松江澄さん死去 戦後の反核運動リード
反核訴えた松江澄さんしのぶ 広島
追悼 松江 澄さん 反戦・反核運動の支柱共産主義運動の大先輩
松江澄さんの真摯さ
月15日 大木透
松江澄さんを悼む 白川真澄
被爆60年のヒロシマ
91フォーラム関西(2/3)での報告内容要旨
「私や私の世代の活動家は『朝鮮人』と言いにくい」もう一つの平和宣言
「地方自治体」の民主的変革をめざして   松江澄
板倉君を思う 松江 澄
内藤知周著作集解説


始めての「ヒロシマ」案内  松江 澄     リンク
ひろしま市民新聞 100号を迎えて  松江 澄
松江 澄著作リスト
松江 澄 意見書 古い「新しい」公式」と新しい「古い公式」   松江 澄

占領の性格と日本の国家権力   松江 澄   前衛 臨時増刊号 団結と前進 第5集 1957年?NEW

地方自治か住民自治か  松江 澄NEW

「市民会議」の結成と新しい住民運動の展開 松江 澄NEW
一九四九年六月―日鋼広島の闘い― 松江 澄NEW

技術革新と労働の疎外(労研通信No.14 1985.10.20刊)
ー新しい社会の展望をめざしてー  松江 澄

生産力発展と労働者ヘゲモニー(労研通信 No.60号 一九八九年七月二〇日)松江 澄

被爆四〇年の「八・六」へ   (労研通信No.八号 1985・4・20) 松江 澄
ポーランドの事態から学ぶこと ―現代社会主義の諸問題ー 松江 澄  

核戦争阻止の闘いと社会主義への平和的移行  松江澄 労研 1985.1 No.183号NEW

被爆四〇年のヒロシマから  松江澄 労研 1985.5 No.187号NEW

「地方自治体」の民主的変革をめざして    『労働者』1978年10月10日 第44号から 一部再録

八・六広島反戦・反核集会報告  松江澄 労研1985.10 No.192NEW

反戦反核運動の再構築へ  「八・五ニュース」レジメ 労働者」 1992.4.15234

十・一九反戦・反核集会に三百人結集

1992.8.5反戦反核広島集会

原爆・敗戦50周年を前に―日本の平和運動を問い直す―  特集1 アジアにおける反戦反核運動  広島県原水禁常任理事 松江 澄

加害と被害の二重の苦しみ  広島で「生物・科学兵器を考える」全国シンポジュウムを開催 松江 澄  「労働者」1993年2月15日 第243号 NEW
現代帝国主義と統一戦線  労働運動研究  松江澄 NEW
新しい党と新しい革命 労働運動研究  松江澄 NEW
日本共産党の「教師聖職」論批判 ひろしま市民新聞 労働運動研究  松江澄NEW
私の昭和思想史
(
五六) 松江澄  新時代 1993.8.15   第249
私の昭和思想史五七)松江 澄  新時代 1993.9.15  第250
私の昭和思想史(五八) 松江 澄  新時代 1993.10.15  第251
私の昭和思想史(五九) 松江澄  新時代 1993.11.15 第252
私の昭和思想史(六〇)  松江澄 新時代 1994.1.15 第253

私の昭和思想史 目次 三二 三三 三四 三五 三六 三七 三八 三九 四〇
四一 四二 四三 四四 四五 四六 四七 四八 四九 五〇NEW
五一NEW 五二NEW 五三NEW 五四NEW 五五NEW 五六 五七 五八 五九 六〇


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松江澄さん死去 戦後の反核運動リード '05/1/16

 原爆投下後の広島で、戦後一貫して反戦反核運動に取り組んだ元広島県原水禁常任理事で元広島県議の松江澄(まつえ・きよし)氏が十五日午前四時十二分、呼吸不全のため広島市中区猫屋町一ノ三の自宅で死去した。八十五歳。広島市中区出身。告別式は十六日、広島市中区上幟町八ノ三三の広島流川教会で。近親者だけで営むため時間は公表していない。喪主は長男洋(ひろし)さん。

 旧制一高を経て東京大在学中に召集され、富士山ろくの陸軍教育隊で敗戦を迎えた。一九四六年、中国新聞社に入り調査・論説を担当。労働運動に打ち込み、四八年に広島県労働組合協議会会長に就任したが、五〇年にレッド・パージを受けた。

 この間、広島で戦後最大級の労働争議とされる四九年の日鋼争議を詩人の峠三吉らとともに指導し、被爆地で初めて「原爆廃棄」を決議した同年の平和集会「平和擁護広島大会」の議長を務めるなど、戦後初期の労働運動や反核運動をリードした。

 五九年から通算五期二十年間、広島県議を務め、六二年には議員に小判が配られた「大判小判事件」を暴露したことでも知られる。著書に「ヒロシマから」「ヒロシマの原点へ」など。

 広島県原水禁の宮崎安男顧問は「核兵器を絶対否定する原水禁運動の理論的な支柱だった。彼の理論のおかげで、政治的な介入から国民運動を守り続けることができた」と功績をしのんでいる。

反核訴えた松江澄さんしのぶ 広島

'05/4/24


 被爆地広島の反戦反核運動の前線に立ち、今年一月に八十五歳で亡くなった松江澄(きよし)さんをしのぶ会が二十三日、広島市西区の広島サンプラザであった。妻祥子さん(78)や親交のあった市民約六十人が集い、思い出を語り合った。

 黙とうの後、会食のテーブルでマイクを回した。「物事を真正面から受け止める人だった」「相手が誰であろうと主張する、強さを持っていた」と故人をしのぶ声が続いた。松江さんは戦後、中国新聞社の論説委員を経て、広島県原水禁の常任理事や県議などを務めた。

 平和運動などを共にした中区白島北町の田中寿さん(81)は「優れた理論家でありながら人情味にあふれた人。大きな人望をあらためて感じた」と惜しんだ。

【写真説明】松江さんとの思い出を語り合う、ゆかりの人々

追悼 松江 澄さん
反戦・反核運動の支柱共産主義運動の大先輩


米占領下の労働
運動と反原爆運動

 広島の反戦反核運動の理論的支柱であり、社会主義運動・共産主義運動の大先輩である、元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長の松江澄さんが一月十五日未明亡くなった。享年八十五歳。
 松江さんは、旧制一高を経て東京大在学中に召集され、中国大陸・満州に放り込まれた。その後、富士山麓の陸軍教育隊で敗戦を迎えた。自分たちの自由な空気が奪われることには学内で抵抗できたが、社会的に抵抗できなかったことを一生涯、原罪として背負い続けておられた。
 被爆直後の二週間目あたりに広島に戻り、「広島駅に降り立つと目の前にいきなり(街並みが一つとして残らず)己斐の山が飛び込んできた」というその廃墟になった故郷の姿を脳裏に焼き付けたのであった。医師をしていた兄の死に場所は探したが判明しなかった。母を三年後、原爆症で失った。この戦争と原爆が松江さんを労働運動と反戦運動、そして革命運動へと導いた。
 一九四六年、中国新聞社に入り中国新聞労組を皮切りに、戦後労働運動の真只中で、四八年に広島県労働組合協議会会長に選ばれる。また、内面の闘争を経て日本共産党に入党。四九年六月から一カ月の歴史的な日鋼(日本製鋼)闘争を指導し、連日一万人を動員した。闘争は敗北し国会考査委員会に引っぱられた。同志には詩人の峠三吉らがいた。五〇年にレッド・パージを受けた。被爆地で初めて「原爆禁止」を決議した四九年の平和集会「平和擁護広島大会」の議長を務め、五○年三月からのストックホルム・アピール署名運動、五○年八・六の非合法集会、五一年八・六屋内集会、五二年八・六屋外集会、五三年八・六屋外大規模集会と米軍占領期の反帝反戦反原爆闘争を担った。

原水禁運動の分裂
と松江氏の立場

 五四年三・一の「ビキニ」被爆を契機に国民主義的な原水爆禁止運動が爆発した。六〇年安保に登りつめる過程での自民党、民社党の右からの分裂、そして、安保後の共産党の「左」からの分裂を乗りこえて、常に指導部として、原水禁運動の発展の力学を防衛し続けた(総評が組織的に右から分裂するように追い込んだ共産党の責任を捉える立場から、ここでは共産党の「左」からの分裂と捉える)。ソ連邦の核武装擁護という共産主義者の立場と米・ソ核実験を同列視しがちな大衆運動としての反核運動のエネルギーを結合しようとしたその苦闘の重さと堅実さが松江さんのポジションを確かなものにした。
 松江さんには、アメリカ合衆国によって原爆を投下された日本の反核運動が大衆的である限り、それは帝国主義に一方的に打撃になるという客観的力学への確信があった。そうであるがゆえに、ソ連邦の核武装擁護が綱領的、政策的に正しくても、階級的革命的立場を大衆運動に対して一方的かつ教条的に押し付けることが百害あって一利なし、という立場に立ちきった。
 この松江さんらの立場が、「いかなる国」問題での分岐において、総評でもなく、共産党でもない、被爆地の広島県原水協(後の俗称:広島県原水禁)の立場を不動のものにした。全国では総評が組織的に日本原水協から右分裂したものの、被爆地では、統一の隊列を守る粘り強い運動を実現したのであった。そして共産党は忍耐強く我慢することができなかった。稚拙な分裂を広島県原水協・被団協に対して行った。とりわけ被害者団体の被団協で強行したことは致命的であり、今日まで、被爆地での共産党の位置を低くするものとなっている。

大衆運動・組織建
設の経験から学ぶ

 五九年に日本共産党初めての県議、以降通算五期で住民運動の先頭に立つ。六一年に内藤知周らと共に社会主義革新運動を結成。その後の労働者党建設の困難な道を歩む。一九四八年から一九六一年の共産党時代、三度の党内闘争で二回の除名、一度の機関罷免処分、ついに新党コースに飛躍した。しかし、その後の三十数年の党建設の闘いは、実を結ばなかった。長谷川浩、内藤知周をはじめ六一年以降の共産党内の批判的精神の潮流は、国際共産主義運動の総括を通して、トロツキズムに結びつくことはなかった。
 広島の第四インター活動家は、七〇年代、松江さんや広兼さんから労働者党建設の方法を、その姿勢を、学ぼうとしたという。私は、松江さん支持者の方が経営する本屋で働きながら、松江さんを存じ上げていたが、親しくおつきあいさせていただくようになったのは、八〇年代後半からだった。反戦反核広島集会の流れでは、九六年まで代表を務めていただいた。
 月一回の学習サークル、平和サークル(平C)では、日本近代史、戦後史、グラムシの獄中ノート、東欧改革・ゴルバチョフ改革、ソ連邦の総括、渓内譲氏の著書をめぐって討論し、いろいろとご教示いただいた。私のスタンスは、エルネスト・マンデルの受け売り一本であったが。九○年の正月には、沖縄で、ご一緒させていただいた。二〇〇〇年の入院の際は、毎日、市民病院に駆けつけさせていただいた。退院後、市民運動の拠点であった場所の高齢者デイサービスに通われるようになり、松江さんを尊敬するスタッフの介護の中で穏やかな晩年を過ごされた。
 ソ連邦解体後、ソ連核実験場のセミパラチンスクを広島県原水禁として初めて訪問した際、松江さんは次のように述べられた。
 「広島県の二倍もあるこの大草原のかなたで、四九年から四十年間にわたって三百二十回も核実験が行われた。二百八十回に及ぶ地下核実験は地底から草原を揺るがせて大地を割り、四十回の大気圏実験はそのたびにヒロシマと同じ『きのこ雲』をこの草原の空に噴き昇らせた。広島より何十倍も重い線量の放射能が草を侵し牛を侵し、風に乗って草原の人々を侵し続けた」。
 松江さんの事実から学び、誤りから率直に転換する姿勢、大衆運動をご都合主義的に引っ張りまわす「指導」への徹底した嫌悪、「コシアン」より「ツブアン」という自立した人々の集合体、組織への熱烈な希望、これらを私たちは学んできた。
 被爆六十年の節目に、広島の運動が飛躍するように、私たちに促すかのような旅立ちであった。
 松江澄さん、長い間、ありがとうございました。あとは私たちが国際的で階級的なこの歴史的事業を引き継いでいきますから。
 (1月31日 久野成章)

松江澄さん死去 戦後の反核運動リード

「地方自治体」の民主的変革をめざして    『労働者』1978年10月10日 第44号から 一部再録


反戦反核運動の再構築へ  「八・五ニュース」レジメ 労働者」 1992.4.15234

松江 澄  レジメ

 

松江代表はレジメにもいとづいて重要だと思う点にについて補強提起した。同氏がとくに強調した第一点は、戦後来の世界と日本の反戦反核運動を規定していた国際的な枠組みは米ソであったが、米ソ核軍縮の対立にひきつづくソ連の崩壊によって、その冷戦構造が終焉したこと、その後あらたに米戦略が提起し実行しているのが、先進諸国をかたらって途上国の粉砕を「選択抑止」し、石油をはじめとする米や先進諸国の権益をまもることであり、湾岸戦争はその集中的な実例であったこと。

 第二に、こうした状況のもとで日米安保が新たにアジア・太平洋「抑止戦略」の枢軸にされようとしており、そのことは沖縄基地をめぐる収容委員会における沖縄施設局の釈明―「日米安保条約はアジア・太平洋地域の平和と安定のために機能を果たしつつある」という新たな解釈によって明らかであり、それはカンボジアPKPへの参加をねらうことから始められようとしていること。

 第三に、そこで一方では冷戦構造の凡壊によって名目を失った大軍備と核武装の廃棄を要求して積極的な攻勢に進むとともに、かつての日本侵略戦争も犠牲を深く心に刻んで償うことを前提に、アジアの民衆と連帯して新たな平和戦略を追求し、そのための縦深の深いネットワークの形成を進めなくてはならぬ、ということであった。

松江氏の提起のなかにある「守勢から攻勢へ」、あるいは自衛隊の縮小についての「ハーフ・オプション」論について活発な議論が交わされた。


十・一九反戦・反核集会に三百人結集

 十月十九日、東京総評会館にて 91反戦反核東京集会が開催された。集会は八月の広島集会と呼応する東京集会実行委員会が主催したもので、広島集会実行委員会の松江澄さんらも参加した実行委員会を積み重ねながら準備されてきたものである。ピースサイクル運動や広範な独立左派の各派も構成団体に入った、反戦・反核運動を主体的に再構築していこうとする意志の結集の場である。
 集会は、実行委員会の西田理さんが経過および基調を提起し、各界・各地の運動からの提起と報告を受け、衆議院議員の長谷百合子さんの国会報告があり、しめくくりとして東京全労協の池田さんから、特別アピールとして十一・二〇集会への結集が呼びかけられた。
 各戦線、各地からの報告には、とりわけNEPAの会の服部さんの報告に見られるように、従来型の公式的運動にとらわれない大胆な試みが示されるなど、各地での取り組みが創意をこらして作られていることを実感させれるものが多かった。
 NEPAの会の報告は、アメリカの環境保護法NEPAを利用して、横須賀基地のNEPA違反を告発し、ワシントン地裁に国防長官、海軍長官を訴えたもので、多くの米軍基地を抱える国々からの反響があるというものであった。
 集会に先立ち、討論集会が開かれ、約六〇人の参加のもと、星野安三郎さん、松江澄さん、吉田嘉清さん、前野良さんらがパネラーとなってPKOによる国際貢献論に対抗する視点を討論した。


板倉君を思う1976710日 『労働者』)         松江 澄

 板倉静夫氏急逝

板倉静雄氏は197677日午前7時急逝骨髄性白血病のため急逝された。享年五十歳。

 

昭和20年、私が共闘委員長だった日鋼争議の闘いの中で、当時三菱広島造船労組の青年部だった彼と会ったのが最初の出会いだった。若くてスマートで、それでいてたくましかった彼と、以来今日まで 27年間、心許した同志の仲だった。

 彼は、レッド・パージで三菱を首切られてから、機関紙活動、労組書記の活動など地味な仕事を続けながら、五十七年の第三回世界大会以来、広島原水協、つづいて広島原水禁の事務局次長として十数年もの間、縁の下の力持ちのような、しかしこの運動にとって他の人に替えられぬ大きな貢献を果たした。早くから運動に参加した被爆者で彼を知らぬ人はいないであろうし、また被爆三県はもちろん中央、地方の原水禁運動の活動家の多くが広島に来れば必ず訪れたものだった。ほんとうに彼は広島の運動の生き字引であり、案内人であった。

 彼ほど、几帳面で器用な反面、奔放で自由な、その上鋭いカンをもっている男も珍しい。彼には、初めての人でも一夜飲んで意気投合すれば一生のつきあいになるほどの人間の深さがあった。彼は多くの人々を愛し、多くの人々もまた彼を愛した。しかし、あの頑健な彼もついに逝った。彼が何度もそのために奔走した白血病のために広島の原水爆禁止運動はまた一人かけ替えのない宝を失った。


初めての「ヒロシマ」案内

                               原水爆禁止広島協議会                              常任理事  松江 澄

  一昨年の秋だったか、久し振りで会った戸村君から単刀直入に、「ヒロシマの平和運動とは何ですか」と問いかけられたことがある。

 戦後来広島で反戦反核運動をつづけてきたつもりだった私は不意を衝かれて、「ともかく自分でやって見るしかないよ」と、答えにならぬ答えしか言えなかった。

 その実直で誠実な彼が一年以上もかかって自分の足で歩き、眼で見きわめながら追求したのがこの書だった。彼は「ヒロシマの今から過去を見て回る会」を皆でつくり、フィールドワークで多くの人々にヒロシマを伝え、「広島案内」という一書をつくりあげたのである。これは彼が一つ一つ歩いて調べたものであり、その殆どのフィルムは彼のレンズがとらえた広島の過去のあかしなのだ。従ってそれはただの地理的な「広島案内」ではない。それは彼によってひらかれた広島の歴史地図なのだ。これをひもとく人は日清、日露の戦争から十五年戦争まで、侵略戦争の加害から原爆の被害まで、一人の日本人として事実を知るために歩き始めるに違いない。こらはまさに広島の遺跡の案内書であるとともに、かって彼が私に問いかけた「ヒロシマの平和運動」の案内書なのである。

 ふり返ってみれば、こうした案内書が出来たのは私の知る限り広島で初めてである。こうした書が戦後はじめて、戦争と原爆の五十年忌を前にしてつくられたことの意味は大きい。いままで広島の加害と被害は多く語られてきた。しかしそれは本来けっしてことばや思想だけの問題ではない。彼は一つの町で起きた二つの課題を足で歩いて堀り起こし、同じように多くの人々に足で歩くことを求めている。それは彼のたゆみない実直で凝り性の職人かたぎがなければ生まれなかった。そうして彼は広島で産まれ、生きて、死んでいった多くの人々や樹木や建物を誠実に歩き求めようとする人々のために一身をつくして労働した平和の職人なのである。

 彼のひたむきな努力と、その努力を助けた多くの人々に心から感謝する。私は一人でも多くの人々がこの書を読み、この書を友としてヒロシマと広島を歩き尋ね求められることを心から期待する。

 すべては事実から始まるからである。



松江澄さんの真摯さ         宇仁宏幸
 
松江さんと初めて会ったのは学生時代だと思うが、頻繁にやりとりをしたのは、1988年から91年にかけての約3年間である。88年にわたしはそれまで勤めていた会社を辞め、大阪にやってきた。そして翌年から5年間、大阪市立大学で経済学を学ぶことになる。当時、大阪では『労研通信』という、総頁数約12ページ、発行部数約2百部の文字通りのミニコミ月刊誌を、京阪神在住の京大OBが中心となって発行していた。第1号は1984年に出されたが、次第に原稿が集まらなくなり発行が滞りがちになっていた。それを建て直す意図も込めて松江さんは『私の昭和思想史』という自分史の連載を1988年6月発行の第46号から始められた。松江さんのおかげでその後『労研通信』は順調な発行に戻った。仕事を辞めたわたしが最も暇だったので、原稿のとりまとめや印刷所との連絡を担当した。松江さんは、毎月原稿用紙約20枚の手書き原稿を送ってこられた。その原稿はペンで丁寧に書かれており、修正箇所はほとんどなかった。おそらく下書きを書いたうえで、それを最後に清書されていたのであろう。原稿提出後に気づいた訂正は電話やはがきで連絡してこられた。発行後には誤植を細かく指摘された。編集も刊行もきちんとしているとはいいがたいミニコミ誌にもかかわらず、松江さんは、非常に真摯な姿勢で、膨大な時間を費やして原稿を執筆された。ものを書くことに関するこの真摯さから、当時研究者を志していたわたしは多くのことを学んだ。『労研通信』は購読料がきちんと徴収されていないこともあり90年末頃から財政難に陥った。わたしたちがワープロ入力を担当することによって経費節減を図ったが、その努力も及ばず、91年4月発行の第81号で廃刊となった。松江さんの『私の昭和思想史』の連載はその後『労働者新聞』に引き継がれた。また『労研通信』に掲載された30回分は、加筆されて、社会評論社から95年に『ヒロシマの原点へ』として出版された。『労研通信』の最後の数号のワープロ入力を担当したせいか、松江さんの手書き原稿約130枚が、わたしの手元に残された。わたしはこの手書き原稿を見るたびに、松江さんの真摯さを思い出す。また、研究者を志した頃のわたしの初心がよみがえる。


『グローカル』673号より

松江澄さんを悼む

白川真澄


 松江澄さんが亡くなられた。反戦平和運動、共産主義運動の大先達であり、被爆地・広島の地で運動に生涯を捧げた人であった。日本共産党に入党し、中国新聞社時代は産別会議議長として労働運動を、そして朝鮮戦争反対の平和運動、原水爆禁止運動を組織された。一九六一年の共産党八回大会を機にして除名された春日庄次郎、内藤知周さんたちと行動を共にしたが、県会議員であった松江さんは大衆的な人気があって、共産党除名後も県会議員に当選することができた。
 私が初めて松江さんにお会いしたのは、一九六六年三月に開かれた「共産主義者の結集と統一をめざす全国会議」の時のことだと思う。私は六四年に共産党を除名されて、志賀義雄さんたちの「日本のこえ」に参加していたが、「日本のこえ」、内藤さん・松江さんたちの「社会主義革新運動」、春日さんの「統一有志会」、それに無所属の共産主義者が一堂に会して、反スターリン主義の潮流ではない新しい前衛党の結成をめざしたのが、この「全国会議」であった。二〇歳代前半の私たちは、ぎっしり満杯の大広間と廊下の敷居に座るのがやっとで、雑誌や機関紙で名前を知っている著名なリーダーたちの演説に聞き入っていた。松江さんは重量感のある音声で爽やかな演説をした人だったが、この会議で松江さんがどんな演説をしたか、また松江さんとどんな会話をしたのかは、よく思いだせない。
 この「全国会議」は紆余曲折を経て、共産主義労働者党の結党(六七年二月)に至るのだが、松江さんの率いる広島の地方組織は当時の私にとっては憧れの目標であった。京都の党組織は学生運動の活動家を主力とし、ようやく職場に活動家を送りこんで労働者の中での組織建設に試行錯誤で手を着け始めていたが、広島の党は国鉄労働者の中に組織をもち、議員を出し広島駅前に事務所を構え、メーデーなどでは社共とならぶ政党として扱われていたからである。
 松江さんは、党の中央委員会の会議などでお会いすると、いつも柔和な笑顔で話しかけてきて、地方組織で活動している私を励ましてくれた。広島に行ったときに、一度自宅に泊めていただいたことがあるが、夫人が内職仕事をされているのに出くわして、職業革命家の生活は大変だなと、つくづく思ったことをよく覚えている。
 しかし、そんな松江さんとの決別は、意外に早く訪れた。ベトナム反戦闘争や全共闘運動の高揚は、共労党が左へ舵を切り、実力闘争に突入していく道を選択させたが、松江さんたちはこれに異を唱えた。反戦青年委員会を組織して、青年労働者を労働組合の枠を踏み越えて立ち上がらせるという私たちが提示した方針は、広島の党組織には受け入れられなかった。労働組合運動の中に根を張ってきた強みが、時代の激しくはやい転換に対応することを逆に妨げたのかもしれない。六九年五月の三回大会で、私たちは松江さんたちと袂を分かつことになった。私は、政治的には当然いいだももさんたちと同じ道を行くことを選択していたが、人間的には深く信頼していた松江さんとの別れは、ちょっと辛いものがあった。何年か後に再会する機会があったが、松江さんは、この時代の青年・学生の反乱を高く評価するようになっておられたようだ。
 共産主義運動そのものの意味が歴史の厳しい点検を受けねばならない時代に入っているが、民衆の解放と反戦平和の信念を貫いた松江さんの生き方を、私はやはり尊敬する。ご冥福をお祈りします。


ひろしま市民新聞
100号記念にあたって
(1979年5月10日発行)

労働者党広島県委員長  松江 澄

70年1月第一号を発行した「労働者新聞」を継承した「ひろしま市民新聞」がこの5月号で100号を迎えた。一口に一〇〇号といいながらその間9年半、その一号に広島の労働者、市民とともにわが党が歩んできた闘いと探求、苦しみと喜びの1こま1こまがある。
 ふりかえれば六一年、誤った政治方針と官僚主義の日本共産党と決別して社会主義革新運動を結成して以来、ただ一途に共産主義運動の革新と統一・社会主義への新しい道を探し求め、六七−六八年総結集をめざして共産主義労働者党を創りながらもまもなくて頭した「左翼」急進主義潮流と闘って再び分離し労働者党全国連絡会議をつくったのが六九年だった。次第に堕落を深める日本共産党と一層拍車をかける「左翼」急進主義とをきびしく批判しながら、独自の道を模索するわれわれの決意と苦悩が第一号主張「奇妙な対立と七〇年代闘争の新しい旗印」の行間にまざまざとある。
 その時から今日まで、それは広島県委員会にとって出発以来いわば第二の時期に当たる。この時期は、忍びよる世界恐慌を前に急激な高成長を遂げた日本資本主義が帝国主義世界体制の再編のなかでその強力な一環を形成し、ひきつづく七四−五年恐慌を通じて一層独占・集中をすすめるとともに「中道」主義で補完しつつ反動的な政治体制へと急いだ時期であった。またこの時期は、資本の大巾上昇をかちとった春闘が恐慌ー不況のなかでの資本の攻撃によってたちまち連敗し、ひきつづく経済危機のもと強力な合理化攻撃をタテにした労働組合の体制内抱え込み戦略に屈し、労働組合運動がかつてない重大な危機に直面した時期でもあった。この時期わが党は大衆運動に根ざした闘いのなかで県市議選に勝利し、労働運動研究会と広島市民会議を運動の二つの柱として追求した。
しかしその後運動の停滞のなかで七五年統一地方選挙では県議選に敗北したが、自らの力でかちとった党組織単一化と新しい政治方針に励まされて活動を再開し、今春の選挙では全党全後援会員の必死の努力で再び県市議選に勝利することができ新たな出発点に立つことになった。この間「市民新聞」は困難をおかして発行をつづけ、近くは新しく若い力を含めて闘いの先頭に立った。
 いま広島県委員会にとって第三の時期が始まろうとしているがそれは日本の階級闘争と革命闘争にとって真に重大な時期でもある。日本帝国主義はその戦後発展の総決算として「有事立法」、「元号法制化」、一連の「治安立法」などを威丈高に掲げその意図をかくそうとはしない。「中道」主義もまたその衣をぬぎすて体制の側に立つことを公然と宣言してはばからず、勢いを得た右翼もまた活発に跳梁し始めている。戦後帝国主義の管理「民主主義」は経済的政治的危機のもとでいまようやく公然たる反動化へふみ出そうとしている。しかしそれを迎え撃つべき労働組合運動と民主主義運動は上から押さえ込まれ社共また闘いを放棄し、「革新」勢力もまた戦後の総決算を強いられている。
 こうした情勢のもとでいま求められているのは、既存の運動と組織のワクを超えた闘いとその連帯である。職場に「城」を創る労働者が各戦線で連帯しつつ地域に「トリデ」をきずく市民、住民の運動と提携し、誠実な知識人、科学者とも手をたずさえて反独占反権力の民主主義戦線を再構築して闘う時期である。いま必要なのは誰にでも通用することばの「民主主義」ではなく、また無視することで闘いを放棄する観念的な「革命論」でもない。いま問われるべきは支配階級の「民主主義」か、労働者・人民の武器となる生きた民主主義かなのだ。それは「戦後民主主義」を総決算する闘いであるとともに、労働者・人民の徹底した民主主義=社会主義への断呼たる闘いでもある。
 わが党が今日まで運動に寄与し得たことはほんの僅かであるかも知れない。しかしそれをけっして手離すことなく握りしめ、まだ解決されていない多くの分野にむかって広島の労働者、市民諸君とともに正面からとりくむことにこそわが党の任務がある。そのために市民新聞がその武器として一層その内容を充実しますます多くの読者と結びつき、生きた機関紙として発展することを心から期待する。
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被爆四〇年の「八・六」へ   (労研通信No.八号 1985・4・20) 松江 澄

「三・二一ヒロシマ行動」は終わった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはったが、あのときのはじけるような下からのはずみはなかった。それは情勢と条件またとりくみの厚さと広さの違いがあるとはいえ、この三年間の運動状況の推移が示すものであった。ともあれ、われわれの運動はすでに今年の「八・六」へ向かって出発した。それは被爆四〇年の運動であるとともに、被爆四〇年からの運動でもなければなるまい。この運動はどこへ向かうべきか。
 被爆四〇年はまた終戦四〇年でもある。一〇年(五五年)には早くも第一次高度成長期が始まるなかでいわゆる「五五年体制」がととのえられ、二〇年(六五年)には「日韓基本条約」が結ばれて政府のいう「日韓一対化」の第一歩が始まる。三〇年(七五年)にはその韓国をアジアの反共「第一線」だと日米で確認し、天皇は「原爆投下は戦時中で止むを得ぬ」と発言する。すしていま四〇年(八五年)、中曽根政府は戦後総決算をすすめつつアメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。中曽根は四〇年前の敗戦に学び、今度はアメリカと「運命共同体」になることでl新たな「富国強兵」の道を歩み始めている。
 日本原水禁運動は、四〇年前の戦争の背後に落とされた原爆の未曽有の破壊への人間的な怒りから生まれた。それは来るべき地球絶滅の戦争を予見することによって人類普遍の核廃絶の思想となった。だがその破壊の余りの巨大さと悲惨さは、それが「日本帝国」によるアジア侵略戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。それは未来を先見したが、果たして過去を深く省みたであろうか。いま中曽根が日米核安保を軸にして「環太平洋構想」で再びアジアに君臨しようとするとき、われわれの何よりの課題はアジア・太平洋の諸国民と深く連帯して日米軍事同盟=極東核戦略体制と闘うことではないか。それは四〇年前の日本の「原罪」を償う道であるとともに、「まどえ、(広島弁で償えという意味)あやまれ」と国の戦争責任を根深く追求する被爆者・被害者の心底の怨念に応える道でもあるのではないか。
 いまニュージランドのロンギ政権は公然と国を挙げて米核艦船の寄港を拒否し、被爆国日本政府のずるい対応をきびしく批判する。中曽根はいまアメリカの「核の傘」のもとで肥えふとった経済大国のツケを」つきつけられ、建前と本音の矛盾に右往左往している。アメリカへ行っては軍事費負担を増大するといいながら東南アジアを回っては軍事大国にはならぬといい、国民に向かっては非核三原則をまもるといいながらレーガンに対してはトマホークの寄港と核戦略基地の建設を約束している。いまこそ「建て前」をつきつけて本音に迫る大衆的な運動をおこし、非核アジア・太平洋をめざす連帯の旗を高く掲げて闘うときではないか。それは被爆者援護法の実現を迫る運動とけっして別なものではない。
(これは「広島原水禁ニュース」のために書いたものを、編集者の了解を得て投稿したものである。)



技術革新と労働の疎外(労研通信No.14 1985.10.20刊)
ー新しい社会の展望をめざしてー
  松江 澄


 
私は一九八一年一月、京都大学現代資本主義研究会の理論研究合宿で「技術革新」について話したことがあった。これは後にテープをおこして復元され、労研一四五号に「誌上講座」として掲載された。私はこのなかで今日の技術の発展を労働手段の最高にして最後の段階ー従って人間と労働手段の転倒の完成ーとしてとらえ、それがもたらす労働過程の分断と労働の全体像の喪失が労働者の意識におよぼす影響について述べた。そうして資本主義社会の産物である最高の技術体系が資本主義社会の産物である最高の技術体系が資本主義生産にとって合目的的なシステムとして作用するように、社会主義になればその同じ機械と技術が社会主義生産に合目的的なシステムとして作用する、ということでよいのであろうかと疑問を提出した。そうして私は、それではいけないはずだと社会主義ー共産主義社会における技術体系=労働手段のあるべき位置についての再検討・再探求という課題を提起した。
 その後私はこの課題が常に念頭にあったが、最近「労働運動プロジェクト・チーム」の数度に亘る討論に参加して多くの実践的知的刺激を受けながら、この課題を再追求する機会を得た。とくに私は、かって私が労働手段=技術体系の問題として提起したものが、実はすぐれて労働そのものの問題ではないのかといま考えている。従ってそれはまた、われわれの追及する新しい社会のあり方と深くかかわり合った課題ではないかとも考えている。そこで前掲載文の文脈に添いながら新しい問題への発展を追及するために一つの試論として提起する。
 私が前記論文のなかでも重要な意味をもつと考えたのは、機械大工業時代における工場での機械は労働者を労働から解放するのではなく、労働の「内容」から解放する、というマルクスの指摘であった。(「資本論」第一部第十三章第四節「工場」)つまり労働が無内容になるということである。それでは労働の「内容」とは何であろうか。マルクスは同じ文章のなかで、機械労働は極度に神経系統を疲れさせるが、また筋肉の多面的な働きを抑圧し、すべての自由な心身の活動を奪ってしまうとのべている。そうしてまた、労働者と労働条件の位置の傾倒は機械装置をもって初めて技術的に明確な現実性を受け取る、と指摘する。
 マルクスが産業革命時代の機械から展望される技術体系を労働手段の最高の形態と考えていたとしても不思議ではない。どんな天才でもその生きた時代に制約される。だが機械と技術は今日、当時では考えられもしなかったほどの著しい飛躍的発展をとげた。それはただ自動機械の速度やしくみがすばらしく発展したというだけでなく、それまでの機械が人間の筋骨にたとえられるなら新しい機械と技術は人間の頭脳ともいうべき質的な飛躍と発展をともなってている。それはすでに人間の「知力の対象化」というよりも、人間そのもの「疑似」対象化とでもいうものである。こうした新しい技術体系は、自由な心身の活動を奪うだけでなく、労働が本来もっている「創造」という質を最後の一かけらまで奪い取り、労働の分断は極点に倒する。
 労働は「人間と自然との過程である。すなわち人間が自然との物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である」、従って人間はその労働の過程において、「彼の外にある自然に働きかけこれを変化させるとともに、同時に彼自身の自然を変化させる。」(「資本論」第一部第五章第一節「労働過程」)、対象である自然(間接的な自然を含めて)を加工するとともに、そのことによって人間が自然にもっている能力を発展させる。対象を変革することによって自らを変革する。それこそが労働が本来もっている「創造」的な質であり、労働の「内容」ではないのか。しかし搾取社会は人間の労働能力を弱めるだけでなく、徐々に労働の分断を内包しつつ資本主義に到ってまず精神労働と肉体労働を完全に分断し、次いでそれぞれの労働をさらに細く分断し、最後に機械と技術がその分断された労働を疑似的な「頭脳」で再統合することによって分断を完成する。そこには労働手段と労働者=技術と人間との最終的な倒がある。
 マルクスは「経済学・哲学手稿」において、資本主義社会では「労働が労働者の本質に属していないこと」、従ってその労働は「ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるため手段」となっていることを、「労働の疎外」と呼んだ。そこでこの疎外を仮に労働の疎外「社会的」疎外というなら、さきにのべた労働の内容からの疎外を労働の「技能的」疎外と呼ぶことはできないであろうか。労働の「社会的」疎外が労働のおかれている位置と本質にかかわるものであるならば、労働の「技能的」疎外とはそれ自体が内包する本性と能力にかかわるものである。
 労働の「技能的」疎外は労働の「社会的」疎外から生まれる。従ってそれは労働の「社会的」疎外がなくなならなければ消滅しない。しかし労働の「社会的」疎外がなくなっても、そのままでは労働の「技能的」疎外は自然にはなくならない。何故ならば、いったん機械と技術の体系によって内面にまできざみ込まれた労働の「技能的」疎外は、かつてそれを生み落とした原因がなくなっても肉体的に残存する。いったん最新の技術と機械に仕えた習性は一朝一夕には消滅しない。それはひきつづき機械・技術による管理を労働者が受け入れる素地となる。それは労働それ自体が本性的にもつ自由な心身の活動とそれが生み出す創造性とを奪うことによって、自由で創造な社会的諸活動を制約する基底となる。
 従って新しい社会は労働の「社会的」疎外の克服をめざして意識的に追求するとともに、労働の「技能的」疎外を消滅させるために目的意識的な努力をすすめなくてはなるまい。こうした疎外からの解放はもちろん権力が移動しただけで自然に実現されるものではない。それは新しい権力のもとで解放をめざす不断の努力によってこそ報われる。そこではじめて労働者が「職場と生産の主人公」になるという闘争のスローガンが現実のものとなり、機械・技術による人間の否定は再否定される。それがいわゆる「自主管理」であはあるまいか。そうして職場と生産の「自主管理」を基底として再構築される社会こそ経済と政治の「自主管理社会」と呼ぶことができるだろう。それは共産主義社会への欠くことのできない過渡である。(一九八五・一〇・九)
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生産力発展と労働者ヘゲモニー(労研通信 No.60号 一九八九年七月二〇日)

松江 澄

 

共産主義(目的社会)とは何か

 「必要に応じてとる」ということを、マルクスは『ゴータ要綱批判』で述べている。これをどうとらえればよいか。マルクスは、それ自体の基礎のうえにつくられた共産主義社会でなしに、資本主義から生まれたばかりの共産主義、すなわち第一段階の社会においては「能力に応じて、労働に応じて」ということを原理的なものとして捉えている。この「労働に応じて」か「必要に応じて」へと、転化=発展することが、共産主義社会の扉を開くというとらえ方をしている。レーニンは、これにつけ加えて、そこで国家が死滅していくと言う問題に照応させている。この「必要に応じて」ということを、何でも無尽蔵にあるから欲しいものだけとれるという意味にとらえるのは正確ではない。「能力に応じて働き、労働に応じて取る」という最初の段階で重要なのは、「労働に応じて」ということは決して“平等”な社会ではないという点である。

 この点で、スターリンもフルシチョフもブレジネフも、また毛沢東も間違いをおかしている。不平等な労働に応じては、不平等な分配が行なわれる。だから、平等ということは権利であって、権利が存在するということは、まだ決して平等な社会ではないということである。権利があるためには権利を保障する国家も必要になる。働き手が三人しかいない十人の家族と二人の家族があるとして、労働に応じて分配すると、何人の家族であるかは考慮にいれられない。だからマルクスはこれをブルジョア的な権利、ブルジョア的な「母斑」と言っている。毛沢東はこれを資本主義が中国において十分発達しなかったところからくる遅れた社会的要因としてとらえ、これをとりのぞくところから問題を組み立てている。ソ連でも、この時期の問題は適当にとばされてしまう。

 マルクスを読むときに注意しなければならないことは、マルクスは『ゴータコ綱領批判』というかなり後期の著作ではじめて、そして唯一の、しかもごく短い文章で、理想社会にふれているにすぎないことである。そこで彼がいっていることは、純粋に培養された資本主義が、一挙に新しい社会に転化したという前提のもとで、純粋な第一段階をとらえて語っているのである。それが第二段階に移るとどうなるということをかという追跡のしかたをしている。現実にある社会がどうなるということを言っているのではない。当時も今もそのような社会はない。現存社会主義はまだそれ以前である。マルクスの資本主義分析の中から生まれた、ある意味では非常に抽象的な、原理的な展望であるといえる。第二段階の「必要に応じて」というのは、第一段階からみると、巨大な時間の差があるということである。これは、作為的に、いつの時期に第二段階にはいったか、あるいははいろうという人為的なものではない。いわば規律か自然の習慣になるように長い時間を経て協同組合社会が生まれてくるという想定をマルクスはしている。

 そのような社会においては規制とか平等というものはなくなり、いわば「己れの欲するところを行いて、法(のり)を超えず」という状態が集団として行なわれる。「必要」というのは『何でもとっていい』という意味ではなく、マルクスの云う「一人の自由が万人の自由と矛盾しない」、あるいは資本論でいっている『自由な人間の連合』としての社会が生まれた状態、そのような社会のルールとして「必要に応じて」を掲げている。これは生産力の高さというより、むしろ、そういう人間のまったく自然な、無作為の状態が、巨大な時間を経て生まれ、そこにはもはや規律もないし、従って国家もない社会状態として想定している。ちょうど原始共産社会における人間が、権威によって結ばれるのではなく、尊厳をもって結ばれていたような時代の社会を高い次元で―もちろん生産力の発展も含めて―再現したような社会としてとらえている。このような視点から『ゴータ綱領批判』のこの部分はよまれるべきである。

 さらにいえば、『経済学哲学手稿』で提起した問題が最後に『ゴータ綱領批判』において到達されたといえる。その間には『資本論』等において、いくつか触れている箇所がある。『経済学哲学手稿』ではそもそも人間の本質は類的な存在であるか、歴史的な現実としての人間は類的な存在から疎外されているということ、それは「人間からの人間疎外」であるという問題を前提としている。そして、キリスト教の伝えるように、一人の男性と一人の女性が婚姻して子供を生んで次第に社会が発展するというのではなく、人間は集団としての存在が実は人間の本質であるととらえている。ところが、社会の発展は生産手段の発展と不可分だが、やがて生産手段が私物化されるなかで物をつくるが、つくった物はつくった人に属さないという「生産物の疎外」が生まれる。マルクスはそこから「労働の疎外」を」導き出している。それを追求する中で搾取論を明らかにしていくことになる。そして資本主義の「墓堀り人」としてのプロレタリアートが、闘いを通じて新しい社会をつくりあげる。このようなものとしての新しい社会が『ゴータ綱領批判』の記述に発展していったと私は思う。

 ただ、この『ゴータ綱領批判』の第二段階の中で、人間が全面的に発達することにより協同組合的な富の泉があふれるような表現がある。必然的にそういう社会になれば人間が全面的に発達するのだから、障害や疎外なしに生産力が全面的に発展し、富があふれんばかりに生まれてくるという想定をマルクスはしている。この点からみて、当時マルクスが経験している現実と比較してかなり進んだ生産力の発展が想定されているが、マルクスの思想としては、生産力の高さもさることながら、必要か必要でないかを「自由」に判断することが、他の人の「自由」の妨げにならないような新しい社会を提起しているととらえることが重要である。まざす新しい社会にとって、生産力の発展はどの程度のものを考えているかと聞かれると、私は答えられないが、大切なことはそのような量的レベルが事前に想定されたり、これでなければだめだということではなく、それをそこに荏んでいる人間あるいは人間の集団が選択し、判断するということこそが必要だと私は考えている。もちろん、ポルポトのように都会を排して、田舎での農業労働を強制するというのは問題外で、一定の生産力は必要であるが、そのレベルはあらかじめ想定できない。

 それに関連して、生産力と生産関係の照応の法則というものが勝手に一人歩きしている。マルクスが棺から起き上がれば「おれはマルクス主義者ではないよ」と言うような、マルクス主義の教条が世界を潤歩している。生産力と生産関係の照応の法則というのは、従来の教条主義的マルクス主義からいうと「生産力の発展が、生産関係の制約によってさまたげられる。そこで社会革命がおきて、停滞していた生産力が再び発展する。また制約によって停滞する。また突破する。」という形で、あたかも生産力が主人公のように、発展と停滞をくり返すという論につくりかえられている。マルクスは『経済学批判序説』でそんなことは何もいっていない。ただ社会革命がどうして起きるかというと、生産力と生産関係が発展の一定の段階になると、照応しない矛盾が生まれ新しい社会革命が起きるということを言っているにすぎない。これが拡大運用されて生産力無限発展論がでてきている。今でも日本共産党はこれに依拠しており、代々木系の学者は「原子力というのは今の社会だから悪いのだ。新しい社会になればすばらしい生産力になる。」と述べ、原発に対する闘争の足をひっぱっている。だんだん変わってきたが、まだそのしっぽが残っている。安全の問題については強調するが、もう一歩つきぬけた原発に対する態度が鮮明ではない。

 生産力と生産関係についていえば、生産力の基礎は、量的には次第に少なくなっても人間の労働であり、生産力と生産関係の両者の中心に立っているのは人間であることを忘れてはならない。そしてマルクスがそうであったように、人間の解放ということを前提にこの問題を捉えていかなければならない。そこではどんなすばらしい生産力もそれが害をなすことになれば、それを制約し、あるいはそれを停止させるということが当然あるはずだし、またなければならない。つまり、人間が主人公であれば、人間が自由に選択し、判断するということがここでも必要になってくる。

 

“労働者が主人公”とは何か

 

 最後に「労働者が主人公」とは何かという問題について述べておきたい。日本のどの労働組合でも一回は『労働者が主人公になる』ということばは使っていると思うが、そのくらいこのことは労働組合運動において強調されてきた。「職場の主人公」「生産の主人公」でなければならないという表現は、諸外国と比較しても、日本がいちばんよく使うのではないだろうか。私も何べんも出会っている。

 人間が人間的な本質的な存在になるということは対象的世界の加工、すなわち生産ということは一人ではできないのであって、そこに類的な存在としての自己自身を再確認する。そういう意味で生産が人間的な制作活動として類的な生活活動であるというというとらえ方は終始一貫してマルクスの基礎にある。労働の外化、すなわち、労働が労働者にとって外的であるということ、労働が労働者の本質に属していないこと、つまり「労働の疎外」からの解放というものが、主体としての労働者が人間的本質を獲得するうえでの最も重要なものとしてとらえられている。

(つづく)

そして私がもう一つつけ加えたいのは、人間か対象的世界を加工して自分の獲得物に変えていくという制作活動をとおして類的存在を発見し、労働が人間自身のものになるという過程で、「自らの解放がすべての人々の解放が自らの解放となる」ような階級、つまりプロレタリアートが形成されるということである。解放の問題がなぜ労働者が提起しなければならないのかというと、労働者は、労働者以外のすべての階級が解放されることを通じてはじめて自らが解放される。同時に自らが解放されるということは自ら以外のすべての階級が解放されるからである。これは『ドイツ・イデオロギー』その他でマルクスが強調しているところである。そういうものとしての労働者にとって、生産の場における労働者のイニシャチブ、生産に対するリーダーシップということは、ある意味では決定的に重要な問題である。

 日本の労働運動を縦糸のように赤い糸でつないでいくとすれば、いちばん最初は戦後八月一五日から始まった北海道における中国人捕虜労働者、朝鮮から強制連行されてきた労働者が先弁を切って闘い始めた炭鉱での闘争である。ここには賃金や労働条件とかをめぐる闘いではない。生産それ自体を自分たちの原点に据え直そうとした。それが飛び火したものが東京における読売争議である。新聞の生産を、戦犯である編集局長や主筆ではなく、彼らを追放して、新聞の生産労働者が握るという闘争であった。長期にわたる闘争で遂に敗れたけれども重要な闘いであった。そういう闘いの系譜が戦後初期には存在し、生産管理闘争と呼ばれた。ところが当時イニシャチブを握っていた共産党によってしだいに、生産管理が賃金闘争の戦術に変えられていく。そして「民族民主革命」の時代になると、生産の自主管理は民族産業防衛闘争にすりかえられてゆく。

 それがもう一度でてきたのは三井三池の闘いである。三井三池の闘争では、労働組合自身が生産現場における闘争委員会連合になっていった。組長を選んだり、生産量を決めたりすることは第一線の生産労働者が合議で決定する状態が出現する。やがてこれはつぶされ、闘争自身も労働組合主義の方向にむけられる。しかし、この闘いの系譜のなかに国鉄・郵政のマル生反対闘争がある。国労・動労の行なった順法闘争では法律を守るということを端緒にして、列車を走らせる速度、時間を、列車を操作する現場の労働者自身が選択し、判断し、決めていった。全逓の場合は、ベルトコンベアの速度を労働者が決定するためのブツダメ闘争がある。これは生産管理闘争と呼ぼうと、自主管理と呼ぼうと、いくたびか労働運動の波をくぐりつつ、時として、出現する重大な闘いである。資本主義社会ではそれが完成することはあり得ない。あり得ないけれどもそれはたえず出現する。

 「労働者が主人公になる」という意味は二つある。一つは労働者が自己の生産・自己の職場の文字どうり主人公になることである。

これはしばしば闘いのなかで出現するが、その延長の上にすべての労働者がそうなるということはありえない。政治革命というもながなければ、それを超えていくことができない。ところが超えたはずの政治革命の後で生まれた生産のなかで、現存社会主義の中でも労働者が主人公になっていない。そこでポーランドのように、現存社会主義労働者が本当の意味で生産の主人公になるという自主管理の問題を改めて闘わなければならなくなる。ポーランドでは粘り強く、数年にわたって闘ってようやく組合が合法化されることになった。これが国際的な労働運動に与える意味は大きい。このような意味でわれわれが追求している新しい社会の重要な萌芽形態ということが、労働者が主人公となることの二つめの意味である。

 さらに労働者が諸階層のリーダーシップをとるということがある。これは決して「おれたちがいちばんえらい。おれたちが解放されなければ解放されない。」ということではなく、労働者が労働者階級でありうるのは、労働者階級以外の層の中にはいっていくことによってはじめて確認されることである。労働組合運動の発展も重要であるが、他の諸階層を含む地域の住民・民衆の闘いを援助し、支援し、リードしていくことが不可欠である。

 労働者が主人公になることと、生産力の上昇とは必ずしもうまくマッチしないといわれるが、それは僅かにその通りで、二兎を追えばどこかで調節し、妥協しなければならない。残念ながら現状では、それを調節し、妥協するというのではなしに、資本の方からいやおうなしにノルマが示され、そのノルマに対する闘いとして、労働者が主人公になることをめざす闘いがある。賃金よりもおれたちはこちらを選ぶという形でこの闘いの姿をあらわすというところに重要な意味がある。社会主義といわれている社会で両方とるというはどうなのかという問題がある。私は案外、労働者が中心になって生産も量も測り、生産の量いかんによって支障がでるものについては停止したり縮小したりする経験的な能力はむしろ現場の労働者は持っていると考えている。しかし、それが非常に難しいのは一つの部門だけではできないことである。本来社会主義というのは、物象化されたなかでばらばらに寸断されているものが、新しい社会の端緒として、もう一度人間的に統一されていかなければならない。その場合、労働者を中心とした生産の統制が、国家官僚によってではなく、生産を基礎にして、生産労働者によってなされなければならない。綿密に計算し、全体的発展という枠の中で必要ならば質的な規制も決めていくべきである。同時に生産と消費については消費の側に立った意見も反映されるものでなければなるまい。大切なことは生産と消費が対立的にではなく統一的に総括できることである。

 

主な質疑応答

 

Q マルクスは非常に遠い先の共産主義のイメージについてコメントしている。いま問題なのは、遠い将来ではなくて、近い将来において、しかもある一定の制限された生産力のもとで、どういう人間的な社会を構想するかということだと思う。

A すぐ近い社会を構想する場合、一国的な展望で生産力の問題を語ってはならない。他方には明日にも食えない状態の諸国がある。自分たちだけでなく、地球上に住んでいる者全体が、お互いに調節をとって、全員が食える状態を達成し、少しでも上昇していける枠組みをどのようにつくるかということが重要である。私は「アジアの民衆との共生」という問題を以前提起したことがある。アジアの民衆から収奪したものを、アジアの民衆へ返すということを、新しく追求すべきわれわれの社会がまず果たすべき課題だと思う。アジアの民衆と共生できるような追及がなければ納得のいく社会は実現できない。日本の生産力だけ高ければいいということではけっして共生できない。日本の生産力の高さというのは単に日本だけでつくりだしたものではない。日本帝国主義は単にアジアだけでなく、世界的規模で展開しているが、特にアジアの場合は戦争による殺戮、収奪がある。日本に高い生産力をもつ社会主義社会が実現したと仮定した場合にアジアの民衆との連帯の中で過去の累積を返すということの具体的な内容は何かということが問われる。

 

戦後初めは「ソ連を見ろ」と云う演説が説得力をもった。今は社会主義の理想としてのソ連像は完全に崩壊している。抽象論ではなく、ある程度具体的に、われわれが追求している社会主義のイメージを提出しないと誰も納得しないだろう。さらに現状分析の中では主体と原動力を析出していかなければならない。技術革新の進むなかでの労働者自身の変貌をみきわめながら、新しい変革の主体はどこにあるのかという問題を解かなければならない。今日のテーマに関していえば、資本のグロバリジェーションによって国家はなくならず、逆に資本に対して、国家が逆襲する力も存在する。今後

必要なのは運動の主体の析出の問題、つまり労働運動とエコロジズム等の他の諸運動との関係をどうとらえて、一つの変革勢力としてどう構成いくのかという問題が明らかにされなければならない。移行過程の問題も、かつてのように権力の打倒を、権力に対する急襲

により奪取するという形態だけで想定することでは不十分である。国家の正当性が希薄になることに対応して、それを利用しながら徐々に変革の端緒を形成すると言う形態も想定しうる。ただ確実にいえることは早くでもゆっくりでも国家の権力を変革しなければ革命にはならないということだ。それだけはわかっているが、それ以外はあいまいなまま残されている。この点では多くの問題がるが、どこからまず手がけていくべきか、整理しなければならない。

 マルクスは共産主義について極めて原理的な提起はしているがその具体的なイメージはマルクスを含めて、当時の社会主義者のだれも提出していない。社会主義社会が現実のものとして現れてくる可能性が必ずしも目の前にあるとはいえなかった当時においては無理もないといえる。しかし社会主義とは何であり、どういう状態になって、それをどういうふうに民衆が動かしていく社会であるかということを明らかにすること、すなわち、社会主義像を原点から再構築することは、現代においては、極めて必要なさぎょうである。その意味では、現存社会主義国がきずきあげたかに見える社会主義像は今日においては留保して新しく再出発したほうがいいだろう。したがって、革命論としては@現状分析 A目標社会 B移行過程という三つの要素があるが、今日においてはまずAの問題、すなわち社会主義像の再構築から始めることが必要であろう。何故ならば目的と目標があるからこそ人々は闘うのだから。社会主義像で納得できれば、次は何をどのようにしてという問題に展開できる。

 

Q ハンガリーのへゲデューシュは『社会主義と官僚制』の中で、一定の効率化を実現するには専門化は必要であり、そこに官僚制の源泉があり、主観的な誤りの結果ではないとしたうえで、官僚機構に対して社会的な統制が行なわれるようなシステムの構築を提言している。専門化の必要性と、労働者の自主管理とはどのように両立されるのか。

 

A 職場における労働者が自分たちの生産を管理するという問題と、労働者のリーダーシップのもとで全国的な経済計算や長期計画をつくるという問題についていっしょにするわけにはゆかない。だが、それを専門家が行なうのではなく、労働者が、その専門家に替わって行なえるようにならなければ本当の社会主義にはならない。それだけしかできないとい

う意味での専門家が生まれれば必然的に官僚化すると思う。日本のように高い段階で、生産力が社会主義になっても下がらない、あるいはますます発展するという前提で新しい社会を考えると、今と同じような産業官僚制を存続し、専門家のリーダーシップで生産を行なうことになってします。新しい社会をつくるということは組織の組立て方自身を変えていくということであり、それが変わることなしに、資本主義と違った社会はでてこない。これまでの考え方は、資本主義の実現したすばらしい生産力をまず獲得し維持発展するという点が強調されすぎていたと思う。新しい生活と生き方、新しい生産や労働のしくみを明らかにしていくことが重要である。旧来の社会主義像は、資本主義にたいする「追いつき追い越せ」路線にあまりにも執着しすぎていた。ソ連や中国のように。

 


松江 澄 氏 政治報告 報告ノートより(労働者党・建設者同盟統一大会政治報告草案 当面の情勢と労働者階級の任務)

こうした情勢のもとでに、いまこそ大衆的な統一闘争で反撃しなければならないにもかかわらず、ブルジョア議会主義とセクト主義におちいった日本共産党は、「統一労組懇」をつくった総評の事実上の分裂をすすめ、「左翼」セクト諸派は依然として誤った党派闘争の思想から抜け切れていない。
 資本主義は労働者の個人主義的意識を強めるが、最近の技術革新と近代化はそれに一層滑車をかけている。生産過程の技術的高度化は一貫した労働過程を分断された部分的労働に置き換え、何をどうしてつくるのかを知っているのは僅かな専門家だけである。また技術革新は流通過程の近代化を促進し、労働者を大衆消費に誘うばかりでなく、生産と消費との間をますます遠ざける。こうしたなかで労働者は知らず知らずのうちに連帯性を奪われ、不安定な孤立を強いられている。ローンでしばられながら必死に生活を自己防衛してきた労働者は闘わない労働組合と政党に不信を強め、増大する棄権層の主な源泉となっている。
 しかし、生活を守るための個人的な努力もすでに限界が迫りつつある。生活の安定と権利の確保を求める大衆的な要求と独占=政府の抑圧は、やがて正面から衝突せざるを得ない。そのときこそ大衆的な抵抗闘争の発展は先進的な闘いの追及と結合して、その鉾先を独占と政府へ向ける。どんな経済的要求、改良闘争であろうと、またいかなる民主主義的要求であろうと、その完全な実現をめざして大衆的な統一闘争で闘うことこそ急務である。
 要求の実現をめざす徹底した闘いは、それを阻む独占=政府と対決し、権力に対する闘いに転化して革命的な闘争への契機を切りひらく。このなかで、弾圧にたいする断固たる闘争はきわめて重要である。今日の危機のもとでは、それがどんな要求であろうととも、徹底した大衆闘争の追及こそ階級闘争を発展させる基礎である。敵の攻撃にたいする抵抗と反撃の大衆的な闘いのなかから、変革をめざす闘いへの展望は切りひらかれる。


幻想の「革新自治体」と真の自治体革新        松江 澄
 
 今日の地方自治体は、憲法と地方自治法によって一定の民主
主義的自治を保障されながら、実際には法と財政を通じて国の
統制下におかれている。
 戦後の民主的改革の中で「地方自治」は画期的な位置を占め
ていた。戦後民主主義闘争の中で沸騰するは地方自治の闘いは
与えられた地方自治制度の枠をのりこえて発展し、しばし支配
階級の肝を冷させたが、「ドッジ・ライン」による改革以後急
速に国の統制が強まり、戦後獲得した警察の自治化、教育委員
会の公選などの諸権利も奪い返され、今日では地方自治体が自
ら決定する行政範囲と能力は限られている。すなわち、すべて
の地方自治体は不当な税配分にもとづく交付税制度によって、
国の定めた基準による一定の行政水準に平準化されながら中央
政府に統制されている。国庫支出金と地方債の制度は一層これ
を強化し、次第に増大する国の委任事務と許認可行政は、それ
に滑車をかけている。行政のうち、生活と権利にかかわる重要
な部分は、すべて国の直接支配の下に置かれ、地方自治体の行
政領域は「ゆりかごから墓場まで」とはいいながら実は地域的
な住民の生活、環境など一部にすぎず、民主主義的自治の保障
は、現在の支配秩序を破壊しない範囲に限定されている。
 しかし、近代化が進み住民生活が多様に発展するなかで、そ
の行政範囲は必然的に拡大し、一見地域住民の「世話役」とも
見える役割りを演じている。こうした現状は、日本共産党がい
うように、あたかも地方自治体には国の地方支配の側面と住民
生活を守る機能との二面があるよう見えるが、それは幻覚であ
る。それは、最大の利益を追求する独占資本主義の発展が必要
とする労働力の維持とその移動・再配置が不可避的に伴う生活
・環境問題の拡大である。地方自治体の最大の「善政」と見ら
れている福祉行政も、その根本は国の定めた「福祉六法」にし
ばりつけて独自な措置は厳重に禁止されている。現行制度のも
とにおける地方自治は、地域住民を「生かさず」支配するため
の官僚的支配機構の重要な一部分を構成している。
 しかし、今までの経験は、革新的だといわれる首長が選ばれ
た場合、行政の重要な側面においていくつかの積極的な前進を
勝ち取ることができることを示している。釧路市等が行った工
場誘致条例反対や土地開発の規制、また東京都の公害防止条例
、朝鮮人大学校の認可、横浜市の米軍戦車輸送反対、鎌倉市等
の自衛隊員募集業務の廃止、あるいは革新首長会による在日朝
鮮人登録認可等がそれである。こうした事例は、今日の制度の
もとでも、首長の決意と大衆の支持があれば事実上政府行政指
導を拒否して、一定の限度内で独自の措置をとり得ることを教
えている。
 だが見逃すことができない重要なことは、地方自治制度とい
う今日の地方自治体運営の根本については、指一本ふれること
ができず、どんな首長のもとでも、予算編成の根本的な点等で
は変りばえしないということである。また独自の措置をとる場
合にも、法律と通達の民主的な側面の解釈と運用による上から
の行政措置として行なわれる場合が多い。したがって事実以上
に「革新」首長の役割が膨大に評価され、住民のなかに「革新
」首長への期待と依存を生み出す傾向が強いが、所詮「善政主
義」の範囲を出ない。ましてこうした「革新」首長の存在を理
由に「革新自治体」と規定するならば、それは全く誤っている
ばかりか、ありもしない幻想を与えることによって住民による
下からの闘い、自治体労働者による内から闘いを圧迫する結果
となる。美濃部都政やみながわ府政の様に、「革新自治体」擁
護のために労働者として権利と賃金を闘う職員労働者の闘争や
、「革新自治体」のもとでも容赦なく発展する住民の闘いを抑
えることで、階級と人民にたいする重要な裏切りを行なう場合
がそれである。イタリアの自治体改革闘争等のように、戦前か
らの闘争が深く刻印している憲法のもとで、労働者階級の闘い
の発展に依拠して構造的な改革の一環を形成している場合と異
なり、憲法上の一般民主主義的な規定にもかかわらず、事実上
法律と制度でがんじがらめにされている日本の地方自治のもと
で、首長個人の性格と直結して機構としての自治体を「革新自
治体」と規定することは、人と機構を混同し政策と制度をすり
替える結果となる。みながわが退陣すれば「革新自治体」が崩
壊して敵となり、美濃部に替わる「革新」首長が出現すれば「
革新都政」が引き続き栄えるほど官僚機構は単純で弱弱しくは
ない。
 「革新」首長の持つ重要な意義は、その選出を目指してた闘
う地域的統一戦線のともに闘う経験を通じて、引き続き地域的
な共同闘争を一層強化することにあり「革新」首長がその共同
闘争の重要な結節点として固く節操を守ることである。そうし
て階級的もしくは人民的立場に立つ首長の任務は、あらゆる機
会を捉えて国の支配介入に抵抗し、たとえわずかであっても独
自の追求を行なうとともに、現在の地方行財政を根本的に改革
する必要性と必然性を公然と提起し、地域における労働者・住
民の大衆的な闘いの実践の中でのみ試される。反独占統一戦線
を目指す労働者階級の指導的な闘いを中心とした各階層の広範
な運動に発展によってこそ自治体改革は前進する。
 
「住民自治」の闘いと労働者階級の任務
 
 
自治体改革の闘いは、地方交付税制度など地方行財政運営の根
本的な改革をめざす闘いを避けては前進出来ない。それはまた
日本における地方自治そのものの闘いである。
 戦前来殆んど名ばかりであった「地方自治」制度は、戦後画
期的な発展をとげたが、それを裏ずける共同体的自治の歴史的
な伝統の弱さは、結局地方自治を中央集権的官僚機構にたいす
る、民主的な制約としての中央権限の地方移譲と、その権限を
監視・監督する地方議会の地位の強化に限定した。したがって
それは、国と地方自治体との関係、地方自治体と地方議会との
関係にとどまり「地方自治」の拡大はそのままでは住民自治権
の拡大に直接結びつかない。そこで重要なことは、獲得された
地方自治を住民自らの自治権として闘いとるための大衆的な住
民闘争である。こうした闘いを通じてこそ地方自治の内容は決
定され、こうした闘いを土台としてこそ「地方自治」の擁護と
拡大ははじめて重要な意義を持つことが出来る。またこのよう
な闘いによってこそ今日すでに体制内の避けられない内部矛盾
となっている地方自治の矛盾も首長の性格に如何を問わず政府
に対する闘いの一翼を担うことが出来る。ここに「住民自治」
をめざす闘いの重要な意義と役割がある。
 「住民自治」をめざす闘いは、広範な住民要求を大衆闘争に
発展させて一方的な行政の執行を拒否し、住民の生活と環境に
関するどんな新しい行政計画や行政措置も地域住民の同意がな
ければ実施させないという事実上の事前協議権の確立を闘いと
ることが土台となる。それは消して「住民自治」ではないが、
行政の一方的な管理と執行を許さないという点で「住民自治」
を目指す闘いの第一歩である。今日までも、しばしば住民闘争
の発展は、部分的一時的にはこうした権利を闘いとることが出
来た。しかし、たとえ固い行政のとりでの一面を崩しても、直
ちにあらゆる手段をつくして失地回復をはかる自治体に対して
、大衆闘争の持続的な追求を通じて体得した橋頭堡を点から線
へ、線から面へと拡大発展させてこそこの権利を定着させるこ
とが出来る。
 こうした闘争の中で、自治体労働者の占める役割は、きわめ
て重要である。労働者としての権利と賃金を闘いつつ、困難で
あっても自らがたずさわる行政を階級闘争的立場から見直し再
追求することによって行政の内部革新へと闘いを前進させてこ
そ、外からの住民闘争と結合して行政改革の闘いに発展させる
ことが出来る。日共の「全体奉仕者」論はこうした困難な闘い
を回避し、自治体労働者を昔の「役人」に還元させて階級闘争
を放棄させ、住民におもねることで集票をたくらむ議会主義と
日和見主義以外の何者でもない。
 住民の闘いとこうした労働者の闘いは、しばしば不均等に発
展し多くの場合直接被害を受ける住民の闘いが先行し労働者と
の間に矛盾と対立を生むことがある。しかし、矛盾を恐れず闘
うなかでこそ先進的な労働者の闘いと結合し、地域ぐるみの闘
争に発展ことで労働者と住民の闘う同盟を組織できることは、
豊北反原発闘争の実例が示すとこである。この場合、激発的で
あっても一時的になり易い住民闘争を、自らの闘いで指導しつ
つ恒常的な発展させることが出来るのは、地域における労働者
階級の系統的な追及である。
 住民自治を目指す闘いにとって地方議会における真に革新的
な議員の闘いと結合することは重要である。今日多くの地方議
会では、議長を中心とした保守的多数派が執行部と癒着し、発
展する住民闘争を圧迫しあるいは懐柔することに躍起となって
いる。また多くの議員は、政党政派の如何を問わず野党性と革
新性を喪失し、肥大する予算に寄生して再選のための選挙活動
に終始している。こうした状況のなかで孤立を恐れず、圧迫に
負けず断固として労働者住民の立場に立ち、大胆な暴露と追求
を進める闘いは、住民自治の闘いと相まって自治体と地方議会
の革新を闘いとる前衛である。とくに地方議会での革新的闘い
は、議会外大衆闘争と結合して、「住民自治」の闘いを地方自
治の闘いとつなぐ結節点でもある。従って階級的な立場に立つ
議員はあらゆる機会をとらえて自らの独自な見解と主張を明確
に公表するとともに、特に今日の政治と行政の反階級的、人民
的な役割を徹底的に暴露し追及しなければならない。さらにま
た重要なことは議会の議席をただ暴露の演壇とするだけでなく
、大衆的な住民闘争を発展させるために援護する有利で有効な
砦にすることである。
 「住民自治」の闘いを土台とした自治体闘争も議会革新の闘
いも労働者階級の真剣な取り組みと追求のなかでこそ全国的な
闘いの拠点として重要な役割を果たすことが出来る。独占と政
府はいくつかの地方の突出した陣地にたいしてはあらゆる力を
つくして圧迫を加えあるいは上から吸い上げることによって行
政の「平準化」を防衛しようとしているからである。その意味
で日本における自治体改革の前進と撤退はそれぞれの地域の部
分にとどまらず、全国的な規模での独占=政府と反独占戦線と
の力関係によってきまる。従って拠点における先進的な闘いに
学びつつ一層多くの突出した陣地を闘い取りながらその勝ち取
った成果を横に拡げることこそ重要な任務である。そのために
は労働者階級が日本の変革のなかで占める自治体闘争と自治体
改革の果たす重要な役割を認識し、自らの闘いとして全国的の
も地域的にも積極的に取り組まなければならない。「革新自治
体」論はこの闘いを「革新」首長の選挙と「革新自治体」の数
にすりかえることで重要な誤りを犯している。
重要なことは首長の如何にかかわらず下からの労働者、住民の
闘いそのものである。
 自治体改革の過度的要求を明らか困難な条件のもとで闘って
いる全国各地の多様な自治体闘争を階級的な追及で結合し、変
革を迫る闘いの重要な一環とすることこそ社会主義をめざして
闘う労働者階級の任務である。

松江 澄著作リスト(準備中) (2006.3.5)

ヒロシマから原水禁運動を生きて 松江 澄著 青弓社刊

私の昭和思想史松江 澄著 社会評論社刊

91フォーラム関西(2/3)での報告内容要旨

松江さんは、現存社会主義の崩壊は全面的であり、根底的なものである。根底から見直す視点はフランス革命・パリコムミューンの歴史を歴史的文脈として見直すこと。ソ連東欧の問題では、政治的民主主義と市場経済の成立には相互関係があること。市場経済の中で民主主義をつくりだす契機があり、ソ連にはそれがなかったのではないか、との指摘がありました。
 現状の貧困や差別・不平等をなくすための運動、民主主義運動を強めて新たな政治的バランスを作ることを始めるべきではないかと問題提起されました。

「私の昭和思想史」と題して「労研通信」「労働者」「新時代」に、このあたりの関連した論文に記載されてます。私の昭和思想史松江 澄著 社会評論社刊には、収録されていません。


私の昭和思想史()   松江 澄  「労働者」

 

 いままで三〇回(一九一九年〜1970年)か書きつづけてきました『労研通信』がこのたび休刊になりますので、編集委員会の御好意によってこの一文の書き続き(一九七一年から)本紙に載せて頂くことになりました。ついてはその第一回の一部をここへ再掲させて頂くことで、この手記を書き始めた私の意図を理解して頂ければと思ってます。今から二〇年間を書きつづけるつもりでいます。どうか宜しくお願いします。

 

自我のめざめ

 

 私が標題のようなものを書いておきたい、と思い始めてからすでに数年になる。少なくとも七〇歳になるまでにはと思い定めていたが、すでに来年になった。もっとも、いまどき「古希」などというものは掃いて捨てるほどある。誰も気にしない。私も、そんな年か、とおどろくが、それは自分にとっての相対的な時間の問題で、いっしょに活動している広島の反戦反核の若者達は少しばかり年寄の仲間としてつき合ってくれる、と思うのは私のひいき目か。

 それでも私がこういう一文を書いておきたかったのは私の周辺の大先輩は何れも戦前からの革命家であり、私より少し若い人達は敗戦善後に二〇歳を越えた人が多い。いま日本の革命運動のなかで恐らく最も層が薄いのは私達の年代であろう。大正の中期に生まれ、大正の末年=昭和初年に小学校に入った私は敗戦のとき二十六歳であった。これはもう一人前の青年として充分な年である。しかも私の戦前は生徒であり学生であった。学校の塀の中に多少残っていた断末魔の自由がやがて根こそぎ奪いとられ、徴兵猶予が取り消され徴兵検査を受けて二等兵で在学のまま召集され、寒い冬の最中に当時の「満州」牡丹江のまだ奥にある部隊へ送られた。それは私にとって正しく戦後読んだ野間宏の「真空地帯」であった。

 旧制高校に入ってようやく自我にめざめた晩生の私は、手当たり次第に文学・思想・哲学の本を読み漁り、結局行きついたのは国家・社会と断絶したカント的個人主義的人格主義哲学であった。しかし、折から強まる軍国主義的風圧はいつまでも「わが内なる自由」を自由のだせてはくれなかった。天皇も差別される人々も同じ人間ではないかと疑う素朴なヒューマニズムを何よりの宝だと思う私を国家は巨人のようにほんろうした。「満州」から内地に帰ってやっと見習士官になり、本が買える「自由」がうれしくて富士山麓から沼津へと胸をおどらせて本屋を探し、僅かしかない思想書の中から武市健人の「ヘーゲルの弁証法」を買いこんだ。それはヘーゲルにならって戦争に「人間的契機」を見出すことによって国家の「相対性」と取引するためだったのだ。

 

富士山麓で敗戦

 

 こうしてやがて富士山麓で敗戦を迎え、軍隊から解放された私が後になって知ったことは、私の原隊であった牡丹江重砲連隊はソ連の参戦によって瞬時に壊滅し、原隊に残った戦友達はすべて戦死、それまでに南方へ転属になった友人達も沖縄などでその多くは戦死したことだった。すり抜けるように助かった私が広島に帰ったとき、私は二週間前に投下されたと聞いいた原爆の破壊した廃墟に直面しなければならなかった。そうして私がまもなく知ったのは兄が爆心地近くで遺体も分からず原爆死したことと、三年後には血を失って亡くなった母がかなり弱って三原の親戚で病の床にあることであった。

 三原に帰って父母から状況をきき、軍医に召集されていた兄の部隊を探して遺骨を受取り、三原で葬ったがそれは兄のものではなかった。年暮れようやく落着いた頃、三原の新しい友人達とともに「文学城」という雑誌を出す企画に参加し、私も一文を書くことになった。翌二十一年六月号を創刊号にして出発したその雑誌に私が書いた戦後最初の文が、「人間存在の本質と限界」であり、第二号に書いたのが「ヒューマニズムの政治思想」であった。もって廻った難解なその長文を最近発見して読み返し、それが戦前のカント哲学の呪縛をとき放ちつつ唯物論哲学へと模索する苦闘の文であり、カントへの決別の文であることを思い返した。私にとって進むべき道はマルクス以外なかった。

資本論をはじめ手に入る本を読みながら一年近く充電して中国新聞に入社したのは四六年(昭和二十一年)十月であった。そのときすでに十月闘争は始まり、以来嵐のように進む労働組合の真唯中に身をおいて四八年(S二十三年)、私は自らの思想と行動を整合することの重要さを納得して自らの選択で、ちゅうちょしていた日本共産党への入党を決意した。

 カントから瞬時のヘーゲルを経て行きついたマルクスは私にとってすべてのように思われた。しかしそれを体現しているはずの日本共産党は私にとって次第に目指していたものではないように思えてきた。青春時代、主体としての自我のめざめに有頂天になり国家と社会をうつろな眼でしか見ることができず、やがてその国家に自らを呑みこまれた私が、二度と誤ちをくり返すまいと固く誓って自らが進んで参加した日本共産党の組織は、やがて批判の自由を圧殺し、自立を奪って上から「共同」を強制しはじめた。それはかつてどこかで出会ったことのある絶対主義的なものであった。今度こそはと、自己をかえ返しつつぶつかった結果が、二度、三度に亘る除名と機関罷免であった。すべての批判を弾圧して自由を抑圧する組織はまさしくかつて経験した国家の相を呈していた。いや、それは単なる相ではなく、その党のめざすスターリン的社会主義「国家」の原型だったのだ。ヘーゲルは再び私の前に大手をひろげて立ちふさがった。しかし私にとってそれは二度と従順に服従すべきものではなかった。

 限りない矛盾

 ついに離党して除名された私は喜んで社会主義革新運動―共産主義労働者党へと歩み始めた。それはまた、私が生涯かけて贖罪の運動だと心に定めた反核反戦運動―原水爆禁止運動の分裂とちょうど時を同じくしていた。党と大衆運動と、何れも同じ批判の自由と統一という問題は以後わたしのとって最大の課題となった。それは、自立を重んじて国家と社会を失い、国家・社会に心を奪われて自らを失った私にとって限りない矛盾を追求する果てしない旅であった。その後、結集をめざして分裂し、分裂のなかから統一を模索しつつ今に至るまで二十七年、真理の荒野にさまよって帰する所を知らず、なおあるべき道を探してよわい七〇に至る、とふり返って長い道を思う。

 今にして思えば、それは日本の近代との長い悪戦苦闘ではなかったか。明治の近代化は自由民権運動の左を弾圧して右を懐柔し、残った勢力をナショナリズムでその思想を萎えさせてついに国家のヘゲモニーを確立する。しかし大正の新しい時代はこうした時代に反逆し抵抗する。この時期、日本で始めて農村人口が五割を割り発展する大都会へと人口は集中し始める。都会の資本主義的喧騒が生む孤独はやがてしたたかな自立を誕生させる。一度漬えたかに見えた近代的自立は土を衝いて立ち上がる新芽のように頭をつき出す。しかし又しても余りにも早い「共同」=国家の圧力は新芽を奪って服従を強制し、「近代相の超克」の名の下に戦争を鼓吹する。げに近代とは狂気の時代なのか。自らの生んだ自立を再び絞め殺すことによって帝国主義的近代を完成する。

 

大正の名残り

 

 しかしこの間にあって大正の時代は新しい可能性を模索する。そこでは大正デモクラシーと呼ばれるブルジョア左派の民主主義運動と合わせて、社会変革の根幹ともいうべき労働運動・農民運動・部落解放運動として革命運動の基礎が据えられる。大正―それは単に明治に反逆しつつ昭和をはらむ矛盾激突に時代であり、それはまた明治に始まる東アジア民衆と日本帝国主義との対立と闘争を自らの内にきびしく胚胎する過渡の時代でもあった。

 大正の半ばに生まれて幼年期をこの時代に送った私の裡に刻み込まれた無意識の心音は時として音高く私の胸に鳴りひびくことがあった。自らの人生の最初の時代は新たに私に何かを語りかけるように思える。こうした時代の子が思い、行動したことは、私達の先輩とも後輩とも後から来る人達とも違う独特なものがあるのではないか。私が書き残そうと思った理由はそこにある。

 

 


私の昭和思想史(三二) 松江 澄 「労働者」(1971年からの分)

 

 世界的転換のきざし―「ニクソン・ショック」

 置く縄は七一年六月に返還協定が結ばれ、七二年五月復帰することになった。しかし、沖縄の戦後はけっして終わらずそれは「第三次沖縄処分」と呼ばれた。まず何よりも在日米軍きちの七五%を占める尨大な基地は依然として居座り貪欲な本土大資本は一斉に殺到して自然を破壊し沖縄経済を蹂躓しつつ「開発」に狂奔した。私は最初の訪沖のときに嘉手納期地を巡ってその途方もない広大さに驚き、基地の町に米軍占領下の広島を見た。二度目の旅では活動家の案内で沖縄戦跡を目の当たり見て、激烈な沖縄戦とそのなかで無惨に命を奪われた人々を偲んだ。

 一九七一年、中国「文化大革命の成功」を讃えた中国共産党はその功績者として軍の責任者である林彪を毛主席の後継者として指名したが、林彪は翌七二年ク―デタ―で毛沢東打倒に失敗して逃走する飛行機がモンゴ―ルで墜落して死亡した。七一年の夏、世界は二つの「ニクソン・ショック」に驚かされた。その一つは七一年七月に発表されたニクソン大統領の訪中計画である。ベトナム戦争泥沼から足の抜きようもなく、アメリカと世界の青年や民衆の不正義、不公正なベトナム戦争を撃つ声はいっそう高まっていた。この四月、湾岸戦勝に勝利したブッシュ大統領が「ベトナムの亡霊はいま湾岸に埋められた」―と誇らしげに語るほど以来今日まで二〇年間「ベトナムの亡霊」はアメリカの青年ばかりでなくその支配層を悩ましつづけたのであった。

 そのアメリカが中ソ対立を利用しつつ台湾確保を中心とするアジア戦略から中国に接近する戦略へと転換し、中国もまたソ連との対立、第三世界戦略の孤立から思い切った対米接近路線へと飛躍したことは世界の耳目を聳動させた。このとき以来、米中の接近と疎隔とはソ中の対立と協調に逆比例しながら今日に至っている。

 もう一つのショックはその翌月ニクソンによる新経済政策の発表であった。ドルと金の交換の一時停止である。世界の基軸通貨として「パクス・アメリカーナ」の経済軸であったドルの放慢な流出は、フランス等の換金要求によって金の国外流出を無制限にすすめ、そのうえベトナム戦費のたれ流しはいっそうドル不足=金不足に活車うぃかけた。この交換停止によって戦後来のIMF体制は崩壊し、以来通貨危機は今日に至るまで資本主義世界経済を襲い続け、やがてベトナムからの「名誉ある撤退」によってついに「パクス・アメリカーナ」は幕を閉じるのであった。

 

 日本に忍びよるひそかな変化

 日本はこの頃からアメリカと対照的に経済大国への歩みを開始し、やがて始まる「石油ショック」を減量経営で切り抜けて八〇年代のME革命でいっきょに各国をしのぎ、飛躍的な産業構造転換のもとで今日の基礎をつくった。七二年六月に登場した田中内閣は日中国交回復をはかり、始まった経済成長に依拠して「列島改造」に血道をあげ、土地価格騰貴ブームの端緒となった。

 広島の党は七一年四月の統一地方選で、県議選では前回の雪辱をはたして一〇三〇一票一四名中第九位で当選し、山口君は市議選で四七六一票四八名中第一三位で初当選した。平和記念館でひらいた祝賀会にはかってない多くの人々が結集して、二つの当選を祝う歓声は館中にこだました。この年の労働者党全国代表委員会は勝利に因んで広島で、開き、私が全国委員会議長に就任することになった。内藤さんは東京で病後を養っていたが、上京の折訪れる私に、現代帝国主義の探求を求めていたことが今にして思い返される。

 七二年二月には県・市議会選の勝利に勢いづいた市民運動・住民運動は新たに市民運動の共同推進母体として広島市民会議を結成、以来、不当水道料金返還要求運動、森永砒素ミルク中毒の子供を守るための運動など広島における市民運動の拠点として活動を開始した。

 しかしこのときすでに労働組合運動に新しい変化の兆しがしのびよっていたのだが、私はやがて大きく変化する情勢と条件をはっきりと見とうすことができなかった。それは世界の最先端をゆく技術革新が生産と労働にもたらした新しい変化とそれが労働組合運動に及ぼす深刻な影響である。

 日本にIMFJC(国際金属労協日本協議)が設立されたのがすでに一九六四年である。以来あらたな「戦線統一」へ胎動が陰に陽に始まっていた。一九七〇年から国労、全逓の「マル生」に反対闘争で高揚しつつ「スト権スト」にひきつがれるが、それは戦後来つづいてきた戦闘的労働組合運動の最後の闘いであった。

 戦後来の資本と労働の対立と闘争のなかで、資本の戦略の巧妙さをいま改めて思う。彼らはまず「レッド・パージ」で民間労働組合という外堀を埋めつつ戦後闘争の先陣をさきがけてきた官公労の息切れを待ってこれを制圧した。後に残ったのは国労、全逓などを中心にした公労協であった。しかし、社会党=総評による反合理化路線のゆきつくところ、「上からの」事前協議制が資本の先制攻撃によって崩されて全戦線が後退しはじめ、七〇年には「全民懇」による労線統一世話人会が生まれ、反対の極には新左翼による春闘討論集会(全労活)が始まった。労線統一をめぐるその後の対極の構図である。(つづく)


私の昭和思想史(三三) 松江 澄 「労働者」掲載

二度目のソ連

 ちょうどこの頃、一年に一度、全国県議会議長会が主催する国外行政視察旅行に「年期」によって議会事務局から私に参加要請があった。県委員会で相談したが、みんなよい機会だから勉強してこいという。私ばかり行くのも気にひけるが、この度の旅費は公費なのでカンパも不用だし何よりも二度目のソ連と初めての東欧が含まれているので私は参加することに決めた。

全国総数二九人が羽田空港を出発したのは七三年四月二十六日の午前一一時、私には初めての長距離航空機(ターボブロッホ)だった。実飛行時間は一〇時間近くだったが時差修正でモスクワに到着したのは一五時五分だった。シレメチボ空港にはかねて打ち合わせていた広島の山田君(私が大原代議士に頼んで当時モスクワ民族大学在学中)が迎えに来ていた。いっしょにバスにのってホテル・インツーリストに同行し、彼の家から彼の注文でことづかってきたラジ・カセを渡してコニャックを飲みながら久しぶりで話した。彼の話では、モスクワの町にも東京や広島と変わらぬ「夜の町」があるようだった。

別れぎわになって彼は、好きな女性と近く結婚すると白状した。二八才で先夫との間に女の子が一人いるという。父親さんやお袋さんがどういうかな、と問うと、まだ内証にしておいてくれと頼む。こうして私は彼の大切な秘密をあずかる羽目になったが、やがて彼の同伴帰国で見事にばれて私は家族に会わす顔がなかった。

翌日あちこち御仕着せの視察のあいだをぬって、私はゴリキー大通りに並ぶ大きなショップを見て歩いた。たしかに商品は六五年当時に比べて出廻っていたが、デザインは単調で高いものは余り売れていない。機会あるごとに労働者にきいてみると、住宅や生活必需品は安いが白黒でも三〇〇〜四〇〇ルーブルするテレビや、五〇〇〇〜九〇〇〇ルーブルもするモスクビイッチ(国産小型自動車)は、月額一三〇ルーブル内外の給料では手が出ない高根の花だという。つい最近行なわれた党大会についてきいて見ても、前回のときと同じように当たりさわりのない返事しか返ってこない。とても「労働者階級が主人公」とは思えない。地区党の幹部は五〇年代生まれの青年たちの動向がいちばん気になるようだった。

モスクワからレニングラードへ行くころはメーデーの直前で、町中に赤旗がひるがえり準備に忙しかったが、指導者の大きな顔の看板はどう見ても私にはいただけなかった。ちょうどメーデーの日の午後六時頃ストックホルムに着いた。こことコペンハーゲンは何れも一泊二日で、初めてのスエーデン、デンマークも束の間だった。ただ一つ、いまでも「豊かな社会主義」といわれているこれらの国々が、「高課税・高福祉」で先へ進むか後戻りするかの岐路に立って行きなやんでいると現地の活動家は話していた。

初めての東欧

コペンハーゲンから一転してワルシャワに入ったのが五月四日だった。私はソ連と違った意味で東欧社会主義の実態に少しでもふれようといささか緊張していた。二泊三日の確かな滞在のなかで、当時の私のメモ帳の冒頭に次の一行がある。「なんとなくソ連と異なって自由の空気がある」と。それは町を歩き市民と話した私の第一印象であった。その頃は個人商店が一定の限度内で認められ、農業も集団農場は少なく個人農が多かった。たびかさなる動乱の跡はうかがうすべもなかったが、会う人々はソ連とは反対に遠慮なく政府を批判していた。

朝早く起きて労働者が出動前に立食するスタンドで私もいっしょにパンと肉をほほばりながら話をすると、だんだん打ちとけて話がはずむ。そのうち一人の労働者が私に、ワルシャワの町の中で一番景色のよいながめはどこから見た景色か知っているか、と問う。もちろん私は知るはずがない。あっさりかぶとをぬいできくと、あの窓から見るワルシャワの景色だという。その窓のある建物とは、スターリンがこの町に寄贈した彼好みの大規模で天に向かってそそり立つ尖塔を中心にした大宮殿であった。何故その窓から見る景色がよいのか分からぬ私に彼は、「その建物が見えないからさ」といってニヤリと笑う。やられたなと思ったが一瞬それはスターリンに対しだけ向けられたジョークではなくソ連そのものに向けられているなと私は思った。

その夜この大宮殿の地下にある巨大なカフェーでひらかれたパーティで、私は「夜の女」と自称する女性に会った。移民の多いポーランド人は外国の親戚に行きたくとも金がないのでドル稼ぎだという。だがその裏に生活のきびしさとともに、外に出て見たいという強烈な欲望があると思われた。

プラハも同じように二泊三日だった。かつてビザンチン文化の都だったこの町を流れるブルタバ(ボルドウ)河にかかる一五世紀時代の橋や、おとぎの城のようにくつきりと立つプラハ城のすばらしさに私は心を奪われた。しかしここでも私達はジョークばりの皮肉の針でさされた。それは私達がバスでプラハ城を下りたあたりにソ連の旗をかかげた駐留軍司令部を見つけたときだった。誰かが、どうしてソ連軍が駐留しているのかと皮肉まじりにきいたとき、私達の案内人は切り返すように、「貴方方の国にもアメリカ軍が駐留しているではないか」と答えてニヤリと笑った。

私は昼食のとき二、三人の活動家らしい青年達とつれ立って同じテーブルを囲んだ。私は自らがコミュニストだとことわって「プラハの春」の弾圧を批判し、率直な意見を求めた。しばらくの沈黙ののち一人の青年が党員だと名のって、ソ連の云いなりになる政府を遠慮がちに批判した。「プラハの春」が東欧五ケ国軍の戦車で蹂躓されてからまだ四年目だった。(つづく)


私の昭和思想史(三四) 松江 澄 「労働者」

チリ社会主義革命の挫折

 

 一九七二年は重要な事件があいつで起こり、広島にとっても重大な闘争が闘われた年であった。広島の運動としてこの年に画気的なのは、被団協・原水禁が被爆者援護法に必死の思いをこめて大挙上京、全国的な支援のもとで首相官邸に座り込んだことだった。

 他の一つは、郊外の海田第十三師団が新任の師団長を迎えて強引に広島の中心部でパレードを強行し、中国地方からも労働者、労働組合が結集して抗議闘争を闘ったことである。このときの第十三師団長は奇しくも私と一高が同期で、内務省から警察予備隊に入り後に幕僚会議議長となって「有事立法」を主張して職を辞した栗栖弘臣であった。

 この二つの闘いは、「被爆地を自衛隊の軍靴で汚すな」=「被爆者援護法の即時実現」という意味で別なものではなかった。首相官邸の座り込みは長時間に及び、出て来ぬ田中首相に代わって二階堂官房長官が会見することになり、ともに座り込んでいた私も選ばれて被爆者代表とともに交渉に参加した。

 自衛隊パレードに間に合うよう急遽帰広して抗議闘争に加わったが、当日パレードが通貨する県庁前大道には万を越える労働組合員と市民が旗とのぼりをなびかせて待機していた。

 やがて自衛隊の隊列が見えると歓声をあげて一斉に抗議のシュプレヒコールを浴びせて、突出する部隊もあって緊迫した空気になった。結局、戦車を交えたパレードは大急ぎで通過し早々に引きあげたが、この闘いの盛り上がりは広島の運動の気勢を大いに鼓舞することになった。

 だが地方では八月八日、来日中の金大中氏が白昼東京の中心部のホテルから韓国KCIAによって誘拐される事件が起き、その行方を追って連日騒然としていた。しかし何といっても私達にとっての最大の関心事は、その一月後に起きたチリの反革命クーデターによって期待されていた社会主義への展望が挫折したことであった。

 これはアジェンデ大統領就任以来、議会内少数派の与党連合を軸に権力の基盤を一歩一歩奪取しようと、チリ共産党が中心となって進めていた国有化政策への武力反撃であった。

 アジェンデ大統領は闘って仆れ、軍部が実権をにぎって以来一〇数年にわたってテロリズムが荒れ狂い、昨年になってようやく民族民主勢力が大統領選挙に勝利して民主主義回復の第一歩がきづかれた。

 この事件は議会と政府を通じる社会主義への移行過程の事件として世界の革命運動に多くの問題をなげかけた。『労働運動研究』でも時を移さず柴山、植村両君が論陣を張ったが、私は翌年四月から『労研』に書きはじめた「新しい革命と新しい党」のなかで、「フランスの『五月』とチリ革命」と題してチリ共産党を批判した。

 それは、「マルクス主義の歴史的経験は、少数派による『強力の道』から多数派形成による『民主主義的=合法的な道』へとその探求を続けながら、いままさにそのことの成否が問われている」(前述松江論文)状況のなかで、まず「平和的な道」を第一義的な前提として軍隊を中立的に評価したことの批判だった。重要なことはまず「民主的な道」を選択し、必要に応じて「急流で馬を乗り換える」準備が必要だと主張したが、それは八〇年代に始まる私の「新しい革命」への探求のいとぐちとなった。

 内藤さんの急死

 一九七四年の四月には、広島県党の『労働者新聞』を『広島労新』と改題し、新たに『ひろしま市民新聞』を発行することにした。その理由は労働者闘争と住民闘争を二つの武器で分け持つことでいっそうの発展を期することにあった。

 この年の四月十一日、かねて準備されていた「スト権スト」が八一単産六〇〇万組合員による交通ゼネストとして闘われた。だが残念ながらスト権は勝ちとれず、さしもの大ストライキが得る所なく終わったことはその後の運動後退の第一歩となった。

 この年、ニクソンがウオーターゲート事件で辞任を余儀なくされ、田中内閣がロッキード事件等の金権問題で総辞職するなど、内外で汚職による重大な政変があったが、私にとって何よりも重大な知らせだったのは内藤さん急死の電話だった。それは、五月十六日のことで、長男といっしょに山に登るために出かけた国電のなかで心筋梗塞に仆れ、病院にかつぎこまれたがすでに駄目だったということであった。

 かねてから療養中ではあったが大分よくなって時には山に出かけたりしているときいていたが、この知らせは広島のわれわれにとってまさに晴天のへきれきであった。私はとるものもとりあえず上京して通夜の席に連なり、翌日は葬式のあと焼場に送って帰り内野邸で酒をあふったが一向に酔えず万感こもごも至って呆然とした。

 帰広して六月十九日、市内大手町の常念寺で党員とシンパ、友人八〇余名が追悼会に集い、十月十六日には東京の私学会館で「内藤知周を偲ぶ会」をひらき、内藤さんの古からの友人や交わりのあった各党派の人々と思い出を語り合って彼を偲んだ。

 私にとって内藤さんは師であり友であり兄のようだった。一九四八年国労ストのスキップ阻止の闘争で逮捕立件された公判の法廷で、当時地区労委員長として支援活動をしていた私は廷内側を越えて握手したのが初めての対面だった。

 以来日鋼争議も五〇年分裂も終始近くに在って相談し合いただ一度だけ離れていたのは極左冒険主義時代だけで、六全協以後は中国地方常任委員として毎日彼と仕事をともにし、綱領論争では一心同体となって追求した。彼は私より五才うえだったが大分年上のような気がしていた。彼は細心な反面きわめて大胆なところがあり、綱領論争ではその全生命をかけて闘い、宮本の矛盾をつく論鋒の鋭さは定評があった。


私の昭和思想史(三五) 松江 澄  「労働者」

 

 前衛党再建のために

前号(三四)で私は七四年四月の交通ゼネストと七五年十一月の「スト権スト」とを混同していた。「さしもの大ストライキが得る所なくして終ったことはその後の運動後退の第一歩となった」のは、七五年十一月の闘いであった。この年はまた私のとっても党にとっても重要で多忙な年であった。

 私は県会4期目、山口君は市会2期目の選挙がせまっていた。私達は前年の秋から本格的にとりくみ、年が明けてから急速に活動のテンポを早めて必勝を期した。しかし私は八六七九票―六四差で次点、山口君は四七六一票―五九名中一二位の好成績で二期目の当選を果たした。

かつては二八票で辛うじて当選し今また六四票で落選、小勢力の闘いにとってやむを得ぬ時の運であった。だが山口君の当選によって私達は広島の議会に労働者党の旗を掲げつづけることができたのである。

この選挙がすむと私は休むひまもなく党の重大な作業に集中しなければならなかった。それは前年来検討していた「前衛党再建」に向けて友党によびかけるための提案を起草することであった。草案はまず手分けして分担執筆したのち私がまとめることになっていた。

巣で何回もの討議をつくした私達は最後の集約のため九月中旬長野県野尻湖畔の学者村にある内野さんの小さな別荘で合宿することにした。但し宿舎はこの村の丸太造りの集会所だった。連日の討論で激論もあったがどうやら原案をまとめ、一日のんびりと秋色濃い野尻湖をたずね、近くの旅館で大きな岩魚の生きのよいのをさしみにして一杯飲んで疲れをいやした。

十月、全国代表者会議をひらいて討議、ここでもきびしい批判でいささか難航したがようやくまとめて原稿をととのえ、「『前衛党の再建のために』―私たちの提案」を十一月『労研』に発表した。提案にあたっての一文の中で強調しているのは変革主体の創造であり、前衛党の再建であった。「ブルジョア民族主義と議会主義に転落」している日共をひはんしつつ、日本共産主義運動の再建と統一をめざす諸勢力の共同を求めて提起したものであった。

本文では「独善主義とセクト主義をすてて共同闘争を発展させ、一つの革命的な戦線に結集しつつ日本のおける唯一のマルクス・レーニン主義の党を建設するという目的を共同で追求することこそ、今日の共産主義運動に与えられた第一義的な課題である。」と強調した。以来、内容に変化はあっても、自らを捨てて統一を求めることを唯一の存在理由とする私達の追求がはじまったのである。

この提案をあずさえて私達は手分けして各党派と会ってその真意を訴えたが、分断している各組織の共同を創り出すことは思いの外に困難であった。未だ機は熟していなかったのである。

 

「プロ独裁」をめぐり

 

 七六年四月五日、文化大革命で追放されたが先年首相に帰り咲いたケ小平が、周恩来元首を慕う民衆による「天安門事件」の黒幕だとして再び解任され、その後釜に華国鋒が座った。九月九日には巨星毛沢東が病死し、江青などの四人組が突如逮捕され華国鋒が党主席となった。

他方四月三十日にはベトナム解放軍がサイゴンに入城しここに長期にわたったべトナム戦争は終結し全土は解放された。日本では七月、田中首相がロッキード事件で逮捕され内外ともに大きな変化が訪れようとしていた。

この年九月三十日、天皇は訪米しアメリカとの関係修復に一役買った。ところがその帰国後十月三十一日の記者会見で質問を受けた彼は、「戦争責任」については「そういう言葉のアヤ」は分からぬと逃げ、「原爆」については戦争中だから気の毒だが「やむを得ないし」と公言した。

私は心底から憤激した。戦争と原爆を経た者にとっては何としても許せぬ暴言であった。広島原水禁、広島被団協は直ちに会議をひらいて公開抗議質問状を宮内庁経由で送ったが、まともな回答はなかった。

この年八月二十二日、労働者党全国委員会の呼びかけで、東京市ヶ谷の私学会館で「プロレタリア独裁問題シンポジュウム」がひらかれた。この会議には東京はじめ関東地方、大阪、京都、名古屋および広島はじめ中国地方と九州から、「日本のこえ」「新時代」「デモクラート」「共産主義者団」「共産主義革命党」「労働者党」の代表四三名が出席した。

この会議は、当時フランス、スペイン、日本などの共産党による「プロ独裁」概念の放棄があいつぐなかで、「プロ独裁」の内容を積極的に追求しようとするものであった。

まず私が、「『プロレタリア独裁』概念の放棄に対する批判と日本における『プロレタリア独裁』の展望について」と題して基調提起を行い活発な議論が行なわれた。そののち党は私の報告などを集録してパンフを発行したが、その中で私は日共の不破論文を批判しつつ、「職場と生産の主人公」をめざす労働者のヘゲモニーこそ「プロ独裁」の基本形態であり“細胞”であると強調した。

この号の原稿を書いた後でソ連のクーデターから党の解散についてのニュースを聞いた。それは正しく「プロ独裁」と「唯一前衛党」の最終的な崩壊であった。私の原稿と現実との逆な符合にわれながら歴史的因縁を思った。だが私の思想史は今日まで苦闘の一五年を必要とする。


私の昭和思想史(三六)  松江 澄 「労働者」

 

<戦前派と戦後派の逆転>

一九七六年といえば、戦後生まれの人々が日本人口の半数を超えた年である。私は五七才になっていた。統計局の発表はただの数字以上のものを私に考えさせた。

 二六才で敗戦をむかえた私にとって、その青春時代のすべては一五戦争の渦中にあった。とはいっても、私が直接感覚的に戦争のなかにあると感じたのは一九四一年の太平洋戦争からであった。それまでは戦争でありながら感覚的には「平和」であり「自由」であった。今考えて見入ると犯すことはあっても犯されることのなかった日本人の戦争への感性は、被害体験からしか考えられなかったのではないか。

 四一年以降はそれ以前の日常生活と違って急速に変わっていった。シュタインでドイツ・ビールを飲ませてくれた銀座のミュンヘン“から学生は閉め出され、それまでは質量とも満足していた食事もやがてトーフ一丁で「一膳飯」を喰ったり、肉のないライスカレー「一時腹」をゴマ化すようになり、四三年 にもなればキップがなければ外食もできなくなった。

 私の小学校六年のときに始まり中学卒業の年に全面戦争となった中国への侵略戦争も「被害感」のない日常生活の外にあった。この戦争の真実が隠されていたにせよ、戦争の正確な認識については感性のではなく理性の媒介が必要だった。文学者で私より一つ年下の安岡章太郎「僕の昭和史」も同じ理由で、「『十五念戦争』という云い方に実感としてなじめないものがある。」と述べ、「僕の実感として戦争が本格的にはじまったのは、この年(四〇年からである。」と記している。

 戦後生まれが過半数ともなれば、被害感さえ次第にうすらぎ、加害感はますます遠のくに違いない。残るとしても理念的な加害感と感性的な被害感の距離はますます遠くなる。ただいちずに反戦反核を闘ってきた私は、生年の戦前・戦後の逆転にいいようようのない不安を覚えた。

 しかも、この年十一月十日、天皇在位五〇年を祝う式典が全国の市町村で花々しく行なわれた。広島の祝賀実行委員の名簿は官公庁の長と各級の右派議員、知名会社の社長たち二〇〇人で埋められていた。その後の年号法、スパイ防止法案(廃案)、「日の丸・君が代」強制に至る反動化への開始の合図であった。

 天皇についての私の思想的原点は、すでに書いたように「人間に上下なし」という素朴な戦闘的ヒューマニズムであった。戦後マルクス主義の洗礼を受けながら、やはり私の天皇観の根底は変わらなかった。その天皇が戦後もひきつづいて「象徴」として再び「人心収攪の中心」(福沢諭吉)になることを憎んだが、いま生年の逆転が始まる年にそのカンパニアが進められることに私は二重の不安と焦りを覚えたのである。

<労働者党第一回大会―一九七七年九月>

 私たちは「前衛党再建のために」を発表して二年後に、それまで労働者党全国協議会という協議会であった組織を単一の党として形成することになった。それは共産主義者の結集をはかるためのも自らの党的主体形成が必要であったからである。

 そのうえ「提案」発表後急速に変化しつつあった情勢のもとで、そのいくつかの命題を補足する必要があった。この大会は、大阪部落解放センターの大会議室を借りて二日間に亘ってひらかれた。

新しい情勢としてはまず一に、ベトナム戦争におけるアメリカの敗北と、それが最終的にもたらしたドルの減価、国際通貨体制の崩壊、また世界的危機インフレと恐慌という資本主義世界経済の構造的危機についての分析であった。

第二には、五〇年代後半から年率10%を超えるめざましいテンポで国民総生産を増大させ、資本主義世界第二の「経済大国」にのし上がった日本資本主義の分析であった。

大会はとくに四〇〇〇億ドルを超えるアジア諸国への「援助」が単なる経済援助ではなく、アジアの反共軍事同盟をめざすアメリカ世界戦略に協調しつつ再びアジアの「盟主」になるための帝国主義的野望であると指摘するとともに、こうした日米帝国主義の針路に対立するベトナム戦争勝利に励まされたアジアと世界における民族解放運動の昂揚と発展がることを確認した。

そのうえで日本独占資本が自らの勢力の補完的役割として中道主義、新労使協調主義の育成にとくに留意していると指摘し、労働運動を始めとした各階層の運動、自然と環境を守る闘い、日韓連帯運動、部落解放運動についてそれぞれの重要な課題を提起した。

またこの大会は初めて「社会主義への変革をめざして」という一文で「日本革命の発展過程をあらかじめ図式的に断定しることはできないが、一定の政治的危機のもとで反独占統一戦線政府をめざす闘いが議会を通じて始まることはありうることである。」と議会を革命的にダイナミミズムのなかに位置づけたことをいま顧みる。この大会の追求は今日の情勢にも耐えうるものを残している。

この大会は最後に、「前衛党再建のために」というテーマのもとで、「共産党がありながら前衛党を再建する必要が具体的実践的な課題としてつきつけられているという日本の階級闘争と革命闘争の特殊性」を確認しつつ、前衛党の再建と労働者党の強化を統一して進めることの重要性を強調した。(つづく)


私の昭和思想史(三七)  松江 澄  「労働者」

原水禁運動の「統一」問題

 一九七五年から一九七九年頃までの反核運動にとって最も重要な問題となったのは「原水禁運動の統一」であった。この問題は私自身が四九年来の反核反戦運動から五四年の原水禁運動へと一身を投じていただけに私のとって避けて通れぬ問題であったし、それはまた私と日共との思想の闘いでもあったという意味で忘れることのできぬものであった。

 この問題については当時の『労働運動研究』に四回にわたって書いた「原水禁運動の統一について」の一文に詳しいし、それはまた私の、この運動について執筆したものに加えて書き下ろしたものを含めて一書にまとめた「『ヒロシマから』―原水禁運動に生きて」(青弓社 刊)のなかにすべて書きとどめておいた。いまそのなかで私の思想史にとって最も重要だと思うことだけは整理して書きとめておきた。

 原水禁運動の『統一』問題がおきたのは、この運動が六三年に分裂して一〇年後の七二,七三年、日共がいわゆる「統一三原則」によって解体統一を提唱したころから始まった。それが実際に具体的な動きとして日共・総評の会合などが行なわれたのは、それから二年の七五年ころであった。以後、統一議論が激しく沸騰し「統一」世界大会が模索された。私にとって、この運動の分裂と統一はもとより、さらに労働組合運動をはじめとするすべての大衆運動の統一と分裂を追及することが求められていた。それは戦後来広島でこうした運動のただなかにいた私に、改めて「運動の統一」とは何かということについて深い考察を迫るものであった。

 私は『労働運動研究』七七年六月号に「再び原水禁運動の統一について」という論文を書いてこの問題を究明したが、それは私の思想史にとって重要な一頁であり、この問題についての追求を総括する格好の機会となった。私は、このとき「運動の統一」とは何かということが運動にとって最も根底的な課題であることを直感していた。それは原水禁運動だけでなく、近代以来の日本の大衆運動、とりわけ戦後日本の諸運動をつらぬく「統一と分裂」についての総括であった。そこで私がゆきついた結論は「意見が同じものが、ともに闘うことは『統一』ではない。異なった意見や方針をもつものが一致する課題で、ともに闘うことこそ運動の統一である」(前述論文)ということであった。

 

 主体と連帯あるいは個と共同

 

 だが、私の模索は、そこに留まることを許されなかった。つづいて私は書いた。「統一の思想は個々の組織の主体性の確立と矛盾するどころか、それを前提としてのみ成立しうるものであり、・・・・・・・・その意味で統一の思想は思想の主体性と表裏一体のものであってけっしてその逆ではなく・・・・・・統一の思想の弱さは思想の主体性の弱さと別のものではない」ことを確認した。そうして、日本の運動の主体性の弱さ=統一と連帯の弱さは「ブルジョア民主主義をかけ足でと通りすぎた日本の大衆運動の自立性の弱さの反映でもある。」と総括した。

 この追求は、その後十数年を経てさらに私の内部で新しい模索を生んだ。それは私がたどたどと総括し直すことによって日本の近代の内部に暗く澱んでいる「日本的集団主義」であった。集団の権威の前に沈黙することによって異端でないことのアリバエにする思想である。それは戦時中には極めてろこつ通用し、「日本的集団主義」は草の根ファシズムに転化して、あの戦争を支えることになった。いや、それは戦後消え去ったわけではない。いま現に職場と地域で充分に生きのびて運動の足を重くひきすえている。

 私はこの問題は日本の近代社会のなかでの「個と共同」の関係であると考えはじめた。それは、八九年以来の現存社会主義の崩壊のなかで、かねてから追求されていた新しい社会への展望とも重なるものであった。マルクスの言う「ひとりひとりの自由な発展がすべての人々の自由な発展にとっての条件である。」(共産党宣言)のような「一つの協同体」とは、「個」の自立を前提にした自然体によって個と共同が相互につい合いのとれた協同組合のような社会ではないのか。ところが崩壊した現存社会主義のなかに私が見出したものは、これとは似ても似つかぬ上からたばねられ個を抹殺した集団主義の社会ではなかったか。この模索は私のなかで今日もつづいている。

 再び当事の現実に帰ろう。私が提起した「統一の思想」と運動は広島原水禁に受け入れられ、森滝さんは「主体と連帯」ということばで呼応した。しかしそれから一ヶ月もたたぬ七七年五月十九日、秘かに唯一人上京した森滝さんは学者などのあっせんで「協」の責任者である草野氏とのトップ会談をして、「禁」「協」の「組織統一」を展望する「五・一九会談」に署名した。私たちにとって全く寝耳に水だった。森滝さんの帰広を待って開いた非公開の常任理事会で私はきびしく批判した。平和運動にとって「カリスマ」は不用である。この運動こそ一人一人からなる民衆の運動と討議によってのみすべては決定される。ともに長く運動してきた尊敬する森滝さんを批判するのはつらかったが、あえてしなければならなかった。

 ※ この合意書には、この年「八月の大会は統一世界大会として開催する」など五項目にわたっているが、その第三項では「年内をめどに、国民的統一組織を実現する」となっている。


私の昭和思想史(三八)   松江 澄  「労働者」掲載

 

反動派の攻撃と選挙の勝利

 

 一九七八年は血なまぐさい反動が始動を開始した年だった。まず七月には「有事立法」が公然と国会の舞台に登場した。これはすでに書いたことではあるが、私と一高同期の栗栖が幕僚会議議長になるとまもなく「有事立法」の必要を公然と発言、主張して大いに物議をかもしたことからおきた。

 彼は学生時代に私と同じように軍隊に召集され、フィリピンなどに転戦し敗戦を迎えて内務省に入り、その後五〇年に創設された警察予備隊(陸上自衛隊の前身)に転じて次第に頭角をあらわし、ついに幕僚会議の議長になった。彼が「有事立法」発言で職を辞したころ東京で開かれた同期の一高会であったことがある。

 彼の話を聞きながら私が気がついたのは、栗栖はただ一人はじめて文官出身で武官の最高位に任じたゆえに、武官以上に武官達の立場に固執したなということであった。

 つづいて「三矢研究」が国会の中で暴露、追及されて大問題となり、制服組の独走だとして大いに非難されることとなった。これは朝鮮半島への軍事展開について作戦研究したもので、自衛隊作戦戦術の方向がどこに向けられているかを明らかさまにしたものとして国会内で左右激突したが、自民党も武官の独走はシビリアン・コントロールをやぶるものとしてしぶしぶ認めなければならなかった。

 「有事立法」といい「三矢研究」といい、安保闘争後しだいにあらわれ始めた自衛隊肥大化の波にのっていっきょに禁忌の一線を越えようとして失敗したもので、自民党政府や自衛隊の志向の方向をはからずも暴露することになった。

 こうして翌七九年四月には自民党と右翼勢力がかねてからもくろんでいた「年号法」が国会を通過して成立した。これは、以後展開される靖国法案、同公式参拝、スパイ防止法案など一連の反動化への口火を切る合図となった。

 そうしてちょうどこの四月全国一斉に統一に地方選挙が行われ、広島では雪辱を期する私と三期をめざす山口議員がそれぞれ県市議選に立候補、勝利をめざして闘った。

 とくに県議選は政令市をめざして合併拡大中のためかつてない大選挙区で大変苦労した。その結果、私は一〇三四七票を獲得して二二人中一八位で当選で五期目の議席を確定し、山口議員は3978票を獲得して三九人中三四位で当選して三期目の議席を守った。こうして四年ぶりに県市のコンビを回復し、広島県党の意気は上がった。

 

労戦統一と党の組織統一と

 

この頃、労戦統一への動きはしだいに進み、こうした「右翼再編」に反対する日共は七四の暮、統一労組懇を結成して、七九年十一月には彼らの「ナショナル・センター」を結成しようとしていた。このような情勢のもとで、「労戦統一問題」がにわかに労働運動の前途を展望する最も重要な課題となった。

わが党は日共のセクト主義的対抗路線には一致して批判したが、「労戦統一」そのものについては東京と大阪とで意見がきびしく対立していた。そこで私はこの年の暮れ、長谷川(浩)さんとともに大阪に出かけて原さんを初めとした労対部とこの問題を討論することになった。ところがなかなか意見は一致しない。

大阪の主張は労働組合にとって最大の力は統一であり、一時は後退してもそのなかでの時間をかけた実践的な運動によってこれを変えていかなければならぬという。東京の浩さんは、その統一が明らかに右翼分子の主張によって労働組合運動の右傾化をねらうものであるとしてきびしく批判する。

私は双方の意見を聞いていて、これは一時の意見の相違や単に「労戦統一」だけの意見のでは対立ではないと思った。それはそれぞれ長い歴史をもっている首都圏と関西の労働運動の歴史的な相違であると思った。関西労働運動はその歴史が示すようにプラグマティック戸さえ思えるほど徹底的な現実主義で、理念や思想よりも具体的な実践課題とそれを獲得するための力を何より重視する。

それに比べて首都圏では、もちろん現実に立脚しながらもなお思想・理論を重視し、時には現実を越えてなお理念を追求するところがあるように思える。これは双方の戦前来の党風を伝えて戦後の今日に至る歴史の相違だと私は思った。

そこで私はこの相違をいっきょにまとめることは不可能で、理屈や理念だけでは解決できないと思った。そこでまとめることができたのは労戦統一の階級的発展を追求し日共のセクト主義路線をきびしく批判することであった。

労戦統一にもまして重要な課題は前衛党再建をめざす第一歩としての党の組織統一の問題であった。なかでも組織統一について基本的に合意した「建設者同盟」とわが党がいかにして統一を実現するかということであった。七九年の労働者党第二回大会は両組織の統一をめざして、各対応細胞毎の統一会議と統一行動を基礎に両党の組織統一を八一年の早い時期に実現することを期した。

私はさっそく両組織の合同夏期合宿に参加してともに討論した。私はそのなかで、ソ連や国際情勢の見方にかなり相違があることにすぐ気がついた。それは「平和と社会主義」に参加していた建設者同盟の人々と戦前・戦後の経験のもとに比較的に自由に追求してきた私達との相違でもあると思った。


私の昭和思想史(三九) 松江 澄 「労働者」

 

グタニスクのスト

 

 一九八〇年夏、ポーランドではかねてから生活必需物質の決定的な不足による大衆の不満がつもっているなかで、七月一日、政府が発表した食肉等の値上げにたいし全国各所でストライキが発生した。なかでも八月十四日、グタニスクのレーニン造船所の労働者による二一項目の要求をかかげたストライキは、ポーランドのその後の重大な変革過程への最初の第一歩となった。それは戦後、社会主義体制に移行して以来ほとんど毎年のようにつづいていた労働者の闘争や蜂起が党=政府=官僚との決定的な対立に高まり、以後八年間に亘る抗争ののち今日のポーランドを生み出す端緒となった。またそれは、ただポ−ランドだけでなくハンガリー、チェコスロバキアをはじめとして全東欧の民衆決起によって党=政府の一元的な支配体制がまたたく間に崩壊するという東欧圏における驚天動地の合図となった。

 グタニスクのストライキは工場間ストライキ委員会の指導を中心に闘われた、その委員長にえらばれたのがワレサであった。このストライキの成功によって党=政府側はついに讓歩、8月三十一日には政労合意の協定が締結された。そののちいったん結ばれた協定についてふたたび対立が生まれるなかで自主管理労組「連帯」が結成されてわれさが議長となり、グタニスク協定は完全に労働者のものとなった。(この項つづく)

なによりも、党=政府の権威がかつてなく失墜したことと、党と権力に束縛なれない自由な労働組合が生まれたことは、ソ連東欧圏における画期的なできごとであった。八一年二月三日、ギエレクに代わってヤルゼルスキーが首相となり、さらにこの年の十月にはカニアに代わって党第一書記を兼ねることになった。

 こうして私達にとっては、はるかに遠いポーランドがにわかに身近な存在となり、彼の地におけるどんな会議も文章も情報も見逃すことなく、大きな変革の遠雷をきくように一喜一憂しつつ新しい変革の性格と今後の展望について話し合い摸索し合うのであった。

 その一方で、かねて計画していた建設者同盟との統一大会は八一年九月、伊豆でひらかれた。この大会では、それまでに激しい討論と思いきった妥協をくり返しながらつくられ、いささか教条的な政治方針と党の改正規約・前文がきびしい賛否の討論を経て多数で採択されたが、元労働者党の学生細胞は最後まで反対した。

 

戒厳令と「連帯」

 

 この年十二月十一日からグタニスクで「連帯」全国委員会と政府との交渉が難航し、「連帯」は自由選挙制、政権の正当など正面から権力の在り方を国民投票に問うことを提案し、これを拒否する党=政府と重大な対立に直面した。ヤルゼルスキー政府は十二月十三日ついに戒厳令に踏み切り、ワレサら中心的幹部は逮捕され、活動家達は一斉に地下に潜行した。

 こうした情勢のなかで一九八二年二月十五日、激論ときびしい対立を経て第四回全国委員会は、妥協の産物として「ポーランド問題について」という短い声明を機関紙に発表した。それは次のように述べている。「・・・・・国際情勢との関係、グタニスク政労合意の政治的意義、『連帯』の評価と社会主義のもとでの労働組合との関係、政労合意以降の経済的政治的社会的危機の内容、『軍政』それ自体の評価、国際共産主義運動としての課題などの諸問題を真剣に追求する。・・・・」と。

 しかしこの問題はこうした中途半端な声明ではすまされなかった。全国委員会はひきつづき三月に伊豆で全国党員学習会を開き、ポーランド問題について自由な討論を行なうことにした。私はこの集会の冒頭報告として「ポーランド問題の教訓」を提起することになった。これは三月五日付の機関紙に掲載され、また「労働運動研究」には八二年一月号(一四七号)の「八二年の階級闘争とわれわれの課題」のついての座談会のなかでの第三部「われわれのめざす社会主義の問題点」についての提起(松江澄)につづいて、四月号(一五〇号)には「ポーランドの事態から学ぶこと」(松江澄)と題して学習会報告を補足して問題を提起した。私は労研一月号では「『民主主義の徹底』ということは少数の民主主義から多数の民主主義へということで、つまり労働者・人民が本当の意味の主人公になるという問題」である、と報告した。

 ポーランドについての報告と論文ではこれを一歩進めて、「社会主義とはある意味で“徹底した民主主義だと思う」と提起しつつ、「グタニスク政労合意」によって「先験的な『前衛党』は存在しないことが公然と明らかにされた。」と断定した。もし「主人公」であるべき「労働者階級」が理想化されることによって抽象的な概念におきかえられて、その本質を体現する唯一のものが前衛党であると合理化されるなら、「主人公」は労働者階級から党に転化される。しかし労働者とその意志は、現存する分節した労働者、勤労者の諸組織の意志の複合的な総体でなければならぬ、と主張した。

 こうした私の考え方は、そののち波多然らとの思想闘争のなかで憑かれたように書き続けた現存社会主義と唯一前衛党への批判の最初の直接的なきっかけとなった。(つづく)


私の昭和思想史(四〇) 松江 澄 「新時代」1992.3.15233

初の中国訪問

 前々回(三八)で私は大きな誤りをおかした。私と同期だった栗栖の「有事立法」発言と「三矢研究」問題とは確かに一連のつながりはあったが、それを同じ時期のように書いているのは全くの間違いであった。「三矢研究」問題は「有事立法」発言の一五年前の一九六三年六月のことである。私がこの思想史のためにいつも作っている年代記自体が間違っていた。改めておわびする。

 もう一つ、書くべくして書き残したのが初めての中国行きである。一九七九年十一月、広島県議会で初めての訪中使節団に加わり、学生時代の「満州」を除いては生まれて始めて関心の深かった中国をたずねたことだった。この訪中団は各党が加わって全部で十数名になった。特に印象が深かったのは私と二人の団員が、RCCの手引きにより広島文理大在学当時被爆した元北京工業大学教師の由明哲さん(訪中当時六五歳)と南京大学教師の王大文さん(同五四歳)に、日本人とりわけ広島人として初めて会って「原爆」を話し合ったことだった。私達は蛸安博中日友好協会顧問にこの二人の広島再訪問を要請したところ善処するとの約束を得た。彼等は翌々年の七月来日して三六年ぶりに広島を訪れ、かつての親しかった人々との旧交をあたためた。

 私達が訪中する十数日前、当時の副主席であった葉剣英による「文化大革命」の中間総括が発表され、いらい「文化大革命」批判が急速にすすむ最初の公式の発端であった。中国を訪問してどこに行っても感じるのは、言葉こそ違え結局は同文同種の民族同志であることだったが、帝国主義の「義」が「叉」と略されているのには驚いた。と同時に日本のセクトの諸君が切ったガリ刷りのビラの中で見る「叉」が中国の略字だと直感した。当時この大国が悩んでいる最大の文化の問題はことばの不統一だった。そのことばの相異は青森と鹿児島の方言の相異どころではなかった。「道路」ということば一つが北京と上海とではまるで違うのだった。

 しかし、どこに行っても変わらないのは中国共産党に対する無条件の信頼と服従であった。私は終始ついてくれた若い党活動家の通訳にたずねた。「君にとって党とは何か」と。その答えは「すべて絶対」であった。私は旅行中彼の党への絶対主義的な忠誠心をくつがえそうと理論的にいささか挑発したが、ついに彼は思想堅固に挑発をしりぞけた。これも中国革命の社会的性格の限界ではなったか。当時の中国でいちばん印象的だったのは、「文化大革命」から放り出された青年達の問題だった。私達は行く先々で絵などを売りにくる青年達に出会った。

 この旅行で少し風邪ぎみだった私は乾燥した空気にやられ、帰ってから声がかれて困った。この秋、私は四〇年以上吸ってきたタバコときっぱり絶縁して以来一本も吸ってない。

 

小選挙区で落選

 

 八二年の後半にはもっぱら翌年の県・市議選の準備に集中した。とくに私は前回のかつてない大選挙区制から政令市による小選挙区制へと急激に変える条件にとまどった。私の選挙は党員、労働組合活動家と住民運動の人々が全市的に活動する広い選挙活動に支えられ「ドブ板」選挙は苦手だった。とくに中区は中心部で官庁、銀行、企業事務所と飲食店等の商店街で、昼はにぎやかでも夜は空っぽだった。

 革新に不利な小選挙区闘争というので社会党と共闘することになり、市会議員候初候補の鈩谷君子さんと組んだ。しかし私自身はとても難しい(当選予想票一万五〇〇〇票で定員3名)と思っていた。だが妙なもので選挙が始まると、ひょっとしたらと思い始めていた。投票二日前に中国新聞に近い知人に情勢を聞いて当選を断念した。結局私は五位七〇八〇票で落選、私の下には三〇七〇〇票の共産党候補だけだった。鈩谷市会議員候補は上位で当選したが、西区で頑張った山口議員は一二位三四五九票で惜しくも四九票差で落選した。結局小選挙区制は「ドブ板」と町内会選挙が勝利したのだった。それにしても今までの二〇〇〇票台だった中区で三倍以上伸びたとは改めておどろいた。後援会の人々の必死の努力のたまものだった。みんなくやし涙を流して残念がった。私は皆をなぐさめながら内心ではさばさばしていた。これで議員ともお別れで、これからは運動に集中しようと思った。

 私は一九五九年以来の在任二〇年間(一回落選)をふりかえった。私がこの間いちずに追及して今日まで残るものは、原爆被害者、大久野島毒ガス傷害者、森永砒素ミルク中毒の子供と親達の救援と、福島町の新しい町づくり、基町土手(「原爆スラム」と呼ばれていた)の住宅闘争であり、他の半分は不正、不当な県政のバクロと追及だった。それぞれが十年もかかる運動をダブって闘った思い出はつきない。私はこのなかで、国=県とつらなる行政の馴れ合いやゴマ化しをいやというほど見たし、多くの被害者とともに闘うことで今まで私が何も知っていなかったことを思い知らされた。苦痛と苦労に耐えて健康と生活のために長い間闘うことすらできなかった多くの人々が居ることを知ったことは、私にとって重い衝撃であり大きな教訓であった。ともすると理論第一と考えがちな私が経験を通じて、事実とその変化を闘いとることこそ最大なものであるあることを初めて身に沁みて大切だと思った。(つづく)

 


私の昭和思想史(四一)  松江 澄 「新時代」1992.4.15 第234

 

世界平和集会へ

 

 選挙がすんでひと休みするまもなく、広島原水禁の誘いで私は八三年六月二一日から開かれるプラハ世界平和集会(「核戦争に反対し平和と生命を守る世界平和集会」)に原水禁を代表として唯一人参加することになった。この集会は、アメリカのヨーロッパ対ソ前線基地として西ドイツを始め欧州に配置されている中距離核ミサイルの撤去を要求して始まった数百万人に上るデモや集会を受けて準備された平和集会であった。

 チェコスロバキャは二度目であるのと、「プラハの春」いらい何となく私にとってなじみ易い国でもあったので引き受けることにした。東京と名古屋から民学同系団体の若い幹部が二,三人参加するのでさそわれるまま同行することにした。

 大急ぎで準備するなかで、何といっても重要なのはどういう主張と提起を発言するかと云うことだった。私は思い切って決意したのは、少し前から私の中で熟し始めていた提起―社会主義国による「一方的核軍縮」であった。これは何時止むとも見押しのない核軍拡競争のなかで、私が、戦後四〇年間の反核反戦運動の結論として思いつめた提起であった。それはまた現存社会主義のあり方についての私の批判的集約の一つでもあり、この頃始まっていた党内のソ連絶対主義を主張する人々との論争のなかから私の胸中深く根ざし始めたソ連批判でもあった。

 私はこの考え方を広兼君に話して同意を得たうえで、ちょうど所要のあった京都に立ちより山本徳二君とも会って意見をきき、賛同と激励を受けて決心はきまった。帰広してひらかれた広島原水禁の理事会でも承認された。私はこの提起をソ連とか社会主義にせず、「平和を愛する何れかの核大国が」という表現にした。それは「世界で最初に核兵器を使用する政府は」という第一次ストックホルム・アピール(一九五〇年)から「いかなる国の核兵器・核実験にも」という原水禁運動分裂のときの私たちのテーゼ(一九六二年)へと結ぶ反核反戦運動の延長線上にある大道であると確信したからである。それは主体の選択を問う大衆的な路線でもある。六月の始めに私を送るための松江後援会の総会がひらかれ、地元をはじめ全域から多くの会員が参加してくれた。選挙のくやしさを世界平和へと向う私への激励に替えて支援され、六月十九日広島を出発した。

 

ソ連代表団に迫る

 

 通訳を含めて同行五名はパリに一泊してプラハに入った。ところが集会の始まる前の夜の会議で、彼らが是非にと提案したのは彼らのキャップを世界平和評議員に推薦したいということであった。私は怒った。それは私が同じ若い頃とはいえ今の彼らよりもっと運動を重ねた四十七才のとき、志賀さんのたっての要望で浜井市長に世評評議員の推薦をもらったことを思い出すたからである。私は経験の浅い彼らが運動より地位を望むことをきびしく批判せざるを得なかった。それはソ連=世評という図式から出たものだけになおさらだった。会期中彼らは「廊下トンビ」で世評の幹部たちにオルグしたようだだが問題にならなかった。

 私は第三分科会(平和と軍縮の分科会)が中心とみて参加した。そこには十名ばかりのソ連代表団  

表団が私のテーブルのすぐ近くに、また中国代表団をはじめ社会主義諸国の中心幹部たちも参加していた。私は指名をうけていささか上気しながら思いきって提案した。私はまずこの前の戦争に参加した学徒から被爆二週間後の広島に帰った体験を手短に紹介しながら、いまの核軍拡競争を停止させるためには真に平和を求める核大国の何れかがまず自ら一方的核軍縮を開始するという道徳的倫理的イニシャチーブ以外ない、と断言してソ連代表団にじっと目をそそいで迫った。拍手一つない会場は一瞬異様な空気につつまれた。ソ連代表団は無言で下を向いたまま何一つ態度を表さなかった。

 この集会には資本主義国内の反核反戦運動、第三世界の反定反戦運動、社会主義諸国の平和代表団など飛躍百三十数ヶ国一八四三名の国際的民間団体代表が結集したかってない規模の世界的な大集会であった。この大集会は最終の全体総会で、「ヨーロッパの新型核ミサイル配備反対!ヨーロッパに配備されているすべての種類の核兵器の削減に関する現実的な交渉!」に加えて、「すべての核兵器庫の凍結!」を呼びかけて終わった。

 この集会から1年半後にゴルバチョフが書記長に就任してまもなく、ソ連政府は五ヶ月間の核実験一方的停止を声明してアメリカにも同調を呼びかけた。それはその後に実現する米ソ核軍縮の扉をひらくものだった。この集会にはもう一つの重要な副産物があった。それは「七七年憲章に」結集する三〇〇人の市民集会が、世界平和集会代表団の歓迎集会と同じ広場でひらかれた。政府は弾圧できなかった。それはこのときから六年後に噴出する民衆ほう起の最初のシグナルだったのだ。

 集会が終わった夜、ドボルザーク・ホールで聞いたノイマンの振るチェコスロバキア・フィルの響きの何とすばらしかったことか。会が終わり通りすぎた雨にぬれたい石段を踏み出したとき、モルドウを越えてそびえ立つプラハ城はおとぎの国の城のようだった。(つづく)


私の昭和思想史(四二) 松江 澄  「新時代」1992.5.15. 第235

「一放的核軍縮」論

 

八三年七月末、私がプラハから帰国するとすぐに佐和さんから集会の報告を『労働運動研究』に書いてくれと頼まれ、私もこの際思いきって私の考えているところを発表しようと決心した。大いそぎで書いたこの原稿は八三年九月号に、「世界平和の前進のための提案」と題して掲載された。私はすでに書いた「一放的核軍縮」提案の一文の終わりに、この立場を発展させて次のように書いた。「資本主義国の中で変革をめざして闘っている私たちにとって社会主義国がとりでであるとすれば、それは軍事援助や資金援助ではなく、社会主義の実生活の実例を通ずるその知的道徳的ヘゲモニー、また国際的諸問題にたいする知的道徳的ヘゲモニーではないか。」と。

 この九月号の文章と、つづいて書いた「八一ヶ国声明は今でも有効か」という一文がもっぱら反対派の人々の私に対する批判の的になったようである。だが私としてはこのあとつづいて八四年九月号に書いた「いかなる社会主義か」(『労研』一七九号)こそ、私の現存社会主義と唯一前衛党批判の核心であった。だがそれは後にゆずろう。

 というのは、まさにこのとき重大な事件が発生したからである。それは「大韓航空機事件」であった。九月一日、ソ連の勧告を無視してその北方領空を侵犯した大韓航空がソ連空軍機によって撃墜され、日本人二八名を含む二六九名の乗客が死亡するという世界を震撼させた大事件であった。党は九月二〇日付の機関紙の第一面で、「政治的挑発の犯人は誰か!―大韓航空機事件の徹底解明を!」という論文で大韓機の責任とその背後に見えかくれする米日軍部の責任をきびしく追及するとともに、撃墜したソ連機の性急な措置にたいしてもあえて遺憾の意を表した。だがこれが問題になった。

 十月一日の全国委員会では波多委員が、ソ連に遺憾だとは日共の態度と同じだ、ときびしく批判したが、会議は最終的にこの「主張」を承認した。こうした対立はすでに党内のきびしい空気の反映でもあった。またこの委員会では第二回大会草案は「松江骨子」にもとづいき在京常任委員が参加して作成することになったが予想以上に難行した。国際情勢の見方について意見が対立し、いわゆる「総路線」支持派と批判派が相互にゆずらず激論したが、ともかく統一のためにということで第一次草案という異例の方法で提案することになった。

第二回大会―長谷川の死

 

 この年十一月十九日第二回大会が京都の宇治でひらかれた。この大会は私にとって戦後来はじめて痛苦に満ちた大会となった。今度の方針案は第一回大会の方針とちがうというきびしい批判とともに、一同志の行動にたいする非難が問題となった。会場は次第にけわしくなりつつあった。私はたまりかねて発言を求めた。立ち上がった私は、意見の相違はあっても統一して闘おう、過ちを犯した同志への批判はきびしくとも同志的友情は忘れまい、ということばの半ばから何とも言えぬ感情がこみあげ、不覚にも涙がながれるままに座した。後にも先にも私はこのような体験ははじめてであった。

 この大会で草案の起草責任者である私はついに独断で提案撤回を宣言した。これ以上続ければ分裂必至と思ったからである。ともかく大会を終えて全国委員会をひらき、私は議長辞任を申し出たが許されなかった。柴山事務局長とともに総括とまとめを準備することになり八四年一月全国委員会で総括討議を行なった。この「総括」は、大会が方針を決定できなかった責任はあげて旧全国委にあるとし、議長自ら提案をとり下げたことは重大な誤りであると指摘した。また党内意見の集約の努力が不充分であるとし、意見の異なる者がともに闘うことこそ真の統一であると集約して臨時大会の開催を決定した。私は針のむしろにすわっているようだった。

 この年の二月二十五日、長谷川浩全国委員が自宅から労研事務所に向かう途中、自宅から余りと遠くない路上で心筋梗塞の発作で倒れ、救急車で三鷹中央病院に運ばれたが、まもなく急性心不全で亡くなった。私は急をきいて唖然とした。十年前には内藤さんが電車の中で心筋梗塞を起こして急死、いままた尊敬する先輩の長谷川さんが同じ病で逝った。私は愕然としてその訃報におどろくとともに心の底からくやしかった。昨年の大会後、長谷川さんを広島に招き労働運動についての講演会をひらいた後ひさしぶりにのんびりと先輩を囲んで一杯呑みながら話し合ったのだった。

 私は急きょ上京して長谷川さんの宅にかけつけた。すでに多くの同志や友人、また浩さんに傾倒していた若い人達が集まり、心からその死を悼み、在りし日の姿を偲ぶのだった。私と長谷川さんは以前から「国家=党」というドグマこそ現存社会主義の諸悪の良いラグビー部で、がっしりした体格だったのでまさかこんなに早くとは夢にも思わなかった。その死は私にまた一つの山を越えるように志を固めさせた。『労研』三月号の長谷川さんの最後の論文「『社会主義の優位』とは何か」は、私が追求していた現存社会主義批判と志を同じくしているものだった。


私に昭和思想史(四三)  松江 澄   「新時代」1992.6.15 第236

 

論争はじまる

 

 一九八四年という年は私にとって忘れ難い年である。私はこの年一年間に、労研の一月号、五月号、九月号から八五年一月号と四つの論文を書きまくった。それは私の内から奔流がほとばしるように流れでたものであった。それは私が戦後来まなんできたマルクスの思想から、また実践的には四度にわたる現実の見聞から、どうしても書かなくてはならぬという私自身の内なる命令に抗し切れなかったからである。それはソ連絶対主義の立場からの批判は衝動的に私の心底から引出したものでもあった。

 しかし一方では私はわが党の責任者であった。それは組織の統一をまもることを無条件に私に要求した。組織の統一と自らの良心と、私は二つの対立する矛盾に悩んで夜も寝られなかった。しかし統一の名のもとに妥協できぬものがあると私は思った。たとえ統一の名の下においても自己の共産主義者としての良心をいつわることは、私たちの運動の冒?だと思った。それは私の戦前以来の教訓―戦争と軍隊のもとでみじめに崩壊したとはいえ、私のこの運動への戦後の出発に際して私の原点ともなった自らのいつわらぬ自主・自立の心であった。それあればこそ日共のなかで闘うことができたのだった。その原点を組織の統一ということであいまいにすべきでないとおもった。

 私は一月号の「現存社会主義の諸問題について」で、総論的にでいささか抽象的ではあるが、マルクスに習ってブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義の不可分の論理をまず確認した。プロレタリア民主主義とはブルジョア民主主義とあい容れるものではなく、ブルジョア民主主義をいっそう全面的に発展させ実生活のすべてに貫徹される―ブルジョジーはけっして許容しないが―ことであるという思想であった。また、今日の現存社会主義国家はまだロレタリア国家ではなく、ブルジョア的な国家―軍事官僚国家―の残存形態であると断じた。

 五月号の「八一カ国声明は今でも有効か―全般的危機論と平和共存論―」は、私自身でさえいま読み返していささか挑発的だと思うほど断定的にきびしく批判したものであった。それだけにこの論文は批判派の諸君から、国際共産主義運動の裏切りであり謀反であるときびしい糾弾を受けたが私は動じなかった。

 

論争の焦点

 

 この当時の論争の第一の焦点は「八一カ国声明」(一九六〇年)にもとづく国際情勢の分析に従うか否かにあった。それは当時ソ連を中心にした国際共産主義運動の不変の教条でもあったのだ。この声明は「資本主義世界体制は衰退と腐朽の深刻な過程にあり」、いま「戦後最大の危機的震撼の局面」だと分析していたが、私はこの時代が資本主義の高度成長期から技術革新時代へとつづくことを指摘してきびしく批判した。そうしてこのような非科学的で不正確な分析の根源は「この文書の基調と方法のなかにある観念的な誇張から生まれる独善的な楽観主義と社会主義万能論」にあると指摘した。そうして「平和共存論と全般危機論とは相互補完してソ連第一主義を「理論」化している同腹の双生児である。」と断言した。

 振り返ってみればこの「声明」の路線は「社会主義革新運動」が出発したとき(一九六一年)の大前提であったし、共産主義労働者党結党のとき(一九六七年)にもこの「声明」を私も誰もおおやけには疑わなかったのだった。だがその後の日本経済の発展や、六五年、六六年、七二年とつづいてソ連や東欧を見てきた私にとって、それまでは心中深く秘められていた疑いが論争のなかでいっきょに吹きあがってきたものだった。

 しかし私にとって最大の問題として集中して追求したのは次の九月号論文「いかなる社会主義か―唯一前衛党と社会主義的民主主義―」であった。私は九ページにおよぶこの一文のなかで、いままでたまっていた腹中を全て吐き出すつもりで書いた。その第一は、当時としては革新的なソ連科学アカデミー・シベリア総支部の「ソ連経済社会の活性化」のなかになお根強い痕跡を残す労働者間理論であった。「勤労者の人間的発展水準」が本質的に高度化したことは、勤労者が以前と比べてかなり複雑な管理対象になったことを示している。」という一文はけっしてこの報告の片言雙語ではなくその主題であった。そこにみられるのは労働者による国家と生産の管理ではなく、「労働者」の「国家による労働者管理であるという逆転の論理が前提となっている」と、私は書いた。

 第二に私が強調したのは唯一前衛党批判であった。「『一枚岩の党=唯一前衛党=国家』という定義こそ、どんな批判ものみ込んでしまう不変のタブーである。そうしてこれこそ『スターリン主義』の基礎であり、したがってまた現存社会主義における諸矛盾の根源ではないか。」と。そうしてソ連の選挙の機構を批判して、複数党による選挙は彼らが乱暴に批判する「民主主義ごっこ」ではなく、「対立・競争―批判・選択」を通じる民主主義の重要な一形態であると主張した。だが不思議にもこの論文へも反論はついにあらわれなかった。だがこの論文の出た九月、党分岐の最初の危機がはじまったのだった。


私に昭和思想史(四四)  松江 澄   「新時代」1992.7.15 第237

 「ヒロシマから」

 八四年七月、前年来準備してきた私の最初の著書ができ上がった。これは私がプラハから帰ってきてまもなく、広島から京大に学んだ室崎君が新進出版社の青弓社―その社長が広島と縁があった―と連絡して、私が「労研」などに書いてきた原水禁運動についての文章をまとめて出版しないかという話を持ち込んできた。

 この頃までに私が折にふれて書いてきた反核反戦運動についての文章も大分たまり、七八年には全国委員会の発行として大阪で印刷し、「原水禁運動の統一と発展のために」という題名で六四ページほどのパンフにして、八・六カンパニアのなかかなり売りさばいたことがあった。今度は、その後書いたものやプラハ集会での発言も加え、総論的な書き下しに運動の年代記をつけて一書にしようということであった。私もしばらく考えたが、ここらで「原水禁運動」の追求をまとめて整理したいという気持もあったので同意した。

 そこで八三年の秋から準備をはじめ、出版社のすすめで、かねて知り合いの丸木さんに表紙カバーの絵をたのんだら「原爆の図」をつかえといわれ、喜んで表紙を飾ってもらったばかりか章ごとの小見出しにもその一部を使わせてもらうことになった。いまでもこの本を見ると、表と裏につづく「原爆の図」第八部「救援」の原画を最初に見たときのこを思い出す。丸木さんには「ヒロシマから」という題字まで書いて頂き、わたしとしては望外の喜びであった。

 私はこの巻頭の書き下し論文を「三十五年をふりかえって―戦後反戦反核運動の歴史―」と題して書いた。そのなかで私は、「運動にとつて統一こそ最大の武器であり、統一とは意見の違うものがともに闘うことである。」―意見がおなじものがともに闘うのは当たり前のことで、統一ではない―と書いた。

 それはベトナム戦争から学び、世界の運動から学び、日本の運動の分裂から学んだ私の運動哲学であり、それはすべての運動に通ずる「統一」の原点であると思った。そうしてそれはまたやがて始まる党の統一と分裂についての苦渋に満ちた教訓ともなったのである。

 それはさておき、この本は広兼書記長と相談して計画を立て、広島や全国の同志、友人や友党の人々、また広島では多くの友人、知人および労働組合、平和団体などのおかげで二〇〇〇部も売れた。

 

全国委員会の凍結

 だが一方で九月の全国委員会は今まで以上にきびしい会議となった。それは恐らく私の労研論文がつきつけた彼らの教条への真向からの批判のせいもあったに違いない。私は個人の論争と組織の統一とはきびしく分別しているつもりでも、人から見ればそうはいかなかったようである。意見の対立はますますきびしくなり、波多委員は全国委員会の機能を停止すべきだと強硬に主張した。反対意見もあり各委員の意見も微妙に異なっていたが、いつしか重苦しい空気が会議をおおった。私もついに一存で全国委員会の一時「凍結」をはかり断言的に決定した。しかしこれは私の大きな不覚であった。このままでは分裂がさけられないと思ったが、「凍結」は帰って危機を増幅させるだけだった。

 「凍結」後の十月、十一月は各地方を廻って同志たちに情況を報告し意見をきいて歩いた。だが何といっても東京都党が重要であった。東京都には波多氏らと同調する人々がかなりいた。私は十一月十八日開かれた都党会議に招かれ、全国委員会の報告と合わせて事態を解決するための提案を提起した。それは「(一)大会に提案する政治方針は、日本帝国主義の現状分析と日本の階級闘争の任務を中心とする、(二)これにかかわる国際情勢については、意見の不一致点は保留し、一致できる点について明きらかにする、(三)前衛党再建については不一致点を保留する」ということであった。対立点としては、@世界革命過程における社会主義世界体制とりわけソ連の位置と役割、社会主義国内の諸問題および現時点における国際的な革命と反革命との力関係、A日本革命と世界革命とのかかわり合い、B前衛党再建のより深い内容、これらについての事実究明を共同で追求する、と確認した。

 こうした提案が確認されれば五全協以降の不正常な状況(凍結)を解除して第三回大会開催の準備をすすめることができる、というものであった。この提案はさいわい東京都党会議で承認され、つづいて京都、大阪、広島などでも承認された。

 こうした状況を含んだうえで全国委員会を翌八五年の一月二十日東京でひらいた。会議では私が東京都党会議で承認された提案と確認を報告したうえで、前回以来の不正常な状況(凍結)を解除してその機能を回復して第三回大会の準備を進めることを提案した。

 しかし水沢委員は「この提案は重大な論点をタナ上げし、党を協議体にするものだ。」と強く反対し、採択すれば退場すると確言した。そこで慎重を期するため一時休会し、各都道府県党会議で討論したうえで、二月十七日の続会全国委員会で討議することにした。

 私はこの一カ月たらずのあいだも悶々としてすごした。私には悪い予感がぬぐいきれなかった。

寒い冬の夜、眠れぬ夜がつづいた。


 

私に昭和思想史(四五)  松江 澄   「新時代」1992.8.15 第238

ついに党の分岐

 二月の続会全国委員会では、分岐をさけるために努力した在京全国委員による事態収拾のための苦心の提案も出されたが、波多全国委員は「この組織は世界革命路線からそれているので私は手を引く」と云って退場した。つづいて三人の全国委員も退場した。状況はついに最悪の事態に立ち至った。そこで全国委員会は、「意見の相違を隠さず、忘れず、排除せず」というわが党の統一のための原則を再確認し、いっそう党の統一を固め組織の総括と今後の方向を明らかにするため三月十六、十七両日東京で第三回緊急臨時大会をひらくことを決定し、その準備を東京都委員会に委任した。

 その後東京都委員会は分岐のただなかにあって慎重な配慮と結集への断乎とした決意によって、分岐を最小限にとどめるため全力をあげて苦闘した。結局離党者は在京一二名となり、三月十五日付けで彼らは「結党のよびかけ」を発表して社会主義統一党(仮称)準備委員会を結成した。

 この「よびかけ」は殆ど統一労働者党というよりも私へのひぼうと批判に通夜されていた。私はかつて日共「前衛」の“広島県党小史”のなかで二〇数回名指しでひぼうを受けたことはあるが、このたびの「よびかけ」では短い文中で一三回も名を挙げて糾弾を受けることになった。その対象を大きく分ければ、第一に「八一ヶ国声明」にたいする私の批判(『労研』)であり、第二には私の「一方的核軍縮」提案(プラハ世界平和集会、『労研』)であり、第三には私の執筆した党の政治方針案(第二回大会第一次草案)および意見の相違を収拾するための私の提案であった。だがかんじんの彼らの新党についてはレーニンの引用よ前衛党再建(共産党再建=松江)についての抽象的な決意だけであった。

 第三回臨時大会はきびしい大会となった。大会決議は、ポーランド問題、アフアガニスタン問題、スペイン併行党問題、など国際共産主義運動をゆるがす重大な対立が発生するなかで、いままで従属的なものとして保留されていた意見の相違が主要なものとして基本的な対立に転化したことを、全国委員会が見抜けなかったとするどく批判した。そのうえで全国委員会の「凍結」は階級闘争の任務を放棄するものだともきびしく批判し、統一のための積極的な努力の欠除を全国委員会の責任として自己批判を要求した。私はただただ責任を痛感するのみであった。

 昨年(一九九一)秋広島をおそったかつてない台風の嵐のさなか、東京から帰りに広島駅で降ろされた波多さんが駅から私に電話して一泊のホテルを懇請された。ようやく空室を探し出し、しょんぼり待っていた彼を駅から連れ出したとき、話らしい話もしなかったが、彼の態度と考え方は当時と少しも変わっていないと私は直感した。

反核反戦運動の統一

 この年、広島では前年から話が始まった八月の市民運動の統一が急速に進んだ。から以前から八月の広島では原水禁集会の前後に二,三の独自な市民・労働者集会があった。その一つは電産を拠点とした反原発集会でありすでに一〇年近くも会を重ねていた。もう一つは私が呼びかけて七、八年も続いていた集会であった。これには原水禁集会に参加しながら追求し足りない課題をつっこんで討議したいという人々が集っていた。これはわが党と「フロント」と「人民の力」が協力してひらいてきたもので、次第にこうした組織以外の活動家が参加し、時には原水禁に参加したドイツ「緑の党」の書記長が飛び入りしたりするなど活発な議論を重ねてきたものだった。

 この項すでに労戦統一への動きが強まるなかでやがて将来には総評解散が見とされ、そうなれば総評が組織的には大支柱だった原水禁にも大きな影響を与えることは必至であった。もちろん私も常任理事の一人である広島原水禁はどんな情勢、どんな事態になろうとも毎年の集まりを停止することはないが、今までのような大組織大運動というわけにはゆくまい。そこでこの際市民運動が統一して追求をつづけていれば、労働者集団の運動と市民運動が手をとり合って運動を支えることができるのではないかと考えた。幸いに他の諸集団も同意見なので、「八・五反戦反核広島集会」ということでともに運動を進める合意が成立し、「二・一一」(「建国記念日」)「四・二九」(「天皇誕生日」)のカンパニアを経て八月の準備をすすめることになった。

 この年の春、京都の全国委員会のあと、私は高雄病院の米澤君のすすめで休養をかねて久し振りにドックに入った。ところが私の心臓に異常があることが見つかった。そこで病院の同志たちの世話で設備のある大きな病院でくわしく調べてもらったら、重大な異状の懸念があるから広島に帰ったら然るべき病院で「カテーテル検査」をぜひうけけるようにと指示された。きけば、太ももの根っこから心臓に至る大きな動脈に、カテーテルに逆通させて、レントゲンで直接心臓の冠状動脈を診るという、いささか危険そうな検査なので、やりそこなえば死ぬか大きな障害が出ることもあり得ないないとはいえない。もっとこのままでも生きたいと思う私は検査を受ける気はしなかった。

 広島に帰って友人の医師に専門医を紹介され、ひととおりの一般検査を受けたがいまのところ格別な異状はないようであった。


私の昭和思想史(四六) 松江 澄  「新時代」 1992.9.15 第239号

 

新しい連帯と自立

 この年、私は八・五集会を前に自らの運動の歴史をふり返って総括するため『労研』五月号に、「被爆四〇年のヒロシマから」を執筆した。それはさきの著者『ヒロシマから』の立場よりいま一歩ふみこんでこの運動にたいする反省と追求の一文であるとともに、やがてひらく第一回反戦反核広島集会で提起しなければならない運動の総括への第一歩でもあった。

 このなかで私は、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」という「中曽根臨調報告」を、福沢諭吉「脱亜論」に重ねて、その「脱亜論」が「征亜」に進んだ所以を追求したが、それは「和魏洋才」の道でもあったと指摘した。「戦後民主主義の総決算をすめることによって再び『和魏』を地底から呼び戻し、新たな『脱亜入米』をめざしてイデオロギー的再統合をすすめようとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。」と。

 私は「私たちの運動に残されている国民主義的な“母斑”」をかえりみつつ、「いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降ろされるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。」と書いた。

 これはおくればせに私の内心を衝いて、今日に至るこの運動の痛切な反省の最初の出発点であった。ふりかえってみれば、戦後日共の中で戦争に反対して闘ったのは日共だけだったというキャンペーンは党の内外でくりかえされたが、あの侵略戦争を阻止できなかった所以をたずねて自らも深く反省することはなかった。そのうえ自前の占領軍や資本との闘いに振り廻されて、深く歴史を省みる余裕がなかったことを今でもはずかしく思う。

 私は六月頃から全力をあげて若い人たちとともに初めての八・五集会の準備に没頭した。当日午後五時には会場の広島市福祉会館の集会場は、私たちの予想を越えて二五〇名内外の人々で満席となった。この集会では夏のヒロシマではどこでもきかれる原爆被害アピールではなく、「かえせ、まどえ」という被爆者の怨念から出発して、「八・六」を歴史から抜き出すのではなく歴史のなかに返して、一五年戦争と原爆をひとつづきのものとしてとらえ直すことが提起された。それは活発な討論を通じて深められ、集会は新しいヒロシマの運動を宣言した。私はまとめの議長として結語をのべたが、何とも云えぬ感慨が私をひたした。この宣言は今日につづく八・五集会の源流となった。

胸の痛み―入院

 八・五集会が成功のうちに終わり、秋になると全国委員会が開かれた。そのころ全国委員会では労研改革の問題が重要な課題となっていた。旧来のようにわが党だけでなく、他党派とも共同して新しい情勢や条件に応えられるような誌面刷新を断行することによって『労研』を発展させようという提案には私も主要にかかわっていた。だが全国委員会では意見が対立し思ったより難行し、それも私の腐心の種だった。十一月京都で全国委員会をひらいたときも『労研』問題をめぐって会議は曲折した。夕方会議を終えて外で食事をすませて帰る道で、胸部に何とも云えぬ胸苦しさを覚えてついゆっくり歩くので、広兼君がいぶかってどうしたのかと心配してきれた。だが、一晩眠ればなおると思ったが、果たして次の日はさほどのこともなかったのでそれ以上気に止めなかった。

 だがこの会議を終えて広島に帰り、「そごう」百貨店内の紀伊国屋書店で書物を見ているとき、突然、胸になんとも云えぬいやな鈍痛を感じた。五月尾とき友人の医師が私にくれた「二トロール」をなめてみると痛みがなおったので、これは何かあるな、と思った。しかし翌日は、広島一高会を私が準備した会場で初めて開くことになっていたので責任上私は出席した。何となく飲む気にもなれず、適当につきあって寮歌を歌ったのち早目に帰宅した。

 その翌日の明け方四時頃、突然胸が押さえつけられるようなかつてなくいやな痛み―いまにも死にそうな恐怖感―を覚えた。私はとりあえず「二トロール」で押えて、朝早く宮西内科に行くとすぐ心電図をとり、検査のため採血されたが、医師の診断では心筋梗塞の恐れがあると云われた。

 二日後、心筋梗塞の疑いがあるということで彼の弟子が部長をしている土谷病院でカテーテル検査を受けるようにと連絡があった。数日後待つって十二月初旬に入院した。私は中学校のとき大腿部にオデキができて、兄が勤務していた広島県病院に一週間入院したことはあったが、一高時代の肺浸潤のときも入院したことはなかったのに、内臓の病気で入院したのは初めてだった。県会議員のとき年に一回はドッグに入ったことはあったが、患者として重大な病気で入院したのは初めての体験だった。病院の特有のにおいと患者のノロイ動きがいかにも「病人の館」だなと思われた。

 私は必要最小限の衣類とともに、当分ゆっくり読むための書物を持って入院した。今まで現気に走り廻っていた者が急に入院すると日常の生活がすっかり変わったように思えた。朝から晩までベッドに寝ているのが当たり前になるとわれながら人が変わったようであった。


私の昭和思想史(四七) 松江 澄 「新時代」1992.10.15 第240

心筋梗塞の診断

 私の部屋は平和公園を見渡せる建物の六階の南側だった。入院した日の夕方、若い看護婦さんが頭ならぬ所を坊主にしてくれたので、明日はいよいよカテーテル検査だなと思った。

 裸になってマナイタの鯉のように寝台に寝ると、カテーテルを差込む太ももつけねだけ穴のあいた布切れがかけられた。よく分からぬまま―局部麻酔が―いつの間にかカテーテルが入ったらしい。少し胸があたたかくなると、レントゲンで見ているらしい主治医が「大分心臓がくたびれていますぞ」と宣告した。

 まぎれもない心筋梗塞で冠動脈三本のうち二本が中途で梗塞したらしいが、自然にできていたバイパスで持ちこたえていたらしい。そう云えば今でも時に歩く途中で胸が痛んでしゃがみ込んだこともあった。ラッシュでやむなく近くの小路を抜けて目的地にゆく自動車のようにバイパスのしくみができたらしい。

 だが後にレントゲン写真を見せてもらったとき、これがバイパスだと指さされた血管は細くよなよなとして今にも切れそうに頼りなげであった。手術するかバイパスを育てるか相談があったようでだが、結局折角のバイパスを尊重することになった。

 梗塞の原因はこの病にありがちな高血圧ではなく―上が一三〇下が七〇の理想的な血圧―医師団はストレスと判断した。それは一年以上に亘る組織的危機への心労からきたものであると私にはよく分かった。心筋梗塞といえば一応は「死に至る病」である。私は生まれて初めて死を意識した。

 医師がこれからの希望や意見を書けといって用紙をくれたので、つい書いているうちにいささか感情的になり今日まで私の総括と合わせてやり残した課題を急ぎたいと記した。いまでこそ病気と仲良くつき合ってすぶとくなったが、そのときにはまことに初々しく、遅かれ早かれさけられぬ死に直面したような気負った思いがあった。

 しかし楽天主義の私もこれから先のことを考えるといささか心細くなった。いつどこで梗塞がおきるか分からないからである。しかし考えようでは苦しまず一瞬のうちに終わるというのもまた良しと思った。しかし慣れるとは妙なもので、六年目になると二週間に一回主治医の診断を受けながらも、時には薬を飲むのを忘れたりもするものである。

 いつの間にか病気と気心の知れた友人となって仲良く共生できるようになり、気管支の拡張やストレスにも良いと勝手な理屈をつけて焼酎の茶割りと離れぬつき合いをつづけている。

あいつぐ友の死

 私が土谷病院から退院して正月を迎えたとき、山口議員が一方かたならぬ世話になっている後援会会長の大崎さんが大きな鯛をかかえて私の見舞いにきてくれた。

 ところが自分ものどがおかしくて食物が通りにくく、酒が一番良いと、らいらくな彼は冗談半分に話していた。また一月の二十日頃になると久保田さんがどうも調子が悪いので県病院に入院したいということで、さっそくいっしょに行って診てもらうと医師も判断を下し手すぐ入院することになった。そのうち大崎さんも広大病院に入院したときいて私も見舞いにいった。

 何よりも私より年上の親しい二人がそろって入院されたことに私は何となく不吉な予感を感じた。結局二人は四月二十九日、五月一日と一日おきに亡くなることになる。大崎さんは咽喉ガン、久保田さんは肝臓ガンであった。

 もう一人私たちの同志であり広兼君の義弟でもあった半川君がその一日前に亡くなった。国労の活動家であった彼は、その頃国鉄の長距離自動車の運転手として山陰からの帰途、可部で運転中胸の痛みで半ば失神しながら無意識のうちにブレーキをかけて自動車をとめ、道にころがりおちたところを発見された。直ちに病院には運ばれたが昏睡から醒めずついに四月二十八日に亡くなった。

 こうして近く親しい人々三人が三日の間にあいついで世を去ったのだった。大崎さんは草津のかまぼこ会社(大崎水産)の社長であり業界のリーダでもあった。頭の秀れた、それでいて太っ腹な、山口君のこよなき理解者であるとともに支援者で、酒好きな彼とは私もよくいっしょに飲んで気を許した仲であった。

 山口県出身の久保田さんとは日共中国地方委員会で知り合い、彼は『アカハタ』の広島支局長としてお互いに辛酸をなめながらともに離党し、社革から共労党―統一労働者党へと苦労を共にした仲で、年とってからも広兼君が常任をするまで事務所をあずかってもらっていた。戦前からの活動家として多くの人に知られていたが機関紙編集にかけては年期の入ったベテランであった。

 この年の四月二十六日には思いもかけずチェリノヴィリ原発が事故で爆発し、放射能を含んだ雲がソ連西北部から北欧・中欧にかけて襲いつつ日本まで風にのって飛来し、世界的な大事件となった。とくにウクライナ、ベロロシアでは多くの被害者を出して世界的な救援が広がった。

 その直後、モスクワの病院でのテレビで床の上に座った患者の頭を見て私はがく然とした。それは原爆後に私が帰広したときに見た親戚の女性の頭と同じように髪の毛が一本もない坊主頭だったのだ。この年の八・五集会では国境を越えた核被害を追求して新しい時代の「ヒロシマ宣言」を提起したのだった。


私の昭和思想史(四八) 松江 澄 「新時代」1992.11.15 第241

 

ゴルバチョフの登場

 私が心筋梗塞になりかけている間に、世界的な大変動の最初の端緒が始まっていた。

ソ連では二〇年もつづいたブレジネフ時代が終わり、その後は短命の書記長がつづいた。八三年の暮れに亡くなったアンドロポフはある意味では改革派として秀れた人物だったが、高齢で病気がちだった。つづくチェルネンコも老齢にして無能で、終りには手がふるえ、ものも満足に云えなかった。

 一九八五年三月、前任者の死亡によって後を引き継いだのがゴルバチョフだった。彼はそのとき五四才、モスクワ大学法学部卒業以来エリートの道を歩んでアンドロポフに目をかけられて次第に頭角を表わした。彼は書記長になって数ヶ月後、はじめてペレストロイカということばをつかって自分の新しい「改革」の意図を表明した。

 もっともこのことばは「立て直し」「再建」というほどの意味で、これまでは普通に使われる 用語であった。ところがこのことばは魔法のマントのように飛躍して、あたかも新しい革命的な意味をもつかのように内外に宣伝された。

 私はこの前年ソ連批判を書き、八三年の秋には国際会議の報告として核兵器・核実験の「一方的な廃棄・停止」を要求したが、はからずもゴルバチョフはまもなく核実験の1年間「一方的停止」を発表した。だがペレストロイカの提起については大切なことはどのようにして「立て直す」かということであった。しかしこのことばはソ連国内を座巻し世界をかけ歩いた。

それはジャナリズムのせいだけでなく、ゴルバチョフのさっそうとした臨機応変、才気煥発の大胆なポーズによるところが大きかった。ただ私には彼のすばらしい才能と人をひきつけるあのおしゃべりのなかに、いささか自信過剰の気配が感じられるところが気にかかった。

 それから七年後の今年の五月、広島に来たゴルバチョフをはじめて肉眼で視た。彼は平和公園の国際会議場の大広間に集まった被爆者・平和運動活動家と各界の人々を前にお得意のおしゃべりをした。彼の話すことばのなかにはあいかわらず機知に富んだユーモアとジョークはあったが、話す内容にはどんな精彩も見出し得なかった。それは魔法のマントを失って窓から堕ちた「天使」のようで、私は失望以上に気の毒に思えて少し早目に会場を出た。結局はスターリンの王朝の最後の「皇帝」だったのだ。

グラスノスチと新思考外交

 ゴルバチョフがペストロイカにつづいて口にしたことばはグラスノスチ(情報公開)だった。私はこのことばはペレストロイカ以上に内容のある重要な提起だと思った。それはゴルバチョフ改革のもつ「上から」の限界を超えて人民による「下からの」ペロストロイカにするための通路を開くものだからである。真実を誰もが知ることこそその真実を権威の衣でかくしてきた唯一「前衛党」国家を下から改革する民衆の目であり耳であり行動の源泉だと思った。だがペレストロイカもグラスノスチもウクライナの「チェルノブイリ事故」までは届かなかった。これほどの大事件も官僚廣造の固い装置を破ることはできなかった。

ゴルバチョフ改革が国内、連邦内ではまだ固い表層におおわれてなかなか内芯に届かぬとき、殻の弱い部分である外に向けての外交政策が突出しはじめた。それが「新思考外交」であった。ゴルバチョフもまた内より外を飛び廻って新しい活路を開くのが生き生きと得意そうであった。 きわめて単純に云えば階級より人類的なテーマをまず解決しょうというこの姿勢は世界から受け入れられた。「核兵器による共通の死、環境災害、貧しい地域と富める地域の間の矛盾というグローバルな問題に直面している。」という彼の提起は正しかった。これにいきなり噛み付いたのが、階級ということばさえ忘れてしまったのではないかと思っていた日共であった。その反批判については彼の総括的な批判のときにゆずろう。ともかく「新思考」外交は諸外国の多様な運動や各国の民衆から支援を受けた。これはやがてシュワルナゼという秀れた外交家によって発展されられ、世界の人々から深い信頼をうけた。

この年の七月に私たちの第四回党大会を開いたが、ここでは当然ゴルバチョフ改革を論じなければならなかった。私は大会方針原案を書くなかで冒頭の一文で三つの問題点を提起して承認された。

それは第一に「いま重大な歴史的転換に直面」していることであり、第二には改めて「社会主義とは何か、いかなる社会主義か」を問い直そうということであり、第三には「前衛党再建」を再追求しょうというものであった。そうして本文の終わりの党に関する章では、先験的な唯一前衛党はり得ないと断じたが、これは中途半端な提起であった。

一方で「前衛党を否定」しながら、他方でその理由をその先験的な性格とすることは、原則として唯一前衛党をなお否定していないことになる。

いまふり返って、私はこの問題を党組織論のワクのなかで追求していたので、その党を中心にした活動と結果の総点検と総括をしていないからだと気がついた。共産主義運動の総括こそ必要なのである。(つづく) 


私の昭和思想史(四九) 松江 澄 「新時代」1992.12.15 第242

アキノ大統領と中曽根と

 一九八六年二月、フイリッピンの大統領選でマルコスに対峙するアキノ候補の人気は高く、首都マニラではマルコス配下の軍隊や戦車に対して民衆が抵抗して撃ち合い全市が騒然とした。いわゆる「二月革命」の始まりであった。私はテレビに釘付けになりながらこの「革命」の性格と行方を探った。

 さんざん権力汚職を重ねて巨万の富をきづき、汚れた椅子に座り込んで権威的な支配をほしいままにしたマルコスにいきどおる民衆は、マルコスに暗殺された夫に代わって闘うアキノ夫人にかっさいを叫んで支援した。私もアキノの勝利を心から喜んだ。しかし万歳を叫ぶ首都の市民だけでなく、大多数を占める島々の農民達が期待するのはまず何よりも農地の改革・解放であった。それがフイリッピンの当面する民主主義革命の中心課題なのだ。しかし地平線まで自分の農地であるような大地主に農地改革ができるのか。私にはそれがいちばん気がかりだった。結局、秋の大統領の短命―終わりには将軍たちや大企業のボス達の綱引きのなかで終った―は、農地解放ができなかった大地主の政治的限界なのであった。しかし、「二月革命」はすでに噴出しつつある農地解放がやがて展開する民主主義革命の序幕となるに違いない、と私は思った。

 この年、国内では前年にひきつづき売上税の問題が政治的対決の焦点となった。自民党は強引に衆参同時選挙を強行して圧勝し、七月二二日第三次中曽根内閣が成立した。私より一つ年上の中曽根はすでにふれたように根っからの国家主義者で、その上戦前は短期現役の海軍主計中尉を大尉から少佐まで好きで昇進した軍国主義者でもあった。

 ところが、「勇将の下に弱卒なし」とはよく云ったもので、九月五日就任したばかりの藤尾文相が、「日韓併合は韓国にも責任がある」と表明したことで大問題となり、韓国では朝野こぞっての抗議運動が起きた。このことばは「泥棒にも三部の理屈」どころではない暴言で、歴史を曲げ正義をふみにじるものと国内からもきびしい批判と抗議があいついだ。もちろん藤尾文相は辞任した。ところが今度は九月二二日自民党研修会で当時の中曽根が「黒人やプエルトリコ人などがいるアメリカは知的水準が低い。」と発言して前にも増して重大な問題となった。もとよりアメリカの黒人団体を先頭に議会でも問題となり、国内でも激しい非難と抗議がつきつけられた。中曽根は大慌てで弁解と陳謝に大童だった。しかし私は、この男の性根は昔から少しも変らぬと見た。

 この年の暮、次年度予算で防衛費はGNPの一%ワクを突破することが決定された。

 国際的な経済・政治的変動

 翌八七年、バブルの胎動が始まった。地価は高騰して東京の住宅地・商業地は前年比で七六%も上昇し、過去最高となった。またニュウヨークノ株式市場ではドルが二二.六%も大暴落して「二九年恐慌を上回った。(「暗黒の日曜日」)。しかし大変動は経済だけではなかった。ソ連のペレストロイカに勢いを得た東欧の民衆は次第に体制への批判を高め、大変動の兆しが表われはじめていた。

 ハンガリーではこの年の九月には「民主フォーラム」を結成し、ポーランドではヤルゼルスキーが党内の改革派を登用して「連帯」との提携を探り始めた。またチェコスロバキアでも長い間権力を握り続けてきたフッサ―クがついに辞任し、「プラハの春」弾圧二〇周年をめざして抗議のデモが準備され始めた。だが中国では改革の先頭に立ってきた胡耀邦がケ小平の逆鱗に触れて総書記を免じられ、首相の蛸紫陽がこれに代わって任命された。

 社会主義改革の旗手としてあらわれたゴルバチョフも内政には手を焼き改革は曲折を重ねた。この間右派のリガチョフと対立するエリツィンが、仲をとってまとめようとするゴルバチョフを激しく批判し、怒ったゴルバチョフはエリツィンをモスクワ市党第一書記から罷免した。

 こうした書状況はこの当時すでに今日に至る変化と状況を先取りすることになった。ことにソ連・東欧改革路線と中国改革路線とは真反対に異なるものであった。上からの政治改革から開始したソ連にたいして中国は政治改革を押しつぶして経済改革(経済開発)から始めた。政治改革と経済改革はおそかれ早かれやがては照応する。とりわけ市場経済は必然的に一対一の商品交換をとして個の自覚をうながして政治的民主主義の要求に進む。しかし政治改革は必然的には経済改革(市場経済)を求めない。それどころか頑強な保守的党・国家官僚集団にとってはばまれる。私はそう思った。結局、事態は私の推定通りに動き始めた。

 この年(八七年)ブハーリンの復権が行なわれた。彼は革命以来から経済理論家として党の指導的な地位にあった。私もかつて彼の「過渡期経済論」とレーニン「評伝」を読んだことがあるが、レーニンは批判しつつほめていた。しかしその後、路線論争に敗れてスターリンに追放されたが後に復権し、今度はトロツキーとブロックを組んで一九三八年についに処刑された。スターリンの強引な農業改革、国有化を批判して時間と経験を通じて緩やかな移行を主張して敗れたが、それはゴルバチョフがねらう市場経済と無関係ではなかった。


 私の昭和思想史(五〇) 松江 澄 「新時代」1993.1.15 第243

天皇病気の「自粛」

 八八年、長くつづいた二つの戦争の和平協定が結ばれた。一つはアフガニスタン戦争で、ソ連の進攻によって国内の種族反乱をいっそう激しくしたが、まるで「ベトナム戦争」のように若いソ連軍兵士達に青春の荒廃をもたらした。九年にわたって出兵し続けたソ連軍の撤退というゴルバチョフの決断は適切であった。

 またアジアにおける最大の戦闘であったイラン・イラク戦争が八年間のきびしい戦争を経て停戦協定が結ばれ、西アジアの人々もようやく戦乱から解放された。

 日本でこの年もっとも問題になったのは、前年腸の障害で手術した天皇がこの年五月に吐血して皇太子明仁に国事行為が委任されるとともに、容態悪化で全国をおおう「自粛」ムードがまるで伝染病のように蔓延したことである。

 私は各地各職場から頼まれるままに講演して、私自身の全生涯を通して体験した天皇の位置と役割と現在の「象徴」の意味を説き、とりわけ「自粛」フィーバーこそ「神」としての天皇を復活させるための「人間の精神」にたいする侵犯であると強調した。

 私にとって昭和天皇とは一五年にわたる侵略戦争のために「人心を収攬」(福沢諭吉)「帝室論」した大罪の責任者であり、アジアの人々を殺し、日本人を殺し、わが友わが肉親を殺した侵略戦争の罪深い精神の支配者であった。

 ところがマネキン人形の衣裳をあわてて「赤い服」から「黒い服」に着せ変えるなどという児戯に類する権力への擦り寄りに、連日いやな思いが続いた。

 このとき、私の一高時代同室の学友だった森井 眞(明治学院大学長)が学長として公然と声明を発表して訴えたことはほんとうにうれしかった。

 それは「@現天皇個人の思い出を美化することにより、昭和が、天皇の名によって戦われた侵略戦争の時代であったという歴史の事実を、国民が忘れることになるような流れをつくってはならぬこと。A現天皇個人の意思や感情がどうあれ、『天皇制』を絶対化しこれを護持しょうとする主張が、どれほど多くの無用な犠牲をうみ惨かをもたらしたかを、今後いよいよ明らかにせねばならないこと。B『天皇制』の将来を国民がどう撰ぼうと、それが神聖化されてはならないこと。国の体制は人間の精神を抑圧し、思想・信仰・表現・行動の自由を損なうような陰謀からできるだけ遠いものでなくてはならないこと。」と。

 私はこの声明に感動した。それが私の高校時代の親しい学友であるだけに肝に銘じて共感した。それは彼が「あとがき」で書いているように、「力づくりでひとびとの精神をねじまげ、作りかえ、押し流していった」わたしたちの時代とその統帥者へのもっとも純粋な糾弾であった。私は百万の味方を得た思いであった。先日、私たちは久しぶりで会って昔を偲びつつ、これからを思いあった。

東欧の「反乱」

 ポーランドではかねて「連帯」が主張していた「円卓会議」が実現され、大統領制がきまった。六月の国会選挙では「連帯」が圧倒的に勝利して統一労働者党は僅かに下院で二名当選しただけであった。

 チェコスロバキアでは、私が十六年前「七七憲章」派の非合法デモと遭遇した同じバツラフ広場で「プラハの春」弾圧二〇周年デモに万余の人々が公然と旗を掲げた。ハンガリーでもカダール書記長が遂に失脚し改革派のクロースが選ばれた。東欧ではもはや避け難い勢いで新しい波が広がった。

 またソ連では六月の第十九回党協議会でゴルバチョフが保守派をうまく取り込んで制度改革としてのペレストロイカを認めさせ、これを機会に党内では改革派が優勢になった。その反面では双方の対立はきびしく、リガチョフは新思考外交の旗手シュワルナゼに真っ向から対決した。

 九月ゴルバチョフはシベリアのクラスノヤルスクで政策を発表してアジア諸国との友好関係の再開を提案した。この年の九月、長年ソ連外交の主であったグロムイコが政治局員を解任されて最高会議議長のポストを明け渡し、ゴルバチョフが国家の最高の位置についた。

 またリガチョフはイデオロギー担当を解かれ、メドヴェージェフが政治局入りして後をおそった。だがゴウバチョフが党と国家のトップを兼ねることで、党=国家(連邦)を個人的にも確認することになった。

 かつて私が現存社会主義についてもっとも問題にしたのは党=国家であり、「唯一前衛党」であった。今現存社会主義の中心であるソ連の大改革のなかでその党=国家を確認し、この改革の天下り的性格を思って一抹の不安を抱いた。

 天皇であろうとスターリンであろうと誰であろうと、人間の「精神の自由」を犯す上からの強制であるかぎり、どんな「善政」も「悪政」に劣らぬことを改めて考えざるを得なかった。

 この年の十二月、かねて自衛隊員の夫の靖国合祀を「信教の自由」に反するとして提訴上告していたクリスチャンの妻の訴えを最高裁が多数で却下した。ところが私や森井の学友で最高裁委員をしていた伊藤正巳ただ一人が「内心の自由」擁護の少数意見を提出していたことを知り、ここにも友ありと心から喜んだ。

 この年、奇しくも同じ釜の飯を喰った二人の学友の良心と再会したことは私を大いに勇気づけた。(つづく)


私の昭和思想史(五一) 松江 澄 「新時代」1993.2.15 第244

昭和天皇の死

 年が明けて天皇裕仁の病気はます篤く、「自粛フィーバー」はいよいよ激しく、新年宴会も大売出しも祭りも一切、派手なことはつつしむようにとのオフレに商売はすっかり上がったりとなったり、みんなかげではぶつぶつ云っていた。それはかつて明治天皇の病が重いとき、政府が恒例の両国の花火を禁止したことを夏目漱石が批判して、下町の商人たちのことを案じた一文を私に思い出させた。

 このたびはそれどころか、日本のあらゆる分野で一斉に「自粛フィーバー」が舞い狂ったのだ。私はそのころ民放のあるテレビが朝早く呼びかける「皆さん、お元気ですか」という挨拶を中止したのをきいて、怒るより呆れてものが云えなかった。結局天皇は八九年一月七日に八七歳で亡くなった。テレビは朝から晩まで、新聞は全紙特集で一斉に昭和の「御代」をたたえ、一日中裕仁ムードに終始した。

 私は朝の内に家を出て、近くの町内を廻って弔旗の有無を確かめた。ところが私の予想に反して、けっして進歩的と云えぬわが町内に弔旗は少なかった。となりの町もそうだった。そこで足をのばして繁華街の本道理に出かけて見た。ところが驚いたことには、まだ人道りも少ない本と通りは軒並みに弔旗がひるがえっているではないか。なかでも大企業・大銀行の支店門前には大きな弔旗が見事に交差して掲げられていた。

 私はこのとき改めて思った。戦前には天皇制を支えるものが多く存在した。まず天皇を神聖とする帝国憲法をはじめとして、治安維持法と不敬罪(刑法)があり、内面から天皇を支えていたのは家父長制家族と古い封建的な村落共同体であった。そうして直接的に「大元帥」を守るのは何よりも国民皆兵の「天皇の軍隊」であった。いまそれらはすでにない。新憲法では戦前の天皇「大権」はすべて奪われた。戦前の天皇制の牙城は外堀・内堀を埋められて、残っているのは「象徴」という怪しげなことばと儀礼権である。

 福沢諭吉は「帝室論」で、天皇は日本人の「精神を収攬」する中心であり、そのためには、「政治社外」に置くべしと説いている。彼によれば、それはけっして「虚器」ではないという。正に今日の「象徴」に外ならない。それは神格化された「象徴」なのだ。それが実は戦前・戦後を問わず天皇制の真髄なのである。それは私の生まれた時からから今日に至るまで日本人の精神の自由を腐食しつづけている。

 戦前の私は一高時代に初めて自覚した精神の自由を何よりも大切な宝と思い、それを犯す「神」としての天皇を内心では密かにおぞましく思った。しかしやがて学生兵とされ、「真空地帯」にほうりこまれて何もできぬまま自ら内心を密封し、唯々諾々と天皇の命令に従って侵略戦争に奉仕したのだ。私の戦後はこうした私の戦前の総括であり、そこにのみ私の戦後があった。その昭和天皇が亡くなったことは、私にとってやはり一つの区切りであった。

「昭和」は終わったか

 「昭和」は終わった。しかしいま、またしても一九五九年の「美智子フィーバー」に優るとも劣らぬ皇太子とその思いの人との忍ぶ恋路が、まことに人間らしく繰り広げられている。しかしそれは果たして真に人間としての恋愛なのか。

 私はたった一度だけ二人で話したこのとのある中野重治の「五勺の酒」(一九四六年)を思い返した。そのなかで中野はその独自の天皇感を自由に展開しることによって、当時の日共の天皇にたいする悪篤ぶりがけっして実りのある天皇制批判にならないことを暴露した。中野は書いている。「つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれはないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これがかれらの最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙された個があっただろう。」と。

 そして彼は断言する。「個として彼等を解放せよ。・・・・・・・恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること。そのことなしにどこに半封建制からの国民的解放があるのだろう。」と。私も彼と同じように、「天皇を鼻であしらうような人間がふえればふえるほど、天皇制が長生きするだろう」と思う。それはしょせん「左翼」のことばだけの強がりにすぎないのだ。罵詈讒謗は、何一つできぬ腹立たしさを、ののしることで自ら慰めているにすぎない。天皇制とはそれほどしたたかなのだ。結局私の一生は、ある意味では天皇制との、時としてひそやかな、時として烈しい戦いでもあると思う。

 

 ところで編集者は、昭和が終わったが後をつづけろ、と云う。いやそもそも「昭和思想史」と名付けることが私らしくないという。たしかにそうかも知れぬが、私にはすでに書いたこだわりがあったのだ。しかしここまでクルとこのままでは終わるわけには行かなくなった。それはちょうど昭和の終わる頃から私の思想史にとって避けられぬ現存社会主義の崩壊が始まったからである。そこでそれにふれつつわが思想の形成の総括をするまでつづけることにした。読者の御了承を乞う。(つづく)


私の昭和思想史(五二) 松江 澄 「新時代」1993.3.15 第245

天安門の弾圧

 一九八九年は中国にとって忘れられない年であった。それは中国の反定解放闘争の口火を切った学生たちの「五・四」運動がはじまって七〇周年であり、また新中国が誕生して四〇周年にも当たった。そうしてこの年はまた自由・平等・友愛をかかげて闘ったフランス革命の二〇〇周年であった。

 この年の四月十五日には胡耀邦前党書記の急死をいたむ党中央委員会主催の追悼大会が天安門広場の人民大会堂で行なわれた。だが彼は党の政治局会議の論争中憤死したとも伝えられ、彼を慕う青年・学生たちがその死を心から悼み憤る運動はまず四月十七日の五〇〇人のハンストから始まった。

 折りしもソ連のゴルバチョフ書記長が五月中旬訪中して五月十九日までの日程で中国共産党首脳部とりわけケ小平と会って中ソ和解を結ぶことになっていた。天安門前では好機到れりとばかり学生たちのカンパニアは一日一日と熱気が高まり燃え揚がった。

 こうして日に日に増す人々の結集が一段と画期的に発展したのは五月十七日の「百万人デモ」であった。それはただ数だけでなく、この運動の質がはっきりと飛躍したことを示していた。いままでの学生、知識人たちに加えて国家、党機関、報道機関などで働く党員、活動家たちに広範な民衆が加わった百万人の抗議デモは、かたずを飲んでテレビを見守っていた私にもはっきりと運動の質が新しい段階―抗議と要求から政治の変革をめざす段階に移行しはじめたことを思わせた。量は質に転化した。

 そうして同時にこの瞬間から党と政府の方針と対応もまたはっきりと質を変えたのだった。天安門の運動は反革命とされ、そのデモと集会を武力で排除することであった。五月二十日、戒厳令が発令された。それまで党・軍と学生、活動家集団、民衆との間を右往左往していた蛸紫陽は斥けられ、在米中で帰国が待たれていた万里全人代委員長もあえて「火中の栗」を拾わず、李鵬以下の党官僚はケ小平首領の命令一下弾圧を決定し、その軍団は全国から北京へ天安門へと肉薄し、六月四日ついに内部対立を押し切って学生と民衆に襲いかかった。

 六月四日の夜から朝へ、世界のテレビに映し出された光景はもはや見ることはるまいと思われていた大国の「革命」と「反革命」の対決であった。しかしひとたび立った巨大な軍の前にはどんな抵抗も歯がたたなかった。こうして無残にも多くの若者たちの命を奪い、「反逆者」たちを武力で排撃しつつ天安門広場は制圧された。

中国の社会主義

 私は、いったい中国の社会主義とは何であったのか、と考えざるを得なかった。このたびの天安門事件の背後にあるもの、人々の声の奥に横たわっているものは何であったのか。インフレの進行のなかで「官僚」といわれる役人の不正は人々のうらみの的となり、政治改革は叫ばれても何一つ進まなかった。しかし、こうした現状にたいする不満と批判だけでなく、そこには一党独裁に満足できない新しい政治意識が成長していたのだ。

 それは「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」という飾り文句に集約される党の指導に、唯々諾々と従うことを拒否する新しい民主的な政治意識がハンストやデモのなかで育っていたのである。

一九五六年のフルシチョフによる「スターリン批判」(ソ連第二〇回大会)にたいして当時の中国共産党は「プロレタリアートの独裁の歴史的経験」についての二つの文書で対応した。私はこのたび読み返してみたが何らの格別な視点は見出し得なかった。ただ「民主主義的集中制」をふみはずしたと指摘しながらその原因としくみ何一つ追求してはいなかった。

 その「民主集中制」とは何であったか。それはたしかに形態としてはマックス・ウエーバーの云うような「伝統的支配」と「カリスマ的支配」をかね合わせたようなものであった。しかし私はこうした形態をマルクスに対置して、一定の支配を非歴史的な固定的形態になぞらえるわけにはゆかなかった。

 だが中国のこの状況と原因を「マルクス・レーニン主義」の体系のなかだけに求めるのは無理である。私は、人間の生きてきたそれぞれの民族と地域の生活と活動の長い歴史が人々の意識と思想に与えつづけてきた深い影響を考えざるを得なかった。

 それは高々半世紀にも満たぬ政治経験によって容易に変えられることのない、この民族の四千年にもわたる長く輝かしい歴史、そうしてときには苦しく屈辱的な歴史が祖父から父へ、父から子へと幾代にもわたって一人一人の人間にあたえつづけてきた生き方と考え方なのである。

 それは中国の人々が深く培われてきた社会観、価値観にかかわっている。そこには日本人とは違った意味で家族、宗族の繁栄を願う中国の歴史的な集団主義がるのではないか。そこには当然にもその集団の中心となって人々の運命と前途を預かり指導する家父長が必要だったのだ。それはフィクションとしての聖人=有徳人の啓示なのである。

 マルクス主義が歴史を変えるのではなくて、歴史がマルクス主義をも変えるのである。しかし「易性革命」は不変である。「天安門事件」は今後再び姿をあらわすに違いない。

 


私の昭和思想史(五三) 松江 澄 「新時代」1993.4.15 第246

東欧改革運動の高まり

 一九八九年になるとすでに始動していた東欧改革の嵐はいっそう吹き荒れた。ポーランドで「円卓会議」の合意で連合内閣の首相は「連帯」から出すことになり、ハンガリーでは自ら社会党に衣替えした元共産党のイニシャチーブで複数政党制のもとで「政治協商会議」が指導権をにぎり、オーストリアとの国境の鉄線を除去することによってハンガリーに流出した東独の難民は一挙に西ドイツに入ってベルリンの「壁」撤去の端緒をつくった。

 またブルガリア、チェコスロバキアでは何れも今まで指導権をにぎっていた共産党書記長がその地位を追われ、ルーマニアではチャウシェスク元大統領は反乱の中で逮捕されて妻とともに処刑され、ほしいままに私腹を肥やしていた独裁者の時代は終わった。

 こうした東欧の変革に共通しているのは、何れも政治的には党の「民主集中制」の名のもとに行なわれていた独裁を廃止するとともに唯一前衛党それ自体も終わりを告げ、集会、結社、言論、宗教の自由を回復してすべての情報を公開し、経済的には中央集権的な計画経済から自由な市場経済への転換を宣言し、私的所有を認めて国営企業の民営化への移管を決定したことである。

 ハンガリーではすでに早くから経済改革を追求しながらコルナイの指摘する「不足の経済学」を克服できず、暗中模索しながら思い切った経済改革をめざしたがポーランドとおなじようにその転換は困難だった。

 市場経済とは封建経済のなかから生まれて資本主義経済をはぐくんだ母体であり資本主義の原型なのだ。中央集権のもとで人為的な計画を命令で追求する「社会主義」経済を「自由」な市場経済に転換することは宣言一つで実現できるものでもないし、またそれが経済困難のすべてを解決する特効薬ではけっしてないのだ。

 それは「不足の経済学」が求めている「満足の経済学」ではないのである。たしかに「不足」は「満足」を求める。しかしそのためには豊かさ代償として「貧困の経済学」も受入れなければならないのだ。だが「不足の経済学」に長い間なやんできた人々には、強制から解放されればすべてが万事片づくと思っていたのではないか。

 だが「自由」ということは生活を豊かに楽しむ人もつくり出すが、明日の生活に苦しむ人々も沢山つくり出すということも知らなければならぬ。真の豊かさは資本主義や市場経済の中にではなく、働く者が資本主義の矛盾を運動で止揚することによって始めて実現することができるのだ。長い時間かけて。

マルタからクリミアまで

 八九年十二月、ゴルバチョフとブッシュは地中海のマルタ半島で会い、全面軍縮への画期的な第一歩をふみ出した。それはまた新しい世紀を前にして冷戦終結へ向う歴史的な第一歩でもあった。それは内政ではペレストロイカが思うように進まぬまま外交では「新思考外交」で見事に花を咲かせる一幕であった。

 九〇年三月、党の指導力低下を見越したゴルバチョフにとってバルト三国独立問題は重大な試金石であったが、ここで彼の本音がはからずも暴露された。彼はリトアニアの首都で自信たっぷりともみ合う群衆の中に入り自由な会話を試みた。

 ところが彼を恐れず一人の市民がリトアニアは独立すべきだと直言した。彼は激怒して「お前は誰だ!」とヒステリックに激しく詰問した。ライサ夫人はおどろいてとりなおしたが、彼は夫人に「黙れ!」とどなりつづけた。この一幕をテレビで見ていた私は、このごうまんさはやはり唯一前衛党の書記長だと思った。彼は無意識の内に、いつでも自分が正義なのだと思っていたのだ。唯一前衛党=民主集中制を自らが破壊しながら、スターリンの幻影は彼にまつわりついていたのである。

 ところが彼のライバルであるエリツィンがロシア共和国最高人民会議の議長に選出された。ロシア革命四年目につくられたソビエト連邦の最も重要な基盤であるロシア共和国がゴルバチョフの手から離れようとしたのだ。

 そのうえ軍産複合体の幹部を先頭にした「保守派」はロシア共和国の独立共産党を創設することによって、ゴルバチョフの「新連邦」と対抗して昔に還そうとした。連邦党大会でシュワルナゼは危機感をこめて「独裁」の到来を予告して退場した。エリツィンは大会終了間ぎわに離党宣言を行なって会場を去った。連邦とロシア共和国、党と最高会議との分裂は目前だった。ゴルバチョフのもう一人の盟友ヤコブレフも彼から離れはじめた。危機は迫りつつあった。

 九一年八月、ゴルバチョフはつかれてクリミアで暑中休暇をとり、新連邦条約の調印を待機していた。まさにその前日、モスクワでク―デターが起きた。彼にとってそれが果たして寝耳に水だったのか。そうとも思えぬふしがある。だが彼はクーデター計画には組みしなかった。

 彼は「天安門」を拒否した。だが「天安門」は彼の背を越えて始まった。私たちは「天安門」から二年目に、またしても大国の「革命」と「反革命」の対決をテレビで見ることになった。しかし今度は市民が勝利した。市民とともに戦車の上に立ったエリツィンは英雄のように見えた。だが果たしてそうだったか。(つづく)


私の昭和思想史(五四) 松江 澄 「新時代」1993.5.15 第247

アルマ・アタへ

私は少し先を急ぎすぎたようだ。

 前号でひとことふれた九一年夏のモスクワ・クーデターからちょうど一年ばかり前、経済改革は進まず国内政治は不安定で、ゴルバチョフの人気が低下しているのに対して、エリツィンがロシア共和国最高人民会議議長に選出された頃であった。ゴルバチョフも大統領を兼ねることで党から連邦(国家)へと重心を移し、連邦(ゴルバチョフ)とロシア共和国(エリツィン)がライバルとしてしのぎを削ろうとしているとき、私は医師の許可を得て、四度目の旅でロシア共和国に次ぐカザフ共和国の首都アルマ・アタへ行くことになった。

 それは国際医師会議の呼びかけで、九〇年五月二十五日から開かれる核実験禁止国際市民会議に出席するためであった。今までのような世評系とは異なるこの会議の重要さに加えて、大きな変化が予感されるモスクワとアルマ・アタの現地を見聞きしたいと思ったからでもあった。プラハの会議以来七年ぶりの飛行機の中でスピーチ原稿の準備に追われながら、モスクワに到着したのは五月二十一日午後二時過ぎだった。宿舎のクレムリンそばにあるロシア・ホテルに着いてしばらくして夕食をとったが、この著名なホテルの食事は乏しくまずかった。

 そこで翌日の夕食は広島の人々を誘って二階に見つけておいたレストランで会食したがとてもよかった。ワイン二本にサラダ、フィッシュ、スモーク・サーモン、トマト・サラダなどを美味しく食べかつ飲みながら支払いを気にしたが、締めて二九ルーブル一四人で割れば日本円で一人二百円余りで、安いのにびっくりした。きけばルーブルはすでに円にたいして十分の一に切り下げられていたのだった。結局ものがないのではなく、ルーブルでは高くて手がでないうことだった。その晩、部屋に帰って風呂をわかそうとすれば風呂桶の底栓がない。幸い同室の物理学者が陶器の小さな茶碗を見つけてきて、脱水口にお尻をのせて水の圧力で湯をたっぷり入れて入ることができた。

 この風呂の栓はアルマ・アタでも同じだった。不足勝ちの生活のなかに使われてるのか、売って金に換えるのか、何れにしても以前に比べてかなりモラルも荒れているなと思った。しかしモスクワと違って随分田舎のアルマ・アタでは美味しい川魚や野菜がたっぷりで皆ようやく落ち着いたようだ。

メミバラチンスクへ

 二十三日午前一〇時にモスクワを発って、アルマ・マタに着いたのは午後二時過ぎだった。この夜ホテルの大広間で世界の代表たちの歓迎集会が開かれ、立食で食事と会話を楽しんだ。この時、「広島から来たのは誰か」と会場を尋ね廻る老人がいた。やっと私を探し出した彼はいきなり抱きついて頬にキスしながら共感の感動を表した。彼はメミバラチンスク実験場で村民を殺され、今は無人になったカラウル村で七人ほど生き残ったなかの一人だった。私たちは通訳を通じて話し合い、反核の堅い握手を交わした。彼は老人にみえたがどうやら私とあまり変わらぬ年のようだった。

 私たちの泊まっているホテルの前が会議会場の「政治センター」で、その階段から見ると南方にまだ雪をかぶった高い連峰がすぐそこのように見えた。それが中国の天山山脈ときいて改めて地図で確かめ、遙けくも来たなと思うとともに、この大国と中国は隣り合わせ名のだと気づいた。総会から分科会へと出席してかねて準備してきた英文原稿を読み上げ、私の体験から参会者に反戦反核を訴えて満場から共感の拍手を受けた。大会が終わった翌日の二十六日は天山山脈の見える大競技場で市民を含めた反核大集会が開かれ、「ポリゴン・ジョアスィ」(核実験場やめろ)!の声が空高くひびいた。

 二十七日は飛行機でメミバラチンスクに行き、そこから自動車で遠路を強行してカラウル村の向こうまでバスで行くことになっていた。私は心臓が気がかりでどうしょうかと迷ったが、会議事務局が市長の車に乗って是非行ってくれと云われて折角だから参加することにした。三時間ひた走りに走って草原の大テントに準備された昼食をとって、ふたたび人一人居ない草原を走って無人のカラウル村を経て集会場についた。広島県と同じ面積のこの大平原では一九四九年以来四〇年間に亘って三二〇回も核実験が行なわれたのだ。「ヒロシマ=ネバダ=メミバラチンスク」の慰霊碑の前で再び「ポリゴン・ジョアスィ」!を叫んで核との闘いを宣言した。

 やがて日が暮れるなかで交流会も済んで、たくさんつくられたパオで三々五々御馳走になった。現地の人々は背丈といい皮膚の色といい私たちとよく似ていて、彼らこそ日本人の先祖ではないかと思った。

 夜中にホテルに帰り明朝早く発ってモスクワに帰った。ホテルの前の「赤の広場」では幾組ものグループがこもこご旗を立ててアピールしながら、近く発表される人民代議員選挙を前に興奮した面持ちで競い合っていた。「赤の広場」にそそり立つグム百貨店も町の店も店内の棚の中には軒並に殆んど何もなかった。通りではあちこちに食品や生活必需品を買うための行列が見られ、以前三度の旅行とは違う風景は何かが起こりそうな気配を伝えていた。今にして思えば危機は迫りつつあったのだ。


私の昭和思想史(五五) 松江 澄 「新時代」1993.6.15 第248

万難こもごも至る

 私がソ連から帰ってきたのは九〇年六月の初めだった。私は帰るとすぐ広兼君の入院をきいてびっくりした。彼は私が出発する前に少し体調をくずしていたが、まさか入院とは思いもよらなかった。彼は私が帰るまで待つつもりだったが、医師の判断で入院させられたらしい。早速病院に行って見たら元気そうに見えたが、いま検査中ということだった。検査の結果は食道の腫瘍だという。岡山大学の医学部から医師が来ることになり、手術したのが忘れもせぬ八月二日だった。手術は無事終わったので一安心した。

 ところがこの八月二日こそ新たな戦争の火種が蒔かれた日だった。イラクのフセイン大統領がクェートに侵攻し、たちまち全土を制圧・占領した。六日には国連安保理事会が全面的な経済制裁を決議し、明七日にはブッシュ・米大統領が早々と米軍のサウジアラビア派兵を決定し、緊迫した空気が西アジアと世界をおおった。

 これがやがて十一月末にはアメリカ主導で国連安保理が武力行使容認の決議を行い、一九九一年一月十七日についにアメリカを主力とした多国籍軍が攻撃を開始し、湾岸戦争が始まることになる。

 私は広兼君の手術後を案じつつ秋から冬にかけて海外派兵をめざす第一次PKO法案に反対して原爆ドーム前の座り込みに参加した。この法案は危機感の高まる世論に支援された国会内外の闘いでついに廃案にさせることができた。

 だが翌一月に始まった湾岸戦争はアメリカ軍が最新の科学兵器を駆使することでかってない一方的な科学戦になった。アメリカ軍部検閲済みのテレビの画面はただ光線と火花が交錯するだけだった。

 それはボードリヤールが云うように、「熱い戦争のあとから、冷たい戦争のあとから、やってくるのは死んだ戦争―解凍された冷戦」であった。

 アメリカはすでに八八年の暮、冷戦後の戦略として世界各地域の紛争に対する「選択的抑止戦略」を決定していた。それは今までの「起こりそうにもない戦争」(米ソ戦争)から「もっとも起こる可能性の高い戦争」(民族紛争)への対応戦略であった。それはアメリカ等大国が石油をはじめとした重要な資源と市場をむさぼり奪っていた開発途上国への先制的制圧に外ならなかった。アメリカは今までの東西の対抗軸をいまや改めて南北にきりかえたのである。

モスクワにクーデター

 広兼君は九〇年八月末に退院したが、体重がなかなか元に戻らなかった。聞けば食道だけでなく、念のため胃も大分切り取ったらしい。そうでなくても小柄でやせている彼の体重が四〇Kを割る状態のもとで、これからの病闘生活が大変だなと思った。だが何としても元の身体に一日も早くなってもらいたい。それまでは事務所を守り切らなくてはと決心した。

 湾岸戦争は居丈高なアメリカの攻撃によって、一ヶ月ばかりのうちにフセインは敗北し、以降いわゆる「中東問題」をめぐる駆け引きが始まった。それからまもなく、又もや九一年の八月十九日、モスクワでクーデターがおきたときいてびっくりした。

 その推移如何ではペレストロイカはもちろん、社会主義ソ連へのどんな迂回的な再生のための試みも危うくなるのではないかと思った。それはヤナーエフ副大統領をはじめとしたソ連の幹部=軍産複合体の幹部が休暇中のゴルバチョフを軟禁し、軍隊の力で政権を奪取しようとするものだった。しかし戦車はモスクワに侵攻したが民衆が決起し、武器を持たぬ数千数万の市民達が戦車を包囲して首都を自衛することによってこのクーデターは一両日にして瓦解した。

 このク―デターは一体何であったのか。革命なのか反革命なのか。否、そのどちらでもなかった。民衆たちにとってはゴルバチョフのペレストロイカも彼らを救わず、クーデターも結局昔の共産党絶対支配時代を復活させるものでしかなかったのだ。ただこの「革命」と「反革命」の隙間の中でエリッインは戦車の上でアピールすることで名をあげることになったが、結局それだけであった。どこにも成算はなかったのである。

 共産党は党内外から見離されて瓦解し、国境を越えて指導中枢であった共産党の崩壊は、名目上の構成共和国を支配していた連邦「国家」を崩壊させた。残されたのは名実共に自由になった各共和国だった。

 それは帝政の打倒以来、革命の名の下に70年刊凍結されてきた「民族自決」の解放だった。しかしそれは七〇年間閉じ込められていた民族主義をいっきょに噴出させた。また連邦の解体によって分離されていた産業分布の下で一国的な経済の創出というきびしい試練に直面しなければならなかった。「唯一前衛党こそ諸悪の根元」と規定した私も、これほどもろい唯一前衛党の崩壊のもとでこれからソ連はどうなるのかと呆然とした。

 いま各国共和国とりわけ最大国のロシア共和国では「市場経済」論が横行し、三百日、五百日 案なるものが取り沙汰されている。笑止の至りとでもいうものだ。それは日本でも何百年もかけて発展し、資本主義を準備してきたものである。他所の花はキレイに見えるものだ。だが歴史は決して一挙に変わることはない。


私の昭和思想史(五六) 松江澄  新時代 1993.8.15 第249

 

なぜ現存社会主義は崩壊したか

私はモスクワ・クーデターの年の二月三日、大阪で準備された”91フォーラム関西“(「社会主義・その根底を問い直す」)で呼びかけ人の一人となり、当日は最初の提起者としてこの課題について報告した。それは私にとって、すでに崩壊の過程にあった現存社会主義について改めて公表する最初の分析と意見であった。

だが、いま読み返して見て、ここで発表した考え方の基本はいまでも少しも変わっていない。クーデターは何一つこのときの意見を変えるものではなかった。

私がここで提起した意見の前提は、私自身の精神史と思想史であった。私は戦前・戦後の私の七〇年間の成長と断絶の過程を、社会主義の生成・発展・衰退・没落の諸過程と重ね合わせた。オクテの私は二〇才前後の高校時代にようやく自覚的に獲得した自由と自立の重さを知った。

それは日中全面戦争が始まったばかりの頃、辛うじて許された―先輩たちが最後に私たちに伝え残してくれた「断末魔の自由」でもあった。しかしそれはその後の私の一生のなかで決して忘れ得ぬ宝物ともなった。

しかしその自由はやがて太平洋戦争下の大学のなかでは、ごく一部の教師を除いては無残にも自壊しつつあった。だが、やがて私は在学中二四歳にして「満州」牡丹おくの銃砲兵部隊に投入されるなかで、心中深くあったはずの自立と自由は音を立てて崩壊したこと知った。いや私は獲得した束の間の自由を自ら胸中深く封じ込め、生きるために唯々諾々と真面目な兵士を演じたのだった。

敗戦で解放された私は天皇に屈服した自らの総括をしなけばならなかった。しかしそれは思想的な追求に留まるべきでなかった。戦争と原爆で命を奪われた学友と戦友、家族と友人に代わって日本を侵略戦争に至らしめた者との闘いは、私を日共に入党させ、マルクス主義探求に熱中させた。

そうした私を天は再び試練の波にさらしたのである。この党こそは時間をかけて思い定めた日共のなかで、かつて青年学生時代の私から自由と自立を奪った力が、再び私をおそったからである。それはかつての天皇制国家権力にも似た絶対主義権力であった。私は二度、三度にわたって意見の自由を闘ったあげく新しい天皇制と分岐しなければならなかった。

しかしその後、私が多くの同志とともにめざした新しい道も依然としてその根底に在るのは「新しい前衛党」でしかなかった。しかし現存社会主義の唯一前衛党を信奉する同志との論争のなかで、八〇年代初頭に至って私はようやく体内に残存していた教条主義から解放され、「唯一前衛党」こそ諸悪の根源であると党=国家の絶対主義批判を公表することができた。

それから一〇年にして「社会主義」は崩壊したのだった。私は七〇年をかけてようやく何を求め、何を求めざるか、を自己検証を通じて知ることができたのである。

社会主義とは何か

私は戦後未だに一途に社会主義を追求してきた。しかし戦後私がふれ合うことができたソ連・東欧の社会主義はけっして私がめざしたきた社会主義―人間の到達すべき最後の理想社会の前身―とは思えなかった。そこにあるのは指導者の絶対的な権威であり、人々はただその指導者に従うのみであった。そこには自由も民主主義もなく、もし名付ければ国家社会主義とでもいう外なかった。

そうしてその縮小化されたモデルが日共の宮本「天皇制」であり、祭り上げられているのが野坂名誉議長だった。いま野坂が過去の背信で糾弾されるなかで、かって盟友でもあり政敵であった宮本は、野坂を除名追放させながら「われ一人清し」と、何の自己批判もない。これほど醜悪な図は世界でもまれに見るものだろう。

しかし戦後私がそれ以上に残念に思うのは、そうした党のなかで疑うことを知らず、上からの指導と指令に従って、あいもかわらハンコで押したような日共の自画自賛をくりかえしていることである。それはまさに真理を探究する人間の自由な精神に対する冒?なのだ。

だがそれは彼らの問題とともに私の問題でもあるあるのだ。そのためには社会主義とは何であるかという根元的な問いかけを徹底的につきとめなければならなかった。

そうしたとき、私に重大な示唆をあたえてくれたものが二つあった。その一つは改めて読み直した。マルクスの最初にその共産主義思想に到達した著作とでもいうべき「ドイツ・イデオロギー」である。私は何度か読んだこの著作を読み直して、思わず自らウロコが落ちるような気がした。それは次の一節であった。

「共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提から生まれてくる。・・・・」と。

私はやはり「青い鳥」を探していたのだ。私は青年時代から心中深く根を降ろしていた理想主義的世界観に思い到った。もう一つ私が探り直すための指針となったのはグラムシの追求だった。彼はフランス革命からパリ・コミューンまでの八〇年間を一つの歴史的文脈としてとらえている。フランス革命なくしてパリ・コミューンはなかったのである。そうしてパリ・コミューンはフランス革命の仕上げだった。


私の昭和思想史五七)松江 澄  新時代 1983.9.15  第250

 

マルクスと「マルクス主義」

社会主義体制の総崩れなかで、スターリン・レーニンはもとより、マルクスまで含めてすべてがあやまりだったという風潮さえ広まっている。たしかに今まで社会主義論を形成してきたのは「マルクス主義」「レーニン主義」あるいは「マルクス・レーニン主義」と呼ばれてきたものであった。

 だが、かつてマルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と語ったことがあるし、レーニンもただの一度も自らの追求を「レーニン主義」と呼んだことはない。彼らは「主義」ということばで「思想のカン詰」をつくることが誰よりもきらいだった。

 こうした「主義」をつくりあげたのはスターリンとその亜流に外ならなかった。彼らはそうすることによって多くの活動家がその重要な知的探求と実践的な勇気に深い信頼を寄せていたマルクスやレーニンの名を借りて自らの体系を広めることで、ヘゲモニーをつくり上げたのである。それは、まさに「スターリン」主義だったのである。

 その教科書にされたのがスターリンの「レーニン主義の基礎」であった。一九二四年に発表されたこの書はまたたく間に世界革命運動の教科書となった。私も戦後日共に入ってこの書を読み、簡潔にマルクスとレーニンのエッセンスを定式化した小さくて薄い本が座右の書となった。

 当時党機関からの命令で私は若い学生、青年党員たちにこの書をテキストに講義させられたこともあった。いま思えばまことに汗顔の至りである。この講義をきいた人々のなかには、当時県東部の高校を卒業したばかりの若い棗田君(現在・亜紀書房社長)がいる。彼は時にその話を私にすることがある。

 たしかに当時マルクスやレーニンの原点もなかなか手に入らぬ頃、この書は「マルクス・レーニン主義」のバイブルのようなものであった。今ふり返ってみると、あの書に代表される歯切れのよい裁断的な叙述が若いものの魅力だったのだ。

 中野重治がかつて「レーニンの素人の読み方」のなかで、レーニンの文章は「農民的」だがスターリンの文章は「工業的」だと名づけたことがあったが、まさにそれは機械のように「正確」で小気味がよいほど早分かりするとこにこそ落とし穴があったのである。

 ここ始まって四〇年近く経ったころ、何べんもよんだはずの「共産党宣言」第二章の最後の文、「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件となる。」という提起が私の眼を開かせた。

 

 時代によって変わるものと変わらぬもの

 

 どんなすぐれた人でもその生きた時代と場所によって制約されることはいうまでもない。後進資本主義国ドイツの人マルクス、帝国主義とはいえ皇帝も居れば農奴も居る後進帝国主義ロシアの人レーニンと、それぞれ時代と条件の制約はあるが、マルクスの資本論とレーニンの帝国主義論がいまなお原理的な意義を失うことはないと私は思っている。

 そうしていま求められているのはこうした基礎の上に戦後の大きく変化した情況のなかで、資本主義、独占資本主義はどのように発展し、変化したかを探求しなくてはなるまい。

 私がいまでも忘れることができないのは、若くして亡くなった内藤さんが東京に在るとき、会議の為に上京するたびに泊めてもらっていた大崎の家で、彼が幾度となく私のいいつづけたのは戦後帝国主義についての探求であった。そうしてそれは私への遺言となったのである。

 少しばかりは勉強しながらもまだその責を果たすことできぬ私にとって、彼の言葉はいつまでも私の頭の中で鳴りつづけている。そうして私の知るかぎり、マルクスもレーニンも死ぬまで立ちとどまる新しい探求に力をつくしている。

 それにつけても私が思いおこすのはロシア革命直後の「戦時共産主義」から「ネップ」へかけてのレーニンの探求である。この当時の主要な著作ともいうべき「食糧税について」(レーニン)を読むと、「戦時共産主義」という革命的過渡期を早く終わらせるとともに「市場経済」を主要な経済的ウクラードとしつつも、やがて転換しなければならない社会主義建設への移行がいつ始められるべきか、その速度と長期展望は、という諸問題については少しもふれていない。

 いやそれどころか「ネップ」をいつまで続けるかについてさえ、あまり明確な展望を出していない。そこにはレーニンの困惑と躊躇さえ感じるのは私のひが眼であろうか。

 やがてレーニンが銃弾がもとになった病に倒れるや否やスターリンは国有化・計画化に突入する。それは富農の殲滅と強引なコルホーズの建設、有無をいわせぬ徹底した計画化による重工業建設だったのである。

 ゴルバチョフは「ネップ」の再導入を提起し、ほとんどの指導者たちは「市場経済」を叫びながら、彼らは過去の「ネップ」から「計画経済」へ移る時期の対応について一度でも歴史的総括をしたことがあるだろうか。ただゆき当りばったりで右往左往するばかりではないのか。

 今のロシア経済を「疑似資本主義」と呼ぶ人もあるが、何れにしても特効薬はないはずである。いつまでもつづく「国家=軍事企業団」グループと「民主主義」グループとの綱引きからは何も生まれぬ。(つづく)


私の昭和思想史(五八) 松江 澄  新時代 1993.10.15 第251

 私と天皇あるいは天皇制

 私が戦後追求してきた社会主義に次いで、いや対照的にその本質と権威の源泉を探りつづけてきた天皇ないし天皇制の総括が是非とも必要である。だがしかし社会主義論も天皇制論もそれぞれが重大な問題であり、この小文でつくせるものではない。何れ私なりにまとめたいと思っているが、七四歳ともなればそれが果たして仕上げられるかどうかわからぬ。この昭和史が終わりに近づくに当たって、社会主義論とあわせて天皇制との格闘を思い返してみる必要があると思ったので若干の提起をしておきたいと思う。

つい先日、私は出版されたばかりの「学徒出陣」(「わだつみ」会編・岩波書店)を買ってきて、安川名古屋大学教授の「教育史の中での十五年戦争と学徒出陣」を読んだ。そこにはまず一九一一年から一九二六年までに生まれた人々の戦中における思想世代についての時期区分の分析があった。

 その区分によればa一九一一〜一九一九年(マルクス主義思想残光期)b一九二〇〜一九二二年(自由主義思想残光期)c一九二三年〜一九二五年(自由主義思想消滅期)d一九二六年以降(軍国主義思想純粋培養期)ということであった。「マルクス主義思想残光期」と短い「自由主義思想残光期」とが密接に結び合いつつすぐに消滅期に連なっているのが、いかにも日本的特徴のように思える。「自由」が革命と反動の合間に辛うじて息ついているのだ。

 この分類は多少の批判はあるもののおおむね当たっているように思う。但し一九一九年生まれだが奥手の私は一高入学前後にごく一部のマルクス主義文献を読んだがよく分からず、「残光」にさえ浴しなかった。ふり返って見ると「a世代」はもう少し前まで含めて戦後私が尊敬し指導を受けてきた先輩たちの世代である。そうして私はと云えばbの「自由主義思想残光期」に属すると云った方がよいと思う。私が一高時代むさぼるように読んだ思想・文学と当時の私たちの生活は今にして思えばまさに自由と自立が一定の範囲で残された最後の時期であった。その意味で短いbの時期は私にとってちょうど一高の三年間であった。

 そうしてこの世代区分はほぼ天皇感の推移とも重なるのではなかろうか。a世代と少し前の先輩たちは高校時代から大学にかけて非合法活動で天皇制打倒を闘っていた。しかしこの時代の終わりになるとそれもできなくなっていた。私たちの高校時代には社会科学研究会ですら禁止されていた。わずかに来校した「ヒットラー・ユーゲント」を罵倒して追い出したり、寮を警察官講習に貸すのを代議員会で拒否したり、教練に草履をはいて出ることで軍事に抵抗するのがせきの山だった。それは青年の衒いでもあった。

 天皇制とは何であったか

 この課題について云えば、西欧政治学の成果を駆使しつつ日本的特殊に挑んだ丸山真男、藤田省三らとともに、それにあきたらず天皇制に内包される日本的暗部に内側から光を当てようと追求した神島二朗や橋川文三らの業績もきわめて重要だと思う。

 神島は年は私より一つ上なのに一高では私より一年下らしく、たっぷり高校時代を享受している内に学徒兵としてフイリピンに派遣されて生死の境をさまよい、ようやく生きて帰ってからは再び学究として「近代日本の精神構造」に全力を注いだ。彼は敗戦による「憤りと屈辱」のなかでやがて天皇の「無倫理性」をはっきり見て、もはや「民族の良心」はそこにはないと、自らの内心の痛みをもって認識したという。こうして彼は「自らの償い」として、「天皇制ファシズムと庶民意識の問題」を追求する。

 また橋川は中学と高校を通じて私より二年下で、よく知っている仲である。彼が若くして亡くなる少し前、神田の駿河台で久しぶりバッタリ会った。彼は弟が日本製鋼所広島工場で働いて日鋼争議の時お世話になったと云いながらぜひ一度ゆっくり話したいといった。私も橋川の探求も知りその書も読んでいたし、彼の研究に惹かれるものがあったのぜひ会おうと約束した。だがその約束を果たさぬうちに彼は亡くなり、私は会えなかったことを悔やんだ。私は人間的にも彼が好きだったし、ほんとうにその早世が惜しまれる。

 思えば二人共私とともに正に「自由主義思想残光期」に青年学生時代をすごしながら学兵として出陣し、敗戦によって過去の償いとしてそれぞれの追求に没頭したのだった。それはひとたび「自由」と出会いながら、瞬く間にその「自由」を失った者だけが知る悲しみと怒りから探求が始まっているのだった。戦後マルクスを学びつつ追求をつづけてきた多くの人々の思想的経路は多様である。私の場合はどうしても越えなければならなかったハードルは「自由」であった。私はその「自由」をつきつめた社会こそ社会主義社会だと思った。

だが日共の中には真理探求の自由はなかったことで分岐の決意を固めたのは一九六一年であったし、訪れる度に失望する現存社会主義とようやく思想的な分岐ができたのは、八三年であった。その後の社会主義崩壊による立証は私にとっては苦い思い出となった。いったい私の生涯をかけた思想的実践的追求にとって戦後五〇年は何であったのか。それはまた私の青春期以来の未知数の問題でもあったのだ。(つづく)


私の昭和思想史(五九) 松江澄 新時代1993.11.15 第252

「天皇制」と三度の出会い

 私が最初に出会ったのはもちろん日本の天皇制である。この絶対主義は私の幼年から学生兵に至る二〇年間、すでに書いたように何らかの形で私の精神生活にかかわっている。ところが、戦後どう変わったのであろうか。それは日本人自らが一五年戦争の総括と決着を通じて改革したものではない。占領米軍(アメリカ政府)と天皇を中心とした宮廷、政財界の有力者を含む取巻きとの談合・取引によって、かつての神権天皇制は象徴天皇制に変わった。

 しかし私が重視するのは天皇制の形態ではない。天皇制に含まれる政治的実権やその支配形態は変わっても、変わらぬものはその天皇ないし天皇制が人々の内面に浸透する精神的支配である。それは決して外からの強制ではなく、国民一人一人の「自主的」内心から魂を抜き取り、精神的な「私」を奪い去るカリスマとしての天皇である。それは明治の天皇再建に当たって西郷や木戸をはじめとした重臣たちがもっとも腐心したところであった。

 徳川権力がかつての勢力を失う時、新しい近代日本国家の大黒柱はかつての軽輩士族であった明治の元勲たちには無い、先験的で国民的な信仰を誘うことのできる新しく古い権威でなければならなかったのである。

 彼らにとって重要なことは、天皇といえば泣く子もだまるだけでなく批判的な者でも「触さわらぬ神に祟りなし」と避けてとおる神々しい偶像をつくり上げることであった。

 かくして若い酒好きな青年陸仁を、東北の荒地に馬車で引き廻すことから鍛え上げた彼らの努力は報われた。明治天皇が病気だということで両国の火花を禁止したことをきびしく批判した夏目漱石にして、その死を聞くや「明治は終わった」と嘆声をあげさせる創世記の天皇であった。それは大正を経て昭和に至り、自由を求める私の心に陰影を投じた。

 私の二番目に出会ったそれは戦後進んで身を投じた日共における天皇制であった。そこでは党中央の幹部たちは「マルクス・レーニン主義」の名の下に一枚岩という擬制によって自由な個を内面から奪い取り、指導者のことばが真理であるような錯覚を組織するのであった。彼らにとって最後の決め手は、党中央への反逆は「反革命」だということにあった。それはあえて苦難も道を選んだ献身的で誠実な党員たちに、恐れを抱かせることによって、服従を強いるものであった。それは第三番目に出会ったソ連と相似形であった。

 私は戦前のトハチェフスキー元帥から戦後のチェコ事件に至る被処刑者の心情を思う。誤った処刑を「革命のために」あえて甘受するという恐るべきことが生まれたのだ。だがどうして彼らを責めることができようか。そこにあるのは「神」の如き清純無垢の精神である。それだけにそうした心を逆用した支配者を私は心から憎む。それは人外の精神的搾取者である。

「国家」から「社会」へ

 封建社会は経済の発展とともにやがて近代的な統一国家を形成する。しかしそれはやがてまたその国家の壁を内側から破って新しい社会を目指す。社会―国家―社会という弁証法的発展によって新しい社会が世界に向かって開く。従って私は「一国社会主義」論はそれが完結的であることによって「偽造」国家でしかないと思う。しかしスターリンは「レーニン主義の諸問題」の中で、社会主義が発展するほど、国家は強化されなければならないと説いた。これはマルクス=レーニンによる国家死滅論の逆転である。ここに「スターリン主義」のもっとも本質的な誤りがある。

 こうしてソ連社会では国家がすべてに優越して、個はその前にひざまづかされることを私は訪ソするたびに知ることができた。それは一八〇度違うはずの戦時中の日本国家とどこか似ていた。彼ら一人一人は底抜けにお人好しで差別がなく、美しい魚でウオッカを飲むことを無上の喜びとする開け広げの正直な人々なのに、党=国家にかかわることになると辺りを見回しおずおずとたじろいで口を閉ざす。まさに社会主義国家は国家社会主義に転化したのだった。

 日本でもまだ近代統一国家が完成されず半国家の過程にあった明治一〇年代から二〇年代にかけて、自由民権運動に徹した人々や幸徳秋水など先覚的な思想家たちの何と大らかで自由なことか。それがやがて明治国家と完成したあとで幸徳らは無罪の大逆罪で処刑される。ようやく創り上げた国家にとって、自由な「個」は獅子身中の虫であり、憎むべき仇敵なのである。明治ナショナリズムから大正デモクラシーの弾圧に次いで、侵略戦争の一五年ののち敗戦を迎えるが、国家は滅亡せず平然として生き続けて今日に至る。その機軸は「神権」から「象徴」天皇へと変わったが、多くの国民の心底には何となく依然として昔の天皇が生き続けている。

 私は七四才の今日までその中に生きてきた日本資本主義国家においても、戦後半世紀に近く追求してきた社会主義国家に対しても、人々の心中に侵入して自立・自由の「個」の壁を食い破る精神的な破壊者と、時に隠然と、時に公然と対立した。結局、国家と正面から対立して個と自由の旗を高々と掲げることからこそ、新しい社会をめざす闘いは始まる。私の目指すところは唯一つ、社会から国家でなく、国家から社会への道である。


私の昭和思想史(六〇)  松江澄 新時代 1994.1.15 第253

 終わるに当たって

 今回でこの稿も終わりになる。書き始めたのがちょうど今から五年前、私が六九才の時だった。京都の若い友人たちが編集発行する「労研通信」に一九八八年六月号から寄稿したことで始まった。その通信誌が二年半後残念ながら廃刊になったので、一九九一年四月から私たちの機関紙『労働者』にひきついでもらうことになった。翌年機関紙の題名は『新時代』と改められ、一九九二年二月号以来引き続いて連載。今日に至った。結局五年間六〇回に亘って書き続け、四〇〇字詰原稿用紙で約六五〇枚ばかりになった。

 それは私の生まれた頃から今日の七四才までの生涯の記録であり、戦前の二六年間と戦後の四八年間を含んでいる。大正の中期に生まれて小学校六年に「満州事変」、中学校卒業の年に日中全面戦争、高等学校卒業の年に太平洋戦争が始まり、大学在学中に徴兵猶予が取り消され学徒兵として入営して敗戦まで軍中に在った。こうして戦前は物心つく頃から血生臭い戦争の中で育ったことになる。高等学校までは何とか「自由」の残り宰が私の心と身体の中でふくらのも束の間、大学では戦争の渦中に投ぜられ多くの学友、戦友を失いながら一命を永らえた。だが敗戦で広島へ帰れば原爆で焦土と化した故郷で兄と多くの親戚知人を失い、やがて母は二年後原爆症で亡くなり同じように被爆した父も七〇才を超えて老い、無傷で生き残ったのは私だけだった。こうして私の進むべき道は唯一つ、迷わず労働運動、反戦反核運動から革命運動へと進み入った。

 だが私にとって何故か戦後を短く感じるのはどいうわけだろうか。今にして思えば、戦前はさまざまな社会現象にまだ受身の若い世代であり、心中に葛藤を覚えたのが高等学校から大学にかけての頃だった。軍隊に至ってはその間わずかに一年一〇ヶ月なのに、何と長く感じたことか。それにひきかえ戦後を短く感じるのは、戦後の混迷のなかから運動にかかわってきたために、社会的現実に直面してそのすべてに正面から主体的にかかわろうとしたからではないか。そこではいつも時間の短さを嘆息したものだった。いま一九四五年から今日までの四八年間を振り返れば、それは一日として同じ日はなく走馬灯のように転回する時代であった。

 私は四八年に日共に入党したが五〇年には「コミンフォルム批判」で分裂して国際派に投じ、五二年には復党しながらやがて第七回大会の綱領をめぐって宮本らと対立して排除され、離党して社会主義革新運動の創設に参加した。その後「総結集」で共産主義労働者党の創立にかかわったが六九年にはいいだ君たちと対立して分岐し、七五年には労働者党創設に参加した。八〇年には若い諸君と合流して統一労働者党を結成したが現存社会主義をめぐって意見を異にして分岐が生まれ、九二年には新・民主主義連合に再結集して今日に至った。それは戦後共産主義運動の波乱に満ちた模索の一環であり、長くて短い闘いと自省との厳しい道程であった。

 しかしそれはまた一九一九年生まれの一人の人間が戦中、戦後を生きてきたなかでの一つの道程であった。そこには哲学や思想や理論だけでなく、一人の人間が生き続けてきた生身の生涯の思いがある。それを痛感したのは「三〇代が読んだ『わだつみ』」(堀切和雄・築地書館)という一冊の書を見てのことであった。私も「わだつみ」の一人としての思いもあるがこの書を読んで憤然とした。そこには三〇代の若いがたしかに彼等より年の若い「わだつみ」族の死を前にした決別の書に、当惑しながらもひたむきにその心底に迫ろうとする努力と追求のありのままが書かれていた。

 あの『わだつみ』(岩波書店)の書の中には私の高校時代の学友もいる。それだけに私と同じ七〇才を越えた同時代人としてしか見えなかったし、その文は私の青春と同じ時代の文としか思えなかったのだ。しかしそれは私の錯覚であった。彼は死に、私は現に生きている。私は七四才だが彼等はいつまでも二二才であり二五才なのだ。それを読んだ三〇代の青年が彼等より若い人々の死を前にした心情に肉薄しようとした。そうして彼はそれを自らの肉身にひきつけてつかもうとしている。彼は、「過ぎ去った悲劇と定まらぬ未来との間に通路がひらかれる。彼等の死を賭けた経験がわれわれの進路を照らす。それがいま『わだつみのこえ』を読むことの意味なのだ。」と。

 私はE・カーの「歴史とは何か」を思い出した。彼は、歴史とは過去と現在との対話であり、過去を主体的に把握することによってのみ未来の展望をひらくことができる、という。その通りなのだ。あの死んでいった学友や戦友たちは私と同じ年齢ではなく、いまの若い人たちと同じ青年なのだ。そうしてその若い身で死に直面したのだ。それを今の若い青年がまともにふりかえりながら自分たちの生きるかてにしようとしている。それは私にとって初めて知る驚きであった。そうしてそれは戦後私たちがたどった道についても同じことが云えるのではないか。

 次から次ぎへと私たちを通利越してゆく若い人々は私たちの若い頃を自分たちと同じも目線で見ながら何かを学ぼうとしている。そこから私はいま、逆に学ぼうとしている。(終わり)

 


 

一九九二年八月五日午後二時より、広島市県民文化センターで反戦反核広島集会が開かれた。

『今、ヒロシマが問われる―アジア民衆の連帯で出すな軍隊
!入れるなプルトニュウム!』という横断幕を掲げた会場で、実行委員会代表の松江澄氏は、つぎのように挨拶した。

「米ソ核戦争の危機はなくなりましたが、民族紛争が世界中に拡がる中で、紛争の抑止という口実で、先進国が発展途上諸国の内政に力で干渉する傾向が強まっています。日本でも、敗戦四七年後の今、『海外派兵禁止』の国会決議も、『集団安全保障不参加』の政府確認を踏みにじり、PKOの名の下に再び軍隊が海外に派兵されようとしてます。

 しかもこの秋には全世界が疑惑の眼で見守る中でフランスからプルトニュウムの還送が開始され、数年経てば日本は世界有数のプルトニュウム大国になるといわれてます。フランス、アメリカなどがプルトニュウム増殖炉から撤退しょうとしているときに、いまなぜ危険きわまるプルトニュウム原発なのか。私たちは、このプルトニュウムが何に使われようが、ヒロシマの名の下にその入国をあくまで拒否します。」


加害と被害の二重の苦しみ

 広島で「生物・科学兵器を考える」全国シンポを開催

  松江 澄  

                           「労働者」1993.2.15 第243

 この度、全国シンポジュウム「ヒロシマからの生物・化学兵器を考える」が広島で開かれることになった。

 この催しを企画しながら事務局として準備してきたのは広島在住の若いジャーナリストと市民活動家であった。その契機になったのは、この一月かねてジュネーブでの軍縮会議以来検討されていた生物・化学兵器禁止条約がついに各国によって調印されたことに因んでいる。しかし東京から専門の学者を迎えて「ヒロシマ」で開くことには重要な意味がある。

 広島では誰でも知っているように世界に最初に原爆の犠牲になった都市であり、年老いた被爆者はいまなお原爆病と闘いつづけ若い二世たちは身内に潜む原爆と対決しなければならない。そこに広島と長崎から反核運動が生まれた理由がある。

 しかし一〇年ばかり前から指摘されてきたのは、その被爆による被害アピールだけでよいのか、広島は軍都としてかつて大陸侵略の出港基地だったではないか、という声である。

 私たちが九年前初めて開いた八・五集会で、「一九四五年八月六日」を歴史から抜き出すのではなく歴史に還そう、一五年戦争の歴史の中から軍都ヒロシマをふり返ろうと呼びかけたのもその故であった。

 しかしその広島県の広島市から一時間ばかりの忠海町の沖に地図から消されていた大久野島の工場の中で、中国戦線などで使用されていた「毒ガス」が作られていたのだった。それは「七三一部隊」とも関係があったとも言われている。

 徴用動員で当時十七〜十九才の若者がこの工場で働かされ、生涯かけて闘わなければならない業病にとりつかれていることを、私が知ったのは、一九六六年十二月初めて集まった彼らの集会のときだった。私は彼らの憤りに動かされ、彼らとともに国と闘って、後にようやく「被爆者並み」の措置を手にすることができた。

 だが当時まだこの武器がどこでどのように使われていたかは分かっていなかった。私たちの運動は「毒ガス禁止」をかかげながらも主要には原爆の場合と同じように毒ガスの被害者としての闘いだった。

 しかし今日すでに明らかになったことはその毒ガスが中国国内で多くの人民を苦しめながら虐殺していたという事実であった。その毒ガス兵器がやがて原爆と同じように非人道的な加害以外の何者でもない。ここに広島のもっている加害と被害の二重構造がある。それは何れも十五年に亘る侵略戦争から生まれたものなのだ。私達は改めて広島の加害をつきつけられたのである。

 そこにはこの度のシンポジュウムが広島で開かれる重要な意味があると私は思う。しかしそれは広島だけではの問題ではない。それは広島に象徴的に集約された日本そのものに外ならないのである。

 日時・会場一月三十日(土)午後一時三〇分〜五時三〇分 広島教育会館


新しい革命と新しい党1   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第54号 S4941

目次

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

二.ロシア革命の特殊な条件

三.ヨーロッパ革命について

 

現代先進国についての「新しい革命と新しい党」の追求がはじまってから、すでに久しい。私自身この中に投げ入れられてからも、すでに十二年たった。しかしわれわれがやりとげたものは余りのも少なく、主としていえば失敗の連続であったかも知れない。われわれの運動がはじまってからでも、日本的構改論、世界革命論など多くの革命論の影響を受け、また受けなかった。さらに七〇年代に入ってからからは、こうした「理論」以上に多くの事実と闘争の渦中に、あるいはその外にあった。

 考えてみると、われわれはまだ何ほどのこともやり得ていない。しかし事実は毎日毎日進行しつつあり、その中でわれわれは何かをおこなっている。しかし重要なことは、その何かが今日の革命とどうかかわっているのか、いないのかということである。それはいわゆる革命的な「根性」がなければできないが、また「根性」だけでもできないものであろう。もしマルクス主義者であろうとすれば、今後、革命にとって何が起きるのか、何をしなければならないのか、われわれの活動とどこでどう結びついているのか、を探求しなければならぬ。そこで私は、自分の模索しているものを思いきって提起し、集団的な検討の素材としたい。いわば私の先進国革命論についての「ノート」でしかないが、何かの役に立つ「ノート」でありたい。それは始めて共産主義運動に参加して以来、理論的というより肉体的に私の中に入りこんでいた――の再検討と、不勉強な私にとってはじめてといってよいマルクス主義の創始者と先覚者たちの古典を「自由」に追求しなおすことからはじまっている。つづいてヨーロッパ共産党の若干の諸テ−ゼ――これもまた、いわば先験的に私の中に定着していた――を事実の発展からみなおすという作業が必要であった。そうして最後に、私に多くの影響を与えていた、いわゆる構造改革論あるいは反独占民主改革について、もう一度疑ってみる必要があった。こうした追求は決して単なる「理論」的関心からではなく、事実と運動から求められているのである。

 これはいわば私のメモにすぎない。大きな山の一角にやっととりついた今、今まで追求してきたものよりはるかに多くの、そして大きな課題が私とわれわれを待っている。しかし、それがどんなに困難であろうとも、われわれはみきわめなればなるまい。

 

(一)ロシア革命とヨーロッパ革命

一.世界革命と一国革命

 ここ数年来、世界革命と一国革命の問題が改めて討論の爼上にのぼっているのは、理由がないわけではない。それは一つには、かねてから問題になっていたスターリンの「一国社会主義革命」論に関する定式化の批判からであり、他の一つは、今日ほど世界が「縮小」され、一つの国の経済的、政治的危機がすばやく他の諸国に伝播し、地球の一部でおきた闘いが、多かれ少なかれその全面に影響をおよぼすような時代は、かつてなかったからである。これは二つであって実は一つの問題である。

 スターリンは次のように定式化している。

 「以前には、一国における革命の勝利は不可避だとみなされ、ブルジョアジーに勝利するためにはすべての先進国の、すくなくとも大多数の先進国のプロレタリアがいっしょに行動することが必要だと考えられていた。いまでは、この見地はもはや現実にそわなくなっている。いまでは、このような勝利が可能であるということから出発しなければならない。」なぜなら、定国主義の情勢のもとでの種々の資本主義国の発展の不均等で飛躍的な性格、不可避的な戦争をまたらす帝国主義内部の破局的な矛盾の発展、世界のすべての国における革命運動の成長――こうしたことはみな、個々の国におけるプロレタリアートの勝利が、可能であるばかりでなく必然的でもあるという結果をもたらすからである。ロシア革命の歴史は、それを直接に証明している。」(1)

 ここでスターリンが、「以前には一国における革命の勝利は不可能だとみなされ」ていたと指摘しているのは、エンゲルスが「共産主義の原理」の中で、「大工業は、文明諸国における社会の発展を、すぐに均等にしてしまっている」から、「共産主義革命はけっして一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで同時に起こる革命となるであろう」(2)といつていること、また「共産党宣言」の中の、「すくなくとも文明諸国の共同行動が、プロレタリートの解放の第一条件のひとつである」とのべていることを指していると思われる。またそれに対して、「一国社会主義革命の勝利」の可能性と必然性を主張している根拠が、レーニンの「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」「プロレタリア革命の軍事綱領」等の中でのべられている有名な定式であることも周知の事実である。とくにレーニンは、「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(一九一五年)では、「経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である」から「社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である。」(3)とのべているが、翌年かかれた「プロレタリア革命の軍事綱領」(一九一六年)では、このテーゼをさらに発展させて、「社会主義はすべての国で同時に勝利することはできない。」(4)と断定している。このような「可能性」から「必然性」への発展の根拠と理論について、レーニンのくわしい説明をきくことはできないが、これはその限りではスターリンがいうようにマルクス主義革命理論の新しい発展である。

 ところが上田耕一郎は、このままではスターリン理論を是認することになって困るとでも思ったのか、何とかしてマルクス・エンゲルスとレーニンの間をとりもとうとして一生懸命である。上田は、「一国社会主義革命の勝利」ということばの「多義性」を文献学的に展開しながら、「」スターリンが引用した『原理』の当該箇所のなかでさえエンゲルスは、一方では『文明諸国における社会発展』の『均等』を指摘しながらも他方では、『この革命が』工業、生産力の発達の水準などそれぞれの国の条件にしたがって、『急激に、あるいは緩慢に発展するだろう』とのべ、革命の発展の不均等性をも指摘している。」(5)という。たしかにマルクスは上田も引用するように、「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容上ではないが、形式上ははじめは一国である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアジーをかたずけなければならない。」(6)としてきしている。またマルクスはこのことに関して、「一般に、労働者階級が闘争できるためには自国内で自己を階級として組織しなければならないこと、自国が彼らの直接の闘争の舞台である。」(7)ともいっている。新しい左翼セクト諸君のいわゆる「世界革命論」のまちがいは、ことばではなく実際に、開始される革命の国民的な「形式」まで否定し、他国の「舞台」にばかり熱中して、労働者階級が「自国内で自己を階級として組織しなければならないこと」を忘れているばかりではない。彼らは「内容」上も、各国革命を世界革命という本質が展開する現象形態としてとらえることによって、初期マルクスを通り越してヘーゲルの観念弁証法にまで逆戻りしている点にある。

 マルクス・エンゲルスは、ヨーロッパの革命が国民的な革命として開始されながら、世界革命としてのみ発展しうるという意味で「同時革命」という規定をあたえている。しかしマルクスの射程の中にあった革命的世界は、先進的なヨーロッパ――イギリス、アメリカ、(ヨーロッパ世界の一員――筆者)、フランス、ドイツだったのだ。そこでは革命的な発端は不均等でも、経済恐慌――当時これがヨーロッパ革命の基盤であるとみなされていた――の連鎖の中で、不可避的に、すぐにでも、西ヨーロッパ諸国を革命のうずまきにまきこむと考えられていたとしても不思議ではない。その場合でさえ、時間的に完全な「同時」の革命などあるはずがない。したがって上田が鬼の首でもとったように引用する、各国革命が「『急激』にあるいは『緩慢』に発展する」ことは至極あたりまえのことであって、それによってマルクスとレーニンのいう「不均等性」の一致が証明されるものではない。いやそれどころか、上田のいうようことによってレーニンのいう「革命の不均等性」の意義が弱められ、不当に引き下げられるのだ。

 レーニンが指摘しているのは、マルクスやエンゲルスがいっているような「不均等性」ではない。それは単なる経済的な発展の不均等さが自動的にもたらすような「不均等性」ではなく、それは一国で権力の奪取が可能になるほどの「不均等性」なのである。上田は、スターリンが「資本主義の発展の不均等の法則の意義を事実上、政治的には帝国主義時代とだけむすびつけようとする傾向をうみだした」と非難するが、正に帝国主義時代にこそ資本主義の不均等発展の法則は、その経済的外皮をやぶって革命の不均等な発展の必然性としてあらわれる。それは帝国主義が、資本主義の自由主義時代と異なり、上部構造としての民主主義」が「政治反動」に転換し、一方では各国の経済的障壁をますますつき崩して世界的な発展をとげながらも、他方政治的には、強固な国境の防壁をきずき、自国民をますますその中に囲い込むさまざまな手段をつくりだすからである。そこにこそ革命の不均等発展の可能性だけでなく、その必然性があり、またそこにこそマルクスの生きた時代とレーニンの闘った時代の相違がある。革命の契機は、マルクスの予感した世界経済恐慌による「同時性」から、(帝国主義政治の延長)による「不均等性に移行したのである。

 しかし、マルクスもレーニンも、社会主義革命の勝利のためには、国際革命――とくに先進的西ヨーロッパの革命――が不可欠であると考える点では完全に一致していた。その意味では、レーニンもまたマルクス・エンゲルスに劣らず世界革命論者であった。レーニンは後年、「共産主義インターナショナル第三回大会」(一九二一年)で、改めて次のように語っている。

 「当時われわれが国際革命を開始したとき、われわれがそうしたのは、国際革命の先鞭を付けることができると信じたからではなく、幾多の事情のため、この革命を開始せざるをえなかったからである。われわれは次のように考えた。あるいは国際革命がわれわれを応援してくれるか――そのときにはわれわれの勝利は完全に保障される――あるいはそうではなくて、敗北したばあいには、それでもやはりわれわれは革命の事業に奉仕することになるし、われわれの経験は他の国々の革命の役にたつであろうという意識をもって、われわれのささやかな革命活動をはたそうと。国際的な世界革命の支援がなければ、プロレタリア革命は勝利できないといことは、われわれには明らかであった。革命前にも、また革命後にも、われわれはつぎのように考えていた。資本主義的に、いっそう発展した他の国々に、いますぐにか、そうでもないまでも、すくなくともきわめて早急に、革命がおこるであろう。もしおこらないなら、われわれはほろびるにちがいないと。このように意識していたにもかかわらず、われわれは、あらゆる状況のもとで、なにがなんでもソビエト制度を維持するためにすべてのことをした。というのは、われわれは自分自身のために活動しているだけでなく、国際革命のためにも活動しているのだということを、われわれはしっていたからであり。」(8)

 運動はレーニンの予想したように一直線にはすすまず、期待した西ヨーロッパの革命はおきなかった。こうして国際革命の発端としてはじまり、社会主義革命の前衛となったロシア革命は、単独のままでプロレタリア権力の維持と社会主義の建設にすすまなければならなかった。その意味での「一国社会主義革命」は、スターリンが定式化したように、けっして「理論」からでなく、事実と事情からして余儀なくされたものであり、歴史によって「強制」されたものであった。

 結局スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論を定式化したことにあったのでもなく、また、マルクス・エンゲルスの世界革命論をレーニンが発展させたと定式化したことにあるのでもない。スターリンの誤まりは、レーニンの「一国社会主義革命」論――それはマルクス・エンゲルスの世界革命論の新しい発展であるが――を、事実上世界革命ときりはなした「一国社会主義革命」としてふるまったことにあり、とくに、歴史によって余儀なくされた「一国社会主義革命」をはじめから当然のことのように「理論」化し、プロレタリア独裁論の修正を合理化したことにある。そうしてその誤りは、ロシア革命のもつ特殊な条件を一般化することにより、コミンテルンを通じて世界各国の革命運動にたいしてかなり長い期間、悪い作用と影響をおよぼしたことである。したがって「一国社会主義革命」についての再検討は、ただスターリンにすべての罪をかぶせることですむものではない。sおれはスターリン理論を再批判しつつ、一国社会主義建設をよぎなくされた歴史的状況と、そうした歴史的状況の下で何をなすべきかを追求することにある。それはまた、最も近代的な生産手段を労働者階級の手中におさめることによって、、発達した生産力を基礎とした世界社会主義革命の勝利のために闘う先進国プロレタリアートと、その党に課せられた国際的任務とその自覚を抜きにしては、語ることはできないものである。

(註)

(1)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)四六頁。

(2)エンゲルス「共産主義の原理」(全集第四巻)三九二頁。

(3)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」(全集第二一巻)三五二頁。

(4)レーニン「プロレタリア革命の軍事綱領」(全集第二三巻)八二頁。

(5)上田耕一郎「先進国革命論」(大月書店)一九頁。

(6)マルクス・エンゲルス「共産党宣言」(全集第四巻)四八六頁。

(7)マルクス「ドイツ労働者党綱領評注」(全集第一九巻)二三頁。
(8)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」(全集第三二巻)五一一〜五一二頁。

 

二.ロシア革命の特殊な条件

 

「おくれた」ロシアの革命の特殊な条件を明らかにすることは、「進んだ」西ヨーロッパの革命と追求する上で重要な意義をもっている。それではロシア革命の特殊な条件とは何か。レーニン自身もそれを重視して、「プロレタリアートの独裁を実現し、ソビエト共和国を組織した、国が、ヨーロッパでもっともおくれた国の一つであったというようなことがどうしておこったのか?」(1)と問い、「どんなマルクス主義者での、総じて現代科学に通じているどんな人でも、『いろいろの資本主義国が均等に、あるいは調和と釣合いをたもって、プロレタリアートの独裁にうっていくことは、ありそうなことか?』と質問されたら、きっとそれはりそうもないと、こたえるであろう。資本主義の世界には均等も、調和も、釣合いも、かつてなかったし、またあり得なかった。どの国も資本主義と労働運動のなんらかの側面または特徴を、または一群の特質を、とくにきわだって発展させた。発展の過程は不均等にすすんだ。」(2)と答えている。しかし、マルクス主義の創始者たちも、ロシアにおける革命をまったく予想しなかったわけではない。

「共産党宣言」についてマルクスは、後年も、歴史的文献としてその基本的な正しさを再確認しながら、「宣言」ののべている具体的な事実と情勢については、すでに「時代おくれ」になっていることを、その後つけた各種の序文で明らかにしている。とくに一八八二年の「ロシア語版序文」では、新しい情勢の発展の中でのロシア革命の展望について次のように語っている。

「その当時(一八四八年一二月)プロレタリア運動がまだどんなにかぎられた地域にしかおよんでいなかったかは、宣伝の最後の章、さまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきり示している。つまり、そこには、ほからなる――ロシアと合衆国が欠けている。・・・・・・・(中略)

それが今ではなんという変りようだろう!(以下アメリカについての文章略)

それではロシアはどうか!一八四八――四九年の革命のときには、ヨーロッパ君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタリアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツァーリはヨーロッパの反動派の首領である、と宣言された。今日では、彼はガッチナで革命の捕虜となっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の捕虜となっている。

 ・・・・・(ロシアの「農民共同体」が直接的に共産主義的共同所有に移行できるか、を問いかけた後)

この問題にたいして、今日与えられることのできるただ一つの答は次のとおりである。もしロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有性は共産主義的発展の出発点となることができる。」(3)

ここでは、あり得べきロシア革命について語っているばかりでなく、ロシア革命と西ヨーロッパ革命との関係について、重要な指摘をしている。マルクス主義の創始者たちにとっては、すでに六〇年代以降からロシア革命はその射程に入っていたということができよう。しかしそのことは、マルクス・エンゲルスにあっても、決して予想どおりのできごとあったわけではない。何故ならばマルクスもエンゲルスも、基本的には、「産業ブルジョアジーの支配の下で産業プロレタリアートは、はじめて、自己の革命を国民的革命へとたかめることのできる広大な国民的存在」となること、したがって、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて、封建社会の物質的な根をひき抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなうことのできる基礎をならすのである。」(4)と考えていたからである。また、レーニンも、あらかじめすべてを見とうし、ロシア革命の必然性を予知した上で準備したわけではない。レーニン自身も、一九一七年――革命の年だ!――スイスで青年たちに、「われわれ老人は来るべき革命を見ることはできないが、諸君には可能である」と語っている。革命はいつもこのようにして、少なくとも、はじまるのだ。そこで、ロシア革命の特殊な条件と、はじまったプロレタリア権力が維持できた当時の特殊な情勢を明らかにする必要がる。

まず、はじまったばかりのロシア革命が、どうして維持できたかについて、レーニン自身が語るのを聞こう。それは同時にヨーッパ革命との関係を明らかにすることにもなる。

「われわれの若い友人のきわめて多くのものは、もっとも重要なことを、つまり、十月革命後の偉大な凱旋の数週間、数ヶ月間には、なぜわれわれは凱旋から凱旋へと、あのようにたやすくうつる可能性をえたかということをわすれはじめている。ところがそれがそうであったのは、ただ特異な国際的情況が一時われわれを、帝国主義から掩護したからであった。帝国主義はわれわれどころではなかった。われわれもまた帝国主義どころではないと、われわれにはおもわれた。だが、個々の帝国主義者たちがわれわれどころではなかったのは、ただ、今日の世界帝国主義の最大の社会的、政治的および軍事的な力全体が、この当時、内輪の戦争によって、二つのグループに分裂していたからにすぎなかった。この闘争にまきこまれた帝国主義的強盗どもは、信じられないほどの極端にはしり、死闘をやりだし、二つのグループのどちらも、ロシア革命にたいしていくらかでも重大な勢力を集中することができなかったのである。われわれは、十月には、ちょうどこのような時期に際会していた。わが国の革命はちょうどこの絶好の時期に――これは逆説的であるが正しい――、すなわち、前代未聞の災厄が、数百万の人間を絶滅させるという形で、大多数の帝国主義諸国にふりかかっていた時期に、戦争が未曾有の災厄によって諸国民をくるしめていた時期に、戦争の第四年目に交戦諸国が袋小路に、岐路にさしかかった時期に際会していたのである。わが国の革命が、この絶好の時期に、すなわち、二つの巨大な強盗グループのうちのどちらも、すぐには相手におそうかかることもできなければ、われわれとたたかうためにいっしょになることもできなかったこの時期に、際会していたからこそ――ヨーロッパ・ロシアで輝かしい凱旋行進をやり、フィンランドにとび、さらにカフカーズやルーマニアで闘いをはじめるために、わが国の革命は政治的および経済的国際関係のこの時期だけを、利用することができたし、また実際に利用したのである。」(5)

ここには、当時の国際情勢のなまなましい把握がある。そうして、長い歴史の中では必然的であるにせよ、少なくともその渦中では思いがけずあらわれてくる数々の歴史の偶然をすばやく見抜き、いちはやく利用したレーニンの天才がある。

それでは、ロシア革命――おくれたロシアのプロレタリア革命――を「はじめることはたやすかった」政治的理由は何であろうか。レーニンは、「私はすでに何度かつぎのように言ったことがある。ロシア人には、偉大なプロレタリア革命をはじめることは先進諸国に比べてたやすかったが、この革命をつづけ、社会主義社会の完全な組織化という意味での最後の勝利までやりとおす小とは、より困難であろう」と。その理由としてレーニンは、次の六点をあげている。

第一、「ツァーリ君主制が政治的に異常おくれていたため、大衆の革命的襲撃が異常な力をもった」こと。

第二、「ロシアのおくれていることが、ブルジョアジーにたいするプロレタリア革命と地主にたいする農民革命とを独特の形で融合させたからである」こと。

第三、一九〇五年の革命において、西欧のすすんだ社会主義の吸収とその行動で、「労働者、農民大衆の政治的訓練のために多くのことをなしとげた」こと。

第四、「地理的条件のおかげで、ロシアは、資本主義的先進国の軍事的優勢にたいして、ほかのくによりも長くもちこたえることができた」こと。

第五、「プロレタリアートと農民の独特の関係がブルジョア革命から社会主義革命にうつることを容易にした」こと。

第六、「ストライキ闘争という長期の学校とヨーロッパの大衆的労働運動の経験とが、深刻な、急速に激化していく革命的情勢のもとで、ソビエトのようなプロレタリア革命組織の独特の形態の発生を容易にした」こと。(6)

この中で、どくにロシア革命の特殊性を際立たせてものに、第二と第五の理由がある。

マルクスも、一八四八年フランスの「二月革命」を分析した「フランスにおける階級闘争」では、すでにふれたように、資本主義の発展によって「プロレタリアートが大多数となり、「広大な国民的存在」となることをプロレタリア革命の必須の前提としていた。したがって、「二月革命」当時は、プロレタリアートはパリをはじめいくつかの工業中心地でこそ主要な階級であったが、全国的には、「圧倒的多数の農民や少ブルジョアジーのあいだにまじって、ほとんどかげを没している」という状態のもとで、「プロレタリアートの闘いは革命の国民的内容となることはできなかった。」したがって、「パリのプロレタリアートが、自己の利益を、社会そのものの革命的利益として貫徹しようとしないで、それをブルジョア的利益とならんで貫徹しょうとつとめたこと、彼らが三色旗にゆずって赤旗をひきおろしたことほど、もっともまことはない。」(7)と。しかし、ロシアでは、正に赤旗が「三色旗に」ゆずらせたのだ、力と指導とで。それは急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という身曾有の災厄の中で併存していたという客観的条件と、すぐれて正確で大胆なレーニンとボルシェビキの戦術と行動とが、歴史上まれにみる特殊な結合をとげたことから生まれた。

そういう意味では、ロシア革命はグラムシのいうように、「事実よりもイデオロギーにささえられ」た革命であり、「『資本論』に反する革命」であった。それは、「西方型の文明がうちたてられるまでは、プロレタリアートの反抗や、階級的要求や革命については考えることさえできない、という宿命的必然性の批判的証明だった。だが事実はイデオロギーをのりそえた。史的唯物論の教条にしたがえば、ロシア史はその批判的図式の枠内で発展しなければならなかったであろうが、事実がその図式を粉砕してしまったのだ。」(8)そうしてそれはまたしたがって、少数派によってはじめられた革命でもあった。ローザ・ルクセンブルクがいうように、「道は、多数を通って革命的戦術へでなく、革命的戦術を通って多数へと通じて」(9)いたのである。

それにくらべてヨーロッパ革命はどうであったか。

(注)

(1)レーニン「第三インターナショナルとその歴史上の地位」(全集第二九巻)三〇五〜三〇六頁。

(2)同前。

(3)マルクス・エンゲルス「共産党宣言・一八八二年ロシア語版序文」(全集第四巻)五九二〜五九三頁。

(4)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一七頁。

(5)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)八六〜八七頁。

(6)同前。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)一八頁。

(8)グラムシ「資本論に反対する革命」(選集第五巻)一四六頁。

(9)ロ−ザ・ルクセンブルク「ロシア革命論」(選集第四巻)二三五頁。

 

三.ヨーロッパ革命について

 

 マルクス主義の創始者たちやレーニンが、当時の先進国であるヨーロッパ革命について、どのように考えていたかを探求することは、今日の先進国革命にとって重要である。それは今日の先進国革命の歴史的な源流を明らかにするだけでなく、マルクス主義の先覚者たちが当時の先進国諸国の変革について、どんな方法で分析と追求をおこなっていたかを知ることができるからである。

レーニンは、ロシア革命の特殊性を明らかにする中で、その対照としてヨーロッパ先進国の革命について幾度もふれている。彼は、はじめることは「羽毛をもちあげるように」容易であったが、つづけけることはきわめて困難であったロシアにくらべて、「ドイツのように高度に発達した国、みごとに組織されたブルジョアジ−のいる国で革命がおこることは、おそろしく困難であるが、革命がヨーロッパの先進諸国で勃発し、燃えはじめてのちは、社会主義革命を勝利をもって完成することは、それだけいっそう容易であろう。」(1)といっている。またレーニンは、ヨーロッパ革命の過程についてくりかえし、「事件ははるかに複雑な形をとって、はるかに急速にすすむであろうし、転換はもっと複雑になるであろう」(2)と指摘している。そうして、ロシア革命の困難さを語るとともに、「いま必要なことは、革命を根本的に準備し、先進的な資本主義諸国における革命の具体的な発展をふかく研究することである。」ことを重視し、「第一には、プロレタリアートの多数者の獲得について。資本主義的に発展した国々でプロレタリアートが組織されていればいりほど、われわれがそれだけ根本的に革命を準備することを歴史は要求しており、そしてわれわれはそれだけ根本的に労働者階級の多数者を獲得しなければならない。第二には、工業的に発展した資本主義諸国における資本主義の主要な支柱は、正に労働者階級のうち第二および第二半インターナショナルに組織された部分である、ということである。」(3)と述べ、少なくとも権力獲得以前の多数者獲得を否定した一九一七年以前のロシアとは異なった戦術を提起している。また、レーニンは、「資本主義が発達し、最後の一人まで民主主義的文化と組織性が与えられている国では、準備もなしに革命をはじめることはまちがいであり、ばかげている。」(4)といい、ロシアにくらべて「西ヨーロッパの諸国では、革命をはじめるほうがむつかしいが、それは、文化の最高の思想が革命的プロレタリアートに対立していて、労働者階級が文化的な奴隷状態にあるからである。」(5)と、文化的、イデオロギー問題についての重要な指摘をおこなっている。

しかし、こうした諸問題は、レーニンがはじめて語ったわけではない。マルクス・エンゲルスもすでに早くから着目しているが、それはけっして最初からではなく、歴史の苦い教訓からであった。エンゲルスは、「フランスにおける階級闘争」の序文(一八九五年版)で、一八四八年の敗北にひきつづく闘争の期待が失われたのち、「革命期の第一局面が終わったこと、そして、新しい世界経済恐慌が勃発するまではなにごとも期待できないということを、すでに一八五〇年秋に声明したのだ」が、「歴史はわれわれの考えをまた誤りとし、当然のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露した。歴史はそれ以上のことをした。歴史はわれわれの当時の誤りを打ち破ったばかりでなく、プロレタリアートが闘争すべき条件をすっかり変革してしまった。一八四八年の闘争方法は、今日では、どの面でも時代おくれとなっている。」と述べ、その変化の内容をつぎのようにいっている。

「国民間の戦争の条件も変化したが、それに劣らず階級闘争の諸条件も変化した。奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った。社会組織の完全な改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっていryか、なんのために彼らは肉体と生命をささげて行動するかを、すでに理解していなければならない。このことこそ、最近五〇年の歴史がわれわれに教えてくれたのだ。だが、大衆が何をなすべきかを理解するために――そのためには、長いあいだの根気づよいしごとが必要である。して、この仕事をこそ、まさにいまわれわれがおこなっており、しかも、敵を絶望におとしいれるところの成功をおさめつつあるのだ。

 ・・・・・一般にいろいろの事情が反乱者の奇襲のためには、ドイツにくらべてはるかに有利であるが、そのフランスにおいてさえも、社会主義者は、あらかじめ人民の大多数を、すなわちこの国では農民を、獲得しないかぎりは、永続的な勝利はあり得ない、ということをますます悟っていきている。

・・・・・この勢いですすめれば、われわれは、今世紀の終わりまでには、社会の中間層、小ブルジョアや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他のすべての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。この成長を不断に進行させて、ついにはおのずから今日の統治制度の手におえないまでにすること、<この日々増強する強力(ゲバルト)部隊を前哨戦で消耗させないで、決戦の日まで無傷のまま保っておくこと>これがわれわれの主要任務である。」(6)

ここでエンゲルスが多数を獲得するために新たに発見した闘争手段の一つは、選挙と議会闘争である。しかし、こうした議会闘争でヨーロッパ最大のプロレタリア党隣、第二インターナショナルの頭目であったドイツ社会民主党も第一次大戦の前夜には、その議会主義のゆえに「祖国擁護」へと右旋回し、排外主義者と闘う革命的共産主義者はローザ・ルクセンブルク、カール・リーブネヒトらの少数派となって革命は敗北した。マルクス・エンゲルスは労働者の主体的な闘いの発展から経済恐慌という革命の客観的条件の洞察へ、またふたたび新しい階級闘争の条件の変化から労農同盟=多数派形成へと、自己批判をふくむ不断の追求をつづけ、ついに発見した新しい戦術と運動形態の発展もまた歴史によってほうむられた。しかし、すでに早くから探求され、提起され、実践され、また敗北した先進国革命の新しい試みは、われわれにどんなに多くの教訓と激励をあたえていることか。

ヨーロッパ先進国革命に関連してもう一つの重要なことは、世界革命ないし西ヨーロッパ革命と個々の国の革命との関係である。マルクスは当時の「イギリスはブルジョアジ的宇宙の造物主である」と規定して次のように指摘する。

「恐慌がまず最初に大陸に革命をひき起こすとしても、それらの革命の根源はやはり、いつもイギリスにある。ブルジョア的身体の末端部においては、その心臓部おけるよりも当然、よりはやく暴力的暴発が起こらざるをえない。それは心臓部においては末端部におけるよりも調整の可能性が大きいからである。他方では、大陸の諸革命のイギリスにおよぼす作用の度合いは、同時に、これらの革命がどの程度まで実際にブルジョア的生活関係をおよぼしているか、またはその革命がどの程度にその生活関係の政治的構造にふれているにすぎないかを示す寒暖時計でもある。」(7)

上田耕一郎は、「マルクスのこの文章は、世界帝国主義という鎖は、その強力な心臓部よりも、矛盾の集中した末端部の環における革命的爆発によって切断されるという、スターリンの「鎖の弱い環」の理論の基本的骨格を、すでに七五年前にあたえていたものというべきであろう。」(6)とのべている。しかし、果たしてそうであろうか。

当時イギリスは、レーニンも指摘しているように、「すでに一九世紀の半ばから、帝国主義のすくなくとも二つの最大の特徴が存在していたことにある。それは、(一)広大な植民地、(二)独占利潤(世界市場における独占的な地位の結果として)である。このどちらの点でも、イギリスは当時資本主義諸国のうちの例外であった。」(9)マルクスが見ていたのは、こうしたイギリスを中心とした経済恐慌と不可避的に結びついている大陸の革命であった。したがって「鎖の弱い環」理論をここから類推することはたしかに「大発見」かも知れぬが、実はまったくおかど違いである。

スターリンは、「革命はどこで始まるか、どこで、どの国で、資本の戦線を最初に突破するだろうか?」と問い、「資本の戦線は帝国主義の鎖か他よりも弱いところで断ちきられる」と断定し、「一九一七年には、帝国主義的戦線の鎖は、他の国々にくらべてロシアでは弱かった。だから、この鎖が断ち切られてプロレタリア革命のはけ口になったのは、そのロシアであった。」(10)という。ところが、スターリンはその同じ箇所で、「以前には、どれか一国の経済状態の見地から、プロレタリア革命の前提条件の分析をあつかうのが普通であった。だがいまではこのあつかいかたはもはや不十分である。」とくりかえしながら世界帝国主義戦線の「鎖の弱い環」を論じている。しかしマルクスは、まさにそれ「以前」に、「一国の経済状態の見地から」ではなく、イギリスを心臓部とする先進資本主義国の、うてば響くように密接な経済的関係にあった西ヨーロッパの資本主義戦線から語っているのだ。上田のいうことは、上昇期にあった当時のブルジョア世界と、「矛盾の結節点」をはらんだ帝国主義世界体制とを全く混乱していることになる。

その上、「鎖の弱い環」理論は、複雑な経済的、政治的関連を分かりやすい物理的表現でたとえるときに、いつでもおちいる単純化のあやまりを典型的に示しているばかりでなく、事実よりも「理論」から次の「環」を見つけ出すことによって教条主義となり、何よりも事実と状況のもつ思いがけない可能性と創造性を抹殺する。

もし、「心臓部」と「末端部」というならば、今日の帝国主義戦線では、――戦後一時期はアメリカが「心臓部」であったとしても――それぞれ相互の「心臓部」であるとともに、相互の「末端部」でもある。戦後、帝国主義の古典的植民地体制は崩壊し、新植民地体制への転換を余儀なくされたが、今またベトナムからアラブへと民族解放運動の新しい前進は、帝国主義的矛盾の転化を拒否しつつ、「政治的」独立から経済的独立へ、「形式」的解放から完全な解放へと、新しい歴史的局面をひらきつつある。それは否応なしに帝国主義そのものの矛盾を深め、帝国主義の経済的、政治的諸矛盾は先進資本主義諸国の諸「心臓部」へとその救心的な集積をいっそう早めるだろう。先進国革命の客観的条件は成熟しつつあり、世界革命はその輪を縮めつつある。それはますます「調整」機能の充実を要求しながら、反面その破綻を早め、ほころびをますます拡大うる。こうした「調整」と破綻の矛盾的展開は、それに対決して闘う先進国革命のダイナミズムとロシア革命が典型となった革命的イデオロギーのいっそうするどい鍛錬を要求している。

(注)

(1)レーニン「工場委員会モスクワ県議会での報告」(全集第七巻)五六四頁。

(2)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)一二八〜一二九頁。

(3)レーニン「共産主義インターナショナル第三回大会」五一三頁。

(4)レーニン「ロシア共産党(ボ)第七回大会」(全集第二七巻)九四頁。

(5)レーニン「モスクワの労働組合と工場委員会との第四回協議会」(全集第二七巻)四七七頁。

(6)エンゲルス「フランスにおける階級闘争」序文(一八九五年版)(全集第七巻)五三三〜五三四頁。

(7)マルクス「フランスにおける階級闘争」(全集第七巻)九四頁。

(8)上田前掲論文、三六頁。

(9)レーニン「帝国主義と社会主義の分裂」(全集第二二巻)一一九頁。

10)スターリン「レーニン主義の基礎」(国民文庫)三六〜三七頁。

 

 

(以下次号)


新しい革命と新しい党(2)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第55号 S4951

 

目 次

(二)ヨーロッパ革命と各国共産党

一.フランスとイタリア

二.日本共産党の「道」

三.フランス「五月」とチリ革命

 

一.フランスとイタリア

 マルクス、レーニンの先進国革命についての再検討につづいて、その後のヨーロッパ先進国革命への道を探る上で、各国共産党の追求をあとづけることは、われわれの分析にとって必要な素材である。そこで、あえてコミンテルンの時期をあとまわしにして、まず今日の問題について検討しょう。このことに関して田口富久治は、「これらの諸国の中でとくに注目されるのは、イタリア、フランスそして日本の動向である」として、「いちじるしくナショナルナな個性を持っている」とともに、「相対的に強大な共産党が存在し、それが国政にたいして現実的な影響力を行使し、また行使しはじめている」という共通点があるので、「先進国革命の道が、さぐりあてられるべきであるとすれば、これら三国の労働運動、大衆運動と、それらとの関連においてそれぞれの労働者党の革命戦略を比較、検討してみることがまずもって必要とされよう」(1)という。そうして、三国の労働運動と共産党の革命戦略の比較分析のための項目として、二つの問題をあげている。その一つは、「政治情勢の転換と革命の移行過程の見通し」であり、二つには、「革命戦略の実現のための政治闘争の舞台として何が設定されているかということである」として、「当面の情勢を変えていくための三つの政治闘争の舞台として、国会、自治体、労働組合の統一闘争のレベル」が「作業仮説」としてあげられる。

 たしかに先進国革命をさぐる上でフランス、イタリア、日本の運動を追求することはまったく必要なことである。しかし、田口氏があげている三つのレベルという「作業仮説」は余りにも技術的にすぎるのではあるまいか。むしろ重要なことは、その前提になる「情勢の転換と社会主義への移行過程の戦略」について、ただそれをあとづけるだけでなくその性格を明らかにし、それがその国と社会の――したがってまたその国の歴史的な革命運動の継承と革命を、どのように反映しているかを比較検討することである。

 まずフランスについてはどうか。

 フランス共産党では、一九六八年シャンピニで開いた中央委員会で採択された「フランス共産党の宣言――先進的民主主義のために、社会主義フランスのために」(いわゆる『シャンピニ宣言』)というテーゼを今日の闘いの旗印としており、最近社共の間で協定が結ばれた「共産・社会党――共同の政府綱領」もその具体化のあらわれである。そこで「宣言」の主要点を、最もよく説明している「第一九回党大会報告」をきこう。この場合何より重要なのは、この「宣言」の核心となっている「先進的民主主義」とは何かを明らかにすることである。「報告」によれば、

 「先進的民主主義とは、国民経済に対する大資本の支配を制限するため断固たる措置をとる政権のことである。したがってそれはまた工業の主要部門と大銀行の国有化を意味し、国民に帰属する企業の民主的管理を意味する。・・・・・

 先進的民主主義とは、購買力と雇用、集団的設備と国民教育の分野で、勤労大衆のもつ大きな要求を漸次満足させることに努力する政権のことである。・・・・・

 最後に先進的民主主義とは、個人権力を廃止し、人民の主権を確立し、比例代表制で選出される国民議会に真に監督権をあたえ、国民と学校の宗教からの離脱を復活し、新聞、ラジオ、テレビの民主的規約を制定する政権のことである。・・・

 先進的民主主義はこうした反独占の措置を実現しながらも、まだ人により人の搾取をなくすものでないことはいうまでもない。この民主主義は、独占の力を漸次、系統的に減少させ、労働者階級の権威と国の生活における政治的比重を高め、反動を孤立させ、すべての進歩勢力が結集するのをたすけ、フランス人の大多数がフランスの社会主義への移行に賛成するための最良の受験をつくり出すだろう。」(2)

 「報告」によれば、この「先進的民主主義は、社会主義へ移る一つの形態」であり、「必要な段階」であるとされている。そうして「現代に会っては、この段階と社会主義の段階とのあいだに長い歴史的期間があるとはわれわれは考えていない。民主主義をめざす闘争は、わが党の基本目標である社会主義をめざす闘争の完全な一部である。」(3)と。

 以上で明らかなことは、「先進的民主主義」とはまず何よりも新しい反独占の「政権」(「権力」ではない)であり、その具体化である社共の「共同綱領」が単なる選挙綱領ではないとしても、少なくとも選挙による「政府」をめざしていることは疑う余地がない。したがって「先進的民主主義」は社会主義的民主主義への過渡形態としての「反独占民主主義」であり、その実現形態は選挙による「政府」であるといえよう。ここでは闘いの「共同綱領」は、ある意味で現在の政府の反対綱領であり、それを実現することによって資本主義の制度を変革することに一歩近づくような一連の措置である。それは基本的には、「個人権力の体制を排除し」「フランスにおける民主主義の再建と革新」を中心任務として、そのための制憲議会の選出のためにたたかう「第一五回大会テーゼ」(4)(一九五九年)の延長の上にある。ただ異なっているのは、「第一五回大会テーゼ」では闘いとられた「革新民主主義」の「闘争の一局面となりうる」とされた「国有化」が、ここでは、第一義的に前面に進み出ていることである。ここには仏伊共産党論争からヨーロッパ共産党の声明、さらには「八一カ国声明」への経過と結果が反映しているといっても間違いではないだろう。

 しかし、何れにしてもフランス共産党のテ−ゼを一貫して流れているのは、三〇年代人民戦線の伝統であり、民主主義的統一戦線政府の樹立による「上から」の社会主義への移行形態である。これは次に見る「イタリアの道」とくらべるとき、いっそうきわだった対照をなしている。

 それではイタリアはどうか。

 第一二回大会テーゼ(一九六九年)についてのルイジ・ロンゴ書記長の報告の中で、最も中心的な問題は、「民主主義の社会主義への新しい発展を許すような政府の政策の徹底的変革」である。

 「われわれは社会主義がイタリアの今日の日程にのぼっていることを知っている。それは広範な人民大衆の意識のなかでそうなのだし、社会主義の方向でイタリア社会の変革が行なわれない限り、根本問題を十分に解決することは不可能であるからこそ、そうなのである。しかし同時にわれわれは、グラムシの表現を借りると、独占体と極反動退歩勢力を孤立させ、労働者階級を中心に自己の利害から独占体に対立するようなすべての勢力を団結させる力をもつ新しい権力ブロックがつくられないかぎり、そうした変革ははじまらないことも知っている。この民主的闘争と社会主義的闘争との結びつきは、われわれの政策『社会主義へのイタリアの道』の核心である。」(5)

 そうしてこの「道」は、戦中、戦後を通じて闘いとられた「従来の型のブルジョア民主主義的議会制共和国ではなく、新型の共和国」である現在のイタリア憲法を「出発点と基準とする」闘いであり、したがってそれはまた、戦後挫折した革命の継承と発展の闘いでもある。それでは、「イタリアの道」の中心となっている構造改革の戦略とは何か。

「われわれの構造改革の戦略は一種の『反対計画』である抽象的な統治計画でもなければ、いっしょにすれば資本主義制度を変革することができるようになる一連の措置でもない。また連続的に分裂を起こさせ、制度の全般的危機をひきおこそうという抽象的な企図でもない。

 われわれの戦略は、所有関係と政治体制に変化をひきおこし、支配ブロックを粉砕し、新しい社会グループ全体に新しい政治経験をもたらし、もっと進んだ闘争にもっと有利な条件を獲得強化し、われわれが政治社会勢力の新しいブロックを形成するのを可能にすることをならいとしている。つまりそれは、政治的、社会的な前進の意義をもち、左翼の選択する道が説得的価値をもつために、現在の実行可能な目標を獲得するための総合的な闘争が問題である。必要なのは下部の統一と、他の政治勢力にたいするわれわれの統一政策とのあいだ、あるいは新しい直接民主主義の形態と代議制民主主義の形態とのあいだに、いかなる人為的対立にせよ生まれるのを防ぐことである。」(6)(太字筆者)

 ここで注目すべきことは、現在の情勢(国家独占資本主義)のもとで、「代議制民主主義の深刻な革新のために闘わなければならないと同時に、新しい型の直接民主主義のためにも闘わなければならない」と指摘していることである。したがって「社会主義への前進の道」は「議会的でもあるということを忘れないのは決定的に重要である」(太字筆者)として、「われわれの展望は、国家と社会の内部での漸次的な勝利と変革をもたらし、新権力ブロックを形成する闘争の道である」といっている。それは「上から」の道であるとともに、「下から」の道でもある。

 田口氏は、後にのべる「日本の道」も含めて、先進国革命とは、結論として「民主主義をとおしての社会主義への道にほかならない」というが、「フランスの道」と「イタリアの道」は明らかに同じ「民主主義の道」でも異なっている。それは労働者階級を中心とした反独占統一闘争に依拠しながら、社会主義へ向かって「漸次的な変革」を闘いとることでは共通のようでも、「反対計画」をめざして民主的議会政府を樹立し、「上から」反独占の措置を実現することを通じて社会主義への移行を追求する「道」と、実現可能な経済構造の改革を「下から」闘いとりつつ「上から」の議会革新と結合して社会主義への移行をめざす「道」との相異である。フランスでは民主的な議会政府の樹立を契機に新しい権力ブロックをつくり出そうとするのにくらべて、イタリアでは政府もしくは権力の樹立以前に前もって新しい権力ブロックの形成を準備する闘いを重視する。「宣言・声明」の「反独占民主改革」ということばで包括されようとも、これは二つの「道」であって単純に一つの「道」だと画一化することは適切でない。それは「ディミトロフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」のもつ相異でもある。したがってこの近似性と相異性を検討することは、先進国革命論にとって重要な議題である。

(後述)

(注)

(1)田口富久治『先進国革命論』「マルクス主義政治理論の基本問題」(青木書店)二八三〜二八四頁。

(2)フランス共産党第一九回大会中央委員会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一〇九頁。

(3)同前一二三頁。

(4)フランス共産党第一五回大会テーゼ「現代革命と反独占闘争」(合同出版)六三〜六六頁。

(5)イタリア共産党第一二回党大会報告「各国共産党・労働者党綱領集(1)」(大月書店)一九七頁。

(6)同前二〇三頁。

 

二.日本共産党の「道」

 

 それでは日本共産党の「道」はどうであろうか。それは何処を通って何処へ行く「道」なのか。私は『労研』一月号で、第一二回大会報告についてのメモを書いたし(「『人民的議会主義』は人民的か」)、その同じ号では遊上氏も書いている(『社会主義を恐れる日本共産党』)。しかし、前回ではふれなかった「民主連合政府」の性格について、フランスやイタリアと比較しながら、その特長を明らかにする必要がある。

 「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について」という報告の中で、上田耕一郎は、「日本における民主連合政府の性格は、社会主義への道をひらくことを目的とする政権ではなく、現憲法のもとで民主主義の実現をめざす政府です」(1)とのべている。不破の大会報告はそれをもっと「分かりやすく」次のようにのべている。

 「民主連合政府綱領についてのわが党の提案が示している諸措置は、資本主義的搾取を廃止する社会主義的措置ではなく、エネルギー産業の国有化を含めて、資本主義のワク内でも可能な民主的改良と改革の諸政策であります。もし日本の革新勢力が、いま歴史的に提起される反独占の諸政策の民主主的性格を見失って『反独占即社会主義』という立場をとったり、社会主義への過渡的措置としてこれを支持することを国民にもとめたりするならば、広範な独占資本の措置に反対する圧倒的多数の国民の民主的エネルギーを結集することができず、現実に資本主義のワク内でも可能な反独占民主主義的な改革の実現を遠ざける結果にしかならないことは明白であります。

 もちろん、民主連合政府のもとで実現される一連の民主的措置、たとえばエネルギー産業の国有化などが、将来日本が社会主義への道を踏み出したときに、それを助ける一定の積極的な要素となりうることは事実です。しかし、それは次の歴史的な段階で日本の国民が社会主義への道を選択したときにおきる結果であって、今日とられる民主的改革の諸措置を社会主義的性格のものとすることではりません。」(2)

 ここで不破が懸命に強調しているのは、民主連合政府が社会主義への過渡的ではないということである。彼は、「反独占民主主義→社会主義」を「反独占即社会主義」にすりかえながら、もし一言でも「社会主義」ということばを使えば、「国民の民主的エネルギーは結集することができない」という。それでは今日の闘いを通じて生まれている労働者と人民の要求である「反独占」をどこへ発展させようというのだろうか。「次の歴史的段階」で国民が投票でもして「社会主義を選択」するまではじっと我慢すべきだというのだろうか。あるいは、ロシア革命をはじめ今日までの社会主義革命は、すべて何時ある日、国民が「社会主義を選択」したから生まれたとでもいうのだろうか。ここには社会主義をめざして闘う労働者階級のヘゲモニーの思想もないし、具体的要求の中からその本質と志向をさぐり当て、引き出し、大衆自身のたたかいを通じてその発展を探求するマルクス主義的な追求の方法は拒否されている。

 その上、民主的改革が以下の社会主的性格のものではないかを「証明」するために、第二次大戦のフランスやイタリアを引き合いに出し、「統一戦線政府のもとで一定の産業や企業の国有化の措置」がとられたが、「その後、統一戦線政府の保守党政府への交代など一連の政治的経過をへて、これらの国有化部門は資本主義的国有化のワク内に現にとどまっている。」(3)といっている。周知のように、戦後フランス、イタリアにおける新しい変革への開始は、戦後樹立された統一選政府のもとで発展したが、残念ながら独占と反動の復活によって押しとどめられ革命は後退した。不破は、ブルジョアジーがかすめとった革命の「残がい」をとりあげて、資本主義のワク内で国有化が存在することを得々と「証明」している。「ミイラ取りがミイラになった」とはこのことか。

 民主連合政府の性格に関して、もう一つ見おとすことのできない点がある。それはこの政府と当面する革命との関係である。

 不破の「報告」によれば、

 「革命の戦略的展望と当面の課題との関連についていえば、わが党は、日本の国民が、資本主義か社会主義かという選択のまえに、まず独立と民主主義の達成という歴史的課題に直面しているという綱領的展望を持っているために、民主連合政府の諸政策と革命の戦略的展望のとの関係を民主主義的性格という共通のレベルでの接近としてとらえることができます。そのために、直接社会主義革命を展望している社会党とちがって、民主連合政府が実行する政策の提案においても、それだけ安定した内容が保障されているといえます。このこともまた、わが党の綱領路線の先駆的な意義のもう一つの証明であります。」(4)

また上田の「報告」によれば、

 「重要なことは、わが党の場合は、民主連合政府と民族民主統一戦線政府、さらに革命の政府との関係を、同じ民主主義的変革の課題のなかでの接近とみるために、政策的にも一貫性と安定性が保証されることです。ここからは力関係からくる考慮を別としても、政策的に性急な国有化や対中間層政策など、極左的政策を生む条件はもともときわめて少ないということができます。」(5)

 同じような文章を長々引用したのは、これほど民主連合政府の「戦略的展望」をはっきる示したものはないからである。日本共産党の綱領路線がどんなに「先駆的な意義」をもっているかはすでに多く批判されているからふれないにしても、ここでは国有化は「極左的」なものとしてしりぞかれ、「民主連合政府」―民族民主政府統一戦線政府―革命政府」の「民主主義」的一貫性と安定性がほこらしげに強調されている。日本共産党のいう「反定・反独占民主主義」がフランスやイタリアのように社会主義への移行形態でないとすれば、それは基本的な性格としてブルジョア民主主義とどこが異なるのであろうか。天皇の公布した憲法のワク内で、しかも社会主義への過渡的性質をもたない「民主主義」は、ブルジョア的「一貫性と安定性」で微動だにすまい。日本共産党の「道」とは、結局「民主主義への日本の道」である。

 こうした日本共産党の「道」に亡霊のようにとりついているのは、外ならぬ「三二テーゼ」であろう。戦前後の「ブルジョア民主主義革命論」の中で「天皇制」を今日の「アメリカ帝国主義」におきかえるだけでよい。一貫した「二段革命論」こそ日本共産党の悪しき歴史的伝統なのだ。もう一言いえば、「民主連合政府綱領」は、宮本の「二段革命論=旧人民戦線論」と上田・不破兄弟の「構革論」との野合であり、「二つの敵」論と議会主義の「雑すい」に外ならない。

(注)

(1)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(『前衛』一月号臨時増刊・大会特集)一七三頁。

(2)「日本共産党第一二回大会にたいする中央委員会報告」(前同)五〇―五一頁。

(3)前同五一頁。

(4)前同五一―五二頁。

(5)「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について(前同)一七四頁。

 

三.フランス「五月」とチリ革命

 

今まで見てきたような先進国共産党の革命論にたいして、新しい問題を提起したのが、六七年のフランス「五月」の闘いであり、また七三年秋のチリ反革命であった。この二つの事件は、いろいろな意味で対照的なものであった。フランスの「五月」はたしかにゴルツが指摘するように「その成果は、過去二十年来はじめて革命と社会主義への移行に関する問題が一先進資本主義国において提起されたことであり、しかもそれが、コミンテルン第七回大会以来、各国共産党の政策とイデオロギーを支配してきた図式とは無縁の要求と基準にもとづいて提起されたことである。」(1)これにくらべてチリの反革命は、国際共産主義運動によって高く評価されているチリ共産党を重要な中心の一つとする「人民連合」の輝かしい革命的成果を、アメリカ帝国主義と結託したチリ軍部反動派が暴力で破れん恥な圧殺を強行した事件であった。それは一方では合法的政府にたいする反革命クーデターであり、他方は資本と権力にたいする非合法の「反乱」であった。にもかかわらず、この二つの事件は、世界革命運動に大きな衝撃と教訓を与えたという点では共通である。

まずチリの革命と反革命について見よう。

われわれはまず反革命集団とその黒幕であるアメリカ帝国主義にたいして断固たる抗議をおこなっただけでなく、今後も抗議しつづける必要があるし、また同時に、合法的あるいは非合法的に革命の継続と発展のために闘いつづけているチリの同志たちに、心からの連帯と、できるかぎりの何かをすることによって、その連帯を表明しなければならない。しかしそのことは、チリ革命についての率直な検討と分析を少しも妨げるものでもないし、また妨げるものであってはならない。

チリの革命と反革命を検討するに当たって、共産主義者ならけっしておちいってはならない二つの立場がある。その一つは、政府を奪るのが早すぎたという批判であり、他の一つは、極左勢力が妨害したからだという立場である。この二つの立場は、何れも失敗と敗北を他に帰する無責任さで共通している。ところが日本共産党は、この二つの立場に立っている。チリ反革命にたいする日本共産党の三つの立場の内、民主連合政府は人民連合政府とちがって、議会内多数派によって形成されるから、チリのような懸念はないという主張は、とりもなおさずチリでは政権をとるのが早すぎたということにもなる。もう一つの立場は、「極左的」MIRにたいする非難である。三つめの主張は、日本ではチリのように社会主義をすぐめざしていないから大丈夫だという彼の「有名な」論拠である。

チリ革命については、すでに『労研』一月号で植村邦と佐久間弘が歴史的な経過をあとづけながらくわしくのべられているので、多くつけ加える必要はない。ただ両氏のふれていないことで、私にはむしろ最も重要だと思われる点があるので、そのことについてだけのべておきたい。その一つは、チリ共産党の選択がまず「平和への道」から始まっているということである。チリ共産党のコンバラン書記長は、ソ連共産党弟二〇回大会の報告を引用しつつ、「『平和的な道』に関するテーゼは戦術の定式化というよりも国際共産主義運動の綱領的提起である。」(2)として、

「平和的な道は、単なる選挙の道ではなく、またそうでなければならない必然性もない。なによりもわが国における平和的な道は、選挙をとおしてではなく、その他の方法、行動の形態、時期を利用して一定の瞬間に革命への道をきりひらこうという大衆闘争の道である。」(3)

と規定し、「平和的な道を合法的もしくは合憲的路線と同一視している人々がいるが、それは完全に誤りである。」(4)ともいっている。しかし、マルクス主義の歴史的な経験は、少数派による「強力の道」から多数派形成による「民主主義的=合法的な道」へとその探求をつづけながら、今まさにそのことの成否が改めて問われようとしているのだ。そうしていわゆる「民主主義的道」は「合憲的、議会主義的な道」として、転ぷくをねらう反動派を「合法的権力にたいする反徒」(マルクス)にするという意味で平和的な移行の可能性をもっているが、それを固定化することはまちがいだと主張されてきた。つまりこの立場でも選択は多数派形成のための『民主主義的な道』から始まって「平和的」か否かは第二次的な追求の課題であった。ところがコルバラン書記長の主張はまず「平和への道」から始まって次に合憲的、合法的か否かの問題が提起されている。ここでは選択が逆立ちしているのではあるまいか。そのためかどうかは別としても、「党は軍隊が帝国主義と支配階級の徒順なたんなる附属物だとは考えていないし、また人民の武装した庇護者であるとも考えていない。」(5)と、政府樹立以前から軍にたいする中間的評価が目立っている。チリの歴史的状況とチリ軍部のおかれている特殊な条件をわれわれはくわしく知るよしもないが、軍隊としての基本的な階級的性格は一貫しているのではあるまいか。

もう一つの点は、「合憲的」な政府の限界についてである。佐久間氏も指摘するように、人民連合の中軸である社共の間に戦略およびMIRに関する態度などで重大な政治的不統一があり、政策をめぐって両党書記長が往復書簡で論争したこともある(政府樹立後はじめての総選挙の1ヶ月前)。この中でゴルバラン書記長は、反動が政府の責任にしようとしている経済的困難をきり抜けるために、「農業生産を実質的に増大させ」、「工業生産および社会的部門に属する企業の収益性をふやす」ことをとくに強調し、「これらの分野で成功をおさめることができるならば、われわれが力関係を根本的にあらため、権力の全面的な獲得をめざして前進することのできる基本的な道がひらける。」(6)と断言している。しかし、当時、政府は合法的な手続きで手に入れたものの、議会では少数派であり、ブルジョアジーと反動派の抵抗で国有化は思うように進展せず、革命は停滞していた。こうした時期に、大資本が経済を支配し、基本的にはブルジョア権力が維持されている状態のもとでの「権力の全面的な獲得」に接近することになるのか、私にはよく分からない。その答えとして考えられるのは唯一つ、「もっとも革命的なことは、人民政府の成功のために闘うことである。」(一九七〇年十一月コンバラン書記長)ということでしかるまい。しかし、もしそうだとすれば――事実そうであった――これは重要な問題を含んでいるように思われる。それは、「人民政府」がまだ人民の権力ではなく、ブルジョア国家のワク内であるにもかかわらず、この政府の維持が革命的変革の尺度となり、政府と人民との関係が、「良い政策」の実施をめぐる支持と被支持の関係にとどまりがちになるからである。それでは労働者階級を中心とした人民の闘いが、合憲的「人民政府」をテコにして権力への迫撃を展開しながら「権力の前面的な獲得をめざして前進する」ことが困難になるのではあるまいか。変革の尺度はどこまでも権力獲得に接近する「下から」の闘いにある。一般的には選挙による民主的政府の道――「上から」の道は、政府が樹立されるとしばしば攻撃よりも守勢に、前進よりも現状維持にかたむきやすく、結果として「権力」の問題を事実上「政府」の問題に矮小化するという宿命的弱点と限界をもっており、それをどう超えるかということこそ真の意味で革命の問題なのではあるまいか。

それと対照的な意味でフランスの「五月」は、先進国革命の一断面として重要な教訓を与えている。「五月」闘争は、ある種の政治的危機に近いものをつくり出したが、それはけっして革命的危機でもなかったし、またしたがって革命でもなかった。革命とは何よりも労働者階級をはじめとした人民大衆が、何がおき、何がつくり出されるかをあらかじめ知っているだけでなく、それを準備しなければならないからである。それは一週間や一ヶ月でかたがつくものではなくて、はるかに長期にわたるものであり、それはある種のカケではなくて、充分計算されたものでなければならない。しかし、「五月」の事実はそうではなかった。だからといっておくればせに行動に参加しながら、内実は「冒険主義者」の「極左」的行動にばかり気をつかい、この「反乱」を鎮静させるために努力し、最後にはCGTの賃金闘争に集約しようとしたフランス共産党にくみするわけにはいかない。いやそれどころか、フランス共産党こそこの闘いを経済闘争に終われせるか、あるいはドゴール体制を危機に追いこむことができるかの選択権をもっていたにもかかわらず、指導権が「極左分子」にあるという理由だけで、それを放棄したのだと非難されても仕方があるまい。

「五月」の記事の中で、こうした情況をよく象徴している一つの挿話がある。「五月一三日の夜、パリの街頭を大衆的に行進したあと、講堂の大聴衆の面前でグニエル・コーンペンディットが共産主義学生連盟の書記長TM・カタヲと対決した」時の状況である。問題は、その日のデモの後で共産党とCGTが、労働者が学生の討論に加わることを妨げて解散を命じたことにあった。

「カタヲはせせら笑った。『CGT,CFDT,UNEFその他主催団体間で結ばれた協定は、予定地点で解散することを決めていた。合同主催委はそれ以上の行動をみとめていなかった。』

『正直な答えだ』とコーンペンディットは答えた。『つまり緒組織は、まさか百万人も街頭に出るとはおもわなかったわけだ。だが生活は組織より大きい。百万人もの人間があれば、たいていどんなことでもできる。君は委員会があれ以上の行動をみとめなかったのだといった。革命の日には、同志、君はやはり、『主催団体が認めていないから、止めろというに違いない。』

大かっさいが起こった。」(7)

ここで重要なことは、コーンペンディットの思想の問題ではない。そうではなくて、ここでは事実が、「生活は組織より大きい」ということを証明しており、いつも指導される者が、今度は指導するのだということである。この闘いの過程で、下からつくり出された各種の「決定集会」と管理のための「委員会」は僅かの期間にせよ、ある種の創意にみちたヘゲモニーの形態をつくり出した。この「五月」は、けっしてあらかじめ準備されたものでもなく、また当初から労働者がイニシャチーブをもって闘いはじめたわけでもない。それは学生が工場に行き、一つの職場から次の職場へと労働者のサボとストが次第に大きくなり、最後に誰しも予想できなかったほど大きく、ひろく、深く発展した。それは誰かが――あるいは「極左」主義者が――あらかじめ意図したからではなかった。それはまったく自然発生的に発生し連鎖的に発展し、巨大なエネルギーを瞬時に爆発させた。それは意図的でなく、まったく自然発生的であったからこそ、あのように大きなウネリに発展したが、また同時に、自然発生的であったからこそ「革命」にはならなかったのだ。それはいつまた起こるか分からない先進国「心臓部」のけいれんの最初の徴候であり、今後どこで起きるかも知れない「反乱」の前ぶれでもある。しかし、それは自然発生的であるかぎり、またどこかの「五月」で終わるだろう。

先進国の革命にとって、何よりも重要なことは、自然発生的な「反乱」がいつでも、革命的な目的意識性と結合できる準備を誰がどのようにととのえるのかということである。「反乱」的危機と革命的危機、瞬時に爆発する下からのエネルギーと長朝にわたる革命的過程をどう結合し、組織するかということである。革命は――ロシア革命もそうであるように――あらかじめ計算されたボタンを押すようにしてはじまるものではない。しかし、一定の危機を革命的危機へ、革命的危機を権力の獲得へ、さらにその維持へと発展させ組織するためには、あらかじめその力が忍耐づよく蓄えられ、そのプログラムが綿密に計算されていなければならない。

現代先進国革命の最も重要なカナメは、この自然発生性と目的意識性の正確な結合であり、その結合の形態としての党の問題である。それはかつてのように「自然発生的」な大衆を指導する「目的意識的」な党でなければ、大衆の代わりに「革命」をおこなう「大衆的前衛党」でもない。労働者階級と人民大衆自身の革命的な表現としての党である。それはまず思想があるのではなく、闘いを通じて大衆の革命的機能となる行動の中で、その思想が問われる党である。その意味で、現代先進国革命の問題とは、また現代革命の党の問題でもある。(以下次号)

(注)

(1)アンドレ・ゴルツ「五月運動の限界と潜在力」(V・タン・モデルヌ特集・筑摩書房)五九頁。

(2)ルイス・コルバラン「平和的な道と強力の選択」一九七一年(国民文庫「チリ人民政府樹立への道」)三六頁。

(3)同前二五頁。

(4)ルイス・コルバラン「平和的な道について」一九七一年(同前)一四頁。

(5)ルイス・コルバラン「権力の獲得をめざす人民連合」一九六九年(同前)一一八頁。

(6)ルイス・コルバラン「社会党書記長への手紙」(世界政治資料第四〇三)三四頁。

(7)(「ソリダリティ・パンフレット」三〇号)武藤一羊「フランス五月の教訓」一二九―一三〇頁。

 


新しい革命と新しい党(3)   ―先進国革命論についてのノート―

松江 澄   労働運動研究 第56号 S4961

 

(三)人民戦線戦術と構造改革の戦略

一.人民戦術とグラムシ「陣地戦術」

 私は「ヨーロッパ革命と各国共産党」の中で、フランスとイタリアの「道」は「社会主義への民主主義の道」とはいえ、二つの異なった道であるといい、それは、「ディミトルフ=トレーズの道」と「グラムシ=トリアッチの道」の相違だとのべた。この相違をつきとめるためには、ロシア革命、三〇年代人民戦線とグラムシ「陣地戦」について、その相好の関係を明らかにすることが必要であるように思われる。何故ならば、今日でも、いわゆる構造改革の戦略を人民戦線戦術の発展がもたらしたものと見なしたり、また中には「陣地戦」をロシア革命の直接的な発展と捕らえる向きさえあるからである。

 不破哲三は、グラムシの「陣地戦」論について次のように主張している。

 「第一に、グラムシ」は、『陣地戦論』の概念を、革命的情勢に先だって革命を準備する闘争という意味で一貫して使用しており、しかもその準備の内容は、労働者階級と人民の多数者を獲得し、革命勢力を政治的、組織的に結集することにはっきりとむけられていた。

 グラムシが、レーニンの『統一戦線』戦術を、西ヨーロッパにおける『陣地戦論』の戦術として評価したのも、それがブルジョア的、社会民主主義的『ヘゲモニー装置』の指導力を弱め、労働者階級の多数を革命のがわに移行させることを志向していたからである。

 第二に、『陣地戦』を革命を準備する形態とみなしたグラムシは革命運動のすべてを『陣地戦』に解消して、権力獲得のための革命的攻撃(運動戦)も必要を否定するような立場は一歩もとらなかった。

・・・・・・情勢の推移におうじて、『運動戦』から『陣地戦』への、あるいはその逆の移行について論じている。(1)」

 不破によれば、「陣地戦」は革命を準備する闘争であって革命論ではなく、労働者階級の多数を獲得するという点では統一戦線戦術と異ならず、したがって「陣地戦」は「運動戦」とともに、ロシア革命がそうであったように、防御と攻撃の戦術にすぎないことになる。

 たしかにグラムシは、「イリイッチ(レーニン)が(一九)一七年に東方に適用して勝利した機動戦から西方でただ一つ可能であった陣地戦への転換が必要であったことを理解していたように見える」が、それは「『統一戦線』の定式が意味したことだろうと思われる」といっている。しかしグラムシは、この問題がすぐれて「国民的」なものであることを指摘しつつ、周知のように、「東方では国家がすべてであり、市民社会は初生的で、ゼラチン状であった。西方では国家と市民社会の間に適切な関係があり、国家が揺らぐとすぐに、市民社会の堅固な構造が姿を表わした。国家は前進塹壕にすぎず、その背後には要塞と砲台の堅固な連鎖があった。これは国家により大小があったが、まさにこのことが、国民的性格の正確な認識を必要としたのである。(2)」と述べている。したがってこのことに関してグラムシとレーニンを無条件に同一視することは正しくない。グラムシについては、イタリア共産党が指摘するように、西欧の革命にたいするかれらの考え方やそれがロシア革命とは本質的に異質なものであるとするかれの理解の仕方と密接に関連づけられないかぎり、グラムシの功績は完全に把握されたとはいえない(3)」ものである。また「陣地戦」についていえば、グルッピがいうように、「運動戦」の中に攻撃と防禦がるように「陣地戦」の中にも防禦と攻撃がある(4)。

 このことに関してグラムシ自身も次のようにのべている。

  「以前機動戦をとっていたように、その後陣地をとっている軍事技術者でさえ、前者の型が科学から排除されたと考えるべきだとは、もちろん主張しない。そうではなく、工業的にも文化的にも最も進んだ国家間の戦争では、機動戦の型は、戦略的機能よりもむしろ戦術的機能にひき下げられて考えるべきであり、以前に、機動戦に対比して包囲戦が置かれ手いたのと同じ位置において考えるべきだと、主張している。

 同じような引き下げは、少なくとも『市民社会』がきわめて複雑で、直接の経済的要素の破局的な『侵入』(恐慌、不況等々)に抵抗する構造となっている最も進んだ国家にかんするかぎり、政治牛術や政治の科学でおこなわれなければならない。市民社会の上部構造は、現代戦における塹壕体系のようなものである。法兵隊の激しい砲撃が、敵の防衛体系全体を破壊しつくしたようにみえたが、実はその外面部を破壊したにすぎず、攻撃と前進の瞬間にあたり、攻撃部隊はまだ有力な防衛線にぶつかる、というのと同じように、深刻な経済恐慌中にも同様のことが生ずる(5)。」

 さらに、グラムシは、「現代においては、一九一七年の三月から一九二一年三月まで政治的運動戦がおこなわれ、これに陣地戦がつづいている。」ということによって、「新経済政策」以降、世界的な包囲の中での後進的ロシア社会の社会主義的改造を「陣地戦」と想定している。

 つまりグラムシは「陣地戦」を、もちろん革命的ほう起を準備する闘いとしてだけでなく、また権力奪取の戦術としてだけでもなく、権力獲得後残った敵をせん滅して社会主義革命を達成する全過程の問題としても提起している。そうして得にレーニンがあらかじめ指摘したように、「創めることの困難な」発達した資本主義国の、社会経済構造の型(タイプ)に対応した革命論の型(タイプ)の問題として語っている。それはまた一八五〇年以降マルクス・エンゲレスが探求しはじめたものでもあった。((一)の三)したがって「肝要なことは、陣地戦における防衛体系に照応する市民社会の諸要素とは何であるかを『深く』研究することである。」そうしてここに、レーニンが「理論的」には深めながらも、実際的な探求の面で限界があった理由がある。それは「時間がなかった」ばかりではなく、市民社会の諸要素の研究は、その中で闘うその国の党によってこそ最も正確に分析することができるからである。

 それでは統一戦線戦術はどのようにして成立し、発展させられ、どういう状況のもとで何を目的として追求されたかのか。

 コミンテルン第三回大会では、レーニンの指導のもとに統一戦線戦術の目的と意義を規定し、また労働者階級の行動の統一を達成する方針を決定した。「統一戦線戦術の目的と趣旨は、資本に反対する闘争を共同で遂行しょうという提案を、第二インタナショナルや第二半インタナショナルの指導者にさえ繰りかえし申し入れることをためらわずに、そういう闘争にますます広範な労働者大衆を引きいれることにある」と、レーニンは書いた(6)。それは資本にたいする「共同の防衛戦」であった。レーニンはそのためにくりかえし小ブルジョア急進主義、セクト主義と闘ったが、それは、「共産主義における『左翼』小児病」によってよく知られているところである。結局レーニン的なプロレタリア統一戦線戦術の本質はどこにあったのか。それは「緊急な、大衆にとって身近な実践的問題のための闘争の過程で労働者の行動の統一をつくりだし、改良主義者の影響下にある者をふくめて、労働者階級の種種さまざまな部隊を運動に引き入れ、この闘争の過程でプロレタリアートを革命的精神で教育し、彼らに根本的な任務―ブルジョアジ制度の打倒、プロレタリアートの独裁の樹立、および社会主義の建設―を実現するための縦鼻をさせることにあった。(7)」

 この戦術は、第四回大会ではさらに発展させられ、「労働者政府」を設立する可能性の問題として検討され、また決定した。インタナショナルは、「このスローガンを、ブルジョア権力とたたかい、最後に葉それを打倒するための、経済および政治の分野における全労働者の統一戦線、すべての労働者党の連合とみなした。」しかし当時の情勢と力関係のもとでは宣伝スローガンの域を出ず、一般的には、統一戦線戦術の追求とは別に、権力問題としては「ソビエト政府」の目標が併行的にとられていた。

 しかし、一九三〇年代に入り、二九年世界恐慌が世界資本主義にもたらした深刻な打撃は全般的危機をきわだって激化させ、帝国主義的反動の一層の強化と攻撃、民主主義の抹殺をねらうファシズムの発展は共産主義インタナショナルに新しい戦術の採用を要求した。そのため必要であったのは、レーニンの指導と教訓を歪曲して、社会民主主義を主要打撃の対象とするスターリンの「社会ファシズム論」を克服し、戦術を転換することであった。それはまずファシズムの攻撃でさし迫ったフランス共産党によって着手された。人民戦線結成のための綱領は一九三四年十月二十四日ナントにおける集会で、モーリス・トレーズによって発表された。フランス共産党のこの決定は、コミンテルンの一部の活動家たちの見解の発展を先まわったものであり、とくにスターリンが承認をしぶったことは今日すでにあきらかにされている(8)。

 コミンテルン第七回大会は周知のようにディミトルフ報告を承認して、プロレタリアートの指導のもとで広範な人民層を民主主義防衛のために動員する反ファッシズム人民戦線への結集をうったえたが、これは明らかに統一戦線戦術の新たな発展であった。とくにその中で主張されている「統一戦線政府」は、「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態」(レーニン)として、「おそらく統一戦線政府は、一連の国でもっとも重要な移行形態の一つとなるだろう」としてきされた。これは、直ちにプロレタリアートの独裁形態ではないが、だからといって単にブルジョア民主主義の政府でもない。そこには、すでに先進国における民主主義闘争と社会主義闘争との新しい関係についての積極的な探求の萌芽が含まれていた。

 この闘いは、「後進的」なスペインのように、民主主義の防衛と確立が直接その国の社会経済構造の変革をうながさざるを得ない国にあっては、闘いの鉄火の中で新しい民主主義革命へと発展した。民主主義の防衛は民主主義をはばむ極反動派への革命的攻撃となり、外国の干渉から祖国を守る闘いは同時に古い支配者を打倒する闘いとなり、戦争は革命であった。こうしてスペイン人民戦線政府は革命の政府に転化し、新しい人民権力=スペイン人民共和国が樹立された。しかし「先進的」なフランスにおいては、単にブルームの優柔不断のためばかりでなく、政府樹立後一年にして経済的困難とスペイン不干渉政策によって瓦解した。その「歴史的限界」はたしかにマグリが指摘するように、「階級闘争の防衛段階から攻撃段階への移行に十分成功的にとりくむことをさまたげた限界、きわめて図式的にいえば、民主主義段階と社会主義段階との、中間諸目標と革命的飛躍との区別がなお不確定であったという点に集約できると思われる限界であった。(9)」それは組織的にはプロレタリア統一戦線と反ファシズム人民戦線との関係についての不明確さでもあったといえよう。しかしそこにはもう一つ、そうしてもっと客間的な限界がったのではあるまいか。

 第七回大会は、ファシズムを「金融資本のもっとも反動的、もっとも排外主義的、もっとも帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁(10)」と規定した。それはファシズムの本質的な一面をするどく指摘しながら、なおファシズムの本質を全面的に分析する点ではある種の限界をもっていた。それはファシズムが発生し、発展し、支配的な力をもつ過程で見のがすことのできない大衆運動としての性格、とくにその反動的、前近代的な性格であり、またその小ブルジョア的、熱狂的な性格である。そうしてこれは単に過程だけの問題ではなかった。それは資本の一定の反動部分によって予防反革命として激励、援助されたばかりでなく、金融資本の支配を維持するための道具に転化したが、この大衆的な運動が経済恐慌の重圧とプロレタリア革命への接近に恐怖し動揺した小ブルジョアの反動的な側面であることを抜きにしてはとらえることができないものであった。それは金融資本の直裁な独裁形態であると単純化するには余りにも多くの複雑な社会的諸要素を内包していた。

 もし、ファシズムが文字どおり金融資本のテロ独裁であったとすればファシズムの打倒はそのまま必然的に防衛から攻撃に転ずる人民の闘いで金融資本の打倒へと向かわなければならなかったであろう。しかし歴史はそうではなかったことを証明した。結局反ファシズム人民戦線は、攻撃よりも防衛に、大資本にたいする闘いであるよりもファシスト反動に、一国の変革よりも国際的な任務に(社会主義ソ連にたいするファシズムの攻撃を食い止める闘い)その最も重要な集中が向けられた。そうしてそれは決して「革命的」見地から批難されるべきものではなく、その反対に最も高く評価されるべきものであった。何故ならば、世界の社会的進歩は、まずファシズムの打倒なしにはあり得なかったからである。反ファシズム闘争が革命闘争に、人民戦線政府が革命政府に発展転化できなかったのは、マグリが「図式的」にいうようにではなく、正に文字どおり歴史のもつ限界であった。

 それはトリアッティが指摘するように、理論的には、「新しい型の民主主義という概念」の誕生を告げ、「もはやたんに戦術であるだけでなく戦略的なもの」ともなり、「レーニンの予見できなかった新しい情勢に、レーニンの展開し論述した革命的政策の原則が、広い視野と大胆な企画、みとおしをもって適用された(11)」としても、それが「防衛段階」から攻撃段階」へ移るためには単に一国の客観的条件からではなく、ひきつづいておこった世界的な構造の変化と、特別に創造された組織戦術、闘いによって豊かな経験と大衆的力量をもった党の目的意識的な探求を必要とした。この新しい戦略が、ただ「理論」としてだけでなく、「現実」のものとなるためには第二次大戦も戦中の闘いをまたなければならなかった。

 結局統一戦線戦術はあるいは人民戦線戦術は、いくつかの先進的な諸国だけを対象としてではなく、全世界の共産主義者に要請された基本的なあるいは緊急な歴史的な任務であり、労働者の生活あるいは平和と民主主義を共同防衛するための多数者獲得の戦術であった。それは発達した資本主義国では新たな戦略の萌芽を含んでいたとしても、どこまでも一定の情勢に対応した国際的な戦術であり、異なる社会経済の構造に対応する国民的な革命論としての「陣地戦」とは本来別なものであった。(この点で、「統一戦線」を革命的危機の相対的緩和という「国際的状況変化の分析」にあたるものだとするピオットの理解には賛成しがたい。(12))したがってこの両者を単純な発展関係とみたり、またあれか、これかと二者択一的にとらえることは適当でないばかりか、まちがってさえいる。それはそれぞれの歴史的、実践的な追求の中でのみ豊かな相互関係をもつことになるだろう。イタリアの闘いはその一つである。

(1)不破哲三「現代修正主義とグラムシの理論」マルク主義と現代修正主義(大月書店)一五四〜一五六頁

(2)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九五頁

 

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四九頁

(4)グルッピ「マルクス主義国家論」(下)(現代の理論社)二〇一頁

(5)グラムシ「政治闘争と軍事闘争」(「ヘゲモニーと党」現代の理論社)九三頁

(6)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六頁

(7)マルクス・レーニン研究所(ソ連)(上)「コミンテルンの歴史」(大月書店)一二六〜一二七頁

(8)レイプソン・シニーリヤ「現代革命の理論」(合同出版社)

(9)マグリ「人民戦線の経験の価値と限界」(「先進国革命論」現代の理論社)六頁

(10)ディミトルフ「反ファシズム人民戦線」(国民文庫)一四頁

(11)トリアッティ「共産主義インタナショナルの歴史にかんするいくつかの問題」(「コミンテルン史論」青木文庫)一五八〜一六〇頁

(12)ピオット「グラムシ野政治思想」(河出書房新社)一五五頁

 

 

二、イタリアの構造改革闘争

 

イタリア共産党の今日の闘いは、直接的には少なくとも四〇年代半ファシズム国民解放闘争からひきつがれている。当時の反ファシズム統一戦線は右派と左派に分かれていたが、イタリア共産党はその統一戦線組織である「国民解放委員会」を同数の反ファシズム政党代表で構成することによって全体の統一を保ちつつ、実際的には大衆と結合した各種戦線の代表を参加させることによってこれを単なる政党連合からさまざまな政治的社会的勢力の統一体に発展させた。「すなわち国民解放委員会は直接民主主義の組織にならなければならなかった。(1)」また党は単に「ファシズム以前の民主主義の再建をめざして闘ったのではなく、ファシズムの社会的原因(独占、大地主)を除去できる『新しい民主主義』、独占と大地主を打倒し、共産主義者にとっては当然、社会主義への方向へ向かってみ民主主義がたえず発展していける道筋を切り開くことのできる改革をつうじて、社会的、経済的基盤を根本的に変革した社会を建設して、労働者を徐々に国家の指導部へ参加させていくことのできる、そうした『民主主義』をめざしてたたかっていた。(2)」このような闘いを内容とする解放闘争によってはじめてイタリアの労働者階級は主体的にイタリアの国民的革命的階級として登場し、その結果が戦後の共和国、憲法、民主主義をつくり出したのであった。それは反ファシズム人民戦線の発展的な追求であるとともに、すでに早くグラムシの理論にもとづいた新しい変革の闘いでもあった。

「労働者階級にとっての課題は、したがって、ロシアの場合のように、正面攻撃一本槍ではなく、ブルジョアジーの権力がよって立つ、広範な肢体全体を消耗させる作戦をつうじて、ブルジョアジー打倒のたたかいをおこなうことである。

この作戦はブルジョアジーの同盟体制を打破して、社会的にブルジョアジーに従属している同盟者をブルジョアジーから奪い、労働者階級は支配権を握る勢力ブロックを多数派とする作戦である。(3)」

こうした闘いが「社会主義へのイタリアの道」として定式化されたのが第八回大会(一九五六年)で採択された「綱領的宣言」であり、「第八回大会テーゼ」であった。

そこでわれわれは、イタリアにおけるその後の諸闘争の特長を検討する前に、「イタリアの道」を裏づけるその理論的な根拠をもっと明らかにする必要がある。それを最もよく表しているのはイタリア共産党の次の主張である。

「社会主義へ発展する過程は斬進性の性格をもつという、共産主義者の考え方に固有の概念である。ここでいう斬進性とは、そのような発展は現実の経済的、社会的、政治的均衡がつぎつぎに破壊され(国家権力の内部そのものに存在するものが、その階級的性格を変えるまで)新しい均衡が確立されながら段階的におこなわれるであろうということを意味している。」

といいつつ、トリアッティを引用して次のようにのべている。

「『われわれは、段階的発展の概念を導入しており、そうした発展にあっては、正確にいつ、質的変化が生じたかを指摘することは相当に困難である』(トリアッティ)、この『いつ』が、階級闘争の発展と結果、および社会主義的解決のために奮闘する諸々の階級闘争のなかで一定の時点で獲得する優位性に関連した諸要因のきわめて複雑な集積に依存していることは疑う余地もないことである。(4)」

ここで重複をいとわず引用する必要があるのは、グルッピが「機動戦と陣地戦のグラムシ的な区別――彼はこのことを知らなかった――にちかづいており、ここに『社会主義へのイタリアの道』の理論の萌芽を摘出することができる」といっているエウジエニオ・クリェル(「進歩的民主主義を目指す共産主義者の闘争」一九四五年)の次の指摘である。

 「経験によれば、社会的進歩の重要な諸段階は、ある国では深刻な断絶を通して現れるが、またほかの国では、時間に希薄な、ときおり人に気づかれず、正確には限定されえない断絶あるいは質的変化を通して現われる(フランスやその他の国々におけるブルジョア革命、ローマ帝国における奴隷制革命)ものである以上、つねにソ連で起こった断絶の形態を参照することは歴史的に誤った基準である。・・・・・断絶がわれわれにとっていっそう有利な条件で、したがって断絶が労働者階級および全国民にとってできるかぎり犠牲の少ない仕方で起るように闘うことである。(5)」

こうした一連の論拠は、グラムシ、トリアッティ、クリェルを通じて一貫したものであり、今日「社会主義へのイタリアの道」を際立たせている特有の理論的根拠である。それはグルッピの指摘をまつまでもなく、急激な断絶=運動戦、斬進的で緩慢な断絶(段階的発展)=陣地戦という把握であり、その前提となるのはイタリアの国家、社会の現状分析とその根拠ともいうべきグラムシ国家論である。それは、国家を一連の武装装置だけに限定せず、発達した国における政治社会と市民社会の分節化と相互関係を区別と統一の視点からとらえ、構造(土台)と上部構造の弁証法的な関係を、一定のヘゲモニーによってひきいられる「歴史的ブロック」と規定することから出発いる。重要なことは、それが一般的な理論であるばかりでなく、特殊イタリアの具体的歴史的事実の分析から生まれているという点である。それはレーニンがその基礎を確立したマルクス主義国家・革命論の事実にもとづいた発展的修正であるとともに、マルクス・エンゲルスの「市民社会」論、「国民的革命」論の発展的追求でもあるということである。

イタリア共産党のこうした論拠は、まず「理論」があって次いで「闘争」があるというものでもない。それは反ファシズム闘争と国民解放戦線の血みどろな闘いを通しての認識であり定式化であった。とくに日本と比べてイタリアにおける今日の闘いの特長――「社会主義へのイタリアの道」を可能にさせる現実的条件――は次の諸点にあると思われる。

その第一は、今日の闘いのすべては四〇年代からはじまる一貫した実践によって裏付けられているということである。「直接民主主義」あるいは「労働者による生産管理」ということも、決して単なる概念としてでなく、みずからの死と国家の運命をかけた反ファッシズムの闘いの事実から生まれたものであり、ファシストと結んだ資本への抵抗闘争の中からつくり出されたものであることを念頭におかないわけにはゆかない。

その第二は、こうした闘いの決実としての共和国憲法である。それは「労働に基礎を置く民主的共和国」(第一条(6))として、「国の政治的、経済的および社会的組織へのすべての労働者の実効的参加を妨げる経済的および社会的な障害をのぞくこと」をその「任務」とし(第三条)、「最も広い行政的分権を行い、その立法の原理と方法とを自治と分権の要請に適合させる」(第五条)ことを「基本原理」としている。それはまた特定の独占企業を「国、公共団体または労働者もしくは利用権者の団体に、原始的に保留し、または公用徴収により、補償の下に、これを譲り渡すことができ」(第四三条)、「法律の定める態様および限界において、労働者が企業の管理に協力する権利を承認」(第四六条)している。

もちろん「共和国憲法」は決して社会主義的なものではないが、また従来のブルジョア議会制でもない。

「憲法と社会主義のあいだには質的な飛躍がある」が、「この飛躍が憲法に逆って準備されるのではなく、憲法のなかで、憲法によって準備することができるという事実に、歴史的な、根本的に新しい点がある。(7)」それは闘いの過程によって刻印されたものである。しかし、こうした憲法の実施に反動や大ブルジョアジーが熱心であるはずがない。例えば、「州」は日本以上に中央集権的な色の濃い市町村自治体とは異なって、「憲法の定める原理にしたがい、固有の権力と機能とを有する自治体」(第一一五条)として規定され、「財政上の自治権を有する」(第一一九条)ものとされている。しかし、全国で一九州設定されながら、つい先年まで条件つきにせよ実施されていたのは僅か五州で、残りの一四州は「政府監督官」によって中央集権的な州行政が行なわれていた。(七〇年六月の選挙で実施された。)こうした条件の情況のもとで憲法の完全実施を要求して闘うことは、日本のようにただ反動化への歯止めであるばかりでなく、進んだ新しい変革への端緒を合法的に準備する上で積極的な役割を果たすことになる。

第三に、労働者階級と労働組合による国民的な闘いの発展である。それは一九五〇年、労働総同盟による「労働計画」の提案から始まった。

最近では、六七年の三総同盟によるゼネストを出発点とする年金闘争、六八年から六九年へかけての「暑い秋」の中で闘われた住宅闘争、およびひきつづく一連の経済政策をめぐる闘いなど、労働者の生活改善と経済構造の革新とを結合し、政治生活への労働者の参加をめざす統一闘争として一貫してとりくまれてきた。それは日本における「国民春闘」と同日に論ぜられるものではない。

 こうした特長をもつイタリアの構造改革の闘争がめざしている目標は、南部における土地改革と、すでに全産業の三〇%を占めている公共部門の拡大による国有化の民主主義的な前進におかれている。この闘いでとくに注目すべき点の一つは南部問題である。イタリアにおける北部と南部の相違は異なるほど大きいとはかつて安保闘争で来日したウニタの記者にきいたことであるが、事実われわれの想像を超えたものがある。したがってイタリアの構造改革の戦略は「リソルジメント」以来の国民統一、進んだ北部とおくれた南部の経済的社会的な統合というイタリアに特有な条件を捨象しては考えられないということである。それは一般的な戦略であるとともに特殊イタリア的な戦略でもある。もう一つの注目すべき問題はカトリックとの協力と連合であり、これもわれわれの経験を超えている。イタリア社会におけるカトリックの影響と力――そうしておそらくヨーロッパ社会におけるキリスト教の影響と力――を無視することは、おそらく革命を放棄することにさえなるだろう。反ファシズム闘争からひきつづいたカトリックとの連合と協力は新しい「権力ブロック」を形成する上で最も重要な――見方によれば社共協定以上に重要な――カナメとなるものであろう。それは、人民戦線政府が革命政府に発展した経験をもつスペインでも変わりはない。

スペイン共産党のカリリヨ書記長は、「人民政府」の敗北の教訓として、「ファシストのほう起にたいして、かれらに欠けていた大衆的基盤をあたえたのは教会であった」と、次のようにのべている。

「おそらくわれわれ自身も、教会の立場が、大衆をつかんでいるという意味から――して兵士の熱狂的信念をつかんでいるという意味から、反乱軍にとってどれほど意義をもっていたかということを当時ははっきりと理解していなかったのである。教会の立場は、われわれの事業の人民的性格と、人民全体が共和国の側についているという考えとを混同させる傾向をうながしたのである。われわれに対立して孤立しているのは、軍隊の幹部と、外国の干渉によって支持された週数の特権階級だという考えであった。なるほどわれわれの事業は人民の事業であった。けれども、この人民の少なくない部分が、そのようにはこのことを理解していなかったのである。・・・・・・当時、進歩勢力の勝利を挫折させたのは、革命的大衆とカトリック大衆およびカトリック制度の対立であった。(8)」

スペインでは今日、カトリックとの同盟――それは同時に広範な農民との同盟を意味している――は進歩的ブロックの重要な要因となっている。そうしてカリリヨは、「このような理由だけではなく、あらゆる政治情勢からみても、また最近の社会的、経済的構造の発展から見ても、『人民戦線』の復活という思想は今日では時代錯誤となるであろう」と指摘し、新しい「政治形態」は、「『人民戦線』の経験を考慮し、その経験を学びながらも、それとはちがったものとなるであろう。(9)」といっている。

結局、イタリアにおける構造改革闘争――スペインもそれを重要な教訓としているように思われる――とは決して単なる「理論」ではなく、長い歴史的闘争の過程の総体であり、したがって今後ひきつづく将来への闘いの展望でもある。そこには南部問題、カトリック問題等を生々しく含む「理論」がある。構造改革の戦略をもっと実践的に追求している国が何れも国内に工業的に進んだ部分と非常におくれた農民的な部分をもっているという事実は、ただそれだけの理由でこの戦略に一定の地域的な限界を与えるものとはならないであろう。それ以上に重要なことは、グラムシによって発展させられたマルクス・エンゲルスとレーニンの先進国革命論が具体化される過程で起きてくる諸問題――たとえば憲法と構造改革闘争との関係、議会革新の闘いと直接民主主義をめざす闘争との関係など――の究明である。しかし最も重要な点は部分的、段階的、斬進的な闘いとその発展が、今日の情勢のもとで総体的全過程の質的飛躍をどのようにもたらすことができるかということであろう。たしかに、しばしば引用されるように、「一つ一つをとれば、どのような民主主義も社会主義をもたらすものではない。だが、実生活では民主主義は、けっして『一つ一つとられる』ものではなく、他のものと『いっしょにとられる。』それは経済にたいしてもその影響をおよぼし、経済の改革を促すとともに、経済的発展の影響をうける、等々。これが生きた歴史の弁証法である。(10)」(レーニン)

しかし今日では先進諸国の賢明な支配者たちは、民主主義を圧迫し、もぎとることだけを覚えていた彼等の先輩たちと違って「いっしょにとられる」ことを警戒して上から一つ一つ「民主主義」を分け与えさえする。したがって今日では自然に「いっしょにとられる」ことはない。それは意識的な追求によって「下から」もぎとる闘いの戦線を広げ固めることなしには「いっしょにとる」ことはできない。「生きた歴史の弁証法」は時代とともに発展変化する。

(1)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(2)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)四七頁。

(3)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五〇頁。

(4)イタリア共産党「イタリア共産党史の基本的諸要因」(世界政治資料No.三七三号)五二頁。

(5)グルッピ「マルクス主義国家論」二八七頁

(6)「イタリアの共和国憲法」(「世界憲法集」岩波文庫)以下同。

(7)グルッピ「マルクス主義国家論」三〇三頁

(8)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社)二四五〜二四六頁)。

(9)カリリヨ「スペイン人民戦線の今日的教訓」(「スペイン人民戦線史」新日本出版社))二四八頁)。

(10)レーニン「国家と革命」(全集二五巻)二八九頁)。

 

三、「日本型構革論」の克服のために

 

中村丈夫、藻谷小一郎両氏は、「「日本型構革論」の痛烈な批判と評価をされた「『構造改革』の構造改革論」(一九六六年)で、次のようにのべている。「『日本型構造改革』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる。(1)」と。勝部元氏もまた「構造改良」(先進国における社会主義への道)の中でこれに肯定的賛意を表している(2)。しかし、それは日本的な構革論の欠陥を正しく指摘しているであろうか。

この論文はまず主体的実践的なかかわりとの関連で批判が展開されている。そこでは戦後の歴史的な諸闘争と日本の現状の中で、それに対応すべき革新の状況を分析し、とくに日本共産党の党内闘争を源流とするいわゆる「構造改革派」の発生と分裂の過程と現状とを批判した上で、「日本型構革論」は、「日本共産主義運動の政治的、思想的混乱の中での一種の崩壊現象として発生した」と断定している。「崩壊現象」であるかどうかは評価の問題であるとしても、この中でも、また「構造改良」(勝部元)でも指摘されている「社会主義革新運動」の発生と成立の基盤がいわゆる「構造改革論」でなかったことだけは、最初からその創立に参加した一人として断言することができる。むしろ影響あつたとすればその後であり、しかも「構造改革論」については賛否それぞれあってついに意見の一致を見ることなかった。

中村氏等は、「日本型構革論」の理論的特長の「要点は、構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間点とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。」と指摘し、結局、「『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見的修正主義であることは、いまや明らかであろう」という。ここには、中村氏等が描いている「民主主義・社会主義革命」の構想があり、それと照らし合わせての批判が展開され「断罪」されている。

それでは一体、「日本型構革論」とは何であったのか。中村氏等が批判しているその「理論的内容、理論構造」の問題点については全く賛成であるが、今ここで詳しくその批判を紹介する余裕はない。しかし「日本型構革論」の特長は、当時普及された解説書である「構造改革とはどういうものか」(石堂清倫・佐藤昇編)の中で端的に示されている。それは、「国家独占資本主義が生産力の発展に見合う生産関係の社会化の形態であるとすれば、政治的民主主義はその上部構造におけるあらわれであって、いあわば“権力の社会化”ともいうことができる」という分析の上にたって、「経済の面での構造改革の内容は、一言でいえば独占の経済政策を転換させ、独占資本主義の経済構造――生産関係を部分的に変革すること」であり、政治の面では、「広範な大衆が権力過程に参与してくること」である、と(3)。当時から今日に至るまで、「構造改革論」については多くの文章が書かれ、またとくにその客観的必然性の根拠としての国家独占資本主義論については厳密な理論が展開されてきたが――それ自体は一定の限度内できわめて重要な理論的寄与でもある――これほど単刀直入にその特長を描いて見せたものはない。しかしそこにおいてこそ問題があるのだ。佐藤昇氏はさらに国家独占資本主義について、「国家が再生産過程に介入し、それを計画し、管理するという契機だけをとり出せば、そこに社会主義の一種の“陰画みたいなものができ上がっているともいえる。『逆社会主義』ですね」ともいい、また「構造改革論は、このように国家独占資本主義のもとで成立する『逆社会主義』と強力な大衆的民主主義運動の結合という方向に社会主義をてんぼうするという(4)」という。しかし、この「逆社会主義」というとらえ方の中に、中村氏等のいうように、「民主主義的介入一般を容易に強調」するばかりでなく、社会主義革命を社会・経済の全肢体を変質させる闘いとしてでなく、一定のキー・ポイントの切り換えととらえる決定的な誤ちである。そうしてその点でこそまさにグラムシ理論と正面から対立する。

長洲一二氏の場合は、構造改革の可能性と必然性は資本主義の基本矛盾にまで「深め」られる。「資本主義の発展は、資本の支配の強化という面と同時に、労働者にたいして資本の支配を制限しその内部に滲透することを可能にするような資本にとっての自己否定の契機をも発展させている。」そうして、「構造改革論はこの資本の自己矛盾を、変革のためのテコとして最大限に活用しようということにほかならないと思う(5)」と。長洲氏はさらに「ブルジョア民主主義の自己矛盾的二重性」についてマルクスとエンゲルスを引用しつつ次のように定式化する。「富の特権とブルジョア独裁の物質的根拠である資本主義的生産関係が、抽象的で形式的な万人の自由・平等を必要とする。・・・・・・・ところがこの自由・平等は、まさにその抽象性と形式性のゆえに、一般性と普遍性を獲得し、ブルジョア的という実質的制限を突破する潜在力をもっている。(6)」と。ここには「日本型構革論」のいっそう深い「哲学的」基礎がある。こうして「日本型構革論」の根拠は次第にさかのぼって「弁証法」一般に解消される。それはいつの場合でも実践の媒介を抜きにして、世界にまれなほど緻密でスコラ的な論議に身をやつす日本マルクス主義研究の特長的な典型の一つでもある。それはグラムシの概念を借り、イタリアの闘いを引用したとしても、しょせんそれとは異質なものである。それは中村氏がいうように「主体形成の論理ときりはなし」たからでもなく、また「民主主義・社会主義革命の構成要素」としてとらえなかったからでもなく、その「論理」自身が革命闘争を指導する「理論」でなかったからこそ没落した。それは「窮乏革命論」との対比の上で魅力あるイメージとはなっても、ついに「大衆をとらえる」ことはできず、したがって「物質的な力」には転化できなかったのだ。

ここで是非とも必要なことは、「日本型構革論」がいわゆる「反独占民主改革闘争」と二重写しになっていることを明らかにすることである。現に「構造改革派」と目されていた「社会主義革新運動」の最初の綱領案ともいうべき「『社会主義への日本の道』についての要綱」が提起していたのもそうであった。

「今日、日本の労働者階級の社会主義をめざす闘争は、平和のための闘争と中立による民族の完全独立のための闘争、ならびに反独占民主主義改革のための闘争を通じて前進する。この過程で労働者階級は、広範な人民層をその周囲に結集し、統一戦線を確立し、平和と民主主義の政府を樹立して民主主義を徹底するなかで国家権力そのものの労働者階級への移行を実現する。・・・・・この民主主義的革新の闘いは、一方では政府の政策変更、独占体の制約、これにたいする監視と統制を要求する闘争、労働者階級の生産点での管理闘争を基礎に社会、経済、政治諸制度の民主的改革をもとめる闘争とならざるを得ない。(7)」

この「要綱」の中には、「労働者階級と勤労者の生産点での闘争を基礎にして、国家独占資本主義体制の全機構の内部に管理、統制その他さまざまな形態による民主勢力の進出のためにたたかう」という一見「構造改革」的要素も含まれているが、全体としては、議会利用による平和移行論まで含めて「八一カ国共産党・労働者党代表者会議の声明」(一九六〇年)で新しく規定されたいわゆる「反独占民主改革」による社会主義革命論とほとんど変わりはない。ただ当時日本共産党がみずから無理矢理に押し込んだ「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配下にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義国」ということばにこだわって、「反独占民主改革闘争から社会主義へ」という方向を拒否していたことで「新しさ」がめだっていたにすぎず、その意味で綱領論争の延長として日共批判の域をでなかった。

しかし、いわゆる「反独占民主改革闘争」という構想は、世界と各国の新しい政治・経済構造の変化に対応する「社会主義革命における民主主義闘争の新たな発展」ではあっても、もちろんレーニン=グラムシを通じる先進国革命の大胆な転換を表明したものではない。それはこの生命を擁護して書かれたと見られる「現代独占資本主義の政治経済学」(ソ連)の中でもあきらかである。

「いうまでもなくこうした民主主義的綱領の実現は、国家権力の階級的性格を変えるような、また、労働者階級とその同盟者が国家の活動に実際の影響を及ぼすのを保障するような、根本的な社会的=政治的改造なしには考えられない。政治権力をよりどころにしてはじめて労働者階級は、ブルジョアジーの政治権力にたいする真の制限を達成できるのであり、経済生活と社会生活に対する独占体の強制を根絶できるのである。

こうしたことから、熟成した民主主義的変革のための闘争が不可避的に革命的性格を帯びることが明らかになる。・・・・・またこの理由で民主主義的変革のための運動が、大衆の革命化と、かれらを社会主義革命のスローガンにひきつけるためのもっとも重要な手段の一つとなるのである。

・・・・・この綱領の実現は社会主義のための闘争の直接の展開にとって、決定的な諸前提をつくりだすのである。(8)」

ここでは、反独占民主改革の実現はしょせん権力の変革なしにはあり得ず、この闘いは結局、大衆を社会主義革命へ組織する手段であり、政治的・社会的=心理的な前提とみなされている。これはすでに見てきたような統一戦線の戦略的展開の延長線上にあるというよりも、コミンテルンの統一戦線戦術に逆もどりしているとさえいえる。しかし今日問われているのは、フランス「五月」の闘争にみられるような国家独占資本主義の「危機」的状況の発展の下で、グラムシ=トリアッティの「段階的発展」論=「陣地戦」論が有効なかどうかという問題なのだ。「陣地戦は終わった」とするマグリは、諸改良と革命的危機との関係について次のようにいう。

「順次の改良的諸行為をつうじて資本主義から社会主義に移行する過程、国家の頂点への指導諸集団の斬進的接近の道である過程に、革命的飛躍を解消することがいまでは可能であると考える戦略と、これに反して、不可避的な革命的危機を最善の条件のもとに成熟させ、まさに危機のただなかで国家機構を奪取し、粉砕する反体制諸ブロックを結集するための具体的な仕方として、改良諸闘争を考える戦略とのあいだには、実際に、もはや中間の道の余地はあり得ないのである。(9)」

そうしてマグリは、「多年の経験とこれまで述べてきたような事態は、この後者の路線だけが現実の試練に耐えうることを証明している」と主張し、「上述の闘争が真の破壊をあらわすものとすれば、いっそう先鋭な敵対の諸前提がうみだされ、したがって、結局は武器の暴力が不服従と大衆闘争という『平和的』暴力によって革命的飛躍を刻印せざるを得ない危機への突入が切迫する、ということを意味するのである。(10)」と断定している。ここでは明らかに「陣地戦=段階論」は否定され、古典的な「危機革命論」が形を変えて再登場している。マグリをしてそうさせたのは「中ソ論争」であり、「五月」闘争であったが、「五月」闘争も今日では重要な痕跡を残しながらもフランス国家独占資本主義にのみ込まれ、中国もまた「中間地帯論」による「反米」主義から「中米協調」論へとゆるやかな転回を示しつつある。

「日本型構革論」もまた、中村氏等の指摘するように、「党内の最大限綱領主義、トロツキスト的傾向、北京近似路線などにたいして無力でこれを克服できなかった」し、七〇年代闘争、とりわけ「新左翼」の「現代世界革命戦略」の批判に耐えることができず、なしくずしに崩壊した。しかし、その「新左翼」セクトも今やセクトの対立闘争のだけ存在理由を見出さなければならないほど凋落した。中村氏等がいうように、「『日本型構革論』が死して生きなくてはならない」とすれば、それは改めてマルクス=レーニン=グラムシから再追求するとともに、とりわけ日本の現実と歴史的闘争の事実から再出発しなくてはなるまい。

今、なにより重要なことは、われわれが置かれており、われわれをとりまいている事実を徹底的に探求しなおすことだ。(つづく)

一九七四・四・二

(註)

(1)中村丈夫、藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」(「新世界」一九六六年一月号)以下同じ。

(2)勝部元「構造改良」(潮文庫)二五一〜二五四頁

(3)石堂清倫・佐藤昇「構造改革とはどういうものか」(青木新書)一四頁、二〇頁。

(4)「先進国革命と社会主義」(梅本克己・佐藤昇・丸山真男「現代日本の革新思想」河出書房新社)一五二頁〜一五三頁。

(5)長洲一二「構造改革論の形成」(現代の理論社)八四〜八五頁。

(6)同前 一九〜二〇頁。

(7)社会主義革新運動「『社会主義への日本の道』についての要綱」(「新しい時代」一九六一年第一号)

(8)世界経済・国際関係研究所(ソ連)「現代独占資本主義の政治経済学」三八八〜三八九頁。

(9)マグリ「フランスの『五月』と先進国革命」(「先進国革命論」現代の理論社)一五四頁。

10)同前 一五四〜一五五頁。

新しい革命と新しい党(4)   ―長谷川論文の批判によせて―

松江 澄   労働運動研究 第57号 S4971

 

 この稿を書き始めてからすでに4ヶ月たった。書いている間に、当初考えていたより多くの問題にふれなければならなかったし、またあれこれの引用も多くなった。それはノートのつもりで書いてきたためでもある。しかしこれも、戦後出発した一共産主義者が、とくにこの十年間ためこんできたというよりも、迷いつづけてきた追求の経路を整理して、現実に立ちむかう上で必要な「手続き」でもあった。ここで書いてきたことは、それでも私にとっては一つの問題意識をおいつづけてきたつもりではある。それは、あれこれの時代、あれこれの国の革命と革命論を、その時々のプロレタリアートの闘う歴史的条件との関連のもとで把握し、またとくに先進国革命“における「危機と変革」とのかかわりあいに焦点を求めのささやかな追跡であった。そうして、このような私の問題意識の底にふれたものの一つが、労研一月号の長谷川浩「現時点における革命党の思想建設」であった。ある意味ではこの「論文」が私の書きはじめた動機の一つであったといってもよく、したがって常にこの「論文」を意識して書いてきたといってもいいすぎではない。そこで長谷川論文の批判を提起しながら、私なりの考え方を明らかにしておきたいと思う。

 長谷川論文は提起されている問題の重要さばかりでなく、提起している「人」の歴史的な重さのうえでも重要な意味を持っている。それは、戦前以来苦闘に苦闘を重ねてきた共産主義者の、私心のない公正さと反省の深さで読む者をうつ。ここで書かれている以上に、その行間にうかがえるその時々の闘いの切実さが、私にもかすかに想像できるからである。にもかかわらず、私とってはこの「論文」の主張には無条件に受け入れることのできないものがある。それはただ長谷川浩個人の問題というよりも、日本の歴史的な運動と、したがってまた現時点の運動に直接かかわっている問題でもあるからだ。

 

プロレタリアートの闘いの歴史的条件

 

 長谷川論文(以下論文という)はまず党建設の課題の今日的切実さの理由にふれて、次のように指摘している。

 「党建設の問題が、今いっそうの切実感をもって提起されて、いままでとは違って真剣に取組むことを要請されているのは、最近の労働運動をはじめ広範な大衆運動、総じて日本の階級闘争自体の発展が、その武器としての党建設なくしては闘いぬけない具体的な問題に当面しているからであり、そのことによって主体的にも現実に党の基礎となり構成要素ともなるべき労働者の先進部分、前衛的な要素を種々な形で生みだしているからである。戦闘的な労働者、誠実な活動家が、既成の革新政党に失望し、新生の諸セクトに批判を抱き、しばしば政党組織そのものに対する不信にさえ陥りながらも、なお、真に科学的社会主義の思想に貫かれた党に思いをはせ、党建設の問題を追及せざるを得ないのは、彼らの闘いそのものが、ますます切実にこの問題をつきつけているからである。」

 私は広島でささやかな実践的追求にとりくんでいる一人として、この指摘は全く同感であり、正にこの提起はそのものとしてわれわれつき当たっている問題である。多くの活動家がここでいわれている「労働者全共闘と名ずけれられているのが適当か否かは別として、内容的には切実に理解することができる。また「論文」がいうように、求められている党が、「労働者階級に服務し、その闘いの武器として役立つ党」であり、「闘っている労働者、勤労大衆とともに行動し、解決する組織的条件となり、激動する内外情勢のもとで、現実の闘いの中に革命へ接近する道を追及して止まない党」であることもそのとおりである。

しかし、そのためには何が必要であろうか。

「論文」は戦後の党の思想的不統一の原因をさぐりながら、それを、「常に自らを大衆の上におき、自己の意思を大衆に押しつける指導者意識――先験的には党は大衆の指導者であるとする根強い意識」だといい、戦前の経験にもとづいてその淵源は「テーゼから現実を『かくあらねばならぬ』と規定する主観主義・教条主義」に由来すると指摘する。その根源は、「真に『科学』することによって独創的なものを発展させる面で、きわめて貧しかった一般的風土を容易に脱け出られなかったこと」にあると既定し、具体的な原因としては弾圧の中で大衆から孤立、遊離して小さなセクト的集団になったことだと指摘しながら、スターリンの戦略・戦術規定における形式主義こそその思想的な根拠の重要な一つであるという。そうして戦後はこの主観主義・教条主義が事実の変化と発展を見誤り、党の組織原則を硬直化させたといいながらレーニンの思想闘争を引用して民主集中制のあり方をとき、この主観主義・教条主義が、「プロレタリアートの階級独裁を、即、党の独裁と誤る危険さえ生む基本的な思想問題である」と断定する。こうして「論文」によれば、戦前から今日に至るまで、諸悪の根源はあげて主観主義・教条主義、形式主義にあり、みずからを高しとする指導者意識であり、この克服なしに革命党の決定的に重要な位置を占める中央委員会を建設することはできず、したがって革命党の建設は不可能であるという。それはまた、テーゼを絶対化する思想を克服することなしにテーゼをつくることは、革命党の建設にとってかえって障害になるという考え方にも通ずると思われる。

しかし、果たして過去および現在の党建設の問題を、このように一般化し、唯一の思想問題に帰納することは正しいであろうか。われわれにとって重要なことは、どんな思想問題も、それを時代と社会を超越した一般的な思想問題に解消するのではなく、プロレタリアートの闘いのどんな歴史的条件のもとでどんな思想が生まれ、どんな思想と闘うのか、ということではあるまいか。

例えば「論文」も引用しているレーニンの思想闘争――自然発生性に対する目的意識性の闘い――もその一つであり、スターリンの戦略・戦術の規定に表われている教条主義・形式主義との闘いもその一つである。周知のようにレーニンの党建設論の中心は、「何をなすべきか」――これは労働組合論ではなく党建設論であろう――等で明らかにされているように、自然発生性の克服と目的意識性の強調におかれている。しかし、それは一般的な党建設論としてではなく、当時の情勢と条件の下でのロシアの前衛党建設論として貫かれている。当時のロシアは、マルクスがプロレタリ革命の条件として一般的に予想していた状況とは、明らかに異なっていた。すなわち、「産業ブルジョアジーの支配がはじめて封建社会の物質的な根を引き抜き、そのうえでのみプロレタリア革命をおこなう基盤をならす」のではなく、「急激に発展したロシア資本主義とおくれた農民的ロシアとが、戦争という未かい有の併存していた」((一)の二)という状態であった。これは単に情勢の相異としてだけ見るべきではない。何故ならば、ブルジョアジーの支配のもとで、ブルジョア民主主義の中で、プロレタリアートの多数がすでに労働組合に組織されている状態を前提としたプロレタリア革命――革命党の建設と、ブルジョアジーはまだ完全な指導権を掌握せず、前近代的な思想が社会を閉じ込め、プロレタリアートの多数がまだ労働組合に組織されていない状況のもとでのプロレタリア革命――革命党の建設とを同日に論ずることは適当ではないからでる。もちろんプロレタリア革命と革命党建設のもっている普遍的な原則と共通な性格はあったとしても、なおそこには大きな相異があるし、またそれが当然のことでもある。当時のロシア社会の状態の中では、今日のような自然発生的な組織と運動を期待することができないばかりか、自然発生性は革命の足をひっぱり、革命党の建設を停滞させるものでしかなかった。レーニンが直面したのは、絶対主義下のプロレタリア革命と党建設であった。そこで最も必要とされることは、自然発生的な「組合主義的政治」と闘って目的意識的な「社会民主主義的政治(共産主義的政治)を外からもちこみ、革命の目的意識的な表現としての強固な革命党を是が非でも急いでつくり上げることであった。それは単なる組織問題としてだけではなく、またすぐれた運動の問題でもあった。運動の自然発生的な「後進性」は目的意識的な革命党の「先進性」で補完されなければならなかった。 したがって当然にも必要であったのは、党組織の「ゼムストヴォ」的(共同体的)な地方自治的性格ではなく、「工業」的で強固な中央集権的性格であった。当時のレーニンにとって、それは党建設の闘いであるととともに、党組織にあらわれた当時のロシア社会の絶対主義的な性格との闘いでもった。 こうしてレーニンの目的意識性、中央集権的組織性は闘いとられた。したがって具体的な歴史的条件下での具体的な闘いを一般化することと同じように、その後スターリン=コミンテルンにうけつがれた官僚主義的な「鉄の規律」をレーニンの責に帰することは全くまちがっている。そうではなく、当時のロシア革命党はこうしてこそはじめて確立することができたのであり、そこにこそレーニンのすばらしい理論と実践がある。問題は十月革命後にある。

スターリンは、このレーニンの闘いからマルクス主義の「魂」――具体的状況の具体的分析――を抜き去り、「一国社会主義建設」の権威ためにレーニンを借り、レーニン主義という名の「スターリン主義」をつくりあげて。軍事的封建的帝国主義の下でのプロレタリア革命の過程と渦中における苦難な党建設の闘いと、権力奪取後とくに内戦終了後の党建設のあり方とは当然異ならなければならなかった。しかしスターリンは、自己の指導権を維持するために、レーニンを利用さえしたのだった。それはただ党建設だけの問題ではなかった。「論文」が引用している「レーニン主義の基礎」は、スターリンの講演が一九二四年四月、五月の二ヶ月に亘ってプラウダに連載されたものである。それはレーニンを偲んで行なわれた講演ではあったが、それはまた新しい「スターリン主義」の出発点でもあった。「レーニン主義の基礎」は直ちに多くの国々の共産主義者とその集団の教科書となり、長く現代マルクス主義の「規範」となった。私も入党して戦略・戦術についてはじめて読んだのはこれであり、また新しく入党した党員諸君にこれを教育したことを昨日のように覚えている。ここにとかれた戦略・戦術規定は、コミンテルンをとおして各国共産党のテーゼ作成の基本になったばかりでなく、テーゼを理解し解釈するためのもっとも有力な武器となったが、「論文」の指摘する三二テーゼの場合も例外ではなかったと思われる。

結局、レーニンの党建設の闘いの教訓を学ぶとしたら、決してその一字一句を絶対化することによってではなく、また「論文」がいうように思想問題にお還元することによってでもなく、当時のロシアの条件の中でどのように闘われたかということが重要なのであり、そうしてこそレーニンの闘いはわれわれにとって欠くことのできない偉大な教訓なのだ。どんな革命的な闘いも、どんな革命党の建設も、そこで闘うプロレタリアートの歴史的条件を抜きにしてはあり得ないからである。

しかし、戦前の党が三二テーゼを受け入れた時、「論文」が指摘する主観主義・教条主義が生まれたとすれば、それにはもう一つの原因があったに違いない。それは当時の日本の社会、当時の日本プロレタリアートの闘いの歴史的条件である。それは「論文」の筆者がもっとも良く知っているように、天皇制テロルの過酷な圧迫のもとにおける闘いであり、いわばかつてのロシアと同じように、絶対主義下の革命党建設であった。自然発生性よりも目的意識性が、民主性よりか集中性が、労働組合の発展よりも党の革命が何より先行したとしても不思議ではなく、むしろそうすることによってのみ困難な中での党建設を進めることができた面をみのがすことはできまい。それを今日におけるのと同じような意味で一口にセクト主義と断罪するなら、それは歴史的条件を無視することになるのではあるまいか。もちろん、過酷な弾圧が強ければ強いほど柔軟で豊かな戦術が必要であろうし、困難であればあるほど大衆の自然発生性をくみとることが重要であり、当時の党にこうした力量がなかったことも事実であろう。しかし、戦後の共産主義者が当時の日本の地理的、歴史的、社会的条件を全く抜きにしてセクト主義を語ることは、口先のキレイ事になるのでなかろうか。むしろ問題は戦後にある。戦前の正確な総括をすることによって新しい党建設、新しい革命論を追求すべきときに、依然として三二テーゼと古い党建設論――大量入党方針は戦前の党の無反省な裏がえしにすぎない――にしがみつき、押しつけつづけたところにこそ問題がある。

こうして見れば、戦前の党がスターリンによって教条化されたレーニンの「目的意識性」を無条件に受容したことは、理由のないわけではない。重要なことは闘いの歴史的条件を明らかにすることであるともに、誤りの具体的条件を明らかにすることであって、一、二の思想的偏向に帰納することはできない。

またこの際にあきらかにしておく必要があるのは、「論文」も指摘しているプロレタリア独裁と党独裁との関係の問題である。党独裁が容易に中央独裁となり個人独裁に転化していった過程は、すでに指摘したロシア革命当時の党組織論にひきつづく固定化と教条化にあったことはいうまでもない。しかし、それだけではプロレタリア独裁が、どうして党独裁に転化したかを明らかにすることはできないし、まして「論文」がいうように、それを主観主義・教条主義のためだと簡単に片づけるわけにはゆかない。それは何一つ解決したことにはならないばかりか誤っている。ここには民主主義の問題がある。

レーニンは「国家と革命」の中で、民主主義の二つの側面を指摘している。その一つは国家形態としての民主主義であり、他の一つは市民的自由=民主主義の側面である。だがレーニンは、当時の情勢と条件の必要からもっとも闘う必要があった国家の問題、したがってまた国家形態としての民主主義の問題に集中した。レーニンが闘ったのは、将来の国家の「死滅」と現在の国家の「粉砕」をすりかえるアナーキズムであり、またブルジョア国家を擁護するあらゆる種類の弁護論者たちであった。それは十月革命を前に「国家と革命」が書かれた当時の情況の下で、もっとも必要なことでもあった。しかし今日のわれわれにとって見のがすことができないのは、レーニンの指摘した民主主義のも一つの側面である。そうしてそれこそが、マルクスによってはじめてヘーゲルの?倒した国家論が批判され「共同体の幻想」が打ちくだかれたとき、その分析の中から資本主義的生産の秘密をときあかした「市民社会」の民主主義であった。それは後にグラムシによって復活させられ(国家=政治社会+市民社会)、先進国革命にとっての重要な試金石となるものであった。((三)の一)

それは市民的自由として生れ、「籍」を同じくしながら国家形態としての民主主義――ブルジョア独裁の形態としてのブルジョア民主主義、ブルジョア議会制とそのいくつかの変種――とは別に、容易に越えることのできない「塹壕」としてわれわれの前に立ちふさがっている。今日、日本の革命運動から民主主義運動までもてあまし気味でもある戦後日本の市民的民主主義もその変種の一つに外ならない。それは市民社会がそのまま資本主義社会に転化して、上部構造の中でもっとも基底的な構造を形成しているものである。たとえ国会がどうなろうと、政府がどう決めようと、どこ吹く風と執拗に自己を主張しつづけるブルジョア社会の基底である。この基礎は資本主義的生産そのものにあり、それは社会が発展し、生産力とブルジヨア文化が発展する中で一層強固なものとなる。したがって変革にとって必要なことは、国家形態としてのブルジョア民主主義ないしその変種をプロレタリア民主主義におきかえるとともに、市民社会の基礎であるブルジョア的生産を真にプロレタリア的生産におきかえることを必要とする。そこに新しい変革――現代先進国革命――が、上部構造の変革=国家権力の奪取とそれによる生産手段の国有化にとどまるのではなく、生産それ自体の社会主義的変質を実現しなければならない理由がある。社会主義革命は、単に国家権力と生産手段の主人公をブルジョアジーからプロレタリアートへ移すだけでなく、文字どおりプロレタリア独裁――プロレタリア民主主義なのだ。

しかし、スターリンにとっては、国家形態としての民主主義を、支配階級からプロレタリアートの手に移すことで充分だったのである。そうしてそのことが、プロレタリア独裁をプロレタリアートの政治的代表者である党の独裁におきかえることに通じたのである。たしかに党はプロレタリアートの政治的代表者にはなり得るが、プロレタリアートそれ自体の代表者ではなく、したがってまた当然にもプロレタリアートの経済的代表者ではあり得ない。だが政治権力の変革は、経済権力の変革と切り離すことはできない。プロレタリアートの独裁とは、単に政治と政治形態だけのものではない。それは、ブルジョア独裁がブルジョア的生産とその経済権力を基礎にはじめて成立するように、プロレタリア的経済権力と生産の労働者自身による管理を基礎として、はじめてプロレタリア独裁は完成する。それはまた、発展しつくした資本主義的生産と爛熟したブルジョア社会の腐朽の成熟の中で、はじめてその対立物としてあらわれる。その意味で、プロレタリアートの闘う歴史的条件は、権力打倒の闘いだけでなく、権力獲得後の新しい生産と国家をも規定するのである。

 

戦後日本の民主主義とは何か

 

「論文」は党建設上のもっとも重要な障害であるとする主観主義・教条主義の克服を指摘するとともに、「党の思想建設は支配的思想との闘争である」といい、戦後日本のブルジョア民主主義、ブルジョア・イデオロギーとの闘いを強調する。それは、「独占ブルジョアジ−あるいはその協力者の政治的、思想的影響から広範な層を切離していく闘いであり、労働者階級の側に政治的思想的に獲得していく闘争である」と。また、「議会制民主主義における闘争は根底において議会主義思想との闘争であり――労働組合運動においても、その根底にあるものは思想闘争である」と指摘しつつ、トレード・ユニオンズムとの思想闘争を強調し、「このようなブルジョア民主主義・自由主義のもとに生活してきた広範な日本の勤労大衆の間に深くしみこんだその影響を克服し、思想の上で労働者階級のヘゲモニーを打立てる闘いは、先進国革命においてとくに強調されなければならない課題」であると主張する。

しかし、戦後日本の民主主義を単純にブルジョア民主主ととらえ、戦後日本の労働組合を単にトレード・ユニオニズムと規定することが適切であろうか。

「論文」は、「ブルジョア民主主義・議会制民主主義は、それがどんなに民主的に行なわれていても、本質的にブルジョア独裁であることはすでに実証ずみのテーゼである」といい、「政治はあらかじめ舞台裏で行なわれ、議会は独占ブルジョアジーの指導下に合意ができ上がったものを形式的に、これを『国民の総意』として追認する手段でしかない」から、「議会内だけの闘争ならそれは全く茶番にすぎない」と主張する。たしかにブルジョア民主主義は本質的にブルジョア独裁であるが、今日の民主主義と議会をこのように単純化することができるであろうか。もしレーニンのテーゼにしたがうならば、同じブルジョア独裁の形態でも、「自由競争には民主主義が照応する。独占には政治的反動が照応する。」今日の日本における戦後国家独占資本主義の上部構造を、単純にブルジョア民主主義と断定することは正しくない。そこでわれわれにとって必要なことは、戦後日本の「民主主義」を歴史的な事実と段階に即して明らかにすることである。「論文」は戦後労働運動に対して、「占領軍と日本支配階級が何度も強権をもって闘争を抑圧する」反面、「彼等は日本にブルジョア民主主義を定着させるため最大限努力した」といい、暴力的弾圧だけなら立直りはもっと早かったのに、「ブルジョア民主主義の政治と思想による攻撃こそが打撃を持続的なものにし、運動の停滞を長びかせたといえないであろうか」となげく。しかし、そのような見方は正しくない。

敗戦によるアメリカ帝国主義の占領は、日本帝国主義の経済構造のうち、基底を残してその独占的な上部を一応破壊し、上部構造についてはその形態――政府、議会、官僚機構、地方自治体――を維持させながら、事実上の支配権を握った。それは戦争の敗北者に対する勝利者としての当然の措置というだけでなく、「反ファシズム戦争」の戦後処理という名のもとに、ブルジョア的支配を維持しながら、アメリカ帝国主義の重要な競争者を二度と強力には再起させない程度の「民主化」政策であった。しかしこうした「民主化」政策は、かれらがのぞむような穏和な「民主主義」に満足するには、余りにも激しかった戦前戦中の圧縮された怒りとエネルギーが燃え上がりはじめるや否や転換し(二・一スト前後)闘う労働者階級と人民に対抗できる限度での、日本資本主義とその政治体制の援助と協力へと移行した。残された基礎構造は息を吹きかえして活動を始め、形態をとどめた上部構造はその内実をとりかえし始めた。こうした占領軍と日本支配階級の二重権力に対応して定着しつつ、戦後日本の民主主義は講和後にひきつがれた。それは、戦前戦中の圧迫が強ければ強いだけ、烈しく噴出する民主主義エネルギーとして爆発したが、最初はほとんど無条件に、しかしまもなく次第に強くなるタガの締めつけで、最後には一定の限度内で弾圧する占領政策によって規定された「民主主義」であった。

それは、一国的状況だけからは判断しがたい状況であり、日本の支配階級と占領軍との二重権力による二重の規定であった。それは最初はアメリカ占領軍のほとんど支配的なヘゲモニーから、やがて日本支配階級のヘゲモニーへと継承された。それはまた個体発生が系統発生をくり返すように、戦争と占領による経済構造の破壊と再生に照応して、はじめて生まれたごく短いブルジョア民主主義の誕生期から外国帝国主義支配下の鎖につながれた民主主義を経て、中和された講和後の「戦後民主主義」まで、僅か五、六年の間に幾十年もの経験を圧縮して再現したといってもよいだろう。それは単に国家形態としての政治的民主主義ばかりでなく、市民社会の民主主義の場合にも例外ではなかった。この間における日本の家族構成の変化と、社会構造の移行をめぐる激突と対流はこれを物語っている。

こうして戦後日本の民主主義は、決して単純なブルジョア民主主義と規定するには、あまりにも複雑な諸要因を含んでおり、むしろ「論文」がいうように、「ファシズムではなかった」が、ある意味では大戦後間の国家独占資本主義のも一つの支配形態であったアメリカ的ニューディル型民主主義と、激突する初生的なブルジョア民主主義との奇妙な混合物としての「戦後民主主義」であり、正に、「近代的」帝国主義占領と壊滅した旧「反封建的」帝国主義のもたらした独得の産物であった。そこには議会制民主主義も、一定の程度で「茶番劇」を超えた相対的独自性をもちながら、同時に国民を「民主主義」的に統合する今日の管理民主主義の基礎が、すでに培われていたといえよう。こうした奇妙な混合物としての「戦後民主主義」も、高度成長による生産力の飛躍的発展と、帝国主義的進出が戦後世界体制の崩壊――再編成と同時的に進行する中で終わりを告げたが、その政治的指標としては沖縄の「復帰」、ラディカリズムの衰退、日本共産党の議会進出等があげられる。戦後民主主義は管理民主主義に継承され、「民主主義」的統合の中でまず教育とマス・メディアから新型反動が準備されようとしている。しかし日本における「戦後民主主義」がヨーロッパのようにネオ・ファシズム、「個人権力」の復活というコースをとらなかったのは、理由がないわけではない。それは労働者階級の闘いによって指導され、国民がはじめて経験した民主主義の定着性の意外な強さと、日本における市民社会構造の歴史的な弱さ――この強さがかえってファシズムを必要と可能にする――にある。それはまた日本の変革にとっても重要な要素となるに違いない。しかしそれだけに、「論文」のいうブルジョア民主主義以上に陰性で包摂的な「民主主義」的統合にからめとられる危険もまた強いといわなければなるまい。

それでは戦後日本の労働組合はどうであろうか。

それは戦後民主主義の発生と発展、変化に対応しつつ発生し、変化、発展した。敗戦直後、ごく短いブルジョア民主主義の誕生期に一斉に組織された労働組合は、労働組合というよりも工場委員会的なものではなかったか。それは敗戦による権力の動揺期に、党を先頭にしながらもなお自然発生的に立ち上がった労働者階級の、ある意味で革命的な組織ともいえるものでもあった。それは押えられた圧迫が強烈であっただけに、闘う組織をついくるエネルギーはかつて抑圧した権力に「反発」し「対抗」する力によって加速された。この時期の生産管理闘争は、「論文」もいうように、単に資本家階級の生産サボタージュに対抗する手段としてのものではなかった。それはまた生産復興のイニシャチーブを資本と争うばかりでなく、「奪いさられた生産」そのものを労働者階級の手にとりもどうための闘いに発展しる性質を内包していたといえよう。しかし、体制化された占領下で、それはやがてアメリカ的労働組合の機能をもつものへと変質・転化させられたが、それは占領軍を解放軍と規定した当時の党によって無意識のうちに肯定されていたのではなかったか。初生的な工場委員会組織に初生的な労働組合機能が接木された日本的企業内労働組合が発展し、やがて占領軍の期待するトレード・ユニオニズムのナショナル・センターとしての総評が生まれて「産別」は変わった。その後、初期の闘いの痕跡をもつ「地域ぐるみ」闘争はまもなく「半」労働組合的な「春闘方式」に替り、今日に至った。

日本における企業内労働組合は、工場委員会的な組織基盤(企業内全労働者の参加)を基礎としながら、労働組合的機能を果たすものとして定着し、その相乗的効果はしばしばスケジュール・ストライキによる企業ぐるみの全労働者闘争として発展するとともに、今日のように新しい階級的な闘いが職場からおこり、反合理化闘争、順法闘争に闘いの新しい質をつくり出す中で、その二重性格はかえって相互制約的な限界に転化しつつある。例えば、今日の反合理化闘争における事前協議制の闘いがその一つである。国鉄、電通等では、いずれも発展する反合理化闘争を背景に、本社・本部間の事前協議制が結ばれているが、この中央協定は多くの場合職場組合員にとっては二重の性格となっている。当局はもちろん、組合本部までが中央協定によって職場の闘いを統制するかである。一方では職場の闘いを強調しながら、他方ではこの闘いを中央協定の鎖に縛りつける中で、職場の活動家たちの闘う目標となったのは、生産現場での事前協議制の確立であった。しかし十年間の闘いの中で、事実はこの闘いが決して容易なものでないばかりか、すでにトレード・ユニオニズムの域をこえた闘いであることを示している。生産現場での事前協議制は、いわば職場労働者の事前同意権とでもいうべきものであり、それは職場の大衆的な拒否権を前提としながら、まだ積極的にではないが生産のヘゲモニーに迫る闘いであり、単なる労働組合闘争の戦術としてではなく、疎外との闘いから出発し、変革を展望する延長をもちながら生産管理へ接近する闘いでもある。労働力の取引闘争――流通過程での闘い――を超えた労働の管理――生産過程での闘い――を目指す闘争であり、したがってそれはトレード・ユニオニズムに包擁不可能な闘いでもある。今日の反合理化闘争は、労働組合の闘いとして出発しながら、それを超え、それを突破する新しい質をつくりだし、なお労働組合運動内にとどまりつつ、しかも労働組合闘争としては発展し得ないというジレンマに悩んでいる。それは敗戦直後の生産管理の闘いと似ているが、実は全く異なっている。それは生産設備の破壊と生産の放棄から生まれたものではなく、全く反対に、技術革新と生産力の異常な発展と資本主義生産の腐朽から生まれたものである。

ここには、戦後日本の労働組合を単純にトレード・ユニオニズムといい切ることのできないものがある。工場委員会的なものと労働組合的なものとの、奇妙なゆ着として生まれた戦後日本の労働組合とその運動が、労働者階級の闘いの発展の中で新しい質的転換を迫られているともいえよう。われわれにとって必要なのは、外国の労働組合論を移入することでもなく、また現状をただ肯定するだけでなく、特殊日本的な労働組合をどのように発展させるかが必要であり、可能なのかということである。しかし日本共産党の場合には、その任務を負うべき党と労働組合との関係もまた、他に例を見ない特殊な性質をもっている。

党も労働組合も、ともに労働者の闘う組織であるという同質的な側面は拒否ないし軽視され、専ら戦前からひきつがれた「神聖」な革命党は労働組合からみずからを分離し、「物取り」闘争は労働組合、革命は前衛党という分業の中でますます拡大する運動上の分離をとりかえすために「政党支持の自由」という形態での組織的ゆ着が進行し、そのゆ着を弁護するための運動上の分業と分離がすすむという悪循環が成立する。しかし内実は、党の労働組合への同化と奇妙な対照をなしつつ、いずれも同根の誤ちをおかしている。今必要なことは、党と労働組合の組織的な分岐を明らかにしつつ、むしろ運動上の協業関係をうちたてることである。「政党支持の自由」ではなく、「政党からの自由」によってこそ、真に労働組合の闘う統一は前進し、党と労働組合の共同の闘いからこそ、革命党の真のイニシャチーブを発揮することができるであろう。

 

何から始めるべきか

 

「論文」はつづいて、「ブルジョア思想の根底には自我(エゴ)にある」といい、この克服こそ革命党建設のもっとも重要な基本問題であると主張する。しかしこれは、「自我」それ自体についても、また革命党建設の基本問題としても正しくない。「論文」によれば、

「いうまでもなく、資本主義的な生産においては個々の生産物は商品として、ただ市場における競争の結果としてのみ、その社会に評価された価値として、受取る。したがって、社会的生産関係は個々の生産者の外にあり、彼らに対立する一つの外的必然性として彼らを制約・位置づける。個々の生産者は市場にのぞむまでは孤立した個人であり、独自の判断・裁量によって生産し、市場を通して実際に社会的関係に組入れられる。そこで競争に打ち勝ち、他人を蹴落としてはじめて社会的に位置づけられる。封建的な桎梏に対する自由と平等の意識は、そこから『平等な個人の自由な競争の権利』の要求として生まれ、社会関係に独立した個人の『自我の覚醒』をうながす。それは『我思う、故に我在り』の高尚なデカルト哲学から貪欲な利己主義にいたるまで一切の自我意識の物質的基礎である」と。

そうして「この社会的生産関係から独立した、あるいは社会的性関係に対立した抽象的な個人の自我の確立が、すべてのブルジョア民主主義の理念の根抵となる」と主張する。さらに「論文」は、この抽象的な個人の「自我」の発展形態として、普通選挙による議会制度、ナショナリズム(民族主義)にまで言及する。それはまた「民族主義的な極左翼冒険主義から、完全な議会主義への代々木共産党の転向、変質」の基礎であるとともに、ラディカリズムの基礎でもあり、それらを非難攻撃する諸党派の「自我」でもあり、「このような党派の『自我』が存するかぎり真に労働者階級の党である統一した革命党は建設できない」と断定する。しかし、ここには「自我」についての誤まった見解があるとともに、「自我」とブルジョア的自由と平等、ブルジョア民主主義とブルジョア・イデオロギーとの混同がある。

人間の「自我」の発生は、資本主義的生産によって始まったものではない。マルクスがいうように、人は鏡をとおして己を知る。人間は本来類的=社会的なものであるが、くりかえされる商品交換の過程で労働の対象化である商品をとおして「自我」を確立する。それは商品生産が支配的となり、人間の労働力までが商品となる資本主義生産の中で一層普遍的となる。しかし、「自我」は人間が商品生産――商品交換を開始する中で生まれたものであり、資本主義によって発生したものではない。

しかし自由と平等は、資本主義生産の中ではじめて「平等な個人の自由な競争の権利」として生まれる。資本主義のもとでは労働者は二重の意味で「自由」である。みずからの労働力を自由に売ることができ、またすべての生産手段から「自由」であるという意味で。そうしてまた、対等に、全く「公正」に資本家と取引できるという意味で「平等」でもある。しかしブルジョア的自由と平等は、常にプロレタリア的自由と平等の影につきまとわれる。それは「形式」から「実質」へと弁証法的に発展しながら、ついには真の自由・平等としての階級の廃絶を要求する。だからこそブルジョアジーは、あらゆるイデオロギーを動員して労働者階級を精神的にも支配する。彼らは物質的生産手段をあやつることができるばかりでなく、精神的生産手段をあやつることもできるので、精神的生産のための手段を欠く人々の思想は支配階級の思いのままとなる。

「自我」は「自我」であり、ブルジョア的あるいは小ブルジョア的「自我」という特殊な範疇はない。あるのはブルジョア・イデオロギーであり、闘うのはブルジョアジーの精神的支配との闘いである。すべての悪の根源を「自我」に求めることは正しくない。

「論文」はまた「疎外」の問題にふれて、反独占の「自我」を「発見」する。

「独占資本主義が高度に発展し、社会生活が画一化されるなかで、社会的生産関係に対立する小ブルジョアジー的な個人派、独占資本が決定した生産の枠組みのなかに規格化されたコースで入らないかぎり、社会的な存在になりえない。労働者はいっそうきびしく機械の部分品にされる。個人の生活はますます一定の鋳型の中にはめこまれ、人間性は疎外されていく。この型にはまった生活を打破って個人の自由を求める。一切の制約を否定した『自我』の命ずるままに行動する。」

そうして「これは客観的にみて確かに一つの反独占の意識であり行動である」と「自我意識の新しい意義」を指摘し、それを「ブルジョア・イデオロギー自体の精神分裂症状の現われ」と規定し、独占資本主義の発展する中で、「ブルジョア民主主義の諸思想そのものが分裂し、反独占の性格を帯びてきている」が、それ自身は反発とはなっても独占資本主義を止揚する思想・行動にはなり得ず、そこでこそ労働者階級の基本的立場が求められるという。

しかし、一切の「疎外」の根源は「労働の疎外」であり、それこそが労働による生産物を労働者から疎外する原因であるが、これは資本主義によって発生したわけでもなく、もちろん独占資本主義が生み出したものでもない。それは私有制の開始とともに発生し、資本主義はそれ以前の私有制と異なり、経済内強制によって「労働の疎外」にヴェールをかぶせてかくしたが、独占資本主義の技術革新と新しい機械の発明は、あたかも経済外強制のように「疎外」を再びあらわに暴露する。そこにこそ「疎外」にたいする新しい闘いが始まる理由がある。それは多くの場合まず組織されない個人的な抵抗としてはじまるとしても新しい闘いの基礎である。これはもちろんブルジョア・イデオロギーでもなければ、またブルジョア・イデオロギーの「精神分裂症状」でもない。そもそもブルジョア・イデオロギーが「精神分裂」を起こすことはあり得ず、ブルジョア民主主義が「分裂して反独占」になることもあり得ない。あり得るのは反独占闘争の発展によってブルジョアジーそのものの一時的「肉体分裂症」――独占と非独占、大ブルジョアジーと中・小ブルジョアジー――であり、おこり得るのは諸階層の闘いが、プロレタリアートの指導的な闘いによって「反独占」の性格を帯びるようになることである。

結局、一切のブルジョア思想の根源を「自我」に解消し、思想闘争の基本を「自我」との闘いに求めることは闘いを抽象化し、一般化するだけでなく、まちちがってさえいる。

「論文」は最後に、こうした思想闘争をすすめる基礎であり、革命党の「原理原則における民主主義の根源」として、労働者民主主義あるいは「組織された民主主義」という概念を突然提起する。

「いうまでもなく、労働者は資本主義の成立とともに、資本に対立し資本主義を変革し、人による人の搾取を廃絶すべき歴史的使命をになった階級として生まれた。労働者個人は、社会的生産関係に対立する個人としてではなく、社会的生産関係のうちにあって階級を形成し、この階級の一員として具体的に存在する。労働者個人に階級に属するとともに、労働者個人のうちに階級がある、すなわち労働者は本質的に組織的である。」

しかし、これはまちがっている。労働者は社会的生産関係から疎外されている。それは「労働の疎外」の一つのあらわれでもある。だからこそ「疎外」を自覚する労働者階級は、本来の社会生活、社会的生産関係をとりもどすために、革命的階級としてその歴史的を果すのだ。しかしこうした階級的自覚は、自然には獲得されない。たしかに現代の疎外現象は、自然的にも抵抗を生み出す。しかしそれが組織的で系統的な闘いとなり、単なる反発   ではなく革命的な闘いとなるためにこそ、革命党が必要なのだ。労働者は「本質的に組織的」なのではなくて、「本質的に組織的な『質』」を歴史的にもっているのである。しかし重要なことは、労働者階級の巨大な「歴史的自我」を誰が引き出し、誰が組織するのかということなのだ。

たしかに私は、「現代先進国革命の最も重要なカナメは、この自然発生性と目的意識性の正確な結合であり、その結合の形態としての党の問題である」といい、また「『自然発生的』な大衆を指導する『目的意識的』な党でもない」とのべた。((二)の三)それは、すでにふれたような一定の条件の下でのレーニンの「目的意識性」を教条化し、絶対化する党組織論の批判として提起した。しかしもちろん、革命党は自然発生的に出来上がるものではない。それは意識的進出と組織化の中からのみ生まれる。重要なことは、この党が現代革命の重要な契機ともなり得る大衆の自然発生的な闘いを即座に受け入れて、ともに闘いつつ変革をめざす能力と展望を持つことができるかどうかの問題である。そうしてこれは、思想の問題というよりも、政治的な分析と把握と展望の対象である。党が自然発生性を重視してそれにとけ込む能力をもつということ、党が自然発生的に組織されるということとは全く別の問題である。

「論文」は革命党の今日的必要の特殊な理由から出発しながら、これを思想闘争、なかでも主観主義・教条主義・観念論の清算に一般化して、ついには「自我」の克服にもとめつつ、最後には、「本質的に組織的な」労働者による「階級的な『組織された民主主義』」に到達し、革命党建設の問題を再び闘う労働者あるいは「労働者全共闘」に還元する。それは政治的な闘いと組織建設の闘いを思想闘争あるいは「論理」の確立に解消する結果となるばかりでなく、従来の党の誤ちを絶対化することによって、建設されるべき革命党とその「中央」を逆に神格化して、われわれの手のとどかぬ所に祭り上げることにならないだろうか。それは「神」をつくりあげることになるのではなかろうか。

われわれにとって、そうして現代日本の労働運動と革命運動にとって必要なことは、一切の「偶像」と「神」を廃棄し、われわれの手のとどく所から革命党の建設に着手することである。主観主義も教条主義も絶えずわれわれを待ち伏せているだろうし、まして「自我」は最後までつきまとうに違いない。われわれが恐れなければならないとしたら、それは主観主義・教条主義ではなくて、主観主義や教条主義を克服する保障をもたぬことである。しかしその保障は存在する。それは闘いの中にあり、組織の中にあり、理論の中にあり、政策の中にある。今必要なことは、共通の政治課題と共同の闘いで結ばれた集団を、統一した革命的組織にまで昇華させることであり、それは誰かがはじめなければならない課題なのだ。(一九七四・六・八)

 

 


 日本共産党の「教師聖職論」批判――日和見主義は労働組合運動を何処に導くか――

  松江 澄     労働運動研究 1974年 11月  No61

この論文は、『ひろしま市民新聞』に掲載されたものであるが、きわめて重要な内容をふくんでいるので、松江澄氏の承諾をえて本誌に再録する。(編集部)

はじめに

日本共産党は八月二十六日付『赤旗』紙上で、教師に関する今までの「聖職論、ストライキ論、『政党支持』義務づけ問題」についての集大成として、「教職員組合運動の正しい前進のために」と題する無署名論文を発表した。したがってこれは、従来はげしく討論されてきた一連の諸問題についての日本共産党の公式な見解であると思われる。

今日まで「教師聖職論」が、何時、誰によって、何のために主張されてきたかは今さらいうまでもない。戦前は、この「聖職論」が教師と教育を「聖戦」にかり立て、多くの教え子を戦場に送る結果となった。だからこそ教職員組合は一九五一年、教師の「倫理綱領」の中で「教師は労働者である。」と宣言し、「教え子を再び戦場に送るな」と戦後平和教育を戦い抜いてきた。今、復活した日本帝国主義が低賃金、インフレと資源の買いたたきで市場競争の優位を保ちつつGNP大国を誇り、南ベトナム、南朝鮮、台湾などの「分裂国家」を足がかりに再びアジアへの帝国主義的進出を開始するとき、「教師聖職論」は脚光を浴びて再登場した。

そうして、かつては「聖職論」を全面的に批判し、教師は労働者に徹すべきであると説き、戦後誰よりも労働者教師論を主張しつづけてきた日本共産党が、この数年間たくみにその転回を準備しながら、今日公然と「聖職」ということばを機関紙上に発表するにいたった。

たしかにこの論文でも教師が「聖職」であるといい切っていないことは事実である。 彼等は用心深く、「教師が教育の専門家として『聖職』ともいえる高い使命をもっている」とか、「教師の仕事のこうした専門性と特殊性が、常識的な意味での『聖職』ということばで表現し得る面をもつ」といっている。誰でも使い始めは用心するものだ。しかしわれわれはまずその用語を重視する。重要なことは、高い使命をもつことを仮りにも「聖職」と名づけ、まさに「常識的な意味」で「聖職」ということばを使うこと自体が問題なのだ。解放と変革をめざす党は、このことばのどんな意味ででも、高い使命を「聖職」ということばで表現することはあり得ず、階級闘争と革命運動のどんな「常識」の中にも「聖職」ということばはない。何故ならば、「聖なるもの」の否定の中にこそ真に人間の解放があるからだ。

日本帝国主義のあらたな「飛躍」が「望まれ」ているとき、奇しくも日本共産党の「伝統」ある機関紙上で教師の「聖職」について語られることは、歴史の符号におどろくほかはない。

日本共産党の教師観とは

 「論文は一応『教師は労働者である』ことを前提にしながら政府・自民党の『教師聖職論』を批判する。しかし、今日の情勢と反動の攻撃のもとでは、「たんに『教師が労働者である』ことの確認と強調だけでは、あらたな情勢に明確に対応して教師と教職員組合の運動をあらたに前進させることが困難になってきている」から、「これまでの教師観をさらに発展させ」る必要があると強調する。

それでは「教師は労働者である」ということを強調することは、「論文」が指摘するように「機械的『労働者』論」であってまちがっているのであろうか。「論文」は日本共産党が「教師は労働者であるとともに、教育の専門家として、こどもの人間形成をたすけて国民全体に奉仕する責務をもっているという、教師の統一的な全体像をあきらかにし、そのうえで教師の仕事のこうした専門性と特殊性が、常識的な意味での『聖職』といったことばで表現しうる面持つということを指摘してきた」という。結局、彼等は教師が「労働者」であることと、「教育の専門家」であることとを、教師のもつ二つの面ないし、二つの性格だと規定する。この限りでは、政府・自民党の主張の前提と変りはない。ただ異なっているのは、政府・自民党が、教師の「労働者性」と「専門家性」とも「二律排反的に対立するもの」として実際には「教師は労働者である」ことを否定するのにたいして、日本共産党は、「労働者性」と「専門家性」とを『統一的』に把握したうえで、今日とくにその「専門家性」の強調が重要であると説くところにある。

しかし、重要なことは、「二律排反」か「統一的全体像」か、にあるのではなく、その前提となっている教師の二面観――「教師は労働者であるとともに教育の専門家である」――にこそある。教師が使用者にたいして賃労働者であることは誰しも――政府でさえ――否定するものはない。しかし、それだけではまだ「教師は労働者である」ことの全面的な内容ではない。教育労働の具体的な特殊性の追求によってこそ労働者としての一般性があきらかになる。

原理的には、「労働」は対象的で「自然」に働きかけて、これを変えることによって働きかけ人間自身をも変化させるという意味で、本来教育的な機能をもっており、そこでは「肉体労働」と「精神労働」は統一されていた。しかし、階級社会の成立と分業の発展は、「労働」から教育の機能を切りはなし、「肉体労働」と「精神労働」とを対立物に転化させた。それは中世的な「徒弟教育」から今日の資本主義的な「科学・技術教育」とその準備としての「普通教育」に至るまで、時代とともにますます分化しながら「教育」を「国民分業」の一部門として成立させた。本来こどもと「自然」との相互作用を媒介することによって、こどものもつ「人間的自然の無限の可能性を追求し、ひきだすはずの教育労働は、今や資本と管理のための「つめこみ教育」の道具にさせられた。こうして特殊な「教育の専門家」が養成され、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」が強調されることになった。もし「特殊性」というなら、それは教師の仕事の特殊性や専門性なのではなく教育労働の特殊性なのであり、必要なのは教育労働の特殊性を徹底的に追求することによって生産労働と教育労働の一体性を回復し、労働と教育の本来の位置をとりもどすことにあるのだ。

それは教師が「労働者である」ことはなにも別な「教育の専門家」であるからではなくて、まさに教師が「労働者」であり、教育労働が「労働」そのものであるからこそ可能なのであり、また教育闘争をすべての労働者の連帯した闘いとすることによってこそ可能なのである。しかし現実は教育を正しい位置にとりかえすためには余りにも多くの、そして根本的な障害があることを示している。生活の外に教育はなく政治と無縁な学校はない。支配と被支配、収奪するものと収奪されるものとの基本的な関係を抜きにした現実の教育は存在しえない。だからこそ教育労働者は賃金や労働条件だけではなく、教育の内容についても、ストライキ権とともに平和教育・教育課程の自主編成をめざして闘いつづけてきたのだ。教師の「労働者」としての階級的性格が「教育」の仕事を規定するのであって、けっしてその逆ではない。日本共産党の二面的教師観は、教育労働の特殊性を教師の「専門家性」にすりかえることによって結局、政府・自民党と同じ前提に立っている。だからこそつい、常識的に「聖職といってもよい」とのべるのだ。

教育の新しい追求は、「教育とは何か」を大胆率直に提起することのできる教育労働者とすべての労働者の闘いの中からのみきりひらかれるべきものであり、いつでもどこでも切り売りできる教育の専門的特殊的技術に矮小化されてはならない。「教師は労働者である」こと以外のなにものでもなく、それはどんなに強調しても強調しすぎることはない。

教師の教育権と「国民的責任論」

さらに「論文」は、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」を強調する理由として次の三点をあげている。

「機械的労働者論」では第一に、反動の攻撃にたいして「真に有効な反撃を組織できず」、第二には、「教師の国民にたいする責任を軽視する傾向をうみだし」、第三には、「職場=学校を基礎とした教師の真に広範で強固な団結をつくりあげることをさまたげる」と、この三つの理由の中心は、国民にたいする教育責任論であって、これを軽視するところから「国民」の名による反動の攻撃をまねくことになり、また、「校長や教頭をひたすら『敵』視するという否定的な傾向をうみだす」ことになるということらしい。結局、「論文」によれば、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」にもとづく教育の国民的責任を果す中でこそ教師の労働基本権を守ることができるということになる。「教師の仕事が『聖職』ともいえる崇高な使命と国民に直接おう責任をもつことを明確にしてこそ、教師の労働基本権をふくむ市民的、政治的自由の保障が、ゆきとどいた民主的教育をすすめる道であることを主張してたたかうことを可能にし、教育を真に尊重するものがだれかをいっそう鮮明にするのである」と、ここでは「労働者性」と「専門性」との統一どころか、「専門性」がなによりも優先する。

教育はブルジョア革命以来、ブルジョアジー=市民による国家や宗教とは無縁の「私事」として発展し、それはやがてこの「私事」を共同で依託するものとしての近代的な「公教育」を生むこのとになった。しかし帝国主義の発展と国家独占資本主義の成立は「公教育」にあらたな圧力と介入の機会をつくりだした。国家は「国民教育」という名のもとに教育の調停者=統制者としてあらわれ、「中立」を粧いながら教育に君臨する権威として登場した。こうして、教育を受ける権利=学習権にもとづく父母の教育権を共同で委託したはずの「公教育」は、たえず国家の圧力の前にさらされ、教師の教育権は=教育の自由はたえず権力の介入におびやかされことになった。それはしばしば、「父母の要求」あるいは「国民的要請」という形さえとって教育権を圧迫し教育の自由を制限する。

しかし、教師の教育権=教育の自由は本来こどもの学習権に根拠をもち、一旦委託された教師の自律的教育権限=教育課程の自主編成、教材選択の自由、学級運営の自由などは何ものにもおかされないものである。これがおかされる時こそ戦争と反動に道をひらく時であり、ここにこそ教育の自由を守る闘いがあった。したがって教師の教育権はあいまいな「国民への責任」論に転嫁、解消されてはならない。もし「国民への責任」というならば、それは教育労働者の階級的自律的追求の中からのみ生まれるべきものであって、要求の名による「外」からの圧迫に依るべきものではない。

この「論文」の中には、「教育権をもつ父母、国民への教師の責任」はくりかえし強調されているが、もっと重要な教師の教育権=教育の自由については一言も半句もふれられていない。それはもっぱら教師の仕事の「専門性」と「特殊性」を口実に国民的責任論をふりまわす政府・自民党の教育論と同じ土俵の上にたっている。異なるのは、どちらが「国民」という名を「上手に」僭称するかだ。だからこそ広島でも、原小学校の例に見られるように、一部の父兄の圧力による教師の教育権(学級運営の自由)への侵害と介入にたいして、日本共産党は何一つ闘おうとしない。そうして、この国民への責任論がストライキ闘争をたえずしゅんじゅん、回避させ、教育労働者としての闘いのほこ先をにぶらせるのだ。

教育労働者のストライキ権

「論文」はまず「労働組合の闘争の量的『積み重ね』だけで、自民党政治のもとでも労働者の生活と権利の全面的な保障を実現できるかのようにみなす、きわめて狭隘な組合主義的な誤まった立場」をただすために次のように主張する。今年の春闘の「重要な教訓は、わが国のような発達した資本主義国において、ストライキ権回復といった法令の改廃をともなう制度的要求の実現のためには、労働者と労働組合のストライキその他の適切な大衆行動の発展が必要であるとともに、国会内外の政治的力関係を有利にかえてゆく問題、そのための国会内外の民主勢力の共闘、国政革新をめざす統一戦線結成の問題をぬきにすることはできない。そして、革新統一戦線を基礎とする民主連合政府の樹立は、ストライキ権を立法上も行政上も確実に保障するものである」と。ここでは二重の意味で日本共産党の態度と姿勢が明らかになる。一つは、ストライキ権の回復を制度要求としてのみとらえていることであり、他の一つは、発達した資本主義国では制度的な要求は国会の多数派による政府の樹立なしには実現できないということである。是非とも「民主連合政府」の日本共産党へ一票を!というわけだ。

もちろんわれわれはストライキ権だけで万事かたがつくとは思わないし、単にゼネストで社会の変革ができるとも思っていない。しかし、ストライキ権はけっして単なる法律上、制度上だけの権利ではない。またストライキは敵に打撃を与える戦術だけでもない。それはたとえ法律的、制度的に拒否されようとも、したがってどんな弾圧があろうとも、労働者が自ら闘うことを自らが決定する階級的、自律的な闘う権利であり、また単に実害を与えるか否かという戦術的な効果の計算にとどまらない労働者の闘う意志の表現形態でもある。こうした労働者の基本的な自覚的な闘いを前提にしてのみ、制度上にもストライキ権を認めさせることができるので、「論文」は、「一般の資本主義的企業の労働者のストライキの場合には、利潤の生産、実現を一時的に中断、停止させることで資本に打撃をあたえるという効果をもつのにたいし、教師のストライキは、その仕事の特殊性からして、そうした経済的打撃をあたえるものではない。」したがってもっとも政治的な打撃をあたえる他の闘争形態をもとめるべきだという。

そうだとすれば、教育労働者に限らず、他の公務員労働者の場合にもストライキは考えもので再検討に値するわけだ。こうして日本共産党のストライキ論は、公務員労働者のストライキを否定する政府・自民党の見解に次第に近づき、「聖職論」はますます拡大される。

さらにこの「論文」の中で見のがすことのできないのは、都教組のストライキに際して「保護要員」をおいたことを弁護する次の主張である。「一方では『教育課程の自主編成』を要求し、『職員会議決議機関化』とまでいいながら、他方でストライキになると、こどもの管理の責任は“あげて管理者にある”などというのは全く矛盾した手前勝手な議論であり、とうてい父母、国民の納得や支持をえられないものであることはあきらかである」と。

教育労働者が「教育の自由」をめざして「教育課程の自主編成」を要求して管理者のみの一方的な決定に反対し、形がい化しつつある「職員会議の決議機関化」によって教師集団による自律的な決定を追求することは当然であるばかりでなく、教育闘争の最も重要な支柱の一つである。このことが、ストライキに際して、子供の管理責任が管理者にあることを明言することとどうして矛盾するのか。矛盾しているのはほかなぬ「論文」の立場である。もしこどもの「管理責任」というものがあるとすれば、それは学校管理の中に含まれるものであり、学校の管理責任は“あげて”校長(教頭)に在る。日常的には校長の指揮によって管理事務の分掌が行なわれているが、ストライキは当然にも一切の管理事務の分担を拒否する。もちろんわれわれは、教師がストライキに際してこどのたちに必要な配慮を行ない、ある場合には心を痛めることもよく知っている。しかし、それはどこまでもこどもたちにたいする日常的な生活感情からであってストライキを闘う労働者としての当然の義務だからではない。教育過程の自主編成という教育の内容と、学校管理の問題は次元の異なる別の問題だ。

「論文」はこれを全く混同することによって労働者の闘う団結を破壊するばかりでなく、結果として、教育課程を校長の管理下におこうとする政府・自民党を激励する。察するところ日本共産党にとっていちばん気がかりのは「こどもをほったらかしにしてストライキをするなど『手前勝手』でもってのほかだ」という「父母、国民」に評判が悪くなることらしい。しかし、この立場をもう一歩すすめれば、「保護要員」をおいてまでストライキをするより「父母に迷惑をかけ」ない他の方法にした方がもっとも好ましいことになる。

「聖職」者にあるまじきストライキはやめて「聖」なる一票で教育を守ろうではないかとでもいうのであろうか。彼等の「政党支持自由」論の真の根拠はここにある。

日共の「政党支持自由」論

「論文」は、「政党支持義務だけ」が「とりわけ、教師と教職員組合連合にとってはいっそう重大な害悪をもたらすものである」と主張する。それは、「思想、信条の自由を前提としてなりたっている教育、研究活動の自主性をみずからおかし、さらに教師が真の教育をおこなう基礎としてまもるべき人格の尊厳さをもふみにじるものとして、教育そのものにきわめて否定的な影響をもたらさせずにはおかない」からであると。

今まで、教師の「労働者性と「専門性」との「統一的な全体像」を強調していたはずの「論文」が、ここではいつの間にか労働運動と教育研究活動を完全に混同している。しかし、いっそう重要なことは、教職員組合にかぎらず、「動労」問題をはじめ今一様に展開されている日本共産党の「政党支持自由」論のなかみを明らかにすることである。

「論文」は、「労働組合の機関決定による『特定政党支持』義務づけ体制が、第一に「組合員の憲法上の基本的権利をじゅうりんし、労働組合の本質的性格をふみにじってその団結を破壊」し、第二に、「真に労働者の利益を擁護しえない中間政党の支持を労働者に強要しているという点」で誤りであり、「革新統一戦線の結成にとって決定的な障害」だと強調する。彼等の主張はきわめて明快である。すなわちその根拠はまず何よりも現行憲法にある。

たしかに憲法は「思想、信条の自由」を規定している。しかしこれはブルジョア民主主義にもとづく「市民的自由」の規定であって、階級闘争の武器としての労働組合の内部運営とは問題の次元が異なっている。「論文」の強調する「組合民主主義」はけっしてブルジョア民主主義=市民的自由と同一ではない。したがって労働組合の機関による「特定政党支持」の決定はどんな法律的効果ももたず、したがってまた決定に反したからといってどんな法律的制限を受けることもない。問題は、労働組合員の「労働組合内の権利」にたいする圧迫であり、組合員への義務の強制にある。「特定政党支持」を強調することがまちがっているのは、憲法違反だからではなく、同一の職業と同一の労働を基礎としてのみ保障される労働者の闘う統一を阻害することにある。したがってそれは、「動労」にたいして日本共産党がやったように、裁判に提訴して国家権力の判断を求めるべき「市民的自由」の問題ではなく、闘う統一を追求する労働組合の中で闘いとられるべき労働者の階級的自律的規範なのだ。

もし「論文」の主張にしたがって憲法による「思想、信条の自由」を論拠にすれば、自民党支持の自由をことわるどんな理由もない。日本共産党はついに階級闘争の武器である労働組合をブルジョア民主主義に解体する。われわれは彼等のようにいつまでもブルジョア民主主義に腰を落ちつけ、社会主義を恐れて闘わないのでなくて、現在の「民主主義」を有利な武器としながらもプロレタリア民主主義をめざしてたたかっているのだ。そうして組合民主主義の変形でも適用形態でもなく、正にプロレタリア民主主義をめざして闘う階級的な武器なのだ。

日本共産党のいわゆる「特定政党支持の自由」とは結局、共産党を支持する「自由」であり、共産党への投票の「自由」に外ならぬ。だからこそ第二に強調しているように、社会党は労働者の利益を擁護しない「中間政党」だから「支持を強要する」ことはまちがっているのであって、「真に」労働者の利益を擁護する日本共産党こそ支持すべきだと、語るに落ちている。こうして日本共産党は、必死になってその独占的な支持を固守しょうとしている社会党と同じように、労働組合の指導権を握ることによって自らの票田にしょうとする点では全く異なるところはない。その意味では、「特定政党支持」の強制的な義務ずけも、それを批判する「特定政党支持自由」論も、労働組合と政党とのゆ着の異なった形態なのだ。

今、必要なことは、闘う統一をめざして政党と労働組合とのどんなゆ着も排し、革命的労働者政党と労働組合との階級的な共同闘争を発展させることであり、この闘いの中でこそ、労働者政党の政治的な指導性を高くうちたてることである。 

おわりに

この「論文」は教職員組合だけでなく、現代日本の労働運動を日本共産党はどこへ導こうとしているのかを端的に示している。いやそれだけではなく、この「論文」ほど現在の日本共産党がついにおちいった日和見主義戦術が鮮らかに映しだしたものはない。しかしまた、日見主義戦術は知らずしらずの内に戦略までにはいのぼるという典型を教えている点でも見事な実例となっている。

この「論文」をつらぬいているいくつかの柱がある。その第一は、敵の攻撃を恐れるあまり、その防衛論を展開しながらいつの間にか敵の土俵にはまりこんでしまうことである。「国民」の名による教師のストライキへの攻撃にたいして、「国民に責任をおう教育」論から教師の性格論へとのめりこむうちに、教師の最も本質的な階級性をなおざりにする結果になっているのもそうである。しかしそれ以上に重要なことは、攻撃をさける「最良の方法は」攻撃する者と同じ穴の中に入ることであり、そのためには味方を裏切っても恥じないという彼等の態度をあからさまにしていることにある。

今春の教祖弾圧は日本共産党をたじろがせた。しかし、闘う教育労働者はこの弾圧の中でこそ一層闘う決意を固めて立ち上がり、ますますストライキ権回復への熱意を燃やしつづけて次の闘いを準備している。まさにこの時に「指導部隊」であるはずの日本共産党は敵を過大視し、闘うことを恐れ、日和見主義に転落したのだ。それには理由がないわけではない。

第二の柱である議会主義への堕落がそれである。今、彼等の評価のすべての基準と尺度は「議会内多数派」の獲得にある。最近ひらかれた日本共産党弟四回中央委員会総会では日常的選挙活動が重大方針の一つに加えられたというが、それは直ちにこの「論文」にも忠実に反映している。スト権回復も教育権の獲得もすべて「革新統一戦線」と称する「議会内多数派」による「民主連合政府」の樹立に解消されている。それはどこでも適用し、何にでも効く日本共産党の万能薬でありジョーカーなのだ。ここでは経済的、政治的大衆闘争だけが創りだすことのできる階級的、革命的力量がいつでも選挙と得票に還元される。ここから出てくるのは、いつでも多くの人々の耳に入りやすいことばであり、大衆への追随であり迎合である。それはいつの間にか闘う主体を置き去りにする。

そうして第三に、そのすべては「民主主義革命」論という時代錯誤の革命論に源流がある。日本におけるらん熟し切った生産力と生産関係の矛盾に目かくしして、今では適用しなくなった「二つの敵」論にしがみつき、昔ながらの二段階革命論(三〇年代人民戦線論から一歩も出ようとしない彼等の立場がある。それは、発展する世界の現代と日本の現実から目をふさいで、自己の主観で世界をながめ、自分を中心に世界をまわそうとする独善的な主観主義から生まれている。そこに、敵を恐れ、味方を恐れ、闘争をさけ、変革を恐れる日本共産党の日和見主義がある。ストライキをさける日和見主義戦術は変革を忘れる日和見主義戦略にはいのぼり、選挙と得票を金科玉条とする戦略は労働者階級と労働組合を投票箱に解体し、革命を改良主義にすりかえる。

われわれは、こうした日本共産党とのきびいしい思想的対決を闘いとることなしに革命的変革を準備することはできない。日本共産党の民族主義・議会主義と改良主義・日和見主義との思想闘争によってこそ真の革命的労働者党の建設を実現することができるのだ。


現代帝国主義と統一戦線――日本共産党の統一戦線論を批判する―― 松江 澄

労働運動研究 1973年  

 

はじめに

 総選挙の結果、日本共産党が飛躍的に議席を増大させたことは各方面から注目され、今回の選挙の評価を含めてさまざまな議論と討論が幅広く行なわれている。ここではその中の一つの問題点――そうしてそれが最も重要な問題でもあるが――としての、統一戦線と国会を通じる過渡的政府の問題について検討したい。なぜならば、現在の国会のワク内での民主連合政府の樹立を、当面する「革命に有利な条件をつくる」重要な環であるというのが、日本共産党の主張に外ならないからである。

しかし、こういう日本共産党の主張に対して、かつて日本共産党にあって革命論争の参加した私にとって、これは或る種の感慨なしにいうわけにはゆかない。

 一九五八年の七回大会へ向けて中央から提案された党章草案をめぐる論争は、戦後日本共産党で党内民主主義が保障された唯一の時期であっただけに、党内外で活発な討論をよびおこした。私が今でも忘れることができないのは、たしか六全協の一年ばかり後、五六年の後期だったと思うが、本部でひらかれた全国書記会議(当時県委員長を書記と呼んでいた)での討論の一コマである。

 私は当時広島県委員会書記としてこの会議にのぞみ、書記の中でほとんど唯一人、当時の党中央に反対して執ように討論を迫ったことがある。私の前の方にすわって、もっぱらアメリカ帝国主義と日本独占資本のブロック権力論を批判してくいさがったが、最後には宮本もその亜流の諸君も明快な答弁ができなくなった。その時眼の前にいた野坂が私に向かって、アメリカ占領軍の下でどうして革命に移行するのかと、逆に質問した。私は、大衆の革命的闘争に依拠して議会を利用した統一戦線政府をつくり、下からの闘いと政府による上からの攻撃で権力の変革に着手するとともに米軍の撤退を要求すれば、現在の国際的条件の下ではアメリカの軍事介入と武力衝突なしに――もし衝突すれば日米戦争になる――独立を達成する可能性がある。もちろんいつでも暴力的介入の可能性があるが、中央のいうように二つの可能性を並列的に提起するのではなく、われわれは平和的移行の可能性を積極的に追求すべきだと答えた。そうすると野坂は大きな声で、米軍がいるのにそんなことができますか、米軍は必ず暴力でつぶしますよと、例のアジ調で叫んだことがある。それから二年、はげしい討論を経て七回大会がひらかれた。

 私は代議員としての本会議の発言以外に、綱領小委員会の委員として他の諸同志とともに宮本と真向から対決したが、この委員会の記録は未だに党内で公開されていないらしい。また私は政治報告小委員会の委員としても日本帝国主義復活論争に参加した。そうして忘れもしないのは、当時私とともにこの委員会のメンバーであった上田耕一郎が、自説を撤回して日本帝国主義の復活を認め原案修正に同意したことである。大会では党章案は棚上げとなり、政治報告と行動綱領を採択して終わった。

 それから十五年、今、日本共産党は得々として国会内多数派による民主連合政府の樹立について語り、平和移行を大声で呼びたてて、暴力とは無縁であることをことさらに強調してイメージ転換に忙しい。

 思えば、当時私は発表されたばかりのソ共二〇大会の報告や、前から追求していた東ヨーロッパの人民民主主義革命の影響を受けていたことは間違いない。今改めて当時をふりかえり、その後の情勢変化と合わせて自己の意見の再点検と再検討を迫られ、ここ数年理論的にも実践的にもその追求に没頭してきた。

 しかし日本共産党は、かつての暴力論を平和移行へ、かつての議会利用の無視から選挙の結果によってはいつでも「民主的」に交替する合法的な民主連合政府論へ転換して涼しい顔をしているが、その転換の理由も自己批判も唯の一かけらも発表されたことはない。宮本一流のなしくずし転換といえばそれまでだが、そのうち、誰の目にも事実に相違していることが明らかな「半占領従属国」規定も、このやり方で変えるに違いない。

 私がここで問題にしたいのは、今日の日本共産党の路線の理論的な根拠になっていると思われる「極左日和見主義の中傷と挑発――党綱領に対する対外盲従分子のデマを粉砕する――」評論員(『赤旗』一九六七年四月二十九日)――不破の最近の著書「人民的議会主義」でもこの長大な論文の学習が強調されている――のうち、「日本共産党綱領と国会の問題」および第十一回大会の報告と決議のうち、「民主連合政府と統一戦線」の部分であり、またしたがって現在の日本共産党の統一戦線論と統一戦線政府論である。

 評論員論文では、「日本革命の具体的条件」として三つの問題を指摘している。それは第一に民族民主統一戦線結集の可能な条件であり、第二に現在日本の国家機構のなかで大きな権限をもっている国会の中での適法的な統一戦線政府樹立の可能な条件であり、第三に平和的手段による革命の可能な条件である。この中で第三の問題については、用心深く誰しも否定しない古典的な「敵の出方論」を用意しているので、主として第一と第二について論じたい。

 本来、統一戦線論と議会利用論、また平和移行論は別なものである。しかし、統一戦線論は統一戦線政府の問題を通じて発達した国の議会を利用する問題と、また議会利用論はその「合法性」を通じて平和移行の問題と――転ぷくをねらう反動勢力を「合法的権力にたいする反徒」(マルクス)にするという意味で――深くかかわり合っている。

 ここではまず高度に発達した資本主義国としての日本における議会利用の問題を手がかりに、主として最も重要な統一戦線論を中心に検討したい。

 

国会の利用について

 

 評論員論文は、日本革命の具体的な条件の一つとして日本の国会の位置を上げている。「第二の重要な問題は現在の日本の国家機構の中で、国会が憲法上、政府首班の指名権をはじめ大きな権限をもっていることである」と強調し、戦後国会の新しい地位と役割として、第一に直接・平等・秘密の普通選挙、第二に「国の唯一の立法機関」として、最高裁を除いては政府をはじめ他のいかなる国家機関も国会の決議にたいする明白な拒否権をもっていないこと、第三に内閣総理大臣の氏名権を持ち、したがってどんな場合にも国会の承認なしに政府をつくることはできないことをあげている。したがってブルジョア議会としての弱点と制約を持ちつつも統一戦線政府を適法的につくり得る可能性があり、「国会で安定した過半数(すなわち一人や二人多いだけの過半数ではなく、議会内でも反動勢力に対して数的にたしかな絶対多数)をしめるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ革命の条件をさらに有利にすることが出来る」(綱領)としている。

 日本の国家機構の中でしめる国会の重要な位置については誰しも否定するものはないだろうし、またあげられた三つの点についても別に異論はない。フランス国会のように首相の指名権もなく、大統領権限の絶大な国と比べて日本の国会は「法律と制度」の上で随分「民主的」に大きな位置をしめ重要な権限をもっていることは事実である。しかし、このことだけならどんな反動学者も憲法概論にも政治学教科書にも書いてある。そうしてわれわれもまた今日の闘いの中で議会を利用することの重要性を充分心得ているつもりである。

 ここで問題なのは、評論家がレーニンまで引用して強調している国会闘争の重要性と、国会を通じる過渡的政府の革命的位置づけとは、似ているようで全く別なことだということである。そうして今ここで論ずべき課題は後者なのである。

 統一戦線政府の国会内多数派による成立についての一般的な問題点は、選挙制度、統一戦線政府の樹立を可能にする国会内多数派の成立――決して野党的多数派ではない――、樹立後の安定した国会内多数派の維持、および樹立後の全過程を通じる敵の攻撃等であろう。評論員論文は、「統一戦線政府の成立は『権力への一つの過程であり、権力への橋頭堡をにぎること』(第八回党大会綱領報告)」を確認しつつ、『統一戦線政府が適法的に樹立されるという前提そのものが絶対的なものではない』といい、「選挙法の改悪や議会制度の破壊、右翼反動分子からの攻撃、テロ、クーデターなどの手段にうったえて統一戦線政府の民主的合法的な成立への道そのものをとざそうとすることは十分予想されることである」とのべている。

 もしそうだとすれば、選挙期間中や選挙後さかんにPRしている政権交替論や暴力否定論、またすぐにでも選挙でできそうに宣伝する民主連合政府は国民の関心を買うための選挙戦術なのだろうか。しかし何れにしても明らかなことは、国会内多数派によって成立をめざすことだけなら社会党はもっと先輩だし、闘う統一戦線と統一戦線政府の革命的な性格を抜きにすれば、民主連合政府も国民連合政府も社会党政府の延長としてその本質は変わりない。

 今日、国会が事実上の政策決定とその執行を行う国家独占資本主義テクノクラシーの副え物になっていることは周知の事実である。したがって国会を通じて適法的に成立する過渡的政府が橋頭堡として権力の獲得に向って「官僚機構と国家機関の粉砕」ないし変革しようとすれば、あらかじめそれを包囲し、事実上それをマヒさせるだけの議会外革命勢力が組織されていることが不可欠の前提条件であり、またこのような議会外大衆闘争に依拠してこそこの過渡的政府の革命的性格が維持されるであろう。その意味でわれわれにとって最も重要なのは、議会の中だけで民主連合政府ができるかどうかのあれこれの予想と分析ではなく、それに革命的性格を与える統一戦線の可能性は日本共産党が主張するように存在するか否かということである。

 

統一戦線について

 

 評論員論文が「日本革命の具体的諸条件」の中で第一に強調している民族民主統一戦線結集の可能性を論じるためにも、日本共産党の革命移行論と統一戦線との関係を明らかにしておく必要がある。

 日本共産党は周知のように民主主義革命から社会主義革命への二段階革命論の立場に立っている。そうして当面する反帝反独占の民主主義革命の条件を有利にするために、「党と労働者階級を中心とした民族民主勢力が議会外の大衆闘争の強大な発展と結びついて、国会で絶対多数をしめ、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する統一戦線政府を適法的につくり得る可能性がある」(綱領)と主張している。しかし第一一回大会の決議では、「同時に党は綱領でも明らかにしているように、民族民主統一戦線の政府がつくられる以前にも、『一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたって一致できる目標の範囲でも、統一戦線政府をつくるために』たたかう。そして、今日の情勢が提起している課題は、まさにさしあたって平和・中立・民主・生活向上という目標範囲で一致できる民主勢力を結集した統一戦線の結成であり、それを土台にした民主連合政府の樹立である」といっている。つまり、同じ大会の政治報告でのべている「七〇年代のできりだけおそくない時期に達成」しょうとしている「民主連合政府」はこの政府に外ならない。

 結局日本共産党は、まず平和・中立・民主・生活向上の統一戦線を土台にした民主連合政府の国会内多数派でつくりあげ、ひきつづいてこの統一戦線を民族民主統一戦線政府に発展転化させて変革に着手するというわけである。ここには二段階革命論の前段階に統一戦線とその政府の二段階がある。

 第一一回大会の政治報告は、大会の中での、当面する平和・中立・民主・生活向上の統一戦線に独立の課題が結び付けられていないという質問に答えて、「統一戦線の結成の複雑な過程を考慮して、反帝・反独占の民族民主統一戦線を一貫して望んで努力しながらも、それにいたる過程として当面、現実的に広範な国民の世論、および民主的な勢力が容易に一致しうる共通の課題として、日本の中立化、軍事同盟からの離脱と、日本が侵略戦争にまきこまれることに反対する平和の旗じるし、――この民主勢力のなかにつねに確認されている一致点にもとづく統一戦線の結成を重視しているのであります」とのべている。そうして「日本が自立した帝国主義になっているかどうかというと問題についてはさまざまな意見の相違がある」として、こうした統一戦線こそが、「現実的に独立の課題の達成にもっともすみやかに接近する道であります」と強調している。

 つまり、「独立」の課題は、「現実的に広範な世論、および民主的な勢力が容易に一致しうる共通の課題」にはまだなってないというわけである。そのうちにだんだん分かってくるとでもいうのだろうか。こうしてかつての「独立なければ中心なし」という教条は見事にその反対物に転化した。これが「従属論」のなしくずし解消でないとすれば、随分と人をバカにした論理ではないか。

 何れにしても、日本共産党が七〇年代の最も重要な任務として提起しているのは、結局、平和・中立・民主・生活擁護(向上)の統一戦線とそれにもとづく民主連合政府であることだけは確かだ。それではこの統一戦線を成立させる可能な条件はあるだろうか。また統一戦線を革命的な戦線に転化させる可能性はあるだろうか。

 

(1)  統一戦線戦術の歴史的経験――防衛から攻勢への転化――

 

 統一戦線戦術の歴史的経験についてはほぼ一致した定説がある。

 それはレーニンが最後に指導したコミンテルン第四回大会(一九二二年)にはじまり、その後コミンテルン内部の複雑な過程を経て第七回大会決議で明らかにされた反ファシズム統一戦線の成立である。とくに重要なことは、レーニンが第四回で提起し、第七回大会で決定された統一戦線政府の構想である。それはまだ変革のための労働者政府ではないが、それへの「接近ないし移行の形態」として目的意識的に提起された点で画気的な意義をもっている。

 それはやがてフランスの人民戦線内閣(共産党は閣外支持)およびスペイン人民戦線政府として実践の課題に移された。フランスのブルム内閣は、その後、後退してついに倒れるが、スペインではこの政府が闘いの炎の中で革命的人民権力に転化し、その革命的民主主義の実現を通じて新しい型の人民共和国に発展したが、最後に国際的なファシストの武力干渉によって消滅した。

しかし、こうした経験は第二次世界大戦の戦中・戦後を通じて再び発展し、とくに東ヨーロッパの多くの国々では、ソ連軍の圧力の下で人民民主主義革命に成功し、今日の社会主義の基礎がきづかれた。また中国では反帝民族解放統一戦線による長期かつ困難な闘いを通じて今日の中華人民共和国の基礎がつくられたことは周知のとおりである。さらに戦後西ヨーヨロッパとくにイタリア、フランスでは戦時中抵抗闘争を闘った地下の戦線が浮上して権力に迫り、革命的民主主義的発展に有利な一連の制度をきりひらき、イタリアでは一時共産党が政府に参加したこともあったが、やがて復活再起し巨大独占圧力を前に、その後も終始激裂な闘いが全戦線にわたって展開されて今日に至っている。

 こうした一連の国際諸経験はわれわれに一つの重要な問題を提起しているが、それは、統一戦線戦術における「防衛から攻勢への転化」の課題である、(この点では私は年来の主張は清水慎三氏「統一戦線論」と一致している。)この課題は「二つの戦術」から由来するレーニンのすぐれた指導の中から生まれた。

 よく知られているように、レーニンは帝国主義時代における一国社会主義革命の理論をうちたてるとともに、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を指導し、それは一九〇五年革命の一時的停滞の後、一九一七年二つの革命を通じて歴史的に実施された。レーニンの革命的な思想の中で「転化」の思想はマルクス主義的弁証法の最も重要な核ともいうべきであろう。そうしてこの思想は、常に「権力への接近と移行」を追求する課題としてコミンテルンに継承され、スターリンによる一時的中絶はあったにせよ、第七回大会のディミトルフ報告と決議で新しい時代の新しい戦術として成立した。

さし迫る戦争とファシズムの危険から人民の平和と民主主義を守る広範な統一戦線結集の可能性は、同時にその闘いの経験を通じて戦争とファシズムの元凶に対する逆襲としての統一戦線政府の革命的な性格を提起した。民主主義防衛の戦術は革命的民主主義への攻勢戦術に転化し、人民権力の樹立に成功する実例を歴史的に生み出した。以後民主主義的統一戦線の戦術は、広範な大衆を闘いの経験を通じて革命的な潮流へ組織する革命的戦略として定式化され、今日ほとんどのすべての共産党・労働者党によってその民族その社会に対応したさまざまな統一戦線が提起され、闘いつづけられている。

しかし、われわれにとってこの戦術の持っている一定の限界を明らかにすることはとくに重要である。それは民主主義的な性格を持つ統一戦線が広範な人民を組織し得る根拠としてこの防衛的な性格である。そうしてこの戦術が新しく獲得した攻勢的な性格も、逆にその広い防衛的な性格に根拠を持っている。平和と民主主義(独立)に対する凶暴な弾圧が強ければ強いほど防衛的統一戦線の幅は広く強いし、押さえつける力が大きければ大きいほどそれをハネかえす力は強い。こうしてそのバネのようにはねかえす力こそ権力に対する新しい攻勢への転換を生み出す根拠となる。防衛に成功した時は、目的であった民主主義の回復=元の状態以上の深刻かつ徹底した民主主義の実現=革命的民主主義へと必然的に発展するし、またその発展を組織することは、こうした経験がないときに比べて幾百層倍も可能となる。したがって逆説的にいえば、民主主義的統一戦線の革命的攻勢的性格の度合は、政治反動による民主主義の否定と抑圧およびこれに対する人民の怒りと憤りの度合いにかかっている。

この戦術は戦後、高度に発達した資本主義ではその攻勢的性格を先取りして反独占民主改革の闘いとして提起された。この場合の民主主義はすでにかつての民主主義のとどまらず、あらかじめ深刻な改良を含む新しい民主主義として提起されている。つまり民主主義的統一戦線の基底にある防衛的性格と攻勢的性格は統一され、経験の蓄積と情勢の発展にもとづいて防衛と攻勢は二段階にではなく一つの過程に組み込まれている。しかしなおこの戦線のもつ防衛的性格は重要な意味と役割を果たしている。

 

(2)戦後日本の統一戦線の諸経験

 

このような統一戦線の理論と経験は、戦後日本においてどのように具体化され、発展させられたであろうか。

戦後もっとも機の熟していたと見られる客観的条件の下で、山川均によって提唱された「民主人民戦線」(民主人民同盟準備会)は、社共の対立によって結局実現されなかった。(これについては私自身実感をもった経験がなく、もっと当時渦中にあった人々によって再検討されることを期待する)

その後日本共産党が提起した最初の統一戦線は一九四八年三月に提唱された「民主民族戦線」(敗戦直後の「人民解放連盟」はまだ統一戦線とはいえまい)であり、宮本によってその具体化と評されている「民主主義擁護同盟」である。(宮本顕冶「革命の展望」一九四八年)。宮本は後々までも占領下日本でいち早く提唱した(コミンフォルム批判以前に)民主民族戦線の推進者として自負し、したがってこの「同盟」を日本における統一戦線の原形として高く評価していたようである。

 しかし「民主主義擁護同盟」はまもなく世界平和評議会準備会のラフィット書記長によって、最も幅広い運動体であるはずの「平和を守る会」がその一構成員であることのあやまちを指摘された。しかしそれ以上に統一戦線としての致命的な弱点は、この組織が幅広い結集体でありながら社会党系を含まず、もっぱら共産党を中心とした戦線に終わったということである。

 その後「ビキニ」を契機に、広島・杉並を起点とした全国的大衆運動として発展した原水爆禁止の署名運動は、やがて「原水爆禁止日本協議会」を生み出した。「原水協」はとくに政党を中心にしたものでない大衆的な運動体であって、いわゆる統一戦線とはいえないにしても、事実上社・共・総評を軸にしていたという意味で、ある種の統一戦線的な経験の一例ということができよう。この運動と組織は戦後日本の平和運動として最も重要な役割りを果たしたことはいうまでもない。しかしこの組織はソ連の核実験を契機とした「いかなる問題」をめぐって分裂したが、発展する情勢の中で核問題の相対的位置が歴史的に後退するにつれて事実上の解体を招き、今日ではきびしい大衆的批判はありながらも、社共それぞれの対立的カンパニア運動になっている。

 それ以上に統一戦線の経験として特に需要な教訓を与えているのは「安保反対、平和と民主主義を守る国民会議」の運動と組織である。日本共産党の第八回大会では、「それは共産党、社会党の直接の共闘による政治的統一戦線ではないが、社共を含む広範な民主勢力の統一戦線の一つの形態であり」、「日本における統一戦線の発展過程の具体的な一形態である」と規定した。さらに第九回大会ではこの規定を再確認してその「継続発展と質的強化のために努力」することは、「民族民主統一戦線をめざすわが党の当面の中心任務にそうものである」として、休業状態を余儀なくされている「安保共闘」を再開させるため全力を挙げることを決定している。その後社共の対立によって事実上の解体状態になった後も、しつようにその再開をアピールし、各団体に呼びかけつづけている。日本共産党にとって「安保共闘」は、民族民主統一戦線へと発展させるべき「虎の子」であったわけである。しかし、この「安保共闘」も、社共の分裂と日本帝国主義の進出とアジアにおける帝国主義的再編による安保条約の性格変化にともなって、共産党の一貫した主張にもかかわらず事実上解体した。

 もう一つの統一戦線の経験は、東京都知事選をめぐって結ばれた「統一選挙協定」と「明るい革新都政をつくる会」である。この運動と組織は美濃部都知事を誕生させて大きな成功をおさめ、日本共産党はこれこそ今後の統一戦線の一つの規範だと極めて高く評価し、ことあるごとに「美濃部方式」を強調している。しかしこの組織も選挙が済めば、社共の対立と選挙闘争という緊迫感の消滅にともなって事実上解体している。

 「民主主義擁護同盟」は別としても、「原水協」、「安保共闘」、「明るい会」それぞれについての積極的な面と弱点、とくに解体に導いた直接の原因等を事実に即して徹底的に究明することは、運動の前進のために極めて重要である。しかし私がここでとくに問題にしたいのは、この三組織が何れも事実上解体した共通の原因はないのか、もしあるとすればそれは何か、ということである。

 たしかに三組織とも解体と深い関係があるのは、社共の対立と分裂である。しかしこの三つの組織がその位置と度合は別として、何れも社共の共闘を事実上の軸として成立していたとすれば、社共の対立と分裂は組織の解体と同義語であってその原因ではない。いいかえれば、なぜ社共が分裂したのか、ということでもある。

 もちろんこの問題を究明すれば、共産党・社会党それぞれの組織体質と政治方針、また相互の歴史的な関係と伝統的なセクト主義の問題があるだろう。しかしこうした諸問題は全てに通じるものであって、この問題特有の原因ではない。今、統一戦線論としてその特有の原因を探るならば、それは何れも統一戦線ないし統一行動の中心課題がもっていた緊迫感が薄れていく中で、社共が対立し、分裂し、組織が解体したということである。

 この諸組織は何れも、ある種の大衆的実践的危機感と緊迫感から生まれている。原水爆が再び使用される危険、安保改正による戦争への危険、自民党に負けるという懸念、何れも差し迫った危険や懸念から平和と民主主義を防衛するという課題が中心となっている。したがってその危険が遠のくか、形をかえるか、あるいは終了するかによって運動は後退し、緊迫感から弛緩状態へ変る中で社共の対立と分裂も生まれ、やがて解体している。

 ここに平和と民主主義を課題とする統一戦線の防衛的な性格の限度があり、したがってまた時間の長短を問わずそのカンパニア的性格がある。

 

(3)現代帝国主義と統一戦線

 

今まで主として統一戦線の国際的、国内的経験の分析から、民主主義的統一戦線の防衛的正確および闘争過程を通じる「防衛的から攻勢への転化と発展」についてのべてきた。そこでひきつづいてその「転化のバネ」になってきた民主主義と統一戦線の関係を明らかにすることは、必要かつ重要なことである。

昨年十二月刊行された『現代と思想』第一〇号は、「統一戦線の現代的課題」を特集している。この特集号の中には田口富久治氏の、日本共産党主催の発達した資本主義国共産党による国際理論会議についての有益な論文をはじめ多くの興味ある論文が掲載されている。中でも景山日出弥氏「統一戦線論の成立と課題」は、すでに私が提起した問題とも関連して特に有益であった。

景山氏はこの論文のうち、「統一戦線と民主主義」の項で、「統一戦線は民主主義のひとつの歴史的存在形態であるブルジョア民主主義と異なった新しい民主主義の発展形態である」と規定し、「まず第一に統一戦線が民主主義の発展形態であるという規定は、統一戦線が歴史的に成立し展開する歴史的諸条件――歴史的な『場』によって制約されている」と主張している。同氏はさらにつづけて、「統一戦線が成立し展開するのは歴史的には資本主義の発達史の面から見れば、帝国主義の段階である。この段階――『段階』規定によってひとつの特別の歴史時代とされている段階――が『場』を形成する。この帝国主義の経済的本質をあらわす『独占資本主義のうえに立つ政治的上部構造』は、『自由競争には民主主義が照応する』のと異なって『民主主義から政治反動への転換』をあらわし、それゆえ、帝国主義は、『対外政策でも対内政策でも一様に』『民主主義一般、民主主義全体の「否定」』である」とのべて有名なレーニンの文章を引用している。念のためレーニンのこの箇所の全文をあげれば次の通りである。

「民主主義から政治反動への転換が、新しい経済のうえに、独占資本主義(帝国主義は独占資本主義である)のうえに立つ政治的上部構造である。独占には政治的反動が照応する。・・・・・対外政策でも体内政策でも一様に、帝国主義は民主主義の破壊を目指し、反動をめざす。      帝国主義が民主主義一般民主主義闘争全体の『否定』であって、けっして民主主義的要求の一つである民族自決だけを否定するものではないことは、この意味で争う余地がない。」(「マルクス主義の戯画と『帝国主義的経済主義』とについて」――レーニン全集大月版二三巻三八頁)

景山氏は用心深く、「レーニンによるこの『政治的上部構造』規定は本質論であって、民主主義一般、民主主義全体がどこでも『否定』されてしまっているとういうことを意味しない。この本質がどこでも傾向としてみられるようになる」といっているが、結局、「統一戦線の概念は、まさに本質論かえらいえば対外的にも体内的にも民主主義一般の否定を意味する『政治反動』にたいする対立概念なのである」と規定する。そこで、否定された「民主主義は被抑圧民族と人民によってのみ担われ、発展させられる。民主主義はこの民族と人民が担うことにとって『政治反動』に対する対抗と否定の概念として再構築されるもの」となり、したがって「第二の意味」すなわち、「統一戦線は国家権力という形態以外の方法で、しかしもっとも普遍的な形態で社会の次元の全体において『政治反動』に対置される民主主義の組織形態である」と論定する。

私がここで景山論文を長々引用したのはそれを批判するためよりも、むしろすぐれた卓見として紹介したかったからである。今までの多くの統一戦線論の中でこれほど民主主義と統一戦線の関係について論理的に明快な規定した文章はあるまい。しかし、正にそこにこそ問題があり、また今日の問題点がひそんでいるといわなければならない。

たしかにレーニンがいっているように、「自由競争には民主主義が照応」し、「独占には政治反動が照応する」しかし、今日の現代帝国主義(戦後国家独占資本主義)にも同じように「政治反動」が照応し、民主主義一般の否定、ないしその本質的傾向があるといってすませることができるだろうか。

たしかに現代帝国主義(戦後国家独占資本主義)は戦前の帝国主義と区別されるべき新しい段階ではない。したがって戦前と同じような「政治反動」にいつでも転換する「本質的な傾向をもっている。しかし、だからといって今日の帝国主義と国家独占資本主義の上部構造を「政治反動」一般に解消するならば、それは単に不正確であるというだけでなく、その具体的な特長の分析を放棄している点でまちがってさえいる。そうして統一戦線論こそ正にこうした生きて働く事実に対応してこそ存在し得るものであり、統一戦線の「歴史的な『場』が下部構造の段階で規定されるというような観念的な経済決定論でどうして生きた政治に対応することができようか。

今日の国家独占資本主義はそれほど単純ではない。それは「民主主義」の点で、戦前と現在の日本でどれだけのちがいがあるかを考えて見ただけで充分であろう。敗戦と労働者、人民の闘いを通じて獲得された「戦後民主主義」はまだ決して「民主主義一般を否定する政治反動」に転換してはいない。それどころか、支配階級はその「戦後民主主義」を逆用することによって、上から労働者、人民を「統合」し、国家独占資本主義の「管理社会」を再構築している。

現代帝国主義は植民地体制崩壊の中から新しい「民族」的統合を再構成し、新しい闘いの中からすくい上げた「民主主義」を新しいブルジョア民主主義=議会民主主義として再定着させようとしている。つまり現代帝国主義は「対外政策でも体内政策でも一様に」「民主主義」的な統合と管理を進めている。それは対立を含みながらも発展する世界社会主義と、たえ間なく前進する労働者、人民の闘いの圧力を前に、新しい「統治」と「安定」を求める現代帝国主義の主要な傾向である。彼らは上部構造を再構築することによって「安定と統合」を維持しつつ、国家による経済過程への介入を通じて搾取の新しい体系をつくり出し、今まで以上の厖大な利潤を引き出している。

かつてはスターリンがいったように、「ブルジョアジーが自ら海中に投げすてた平和と民主主義の旗を労働者階級がひろい上げ、高くかかげて闘うことによって人民を労働者階級の周囲に結集」することができ、その闘いを通じて防衛から攻勢へ転化して革命的な端緒をきりひらける時期もあった。しかし今では、ブルジョアジーは一度なげすてた「平和と民主主義」の旗をもう一度ひろい上げることによって労働者と人民を上から統合管理しようとしているのだ。

自由競争に民主主義が、帝国主義に政治反動が照応するとすれば、現代帝国主義には、いつでも政治反動へ転換する可能性をもつ「民主主義」的統合と管理が照応する。その典型の一つは今日の日本に外ならない。そこにわれわれ自身の闘いの経験と実感を通じて、かつて迫力と緊迫感をもって闘われた平和・民主主議闘争の弛:緩と迫力の弱さがあり、そこに平和と民主主義の統一戦線のもつバネの弱さの原因がある。

景山氏の論定は多くの重要な意義をもっているが、実は景山氏による論定の土台になっている情勢が発展し、正にその「歴史的な『場』」が変化しているのだ。「古いバネ」も、ひとたび公然たる政治反動への転換がひきおきれば再び有効な力を発揮するに違いない。しかし今のわれわれに必要なのは、「古いバネ」に油をつぐことではなく、動いている事実と情勢に対応した「新しいバネ」を探求することなのだ。

 

国家独占資本主義との闘い――序論

 

すでにのべたような「民主主義」的な統合と管理は、今日の日本の社会にむかっての時代には想像さえできなかったほどの新しい様相をつくり出している。

異常な速度で発展する生産力、とりわけおどろくべき技術の革新は、生産と市民生活の全面に新しい特長をつくり出している。生産の面では「労働の疎外」は誰の目にもロコツに見えすいている。自動車工場労働者には、技術の革新と搾取のメカニズムで強度の労働緊張を強いられ神経をすりへらしながら、つくったすばらしい自動車を自らの手に買い戻すために一層の緊張と消純を強要されている。生産力が発展すればするほど、技術革新が進めば進むほど、生産力は何のためにあるのか、技術はだれのためにあるべきなのかが小学校の生徒にも明らかになる。搾取のメカニズムはレントゲン写真のようにその真髄を透視することができるようになった。かつては分かりにくい学習をしなければ理解しにくかった「経済内強制」が、あたかも誰の目にもすぐ分かる「経済外強制」のように感覚を通じて感得される。

市民生活が生産力の発展と技術の革新による多少の近代的便宣と利益の替わりに受取るものは、無限の交通地獄、果てしない公害とどめない物価高騰である。今日ほど機械と技術が人間のためにあるのではなく、全くその逆であることが明らかになった時代はない。しかし、それは決して人間を昔のような「ドレイ」にするのではなく、少なくとも法律と制度のワク内での個人の権利は極めて丁重に「尊重」されるが、困った問題は何一つ解決されない。管理された「民主主義」は一人一人にバラされたアナーキーな生活を再統合してGNP世界第二の大国を積木細工のようにつくり上げるが、その頂点に最も「民主主義」的な議会がある。

こうした上からの「民主主義」的な管理と統合に対抗できるのは、それと競合してその「真」を争う「平和と民主主義」の闘いではなく、これと正面から対決する下からの「自主管理・市民参加」の闘いなのだ。今、重要なことは、「ホン者かニセ者か」の争いではなく、最早極限にまで達している生産力と生産関係の目に見えた矛盾に内容的に迫る闘いなのである。「何のために」という根源的な問いかけにこそすべての闘いの出発点でなければならぬし、またそれはすべての人々の口から発せられはじめている。すべてのことが改めてその意味を問い返される時代でもあるのだ。

国鉄労働者の遵法闘争はまだ現在の規定の下ではるにしても、自己の作業=労働過程を管理する闘いとしてはじまっている。それは地味ではあるが、スケジュール・ストライキとは際立って異なり、はなばなしい「労働の放棄」以上に、管理の端緒的な闘いとして核心に迫っている。さらに作業管理の選択の基準が既成の制度から階級的で自由な選択に飛躍する時、この闘いはすでに変革の闘いに発展しているだろう。その意味で遵法闘争は要求達成の闘争手段であるとともに手段を超える契機をもっている。

また公害闘争の中で獲得されつつある企業への工場立入調査権は闘争の新しい萌芽を含んでいる。まだ限定されているものの、それはもはや単なる反対闘争ではなく、住民参加の過渡的な一形態となるだろう。こうした介入が部分から全体へ拡大されるとき、それはすでに変革を志向する闘いとなるだろう。

民主主義闘争が社会の主人公に対する防衛と反対の闘いであるとすれば、自主管理と参加の闘いは自らが社会の主人公になるための闘いである。この闘いは民主主義闘争のように上からの静態的平面的な統一戦線の組織形態をとらず、不均等に発展する下からの闘争の動態的重層的な連鎖を形成することになるだろう。そうしてこうした諸闘争は新しい社会=社会主義をめざして巨大独占と権力に対決する新しい統一戦線となるであろう。それは決して賃金や権利の闘いを捨象するのではなく、こうした諸闘争を徹底して闘い抜くことからのみ出発する。労働者の下からの戦闘的再統一の力こそその起動力であり指導力なのだ。

そうしてまた、景山氏がいうように、旧来の統一戦線が「社会の次元の全体において『政治反動』に対置される民主主義の組織形態」とすれば、新しい統一の闘いと組織――自主管理と参加の闘い――は、「社会次元の全体において」国家独占資本主義に対置される社会主義の組織形態の萌芽として、新しい社会のどんな官僚主義をも許さぬ基礎ともなるだろう。

当面この闘いは国家公共部門とそれに関連する領域から始まるに違いない。何故ならば、たとえ上からにせよ、「すべての人民のために」という錦の御旗は、これを逆用することによってこの闘いの社会性を拡大して直接核心に迫ることを可能にするとともに、他の部門と領域以上に組織しやすい条件をもっているからである。

今日の社会の特長は、一つの闘いが深部に達すれば革命的な連鎖を伝導するという性格をもっている。矛盾とその暴発はかつての時代より一層早い連動を生むに違いない。下からの管理と参加の闘いに裏づけられた労働者、人民による闘いの過程で形成される強固な統一の力こそ新しい社会の源泉なのだ。情勢はわれわれの足下の闘いを要求している。「パリの五月」ならぬ「日本の五月」はその延長の上にのみある。(一九七三・二・一) 



特集 自治体闘争の問題点 その1

 

地方自治か住民自治か――広島における住民闘争の経験――

      松江 澄     労働運動研究  1970年6月   No.  

 

『地方自治』とは何か

 

 「地方自治」という言葉は、戦後流行した言葉のひとつである。総理大臣から労働組合まで、自民党から共産党まで、誰一人反対するものはいない。それどころか、左右問わず、政治と行政に関する集会で、「地方自治の確立」あるいは「地方自治を守れ」というスローガンが掲げられないことは珍しい。

 やがてひらかれる今年の全国自治研集会の中心スローガンは「地方自治を住民の手に」であり、日本共産党の選挙スローガン(一九六七年)にも、「住民の力で真の地方自治をかちとろう」と掲げられている。

しかし、「住民の手」に握ろうと握るまいと、また、にせものか「ほんもの」かは別として、一体「地方自治」もしくは「地方自治体」というものは存在し得るのか。いや「地方自治」とはそもそも何か。「地方自治」とはどんな実体を持つ概念なのか。

 羽仁五郎氏を引き合いの出すまでもなく(「都市の論理」)、「地方自治」あるいは「地方自治体」という言葉はそれ自身矛盾する概念である。「地方」とは権力サイドから見た「中央」との対立概念であり、「自治」とはそれ自体、権力と対立する概念である。こうして対立する二つの概念が一度結婚するとどこへでものぼって誰でも道をあけて敬礼する。誰もが反対せず、誰でもが賛成するのは良いことだが、そのかわり楽にもならぬ。ちょうど「国民主権」という言葉がそうであるように。

 日本共産党は、「ふみにじられる地方自治」(民主的な地方自治の実現をめざす日本共産党の政策と闘争―一九六七年「議会と自治体」臨時増刊)の中で次のように解説している。

 「都道府県、市町村などの地方自治体は、二つの性格を持っています。一つは国家の下請機関であるという性格です。もう一つは、地方議会の制約を受け、住宅、教育、衛生、社会保障など住民の日常生活とふかい関係のあるさまざまな問題を対処する地域住民の自治組織と言う性格です」と。しかし、「議会の制約を受け、住宅、教育、衛生、社旗保障など住民の日常生活とふかい関係のあるさまざまな問題を処理する」ことが、「住民の自治組織の性格」なら、「地方自治体」という言葉を「国」に置きかえ、「地方議会」という言葉を「国会」におきかえたらどうなるか。ここには「憲法」に忠実な民主主義はるがマルクス主義はない。

 もっとも、日本共産党によれば、戦後一九四七年まで存在していた「地方自治体」も、アメリカ帝国主義の改悪によって根本からふみにじられ、「主権者としての住民の利益に奉仕し、その安全、健康、権利、福祉をまもるものから、もっぱらアメリカと日本の大資本に奉仕するものにつくりかえられた」(同前)ということである。憲法も地方自治制度も占領軍の指導の下でつくられた。とすれば、占領軍は「救世主」から「悪魔」に急変したわけだ。

 それは別としても、日本で「自治体」という名に値する「都市」が果たして何時、どこにあったろうか。もしあったとすれば、中世末期ギルドを中心に形成された新興都市「堺」位のものではあるまいか。

 明治以後あらたにつくられた府県制度はもとより、歴史的には共同体的な性格を持っていた町村も、封建的な支配を継承した「革新」明治政府によっていち早く支配体制にくみこまれたが、戦後の新憲法下でも基本的には変わりない。支配側にとっても、「近代国家」として「国民主権」に対応する「地方自治必要であったし、また「国民」と「住民」が国と地域の真の主人公になるための闘いにとっても、一定の限度内で武器になり得たということである。

 「地方自治体」とは支配のための擬制にほかならぬ。しかし、同じ「地方自治体」でも、府県と市町村とでは相違がある。それは、歴史と地縁を別とすれば、主として「住民」と「権力」への距離による相違である。住民に近いほど住民の抵抗は強く、住民に遠く、従って権力に近いほどその直接支配の圧力は強い。「地方自治」が強いか弱いかではなく、「地方自治体」への住民の抵抗と闘争が強いか弱いかが問題なのだ。

 われわれにとって必要なのは、かつて存在していた「地方自治」を「住民の手に」とりもどすことでもなく、また「住民の力」で「真の地方自治」を実現することでもなく、もちろん「三割」ほどはあるという「地方自治」を「十割」にすることでもない。われわれにとって必要なことは、「地方自治」のゴマ化しをバクロして「地方自治体」と闘い、「住民自治」を闘いとることでなければならぬ。

 日本共産党の文書の中にも、「住民自治」ということばはしばしば出てくるが、言葉だけでなかみはない。結局のところ、「共産党を先頭としてほんとうに自民党と対決する真の民主勢力が首長と地方議会の多数をしめるならば、個々の地方自治体で、住民の利益のためにたたかう民主連合都道府県政、市町村政を実現することは十分可能です」(同前「議会と自治体」ということにつきる。選挙で共産党の議席が膨張すれば「地方自治」も膨張し、「真の民主勢力」の幅が広くなるほど「地方自治」もひろがるわけである。

 しかし、今の体制の下で、果たして「真の民主勢力」の連合によれば、「地方自治」が実現できるかどうかは別として、少なくともここで「実現される」予定のものが、闘う「住民自治」でないことだけは確かである。何故ならば、「住民自治」は、要求実現の闘いを通じて確保される権力への「対抗陣地」であって、決して「民主的」な行政区画でもないからであり、また「住民自治」は、投票や議会の中のオシャベリでは決して闘いとれないからである。

 今、われわれが探求しなければならないし、また探求しつつあるのは、闘う「自治体」であり、その拠点をつくることである。

 広島のささやかな経験はそれを教えている。もちろん、基町や庚午の闘いはそのほんわずかな端緒にすぎない。

 

基町住宅建設の闘い

 「私達が現地に住みついてから、早いものは二〇年、遅いものでも十数年を経過しています。

 当地は爆心地近く、もと軍用地であった関係で、あの悲惨な原爆の直後から、家族を奪われ生活と住居を失った人々が自力で掘立小屋を建てて住みつき、爾来つぎつぎと、苦しい生活のため住むに家の無い者が此処をすみかとして今日に至っており、その数、千戸近くを数えています。

 このうち、直接被爆世帯は全世帯の三分の一をしめ、その他のものも多かれ少なかれ原爆で家を焼かれ、あるいは戦争で生活を奪われたものであり、広島市内のこの種地域の最大規模で、いわゆる『原爆スラム』と呼ばれています。

 地域の大部分の人々は、中小企業の低賃金労働者、失対労働者および零細な小商業者であり、生活保護世帯も少なくありません。

 現地の住宅は殆んど、便所、炊事場はもとより、窓のない家さえある状態で、度重なる火災の恐ろしさを身にしみて感じています。

 また『負法建築』を理由に上下水道は敷設されず、汚水、汚物は河川に自然流下氏、最近、県衛生研究所に監査を依頼した手押しポンプの水はすべて飲料不適との判定にかかわらず、毎日の生活のため飲まないわけにはゆかない状態で、万一の悪質伝染病流行を思えばはだ寒いものがあります。また子供の教育、健康はいうに及ばず、就職、結婚に至るまで大きな影響を受けています。

 ここではまだ『戦後』は終わっていないのです。現に終戦後二〇年経った今日、いまだに防空壕の中で光のない生活を送っている人々もいるのです。こうした地区が、高度成長といわれる今日、日本の、しかも『平和都市』広島の中心部にあるのです」。

 これは昭和四十一年二月、はじめて代表団が上京して国と交渉したときの建設同盟の要求書の一部である。

 ここは、延長ほぼ二キロ、四・九三ヘクタールの河川敷に延々とつらなる不良住宅群八〇〇戸、一〇六五世帯が住み、一ヘクタール当り一六二・三戸五一六人という他に例を見ない密度となっている。(四三年十一月県調査)

 この内、九二%はバラックに住んでおり、残りの八%も老朽住宅で、畳数は約六〇%の世帯が一人三畳以下の状態で、被爆世帯の中では一畳未満が四・一%もある。職業は七%たらずの零細商業以外はすべて労働者であり、熟練工一〇%、常傭労働者・職人、商店員が三〇%、日雇、臨時工が二三%で、全体の七割以上が月収四万円以下である。(以上、四二年七月阪大大藪助教授調査)

 この地区の闘争が始まったのは昭和三十八年春からであった。

 当時、数年がかりの福島地区都市改造闘争を現地の人々と闘い終えたわれわれは、始めても河岸のバラックの中で川本氏(現在、同盟会長)数十数人の活動家と話し合った。今まで何べんも口約しては逃げていったいわゆる議員族をよく知っている人々は、不信と期待とのまざったまなざしでわれわれを見ていた。われわれは福島闘争の経験を話し、現状維持的な立退反対ではなしに、積極的な住宅建設闘争を、しかも、誰かに頼むのではなく、皆で一緒に闘おうと提案した。数度にわたる夜の会合で討論の結果、ともかくやって見ようと決まったのは何度目かの夜も大分ふけてからだったが、多くはまだ半ば疑心暗鬼だった。

 運動はまだ組織と調査からはじまった。この年の六月、早くも二〇〇戸で基町住宅建設促進同盟(現在四〇〇戸)が結成され、直ちに調査活動が開始された。十名内外の活動家が労働の合間を見ては現地を調査し、夜は各戸を訪問して使用畳数、収入、家族構成等を調べて廻った。運動の第一歩は闘争の主体を作る組織の建設であり、第二は、まず自らの状態を自ら調査を通じて知ることであった。それは運動の目標と方法をつくり上げる上で何よりも大切なことであった。こうして調査にもとづく数度の研究と討論の中から、住宅地区改良法を適用させ、川を埋め立てて近代的なアパート住宅の建設を国と県に要求することを決定し、十一月始めて県副知事その他の関係者と交渉を開始した。

 実態調査もせず、今までその日ぐらしにここをさけて通ってきた県にとって、何一つ積極的な対策があるはずがなかった。いきおい立つた力の前に、結局彼等は、今後どんなことも同盟への事前連絡なしには行わないことを前提に、われわれのプランを検討することを約束せざるをえなかった。その後数度の交渉を経て、三十九年六月、県土木部長との交渉の中で、

(1) 現地、あるいは現地に接続する地域に改良住宅を建設する。

(2) この調査、計画に当たっては必ず同盟に連絡して事前協議する。

(3) 埋め立てを含む住宅建設については四〇年と予算を目標に努力する。

   の三点を原則的に確認させるところまで発展した。

 しかし、その後県は容易に具体プランを明らかにせず、秋に入ると、流量調査の結果現地の埋め立ては困難だが、接続する上流に二万坪の埋め立てが可能であり目下検討中だが、埋立地の利用、特に改良住宅の建設については県・市の意見が一致しないことを理由にこの計画の困難さをくりかえし強調し始めた。

 そこで同盟は大衆動員の準備をするとともに、もし四〇年度に予算化されぬときは、一切の行政計画を拒否して闘うと県に最後通告した。こうして漸く四〇年三月県会に二万六〇〇〇坪、五億一〇〇〇万円の予算が提案、可決されたが、この間、自民党政調会長をとりかこんで回答を迫るという一幕もあった。

 埋め立て予算は決定されたが、事態はそう簡単ではなかった。埋立法での必要な同意者である市議会が六月市会でついに同意を保留したからである。これには県・市間の対立問題もからんでいたが、戦前は別荘もあった川岸の一等地に改良住宅はもっての外だという「高級」なノスタルジアとともに、埋立地を横取りしようとするボスのかけひきもあった。

 同盟は直ちに市に押しかけて抗議するとともに、その後半年以上もの放置にたまりかね、カンパをつのって四十一年二月上京して直接政府にも要求した。三月漸く市議会も同意し、五月から埋立て工事が開始されたが、まだ必ずしもここに約束通りの住宅を建設するかどうかははっきりしていなかった。

 同盟は九月、再度代表団を上京させるとともに、その帰広を待って、同盟集会所に国、県、市の責任者を呼出し、公開集団交渉を行なった。余り広くもない集会所にすしづめにつめかけた人々の追求の中で、彼等もしぶしぶながら、改良住宅の建設を一日も早く実施すべきだと認めなければならなかった。

 この間、共産党は「生活を守る会」を組織し、同盟をひぼうするビラをまき、住宅建設闘争は行政当局に協力するものだと必死に宣伝を行なった。しかし、その甲斐もなく建設闘争が成功しそうだと見ると、四二年四月の選挙では、「皆さん基町に住宅を建設させましょう」と得意の早がわりを演じて物笑いのたねになった。

 七月、四度目の火災がおきて河岸の南部八二戸一七一世帯が焼失したが、焼けあとへの立入禁止のため数百名の武装警官が動員されて住民と対立し、連日の烈しい集団交渉で救援対策と仮設住宅建設が決定された。こうしたきびしい情勢の中でひらかれた八月の水害・災害臨時県会で、知事は漸くわれわれの要求を原則的に認め、市側との正式交渉に入った。また一方、水道敷設を要求する集団交渉の結果水道局もついに土手下までの敷設を認めた。

 運動をはじめて以来五年目の四三年三月、当初予算でやっと調査費がついた。

 その後十一月の実態調査を経て四四年三月、基本計画を決定したが、それはついに河岸から基町全域一〇万坪に及ぶ大建設計画となった。

 事業費総額は一五六億五千万円で、改良住宅二六〇九戸、公営住宅一〇四九戸合計三六五八戸(十二―十五階建アパート)の外、小学校、幼稚園、保育所、病院、集会所等の附帯施設も建設することになり、今、埋立地の上に河岸用の高層住宅建築が開始され、四十六年度完了の第一棟から入居がはじまることになった。

 平和の象徴「原爆ドーム」の足下に戦後二十五年間、原爆と戦争の遺産として放置されつづけた「原爆スラム」は、今ようやく労働者の近代的な住宅群に生まれ変わろうとしている。

 しかし、これですべてが終わったわけではない。七年間の運動と闘争を通じてつちかった確信と力を土台に、同盟はひきつづいて家賃、集団作業場等の要求を検討。研究し、次の闘いにそなえている。

 

  庚午地区の闘い

 

 庚午地区市の中心から約四キロばかり、戦前は農地が多かったが、戦後いち早く住宅地区として発展し、現在では四五〇〇世帯一万五〇〇0人をかかえる広島市の大きなベッド・タウンになっている。

 ここでは戦後早くも農地改革をめぐる農民組合が組織され、実力闘争まで行なわれたが、全体としは次々に住みつく勤労者の住宅の中で、町内会は上からの役員組織にとどまり、住民の要求をとり上げることもなかった。

 この地区で引き続く数度の大闘争の発端となったのは昭和三十五年から始まった国道闘争であった。

 戦後中、広島市をつらぬき下関までつづく国道二号線を軍用道路として拡幅するいために行なわれた区画整理事業は、この地区二十四万坪の範囲に及び、軍の圧力で住民から土地をとり上げて道路はつくったが、その後始末もせずそのまま終戦をむかえた。昭和三十五年やっと腰を上げた市は、いきなり数百人の地区の人々に清算金通知書を送付した。

 寝耳に水で、土地を取られた上に金まで取るとは何事か怒る人々は山口同志を中心に区画整理民主化同盟を組織し、通知書を一括返上して闘いははじまった。当初わずか二,三〇名だった民主化同盟は闘いの中で数百名に発展した。市を相手に数度に及ぶ集団交渉の結果、ついに市は一旦発表した清算計画をとり消し白紙に還元した。しかし、国には何一ついえぬ市の弱腰に愛想をつかした民主化同盟は、つづいて土地をただでとり上げた国に対する闘いをはじめた。

 「この道路はわれわれのものだ」という大きな横断幕が二号線の上にはり出され、道行く人々や自動車をおどろかせた。国道事務所はかけつけ警察もあわてたが、強い地元住民の団結と決意の前についに指一本出せなかった。民主化同盟は代表団を上京させて国に抗議し、国道の買上げを要求した。

 こうして三年間闘い抜いた結果、昭和三十八年ついに音をあげた国と県、市は一億円をはき出して清算のやり直しをすることになった。

 この闘いがすんで翌年、庚午地区は水害を受けたが、つづく四〇年もさらに上まわる大きな水害となり、水は道路にあふれ家屋や作物は甚大な被害を受けた。この地区は戦前にも大洪水で水びたしとなり、押入れまで浸水して死者も出たことがあるが、戦後はほとんど毎年雨期に入ると水害に見舞われぬ年はなかった。それは川下の泥水につかって小ポンプではとうてい排水できぬ上に、山ぞいで盛んに行なわれているずさんな団地造成工事によって泥水が流れ、被害を倍化させていたからである。

 水害から町を守ろうという闘いは四〇年六月、水害の最中からはじまった。山口同志を中心に組織された水害対策委員会はまず降雨量と排水能力の関係、流水の経路等の調査を行なったが、その結果、毎年の水害はむしろ当然だと分り、直ちに対市集団交渉がはじまった。水害対策委員会の要求書を前に、市は排水路の再整備と能力の高いポンプの必要を認めたが、長期計画のためとてもここ数年の間に合うものではなかった。対策委員会は代表団を上京させて国に要求し、数度の交渉の結果、二億円のポンプ三基の予算化をかちとった。

 しかし、市はなかなか腰を上げず、まず排水路の整備のためだといって昔からあった川土手下の潮廻しを埋め立てて三〇〇〇坪乃用地をつくり勝手に使おうとした。憤慨した対策委員会はある朝早くこの埋立地にウネをつくって大根の種子をまいた。この実力行使にあわてた市は、大根の若葉が出はじめた頃についに侵奪罪で活動家を告発した。しかし市長との集団交渉の結果、大根を抜いて復元するかわり告発をとり下げるとともに、直ちにポンプ工事を始めることを約束した。

 この工事は、川口の漁民の補償要求で以後一年間難航したが、対策委員会と地元のつき上げで四十二年最初の一基が完成し、つづく年次計画で残りの二基も完成し、現在ではどんな大水にもやっと枕を高く眠ることができるようになった。こうして庚午地区は戦前来の水害を下からの住民の闘いで防ぐことができたが、この闘争の中で山口同志は住民の投票で一八〇〇世帯の庚午中町町内会長に選出された。

 水害闘争が一段落する頃には、すぐに次の闘争が待ちかまえていた。

 この地区で小学校を建設することは十数年来の要求であった。事実上十年前にも要求を出したことはあったが、土地がないからという理由でそのまま放置されていた。しかしその後の人口密度の急激な上昇は、隣接町にある草津、古田の二校をすし詰学級にしてしまった。古田小学校では昼休みのせまいグランドは芋の子を洗うようになり、運動会には父兄があまり来ないようにと学校から通知を出す始末だった。その上、国鉄と宮島電車線の二つの線路を毎日子供に横断させることは、日々母親の痛切な懸念だった。事実この運動がはじまってまもなく一人の子供が電車にはねられて亡くなった。四十三年の春、集団市長交渉からはじまった建設闘争は二年つづいた。学校建設の必要は認めながら土地がないから困難だという市に対し、建設委員会は、かつて区画整理でとり上げた土地でつくった公園に居すわっている市の園芸指導所を移転させて学校をつくれと要求した。

 ただ他地区との均衡だけを考えて優柔不断な市教育委員、ただ公園の代替地の困難さを訴える建設部局等の官僚セクトを打ち破り、県教委を通じて文部省への新設要求書を提出させたのは、四十四年二月ひらかれた要求大会に結集した住民の力だけだった。朝早くから夕方まで立ちつくして二つの線路を通過する一日二五四本の国鉄と一日三六四本の電車を調査した婦人活動家の報告は、庚午中学校の講堂につめかけた大会の人々に改めて大きな衝撃をあたえた。

 こん度も上京代表団が組織され、直接文部省への要求と交渉を行なった。密接に関係する国、県、市の教育関係当局へのねばり強い、しかし断固たる闘いはついに勝利した。四十四年度の予算でまず一年生の校舎建築がはじまったが、この建設計画の中には、他府県まで調査団を派遣して研究した建設委員会の要求の多くが予算のワクを超えて貫徹されていた。残りの校舎は四十五年中に完成し、根分け分校から始まって独立に数年を要する現在の学校新設制度のワクを突破して、名実共に一年から四年までの独立小学校がこの一年間で完成することになった。

 今年四月の開校式に、今までの慣習に従ってぎょうぎょうしく関係地域の議員や多くの来賓を招こうとした市教委は純粋な教育行事として直接関係者だけで行なうか、さもなくば同日どう場所で集会をひらいて開校式を粉砕するという建設委員会の剣幕に屈し、その要求通りの開所式を行なった。結局、はじめからおわりまで住民の運動が完全に指導権を握り、市教委は今後とも予想される教育闘争に戦々恐々としなければならなくなった。

 今、庚午地区ではひきつづきバス・電車運賃の闘争が進んでいる。電鉄は不合理な庚午からの値上げをコッソリ取消し、三千名の署名を基礎にした住民の運動は一応の成果をおさめた。しかし闘いはすでに庚午を中心に全市に広がり、二〇町に及んで広島地区公共料金対策協議会が結成された。今、協議会は、運輸省―陸運局と業者のなれ合いと住民の不在の値上げのしくみをばくろするとともに、県、市また陸運局、業者に要求して、法と制度にはない公聴会を事実上ひらかせようと運動をすすめている。

 こうした数度にわたる庚午の諸闘争は、すべて都市周辺における都市化矛盾の集中から地域住民生活と環境を守る闘いであった。

 

「住民自治」の闘い

 「住民自治」が「自ら治める」闘いである以上、それはまず「他からの支配」を拒否することからはじまる。

 基町での七年間にわたる運動と闘争の最大の基礎となり支柱となったのは、要求を入れなければ一〇〇〇戸の集団が団結して、立ち退きその他どんな行政計画の実施も拒否すると言う実力があったからである。それは形こそ違え庚午でも変りはない。国道闘争から学校闘争に至るまで、初めは部分から、つづいて次第に広がった住民の権力への実力による非協力が、どんな結集をもたらすかをいちばん良く知っていたのは市と市教委であった。

地域の自治的な要求はこの拒否権を基礎にしてのみ闘われ、また逆に、拒否権は地域の自治的な要求とその闘いの必要から生まれる。しかし、この拒否権は単なる要求達成のための拒否戦術ではない。それは戦術として生まれ戦術を越えている。その底に横たわっているのは基町にあるような支配にたいする無言の反抗であり、庚午に見られるような行政に対する長年の不信であり、それは闘争の発展によってますます強まる。

「地方自治」を守る闘いは発展すればするほど「地方自治体」に対する「信頼」を増すが、「住民自治」の闘いは闘争が進めば進むほど、ますます「地方自治体」に対する反抗と行政への不信を深め、住民の力に対する確信と信頼を強める。

基町で七年前、交渉でかつとった「事前協議権」は七年後の今日では実力で裏付けられている。 ついうっかり立てた住民建設に関する立て札は住民の抗議を受け、同盟の要求によって「上からの布告」は撤去された。現在では何一つ手をつけるにも同盟の「許可」なしにはできなくなった。庚午でも一〇年にわたる連続闘争の結果、市教委は新しい学校建設に伴う諸計画の何一つも町内会、建設委員会と協議なしには実施できない。

こうした力は、要求を基礎に運動と闘争を通じて形成された主体的な組織によってのみ作り上げられた。基町の場合には、いわゆる町内会とは別に組織された個人加入の建設同盟がそうであり、庚午の場合には、区画整理民主化同盟、水害対策委員会、学校建設準備委員会がそれである。そうしてこの活動家集団からはじまった運動がほとんどの全住民をとらえた時、下からの「住民自治」の組織に転化してその武器となった。

「住民自治」の闘いは闘いの連続性と闘いの拡がりによってのみ発展することができる。

現在の体制の下で制度の一般的基準を変えることは、全体の構造を変革することなしには不可能である。しかし個々の具体的な問題では力と闘争によって一点突破は可能である。はじめはほとんどの人にとって不可能と思われていた基町の改良住宅群の建設は、制度的には保障されていながら事実上は閉ざされていた扉を新しく開いた。また区画整理事業における国通買上げや、学校設置基準を突破した庚午小学校の新設などはそれを教えている。

しかし、支配のための機構は、ひとたびひらかれた突破口をいち早く閉ざそうとするが、これはあたかもきず口をすばやくゆ着させる自己保存のための本能的な作用と全く変わらない。彼等はただ頑強にていこうするだけでなく、時には要求を上回る政策の実現をとうして「住民自治」の萌芽を抜きとろうとする。基町河岸の闘いが全基町一〇万坪の大建設計画に発展したのは、闘争の波及という積極的な一面があるとともに、波及を防いでいち早く要求の買取に転じた一例である。また庚午では町内会を唯一の対象にすることで、下からの自治組織を包み込み、町内会を再び上からの「地方自治」の組織に逆転させようと常にねらっている。

こうした「住民自治」の、体制による押しつぶしや買取りを防ぎ、一層この運動を発展させる道は、一度つけたきず口を更に深く更に広げてゆ着のスキを与えず、下からの自治組織を強化すること以外にはない。一つの要求を七年間闘いつづけてきた基町、一〇年間に大きな諸闘争をあいついで闘いつづけた庚午、こうした連続闘争の中ではじめて「住民自治」と住民の「事前協議権」は次第に定着する。しかしこれがただ基町と庚午だけであれば周囲から逆に包囲されて孤立し、やがて「民生的」な体制に吸収される。

そこで、まず突破口の拠点をつくるとともに、点から線に、線から面へと闘いを拡げることが必要となる。庚午を中心に全市的な発展を追求している公共料金闘争はその端緒である。

しかしわれわれの闘いはまだごく一部であり、まだほんの端緒にすぎない。しかし、まず「住民自治」の拠点を闘うことから全ては出発する。

このような闘いは労働運動の新しい追求と決して無縁ではない。職場・生産点での直接大衆闘争による生産管理への肉薄は、どんな新しい機械・技術の導入も職場の労働者の同意がなければ実施させないという実力による拒否権=職場の事前協議権なしには発展しない。上からの「事前協議制」は、ちょうど「地方自治」の発展が一定の限度内で住民の利益を守りながら支配の安定装置になっているのと同じように、職場の労働者の闘いを鎮める役割をする。

擬制的な「参加」から自立した闘争によって自ら「参加」し、拠点の闘いを更に深く一層拡げることこそ、全体の構造を改革するためにまず必要な「陣地」の構築である。

われわれにとって重要なのは古ぼけたできあいの「陣地」を上から占領することではなく、やがて展開される攻撃のための、われわれ自身でつくったわれわれの「陣地」なのである。「地方自治」を守ることではなく、「住民自治」を闘いとることなのである。

(一九七〇・五・一〇)

編集部―本文中に紹介されている公共料金対策協議会が県当局に要求していた公聴会は、去る六月二〇日市商工会議所で開かれた。

 


占領の性格と日本の国家権力

    「前衛」臨時増刊号 団結と前進 第五号 1957年?

松江 澄

 

           

「あらゆる革命のもっとも主要な問題は、うたがいもなく、国家権力の問題である。権力がどの階級の手にあるかということ、このことが万事を決定する。」(レーニン、「革命の根本問題」)

 綱領問題の意見の主要な相異も、つきとめればこの問題、とくにアメリカ帝国主義の支配との関係の問題につきると思う。そこで私は、とくにこの問題について意見をのべて見たいと思う。

 そのために、まず第一に明らかにしなくてはならないのは、論争につかわれるいろいろの概念である。概念が本来ものごとの本質を示すものであるからというだけではなしに、今日の綱領論争が、経験した諸事実を理論化するに当っての相違が主要なものとなっている上からも、とくに重要であると思う。

 たとえば「権力」と「主権」ということについていろいろな見解がある。下司同志は、「権力」と「主権」との区別が必要であることを強調して、「権力とは、支配階級とその支配の道具(国家機構)とを意味する。主権とは、権力がその国の本来の領土と人民の全体にたいして完全に作用している状態をいう。」(団結と前進 第二号)といっている。

 しかし、「主権」とは歴史的な概念である。それがある程度定式化されたのは、十六世紀ヨーロッパの絶対君主の絶対権力をさし、対外的にはローマ法皇の宗教的権威からの独立を、対内的には宣戦布告、講和権、最高裁判権、官使任命権、恩赦権、貨幣鋳造権などを内容とする地方領主にたいする最高支配を意味したことにはじまる。これは絶対主義の近代的統一国家の「権力」を積極的に定式化したものであった。しかし、各国によって異なった経過をたどったにせよ、「市民階級」の「主権」を要求してたたかったブルジョア革命によって「権力」がブルジョアジーの手に移り、次第に「主権」の権力的本質、政治的性格がかくされて、ブルジョア国家の正当性を理由づける法的な側面が前面に押し出された。その結果、「国民主権」「人民主権」という抽象的な概念によって、ブルジョア独裁を美化する役割を果たすようになっていった。ここからその政治的性格と法的側面は分離され、法学的な形式概念としてつかわれるようになった。ところが第二次大戦の戦中戦後を通じての人民民主主義の発展は、この法学的・抽象的な概念としての「人民主権」に、権力的本質と政治的性格をあたえ、その法的な側面と権力的本質は、プロレタリアートの指導する人民独裁のもとでふたたび統一され、さらにプロレタリア独裁の確立は、その権力的本質を前面に押し出すことによって、「主権」それ自身を止揚した。こうして「主権」概念は、絶対主義からブルジョア独裁の成立、発展、衰滅、人民独裁からプロ独裁への発展と確立の全過程に照応しつつ変化し、発展し自らを止揚した。その意味で、第二次大戦後多かれス少なかれ民主的な勢力の発展を反映した資本主義諸国、独立諸国の新憲法の中の「人民主権」「国民主権」について、そのブルジョア的本質を暴露するとともに、法的・形式的「人民主権」に、労働者階級の組織と意識の発展、ならびに広範な勤労人民と統一戦線の発展に依拠し、具体的実体と権力的本質を要求する闘争は、民主主義的社会主義的革命を目ざす運動の一環として位置づけられるべきであろう。

 このように「主権」を階級的歴史的に「権力」と統一してとらえるならば、下司同志のいうように「日本の独占資本が日本の国家権力をにぎっていること(このことは正しい)の日本の主権をにぎっているかどうかということを混同してはならない」という平面的なとらえ方は適切でないと思う。むしろ今日憲法でうたわれている「主権在民」の体内的な具体的な実現と、サンフランシスコ条約の廃棄による対外的な主権制限の排除、すなわち憲法を積極的に守る闘争を、権力獲得に従属させてたたかうことは新しい情勢と条件のもとできわめて重要である。

 また、「権力」一般と「国家=国家権力」とを同一視する見解があるは、これは革命的変革の対象をあいまいにする点であやまっていると思う。最高の支配または支配者を意味する「権力」という概念は、けっしてマルクス主義によって生み出されたものではなくて、マルクス主義の発生よりはるか以前からあったものである。「権力」についてのマルクス・レーニン主義がもたらした新しい発展は、「社会から生まれながら社会の上に立ち、社会にたいしてますます外的なものになってゆく権力としての国家」(レーニン「国家と革命」)、すなわち、「特殊な権力」としての「国家=国家権力」の本質を明らかにした点にある。この「国家=国家権力=階級抑圧のための特殊な武装した部隊」こそ革命にとって「最も主要な問題である。」われわれにとって問題なのは、「権力」一般ではなしに、「国家権力」なのである。したがって、階級支配の道具としての「国家権力」の本質と、その実態としての軍隊、警察などの武装装置を分離してとらえることは基本的に誤まっていると思う。

 現在、表現はどうあろうとも、基地、駐留軍=武装装置を理由として、アメリカ帝国主義と日本独占資本がブロックで権力を握っているという同志があるが、これは正しくない。「国家=国家権力」は民族的には不可分の単一「権力」である。植民地国家はどんな形態にせよ、外国帝国主義者が支配階級としてその国の生産手段を基本的に支配している国家であり、その「国家権力」はその国の買弁階級の支持と協力はあろうとも、単一に外国帝国主義者のものである。またすくなくとも民族国家として形成された国家にあっては、単一の「国家権力」の支配者はその民族国家の支配階級であり、それが外国帝国主義者の支配下にあるならば、それは「国家権力」と帝国主義支配との関係の問題である。たとえどんなに「疎外され」ようとも、それはけっしてその民族の階級「社会から生まれながら社会の上に立つ」という関係から分離された抽象的な「権力」ではないということである。これを混同すると、変革の課題としての「国家権力」の問題が「権力」一般にすりかえられ、革命的変革の対象が不確定になる。したがって「国家権力」変革の課題と、帝国主義支配排除の課題とは本来同一のものではない。帝国主義支配排除の課題は、そのおかれた具体的歴史的条件を考慮しつつ革命的に定式化し、革命への過程をつうじて解決されることが必要であるが、それをけっしてこの二つの課題を単純に混同することをゆるすことであってはならない。

 今日の日本の権力問題を明らかにするためには、今日の発展の基礎である占領体制下の権力問題を明らかにすることが必要である。そうして占領下の権力問題で重要なことは、だれに「権力」があったということではなしに、だれが「国家権力」をにぎっていたかということである。戦後の日本が、敗戦と占領のもとにおかれようとも、民族国家として存続していたことをみとめるならば、その武装装置の重要な部分が「ポツダム宣言」と、これを利用した占領者によって解体させられようとも、「国家権力」は日本支配階級の手中にあった。もちろんこれは占領管理によってアメリカ帝国主義者の全面的な制約と支配をうけていたが、それは「国家権力」変革の課題としてではなくて、アメリカ帝国主義の支配をいかにして排除するかという課題をわれわれの前に提出するものである。これが占領体制下における独立の課題である。

 

              二

 

 宮本同志は、一月四日づけアカハタ論文で、「民族問題をプロレタリアートの利害に従属させて提起するということ」や「プロレタリアートの権力獲得に従属させて提起するという一般的に正当な命題」をみとめつつ、「その国の社会的歴史的条件によっては、直ちに社会主義革命にとりくみ、その過程で戦術的任務として解決される場合も当然あるが、異なった条件のもとでは民族(解放)民主革命として解決しつつ、社会主義革命に発展させるという展望がとられることも、歴史のしめすところである」といっている。私もまた一般的にはこの二つの場合があると思う。同論文も指摘しているように、第二次大戦後の東欧では若干の相違はありながらも、一般的に、「民族民主革命」として解決しつつ「社会主義革命に発展させるという展望がとられ」たし、また歴史的な事実はこのような過程をたどった。そうして綱領草案も宮本同志も、一様に日本の場合もまた、このような展望をもつものとして規定されていると思う。そこでこのような当面する革命の性格を規定する「歴史的社会的条件」を検討してみたいと思う。

 この検討にあたって、われわれがすどおりすることができないのは、五一年綱領である。なぜならば、今日の綱領は、経験と事実をとおして、五一年綱領の批判と検討のうえにこそ、きずかれるべきものだからである。「綱領草案について」は、五一年綱領がアメリカ帝国主義との闘争について「重要な定式化をあたえ」「重要な役割りを果たし」たと積極的に評価している。同時に、「しかし戦後内外情勢の変化、日本資本主義の現段階および農村の生産関係の変化およびそれと関連した日本の反動勢力の実体を正しくとらえることができなかった」ことをみとめている。しかし、このような「歴史的社会的条件」と無関係に、アメリカ帝国主義の支配、したがってまたこれとのたたかいはありえたであろうか。これが果たして、「分析的な」「弁証法的な評価の仕方であろうか。われわれにとって重要なことは、けっしてアメリカ帝国主義との闘争一般ではなしに、戦後日本のおかれた具体的条件のもとでどうたたかうかということである。

 農地改革の評価を誤まったばかりでなく、絶対主義的天皇制――寄生的土地所有制をアメリカ帝国主義支配の基礎とし、戦後日本の独占資本がおちいった「政治的強制による従属」を単純に「買弁化」と規定する見方こそ、「アメリカ占領軍と吉田政府は一つの固いブロックをなしている権力である」(五全協)という権力規定を生み出した。そうしてこの権力を人民の手に移す以外には民族の独立はないという民族民主革命論が成立していた。したがって戦後の経済・政治構造の評価に誤りがあるならば、当然その革命の性格についても、独立の課題についても再検討しなくはなるまい。

 しかし、戦後日本の社会経済の発展段階を正しく評価したとしても、それだけでは占領体制下にあった独立の課題を明らかにすることはできないであろう。チェスロバキアのように農業プロレタアートを有し、日本ほどではないにしても資本主義の発達した国においても、「民族民主革命」を社会主義の序幕的段階としている。それが社会主義革命の発端としての局面を強調するかしないかはさておいても、「なぜチェスロバキア革命の場合も歴史的には『民族民主革命』の旗のもとに開始されたかをもっと深く知」(前掲宮本論文)る必要がある。チェスロバキアと日本のいろいろな相違を考慮に入れたうえでも、占領体制下の資本主義国としての共通な点について、その「歴史的社会的条件」を対比して検討することは一つの重要な手がかりとなるであろう。

 

              三

 

 チェコスロバキアとの対比にさいして、とくに重要なことは、占領をめぐる国際的条件――と占領者とその時期――と占領の目的と性格および占領体制下の政治経済と占領の実態についてのつぎの諸点である。

(1)占領者とその時期

 チェスロバキアの場合は、第二次大戦の最初の時期に、その侵略者ドイツ帝国主義=ナチ・ファシストによって行なわれた。日本の場合は、平和回復後、ファシスト日本に対する戦後処理として、反ファシスト連合国管理というたてまえのもとにアメリカ帝国主義によって行なわれた。

(2)占領の目的と性格

 チェスロバキア占領の目的は、ファシストによる侵略戦争を有利に続行拡大するために行なわれ、したがって無条件、絶対のものであった。日本の占領は、ポツダム宣言その他民主連合国のとりきめた非軍事化と民主化をはじめとする諸条項の実施を監視することを目的としていた。(極東委員会「日本に対する基本方針」)、もちろんこの占領を事実上独占的に担当したアメリカ帝国主義者は、すでに戦後世界の征服計画をもっており、とくに占領の後期にはポツダム宣言のじゅうりんははなはだしかったが、それでも宣言を全く無視することはできなかった。その意味で、日本の占領は条件付、相対的一時的)なものであった。

(3)経済構造

 チェコの場合は「経済の領域ではチェコスロバキア大資本の支配は、チェコの金融、工業、農業大資本たちに、従属的、奉仕的役割をふりあてたドイツ大資本の専制的権力にとってかえられた。・・・・・・チェコおよびスロバキアの巨大企業はドイツ・コンツエルンの一構成部分に転化し、ドイツ諸銀行は、もっとも強力なチェコ金融資本グループをふくむ金融資本の大部分を併合した。」(イ・ブイストルジナ「チェコ革命の性質について」)

 戦後日本の独占資本は占領体制下、その政治的強制とくに貿易と通貨が管理されることによってその支配下におかれた。また財閥解体、独占禁止法、賠償指定によって直接その力を弱められたが、まもなくこの政策は修正され、主としてアメリカ国家資本の投資による援助によってその立ち直りを促進された。こうした状況は、一方では独占資本の強化、発展をうながすとともに、他方とくに従属的貿易構造と通貨管理を中心として日本経済の再生産過程を通じて、アメリカ帝国主義の支配下においた。しかし、本来、外国資本の個別資本への浸透の弱い日本独占資本が特徴的にチェコスロバキアと異なる点は、個別資本への投資による支配は全体としてきわめて弱かったことである。

(4)政治構造

 「政治の領域では、チェコスロバキア情勢における本質的変化は、民族的自由と国家的独立を失ったことに、政治権力が占領者の手に移ったことにあらわれた。」(前同)占領者は、ファシスト的、反動ブルジョアジーと官僚に、「国家統合へのきわめてかぎられた参加をゆるした。」ここでは形のうえでは民族的国家機構がのこされたが、実際の権力は全一的にナチ・占領者の手にあったブルガリアの場合とも異なり、形式的にも民族的国家機構の維持はゆるされず、直接の軍事占領下におかれた。

 これとくらべると日本の場合ははるかに事情が異なっている。たしかに一切は最高指令官の支配下にあり、それはしばしば直接的な支配と干渉となってあらわれた。しかし、国会と、国会を通じての政府、軍隊をのぞく一切の官僚機構は民族的国家機構として存続し、占領者の全一的な制約のもとでも、かなりの範囲の相対的独自性をもっていたことは、今日となって見れば否定のできない事実であろう。これはしばしば日本の支配階級の占領政策に対する合法的な抵抗となってあらわれた(予算の編成、憲法の制定、農地改革等)。もちろんこれは一定の限度内であり、それも最終的には一方的なGHQのさまざまな形による実際上の「指令」によって左右されたが、これをもって「間接管理」をたんなる「擬制」と見ることは正しくないと思う。とくに占領下でも新憲法によって政府の選択をはじめ、戦前と比べれば比較にならない民主的権利がみとめられたことをわすれてはならない。重要なことはチェコスロバキアの場合と異なって、直接占領者による人民の支配が主要な側面であり、これはたんなる形式ではなかったということである。

(5)占領の実態

 チェコスロバキアの場合には、占領者による無条件、絶対の命令と、それを保障する銃剣のテロ体制下におかれ、平和と独立、民主主義と占領者へのほんの僅かな批判も死を意味するものであった。こういう状態と日本の場合は非常に異なったものがあった。もちろん、平和運動、民主主義運動、労働運動に対して直接・間接の数知れない程多くの弾圧が行なわれたことや、占領者の軍事法廷があったことは忘れてはなるまい。しかしこれがチェコスロバキアのように、戦時下侵略者による無条件の暴力によるものではなく、「ポツダム勅令」という形態をとったことは特徴的である。とくに重要なことは、一定の限度内とはいえチェコスロバキアと異なって「民主主義運動」が存続し得たことと、占領の実態が国民の意識に与えた影響の相違である。

 以上のことから、どのような任務がプロレタリアートと人民にとって必要となるだろうか。

 チェコスロバキア―― 一般的には東欧――の場合、祖国の独立を達成するためには、占領者の手から人民の手に権力を移すこと以外には道はなかった。「一九四五年春、チェコスロバキア・ブルジョアジーは、自己の階級支配と自己の国家機関の廃墟の上に立っていた。彼らはミュウヘン降伏以前のただ一つの国家機関や法機関をも拠りどころとすることができず、亡命から何一つ重要なものをもたらさず、占領者と裏切り者がつくった全国家機構と機関を本質的に変え、これを下から新たに建設するための道具となった民族委員会がつくられた。」(前同)。このような具体的な条件は、それがどのような革命の発端になろうとも、当面の革命段階を民族民主革命と規定するものであり、それはまた占領の実態がもたらした人民の意識に無条件に適合するものであった。それは人民の手による破壊された国家の再建であった。

 日本の場合はどうであろうか。サンフランス講和による従属下にある今日でさえ、独占ブルジョアジーは「自己の階級支配と自己の国家機関の廃墟の上に」ではなく、その強化された基礎の上に立って、激しい階級闘争の一切の民主主義運動を圧迫するために、占領下からひきつづく今日の「全国家機関のどれをも本質的に利用」している。

 同じように占領下にあった資本主義国にこのような質的な相異をもたらしたものは何であったろうか。それは単なる国内的諸条件の相異だけではなく、むしろ決定的には、すでにあげたような((1)、(2))占領をめぐる国際的条件とそれにもとづく占領それ自身の相異にあると思う。

 それではどうしたらアメリカ帝国主義者の占領体制から脱することができたであろうか。一般的にいえば、日本人民は非軍事化と民主化を中心とする占領管理を無条件に否定すべきではなかった。それはむしろ歓迎され、その忠実な実施を通じて、将来の社会的変革への道をはききよめるものであった。問題は敗戦とポツダム管理を利用して自己の野望を果たそうとした、アメリカ帝国主義占領者の意図と政策、強制にこそあったのではあるまいか。もしそうだとうするならば、われわれに課されているのは、ポツダム宣言を厳正に実施し、その保障の下に一日も早く「全面講和」によって占領の終了を要求することではなかったか。「ポツダム宣言の厳正実施」と「全面講和」、これこそが将来の社会的な変革の途上に横たわる障害をとりのぞき、そのための有利な条件をつくりあげ、国の独立を達成する道であった。またこの課題が完全な実現を見ない場合でも、帝国主義占領者の無条件、絶対永久の占領をつづけることを許さない国際的情勢と条件によって保障されていることを忘れてはならない。それは決して「国際情勢待ち」ではない、それとも占領体制から脱し、国の独立を達成するためには「民族民主革命」という「最大限確実な道」を用意しなくてはならないのだろうか。それは一切の具体的な「歴史的、社会的条件」を考慮しない、「民族的特殊性」を無視することはではあるまいか。

 ともあれ日本の独立を「民族民主革命」によってのみ可能だとした五一年綱領は、ただ国内の諸関係を正しくとらえることができなかっただけでなく、このような国際情勢と条件を過小評価し、占領の具体的な条件と性格を正しく評価することができなかった。このあやまちの克服は、ただ「民主」の内容を「反独占民主主義」とおきかえることによっては決してできるものではない。それは占領下、帝国主義支配をいかにして排除するかという課題を、事実と経験に照らして再検討することによってのみ可能である。この道をさけてどうして今日の綱領ができるだろうか。少しでも立派な綱領をつくることができるとすれば、それは過去の綱領と意見、分裂時のそれぞれの行動綱領と実践した運動を事実とその変化に照らして総括しつつ、経験と理解の統一と前進をはかることによってのみ保障されるだろう。これこそが「分析的」「弁証法的」な方法ではるまいか。

〔補足〕

「従属国」の国家権力と日本の独立

            一

 私は前文で、国家権力および「植民地国家」と「民族国家」の国家権力についての見解をのべた。しかし、「金融資本とそれに照応する国際政策は、国家的従属の幾多の過渡的形態を作り出す」(レーニン「帝国主義論」)、したがって、ひとくちに「従属国」とよばれる諸国家の国家権力を明らかにすることが必要であると思う。

 「従属国」はすでに知られているように、植民地ないし「植民地国家」から独立した「民族国家」への過渡形態である。植民地ないし「植民地国家」においてはその主要な生産手段は外国帝国主義者に所有され、原住民ないし植民地人民は外国帝国主義者によって直接搾取されている。(これをかりに植民地的生産関係と呼ぶ)。独立した「民族国家」においては、その社会の生産手段はその国の支配階級に所有され、その国の人民は国内支配階級によって直接搾取されている(これをかりに民族的生産関係と呼ぶ。)

 「従属国」は、このような植民地ないし「植民地国家」から独立した「民族国家」への過渡的形態として、その土台に幾多の過渡的形態を作り出すが、それは歴史的、社会的条件に応じて、「植民地的生産関係」と「民族的生産関係」の競合関係と交替を生みだす。しかし、土台におけるこのような過渡的形態――競合関係から単純に、国家権力内部の競合関係ないし比重関係を引き出すならば、それは適切ではないと思う。すでに前文でのべたように、国家権力は「社会に対してますます外的なものになってゆく」権力として単一不可分のものである。かつての日本の支配体制が、天皇制官僚、寄生的大地主、独占資本をその構成要素としていた場合にも、国家権力それ自体としては、単一であったと思う。国家権力は下部構造の単純な反映でもないし、また下部構造から分離した特殊な権力としての国家=国家権力もありえない。むしろそこにこそ、「社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会に対してますます外的なものになってゆき」ながら、支配階級の支配と抑圧の道具になっている国家=国家権力の弁証法的な把握があるのではなかろうか。

 もしそうだするならば、「従属国」がさまざまの過渡的土台をもっているからといって国家権力がブロックで構成され、その土台に応じて内部の比重が変化するというとらえ方は正しくないと思う。土台の過度的諸形態にもかかわらず、「植民地的生産関係」が支配的な生産関係であるならば、その国家権力は単一に外国帝国主義者の手中にあり、「民族的生産関係」が支配的であるならば、国家権力は単一にその国の支配階級の手中にある。従ってひとくちに「従属国」と呼ばれる国家にあっても、その歴史的、社会的条件の相異によって、国家権力の担い手は異なっており決して一般化できないと思う。そうしてこのような国家権力の担い手の単一性にもかかわらず、その土台に応じた外国帝国主義者の支配は、「国家的従属の幾多の過渡的形態をつくり出す」のではなかろうか。従って、同じ「従属国」と呼ばれる国においても、革命の基本問題としては、民族革命を主要な課題とする場合もあるし、これを必ずしも革命的な変革の課題としない場合もあると思う。

        二

 しかし、以上のような「従属国」の権力問題を今日の日本の権力問題に直ちに当てはめることは正しくないと思う。民族問題の解決にあたってとくに重要なことは、その提出される時代の国際情勢と、その国の歴史的、社会的条件である。すでにのべたような古典的な「従属国」の諸問題は、帝国主義による植民地、従属国の支配が民族問題の主要な位置を占める時代に、基本的に民族問題を解決していない国で提起されたものである。今日の日本の従属問題は、植民地体制が崩壊しつつあり、かつ社会主義が世界体制になった時代に、基本的には民族問題をすでに解決したばかりでなく、帝国主義国として他民族を抑圧していた日本が、敗戦と戦後処理を契機に受けるようになったアメリカ帝国主義の支配である。従って、宮本同志のいう(ハタ論文)「従属国家」が、すでにのべたような「古典的な「従属国」と同じような意味を持つものならば賛成できない。

 宮本同志は、日米合同委員会を一例として「国家機構的にもアメリカ帝国主義の支配を日本の国家がうけいれるような仕組みが加えられている」といっている。しかし、この一例から直ちに、日本の国家機構を部分的にせと従属的国家機構と見るならば、それは事実に照らして正しくないと思う。また宮本同志は「日本における権力問題の特徴は、独占資本が国家権力をにぎっているというだけでなく、すでにみてきたようにアメリカの権力が直接に軍事占領や基地所有によって日本人民を支配し、領土を占有する側面をもっていることである。」(一月四日ハタ論文、太字筆者)といっている。しかし、「砂川」に見られるように、今日の基地闘争の主要な方向が、直接にアメリカ帝国主義へむかわずに、反政府闘争として闘われているのは何故だろうか。これは今日のアメリカ帝国主義の基地支配が部分的にも「植民地、従属国」における直接支配とは異なっていることを示すものではあるまいか。それはあくまで、条約による従属を前提としており、従ってその闘争は政府による自主独立の対外政策――サ条約の改定・廃棄の実現にむかわざるをえない。

 宮本同志は同論文で、一応独占資本のにぎっている国家権力とアメリカ帝国主義とを区別しながらも、「革命によって人民に移行すべき権力は、外国帝国主義の支配と、それに従属的に同盟している日本の独占資本の権力」であるとのべている。これはすでに区別したはずの国家権力と外国帝国主義支配権力を再び混同しているか、さもなくば、革命によって人民の手に移行すべき日本の国家権力と、排除されるべきアメリカ帝国主義支配との闘争を一般化し、あいまいにするものである。一応日本権力の「機能的統一」を認めるとしても、それは決して「機構的統一」を意味するものでもない。しかし、革命的変革にとって重要なのは、正に権力の「本質」であり、その具体的形態としての「機構」であって「機能」ではない。それどころか、その「機能的統一」を切断することによって、日本国家権力の「機能的な独自性」を確立する闘争=内外政策の転換のための闘争を、「本質的・機能的な変革」に従属させて提起し、解決することが重要であると思う。

 講和は、そのための諸条件を国民の側に有利に変化させた。ポツダム宣言という国際民主勢力の民主的な制約は実質的に排除されたが、同時に「管理」による国家機構の反動的な制約も排除され、発達した世界の社会主義・民主主義・平和勢力との提携の下に、従属問題を日本の決意によって解決する条件が生まれたことである。アメリカ帝国主義支配の排除が、条約の廃棄によって簡単にできるはずがない。必ず実力によるアメリカ帝国主義の反撃と干渉がるという意見がある。もちろんそれは簡単どころか困難でさえある。しかし、日本の決意によってサ条約を廃棄した場合、実力による反撃=干渉戦争をそのまま許すほど内外民主平和勢力の力は弱いだろうか、今日、戦争を一時的にくいとめるだけではなしに、恒久平和の道を切りひらくことさえ可能にしている「平和共存」は、「一国革命」にとって単なる外的条件ではない。平和運動を第一義的に推し進めると共に、内外路線転換のための政治闘争と正しく統一し、国民の政治的経験をとおして、この力を反独占、権力変革の方向に組織することによってこそ、日本の社会主義への道はひらかれるであろう。

 この場合、日本の完全な独立が、権力獲得以前に達成されるか、あるいは権力獲得の過程で達成されるか、それとも権力獲得の後に達成されるかは、内外情勢と力関係によるだろう。しかし、いずれにしても、これは独立の達成を直接革命的変革によって行なう「従属国」の民族革命ないし民族解放闘争を意味するものではない。それどころかわれわれは、権力獲得以前に日本の国家的独立の課題を提起すべきであるし、それはますます可能でさえある。(広島県委書記)

 

あとがき

 本論文は第四集所載よていであったが、紙数の関係から本集にのせたもの―編集部―(前衛編集部のこと)


私の昭和思想史(22)

        松  江     澄

 

    労研通信 1990720日発行 No7172

 

一、党章草案の発表と少数意見

 

 そこで第七回大会前後のテーゼ論争をまとめて書くことにする。

いまにして思えばこの時期の論争から生れた対立と批判かやがて六

一年の離党に導くことになる⊂ それはこの時期の対立か単に理論だ

けの問題でなく、その理論的対立にともなう「批判の自由」という

党の思想の問題に発展したからである。それは私にとって理論の問

題以上に重要なものと思われた。しかし一定の時期、一定の限界の

なかでは、六全協の五五年から第七回大会の五八年までの二、三年

間は、私の経験する限り―そうして恐らく戦前戦後を通じて―

日本共産党のかつてない「民主主義」的な時代であったといっても

過言ではあるまい。私達は卒直に意見をのべ、対立を恐れなかった。

一九五七年九月三〇日付のアカハタ別外で党章草案が発表された。

その現状規定の基本は、わが国が高度な資本主義国でありながら、

アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国になっていると

して、日本の基本的支配者は「アメリカ帝国主義とそれに従属的に

同盟している日本の独占資本」の二つの敵であると規定する。宮本

の解説によれば、日本の国家権力は米日独占資本の「フロック権力」

に外ならぬと説明されているのだった。従って当面する革命の性格

は、「二つの敵にたいするあたらしい民主主義革命、人民の民主主

義革命である。」と結論する。ところが、こうして確立されるのが「人

民民主主義国家体制」であり、「高度な独占資本主義の段階にある

わが国のこの革命はそれ自体社会主義変革への移行の基礎をきりひ

らく任務をもつ。」とすることで、人民民主革命と社会主義革命は一

つの連続したもののようにも理解されるあいまいなものを含んでい

た。

 

 だが翌年(五八年)一月の宮本論文では、「それを直接社会主義

革命の畢なる部分とみるのでなく、移行期の独自の革命とみる。」

とされ、大会提出草案では「独立と民主主義の任務を中心とする革

命からひきつづき社会主義革命に発展する人民民主主義形態の革命

である。」という文章が挿入されて明確な二段革命論(「三二テーゼ」

風)に修正された。結局あいまいな理論はあいまいな表現をもつの

であった。宮本の胸中には「三二年テーゼ」以来の二段革命論とコ

ミンフォルム批判の従属国論か二重写しとなって執念のようにこび

りついていたのであろう。まず事実があるのではなく、事実を入れ

る二段重ねの箱かまず用意され、事実は必要に応じて切りきざまれ

てあつらえた箱の中に収納されるのだった。

 中央委員会の代表的な少数意見として発表されたのか春日庄次郎

の意見であった。彼ははっきりと日本の国家権力は日本独占資本の

手中にあり、独占かアメリカ帝国主義の対日支配を支えていると主張する。

そのうえで「日本では社会的変革と民族の独立という課題

がからみあって統一している。」と規定する。しかし、現憲法に保障

された民主的権利に基いて合法的に統一戦線政府をつくることが可

能であり、その政府のもとで「サンフランシスコ体制」を一歩一歩

打破することかでさることを確認する。こうして「この統一戦線政

府は労働者階級を中心とする、そうして社会主義的変革をめざす革

命的な政府に漸次発展転化せざるを得ない」と主張し、当来する革

命の性格は社会主義革命であると結論する。

 春日意見は保守的な幹部達のなかではもっとも進んだ意見で革新

派に大いに支持されたが、私にとっては「社会的変革と民族の独立

という課題がからみあって統一している」という認識は中途半端で

物足りなかった。ともかく党章草案か発表されたので、かねての約

束のように全党の民主的討議を活発にさせるための特別の討論誌

「団結と前進」第一集が五七年一〇月一日に発行された。

 私は当時私宅と近い所に間借りをしていた内藤さんと時間を惜ん

で討譲をくり返し、それぞれ「団結と前進」に発表することにした。

私は二人の討論のなかでとくに次の点を主張した。今日社会主義革

命の立場に立つということは、講和によって占領支配か終ったから

ではない。講和は何ら国家権力の変革をもたらすものではない。一

九四五年以来今日まで日本の国家権力に変革はなかった。そうであ

れば占領下においても当面する革命の性格は当然同じように社会主

義革命であったはずだ。この規定については米軍占領の性格と国家

権力のとらえ方こそ重要なカギではないか、という意見であった。

内藤さんもそれを原則的に賛成してくれた。私はこのことを中心テ

ーマにして書くことにした。

 

ニ、全国書記会議と「団結と前進」

 

 党章草案が発表された一〇月、拡大中央委員会につづいて全国書

記会議(当時地方、県、地区の委員長をソ連にならって書記と呼ば

されていた。)がひらかれ、党章草案の説明か行なわれた。当時広島

県委員会書記であった私はこの府県委書記会議に出席した。私達と

向き合って野坂、宮本らか王座を占めていた。はじめに宮本らが長

々と説明したあと質問が認められた。私はすでに数日前にアカハタ

に発表された党章草案と宮本報告を読んで、五〇年間題の頃までは

理論家だと思っていた彼の「理論」がマルクスやレーニンの勝手な

引用のつぎ合せで、まことにあいまいなことを知ってすっかり失望

していたところだった。

 他にも二、三質問する書記かいたが、何れも草案を支持する立場

からのたいこ持ちの質問だった。私はえんりょうなく質問してそのあいま

いさを追求することにした。そこで私はもっばら「ブロック権力」

論のあいまいさと、平和移行についての「出方論」を衝いた。ちょ

ぅど最前列にいた私に、宮本はくどくどと説明したがかんじんの理

論的な急所についてはぼかしなから避けていた。「出方論」につい

ては、私は議会内安定多数を条件に平和移行の現実的な可能性があ

るではないか、とつめよった。するとすぐ前に居た野坂参三か突然

立ち上り、満面を紅潮させて私をにらみなから「いかに統一戦線政府

がつくられたとしても、米軍が出動して武力で弾圧するではない

か。」とかん高い声でまくし立てたのを今でも覚えている。論争は

許されていないので私も負けずに彼の顔をにらみ返してうそぶいて

いた。いつも黙って座り、「眠り地蔵」とあだ名のついた静かなア

ジテーターの野坂が、公式の会義でこんなに昂奮したのを私ははじ

めて見た。それはどこの質問がいやだったらしい。

 当時日本共産党をおおった綱領論争は大きく分けて現状規定(占

領の評価)、国家権力規定(米日独占資本関係論)と変革の性格論

(社会主義革命論と二段革命論)の三点が中心であった。これら三

論点と不可分に結びついているのが日本帝国主義論であり、そのた

めの方法論としての帝国主義論であった。そうしてこの問題は日米

帝国主義の経済的政治的軍事的関係の認識と合せて、日本帝国主義

の自立と復活についての論争でもあった。

 当時の「団結と前進」誌の頁をくってみると、五七年一〇月の第

一集から五八年五月の第五集まで通計七〇〇頁を超え、九〇人以上

か意見を発表している。内藤さんの論文は「折中主義を克服するた

めに」――「民族解放反独占革命」論批判――と題して第四集に、

私の論文は「占領の性格と日本の国家権力」と題して第五集に載っ

た。

 

 内藤論文は情勢論、国家権力論、革命論の全面にわたって胸のす

くようなきびしさで宮本のあいまいな折中主義を衝いていた。論文

は民族民主革命論を徹底的に批判したあとで、「日本の国家権力と外

国帝国主義という二つの権力の区別を明確にしないとき弁証法は折

中主義に転化する。」と指摘する。そうして宮本がはじめは二つめ区

別をみとめる立場にありなから、その矛盾の解決方法を一つの革命

に定式化したことを批判し、「かくして「一つの革命の二つの段階』

論として、民族解放民主革命論の再版にたどりつく」と迫り、民族

解放民主革命論へ五一年テーゼ) の「自己批判をあいまいにし、折

中主義的妥協をもって、党の統一と団結を保持しょうとするならば、

それは思想と行動の停滞を生むのであるごと結論する。

 この批判論文は宮本にはよほど応えたと見えて、彼は早速つぎの

第五集め巻頭の第一論文として「アメリカ帝国主義の侵略性――そ

の過少評価はどこへ導くか――。」を発表した。名指しの内藤論文批

判である。彼はさらにこの論文をのちに著書「日本革命の展望」 に

載せ、党はさらに他の論文集にも再録している。彼は自分の勢力圏

だとかん違いした中国地方委員会のかつては事務局長いまは書記と

して、すっかり味方だと思い込んでいた内藤さんに「裏切られた」

とでも思ったのであろうか。 宮本論文はすでに理論的反批判を担え

た政治的反感をみなぎらせていた。

 私の論文は、占領の性格分析と国家権力論に集中した。私は「社

会から生れなから社会の上に立ち、社会にたいしてますます外的な

ものになってゆく権力としての国家」を再確認しつつ、国家権力は

その社会のなかに階級的基礎をもつ不可分の単一権力であることを

前提とする。従ってそめ単一の国家権力はその民族国家の支配階級

の手中にある。 この国家か外国帝国主義の支配下にあるならば、そ

れはこの国の国家権力と帝国主義支配との関係の問題であると主張する。

「したがって国家権力変革の課題と帝国主義支配の課題

とを区別」することの重要性を指摘する。ここから、「戦後の日本

が敗戦と占領のもとにおかれようとも、民族国家として存続してい

ることをみとめるならば・・・・アメリカ帝国主義の支配を国家権力

変革の課題としてではなく、その支配をいかにして排除すべきかを

われわれの前に提出するめである。」 と結論する。

 つづいて私は、宮本がその年の一月四日付けのアカハタ論文で第

二次大戦下のチェコスロバキアを引き合いに出し、「なぜチェコス

リバキア革命の場合も歴史的には「民族民主革命」の旗のもとに開

始されたかをもつと深く」知る必要があるというチェコスロバキア

=日本革命同型論をきびしく批判した。占領者とその時期、目的、

性格の相異と経済と政治の実態の相異をあげて具体的に反論した。

結局、侵略のためのナチスによる戦争中の軍事占領と戦後ポツダム

宣言によるアメリカの間接占領との基本的な相異を全く無視した宮

本論文を枇判し、「チェコスロバキア―― 一般に東欧――の場合、

祖国の独立を達成するためにはナチス占領者の手から人民の手に権

力を移すこと以外に道はなかった」チェコスロバキア革命との相異

を明らかにした。 この論文は七回大会ではじめて会った理論家の内

野さんからほめられ、草案批判派からも受持されていたので私もホ

ッとした。

 

 三、第七回大回

 

 第七回大会は一九五八年の七月二一日から八月一日にわたってひ

らかれた。この大会のための広島県党会議がひらかれて、内藤、松

江、広兼、林、沖野の五人の代義員か選出された。第七回大会は東

京の中野公会堂でひらかれた。大会の構成がきめられ、大会幹部団

ハニ七名)に内藤さん、役員選衡委員会に原田元中国地力委議長、

資格審査委員会に私が選ばれた。

 まず大会の前にひらかれたのが予備会議であった。 殆んど代議員

全員か参加したこの会議は、いきなり大会をひらくことに自身のな

い党中央か大会の構成や日程について予ぬ代議員の了解をとりつけ

ておこうとするための会議であった。 しかし議長団は確信のない議

事運営ぶりで、失言したりあやふやなことを云って皆が笑い出した

り野次がとんだりした。一日目も学生細胞からの役員選出について

会議は荒れたが、私の一番印象に残っているのは二日目のことだっ

た。地方から選出された大会役員について党中央から疑義が表明さ

れた。なかでも問題になったのか大会幹部団に東京都から選出され

た芝 寛東京都委員長の戦前経歴についてであった。

 彼は戦前の弾圧のなかで転向して下獄したが、獄中で雑役夫をや

り懲戒師の助手でもあったという。本人か立って弁明すると、同じ

獄に居たという西沢隆ニ(ぬやま・ひろし) が、「彼は一級で”一

等飯”を喰っていた。それは彼が当局のスパイをしていたからだ」

と告発する。再び芝 寛が立って自らの弱かったことを認めつつ、

他の獄中の活動家にも飯を分けてやっていたと弁明反論する。 私は

きいていて何とも云えず惰なくなってきた。もちろん転向の間題は

重要だし、ましてスパイについてはもっと重要な問題である。

しかし戦後は自らの弱さを悔いて活動し、多くの党員から都委員長にも

おされ、大会代議員から幹部団に選出されたのではないか。戦前の

獄中での”一等飯”問題で資格論議のけんけんかくがくと争うとは、

私には何かどこかで喰い違っている感じがしてしかたがなかった。

とくに党歴の古さを誇る大幹部か真面目くさって”一等飯”の誹謗

をするのをきいて何とも云えず腹立たしさがこみあげてきた。結局

後はツメ腹を切らされ幹部団を降された。涙を流して退場する彼の

姿を私は忘れない。

 大会第一日は、野坂の中央委員会報告、志賀の副報告へ「モスク

ワ宣言」) につづいて宮本が綱領問題について報告を行ない、第二

日から討議が始まった。発言希望者は予め文書通告して発言(七

分間) し、討論は次第に白熱した。本来この日から始まる討議は政

治報告についての討議なのだが、発言者は何れも基本問題である党

章草案について意見を述べはじめ、討論は綱領論争となって激しく

対立した。 私も通告して指名を受け、「団結と前進」に書いた意見

を重点的に要約して草案批判をきびしく展開し、批判派から大いに

賛同と激励の拍手を受けた。こうして交互に拍手の応酬で正面から

対峙したが、こうしたなかで「新潟闘争」が問題になったときはそ

れまでと違った空気で会場か湧いた。

 この国労「新潟闘争」は国労広島の闘いに関係があったのだ。一

九五七年当時、国労広島第二支部と新潟地本は何れも党の重要拠点

であった。民同の動揺と当局の圧迫のなかで職場の動きが逼塞して

いる状況を切り開くため、まず広島第二支部が立ち上った。それは

春闘で処分(公労法違反) された車掌区分会長の逮捕と処分に反対

して、六月四日に火ぶたを切った無期限職場大会で山陽全線をまひ

させた。この闘いは細胞か中心となって拠点から統一闘争をきりひ

らこうとしたもので、上京中め内藤さんとも連絡をとり広兼、北村

君ら国鉄細胞指導部から相談を受けて最終的に私か判断して決定し

たものだった。これは大いに組合員の志気を鼓舞して闘いは成功し

た。

 

 新潟の闘いは、広島闘争ののち松山大会が開かれ民同派が有名な

「長期低姿勢論」を打出した直後だった。 それは広島と反対に地

本の指令で北陸全線がストに入り激烈に闘ったが国労本部がスト中

止指令を出したことによって瓦解して敗北し、多くの処分者を出し

たうえに第二組合か組織され大きな打撃を受けた。

 こののち党は新潟、広島をはじめ関係党員の活動家会議をひらさ、

長谷川浩さんが議長となり鈴木市蔵らも出席した。この会議では細

胞を基礎にして職場闘争から中国地本までまきこんで闘った広島と、

情勢の変化にもかかわらず上から機関グループで引き渡して闘った

新潟と意見か合わずにかなり激論となり、当時の党中央の指導も問

題となっていた。党大会では、その闘いについて党中央の指導が果

して階級的であったかと新潟の代義員から質問されたのにたいして、

鈴木市蔵が党の力量の弱さを理由にいささか釈明した。それを議長

席にいた袴田が、「いまの発言は鈴木同志個人の発言である。」と

勝手に断言したので会場は大さわぎになって議長に怒号と野次かと

んだ。これは翌日、宮本が中央委員会を代表して袴田の発言は誤り

だと訂正してようやくおさまった。

 

 このあとで松島(北陸地方委書記) がわざわざ登壇して鈴木の力

量不足論を正面から批判して独得の口調でアジ演説を行ない、満場

の拍手を受けた。その後まもなく彼か無理論無条件の綱領擁護派で

あることも分り、そのグループ引き廻しも批判されるところとなっ

た。中央委員になってからの彼は唯々諾々と宮本に従って会議では

常に黙して語らず、何となく暗い感じのする男で私は好きになれな

かった。

 結局、政治報告も綱領草案も「五〇年間題」も平場の討論では結

着はつかずそれぞれ小委員会に付託することになり、その委員を各

地方毎に二名づつ選出することになった。小委員会は政治報告と組織

報告、綱領と規約の草案をめぐる四つの小委員会となり私は政治

報告第一小委員会と綱領小委員会め二つの委員を兼ねることになっ

た。(「前衛」臨時増刊「第七回大会報告集」一九五八年) 私はまず綱

領小委員会に出席して「ブロック権力」論批判をしたが、宮本は忙

しいといって出たり入ったりして討論の中味には入らず、賛否伯仲

して結論に至らず結局保留のためのまとめを行った。私は急いで政

治報告第一小委員会に出席した。ここではちょうど日本帝国主義復

活論争たけなわなときで、私も早速討論に加わった。結局はじめの

うちは抵抗していた上田耕一郎らもついに譲歩し、しぶしぶなから

日帝の自立について原案を修正することになった。

 党章草案について小委員会は「現状規定と革命の性格については

なお重要点における不一致か解決されなかった。したかって小委員

会の大多数の意向はこの党章草案の政治綱領部分を直ちに大会で採

決せず、この中央委員会提出草案を今後中央委員会の指導の下にひ

さつづき討議すべき草案として大会がみとめ、今後適当な機会に最

終的な決定をおこなうことを求めた。」というまとめを採択した。

大会かその他の必要な諸討議(政治報告、「五〇年間題」報告など)

をすませたときはすでに七日目となっていた。

 翌第八日目に至って中央委員の選出に移った。中央委員推薦五一

名、代議員推薦一一四名、だぶったものを整理して一一六名を候補

として一人づつ登壇して代譲員から戦前、戦後の経歴と活動につい

て質問か出され、人によってはまさに糾弾の場ともなった。結局投

票総数四四四票のうち有効投票は四二〇票で一〇名制限連記で三一

名の中央委員と六名の中央委員侯補が決定された。因に蔵原、野坂、

宮本らは高点で、下位は下から中川、波多、安斉、西館らで内藤さ

んはちょうど中間の二四一票で当選した。

 最終日は会場を大井町の品川公会堂に移し各委員会の報告等につ

いて採決が行なわれ、党章草案についての小委員会のまとめは反対

六〇、賛成三四二、保留一三で可決された。良く暑い十一日間の日

程をすべて終り、画期的な第七回党大会はインターと日共万才で幕

を閉じた。このあとどのように展開するかは宮本らを除いては誰一

人知らぬうちに。        一九九〇・六・一五)

(註) この項については私の記憶をただすために安藤仁兵衛「戦後

  日本共産産党私記」を参考にした。決定した文書などについては

  当時の資料にもとづいた。


「市民会議」の結成と新しい住民運動の展開

    労働運動研究 昭和47年51日 No.31号

松江 澄

 広島ではここ十年来、住民運動の新たな展開について追求し、とくに住民自治の運動論と組織論について探求してきた。最近結成された「市民会議」もその試みの一つであり、すでに活動も開始しているので、その実態と経過、性格と展望について紹介しながら住民運動の新しい展開について検討したい。

 

一 広島における住民運動の現状――とくに「市民会議」参加の諸組織について――

 

 このたび「市民会議」結成を決めた諸組織は、地域別、要求別の運動体十数組織と、その他の小規模運動グループおよび個人である。そこで、「市民会議」の中心になっている諸組織の運動の状況がどんなものかを明らかにすることは、「市民会議」が決してこれら諸組織の上部ではなく連帯機関である上からも重要である。

(1)広島市土地区画整理民主化同盟

 原爆によって破壊された広島市の再建を、零細土地所有者から土地とり上げでまかなおうとした広島市の区画整理と都市計画に反対して立ち上がった人々の集団で、市長と数度にわたるマンモス団交を行なうとともに、三〇〇人の書名で自治法による監査請求を行ない、広島市ではじめて監査委員の公開審理を行なわせた。この請求が却下されると直ちに住民訴訟をおこし現在法廷闘争中で、また市長団交でかちとった不正・不合理の調査委員会をひらかせて鋭く追求したが、これを恐れた市当局は、この三月中旬、今までの約束を反古にしてこの委員会の開催拒否を通告し、同盟の烈しい怒りを買っている。

(2)大久野島毒ガス障害徴用者協議会

 戦時中、広島県竹原市沖の大久野島でひそかに行なっていた毒ガス製造の工場に、当時十七―十八歳で徴用され憲兵の監視下で働かされ今なお毒ガス症になやむ人々の集団で、四年前から全県被害者の先頭に立って被爆者並みの援護を要求して、国、県と闘ってきた。その結果昨年ようやく呼吸器症患にのみ適用する医療手帖が交付されることになったが、併発症があるため無料にならず、その後も国と交渉したがラチが明かないので、現在、広島青法協弁護団と協議して行政訴訟の準備をすすめている。

(3)基町地区住宅建設促進同盟連合会

 いわゆる「原爆スラム」と呼ばれている地区で、水は悪く、度重なる火災で危険にさらされていた中で、九年前から組織づくりと調査をはじめ、住宅建設を要求して国、県、市と集団交渉、公開集会等で運動してきた三〇〇世帯の組織である。こうした長年の運動の結果、県市はようやく要求を入れ一昨年から住宅建設を開始し、現在では基町全域を含む三千戸の高層アパートを五ヵ年計画で建設中である。(労研「地歩自治か住民自治か」)

 昨年最初の入居がはじまったが、七、八千円の家賃に反対し、実力拒否の闘いをかけた交渉の後、エレべーター代等についての再検討を確約させて第一陣が入居し、ひきつづいて家賃、店舗について交渉中である。

(4)森永砒素ミルク中毒の子供を守る会

 全国に問題となった「守る会」の中で、岡山とともに二〇〇〇人という全国最大の被害児を持つ広島県の組織として、森永と闘うとともに、ここ数年来県に対して精密な追跡調査の実施を要求しつづけてきた。その結果、県は四十七年当初予算でようやく二〇〇万円の準備費を組み、今年七月実施を目標に検診の予算化と準備体制をすすめているが、これは、国の指定した岡山県を除けば、京都、大阪につづいて全国で第三番目の検診となる。しかし、「誰が、どんな方法で」検診を行なうかは今からであり、現在、最も重大な局面に直面している。

5)知恩保育園存続対策委員会

 市内の私立知恩保育園の廃園に対して立ち上がった若い母親、父親の組織で、六千名の署名を背景に市と数度にわたる集団交渉を行い、この二月、ついに四十七年度から前例のない公立移営を決定させ、四十八年度には新園舎の建設をすることを約束させた。これは婦人労働が進む中で、戦後公立の肩代わりをさせられながら公私の財政格差がはげしく、園舎が老朽化する私立保育園、および僅かの補助で依然としてお茶をにごそうとする保育行政の矛盾をついた母親パワーの闘いとして大きな影響をあたえた。

 現在、ひきつづいて園舎の整備と新園舎の建設を監視するため、建設促進委員会と名称をかえて運動を継続している。

6)草津漁民組合

 十年前、大闘争になった太田川改修補償闘争で中心となった零細漁民の集団で、その後漁協ボスから漁協加入を拒否され、別に漁民組合として組織し今日に至ったもので、今回の草津沖埋め立ての補償からもはずされたため、現在、正当な権利の補償を要求して闘っている。

(7)草津漁業補償公正配分同盟

 草津沖七〇万坪埋め立てのため昨年一月約二〇〇名の単協組合員に対して二〇億三千万円の補償(全額で約百億円)が決まったが、これには市長選前の政治的取引の疑惑が強く、配分に当たっても市と結托した漁協幹部が強引に勝手な配分を押しつけて利益をはかっていた。これに対して批判的な活動家が結集し、約半数の書名をもって同盟を組織し、総会で闘うとともに市を追求し、起工式に対する実力阻止の闘いによって同盟を含む構成配分の委員会設置を約束させた。

 この間、配分委員長が逮捕され、現在検察庁によって六三〇〇万円の背任と不正配分が認定され、二〇億円の再配分が問題となっている。一方市議会では山口議員(労働者党)によって二〇億円の支払内訳が追求されたが、市がこれを拒否したので、同盟や市民会議グループが中心となって、三月二十五日市当局に自治法にもとづく監査請求を提出している。

8)生活と権利を守る市民の会己斐支部

 伊藤忠の団地造成にからみ、住民不在の危険な高架道路をしかも違法に取りつけようとしたのを摘発し、県に迫って工事中止命令を出させるとともに、県、市、伊藤忠を呼んで公開住民集会をひらき、住民の同意なしに工事の再開をさせぬことを確約させた。また民間ディベロッパー無政府的な団地開発と、通学路さえ奪われている道路との矛盾をついて資本負担による新道路建設と団地開発の取締りをきびしく要求した。

 その後、大衆運動を土台に県、市両面に対する行政闘争を進めた結果、新道路計画の約束をとりつけるとともに、二月下旬取付位置の変更と危険家屋の移転補償を伊藤忠に認めさせ、約半年間つづいた工事中止の後ようやく解決した。また県高架道路建設に伴う家屋の破壊を住民要求で補償させるなど幅広い活動を進めながら、己斐住民の先頭に立って闘っている。

(9)庚午市民会議

 この十年間、国道を中心とした区画整理闘争、洪水予防闘争、学校建設闘争、バス料金値上反対闘争等の連続闘争(労研第九号「地方自治か住民自治か」)を闘ってきた庚午の活動家を中心にした集団で、こんど町内会とは別に庚午地区の市民会議を結成し、町民集会にひきつづいて現空港への大型ジェット機乗り入れ反対闘争などをすすめている。

10)魚カス公害対策協議会

 草津南町にある魚カス工場から出る異常な悪臭公害に対し、すでに三年にわたって闘いつづけ、その間会社と公害防止協定を結んで撤去を確約させた。しかし、撤去に要する営業補償に県・市が応ぜず、市が告発した裁判のこともあって数回にわたる県・市を相手にした交渉も進展せず、やがて迎える悪臭「夏の陣」を前に大胆な大衆闘争の準備をすすめている。この問題は、大資本に甘く零細企業に冷淡な県・市の公害防止政策に対する住民と零細企業の共同の闘いとして注目されている。

11)広島地区公共料金対策協議会

 一昨年、バス料金の一斉値上げに反対して立ち上がった庚午、新庄、温品など各地域の人々で組織されたもので、公共料金値上げ冷淡な県に迫り、広島ではじめて県の主催する料金値上げ公聴会を開かせた。その後、料金値上について国と交渉したが、公聴会主義をとりながら利用者は利害関係人でないとつっぱねる国・運輸省の態度に怒り、昨年運輸大臣を相手に行政訴訟をおこし現在法廷闘争中である。

 昨年はまた、再度の料金値上げに反対して立ち上がった消費者協会、主婦協、「府中町広電に反省を求める会」等にも呼びかけ、共同で公聴会をひらかせ、運輸局、各バス会社代表と公開で対決し、今後の公聴会開催を定着させることに成功し、ひきつづいて今年の一斉値上げに反対する運動を準備中である。

12)管理理容師制度対策協議会

 一昨年議員立法で理美容師法を改悪し、従来国家試験のみでとれた営業資格を、知事の指定した講習会に出席した者が得る管理理容師の資格がなければ常時二人以上働く店はひらけず、この資格の無い店に対しては四十六年十二月末日限りで営業閉鎖命令を出すということになった。これを憲法違反として現在法廷闘争をすすめている全国対策協議会の一環として広島でも活動家によって対策協議会が組織されたが、昨年県の指導する講習会をめぐって徹夜の集団交渉をつづけた後ハンストに入り、連日の大衆動員で警察の介入にも負けずに闘い、ついにハンスト四日目に要求を貫徹し、県美容組合を講習会主催団体から脱退させ、すでにとっていた講習会費を県から返還させ、全国の先頭に立って闘った。

 その後、昨年末、この悪法はついに無条件に一年延期され、現在ひきつづいてこの悪法の最終的な粉砕と組合の民主化のために闘っている。

 以上の諸組織に見られるように、その階層は労働者、魚民、零細商工業者等の諸階層にわたっており、運動の強弱はあるが、いずれも次のような点で共通の特長をもっている。

(1)どの組織も、同一の地域あるいは同一の職業の要求にもとづいた自立的な運動組織であること。

(2)何れも国、県、市に対する要求と運動であり、しかもカンパニア的でなく、かなり長期にわたっていること。

(3)既存の特定党派、イデオロギーから出発したものではなく、全くの無党派で、しいていえば運動から生まれた反権力、反イデオロギーの立場にあること。

 

二 「市民会議」の結成と運動

 数ヶ月におよぶ討論を経た後、松江・山口両名の名前で運動相互間の連帯を討議する集会の提案を、まず重だった組織に呼びかけた。その結果昨年十二月中旬、呼びかけたすべての組織の代表四〇名が集まり、これが第一回の準備会となった。

 今回議では、各組織とも基本的には積極的な賛意を表しながら、とくに次の点が主要な討論の対象となった。

 それは、ある代表から、「趣旨はわかるが、皆、自分たちのことが精一杯で、とてもひとのことまでかまってはおれない。口だけでキレイなことをいっても実際の運動にはならない。ほんとうのことをいうべきだ。」という率直な意見が発表されたのが端緒だった。この意見は直ちに他の代表たちから反論された。「自分のことを考えるからこそ他の人々のことも考えるのだ。今日の会合で、こんなに多くの問題が共通の対象(国、県、市)に対してそれぞれ闘ってきたとは知らなかった。もっとも多くのことが知りたいし、また協力し合いたい。」と。討論は完全な討論の中で烈しくたたかわれたが、皆を結成にふみ切らせたのは、結局言葉ではなく、自立的な運動相互の事実にもとづく共鳴と連帯感であった。

 また討論の過程では、次の県市会選挙のためという意見もでたが、それは直ちに全員のきびしい批判にあって引き下がった。どんな意見でも率直にのべる自由と、どんな意見への批判の自由もともに完全に確保されていた。

 第二回の準備会までに、選出された十名の準備委員によって会則と名称の原案が討議された。「広島」という肩書きをつけるかつけないかもかなり議論されたが、結局、地域的な限定はしないというたて前から、唯の「市民会議」となり、会則については長時間の討論の末、「とりきめ」という簡単な申し合わせを「会議」の拠り所にすることになった。

 第二回準備会は一月中旬、同じように前回の代表四〇名がすべて参加してひらかれた。この会議で「とりきめ」案をめぐって重要なテーマとなり討論がかわされたのは、指導と自発性との関係であった。

 中でも「代表も、会長もない組織では指導の中心が不明確だ」という意見が出されたが、「代表をだせばボスができるし、また代表まかせになりやすい。この組織は本来われわれの運動自身が主体であって代表は必要ない。」ときびしく批判された。しかし、この「市民会議」は単に内部連帯やサロンに終ってはならず、対外的に強力な活動を行なうべきだという意見が強く主張され、対外的な活動の場合にはその都度必要な代表をきめて活動し、常時の代表は置かないということで一致した。

 運営については一致して形式民主主義=多数決原理が否定され、徹底的に討論して全組織が一致すれば「市民会議」として活動し、一組織でも反対があれば、一致組織だけで行動することも決められた。会費についての討論ではしつようにカンパ方式が主張されたが、ニュースの発行、会場費、連絡費等最小限度の必要経費をまかなうための、能力に応じて負担するという原則を確認した上で、一組織一月五〇〇円― 一〇〇〇円、個人会費一月一〇〇円、ただしできるだけグループとして参加するということも確認された。

 こうして二月七日の結成大会には一〇〇名の主要な代表たちが集まり、必要な討論の後、「とりきめ」と活動方向が決定され、十名の運営委員が選出された。議長は、「この組織は、他の組織が皆もっている『役員』と『多数決』と『金』はないが、他の組織がもっていない『生きた運動』と『自発性』『固い連帯』がある。」と結んだ。

 この会合ではそれぞれの運動がすべて報告されたが、とくに森永問題の報告にもとづいて森永製品の不買運動が最初の活動として提案された。しかし、これについては森永に対する批判は一致しながらもまだ十分問題点の認識が一致せず、また運動としてボイコットが果たして適切であるかどうかについても二,三の反対があり、結局、森永製品を見るたびに被害児を思い出すという意味を含めてそれぞれ不買申し合わせにとどめ、運動としては森永に対して抗議と要請を申し入れることを満場一致で決めた。また庚午市民会議からは、現空港への大型ジェット機乗り入れ反対の提案が出され、これは誰も異議なく一致して決定された。

 このジェット機問題は申し入れと前後して、観音、庚午をはじめとした住民運動が成功して知事は当初予定されていた四月乗り入れはことわるという形で一応延期になったが、今後近い将来ふたたび問題が再燃することは必至なので、引きつづき警戒しながら運動を準備することになった。また森永への抗議と要請については、森永が、まだ「守る会」以外についてはどこでも会ったことがないということで難色を示したが、交渉の結果、本部問い合わせて会見することになり、全国ではじめての経験となった。

 当日は「守る会」からのオブザーバー十名を含めて六、七〇人が参加し、「市民会議」結成以来はじめての連帯運動となった。この会合では森永の弁明に対して各代表が鋭く批判し、約二時間半のやりとりの後、「市民会議」の要求を含めた要請書に対し三月中に文書で回答し、今後もこうした会合をひらくことを確約させた。この日さっそく会場で「守る会」へのカンパが六〇〇〇円近く集められ、こうした「市民会議」の運動の中につつまれて、「守る会」も確信をもって闘いを進めている。

 またかねてから草津公正配分同盟が指導して闘ってきた漁業補償の不正配分が検察庁で認定されたが、市民の血税二〇億円の内訳をあくまでかくしとおそうとする市当局に対し、「市民会議」として監査請求と公開質問状を出すことを決め、まず監査請求を三月二十五日提出し、その成り行きが注目されている。

※「市民会議」の「取り決め」

一、市民会議は、誰でも参加できる市民運動の自由な集まりで、ボスのいない円卓会議である。

二、市民会議は、活発な討論を通じて、相互に理解し合い、できる所から、できる人々で、協力し合って活動する。

三、市民会議は、お互いの状況と運動を知らせ合うためニュースを発行する。

四、市民会議は、連絡と運営のため事務局をもうけ、必要に応じてそと都度代表をえらぶ。

五、市民会議は、みんなで運営し、必要な経費は、それぞれの能力に応じてみんなで負担する。

三 市民会議の性質と住民運動の展望――住民自治とは何か――

 すでに述べたように「市民会議」は、単位運動体の恒常的な連帯機関であって、上部機関でもなく、また一時的な共同闘争組織でもない。またその運営に当たっては、形式民主主義=多数決原理が否定され、自由な連合体としての内部自治の原則が決められている。

 住民運動は都市内の一定地域で組織されており、自然的には閉鎖的な性質をもつている。また具体的な要求運動である限り、その期間は長短はあるにせよ、カンパ二ア的性質をもっている。したがって要求が達成されるかもしくは要求の実現が不可能であることが確定すれば、自然的には運動は終わり組織は消滅する。この点では「市民会議」を構成する組織も単一の運動だけであれば、自然的にはやがてそうなるだろう。

 しかし、こんどんの「市民会議」の特長は、それぞれの具体的な経験を通じて、閉鎖的なものから連帯へ、カンパニア的なものから恒常的なものへの発展を意識的に追求したことにある。それは、それぞれの運動にすべて単一の中心軸=党があったことが重要な根拠になったが、それだけではない。今一つの重要なことは、意識的に追求できる客観的な土台が都市化と資本進出、行政の強引な地域計画の押し付けが地域住民を否応なく接近させ、数多くの住民運動を成立させているだけでなく、それぞれの運動の共同防衛=共同攻撃の必要から相互に接近させ、孤立した運動から連帯の運動へ、閉ざされた運動から開かれた運動へと発展させる基盤があるということである。そうでなければ直接的には無関係な大久野島の運動と草津の運動が連帯するはずもないし、「自分のことも大切だからひとのことも大切だ」という管理理美容師制度対策協議会の発言もなかったであろう。

 それではこうした連帯の協力の発展は、消極的な意味での「住民」を積極的な意味での「市民」――都市形成の主体――へ転化させる契機となるであろうか。そうではない。

 西欧においては歴史的に、防衛的な共同体(コムミュニティ)が資本主義の発展の中で近代都市に転化し、「市民」はまた単なる「住民」ではなく、歴史的には都市形成の主体でもあった。しかし、日本の場合は早くから地方共同体は支配体制にくみこまれ、とくに国家独占資本主義下ではかつての共同体的なものはすっかり押しつぶされ、戦後の度重なる合併等の下では完全に権力によって再編成されている。

 広島市との合併を強引に決定した可部町のマンモス団地虹ヶ丘に最近住みついた労働者は、「やっと広島から抜け出したと思ったら、今度は広島市が追っかけてきた。」と嘆いている。住民は都市形成の主体としてではなく、上からつくり上げられた行政区画の中に職業その他の理由で住んでいるというだけで、職業上の集団はあっても居住地孤立し、「隣は何をする人ぞ」という状況は大都市だけでなく次第に地方の中小都市まで及んでいる。しかし、前述したように、近代化の放はこうした「ひとりボッチ」の住民をふたたび次第に接近させ、共同して権力への反発を余儀なくさせている。こうした中で支配の用意をとりつける形式としての欺瞞的な戦後「地方自治」は、半ば空洞化されながら今なお生きつづけている。

 したがってこのような強権的な都市支配下では住民運動の発展がもたらす自覚と連帯は、決して都市形成の主体としての「市民」をつくり出すものではない。住民運動はどこまでも権力の支配に対する具体的な抵抗運動として、権力との対抗関係の中でのみ発展し、その発展の中でこそ権力との対抗関係は一層きびしく進むであろう。

 そこにこそ、権力の間接民主主義=議会民主主義を武器にした「地方自治」に対決して、直接民主主義=大衆闘争を武器とした「住民自治」の闘いの必要性がある。したがって「住民自治」は「地方自治」にとってかわるものでもない。それはどこまでも欺瞞的な「地方自治」に対決する闘いの必要から生まれた闘争の武器であり、「地方自治」への対立概念である。またしたがって、闘争で裏付けされた拒否権をタテに一点を突破し、それを線から面へ拡大発展させない限り「住民自治」は容易に「地方自治」に吸収され体制内化されるだろう。その意味で「住民自治」は闘いの過程そのものであり、闘争と運動を通じて「住民」は「市民」へ転化するのではなく、「支配される者」から「支配する者」への転化をめざすものでなければなるまい。

 そこで問題になるのは、よくいわれるプロレタリアートの指導とヘゲモニーのことである。最近の「左翼的」な議論の中では、しばしば住民運動の「地域エゴ」が指摘され、労働者階級の指導による統一と運動の階級的次元への前進が強調されている。しかし、事実は観念だけで変えられるものではない。

広島での経験は、「地域エゴ」と「要求エゴ」こそ運動の戦闘性の根拠であることを証明している。森永は森永だけ、基町は基町だけのことを徹底追求することによってこそ運動は発展したし、公共料金反対運動は、しばしば運輸関係労働者と対立しながら発展した。もちろんプロレタリアートの指導こそ変革の必須要件であり、それによってのみ住民運動が変革をめざす運動として発展することは当然である。しかしそれは、労働運動と住民運動を観念的もしくは戦術的にくっつけたり、「地域エゴ」の観念的な克服によって得られるものではない。それでは結局、労働者を住民に解消したり、せいぜい今の労働運動の弱さを弁解するための「手間仕事」になるだけであり、またそれは「地域エゴ」の「角を矯めて牛を殺す」ことになるだけである。

 必要なことは「地域エゴ」の観念的な克服ではなく、その徹底であり、労働運動と住民運動との観念的な結合ではなく、その対立を恐れることなく明らかにすることである。そうしてこそ労働者階級の指導性が問われ、闘いの中から新しく高い統一が生まれるだろう。そうして何より労働運動それ自体の階級的発展によってのみ、真に労働者が住民に対して指導階級としてのヘゲモニーを確立することができるだろう。住民運動との一時的な対立と「地域エゴ」から生まれる矛盾は、それを側面から刺激する重要な契機となるだろう。

 現に闘われている住民運動は、労働運動の階級的な前進を手をこまねいて待っているわけにはいかない。それはそれ自体として追求されなければならぬし、またそれは一定の限度内ですばらしい発展をとげるだろう。広島における「市民会議」の結成とこれからの運動は、実践を通じてそれを探求しようとしている。

 そうしてそれは、労働運動の新しい展開というもう一つの、そして最も重要な課題をわれわれに一層深く自覚させずにはおかない。(一九七二・三・三〇)


新しい連帯と自立をめざして

  ―被爆四〇年のヒロシマから―

   労働運動研究  1985年5月  No.187号 掲載

松江 澄

 

被爆四0年のヒロシマ

 

 広島は今年の八月六日で被爆四〇年を迎える。被爆四○年はまた日本帝国主義の敗北四〇年でもある。そこでいままでの一〇年ごとに何があったかと思い返す。一〇年(五五年)には第一次高度成長期がはじまるなかで、いわゆる「五五年体制」がととのえられ、日本資本主義は政経ともに戦後発展の基礎をきずく。二〇年(六五年)には日韓基本条約が結ばれ、複活した日本帝国主義による日韓一体化の第一歩がほじまる。三〇年(七五年)には日米共同声明で″反共の壁″としての韓国の位置が確認され、天皇は初めての記者会見で「原爆投下は戦時中でやむをえぬ」と発言。それは昨八四年秋、来日した全斗換大統領と手をとり合って過去の「遺憾なできごと」を水に流したことと照応する。そうしていま四〇年(八五年)、中曽根は行革から教育臨調へと戦後総決算をすすめ、アメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。われわれの被爆四〇年は何から始まるのか。

 八月六日が近づくと、被爆ヒロシマは毎年毎年「あの日」の追憶からはじまる。それは四○年のヒロシマが「八・六」をどのようなかたちで迎えようとも変らない。広島の人々の「八・六」は理念や理論ではなく、四〇年前の情念からはじまる。私もその一人である。学生兵から解放された私が被爆二週間後の広島に帰り、空洞になった駅から見たあのヒロシマは変色した古い写責のように、いまでも私の眼低に焼きついている。そうして、つづいて次々に近しい人々の写真が私のまぶたに浮ぶ。西から東へ探しまわっても見つからなかった兄の遺骨を二つもらったとき、それが兄のものではないと分っていても、改めて兄が殺されたことを実感した。

 たった一人の兄弟で一〇歳も違う兄は医者であったが、絵を画き短詩を創った。物心ついた私が漁った兄の蔵書のなかには、××がたくさんあるプロ文学の何冊かがあった。中学の頃、兄が買ってきた『改造』を便所のなかでこっそり読んだこともあった。彼は私にとって兄であるとともに、最もたよりになるやさしい庇護者であった。

 その兄の中学時代の同期に峠さんという人がいた。彼は、その後の学生時代から昭和初年の「左翼運動」にとびこんで、ときに逮補されていた。昭和十二年、上京する私に母がくれぐれも論したのは、「峠さんのようになるな」ということだった。その峠さんの弟の峠三吉と戦後まもなく出会い、ともに反原爆と革命を語るようになろうとは思いもしなかった。

 その母は被爆三年後、髪の毛が抜け血を失って死んだが、明治七年生れの父は同じ所で被爆しながら九二歳の天寿を全うした。小心で律気な、それでいてどこかキッとしたところのある父を、原民喜「夏の花」の第一部「壊滅の序曲」のなかで発見したのは、父の死後、二度目に読んだときだった。民喜は父の名をとって自らを「正三」と呼びながら、被爆四〇時間前の原商店の日常を書いたこの文章のなかで、私の父を「三津井老人」と名づけていた。そこには、私の思い出のなかにある父のもっとも父らしいところが、短い文のなかで書きつくされていた。

 明治の頃から深いつながりがあったらしい原の家と私の家とのつながりは忘れたが、私が生れたとき父はすでに原の店(ロープやテントを扱っていた)を手伝っていたように思う。家も近所だった原家の子供たちとはよく遊んだが、私より一まわり以上も多い民樹は大学の休暇で時に帰省したとき垣間見るだけで、透きとおるような眼で遠くを見ているよ

うな顔がなにか幻のように見えたのを子供心におぼえている。

 私のことを書きすぎたが、広島にもとから住んでいるものにとって、原爆とは、原爆で失った人々と別にはけっして憶い出すことはない。それはいっきょにこの世を焼きつくし、懐しつくし、人間という人間とその結び合いをすべて無惨に切りさいなむ地獄の悪魔のように思えるのだ。死ぬ前の母は、私に「ピカドンはその目に会った者でなければ分らん」とつぶやいた。このことばは、原爆のすぐ近くにいると思っていた私を無限の遠くにとき放す。それはまた非被爆者である私を、かえって反原爆の運動につきすすませたものでもあった。それは階級や体制という媒介な抜きに私に追ってきた憎しみであり、また切断された人間のつながりを求めるヒロシマの思想でもある。峠三吉が、「人間をかえせ……私につながる人間をかえせ」と詩う理由がそこにある。そうして、その人間を奪ったものこそ原爆であり戦争であり、そのなかに人々をつきやった国家なのだ。まどえ(広島弁で″償え″という意味)、あやまれ、と国に要求する被爆者の心底深い憤りは、声にならずにのみこまれてしまう。

 こうした怨念とでもいうようなものこそ核廃絶の思想であり、後年、「いかなる国の」ということばを呼んだ理由でもある。それは「絶滅兵器」といわれるこの核兵器を、地球上から根だやしにすることであるとともに、この兵器で奪い奪おうとする人間と人間とのつながりを求める、強い欲求でもある。それはまた今日多くの人々が、反核運動のなかで指摘する「核」と人間の、けっしてあい容れない闘いの思想の原型ともいえる。それは未曾有の世界を見た人々のまたとない思念である。

この思想がいまもなお、風の冷たい冬も灼くように暑い夏も、十二年一日のように慰霊碑の前に坐り込みつづける核実験抗議の根底にある。この坐り込み抗議はいま、市内で八カ所、県内で二八ヶ所、県外は山形から長崎まで十三ケ所、最近ではアメリカからヨーロッパまで拡がっている。慰霊碑前では、七三年七月から昨年暮までで通算二八四回目となった。この毎一時間ごとの坐り込みのなかで、その年の「八・六」は準備され、迎えられる。

核廃絶思想とは何か

 

 日共は昨年十二月、ソ連共産党と核兵器について両党会談をひらいて「共同声明」を発表した。宮本議長は、この会談と声明で確認された「核兵器全面禁止・廃絶協定のすみやかな締結とその実現」を、恥ずかしげもなく「反ファッショ統一戦線をつくったときと同じような歴史的意義がある」と自賛している。宮本は帰国後、日共国会議員団での報告で、社会主義国による一方的核軍縮や核廃棄のイニシアチーブは「門外漢」のいう非常識なことだと否定しつつ、「すべての核兵器保有国の同時廃棄」を強調し、「世界全体が核兵器を捨てることに意味があるのです」と、いまはじめて分ったことのように主張する。まことに「常識的」な卓見である。ところでそれはどうすれば実現できるのか。

 同じく日本記者クラブでの講演では、ソ連が賛成したのだから「アメリカがイエスといえば当然核兵器廃絶がすぐできる政治的可能性がある」。その前提条件を今度つくってきたと胸を張り、削減交渉と比べて「廃絶の方が早い。同時安全の原則といいますか、双方がゼロ、ないのがいちばん平等です。もっていることを前提にしたら、どこで『均衡』かということはなかなかむつかしいこととなります」と強調する。

 これはおどろくべき発見である。持っているからつり合いがむつかしい、ないのがいちばん平等だ、とは。シーソーゲームを止めるのにいちばんよい方法は、シーソー自体をとり去ることだとは子供でも思いつかない名案である。そのうえ、アメリカは先般日本の国会ですでに廃絶を確言しているから、じゆうぶん可能性がある、と彼はいう。アメリカがイエスといえば、すべては手品のように解決するというわけだ。

 私はこれを読んで、子供のころ誰でも必ずいちどは聞かされるたとえ話――「猫の首に鈴をつける」という名案を考えだしたねずみたちの話――を思い出す。いま日共が熱心に売り込んでいるこのパンフレットを、ソ連共産党の諸君が読んだら何というだろうか。しかし、この宮本の話は笑いごとではけっしてすまされぬ。それは「核兵器廃絶」を茶飲み話にすることで、ヒロシマの思想を陵辱しているばかりでなく、世界のきびしい現実を戯画化することで大きな罪悪を犯している。

 レーガンに代表されるアメリカ支配階級保守派のもっている反ソ反共思想の根深さを、宮本はいとも軽やかに語っている。彼らはその表向きの宣伝扇動にもかかわらず、すべての帝国主義国の政府がそうであるように、ソ連が実際に核攻撃をしかけてくるとは思っていない。彼らにとって何よりも気がかりなのは、次第に足下に迫る革命と解放の新たな潮流なのだ。中南米、中東、アジアにおける反米反帝運動の胎動は、彼らの恐怖心をそそる。そうしてその火つけ人、扇動者、組織者は、すべて社会主義大国としてのソ連に見えてくる。自らの帝国主義的な支配と収奪が、大地から水が湧き出るように解放と革命の流れを生み出していることが彼らには分からない、いや分るまいとする。それよりも、その張本人をすべてソ連とすることで、一九一七年以来の憎悪の体系は完結する。

 レーガンは、いま「自由」の女神をもって自らを任じつつ、帝国主義陣営の盟主として世界の「自由と民主主義」を防衛するためには、核戦略が必要だと説きまわっている。彼らは核戦略を頂点とする緊張関係をつくり出すことで、離れ勝ちな帝国主義同盟諸国をつなぎとめようとするばかりではない。彼らはいままでどこに原爆をおとし、いつ核兵器を使うとおどしたことか。ヒロシマ・ナガサキにつづいて朝鮮戦争、ベトナム戦争ではなかったか。彼らは対ソ核戦略のかげで、全世界とりわけ解放への途上にある国々を胴喝している。

 しかしまた、この恐るべき「絶滅兵器」は、通常兵器のように繰り返す戦闘ではなく、その一回性――ただ一回の勝負にすべてを賭ける――の思想の故に、競争の当事者を同質化させる。それは「絶滅兵器」の故に、通常兵器と違って国土をまもるという消極的な意味での防衛を許さない。そこでは防衛は報復に転化する。それは一瞬の交戦が壊滅をもたらすからである。ヒロシマとナガサキは、それを「あの日」みずからの都市で先見した。しかしいま、それは全世界に拡がり、やがて″核の冬″は地球のすべてを根絶やしにするという。核兵器は、すでにその所有と使用形態の相異を超えて人類の脅威となり、核兵器を頂点とする軍事的体系の緊張は、階級的な対立を軍事的な対立に変える。

 ちょうど原水禁運動が分裂する前夜、ソ連核実験をめぐって広島の世論がその是非で湧いたとき、日共県委員会の幹部が「社会主義国の死の灰なら喜んでかぶる」と街頭で演説して、人々の嘲笑を買ったことがあった。それは帝国主義軍隊の思想ではあっても、少なくとも社会主義の思想ではない。日共はかつて社会主義と帝国主義を同列視すべきでないと主張しつつ″いかなる″を否定したが、いま宮本は社会主義と帝国主義を同列視して″すべて″を平等にゼロにしようという。

 彼らはいま、全世界の民衆が日夜闘っている反核運動を高みからながめながら、米ソ交渉の道具立てにしようとしている。そこには、深刻な困難さを空想的な安易さですりかえる「指導者」の思想はあっても、人間と人間との結び合いのぬくもりのなかから、新しい反核と解放の力をつくり出そうとするヒロシマの思想はない。だからこそ、旗一つで反核平和の大行進がつくり出そうとする連帯を破壊し、宮本の旗を掲げない「三・二一ヒロシマ行動」は、分裂集会だとレッテルを張って参加を拒否する。それは核廃絶の思想ではない。

 

国際主義と国民主義

 

 広島の反核闘争はまず詩・文学から始まり、五〇年に至ってようやく行動へ継承される。朝鮮戦争下二重権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。

権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。それから四年後、「ビキニ」被爆がおきる。この「ビキニ」から始まる運動は広島と杉並からおこり、またたく間に全国をおおった大衆的国民的な運動である。朝鮮戦争下の闘いがすぐれて戦闘的で国際主義的であったとすれば、「ビキニ」反原爆運動はすぐれて大衆的で国民主義的な運動であった。前者の闘いに結集した人々が階級的な志をもった左翼の活動家であったとすれば、後者の運動に結集した人人は左右を問わず核を否定するまじめな日本人のすべてであった。そこには十五年戦争の反省は全く必要ではなかった。

一方のそれが現状の変革を求める少数派の闘いであるならば、他方のそれは現状の安定をおびやかす「死の灰」への激しい憤りにもえた多数派の運動であった。以来、この二つ

の流れは、継承者は変っても交わることなく今日までつづいている。運動の主流は、もちろん「ビキニ」反原爆運動を継承する日本原水禁運動である。この運動は、その後右と「左」から二度の分裂を重ねたが、この運動のもっている国民主義的な性格は変らなかった。

 私は、原水禁運動が二度目に分裂した直後の一九六五年――それはちょうど被爆二〇年であった――、原水禁を含む日本代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。この集会の主題はベトナム反戦であった。私たち広島からの参加者は、被爆二〇周年原水禁世界大会のバッジをつけ、会議の内でも外でも諸外国の代表に核兵器の恐しさを訴え、世界大会への参加をアピールした。それは多くの代表たちから心のこもった同情と共感で迎えられたが、何かもう一つ心を通わせることができなかった。

 ヨーロッパの代表たちの多くは、何れも戦争とファシズムとの勝利二〇周年記念のバッジをつけていたし、アジア・アフリカの代表たちのなかには私たちを政府の顔とだぶら

せて、その経済的なナショナリズムをきびしく批判した人たちもいた。最後の集会決議をめぐつて、運営委員会から日本代表団にきびしくつきつけられたのは、ベトナム戦争の基

地であり、アジア・太平洋における米核戦略の「かなめ石」としての沖縄基地にたいする日本人民の闘いであった。それは、日本人民がベトナム反戦を闘ううえで、欠くことのできない国際主義的な連帯の任務であった。しかし、この提案を受け入れるために、日本代表団はしはらく時間をとってきびしい論争をしなければならなかった。この集会で、私た

ちの代表団を分裂集団としておしのけようとする原水協系代表団の激しいセクト主義は、各国代表の眉をひそめさせ、意見と組織を異にしても運動の統一を主張する私たちの態度

は圧倒的に多くの代表たちの支持を受けた。

 しかし、私たちの運動に残されている国民主義的な″母斑″は疑いようもなかった。「世界で最初に原爆の惨禍を被った唯一の被爆国民」ということばのなかに、ヨーロッパの人々もアジア・アフリカの人々も、かつての日本帝国主義と、いままた高度成長の波にのってわが物顔に市場で幅をきかす経済大国の″かげ″を見たのではなかったか。それはいまなお広島に残っているもう一つの国際主義的潮流――抽象的で観念的な呼号以外の何物でもない―――によって克服されるようなものではもちろんなかった。この運動が改めて問い直される機会をもったのは、八〇年代世界反核運動とのふれ合いからであった。

 八〇年代以降、広島の運動はしばしばヨーロッパ反核運動との交流を行ない、私もまたプラハ世界平和集会に参加した。

 まず最初にふれ合った西独の運動との交流で、私たちをおどろかせたのはこの運動に参加する人々の膨大な数であった。米ソ両大使館をかこむ「人間の鎖」の壮大さは、「ビキ

ニ」の比ではなかった。しかし、それ以上に私たちを考えさせたのは、それがけっして労働組合や大衆団体の上からの動員によるものでなく、自らの自発的意志にもとづく「下から」の参加であることだった。それでいて、弾圧には柔軟に、しかし不屈に闘う連帯の強さはどこからくるのか。

 もちろん彼らの運動の基礎には、日本と違って、白昼公然とその町に据えつけられようとする核ミサイルがつくり出す現実的な核戦争の脅威があり、そのためのヒロシマ・ナガサキの具体的な研究もあった。しかしなお、乳母車を押しながら、まるでピクニックにでも出かけるように「人間の鎖」に参加する婦人たちを動かしているものは何か。それは、いま体制がうみ出している、失業とイソフレをはじめとしたもろもろの圧迫にたいする、反体制的な感情を含めての闘いであるとは分っていても、なお解き切れない問題であった。

 そうしてそれは、ロンドソ郊外のグリナムコモン基地に搬入されるアメリカの核ミサイルと、女性だけで闘っている婦人活動家の一人が私に語ったことば――「平和は女性の固有の権利」――でいっそう鮮明になった。彼女たちは、日本の基地闘争や反軍闘争で見られるような悲壮感の一かけらもなく、きびしく明るく闘っている。そこにあるのは西欧的近代をとおってきた自立的な市民の顔であり、それはまた自立的なものだけが綯うことができる縄のような連帯であった。

 こうしたヨーロッパ反核運動との交流は、私たちに改めて日本の運動のもっている他律的包括的な性格への反省を迫るものであった。一九八二年の広島「三・二一」、東京「五・二三」、大阪「一〇・二四」 の反核大集会は、当時ヨーロッパからアメリカヘと拡がる世界反核運動と、国連軍縮総会へ向けての運動のなかでひらかれた。それはなお上からの動員という従来の性格を残しながら、集会の形態はかつてなく自立的なものとなった。しかし今年の「三・二一ヒロシマ行動」には、日共系のボイコット、また急いで準備されたということがあったにしても、なお再検討を迫るものがあった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはあったとしても、あのときに見られた活気あふれる自発性はすでに影をひそめていた。

 八二年当時とは状況と条件が違うとはいえ、上からの包括的な運動の性格のもとで、上からの包括性が薄れたとき、いっそう鮮かに見せたわれわれの運動の断面ではないのか。この国民主義的な″母斑″はどうして克服することができるのか。それは西欧から学ぶことで得られるのか。もう一度、西欧的近代へ後戻りすることで、運動の新たな自立と連帯は生れるのか。被爆四〇年は再びその課題を提起している。

 

 欧州からアジアへ

 

 中曾根は首相になる前の行政管理庁長官時代、土光会長とあいたずさえて臨調第一部会をつくったときの報告で、「今回の行政改革は、明治維新以来百余年の近代化の歴史と、戦後三十余年の民主化の歴史をあらためて振り返り、国民と国家の歩むべき方向を新たに設定するための、全面的改革の一環をなすもの」だと強調した。一世紀をへだてた二度の「開港」による近代化と民主化の歴史を、中曾根はわれわれとは違った意味で振り返っている。

 当時中曾根は、行政改革を明治絶新、「戦後マッカーサー改革」につづく「第三の維新」と名づけた。しかし彼は、戦後民主改革の総決算を行い、行革を明治の近代化が敷いたレールと接合することで、再び現代的な「富国強兵」の道を歩むために国民のイデオロギー的再統合の契機にしようとしている。もちろん、この総決算の中には、戦後日本人民が獲得した民主的な諸権利から憲法そのものまで含まれている。中曾根にとって、明治の近代化は継承すべき国民的土台であり、戦後民主改革は克服されるべき「外」からの行き過ぎた「改革」なのだ。そこにわれわれとの根本的な対立がある。それを明らかにするためには、明治の近代化が何であり、何をもたらしたかをもう一度ふり返る必要がある。

 幕末の傑出した思想家である佐久間象山は、「東洋の道徳、西洋の芸術」を説いた。芸術とは科学・技術のことであり、東洋とは結局日本を指すことはいうまでもない。つまり、日本の道徳と西洋の科学・技術との結合によってこそ救国済民の道は成る、ということである。こうした考え方は、象山のみならず、明治維新を思想的に準備した当時の開明的な思想家たちすべてのものであった。象山の弟子で、いっそう国粋主義的な吉田松陰があえて米艦に投じようとしたのも、この思想ではなかったか。たしかに「和魂洋才」の哲学こそ、明治の変革と民近化を押しすすめる原動力ではあったが、それはやがて必然的に「脱亜論」(福沢諭吉)に行きつかざるを得なかった。「西洋の風に倣い、亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現するほどの大英断」を決意することによって、臨調報告がのべるように、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」したのであった。

 明治初年、一年十カ月にも及ぶ岩倉欧米視察団による法律・行政・文化全般にわたる西欧型近代の移植によって、「国家目標としての追いつき型近代化に成功した」(臨調報告)。「和魂洋才」による「脱亜入欧」は、見事に日本をアジアから離陸させたが、離陸が必ず土けむりをあげて草木を強風で押しなびかせるように、「脱亜」は必然的に「征亜」にすすまなければならなかった。

 軍事的で前近代的な性格を残しながら、急速に発展する日本資本主義は、目清・日露の両戦争を経てまたたく間に帝国主義への発展を遂げる。この過程で、大規模な反政府運動であり、自前の権利獲得をめざす最初の闘いでもある自由民権運動を弾圧と懐柔で分裂させながら、最後には日本的ナショナリズムでその思想を萎えさせ、上からの欽定憲法に収斂する。また大正デモクラシーの波頭から始まる階級的、人民的な闘いを、天皇制ファシズムの弾圧とテロルで押しつぶし愛国的ナショナリズムをあおりたてることによって十五年戦争から第二次大戦に突入し、アジア全域への侵略と略奪をほしいままにした。「脱亜」はついに帝国主義的「大東亜共栄圏」にまで、膨張して壊滅した。

 それはただ支配的な軍部と財閥の責めにだけ帰することはできぬ。彼らに、結局はその国民的基盤を提供し利用させたという意味で、それは明治以来の脱亜近代化の帰結ではなかったか。それは大正の中期に生れて軍都広島に育ち、昭和十年代の前期東京に学んで西欧的近代を模索しつつ、最後には帝国主義軍隊に動員された一学徒だけの感傷ではあるまい。

 「和魂」とは、結局、日本的ナショナリズムであり、それは「洋才」としての西洋型近代を自らのなかにとりこみながら、ついに「洋才」を生み出したが「洋魂」を探り得なかった。いやそれどころか、最後には、卑しむべき「洋才」をかなぐりすてて、「和魂」にふさわしい竹槍で本土決戦を呼号しながら、原爆という最英新鋭のアメリカ科学技術兵器の前に敗北した。戦後民主主義闘争は、正面からこの「和魂」=日本的ナショナリズムと対決して、これを地底に封じ込めた。こうして「和魂洋才」は二重の意味で敗れ去った。

 しかしいまそれは、新たな「脱亜」の武器として蘇ろうとしている。戦争による生産手段の破壊は、改めて欧米の近代技術を呼びこむことで急速な日本資本主義の復活と発展を促し、いまでは世界一の技術大国として列強と覇を競いつつ、その経済ナショナリズムはアジア・アフリカから中南米に至るまで、帝国主義の食指をのばしている。中曾根は、戦後民主主義の総決算をすすめることによって、再び「和魂」を地底から呼び戻し、新たな「脱亜入米」のためのイデオロギー的再統合の武器にしょうとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。

 日本原水禁運動はヒロシマ・ナガサキから生れた。それは反戦運動を媒介とするのではなく、帝国主義戦争の背後に落された原爆による、余りにも無惨な破壊への憤りから生れた。それは来るべき人類絶滅の戦争を予見することで、核廃絶と人間回復の思想となり得たが、その破壊の余りの巨大さは、それがアジアの諸民族を殺戮し、その郷土を破壊する太平洋戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。未来を先見したが、過去を省みることができなかった。被爆者と残された者の国家への怨念は、ついに噴出することなく、その声は胸底深くしまい込まれた。

 いま運動の自立といい、国民主義の″母斑″の克服上いうとき、何よりも必要なことは、いまアメリカ極東核戦略に組みこまれて、その生贄にされようとしているアジア・太平洋諸国の人々とともに手をとり合って、日米軍事同盟と闘うことではないか。われわれは再び欧米に学び、その近代的自立のあとをなぞるのではなく、「脱亜入米」によって再びアジアを征覇しょうとする中曾根ナショナリズムと闘って、アジアの民衆と連帯を固めるとき、はじめて自らの自立をかちとることができるのではないか。そうしてそのことは、被爆者の根底にある国家への怨念を晴らすこととけっして別ではない。

 いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降されるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。

 

新しい連帯と自立を

 

 いま中曾根は、日米軍事同盟を強化しつつ、アメリカの核戦略に日本をしばりつけ、対ソ戦の不沈空母にしようとしている。その中曾根がもっとも関心をもっているものに「環

太平洋構想」がある。それは米核戦略の保障のもとに、経済と政治を含む安定した帝国主義的秩序を太平洋につくり出そうと企むことである。

 しかしその試みはキット失敗するに違いない。彼らはすでに太平洋とアジアを敵にまわしている。南太平洋諸国の人々は、核の基地となることも、核の墓場となることも拒否し、ベラウ共和国は米国の圧力を住民投票でハネ返し、「非核憲法」を成立させた。一九七五年フィジーから始まる非核太平洋会議は、毎回ヒロシマの参加を求め、年ごとにその連帯を固めて米極東核戦略と対決し、いまニュージーランドのロンギ政権は公然と米核艦船の寄港を拒否し、オーストラリア政府は米「SDI」への参加をことわった。フィリピン人民はすでにマルコスに見切りをつけ、アメリカ帝国主義からの解放の旗を掲げて人民の民主主義を奪い返そうと闘いに立ち上っている。最も身近な韓国では全斗換の弾圧と懐柔にもかかわらず、民主主義革命の声は地底から次第に音高く響き、日韓人民の連帯のきずなはまだ細くとも鋼線のように張って、どんな妨害をも寄せつけない。

 いまこそわれわれは、旗幟を鮮明にして何よりもまずアジア・太平洋の人々と連帯し、反核反軍事同盟を闘うときである。それはいままで、日本の運動がただひたすらに追求してきた核廃絶の思想とけっして別のものではない。それは被爆者の心底深くいかりを下している、反戦反国家の怨念を受けて闘うとき、必ず向うべき戦場である。われわれはこう

した視点を基軸にして、反トマホーク・反原発・被爆者援護法を一つの闘いとして追求しなければならない。

 反トマホークは何よりも当面する反核闘争の具体的な焦点であり、それはすでに指揮・通信・情報システムを通じて核戦略に組みこまれている自衛隊のそれとともに、反基地核チェックの広い運動と合せて戦線を拡大しなければならない。また反原発闘争はもう一度被爆の原点に還って、被曝と被爆の連続性を確かめ、軍事的な転用とあわせて、日常的な核殺人と闘う反核闘争の前線の位置をとり戻す必要がある。そうしてその根底に、金でもない物でもない、ただひたすらに国家の責任と死者への謝罪を要求する被爆者援護法を据え直すとき、過去の被爆との闘いと未来の被爆との闘いは一つのものとなる。

 戦後日本は「賢明」な吉田茂によって、アメリカの核の傘のもとで日本資本主義を再建して帝国主義復活をなしとげ、いま経済大国として世界の市場を荒し回っている。アメリカ帝国主義は積年の「安保ただ乗り」をとがめつつ、その付けの清算を求め、貿易で取引しながら軍事負担の思い切った増大と核艦船の寄港・全土核基地化を要求している。

 中曾根はいま、戦後民主主義の総決算ばかりでなく、戦後支配階級四〇年の付けを背負わされて決算を迫られている。しかし、前大戦のもたらした破壊、とりわけヒロシマ・ナガサキの記憶は、けっして消えることはなく、ましてアジア・太平洋の人民は十五年戦争と太平洋戦争をひとときも忘れることはない。

 中曾択はいま、アメリカへ行っては軍備を拡大するといいながら、東南アジアを回ってはけっして軍事大国にはならぬと弁明し、国民にたいしては非核三原則をまもるといいながら、アメリカにたいしてはトマホーク寄港を進んで受入れ、ひそかに核基地を建設している。

 いまほど四〇年の矛盾をこめて、″建て前″と″本音″が歴然と分離しているときはない。いまこそこの矛盾を衝いて闘うときである。″建て前″をつきつけて″本音″に迫る大衆的な闘いを進める好機である。

 アジア・太平洋の人々と連帯を固めて共同闘争を強めつつ、日本反核運動の再建と再活性化をはかるときはいまをおいてない。それはいま、日本における労働運動と大衆闘争の閉塞状況をつき破る結節点でもある。この闘いのなかからこそ、自由な民族としての運動の自立を闘いとることができるだろう。新たな連帯と自立をめざして闘おう。被爆四〇年はそれを要求している。                                       


反原爆・反原発行動の統一のために!

八・五広島集会基調提起

         一九八五年八月五日

                    八・五集会実行委員会

労働運動研究 198510月 No.192号 掲載

                  報告 松江 澄

 被爆四○年、《八・六ヒロシマ》の

         原点をとりもどそう!

 

被爆四〇年を迎えるいま、私達は もう一度原点にもどり、<八・六ヒロシマ>を闘うことの意味について考えてみよう。

 生き残った原爆被害者が四〇年間背食い続けた苦しみ・悲しみと、死んでいった被爆者の無念さにまず目を向けよう。両親、兄弟柿妹を失って一人で生きて行かなければならなかった幼い子供たち。愛し子を失い、連れ合いを奪われ、あとに残された人達の気持ちは、生きるも死ぬも無念であり、残念であり、言葉に尽くせぬ思いであっただろう。この思いは、だだ自分だけのものでなく、多くの戦争被害者も同じであると気づくのに時間がかかったとしても、それを責めることはできない。しかし四○年たった今こそ、十分に整理する必要がある。

 原爆被害者のこのような苦しみに対して、戦争遂行の責任者たる国は、なんら具体的補償を行ってこなかった。のみならず、被爆者・被爆二世を切り捨て無視して、新たな核開発の踏み台にしてしまった。原子爆弾を実戦使用された唯一の経験は、「核を無くすために先頭に立つ国」としてではなく、核開発のデータを示し、「核先進国」となるために利用されたのだ。

 さらに政府は、原爆被害者だけでなく、多くの戦争被害者を切り捨ててきた。沖縄戦で東京・大阪・呉・大竹・・・・・・・・・と全国各地の空襲で、多くの民間人が殺されていった。この膨大な数の人達に対して、政府は一切その戦争着任をとっていない。

 また、朝鮮を侵略し、朝鮮人を強制連行し、被爆させ、被災させたことについては、その歴史的事実すら認めようとしていない。朝鮮・中国をはじめ、アジアに侵略し、虐殺した歴史を抹殺しようとさえしている。明治以来のアジア侵略の歴史を省みることなく、再び侵略と抑圧・戦争への道を歩み続けているのだ。私達は、今<八・六ヒロシマ>を通して歴史と現実を鋭く見つめ直し、見抜き、行動をおこさなくてはならない。

 

 原爆被害者の『まどえ、あやまれ』の

        怒りを紬にした闘いを!

<八・六ヒロシマ>を闘おうとするとき、この運動の視点と内容をはっきりさせることは、不可欠である。この点を曖昧にしてきたことが、「八・六ハの風化」といわれるものをもたらしたともいえる。私達は、原爆被害者が「まどえ・あやまれ」と怒りの言葉を発することの意味をしっかりととらえ直す必要がある。

 原爆被害者の言うに言われぬ苦しみの経験にたいして、戦争遂行の責任者である国は一体何をしたのか。国は原爆被害者の苦しみに対して、その責任をとるべきである。政府が「二度と国民にこんな思いをさせる戦争はしない」と頭をさげなければ、たとえいくら「金」を出しても絶対に許せない。人民の苦しみに対して何の責任もとらない国だから、今また戦争への道を歩むことになるのだ。その結果苦しめられるのは、いつも人民なのだ。原爆被害者のこの声は、今日の日本の状況を鋭く突いたものであるといえる。

 生き残った原爆被害者に対して、どんなに補償してもしすぎることはない。年老いた被爆者への補償を直ちに闘い取る運動を進めなくてはならない。同時に、被爆者の(既に死んでしまった人も含めて)思いと願いを現実化する課題!核のない世界をつくり、戦争のない世界をつくる――をなおざりにすることは、原爆被害者「援護」の闘いを矮小化し、ねじ曲げることになる。生き残った原爆被害者が、どんな思いをもって今を過ごしているのか、また死んでいった人達は何を思い、何を願いながら死んでいったのかを私達の闘いの軸にすえて、その実現のために闘うことを抜きにしては、原爆被害者「援護」の運動としては決定的に不十分ではなかろうか。

 原爆被害者への補償を闘い取る運動と、核と戦争のない世界を築くためにあらゆる核の開発と戦争準備の政策を止めさせる運動は同時に進められなくてはならない。どちらか一つだけが強調されたり、一方が切り捨てられたりした運動は敵の側に取り込まれ、中途半端なものでごまかされてしまうことになる。

 私達は「被爆者援護」の運動を、原爆被害者の「金でもない、物でもない。まどえ、あやまれ」の怒りを基軸にすえながら、@原爆被害者の生活の補償 A国にあやまらせ、償わせる B朝鮮人・韓国人をはじめとする外国人被害者への補償を闘い取るものとして進めなくてはならない。

まどえ・・・・・・広島弁で「元に戻せ」とか「弁償しろ」という意味。

 

 反原発を闘う八・六を!

 原子力発電の登場の歴史を考えてみれば、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>の極めて重要な課題であることは明らかである。

一九五四年三月、第五福竜丸がビキニ水爆実験の死の灰を裕びるという事件が起きたが、その二週間後には、衆議院で「原子力の国際管理と平和利用、そして核兵器と核実験の禁止」決議がされた。その一方で、核実験反対の運動が大きく盛り上がっていた一九五五年一月、イェーツ米下院議員は「広島への原発建設法案」をアメリカ下院に提出し、三月には「原子炉予算」二億三千五万ドルが国会を通過した。こうして、「核の軍事利用」に反対する声が一番大きい時、アメリカ・日本政府は核兵器と「平和」利用とをことさらに区別する策動をすすめた。核開発を進めるために、「核の軍事利用」に反対するポーズを取り、ヒロシマをも利用して核先進国になる道を歩んできた。 「イェーツ案」!広島原発一号炉にたいして、浜井市長は「死のための原爆が生のために使われることに市民は反対しないだろう」と賛成の意向を示し、日本政府・広島市は受け入れようとした。だがこれに対して、当時の「原水禁運動広島協議金」は、@原水爆に転化される恐れがある A放射性物質が心配である B米国の下で運営される、という理由から直ちに反対の声をあげ、原爆被害者をはじめ、平和運動を闘う人達の力でその意図を打ち砕いた。

 日本政府は当初から、国民の意志を無視して核開発に乗り出すために、「核兵器反対」を唱えた。一方、日本の「原水禁運動」は、もっぱらヒロシマ・ナガサキ・ビキニの「原体験」によりかかるあまり、核全体についての科学的追求が十分できなかったがために、「平和利用」の名のもとでの核開発政策に抗し切れないできたといえる。

 戦争終結直前の一九四五年八月、広島・長崎に原爆が投下された。兵器としての核の威力を知ったアメリカは、軍事的優位性を確立するために、さらなる核の研究・開発を続けようとした。膨大な研究費を必要とする「核」の研究・開発・実験を続けるために、アメリカは、原爆を「金もうけ」にも利用する方法を模索した。発電、推進動力(原子力潜水艦・原子力空母)など核の「熱だけの利用」、すなわち「平和」利用(商業利用)を計画したのである。兵器のためのウラン濃縮、処理にかんする周辺技術をはじめ、様々な核の施設の開発・研究が、民間の「金」を使って進められることになった。非人間的殺戮兵器である原爆は、一九五六年には発電の道具として姿をかえて再び私達の前に現れた。あくなき核兵器の開発はこうして原発と衣がえし、人民の目をごまかしながら進められた。

 <八・六ヒロシマ>は、核兵器に反対すると同時に、「平和利用」という名のあらゆる核にも反対するという重大な課題をかかえていた。しかしこれまでの運動が、十分に反原発に取り組めたとはいいがたい。そういう意味では、いま、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>において非常に重要な役割を果たすことになる。

 反原発の運動は、原発の建設に反対するだけではなく、核燃料サイクルの各分野で核政策に反対してゆく運動であるため、「原発建設反対」「再処理施設反対」「廃棄物処理反対」等々、表面的なスローガンは地域によって一見別々であるかも知れないが、核の開発に反対し、人間と核との同居を拒否する反核運動の重要な運動である。しかし、各地の闘いのなかには、所によっては地域主義的傾向もあるかもしれない。一方では、中国地方の反原発・反火電の運動体のように、電力資本と対決して大きく連携して闘う動きも起きている。

 しかも、核燃料サイクルは全世界にまたがっている。採掘はカナダ・オーストラリアで行われ、再処理をイギリス・フランスに委託したり、核廃案物の太平洋海洋投薬を計画するなど。反原発の闘いは、広く世界の人達と団結した闘いでなくてはならない。

 

 国際連帯で核戦争の脅威と闘う

       反トマホークの運動を!

アメリカの核戦争戦略の「先制第一撃」戦略への転換にともなう、トマホ―ク・バーシングUなとの戦域核兵器の開発と実戦配備は、核戦争の危機を一挙に現実のものにした。小型核弾頭をもったこの種の核兵器は、地上・海上・海中・室中あらゆる所から発射可能であり、しかも驚くべき命中精度をもっている。いったん使用されれば人類の滅亡を招くために実際の使用はないと思われていた核兵器は、いまや通常兵器と同様に実戦使用され、核戦争はいつでもおこりうる状態になっている。そのために、実際に核戦争が起きた時でも、アメリカだけは生き残る準備として、SDI(スター・ウォーズ)計画も進められようとしている。

 このようなアメリカの核戦略にもとづくトマホークの極東配備を認め、艦船の寄港を認めることは、非核三原則を公然とないがしろにするだけでなく、日米安保体制をつうじて日本をアメタカの核戦争戦略のアジア・太平洋地域での最前線にしていくことでもある。実際すでに安保条約は「集団安保」として機能しはじめており、日米合同演習が大規模に行なわれ、自衛隊も韓国軍とともに米軍の指揮下に組み込まれている。

 核兵器の使用を可能にしたもうひとつのことを見落としてはならない。C3Tとよばれる通信システムをはじめ、大型コンピュータ・レーダーなどの通信施設・技術などこれまで一見兵器に見えなかったものが、情報の収集・命令の伝達等をささえ、兵器の精度をあげ、その使用を可能にする童要な役割を担うようになっている。さらに、核戦争を戦ってアメリカだけが生き残るなどという非現実的なSDI計画がもたらす膨大な資金と先端技術に群がる資本家は、まさに「死の商人」として、核戦争の準備を日々進めている。地球全体を戦場とする核戦争は、私達の身近なすみずみのところにはいりこんで準備されつづけているのだ。

 したがって、反トマホークの闘いは、トマホ−クの極東配備に反対する闘いにとどまらず、全国各地にちらばる自衛隊・米軍の基地・施設、通信・レーダー基地などあらゆる軍事施設に反対する闘いとして日常的に取り組まれなくてはならない。私達は、反米・反日・反独裁の闘いに立ち上がる韓国・フィリピンをはじめとするアジアの民衆と共に、アジア・太平洋地域におけるアメリカの核戦争体制としての日米安保体制を打ち破る闘いを作り上げなければならない。ANZASNATOを直撃したニュージーランドやアイスランドの闘いと連携して日米安保を揺るがす国際連帯の運動を強め、アメリカの軍事同盟の国際的な連鎖を断ち切っていかなければならない。身近な課題への闘いから始めながら、それを全国の力へ結集させ、アメリカの国際政策を一つひとつ打ち砕くことによってこそ、核戦争の危機から世界を救い、核兵器を完全に廃絶することができるのである。

 このように、反トマホークの運動は、様々な具体的な課題をもちながら、それらの課題を結び合わせていく運動の焦点としてすすめられるはずである。たとえば、自治体に「非核宣言」を出させるだけでなく、労働者や市民が実際に核の有無を監視する核チェックの運動をどのように作っていくのか、さらにそれを核兵器だけでなく原発にも広げ、「被爆

者援護」の闘いともつなぎ、一つの大きな反戦・反核の運動としてどのように作ってゆくのか――私達はいま大きな課題をかかえている。核兵器を完全に廃絶するための確実な手がかりが、反トマホークの運動として始まっていることを確信しながら、私達はこの大きな課題に取り組んでいくために力を合わせなければならない。全国各地での運動の経験をだしあって具体的にどのような運動が取り組めるのか、どんなことが出来るのかをお互いに学び合っていきたい。

 

  ま  と  め

 

 最後に私達日本人が「反戦・平和」の運動を国際連帯を求めて闘おうとするとき、残された大きな問題を提起しなくてはならない。

 日本の支配階級は明治維新以来、「近代化」の道を西に求め続け、アジア・太平洋地域に対しては、一貫して侵略政策をとる帝国主義への道を歩んできた。原爆被災はその侵略の歴史の帰結であったともいえる。すべてその責任が我々人民にあるとはいわないまでも、帝国主義侵略国の「国民」であったことを不問にすることはできないだろう。「八月五日」までの自分達を見直し、軍都広島の繁栄のもとでどのように生きてきたのか、どのようにして侵略戦争に動員されていったのかを明らかする必要がある。

 八・六の被害があまりにも大きく、与えられた精神的打撃も大きかったが故に、「被害者意識」だけが残ったことを責めるつもりは毛頭ないが、四〇年たった今日こそ、国際連帯をかちとるために、この点を整理しておく時であるといえる。私達は日本という「先進資本主義国」に生きる人民であり、ただちに帝国主義的侵略者になりうる危険性を帯びていることは肝に銘じておく必要がある。私達は、アジア・太平洋地域の民衆と真に連帯をかちとるためにこそ、日本の侵略政策にたいして闘い切らなければならない。

 <八・六ヒロシマ>を、その「瞬間」のなかに閉じ込めることなく、それ以前と以降の歴史の中でとらえるとき、これまで見落とされてきた多くのことが浮かび上がってきた。原爆被害者の「まどえ、あやまれ」とする声は、私達の反戦・反核の闘いの基底にすえられなければならないことが明らかになってきた。私達は反原発の闘いにも、反トマホークの闘いにも、それを貫いていく。そこからアジア・太平洋地域の民衆と連帯する反戦・反核の大きな闘いを作り、核のない世界を私達のものにしていく。

 私達は、被爆四○年の<八・六ヒロシマ>を、かつてない質と内容で闘い取ろうとしている。言葉とムードだけの反戦・反核から抜け出し、反原発・反トマホークという具体的課題を一つひとつ実現していく運動を日常的に闘うことをもって、反戦・反核の運動を作り上げよう。反原発・反基地などの一つひとつの具体的運動課題を「反戦・反核・平和」の内容としてとらえかえし、運動の位置づけを明確にし、日本と世界の状況と結びついた運動として作り上げよう。いろいろな運動課題を生みだしている根底を明らかにし、それに対する共同の「反戦・反核・平和」の闘いを追求しよう。原爆被害者の怒りを軸に、世界中の人々とりわけアジア・太平洋地域の民衆との国際連帯を求める闘いを作り上げよう。

 これまでの四〇年間、ヒロシマ・ナガサキは権力からも利用されてきた。原爆被害者は「被爆者」に切り縮められ、「被爆者」は核開発のために利用されてきた。「平和宣言」を読み上げる平和祈念式典は、軍拡を進める中曽根の同席を許す場になっている。人間のいない模型、生活感の無い物理的被害を陳列する原爆資料館は、はたして原爆の実情を伝えているといえるのだろうか。

 被爆四〇年。今年こそ、私達は<八・ハヒロシマ>を私達自身の手にとりもどさなくてはならない。

 

 八・五広島反戦反核集会報告

 

 八・五広島反戦反核集会は、地元広島をはじめ全国各地から多様な活動をつづける活動家三五〇名が参加して、八月五日午後四時半から広島市社会福祉センターの二階ホールでひらかれた。それは被爆四〇年を期に、日本における反核反戦運動の新たな活路をきりひらくため、被爆地広島の活動家集団が四月以来準備を重ねて意志統一を固め、全国世話人の支援のもとに各地各運動の活動家に呼びかけたものであった。近くは上関反原発運動の先頭に立つ主婦から、遠くははるばる沖縄からかけつけた反基地闘争の活動家まで、いま全国各地で反核・反戦・反原発・反トマ・反基地闘争を闘っている人々が、党派と立湯の相異も認めつつ一堂に結集した最初の「八・六」集会となった。

 会議はまず広島実行委員会の桝谷代表(電産中国地本副委員長)の経過報告と挨拶からはじまり、議長団に同じく広島実行委代表の松江澄(広島原水禁常任理事)と木原省ニ(原発はごめんだ市民の会)、宇田隆(トマホーク配備反対呉市民の会)の三氏を選んだ。議長団はとくにこのたびの集会の目的が単なる運動交流だけでなく、運動の根底についての共通認識を共同で獲得することにあることを強調して協力を要請した。

 会議はまず青田正裕事務局長による基調提起(別掲)の報告からはじまった。広島実行委員会がニカ月以上にわたる討議を通じて共同でつくり上げたこの基調は、今日の反核反戦運動を四〇年前の侵略戦争と被爆の原点からとらえ直し、「まどえ、あやまれ」と戦争・原爆・国家を告発する原爆被害者の心底深い憤りを拠り所に目前の反核反戦闘争を闘うとともに、現代の核を総体として把握することによって反核闘争と反原発闘争の一体化をつよく求め、切迫する情勢のもとで反トマ反基地闘争のいっそうの発展を訴えたものであった。

 基調報告につづいてそれぞれの立場から三人による副報告が行なわれた。まず最初に立った近藤幸四郎氏(広島市原爆被害者の会世話人)は、軍人、軍属、動員学徒など国と一定の身分関係をもつ者は戦災について国家の補償を受けながら、原爆や戦災で殺され傷つき身内を失った一般大衆の遺族は、どんな国家補償もなく切り捨てられていることを、原爆被害者の立場から激しい憤りをこめて告発し、援護法の実現にしつように固執する所以を強く訴えた。またそうした立場からいえば、基調文中被害者要求の第二項「死者への弔意の表明」は明六日再び慰霊式典に参加してうわべだけの「弔意の表明」でゴマ化す中曽根を免罪することになると指摘し、明確で厳密な用語に改めることを求めた。

 次いで報告に立った桝谷暹氏(電産中国副委員長)は、今日原子力発電が全電力の二〇%、日本産業全動力の三〇%を占めていることに留意をうながしつつ、いまや「平和でクリーンな原発」「コストの安い原発」という原発推進論の根拠が事実を通じて破産し、資本の内包する矛盾が深刻化しつつあることを強調した。さらに同氏は、今日もっとも憂慮されているものが大規模な事故の発生であるとのべ、廃炉にともなう既存設備の処分、労働者被曝線量基準、再処理などの問題が最大のネックとなっていることを指摘した。おわりに同氏は、核兵器と原発との一体化を再認識しつつ、核の軍事利用と「平和利用」との分離分断攻撃と闘うことの重要性を訴えた。

 最後に報告した舞田宗孝氏(トマホーク阻止京都連絡会)は、まず世界の人々の「死」とわれわれの「生」が同居していると警告し、トマホ−ク寄港、在日米軍指揮・通信・情報基地が核戦争で果す役割と意味を改めて強調した。同氏は、一〇年間に七〇〇〇発のトマホーク等戦域核兵器を極東の艦船に配備する計画こそ同時多発報復戦略から、進んで限定核戦争の勝利をめざすレーガン世界核戦略の重要な一翼であると指摘した。また同氏は、「京セラ」のように一見平和産業と見えるものが、いつの間にか核戦略体制の部品をつくる軍需産業になっている現代日本の「日常」を告発し、反トマ反基地闘争の追求と合せて、日常周辺の再点検と核チェックの運動を強く訴えた。

 三氏の報告を受けたのち、六時三〇分、会議は休憩に入ったが、この頃には参加者は会場にあふれ、再開された会議は人々の熱気で冷房もきかなくなったなかで討論に移った。議長団は討論に先立って、三つの問題に分けて討議するよう要請して人々の賛同を得た。

 第一のテーマである「被爆と反核反戦」については、多くの人々が討論に参加した。とくに東京空襲の被爆者から、戦争被害と原爆被害とはけっして別のものではない。たしかに原爆被害の比較を絶する傷の深さはあるとしても、歴史的には十五年戦争・太平洋戦争の帰結としての原爆投下であったことを忘れてはならないと、被害の共通なつながりにもとづく連帯を強調する意見は、多くの人々の支持を受けた。また京都から参加した広島原爆の被害者からは、原爆の被害が、いま多くの人々を日常的に殺し傷つけつづけているさまざまな公害とも、けっして無縁ではないことが訴えられた。議長の要請によって発言した沖縄の活動家は、長期にわたって米軍基地と闘う「一坪地主」の闘争を報告しつつ、運動が核兵器だけに限定するのでなく、支配と抑圧を強制する戦争準備体制との全面的な闘いであるべきことを強調し、すでに加害者となっている日本の現状に鋭い眼を向けるべきだと訴えた。

 第二のテーマ「反核と反原発」については、正面から対立する意見も出され、この問題の深い背景をうかがわせた。この問題で最初に口火を切ったのは、大阪で活動する反原発科学者会議から参加した活動家の意見で、副報告の桝谷発言のなかで、すでに原発推進論が根拠を失い、撤退作戦に入っているということへの反論であった。彼は、桝谷意見は原発の自動崩壊論に通じるときびしく批判し、電力資本にとって原発はまだまだ有効性をもつもので、今後さらに推進されると強調した。また同氏は下北半島の核燃料サイクル基地建設の重要性を指摘し、社会党内容認路線の抬頭を強く批判した。こうした討論は「日中原子力協定」と社会党内容認路線という相関する現実的な問題点について、どう対応するかということを強く意識したものであった。だが、この問題や資本の動向についての討論は、改めて機会をもつこととして、再び本来のテーマに帰り、科学者として反原発運動の先頭に立つ高木仁三郎氏の包括的な発言で締めくくられた。同氏は、現代がヒロシマの「キノコ雲」から始った「核」の時代であることを正確に認識し、軍事利用と「平和利用」とを問わず、「核」を生活の総体から受けとめ、原点に還って反核・反原発一体の闘いにとりくむべきだと強く訴えて満揚の拍手を受けた。

 このとき、かねて要請していた李実根氏(広島県朝鮮人被爆者協議会会長)が出席、予定していた朝鮮人被爆者の立場からの特別提起を受けた。季氏は戦前戦後を通じる朝鮮人の日本帝国主義による被害について語った後、靖国神社公式参拝、防衛費一%ワク撤廃など日本の危険な現状に言及しながら、いまこそ備狭なセクト主義や意見の相異による対立を克服して、ともに闘う広い戦線をつくることの必要性と重要性を訴えて満場の拍手を裕びた。

 議長団は時間が残り少なくなったことを告げ、第三のテーマである反トマ闘争と合せて総括的な意見、是非発言したい人々の意見の発表を求めた。このなかで上関原発反対運動で闘っている若い主婦が、子供を抱いて立ち、運動の経過を住民の立場から報告しながら、広い心でともに闘うことを訴えて熱心な拍手を受けた。また、反トマ報告をきいて、何でもない平和産業と思っていた 「京セラ」が、いつの間にか米核戦略の一端をになっていたという指摘に強い衝撃を受け、今さらながら無意識のうちにつかっている「日常」の再点検の重要なことが身にしみたと語る発言には、多くの人々が共感を表明した。時に八時半、まだまだ意見はあったが、会場の関係で止むなく討論を打ち切り、直ちに議長団の集約とまとめに入った。会演の集約と討論のまとめは、議長団を代表して松江議長から発表された。

(会議の集約と討論のまとめ)

(一) 基調提起と副報告を原則的に承認する。

(二) 報告と意見による基調報告の修正

 (1) 被爆者援護の要求第二項目「死者への弔意の表明」を「国にあやまらせ、償なわせる」と改める。

 (2) 反トマホーク運動のなかで「安保条約は集団安保として機能しはじめ・・・・」の集団安保をカツコに入れる。

(三) 討論のまとめ

(1) 初期の運動に「被爆者」ということばはなく、広く原爆の被害者から戦争被害者への連帯の意味をこめて「原爆被害者」ということばで呼んだ。しかし被爆者医療法制定後、原爆被害者を被爆障害をもつ個々の患者としての被爆者に解体し、このことばはいつとなく運動の中に入り込んで通称となった。改めて原爆被害と戦争被害との一体的な把握が重要であることをとらえ直すことによって、いま新たに加害の道に足をふみ入れている中曽根政府にたいする反核・反戦の闘いと原爆被害者の「まどえ、あやまれ」という怨念をはらす闘いとは、けっして別なものではないことを確認する。あの日ヒロシマの時計は八時十五分で永遠に止まったが、歴史の針はそれ以前もそれ以後もたゆみなく動いている。

 

(2)広島の最初の運動は、一九五五年ヒロシマに原発を建設しようとする米日反動の謀略を打ちくだいた。″ヒロシマを焼いた火でヒロシマを照らすことは絶対に許さない″と。 当時の本能的直感的な拒否は、今日 では科学的な追求によって理論的にも実際的にも確かめられた。あのヒロシマの「キノコ雲」から始まった新しい核の時代を生活の総体から受けとめるなら、反核兵器と反原発はけっして別のものではない。だから                                                                                                                         こそ、資本と政府は分離分断によってまず「核」を承認させ、ついで反核運動を反原発運動との分断でやわらげようとしている。われわれは、こうした分離分断攻撃と闘って反核 反原発運動一体化の闘いを押し進めることを確認する。

 

(3)時間の関係もあって、討論は充分発展させることができなかったが、反トマ、反基地、核チェックの運動は、それ自体米日極東核戦略体制と闘う共闘体制として、アジア・太平洋人民との連帯を要求している。また平穏無事と見える「日常」のなかにひそむ戦争と侵略への加担を再点検しつつ、告発することが極めて重要であることを確認する。

 全体を通してとくに強調されたのは、運動の統一であった。李実根氏の特別報告、上関の主婦の発言にあったように、闘うものの統一こそ運動の最大の武器である。同じ意見の  ものがともに闘うことは当然であって、統一ではない。異なった意見をもつものがともに闘うことこそ統一である。今後とも異なる意見については、大胆な討論を深めながら、反核・反戦・反原発・被害者援護をめざし統一して開かおう。

 

 

 以上のまとめを集会にはかり、満場の盛んな拍手で一致して確認した。さらに議長は、この会議の行動的な集約として、翌六日八時半から中電本社前で行なわれる電産中国地本の反核・反戦・反原発ストによる座り込み抗議に皆で参加しようと提案し、全員の拍手で確認し、八時四十五分集会を終った。

 (附記)

 このたびの集会は、いくつかの点で重要な意味があった。その第一は、この集会を準備する過程で広島の統一的な運動主体が形成され、また各運動の全国的な連帯をきりひらく端緒が生れたことである。広島では、いままでもいくつかの「八・六」集会が何度となく行なわれてきたが、今度のように広い範囲で統一的に結集したのは初めてであった。それは被爆四〇年ということもあったが、それ以上に現在の状況と運動への危機感がそうさせたともいえる。

 八月十八日ひらかれた広島実行委員会の総括会議でも、この結びつきを積極的に受けとめ、全実行委員の参加を求めて会議をひらき、ひきつづき県内反核運動のゆるやかな連絡組織をつくって統一的な運動の発展を共同できずこうという提案を確認した。

 既存の原水禁運動に再び分岐と停滞が生れはじめているとき、それと並んで自立的な活動家集団による反核の諸運動が、連帯しながら統一的に活動を展開することは被爆地ヒロシマの反核運動にとって、きわめて重要な役割を果すに違いない。また、今回は必ずしも充分ではなかったが、全国的な労働運動活動家集団、反トマ全国運動をはじめ、各運動各組織からの参加によって、今後の運動の深まりと広がりの基壌をきずいたといってもいいのではないか。

 第二に、集会のもち方に従来と異なる新しい提起をしたことである。従来、このようなテーマで集った幅広い集会では、とかく運動交流に終りがちで、それはそれとして重要な意味があるとしても、かみ合った討論にはなりにくかった。しかし今回は運動の節目でもあり、日本の反核反戦運動がいままでのような被爆の原体験によりかかるだけの受動的国民主義的なものから、いっそう深い根拠と国際性を獲得し、米日極東核戦略体制と対時するアジア・太平洋の反核民衆連帯に一歩ふみ込むためにも、この運動の根底について共通の認識を獲得しようとした。そのため、まず地元広島から共同の基調提起をつくり上げるため、全く平等で自由な討論で努力した。この基調をつくり上げる過程のなかに、古い経験と若い追求の新しい結合があった。

 第三は、この度の集会のなかで不充分ながら討論を通じて獲得した内容である。それは二つの問題に集約できる。その一つは、反核と反戦が四〇年前の歴史からとらえ還すことによって、反核・反戦・反侵略とことばを連ねるだけでなく、被害者の心底深い無言の告発から、日本帝国主義の侵略戦争によるアジア・太平洋民衆への加害と原爆被害・戦争被

害とを、内実において統一的に把握し、いま進められようとしている新たな加害を阻止する闘いと反核・被害者援護の闘いを一つのものとして追求することができたことである。もう一つは、反核と反原発とのかかわりについての追求である。広島の初期の運動としては、一体としてとらえなから、その直後から軍事利用と「平和利用」の分離分断が進められ、原水禁運動内部に「平和利用」についての賛否両論が生れた。それはこの運動の分裂にひきつがれ、「原水協」は条件付反対だが、実際には結果として原発賛成となり、「原水禁」も内部で意見が微妙に二分していた。その後、反原発運動の高まりのなかで「原水禁」はようやく反原発の立場を鮮明にしたが、いままた運動の後退のなかで社会党内に原発容認路線が生れた。それは「日中原子力協定」の問題と深くかかわっている。それは、一般的には資本主義国の原発と社会主義国の原発を、原理的な方法論として統一的にとらえるという問題であり、特殊的には日本における実践的な反原発運動と社会主義運動における原発問題を、どう統一的にとらえるのかという問題である。このたびの集会の討論は、こうした問題意識を内包しつつ新たな探求をはじめる端緒となった。

 反トマ闘争の討論の弱さは、問題が討論の余地なく明確であるということにもよるが、それ以上に実践の弱さの反映でもあつたのではないか。

(一九八五・八・二九 松江 澄

△ 集会の記事は議事録のテープ起し が間に合わず、私のメモにもとづいて書いたので、意見の集約について発言者の意図にそわない点や、重要な意見と問題点を落したこともあるのではないかと懸念している。

 

 広島実行委員会 (○印は代表)

 

宇田  隆(トマホークの配備を許すな呉市民の会)

沖 美保子(公害をなくす三原市民連絡会)

小田原栄子(全金中国工業支部)

川田 澄(全港湾中国地方部会長)

川出 勝(岩国基地監視連絡会)

木原省二 (原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)

草刈孝昭(トマホークの配備を許すな呉市民の会代表)

栗原貞子(詩人)

好村富士彦(広島大学教授)

近藤幸四郎(広島市原爆被害者の会世話人)

伊達 工(全逓広島中央支部長)

塚原 華子(呉YWCA

中田 慎治(原爆擁護ホーム労働組合委員長)

林 修二(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座)

平桜 直之(労働情報広島支局)

広兼 主生(労働運動研究所)

福井 善之(芸南火電阻止連絡協義会)

○桝谷 暹(電産中国地本副委員長)

○松江 澄(広島原水禁常任理事)

 松山 家芳(医師)

 宗像 基(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座代表)

 山崎一男(大久野島毒ガス障害徴用者協議会会長)

 山田忠文(全造船三菱広機分会委員長)

 山本恵司(南民戦事件破弾圧者を救援する広島の会)

 吉田正裕(原発はごめんだヒロシマ市民の会)

 

全国世話人

市川  誠(総評顧問)

梅林 宏道(トマホークの配備を許すな全国運動)

佐伯 昌和(京都反原発めだかの学校)

清水 英介(前電産中国地本委員長)

西尾  漠(プルトニウム研究会)

樋口 篤三(労働情報編集人)

前野  良(長野大学教授)

横山 好夫(全国労組連事務局長)

 

 「核の冬」を招く爆発量 米ソ兵器の1%程度

 核爆発による地球の寒冷化、いわゆる「核の冬」の研究を続けている米国の天文学者カール・セーガン博士(コーネル大教授)は「核の冬」をもたらす核爆発の規模はこれまでの予想よりはるかに小さく、米ソの戦略・戦域核兵器の一%程度が爆発しただけで到来するという新しい研究結果をまとめた。

 「核の冬」は、米ソが核戦争に突入し、北半球の都市や工業地帯で核爆発が起きた場合、大気中に巻き上げられる紛じんで太陽光線が遮られ、地球上は氷点下の世界になるという現象。

 博士たちは昨年十月、シンポジウムでこのシナリオを発表するにあたって、米ソが保有する戦略・戦域核兵器一万八千発のうち、五分の一が爆発したと想定してデータを処理した。しかし、その後、ソ連の科学者と協力してさらに精密な計算をしたところ、一%程度の爆発でも十分「核の冬」が到来することがわかったという。

 博士は「核爆発による粉じんが攻撃された国から攻撃した国に届くのに十日しかかからない。米ソ両超大国はいずれも、奇襲攻撃によって相手国を破壊すれば、必ず自国をも滅ぼすことになる」といっている。   (朝日新聞から

                             


核戦争阻止の闘いと

 社会主義への平和的移行

  ―批判者への批判によせて―

松 江 澄

 私は一昨年の労研九月号に、「世界平和の前進のための提案」を書いたのを契機に、昨年の一月号から五月号、九月号と、現代社会主義の諸問題について書きつづけてきた。それはただ、ソ連をはじめとした現代社会主義およびその規範的文書についての批判というだけでなく、日本における社会主義的展望という課題が常に念頭にあったからである。

 日本の社会主義革命というとき、私たちは眼前にある現代社会主義から眼をそらすことはできない。そうして日本における社会主義的展望を探り日本の社会主義革命をめざすとき、私にはどうしてもその予備作業として、戦後来私を金縛りにしてきた共産主義運動の「古い掟」から自らを解放しつつ、もう一度原点から探求し直すことが必要であった。ところが、それは思った以上に若干の人々からきびしい批判を受けるところとなった。そこで、その批判に答えつつ、ひきつづき新しい課題の追求を急がなければならなかった。しかし新しい課題について改めて追求し直そうとするとき、そこに立ちはだかっているのはすでに二十五年にもなる旧い諸命題であった。したがってその研究も、こうした諸命題の批判的検討から始めなければならなかった。

 

批判者への批判

 柴山・水沢両君への反批判

 

 まず最初に両君とも私の「声明」批判の態度について批判する。柴山君は私の「清算主義」を批判し、水沢君は「客観的法則性を無視して主観的願望を対置」していると、きびしく批判する。二人の相違は「声明」の評価と見合っている。柴山君は現在でも基本的な点で有効性をもっているといい、水沢君は部分的な誤ちや曲折はあるにせよ、「声明」が予見したとおり、世界革命は画期的な発展をとげたという。水沢君は私の論文を読みとつて、「そもそもはじめから問題であったといっているに等しい」、と指摘する。実はそのとおりである。題名の「いまでも有効か」というのは、当時は「有効」だと思っていた私の心情が、つい出たからだと後で気がついた。改めていえば、水沢君のいうとおり、そもそもはじめから問題であったといまでは思っている。水沢君は「当時の情勢のこのような分析に異論をさしはさむ者はまずいまい」というが、実はそこが問題なのだ。いまでは異論をさしはさまない者はまずいまい。それは個々の部分的分析もさることながら、「声明」をつらぬく方法論に問題があるからである。意見の相違はともかく、こうした事実については是非とも考え直してほしい。

 柴山君はソ党ニ○回大会でのスターリン批判を強調し、スターリン体制下でもなお進められた理論戦線の発展と、この大会を端緒に始まったスターリン批判の成果を私が無視しているという。果してそうであろうか。

 スターリン体制下でどんなに多くの学者、芸術家、文学者などが弾圧され追放されたかはすでに広く知られているところである。皆無とはいえないまでも、この時代が思想の自由を完全に圧殺した「理論的不毛」の時代であったことは、ソ連史研究のなかで誰しも認めるところである。

 柴山君の挙げたヴアルガにしても、三〇年代における資本主義の恐慌分析とその予測まではよかったが、その後の現代資本主義国家の分析など、のちの国家独占資本主義論争の先駆ともなったいわゆる″ヴアルガ論争″では改良主義として批判され自己批判を強いられた。彼が再び旧命題を復活して国家独占資本主義の研究に大普く寄与した「帝国主義の政治と経済の基本的諸問題」を刊行したのは、スターリン批判後の一九五七年であった。

 またニ○回大会で、フルシチョフ報告は松江の指摘したレーニンのテーゼに言及しているし、松江がいうように「資本主義の腐朽と衰退」のひとことでこの「声明」をスターリン的だというのはきわめて乱暴だ。と柴山君はいう。しかし私が主張しているのはこの一句だけでなく、この「声明」金体をつらぬいている傾向の一つの集中的表現として指摘したのだ。たしかにフルシチョフ報告では、レーニンのテーゼを引用して、帝国主義の腐朽化にかんするレーニンの命題を単純にうけとってはならないといいながら、強調しているのは資本主義の科学・技術を社会主義がとり入れるための研究であって、″現代資本主義分析″のためではない。フルシチョフ報告によれば、「資本主義経済の見とおしはだいたい資本主義世界市場の情勢によってきまる。……あらたなますます拡大する社会主義世界市場ができた結果、資本主義世界市場の限界がいよいよちぢこまっていることからも市場の問題はいっそう深刻になっている」と強調している。これがスターリンの二つの世界市場論そのままであろうことはいうまでもない。そのうえ報告は、資本主義諸国の情勢分析からどんな結論がひきだされるだろうか? と問い、「資本主義はひたむきにあたらしい経済的社会的動揺にむかってすすんでいるのである」と結ぶ。これは「声明」の情勢分析と基本的には軌を一にしている。これが柴山君のいう「資本主義の現状分析におけるスターリン批判の成果」であろうか。ニ○回大会の「スターリン批判」は個人崇拝を問題にしたが、「その起源の問題とそれがどうして可能になったのかという問題は、まだ解決されていないと見なされる。すべてをスターリンの個人的な由々しい欠縮だけで説明するのは受け入れがたい」(一九六四年「ヤルタ・メモ」)というトリアッチの生前最後の指摘は、ちょうどこの年フルシチョフに替ったプレジネフによって、「スターリン批判」が事実上中止させられたときだけに千金の重みがある。彼が指摘するように、崇拝を生むのに力のあった政治的誤謬とはなんであったかを追求することこそ重要なのだ。

 水沢君は私の批判に関して別の問題を提起している。彼は「声明」が資本主義における大衆の窮乏化を指摘しているのに、松江はまさにこの時期から技術革新が疾風のように発展したというが、松江は資本主義のもとで窮乏がなくなりつつあると見ているのであろうか、と批判し、「声明」のいうように「経済的におくれた地域がさらに拡大しつつあるがゆえに、とくにそれが集中的にあらわれたらわれた地域で民族解放闘争が燃え上ってきたのではないのか。事情は発達した資本主義国であっても同じである」と主張する。

 「声明」でいう「経済的におくれた地域」が、その文脈からいって資本主義におけるおくれた地域――農村――を指していることは明らかである。水沢君はそれを拡大して、国際的な後進地域――民族解放運動の発展ととらえているようだが、それはさておき、問題なのは「事情は発達した資本主義国であっても同じである」というとらえ方である。国際的な後進地域と発達した資本主義国内のおくれた地域を、資本主義のもたらす窮乏ということで同じような位置でとらえることは適切ではない。この二つの後進地域の質は異なっている。帝国主義の未開発諸国や発展途上国にたいする凶暴な搾取と不等価交換による収奪とがつくり出す貧困化と窮乏化の問題を、こうした帝国主義的経済侵略による「繁栄」のおこぼれにあずかりながら、独占資本によってきびしい搾取と収奪を受けている帝国主義本国の労働者・農民の「窮乏」と同じように見てはならないし、また事実として比ぶべくもない。それは民族問題が階級問題と違うほどに違い、民族解放運動と階級闘争が固く連帯しなければならぬほどに反帝闘争と反独占闘争とを結びつける。

 また、現代帝国主義の発展は、私もすでに指摘しているように、危機をいささかでも救済するものではなく、危機はまたけっして発展を排除するものではない。それどころか、資本主義は一方で搾取と収奪の血をしたたらせ、彪大な失業群をはじめとした腐朽と腐敗を毎日毎日生み出しつつ、他方では新しい技術による新しい生産条件のもとで昨日以上に急速に発展し、それはいっそう資本主義の危機を深める。腐朽と発展、発展と危機の深化は、二者択一ではなく弁証法的な矛盾として存在する。

 また水沢君は、私の「不正確なレーニンの引用」として、ロシア共産党第七回大会(一九一八年)でのレーニンの綱領改正についての報告をあげている。引用や理解での論争はあまり生産的ではないのでくわしいことは省略するが、私の指摘した個所の直接の前後を読めば、それがけっしてロシア革命だけのことではなく、報告のテーマである党綱領にかかわる世界革命の過渡段階の問題であることは一目瞭然であろう。しかし重要なことは、レーニンがどういったかということより、われわれがいまどうとらえるのかということである。水沢君は、先進資本主義国の革命が世界革命過程でもつ「画期的な意味」を認めつつ、松江がいうように、それが「死滅に至る資本主義の危機の深化の質を決定する最大の指標」ということになると、「世界革命におけるプロレタリア国家の役割、民族解放闘争のもつ革命的意義が、まるで後方におしやられることになる」といって、私の世界革命論における根本的誤りがここにあると批判する。

 しかし世界革命の役割について前方も後方もない。世界革命の発展にとって、帝国主義の心臓部にとどめをさすことが決定的なことは水沢君も誰も異存はないはずだ。もちろんソ連をはじめ社会主義諸国や民族解放運動はこの闘いで大きな役割を果すであろう。だが、こうした力と闘いに支えられ励まされ助けられながら、直接的に帝国主義の心臓部をつきさして倒すのは、まさにその国における労働者階級の革命的な闘いではないのか。

 

  再び会般的危機と平和共存について

 

 柴山君は私の全般的危機の理解について、「全般的危機の本質は資本主義に内在する諸矛盾の尖鋭化であり、体制間矛盾は単なる外在要因であって、それは内在的要因を通してのみ作用するということになるが、私はこのような全般的危機の理解は、根本的に誤っていると思う。これでは全般的危機論は、単なる資本主義の危機の深化論になってしまう」といっている。

 どうやら柴山君は、私の全般的危機論批判と内外原因関係論とをいっしょにしているようだ。たしかにそれは関係があるが、一応別の問題として論じよう。いわゆる全般的危機に関していえば、前論文でのべたように、柴山君の定義と少しも違っていない。だから同じように考えている水沢君は、私の全般的危機についての認識を、全くそのとおりであると認めている。ただ水沢君が私とどうしても違うのは、「声明」が規定する今日の時代にあっては、「資本主義国はすでに社会主義へ移行した国から影響を受けざるを得ない。この影響の下で社会主義へ移行する物質的、主体的条件が拡大していく」という点なのだ。この問題については後にふれることにする。

 柴山君は水沢君と同じように、全般的危機の段階論を擁護する。彼はコミンテルン第六回大会のテーゼにもとづき、ロシア革命以来の十年間を三期に分けて分析した実例を引いて、段階論がコミンテルン時代から使われていることを主張する。しかしそれはおかど違いではなかろうか。国際労働運動の発展局面を明らかにしつつ、情勢を分析することは極めて重要なことである。おそらく戦後日本の労働運動(革命運動)を分析する場合には、われわれもきっとこのようにするに違いない。しかし、それが全般的危機の諸局面を反映しているとしても、なおそれは「段階」ではない。いま問題にしているのは段階論一般ではなく、特別な概念としての全般的危機の「段階」なのだ。同じコミンテルンで全般的危機を問題にするのなら、テーゼよりも、この第六回大会の中心議題であった「共産主義インターナショナル綱領」をとりあげる方がよかった。何故ならば、コミンテルンとしては、この綱領ではじめて全般的危機の規定を行ったからである。(「U 資本主義の全般的危機と世界革命の第一局面」)

 もちろんそれは記録に残っているように、ソ連共産党中央委員会が中心になって起草したものであり、それがスターリンによって指導されたものであることはいうまでもない。しかしスターリンがその前年(一九二七年)のソ党第一五回大会報告で、はじめて「資本主義の全般的な根本的危機」と使ったときも、またコミンテルン綱領の場合でも、必ずしも今日いわれているような内容を含めた概念としては使われていない。その後コミンテルン第七回大会(一九三五年)のデイミトロフ報告でも、「資本主義の全般的危機の激化はするどく……」と、資本主義の危機の激化と同じような意味でのべられている。全般的危機の内容が、今日のように豊富な内容をこめて定式化されたのは、むしろ戦後に属する。

 スターリンはすでに戦後早く(一九四六年)モスクワの選挙人集会の演説で、資本主義の第一の危機による第一次世界戦争、第二の危機による第二次世界戦争とのべてその端緒的な提起をしているが、もっと明確に規定したのは一九五二年、「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」に関連してノートキンへの答として書いたもののなかであった。

 「世界資本主義体制の全般的危機は、第一次世界戦争の時期に、とくにソビエト同盟が資本主義体制から離脱した結果としてはじまった。これは全般的危機の第一段階であった。第二次世界戦争の時期に、とくにヨーロッパとアジアにおける人民民主主義諸国が資本主義体制から離脱したのちに、全般的危機の第二段階が展開した。第一次世界戦争の時期における第一の危機と、第二次世界戦争の時期における第二の危機とは、個々別々の、たがいに切り離された、独立した危機と見るべきではなく、世界資本主義体制の全般的危機の発展の諸段階と見ることが必要である」と。

 これが第二段階――したがって段階論の最初の規定であり、またそれは全般的危機論の最初の包括的な定式化でもあった。以後、ソ連および社会主義国の党と学界では、それをいっそう豊かな内容にするための解釈学的な研究がすすんで今日に至っている。

 だが、この概念については、世界でも日本でもマルクス主義学界のなかでいまだに論争が続いている。私は、とくに全般的危機ということばそのものにとりたてて異議をとなえるものではないが、スターリン理論を継承しつつ、その特徴の一つである割り切った数学的な定式化をもとに解釈を深め拡げてレーニンの名で権威づけ、まるで「打出の小槌」の

ように振り回すことに反対なのである。

 レーニンの帝国主義論は、それ自体としてわれわれのもっとも重要な宝庫の一つである。帝国主義を単なる資本主義の最後の段階としてだけでなく、社会主義の前夜として、危機の深化=移行ととらえていることは、すでに前論文でふれたはずである。柴山君の主張している第三段階論についても画期がきわめて不明確である。「声明」が発表されたとき(一九六〇年)すでに入っているとされている「新しい段階」すなわち第三段階の具体的な指標については、ソ連はじめ社会主義諸国の文書によっても、まだ説得性のある説明をきかされたことはない。

 また柴山君は、「平和共存論と全般的危機論とは相互補完してソ連第一主義を『理論』化している同腹の双生児である」と書いた私を批判して、その根拠を問う。

 それはソ連の代表的な理論家の一人でもあるクラシンの「レーニン主義と現代革命」(一九六七年)が分り易く絵解きして見せてくれる。まずクラシンは、「社会制度の異なる諸国家間の平和共存は社会主義と資本主義の階級闘争の一形態である」という「声明」の規定について、次のようにいう。「社会主義国家は国家的に組織されたプロレタリアート」であり、「資本主義国家は国家的に組織された独占ブルジョアジー」である。したがって二つの体制の対立は、プロレタリアートと独占ブルジョアジーの国際的な階級闘争である、と。

 そもそも「社会主義と資本主義の階級闘争」というものがあるだろうか。また「国家的に組織されたプロレタリアート」とはいったい何のことであろうか。

 レーニンは、マルクスが「共産党宣言」のなかで、「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」 といっていることについて、「マルクスのこの理論は、プロレタリアートが歴史上はたす革命的役割についての彼の全学説と不可分にむすびついている。この役割を仕上げるものがプロレタリア独裁であり、プロレタリアートの政治的支配である」と指摘している。(「国家と革命」)つまり、それは「支配階級として組織されたプロレタリアート」=プロレタリア独裁のことであって、「国家的に組織されたプロレタリアート」とは全く似て非なるものである。それは国家とプロレタリアートの安易な結合である。

 クラシンはつづけて主張する。平和共存とは二つの体制の闘争と実務的協力の矛盾的統一であり、この重点は経済に移動して平和的経済競争となる。そうして経済の分野における二つの体制の闘争は、世界革命過程の重要な一面として資本主義の全般的危機を深める。さらにクラシンは、世界的発展の基本矛盾は国内の資本主義矛盾のダイナミズムに巨大な影響を与え、その緊張をつよめ、その形態を変化させ限定する、といぅ。彼によれば、革命的エネルギーを集中的に充填している社会主義世界体制こそ世界的基本矛盾の主導者であり、世界革命の原動力である。そうであれば、その中心であるソ連をまもり、その政策を支持することこそ、世界革命に忠実な道となる。私があえて「ソ連第一主義」という所以であり、それを相互補完して「理論」化しているのが、全般的危機論と平和共存論だと書いた理由がそこにある。

 

 内部矛盾(原因)と外部矛盾(原因)

 

 そこで残された重要な問題は、内部矛盾(原因)と外部矛盾(原因)との関係である。これはただ唯物弁証法一般の問題というだけでなく、いま論争になっている情勢の見方ということに深くかかわる認識の根底の問題でもある。(以下、矛盾ということばに統一する。)

 『知識と労働』三四号の高柳論文(「日和見主義批判と日本共産党の再建」)では私を批判して、「われわれの理解によれば、内在的矛盾は外在的矛盾との相互作用を通じてのみ事物の変化、発展の要因となり得る。この両者を切り離すことはできず、どちらが一義的か二義的かと問うてもはじまらない」と主張する。また水沢君は私の世界革命論を批判しつつ、このような考え方の根底には事物の発展に対する松江の独得の認識論がある、といい、「この認識論こそ重大な誤りである。内部的原因と外部的原因は統一してとらえるべきであって、どちらが第一義かなどとはいえないはずだ。たとえば卵がひなにかえるのは、その卵の内部的原因によるものである。しかし卵がかえるにはそれにふさわしい環境(外部的原因)が必要だ。それなしには卵は死んでしまう。そのようなことは小学生にでもわかる真理である」と教示する。

 しかしここにこそ問題がある。両君の主張はほとんど同じだが、そのなかには私と同じとらえ方の部分と私と異なったとらえ方の部分がある。まず同じ点からいえば、両君はともに、内部矛盾と外部矛盾とは、その相互作用によって事物の変化・発展の原因となるのであって、けっして切り離すことはできず、統一してとらえるべきである、という。私も全くそう思っている。相互作用というとらえ方は、弁証法を形而上学から区別する重要な方法論の一つである。世界には何一つ孤立して存在するものはない。それでは、「どちらが第一義かなどとはいえない」のだろうか。二つの矛盾の区別は「問うてもはじまらない」のだろうか。そうではない。

 この二つの矛盾を区別することは極めて重要である。何故ならば、まず何よりもこの二つの矛盾の性質は異なっているからである。内部矛盾は一つの過程(有機体、構造)の構成要素による矛盾であり、外部矛盾は一つの過程とその環境あるいは乗件(周囲の世界の横合体)との矛盾である。例えば、労働者階級と資本家階級は日本の資本主義社会の構成

要素であり、対立物の統一としてその過程を規定する。これが内部矛盾である。また日本をとりまく国際情勢――一体制間対立を中心とした国際諸関係と日本の社会とは、相互に深くかかわり合い過程にとっての条件となる。それは外部矛盾である。そこには同じ矛盾とはいっても、その事物と過程の運動と発展への関わりかたの相違がある。

 そこで重要なことはレーニンがいうように、「世界のすべての過程を、その″自己運動″において、その自発的な発展において、その生きいきとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである。発展は対立物の″闘争″である。・・・おもな注意はまさに『自己』運動の源泉にむけられる」ということなのだ。(弁証法の問題について「哲学ノート」)

 ことのついでにいえば、「資本主義と社会主義」の対立は、「資本家階級と労働者階級」の対立とは質が異なっている。それは労働者階級と資本家階級のように相互に依存しつつ相互に対立する統一体ではない。その意味では、体制間対立と階級対立とを弁証法的矛盾として同位におくことは適当ではない。それは政治的評価の問題ではなく、哲学的範疇の問題である。レーニンのいうように、世界革命過程を生きいきとした生命において認識する条件は、それを国際労働者階級・抑圧された諸民族と帝国主義ブルジョアジーとの対立として認識することである。この対立物の闘争が自己運動としての世界革命過程を決定する。それはこの過程の必然の所産である社会主義諸国の位置と役割をいささかでも過小評価するものではない。その労働者・人民は国際労働者階級のもっとも先進的な部隊であり、その国は国際労働者階級の闘いと民族解放運動のとりでとなるはずだからである。

 結局、内部矛盾は「対立物の統一」としてその過程の運動と発展を基本的に決定する推進力であり、この過程の内的必然性である。外部矛盾としての環境ないし条件は、内部矛盾に作用することによって発展のしかたに影響を与える。

 その意味で両者は不可分である。それが内部矛盾と外部矛盾の相互作用である。かくして両君と私の異なっている点が明らかとなる。重要なことは、つねに過程の発展を対立物の統一=対立物の闘争として認識することであり、自己運動の源泉を明らかにすることである。まさに内部矛盾こそ自己運動の第一義的な原因である。

 水沢君は、環境との相互作用がなければ 「卵は死んでしまう」という。たしかに一定の温度や環境がなければ成長が妨げられたり、成長しても未成熟なために死んでしまうか殺されてしまう。こうしたいろいろな事例は、われわれがさまざまな生物の誕生を観察する場合に見ることができる。しかし人間の社会は一定の環境(一定の「政治的」温度など)がなくとも、死ぬこともないし停止することもない。環境の政泊的社会的影響がきわめて弱いか、あるいはほとんどない湯合でも、内的必然性によって必ず発展する。社会の発展は不可避である。卵がひなにかえるためには親鶏があたためるか、それと同じような温度と環境(卵工場)が不可欠であるが、卵細胞はその影響のもとで自己運動として成長し幼鶏となる。卵がひなにかえる過程を決定する原動力は環境ではなく、まさに親鶏の産んだ卵そのものの中にある。自己運動と相互作用はけっして矛盾せず、第一義的な推進力を明らかにすることは環境を無視することではない。唯物弁証法はけっしてむつかしい哲学ではなく、自然の発展過程の思惟への反映である。自然のうちにこそ真理はある。水沢君にならっていえば、石でつくったニセの卵を親鶏に抱かせても、けっしてひなにはかえらぬということは、わかりきった「真理」であろう。

 

革命をめざして闘うもののなかで、たれひとりその国の階級対立と階級闘争を軽視したり、たれひとり今日の両体制の対立と闘争による影響を無視したりする者はいないし、またこの二つの力の相互作用を認めぬ者もいないだろう。しかしだからといって、この二つの原因と力を統一してとらえるだけではきわめて不充分であり、実践的ではない。重要なことは、日本の革命にとって何れが決定的な推進力なのか、われわれがおもな注意を向けなければならないのはどこなのか、ということである。答はおのずから明らかではないか。

 この問題について、あるいは両君に異論があるかも知れない。もしそうであれば、これ以上哲学めいた論争を続けるよりも、しばらくお互いに保留して事実と実践の検証を待とうではないか。そうしてわれわれもその実践に加わってともに闘かおうではないか。その方がいっそう生産的であるばかりでなく、回答に近づくもっとも近い道ではないか。そうしてそれ以外の論点についても、私もそうだったが、レーニンやスターリンの言葉や概念の問題としてではなく、課題を日本の社会主義革命の展望にひきつけた具体的で身近な論争として発展させようではないか。それはきっとわれわれだけでなく、もっと多くの人々とも共同で探求できるテーマになるだろう。私はそれを提案する。

新たな追求をめざして

 核戦争阻止と社会主義への平和的移行は、ソ党第二〇回大会と「八一カ国声明」が新しく打ちだした重要な展開であった。この提起が発表されておよそ二十五年、それはすでに古典のように篋底深くしまいこまれているのではないか。しかし、いま核戦争の危機を前に平和をまもりつつ日本の社会主義革命を追求しようとするとき、改めて検討すべき諸問題を含んでいるように思う。そこで旧命題を批判的に研究することは、新しい課題に近づく手がかりになる。

 

 核戦争阻止の闘い

 

 柴山君は、ソ党二〇回大会はスターリンの命題――帝国主義戦争は帝国主義を絶滅しないかぎり不可避である――を批判して、帝国主義間の戦争も不可避ではなく防止する可能性があることを明らかにし、平和擁護闘争の意義を正しく規定したと強調する。

 しかし戦争の不可避性の命題は、スターリンのテーゼではなくレーニンのテーゼであり、マルクス・レーニン主義の命題である。レーニンは周知のように、「生産手段にたいする私的所有が存在しているかぎり、このような経済的基礎のうえでは、帝国主義戦争は絶対的に不可避であるということをしめしている」(「帝国主義論」序言) と規定した。だが経済構造(下部構造)としての独占資本主義(帝国主義)は、理論的にはただそれだけでは戦争として発現しない。フルシチョフが報告でいうように、戦争は経済現象ではないからである。それは政拍構造(上部構造)を規定して帝国主義政治体制をつくりだし、こうした政治過程はその特殊な延長として帝国主義戦争に転化発呪する。「声明」はいまででは「戦争の宿命的な不可避性は存在しない」というが、そもそも宿命的な戦争不可避論はマルクス主義とは縁がない。理論的には政治構造(上部構造)のなかに戦争を阻止する力が存在すれば、たとえ帝国主義経済構造のもとでもその政治過程が戦争という形態に転化発現することを防ぐことができる。

 しかしこの理論的可能性を現実的可能性に転化するためには――戦争を一時的にせよ阻止する力が生れるまでには―― 一世紀におよぶ労働者・人民の闘いが必要であった。(松江「平和のための闘いと革命闘争」労研八一号)結局、戦争阻止の可能性の問題は、一般的には国内的国際的階級関係および戦争勢力と平和勢力の力関係が決定する。レーニンの生きた時代は、戦争を阻止するカがまだ極めて弱かったので事実上戦争が避けられなかったのだ。

 これに関してスターリンは、「平和をまもり新しい世界戦争に反対している強力な人民勢力が成長したいまでは、(レーニンの命題は)古くなったものと考えるべきだ、というものがいる。これは正しくない」と批判し、当面の戦争を阻止し、当面の平和を一時的に維持することはできるが、戦争の不可避性をとりのぞくためには帝国主義を絶滅しなければならない、と強調する。

 

これにたいして 「声明」は、レーニンのテーゼで確認しつつ、「すべての平和愛好勢力が共同で努力すれば世界戦争を防止することができ」、さらに「近い将来、社会主義と平和勢力の優位」が絶対的なものになれば、社会主義が全世界で完全な勝利をおさめる以前に、「社会生活から世界戦争をなくす現実的可能性」が生れ、ひきつづき全世界における社会主義の勝利は「あらゆる戦争のおきる社会的民族的原因を最終的にとりのぞく」と、三段階に分けて展望をのべている。(太字筆者)

 「声明」がスターリンと違うところは、当面の戦争阻止の現実的可能性から一歩すすんで、帝国主義は残っていても戦争をなくす現実的可能性を展望していることである。ここでいう「絶対的」優位がどういう意味なのか、「近い将来」がいつ頃のことを指すのかは分らない。だが、この「声明」で、すでに社会主義体制の優位を確認しつつ三大革命勢力

による世界過程の決定力を強調しているが、その後二〇年以上もひきつづき着実に発展しているとすれば、あまり遠いことではなさそうだ。

 しかし現実はそれほど甘くはない。いま何より重要なことは、戦争をなくする段階論ではなく、目前の核戦争の危機から当面の平和をまもることである。われわれはいま、戦争の概念がすっかり変り始めている時代に生きている。かつてコミンテルン第七回大会で、迫りくるファシズムと戦争を前にしたトリアッチ報告は、予想される戦争(第二次世界大戦)について次のように語っている。

 「最も完成された兵器が大規模に実戦に使われたら、どのようなことが起こるかをわれわれは予見することができない。われわれが知っているのは、次の戦争が国をあげての戦争、戦線と銃後の区別がなくなる戦争であり、現代的・文化的な国民生活を可能にしているすべてのものを破壊する戦争であるだろうということである」と。いまから半世妃前のこの先見的な見とおしを第二次大戦は事実で証明した。

 だが、それは終りではなく始まりであった。終結のためと称して使用された核兵器が、いまでは戦争と兵器の前面におどり出て、戦争の性格をすっかり変えてしまった。いま予想される新たな世界的戦争は、戦線と銃後だけでなく、戦時と平時、戦闘員と非戦闘員、交戦国と非交戦国の区別を全くなくする全人類的な戦争であり、一国の現代的・文化的な国民生活ばかりでなく、全世界の、人類そのものの生存と生活を可能にしているすべてのものを根底から破壊する戦争となるだろう。そこでは、他国を支配し略奪するための手段としての戦争の古典的な概念は、包括的な放射能汚染という事実によって葬りさられた。それは全人類を犠牲にしてでも帝国主義の敵を破滅させることだけが目的となり、そこにあるのはむき出しの不信と憎悪以外の何物でもない。

 しかも、この 「絶滅兵器」は、その意図にもかかわらず攻撃と防御の区別さえなくし、防衛という概念の本来の意味を奮って「報復」という概念に変えてしまう。それは社会主義と帝国主義という厳然たる階級的革命的対立と闘争にもかかわらず、兵器の相互浸透を通じて、その軍事的対立を同質化する傾向を絶えず生み出す。ここに核軍拡競争の特殊な性格があり、多くの人々がその危険性を指摘する理由がある。それは絶えず拡大する均衡のワクが、このままでは縮小に向う見とおしがないからである。そこに私があえて「一方的核軍縮」を提案した理由がある。

 この 「一方的核軍縮」―それは米ソの立場を考慮して「独立の主導インディペンデントのイニシャチブ」と言い換えられることもあったが――は、「非核地帯の設置」「対衛星兵器の禁止協定」とともに、米ソ科学者が相対的に数多く参加しているバグウォツシュ会議の第三四回会議(入四年七月スウェーデン)でも重要な問題点になったという。(豊田利幸「核軍備競争の激化と科学者の役割」 『世界』入四年十一月号)いま「一方的核軍縮」は、ゆきづまった核軍縮交渉の凍結をとく有力なイニシアチープの一つと見なされようとしている。それはまた、平和を愛する世界の人民にも喜んで受け入れられる提案でもあると、私は確信する。

 ところが前掲高柳論文は私の提案を批判して、「松江論文を読むかぎり、ソ連は反核運動を信頼せよといっているにすぎない。この『担保』は松江氏の願望でしかない」と批判する。しかし社会主義が世界人民の闘いに信頼をおかないで、どうしようというのであろうか。結局、彼が主張したいのは、レーガンの限定核戦争構想の発動を阻止しているのは、「ただ単に反核運動が起きているからだけではない。ソ連をはじめとする社会主義共同体諸国の核兵器をふくむ軍事力と平和共存政策が、帝国主義の手足を押えているのである」ということなのだ。さらに「力の均衡論」批判にたいしては、「戦後の今日までの経過をふり返るなら、帝国主義の軍事的優位に対して、社会主義がようやく『均衡』といえるところまで軍事力を強化してきたのではないか。このことの意義を正しく評価すべきである」と強調し、「力の均衡論」なにが悪い、とひらき直る。

 それにしても、核兵器の均衡論が説かれようとは思いもよらなかった。これは感傷の問題ではなく、社会主義本来の重要な問題である。戦後はじめ、アメリカ帝国主義による核独占と一方的な核恫喝は、ソ連の核開発によって打ち破られた。たしかにこの時期のソ連の「核」は、帝国主義の核恫喝を相対化して核使用を躊躇させるうえで一定の役割を果した。しかしこの場合でも、五億のストックホルム・アピールに示されるような、世界各国人民の反核反戦の世論と運動のカこそが、朝鮮戦争でアメリカ軍の核兵器使用を阻止したのではなかったか。またベトナム戦争で戦術核兵器の使用をくいとめ、ついに停戦に追いこんだのは、ソ中の軍事援助の力もあるが、何よりもベトナム人民の不屈の闘いと全世界に拡がるベトナム反戦の運動ではなかったか。

 いまの情勢は、こうした時期とはまた違った意味できびしい。レーガンの冒険的な核戦略は、地球の東でも西でも核戦争の危機をつくり出し、それはとくに中距離核ミサイルの開発によって、いちだんと深められている。もしそれを阻止する主要な力が「ただ単に反核運動」だけでなく、ソ連の「核兵器をふくむ軍事力」とそれを背景にした平和共存政策にあるとすれば、それこそ「唯武器論」以外の何物でもない。結局、核兵器には核兵器を、と、ソ連核兵器の優位をめざしてアメリカの核に「追いつき追いこせ」ということになれば、拡軍拡競争に拍車をかけることになるのは明らかである。

 いま全世界の人々が真剣な危惧をいだいているのは、核戦争が核戦争のそなえから生れることなのだ。だからこそ、幾千万幾億の人々がヨーロッパからアジアまで、「いかなる国」の核兵器にも反対して立ち上っているのではないか。それは世界戦争が避けられる現実的可能性があるからではなく「人類絶滅の現実的危険性があるからである。

 

  社会主義への平和的移行

 

 「声明」は、また、社会主義への平和的移行について新たに画期的な提起を行なっている。すなわち、「現在の条件のもとでは、一連の資本主義諸国で前衛にみちびかれる労働者階級は、労働者の統一戦線および人民戦線、その他のあらゆる形態のいろいろの政党や社会団体の協定や政治的協力にもとづいて人民の大多数を統一し、内戦なしに国家権力をにぎり、基本的な生産手段を人民の手にうつすことのできる可能性をもっている。・・・労働者楷級は反動的反人民的勢力を敗北させ、議会で安定した過半数をかちとり、ブルジョアジーの階級的利益に奉仕する道具である議会を勤労人民に奉仕する道具にかえ、議会外のひろい大衆闘争をくりひろげ、反動勢力の抵抗を粉砕して社会主義革命を平和のうちに実現するために必要な条件をつくりだす可能性をもっている」と。

 ここでいう現在の条件とは、すでにふれたような「声明」の規定する現代の特徴――社会主義の優位と平和共存であることはいうまでもない。しかし同時に「声明」は、「社会主義革命の形態と発展の方向は、それぞれの国の階級勢力の具体的な力関係、労働者階級とその前衛の組織性と成熟の程度、支配階級の抵抗の度合いに左右される」と指摘する。

 社会主義への平和的移行の問題については、労研九月号で佐和慶太郎氏がプロレタリア独裁との関係でいくつかの問題を提起し、それにたいして十一月号では柴山君が批判論文を書いている。何れも主題はプロレタリア独裁である。私もすでにこの問題では労研誌上でふれたこともあって意見もあるが、次の機会にゆずり、ここでは「平和的移行」そのものについて検討することにした。

 ここで問題になるのは、いわゆる「敵の出方論」である。二〇回大会の報告では、「闘争がどの程度にはげしくなるか、社会主義への移行に暴力をつかうかつかわないかは、プロレタリアートの態度できまるのではなくて、むしろ搾取者がどの程度に抵抗するか、搾取者階級自身が暴力をつかうかどうかによってきまるのである」と指摘している。そうであれば、移行が平和的か非平和的かについては、他のすべての条件が満たされても、結局は支配階級の出方によって左右されることになる。平和的移行は、労働的階級の主体的選択の問題ではなく、もっぱら相手次第ということである。

 もちろん、どんな場合にも血が一滴も流れぬ革命はないし、たとえどんなに激しい内戦による場合でも、時として革命の平和的発展の時期がある。レーニンにひきいられたロシア革命の闘いは、周到に準備された戦略にもとづく革命の平和的発展と非平和的発展のたぐいまれな結合であり、統一であった。チリ革命については、チリ共産党の指導的幹部がのちに自己批判しているように、「急流のなかで馬を乗りかえる」訓練と準備ができていなかったことが、反革命に敗北した重要な理由の一つとされた。

 しかしなお問題なのは、革命の平和的移行か否かが支配階級の出方、にょるのか、それとも労働者階級と人民のイニシアチ―ブによって平和的な移行が可能なのか、ということである。「声明」では、「搾取階級が人民にたいして暴力にうったえてくる湯合には、べつの可能性すなわち社会主義への非平和的移行の可能性を考えに入れなければならない」とのべ、二〇回大会の報告では、「資本主義がまだ強く巨大な軍事的警察的機関を資本家が握っている国々では、反動勢力はもちろん激しく抵抗するに違いない。そこでは社会主義への移行は激しい階級闘争、革命闘争を伴うであろう」といっている。文脈からいって、これが非平和的移行ないし内戦を意妹することは明らかである。だがいったい、いざという時に暴力を使おうとしない搾取階級がいるだろうか、巨大な軍事的警察的機関を支配階級=独占ブルジョアジーが握っていない帝国主義国があるであろうか。この定式化からいえば、少くとも日本では平和的移行の可能性はまずないということになる。

 しかし問題は全く逆なのだ。独占ブルジョアジーが巨大な軍事的警察的機関を握っている資本主義国の革命だからこそ、「敵の出方」にまかせるわけにはゆかないのだ。だからこそ、平和的移行の意識的追求が必要なのである。移行が平和的か非平和的かということについて、重要な問題点の第一は軍事的な条件である。マルクスが一九世紀後半に、アメリカとイギリスでは権力の平和的移行の可能性があるといったとき、彼はこれらの国のブルジョアジーの手中に大きな軍事的警察的機関がないことを考慮に入れていた。また晩年のエンゲルスが「フランスの階級闘争」の序文で、「国民間の戦争の条件も変化したが、それにおとらず階級闘争の諸条件も変化した。奇襲の時代は過ぎさった」と指摘したとき、彼の念頭にあったのは市街戦とバリケードの役割の変化であり、兵力と兵器の発展についての科学的な考察であった。

 今日のように軍事技術が発達している条件のもとでは、軍隊をほとんど全面的に味方に引き入れるか、軍隊がほぼ完全に身動きできない条件をつくりだすのでなければ、内戦で支配階級を打倒することはほとんど不可能であろう。したがってそれにすべてを賭けることは冒険である。そのうえ発達した資本主義国では、政治的組織的文化的に幾重にも掘りめぐらされた縦深の深い塹壕でまもられている権力の中枢は、ひとときの武力決戦でいっきょに粉砕することはほとんど不可能である。議会の道はたしかに反革命を反乱の反徒にすることで平和的移行への有力な布石となるが、そのことだけでこの道が無条件に平和的な道に連結するというわけにはゆかない。

エンゲルスが指摘し、その後の革命の歴史が証明しているように、議会の温度計が沸騰点に達したとき、闘いは多数を争う舞台から権力を争う革命の舞台に移行するからである。チリの革命と反革命の教訓はそれを示している。もちろん問題は権力の奪取であり、平和的か否かといぅことは、その目的からいえば従属的な問題であろう。しかし、発達した資本主義国における社会主義革命の移行過程が平和的か非平和的であるかということは、その革命が成功するか否かということとはとんど別ではない。

 どんな場合にも、想定される部分的な非平和的対決に備えを欠いてはならないが、支配階級が強力で新鋭な武器と軍事力をもっている集件のもとで革命を成功させるためには、主要な過程として是非とも非軍事的な権力獲得の道を追求しなければならぬ。

 そこで問題は移行過程が平和的か否かという問題から、移行形態それ自体――権力獲得の方法と形態――の問題に移る。そこでは、ロシア革命をはじめとした歴史的な諸革命の対象と条件――資本主義が充分発達せず、近代的な市民社会が成熟していない状況と構造、あるいは革命をとりまく特務な情勢と条件――とは大きく異なり、経済的政治的また社

会的文化的に発達した支配構造に立ち向う方法の研究と追求が必要となる。

 この点で、レーニンの生きた社会と時代の制約から解放されながら、レーニンが果せなかったテーマの追求を継承発展させたグラムシの理論と方法は、日本の社会主義革命を追求するうえでわれわれの有益な手がかりとなるだろう。それは少なくとも「声明」が提起しているような統一戦線戦術の発展的な追求や、議会を利用するということだけでは答えられない問題を解く重要なカギとなる。私はかつてグラムシの「陣地戦」を統一戦線戦術と比較して書いたことがあるが(労研五六号「新しい革命と新しい党」(三))、それはどこでも適用可能な方法論としての統一戦線戦術とは異なって、発達した資本主義国それぞれの社会経済の構造に対応する国民的な革命論としてであった。それは大衆的な純一戦線戦術の延長線上の追求ではあったが、明らかにレーニンの意図していたものとは異なった性質のものであった。

 それは、いままでのマルクス主義の範疇からは突出した提起であり、変革以前に構造と上部構造の新たな「歴史的ブロック」を準備するという魅力的で探求的な課題である。それは発達した資本主義国一般に通ずる新たな提起であるとともに、すぐれて特殊イタリア的な追求でもある。何れにしても問題の核心は、平和的か非平和的かというところにではなく、平和的もしくは非軍事的移行に充分耐え得る資本主義国の革命論それ自体である。

 日本でいままで多く語られ説かれてきたのは、革命論一般あるいは資本主義国の革命一般ではなかったか。しかしわれわれが日本の社会主義革命を追求しようとするならば、ただそれのみにとどまらず、日本の経済と社会、意識と文化を改めて研究する必要があるのではないか。とくに日本資本主義の歴史的性格とともに、その強靭さと脆弱さがどこにあるのか、また日本型市民社会と文化的生活様式の特質などについての研究が必要であろう。

 また重要なことは、近代以後の大衆運動と大衆意識の諸形態、なかでも戦後労働・農民・市民運動の総括的分析が欠かせないであろう。日本の歴史と社会の研究なくして、日本の社会主義革命はない。もちろん、すでにその試みはいくたびか行なわれた。しかし、そうした研究が、直接的にも日本社会主義革命の方法論的追求と結合して検討された例をあまり聞かない。われわれはそれぞれの分野の人々の協力によってその準備にとりかかる必要がある。

   (一九八四・一一・二九)


特集1 アジアにおける反戦反核運動

原爆・敗戦五〇周年を前に

    ――日本の平和運動を問い直す――

              広島県原水禁常任理事 松江 澄

                労働運動研究 一九九四年八月 No.298掲載

 

 一、 日清戦争一〇〇周年

 

 今年は日清戦争一〇〇周年であり、来年は原爆と敗戦の五〇周年である。

 日清戦争の始まった一八九四年といえば、私が生まれるわずか二五年前である。それは日本軍国主義が東アジアに対して最初に開始した戦争であった。薩長を軸にした明治新政府が成立してからすでに二〇年も経っていた。しかしこの二〇年はけっして容易な年月ではなかった。

 どんな新しい国家体制もそれが旧権力を倒してすぐでき上がるわけではない。古い権力と新しい権力の交代は二、三年毎に替る今の政府とはわけがちがう。それは封建的な国家体制から近代的な国家体制へと一国の枢軸が一八〇度変わるからである。それは薩長政府が明治になったから変わるわけでもないし、明治天皇が即位したから変わるわけではない。一つの国家体制が次の国家体制に変わるためには、多くの年月と犠牲が必要なのだ。新政府はまず古い地方割拠の諸藩の権力を廃止するとともに、多くの抵抗と反乱を制圧しなければならなかった。それは日本で始めての近代的統一国家であった。

 それはまず新しい君主ともなすべき若い酒好きな青年を教え鍛え訓練するとともに、日本で始めての近代国家を形成するために何が必要なのかを先進諸国から学ばなければならなかった。総理大臣以下閣僚の大半と一〇〇名に及ぶ若く俊秀な官僚たちを率いて、一年一〇ヵ月にわたって米欧など一二カ国をたずねて学ぶことは、けっして容易なことではない。それは旧体制を倒しこわす以上に重大な努力とエネルギーを必要としたに違いない。そうして帰国すればすぐ西郷の反乱をせん滅しなければならなかった。

 こうした長い緊迫した年月の準備の後に、ようやくつくられたのが国の基軸ともいうべき憲法(二八八九、明治二二年)であり、それにもとづいて支配する天皇の教理としての教育勅語(一八九〇年)であり、新国家にとってなによりも重要な軍隊が、国民皆兵をめざす徴兵制の抜本的改革によって編成されるのもこの頃であった。

 日清戦争(一八九四、明治二七年)は、天皇制明治帝国がその国づくりを完成して最初に開始した対外戦争であった。そしてそれはその侵略的性格によって、東アジア人民の覚醒を促し、東アジア近代史の転換の契機ともなったのである。それは以後ひきつづく東アジア侵略戦争の最初の布石としての朝鮮半島支配のための第一歩であった。

 それはまたやがて開始する日本帝国主義の日露戦争とともに、半世紀にわたって東アジア支配をめざす「通路」としての朝鮮半島を「日韓併合」という偽名のもとに植民地として支配しつつひきつづき「満州」進出の足場とするものであった。それは五五年後、私が学生兵として牡丹江の東北対ソ戦繰に送られてゆく経路でもあった。

 日清、日露(一九〇四年)にひきつづき第一次大戦下の山東省出兵(一九一四年)からロシア革命干渉軍としてのシベリア出兵(一九一八年)、さらに昭和に入って張作霖爆殺(一九二八年)へと進み、以来「満州事変」(一九三一年)から中国への全面侵略戦争(一九三七年)を経て「太平洋戦争」(一九四一年)へと五年戦争の道をまっしぐらに進みながら、一九四五年の敗戦に至るのである。

 それは日清戦争以来ほぼ一〇年ごとにエスカレートしつつ中国を基軸として東アジアヘの全面侵略戦争として展開され、最後には利権の対立から対米戦争に突入してついに一九四五年八月の原爆と敗戦を迎えたのであった。

 この間、広島は日清戦争で大本営が置かれて天皇の住まう臨時首都として戦争指導の中心地になるとともに、宇品港は中国への最大の出兵基地となり、以来兵器、被服、糧誅三支廠の設置によって全国から集合する軍隊の兵站基地として栄え、日清戦争以来五〇年にわたって日本帝国主義のアジア侵略戦争に重大な役割を果したのであった。私は小学校以来一五年戦争の渦中で育ったが、物心ついて以来、広島ではただの一日もカーキ色の軍服を見ない日はなかった。広島は軍人の町だった。

 

 二、戦後における軍隊の復活

 

 自衛隊がすでに立派な軍隊であり、しかもその兵力がアメリカ、ロシアについで世界第三の軍事力となっていることはすでに広く知られている。しかし、かつての軍国主義日本の平和への転生のあかしとして称揚された憲法第九条と現実を照合すれば、それがすでにどんなにへだたっているかは一目瞭然として明かである。

 事実として日本が「陸海空の戦力」を持ち、しばしば「国際紛争解決の手段として」自衛隊が派遣されて「武力による威嚇又は武力の行使」が行われている。次第に拡大する憲法と現実とのギャップは誰しも否定できぬ。

 そこで私はこの軍隊がどういう状況のもとで産み出され、どういう情勢のもとで肥大していったのかを歴史のなかで確認したいと思う。敗戦後、米軍管理のもとで旧日本軍隊が解体され、以後数年にわたって日本には軍隊はもとより一片の軍事力も存在しなかった。しかし四九年秋の中国革命の成功につづく翌五〇年六月の朝鮮戦争の勃発のなかでマッカーサーは七月八日、吉田首相あての書簡を発し、やがて引揚げる米軍の穴埋めとして、国家警察予備隊七万五〇〇〇人、海上保安隊八〇〇〇人の創設を命じた。

 政府は一九五〇年八月一日付けポツダム政令として警察予備隊令を公布、即日施行して隊員募集が行われ、第一陣七〇〇〇人は八月二三日に入隊した。

 私たちがこの予備隊と初めて出会ったのは五一年八月六日の中国地方平和集会だった。私たちは前年の五〇年「八・六」では戦後初めて米軍管理下、非合法で朝朝戦争と原爆使用に反対する瞬間集会を駅前で行い、翌五一年には講和条約後初めて認められた屋内集会を公安委員会がようやく許可した駅近くの荒神小学校の講堂で開く準備をしていた。

 そのとき突然、会場の回りを異様な服装をした者たちを満載したトラックが走り回っているのを見た。トラックのなかで「折敷け」の姿勢で待機している黒い服を着て銃をもった部隊は緊迫した寡囲気をだだよわせながら、荒神小学校の囲りを何度となく威嚇して走り回った。集会の責任者であった私は中国地方から参加した一〇〇〇名近い活動家たちに報告しつつ、各門に防衛隊をはりつけ、正面には机でバリケードをきずいた。それは発足したばかりの警察予備隊であった。

 

この予備隊がつくられた背景は、米軍の撤収というだけでなく、前年始まった朝鮮戦争で一時期南端まで追つめられた危機感から急がされ、米軍キャンプで急遽、米軍の指導と管理のもとで教育・訓練されたのだった。こうした予備隊の発足とともに海上警備隊も創設され、旧軍人(旧陸軍士官学校・海軍兵学絞出身者)の幹部への採用が急いで行われることになった。

 こうした状況は朝鮮戦争への危機感だけでなく、やがて結ばれる日米安保条約のもと、生まれるときから米軍によって育てられたこの軍隊は、一九五四年、防衛二法の国会通過によって陸・海・空三軍の自衛隊として米軍の最も信頼するパートナーとして誕生したのであった。

 この間の時期は内灘闘争、砂川闘争などの米軍基地反対闘争、つづいて「ビキニ」以来の原水爆禁止運動が広く発展した時期でもあった。この時期は反米基地闘争をはじめ米軍管理下の支配と抵抗、さまざまな権利の抑圧と解放をめぐって、政府と運動が激しく対立・抗争したときだった。だが米軍の指導によってつくられた三軍の結成にたいしてどれだけ闘ったであろうか。

 

 再軍備反対というスローガンはどんな集会でも掲げられたが、五四年早くも自衛隊と改称されたこの軍隊は、ひきつづいて始まる六〇年安保闘争の大きな広がりのなかで、年々に予算を倍化しつつ急速に整備されていった。この軍隊にたいして現実的で有効な反撃が闘われたであろうか。今にして思えば、残念ながら充分闘われなかったと思う。五〇年代の反戦反核闘争には三軍の復活・再建の企てを卵のうちにつぶす戦略がなかった。

 とくに重要なことは、復活された軍隊が生まれ落ちるときから米軍の手で育てられてきたということである。それはけっして独立した日本の軍隊ではなく、日米安保条約のなかでの軍隊であるということだ。日米軍事同盟は経済同盟、政治同盟以上に緊密な関係にある。それは今後われわれが反戦反派兵闘争を闘ううえで確認しておく必要がある。日米関係は想像以上に深い結びつきを持っている。

 しかしそれは日共がいうように、「国家的従属」ではなく日本の支配層の思想に深く染みついている歴史的な「アメリカ・コンプレックス」である。それは一五年戦争の最後の時期にあたる太平洋戦争(日米戦争)を前にしてすでに始まっていた。

 

三、「日本改造計画」の源流

 

 いま悪名高い小沢一郎は容易に見すごせぬ重要な思想潮流の中心的な人物である。たしかに若くして海部内閣の副官房長官となり、つづいて自民党幹事長となって後継首相を一人づつ呼びつけて口答試問をしたことは人々の記憶に新しいところである。その後、自民党を割って新生党の首領となり、以来カゲとなりヒナタとなって政府交代劇のマネージャーとなっている。

 タカ派の声は高く、ことあるごとに噂され、多くの場合にそれは悪役である。だが重要なことはこの若手のリーダーの個人的性格ではなく、その思想的性格なのである。

 彼はしばらく前に、その著書『日本改造計画』のなかで、その後とり沙汰された「普通の国」という意表をついた用語で実は日本を普通でない国に仕立て上げようとしている。彼はその著書のなかで、「国際社会で当然のこととされていることを当然のこととして自らの責任で行うことである。」という。つまり「安全保障」のための「国際貢献」を果せというわけである。このことは、日本が戦後得てきた平和・自由・繁栄のコストを払えということである。

 そこには過去の侵略戦争の反省はひとかけらもなく、ただあるのは商売のように″もうけ″の代金を払えという。そのうえ念が入っているのは、今後とも日米安保の三階建てを建てて、一階はペルリ以来の日米和親条約の延長線上に、二階は太平洋戦争の愚は二度と犯さぬ不戦の誓い、三階は北大西洋条約のような西太平洋条約をつくつて日米防衛の約束をするという。

 そのためには憲法九条に第三項を新たに挿入して、「平和創出のための自衛隊を保有し、国連の指揮下で活動するための『国際連合待機軍』を保有し活動をさせる」べきだという。ここまでくると彼の本音はかなりハッキリしてくる。だがこうした思想の流れは小沢に始まるわけではない。歴代首相もときにはこれに近いことをいってはきたが、ペルリまで持ち出したのは始めてであり、こうした彼の先輩としては、仇のようにいがみ合ったが、近頃は大分よしみを通じているといあわれる中曽根元首相である。

 中曽根は首相になるとすぐ二つの目標を発表した。その第一は、日米関係を中心として自由主義世界の一員としての義務を果すこと、第二は「たくましい文化と福祉の国」をつくるための行政改革と教育改革だと宣言した。彼は訪韓につづいて訪米して「日米は運命共同体」だと大兄得を切った。

 中曽根が主張した「戦後政治の総決算」はおおむねそろばんが外れたが、軍事費一%突破、「日の丸・君が代」と靖国神社参拝など派手な土産を残した。その中曽根が近ごろ佐藤誠三郎、村上泰亮、西部邁らと組んで『共同研究「冷戦以後」』という著作を出版した。

 彼はそのマニフエスト (宣言) とでもいうべき序文でいう。「一国平和主義は日本のとるべき道ではない。憲法は必要に応じて改正もし国連を中心とする安全保障にも当然の協力を行うべき」だと。さらに彼は日米安保条約を軸にして東アジアに政治的屋根を構築すること」を強調し、北米・日本・オセアニア等の強調と共同を進めるための「太平洋経済文化ハウス」の建設を呼びかける。しかも三階建てで。

 中曽根と小沢が似ているのは三階建てだけではない。二人とも札付きのナショナリストであるとともに極めて熱心な日米協調論者であることだ。そうしてもう一つ似ているのは二人とも過去の戦争を反省しているが、それは太平洋戦争と呼ばれる日米戦争なのである。けっして一五年にわたる中国侵略戦争ではないし、アジア各国への侵略戦争でもない。まして日清戦争以来の五〇年戦争でもない。私にはこの共通性が最も気にかかるのだ。戦前の「革新」的知識人集団のなかにこれと共通な性格があるからである。

 その中心的な一人である政治学者の矢部貞治には私も大学時代政治学を教わったことがある。といっても学友といっしょにたった一回だけ講義をきいてその「大東亜共栄圏」論に失望してボイコットし、熱心にきいたのが南原繁の政治学史だった。ところが矢部は公刊された「日記」のなかで、その「国家と宗教」について書いている。「南原先生個人の精神的問題としては刻苦の労作でも、日本の政治に現実に政治学として指導精神を与え得なかったことは当然だ。その意味で政治学の無力という非難の一端を南原さんなども負わねばならぬ」と。

 その矢部は「政治学の責任」を負って、一九三五年の「近衛新体制運動」に参加し近衛首相に接近してそのイデオローグとして活躍し、大政翼賛会に参加して「政治学者としての指導精神」を果たしている。彼は戦後も「大東亜共栄圏」構想は半分は正しかった、と確言する。

 その矢部の大学以来の愛弟子として可愛がられ戦後も師事したのが私より一つ年上の中曽根だった。旧制高校が違えば交わりもない当時の法学部を卒業した彼は海軍主計中尉への道を志願して大尉にまでなったようである。

 戦後、中曽根が代議士に立候補すると矢部は応捷にかけつけ、中曽根は矢部著作集の編纂委員長になり、矢部が総長をした拓殖大学の総長に就任した。師弟の交わりきわめて緊密なものがあった。

 

 四、アジアの人々とともに

 

 この三人はたしかに共通の資質をもっている。だがそれはこの三人だけではない。戦前戦中の知識人層のなかに矢部らと余り変わらぬ人々も少なくなかった。中国は犯してもアメリカとは闘うべきではない、と心中で思っていた人は多いいことを私も知っている。そこにはアメリカと闘ったら負けるという「良識」をもっていた人も少なくないが、その心底には、日本より発達している「白人」の国と自らもその一員であるにもかかわらず後進的アジア人の国とをはっきり差別している人が多かった。もっとも重要な問題はそこにある。

 そのころ、この戦争は今までの英、仏、蘭、など「白人」の支配から、アジアを解放する闘いだと、もっともらしくいいふらす学者や文化人もいた。そういう見方は当時の一部の知識人層にとってわずかな「良心」の支えになっていたのではないか。

そうしてこうした人々にいずれも″日米闘うべからず″という気分があったことも事実である。そこには問題にならぬはどの国力の差による無残な敗北を避ける気持とともに、先進文明国アメリカヘのコンプレックスがあったに違いない。そのアメリカに大敗したうえに、戦後五年近いアメリカ軍の占領は、支配層に近いほどGHQへの屈従とかけひきが日常化してアメリカヘの深い追随を生んだ。

 こうした思想はその後も日米安保を担保に、ひきつづき尾を引いている。そこには依然として「遅れたアジア」への蔑視がある。福沢諭吉の「脱亜入欧」論はけっして死語ではない。いやそれどころか、矢部=中曽根=小沢というラインで厳然として生きている。

 それは明治以来の知識人層の心底に残されているしこりのような思想であり、「エリート」日本の最もなじみ易い思想的潮流ではないか。そこには武力による侵略の前に「心」としての思想的侵略がある。最近の「核問題」にからんで広島でもしばしば起こされている朝鮮人生徒にたいする悪質な襲撃はそのもっとも醜悪な表現である。

 日本の平和運動―反戦反核運動が心すべきことはただ国連の「国際貢献」に反対か賛成かということだけではなく、過去の歴史をどう考えどうとらえるか、ということなのである。それは派兵是か否かというだけでなく、今後の日本の進路にたいする現代日本人の思想的基盤をどこへおくのか、ということである。

 現在政局の混乱のなかで、すみの方から目玉をむいて先の先をにらんでいる中曽根や小沢とその亜流がいることを忘れてはならぬ。


ポーランドの事態から学ぶこと

―現代社会主義の諸問題―

 

労働運動研究 19824月 150号 

 

 松江 澄(統一労働者党全国委員会議長)

 

 これは去る二月十四日、統一労働者党の全国党員学習会においておこなった松江澄議長の講演に若干の補正をほどこしたものである。

 

 今度のポーランド問題は実に重大な問題です。今までも「チェコ問題」などがありました。しかし、今回ほど重大な課題を国際共産主義運動に投げかけたことはありません。それは今までとはちがって、労働者の自立的組織的運動からはじまったからであるとともに、それを受けとる国際的な労働運動や共産主義運動の発展があるからだと思います。そういう意味でこれは、現代革命のもっとも重大な課題を提起しているとわたしは思っています。したがってこの問題を避けずに、しかも学習会議という形で十分討論することが必要だと

考えます。そうして重要なことは、結論として「軍政是か非か」ということでなく、ここに至る過捏を事実に即して分析し、その教訓を汲みとるなかで、わたしたちの革命はいかにあるべきか、われわれは社会主義をどのような方法で追求すべきかを学ぶべきだと思います。

 したがって日本の社会主義革命の問題と別にではなしに、日本の社会主義をめざして闘うという立場からいくつかの問題を提起したいと思います。

 

ポーランド問題の討論をすすめる立場

 

 まず最初に言っておきたいのは、わたしたちが物事をとらえる場合に例えば、社会主義は間違うはずがない、問題が起きたのはかならず帝国主義が介入しているからだ、というような先験的なイデオロギー図式から逆に事実を見るという傾向がわれわれわれ自身のなかにもある。もちろんそれに反対する傾向もある。ですからわたしたちは、そういう先験的なイデオロギー図式を自分で画いてそこから事実を見るのでなく、事実の探求から研究するということ、これが必要であると思います。

 

 帝国主義がポーランド問題を利用し、隙あらば介入しようとし、いろいろな形での圧力を加えていることは事実です。したがって大きな階級的革命的な視点に立った場合に、現代帝国主義との闘い、アメリカを中心にした帝国主義のポーランドに対する介入、干渉、あるいは直接間接の圧力に対して断固闘うという基本的な姿勢をけっして崩してはならな

い。これはまず第一の大前提です。

同時に大事なことは、だからといってポーランドにおける諸問題をそこに帰納してしまうということは、わたしは間違いだと思います。わたしたちはポーランドにおける内部の問

題について十分な検討と分析をおこない、必要な探求と批判を明らかにするなかでこそ、現代帝国主義の介入に対して闘うという立場がいっそう深められるのではないかと思います。

 ソ連とポーランでの関係についてですが、もしソ連が何らのか形で一定の圧力む何にも加えていないとしたら、これはわたしはおかしいと思う。社会主義諸国が日本共産党のいうように、ブルジョア的な民族自決という段階にとどまっているべきだというのはわたしは間違いだと思います。社会主義国同士の、ブルジョア的なものとは違った意味の階級的革命的連帯というものが当然あるべきだと思う。したがって社会主義諸国が一つの国の誤ちとその対策に対して、一定の政治的な批判あるいは支持をあたえるということは当然のことであります。ただその揚合に、当該社会主義国の内部における問題は何か。それを当該社会主義国の党や労働者階級がどう解決するか。そこに基本がなければ、その批判や支持は間違った「連帯」になる。したがって重要なことは、「民族自決」ではなく、その国の労働者階級の自主的自立的指導性ということです。

今回の場合に主要なのは外因ではなくて内因です。ポーランドの内部です。決定的にはポーランド内部において、事態はどうなっていたのか、どこに問題があったのか、それがどう変化していったのか、今後どのように進むのか、ここのところが一番中心的な課題であると考えます。

 以上の点を最初に申し上げて、今からいくつかの問題について提起したいと思います。

 

ポーランドの歴史的発展と問題点

 ポーランド民族の歴史

 

 第一に、ポーランド民族の歴史について概括的にでもつかんでおく必要があると思います。といって、わたしは詳しく述べている余裕はありません。ただ、社会主義になる以前

からポーランドは、諸列強のなかに位置してしばしば分割されたり、民族的な独立を失ったりしたことは、皆さんもよく知っているとおりです。ポーランド国民が、そういう数度の民族的な危機とそれに対する国民的な闘争から生まれた高い民族的な感情を持っていることは、どんな場合にもわたしたちは十分知っておかなければなりません。

 二つ目には、ポーランドは早くから知的、文化的な、そして宗教的な伝統を持っていたということです。

おそらく若い人が誰でも知っている三人の有名な人がいます。物理学者のコペルニクス。コペルニクス的転回というのは現代物理学を切り開いた基礎になっている重要な理論です。そうしてキューリー夫人。もう一人は音楽好きなら誰でも知っているショパン。これらはいずれもポーランド人です。それから有名なピアニストで後に大統領になったパデレフスキーなど、すぐれた物理学者、音楽家、科学者を生んでいます。そぅいう点ではポーランドにおける知的文化的伝統は長い歴史をもっている。現在でもポーランドの文学は非常にすぐれたものがあります。わたしは音楽が好きですが、ポーランドでは他の東欧諸国に比べて新しい音楽的創造がたえずおこなわれています。演劇もそうです。そういう点もわたしたちは十分知っておく必要がある。それからポーランドでは九十数パーセントがカトリック信者である。これは日本における仏教とは違った意味で、重視しなければなりません。日本の仏教は生活を律するようなことはありませんが、ここでは少なくとも生活の規範の一つになっている。そのカトリック教徒が共産党員も含めて国民の九十数パーセントにおよんでいる。また革命運動についていうならば、ポーランドで生れドイツで活動した不屈の革命家でありすぐれた理論家でもあるローザ・ルクセンブルグらがいたが、このすぐれた伝統はかならずしも戦後の党には蓄積されていなかった。

 三つ目にこうしたすぐれた知的文化的伝統にもかかわらず、社会的経済的発展が非常に遅れていた。とくに農業は小経営の個人農が圧倒的な多数です。現在でも、集団化されたのはごく一部分にしかすぎません。ほとんどの農業生産を荷なっているのは零細な個人農です。とくに北部では、こうした農民の息子たちが若い労働者として、職後急速に発展した工揚で働いている。だから労働者の階級形成においてもおくれています。南部においては鉱山その他の、かなり古くからの労働者が多かったが、北部の、今回の事件の中心になったところでは青年労働者の三割ぐらいの父親は今でも畑仕事をしている個人農です。重い個人農の存在とあわせて労働者形成のおくれ。そして工業的にいえば弱い遅れた工業。

グダニスクはかつてのダンチッヒだが、ドイツが敗北と同時に施設をひき上げてから後、急速に造船部門に大投資をすることになり、世界でも有数の造船国になったが、歴史的にいえば十分な成長を遂げていないという弱さがあります。

 

 ポーランドの社会主義革命

 

 戦後におけるポーランドの社会主義革命ですが、これは皆もよく知っているように第二次大戦末期における国内レジスタンスの闘い、『地下水道』の映画でも見られたような闘いと赤軍の直接的な支援、とりわけ赤軍の圧倒的な援助のなかで戦後最初の労働者人民を中心にした政府ができました。そして、当初の革命の性格は人民民主主義革命です。人民の手によって封建的な地主制度を壊し、民族を完全に解放する、人民の手によって民主主義を実現するという人民民主主義革命です。これは東ヨーロッパ諸国では同じような過程をたどったが、ポーランドもこの人民民主主義革命を経て一九四〇年代の終りに社会主義に到達しました。

 その後、いくつかの重要な問題でいろいろな停滞を重ねなければならなかったのです。四〇年代から五〇年代にかけて、東ヨーロッパ全体、とくにポーランドは隣国ということもあってスターリン主義の影響が非常に強かった。そして、それに対するいろいろな抵抗があり、六〇年代にはゴムルカの復帰によって、一時期は自立的な社会主義への道を歩みはじめるが、またもやゴムルカの誤った指導のもとで、それに対する抵抗運動が起り、ゴムルカ退陣後代わったギエレクの七〇年代についてもいくたびか暴動化した労働者デモが起こった。このように、社会主義になってからも間違った指導とそれに対する自然発生的な抵抗が、他の東欧諸国以上に何度もくり返されたということをわたしたちは重要な過程としてとらえておく必要があると思います。

 それ以後の問題について、経過は新聞・雑誌・書籍などで読んでおられるだろうから、わたしは詳しく言いません。ただわたしは、八○年夏以後について節目ごとに三つの問題を提起したいのです。

 

一九八○年夏以後のポーランド

 

 第一は、「グダニスク政労合意」とは何であるか。わたしはこれを社会主義と前衛党という形でとらえて提起したい。第二は、労組「連帯」とストライキの問題、これをわたしは社会主義と労働組合という視点から見てみたい。第三は、救国軍事評議会による「軍政」と戒厳令、この問題を社会主義と軍隊、あるいは社会主義と国家という視点からとらえてみたい。この三つを重要な節としてとらえていくことが重要な課題ではないかと考えます。

 

 グダニクスの政労合意

 

 第一の問題は、グダニスクで二一項目の協定が政府と「連帯」 の間で結ばれた。そうしてこの協定からすべてが出発したと思います。これは政府とストライキ委員会とが協定を結んだだけだ、ということで簡単に片づけるべきでないと、わたしは思います。ポーランドにおける労働者階級の目的意識的な運動の組織は統一労働者党です。しかしそれが、ポーランドにおける自然発生的な労働者の運動の組織としての連合ストライキ委員会と公然と対立し、公然と和解して、いわば社会的な契約を結んだ。社会自衛委員会、クーロンなどの影響もあったでしょう。しかし八○年からはじまるいろいろな「連帯」の諸問題を、クーロンらの指導に塗りつぶして、ひきまわされたと見るのは誤っていると思います。思しかに彼らの存在があったことは周違いないし、それが影響を持っていることも事実です。しかし、一〇〇○万の労働者をひきまわすカは持っていなかったのです。そういう意味で、労働者階級の自然発生的な運動の組織である連合ストライキ委員会と、政府とはいいながら事実上は労働者階級の目的意識的な運動の組織である統一労働者党、これが公然と対立し、公然と和解して協定を結んだ。向うでは暗黙のうちに社会契約と呼ばれていた。これは重要なことだと思います。指導的前衛党としてのポーランド統一労働者党にたいして批判や抵抗は今まで何回もあったわけです。しかしこの度、唯一絶対で先験的に無謬な前衛党「神話」とでもいうべきものが、公然と崩壊した。そして労働者階級の前衛党が、労働者階級の自然発生的な運動の組織とある種の約束をしなければならないという事態が生まれた。今までいろいろ下からの抵抗はありましたが、こうした公然とした約束を認しあう、しかもそれが協定という形であらわれるということは、社会主義国でかつてなかったことだとわたしは思います。

 本来ならそれは、すべて「前衛党」が先取りをしてその計画を実行すべきものであった「はず」です。労働者階級の自然発生性と目的意識性は党において統一されている「はず」であった。それがここでは公然と対立し、公然と和解し、公然と協定を結んだ。そこにわたしは重要な問題があると思います。マルクス主義としていえば、前衛党は先験的に無謬であるはずがない。むしろしばしば誤ちを犯す、政策の失敗もやる。それは当然です。そうした接合に、それを正していくフイードバック装置が必要なのです。それは党と大衆との結合以外にはないとわたしは思います。しかもそれは、いつも結合しているものではなく、絶えず結合の努力をしながらも常に離れがちである。そうして離れるたびに開かれた批判と自己批判を通じて、再び結びつけていくような、そういうフイードバック装置がなけれぼならないのです。党が主人公なのではなく、労働者階級それ自体が主人公でなくてはなりません。党あっての労働者ではなく、労働者があっての党なのです。

 若い諸君は読んでいるかどうか知りませんが、レーニンは『左翼小児病』のなかで、革命的規律はいかにして守られるか、という問題について、有名な三つの定義をしています。その一つは、革命的な忠誠心。

二つ目には、いつでも大衆と結合できる能力ということを強調しています。意志だけではない能力、わたしはこれは非常に重要ではないかと思います。根性だとか党派性ということも大事ですが、それだけではない。そうして根性や党派性をつくりあげるのにも能力というものが非常に重要である。能力がない場合にしばしばセクト主義におちいり、しばしば官僚主義におちいる。十分な能力のない者が高い部署につくと官僚主義になりがちだし、敵と闘う場合でも大衆と結合しうる能力がない場合にセクト主義になり、敵でない者を敵にまわしたりすることがある。

したがって大衆と結合できる能力を持つことを、レーニンが二番目にあげているのは重要な指摘だと思います。

三つ目に彼があげているのは、正確な方針です。以上の三点は前衛党の原則的な資質ではないかと思います。しかもそれは先験的に、マルクス・レーニン主義の党だから自然に備わってくるものではない。現実の運動の過程のなかで、しばしば誤ちを犯しながら、開かれた批判と自己批判を通じて創られていくという基本的には大衆との結合のなかではじめて実現される。そういうことを忘れて、おれは前衛党だからおれの言うことは正しいのだというふうに独善的で閉鎖的になってしまった時に、取返しのつかない大きな誤ちを犯すことになるのです。

 われわれは日本の社会主義革命の場合、とくに発達した資本主義国における革命として、労働者階級が主人公になるという立場から、職場における労働者のヘゲモニーをかちとるために闘いつつ、それを基礎にして権力を奪取し、以後、この闘いの継続的発展によって労働者階級が主人公として革命後の政治と経済に対する指導的で決定的なカを持つという展望を提起しました。

 その湯合に、労働者階級とほ何を指すかということが大切です。労働者階級といってしまうと、本質をいっているのだけれども非常に抽象的です。こうして抽象化してしまうと抽象的な労働者階級を代表しているのはわが党しかない、という形のなかで、無謬の「前衛党」が合理化される。わたしは、労働者階級というものは、分節したいろいろな運動、いろいろな組織の複合的な総体であり、それを前衛党が結合しながら、いっしょにどう作りあげていくかというところにこそ、労働者階級のへゲモニーという問題があると思います。その場合、党は絶対的な指揮者ではなく、その調節者であり組織者でなければなりません。例えば労働組合もその一つで、すべてではない。社会主義になった場合に、労働組合も当然あるだろうし、青年組織もあればいろいろな組織がある。こうした具体的な諸団体、諸運動からさまざまな意見が提起されて相互に討論され、それが大衆と不断に結合した党を中心に練りあわされるなかで、本当の労働者階級自身の意志というものが結実してくる。そこに労働者階級のヘゲモニーが生まれる。

そういうものをみな無視して、抽象的な労働者楷級という概念におきかえてしまうと、それを体現するのはわが党だけであるという過信、無謬性の過信におちいるのだと思います。

 そういう意味で、「グダニスク政労合意」という問題の提起のなかでわれわれ自身の教訓もふくめて十分学ぶ必要があるのではないかと思います。

 

 労組「連帯」とストライキ

 

 第二点は、労働組合「連帯」とストライキの問題です。

 社会主義における労働組合の役割は何かという問題は、いつか『労働者新聞』に東京の同志がレーニンを引用して書いていました。レーニンは「労働組合は共産主義の学校だ」といっています。これを資本主義のなかでも「共産主義の学校だ」という間違ったとらえ方が一部にあります。そこから労働組合を共産主義運動のための組織にしてしまった赤色労働組合主義的な傾向も生まれたわけですが、レーニンはプロレタリア裁下の労働組合は「共産主義の学校」だといったのです。そこで重要なことは、これは党の側から目的意識的に提起しているのであって、労働組合に参加している労働者は、共産主義の学校と思って参加しているわけではない。事実と運動のなかから共産主義の学校にしなければならぬ、しかし、そこに集まっている労働者は、決して共産主義者ばかりでもないし、ある場合には古い思想を持った労働者もいるわけです。社会主義下の労働組合だからといって、全部が社会主義を理解し共産主義を理解し、そのために囲うという思想で組織されているわけではない。たくさんそうでない労働者はいる。ましてポーランドの場合、戦後生れ、戦後育ちの若い労働者が圧倒的に多い。したがってそれを「共産主義の学校」にしていくためには、不断の大変な努力がなければならない。これは日本の場合だってそうです。日本で権力を取って社会主義に移行していった場合に、労働組合員に「君たちは社会主義下の労働組合なんだから、共産主義の学校のメンバーであるべきだ」といくら頭からきめつけてもどうなるものでもない。まさにそうなるように、党員が大衆とともに活動しながら事実と運動のなかで変えていかなければならないと、わたしは思います。レーニンはそういう意味で提起しているのだと思います。しかし、スターリンは言葉の上ではそうではないが、事実上は労働組合を党の道具にしてしまった。レーニンが厳しく批判していたのとは反対に、スターリンは労働組合に党の決定の承認を上から迫った。労働組合を党の外郭組織としてあつかった。それは、東欧諸国にも悪い影響をあたえています。

 この項でとくに強調したいのは、党と労働組合の関係です。資本主義=ブルジョア独裁から、社会主義=プロレタリア独裁に転化していった場合に、社会の質は根本的に変わるわけです。にもかかわらず、党と労働組合との関係は基本的には変らないと思います。資本主義下の労働組合の湯合には、階級闘争の学校として党が労働組合のなかで組合員と結びついて不断の活動をしながら、権力の奪取から革命に向う自立的な意志と力を汲み出し組織していかなければならないと同じように、社会主義下の労働組合のなかで党員は、大衆と結合して労働者の権利を守りながら不断に社会主義革命の成功と共産主義への発展のために労働者とともに運動をすすめなければなりません。「連帯」の労働者のなかの一割に近い一〇〇万人の労働者が党員だった。この人びとが「連帯」のなかでどのように発言していたのか、活動をしていたのか、これは非常に問題であると思います。そうしてとくにそれを指導したはずの党指導部が問題です。

 そのように、党と労働組合の関係は、資本主義と社会主義とでは質は違うけれども基本的な党と大衆組織の関係としては同じであり、われわれとしても教訓を学びとる必要があると思います。

 それから、ストライキはたしかに行き過ぎた面があったと思いますがはじめてストライキという権利を獲得した若い未熟な労働者、とくに青年労働者がストライキという武器をやたらとふりまわしたことは事実です。しかし、あれを社会自衛委員会のクーロンたちが煽動してやらせたとかいうとらえ方は間違っていると思います。むしろ逆で、クーロンたち社会自衛委員会のメンバーは、非常にたくみに戦術的に対応して、あまりストライキをふりまわすな、やりすぎるとやられてしまうぞと警告をしていた。むしろ、ストライキをあおりあげ、最後には政府の支持を国民投票に問う、そういう先まですすんでいったのは、誰か特定のメンバーがフラクションをやって動かしたというよりも、たとえそういうことがあったとしても、そのエネルギーは未熟な、しかし真剣な青年労働者大衆の自然発生的な高まりのなかから生まれたのです。それは革命後三五年経った今なお一〇〇〇万の労働者が、国の経済をつぶすほどのストライキの連発をしてでも批判しなければならなかった党と政府への不信があるということです。ここで責任を問うとすれば、それは「連帯」や労働者ではなく、まさに党であり、政府でなければなりません。

 

 戒鹿令と軍政−   社会主義と軍隊

 

 それから第三番目は戒厳令下の「軍政」の問題です。ここで改めてわたしが確認しなければならないと思うのは、資本主義の国家でも社会主義の国家でも、国家においては変わりはないという、あたり前な原則であります。国家と軍隊はどんな場合にも支配する階級の支配の道具であり、装置である。資本主義の場合にはブルジョアジーがプロレタリアートや人民を支配し、おさえつけるための道具でありその装置である。

社会主義の場合にはプロレタリアートがブルジョアジーまたはその影響下にある者に対して弾圧を加え、支配し、あるいはたくみに同意を組織するための装置であり、もう一つは帝国主義に対する社会主義防衛のための闘いの武器である、というふうにわたしは考えています。したがって、社会主義の国家が本来死滅に向うという点を除いては、国家というものに変わりはない。しかしまたもう一つの側面を見おとしてはならないと思います。それは、国家というものはレーニンもいっているように階級のなかから生まれ、ますます階級から自らを疎外していくものであります。だから国家は、外見的には一定の中立性を持っているように見える。この疎外はけっして幻想でもないし、また単なる観念でもなく、しばしば現実のものとなる。それは権力の危機あるいは権力の交替に際してあらわれることを歴史は教えています。しかし本質は階級独裁の武器である。この階級的本質と階級疎外形態とは本質と形態として常に国家に内包されている矛盾であり、そこに国家としての存在があると私は思います。その国家のもっとも国家的なものが軍隊です。資本主義の場合には、いろいろな緻密な文化的な手段をふくめて網の目のような組織で被い、強制だけでなく同意を組織しつつ支配をしているが、最後的にブルジョア国家が危殆に瀕した時に出てくるのはやはり軍隊であり、警察であります。これは武装装置であり、まさに国家の国家である本質的なものは、そこにあります。

 今回のポーランドの場合、それが出てきている。これをどう理解すべきであるか。わたしは、さっきいったように、国家は階級のなかから本来生まれている、例えば、ポーランドの国家と軍隊は、ポーランドにおけるプロレタリアート独裁の武器であった。しかし、階級のなかから生まれながら、ますます自己を階級から疎外する。まさにこうした疎外形態として出てきているのが、今度の「軍政」ではないかと、わたしは思います。労働者階級の自然発生的な運動と目的意識的な運動、「連帯」と党が対立している。党自身が崩壊の危機にある。といって「連帯」はたとえ政治運動化しても政治組織ではない。基本的には党の立場に立ちながら、事実上は党と「連帯」のいずれに対しても相対的な独立性を持った権力。本来は階級のなかから生まれてきたけれども、階級から自己疎外している国家そのもののもっとも国家的なものとして出てきた権力。したがってこれはきわめて臨時的で例外的な権力であると思います。

 社会主義としては本来そういうことはあるべきではない。社会主義の軍隊の銃は労働者や民衆に向けられるべきではない。あるべきではないが、事実こういう事態が生まれてきている。それは、片や「連帯」に対して「連帯」 の左派を弾圧すると同時に、党の右派も弾圧するということのなかに示されている。わたしは今のヤルゼルスキ「軍政」を、単純に彼が第一書記であるから、党自身の指導にもとづいたものというふうにとらえるべきではないと思います。党自身が大衆から不信を買い、組織的には崩壊とはいかないまでもそれに近い状態にある党に対して、また青年労働者の自然発生的な高まりによる、しばしば行き過ぎた行動に対して、両者に対して支配力を持った臨時的で緊急な権力、ある種の階級の疎外形態として突き出ているのが、現在のヤルゼルスキの「軍政」ではないかと思います。

 したがって、こうした事態は一日も早くなくされるべきだとわたしは思うが、これをなくすことは大変な仕事です。そこにはまず、本当の意味で大衆と結合しうる党を再建しなければならないし、また今の経済危機を切り抜けるために正確な方針も持たなければならない。そうして重要なのは「連帯」が突き出した課題を、どうして社会主義再生のエネルギーにしていくのかということです。

 ただここで、残念に思うのは、一九八○年夏以来ふき出した労働者の運動、おしきせではない自然発生的なエネルギーがおさえつけられたことです。改革はつづける、八○年夏から昔に戻ることはない、といいながら、それを突き出してきた主体的で自立的な運動、そこには多くの誤ちをふくみながら社会主義の再生に向うもっとも大切なものをはらんでいたのに、それ自体が挫折させられた傷み、傷の探さというものは簡単に回復はできないであろうと思います。それが今後の一番の問題ではなかろうかと思います。大切なことはどれだけ改革したかという結果ではなく、どんな方法でどんな過程でそれを進めるのかということなのです。そこに「労働者階級が主人公」というなかみがあり、それが現代社会主義に問われているのです。したがって伝えられるように、簡単に軍政の解消というわけにはいかないのではないか。いまの事態のなかにはあまりにもたくさんの問題がふくまれていると思います。

 

事態を生んだ原因はどこにあるか

 

 以上、三つの問題にかぎってわたしなりの問題提起をしましたが、こうした事態を生んだ原因はどこにあったかについて、簡単にわたしの見解をお話したい。

 

 社会的歴史的条件

 

一つは、客観的歴史的な条件です。日本のように資本主義が高度に発達して国家独占資本主義の極点にまで達している資本主義の発展と成熟は、客観的には社会主義の前夜である。経済的には社会主義に移行する物質的基礎を客観的に準備しているそれだけではなく、爛熟したブルジョア民主主義、しかもこれがふたたび奪い返されようとすることに対する闘い、民主主義を守りさらに徹底しょうとする労働者人民の闘争を通じる訓練のなかで、社会主義へ移行する社会的思想的な基礎を準備するものだとわたしは思っています。

 しかし、ポーランドをふくめて、かならずしも社会的経済的に資本主義が十分発展していないところ、そういうところでしばしば社会主義革命が起こつたことも事実であります。これはわたしは当然だと思う。

なぜならば、社会主義革命は経済革命ではなく、まず政治的な闘争として権力の奪取からはじまる。発達した資本主義国の塘合には、非常に緻密な文化的なものをふくめた支配の網の目に被われて、容易に反乱を許さない。完全に上から同意を取りつけつつ、いざという場合には強権のカで抑えていく。しかし、中進もしくは後進的な、資本主義の十分成熟していないところでは、支配もまた今日の日本ほど緻密ではない。そこには荒々しい矛盾が表面化しやすい条件のなかで、政治的な対立がいっそう激化する。そういうなかで資本主義が成熟していないからといって革命を待ってはいられない。当然そこでは権力奪取の闘いがはじまる。

そして社会主義に移行する。そういう場合には、ひゆ的にいえば、資本主義が準備をし残した問題と社会主義建設の問題という二重の任務をあわせて解決しなければならないという、非常に困難な任務をその国の労働者階級は背負うことになる、とわたしは思います。それは、経済的な基盤だけでなく、十分に成熟したブルジョア民主主義のなかで、民主主義というものを知り、同時に民主主義を守るために支配階級と闘い、さらに民主主義を徹底する闘いの過程で権力を奪取していくという経験を持たないままで、社会主義を準備することになるからです。社会主義とは、ある意味で″徹底した民主主義″だと思う。そういう意味で、民主主義の訓練と闘争で社会主義への思想的・社会的準備をし切らないままで社会主義=労働者権力と生産手段の国有化にすすんだ場合、そこにしばしば誤りを犯しがちないろいろな問題が出てくると、わたしは思います。例えば、物質的基礎のおくれを急いでとりもどすために生産力の引き上げに集中して、計画と管理、生産と労働における民主主義をないがしろにすることです。「自主管理」の要求とはこのことだと思います。

 こうした諸問題は世界革命の世界史的な発展過程における過波期と不可分に結びついた一国における社会主義革命の過濠期が生んだ課題であると思います。

 大きな意味でいえば、一方で、日本のような独占資本主義が十分に成熟し、客観的には社会主義の準備はできすぎるくらいできていながらそれを生み出すことができず、そのためにも民主主義の徹底をめざして闘っている。他方では、客観的諸条件はまだ十分成熟してはいなかったけれども、実際には社会主義が人民の力で生み出され、その社会主義のなかで民主主義の徹底をどう実現するのかを苦労している。いずれも大きな歴史の流れからいえば、資本主義から社会主義、社会主義から共産主義にいたる世界的な革命の発展過程のなかで、おそかれ早かれ避けることのできない民主主義の徹底を通じる真の社会主義の実現という課題がいまわれわれの前に大きく提起されてきているのではないか。

 

東欧におけるスターリン主義

 

 もう一つ、今回のような問題を生みだす主体的な条件―もちろんそういう条件があるからいつも必ずそうなるとはかぎりませんが―としてスターリン主義の影響は非常に強かったと思います。このことを避けて語るとしたら、わたしは間違いだと思います。スターリン主義とは官僚主義から生まれるが、個々の官僚主義の問題ではない。いわばイデオロギーとしてのスターリン主義です。生産力が十分発展していない状態のなかで、急いで生産力をひき上げようとするため集中管理と中央集権を強化しなければならないというところから、たしかに官僚主義が生まれてきますが、同時にそれは、十分成熟していない労働者級階を代行する「党」として無謬の「前衛党」がつくり上げられ、それが絶対化される。こうした党の絶対化とでもいうようなイデオロギーです。それはまた絶対化された党への「同化」によってのみ分与される絶対的な権威とそのヒエラルキーでもあるのです。

それはさきに述べた労働者階級の抽象的概念化によって生まれるエリート代行主義でもあります。これがはたした役割というものは非常に大きな問題がある。ポーランドの揚合にもそれは例外ではない。今日のポーランドにおけるかつての四〇年代の終りから五〇年代にかけてのスターリン主義の残した諸問題、その爪跡、その克服がしばしば行き過ぎた克服になることもありうるし、それをまた依然として温存していこうとする党官僚も残っている。そういう状態が今回の問題に大きな影をおとしていることを、忘れてはならないと思います。それはある意味で、スターリン主義克服の過程における曲折であり、その成功と挫折の過程ともいえるのではないでしょうか。

 最後に申し上げたいのは、最初に帝国主義との闘いが大前提であるが同時にそれにすべてを解消してはならないといいましたが、スターリン主義の問題が論ぜられて、すべてをそこに帰してしまうことも間違いです。スターリンの時代にも帝国主義と闘って第二次大戦に勝利した。あの時にスターリンが、ナチが攻めてくることを容易に信じないで、そのためにまずかったという批判もあります。が、一方において残虐な断罪をしながら、同時に帝国主義に対して願って勝利をおさめたのは、矛盾ではあるが、矛盾なしに世界の歴史は進行するわけではない。帝国主義に対する闘いとその勝利という問題と、にもかかわらず内部に持っていたスターリン主義という重大な誤ちの問題を、相互に解消することは間違いだと思います。わたしたちは、帝国主義と闘いながらスターリン主義の残したものを、社会主義をめざして闘っていくなかで克服しなければならないと思います。

 わたしは、ポーランド問題をめぐるいくつかの教訓をのべましたが、前衛党とは一体いかなるものか、労働者階級が主人公というのはどういうものであるのか、あるいは社会主義下の労働組合とはいかにあるべきか、とくに党と労働組合の関係はプロレタリア独裁下においてどうなければならないか。あるいは国家本来の役割について若干ですが提起しました。これを今日の日本共産党の出している考え方と重ねあわせて見た時に、彼らの誤りは明確になるでしよう。彼らは資本主義の今日において、階級闘争と革命闘争のなかで依然として前衛党は無謬なりという態度を変えていません。そしてわが党こそは労働者階級のすべてである、と称しています。そして労働組合は党のいいつけを聞くのがもっともよい労働組合であるといっているのです。これは、ポーランドから学ぶ場合に重要な反面教師であると思います。わたしたちはそれを目の前にみながら、それを他山の石としてポーランドの今回の問題から教訓を学ぶことが重要であると思います。これから先どうなるかは、ポーランドの労働者階級と党が責任をもって解決すべき問題です。わたしたちはポーランドにおける社会主義の再生と発展を支持しなければならないし、これに介入するどんな帝国主義的な攻撃に対しても断固闘わなければなりません。

 しかし、どうするかという問題はポーランドの労働者階級と党が決定する問題です。彼らはおそらくポーランド人のやり方で解決するに違いないが、こういう事態になったことは解決の時間を長びかせることになるのではないかと懸念するのであります。しかし恐らく間違いないことは、ポーランドの労働者階級は、たとえ時間がかかってもきっと見事にやり直すだろうということです。そうしなければ真の社会主義−共産主義の道に進み入ることはできないからです。


解説 内藤知周著作集

 

   日本共産党のなかで

                           松 江   澄

                    1977年11月30刊行

 

 内藤さんの中国地方時代、とくに私が解説を担当することになった五〇年―六一年の約一〇年間は、彼の革命的な情熱と理論と献身が最も集中的に燃焼した時期といってもいいすぎではあるまい。そうしてそれはまた日本共産主義運動のかつてない対立と分裂の時期でもあり、全国の革命的エネルギーが日本の変革とその党を求めてきびしく競い合った激動の時代でもあった。

(1) 「日本共産党臨時時中央指導部にたいする意見書」

 この文書の位置を明らかにするためには、当時の情勢と情況にふれておく必要がある。

 五〇年一月六日、当時のヨーロッパ共産党・労働者党情報局(「コミンフォルム」)の機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』にオブザーバーの署名で「日本の情勢について」という論文が発表された。これは野坂の「占領下平和革命論」批判であった。野坂理論は「帝国主義占領者美化の理論」であり、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない反愛国的反人民的理論である」と口を極めてきびしく批判し、アメリカ帝国主義占領者とたたかうことこそ日本人民の第一義的な任務であると激しく強調していた。占領軍を「解放軍」と規定した当初の方向があいまいなまま残っていた当時の日本共産党にとって、それは正に「晴天のへきれき」であった。政治局では激しい討論の結果、徳田書記長を中心とした多数派によって、「『日本の情勢について』に関する所感」を発表した。それは、「誤ちはすでに克服されており」野坂批判は日本の人民大衆にとって受け入れがたいものである、というものであった。一月一八日に開かれた第一八回拡大中央委員会はこれをめぐって激論したが、それはこの会議で発表された「五〇年テーゼ草案」とも深く結びついたものであった(「五〇年テーゼ草案」は徳田書記長の執筆によるもので、日本の支配体制は警察的天皇制、封建的地主制、独占資本主義の三者を国際独占資本=アメリカ帝国主義が統御していると規定して『トロイカ論』と呼ばれ、革命的な任務は国内支配体制を倒すことによってアメリカ帝国主義との闘争にいたるというもめで『串刺論』と呼ばれた)。この会議の二日目にあきらかにされた北京『人民日報』「日本人民解放の道」は、「コミンフォルム」の批判を受入れることを懇切に説いたものであったが、会議はひきつづく激しい対立の中で閉じられ、四月二八日から開かれた第一九回中央委員会総会でようやく野坂の「自己批判」が発表され形のうえでは満場一致でこの批判を受け入れることが決定されたが、すでに始まった対立は解けようもなかった。

 五月三〇日には皇居前広場ではじめて米兵がデモ隊に襲われるという、いわゆる「人民広場事件」がおき、六月六日にはついにマッカーサーの指令によって党中央委員は追放された。この間、徳田書記長は時間的余裕があったにもかかわらず、中央委員会を開くことなく主流派のみで一方的に地下に潜行し、合法的な機関として椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部を任命した。六月二五日にはアメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争がひきおこされ、『アカハタ』は一ケ月発刊停止となり、以後後継紙も次々と停刊させられた。党にたいする弾圧と破壊は、直接的には朝鮮戦争を開始する準備であるとともに、四九年中華人民共和国の成立によって鋭く変化しつつあったアジア情勢に対応し、アメリカ帝国主義による戦後世界経営の一環としての日本の反動勢力を激励するためのものであった。七月七日北京『人民日報』は再び「日本人民闘争の現状」を発表して、ソ・中の経験を引きながら「日本人民団結せよ、アメリカ帝国主義とその走狗にたいして奪闘せよ!」とことをわけて説いたが、すでに始まった党の分裂はもはや動かし難いものであだんことしった。「五〇年テーゼ草案」は双方からその踏絵となった。こうしてかつてない党の分裂は朝鮮戦争の開始とともに、激動する内外情勢のもとで一年以上にわたって続けられた。

 標題の「決議」の直前、当時の中国地方委員会機関紙『革命戦士』一七号には、その後も中国地方党の党内闘争の指針となった「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!―― 党のボルシェビキ的統一のために全党に訴える――」が発表されたが、これも中国地方委員会の討議に基づいて当時事務局長であった内藤さんが執筆したものであった。このなかで、中国地方党が組織をあげて公然と分派闘争に立ち上る根拠とされていたのは、「臨中」の中央オルグが中国地方委員会と連絡をとることなくひそかに岡山、広島に潜行して中国地方内主流派「分派」を組織しょうとしたことであった。その中央オルグとは、今ともにたたかっている長谷川浩同志であり、当時政治局員として主流派の中心メンバーであった。この文書では、主流派の日常闘争主義、中立主義、合法主義をきびしく批判し、「五〇年テーゼ草案」がその精神的支柱となっていると糾弾している。

七月一八日の第一三回拡大地方委員会には、中国地方の全地区委員長と主要グループが出席し、この文書(「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!」)を満場一致で挟択し、臨時中央指導部にたいして標題の「意見書」を決議した。それは、一つの地方組織全体が公然と臨時中央指導部、統制委員会に反旗をひるがえし、そのうえ中国地方内だけでなく全党員に反中央闘争への決起をアピールしたことで画期的なものとなった。以来、この「五〇年分裂」の闘いで中国地方党は統一委員会派(いわゆる「国際派」)最大の拠点となった。

 

 (2)「中国地方における党活動の総括と当面の任務」

 その後一年間党内闘争は激しく続けられ、五一年春以来半年にわたるカンパニアを経て準備した同年の「八・六」を成功的にたたかい終わり、党内闘争の勝利を確信していた私たちは、八月一四日夜のモスクワ放送が主流派「四全協」の「分流主義者にたいする闘争に関する決議」を「コミンフォルム」が支持したことを伝えるのをきいた。私達は呆然とした。後にわかったのはひそかにモスクワに渡った徳田書記長と袴田中央委員がスターリンの前で対決し、スターリンの「判決」は徳田にあげられ袴田が承服したということであった。少数派中央委員は次々と「自己批判書」を発表し一ケ年余にわたる党内闘争はついに敗北に終わった。広島では内藤さんと私(当時内藤さんは広島県委員長、私は広島地区委員長をそれぞれ兼任していた)が代表して「自己批判書」――納得はできないが対抗してたたかったことは誤りである――を提出し、統一促進委員として党の統一回復に努力した。五一年暮任務をすませた二人は「社経通信」―― 主として内藤さんが執筆し私が予約をとりつけた――を発行して内藤さんの生計の足し前にした。五二年夏、私は「表」の県委員長(事実上の指導部は「裏」のビューローであった)にされ、内藤さんは中央に派遣されることになり、暗い展望を語り合って別れた。その後「五全協」 で決定されていた「五一年綱領」(「新綱領」)――民族民主革命――と軍事方針に基づく極左冒険主義は次第に激しくなり、五四年私は機関から追放された。この内一度上京した際、非合法の内藤さんのすまいを 「非合法」にたずねたが、彼は志田の政治秘書をしていたようだった。以来五五年まで会う機会はなかった。

 五五年「八・六」の直前、当時一党員として第一回世界大会の準備に没頭していた私の自宅に内藤さんが飛込んできた。彼が最初にいったのは、「松江君!俺達は間違っていなかったのだ」という叫びにも似たことばだった。彼は最後には関東地方ビューロ−に属していたようだった。私ははじめて彼から「六全協」の全貌をきいた。「八・六」後、広島と中国地方党の再建ははじまった。地区、県の党会議では今までの対立と批判が一挙に吹き出し陰惨なものとさえなった。

一一月の中国地方党会議はそれらを総括し、統一し、大衆から孤立した党を再建しなければならなかった。宮本と志田が来広してそれぞれ「自己批判」を展開した(今にして思えば「六仝協」は中国共産党の指導により宮本と志田の野合によって準備されたものであった)。

 この「報告」は四七年一月以来の中国地方委員会の歴史から説きおこし、とりわけ激烈な「五〇年分裂」闘争とその後の極左冒険主義による活動をくわしく正確に総括することで新しい再出発の土台ともなるべきものであった。内藤さんは討議に基づき精魂を込めてこれを書いた。これは五〇年七月、分派闘争の出発となった(1)と呼応して中国地方党の激動に溢れた一時代の総括であり、痛苦に満ちた自己批判の書でもある。

 

 (3)「折中主義を克服するために」

 翌五六年には志田が失脚し、のち除名となった。この年、全国各地方の青年運動担当者の会議が開かれ、私は中国地方委員会の代表として出席したが、中国地方委員会の主張する「共産青年同盟」論と中央の「民主青年同盟」論とが真向から対立し、早くも革命の性格と新しい綱領をめざして意見の対立ははじまっていた。それは第七回党大会の準備が進み、五七年発表された宮本の党章草案をめぐって次第に高揚したが、新しい指導権をめぐる勢力の均衡の中で束の間ではあるが戦前・戦後を通じて日本共産党の最も民主主義的な党運営の時期が訪れた。

 この時期、内藤さんは、政治委員室のメンバーとして大会準備のため上京することになった原田議長にかわって中国地方委員会の書記(議長)となった。内藤さんと私はあいも変らぬ貧乏暮しの彼の狭い部屋で殆ど毎日のように会って討論しつつ党大会にそなえた。すでに『前衛』では党章草案にたいする賛否こもごもの意見が発表されていたが、当時発表されたソ党第二〇回大会の決定とも相まって綱領論争は活発となり、党内討論誌として『団結と前進』を発行することが決定された。内藤さんの生涯で最も充実した理論活動の最初の時期がはじまった。

 この「論文」は、「最大限確実な道」を用意する宮本の不確定戦略と非マルクス主義的な「ブロック権力論」を正面から鋭くかつきびしく批判するものとなっている。当時『団結と前進』に発表された多くの論文のなかでこれほど宮本理論を完膚なきまでに批判したものはなかった。それは宮本の最も痛い弱点を真向から衝くものであった。宮本が反対意見の代表と見なして直ちに『団結と前進』に反論を発表したのも当然であった(この宮本論文は、「アメリカ帝国主義の侵略にたいする過小評価はどこへみちびくか――綱領討議の若干の問題点について――」と題するもので、彼の著書『日本革命の展望』に再録されているところを見ても如何に彼が内藤論文批判に執念を燃やしたかがわかる)。

この文章には批判となればとことんまで容赦しない内藤さんの真面目が躍動している。

 

(4) 「今日の時代と日本の権力問題」

                                                     こうして開かれた第七回党大会では党章草案は激しい討論を経て三分の一の賛成が得られず保留となり今後の実践の中で試されることになった。この大会で内藤さんは全国の与望を担って最も年若、中央委員として選出され、ひきつづき中国地方を担当することになった。しかしこの大会で「五○年問題」を思うままに解決した宮本は次第に指導権を固め、次の大会にそなえて一歩党章討議に組織的なワクをかけ始めた。

五八年―六〇年にかけて警職法闘争から安保闘争、三池闘争へと闘いは高揚したが、このたたかいをめぐっても意見の相異は如実に表われた。

「ゼネスト」「羽田闘争」等で常に闘争を回避し、労働者階級の指導的なたたかいを「民族的」な統一戦線に解消する宮本指導部と私達はことごとに対立したが、それはもはや「五〇年分裂」のときのようにはゆかなかった。

 宮本は次第に地方、県、地区機関を自らの手中におさめ、私達は次第に孤立した。しかし内藤さんと私は盟約して、決してこの対立を下部組織におろさずもっぱら中央指導部とだけたたかうことを申し合せたが、それは今となって見ればスターリン的「一枚岩」組織論にとりつかれた日和見主義的な党内闘争でしかなかった。中央の綱領委員会では執拗に討論がくり返され、時に帰広する内藤さんからその情況を聞いて私は憤激したが彼は口外することを固く戒め私もまた固くまもった。この綱領委員会の討議で内藤さんはその中心的な位置を占めていたが、中央委員会での多数と少数との差はあきらかであり、少数派は意見の公表さえ阻まれた。こうしたなかで中央書記局が勝手に都合よく編集したほんの一部の議事録が一度だけ発表され、二、三の意見だけが『前衛』に発表されたが標題の「論文」はその一つである。この「論文」は紙数を制限されながらも、第七回大会後のたたかいをふまえ六〇年の「八一ケ国声明」から学び、今までの彼の理論を整理総括した集大成であった。これは彼の党内における最後の論文となったが、今読んで見ても極めてすぐれたものである。彼の理論論文のなかでも最も高いものといってもよいのではないか。しかし、この論文が執筆されている頃、内藤さんも私も広島ではすでに少数派であり「異端者」であった。七月、春日離党を契機に内藤さんは他の少数派中央委員とともに党から離党、除名され私もまた彼にしたがった。八月全国の同志が集まって討議したが分散してたたかった党内闘争のなかで存在する意見の相異は容易には統一できなかった。

九月、内藤さんは上京し、他の旧中央委員とともに新しい組織をつくるために没頭した。一〇月、「社会主義革新運動」準備会が結成され、彼は春日議長のもとで事務局長となり、新しい前衛党建設をめざしてその中心的な任務を担うこととなった。彼の生涯での最も苦しいたたかいの時期が始まった。

 

内藤さんを思う

            松 江   澄

 

一九四八牢八月、国鉄松山機関区のストライキ闘争にたいして、広鳥鉄道局は宇品港からスト破り要員を船で松山に送ろうとした。当時大竹に住んで中国地方委員会の仕事をしていた内藤さんは、党の方針に基づいて広島の国鉄細胞等の活動家を率いて宇品港で乗船阻止のピケを張ってたたかい、逮捕された。私は当時、広島地区労執行委員長として労組の活動家とともに公判闘争支援のため法廷にのりこみ、内藤さんと被告席の柵越しに固い握手をかわしたが、それが彼と会った最初だった。彼は例の長くて多い髪をかき上げながら、長時間に亘って内外情勢を説き、鋭く検事と裁判官に迫った。

 この法廷闘争には一つの逸話があった。それは、平等と民主主義を説きおこした彼が、裁判官と被告の椅子の不平等を例にひいて追及したところ、藤堂裁判長は自らの椅子を被告の椅子ととり替えた。裁判長も裁判長だが、内藤さんの舌鋒はとりわけ鋭いものがあった。この法廷闘争は獄中での黙否権行使の徹底さとともに、その後の広島における権力闘争の土台をうちたてた。私が翌年、日鋼闘争の法廷で五時問の冒頭陳述をはじめ、思う存分たたかい得たのも、このたたかいの教訓と伝統があったからだった。彼は私がはじめて会った最も戦闘的な革命家だった。以来昨日まで、彼は私の「兄」であり、師であった。

 長いつき合いのなかで思い出すことは数限りない。なかでも忘れることができないものの一つは、「五〇年分裂」でわれわれが勝利の確信をもった五一年八・六大会の直後、統一についての再度の「コミンフォルム批判」をきき「新綱領」を見せられた時のことだった。

 薄暗くなった県委員会の小屋で、文書を前にして二人は呆然としながらも「新綱領」の農民問題だけはすくなくとも納得できぬと話し合った。二人が同じような「自己批判書」を書いて復帰し、組織統一の捉進をはじめたが、内藤さんの生活は苦しくなる一方だった。復帰工作を完了して後、二人で職安へ行ったら「冗談でしょう」といわれたが、事実、冗談どころではなかった。私は二、三日で止めたが、彼は一ケ月余りも失対で働いた。やがて二人ではじめた

「社経通信」――主として彼が書き、板倉君が印刷した――を労組に予約購読をとりつけること等で辛うじて彼の生活は支えられたが、それも半年間だった。党の指令で上京する彼と庚午の土手で、当面の暗い展望を話し合い、再会を約して別れたのは五二年七月だ。

 その後の再会は、八・六も間近い日、当時機関から罷免され一党員として第一回世界大会(五五年)の準備に没頭していた私の家に彼がとびこんで来た時だった。私の顔をみるなり、「松江君、掩たちは間違っていなかったんだ」と叫んだ彼の顔を今でも忘れることができない。それから「六全協」の血なまぐさい総括を経て七回大会前後の党内闘争を迎えたが、お互いに広島では「下」におろさず二人だけで中央とたたかおうと約束し合った。六一年七月頃、遊上、内野氏等が釆広し、私宅の隣りの本川旅館で、春日離党の問題を検討したが、私は離党しないでせめて闘って切られてくれと要請し、内藤さんも同意した。社草ができ、分裂し共労党が生れ、また分岐した。彼は心労の極ついに倒れ、京都で病を養いようやくにして健康をとり戻した。

  党内闘争と社革以来の彼のたたかいは同じ苦しみでも異なっていた。党内闘争での彼を支えていたもの、たたかいの情熱を燃焼させたものは、どんな形にせよ、いわば「党」にたいする異常なほどの彼の律義さと忠誠さであり、その「党」による「革命」へのひたむきな追求であったと思う。その彼が社革、共労党以来、そのことそのものを改めて「疑」い、もう一度探求し直す過程でのなやみが彼を病気にさせたのではなかろうか。病癒えた彼は、上京する度の私に、現代帝国主義と現代革命の再追求を語りながらその無力さをかこっていた。健康を完全に回復した彼が再出発する日の近いことを期待していたのは私ばかりではあるまい。今、彼は、すべてから解放されて自由に飛翔し、思うままに探求しているに違いない。しかし私は、生きている彼から是非ともそれが聞きたかったのだ。

       (労働者党全国協議会議長)


 
No. 1
標題:労働戦線の統一について/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:233/刊年:1989.3/頁:10〜16/標題関連:


No. 2
標題:再び原水禁運動の統一について/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:92/刊年:1977.6/頁:2〜13/標題関連:


No. 3
標題:奇妙な対立と重要な教訓/副標題:七〇年代労働運動の課題/No:
著者:松江澄/誌名:現代の理論
巻号:73/刊年:1970.2/頁:37〜48/標題関連:


No. 4
標題:自動化・機械化すすむ公共企業と労働者の闘争(特集)/副標題:合理化研究会の報告/No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:1/刊年:1969.11/頁:22〜49/標題関連:


No. 5
標題:一九四九年六月/副標題:日鋼広島の闘い/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:37/刊年:1972.11/頁:23〜32/標題関連:


No. 6
標題:「政策の転換」か「思想の転換」か/副標題:日本共産党と原水禁運動の統一/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:46/刊年:1973.8/頁:1〜8/標題関連:


No. 7
標題:平和のための闘いと革命闘争/副標題:その歴史的発展についての覚書/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:81/刊年:1976.7/頁:18〜24/標題関連:


No. 8
標題:電通合理化と反対闘争の基本的視点/副標題:No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:83/刊年:1976.9/頁:9〜20/標題関連:


No. 9
標題:再び原水禁運動の統一について/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:94/刊年:1977.8/頁:26〜32,25/標題関連:


No. 10
標題:原水禁運動の統一について/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:96/刊年:1977.10/頁:25〜32/標題関連:


No. 11
標題:原水禁運動の統一について/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:107/刊年:1978.9/頁:30〜34/標題関連:


No. 12
標題:原爆被害(爆)者援護法について/副標題:社会保障か国家補償か/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:131/刊年:1980.9/頁:17〜23/標題関連:


No. 13
標題:八二年の階級闘争とわれわれの課題(討論)/副標題:No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:147/刊年:1982.1/頁:2〜18,24/標題関連:当面する労働運動の問題点(長谷川浩)分立する新旧左翼の問題点(遊上孝一)われわれのめざす社会主義の問題点(松江澄)


No. 14
標題:八一ヵ国声明はいまでも有効か/副標題:全般的危機論と平和共存論/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:175/刊年:1984.5/頁:10〜17/標題関連:


No. 15
標題:反核平和運動と革命運動/副標題:反トマホーク運動の成功のために/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:176/刊年:1984.6/頁:2〜7/標題関連:


No. 16
標題:「いかなる」社会主義か/副標題:唯一前衛党と社会主義的民主主義/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:179/刊年:1984.9/頁:2〜10/標題関連:


No. 17
標題:核戦争阻止の闘いと社会主義への平和的移行/副標題:批判者への批判によせて/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:183/刊年:1985.1/頁:2〜12/標題関連:


No. 18
標題:反核・平和運動の現状と今後(座談会)/副標題:No:
著者:松江澄他/誌名:労働運動研究
巻号:200/刊年:1986.6/頁:2〜11/標題関連:


No. 19
標題:世界平和の前進のための提案/副標題:プラハ世界大会に参加して/No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:167/刊年:1983.9/頁:2〜9/標題関連:


No. 20
標題:私の昭和思想史/副標題:No:1〜30
著者:松江澄/誌名:労研通信
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 21
標題:私の昭和思想史/副標題:No:31〜39
著者:松江澄/誌名:労働者
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 22
標題:技術革新・これといかに如何に闘うか / 副標題:No:
著者:松江澄/誌名:京都大学現代資本主義研究会 刊
巻号:  /刊年:1983.9/ /標題関連:


No. 23
標題:国家独占資本主義論/副標題:No:搾取論を主として
著者:松江澄/誌名:『国家独占資本主義論』京都大学現代資本主義研究会 発行
巻号:刊年:1974/頁:標題関連:京都大学現代資本主義研究会 発行


No. 24
標題: 党綱領の変遷と国家権力副標題:No:
著者:松江澄/誌名:『団結と前進』京都大学現代資本主義研究会 発行
巻号:刊年:1975/頁:標題関連:京都大学現代資本主義研究会 発行


No. 25
標題: 教育労働について副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1975/頁:標題関連:労働者党京都大学学生細胞合宿報告 一部分発行


No. 26
標題: 占領下の国家権力について副標題:No:
著者:松江澄/誌名:前衛 別冊号 団結と前進 第3号
巻号:3/刊年:1957/頁:標題関連:党綱領の変遷と国家権力 『団結と前進』京都大学現代資本主義研究会



No. 27
標題: 社会主義論副標題:No:
著者:松江澄/誌名:京都大学現代資本主義研究会 発行
巻号:刊年:1975/頁:標題関連:京都大学現代資本主義研究会 発行


No. 28
標題:現代帝国主義と統一戦線/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 29
標題:人民的議会主義とは何か/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 30
標題:「教師聖職論」批判/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1974.11/頁:標題関連:


No. 31
標題:自治体闘争の経験/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1971/頁:標題関連:


No. 32
標題:全電通反合理化闘争発展のために/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1976.9/頁:標題関連:


No. 33
標題:日本における「プロ独裁」樹立の展望にいて/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 34
標題:レーニン主義と革命の平和的発展/副標題:ルシアン・セーブNo:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 35
標題:新しい革命と新しい党/副標題:No:1先進国革命につてのノート
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1971/頁:標題関連:


No. 36
標題:新しい革命と新しい党/副標題:No:2先進国革命につてのノート
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1971/頁:標題関連:


No. 37
標題:新しい革命と新しい党/副標題:No:3先進国革命につてのノート
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1971/頁:標題関連:


No. 38
標題:新しい革命と新しい党/副標題:No:4 長谷川論文の批判によせて
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:1971/頁:標題関連:
 


No. 39
標題:私の昭和思想史/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労研通信
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 40
標題:私の昭和思想史/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働者
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 41
標題:西康一氏の思い出/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働者
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 42
標題:広兼主圭を悼む/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 43
標題:久保田 敏を悼む/副標題:No:
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:


No. 44
標題:『一九四九年六月』−日鋼広島の闘いー/副標題:/「日本共産党の50年」批判
著者:松江澄/誌名:労働運動研究
巻号:刊年:頁:標題関連:
 


No. 45
標題:「君が代・日の丸」強制につい考える/副標題:
著者:松江澄/誌名:広島県高校教職員組合呉地区支部青年部学習講演会パンフ
巻号:刊年:頁:標題関連:
 


No. 46
標題:「対談 日鋼争議は何を教えたか」/副標題:
著者:松江澄 恵澤 威  峠 三吉/誌名:広島文学サークル
巻号:3刊年:1949.12.1/頁:標題関連:


No. 47
標題:内藤知周の思い出/副標題:
著者:松江澄 /誌名:内藤知周著作集
巻号: 刊年:頁:標題関連:
 


No. 48
標題:人間存在の本質と限界/副標題:
著者:松江澄 /誌名:文学城
巻号:創刊号 刊年:昭和21年六月1日/頁:標題関連:


No. 49
標題:ヒューマニズムの政治思想/副標題:
著者:松江澄 /誌名:文学城
巻号: 第2号  /刊年:昭和21年7月5日/頁:標題関連:
 


No. 50
標題:断層/副標題:
著者:松江澄 /誌名:文学城
巻号: 第3号  /刊年:昭和21年8月5日/頁:標題関連:
 2


No. 51
標題:学徒として「満州」で訓練/副標題:/下城子に於いて
著者:松江澄 /誌名:
巻号:   /刊年:頁:標題関連:


No. 52

標題:わが心のふるさと一高/副標題:
著者:松江澄 /誌名:
巻号:   /刊年:頁:標題関連:
 

 


No. 53
1
標題:占領の性格と日本の国家権