闘う経験を通じて、引き続き地域的
な共同闘争を一層強化することにあり「革新」首長がその共同
闘争の重要な結節点として固く節操を守ることである。そうし
て階級的もしくは人民的立場に立つ首長の任務は、あらゆる機
会を捉えて国の支配介入に抵抗し、たとえわずかであっても独
自の追求を行なうとともに、現在の地方行財政を根本的に改革
する必要性と必然性を公然と提起し、地域における労働者・住
民の大衆的な闘いの実践の中でのみ試される。反独占統一戦線
を目指す労働者階級の指導的な闘いを中心とした各階層の広範
な運動に発展によってこそ自治体改革は前進する。
 
「住民自治」の闘いと労働者階級の任務
 
 
自治体改革の闘いは、地方交付税制度など地方行財政運営の根
本的な改革をめざす闘いを避けては前進出来ない。それはまた
日本における地方自治そのものの闘いである。
 戦前来殆んど名ばかりであった「地方自治」制度は、戦後画
期的な発展をとげたが、それを裏ずける共同体的自治の歴史的
な伝統の弱さは、結局地方自治を中央集権的官僚機構にたいす
る、民主的な制約としての中央権限の地方移譲と、その権限を
監視・監督する地方議会の地位の強化に限定した。したがって
それは、国と地方自治体との関係、地方自治体と地方議会との
関係にとどまり「地方自治」の拡大はそのままでは住民自治権
の拡大に直接結びつかない。そこで重要なことは、獲得された
地方自治を住民自らの自治権として闘いとるための大衆的な住
民闘争である。こうした闘いを通じてこそ地方自治の内容は決
定され、こうした闘いを土台としてこそ「地方自治」の擁護と
拡大ははじめて重要な意義を持つことが出来る。またこのよう
な闘いによってこそ今日すでに体制内の避けられない内部矛盾
となっている地方自治の矛盾も首長の性格に如何を問わず政府
に対する闘いの一翼を担うことが出来る。ここに「住民自治」
をめざす闘いの重要な意義と役割がある。
 「住民自治」をめざす闘いは、広範な住民要求を大衆闘争に
発展させて一方的な行政の執行を拒否し、住民の生活と環境に
関するどんな新しい行政計画や行政措置も地域住民の同意がな
ければ実施させないという事実上の事前協議権の確立を闘いと
ることが土台となる。それは消して「住民自治」ではないが、
行政の一方的な管理と執行を許さないという点で「住民自治」
を目指す闘いの第一歩である。今日までも、しばしば住民闘争
の発展は、部分的一時的にはこうした権利を闘いとることが出
来た。しかし、たとえ固い行政のとりでの一面を崩しても、直
ちにあらゆる手段をつくして失地回復をはかる自治体に対して
、大衆闘争の持続的な追求を通じて体得した橋頭堡を点から線
へ、線から面へと拡大発展させてこそこの権利を定着させるこ
とが出来る。
 こうした闘争の中で、自治体労働者の占める役割は、きわめ
て重要である。労働者としての権利と賃金を闘いつつ、困難で
あっても自らがたずさわる行政を階級闘争的立場から見直し再
追求することによって行政の内部革新へと闘いを前進させてこ
そ、外からの住民闘争と結合して行政改革の闘いに発展させる
ことが出来る。日共の「全体奉仕者」論はこうした困難な闘い
を回避し、自治体労働者を昔の「役人」に還元させて階級闘争
を放棄させ、住民におもねることで集票をたくらむ議会主義と
日和見主義以外の何者でもない。
 住民の闘いとこうした労働者の闘いは、しばしば不均等に発
展し多くの場合直接被害を受ける住民の闘いが先行し労働者と
の間に矛盾と対立を生むことがある。しかし、矛盾を恐れず闘
うなかでこそ先進的な労働者の闘いと結合し、地域ぐるみの闘
争に発展ことで労働者と住民の闘う同盟を組織できることは、
豊北反原発闘争の実例が示すとこである。この場合、激発的で
あっても一時的になり易い住民闘争を、自らの闘いで指導しつ
つ恒常的な発展させることが出来るのは、地域における労働者
階級の系統的な追及である。
 住民自治を目指す闘いにとって地方議会における真に革新的
な議員の闘いと結合することは重要である。今日多くの地方議
会では、議長を中心とした保守的多数派が執行部と癒着し、発
展する住民闘争を圧迫しあるいは懐柔することに躍起となって
いる。また多くの議員は、政党政派の如何を問わず野党性と革
新性を喪失し、肥大する予算に寄生して再選のための選挙活動
に終始している。こうした状況のなかで孤立を恐れず、圧迫に
負けず断固として労働者住民の立場に立ち、大胆な暴露と追求
を進める闘いは、住民自治の闘いと相まって自治体と地方議会
の革新を闘いとる前衛である。とくに地方議会での革新的闘い
は、議会外大衆闘争と結合して、「住民自治」の闘いを地方自
治の闘いとつなぐ結節点でもある。従って階級的な立場に立つ
議員はあらゆる機会をとらえて自らの独自な見解と主張を明確
に公表するとともに、特に今日の政治と行政の反階級的、人民
的な役割を徹底的に暴露し追及しなければならない。さらにま
た重要なことは議会の議席をただ暴露の演壇とするだけでなく
、大衆的な住民闘争を発展させるために援護する有利で有効な
砦にすることである。
 「住民自治」の闘いを土台とした自治体闘争も議会革新の闘
いも労働者階級の真剣な取り組みと追求のなかでこそ全国的な
闘いの拠点として重要な役割を果たすことが出来る。独占と政
府はいくつかの地方の突出した陣地にたいしてはあらゆる力を
つくして圧迫を加えあるいは上から吸い上げることによって行
政の「平準化」を防衛しようとしているからである。その意味
で日本における自治体改革の前進と撤退はそれぞれの地域の部
分にとどまらず、全国的な規模での独占=政府と反独占戦線と
の力関係によってきまる。従って拠点における先進的な闘いに
学びつつ一層多くの突出した陣地を闘い取りながらその勝ち取
った成果を横に拡げることこそ重要な任務である。そのために
は労働者階級が日本の変革のなかで占める自治体闘争と自治体
改革の果たす重要な役割を認識し、自らの闘いとして全国的の
も地域的にも積極的に取り組まなければならない。「革新自治
体」論はこの闘いを「革新」首長の選挙と「革新自治体」の数
にすりかえることで重要な誤りを犯している。
重要なことは首長の如何にかかわらず下からの労働者、住民の
闘いそのものである。
 自治体改革の過度的要求を明らか困難な条件のもとで闘って
いる全国各地の多様な自治体闘争を階級的な追及で結合し、変
革を迫る闘いの重要な一環とすることこそ社会主義をめざして
闘う労働者階級の任務である。

松江 澄著作リスト(準備中) (2006.3.5)

ヒロシマから原水禁運動を生きて 松江 澄著 青弓社刊

私の昭和思想史松江 澄著 社会評論社刊

91フォーラム関西(2/3)での報告内容要旨

松江さんは、現存社会主義の崩壊は全面的であり、根底的なものである。根底から見直す視点はフランス革命・パリコムミューンの歴史を歴史的文脈として見直すこと。ソ連東欧の問題では、政治的民主主義と市場経済の成立には相互関係があること。市場経済の中で民主主義をつくりだす契機があり、ソ連にはそれがなかったのではないか、との指摘がありました。
 現状の貧困や差別・不平等をなくすための運動、民主主義運動を強めて新たな政治的バランスを作ることを始めるべきではないかと問題提起されました。

「私の昭和思想史」と題して「労研通信」「労働者」「新時代」に、このあたりの関連した論文に記載されてます。私の昭和思想史松江 澄著 社会評論社刊には、収録されていません。


私の昭和思想史()   松江 澄  「労働者」

 

 いままで三〇回(一九一九年〜1970年)か書きつづけてきました『労研通信』がこのたび休刊になりますので、編集委員会の御好意によってこの一文の書き続き(一九七一年から)本紙に載せて頂くことになりました。ついてはその第一回の一部をここへ再掲させて頂くことで、この手記を書き始めた私の意図を理解して頂ければと思ってます。今から二〇年間を書きつづけるつもりでいます。どうか宜しくお願いします。

 

自我のめざめ

 

 私が標題のようなものを書いておきたい、と思い始めてからすでに数年になる。少なくとも七〇歳になるまでにはと思い定めていたが、すでに来年になった。もっとも、いまどき「古希」などというものは掃いて捨てるほどある。誰も気にしない。私も、そんな年か、とおどろくが、それは自分にとっての相対的な時間の問題で、いっしょに活動している広島の反戦反核の若者達は少しばかり年寄の仲間としてつき合ってくれる、と思うのは私のひいき目か。

 それでも私がこういう一文を書いておきたかったのは私の周辺の大先輩は何れも戦前からの革命家であり、私より少し若い人達は敗戦善後に二〇歳を越えた人が多い。いま日本の革命運動のなかで恐らく最も層が薄いのは私達の年代であろう。大正の中期に生まれ、大正の末年=昭和初年に小学校に入った私は敗戦のとき二十六歳であった。これはもう一人前の青年として充分な年である。しかも私の戦前は生徒であり学生であった。学校の塀の中に多少残っていた断末魔の自由がやがて根こそぎ奪いとられ、徴兵猶予が取り消され徴兵検査を受けて二等兵で在学のまま召集され、寒い冬の最中に当時の「満州」牡丹江のまだ奥にある部隊へ送られた。それは私にとって正しく戦後読んだ野間宏の「真空地帯」であった。

 旧制高校に入ってようやく自我にめざめた晩生の私は、手当たり次第に文学・思想・哲学の本を読み漁り、結局行きついたのは国家・社会と断絶したカント的個人主義的人格主義哲学であった。しかし、折から強まる軍国主義的風圧はいつまでも「わが内なる自由」を自由のだせてはくれなかった。天皇も差別される人々も同じ人間ではないかと疑う素朴なヒューマニズムを何よりの宝だと思う私を国家は巨人のようにほんろうした。「満州」から内地に帰ってやっと見習士官になり、本が買える「自由」がうれしくて富士山麓から沼津へと胸をおどらせて本屋を探し、僅かしかない思想書の中から武市健人の「ヘーゲルの弁証法」を買いこんだ。それはヘーゲルにならって戦争に「人間的契機」を見出すことによって国家の「相対性」と取引するためだったのだ。

 

富士山麓で敗戦

 

 こうしてやがて富士山麓で敗戦を迎え、軍隊から解放された私が後になって知ったことは、私の原隊であった牡丹江重砲連隊はソ連の参戦によって瞬時に壊滅し、原隊に残った戦友達はすべて戦死、それまでに南方へ転属になった友人達も沖縄などでその多くは戦死したことだった。すり抜けるように助かった私が広島に帰ったとき、私は二週間前に投下されたと聞いいた原爆の破壊した廃墟に直面しなければならなかった。そうして私がまもなく知ったのは兄が爆心地近くで遺体も分からず原爆死したことと、三年後には血を失って亡くなった母がかなり弱って三原の親戚で病の床にあることであった。

 三原に帰って父母から状況をきき、軍医に召集されていた兄の部隊を探して遺骨を受取り、三原で葬ったがそれは兄のものではなかった。年暮れようやく落着いた頃、三原の新しい友人達とともに「文学城」という雑誌を出す企画に参加し、私も一文を書くことになった。翌二十一年六月号を創刊号にして出発したその雑誌に私が書いた戦後最初の文が、「人間存在の本質と限界」であり、第二号に書いたのが「ヒューマニズムの政治思想」であった。もって廻った難解なその長文を最近発見して読み返し、それが戦前のカント哲学の呪縛をとき放ちつつ唯物論哲学へと模索する苦闘の文であり、カントへの決別の文であることを思い返した。私にとって進むべき道はマルクス以外なかった。

資本論をはじめ手に入る本を読みながら一年近く充電して中国新聞に入社したのは四六年(昭和二十一年)十月であった。そのときすでに十月闘争は始まり、以来嵐のように進む労働組合の真唯中に身をおいて四八年(S二十三年)、私は自らの思想と行動を整合することの重要さを納得して自らの選択で、ちゅうちょしていた日本共産党への入党を決意した。

 カントから瞬時のヘーゲルを経て行きついたマルクスは私にとってすべてのように思われた。しかしそれを体現しているはずの日本共産党は私にとって次第に目指していたものではないように思えてきた。青春時代、主体としての自我のめざめに有頂天になり国家と社会をうつろな眼でしか見ることができず、やがてその国家に自らを呑みこまれた私が、二度と誤ちをくり返すまいと固く誓って自らが進んで参加した日本共産党の組織は、やがて批判の自由を圧殺し、自立を奪って上から「共同」を強制しはじめた。それはかつてどこかで出会ったことのある絶対主義的なものであった。今度こそはと、自己をかえ返しつつぶつかった結果が、二度、三度に亘る除名と機関罷免であった。すべての批判を弾圧して自由を抑圧する組織はまさしくかつて経験した国家の相を呈していた。いや、それは単なる相ではなく、その党のめざすスターリン的社会主義「国家」の原型だったのだ。ヘーゲルは再び私の前に大手をひろげて立ちふさがった。しかし私にとってそれは二度と従順に服従すべきものではなかった。

 限りない矛盾

 ついに離党して除名された私は喜んで社会主義革新運動―共産主義労働者党へと歩み始めた。それはまた、私が生涯かけて贖罪の運動だと心に定めた反核反戦運動―原水爆禁止運動の分裂とちょうど時を同じくしていた。党と大衆運動と、何れも同じ批判の自由と統一という問題は以後わたしのとって最大の課題となった。それは、自立を重んじて国家と社会を失い、国家・社会に心を奪われて自らを失った私にとって限りない矛盾を追求する果てしない旅であった。その後、結集をめざして分裂し、分裂のなかから統一を模索しつつ今に至るまで二十七年、真理の荒野にさまよって帰する所を知らず、なおあるべき道を探してよわい七〇に至る、とふり返って長い道を思う。

 今にして思えば、それは日本の近代との長い悪戦苦闘ではなかったか。明治の近代化は自由民権運動の左を弾圧して右を懐柔し、残った勢力をナショナリズムでその思想を萎えさせてついに国家のヘゲモニーを確立する。しかし大正の新しい時代はこうした時代に反逆し抵抗する。この時期、日本で始めて農村人口が五割を割り発展する大都会へと人口は集中し始める。都会の資本主義的喧騒が生む孤独はやがてしたたかな自立を誕生させる。一度漬えたかに見えた近代的自立は土を衝いて立ち上がる新芽のように頭をつき出す。しかし又しても余りにも早い「共同」=国家の圧力は新芽を奪って服従を強制し、「近代相の超克」の名の下に戦争を鼓吹する。げに近代とは狂気の時代なのか。自らの生んだ自立を再び絞め殺すことによって帝国主義的近代を完成する。

 

大正の名残り

 

 しかしこの間にあって大正の時代は新しい可能性を模索する。そこでは大正デモクラシーと呼ばれるブルジョア左派の民主主義運動と合わせて、社会変革の根幹ともいうべき労働運動・農民運動・部落解放運動として革命運動の基礎が据えられる。大正―それは単に明治に反逆しつつ昭和をはらむ矛盾激突に時代であり、それはまた明治に始まる東アジア民衆と日本帝国主義との対立と闘争を自らの内にきびしく胚胎する過渡の時代でもあった。

 大正の半ばに生まれて幼年期をこの時代に送った私の裡に刻み込まれた無意識の心音は時として音高く私の胸に鳴りひびくことがあった。自らの人生の最初の時代は新たに私に何かを語りかけるように思える。こうした時代の子が思い、行動したことは、私達の先輩とも後輩とも後から来る人達とも違う独特なものがあるのではないか。私が書き残そうと思った理由はそこにある。

 

 


私の昭和思想史(三二) 松江 澄 「労働者」(1971年からの分)

 

 世界的転換のきざし―「ニクソン・ショック」

 置く縄は七一年六月に返還協定が結ばれ、七二年五月復帰することになった。しかし、沖縄の戦後はけっして終わらずそれは「第三次沖縄処分」と呼ばれた。まず何よりも在日米軍きちの七五%を占める尨大な基地は依然として居座り貪欲な本土大資本は一斉に殺到して自然を破壊し沖縄経済を蹂躓しつつ「開発」に狂奔した。私は最初の訪沖のときに嘉手納期地を巡ってその途方もない広大さに驚き、基地の町に米軍占領下の広島を見た。二度目の旅では活動家の案内で沖縄戦跡を目の当たり見て、激烈な沖縄戦とそのなかで無惨に命を奪われた人々を偲んだ。

 一九七一年、中国「文化大革命の成功」を讃えた中国共産党はその功績者として軍の責任者である林彪を毛主席の後継者として指名したが、林彪は翌七二年ク―デタ―で毛沢東打倒に失敗して逃走する飛行機がモンゴ―ルで墜落して死亡した。七一年の夏、世界は二つの「ニクソン・ショック」に驚かされた。その一つは七一年七月に発表されたニクソン大統領の訪中計画である。ベトナム戦争泥沼から足の抜きようもなく、アメリカと世界の青年や民衆の不正義、不公正なベトナム戦争を撃つ声はいっそう高まっていた。この四月、湾岸戦勝に勝利したブッシュ大統領が「ベトナムの亡霊はいま湾岸に埋められた」―と誇らしげに語るほど以来今日まで二〇年間「ベトナムの亡霊」はアメリカの青年ばかりでなくその支配層を悩ましつづけたのであった。

 そのアメリカが中ソ対立を利用しつつ台湾確保を中心とするアジア戦略から中国に接近する戦略へと転換し、中国もまたソ連との対立、第三世界戦略の孤立から思い切った対米接近路線へと飛躍したことは世界の耳目を聳動させた。このとき以来、米中の接近と疎隔とはソ中の対立と協調に逆比例しながら今日に至っている。

 もう一つのショックはその翌月ニクソンによる新経済政策の発表であった。ドルと金の交換の一時停止である。世界の基軸通貨として「パクス・アメリカーナ」の経済軸であったドルの放慢な流出は、フランス等の換金要求によって金の国外流出を無制限にすすめ、そのうえベトナム戦費のたれ流しはいっそうドル不足=金不足に活車うぃかけた。この交換停止によって戦後来のIMF体制は崩壊し、以来通貨危機は今日に至るまで資本主義世界経済を襲い続け、やがてベトナムからの「名誉ある撤退」によってついに「パクス・アメリカーナ」は幕を閉じるのであった。

 

 日本に忍びよるひそかな変化

 日本はこの頃からアメリカと対照的に経済大国への歩みを開始し、やがて始まる「石油ショック」を減量経営で切り抜けて八〇年代のME革命でいっきょに各国をしのぎ、飛躍的な産業構造転換のもとで今日の基礎をつくった。七二年六月に登場した田中内閣は日中国交回復をはかり、始まった経済成長に依拠して「列島改造」に血道をあげ、土地価格騰貴ブームの端緒となった。

 広島の党は七一年四月の統一地方選で、県議選では前回の雪辱をはたして一〇三〇一票一四名中第九位で当選し、山口君は市議選で四七六一票四八名中第一三位で初当選した。平和記念館でひらいた祝賀会にはかってない多くの人々が結集して、二つの当選を祝う歓声は館中にこだました。この年の労働者党全国代表委員会は勝利に因んで広島で、開き、私が全国委員会議長に就任することになった。内藤さんは東京で病後を養っていたが、上京の折訪れる私に、現代帝国主義の探求を求めていたことが今にして思い返される。

 七二年二月には県・市議会選の勝利に勢いづいた市民運動・住民運動は新たに市民運動の共同推進母体として広島市民会議を結成、以来、不当水道料金返還要求運動、森永砒素ミルク中毒の子供を守るための運動など広島における市民運動の拠点として活動を開始した。

 しかしこのときすでに労働組合運動に新しい変化の兆しがしのびよっていたのだが、私はやがて大きく変化する情勢と条件をはっきりと見とうすことができなかった。それは世界の最先端をゆく技術革新が生産と労働にもたらした新しい変化とそれが労働組合運動に及ぼす深刻な影響である。

 日本にIMFJC(国際金属労協日本協議)が設立されたのがすでに一九六四年である。以来あらたな「戦線統一」へ胎動が陰に陽に始まっていた。一九七〇年から国労、全逓の「マル生」に反対闘争で高揚しつつ「スト権スト」にひきつがれるが、それは戦後来つづいてきた戦闘的労働組合運動の最後の闘いであった。

 戦後来の資本と労働の対立と闘争のなかで、資本の戦略の巧妙さをいま改めて思う。彼らはまず「レッド・パージ」で民間労働組合という外堀を埋めつつ戦後闘争の先陣をさきがけてきた官公労の息切れを待ってこれを制圧した。後に残ったのは国労、全逓などを中心にした公労協であった。しかし、社会党=総評による反合理化路線のゆきつくところ、「上からの」事前協議制が資本の先制攻撃によって崩されて全戦線が後退しはじめ、七〇年には「全民懇」による労線統一世話人会が生まれ、反対の極には新左翼による春闘討論集会(全労活)が始まった。労線統一をめぐるその後の対極の構図である。(つづく)


私の昭和思想史(三三) 松江 澄 「労働者」掲載

二度目のソ連

 ちょうどこの頃、一年に一度、全国県議会議長会が主催する国外行政視察旅行に「年期」によって議会事務局から私に参加要請があった。県委員会で相談したが、みんなよい機会だから勉強してこいという。私ばかり行くのも気にひけるが、この度の旅費は公費なのでカンパも不用だし何よりも二度目のソ連と初めての東欧が含まれているので私は参加することに決めた。

全国総数二九人が羽田空港を出発したのは七三年四月二十六日の午前一一時、私には初めての長距離航空機(ターボブロッホ)だった。実飛行時間は一〇時間近くだったが時差修正でモスクワに到着したのは一五時五分だった。シレメチボ空港にはかねて打ち合わせていた広島の山田君(私が大原代議士に頼んで当時モスクワ民族大学在学中)が迎えに来ていた。いっしょにバスにのってホテル・インツーリストに同行し、彼の家から彼の注文でことづかってきたラジ・カセを渡してコニャックを飲みながら久しぶりで話した。彼の話では、モスクワの町にも東京や広島と変わらぬ「夜の町」があるようだった。

別れぎわになって彼は、好きな女性と近く結婚すると白状した。二八才で先夫との間に女の子が一人いるという。父親さんやお袋さんがどういうかな、と問うと、まだ内証にしておいてくれと頼む。こうして私は彼の大切な秘密をあずかる羽目になったが、やがて彼の同伴帰国で見事にばれて私は家族に会わす顔がなかった。

翌日あちこち御仕着せの視察のあいだをぬって、私はゴリキー大通りに並ぶ大きなショップを見て歩いた。たしかに商品は六五年当時に比べて出廻っていたが、デザインは単調で高いものは余り売れていない。機会あるごとに労働者にきいてみると、住宅や生活必需品は安いが白黒でも三〇〇〜四〇〇ルーブルするテレビや、五〇〇〇〜九〇〇〇ルーブルもするモスクビイッチ(国産小型自動車)は、月額一三〇ルーブル内外の給料では手が出ない高根の花だという。つい最近行なわれた党大会についてきいて見ても、前回のときと同じように当たりさわりのない返事しか返ってこない。とても「労働者階級が主人公」とは思えない。地区党の幹部は五〇年代生まれの青年たちの動向がいちばん気になるようだった。

モスクワからレニングラードへ行くころはメーデーの直前で、町中に赤旗がひるがえり準備に忙しかったが、指導者の大きな顔の看板はどう見ても私にはいただけなかった。ちょうどメーデーの日の午後六時頃ストックホルムに着いた。こことコペンハーゲンは何れも一泊二日で、初めてのスエーデン、デンマークも束の間だった。ただ一つ、いまでも「豊かな社会主義」といわれているこれらの国々が、「高課税・高福祉」で先へ進むか後戻りするかの岐路に立って行きなやんでいると現地の活動家は話していた。

初めての東欧

コペンハーゲンから一転してワルシャワに入ったのが五月四日だった。私はソ連と違った意味で東欧社会主義の実態に少しでもふれようといささか緊張していた。二泊三日の確かな滞在のなかで、当時の私のメモ帳の冒頭に次の一行がある。「なんとなくソ連と異なって自由の空気がある」と。それは町を歩き市民と話した私の第一印象であった。その頃は個人商店が一定の限度内で認められ、農業も集団農場は少なく個人農が多かった。たびかさなる動乱の跡はうかがうすべもなかったが、会う人々はソ連とは反対に遠慮なく政府を批判していた。

朝早く起きて労働者が出動前に立食するスタンドで私もいっしょにパンと肉をほほばりながら話をすると、だんだん打ちとけて話がはずむ。そのうち一人の労働者が私に、ワルシャワの町の中で一番景色のよいながめはどこから見た景色か知っているか、と問う。もちろん私は知るはずがない。あっさりかぶとをぬいできくと、あの窓から見るワルシャワの景色だという。その窓のある建物とは、スターリンがこの町に寄贈した彼好みの大規模で天に向かってそそり立つ尖塔を中心にした大宮殿であった。何故その窓から見る景色がよいのか分からぬ私に彼は、「その建物が見えないからさ」といってニヤリと笑う。やられたなと思ったが一瞬それはスターリンに対しだけ向けられたジョークではなくソ連そのものに向けられているなと私は思った。

その夜この大宮殿の地下にある巨大なカフェーでひらかれたパーティで、私は「夜の女」と自称する女性に会った。移民の多いポーランド人は外国の親戚に行きたくとも金がないのでドル稼ぎだという。だがその裏に生活のきびしさとともに、外に出て見たいという強烈な欲望があると思われた。

プラハも同じように二泊三日だった。かつてビザンチン文化の都だったこの町を流れるブルタバ(ボルドウ)河にかかる一五世紀時代の橋や、おとぎの城のようにくつきりと立つプラハ城のすばらしさに私は心を奪われた。しかしここでも私達はジョークばりの皮肉の針でさされた。それは私達がバスでプラハ城を下りたあたりにソ連の旗をかかげた駐留軍司令部を見つけたときだった。誰かが、どうしてソ連軍が駐留しているのかと皮肉まじりにきいたとき、私達の案内人は切り返すように、「貴方方の国にもアメリカ軍が駐留しているではないか」と答えてニヤリと笑った。

私は昼食のとき二、三人の活動家らしい青年達とつれ立って同じテーブルを囲んだ。私は自らがコミュニストだとことわって「プラハの春」の弾圧を批判し、率直な意見を求めた。しばらくの沈黙ののち一人の青年が党員だと名のって、ソ連の云いなりになる政府を遠慮がちに批判した。「プラハの春」が東欧五ケ国軍の戦車で蹂躓されてからまだ四年目だった。(つづく)


私の昭和思想史(三四) 松江 澄 「労働者」

チリ社会主義革命の挫折

 

 一九七二年は重要な事件があいつで起こり、広島にとっても重大な闘争が闘われた年であった。広島の運動としてこの年に画気的なのは、被団協・原水禁が被爆者援護法に必死の思いをこめて大挙上京、全国的な支援のもとで首相官邸に座り込んだことだった。

 他の一つは、郊外の海田第十三師団が新任の師団長を迎えて強引に広島の中心部でパレードを強行し、中国地方からも労働者、労働組合が結集して抗議闘争を闘ったことである。このときの第十三師団長は奇しくも私と一高が同期で、内務省から警察予備隊に入り後に幕僚会議議長となって「有事立法」を主張して職を辞した栗栖弘臣であった。

 この二つの闘いは、「被爆地を自衛隊の軍靴で汚すな」=「被爆者援護法の即時実現」という意味で別なものではなかった。首相官邸の座り込みは長時間に及び、出て来ぬ田中首相に代わって二階堂官房長官が会見することになり、ともに座り込んでいた私も選ばれて被爆者代表とともに交渉に参加した。

 自衛隊パレードに間に合うよう急遽帰広して抗議闘争に加わったが、当日パレードが通貨する県庁前大道には万を越える労働組合員と市民が旗とのぼりをなびかせて待機していた。

 やがて自衛隊の隊列が見えると歓声をあげて一斉に抗議のシュプレヒコールを浴びせて、突出する部隊もあって緊迫した空気になった。結局、戦車を交えたパレードは大急ぎで通過し早々に引きあげたが、この闘いの盛り上がりは広島の運動の気勢を大いに鼓舞することになった。

 だが地方では八月八日、来日中の金大中氏が白昼東京の中心部のホテルから韓国KCIAによって誘拐される事件が起き、その行方を追って連日騒然としていた。しかし何といっても私達にとっての最大の関心事は、その一月後に起きたチリの反革命クーデターによって期待されていた社会主義への展望が挫折したことであった。

 これはアジェンデ大統領就任以来、議会内少数派の与党連合を軸に権力の基盤を一歩一歩奪取しようと、チリ共産党が中心となって進めていた国有化政策への武力反撃であった。

 アジェンデ大統領は闘って仆れ、軍部が実権をにぎって以来一〇数年にわたってテロリズムが荒れ狂い、昨年になってようやく民族民主勢力が大統領選挙に勝利して民主主義回復の第一歩がきづかれた。

 この事件は議会と政府を通じる社会主義への移行過程の事件として世界の革命運動に多くの問題をなげかけた。『労働運動研究』でも時を移さず柴山、植村両君が論陣を張ったが、私は翌年四月から『労研』に書きはじめた「新しい革命と新しい党」のなかで、「フランスの『五月』とチリ革命」と題してチリ共産党を批判した。

 それは、「マルクス主義の歴史的経験は、少数派による『強力の道』から多数派形成による『民主主義的=合法的な道』へとその探求を続けながら、いままさにそのことの成否が問われている」(前述松江論文)状況のなかで、まず「平和的な道」を第一義的な前提として軍隊を中立的に評価したことの批判だった。重要なことはまず「民主的な道」を選択し、必要に応じて「急流で馬を乗り換える」準備が必要だと主張したが、それは八〇年代に始まる私の「新しい革命」への探求のいとぐちとなった。

 内藤さんの急死

 一九七四年の四月には、広島県党の『労働者新聞』を『広島労新』と改題し、新たに『ひろしま市民新聞』を発行することにした。その理由は労働者闘争と住民闘争を二つの武器で分け持つことでいっそうの発展を期することにあった。

 この年の四月十一日、かねて準備されていた「スト権スト」が八一単産六〇〇万組合員による交通ゼネストとして闘われた。だが残念ながらスト権は勝ちとれず、さしもの大ストライキが得る所なく終わったことはその後の運動後退の第一歩となった。

 この年、ニクソンがウオーターゲート事件で辞任を余儀なくされ、田中内閣がロッキード事件等の金権問題で総辞職するなど、内外で汚職による重大な政変があったが、私にとって何よりも重大な知らせだったのは内藤さん急死の電話だった。それは、五月十六日のことで、長男といっしょに山に登るために出かけた国電のなかで心筋梗塞に仆れ、病院にかつぎこまれたがすでに駄目だったということであった。

 かねてから療養中ではあったが大分よくなって時には山に出かけたりしているときいていたが、この知らせは広島のわれわれにとってまさに晴天のへきれきであった。私はとるものもとりあえず上京して通夜の席に連なり、翌日は葬式のあと焼場に送って帰り内野邸で酒をあふったが一向に酔えず万感こもごも至って呆然とした。

 帰広して六月十九日、市内大手町の常念寺で党員とシンパ、友人八〇余名が追悼会に集い、十月十六日には東京の私学会館で「内藤知周を偲ぶ会」をひらき、内藤さんの古からの友人や交わりのあった各党派の人々と思い出を語り合って彼を偲んだ。

 私にとって内藤さんは師であり友であり兄のようだった。一九四八年国労ストのスキップ阻止の闘争で逮捕立件された公判の法廷で、当時地区労委員長として支援活動をしていた私は廷内側を越えて握手したのが初めての対面だった。

 以来日鋼争議も五〇年分裂も終始近くに在って相談し合いただ一度だけ離れていたのは極左冒険主義時代だけで、六全協以後は中国地方常任委員として毎日彼と仕事をともにし、綱領論争では一心同体となって追求した。彼は私より五才うえだったが大分年上のような気がしていた。彼は細心な反面きわめて大胆なところがあり、綱領論争ではその全生命をかけて闘い、宮本の矛盾をつく論鋒の鋭さは定評があった。


私の昭和思想史(三五) 松江 澄  「労働者」

 

 前衛党再建のために

前号(三四)で私は七四年四月の交通ゼネストと七五年十一月の「スト権スト」とを混同していた。「さしもの大ストライキが得る所なくして終ったことはその後の運動後退の第一歩となった」のは、七五年十一月の闘いであった。この年はまた私のとっても党にとっても重要で多忙な年であった。

 私は県会4期目、山口君は市会2期目の選挙がせまっていた。私達は前年の秋から本格的にとりくみ、年が明けてから急速に活動のテンポを早めて必勝を期した。しかし私は八六七九票―六四差で次点、山口君は四七六一票―五九名中一二位の好成績で二期目の当選を果たした。

かつては二八票で辛うじて当選し今また六四票で落選、小勢力の闘いにとってやむを得ぬ時の運であった。だが山口君の当選によって私達は広島の議会に労働者党の旗を掲げつづけることができたのである。

この選挙がすむと私は休むひまもなく党の重大な作業に集中しなければならなかった。それは前年来検討していた「前衛党再建」に向けて友党によびかけるための提案を起草することであった。草案はまず手分けして分担執筆したのち私がまとめることになっていた。

巣で何回もの討議をつくした私達は最後の集約のため九月中旬長野県野尻湖畔の学者村にある内野さんの小さな別荘で合宿することにした。但し宿舎はこの村の丸太造りの集会所だった。連日の討論で激論もあったがどうやら原案をまとめ、一日のんびりと秋色濃い野尻湖をたずね、近くの旅館で大きな岩魚の生きのよいのをさしみにして一杯飲んで疲れをいやした。

十月、全国代表者会議をひらいて討議、ここでもきびしい批判でいささか難航したがようやくまとめて原稿をととのえ、「『前衛党の再建のために』―私たちの提案」を十一月『労研』に発表した。提案にあたっての一文の中で強調しているのは変革主体の創造であり、前衛党の再建であった。「ブルジョア民族主義と議会主義に転落」している日共をひはんしつつ、日本共産主義運動の再建と統一をめざす諸勢力の共同を求めて提起したものであった。

本文では「独善主義とセクト主義をすてて共同闘争を発展させ、一つの革命的な戦線に結集しつつ日本のおける唯一のマルクス・レーニン主義の党を建設するという目的を共同で追求することこそ、今日の共産主義運動に与えられた第一義的な課題である。」と強調した。以来、内容に変化はあっても、自らを捨てて統一を求めることを唯一の存在理由とする私達の追求がはじまったのである。

この提案をあずさえて私達は手分けして各党派と会ってその真意を訴えたが、分断している各組織の共同を創り出すことは思いの外に困難であった。未だ機は熟していなかったのである。

 

「プロ独裁」をめぐり

 

 七六年四月五日、文化大革命で追放されたが先年首相に帰り咲いたケ小平が、周恩来元首を慕う民衆による「天安門事件」の黒幕だとして再び解任され、その後釜に華国鋒が座った。九月九日には巨星毛沢東が病死し、江青などの四人組が突如逮捕され華国鋒が党主席となった。

他方四月三十日にはベトナム解放軍がサイゴンに入城しここに長期にわたったべトナム戦争は終結し全土は解放された。日本では七月、田中首相がロッキード事件で逮捕され内外ともに大きな変化が訪れようとしていた。

この年九月三十日、天皇は訪米しアメリカとの関係修復に一役買った。ところがその帰国後十月三十一日の記者会見で質問を受けた彼は、「戦争責任」については「そういう言葉のアヤ」は分からぬと逃げ、「原爆」については戦争中だから気の毒だが「やむを得ないし」と公言した。

私は心底から憤激した。戦争と原爆を経た者にとっては何としても許せぬ暴言であった。広島原水禁、広島被団協は直ちに会議をひらいて公開抗議質問状を宮内庁経由で送ったが、まともな回答はなかった。

この年八月二十二日、労働者党全国委員会の呼びかけで、東京市ヶ谷の私学会館で「プロレタリア独裁問題シンポジュウム」がひらかれた。この会議には東京はじめ関東地方、大阪、京都、名古屋および広島はじめ中国地方と九州から、「日本のこえ」「新時代」「デモクラート」「共産主義者団」「共産主義革命党」「労働者党」の代表四三名が出席した。

この会議は、当時フランス、スペイン、日本などの共産党による「プロ独裁」概念の放棄があいつぐなかで、「プロ独裁」の内容を積極的に追求しようとするものであった。

まず私が、「『プロレタリア独裁』概念の放棄に対する批判と日本における『プロレタリア独裁』の展望について」と題して基調提起を行い活発な議論が行なわれた。そののち党は私の報告などを集録してパンフを発行したが、その中で私は日共の不破論文を批判しつつ、「職場と生産の主人公」をめざす労働者のヘゲモニーこそ「プロ独裁」の基本形態であり“細胞”であると強調した。

この号の原稿を書いた後でソ連のクーデターから党の解散についてのニュースを聞いた。それは正しく「プロ独裁」と「唯一前衛党」の最終的な崩壊であった。私の原稿と現実との逆な符合にわれながら歴史的因縁を思った。だが私の思想史は今日まで苦闘の一五年を必要とする。


私の昭和思想史(三六)  松江 澄 「労働者」

 

<戦前派と戦後派の逆転>

一九七六年といえば、戦後生まれの人々が日本人口の半数を超えた年である。私は五七才になっていた。統計局の発表はただの数字以上のものを私に考えさせた。

 二六才で敗戦をむかえた私にとって、その青春時代のすべては一五戦争の渦中にあった。とはいっても、私が直接感覚的に戦争のなかにあると感じたのは一九四一年の太平洋戦争からであった。それまでは戦争でありながら感覚的には「平和」であり「自由」であった。今考えて見入ると犯すことはあっても犯されることのなかった日本人の戦争への感性は、被害体験からしか考えられなかったのではないか。

 四一年以降はそれ以前の日常生活と違って急速に変わっていった。シュタインでドイツ・ビールを飲ませてくれた銀座のミュンヘン“から学生は閉め出され、それまでは質量とも満足していた食事もやがてトーフ一丁で「一膳飯」を喰ったり、肉のないライスカレー「一時腹」をゴマ化すようになり、四三年 にもなればキップがなければ外食もできなくなった。

 私の小学校六年のときに始まり中学卒業の年に全面戦争となった中国への侵略戦争も「被害感」のない日常生活の外にあった。この戦争の真実が隠されていたにせよ、戦争の正確な認識については感性のではなく理性の媒介が必要だった。文学者で私より一つ年下の安岡章太郎「僕の昭和史」も同じ理由で、「『十五念戦争』という云い方に実感としてなじめないものがある。」と述べ、「僕の実感として戦争が本格的にはじまったのは、この年(四〇年からである。」と記している。

 戦後生まれが過半数ともなれば、被害感さえ次第にうすらぎ、加害感はますます遠のくに違いない。残るとしても理念的な加害感と感性的な被害感の距離はますます遠くなる。ただいちずに反戦反核を闘ってきた私は、生年の戦前・戦後の逆転にいいようようのない不安を覚えた。

 しかも、この年十一月十日、天皇在位五〇年を祝う式典が全国の市町村で花々しく行なわれた。広島の祝賀実行委員の名簿は官公庁の長と各級の右派議員、知名会社の社長たち二〇〇人で埋められていた。その後の年号法、スパイ防止法案(廃案)、「日の丸・君が代」強制に至る反動化への開始の合図であった。

 天皇についての私の思想的原点は、すでに書いたように「人間に上下なし」という素朴な戦闘的ヒューマニズムであった。戦後マルクス主義の洗礼を受けながら、やはり私の天皇観の根底は変わらなかった。その天皇が戦後もひきつづいて「象徴」として再び「人心収攪の中心」(福沢諭吉)になることを憎んだが、いま生年の逆転が始まる年にそのカンパニアが進められることに私は二重の不安と焦りを覚えたのである。

<労働者党第一回大会―一九七七年九月>

 私たちは「前衛党再建のために」を発表して二年後に、それまで労働者党全国協議会という協議会であった組織を単一の党として形成することになった。それは共産主義者の結集をはかるためのも自らの党的主体形成が必要であったからである。

 そのうえ「提案」発表後急速に変化しつつあった情勢のもとで、そのいくつかの命題を補足する必要があった。この大会は、大阪部落解放センターの大会議室を借りて二日間に亘ってひらかれた。

新しい情勢としてはまず一に、ベトナム戦争におけるアメリカの敗北と、それが最終的にもたらしたドルの減価、国際通貨体制の崩壊、また世界的危機インフレと恐慌という資本主義世界経済の構造的危機についての分析であった。

第二には、五〇年代後半から年率10%を超えるめざましいテンポで国民総生産を増大させ、資本主義世界第二の「経済大国」にのし上がった日本資本主義の分析であった。

大会はとくに四〇〇〇億ドルを超えるアジア諸国への「援助」が単なる経済援助ではなく、アジアの反共軍事同盟をめざすアメリカ世界戦略に協調しつつ再びアジアの「盟主」になるための帝国主義的野望であると指摘するとともに、こうした日米帝国主義の針路に対立するベトナム戦争勝利に励まされたアジアと世界における民族解放運動の昂揚と発展がることを確認した。

そのうえで日本独占資本が自らの勢力の補完的役割として中道主義、新労使協調主義の育成にとくに留意していると指摘し、労働運動を始めとした各階層の運動、自然と環境を守る闘い、日韓連帯運動、部落解放運動についてそれぞれの重要な課題を提起した。

またこの大会は初めて「社会主義への変革をめざして」という一文で「日本革命の発展過程をあらかじめ図式的に断定しることはできないが、一定の政治的危機のもとで反独占統一戦線政府をめざす闘いが議会を通じて始まることはありうることである。」と議会を革命的にダイナミミズムのなかに位置づけたことをいま顧みる。この大会の追求は今日の情勢にも耐えうるものを残している。

この大会は最後に、「前衛党再建のために」というテーマのもとで、「共産党がありながら前衛党を再建する必要が具体的実践的な課題としてつきつけられているという日本の階級闘争と革命闘争の特殊性」を確認しつつ、前衛党の再建と労働者党の強化を統一して進めることの重要性を強調した。(つづく)


私の昭和思想史(三七)  松江 澄  「労働者」

原水禁運動の「統一」問題

 一九七五年から一九七九年頃までの反核運動にとって最も重要な問題となったのは「原水禁運動の統一」であった。この問題は私自身が四九年来の反核反戦運動から五四年の原水禁運動へと一身を投じていただけに私のとって避けて通れぬ問題であったし、それはまた私と日共との思想の闘いでもあったという意味で忘れることのできぬものであった。

 この問題については当時の『労働運動研究』に四回にわたって書いた「原水禁運動の統一について」の一文に詳しいし、それはまた私の、この運動について執筆したものに加えて書き下ろしたものを含めて一書にまとめた「『ヒロシマから』―原水禁運動に生きて」(青弓社 刊)のなかにすべて書きとどめておいた。いまそのなかで私の思想史にとって最も重要だと思うことだけは整理して書きとめておきた。

 原水禁運動の『統一』問題がおきたのは、この運動が六三年に分裂して一〇年後の七二,七三年、日共がいわゆる「統一三原則」によって解体統一を提唱したころから始まった。それが実際に具体的な動きとして日共・総評の会合などが行なわれたのは、それから二年の七五年ころであった。以後、統一議論が激しく沸騰し「統一」世界大会が模索された。私にとって、この運動の分裂と統一はもとより、さらに労働組合運動をはじめとするすべての大衆運動の統一と分裂を追及することが求められていた。それは戦後来広島でこうした運動のただなかにいた私に、改めて「運動の統一」とは何かということについて深い考察を迫るものであった。

 私は『労働運動研究』七七年六月号に「再び原水禁運動の統一について」という論文を書いてこの問題を究明したが、それは私の思想史にとって重要な一頁であり、この問題についての追求を総括する格好の機会となった。私は、このとき「運動の統一」とは何かということが運動にとって最も根底的な課題であることを直感していた。それは原水禁運動だけでなく、近代以来の日本の大衆運動、とりわけ戦後日本の諸運動をつらぬく「統一と分裂」についての総括であった。そこで私がゆきついた結論は「意見が同じものが、ともに闘うことは『統一』ではない。異なった意見や方針をもつものが一致する課題で、ともに闘うことこそ運動の統一である」(前述論文)ということであった。

 

 主体と連帯あるいは個と共同

 

 だが、私の模索は、そこに留まることを許されなかった。つづいて私は書いた。「統一の思想は個々の組織の主体性の確立と矛盾するどころか、それを前提としてのみ成立しうるものであり、・・・・・・・・その意味で統一の思想は思想の主体性と表裏一体のものであってけっしてその逆ではなく・・・・・・統一の思想の弱さは思想の主体性の弱さと別のものではない」ことを確認した。そうして、日本の運動の主体性の弱さ=統一と連帯の弱さは「ブルジョア民主主義をかけ足でと通りすぎた日本の大衆運動の自立性の弱さの反映でもある。」と総括した。

 この追求は、その後十数年を経てさらに私の内部で新しい模索を生んだ。それは私がたどたどと総括し直すことによって日本の近代の内部に暗く澱んでいる「日本的集団主義」であった。集団の権威の前に沈黙することによって異端でないことのアリバエにする思想である。それは戦時中には極めてろこつ通用し、「日本的集団主義」は草の根ファシズムに転化して、あの戦争を支えることになった。いや、それは戦後消え去ったわけではない。いま現に職場と地域で充分に生きのびて運動の足を重くひきすえている。

 私はこの問題は日本の近代社会のなかでの「個と共同」の関係であると考えはじめた。それは、八九年以来の現存社会主義の崩壊のなかで、かねてから追求されていた新しい社会への展望とも重なるものであった。マルクスの言う「ひとりひとりの自由な発展がすべての人々の自由な発展にとっての条件である。」(共産党宣言)のような「一つの協同体」とは、「個」の自立を前提にした自然体によって個と共同が相互につい合いのとれた協同組合のような社会ではないのか。ところが崩壊した現存社会主義のなかに私が見出したものは、これとは似ても似つかぬ上からたばねられ個を抹殺した集団主義の社会ではなかったか。この模索は私のなかで今日もつづいている。

 再び当事の現実に帰ろう。私が提起した「統一の思想」と運動は広島原水禁に受け入れられ、森滝さんは「主体と連帯」ということばで呼応した。しかしそれから一ヶ月もたたぬ七七年五月十九日、秘かに唯一人上京した森滝さんは学者などのあっせんで「協」の責任者である草野氏とのトップ会談をして、「禁」「協」の「組織統一」を展望する「五・一九会談」に署名した。私たちにとって全く寝耳に水だった。森滝さんの帰広を待って開いた非公開の常任理事会で私はきびしく批判した。平和運動にとって「カリスマ」は不用である。この運動こそ一人一人からなる民衆の運動と討議によってのみすべては決定される。ともに長く運動してきた尊敬する森滝さんを批判するのはつらかったが、あえてしなければならなかった。

 ※ この合意書には、この年「八月の大会は統一世界大会として開催する」など五項目にわたっているが、その第三項では「年内をめどに、国民的統一組織を実現する」となっている。


私の昭和思想史(三八)   松江 澄  「労働者」掲載

 

反動派の攻撃と選挙の勝利

 

 一九七八年は血なまぐさい反動が始動を開始した年だった。まず七月には「有事立法」が公然と国会の舞台に登場した。これはすでに書いたことではあるが、私と一高同期の栗栖が幕僚会議議長になるとまもなく「有事立法」の必要を公然と発言、主張して大いに物議をかもしたことからおきた。

 彼は学生時代に私と同じように軍隊に召集され、フィリピンなどに転戦し敗戦を迎えて内務省に入り、その後五〇年に創設された警察予備隊(陸上自衛隊の前身)に転じて次第に頭角をあらわし、ついに幕僚会議の議長になった。彼が「有事立法」発言で職を辞したころ東京で開かれた同期の一高会であったことがある。

 彼の話を聞きながら私が気がついたのは、栗栖はただ一人はじめて文官出身で武官の最高位に任じたゆえに、武官以上に武官達の立場に固執したなということであった。

 つづいて「三矢研究」が国会の中で暴露、追及されて大問題となり、制服組の独走だとして大いに非難されることとなった。これは朝鮮半島への軍事展開について作戦研究したもので、自衛隊作戦戦術の方向がどこに向けられているかを明らかさまにしたものとして国会内で左右激突したが、自民党も武官の独走はシビリアン・コントロールをやぶるものとしてしぶしぶ認めなければならなかった。

 「有事立法」といい「三矢研究」といい、安保闘争後しだいにあらわれ始めた自衛隊肥大化の波にのっていっきょに禁忌の一線を越えようとして失敗したもので、自民党政府や自衛隊の志向の方向をはからずも暴露することになった。

 こうして翌七九年四月には自民党と右翼勢力がかねてからもくろんでいた「年号法」が国会を通過して成立した。これは、以後展開される靖国法案、同公式参拝、スパイ防止法案など一連の反動化への口火を切る合図となった。

 そうしてちょうどこの四月全国一斉に統一に地方選挙が行われ、広島では雪辱を期する私と三期をめざす山口議員がそれぞれ県市議選に立候補、勝利をめざして闘った。

 とくに県議選は政令市をめざして合併拡大中のためかつてない大選挙区で大変苦労した。その結果、私は一〇三四七票を獲得して二二人中一八位で当選で五期目の議席を確定し、山口議員は3978票を獲得して三九人中三四位で当選して三期目の議席を守った。こうして四年ぶりに県市のコンビを回復し、広島県党の意気は上がった。

 

労戦統一と党の組織統一と

 

この頃、労戦統一への動きはしだいに進み、こうした「右翼再編」に反対する日共は七四の暮、統一労組懇を結成して、七九年十一月には彼らの「ナショナル・センター」を結成しようとしていた。このような情勢のもとで、「労戦統一問題」がにわかに労働運動の前途を展望する最も重要な課題となった。

わが党は日共のセクト主義的対抗路線には一致して批判したが、「労戦統一」そのものについては東京と大阪とで意見がきびしく対立していた。そこで私はこの年の暮れ、長谷川(浩)さんとともに大阪に出かけて原さんを初めとした労対部とこの問題を討論することになった。ところがなかなか意見は一致しない。

大阪の主張は労働組合にとって最大の力は統一であり、一時は後退してもそのなかでの時間をかけた実践的な運動によってこれを変えていかなければならぬという。東京の浩さんは、その統一が明らかに右翼分子の主張によって労働組合運動の右傾化をねらうものであるとしてきびしく批判する。

私は双方の意見を聞いていて、これは一時の意見の相違や単に「労戦統一」だけの意見のでは対立ではないと思った。それはそれぞれ長い歴史をもっている首都圏と関西の労働運動の歴史的な相違であると思った。関西労働運動はその歴史が示すようにプラグマティック戸さえ思えるほど徹底的な現実主義で、理念や思想よりも具体的な実践課題とそれを獲得するための力を何より重視する。

それに比べて首都圏では、もちろん現実に立脚しながらもなお思想・理論を重視し、時には現実を越えてなお理念を追求するところがあるように思える。これは双方の戦前来の党風を伝えて戦後の今日に至る歴史の相違だと私は思った。

そこで私はこの相違をいっきょにまとめることは不可能で、理屈や理念だけでは解決できないと思った。そこでまとめることができたのは労戦統一の階級的発展を追求し日共のセクト主義路線をきびしく批判することであった。

労戦統一にもまして重要な課題は前衛党再建をめざす第一歩としての党の組織統一の問題であった。なかでも組織統一について基本的に合意した「建設者同盟」とわが党がいかにして統一を実現するかということであった。七九年の労働者党第二回大会は両組織の統一をめざして、各対応細胞毎の統一会議と統一行動を基礎に両党の組織統一を八一年の早い時期に実現することを期した。

私はさっそく両組織の合同夏期合宿に参加してともに討論した。私はそのなかで、ソ連や国際情勢の見方にかなり相違があることにすぐ気がついた。それは「平和と社会主義」に参加していた建設者同盟の人々と戦前・戦後の経験のもとに比較的に自由に追求してきた私達との相違でもあると思った。


私の昭和思想史(三九) 松江 澄 「労働者」

 

グタニスクのスト

 

 一九八〇年夏、ポーランドではかねてから生活必需物質の決定的な不足による大衆の不満がつもっているなかで、七月一日、政府が発表した食肉等の値上げにたいし全国各所でストライキが発生した。なかでも八月十四日、グタニスクのレーニン造船所の労働者による二一項目の要求をかかげたストライキは、ポーランドのその後の重大な変革過程への最初の第一歩となった。それは戦後、社会主義体制に移行して以来ほとんど毎年のようにつづいていた労働者の闘争や蜂起が党=政府=官僚との決定的な対立に高まり、以後八年間に亘る抗争ののち今日のポーランドを生み出す端緒となった。またそれは、ただポ−ランドだけでなくハンガリー、チェコスロバキアをはじめとして全東欧の民衆決起によって党=政府の一元的な支配体制がまたたく間に崩壊するという東欧圏における驚天動地の合図となった。

 グタニスクのストライキは工場間ストライキ委員会の指導を中心に闘われた、その委員長にえらばれたのがワレサであった。このストライキの成功によって党=政府側はついに讓歩、8月三十一日には政労合意の協定が締結された。そののちいったん結ばれた協定についてふたたび対立が生まれるなかで自主管理労組「連帯」が結成されてわれさが議長となり、グタニスク協定は完全に労働者のものとなった。(この項つづく)

なによりも、党=政府の権威がかつてなく失墜したことと、党と権力に束縛なれない自由な労働組合が生まれたことは、ソ連東欧圏における画期的なできごとであった。八一年二月三日、ギエレクに代わってヤルゼルスキーが首相となり、さらにこの年の十月にはカニアに代わって党第一書記を兼ねることになった。

 こうして私達にとっては、はるかに遠いポーランドがにわかに身近な存在となり、彼の地におけるどんな会議も文章も情報も見逃すことなく、大きな変革の遠雷をきくように一喜一憂しつつ新しい変革の性格と今後の展望について話し合い摸索し合うのであった。

 その一方で、かねて計画していた建設者同盟との統一大会は八一年九月、伊豆でひらかれた。この大会では、それまでに激しい討論と思いきった妥協をくり返しながらつくられ、いささか教条的な政治方針と党の改正規約・前文がきびしい賛否の討論を経て多数で採択されたが、元労働者党の学生細胞は最後まで反対した。

 

戒厳令と「連帯」

 

 この年十二月十一日からグタニスクで「連帯」全国委員会と政府との交渉が難航し、「連帯」は自由選挙制、政権の正当など正面から権力の在り方を国民投票に問うことを提案し、これを拒否する党=政府と重大な対立に直面した。ヤルゼルスキー政府は十二月十三日ついに戒厳令に踏み切り、ワレサら中心的幹部は逮捕され、活動家達は一斉に地下に潜行した。

 こうした情勢のなかで一九八二年二月十五日、激論ときびしい対立を経て第四回全国委員会は、妥協の産物として「ポーランド問題について」という短い声明を機関紙に発表した。それは次のように述べている。「・・・・・国際情勢との関係、グタニスク政労合意の政治的意義、『連帯』の評価と社会主義のもとでの労働組合との関係、政労合意以降の経済的政治的社会的危機の内容、『軍政』それ自体の評価、国際共産主義運動としての課題などの諸問題を真剣に追求する。・・・・」と。

 しかしこの問題はこうした中途半端な声明ではすまされなかった。全国委員会はひきつづき三月に伊豆で全国党員学習会を開き、ポーランド問題について自由な討論を行なうことにした。私はこの集会の冒頭報告として「ポーランド問題の教訓」を提起することになった。これは三月五日付の機関紙に掲載され、また「労働運動研究」には八二年一月号(一四七号)の「八二年の階級闘争とわれわれの課題」のついての座談会のなかでの第三部「われわれのめざす社会主義の問題点」についての提起(松江澄)につづいて、四月号(一五〇号)には「ポーランドの事態から学ぶこと」(松江澄)と題して学習会報告を補足して問題を提起した。私は労研一月号では「『民主主義の徹底』ということは少数の民主主義から多数の民主主義へということで、つまり労働者・人民が本当の意味の主人公になるという問題」である、と報告した。

 ポーランドについての報告と論文ではこれを一歩進めて、「社会主義とはある意味で“徹底した民主主義だと思う」と提起しつつ、「グタニスク政労合意」によって「先験的な『前衛党』は存在しないことが公然と明らかにされた。」と断定した。もし「主人公」であるべき「労働者階級」が理想化されることによって抽象的な概念におきかえられて、その本質を体現する唯一のものが前衛党であると合理化されるなら、「主人公」は労働者階級から党に転化される。しかし労働者とその意志は、現存する分節した労働者、勤労者の諸組織の意志の複合的な総体でなければならぬ、と主張した。

 こうした私の考え方は、そののち波多然らとの思想闘争のなかで憑かれたように書き続けた現存社会主義と唯一前衛党への批判の最初の直接的なきっかけとなった。(つづく)


私の昭和思想史(四〇) 松江 澄 「新時代」1992.3.15233

初の中国訪問

 前々回(三八)で私は大きな誤りをおかした。私と同期だった栗栖の「有事立法」発言と「三矢研究」問題とは確かに一連のつながりはあったが、それを同じ時期のように書いているのは全くの間違いであった。「三矢研究」問題は「有事立法」発言の一五年前の一九六三年六月のことである。私がこの思想史のためにいつも作っている年代記自体が間違っていた。改めておわびする。

 もう一つ、書くべくして書き残したのが初めての中国行きである。一九七九年十一月、広島県議会で初めての訪中使節団に加わり、学生時代の「満州」を除いては生まれて始めて関心の深かった中国をたずねたことだった。この訪中団は各党が加わって全部で十数名になった。特に印象が深かったのは私と二人の団員が、RCCの手引きにより広島文理大在学当時被爆した元北京工業大学教師の由明哲さん(訪中当時六五歳)と南京大学教師の王大文さん(同五四歳)に、日本人とりわけ広島人として初めて会って「原爆」を話し合ったことだった。私達は蛸安博中日友好協会顧問にこの二人の広島再訪問を要請したところ善処するとの約束を得た。彼等は翌々年の七月来日して三六年ぶりに広島を訪れ、かつての親しかった人々との旧交をあたためた。

 私達が訪中する十数日前、当時の副主席であった葉剣英による「文化大革命」の中間総括が発表され、いらい「文化大革命」批判が急速にすすむ最初の公式の発端であった。中国を訪問してどこに行っても感じるのは、言葉こそ違え結局は同文同種の民族同志であることだったが、帝国主義の「義」が「叉」と略されているのには驚いた。と同時に日本のセクトの諸君が切ったガリ刷りのビラの中で見る「叉」が中国の略字だと直感した。当時この大国が悩んでいる最大の文化の問題はことばの不統一だった。そのことばの相異は青森と鹿児島の方言の相異どころではなかった。「道路」ということば一つが北京と上海とではまるで違うのだった。

 しかし、どこに行っても変わらないのは中国共産党に対する無条件の信頼と服従であった。私は終始ついてくれた若い党活動家の通訳にたずねた。「君にとって党とは何か」と。その答えは「すべて絶対」であった。私は旅行中彼の党への絶対主義的な忠誠心をくつがえそうと理論的にいささか挑発したが、ついに彼は思想堅固に挑発をしりぞけた。これも中国革命の社会的性格の限界ではなったか。当時の中国でいちばん印象的だったのは、「文化大革命」から放り出された青年達の問題だった。私達は行く先々で絵などを売りにくる青年達に出会った。

 この旅行で少し風邪ぎみだった私は乾燥した空気にやられ、帰ってから声がかれて困った。この秋、私は四〇年以上吸ってきたタバコときっぱり絶縁して以来一本も吸ってない。

 

小選挙区で落選

 

 八二年の後半にはもっぱら翌年の県・市議選の準備に集中した。とくに私は前回のかつてない大選挙区制から政令市による小選挙区制へと急激に変える条件にとまどった。私の選挙は党員、労働組合活動家と住民運動の人々が全市的に活動する広い選挙活動に支えられ「ドブ板」選挙は苦手だった。とくに中区は中心部で官庁、銀行、企業事務所と飲食店等の商店街で、昼はにぎやかでも夜は空っぽだった。

 革新に不利な小選挙区闘争というので社会党と共闘することになり、市会議員候初候補の鈩谷君子さんと組んだ。しかし私自身はとても難しい(当選予想票一万五〇〇〇票で定員3名)と思っていた。だが妙なもので選挙が始まると、ひょっとしたらと思い始めていた。投票二日前に中国新聞に近い知人に情勢を聞いて当選を断念した。結局私は五位七〇八〇票で落選、私の下には三〇七〇〇票の共産党候補だけだった。鈩谷市会議員候補は上位で当選したが、西区で頑張った山口議員は一二位三四五九票で惜しくも四九票差で落選した。結局小選挙区制は「ドブ板」と町内会選挙が勝利したのだった。それにしても今までの二〇〇〇票台だった中区で三倍以上伸びたとは改めておどろいた。後援会の人々の必死の努力のたまものだった。みんなくやし涙を流して残念がった。私は皆をなぐさめながら内心ではさばさばしていた。これで議員ともお別れで、これからは運動に集中しようと思った。

 私は一九五九年以来の在任二〇年間(一回落選)をふりかえった。私がこの間いちずに追及して今日まで残るものは、原爆被害者、大久野島毒ガス傷害者、森永砒素ミルク中毒の子供と親達の救援と、福島町の新しい町づくり、基町土手(「原爆スラム」と呼ばれていた)の住宅闘争であり、他の半分は不正、不当な県政のバクロと追及だった。それぞれが十年もかかる運動をダブって闘った思い出はつきない。私はこのなかで、国=県とつらなる行政の馴れ合いやゴマ化しをいやというほど見たし、多くの被害者とともに闘うことで今まで私が何も知っていなかったことを思い知らされた。苦痛と苦労に耐えて健康と生活のために長い間闘うことすらできなかった多くの人々が居ることを知ったことは、私にとって重い衝撃であり大きな教訓であった。ともすると理論第一と考えがちな私が経験を通じて、事実とその変化を闘いとることこそ最大なものであるあることを初めて身に沁みて大切だと思った。(つづく)

 


私の昭和思想史(四一)  松江 澄 「新時代」1992.4.15 第234

 

世界平和集会へ

 

 選挙がすんでひと休みするまもなく、広島原水禁の誘いで私は八三年六月二一日から開かれるプラハ世界平和集会(「核戦争に反対し平和と生命を守る世界平和集会」)に原水禁を代表として唯一人参加することになった。この集会は、アメリカのヨーロッパ対ソ前線基地として西ドイツを始め欧州に配置されている中距離核ミサイルの撤去を要求して始まった数百万人に上るデモや集会を受けて準備された平和集会であった。

 チェコスロバキャは二度目であるのと、「プラハの春」いらい何となく私にとってなじみ易い国でもあったので引き受けることにした。東京と名古屋から民学同系団体の若い幹部が二,三人参加するのでさそわれるまま同行することにした。

 大急ぎで準備するなかで、何といっても重要なのはどういう主張と提起を発言するかと云うことだった。私は思い切って決意したのは、少し前から私の中で熟し始めていた提起―社会主義国による「一方的核軍縮」であった。これは何時止むとも見押しのない核軍拡競争のなかで、私が、戦後四〇年間の反核反戦運動の結論として思いつめた提起であった。それはまた現存社会主義のあり方についての私の批判的集約の一つでもあり、この頃始まっていた党内のソ連絶対主義を主張する人々との論争のなかから私の胸中深く根ざし始めたソ連批判でもあった。

 私はこの考え方を広兼君に話して同意を得たうえで、ちょうど所要のあった京都に立ちより山本徳二君とも会って意見をきき、賛同と激励を受けて決心はきまった。帰広してひらかれた広島原水禁の理事会でも承認された。私はこの提起をソ連とか社会主義にせず、「平和を愛する何れかの核大国が」という表現にした。それは「世界で最初に核兵器を使用する政府は」という第一次ストックホルム・アピール(一九五〇年)から「いかなる国の核兵器・核実験にも」という原水禁運動分裂のときの私たちのテーゼ(一九六二年)へと結ぶ反核反戦運動の延長線上にある大道であると確信したからである。それは主体の選択を問う大衆的な路線でもある。六月の始めに私を送るための松江後援会の総会がひらかれ、地元をはじめ全域から多くの会員が参加してくれた。選挙のくやしさを世界平和へと向う私への激励に替えて支援され、六月十九日広島を出発した。

 

ソ連代表団に迫る

 

 通訳を含めて同行五名はパリに一泊してプラハに入った。ところが集会の始まる前の夜の会議で、彼らが是非にと提案したのは彼らのキャップを世界平和評議員に推薦したいということであった。私は怒った。それは私が同じ若い頃とはいえ今の彼らよりもっと運動を重ねた四十七才のとき、志賀さんのたっての要望で浜井市長に世評評議員の推薦をもらったことを思い出すたからである。私は経験の浅い彼らが運動より地位を望むことをきびしく批判せざるを得なかった。それはソ連=世評という図式から出たものだけになおさらだった。会期中彼らは「廊下トンビ」で世評の幹部たちにオルグしたようだだが問題にならなかった。

 私は第三分科会(平和と軍縮の分科会)が中心とみて参加した。そこには十名ばかりのソ連代表団  

表団が私のテーブルのすぐ近くに、また中国代表団をはじめ社会主義諸国の中心幹部たちも参加していた。私は指名をうけていささか上気しながら思いきって提案した。私はまずこの前の戦争に参加した学徒から被爆二週間後の広島に帰った体験を手短に紹介しながら、いまの核軍拡競争を停止させるためには真に平和を求める核大国の何れかがまず自ら一方的核軍縮を開始するという道徳的倫理的イニシャチーブ以外ない、と断言してソ連代表団にじっと目をそそいで迫った。拍手一つない会場は一瞬異様な空気につつまれた。ソ連代表団は無言で下を向いたまま何一つ態度を表さなかった。

 この集会には資本主義国内の反核反戦運動、第三世界の反定反戦運動、社会主義諸国の平和代表団など飛躍百三十数ヶ国一八四三名の国際的民間団体代表が結集したかってない規模の世界的な大集会であった。この大集会は最終の全体総会で、「ヨーロッパの新型核ミサイル配備反対!ヨーロッパに配備されているすべての種類の核兵器の削減に関する現実的な交渉!」に加えて、「すべての核兵器庫の凍結!」を呼びかけて終わった。

 この集会から1年半後にゴルバチョフが書記長に就任してまもなく、ソ連政府は五ヶ月間の核実験一方的停止を声明してアメリカにも同調を呼びかけた。それはその後に実現する米ソ核軍縮の扉をひらくものだった。この集会にはもう一つの重要な副産物があった。それは「七七年憲章に」結集する三〇〇人の市民集会が、世界平和集会代表団の歓迎集会と同じ広場でひらかれた。政府は弾圧できなかった。それはこのときから六年後に噴出する民衆ほう起の最初のシグナルだったのだ。

 集会が終わった夜、ドボルザーク・ホールで聞いたノイマンの振るチェコスロバキア・フィルの響きの何とすばらしかったことか。会が終わり通りすぎた雨にぬれたい石段を踏み出したとき、モルドウを越えてそびえ立つプラハ城はおとぎの国の城のようだった。(つづく)


私の昭和思想史(四二) 松江 澄  「新時代」1992.5.15. 第235

「一放的核軍縮」論

 

八三年七月末、私がプラハから帰国するとすぐに佐和さんから集会の報告を『労働運動研究』に書いてくれと頼まれ、私もこの際思いきって私の考えているところを発表しようと決心した。大いそぎで書いたこの原稿は八三年九月号に、「世界平和の前進のための提案」と題して掲載された。私はすでに書いた「一放的核軍縮」提案の一文の終わりに、この立場を発展させて次のように書いた。「資本主義国の中で変革をめざして闘っている私たちにとって社会主義国がとりでであるとすれば、それは軍事援助や資金援助ではなく、社会主義の実生活の実例を通ずるその知的道徳的ヘゲモニー、また国際的諸問題にたいする知的道徳的ヘゲモニーではないか。」と。

 この九月号の文章と、つづいて書いた「八一ヶ国声明は今でも有効か」という一文がもっぱら反対派の人々の私に対する批判の的になったようである。だが私としてはこのあとつづいて八四年九月号に書いた「いかなる社会主義か」(『労研』一七九号)こそ、私の現存社会主義と唯一前衛党批判の核心であった。だがそれは後にゆずろう。

 というのは、まさにこのとき重大な事件が発生したからである。それは「大韓航空機事件」であった。九月一日、ソ連の勧告を無視してその北方領空を侵犯した大韓航空がソ連空軍機によって撃墜され、日本人二八名を含む二六九名の乗客が死亡するという世界を震撼させた大事件であった。党は九月二〇日付の機関紙の第一面で、「政治的挑発の犯人は誰か!―大韓航空機事件の徹底解明を!」という論文で大韓機の責任とその背後に見えかくれする米日軍部の責任をきびしく追及するとともに、撃墜したソ連機の性急な措置にたいしてもあえて遺憾の意を表した。だがこれが問題になった。

 十月一日の全国委員会では波多委員が、ソ連に遺憾だとは日共の態度と同じだ、ときびしく批判したが、会議は最終的にこの「主張」を承認した。こうした対立はすでに党内のきびしい空気の反映でもあった。またこの委員会では第二回大会草案は「松江骨子」にもとづいき在京常任委員が参加して作成することになったが予想以上に難行した。国際情勢の見方について意見が対立し、いわゆる「総路線」支持派と批判派が相互にゆずらず激論したが、ともかく統一のためにということで第一次草案という異例の方法で提案することになった。

第二回大会―長谷川の死

 

 この年十一月十九日第二回大会が京都の宇治でひらかれた。この大会は私にとって戦後来はじめて痛苦に満ちた大会となった。今度の方針案は第一回大会の方針とちがうというきびしい批判とともに、一同志の行動にたいする非難が問題となった。会場は次第にけわしくなりつつあった。私はたまりかねて発言を求めた。立ち上がった私は、意見の相違はあっても統一して闘おう、過ちを犯した同志への批判はきびしくとも同志的友情は忘れまい、ということばの半ばから何とも言えぬ感情がこみあげ、不覚にも涙がながれるままに座した。後にも先にも私はこのような体験ははじめてであった。

 この大会で草案の起草責任者である私はついに独断で提案撤回を宣言した。これ以上続ければ分裂必至と思ったからである。ともかく大会を終えて全国委員会をひらき、私は議長辞任を申し出たが許されなかった。柴山事務局長とともに総括とまとめを準備することになり八四年一月全国委員会で総括討議を行なった。この「総括」は、大会が方針を決定できなかった責任はあげて旧全国委にあるとし、議長自ら提案をとり下げたことは重大な誤りであると指摘した。また党内意見の集約の努力が不充分であるとし、意見の異なる者がともに闘うことこそ真の統一であると集約して臨時大会の開催を決定した。私は針のむしろにすわっているようだった。

 この年の二月二十五日、長谷川浩全国委員が自宅から労研事務所に向かう途中、自宅から余りと遠くない路上で心筋梗塞の発作で倒れ、救急車で三鷹中央病院に運ばれたが、まもなく急性心不全で亡くなった。私は急をきいて唖然とした。十年前には内藤さんが電車の中で心筋梗塞を起こして急死、いままた尊敬する先輩の長谷川さんが同じ病で逝った。私は愕然としてその訃報におどろくとともに心の底からくやしかった。昨年の大会後、長谷川さんを広島に招き労働運動についての講演会をひらいた後ひさしぶりにのんびりと先輩を囲んで一杯呑みながら話し合ったのだった。

 私は急きょ上京して長谷川さんの宅にかけつけた。すでに多くの同志や友人、また浩さんに傾倒していた若い人達が集まり、心からその死を悼み、在りし日の姿を偲ぶのだった。私と長谷川さんは以前から「国家=党」というドグマこそ現存社会主義の諸悪の良いラグビー部で、がっしりした体格だったのでまさかこんなに早くとは夢にも思わなかった。その死は私にまた一つの山を越えるように志を固めさせた。『労研』三月号の長谷川さんの最後の論文「『社会主義の優位』とは何か」は、私が追求していた現存社会主義批判と志を同じくしているものだった。


私に昭和思想史(四三)  松江 澄   「新時代」1992.6.15 第236

 

論争はじまる

 

 一九八四年という年は私にとって忘れ難い年である。私はこの年一年間に、労研の一月号、五月号、九月号から八五年一月号と四つの論文を書きまくった。それは私の内から奔流がほとばしるように流れでたものであった。それは私が戦後来まなんできたマルクスの思想から、また実践的には四度にわたる現実の見聞から、どうしても書かなくてはならぬという私自身の内なる命令に抗し切れなかったからである。それはソ連絶対主義の立場からの批判は衝動的に私の心底から引出したものでもあった。

 しかし一方では私はわが党の責任者であった。それは組織の統一をまもることを無条件に私に要求した。組織の統一と自らの良心と、私は二つの対立する矛盾に悩んで夜も寝られなかった。しかし統一の名のもとに妥協できぬものがあると私は思った。たとえ統一の名の下においても自己の共産主義者としての良心をいつわることは、私たちの運動の冒?だと思った。それは私の戦前以来の教訓―戦争と軍隊のもとでみじめに崩壊したとはいえ、私のこの運動への戦後の出発に際して私の原点ともなった自らのいつわらぬ自主・自立の心であった。それあればこそ日共のなかで闘うことができたのだった。その原点を組織の統一ということであいまいにすべきでないとおもった。

 私は一月号の「現存社会主義の諸問題について」で、総論的にでいささか抽象的ではあるが、マルクスに習ってブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義の不可分の論理をまず確認した。プロレタリア民主主義とはブルジョア民主主義とあい容れるものではなく、ブルジョア民主主義をいっそう全面的に発展させ実生活のすべてに貫徹される―ブルジョジーはけっして許容しないが―ことであるという思想であった。また、今日の現存社会主義国家はまだロレタリア国家ではなく、ブルジョア的な国家―軍事官僚国家―の残存形態であると断じた。

 五月号の「八一カ国声明は今でも有効か―全般的危機論と平和共存論―」は、私自身でさえいま読み返していささか挑発的だと思うほど断定的にきびしく批判したものであった。それだけにこの論文は批判派の諸君から、国際共産主義運動の裏切りであり謀反であるときびしい糾弾を受けたが私は動じなかった。

 

論争の焦点

 

 この当時の論争の第一の焦点は「八一カ国声明」(一九六〇年)にもとづく国際情勢の分析に従うか否かにあった。それは当時ソ連を中心にした国際共産主義運動の不変の教条でもあったのだ。この声明は「資本主義世界体制は衰退と腐朽の深刻な過程にあり」、いま「戦後最大の危機的震撼の局面」だと分析していたが、私はこの時代が資本主義の高度成長期から技術革新時代へとつづくことを指摘してきびしく批判した。そうしてこのような非科学的で不正確な分析の根源は「この文書の基調と方法のなかにある観念的な誇張から生まれる独善的な楽観主義と社会主義万能論」にあると指摘した。そうして「平和共存論と全般危機論とは相互補完してソ連第一主義を「理論」化している同腹の双生児である。」と断言した。

 振り返ってみればこの「声明」の路線は「社会主義革新運動」が出発したとき(一九六一年)の大前提であったし、共産主義労働者党結党のとき(一九六七年)にもこの「声明」を私も誰もおおやけには疑わなかったのだった。だがその後の日本経済の発展や、六五年、六六年、七二年とつづいてソ連や東欧を見てきた私にとって、それまでは心中深く秘められていた疑いが論争のなかでいっきょに吹きあがってきたものだった。

 しかし私にとって最大の問題として集中して追求したのは次の九月号論文「いかなる社会主義か―唯一前衛党と社会主義的民主主義―」であった。私は九ページにおよぶこの一文のなかで、いままでたまっていた腹中を全て吐き出すつもりで書いた。その第一は、当時としては革新的なソ連科学アカデミー・シベリア総支部の「ソ連経済社会の活性化」のなかになお根強い痕跡を残す労働者間理論であった。「勤労者の人間的発展水準」が本質的に高度化したことは、勤労者が以前と比べてかなり複雑な管理対象になったことを示している。」という一文はけっしてこの報告の片言雙語ではなくその主題であった。そこにみられるのは労働者による国家と生産の管理ではなく、「労働者」の「国家による労働者管理であるという逆転の論理が前提となっている」と、私は書いた。

 第二に私が強調したのは唯一前衛党批判であった。「『一枚岩の党=唯一前衛党=国家』という定義こそ、どんな批判ものみ込んでしまう不変のタブーである。そうしてこれこそ『スターリン主義』の基礎であり、したがってまた現存社会主義における諸矛盾の根源ではないか。」と。そうしてソ連の選挙の機構を批判して、複数党による選挙は彼らが乱暴に批判する「民主主義ごっこ」ではなく、「対立・競争―批判・選択」を通じる民主主義の重要な一形態であると主張した。だが不思議にもこの論文へも反論はついにあらわれなかった。だがこの論文の出た九月、党分岐の最初の危機がはじまったのだった。


私に昭和思想史(四四)  松江 澄   「新時代」1992.7.15 第237

 「ヒロシマから」

 八四年七月、前年来準備してきた私の最初の著書ができ上がった。これは私がプラハから帰ってきてまもなく、広島から京大に学んだ室崎君が新進出版社の青弓社―その社長が広島と縁があった―と連絡して、私が「労研」などに書いてきた原水禁運動についての文章をまとめて出版しないかという話を持ち込んできた。

 この頃までに私が折にふれて書いてきた反核反戦運動についての文章も大分たまり、七八年には全国委員会の発行として大阪で印刷し、「原水禁運動の統一と発展のために」という題名で六四ページほどのパンフにして、八・六カンパニアのなかかなり売りさばいたことがあった。今度は、その後書いたものやプラハ集会での発言も加え、総論的な書き下しに運動の年代記をつけて一書にしようということであった。私もしばらく考えたが、ここらで「原水禁運動」の追求をまとめて整理したいという気持もあったので同意した。

 そこで八三年の秋から準備をはじめ、出版社のすすめで、かねて知り合いの丸木さんに表紙カバーの絵をたのんだら「原爆の図」をつかえといわれ、喜んで表紙を飾ってもらったばかりか章ごとの小見出しにもその一部を使わせてもらうことになった。いまでもこの本を見ると、表と裏につづく「原爆の図」第八部「救援」の原画を最初に見たときのこを思い出す。丸木さんには「ヒロシマから」という題字まで書いて頂き、わたしとしては望外の喜びであった。

 私はこの巻頭の書き下し論文を「三十五年をふりかえって―戦後反戦反核運動の歴史―」と題して書いた。そのなかで私は、「運動にとつて統一こそ最大の武器であり、統一とは意見の違うものがともに闘うことである。」―意見がおなじものがともに闘うのは当たり前のことで、統一ではない―と書いた。

 それはベトナム戦争から学び、世界の運動から学び、日本の運動の分裂から学んだ私の運動哲学であり、それはすべての運動に通ずる「統一」の原点であると思った。そうしてそれはまたやがて始まる党の統一と分裂についての苦渋に満ちた教訓ともなったのである。

 それはさておき、この本は広兼書記長と相談して計画を立て、広島や全国の同志、友人や友党の人々、また広島では多くの友人、知人および労働組合、平和団体などのおかげで二〇〇〇部も売れた。

 

全国委員会の凍結

 だが一方で九月の全国委員会は今まで以上にきびしい会議となった。それは恐らく私の労研論文がつきつけた彼らの教条への真向からの批判のせいもあったに違いない。私は個人の論争と組織の統一とはきびしく分別しているつもりでも、人から見ればそうはいかなかったようである。意見の対立はますますきびしくなり、波多委員は全国委員会の機能を停止すべきだと強硬に主張した。反対意見もあり各委員の意見も微妙に異なっていたが、いつしか重苦しい空気が会議をおおった。私もついに一存で全国委員会の一時「凍結」をはかり断言的に決定した。しかしこれは私の大きな不覚であった。このままでは分裂がさけられないと思ったが、「凍結」は帰って危機を増幅させるだけだった。

 「凍結」後の十月、十一月は各地方を廻って同志たちに情況を報告し意見をきいて歩いた。だが何といっても東京都党が重要であった。東京都には波多氏らと同調する人々がかなりいた。私は十一月十八日開かれた都党会議に招かれ、全国委員会の報告と合わせて事態を解決するための提案を提起した。それは「(一)大会に提案する政治方針は、日本帝国主義の現状分析と日本の階級闘争の任務を中心とする、(二)これにかかわる国際情勢については、意見の不一致点は保留し、一致できる点について明きらかにする、(三)前衛党再建については不一致点を保留する」ということであった。対立点としては、@世界革命過程における社会主義世界体制とりわけソ連の位置と役割、社会主義国内の諸問題および現時点における国際的な革命と反革命との力関係、A日本革命と世界革命とのかかわり合い、B前衛党再建のより深い内容、これらについての事実究明を共同で追求する、と確認した。

 こうした提案が確認されれば五全協以降の不正常な状況(凍結)を解除して第三回大会開催の準備をすすめることができる、というものであった。この提案はさいわい東京都党会議で承認され、つづいて京都、大阪、広島などでも承認された。

 こうした状況を含んだうえで全国委員会を翌八五年の一月二十日東京でひらいた。会議では私が東京都党会議で承認された提案と確認を報告したうえで、前回以来の不正常な状況(凍結)を解除してその機能を回復して第三回大会の準備を進めることを提案した。

 しかし水沢委員は「この提案は重大な論点をタナ上げし、党を協議体にするものだ。」と強く反対し、採択すれば退場すると確言した。そこで慎重を期するため一時休会し、各都道府県党会議で討論したうえで、二月十七日の続会全国委員会で討議することにした。

 私はこの一カ月たらずのあいだも悶々としてすごした。私には悪い予感がぬぐいきれなかった。

寒い冬の夜、眠れぬ夜がつづいた。


 

私に昭和思想史(四五)  松江 澄   「新時代」1992.8.15 第238

ついに党の分岐

 二月の続会全国委員会では、分岐をさけるために努力した在京全国委員による事態収拾のための苦心の提案も出されたが、波多全国委員は「この組織は世界革命路線からそれているので私は手を引く」と云って退場した。つづいて三人の全国委員も退場した。状況はついに最悪の事態に立ち至った。そこで全国委員会は、「意見の相違を隠さず、忘れず、排除せず」というわが党の統一のための原則を再確認し、いっそう党の統一を固め組織の総括と今後の方向を明らかにするため三月十六、十七両日東京で第三回緊急臨時大会をひらくことを決定し、その準備を東京都委員会に委任した。

 その後東京都委員会は分岐のただなかにあって慎重な配慮と結集への断乎とした決意によって、分岐を最小限にとどめるため全力をあげて苦闘した。結局離党者は在京一二名となり、三月十五日付けで彼らは「結党のよびかけ」を発表して社会主義統一党(仮称)準備委員会を結成した。

 この「よびかけ」は殆ど統一労働者党というよりも私へのひぼうと批判に通夜されていた。私はかつて日共「前衛」の“広島県党小史”のなかで二〇数回名指しでひぼうを受けたことはあるが、このたびの「よびかけ」では短い文中で一三回も名を挙げて糾弾を受けることになった。その対象を大きく分ければ、第一に「八一ヶ国声明」にたいする私の批判(『労研』)であり、第二には私の「一方的核軍縮」提案(プラハ世界平和集会、『労研』)であり、第三には私の執筆した党の政治方針案(第二回大会第一次草案)および意見の相違を収拾するための私の提案であった。だがかんじんの彼らの新党についてはレーニンの引用よ前衛党再建(共産党再建=松江)についての抽象的な決意だけであった。

 第三回臨時大会はきびしい大会となった。大会決議は、ポーランド問題、アフアガニスタン問題、スペイン併行党問題、など国際共産主義運動をゆるがす重大な対立が発生するなかで、いままで従属的なものとして保留されていた意見の相違が主要なものとして基本的な対立に転化したことを、全国委員会が見抜けなかったとするどく批判した。そのうえで全国委員会の「凍結」は階級闘争の任務を放棄するものだともきびしく批判し、統一のための積極的な努力の欠除を全国委員会の責任として自己批判を要求した。私はただただ責任を痛感するのみであった。

 昨年(一九九一)秋広島をおそったかつてない台風の嵐のさなか、東京から帰りに広島駅で降ろされた波多さんが駅から私に電話して一泊のホテルを懇請された。ようやく空室を探し出し、しょんぼり待っていた彼を駅から連れ出したとき、話らしい話もしなかったが、彼の態度と考え方は当時と少しも変わっていないと私は直感した。

反核反戦運動の統一

 この年、広島では前年から話が始まった八月の市民運動の統一が急速に進んだ。から以前から八月の広島では原水禁集会の前後に二,三の独自な市民・労働者集会があった。その一つは電産を拠点とした反原発集会でありすでに一〇年近くも会を重ねていた。もう一つは私が呼びかけて七、八年も続いていた集会であった。これには原水禁集会に参加しながら追求し足りない課題をつっこんで討議したいという人々が集っていた。これはわが党と「フロント」と「人民の力」が協力してひらいてきたもので、次第にこうした組織以外の活動家が参加し、時には原水禁に参加したドイツ「緑の党」の書記長が飛び入りしたりするなど活発な議論を重ねてきたものだった。

 この項すでに労戦統一への動きが強まるなかでやがて将来には総評解散が見とされ、そうなれば総評が組織的には大支柱だった原水禁にも大きな影響を与えることは必至であった。もちろん私も常任理事の一人である広島原水禁はどんな情勢、どんな事態になろうとも毎年の集まりを停止することはないが、今までのような大組織大運動というわけにはゆくまい。そこでこの際市民運動が統一して追求をつづけていれば、労働者集団の運動と市民運動が手をとり合って運動を支えることができるのではないかと考えた。幸いに他の諸集団も同意見なので、「八・五反戦反核広島集会」ということでともに運動を進める合意が成立し、「二・一一」(「建国記念日」)「四・二九」(「天皇誕生日」)のカンパニアを経て八月の準備をすすめることになった。

 この年の春、京都の全国委員会のあと、私は高雄病院の米澤君のすすめで休養をかねて久し振りにドックに入った。ところが私の心臓に異常があることが見つかった。そこで病院の同志たちの世話で設備のある大きな病院でくわしく調べてもらったら、重大な異状の懸念があるから広島に帰ったら然るべき病院で「カテーテル検査」をぜひうけけるようにと指示された。きけば、太ももの根っこから心臓に至る大きな動脈に、カテーテルに逆通させて、レントゲンで直接心臓の冠状動脈を診るという、いささか危険そうな検査なので、やりそこなえば死ぬか大きな障害が出ることもあり得ないないとはいえない。もっとこのままでも生きたいと思う私は検査を受ける気はしなかった。

 広島に帰って友人の医師に専門医を紹介され、ひととおりの一般検査を受けたがいまのところ格別な異状はないようであった。


私の昭和思想史(四六) 松江 澄  「新時代」 1992.9.15 第239号

 

新しい連帯と自立

 この年、私は八・五集会を前に自らの運動の歴史をふり返って総括するため『労研』五月号に、「被爆四〇年のヒロシマから」を執筆した。それはさきの著者『ヒロシマから』の立場よりいま一歩ふみこんでこの運動にたいする反省と追求の一文であるとともに、やがてひらく第一回反戦反核広島集会で提起しなければならない運動の総括への第一歩でもあった。

 このなかで私は、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」という「中曽根臨調報告」を、福沢諭吉「脱亜論」に重ねて、その「脱亜論」が「征亜」に進んだ所以を追求したが、それは「和魏洋才」の道でもあったと指摘した。「戦後民主主義の総決算をすめることによって再び『和魏』を地底から呼び戻し、新たな『脱亜入米』をめざしてイデオロギー的再統合をすすめようとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。」と。

 私は「私たちの運動に残されている国民主義的な“母斑”」をかえりみつつ、「いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降ろされるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。」と書いた。

 これはおくればせに私の内心を衝いて、今日に至るこの運動の痛切な反省の最初の出発点であった。ふりかえってみれば、戦後日共の中で戦争に反対して闘ったのは日共だけだったというキャンペーンは党の内外でくりかえされたが、あの侵略戦争を阻止できなかった所以をたずねて自らも深く反省することはなかった。そのうえ自前の占領軍や資本との闘いに振り廻されて、深く歴史を省みる余裕がなかったことを今でもはずかしく思う。

 私は六月頃から全力をあげて若い人たちとともに初めての八・五集会の準備に没頭した。当日午後五時には会場の広島市福祉会館の集会場は、私たちの予想を越えて二五〇名内外の人々で満席となった。この集会では夏のヒロシマではどこでもきかれる原爆被害アピールではなく、「かえせ、まどえ」という被爆者の怨念から出発して、「八・六」を歴史から抜き出すのではなく歴史のなかに返して、一五年戦争と原爆をひとつづきのものとしてとらえ直すことが提起された。それは活発な討論を通じて深められ、集会は新しいヒロシマの運動を宣言した。私はまとめの議長として結語をのべたが、何とも云えぬ感慨が私をひたした。この宣言は今日につづく八・五集会の源流となった。

胸の痛み―入院

 八・五集会が成功のうちに終わり、秋になると全国委員会が開かれた。そのころ全国委員会では労研改革の問題が重要な課題となっていた。旧来のようにわが党だけでなく、他党派とも共同して新しい情勢や条件に応えられるような誌面刷新を断行することによって『労研』を発展させようという提案には私も主要にかかわっていた。だが全国委員会では意見が対立し思ったより難行し、それも私の腐心の種だった。十一月京都で全国委員会をひらいたときも『労研』問題をめぐって会議は曲折した。夕方会議を終えて外で食事をすませて帰る道で、胸部に何とも云えぬ胸苦しさを覚えてついゆっくり歩くので、広兼君がいぶかってどうしたのかと心配してきれた。だが、一晩眠ればなおると思ったが、果たして次の日はさほどのこともなかったのでそれ以上気に止めなかった。

 だがこの会議を終えて広島に帰り、「そごう」百貨店内の紀伊国屋書店で書物を見ているとき、突然、胸になんとも云えぬいやな鈍痛を感じた。五月尾とき友人の医師が私にくれた「二トロール」をなめてみると痛みがなおったので、これは何かあるな、と思った。しかし翌日は、広島一高会を私が準備した会場で初めて開くことになっていたので責任上私は出席した。何となく飲む気にもなれず、適当につきあって寮歌を歌ったのち早目に帰宅した。

 その翌日の明け方四時頃、突然胸が押さえつけられるようなかつてなくいやな痛み―いまにも死にそうな恐怖感―を覚えた。私はとりあえず「二トロール」で押えて、朝早く宮西内科に行くとすぐ心電図をとり、検査のため採血されたが、医師の診断では心筋梗塞の恐れがあると云われた。

 二日後、心筋梗塞の疑いがあるということで彼の弟子が部長をしている土谷病院でカテーテル検査を受けるようにと連絡があった。数日後待つって十二月初旬に入院した。私は中学校のとき大腿部にオデキができて、兄が勤務していた広島県病院に一週間入院したことはあったが、一高時代の肺浸潤のときも入院したことはなかったのに、内臓の病気で入院したのは初めてだった。県会議員のとき年に一回はドッグに入ったことはあったが、患者として重大な病気で入院したのは初めての体験だった。病院の特有のにおいと患者のノロイ動きがいかにも「病人の館」だなと思われた。

 私は必要最小限の衣類とともに、当分ゆっくり読むための書物を持って入院した。今まで現気に走り廻っていた者が急に入院すると日常の生活がすっかり変わったように思えた。朝から晩までベッドに寝ているのが当たり前になるとわれながら人が変わったようであった。


私の昭和思想史(四七) 松江 澄 「新時代」1992.10.15 第240

心筋梗塞の診断

 私の部屋は平和公園を見渡せる建物の六階の南側だった。入院した日の夕方、若い看護婦さんが頭ならぬ所を坊主にしてくれたので、明日はいよいよカテーテル検査だなと思った。

 裸になってマナイタの鯉のように寝台に寝ると、カテーテルを差込む太ももつけねだけ穴のあいた布切れがかけられた。よく分からぬまま―局部麻酔が―いつの間にかカテーテルが入ったらしい。少し胸があたたかくなると、レントゲンで見ているらしい主治医が「大分心臓がくたびれていますぞ」と宣告した。

 まぎれもない心筋梗塞で冠動脈三本のうち二本が中途で梗塞したらしいが、自然にできていたバイパスで持ちこたえていたらしい。そう云えば今でも時に歩く途中で胸が痛んでしゃがみ込んだこともあった。ラッシュでやむなく近くの小路を抜けて目的地にゆく自動車のようにバイパスのしくみができたらしい。

 だが後にレントゲン写真を見せてもらったとき、これがバイパスだと指さされた血管は細くよなよなとして今にも切れそうに頼りなげであった。手術するかバイパスを育てるか相談があったようでだが、結局折角のバイパスを尊重することになった。

 梗塞の原因はこの病にありがちな高血圧ではなく―上が一三〇下が七〇の理想的な血圧―医師団はストレスと判断した。それは一年以上に亘る組織的危機への心労からきたものであると私にはよく分かった。心筋梗塞といえば一応は「死に至る病」である。私は生まれて初めて死を意識した。

 医師がこれからの希望や意見を書けといって用紙をくれたので、つい書いているうちにいささか感情的になり今日まで私の総括と合わせてやり残した課題を急ぎたいと記した。いまでこそ病気と仲良くつき合ってすぶとくなったが、そのときにはまことに初々しく、遅かれ早かれさけられぬ死に直面したような気負った思いがあった。

 しかし楽天主義の私もこれから先のことを考えるといささか心細くなった。いつどこで梗塞がおきるか分からないからである。しかし考えようでは苦しまず一瞬のうちに終わるというのもまた良しと思った。しかし慣れるとは妙なもので、六年目になると二週間に一回主治医の診断を受けながらも、時には薬を飲むのを忘れたりもするものである。

 いつの間にか病気と気心の知れた友人となって仲良く共生できるようになり、気管支の拡張やストレスにも良いと勝手な理屈をつけて焼酎の茶割りと離れぬつき合いをつづけている。

あいつぐ友の死

 私が土谷病院から退院して正月を迎えたとき、山口議員が一方かたならぬ世話になっている後援会会長の大崎さんが大きな鯛をかかえて私の見舞いにきてくれた。

 ところが自分ものどがおかしくて食物が通りにくく、酒が一番良いと、らいらくな彼は冗談半分に話していた。また一月の二十日頃になると久保田さんがどうも調子が悪いので県病院に入院したいということで、さっそくいっしょに行って診てもらうと医師も判断を下し手すぐ入院することになった。そのうち大崎さんも広大病院に入院したときいて私も見舞いにいった。

 何よりも私より年上の親しい二人がそろって入院されたことに私は何となく不吉な予感を感じた。結局二人は四月二十九日、五月一日と一日おきに亡くなることになる。大崎さんは咽喉ガン、久保田さんは肝臓ガンであった。

 もう一人私たちの同志であり広兼君の義弟でもあった半川君がその一日前に亡くなった。国労の活動家であった彼は、その頃国鉄の長距離自動車の運転手として山陰からの帰途、可部で運転中胸の痛みで半ば失神しながら無意識のうちにブレーキをかけて自動車をとめ、道にころがりおちたところを発見された。直ちに病院には運ばれたが昏睡から醒めずついに四月二十八日に亡くなった。

 こうして近く親しい人々三人が三日の間にあいついで世を去ったのだった。大崎さんは草津のかまぼこ会社(大崎水産)の社長であり業界のリーダでもあった。頭の秀れた、それでいて太っ腹な、山口君のこよなき理解者であるとともに支援者で、酒好きな彼とは私もよくいっしょに飲んで気を許した仲であった。

 山口県出身の久保田さんとは日共中国地方委員会で知り合い、彼は『アカハタ』の広島支局長としてお互いに辛酸をなめながらともに離党し、社革から共労党―統一労働者党へと苦労を共にした仲で、年とってからも広兼君が常任をするまで事務所をあずかってもらっていた。戦前からの活動家として多くの人に知られていたが機関紙編集にかけては年期の入ったベテランであった。

 この年の四月二十六日には思いもかけずチェリノヴィリ原発が事故で爆発し、放射能を含んだ雲がソ連西北部から北欧・中欧にかけて襲いつつ日本まで風にのって飛来し、世界的な大事件となった。とくにウクライナ、ベロロシアでは多くの被害者を出して世界的な救援が広がった。

 その直後、モスクワの病院でのテレビで床の上に座った患者の頭を見て私はがく然とした。それは原爆後に私が帰広したときに見た親戚の女性の頭と同じように髪の毛が一本もない坊主頭だったのだ。この年の八・五集会では国境を越えた核被害を追求して新しい時代の「ヒロシマ宣言」を提起したのだった。


私の昭和思想史(四八) 松江 澄 「新時代」1992.11.15 第241

 

ゴルバチョフの登場

 私が心筋梗塞になりかけている間に、世界的な大変動の最初の端緒が始まっていた。

ソ連では二〇年もつづいたブレジネフ時代が終わり、その後は短命の書記長がつづいた。八三年の暮れに亡くなったアンドロポフはある意味では改革派として秀れた人物だったが、高齢で病気がちだった。つづくチェルネンコも老齢にして無能で、終りには手がふるえ、ものも満足に云えなかった。

 一九八五年三月、前任者の死亡によって後を引き継いだのがゴルバチョフだった。彼はそのとき五四才、モスクワ大学法学部卒業以来エリートの道を歩んでアンドロポフに目をかけられて次第に頭角を表わした。彼は書記長になって数ヶ月後、はじめてペレストロイカということばをつかって自分の新しい「改革」の意図を表明した。

 もっともこのことばは「立て直し」「再建」というほどの意味で、これまでは普通に使われる 用語であった。ところがこのことばは魔法のマントのように飛躍して、あたかも新しい革命的な意味をもつかのように内外に宣伝された。

 私はこの前年ソ連批判を書き、八三年の秋には国際会議の報告として核兵器・核実験の「一方的な廃棄・停止」を要求したが、はからずもゴルバチョフはまもなく核実験の1年間「一方的停止」を発表した。だがペレストロイカの提起については大切なことはどのようにして「立て直す」かということであった。しかしこのことばはソ連国内を座巻し世界をかけ歩いた。

それはジャナリズムのせいだけでなく、ゴルバチョフのさっそうとした臨機応変、才気煥発の大胆なポーズによるところが大きかった。ただ私には彼のすばらしい才能と人をひきつけるあのおしゃべりのなかに、いささか自信過剰の気配が感じられるところが気にかかった。

 それから七年後の今年の五月、広島に来たゴルバチョフをはじめて肉眼で視た。彼は平和公園の国際会議場の大広間に集まった被爆者・平和運動活動家と各界の人々を前にお得意のおしゃべりをした。彼の話すことばのなかにはあいかわらず機知に富んだユーモアとジョークはあったが、話す内容にはどんな精彩も見出し得なかった。それは魔法のマントを失って窓から堕ちた「天使」のようで、私は失望以上に気の毒に思えて少し早目に会場を出た。結局はスターリンの王朝の最後の「皇帝」だったのだ。

グラスノスチと新思考外交

 ゴルバチョフがペストロイカにつづいて口にしたことばはグラスノスチ(情報公開)だった。私はこのことばはペレストロイカ以上に内容のある重要な提起だと思った。それはゴルバチョフ改革のもつ「上から」の限界を超えて人民による「下からの」ペロストロイカにするための通路を開くものだからである。真実を誰もが知ることこそその真実を権威の衣でかくしてきた唯一「前衛党」国家を下から改革する民衆の目であり耳であり行動の源泉だと思った。だがペレストロイカもグラスノスチもウクライナの「チェルノブイリ事故」までは届かなかった。これほどの大事件も官僚廣造の固い装置を破ることはできなかった。

ゴルバチョフ改革が国内、連邦内ではまだ固い表層におおわれてなかなか内芯に届かぬとき、殻の弱い部分である外に向けての外交政策が突出しはじめた。それが「新思考外交」であった。ゴルバチョフもまた内より外を飛び廻って新しい活路を開くのが生き生きと得意そうであった。 きわめて単純に云えば階級より人類的なテーマをまず解決しょうというこの姿勢は世界から受け入れられた。「核兵器による共通の死、環境災害、貧しい地域と富める地域の間の矛盾というグローバルな問題に直面している。」という彼の提起は正しかった。これにいきなり噛み付いたのが、階級ということばさえ忘れてしまったのではないかと思っていた日共であった。その反批判については彼の総括的な批判のときにゆずろう。ともかく「新思考」外交は諸外国の多様な運動や各国の民衆から支援を受けた。これはやがてシュワルナゼという秀れた外交家によって発展されられ、世界の人々から深い信頼をうけた。

この年の七月に私たちの第四回党大会を開いたが、ここでは当然ゴルバチョフ改革を論じなければならなかった。私は大会方針原案を書くなかで冒頭の一文で三つの問題点を提起して承認された。

それは第一に「いま重大な歴史的転換に直面」していることであり、第二には改めて「社会主義とは何か、いかなる社会主義か」を問い直そうということであり、第三には「前衛党再建」を再追求しょうというものであった。そうして本文の終わりの党に関する章では、先験的な唯一前衛党はり得ないと断じたが、これは中途半端な提起であった。

一方で「前衛党を否定」しながら、他方でその理由をその先験的な性格とすることは、原則として唯一前衛党をなお否定していないことになる。

いまふり返って、私はこの問題を党組織論のワクのなかで追求していたので、その党を中心にした活動と結果の総点検と総括をしていないからだと気がついた。共産主義運動の総括こそ必要なのである。(つづく) 


私の昭和思想史(四九) 松江 澄 「新時代」1992.12.15 第242

アキノ大統領と中曽根と

 一九八六年二月、フイリッピンの大統領選でマルコスに対峙するアキノ候補の人気は高く、首都マニラではマルコス配下の軍隊や戦車に対して民衆が抵抗して撃ち合い全市が騒然とした。いわゆる「二月革命」の始まりであった。私はテレビに釘付けになりながらこの「革命」の性格と行方を探った。

 さんざん権力汚職を重ねて巨万の富をきづき、汚れた椅子に座り込んで権威的な支配をほしいままにしたマルコスにいきどおる民衆は、マルコスに暗殺された夫に代わって闘うアキノ夫人にかっさいを叫んで支援した。私もアキノの勝利を心から喜んだ。しかし万歳を叫ぶ首都の市民だけでなく、大多数を占める島々の農民達が期待するのはまず何よりも農地の改革・解放であった。それがフイリッピンの当面する民主主義革命の中心課題なのだ。しかし地平線まで自分の農地であるような大地主に農地改革ができるのか。私にはそれがいちばん気がかりだった。結局、秋の大統領の短命―終わりには将軍たちや大企業のボス達の綱引きのなかで終った―は、農地解放ができなかった大地主の政治的限界なのであった。しかし、「二月革命」はすでに噴出しつつある農地解放がやがて展開する民主主義革命の序幕となるに違いない、と私は思った。

 この年、国内では前年にひきつづき売上税の問題が政治的対決の焦点となった。自民党は強引に衆参同時選挙を強行して圧勝し、七月二二日第三次中曽根内閣が成立した。私より一つ年上の中曽根はすでにふれたように根っからの国家主義者で、その上戦前は短期現役の海軍主計中尉を大尉から少佐まで好きで昇進した軍国主義者でもあった。

 ところが、「勇将の下に弱卒なし」とはよく云ったもので、九月五日就任したばかりの藤尾文相が、「日韓併合は韓国にも責任がある」と表明したことで大問題となり、韓国では朝野こぞっての抗議運動が起きた。このことばは「泥棒にも三部の理屈」どころではない暴言で、歴史を曲げ正義をふみにじるものと国内からもきびしい批判と抗議があいついだ。もちろん藤尾文相は辞任した。ところが今度は九月二二日自民党研修会で当時の中曽根が「黒人やプエルトリコ人などがいるアメリカは知的水準が低い。」と発言して前にも増して重大な問題となった。もとよりアメリカの黒人団体を先頭に議会でも問題となり、国内でも激しい非難と抗議がつきつけられた。中曽根は大慌てで弁解と陳謝に大童だった。しかし私は、この男の性根は昔から少しも変らぬと見た。

 この年の暮、次年度予算で防衛費はGNPの一%ワクを突破することが決定された。

 国際的な経済・政治的変動

 翌八七年、バブルの胎動が始まった。地価は高騰して東京の住宅地・商業地は前年比で七六%も上昇し、過去最高となった。またニュウヨークノ株式市場ではドルが二二.六%も大暴落して「二九年恐慌を上回った。(「暗黒の日曜日」)。しかし大変動は経済だけではなかった。ソ連のペレストロイカに勢いを得た東欧の民衆は次第に体制への批判を高め、大変動の兆しが表われはじめていた。

 ハンガリーではこの年の九月には「民主フォーラム」を結成し、ポーランドではヤルゼルスキーが党内の改革派を登用して「連帯」との提携を探り始めた。またチェコスロバキアでも長い間権力を握り続けてきたフッサ―クがついに辞任し、「プラハの春」弾圧二〇周年をめざして抗議のデモが準備され始めた。だが中国では改革の先頭に立ってきた胡耀邦がケ小平の逆鱗に触れて総書記を免じられ、首相の蛸紫陽がこれに代わって任命された。

 社会主義改革の旗手としてあらわれたゴルバチョフも内政には手を焼き改革は曲折を重ねた。この間右派のリガチョフと対立するエリツィンが、仲をとってまとめようとするゴルバチョフを激しく批判し、怒ったゴルバチョフはエリツィンをモスクワ市党第一書記から罷免した。

 こうした書状況はこの当時すでに今日に至る変化と状況を先取りすることになった。ことにソ連・東欧改革路線と中国改革路線とは真反対に異なるものであった。上からの政治改革から開始したソ連にたいして中国は政治改革を押しつぶして経済改革(経済開発)から始めた。政治改革と経済改革はおそかれ早かれやがては照応する。とりわけ市場経済は必然的に一対一の商品交換をとして個の自覚をうながして政治的民主主義の要求に進む。しかし政治改革は必然的には経済改革(市場経済)を求めない。それどころか頑強な保守的党・国家官僚集団にとってはばまれる。私はそう思った。結局、事態は私の推定通りに動き始めた。

 この年(八七年)ブハーリンの復権が行なわれた。彼は革命以来から経済理論家として党の指導的な地位にあった。私もかつて彼の「過渡期経済論」とレーニン「評伝」を読んだことがあるが、レーニンは批判しつつほめていた。しかしその後、路線論争に敗れてスターリンに追放されたが後に復権し、今度はトロツキーとブロックを組んで一九三八年についに処刑された。スターリンの強引な農業改革、国有化を批判して時間と経験を通じて緩やかな移行を主張して敗れたが、それはゴルバチョフがねらう市場経済と無関係ではなかった。


 私の昭和思想史(五〇) 松江 澄 「新時代」1993.1.15 第243

天皇病気の「自粛」

 八八年、長くつづいた二つの戦争の和平協定が結ばれた。一つはアフガニスタン戦争で、ソ連の進攻によって国内の種族反乱をいっそう激しくしたが、まるで「ベトナム戦争」のように若いソ連軍兵士達に青春の荒廃をもたらした。九年にわたって出兵し続けたソ連軍の撤退というゴルバチョフの決断は適切であった。

 またアジアにおける最大の戦闘であったイラン・イラク戦争が八年間のきびしい戦争を経て停戦協定が結ばれ、西アジアの人々もようやく戦乱から解放された。

 日本でこの年もっとも問題になったのは、前年腸の障害で手術した天皇がこの年五月に吐血して皇太子明仁に国事行為が委任されるとともに、容態悪化で全国をおおう「自粛」ムードがまるで伝染病のように蔓延したことである。

 私は各地各職場から頼まれるままに講演して、私自身の全生涯を通して体験した天皇の位置と役割と現在の「象徴」の意味を説き、とりわけ「自粛」フィーバーこそ「神」としての天皇を復活させるための「人間の精神」にたいする侵犯であると強調した。

 私にとって昭和天皇とは一五年にわたる侵略戦争のために「人心を収攬」(福沢諭吉)「帝室論」した大罪の責任者であり、アジアの人々を殺し、日本人を殺し、わが友わが肉親を殺した侵略戦争の罪深い精神の支配者であった。

 ところがマネキン人形の衣裳をあわてて「赤い服」から「黒い服」に着せ変えるなどという児戯に類する権力への擦り寄りに、連日いやな思いが続いた。

 このとき、私の一高時代同室の学友だった森井 眞(明治学院大学長)が学長として公然と声明を発表して訴えたことはほんとうにうれしかった。

 それは「@現天皇個人の思い出を美化することにより、昭和が、天皇の名によって戦われた侵略戦争の時代であったという歴史の事実を、国民が忘れることになるような流れをつくってはならぬこと。A現天皇個人の意思や感情がどうあれ、『天皇制』を絶対化しこれを護持しょうとする主張が、どれほど多くの無用な犠牲をうみ惨かをもたらしたかを、今後いよいよ明らかにせねばならないこと。B『天皇制』の将来を国民がどう撰ぼうと、それが神聖化されてはならないこと。国の体制は人間の精神を抑圧し、思想・信仰・表現・行動の自由を損なうような陰謀からできるだけ遠いものでなくてはならないこと。」と。

 私はこの声明に感動した。それが私の高校時代の親しい学友であるだけに肝に銘じて共感した。それは彼が「あとがき」で書いているように、「力づくりでひとびとの精神をねじまげ、作りかえ、押し流していった」わたしたちの時代とその統帥者へのもっとも純粋な糾弾であった。私は百万の味方を得た思いであった。先日、私たちは久しぶりで会って昔を偲びつつ、これからを思いあった。

東欧の「反乱」

 ポーランドではかねて「連帯」が主張していた「円卓会議」が実現され、大統領制がきまった。六月の国会選挙では「連帯」が圧倒的に勝利して統一労働者党は僅かに下院で二名当選しただけであった。

 チェコスロバキアでは、私が十六年前「七七憲章」派の非合法デモと遭遇した同じバツラフ広場で「プラハの春」弾圧二〇周年デモに万余の人々が公然と旗を掲げた。ハンガリーでもカダール書記長が遂に失脚し改革派のクロースが選ばれた。東欧ではもはや避け難い勢いで新しい波が広がった。

 またソ連では六月の第十九回党協議会でゴルバチョフが保守派をうまく取り込んで制度改革としてのペレストロイカを認めさせ、これを機会に党内では改革派が優勢になった。その反面では双方の対立はきびしく、リガチョフは新思考外交の旗手シュワルナゼに真っ向から対決した。

 九月ゴルバチョフはシベリアのクラスノヤルスクで政策を発表してアジア諸国との友好関係の再開を提案した。この年の九月、長年ソ連外交の主であったグロムイコが政治局員を解任されて最高会議議長のポストを明け渡し、ゴルバチョフが国家の最高の位置についた。

 またリガチョフはイデオロギー担当を解かれ、メドヴェージェフが政治局入りして後をおそった。だがゴウバチョフが党と国家のトップを兼ねることで、党=国家(連邦)を個人的にも確認することになった。

 かつて私が現存社会主義についてもっとも問題にしたのは党=国家であり、「唯一前衛党」であった。今現存社会主義の中心であるソ連の大改革のなかでその党=国家を確認し、この改革の天下り的性格を思って一抹の不安を抱いた。

 天皇であろうとスターリンであろうと誰であろうと、人間の「精神の自由」を犯す上からの強制であるかぎり、どんな「善政」も「悪政」に劣らぬことを改めて考えざるを得なかった。

 この年の十二月、かねて自衛隊員の夫の靖国合祀を「信教の自由」に反するとして提訴上告していたクリスチャンの妻の訴えを最高裁が多数で却下した。ところが私や森井の学友で最高裁委員をしていた伊藤正巳ただ一人が「内心の自由」擁護の少数意見を提出していたことを知り、ここにも友ありと心から喜んだ。

 この年、奇しくも同じ釜の飯を喰った二人の学友の良心と再会したことは私を大いに勇気づけた。(つづく)


私の昭和思想史(五一) 松江 澄 「新時代」1993.2.15 第244

昭和天皇の死

 年が明けて天皇裕仁の病気はます篤く、「自粛フィーバー」はいよいよ激しく、新年宴会も大売出しも祭りも一切、派手なことはつつしむようにとのオフレに商売はすっかり上がったりとなったり、みんなかげではぶつぶつ云っていた。それはかつて明治天皇の病が重いとき、政府が恒例の両国の花火を禁止したことを夏目漱石が批判して、下町の商人たちのことを案じた一文を私に思い出させた。

 このたびはそれどころか、日本のあらゆる分野で一斉に「自粛フィーバー」が舞い狂ったのだ。私はそのころ民放のあるテレビが朝早く呼びかける「皆さん、お元気ですか」という挨拶を中止したのをきいて、怒るより呆れてものが云えなかった。結局天皇は八九年一月七日に八七歳で亡くなった。テレビは朝から晩まで、新聞は全紙特集で一斉に昭和の「御代」をたたえ、一日中裕仁ムードに終始した。

 私は朝の内に家を出て、近くの町内を廻って弔旗の有無を確かめた。ところが私の予想に反して、けっして進歩的と云えぬわが町内に弔旗は少なかった。となりの町もそうだった。そこで足をのばして繁華街の本道理に出かけて見た。ところが驚いたことには、まだ人道りも少ない本と通りは軒並みに弔旗がひるがえっているではないか。なかでも大企業・大銀行の支店門前には大きな弔旗が見事に交差して掲げられていた。

 私はこのとき改めて思った。戦前には天皇制を支えるものが多く存在した。まず天皇を神聖とする帝国憲法をはじめとして、治安維持法と不敬罪(刑法)があり、内面から天皇を支えていたのは家父長制家族と古い封建的な村落共同体であった。そうして直接的に「大元帥」を守るのは何よりも国民皆兵の「天皇の軍隊」であった。いまそれらはすでにない。新憲法では戦前の天皇「大権」はすべて奪われた。戦前の天皇制の牙城は外堀・内堀を埋められて、残っているのは「象徴」という怪しげなことばと儀礼権である。

 福沢諭吉は「帝室論」で、天皇は日本人の「精神を収攬」する中心であり、そのためには、「政治社外」に置くべしと説いている。彼によれば、それはけっして「虚器」ではないという。正に今日の「象徴」に外ならない。それは神格化された「象徴」なのだ。それが実は戦前・戦後を問わず天皇制の真髄なのである。それは私の生まれた時からから今日に至るまで日本人の精神の自由を腐食しつづけている。

 戦前の私は一高時代に初めて自覚した精神の自由を何よりも大切な宝と思い、それを犯す「神」としての天皇を内心では密かにおぞましく思った。しかしやがて学生兵とされ、「真空地帯」にほうりこまれて何もできぬまま自ら内心を密封し、唯々諾々と天皇の命令に従って侵略戦争に奉仕したのだ。私の戦後はこうした私の戦前の総括であり、そこにのみ私の戦後があった。その昭和天皇が亡くなったことは、私にとってやはり一つの区切りであった。

「昭和」は終わったか

 「昭和」は終わった。しかしいま、またしても一九五九年の「美智子フィーバー」に優るとも劣らぬ皇太子とその思いの人との忍ぶ恋路が、まことに人間らしく繰り広げられている。しかしそれは果たして真に人間としての恋愛なのか。

 私はたった一度だけ二人で話したこのとのある中野重治の「五勺の酒」(一九四六年)を思い返した。そのなかで中野はその独自の天皇感を自由に展開しることによって、当時の日共の天皇にたいする悪篤ぶりがけっして実りのある天皇制批判にならないことを暴露した。中野は書いている。「つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれはないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これがかれらの最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙された個があっただろう。」と。

 そして彼は断言する。「個として彼等を解放せよ。・・・・・・・恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること。そのことなしにどこに半封建制からの国民的解放があるのだろう。」と。私も彼と同じように、「天皇を鼻であしらうような人間がふえればふえるほど、天皇制が長生きするだろう」と思う。それはしょせん「左翼」のことばだけの強がりにすぎないのだ。罵詈讒謗は、何一つできぬ腹立たしさを、ののしることで自ら慰めているにすぎない。天皇制とはそれほどしたたかなのだ。結局私の一生は、ある意味では天皇制との、時としてひそやかな、時として烈しい戦いでもあると思う。

 

 ところで編集者は、昭和が終わったが後をつづけろ、と云う。いやそもそも「昭和思想史」と名付けることが私らしくないという。たしかにそうかも知れぬが、私にはすでに書いたこだわりがあったのだ。しかしここまでクルとこのままでは終わるわけには行かなくなった。それはちょうど昭和の終わる頃から私の思想史にとって避けられぬ現存社会主義の崩壊が始まったからである。そこでそれにふれつつわが思想の形成の総括をするまでつづけることにした。読者の御了承を乞う。(つづく)


私の昭和思想史(五二) 松江 澄 「新時代」1993.3.15 第245

天安門の弾圧

 一九八九年は中国にとって忘れられない年であった。それは中国の反定解放闘争の口火を切った学生たちの「五・四」運動がはじまって七〇周年であり、また新中国が誕生して四〇周年にも当たった。そうしてこの年はまた自由・平等・友愛をかかげて闘ったフランス革命の二〇〇周年であった。

 この年の四月十五日には胡耀邦前党書記の急死をいたむ党中央委員会主催の追悼大会が天安門広場の人民大会堂で行なわれた。だが彼は党の政治局会議の論争中憤死したとも伝えられ、彼を慕う青年・学生たちがその死を心から悼み憤る運動はまず四月十七日の五〇〇人のハンストから始まった。

 折りしもソ連のゴルバチョフ書記長が五月中旬訪中して五月十九日までの日程で中国共産党首脳部とりわけケ小平と会って中ソ和解を結ぶことになっていた。天安門前では好機到れりとばかり学生たちのカンパニアは一日一日と熱気が高まり燃え揚がった。

 こうして日に日に増す人々の結集が一段と画期的に発展したのは五月十七日の「百万人デモ」であった。それはただ数だけでなく、この運動の質がはっきりと飛躍したことを示していた。いままでの学生、知識人たちに加えて国家、党機関、報道機関などで働く党員、活動家たちに広範な民衆が加わった百万人の抗議デモは、かたずを飲んでテレビを見守っていた私にもはっきりと運動の質が新しい段階―抗議と要求から政治の変革をめざす段階に移行しはじめたことを思わせた。量は質に転化した。

 そうして同時にこの瞬間から党と政府の方針と対応もまたはっきりと質を変えたのだった。天安門の運動は反革命とされ、そのデモと集会を武力で排除することであった。五月二十日、戒厳令が発令された。それまで党・軍と学生、活動家集団、民衆との間を右往左往していた蛸紫陽は斥けられ、在米中で帰国が待たれていた万里全人代委員長もあえて「火中の栗」を拾わず、李鵬以下の党官僚はケ小平首領の命令一下弾圧を決定し、その軍団は全国から北京へ天安門へと肉薄し、六月四日ついに内部対立を押し切って学生と民衆に襲いかかった。

 六月四日の夜から朝へ、世界のテレビに映し出された光景はもはや見ることはるまいと思われていた大国の「革命」と「反革命」の対決であった。しかしひとたび立った巨大な軍の前にはどんな抵抗も歯がたたなかった。こうして無残にも多くの若者たちの命を奪い、「反逆者」たちを武力で排撃しつつ天安門広場は制圧された。

中国の社会主義

 私は、いったい中国の社会主義とは何であったのか、と考えざるを得なかった。このたびの天安門事件の背後にあるもの、人々の声の奥に横たわっているものは何であったのか。インフレの進行のなかで「官僚」といわれる役人の不正は人々のうらみの的となり、政治改革は叫ばれても何一つ進まなかった。しかし、こうした現状にたいする不満と批判だけでなく、そこには一党独裁に満足できない新しい政治意識が成長していたのだ。

 それは「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」という飾り文句に集約される党の指導に、唯々諾々と従うことを拒否する新しい民主的な政治意識がハンストやデモのなかで育っていたのである。

一九五六年のフルシチョフによる「スターリン批判」(ソ連第二〇回大会)にたいして当時の中国共産党は「プロレタリアートの独裁の歴史的経験」についての二つの文書で対応した。私はこのたび読み返してみたが何らの格別な視点は見出し得なかった。ただ「民主主義的集中制」をふみはずしたと指摘しながらその原因としくみ何一つ追求してはいなかった。

 その「民主集中制」とは何であったか。それはたしかに形態としてはマックス・ウエーバーの云うような「伝統的支配」と「カリスマ的支配」をかね合わせたようなものであった。しかし私はこうした形態をマルクスに対置して、一定の支配を非歴史的な固定的形態になぞらえるわけにはゆかなかった。

 だが中国のこの状況と原因を「マルクス・レーニン主義」の体系のなかだけに求めるのは無理である。私は、人間の生きてきたそれぞれの民族と地域の生活と活動の長い歴史が人々の意識と思想に与えつづけてきた深い影響を考えざるを得なかった。

 それは高々半世紀にも満たぬ政治経験によって容易に変えられることのない、この民族の四千年にもわたる長く輝かしい歴史、そうしてときには苦しく屈辱的な歴史が祖父から父へ、父から子へと幾代にもわたって一人一人の人間にあたえつづけてきた生き方と考え方なのである。

 それは中国の人々が深く培われてきた社会観、価値観にかかわっている。そこには日本人とは違った意味で家族、宗族の繁栄を願う中国の歴史的な集団主義がるのではないか。そこには当然にもその集団の中心となって人々の運命と前途を預かり指導する家父長が必要だったのだ。それはフィクションとしての聖人=有徳人の啓示なのである。

 マルクス主義が歴史を変えるのではなくて、歴史がマルクス主義をも変えるのである。しかし「易性革命」は不変である。「天安門事件」は今後再び姿をあらわすに違いない。

 


私の昭和思想史(五三) 松江 澄 「新時代」1993.4.15 第246

東欧改革運動の高まり

 一九八九年になるとすでに始動していた東欧改革の嵐はいっそう吹き荒れた。ポーランドで「円卓会議」の合意で連合内閣の首相は「連帯」から出すことになり、ハンガリーでは自ら社会党に衣替えした元共産党のイニシャチーブで複数政党制のもとで「政治協商会議」が指導権をにぎり、オーストリアとの国境の鉄線を除去することによってハンガリーに流出した東独の難民は一挙に西ドイツに入ってベルリンの「壁」撤去の端緒をつくった。

 またブルガリア、チェコスロバキアでは何れも今まで指導権をにぎっていた共産党書記長がその地位を追われ、ルーマニアではチャウシェスク元大統領は反乱の中で逮捕されて妻とともに処刑され、ほしいままに私腹を肥やしていた独裁者の時代は終わった。

 こうした東欧の変革に共通しているのは、何れも政治的には党の「民主集中制」の名のもとに行なわれていた独裁を廃止するとともに唯一前衛党それ自体も終わりを告げ、集会、結社、言論、宗教の自由を回復してすべての情報を公開し、経済的には中央集権的な計画経済から自由な市場経済への転換を宣言し、私的所有を認めて国営企業の民営化への移管を決定したことである。

 ハンガリーではすでに早くから経済改革を追求しながらコルナイの指摘する「不足の経済学」を克服できず、暗中模索しながら思い切った経済改革をめざしたがポーランドとおなじようにその転換は困難だった。

 市場経済とは封建経済のなかから生まれて資本主義経済をはぐくんだ母体であり資本主義の原型なのだ。中央集権のもとで人為的な計画を命令で追求する「社会主義」経済を「自由」な市場経済に転換することは宣言一つで実現できるものでもないし、またそれが経済困難のすべてを解決する特効薬ではけっしてないのだ。

 それは「不足の経済学」が求めている「満足の経済学」ではないのである。たしかに「不足」は「満足」を求める。しかしそのためには豊かさ代償として「貧困の経済学」も受入れなければならないのだ。だが「不足の経済学」に長い間なやんできた人々には、強制から解放されればすべてが万事片づくと思っていたのではないか。

 だが「自由」ということは生活を豊かに楽しむ人もつくり出すが、明日の生活に苦しむ人々も沢山つくり出すということも知らなければならぬ。真の豊かさは資本主義や市場経済の中にではなく、働く者が資本主義の矛盾を運動で止揚することによって始めて実現することができるのだ。長い時間かけて。

マルタからクリミアまで

 八九年十二月、ゴルバチョフとブッシュは地中海のマルタ半島で会い、全面軍縮への画期的な第一歩をふみ出した。それはまた新しい世紀を前にして冷戦終結へ向う歴史的な第一歩でもあった。それは内政ではペレストロイカが思うように進まぬまま外交では「新思考外交」で見事に花を咲かせる一幕であった。

 九〇年三月、党の指導力低下を見越したゴルバチョフにとってバルト三国独立問題は重大な試金石であったが、ここで彼の本音がはからずも暴露された。彼はリトアニアの首都で自信たっぷりともみ合う群衆の中に入り自由な会話を試みた。

 ところが彼を恐れず一人の市民がリトアニアは独立すべきだと直言した。彼は激怒して「お前は誰だ!」とヒステリックに激しく詰問した。ライサ夫人はおどろいてとりなおしたが、彼は夫人に「黙れ!」とどなりつづけた。この一幕をテレビで見ていた私は、このごうまんさはやはり唯一前衛党の書記長だと思った。彼は無意識の内に、いつでも自分が正義なのだと思っていたのだ。唯一前衛党=民主集中制を自らが破壊しながら、スターリンの幻影は彼にまつわりついていたのである。

 ところが彼のライバルであるエリツィンがロシア共和国最高人民会議の議長に選出された。ロシア革命四年目につくられたソビエト連邦の最も重要な基盤であるロシア共和国がゴルバチョフの手から離れようとしたのだ。

 そのうえ軍産複合体の幹部を先頭にした「保守派」はロシア共和国の独立共産党を創設することによって、ゴルバチョフの「新連邦」と対抗して昔に還そうとした。連邦党大会でシュワルナゼは危機感をこめて「独裁」の到来を予告して退場した。エリツィンは大会終了間ぎわに離党宣言を行なって会場を去った。連邦とロシア共和国、党と最高会議との分裂は目前だった。ゴルバチョフのもう一人の盟友ヤコブレフも彼から離れはじめた。危機は迫りつつあった。

 九一年八月、ゴルバチョフはつかれてクリミアで暑中休暇をとり、新連邦条約の調印を待機していた。まさにその前日、モスクワでク―デターが起きた。彼にとってそれが果たして寝耳に水だったのか。そうとも思えぬふしがある。だが彼はクーデター計画には組みしなかった。

 彼は「天安門」を拒否した。だが「天安門」は彼の背を越えて始まった。私たちは「天安門」から二年目に、またしても大国の「革命」と「反革命」の対決をテレビで見ることになった。しかし今度は市民が勝利した。市民とともに戦車の上に立ったエリツィンは英雄のように見えた。だが果たしてそうだったか。(つづく)


私の昭和思想史(五四) 松江 澄 「新時代」1993.5.15 第247

アルマ・アタへ

私は少し先を急ぎすぎたようだ。

 前号でひとことふれた九一年夏のモスクワ・クーデターからちょうど一年ばかり前、経済改革は進まず国内政治は不安定で、ゴルバチョフの人気が低下しているのに対して、エリツィンがロシア共和国最高人民会議議長に選出された頃であった。ゴルバチョフも大統領を兼ねることで党から連邦(国家)へと重心を移し、連邦(ゴルバチョフ)とロシア共和国(エリツィン)がライバルとしてしのぎを削ろうとしているとき、私は医師の許可を得て、四度目の旅でロシア共和国に次ぐカザフ共和国の首都アルマ・アタへ行くことになった。

 それは国際医師会議の呼びかけで、九〇年五月二十五日から開かれる核実験禁止国際市民会議に出席するためであった。今までのような世評系とは異なるこの会議の重要さに加えて、大きな変化が予感されるモスクワとアルマ・アタの現地を見聞きしたいと思ったからでもあった。プラハの会議以来七年ぶりの飛行機の中でスピーチ原稿の準備に追われながら、モスクワに到着したのは五月二十一日午後二時過ぎだった。宿舎のクレムリンそばにあるロシア・ホテルに着いてしばらくして夕食をとったが、この著名なホテルの食事は乏しくまずかった。

 そこで翌日の夕食は広島の人々を誘って二階に見つけておいたレストランで会食したがとてもよかった。ワイン二本にサラダ、フィッシュ、スモーク・サーモン、トマト・サラダなどを美味しく食べかつ飲みながら支払いを気にしたが、締めて二九ルーブル一四人で割れば日本円で一人二百円余りで、安いのにびっくりした。きけばルーブルはすでに円にたいして十分の一に切り下げられていたのだった。結局ものがないのではなく、ルーブルでは高くて手がでないうことだった。その晩、部屋に帰って風呂をわかそうとすれば風呂桶の底栓がない。幸い同室の物理学者が陶器の小さな茶碗を見つけてきて、脱水口にお尻をのせて水の圧力で湯をたっぷり入れて入ることができた。

 この風呂の栓はアルマ・アタでも同じだった。不足勝ちの生活のなかに使われてるのか、売って金に換えるのか、何れにしても以前に比べてかなりモラルも荒れているなと思った。しかしモスクワと違って随分田舎のアルマ・アタでは美味しい川魚や野菜がたっぷりで皆ようやく落ち着いたようだ。

メミバラチンスクへ

 二十三日午前一〇時にモスクワを発って、アルマ・マタに着いたのは午後二時過ぎだった。この夜ホテルの大広間で世界の代表たちの歓迎集会が開かれ、立食で食事と会話を楽しんだ。この時、「広島から来たのは誰か」と会場を尋ね廻る老人がいた。やっと私を探し出した彼はいきなり抱きついて頬にキスしながら共感の感動を表した。彼はメミバラチンスク実験場で村民を殺され、今は無人になったカラウル村で七人ほど生き残ったなかの一人だった。私たちは通訳を通じて話し合い、反核の堅い握手を交わした。彼は老人にみえたがどうやら私とあまり変わらぬ年のようだった。

 私たちの泊まっているホテルの前が会議会場の「政治センター」で、その階段から見ると南方にまだ雪をかぶった高い連峰がすぐそこのように見えた。それが中国の天山山脈ときいて改めて地図で確かめ、遙けくも来たなと思うとともに、この大国と中国は隣り合わせ名のだと気づいた。総会から分科会へと出席してかねて準備してきた英文原稿を読み上げ、私の体験から参会者に反戦反核を訴えて満場から共感の拍手を受けた。大会が終わった翌日の二十六日は天山山脈の見える大競技場で市民を含めた反核大集会が開かれ、「ポリゴン・ジョアスィ」(核実験場やめろ)!の声が空高くひびいた。

 二十七日は飛行機でメミバラチンスクに行き、そこから自動車で遠路を強行してカラウル村の向こうまでバスで行くことになっていた。私は心臓が気がかりでどうしょうかと迷ったが、会議事務局が市長の車に乗って是非行ってくれと云われて折角だから参加することにした。三時間ひた走りに走って草原の大テントに準備された昼食をとって、ふたたび人一人居ない草原を走って無人のカラウル村を経て集会場についた。広島県と同じ面積のこの大平原では一九四九年以来四〇年間に亘って三二〇回も核実験が行なわれたのだ。「ヒロシマ=ネバダ=メミバラチンスク」の慰霊碑の前で再び「ポリゴン・ジョアスィ」!を叫んで核との闘いを宣言した。

 やがて日が暮れるなかで交流会も済んで、たくさんつくられたパオで三々五々御馳走になった。現地の人々は背丈といい皮膚の色といい私たちとよく似ていて、彼らこそ日本人の先祖ではないかと思った。

 夜中にホテルに帰り明朝早く発ってモスクワに帰った。ホテルの前の「赤の広場」では幾組ものグループがこもこご旗を立ててアピールしながら、近く発表される人民代議員選挙を前に興奮した面持ちで競い合っていた。「赤の広場」にそそり立つグム百貨店も町の店も店内の棚の中には軒並に殆んど何もなかった。通りではあちこちに食品や生活必需品を買うための行列が見られ、以前三度の旅行とは違う風景は何かが起こりそうな気配を伝えていた。今にして思えば危機は迫りつつあったのだ。


私の昭和思想史(五五) 松江 澄 「新時代」1993.6.15 第248

万難こもごも至る

 私がソ連から帰ってきたのは九〇年六月の初めだった。私は帰るとすぐ広兼君の入院をきいてびっくりした。彼は私が出発する前に少し体調をくずしていたが、まさか入院とは思いもよらなかった。彼は私が帰るまで待つつもりだったが、医師の判断で入院させられたらしい。早速病院に行って見たら元気そうに見えたが、いま検査中ということだった。検査の結果は食道の腫瘍だという。岡山大学の医学部から医師が来ることになり、手術したのが忘れもせぬ八月二日だった。手術は無事終わったので一安心した。

 ところがこの八月二日こそ新たな戦争の火種が蒔かれた日だった。イラクのフセイン大統領がクェートに侵攻し、たちまち全土を制圧・占領した。六日には国連安保理事会が全面的な経済制裁を決議し、明七日にはブッシュ・米大統領が早々と米軍のサウジアラビア派兵を決定し、緊迫した空気が西アジアと世界をおおった。

 これがやがて十一月末にはアメリカ主導で国連安保理が武力行使容認の決議を行い、一九九一年一月十七日についにアメリカを主力とした多国籍軍が攻撃を開始し、湾岸戦争が始まることになる。

 私は広兼君の手術後を案じつつ秋から冬にかけて海外派兵をめざす第一次PKO法案に反対して原爆ドーム前の座り込みに参加した。この法案は危機感の高まる世論に支援された国会内外の闘いでついに廃案にさせることができた。

 だが翌一月に始まった湾岸戦争はアメリカ軍が最新の科学兵器を駆使することでかってない一方的な科学戦になった。アメリカ軍部検閲済みのテレビの画面はただ光線と火花が交錯するだけだった。

 それはボードリヤールが云うように、「熱い戦争のあとから、冷たい戦争のあとから、やってくるのは死んだ戦争―解凍された冷戦」であった。

 アメリカはすでに八八年の暮、冷戦後の戦略として世界各地域の紛争に対する「選択的抑止戦略」を決定していた。それは今までの「起こりそうにもない戦争」(米ソ戦争)から「もっとも起こる可能性の高い戦争」(民族紛争)への対応戦略であった。それはアメリカ等大国が石油をはじめとした重要な資源と市場をむさぼり奪っていた開発途上国への先制的制圧に外ならなかった。アメリカは今までの東西の対抗軸をいまや改めて南北にきりかえたのである。

モスクワにクーデター

 広兼君は九〇年八月末に退院したが、体重がなかなか元に戻らなかった。聞けば食道だけでなく、念のため胃も大分切り取ったらしい。そうでなくても小柄でやせている彼の体重が四〇Kを割る状態のもとで、これからの病闘生活が大変だなと思った。だが何としても元の身体に一日も早くなってもらいたい。それまでは事務所を守り切らなくてはと決心した。

 湾岸戦争は居丈高なアメリカの攻撃によって、一ヶ月ばかりのうちにフセインは敗北し、以降いわゆる「中東問題」をめぐる駆け引きが始まった。それからまもなく、又もや九一年の八月十九日、モスクワでクーデターがおきたときいてびっくりした。

 その推移如何ではペレストロイカはもちろん、社会主義ソ連へのどんな迂回的な再生のための試みも危うくなるのではないかと思った。それはヤナーエフ副大統領をはじめとしたソ連の幹部=軍産複合体の幹部が休暇中のゴルバチョフを軟禁し、軍隊の力で政権を奪取しようとするものだった。しかし戦車はモスクワに侵攻したが民衆が決起し、武器を持たぬ数千数万の市民達が戦車を包囲して首都を自衛することによってこのクーデターは一両日にして瓦解した。

 このク―デターは一体何であったのか。革命なのか反革命なのか。否、そのどちらでもなかった。民衆たちにとってはゴルバチョフのペレストロイカも彼らを救わず、クーデターも結局昔の共産党絶対支配時代を復活させるものでしかなかったのだ。ただこの「革命」と「反革命」の隙間の中でエリッインは戦車の上でアピールすることで名をあげることになったが、結局それだけであった。どこにも成算はなかったのである。

 共産党は党内外から見離されて瓦解し、国境を越えて指導中枢であった共産党の崩壊は、名目上の構成共和国を支配していた連邦「国家」を崩壊させた。残されたのは名実共に自由になった各共和国だった。

 それは帝政の打倒以来、革命の名の下に70年刊凍結されてきた「民族自決」の解放だった。しかしそれは七〇年間閉じ込められていた民族主義をいっきょに噴出させた。また連邦の解体によって分離されていた産業分布の下で一国的な経済の創出というきびしい試練に直面しなければならなかった。「唯一前衛党こそ諸悪の根元」と規定した私も、これほどもろい唯一前衛党の崩壊のもとでこれからソ連はどうなるのかと呆然とした。

 いま各国共和国とりわけ最大国のロシア共和国では「市場経済」論が横行し、三百日、五百日 案なるものが取り沙汰されている。笑止の至りとでもいうものだ。それは日本でも何百年もかけて発展し、資本主義を準備してきたものである。他所の花はキレイに見えるものだ。だが歴史は決して一挙に変わることはない。


私の昭和思想史(五六) 松江澄  新時代 1993.8.15 第249

 

なぜ現存社会主義は崩壊したか

私はモスクワ・クーデターの年の二月三日、大阪で準備された”91フォーラム関西“(「社会主義・その根底を問い直す」)で呼びかけ人の一人となり、当日は最初の提起者としてこの課題について報告した。それは私にとって、すでに崩壊の過程にあった現存社会主義について改めて公表する最初の分析と意見であった。

だが、いま読み返して見て、ここで発表した考え方の基本はいまでも少しも変わっていない。クーデターは何一つこのときの意見を変えるものではなかった。

私がここで提起した意見の前提は、私自身の精神史と思想史であった。私は戦前・戦後の私の七〇年間の成長と断絶の過程を、社会主義の生成・発展・衰退・没落の諸過程と重ね合わせた。オクテの私は二〇才前後の高校時代にようやく自覚的に獲得した自由と自立の重さを知った。

それは日中全面戦争が始まったばかりの頃、辛うじて許された―先輩たちが最後に私たちに伝え残してくれた「断末魔の自由」でもあった。しかしそれはその後の私の一生のなかで決して忘れ得ぬ宝物ともなった。

しかしその自由はやがて太平洋戦争下の大学のなかでは、ごく一部の教師を除いては無残にも自壊しつつあった。だが、やがて私は在学中二四歳にして「満州」牡丹おくの銃砲兵部隊に投入されるなかで、心中深くあったはずの自立と自由は音を立てて崩壊したこと知った。いや私は獲得した束の間の自由を自ら胸中深く封じ込め、生きるために唯々諾々と真面目な兵士を演じたのだった。

敗戦で解放された私は天皇に屈服した自らの総括をしなけばならなかった。しかしそれは思想的な追求に留まるべきでなかった。戦争と原爆で命を奪われた学友と戦友、家族と友人に代わって日本を侵略戦争に至らしめた者との闘いは、私を日共に入党させ、マルクス主義探求に熱中させた。

そうした私を天は再び試練の波にさらしたのである。この党こそは時間をかけて思い定めた日共のなかで、かつて青年学生時代の私から自由と自立を奪った力が、再び私をおそったからである。それはかつての天皇制国家権力にも似た絶対主義権力であった。私は二度、三度にわたって意見の自由を闘ったあげく新しい天皇制と分岐しなければならなかった。

しかしその後、私が多くの同志とともにめざした新しい道も依然としてその根底に在るのは「新しい前衛党」でしかなかった。しかし現存社会主義の唯一前衛党を信奉する同志との論争のなかで、八〇年代初頭に至って私はようやく体内に残存していた教条主義から解放され、「唯一前衛党」こそ諸悪の根源であると党=国家の絶対主義批判を公表することができた。

それから一〇年にして「社会主義」は崩壊したのだった。私は七〇年をかけてようやく何を求め、何を求めざるか、を自己検証を通じて知ることができたのである。

社会主義とは何か

私は戦後未だに一途に社会主義を追求してきた。しかし戦後私がふれ合うことができたソ連・東欧の社会主義はけっして私がめざしたきた社会主義―人間の到達すべき最後の理想社会の前身―とは思えなかった。そこにあるのは指導者の絶対的な権威であり、人々はただその指導者に従うのみであった。そこには自由も民主主義もなく、もし名付ければ国家社会主義とでもいう外なかった。

そうしてその縮小化されたモデルが日共の宮本「天皇制」であり、祭り上げられているのが野坂名誉議長だった。いま野坂が過去の背信で糾弾されるなかで、かって盟友でもあり政敵であった宮本は、野坂を除名追放させながら「われ一人清し」と、何の自己批判もない。これほど醜悪な図は世界でもまれに見るものだろう。

しかし戦後私がそれ以上に残念に思うのは、そうした党のなかで疑うことを知らず、上からの指導と指令に従って、あいもかわらハンコで押したような日共の自画自賛をくりかえしていることである。それはまさに真理を探究する人間の自由な精神に対する冒?なのだ。

だがそれは彼らの問題とともに私の問題でもあるあるのだ。そのためには社会主義とは何であるかという根元的な問いかけを徹底的につきとめなければならなかった。

そうしたとき、私に重大な示唆をあたえてくれたものが二つあった。その一つは改めて読み直した。マルクスの最初にその共産主義思想に到達した著作とでもいうべき「ドイツ・イデオロギー」である。私は何度か読んだこの著作を読み直して、思わず自らウロコが落ちるような気がした。それは次の一節であった。

「共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提から生まれてくる。・・・・」と。

私はやはり「青い鳥」を探していたのだ。私は青年時代から心中深く根を降ろしていた理想主義的世界観に思い到った。もう一つ私が探り直すための指針となったのはグラムシの追求だった。彼はフランス革命からパリ・コミューンまでの八〇年間を一つの歴史的文脈としてとらえている。フランス革命なくしてパリ・コミューンはなかったのである。そうしてパリ・コミューンはフランス革命の仕上げだった。


私の昭和思想史五七)松江 澄  新時代 1983.9.15  第250

 

マルクスと「マルクス主義」

社会主義体制の総崩れなかで、スターリン・レーニンはもとより、マルクスまで含めてすべてがあやまりだったという風潮さえ広まっている。たしかに今まで社会主義論を形成してきたのは「マルクス主義」「レーニン主義」あるいは「マルクス・レーニン主義」と呼ばれてきたものであった。

 だが、かつてマルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と語ったことがあるし、レーニンもただの一度も自らの追求を「レーニン主義」と呼んだことはない。彼らは「主義」ということばで「思想のカン詰」をつくることが誰よりもきらいだった。

 こうした「主義」をつくりあげたのはスターリンとその亜流に外ならなかった。彼らはそうすることによって多くの活動家がその重要な知的探求と実践的な勇気に深い信頼を寄せていたマルクスやレーニンの名を借りて自らの体系を広めることで、ヘゲモニーをつくり上げたのである。それは、まさに「スターリン」主義だったのである。

 その教科書にされたのがスターリンの「レーニン主義の基礎」であった。一九二四年に発表されたこの書はまたたく間に世界革命運動の教科書となった。私も戦後日共に入ってこの書を読み、簡潔にマルクスとレーニンのエッセンスを定式化した小さくて薄い本が座右の書となった。

 当時党機関からの命令で私は若い学生、青年党員たちにこの書をテキストに講義させられたこともあった。いま思えばまことに汗顔の至りである。この講義をきいた人々のなかには、当時県東部の高校を卒業したばかりの若い棗田君(現在・亜紀書房社長)がいる。彼は時にその話を私にすることがある。

 たしかに当時マルクスやレーニンの原点もなかなか手に入らぬ頃、この書は「マルクス・レーニン主義」のバイブルのようなものであった。今ふり返ってみると、あの書に代表される歯切れのよい裁断的な叙述が若いものの魅力だったのだ。

 中野重治がかつて「レーニンの素人の読み方」のなかで、レーニンの文章は「農民的」だがスターリンの文章は「工業的」だと名づけたことがあったが、まさにそれは機械のように「正確」で小気味がよいほど早分かりするとこにこそ落とし穴があったのである。

 ここ始まって四〇年近く経ったころ、何べんもよんだはずの「共産党宣言」第二章の最後の文、「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件となる。」という提起が私の眼を開かせた。

 

 時代によって変わるものと変わらぬもの

 

 どんなすぐれた人でもその生きた時代と場所によって制約されることはいうまでもない。後進資本主義国ドイツの人マルクス、帝国主義とはいえ皇帝も居れば農奴も居る後進帝国主義ロシアの人レーニンと、それぞれ時代と条件の制約はあるが、マルクスの資本論とレーニンの帝国主義論がいまなお原理的な意義を失うことはないと私は思っている。

 そうしていま求められているのはこうした基礎の上に戦後の大きく変化した情況のなかで、資本主義、独占資本主義はどのように発展し、変化したかを探求しなくてはなるまい。

 私がいまでも忘れることができないのは、若くして亡くなった内藤さんが東京に在るとき、会議の為に上京するたびに泊めてもらっていた大崎の家で、彼が幾度となく私のいいつづけたのは戦後帝国主義についての探求であった。そうしてそれは私への遺言となったのである。

 少しばかりは勉強しながらもまだその責を果たすことできぬ私にとって、彼の言葉はいつまでも私の頭の中で鳴りつづけている。そうして私の知るかぎり、マルクスもレーニンも死ぬまで立ちとどまる新しい探求に力をつくしている。

 それにつけても私が思いおこすのはロシア革命直後の「戦時共産主義」から「ネップ」へかけてのレーニンの探求である。この当時の主要な著作ともいうべき「食糧税について」(レーニン)を読むと、「戦時共産主義」という革命的過渡期を早く終わらせるとともに「市場経済」を主要な経済的ウクラードとしつつも、やがて転換しなければならない社会主義建設への移行がいつ始められるべきか、その速度と長期展望は、という諸問題については少しもふれていない。

 いやそれどころか「ネップ」をいつまで続けるかについてさえ、あまり明確な展望を出していない。そこにはレーニンの困惑と躊躇さえ感じるのは私のひが眼であろうか。

 やがてレーニンが銃弾がもとになった病に倒れるや否やスターリンは国有化・計画化に突入する。それは富農の殲滅と強引なコルホーズの建設、有無をいわせぬ徹底した計画化による重工業建設だったのである。

 ゴルバチョフは「ネップ」の再導入を提起し、ほとんどの指導者たちは「市場経済」を叫びながら、彼らは過去の「ネップ」から「計画経済」へ移る時期の対応について一度でも歴史的総括をしたことがあるだろうか。ただゆき当りばったりで右往左往するばかりではないのか。

 今のロシア経済を「疑似資本主義」と呼ぶ人もあるが、何れにしても特効薬はないはずである。いつまでもつづく「国家=軍事企業団」グループと「民主主義」グループとの綱引きからは何も生まれぬ。(つづく)


私の昭和思想史(五八) 松江 澄  新時代 1993.10.15 第251

 私と天皇あるいは天皇制

 私が戦後追求してきた社会主義に次いで、いや対照的にその本質と権威の源泉を探りつづけてきた天皇ないし天皇制の総括が是非とも必要である。だがしかし社会主義論も天皇制論もそれぞれが重大な問題であり、この小文でつくせるものではない。何れ私なりにまとめたいと思っているが、七四歳ともなればそれが果たして仕上げられるかどうかわからぬ。この昭和史が終わりに近づくに当たって、社会主義論とあわせて天皇制との格闘を思い返してみる必要があると思ったので若干の提起をしておきたいと思う。

つい先日、私は出版されたばかりの「学徒出陣」(「わだつみ」会編・岩波書店)を買ってきて、安川名古屋大学教授の「教育史の中での十五年戦争と学徒出陣」を読んだ。そこにはまず一九一一年から一九二六年までに生まれた人々の戦中における思想世代についての時期区分の分析があった。

 その区分によればa一九一一〜一九一九年(マルクス主義思想残光期)b一九二〇〜一九二二年(自由主義思想残光期)c一九二三年〜一九二五年(自由主義思想消滅期)d一九二六年以降(軍国主義思想純粋培養期)ということであった。「マルクス主義思想残光期」と短い「自由主義思想残光期」とが密接に結び合いつつすぐに消滅期に連なっているのが、いかにも日本的特徴のように思える。「自由」が革命と反動の合間に辛うじて息ついているのだ。

 この分類は多少の批判はあるもののおおむね当たっているように思う。但し一九一九年生まれだが奥手の私は一高入学前後にごく一部のマルクス主義文献を読んだがよく分からず、「残光」にさえ浴しなかった。ふり返って見ると「a世代」はもう少し前まで含めて戦後私が尊敬し指導を受けてきた先輩たちの世代である。そうして私はと云えばbの「自由主義思想残光期」に属すると云った方がよいと思う。私が一高時代むさぼるように読んだ思想・文学と当時の私たちの生活は今にして思えばまさに自由と自立が一定の範囲で残された最後の時期であった。その意味で短いbの時期は私にとってちょうど一高の三年間であった。

 そうしてこの世代区分はほぼ天皇感の推移とも重なるのではなかろうか。a世代と少し前の先輩たちは高校時代から大学にかけて非合法活動で天皇制打倒を闘っていた。しかしこの時代の終わりになるとそれもできなくなっていた。私たちの高校時代には社会科学研究会ですら禁止されていた。わずかに来校した「ヒットラー・ユーゲント」を罵倒して追い出したり、寮を警察官講習に貸すのを代議員会で拒否したり、教練に草履をはいて出ることで軍事に抵抗するのがせきの山だった。それは青年の衒いでもあった。

 天皇制とは何であったか

 この課題について云えば、西欧政治学の成果を駆使しつつ日本的特殊に挑んだ丸山真男、藤田省三らとともに、それにあきたらず天皇制に内包される日本的暗部に内側から光を当てようと追求した神島二朗や橋川文三らの業績もきわめて重要だと思う。

 神島は年は私より一つ上なのに一高では私より一年下らしく、たっぷり高校時代を享受している内に学徒兵としてフイリピンに派遣されて生死の境をさまよい、ようやく生きて帰ってからは再び学究として「近代日本の精神構造」に全力を注いだ。彼は敗戦による「憤りと屈辱」のなかでやがて天皇の「無倫理性」をはっきり見て、もはや「民族の良心」はそこにはないと、自らの内心の痛みをもって認識したという。こうして彼は「自らの償い」として、「天皇制ファシズムと庶民意識の問題」を追求する。

 また橋川は中学と高校を通じて私より二年下で、よく知っている仲である。彼が若くして亡くなる少し前、神田の駿河台で久しぶりバッタリ会った。彼は弟が日本製鋼所広島工場で働いて日鋼争議の時お世話になったと云いながらぜひ一度ゆっくり話したいといった。私も橋川の探求も知りその書も読んでいたし、彼の研究に惹かれるものがあったのぜひ会おうと約束した。だがその約束を果たさぬうちに彼は亡くなり、私は会えなかったことを悔やんだ。私は人間的にも彼が好きだったし、ほんとうにその早世が惜しまれる。

 思えば二人共私とともに正に「自由主義思想残光期」に青年学生時代をすごしながら学兵として出陣し、敗戦によって過去の償いとしてそれぞれの追求に没頭したのだった。それはひとたび「自由」と出会いながら、瞬く間にその「自由」を失った者だけが知る悲しみと怒りから探求が始まっているのだった。戦後マルクスを学びつつ追求をつづけてきた多くの人々の思想的経路は多様である。私の場合はどうしても越えなければならなかったハードルは「自由」であった。私はその「自由」をつきつめた社会こそ社会主義社会だと思った。

だが日共の中には真理探求の自由はなかったことで分岐の決意を固めたのは一九六一年であったし、訪れる度に失望する現存社会主義とようやく思想的な分岐ができたのは、八三年であった。その後の社会主義崩壊による立証は私にとっては苦い思い出となった。いったい私の生涯をかけた思想的実践的追求にとって戦後五〇年は何であったのか。それはまた私の青春期以来の未知数の問題でもあったのだ。(つづく)


私の昭和思想史(五九) 松江澄 新時代1993.11.15 第252

「天皇制」と三度の出会い

 私が最初に出会ったのはもちろん日本の天皇制である。この絶対主義は私の幼年から学生兵に至る二〇年間、すでに書いたように何らかの形で私の精神生活にかかわっている。ところが、戦後どう変わったのであろうか。それは日本人自らが一五年戦争の総括と決着を通じて改革したものではない。占領米軍(アメリカ政府)と天皇を中心とした宮廷、政財界の有力者を含む取巻きとの談合・取引によって、かつての神権天皇制は象徴天皇制に変わった。

 しかし私が重視するのは天皇制の形態ではない。天皇制に含まれる政治的実権やその支配形態は変わっても、変わらぬものはその天皇ないし天皇制が人々の内面に浸透する精神的支配である。それは決して外からの強制ではなく、国民一人一人の「自主的」内心から魂を抜き取り、精神的な「私」を奪い去るカリスマとしての天皇である。それは明治の天皇再建に当たって西郷や木戸をはじめとした重臣たちがもっとも腐心したところであった。

 徳川権力がかつての勢力を失う時、新しい近代日本国家の大黒柱はかつての軽輩士族であった明治の元勲たちには無い、先験的で国民的な信仰を誘うことのできる新しく古い権威でなければならなかったのである。

 彼らにとって重要なことは、天皇といえば泣く子もだまるだけでなく批判的な者でも「触さわらぬ神に祟りなし」と避けてとおる神々しい偶像をつくり上げることであった。

 かくして若い酒好きな青年陸仁を、東北の荒地に馬車で引き廻すことから鍛え上げた彼らの努力は報われた。明治天皇が病気だということで両国の火花を禁止したことをきびしく批判した夏目漱石にして、その死を聞くや「明治は終わった」と嘆声をあげさせる創世記の天皇であった。それは大正を経て昭和に至り、自由を求める私の心に陰影を投じた。

 私の二番目に出会ったそれは戦後進んで身を投じた日共における天皇制であった。そこでは党中央の幹部たちは「マルクス・レーニン主義」の名の下に一枚岩という擬制によって自由な個を内面から奪い取り、指導者のことばが真理であるような錯覚を組織するのであった。彼らにとって最後の決め手は、党中央への反逆は「反革命」だということにあった。それはあえて苦難も道を選んだ献身的で誠実な党員たちに、恐れを抱かせることによって、服従を強いるものであった。それは第三番目に出会ったソ連と相似形であった。

 私は戦前のトハチェフスキー元帥から戦後のチェコ事件に至る被処刑者の心情を思う。誤った処刑を「革命のために」あえて甘受するという恐るべきことが生まれたのだ。だがどうして彼らを責めることができようか。そこにあるのは「神」の如き清純無垢の精神である。それだけにそうした心を逆用した支配者を私は心から憎む。それは人外の精神的搾取者である。

「国家」から「社会」へ

 封建社会は経済の発展とともにやがて近代的な統一国家を形成する。しかしそれはやがてまたその国家の壁を内側から破って新しい社会を目指す。社会―国家―社会という弁証法的発展によって新しい社会が世界に向かって開く。従って私は「一国社会主義」論はそれが完結的であることによって「偽造」国家でしかないと思う。しかしスターリンは「レーニン主義の諸問題」の中で、社会主義が発展するほど、国家は強化されなければならないと説いた。これはマルクス=レーニンによる国家死滅論の逆転である。ここに「スターリン主義」のもっとも本質的な誤りがある。

 こうしてソ連社会では国家がすべてに優越して、個はその前にひざまづかされることを私は訪ソするたびに知ることができた。それは一八〇度違うはずの戦時中の日本国家とどこか似ていた。彼ら一人一人は底抜けにお人好しで差別がなく、美しい魚でウオッカを飲むことを無上の喜びとする開け広げの正直な人々なのに、党=国家にかかわることになると辺りを見回しおずおずとたじろいで口を閉ざす。まさに社会主義国家は国家社会主義に転化したのだった。

 日本でもまだ近代統一国家が完成されず半国家の過程にあった明治一〇年代から二〇年代にかけて、自由民権運動に徹した人々や幸徳秋水など先覚的な思想家たちの何と大らかで自由なことか。それがやがて明治国家と完成したあとで幸徳らは無罪の大逆罪で処刑される。ようやく創り上げた国家にとって、自由な「個」は獅子身中の虫であり、憎むべき仇敵なのである。明治ナショナリズムから大正デモクラシーの弾圧に次いで、侵略戦争の一五年ののち敗戦を迎えるが、国家は滅亡せず平然として生き続けて今日に至る。その機軸は「神権」から「象徴」天皇へと変わったが、多くの国民の心底には何となく依然として昔の天皇が生き続けている。

 私は七四才の今日までその中に生きてきた日本資本主義国家においても、戦後半世紀に近く追求してきた社会主義国家に対しても、人々の心中に侵入して自立・自由の「個」の壁を食い破る精神的な破壊者と、時に隠然と、時に公然と対立した。結局、国家と正面から対立して個と自由の旗を高々と掲げることからこそ、新しい社会をめざす闘いは始まる。私の目指すところは唯一つ、社会から国家でなく、国家から社会への道である。


私の昭和思想史(六〇)  松江澄 新時代 1994.1.15 第253

 終わるに当たって

 今回でこの稿も終わりになる。書き始めたのがちょうど今から五年前、私が六九才の時だった。京都の若い友人たちが編集発行する「労研通信」に一九八八年六月号から寄稿したことで始まった。その通信誌が二年半後残念ながら廃刊になったので、一九九一年四月から私たちの機関紙『労働者』にひきついでもらうことになった。翌年機関紙の題名は『新時代』と改められ、一九九二年二月号以来引き続いて連載。今日に至った。結局五年間六〇回に亘って書き続け、四〇〇字詰原稿用紙で約六五〇枚ばかりになった。

 それは私の生まれた頃から今日の七四才までの生涯の記録であり、戦前の二六年間と戦後の四八年間を含んでいる。大正の中期に生まれて小学校六年に「満州事変」、中学校卒業の年に日中全面戦争、高等学校卒業の年に太平洋戦争が始まり、大学在学中に徴兵猶予が取り消され学徒兵として入営して敗戦まで軍中に在った。こうして戦前は物心つく頃から血生臭い戦争の中で育ったことになる。高等学校までは何とか「自由」の残り宰が私の心と身体の中でふくらのも束の間、大学では戦争の渦中に投ぜられ多くの学友、戦友を失いながら一命を永らえた。だが敗戦で広島へ帰れば原爆で焦土と化した故郷で兄と多くの親戚知人を失い、やがて母は二年後原爆症で亡くなり同じように被爆した父も七〇才を超えて老い、無傷で生き残ったのは私だけだった。こうして私の進むべき道は唯一つ、迷わず労働運動、反戦反核運動から革命運動へと進み入った。

 だが私にとって何故か戦後を短く感じるのはどいうわけだろうか。今にして思えば、戦前はさまざまな社会現象にまだ受身の若い世代であり、心中に葛藤を覚えたのが高等学校から大学にかけての頃だった。軍隊に至ってはその間わずかに一年一〇ヶ月なのに、何と長く感じたことか。それにひきかえ戦後を短く感じるのは、戦後の混迷のなかから運動にかかわってきたために、社会的現実に直面してそのすべてに正面から主体的にかかわろうとしたからではないか。そこではいつも時間の短さを嘆息したものだった。いま一九四五年から今日までの四八年間を振り返れば、それは一日として同じ日はなく走馬灯のように転回する時代であった。

 私は四八年に日共に入党したが五〇年には「コミンフォルム批判」で分裂して国際派に投じ、五二年には復党しながらやがて第七回大会の綱領をめぐって宮本らと対立して排除され、離党して社会主義革新運動の創設に参加した。その後「総結集」で共産主義労働者党の創立にかかわったが六九年にはいいだ君たちと対立して分岐し、七五年には労働者党創設に参加した。八〇年には若い諸君と合流して統一労働者党を結成したが現存社会主義をめぐって意見を異にして分岐が生まれ、九二年には新・民主主義連合に再結集して今日に至った。それは戦後共産主義運動の波乱に満ちた模索の一環であり、長くて短い闘いと自省との厳しい道程であった。

 しかしそれはまた一九一九年生まれの一人の人間が戦中、戦後を生きてきたなかでの一つの道程であった。そこには哲学や思想や理論だけでなく、一人の人間が生き続けてきた生身の生涯の思いがある。それを痛感したのは「三〇代が読んだ『わだつみ』」(堀切和雄・築地書館)という一冊の書を見てのことであった。私も「わだつみ」の一人としての思いもあるがこの書を読んで憤然とした。そこには三〇代の若いがたしかに彼等より年の若い「わだつみ」族の死を前にした決別の書に、当惑しながらもひたむきにその心底に迫ろうとする努力と追求のありのままが書かれていた。

 あの『わだつみ』(岩波書店)の書の中には私の高校時代の学友もいる。それだけに私と同じ七〇才を越えた同時代人としてしか見えなかったし、その文は私の青春と同じ時代の文としか思えなかったのだ。しかしそれは私の錯覚であった。彼は死に、私は現に生きている。私は七四才だが彼等はいつまでも二二才であり二五才なのだ。それを読んだ三〇代の青年が彼等より若い人々の死を前にした心情に肉薄しようとした。そうして彼はそれを自らの肉身にひきつけてつかもうとしている。彼は、「過ぎ去った悲劇と定まらぬ未来との間に通路がひらかれる。彼等の死を賭けた経験がわれわれの進路を照らす。それがいま『わだつみのこえ』を読むことの意味なのだ。」と。

 私はE・カーの「歴史とは何か」を思い出した。彼は、歴史とは過去と現在との対話であり、過去を主体的に把握することによってのみ未来の展望をひらくことができる、という。その通りなのだ。あの死んでいった学友や戦友たちは私と同じ年齢ではなく、いまの若い人たちと同じ青年なのだ。そうしてその若い身で死に直面したのだ。それを今の若い青年がまともにふりかえりながら自分たちの生きるかてにしようとしている。それは私にとって初めて知る驚きであった。そうしてそれは戦後私たちがたどった道についても同じことが云えるのではないか。

 次から次ぎへと私たちを通利越してゆく若い人々は私たちの若い頃を自分たちと同じも目線で見ながら何かを学ぼうとしている。そこから私はいま、逆に学ぼうとしている。(終わり)

 


 

一九九二年八月五日午後二時より、広島市県民文化センターで反戦反核広島集会が開かれた。

『今、ヒロシマが問われる―アジア民衆の連帯で出すな軍隊
!入れるなプルトニュウム!』という横断幕を掲げた会場で、実行委員会代表の松江澄氏は、つぎのように挨拶した。

「米ソ核戦争の危機はなくなりましたが、民族紛争が世界中に拡がる中で、紛争の抑止という口実で、先進国が発展途上諸国の内政に力で干渉する傾向が強まっています。日本でも、敗戦四七年後の今、『海外派兵禁止』の国会決議も、『集団安全保障不参加』の政府確認を踏みにじり、PKOの名の下に再び軍隊が海外に派兵されようとしてます。

 しかもこの秋には全世界が疑惑の眼で見守る中でフランスからプルトニュウムの還送が開始され、数年経てば日本は世界有数のプルトニュウム大国になるといわれてます。フランス、アメリカなどがプルトニュウム増殖炉から撤退しょうとしているときに、いまなぜ危険きわまるプルトニュウム原発なのか。私たちは、このプルトニュウムが何に使われようが、ヒロシマの名の下にその入国をあくまで拒否します。」


加害と被害の二重の苦しみ

 広島で「生物・科学兵器を考える」全国シンポを開催

  松江 澄  

                           「労働者」1993.2.15 第243

 この度、全国シンポジュウム「ヒロシマからの生物・化学兵器を考える」が広島で開かれることになった。

 この催しを企画しながら事務局として準備してきたのは広島在住の若いジャーナリストと市民活動家であった。その契機になったのは、この一月かねてジュネーブでの軍縮会議以来検討されていた生物・化学兵器禁止条約がついに各国によって調印されたことに因んでいる。しかし東京から専門の学者を迎えて「ヒロシマ」で開くことには重要な意味がある。

 広島では誰でも知っているように世界に最初に原爆の犠牲になった都市であり、年老いた被爆者はいまなお原爆病と闘いつづけ若い二世たちは身内に潜む原爆と対決しなければならない。そこに広島と長崎から反核運動が生まれた理由がある。

 しかし一〇年ばかり前から指摘されてきたのは、その被爆による被害アピールだけでよいのか、広島は軍都としてかつて大陸侵略の出港基地だったではないか、という声である。

 私たちが九年前初めて開いた八・五集会で、「一九四五年八月六日」を歴史から抜き出すのではなく歴史に還そう、一五年戦争の歴史の中から軍都ヒロシマをふり返ろうと呼びかけたのもその故であった。

 しかしその広島県の広島市から一時間ばかりの忠海町の沖に地図から消されていた大久野島の工場の中で、中国戦線などで使用されていた「毒ガス」が作られていたのだった。それは「七三一部隊」とも関係があったとも言われている。

 徴用動員で当時十七〜十九才の若者がこの工場で働かされ、生涯かけて闘わなければならない業病にとりつかれていることを、私が知ったのは、一九六六年十二月初めて集まった彼らの集会のときだった。私は彼らの憤りに動かされ、彼らとともに国と闘って、後にようやく「被爆者並み」の措置を手にすることができた。

 だが当時まだこの武器がどこでどのように使われていたかは分かっていなかった。私たちの運動は「毒ガス禁止」をかかげながらも主要には原爆の場合と同じように毒ガスの被害者としての闘いだった。

 しかし今日すでに明らかになったことはその毒ガスが中国国内で多くの人民を苦しめながら虐殺していたという事実であった。その毒ガス兵器がやがて原爆と同じように非人道的な加害以外の何者でもない。ここに広島のもっている加害と被害の二重構造がある。それは何れも十五年に亘る侵略戦争から生まれたものなのだ。私達は改めて広島の加害をつきつけられたのである。

 そこにはこの度のシンポジュウムが広島で開かれる重要な意味があると私は思う。しかしそれは広島だけではの問題ではない。それは広島に象徴的に集約された日本そのものに外ならないのである。

 日時・会場一月三十日(土)午後一時三〇分〜五時三〇分 広島教育会館


新しい革命と新しい党1   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第54号 S4941

目次

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

二.ロシア革命の特殊な条件

三.ヨーロッパ革命について

 

現代先進国についての「新しい革命と新しい党」の追求がはじまってから、すでに久しい。私自身この中に投げ入れられてからも、すでに十二年たった。しかしわれわれがやりとげたものは余りのも少なく、主としていえば失敗の連続であったかも知れない。われわれの運動がはじまってからでも、日本的構改論、世界革命論など多くの革命論の影響を受け、また受けなかった。さらに七〇年代に入ってからからは、こうした「理論」以上に多くの事実と闘争の渦中に、あるいはその外にあった。

 考えてみると、われわれはまだ何ほどのこともやり得ていない。しかし事実は毎日毎日進行しつつあり、その中でわれわれは何かをおこなっている。しかし重要なことは、その何かが今日の革命とどうかかわっているのか、いないのかということである。それはいわゆる革命的な「根性」がなければできないが、また「根性」だけでもできないものであろう。もしマルクス主義者であろうとすれば、今後、革命にとって何が起きるのか、何をしなければならないのか、われわれの活動とどこでどう結びついているのか、を探求しなければならぬ。そこで私は、自分の模索しているものを思いきって提起し、集団的な検討の素材としたい。いわば私の先進国革命論についての「ノート」でしかないが、何かの役に立つ「ノート」でありたい。それは始めて共産主義運動に参加して以来、理論的というより肉体的に私の中に入りこんでいた――の再検討と、不勉強な私にとってはじめてといってよいマルクス主義の創始者と先覚者たちの古典を「自由」に追求しなおすことからはじまっている。つづいてヨーロッパ共産党の若干の諸テ−ゼ――これもまた、いわば先験的に私の中に定着していた――を事実の発展からみなおすという作業が必要であった。そうして最後に、私に多くの影響を与えていた、いわゆる構造改革論あるいは反独占民主改革について、もう一度疑ってみる必要があった。こうした追求は決して単なる「理論」的関心からではなく、事実と運動から求められているのである。

 これはいわば私のメモにすぎない。大きな山の一角にやっととりついた今、今まで追求してきたものよりはるかに多くの、そして大きな課題が私とわれわれを待っている。しかし、それがどんなに困難であろうとも、われわれはみきわめなればなるまい。

 

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

 ここ数年来、世界革命と一国革命の問題が改めて討論の爼上にのぼっているのは、理由がないわけではない。それは一つには、かねてから問題になっていたスターリンの「一国社会主義革命」論に関する定式化の批判からであり、他の一つは、今日ほど世界が「縮小」され、一つの国の経済的、政治的危機がすばやく他の諸国に伝播し、地球の一部でおきた闘いが、多かれ少なかれその全面に影響をおよぼすような時代は、かつてなかったからである。これは二つであって実は一つの問題である。

 スターリンは次のように定式化している。

 「以前には、一国における革命の勝利は不可避だとみなされ、ブルジョアジーに勝利するためにはすべての先進国の、すくなくとも大多数の先進国のプロレタリアがいっしょに行動することが必要だと考えられていた。いまでは、この見地はもはや現実にそわなくなっている。いまでは、このような勝利が可能であるということから出発しなければならない。」なぜなら、定国主義の情勢のもとでの種々の資本主義国の発展の不均等で飛躍的な性格、不可避的な戦争をまたらす帝国主義内部の破局的な矛盾の発展、世界のすべての国における革命運動の成長――こうしたことはみな、個々の国におけるプロレタリアートの勝利が、可能であるばかりでなく必然的でもあるという結果をもたらすからである。ロシア革命の歴史は、それを直接に証明している。」(1)

 ここでスターリンが、「以前には一国における革命の勝利は不可能だとみなされ」ていたと指摘しているのは、エンゲルスが「共産主義の原理」の中で、「大工業は、文明諸国における社会の発展を、すぐに均等にしてしまっている」から、「共産主義革命はけっして一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで同時に起こる革命となるであろう」(2)といつていること、また「共産党宣言」の中の、「すくなくとも文明諸国の共同行動が、プロレタリートの解放の第一条件のひとつである」とのべていることを指していると思われる。またそれに対して、「一国社会主義革命の勝利」の可能性と必然性を主張している根拠が、レーニンの「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」「プロレタリア革命の軍事綱領」等の中でのべられている有名な定式であることも周知の事実である。とくにレーニンは、「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(一九一五年)では、「経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である」から「社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である。」(3)とのべているが、翌年かかれた「プロレタリア革命の軍事綱領」(一九一六年)では、このテーゼをさらに発展させて、「社会主義はすべての国で同時に勝利することはできない。」(4)と断定している。このような「可能性」から「必然性」への発展の根拠と理論について、レーニンのくわしい説明をきくことはできないが、これはその限りではスターリンがいうようにマルクス主義革命理論の新しい発展である。

 ところが上田耕一郎は、このままではスターリン理論を是認することになって困るとでも思ったのか、何とかしてマルクス・エンゲルスとレーニンの間をとりもとうとして一生懸命である。上田は、「一国社会主義革命の勝利」ということばの「多義性」を文献学的に展開しながら、「」スターリンが引用した『原理』の当該箇所のなかでさえエンゲルスは、一方では『文明諸国における社会発展』の『均等』を指摘しながらも他方では、『この革命が』工業、生産力の発達の水準などそれぞれの国の条件にしたがって、『急激に、あるいは緩慢に発展するだろう』とのべ、革命の発展の不均等性をも指摘している。」(5)という。たしかにマルクスは上田も引用するように、「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容上ではないが、形式上ははじめは一国である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアジーをかたずけなければならない。」(6)としてきしている。またマルクスはこのことに関して、「一般に、労働者階級が闘争できるためには自国内で自己を階級として組織しなければならないこと、自国が彼らの直接の闘争の舞台である。」(7)ともいっている。新しい左翼セクト諸君のいわゆる「世界革命論」のまちがいは、ことばではなく実際に、開始される革命の国民的な「形式」まで否定し、他国の「舞台」にばかり熱中して、労働者階級が「自国内で自己を階級として組織しなければならないこと」を忘れているばかりではない。彼らは「内容」上も、各国革命を世界革命という本質が展開する現象形態としてとらえることによって、初期マルクスを通り越してヘーゲルの観念弁証法にまで逆戻りしている点にある。

 マルクス・エンゲルスは、ヨーロッパの革命が国民的な革命として開始されながら、世界革命としてのみ発展しうるという意味で「同時革命」という規定をあたえている。しかしマルクスの射程の中にあった革命的世界は、先進的なヨーロッパ――イギリス、アメリカ、(ヨーロッパ世界の一員――筆者)、フランス、ドイツだったのだ。そこでは革命的な発端は不均等でも、経済恐慌――当時これがヨーロッパ革命の基盤であるとみなされていた――の連鎖の中で、不可避的に、すぐにでも、西ヨーロッパ諸国を革命のうずまきにまきこむと考えられていたとしても不思議ではない。その場合でさえ、時間的に完全な「同時」の革命などあるはずがない。したがって上田が鬼の首でもとったように引用する、各国革命が「『急激』にあるいは『緩慢』に発展する」ことは至極あたりまえのことであって、それによってマルクスとレーニンのいう「不均等性」の一致が証明されるものではない。いやそれどころか、上田のいうようことによってレーニンのいう「革命の不均等性」の意義が弱められ、不当に引き下げられるのだ。

 レーニンが指摘しているのは、マルクスやエンゲルスがいっているような「不均等性」ではない。それは単なる経済的な発展の不均等さが自動的にもたらすような「不均等性」ではなく、それは一国で権力の奪取が可能になるほどの「不均等性」なのである。上田は、スターリンが「資本主義の発展の不均等の法則の意義を事実上、政治的には帝国主義時代とだけむすびつけようとする傾向をうみだした」と非難するが、正に帝国主義時代にこそ資本主義の不均等発展の法則は、その経済的外皮をやぶって革命の不均等な発展の必然性としてあらわれる。それは帝国主義が、資本主義の自由主義時代と異なり、上部構造としての民主主義」が「政治反動」に転換し、一方では各国の経済的障壁をますますつき崩して世界的な発展をとげながらも、他方政治的には、強固な国境の防壁をきずき、自国民をますますその中に囲い込むさまざまな手段をつくりだすからである。そこにこそ革命の不均等発展の可能性だけでなく、その必然性があり、またそこにこそマルクスの生きた時代とレーニンの闘った時代の相違がある。革命の契機は、マルクスの予感した世界経済恐慌による「同時性」から、(帝国主義政治の延長)による「不均等性に移行したのである。

 しかし、マルクスもレーニンも、社会主義革命の勝利のためには、国際革命――とくに先進的西ヨーロッパの革命――が不可欠であると考える点では完全に一致していた。その意味では、レーニンもまたマルクス・エンゲルスに劣らず世界革命論者であった。レーニンは後年、「共産主義インターナショナル第三回大会」(一九二一年)で、改めて次のように語っている。

 「当時われわれが国際革命を開始したとき、われわれがそうしたのは、国際革命の先鞭を付けることができると信じたからではなく、幾多の事情のため、この革命を開始せざるをえなかったからである。われわれは次のように考えた。あるいは国際革命がわれわれを応援してくれるか――そのときにはわれわれの勝利は完全に保障される――あるいはそうではなくて、敗北したばあいには、それでもやはりわれわれは革命の事業に奉仕することになるし、われわれの経験は他の国々の革命の役にたつであろうという意識をもって、われわれのささやかな革命活動をはたそうと。国際的な世界革命の支援がなければ、プロレタリア革命は勝利できないといことは、われわれには明らかであった。革命前にも、また革命後にも、われわれはつぎのように考えていた。資本主義的に、いっそう発展した他の国々に、いますぐにか、そうでもないまでも、すくなくともきわめて早急に、革命がおこるであろう。もしおこらないなら、われわれはほろびるにちがいないと。このように意識していたにもかかわらず、われわれは、あらゆる状況のもとで、なにがなんでもソビエト制度を維持するためにすべてのことをした。というのは、われわれは自分自身のために活動しているだけでなく、国際革命のためにも活動しているのだということを、われわれはしっていたからであり。」(8)

 運動はレーニンの予想したように一直線にはすすまず、期待した西ヨーロッパの革命はおきなかった。こうして国際革命の発端としてはじまり、社会主義革命の前衛となったロシア革命は、単独のままでプロレタリア権力の維持と社会主義の建設にすすまなければならなかった。その意味での「一国社会主義革命」は、スターリンが定式化したように、けっして「理論」からでなく、事実と事情からして余儀なくされたものであり、歴史によって「強制」されたものであった。

 結局スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論を定式化したことにあったのでもなく、また、マルクス・エンゲルスの世界革命論をレーニンが発展させたと定式化したことにあるのでもない。スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論――それはマルクス・エンゲルスの世界革命論の新しい発展であるが――を、事実上世界革命ときりはなした「一国社会主義革命」としてふるまったことにあり、とくに、歴史によって余儀なくされた「一国社会主義革命」をはじめから当然のことのように「理論」化し、プロレタリア独裁論の修正を合理化したことにある。そうしてその誤りは、ロシア革命のもつ特殊な条件を一般化することにより、コミンテルンを通じて世界各国の革命運動にたいしてかなり長い期間、悪い作用と影響をおよぼしたことである。したがって「一国社会主義革命」についての再検討は、ただスターリンにすべての罪をかぶせることですむものではない。sおれはスターリン理論を再批判しつつ、一国社会主義建設をよぎなくされた歴史的状況と、そうした歴史的状況の下で何をなすべきかを追求することにある。それはまた、最も近代的な生産手段を労働者階級の手中におさめることによって、、発達した生産力を基礎とした世界社会主義革命の勝利のために闘う先進国プロレタリアートと、その党に課せられた国際的任務とその自覚を抜きにしては、語ることはできないものである。

(註)

(1)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)四六頁。

(2)エンゲルス「共産主義の原理」(全集第四巻)三九二頁。

(3)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(全集第二一巻)三五二頁。

(4)レーニン「プロレタリア革命の軍事綱領」(全集第二三巻)八二頁。

(5)上田耕一郎「先進国革命論」(大月書店)一九頁。

(6)マルクス・エンゲルス「共産党宣言」(全集第四巻)四八六頁。

(7)マルクス「ドイツ労働者党綱領評注」(全集第一九巻)二三頁。
(8)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」(全集第三二巻)五一一〜五一二頁。

 

二.ロシア革命の特殊な条件

 

「おくれた」ロシアの革命の特殊な条件を明らかにすることは、「進んだ」西ヨーロッパの革命と追求する上で重要な意義をもっている。それではロシア革命の特殊な条件とは何か。レーニン自身もそれを重視して、「プロレタリアートの独裁を実現し、ソビエト共和国を組織した、国が、ヨーロッパでもっともおくれた国の一つであったというようなことがどうしておこったのか?」(1)と問い、「どんなマルクス主義者での、総じて現代科学に通じているどんな人でも、『いろいろの資本主義国が均等に、あるいは調和と釣合いをたもって、プロレタリアートの独裁にうっていくことは、ありそうなことか?』と質問されたら、きっとそれはりそうもないと、こたえるであろう。資本主義の世界には均等も、調和も、釣合いも、かつてなかったし、またあり得なかった。どの国も資本主義と労働運動のなんらかの側面または特徴を、または一群の特質を、とくにきわだって発展させた。発展の過程は不均等にすすんだ。」(2)と答えている。しかし、マルクス主義の創始者たちも、ロシアにおける革命をまったく予想しなかったわけではない。

「共産党宣言」についてマルクスは、後年も、歴史的文献としてその基本的な正しさを再確認しながら、「宣言」ののべている具体的な事実と情勢については、すでに「時代おくれ」になっていることを、その後つけた各種の序文で明らかにしている。とくに一八八二年の「ロシア語版序文」では、新しい情勢の発展の中でのロシア革命の展望について次のように語っている。

「その当時(一八四八年一二月)プロレタリア運動がまだどんなにかぎられた地域にしかおよんでいなかったかは、宣伝の最後の章、さまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきり示している。つまり、そこには、ほからなる――ロシアと合衆国が欠けている。・・・・・・・(中略)

それが今ではなんという変りようだろう!(以下アメリカについての文章略)

それではロシアはどうか!一八四八――四九年の革命のときには、ヨーロッパ君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタリアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツァーリはヨーロッパの反動派の首領である、と宣言された。今日では、彼はガッチナで革命の捕虜となっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の捕虜となっている。

 ・・・・・(ロシアの「農民共同体」が直接的に共産主義的共同所有に移行できるか、を問いかけた後)

この問題にたいして、今日与えられることのできるただ一つの答は次のとおりである。もしロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有性は共産主義的発展の出発点となることができる。」(3)

ここでは、あり得べきロシア革命について語っているばかりでなく、ロシア革命と西ヨーロッパ革命との関係について、重要な指摘をしている。マルクス主義の創始者たちにとっては、すでに六〇年代以降からロシア革命はその射程に入っていたということができよう。しかしそのことは、マルクス・エンゲルスにあっても、決して予想どおりのできごとあったわけではない。何故ならばマルクスもエンゲルスも、基本的には、「産業ブルジョアジーの支配の下で産業プロレタリアートは、はじめて、自己の革命を国民的革命へとたかめることのできる広大な国民的存在」となること、したがって、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて、封建社会の物質的な根をひき抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなうことのできる基礎をならすのである。」(4)と考えていたからである。また、レーニンも、あらかじめすべてを見とうし、ロシア革命の必然性を予知した上で準備したわけではない。レーニン自身も、一九一七年――革命の年だ!――スイスで青年たちに、「われわれ老人は来るべき革命を見ることはできないが、諸君には可能である」と語っている。革命はいつもこのようにして、少なくとも、はじまるのだ。そこで、ロシア革命の特殊な条件と、はじまったプロレタリア権力が維持できた当時の特殊な情勢を明らかにする必要がる。

まず、はじまったばかりのロシア革命が、どうして維持できたかについて、レーニン自身が語るのを聞こう。それは同時にヨーッパ革命との関係を明らかにすることにもなる。

「われわれの若い友人のきわめて多くのものは、もっとも重要なことを、つまり、十月革命後の偉大な凱旋の数週間、数ヶ月間には、なぜわれわれは凱旋から凱旋へと、あのようにたやすくうつる可能性をえたかということをわすれはじめている。ところがそれがそうであったのは、ただ特異な国際的情況が一時われわれを、帝国主義から掩護したからであった。帝国主義はわれわれどころではなかった。われわれもまた帝国主義どころではないと、われわれにはおもわれた。だが、個々の帝国主義者たちがわれわれどころではなかったのは、ただ、今日の世界帝国主義の最大の社会的、政治的および軍事的な力全体が、この当時、内輪の戦争によって、二つのグループに分裂していたからにすぎなかった。この闘争にまきこまれた帝国主義的強盗どもは、信じられないほどの極端にはしり、死闘をやりだし、二つのグループのどちらも、ロシア革命にたいしていくらかでも重大な勢力を集中することができなかったのである。われわれは、十月には、ちょうどこのような時期に際会していた。わが国の革命はちょうどこの絶好の時期に――これは逆説的であるが正しい――、すなわち、前代未聞の災厄が、数百万の人間を絶滅させるという形で、大多数の帝国主義諸国にふりかかっていた時期に、戦争が未曾有の災厄によって諸国民をくるしめていた時期に、戦争の第四年目に交戦諸国が袋小路に、岐路にさしかかった時期に際会していたのである。わが国の革命が、この絶好の時期に、すなわち、二つの巨大な強盗グループのうちのどちらも、すぐには相手におそうかかることもできなければ、われわれとたたかうためにいっしょになることもできなかったこの時期に、際会していたからこそ――ヨーロッパ・ロシアで輝かしい凱旋行進をやり、フィンランドにとび、さらにカフカーズやルーマニアで闘いをはじめるために、わが国の革命は政治的および経済的国際関係のこの時期だけを、利用することができたし、また実際に利用したのである。」(5)

ここには、当時の国際情勢のなまなましい把握がある。そうして、長い歴史の中では必然的であるにせよ、少なくともその渦中では思いがけずあらわれてくる数々の歴史の偶然をすばやく見抜き、いちはやく利用したレーニンの天才がある。

それでは、ロシア革命――おくれたロシアのプロレタリア革命――を「はじめることはたやすかった」政治的理由は何であろうか。レーニンは、「私はすでに何度かつぎのように言ったことがある。ロシア人には、偉大なプロレタリア革命をはじめることは先進諸国に比べてたやすかったが、この革命をつづけ、社会主義社会の完全な組織化という意味での最後の勝利までやりとおす小とは、より困難であろう」と。その理由としてレーニンは、次の六点をあげている。

第一、「ツァーリ君主制が政治的に異常おくれていたため、大衆の革命的襲撃が異常な力をもった」こと。

第二、「ロシアのおくれていることが、ブルジョアジーにたいするプロレタリア革命と地主にたいする農民革命とを独特の形で融合させたからである」こと。

第三、一九〇五年の革命において、西欧のすすんだ社会主義の吸収とその行動で、「労働者、農民大衆の政治的訓練のために多くのことをなしとげた」こと。

第四、「地理的条件のおかげで、ロシアは、資本主義的先進国の軍事的優勢にたいして、ほかのくによりも長くもちこたえることができた」こと。

第五、「プロレタリアートと農民の独特の関係がブルジョア革命から社会主義革命にうつることを容易にした」こと。

第六、「ストライキ闘争という長期の学校とヨーロッパの大衆的労働運動の経験とが、深刻な、急速に激化していく革命的情勢のもとで、ソビエトのようなプロレタリア革命組織の独特の形態の発生を容易にした」こと。(6)

この中で、どくにロシア革命の特殊性を際立たせてものに、第二と第五の理由がある。

マルクスも、一八四八年フランスの「二月革命」を分析した「フランスにおける階級闘争」では、すでにふれたように、資本主義の発展によって「プロレタリアートが大多数となり、「広大な国民的存在」となることをプロレタリア革命の必須の前提としていた。したがって、「二月革命」当時は、プロレタリアートはパリをはじめいくつかの工業中心地でこそ主要な階級であったが、全国的には、「圧倒的多数の農民や少ブルジョアジーのあいだにまじって、ほとんどかげを没している」という状態のもとで、「プロレタリアートの闘いは革命の国民的内容となることはできなかった。」したがって、「パリのプロレタリアートが、自己の利益を、社会そのものの革命的利益として貫徹しようとしないで、それをブルジョア的利益とならんで貫徹しょうとつとめたこと、彼らが三色旗にゆずって赤旗をひきおろしたことほど、もっともまことはない。」(7)と。しかし、ロシアでは、正に赤旗が「三色旗に」ゆずらせたのだ、力と指導とで。それは急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という身曾有の災厄の中で併存していたという客観的条件と、すぐれて正確で大胆なレーニンとボルシェビキの戦術と行動とが、歴史上まれにみる特殊な結合をとげたことから生まれた。

そういう意味では、ロシア革命はグラムシのいうように、「事実よりもイデオロギーにささえられ」た革命であり、「『資本論』に反する革命」であった。それは、「西方型の文明がうちたてられるまでは、プロレタリアートの反抗や、階級的要求や革命については考えることさえできない、という宿命的必然性の批判的証明だった。だが事実はイデオロギーをのりそえた。史的唯物論の教条にしたがえば、ロシア史はその批判的図式の枠内で発展しなければならなかったであろうが、事実がその図式を粉砕してしまったのだ。」(8)そうしてそれはまたしたがって、少数派によってはじめられた革命でもあった。ローザ・ルクセンブルクがいうように、「道は、多数を通って革命的戦術へでなく、革命的戦術を通って多数へと通じて」(9)いたのである。

それにくらべてヨーロッパ革命はどうであったか。

(注)

(1)レーニン「第三インターナショナルとその歴史上の地位」(全集第二九巻)三〇五〜三〇六頁。

(2)同前。

(3)マルクス・エンゲルス「共産党宣言・一八八二年ロシア語版序文」(全集第四巻)五九二〜五九三頁。

(4)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一七頁。

(5)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)八六〜八七頁。

(6)同前。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一八頁。

(8)グラムシ「資本論に反対する革命」(選集第五巻)一四六頁。

(9)ロ−ザ・ルクセンブルク「ロシア革命論」(選集第四巻)二三五頁。

 

三.ヨーロッパ革命について

 

 マルクス主義の創始者たちやレーニンが、当時の先進国であるヨーロッパ革命について、どのように考えていたかを探求することは、今日の先進国革命にとって重要である。それは今日の先進国革命の歴史的な源流を明らかにするだけでなく、マルクス主義の先覚者たちが当時の先進国諸国の変革について、どんな方法で分析と追求をおこなっていたかを知ることができるからである。

レーニンは、ロシア革命の特殊性を明らかにする中で、その対照としてヨーロッパ先進国の革命について幾度もふれている。彼は、はじめることは「羽毛をもちあげるように」容易であったが、つづけけることはきわめて困難であったロシアにくらべて、「ドイツのように高度に発達した国、みごとに組織されたブルジョアジ−のいる国で革命がおこることは、おそろしく困難であるが、革命がヨーロッパの先進諸国で勃発し、燃えはじめてのちは、社会主義革命を勝利をもって完成することは、それだけいっそう容易であろう。」(1)といっている。またレーニンは、ヨーロッパ革命の過程についてくりかえし、「事件ははるかに複雑な形をとって、はるかに急速にすすむであろうし、転換はもっと複雑になるであろう」(2)と指摘している。そうして、ロシア革命の困難さを語るとともに、「いま必要なことは、革命を根本的に準備し、先進的な資本主義諸国における革命の具体的な発展をふかく研究することである。」ことを重視し、「第一には、プロレタリアートの多数者の獲得について。資本主義的に発展した国々でプロレタリアートが組織されていればいりほど、われわれがそれだけ根本的に革命を準備することを歴史は要求しており、そしてわれわれはそれだけ根本的に労働者階級の多数者を獲得しなければならない。第二には、工業的に発展した資本主義諸国における資本主義の主要な支柱は、正に労働者階級のうち第二および第二半インターナショナルに組織された部分である、ということである。」(3)と述べ、少なくとも権力獲得以前の多数者獲得を否定した一九一七年以前のロシアとは異なった戦術を提起している。また、レーニンは、「資本主義が発達し、最後の一人まで民主主義的文化と組織性が与えられている国では、準備もなしに革命をはじめることはまちがいであり、ばかげている。」(4)といい、ロシアにくらべて「西ヨーロッパの諸国では、革命をはじめるほうがむつかしいが、それは、文化の最高の思想が革命的プロレタリアートに対立していて、労働者階級が文化的な奴隷状態にあるからである。」(5)と、文化的、イデオロギー問題についての重要な指摘をおこなっている。

しかし、こうした諸問題は、レーニンがはじめて語ったわけではない。マルクス・エンゲルスもすでに早くから着目しているが、それはけっして最初からではなく、歴史の苦い教訓からであった。エンゲルスは、「フランスにおける階級闘争」の序文(一八九五年版)で、一八四八年の敗北にひきつづく闘争の期待が失われたのち、「革命期の第一局面が終わったこと、そして、新しい世界経済恐慌が勃発するまではなにごとも期待できないということを、すでに一八五〇年秋に声明したのだ」が、「歴史はわれわれの考えをまた誤りとし、当然のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露した。歴史はそれ以上のことをした。歴史はわれわれの当時の誤りを打ち破ったばかりでなく、プロレタリアートが闘争すべき条件をすっかり変革してしまった。一八四八年の闘争方法は、今日では、どの面でも時代おくれとなっている。」と述べ、その変化の内容をつぎのようにいっている。

「国民間の戦争の条件も変化したが、それに劣らず階級闘争の諸条件も変化した。奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った。社会組織の完全な改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっていryか、なんのために彼らは肉体と生命をささげて行動するかを、すでに理解していなければならない。このことこそ、最近五〇年の歴史がわれわれに教えてくれたのだ。だが、大衆が何をなすべきかを理解するために――そのためには、長いあいだの根気づよいしごとが必要である。して、この仕事をこそ、まさにいまわれわれがおこなっており、しかも、敵を絶望におとしいれるところの成功をおさめつつあるのだ。

 ・・・・・一般にいろいろの事情が反乱者の奇襲のためには、ドイツにくらべてはるかに有利であるが、そのフランスにおいてさえも、社会主義者は、あらかじめ人民の大多数を、すなわちこの国では農民を、獲得しないかぎりは、永続的な勝利はあり得ない、ということをますます悟っていきている。

・・・・・この勢いですすめれば、われわれは、今世紀の終わりまでには、社会の中間層、小ブルジョアや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他のすべての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。この成長を不断に進行させて、ついにはおのずから今日の統治制度の手におえないまでにすること、<この日々増強する強力(ゲバルト)部隊を前哨戦で消耗させないで、決戦の日まで無傷のまま保っておくこと>これがわれわれの主要任務である。」(6)

ここでエンゲルスが多数を獲得するために新たに発見した闘争手段の一つは、選挙と議会闘争である。しかし、こうした議会闘争でヨーロッパ最大のプロレタリア党隣、第二インターナショナルの頭目であったドイツ社会民主党も第一次大戦の前夜には、その議会主義のゆえに「祖国擁護」へと右旋回し、排外主義者と闘う革命的共産主義者はローザ・ルクセンブルク、カール・リーブネヒトらの少数派となって革命は敗北した。マルクス・エンゲルスは労働者の主体的な闘いの発展から経済恐慌という革命の客観的条件の洞察へ、またふたたび新しい階級闘争の条件の変化から労農同盟=多数派形成へと、自己批判をふくむ不断の追求をつづけ、ついに発見した新しい戦術と運動形態の発展もまた歴史によってほうむられた。しかし、すでに早くから探求され、提起され、実践され、また敗北した先進国革命の新しい試みは、われわれにどんなに多くの教訓と激励をあたえていることか。

ヨーロッパ先進国革命に関連してもう一つの重要なことは、世界革命ないし西ヨーロッパ革命と個々の国の革命との関係である。マルクスは当時の「イギリスはブルジョアジ的宇宙の造物主である」と規定して次のように指摘する。

「恐慌がまず最初に大陸に革命をひき起こすとしても、それらの革命の根源はやはり、いつもイギリスにある。ブルジョア的身体の末端部においては、その心臓部おけるよりも当然、よりはやく暴力的暴発が起こらざるをえない。それは心臓部においては末端部におけるよりも調整の可能性が大きいからである。他方では、大陸の諸革命のイギリスにおよぼす作用の度合いは、同時に、これらの革命がどの程度まで実際にブルジョア的生活関係をおよぼしているか、またはその革命がどの程度にその生活関係の政治的構造にふれているにすぎないかを示す寒暖時計でもある。」(7)

上田耕一郎は、「マルクスのこの文章は、世界帝国主義という鎖は、その強力な心臓部よりも、矛盾の集中した末端部の環における革命的爆発によって切断されるという、スターリンの「鎖の弱い環」の理論の基本的骨格を、すでに七五年前にあたえていたものというべきであろう。」(6)とのべている。しかし、果たしてそうであろうか。

当時イギリスは、レーニンも指摘しているように、「すでに一九世紀の半ばから、帝国主義のすくなくとも二つの最大の特徴が存在していたことにある。それは、(一)広大な植民地、(二)独占利潤(世界市場における独占的な地位の結果として)である。このどちらの点でも、イギリスは当時資本主義諸国のうちの例外であった。」(9)マルクスが見ていたのは、こうしたイギリスを中心とした経済恐慌と不可避的に結びついている大陸の革命であった。したがって「鎖の弱い環」理論をここから類推することはたしかに「大発見」かも知れぬが、実はまったくおかど違いである。

スターリンは、「革命はどこで始まるか、どこで、どの国で、資本の戦線を最初に突破するだろうか?」と問い、「資本の戦線は帝国主義の鎖か他よりも弱いところで断ちきられる」と断定し、「一九一七年には、帝国主義的戦線の鎖は、他の国々にくらべてロシアでは弱かった。だから、この鎖が断ち切られてプロレタリア革命のはけ口になったのは、そのロシアであった。」(10)という。ところが、スターリンはその同じ箇所で、「以前には、どれか一国の経済状態の見地から、プロレタリア革命の前提条件の分析をあつかうのが普通であった。だがいまではこのあつかいかたはもはや不十分である。」とくりかえしながら世界帝国主義戦線の「鎖の弱い環」を論じている。しかしマルクスは、まさにそれ「以前」に、「一国の経済状態の見地から」ではなく、イギリスを心臓部とする先進資本主義国の、うてば響くように密接な経済的関係にあった西ヨーロッパの資本主義戦線から語っているのだ。上田のいうことは、上昇期にあった当時のブルジョア世界と、「矛盾の結節点」をはらんだ帝国主義世界体制とを全く混乱していることになる。

その上、「鎖の弱い環」理論は、複雑な経済的、政治的関連を分かりやすい物理的表現でたとえるときに、いつでもおちいる単純化のあやまりを典型的に示しているばかりでなく、事実よりも「理論」から次の「環」を見つけ出すことによって教条主義となり、何よりも事実と状況のもつ思いがけない可能性と創造性を抹殺する。

もし、「心臓部」と「末端部」というならば、今日の帝国主義戦線では、――戦後一時期はアメリカが「心臓部」であったとしても――それぞれ相互の「心臓部」であるとともに、相互の「末端部」でもある。戦後、帝国主義の古典的植民地体制は崩壊し、新植民地体制への転換を余儀なくされたが、今またベトナムからアラブへと民族解放運動の新しい前進は、帝国主義的矛盾の転化を拒否しつつ、「政治的」独立から経済的独立へ、「形式」的解放から完全な解放へと、新しい歴史的局面をひらきつつある。それは否応なしに帝国主義そのものの矛盾を深め、帝国主義の経済的、政治的諸矛盾は先進資本主義諸国の諸「心臓部」へとその救心的な集積をいっそう早めるだろう。先進国革命の客観的条件は成熟しつつあり、世界革命はその輪を縮めつつある。それはますます「調整」機能の充実を要求しながら、反面その破綻を早め、ほころびをますます拡大うる。こうした「調整」と破綻の矛盾的展開は、それに対決して闘う先進国革命のダイナミズムとロシア革命が典型となった革命的イデオロギーのいっそうするどい鍛錬を要求している。

(注)

(1)レーニン「工場委員会モスクワ県議会での報告」(全集第七巻)五六四頁。

(2)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)一二八〜一二九頁。

(3)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」五一三頁。

(4)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)九四頁。

(5)レーニン「モスクワの労働組合と工場委員会との第四回協議会」(全集第二七巻)四七七頁。

(6)エンゲルス「フランスにおける階級闘争」序文(一八九五年版)(全集第七巻)五三三〜五三四頁。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)九四頁。

(8)上田前掲論文、三六頁。

(9)レーニン「帝国主義と社会主義の分裂」(全集第二二巻)一一九頁。

10)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)三六〜三七頁。

 

 

(以下次号)


新しい革命と新しい党(2)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第55号 S4951

 

目 次

(二)ヨーロッパ革命と各国共産党

一.フランスとイタリア

二.日本共産党の「道」

三.フランス「五月」とチリ革命

 

一.フランスとイタリア

 マルクス、レーニンの先進国革命についての再検討につづいて、その後のヨーロッパ先進国革命への道を探る上で、各国共産党の追求をあとづけることは、われわれの分析にとって必要な素材である。そこで、あえてコミンテルンの時期をあとまわしにして、まず今日の問題について検討しょう。このことに関して田口富久治は、「これらの諸国の中でとくに注目されるのは、イタリア、フランスそして日本の動向である」として、「いちじるしくナショナルナな個性を持っている」とともに、「相対的に強大な共産党が存在し、それが国政にたいして現実的な影響力を行使し、また行使しはじめている」という共通点があるので、「先進国革命の道が、さぐりあてられるべきであるとすれば、これら三国の労働運動、大衆運動と、それらとの関連においてそれぞれの労働者党の革命戦略を比較、検討してみることがまずもって必要とされよう」(1)という。そうして、三国の労働運動と共産党の革命戦略の比較分析のための項目として、二つの問題をあげている。その一つは、「政治情勢の転換と革命の移行過程の見通し」であり、二つには、「革命戦略の実現のための政治闘争の舞台として何が設定されているかということである」として、「当面の情勢を変えていくための三つの政治闘争の舞台として、国会、自治体、労働組合の統一闘争のレベル」が「作業仮説」としてあげられる。

 たしかに先進国革命をさぐる上でフランス、イタリア、日本の運動を追求することはまったく必要なことである。しかし、田口氏があげている三つのレベルという「作業仮説」は余りにも技術的にすぎるのではあるまいか。むしろ重要なことは、その前提になる「情勢の転換と社会主義への移行過程の戦略」について、ただそれをあとづけるだけでなくその性格を明らかにし、それがその国と社会の――したがってまたその国の歴史的な革命運動の継承と革命を、どのように反映しているかを比較検討することである。

 まずフランスについてはどうか。

 フランス共産党では、一九六八年シャンピニで開いた中央委員会で採択された「フランス共産党の宣言――先進的民主主義のために、社会主義フランスのために」(いわゆる『シャンピニ宣言』)というテーゼを今日の闘いの旗印としており、最近社共の間で協定が結ばれた「共産・社会党――共同の政府綱領」もその具体化のあらわれである。そこで「宣言」の主要点を、最もよく説明している「第一九回党大会報告」をきこう。この場合何より重要なのは、この「宣言」の核心となっている「先進的民主主義」とは何かを明らかにすることである。「報告」によれば、

 「先進的民主主義とは、国民経済に対する大資本の支配を制限するため断固たる措置をとる政権のことである。したがってそれはまた工業の主要部門と大銀行の国有化を意味し、国民に帰属する企業の民主的管理を意味する。・・・・・

 先進的民主主義とは、購買力と雇用、集団的設備と国民教育の分野で、勤労大衆のもつ大きな要求を漸次満足させることに努力する政権のことである。・・・・・

 最後に先進的民主主義とは、個人権力を廃止し、人民の主権を確立し、比例代表制で選出される国民議会に真に監督権をあたえ、国民と学校の宗教からの離脱を復活し、新聞、ラジオ、テレビの民主的規約を制定する政権のことである。・・・

 先進的民主主義はこうした反独占の措置を実現しながらも、まだ人により人の搾取をなくすものでないことはいうまでもない。この民主主義は、独占の力を漸次、系統的に減少させ、労働者階級の権威と国の生活における政治的比重を高め、反動を孤立させ、すべての進歩勢力が結集するのをたすけ、フランス人の大多数がフランスの社会主義への移行に賛成するための最良の受験をつくり出すだろう。」(2)

 「報告」によれば、この「先進的民主主義は、社会主義へ移る一つの形態」であり、「必要な段階」であるとされている。そうして「現代に会っては、この段階と社会主義の段階とのあいだに長い歴史的期間があるとはわれわれは考えていない。民主主義をめざす闘争は、わが党の基本目標である社会主義をめざす闘争の完全な一部である。」(3)と。

 以上で明らかなことは、「先進的民主主義」とはまず何よりも新しい反独占の「政権」(「権力」ではない)であり、その具体化である社共の「共同綱領」が単なる選挙綱領ではないとしても、少なくとも選挙による「政府」をめざしていることは疑う余地がない。したがって「先進的民主主義」は社会主義的民主主義への過渡形態としての「反独占民主主義」であり、その実現形態は選挙による「政府」であるといえよう。ここでは闘いの「共同綱領」は、ある意味で現在の政府の反対綱領であり、それを実現することによって資本主義の制度を変革することに一歩近づくような一連の措置である。それは基本的には、「個人権力の体制を排除し」「フランスにおける民主主義の再建と革新」を中心任務として、そのための制憲議会の選出のためにたたかう「第一五回大会テーゼ」(4)(一九五九年)の延長の上にある。ただ異なっているのは、「第一五回大会テーゼ」では闘いとられた「革新民主主義」の「闘争の一局面となりうる」とされた「国有化」が、ここでは、第一義的に前面に進み出ていることである。ここには仏伊共産党論争からヨーロッパ共産党の声明、さらには「八一カ国声明」への経過と結果が反映しているといっても間違いではないだろう。

 しかし、何れにしてもフランス共産党のテ−ゼを一貫して流れているのは、三〇年代人民戦線の伝統であり、民主主義的統一戦線政府の樹立による「上から」の社会主義への移行形態である。これは次に見る「イタリアの道」とくらべるとき、いっそうきわだった対照をなしている。

 それではイタリアはどうか。

 第一二回大会テーゼ(一九六九年)についてのルイジ・ロンゴ書記長の報告の中で、最も中心的な問題は、「民主主義の社会主義への新しい発展を許すような政府の政策の徹底的変革」である。

 「われわれは社会主義がイタリアの今日の日程にのぼっていることを知っている。それは広範な人民大衆の意識のなかでそうなのだし、社会主義の方向でイタリア社会の変革が行なわれない限り、根本問題を十分に解決することは不可能であるからこそ、そうなのである。しかし同時にわれわれは、グラムシの表現を借りると、独占体と極反動退歩勢力を孤立させ、労働者階級を中心に自己の利害から独占体に対立するようなすべての勢力を団結させる力をもつ新しい権力ブロックがつくられないかぎり、そうした変革ははじまらないことも知っている。この民主的闘争と社会主義的闘争との結びつきは、われわれの政策『社会主義へのイタリアの道』の核心である。」(5)

 そうしてこの「道」は、戦中、戦後を通じて闘いとられた「従来の型のブルジョア民主主義的議会制共和国ではなく、新型の共和国」である現在のイタリア憲法を「出発点と基準とする」闘いであり、したがってそれはまた、戦後挫折した革命の継承と発展の闘いでもある。それでは、「イタリアの道」の中心となっている構造改革の戦略とは何か。

「われわれの構造改革の戦略は一種の『反対計画』である抽象的な統治計画でもなければ、いっしょにすれば資本主義制度を変革することができるようになる一連の措置でもない。また連続的に分裂を起こさせ、制度の全般的危機をひきおこそうという抽象的な企図でもない。

 われわれの戦略は、所有関係と政治体制に変化をひきおこし、支配ブロックを粉砕し、新しい社会グループ全体に新しい政治経験をもたらし、もっと進んだ闘争にもっと有利な条件を獲得強化し、われわれが政治社会勢力の新しいブロックを形成するのを可能にすることをならいとしている。つまりそれは、政治的、社会的な前進の意義をもち、左翼の選択する道が説得的価値をもつために、現在の実行可能な目標を獲得するための総合的な闘争が問題である。必要なのは下部の統一と、他の政治勢力にたいするわれわれの統一政策とのあいだ、あるいは新しい直接民主主義の形態と代議制民主主義の形態とのあいだに、いかなる人為的対立にせよ生まれるのを防ぐことである。」(6)(太字筆者)

 ここで注目すべきことは、現在の情勢(国家独占資本主義)のもとで、「代議制民主主義の深刻な革新のために闘わなければならないと同時に、新しい型の直接民主主義のためにも闘わなければならない」と指摘していることである。したがって「社会主義への前進の道」は「議会的でもあるということを忘れないのは決定的に重要である」(太字筆者)として、「われわれの展望は、国家と社会の内部での漸次的な勝利と変革をもたらし、新権力ブロックを形成する闘争の道である」といっている。それは「上から」の道であるとともに、「下から」の道でもある。

 田口氏は、後にのべる「日本の道」も含めて、先進国革命とは、結論として「民主主義をとおしての社会主義への道にほかならない」というが、「フランスの道」と「イタリアの道」は明らかに同じ「民主主義の道」でも異なっている。それは労働者階級を中心とした反独占統一闘争に依拠しながら、社会主義へ向かって「漸次的な変革」を闘いとることでは共通のようでも、「反対計画」をめざして民主的議会政府を樹立し、「上から」反独占の措置を実現することを通じて社会主義への移行を追求する「道」と、実現可能な経済構造の改革を「下から」闘いとりつつ「上から」の議会革新と結合して社会主義への移行をめざす「道」との相異である。フランスでは民主的な議会政府の樹立を契機に新しい権力ブロックをつくり出そうとするのにくらべて、イタリアでは政府もしくは権力の樹立以前に前もって新しい権力ブロックの形成を準備する闘いを重視する。「宣言・声明」の「反独占民主改革」ということばで包括されようとも、これは二つの「道」であって単純に一つの「道」だと画一化することは適切でない。それは「ディミトロフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」のもつ相異でもある。したがってこの近似性と相異性を検討することは、先進国革命論にとって重要な議題である。

(後述)

(注)

(1)田口富久治『先進国革命論』「マルクス主義政治理論の基本問題」(青木書店)二八三〜二八四頁。

(2)フランス共産党第一九回大会中央委員会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一〇九頁。

(3)同前一二三頁。

(4)フランス共産党第一五回大会テーゼ「現代革命と反独占闘争」(合同出版)六三〜六六頁。

(5)イタリア共産党第一二回党大会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一九七頁。

(6)同前二〇三頁。

 

二.日本共産党の「道」

 

 それでは日本共産党の「道」はどうであろうか。それは何処を通って何処へ行く「道」なのか。私は『労研』一月号で、第一二回大会報告についてのメモを書いたし(「『人民的議会主義』は人民的か」)、その同じ号では遊上氏も書いている(『社会主義を恐れる日本共産党』)。しかし、前回ではふれなかった「民主連合政府」の性格について、フランスやイタリアと比較しながら、その特長を明らかにする必要がある。

 「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について」という報告の中で、上田耕一郎は、「日本における民主連合政府の性格は、社会主義への道をひらくことを目的とする政権ではなく、現憲法のもとで民主主義の実現をめざす政府です」(1)とのべている。不破の大会報告はそれをもっと「分かりやすく」次のようにのべている。

 「民主連合政府綱領についてのわが党の提案が示している諸措置は、資本主義的搾取を廃止する社会主義的措置ではなく、エネルギー産業の国有化を含めて、資本主義のワク内でも可能な民主的改良と改革の諸政策であります。もし日本の革新勢力が、いま歴史的に提起される反独占の諸政策の民主主的性格を見失って『反独占即社会主義』という立場をとったり、社会主義への過渡的措置としてこれを支持することを国民にもとめたりするならば、広範な独占資本の措置に反対する圧倒的多数の国民の民主的エネルギーを結集することができず、現実に資本主義のワク内でも可能な反独占民主主義的な改革の実現を遠ざける結果にしかならないことは明白であります。

 もちろん、民主連合政府のもとで実現される一連の民主的措置、たとえばエネルギー産業の国有化などが、将来日本が社会主義への道を踏み出したときに、それを助ける一定の積極的な要素となりうることは事実です。しかし、それは次の歴史的な段階で日本の国民が社会主義への道を選択したときにおきる結果であって、今日とられる民主的改革の諸措置を社会主義的性格のものとすることではりません。」(2)

 ここで不破が懸命に強調しているのは、民主連合政府が社会主義への過渡的ではないということである。彼は、「反独占民主主義→社会主義」を「反独占即社会主義」にすりかえながら、もし一言でも「社会主義」ということばを使えば、「国民の民主的エネルギーは結集することができない」という。それでは今日の闘いを通じて生まれている労働者と人民の要求である「反独占」をどこへ発展させようというのだろうか。「次の歴史的段階」で国民が投票でもして「社会主義を選択」するまではじっと我慢すべきだというのだろうか。あるいは、ロシア革命をはじめ今日までの社会主義革命は、すべて何時ある日、国民が「社会主義を選択」したから生まれたとでもいうのだろうか。ここには社会主義をめざして闘う労働者階級のヘゲモニーの思想もないし、具体的要求の中からその本質と志向をさぐり当て、引き出し、大衆自身のたたかいを通じてその発展を探求するマルクス主義的な追求の方法は拒否されている。

 その上、民主的改革が以下の社会主的性格のものではないかを「証明」するために、第二次大戦のフランスやイタリアを引き合いに出し、「統一戦線政府のもとで一定の産業や企業の国有化の措置」がとられたが、「その後、統一戦線政府の保守党政府への交代など一連の政治的経過をへて、これらの国有化部門は資本主義的国有化のワク内に現にとどまっている。」(3)といっている。周知のように、戦後フランス、イタリアにおける新しい変革への開始は、戦後樹立された統一選政府のもとで発展したが、残念ながら独占と反動の復活によって押しとどめられ革命は後退した。不破は、ブルジョアジーがかすめとった革命の「残がい」をとりあげて、資本主義のワク内で国有化が存在することを得々と「証明」している。「ミイラ取りがミイラになった」とはこのことか。

 民主連合政府の性格に関して、もう一つ見おとすことのできない点がある。それはこの政府と当面する革命との関係である。

 不破の「報告」によれば、

 「革命の戦略的展望と当面の課題との関連についていえば、わが党は、日本の国民が、資本主義か社会主義かという選択のまえに、まず独立と民主主義の達成という歴史的課題に直面しているという綱領的展望を持っているために、民主連合政府の諸政策と革命の戦略的展望のとの関係を民主主義的性格という共通のレベルでの接近としてとらえることができます。そのために、直接社会主義革命を展望している社会党とちがって、民主連合政府が実行する政策の提案においても、それだけ安定した内容が保障されているといえます。このこともまた、わが党の綱領路線の先駆的な意義のもう一つの証明であります。」(4)

また上田の「報告」によれば、

 「重要なことは、わが党の場合は、民主連合政府と民族民主統一戦線政府、さらに革命の政府との関係を、同じ民主主義的変革の課題のなかでの接近とみるために、政策的にも一貫性と安定性が保証されることです。ここからは力関係からくる考慮を別としても、政策的に性急な国有化や対中間層政策など、極左的政策を生む条件はもともときわめて少ないということができます。」(5)

 同じような文章を長々引用したのは、これほど民主連合政府の「戦略的展望」をはっきる示したものはないからである。日本共産党の綱領路線がどんなに「先駆的な意義」をもっているかはすでに多く批判されているからふれないにしても、ここでは国有化は「極左的」なものとしてしりぞかれ、「民主連合政府」―民族民主政府統一戦線政府―革命政府」の「民主主義」的一貫性と安定性がほこらしげに強調されている。日本共産党のいう「反定・反独占民主主義」がフランスやイタリアのように社会主義への移行形態でないとすれば、それは基本的な性格としてブルジョア民主主義とどこが異なるのであろうか。天皇の公布した憲法のワク内で、しかも社会主義への過渡的性質をもたない「民主主義」は、ブルジョア的「一貫性と安定性」で微動だにすまい。日本共産党の「道」とは、結局「民主主義への日本の道」である。

 こうした日本共産党の「道」に亡霊のようにとりついているのは、外ならぬ「三二テーゼ」であろう。戦前後の「ブルジョア民主主義革命論」の中で「天皇制」を今日の「アメリカ帝国主義」におきかえるだけでよい。一貫した「二段革命論」こそ日本共産党の悪しき歴史的伝統なのだ。もう一言いえば、「民主連合政府綱領」は、宮本の「二段革命論=旧人民戦線論」と上田・不破兄弟の「構革論」との野合であり、「二つの敵」論と議会主義の「雑すい」に外ならない。

(注)

(1)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(『前衛』一月号臨時増刊・大会特集)一七三頁。

(2)「日本共産党第一二回大会にたいする中央委員会報告」(前同)五〇―五一頁。

(3)前同五一頁。

(4)前同五一―五二頁。

(5)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(前同)一七四頁。

 

三.フランス「五月」とチリ革命

 

今まで見てきたような先進国共産党の革命論にたいして、新しい問題を提起したのが、六七年のフランス「五月」の闘いであり、また七三年秋のチリ反革命であった。この二つの事件は、いろいろな意味で対照的なものであった。フランスの「五月」はたしかにゴルツが指摘するように「その成果は、過去二十年来はじめて革命と社会主義への移行に関する問題が一先進資本主義国において提起されたことであり、しかもそれが、コミンテルン第七回大会以来、各国共産党の政策とイデオロギーを支配してきた図式とは無縁の要求と基準にもとづいて提起されたことである。」(1)これにくらべてチリの反革命は、国際共産主義運動によって高く評価されているチリ共産党を重要な中心の一つとする「人民連合」の輝かしい革命的成果を、アメリカ帝国主義と結託したチリ軍部反動派が暴力で破れん恥な圧殺を強行した事件であった。それは一方では合法的政府にたいする反革命クーデターであり、他方は資本と権力にたいする非合法の「反乱」であった。にもかかわらず、この二つの事件は、世界革命運動に大きな衝撃と教訓を与えたという点では共通である。

まずチリの革命と反革命について見よう。

われわれはまず反革命集団とその黒幕であるアメリカ帝国主義にたいして断固たる抗議をおこなっただけでなく、今後も抗議しつづける必要があるし、また同時に、合法的あるいは非合法的に革命の継続と発展のために闘いつづけているチリの同志たちに、心からの連帯と、できるかぎりの何かをすることによって、その連帯を表明しなければならない。しかしそのことは、チリ革命についての率直な検討と分析を少しも妨げるものでもないし、また妨げるものであってはならない。

チリの革命と反革命を検討するに当たって、共産主義者ならけっしておちいってはならない二つの立場がある。その一つは、政府を奪るのが早すぎたという批判であり、他の一つは、極左勢力が妨害したからだという立場である。この二つの立場は、何れも失敗と敗北を他に帰する無責任さで共通している。ところが日本共産党は、この二つの立場に立っている。チリ反革命にたいする日本共産党の三つの立場の内、民主連合政府は人民連合政府とちがって、議会内多数派によって形成されるから、チリのような懸念はないという主張は、とりもなおさずチリでは政権をとるのが早すぎたということにもなる。もう一つの立場は、「極左的」MIRにたいする非難である。三つめの主張は、日本ではチリのように社会主義をすぐめざしていないから大丈夫だという彼の「有名な」論拠である。

チリ革命については、すでに『労研』一月号で植村邦と佐久間弘が歴史的な経過をあとづけながらくわしくのべられているので、多くつけ加える必要はない。ただ両氏のふれていないことで、私にはむしろ最も重要だと思われる点があるので、そのことについてだけのべておきたい。その一つは、チリ共産党の選択がまず「平和への道」から始まっているということである。チリ共産党のコンバラン書記長は、ソ連共産党弟二〇回大会の報告を引用しつつ、「『平和的な道』に関するテーゼは戦術の定式化というよりも国際共産主義運動の綱領的提起である。」(2)として、

「平和的な道は、単なる選挙の道ではなく、またそうでなければならない必然性もない。なによりもわが国における平和的な道は、選挙をとおしてではなく、その他の方法、行動の形態、時期を利用して一定の瞬間に革命への道をきりひらこうという大衆闘争の道である。」(3)

と規定し、「平和的な道を合法的もしくは合憲的路線と同一視している人々がいるが、それは完全に誤りである。」(4)ともいっている。しかし、マルクス主義の歴史的な経験は、少数派による「強力の道」から多数派形成による「民主主義的=合法的な道」へとその探求をつづけながら、今まさにそのことの成否が改めて問われようとしているのだ。そうしていわゆる「民主主義的道」は「合憲的、議会主義的な道」として、転ぷくをねらう反動派を「合法的権力にたいする反徒」(マルクス)にするという意味で平和的な移行の可能性をもっているが、それを固定化することはまちがいだと主張されてきた。つまりこの立場でも選択は多数派形成のための『民主主義的な道』から始まって「平和的」か否かは第二次的な追求の課題であった。ところがコルバラン書記長の主張はまず「平和への道」から始まって次に合憲的、合法的か否かの問題が提起されている。ここでは選択が逆立ちしているのではあるまいか。そのためかどうかは別としても、「党は軍隊が帝国主義と支配階級の徒順なたんなる附属物だとは考えていないし、また人民の武装した庇護者であるとも考えていない。」(5)と、政府樹立以前から軍にたいする中間的評価が目立っている。チリの歴史的状況とチリ軍部のおかれている特殊な条件をわれわれはくわしく知るよしもないが、軍隊としての基本的な階級的性格は一貫しているのではあるまいか。

もう一つの点は、「合憲的」な政府の限界についてである。佐久間氏も指摘するように、人民連合の中軸である社共の間に戦略およびMIRに関する態度などで重大な政治的不統一があり、政策をめぐって両党書記長が往復書簡で論争したこともある(政府樹立後はじめての総選挙の1ヶ月前)。この中でゴルバラン書記長は、反動が政府の責任にしようとしている経済的困難をきり抜けるために、「農業生産を実質的に増大させ」、「工業生産および社会的部門に属する企業の収益性をふやす」ことをとくに強調し、「これらの分野で成功をおさめることができるならば、われわれが力関係を根本的にあらため、権力の全面的な獲得をめざして前進することのできる基本的な道がひらける。」(6)と断言している。しかし、当時、政府は合法的な手続きで手に入れたものの、議会では少数派であり、ブルジョアジーと反動派の抵抗で国有化は思うように進展せず、革命は停滞していた。こうした時期に、大資本が経済を支配し、基本的にはブルジョア権力が維持されている状態のもとでの「権力の全面的な獲得」に接近することになるのか、私にはよく分からない。その答えとして考えられるのは唯一つ、「もっとも革命的なことは、人民政府の成功のために闘うことである。」(一九七〇年十一月コンバラン書記長)ということでしかるまい。しかし、もしそうだとすれば――事実そうであった――これは重要な問題を含んでいるように思われる。それは、「人民政府」がまだ人民の権力ではなく、ブルジョア国家のワク内であるにもかかわらず、この政府の維持が革命的変革の尺度となり、政府と人民との関係が、「良い政策」の実施をめぐる支持と被支持の関係にとどまりがちになるからである。それでは労働者階級を中心とした人民の闘いが、合憲的「人民政府」をテコにして権力への迫撃を展開しながら「権力の前面的な獲得をめざして前進する」ことが困難になるのではあるまいか。変革の尺度はどこまでも権力獲得に接近する「下から」の闘いにある。一般的には選挙による民主的政府の道――「上から」の道は、政府が樹立されるとしばしば攻撃よりも守勢に、前進よりも現状維持にかたむきやすく、結果として「権力」の問題を事実上「政府」の問題に矮小化するという宿命的弱点と限界をもっており、それをどう超えるかということこそ真の意味で革命の問題なのではあるまいか。

それと対照的な意味でフランスの「五月」は、先進国革命の一断面として重要な教訓を与えている。「五月」闘争は、ある種の政治的危機に近いものをつくり出したが、それはけっして革命的危機でもなかったし、またしたがって革命でもなかった。革命とは何よりも労働者階級をはじめとした人民大衆が、何がおき、何がつくり出されるかをあらかじめ知っているだけでなく、それを準備しなければならないからである。それは一週間や一ヶ月でかたがつくものではなくて、はるかに長期にわたるものであり、それはある種のカケではなくて、充分計算されたものでなければならない。しかし、「五月」の事実はそうではなかった。だからといっておくればせに行動に参加しながら、内実は「冒険主義者」の「極左」的行動にばかり気をつかい、この「反乱」を鎮静させるために努力し、最後にはCGTの賃金闘争に集約しようとしたフランス共産党にくみするわけにはいかない。いやそれどころか、フランス共産党こそこの闘いを経済闘争に終われせるか、あるいはドゴール体制を危機に追いこむことができるかの選択権をもっていたにもかかわらず、指導権が「極左分子」にあるという理由だけで、それを放棄したのだと非難されても仕方があるまい。

「五月」の記事の中で、こうした情況をよく象徴している一つの挿話がある。「五月一三日の夜、パリの街頭を大衆的に行進したあと、講堂の大聴衆の面前でグニエル・コーンペンディットが共産主義学生連盟の書記長TM・カタヲと対決した」時の状況である。問題は、その日のデモの後で共産党とCGTが、労働者が学生の討論に加わることを妨げて解散を命じたことにあった。

「カタヲはせせら笑った。『CGT,CFDT,UNEFその他主催団体間で結ばれた協定は、予定地点で解散することを決めていた。合同主催委はそれ以上の行動をみとめていなかった。』

『正直な答えだ』とコーンペンディットは答えた。『つまり緒組織は、まさか百万人も街頭に出るとはおもわなかったわけだ。だが生活は組織より大きい。百万人もの人間があれば、たいていどんなことでもできる。君は委員会があれ以上の行動をみとめなかったのだといった。革命の日には、同志、君はやはり、『主催団体が認めていないから、止めろというに違いない。』

大かっさいが起こった。」(7)

ここで重要なことは、コーンペンディットの思想の問題ではない。そうではなくて、ここでは事実が、「生活は組織より大きい」ということを証明しており、いつも指導される者が、今度は指導するのだということである。この闘いの過程で、下からつくり出された各種の「決定集会」と管理のための「委員会」は僅かの期間にせよ、ある種の創意にみちたヘゲモニーの形態をつくり出した。この「五月」は、けっしてあらかじめ準備されたものでもなく、また当初から労働者がイニシャチーブをもって闘いはじめたわけでもない。それは学生が工場に行き、一つの職場から次の職場へと労働者のサボとストが次第に大きくなり、最後に誰しも予想できなかったほど大きく、ひろく、深く発展した。それは誰かが――あるいは「極左」主義者が――あらかじめ意図したからではなかった。それはまったく自然発生的に発生し連鎖的に発展し、巨大なエネルギーを瞬時に爆発させた。それは意図的でなく、まったく自然発生的であったからこそ、あのように大きなウネリに発展したが、また同時に、自然発生的であったからこそ「革命」にはならなかったのだ。それはいつまた起こるか分からない先進国「心臓部」のけいれんの最初の徴候であり、今後どこで起きるかも知れない「反乱」の前ぶれでもある。しかし、それは自然発生的であるかぎり、またどこかの「五月」で終わるだろう。

先進国の革命にとって、何よりも重要なことは、自然発生的な「反乱」がいつでも、革命的な目的意識性と結合できる準備を誰がどのようにととのえるのかということである。「反乱」的危機と革命的危機、瞬時に爆発する下からのエネルギーと長朝にわたる革命的過程をどう結合し、組織するかということである。革命は――ロシア革命もそうであるように――あらかじめ計算されたボタンを押すようにしてはじまるものではない。しかし、一定の危機を革命的危機へ、革命的危機を権力の獲得へ、さらにその維持へと発展させ組織するためには、あらかじめその力が忍耐づよく蓄えられ、そのプログラムが綿密に計算されていなければならない。

現代先進国革命の最も重要なカナメは、この自然発生性と目的意識性の正確な結合であり、その結合の形態としての党の問題である。それはかつてのように「自然発生的」な大衆を指導する「目的意識的」な党でなければ、大衆の代わりに「革命」をおこなう「大衆的前衛党」でもない。労働者階級と人民大衆自身の革命的な表現としての党である。それはまず思想があるのではなく、闘いを通じて大衆の革命的機能となる行動の中で、その思想が問われる党である。その意味で、現代先進国革命の問題とは、また現代革命の党の問題でもある。(以下次号)

(注)

(1)アンドレ・ゴルツ「五月運動の限界と潜在力」(V・タン・モデルヌ特集・筑摩書房)五九頁。

(2)ルイス・コルバラン「平和的な道と強力の選択」一九七一年(国民文庫「チリ人民政府樹立への道」)三六頁。

(3)同前二五頁。

(4)ルイス・コルバラン「平和的な道について」一九七一年(同前)一四頁。

(5)ルイス・コルバラン「権力の獲得をめざす人民連合」一九六九年(同前)一一八頁。

(6)ルイス・コルバラン「社会党書記長への手紙」(世界政治資料第四〇三)三四頁。

(7)(「ソリダリティ・パンフレット」三〇号)武藤一羊「フランス五月の教訓」一二九―一三〇頁。

 


新しい革命と新しい党(3)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第56号 S4961

 

(三)人民戦線戦術と構造改革の戦略

一.人民戦術とグラムシ「陣地戦術」

 私は「ヨーロッパ革命と各国共産党」の中で、フランスとイタリアの「道」は「社会主義への民主主義の道」とはいえ、二つの異なった道であるといい、それは、「ディミトルフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」の相違だとのべた。この相違をつきとめるためには、ロシア革命、三〇年代人民戦線とグラムシ「陣地戦」について、その相好の関係を明らかにすることが必要であるように思われる。何故ならば、今日でも、いわゆる構造改革の戦略を人民戦線戦術の発展がもたらしたものと見なしたり、また中には「陣地戦」をロシア革命の直接的な発展と捕らえる向きさえあるからである。

 不破哲三は、グラムシの「陣地戦」論について次のように主張している。

 「第一に、グラムシ」は、『陣地戦論』の概念を、革命的情勢に先だって革命を準備する闘争という意味で一貫して使用しており、しかもその準備の内容は、労働者階級と人民の多数者を獲得し、革命勢力を政治的、組織的に結集することにはっきりとむけられていた。

 グラムシが、レーニンの『統一戦線』戦術を、西ヨーロッパにおける『陣地戦論』の戦術として評価したのも、それがブルジョア的、社会民主主義的『ヘゲモニー装置』の指導力を弱め、労働者階級の多数を革命のがわに移行させることを志向していたからである。

 第二に、『陣地戦』を革命を準備する形態とみなしたグラムシは革命運動のすべてを『陣地戦』に解消して、権力獲得のための革命的攻撃(運動戦)も必要を否定するような立場は一歩もとらなかった。

・・・・・・情勢の推移におうじて、『運動戦』から『陣地戦』への、あるいはその逆の移行について論じている。(1)」

 不破によれば、「陣地戦」は革命を準備する闘争であって革命論ではなく、労働者階級の多数を獲得するという点では統一戦線戦術と異ならず、したがって「陣地戦」は「運動戦」とともに、ロシア革命がそうであったように、防御と攻撃の戦術にすぎないことになる。

 たしかにグラムシは、「イリイッチ(レーニン)が(一九)一七年に東方に適用して勝利した機動戦から西方でただ一つ可能であった陣地戦への転換が必要であったことを理解していたように見える」が、それは「『統一戦線』の定式が意味したことだろうと思われる」といっている。しかしグラムシは、この問題がすぐれて「国民的」なものであることを指摘しつつ、周知のように、「東方では国家がすべてであり、市民社会は初生的で、ゼラチン状であった。西方では国家と市民社会の間に適切な関係があり、国家が揺らぐとすぐに、市民社会の堅固な構造が姿を表わした。国家は前進塹壕にすぎず、その背後には要塞と砲台の堅固な連鎖があった。これは国家により大小があったが、まさにこのことが、国民的性格の正確な認識を必要としたのである。(2)」と述べている。したがってこのことに関してグラムシとレーニンを無条件に同一視することは正しくない。グラムシについては、イタリア共産党が指摘するように、西欧の革命にたいするかれらの考え方やそれがロシア革命とは本質的に異質なものであるとするかれの理解の仕方と密接に関連づけられないかぎり、グラムシの功績は完全に把握されたとはいえない(3)」ものである。また「陣地戦」についていえば、グルッピがいうように、「運動戦」の中に攻撃と防禦がるように「陣地戦」の中にも防禦と攻撃がある(4)。

 このことに関してグラムシ自身も次のようにのべている。

  「以前機動戦をとっていたように、その後陣地をとっている軍事技術者でさえ、前者の型が科学から排除されたと考えるべきだとは、もちろん主張しない。そうではなく、工業的にも文化的にも最も進んだ国家間の戦争では、機動戦の型は、戦略的機能よりもむしろ戦術的機能にひき下げられて考えるべきであり、以前に、機動戦に対比して包囲戦が置かれ手いたのと同じ位置において考えるべきだと、主張している。

 同じような引き下げは、少なくとも『市民社会』がきわめて複雑で、直接の経済的要素の破局的な『侵入』(恐慌、不況等々)に抵抗する構造となっている最も進んだ国家にかんするかぎり、政治牛術や政治の科学でおこなわれなければならない。市民社会の上部構造は、現代戦における塹壕体系のようなものである。法兵隊の激しい砲撃が、敵の防衛体系全体を破壊しつくしたようにみえたが、実はその外面部を破壊したにすぎず、攻撃と前進の瞬間にあたり、攻撃部隊はまだ有力な防衛線にぶつかる、というのと同じように、深刻な経済恐慌中にも同様のことが生ずる(5)。」

 さらに、グラムシは、「現代においては、一九一七年の三月から一九二一年三月まで政治的運動戦がおこなわれ、これに陣地戦がつづいている。」ということによって、「新経済政策」以降、世界的な包囲の中での後進的ロシア社会の社会主義的改造を「陣地戦」と想定している。

 つまりグラムシは「陣地戦」を、もちろん革命的ほう起を準備する闘いとしてだけでなく、また権力奪取の戦術としてだけでもなく、権力獲得後残った敵をせん滅して社会主義革命を達成する全過程の問題としても提起している。そうして得にレーニンがあらかじめ指摘したように、「創めることの困難な」発達した資本主義国の、社会経済構造の型(タイプ)に対応した革命論の型(タイプ)の問題として語っている。それはまた一八五〇年以降マルクス・エンゲレスが探求しはじめたものでもあった。((一)の三)したがって「肝要なことは、陣地戦における防衛体系に照応する市民社会の諸要素とは何であるかを『深く』研究することである。」そうしてここに、レーニンが「理論的」には深めながらも、実際的な探求の面で限界があった理由がある。それは「時間がなかった」ばかりではなく、市民社会の諸要素の研究は、その中で闘うその国の党によってこそ最も正確に分析することができるからである。

 それでは統一戦線戦術はどのようにして成立し、発展させられ、どういう状況のもとで何を目的として追求されたかのか。

 コミンテルン第三回大会では、レーニンの指導のもとに統一戦線戦術の目的と意義を規定し、また労働者階級の行動の統一を達成する方針を決定した。「統一戦線戦術の目的と趣旨は、資本に反対する闘争を共同で遂行しょうという提案を、第二インタナショナルや第二半インタナショナルの指導者にさえ繰りかえし申し入れることをためらわずに、そういう闘争にますます広範な労働者大衆を引きいれることにある」と、レーニンは書いた(6)。それは資本にたいする「共同の防衛戦」であった。レーニンはそのためにくりかえし小ブルジョア急進主義、セクト主義と闘ったが、それは、「共産主義における『左翼』小児病」によってよく知られているところである。結局レーニン的なプロレタリア統一戦線戦術の本質はどこにあったのか。それは「緊急な、大衆にとって身近な実践的問題のための闘争の過程で労働者の行動の統一をつくりだし、改良主義者の影響下にある者をふくめて、労働者階級の種種さまざまな部隊を運動に引き入れ、この闘争の過程でプロレタリアートを革命的精神で教育し、彼らに根本的な任務―ブルジョアジ制度の打倒、プロレタリアートの独裁の樹立、および社会主義の建設―を実現するための縦鼻をさせることにあった。(7)」

 この戦術は、第四回大会ではさらに発展させられ、「労働者政府」を設立する可能性の問題として検討され、また決定した。インタナショナルは、「このスローガンを、ブルジョア権力とたたかい、最後に葉それを打倒するための、経済および政治の分野における全労働者の統一戦線、すべての労働者党の連合とみなした。」しかし当時の情勢と力関係のもとでは宣伝スローガンの域を出ず、一般的には、統一戦線戦術の追求とは別に、権力問題としては「ソビエト政府」の目標が併行的にとられていた。

 しかし、一九三〇年代に入り、二九年世界恐慌が世界資本主義にもたらした深刻な打撃は全般的危機をきわだって激化させ、帝国主義的反動の一層の強化と攻撃、民主主義の抹殺をねらうファシズムの発展は共産主義インタナショナルに新しい戦術の採用を要求した。そのため必要であったのは、レーニンの指導と教訓を歪曲して、社会民主主義を主要打撃の対象とするスターリンの「社会ファシズム論」を克服し、戦術を転換することであった。それはまずファシズムの攻撃でさし迫ったフランス共産党によって着手された。人民戦線結成のための綱領は一九三四年十月二十四日ナントにおける集会で、モーリス・トレーズによって発表された。フランス共産党のこの決定は、コミンテルンの一部の活動家たちの見解の発展を先まわったものであり、とくにスターリンが承認をしぶったことは今日すでにあきらかにされている(8)。

 コミンテルン第七回大会は周知のようにディミトルフ報告を承認して、プロレタリアートの指導のもとで広範な人民層を民主主義防衛のために動員する反ファッシズム人民戦線への結集をうったえたが、これは明らかに統一戦線戦術の新たな発展であった。とくにその中で主張されている「統一戦線政府」は、「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態」(レーニン)として、「おそらく統一戦線政府は、一連の国でもっとも重要な移行形態の一つとなるだろう」としてきされた。これは、直ちにプロレタリアートの独裁形態ではないが、だからといって単にブルジョア民主主義の政府でもない。そこには、すでに先進国における民主主義闘争と社会主義闘争との新しい関係についての積極的な探求の萌芽が含まれていた。

 この闘いは、「後進的」なスペインのように、民主主義の防衛と確立が直接その国の社会経済構造の変革をうながさざるを得ない国にあっては、闘いの鉄火の中で新しい民主主義革命へと発展した。民主主義の防衛は民主主義をはばむ極反動派への革命的攻撃となり、外国の干渉から祖国を守る闘いは同時に古い支配者を打倒する闘いとなり、戦争は革命であった。こうしてスペイン人民戦線政府は革命の政府に転化し、新しい人民権力=スペイン人民共和国が樹立された。しかし「先進的」なフランスにおいては、単にブルームの優柔不断のためばかりでなく、政府樹立後一年にして経済的困難とスペイン不干渉政策によって瓦解した。その「歴史的限界」はたしかにマグリが指摘するように、「階級闘争の防衛段階から攻撃段階への移行に十分成功的にとりくむことをさまたげた限界、きわめて図式的にいえば、民主主義段階と社会主義段階との、中間諸目標と革命的飛躍との区別がなお不確定であったという点に集約できると思われる限界であった。(9)」それは組織的にはプロレタリア統一戦線と反ファシズム人民戦線との関係についての不明確さでもあったといえよう。しかしそこにはもう一つ、そうしてもっと客間的な限界がったのではあるまいか。

 第七回大会は、ファシズムを「金融資本のもっとも反動的、もっとも排外主義的、もっとも帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁(10)」と規定した。それはファシズムの本質的な一面をするどく指摘しながら、なおファシズムの本質を全面的に分析する点ではある種の限界をもっていた。それはファシズムが発生し、発展し、支配的な力をもつ過程で見のがすことのできない大衆運動としての性格、とくにその反動的、前近代的な性格であり、またその小ブルジョア的、熱狂的な性格である。そうしてこれは単に過程だけの問題ではなかった。それは資本の一定の反動部分によって予防反革命として激励、援助されたばかりでなく、金融資本の支配を維持するための道具に転化したが、この大衆的な運動が経済恐慌の重圧とプロレタリア革命への接近に恐怖し動揺した小ブルジョアの反動的な側面であることを抜きにしてはとらえることができないものであった。それは金融資本の直裁な独裁形態であると単純化するには余りにも多くの複雑な社会的諸要素を内包していた。

 もし、ファシズムが文字どおり金融資本のテロ独裁であったとすればファシズムの打倒はそのまま必然的に防衛から攻撃に転ずる人民の闘いで金融資本の打倒へと向かわなければならなかったであろう。しかし歴史はそうではなかったことを証明した。結局反ファシズム人民戦線は、攻撃よりも防衛に、大資本にたいする闘いであるよりもファシスト反動に、一国の変革よりも国際的な任務に(社会主義ソ連にたいするファシズムの攻撃を食い止める闘い)その最も重要な集中が向けられた。そうしてそれは決して「革命的」見地から批難されるべきものではなく、その反対に最も高く評価されるべきものであった。何故ならば、世界の社会的進歩は、まずファシズムの打倒なしにはあり得なかったからである。反ファシズム闘争が革命闘争に、人民戦線政府が革命政府に発展転化できなかったのは、マグリが「図式的」にいうようにではなく、正に文字どおり歴史のもつ限界であった。

 それはトリアッティが指摘するように、理論的には、「新しい型の民主主義という概念」の誕生を告げ、「もはやたんに戦術であるだけでなく戦略的なもの」ともなり、「レーニンの予見できなかった新しい情勢に、レーニンの展開し論述した革命的政策の原則が、広い視野と大胆な企画、みとおしをもって適用された(11)」としても、それが「防衛段階」から攻撃段階」へ移るためには単に一国の客観的条件からではなく、ひきつづいておこった世界的な構造の変化と、特別に創造された組織戦術、闘いによって豊かな経験と大衆的力量をもった党の目的意識的な探求を必要とした。この新しい戦略が、ただ「理論」としてだけでなく、「現実」のものとなるためには第二次大戦も戦中の闘いをまたなければならなかった。

 結局統一戦線戦術はあるいは人民戦線戦術は、いくつかの先進的な諸国だけを対象としてではなく、全世界の共産主義者に要請された基本的なあるいは緊急な歴史的な任務であり、労働者の生活あるいは平和と民主主義を共同防衛するための多数者獲得の戦術であった。それは発達した資本主義国では新たな戦略の萌芽を含んでいたとしても、どこまでも一定の情勢に対応した国際的な戦術であり、異なる社会経済の構造に対応する国民的な革命論としての「陣地戦」とは本来別なものであった。(この点で、「統一戦線」を革命的危機の相対的緩和という「国際的状況変化の分析」にあたるものだとするピオットの理解には賛成しがたい。(12))したがってこの両者を単純な発展関係とみたり、またあれか、これかと二者択一的にとらえることは適当でないばかりか、まちがってさえいる。それはそれぞれの歴史的、実践的な追求の中でのみ豊かな相互関係をもつことになるだろう。イタリアの闘いはその一つである。

(1)不破哲三「現代修正主義とグラムシの理論」マルク主義と現代修正主義(大月書店)一五四〜一五六頁

(2)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九五頁

 

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四九頁

(4)グルッピ「マルクス主義国家論」(下)(現代の理論社)二〇一頁

(5)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九三頁

(6)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六頁

(7)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六〜一二七頁

(8)レイプソン・シニーリヤ「現代革命の理論」(合同出版社)

(9)マグリ「人民戦線の経験の価値と限界」(「先進国革命論」現代の理論社)六頁

(10)ディミトルフ「反ファシズム人民戦線」(国民文庫)一四頁

(11)トリアッティ「共産主義インタナショナルの歴史にかんするいくつかの問題」(「コミンテルン史論」青木文庫)一五八〜一六〇頁

(12)ピオット「グラムシ野政治思想」(河出書房新社)一五五頁

 

 

二、イタリアの構造改革闘争

 

イタリア共産党の今日の闘いは、直接的には少なくとも四〇年代半ファシズム国民解放闘争からひきつがれている。当時の反ファシズム統一戦線は右派と左派に分かれていたが、イタリア共産党はその統一戦線組織である「国民解放委員会」を同数の反ファシズム政党代表で構成することによって全体の統一を保ちつつ、実際的には大衆と結合した各種戦線の代表を参加させることによってこれを単なる政党連合からさまざまな政治的社会的勢力の統一体に発展させた。「すなわち国民解放委員会は直接民主主義の組織にならなければならなかった。(1)」また党は単に「ファシズム以前の民主主義の再建をめざして闘ったのではなく、ファシズムの社会的原因(独占、大地主)を除去できる『新しい民主主義』、独占と大地主を打倒し、共産主義者にとっては当然、社会主義への方向へ向かってみ民主主義がたえず発展していける道筋を切り開くことのできる改革をつうじて、社会的、経済的基盤を根本的に変革した社会を建設して、労働者を徐々に国家の指導部へ参加させていくことのできる、そうした『民主主義』をめざしてたたかっていた。(2)」このような闘いを内容とする解放闘争によってはじめてイタリアの労働者階級は主体的にイタリアの国民的革命的階級として登場し、その結果が戦後の共和国、憲法、民主主義をつくり出したのであった。それは反ファシズム人民戦線の発展的な追求であるとともに、すでに早くグラムシの理論にもとづいた新しい変革の闘いでもあった。

「労働者階級にとっての課題は、したがって、ロシアの場合のように、正面攻撃一本槍ではなく、ブルジョアジーの権力がよって立つ、広範な肢体全体を消耗させる作戦をつうじて、ブルジョアジー打倒のたたかいをおこなうことである。

この作戦はブルジョアジーの同盟体制を打破して、社会的にブルジョアジーに従属している同盟者をブルジョアジーから奪い、労働者階級は支配権を握る勢力ブロックを多数派とする作戦である。(3)」

こうした闘いが「社会主義へのイタリアの道」として定式化されたのが第八回大会(一九五六年)で採択された「綱領的宣言」であり、「第八回大会テーゼ」であった。

そこでわれわれは、イタリアにおけるその後の諸闘争の特長を検討する前に、「イタリアの道」を裏づけるその理論的な根拠をもっと明らかにする必要がある。それを最もよく表しているのはイタリア共産党の次の主張である。

「社会主義へ発展する過程は斬進性の性格をもつという、共産主義者の考え方に固有の概念である。ここでいう斬進性とは、そのような発展は現実の経済的、社会的、政治的均衡がつぎつぎに破壊され(国家権力の内部そのものに存在するものが、その階級的性格を変えるまで)新しい均衡が確立されながら段階的におこなわれるであろうということを意味している。」

といいつつ、トリアッティを引用して次のようにのべている。

「『われわれは、段階的発展の概念を導入しており、そうした発展にあっては、正確にいつ、質的変化が生じたかを指摘することは相当に困難である』(トリアッティ)、この『いつ』が、階級闘争の発展と結果、および社会主義的解決のために奮闘する諸々の階級闘争のなかで一定の時点で獲得する優位性に関連した諸要因のきわめて複雑な集積に依存していることは疑う余地もないことである。(4)」

ここで重複をいとわず引用する必要があるのは、グルッピが「機動戦と陣地戦のグラムシ的な区別――彼はこのことを知らなかった――にちかづいており、ここに『社会主義へのイタリアの道』の理論の萌芽を摘出することができる」といっているエウジエニオ・クリェル(「進歩的民主主義を目指す共産主義者の闘争」一九四五年)の次の指摘である。

 「経験によれば、社会的進歩の重要な諸段階は、ある国では深刻な断絶を通して現れるが、またほかの国では、時間に希薄な、ときおり人に気づかれず、正確には限定されえない断絶あるいは質的変化を通して現われる(フランスやその他の国々におけるブルジョア革命、ローマ帝国における奴隷制革命)ものである以上、つねにソ連で起こった断絶の形態を参照することは歴史的に誤った基準である。・・・・・断絶がわれわれにとっていっそう有利な条件で、したがって断絶が労働者階級および全国民にとってできるかぎり犠牲の少ない仕方で起るように闘うことである。(5)」

こうした一連の論拠は、グラムシ、トリアッティ、クリェルを通じて一貫したものであり、今日「社会主義へのイタリアの道」を際立たせている特有の理論的根拠である。それはグルッピの指摘をまつまでもなく、急激な断絶=運動戦、斬進的で緩慢な断絶(段階的発展)=陣地戦という把握であり、その前提となるのはイタリアの国家、社会の現状分析とその根拠ともいうべきグラムシ国家論である。それは、国家を一連の武装装置だけに限定せず、発達した国における政治社会と市民社会の分節化と相互関係を区別と統一の視点からとらえ、構造(土台)と上部構造の弁証法的な関係を、一定のヘゲモニーによってひきいられる「歴史的ブロック」と規定することから出発いる。重要なことは、それが一般的な理論であるばかりでなく、特殊イタリアの具体的歴史的事実の分析から生まれているという点である。それはレーニンがその基礎を確立したマルクス主義国家・革命論の事実にもとづいた発展的修正であるとともに、マルクス・エンゲルスの「市民社会」論、「国民的革命」論の発展的追求でもあるということである。

イタリア共産党のこうした論拠は、まず「理論」があって次いで「闘争」があるというものでもない。それは反ファシズム闘争と国民解放戦線の血みどろな闘いを通しての認識であり定式化であった。とくに日本と比べてイタリアにおける今日の闘いの特長――「社会主義へのイタリアの道」を可能にさせる現実的条件――は次の諸点にあると思われる。

その第一は、今日の闘いのすべては四〇年代からはじまる一貫した実践によって裏付けられているということである。「直接民主主義」あるいは「労働者による生産管理」ということも、決して単なる概念としてでなく、みずからの死と国家の運命をかけた反ファッシズムの闘いの事実から生まれたものであり、ファシストと結んだ資本への抵抗闘争の中からつくり出されたものであることを念頭におかないわけにはゆかない。

その第二は、こうした闘いの決実としての共和国憲法である。それは「労働に基礎を置く民主的共和国」(第一条(6))として、「国の政治的、経済的および社会的組織へのすべての労働者の実効的参加を妨げる経済的および社会的な障害をのぞくこと」をその「任務」とし(第三条)、「最も広い行政的分権を行い、その立法の原理と方法とを自治と分権の要請に適合させる」(第五条)ことを「基本原理」としている。それはまた特定の独占企業を「国、公共団体または労働者もしくは利用権者の団体に、原始的に保留し、または公用徴収により、補償の下に、これを譲り渡すことができ」(第四三条)、「法律の定める態様および限界において、労働者が企業の管理に協力する権利を承認」(第四六条)している。

もちろん「共和国憲法」は決して社会主義的なものではないが、また従来のブルジョア議会制でもない。

「憲法と社会主義のあいだには質的な飛躍がある」が、「この飛躍が憲法に逆って準備されるのではなく、憲法のなかで、憲法によって準備することができるという事実に、歴史的な、根本的に新しい点がある。(7)」それは闘いの過程によって刻印されたものである。しかし、こうした憲法の実施に反動や大ブルジョアジーが熱心であるはずがない。例えば、「州」は日本以上に中央集権的な色の濃い市町村自治体とは異なって、「憲法の定める原理にしたがい、固有の権力と機能とを有する自治体」(第一一五条)として規定され、「財政上の自治権を有する」(第一一九条)ものとされている。しかし、全国で一九州設定されながら、つい先年まで条件つきにせよ実施されていたのは僅か五州で、残りの一四州は「政府監督官」によって中央集権的な州行政が行なわれていた。(七〇年六月の選挙で実施された。)こうした条件の情況のもとで憲法の完全実施を要求して闘うことは、日本のようにただ反動化への歯止めであるばかりでなく、進んだ新しい変革への端緒を合法的に準備する上で積極的な役割を果たすことになる。

第三に、労働者階級と労働組合による国民的な闘いの発展である。それは一九五〇年、労働総同盟による「労働計画」の提案から始まった。

最近では、六七年の三総同盟によるゼネストを出発点とする年金闘争、六八年から六九年へかけての「暑い秋」の中で闘われた住宅闘争、およびひきつづく一連の経済政策をめぐる闘いなど、労働者の生活改善と経済構造の革新とを結合し、政治生活への労働者の参加をめざす統一闘争として一貫してとりくまれてきた。それは日本における「国民春闘」と同日に論ぜられるものではない。

 こうした特長をもつイタリアの構造改革の闘争がめざしている目標は、南部における土地改革と、すでに全産業の三〇%を占めている公共部門の拡大による国有化の民主主義的な前進におかれている。この闘いでとくに注目すべき点の一つは南部問題である。イタリアにおける北部と南部の相違は異なるほど大きいとはかつて安保闘争で来日したウニタの記者にきいたことであるが、事実われわれの想像を超えたものがある。したがってイタリアの構造改革の戦略は「リソルジメント」以来の国民統一、進んだ北部とおくれた南部の経済的社会的な統合というイタリアに特有な条件を捨象しては考えられないということである。それは一般的な戦略であるとともに特殊イタリア的な戦略でもある。もう一つの注目すべき問題はカトリックとの協力と連合であり、これもわれわれの経験を超えている。イタリア社会におけるカトリックの影響と力――そうしておそらくヨーロッパ社会におけるキリスト教の影響と力――を無視することは、おそらく革命を放棄することにさえなるだろう。反ファシズム闘争からひきつづいたカトリックとの連合と協力は新しい「権力ブロック」を形成する上で最も重要な――見方によれば社共協定以上に重要な――カナメとなるものであろう。それは、人民戦線政府が革命政府に発展した経験をもつスペインでも変わりはない。

スペイン共産党のカリリヨ書記長は、「人民政府」の敗北の教訓として、「ファシストのほう起にたいして、かれらに欠けていた大衆的基盤をあたえたのは教会であった」と、次のようにのべている。

「おそらくわれわれ自身も、教会の立場が、大衆をつかんでいるという意味から――して兵士の熱狂的信念をつかんでいるという意味から、反乱軍にとってどれほど意義をもっていたかということを当時ははっきりと理解していなかったのである。教会の立場は、われわれの事業の人民的性格と、人民全体が共和国の側についているという考えとを混同させる傾向をうながしたのである。われわれに対立して孤立しているのは、軍隊の幹部と、外国の干渉によって支持された週数の特権階級だという考えであった。なるほどわれわれの事業は人民の事業であった。けれども、この人民の少なくない部分が、そのようにはこのことを理解していなかったのである。・・・・・・当時、進歩勢力の勝利を挫折させたのは、革命的大衆とカトリック大衆およびカトリック制度の対立であった。(8)」

スペインでは今日、カトリックとの同盟――それは同時に広範な農民との同盟を意味している――は進歩的ブロックの重要な要因となっている。そうしてカリリヨは、「このような理由だけではなく、あらゆる政治情勢からみても、また最近の社会的、経済的構造の発展から見ても、『人民戦線』の復活という思想は今日では時代錯誤となるであろう」と指摘し、新しい「政治形態」は、「『人民戦線』の経験を考慮し、その経験を学びながらも、それとはちがったものとなるであろう。(9)」といっている。

結局、イタリアにおける構造改革闘争――スペインもそれを重要な教訓としているように思われる――とは決して単なる「理論」ではなく、長い歴史的闘争の過程の総体であり、したがって今後ひきつづく将来への闘いの展望でもある。そこには南部問題、カトリック問題等を生々しく含む「理論」がある。構造改革の戦略をもっと実践的に追求している国が何れも国内に工業的に進んだ部分と非常におくれた農民的な部分をもっているという事実は、ただそれだけの理由でこの戦略に一定の地域的な限界を与えるものとはならないであろう。それ以上に重要なことは、グラムシによって発展させられたマルクス・エンゲルスとレーニンの先進国革命論が具体化される過程で起きてくる諸問題――たとえば憲法と構造改革闘争との関係、議会革新の闘いと直接民主主義をめざす闘争との関係など――の究明である。しかし最も重要な点は部分的、段階的、斬進的な闘いとその発展が、今日の情勢のもとで総体的全過程の質的飛躍をどのようにもたらすことができるかということであろう。たしかに、しばしば引用されるように、「一つ一つをとれば、どのような民主主義も社会主義をもたらすものではない。だが、実生活では民主主義は、けっして『一つ一つとられる』ものではなく、他のものと『いっしょにとられる。』それは経済にたいしてもその影響をおよぼし、経済の改革を促すとともに、経済的発展の影響をうける、等々。これが生きた歴史の弁証法である。(10)」(レーニン)

しかし今日では先進諸国の賢明な支配者たちは、民主主義を圧迫し、もぎとることだけを覚えていた彼等の先輩たちと違って「いっしょにとられる」ことを警戒して上から一つ一つ「民主主義」を分け与えさえする。したがって今日では自然に「いっしょにとられる」ことはない。それは意識的な追求によって「下から」もぎとる闘いの戦線を広げ固めることなしには「いっしょにとる」ことはできない。「生きた歴史の弁証法」は時代とともに発展変化する。

(1)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(2)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五〇頁。

(4)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五二頁。

(5)グルッピ「マルクス主義国家論」二八七頁

(6)「イタリアの共和国憲法」(「世界憲法集」岩波文庫)以下同。

(7)グルッピ「マルクス主義国家論」三〇三頁

(8)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社)二四五〜二四六頁)。

(9)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社))二四八頁)。

(10)レーニン「国家と革命」(全集二五巻)二八九頁)。

 

三、「日本型構革論」の克服のために

 

中村丈夫、藻谷小一郎両氏は、「「日本型構革論」の痛烈な批判と評価をされた「『構造改革』の構造改革論」(一九六六年)で、次のようにのべている。「『日本型構造改革』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる。(1)」と。勝部元氏もまた「構造改良」(先進国における社会主義への道)の中でこれに肯定的賛意を表している(2)。しかし、それは日本的な構革論の欠陥を正しく指摘しているであろうか。

この論文はまず主体的実践的なかかわりとの関連で批判が展開されている。そこでは戦後の歴史的な諸闘争と日本の現状の中で、それに対応すべき革新の状況を分析し、とくに日本共産党の党内闘争を源流とするいわゆる「構造改革派」の発生と分裂の過程と現状とを批判した上で、「日本型構革論」は、「日本共産主義運動の政治的、思想的混乱の中での一種の崩壊現象として発生した」と断定している。「崩壊現象」であるかどうかは評価の問題であるとしても、この中でも、また「構造改良」(勝部元)でも指摘されている「社会主義革新運動」の発生と成立の基盤がいわゆる「構造改革論」でなかったことだけは、最初からその創立に参加した一人として断言することができる。むしろ影響あつたとすればその後であり、しかも「構造改革論」については賛否それぞれあってついに意見の一致を見ることなかった。

中村氏等は、「日本型構革論」の理論的特長の「要点は、構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間点とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。」と指摘し、結局、「『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見的修正主義であることは、いまや明らかであろう」という。ここには、中村氏等が描いている「民主主義・社会主義革命」の構想があり、それと照らし合わせての批判が展開され「断罪」されている。

それでは一体、「日本型構革論」とは何であったのか。中村氏等が批判しているその「理論的内容、理論構造」の問題点については全く賛成であるが、今ここで詳しくその批判を紹介する余裕はない。しかし「日本型構革論」の特長は、当時普及された解説書である「構造改革とはどういうものか」(石堂清倫・佐藤昇編)の中で端的に示されている。それは、「国家独占資本主義が生産力の発展に見合う生産関係の社会化の形態であるとすれば、政治的民主主義はその上部構造におけるあらわれであって、いあわば“権力の社会化”ともいうことができる」という分析の上にたって、「経済の面での構造改革の内容は、一言でいえば独占の経済政策を転換させ、独占資本主義の経済構造――生産関係を部分的に変革すること」であり、政治の面では、「広範な大衆が権力過程に参与してくること」である、と(3)。当時から今日に至るまで、「構造改革論」については多くの文章が書かれ、またとくにその客観的必然性の根拠としての国家独占資本主義論については厳密な理論が展開されてきたが――それ自体は一定の限度内できわめて重要な理論的寄与でもある――これほど単刀直入にその特長を描いて見せたものはない。しかしそこにおいてこそ問題があるのだ。佐藤昇氏はさらに国家独占資本主義について、「国家が再生産過程に介入し、それを計画し、管理するという契機だけをとり出せば、そこに社会主義の一種の“陰画みたいなものができ上がっているともいえる。『逆社会主義』ですね」ともいい、また「構造改革論は、このように国家独占資本主義のもとで成立する『逆社会主義』と強力な大衆的民主主義運動の結合という方向に社会主義をてんぼうするという(4)」という。しかし、この「逆社会主義」というとらえ方の中に、中村氏等のいうように、「民主主義的介入一般を容易に強調」するばかりでなく、社会主義革命を社会・経済の全肢体を変質させる闘いとしてでなく、一定のキー・ポイントの切り換えととらえる決定的な誤ちである。そうしてその点でこそまさにグラムシ理論と正面から対立する。

長洲一二氏の場合は、構造改革の可能性と必然性は資本主義の基本矛盾にまで「深め」られる。「資本主義の発展は、資本の支配の強化という面と同時に、労働者にたいして資本の支配を制限しその内部に滲透することを可能にするような資本にとっての自己否定の契機をも発展させている。」そうして、「構造改革論はこの資本の自己矛盾を、変革のためのテコとして最大限に活用しようということにほかならないと思う(5)」と。長洲氏はさらに「ブルジョア民主主義の自己矛盾的二重性」についてマルクスとエンゲルスを引用しつつ次のように定式化する。「富の特権とブルジョア独裁の物質的根拠である資本主義的生産関係が、抽象的で形式的な万人の自由・平等を必要とする。・・・・・・・ところがこの自由・平等は、まさにその抽象性と形式性のゆえに、一般性と普遍性を獲得し、ブルジョア的という実質的制限を突破する潜在力をもっている。(6)」と。ここには「日本型構革論」のいっそう深い「哲学的」基礎がある。こうして「日本型構革論」の根拠は次第にさかのぼって「弁証法」一般に解消される。それはいつの場合でも実践の媒介を抜きにして、世界にまれなほど緻密でスコラ的な論議に身をやつす日本マルクス主義研究の特長的な典型の一つでもある。それはグラムシの概念を借り、イタリアの闘いを引用したとしても、しょせんそれとは異質なものである。それは中村氏がいうように「主体形成の論理ときりはなし」たからでもなく、また「民主主義・社会主義革命の構成要素」としてとらえなかったからでもなく、その「論理」自身が革命闘争を指導する「理論」でなかったからこそ没落した。それは「窮乏革命論」との対比の上で魅力あるイメージとはなっても、ついに「大衆をとらえる」ことはできず、したがって「物質的な力」には転化できなかったのだ。

ここで是非とも必要なことは、「日本型構革論」がいわゆる「反独占民主改革闘争」と二重写しになっていることを明らかにすることである。現に「構造改革派」と目されていた「社会主義革新運動」の最初の綱領案ともいうべき「『社会主義への日本の道』についての要綱」が提起していたのもそうであった。

「今日、日本の労働者階級の社会主義をめざす闘争は、平和のための闘争と中立による民族の完全独立のための闘争、ならびに反独占民主主義改革のための闘争を通じて前進する。この過程で労働者階級は、広範な人民層をその周囲に結集し、統一戦線を確立し、平和と民主主義の政府を樹立して民主主義を徹底するなかで国家権力そのものの労働者階級への移行を実現する。・・・・・この民主主義的革新の闘いは、一方では政府の政策変更、独占体の制約、これにたいする監視と統制を要求する闘争、労働者階級の生産点での管理闘争を基礎に社会、経済、政治諸制度の民主的改革をもとめる闘争とならざるを得ない。(7)」

この「要綱」の中には、「労働者階級と勤労者の生産点での闘争を基礎にして、国家独占資本主義体制の全機構の内部に管理、統制その他さまざまな形態による民主勢力の進出のためにたたかう」という一見「構造改革」的要素も含まれているが、全体としては、議会利用による平和移行論まで含めて「八一カ国共産党・労働者党代表者会議の声明」(一九六〇年)で新しく規定されたいわゆる「反独占民主改革」による社会主義革命論とほとんど変わりはない。ただ当時日本共産党がみずから無理矢理に押し込んだ「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配下にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義国」ということばにこだわって、「反独占民主改革闘争から社会主義へ」という方向を拒否していたことで「新しさ」がめだっていたにすぎず、その意味で綱領論争の延長として日共批判の域をでなかった。

しかし、いわゆる「反独占民主改革闘争」という構想は、世界と各国の新しい政治・経済構造の変化に対応する「社会主義革命における民主主義闘争の新たな発展」ではあっても、もちろんレーニン=グラムシを通じる先進国革命の大胆な転換を表明したものではない。それはこの生命を擁護して書かれたと見られる「現代独占資本主義の政治経済学」(ソ連)の中でもあきらかである。

「いうまでもなくこうした民主主義的綱領の実現は、国家権力の階級的性格を変えるような、また、労働者階級とその同盟者が国家の活動に実際の影響を及ぼすのを保障するような、根本的な社会的=政治的改造なしには考えられない。政治権力をよりどころにしてはじめて労働者階級は、ブルジョアジーの政治権力にたいする真の制限を達成できるのであり、経済生活と社会生活に対する独占体の強制を根絶できるのである。

こうしたことから、熟成した民主主義的変革のための闘争が不可避的に革命的性格を帯びることが明らかになる。・・・・・またこの理由で民主主義的変革のための運動が、大衆の革命化と、かれらを社会主義革命のスローガンにひきつけるためのもっとも重要な手段の一つとなるのである。

・・・・・この綱領の実現は社会主義のための闘争の直接の展開にとって、決定的な諸前提をつくりだすのである。(8)」

ここでは、反独占民主改革の実現はしょせん権力の変革なしにはあり得ず、この闘いは結局、大衆を社会主義革命へ組織する手段であり、政治的・社会的=心理的な前提とみなされている。これはすでに見てきたような統一戦線の戦略的展開の延長線上にあるというよりも、コミンテルンの統一戦線戦術に逆もどりしているとさえいえる。しかし今日問われているのは、フランス「五月」の闘争にみられるような国家独占資本主義の「危機」的状況の発展の下で、グラムシ=トリアッティの「段階的発展」論=「陣地戦」論が有効なかどうかという問題なのだ。「陣地戦は終わった」とするマグリは、諸改良と革命的危機との関係について次のようにいう。

「順次の改良的諸行為をつうじて資本主義から社会主義に移行する過程、国家の頂点への指導諸集団の斬進的接近の道である過程に、革命的飛躍を解消することがいまでは可能であると考える戦略と、これに反して、不可避的な革命的危機を最善の条件のもとに成熟させ、まさに危機のただなかで国家機構を奪取し、粉砕する反体制諸ブロックを結集するための具体的な仕方として、改良諸闘争を考える戦略とのあいだには、実際に、もはや中間の道の余地はあり得ないのである。(9)」

そうしてマグリは、「多年の経験とこれまで述べてきたような事態は、この後者の路線だけが現実の試練に耐えうることを証明している」と主張し、「上述の闘争が真の破壊をあらわすものとすれば、いっそう先鋭な敵対の諸前提がうみだされ、したがって、結局は武器の暴力が不服従と大衆闘争という『平和的』暴力によって革命的飛躍を刻印せざるを得ない危機への突入が切迫する、ということを意味するのである。(10)」と断定している。ここでは明らかに「陣地戦=段階論」は否定され、古典的な「危機革命論」が形を変えて再登場している。マグリをしてそうさせたのは「中ソ論争」であり、「五月」闘争であったが、「五月」闘争も今日では重要な痕跡を残しながらもフランス国家独占資本主義にのみ込まれ、中国もまた「中間地帯論」による「反米」主義から「中米協調」論へとゆるやかな転回を示しつつある。

「日本型構革論」もまた、中村氏等の指摘するように、「党内の最大限綱領主義、トロツキスト的傾向、北京近似路線などにたいして無力でこれを克服できなかった」し、七〇年代闘争、とりわけ「新左翼」の「現代世界革命戦略」の批判に耐えることができず、なしくずしに崩壊した。しかし、その「新左翼」セクトも今やセクトの対立闘争のだけ存在理由を見出さなければならないほど凋落した。中村氏等がいうように、「『日本型構革論』が死して生きなくてはならない」とすれば、それは改めてマルクス=レーニン=グラムシから再追求するとともに、とりわけ日本の現実と歴史的闘争の事実から再出発しなくてはなるまい。

今、なにより重要なことは、われわれが置かれており、われわれをとりまいている事実を徹底的に探求しなおすことだ。(つづく)

一九七四・四・二

(註)

(1)中村丈夫、藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」(「新世界」一九六六年一月号)以下同じ。

(2)勝部元「構造改良」(潮文庫)二五一〜二五四頁

(3)石堂清倫・佐藤昇「構造改革とはどういうものか」(青木新書)一四頁、二〇頁。

(4)「先進国革命と社会主義」(梅本克己・佐藤昇・丸山真男「現代日本の革新思想」河出書房新社)一五二頁〜一五三頁。

(5)長洲一二「構造改革論の形成」(現代の理論社)八四〜八五頁。

(6)同前 一九〜二〇頁。

(7)社会主義革新運動「『社会主義への日本の道』についての要綱」(「新しい時代」一九六一年第一号)

(8)世界経済・国際関係研究所(ソ連)「現代独占資本主義の政治経済学」三八八〜三八九頁。

(9)マグリ「フランスの『五月』と先進国革命」(「先進国革命論」現代の理論社)一五四頁。

10)同前 一五四〜一五五頁。

新しい革命と新しい党(4)   ―長谷川論文の批判によせて―

松江 澄   労働運動研究 第57号 S4971

 

 この稿を書き始めてからすでに4ヶ月たった。書いている間に、当初考えていたより多くの問題にふれなければならなかったし、またあれこれの引用も多くなった。それはノートのつもりで書いてきたためでもある。しかしこれも、戦後出発した一共産主義者が、とくにこの十年間ためこんできたというよりも、迷いつづけてきた追求の経路を整理して、現実に立ちむかう上で必要な「手続き」でもあった。ここで書いてきたことは、それでも私にとっては一つの問題意識をおいつづけてきたつもりではある。それは、あれこれの時代、あれこれの国の革命と革命論を、その時々のプロレタリアートの闘う歴史的条件との関連のもとで把握し、またとくに先進国革命“における「危機と変革」とのかかわりあいに焦点を求めのささやかな追跡であった。そうして、このような私の問題意識の底にふれたものの一つが、労研一月号の長谷川浩「現時点における革命党の思想建設」であった。ある意味ではこの「論文」が私の書きはじめた動機の一つであったといってもよく、したがって常にこの「論文」を意識して書いてきたといってもいいすぎではない。そこで長谷川論文の批判を提起しながら、私なりの考え方を明らかにしておきたいと思う。

 長谷川論文は提起されている問題の重要さばかりでなく、提起している「人」の歴史的な重さのうえでも重要な意味を持っている。それは、戦前以来苦闘に苦闘を重ねてきた共産主義者の、私心のない公正さと反省の深さで読む者をうつ。ここで書かれている以上に、その行間にうかがえるその時々の闘いの切実さが、私にもかすかに想像できるからである。にもかかわらず、私とってはこの「論文」の主張には無条件に受け入れることのできないものがある。それはただ長谷川浩個人の問題というよりも、日本の歴史的な運動と、したがってまた現時点の運動に直接かかわっている問題でもあるからだ。

 

プロレタリアートの闘いの歴史的条件

 

 長谷川論文(以下論文という)はまず党建設の課題の今日的切実さの理由にふれて、次のように指摘している。

 「党建設の問題が、今いっそうの切実感をもって提起されて、いままでとは違って真剣に取組むことを要請されているのは、最近の労働運動をはじめ広範な大衆運動、総じて日本の階級闘争自体の発展が、その武器としての党建設なくしては闘いぬけない具体的な問題に当面しているからであり、そのことによって主体的にも現実に党の基礎となり構成要素ともなるべき労働者の先進部分、前衛的な要素を種々な形で生みだしているからである。戦闘的な労働者、誠実な活動家が、既成の革新政党に失望し、新生の諸セクトに批判を抱き、しばしば政党組織そのものに対する不信にさえ陥りながらも、なお、真に科学的社会主義の思想に貫かれた党に思いをはせ、党建設の問題を追及せざるを得ないのは、彼らの闘いそのものが、ますます切実にこの問題をつきつけているからである。」

 私は広島でささやかな実践的追求にとりくんでいる一人として、この指摘は全く同感であり、正にこの提起はそのものとしてわれわれつき当たっている問題である。多くの活動家がここでいわれている「労働者全共闘と名ずけれられているのが適当か否かは別として、内容的には切実に理解することができる。また「論文」がいうように、求められている党が、「労働者階級に服務し、その闘いの武器として役立つ党」であり、「闘っている労働者、勤労大衆とともに行動し、解決する組織的条件となり、激動する内外情勢のもとで、現実の闘いの中に革命へ接近する道を追及して止まない党」であることもそのとおりである。

しかし、そのためには何が必要であろうか。

「論文」は戦後の党の思想的不統一の原因をさぐりながら、それを、「常に自らを大衆の上におき、自己の意思を大衆に押しつける指導者意識――先験的には党は大衆の指導者であるとする根強い意識」だといい、戦前の経験にもとづいてその淵源は「テーゼから現実を『かくあらねばならぬ』と規定する主観主義・教条主義」に由来すると指摘する。その根源は、「真に『科学』することによって独創的なものを発展させる面で、きわめて貧しかった一般的風土を容易に脱け出られなかったこと」にあると既定し、具体的な原因としては弾圧の中で大衆から孤立、遊離して小さなセクト的集団になったことだと指摘しながら、スターリンの戦略・戦術規定における形式主義こそその思想的な根拠の重要な一つであるという。そうして戦後はこの主観主義・教条主義が事実の変化と発展を見誤り、党の組織原則を硬直化させたといいながらレーニンの思想闘争を引用して民主集中制のあり方をとき、この主観主義・教条主義が、「プロレタリアートの階級独裁を、即、党の独裁と誤る危険さえ生む基本的な思想問題である」と断定する。こうして「論文」によれば、戦前から今日に至るまで、諸悪の根源はあげて主観主義・教条主義、形式主義にあり、みずからを高しとする指導者意識であり、この克服なしに革命党の決定的に重要な位置を占める中央委員会を建設することはできず、したがって革命党の建設は不可能であるという。それはまた、テーゼを絶対化する思想を克服することなしにテーゼをつくることは、革命党の建設にとってかえって障害になるという考え方にも通ずると思われる。

しかし、果たして過去および現在の党建設の問題を、このように一般化し、唯一の思想問題に帰納することは正しいであろうか。われわれにとって重要なことは、どんな思想問題も、それを時代と社会を超越した一般的な思想問題に解消するのではなく、プロレタリアートの闘いのどんな歴史的条件のもとでどんな思想が生まれ、どんな思想と闘うのか、ということではあるまいか。

例えば「論文」も引用しているレーニンの思想闘争――自然発生性に対する目的意識性の闘い――もその一つであり、スターリンの戦略・戦術の規定に表われている教条主義・形式主義との闘いもその一つである。周知のようにレーニンの党建設論の中心は、「何をなすべきか」――これは労働組合論ではなく党建設論であろう――等で明らかにされているように、自然発生性の克服と目的意識性の強調におかれている。しかし、それは一般的な党建設論としてではなく、当時の情勢と条件の下でのロシアの前衛党建設論として貫かれている。当時のロシアは、マルクスがプロレタリ革命の条件として一般的に予想していた状況とは、明らかに異なっていた。すなわち、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて封建社会の物質的な根を引き抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなう基盤をならす」のではなく、「急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という未かい有の併存していた」((一)の二)という状態であった。これは単に情勢の相異としてだけ見るべきではない。何故ならば、ブルジョアジーの支配のもとで、ブルジョア民主主義の中で、プロレタリアートの多数がすでに労働組合に組織されている状態を前提としたプロレタリア革命――革命党の建設と、ブルジョアジーはまだ完全な指導権を掌握せず、前近代的な思想が社会を閉じ込め、プロレタリアートの多数がまだ労働組合に組織されていない状況のもとでのプロレタリア革命――革命党の建設とを同日に論ずることは適当ではないからでる。もちろんプロレタリア革命と革命党建設のもっている普遍的な原則と共通な性格はあったとしても、なおそこには大きな相異があるし、またそれが当然のことでもある。当時のロシア社会の状態の中では、今日のような自然発生的な組織と運動を期待することができないばかりか、自然発生性は革命の足をひっぱり、革命党の建設を停滞させるものでしかなかった。レーニンが直面したのは、絶対主義下のプロレタリア革命と党建設であった。そこで最も必要とされることは、自然発生的な「組合主義的政治」と闘って目的意識的な「社会民主主義的政治(共産主義的政治)を外からもちこみ、革命の目的意識的な表現としての強固な革命党を是が非でも急いでつくり上げることであった。それは単なる組織問題としてだけではなく、またすぐれた運動の問題でもあった。運動の自然発生的な「後進性」は目的意識的な革命党の「先進性」で補完されなければならなかった。 したがって当然にも必要であったのは、党組織の「ゼムストヴォ」的(共同体的)な地方自治的性格ではなく、「工業」的で強固な中央集権的性格であった。当時のレーニンにとって、それは党建設の闘いであるととともに、党組織にあらわれた当時のロシア社会の絶対主義的な性格との闘いでもった。 こうしてレーニンの目的意識性、中央集権的組織性は闘いとられた。したがって具体的な歴史的条件下での具体的な闘いを一般化することと同じように、その後スターリン=コミンテルンにうけつがれた官僚主義的な「鉄の規律」をレーニンの責に帰することは全くまちがっている。そうではなく、当時のロシア革命党はこうしてこそはじめて確立することができたのであり、そこにこそレーニンのすばらしい理論と実践がある。問題は十月革命後にある。

スターリンは、このレーニンの闘いからマルクス主義の「魂」――具体的状況の具体的分析――を抜き去り、「一国社会主義建設」の権威ためにレーニンを借り、レーニン主義という名の「スターリン主義」をつくりあげて。軍事的封建的帝国主義の下でのプロレタリア革命の過程と渦中における苦難な党建設の闘いと、権力奪取後とくに内戦終了後の党建設のあり方とは当然異ならなければならなかった。しかしスターリンは、自己の指導権を維持するために、レーニンを利用さえしたのだった。それはただ党建設だけの問題ではなかった。「論文」が引用している「レーニン主義の基礎」は、スターリンの講演が一九二四年四月、五月の二ヶ月に亘ってプラウダに連載されたものである。それはレーニンを偲んで行なわれた講演ではあったが、それはまた新しい「スターリン主義」の出発点でもあった。「レーニン主義