長谷川 浩著作(準備版)

No. 1
標題:戦時下における党再建運動/副標題:同志・長谷川浩を偲んで/No:
著者:伊藤律/誌名:労働運動研究
巻号:256/刊年:1991.2/:36〜41,22/標題関連:


No. 2
標題:戦後運動史外伝・人物群像/副標題:No:24
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:326/刊年:1996.12/:36〜37/標題関連:


No. 3
標題:活動の総括とその提起する課題副標題:第三回大会成功のために/No:323、324
著者:長谷川 浩/誌名:統一
巻号:刊年:1969.5.12/: 3 〜4/標題関連:


No. 4
標題:職場活動家にのぞむこと/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:
巻号:刊年:1978.11/:7〜21/標題関連:危機の中の労働運動 労働者学習協会編 労働者学習協会 471-Ki22


No. 5
標題:権力との対決の時代が始まった/副標題:戦後革命期・新潟闘争を継承し前進しよう/No:
著者:長谷川浩/誌名:季刊労働運動
巻号:36/刊年:1983.10/:59〜67/標題関連:


No. 6
標題:行動で示せば信頼が生まれる/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:月刊労働問題
巻号:235/刊年:1977.5/:26〜29/標題関連:


No. 7
標題:産別会議研究会ヒアリング長谷川浩氏に聞く/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:研究資料月報(法政大学・大原社研)
巻号:319/刊年:1985.6/:43〜60/標題関連:


No. 8
標題:産別会議研究会ヒアリング長谷川浩氏に聞く/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:研究資料月報(法政大学・大原社研)
巻号:320/刊年:1985.7/:27〜35/標題関連:


No. 9
標題:産別会議研究会ヒアリング長谷川浩氏に聞く/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:研究資料月報(法政大学・大原社研)
巻号:321/刊年:1985.8/:45〜59/標題関連:


No. 10
標題:二・一ストと共産党の戦略・戦術/副標題:戦略指導の不在/No:
著者:長谷川浩 聞き手:倉野精三/誌名:現代の理論
巻号:79/刊年:1970.8/:39〜58/標題関連:


No. 11
標題:終戦直後、日本共産党の問題点/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:165/刊年:1983.7/:27〜33,10/標題関連:


No. 12
標題:日本共産党の新ナショナル・センター構想/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:新地平
巻号:67/刊年:1980.2/:45〜51/標題関連:


No. 13
標題:全逓の「労務政策変更」闘争と福岡中央支部の分裂問題/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:9/刊年:1970.7/:20〜26/標題関連:


No. 14
標題:安保自動延長に対応する労働戦線再編成攻勢/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:11/刊年:1970.9/:20〜29/標題関連:


No. 15
標題:再編成攻勢に揺らぐ総評第四〇回大会印象記/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:12/刊年:1970.10/:8〜13/標題関連:


No. 16
標題:ゼネ石闘争の敗北から何を学ぶか/副標題:No:
著者:長谷川浩 佐和慶太郎/誌名:労働運動研究
巻号:13/刊年:1970.11/:47〜54/標題関連:


No. 17
標題:春闘のマンネリ化を脱却するために/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:15/刊年:1971.1/:4〜12/標題関連:


No. 18
標題:一九四八年全逓・全官公の三月闘争/副標題:占領下のストライキ/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:27/刊年:1972.1/:28〜35/標題関連:


No. 19
標題:ストライキ戦術の諸経験と基本問題/副標題:No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:30/刊年:1972.4/:1〜11/標題関連:


No. 20
標題:反合理化闘争と少数派組合(座談会)/副標題:No:
著者:長谷川浩他/誌名:労働運動研究
巻号:36/刊年:1972.10/:1〜10,21/標題関連:


No. 21
標題:共産党再建に当っての問題点/副標題:大衆闘争との関連で/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:37/刊年:1972.11/:14〜22,79/標題関連:


No. 22
標題:スト権奪還闘争と総評大会/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:47/刊年:1973.9/:2〜6,58/標題関連:


No. 23
標題:ストライキとは何か/副標題:ストライキの二つの性格/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:49/刊年:1973.11/:2〜8/標題関連:


No. 24
標題:現時点における革命党の思想建設/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:51/刊年:1974.1/:2〜15/標題関連:


No. 25
標題:動労北海道の反合理化闘争/副標題:二十三日間の減産・減速の闘い/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:73/刊年:1975.11/:9〜14/標題関連:


No. 26
標題:スト権奪還闘争の新しい段階とその課題/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:79/刊年:1976.5/:2〜9/標題関連:


No. 27
標題:七六春闘の敗北を経験して/副標題:労働運動再建の課題と党建設/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:82/刊年:1976.8/:2〜10/標題関連:


No. 28
標題:出版労働者の反対派運動/副標題:「光共闘」と「中公共闘」を中心に/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:83/刊年:1976.9/:22〜28/標題関連:


No. 29
標題:社会党の党内抗争の意味するもの/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:98/刊年:1977.12/:9〜15/標題関連:


No. 30
標題:危機にたつ労働運動/副標題:七八春闘の総括/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:104/刊年:1978.6/:2〜8/標題関連:


No. 31
標題:闘いなき七九春闘/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:116/刊年:1979.6/:2〜8,25/標題関連:


No. 32
標題:労働戦線再編成と八〇年代労働運動の課題/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:121/刊年:1979.11/:16〜21/標題関連:


No. 33
標題:これは闘う左翼の方針ではない!/副標題:日共15回大会の決議案をめぐって/No:
著者:長谷川浩他/誌名:労働運動研究
巻号:124/刊年:1980.2/:2〜9,32/標題関連:


No. 34
標題:自民党はなぜ圧勝したか?/副標題:同時選挙の総括によせて/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:130/刊年:1980.8/:2〜10/標題関連:


No. 35
標題:中道政権の幻想を粉砕せよ/副標題:総評大会を傍聴して/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:131/刊年:1980.9/:2〜8/標題関連:


No. 36
標題:どうする右より労戦統一(対談)/副標題:No:
著者:岩井章 長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:144/刊年:1981.10/:2〜7/標題関連:


No. 37
標題:統一推進会の基本構想といかに闘うか/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:146/刊年:1981.12/:2〜8,19/標題関連:


No. 38
標題:八二年の階級闘争とわれわれの課題(討論)/副標題:No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:147/刊年:1982.1/:2〜18,24/標題関連:当面する労働運動の問題点(長谷川浩)分立する新旧左翼の問題点(遊上孝一)われわれのめざす社会主義の問題点(松江澄)


No. 39
標題:動きはじめた大衆と総評大会/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:155/刊年:1982.9/:2〜8/標題関連:


No. 40
標題:人勧凍結とスト権問題=労働者としてどう対応すべきか/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:158/刊年:1982.12/:2〜6/標題関連:


No. 41
標題:終戦直後、日本共産党の問題点/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:163/刊年:1983.5/:2〜9/標題関連:


No. 42
標題:六〇年安保闘争の表と裏(座談会)/副標題:党中央はどのように先頭に立ったか/No:
著者:長谷川浩他/誌名:労働運動研究
巻号:163/刊年:1983.5/:24〜31/標題関連:


No. 43
標題:賃金闘争の根本的転換を!/副標題:「春闘の再構築論」をめぐって/No:
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:168/刊年:1983.10/:2〜8,18/標題関連:


No. 44
標題:いま、なぜ戦後労働運動史か/副標題:長谷川浩の三つの著作によせて/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:182/刊年:1984.12/:2〜11/標題関連:


No. 45
標題:いま、なぜ戦後労働運動史か/副標題:長谷川浩の三つの著作によせて/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:183/刊年:1985.1/:41〜48,12/標題関連:


No. 46
標題:いま、なぜ戦後労働運動史か/副標題:長谷川浩の三つの著作によせて/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:185/刊年:1985.3/:29〜36,57/標題関連:


No. 47
標題:いま、なぜ戦後労働運動史か/副標題:長谷川浩の三つの著作によせて/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:186/刊年:1985.4/:12〜20/標題関連:


No. 48
標題:いま、なぜ戦後労働史か/副標題:長谷川浩の三つの著作によせて/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:181/刊年:1984.11/:2〜13,29/標題関連:


No. 49
標題:農業の現状と闘いの方向(シンポジウム)/副標題:No:
著者:横田義夫 遊上孝一 佐久間弘 波多然 山本徳二 長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:66/刊年:1975.4/:23〜32/標題関連:


No. 50
標題:独占資本の最近の攻勢と根本的な転換を迫られる労働運動/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:マルクス主義
巻号:22/刊年:1966.9/:〜/標題関連:


No. 51
標題:青年運動の組織問題/副標題:No:
著者:長谷川浩他/誌名:産業労働
巻号:15-6/刊年:1960.5/:34〜43/標題関連:青年問題研究集会議事録


No. 52
標題:戦後の労働運動と一般民主主義運動/副標題:No:
著者:長谷川浩/誌名:新しい時代
巻号:2/刊年:1961.12/:〜/標題関連:


No. 53
標題:激動期の要請を拒否する日共指導部副標題:「新日和見主義」批判の批判/No:34
著者:長谷川浩/誌名:労働運動研究
巻号:1/刊年:1971.8/:1〜17/標題関連:


活動の総括とその提起するもの(第三回党大会の成功のために)

「共産主義労働者党」機関紙 統一 第323号 昭和44年(1969年)512日発行

長谷川浩

 

総括    

1、総括の基本的態度

 七〇年を目前にして、反安保の闘争を徹底して闘いぬくためには過去一年余のわが党の活動を曖昧にすることなく総括し、大衆の要求と行動から真剣に教訓を学びとることが決定的に重要である。

 われわれの総括の態度は、科学的社会主義、マルクス・レーニン主義に導かれる労働者階級の党としてのわが党独自の立場に立つものであり、それゆえに自らを最もきびしく点検する。

 われわれは、この党の立場から「わが党を初め社共の左に進出した新しい戦闘的左翼」としてわが党を左翼諸党派と同列におき、あるいは諸党派一般に解消することはがまんならない。また、単なる「労働者反戦派・職場反戦派の党」に止まることもできない。反戦運動・労働運動・農民運動・学生運動・市民運動等々すべての分野と階層の具体的な闘争を通じて力の及ぶ限り革命の道を追求する党として自らを点検し鍛えてゆかねばならない。その意味で、たとえ好ましくないと感ぜられる問題でも、事実をありのままに具体的に直視しなければならぬ。

 それは周知のように、今日、社会党がますます弱体をばくろし労働者の前衛と自称する共産党が議会主義に転落し、これに反発し対立する左翼諸党派が各々自己の正当性のみを主張して主導権を争い、戦線を混乱させているなかで、独占資本の支配に対立するすべての階層を領導し統一する労働者階級の革命的立場を明確にしてわが国における階級闘争の法則性を追求するうえで、このことがとりわけ重要となっているからである。

 事態を掘り下げることなく、バラ色のムードをもってしても、革命は前進しない。

2、エンタプライズ寄港反対闘争の意義

 「七〇年安保闘争」はすでに始まっている。そしてその端緒は一昨年秋の羽田闘争にあるといわれる。たしかにそれは「七〇年安保」を意識した学生の街頭行動・ラジカリズムの発端であり、日韓条約反対闘争以来とみに強化された弾圧体制に反発するものとしてまた、今日の一般的ニヒルな気分を反映して、一定の客観的理由をもつものであった。

 しかし、「七〇年安保闘争」と七〇年代の階級闘争に、真に大衆的な発展の展望を与えたものは、昨年初頭の佐世保におけるエンタープライズ寄港反対の大衆行動である。

 ここでも、学生部隊の行動は起爆的役割りを果たした。だが、佐世保の闘争が広範な層に闘争の確信を与え、その後の運動の発展を導いたのは、この闘争に佐世保SSKの労働者をふくめて、総評系・総同盟系の労働者、基地佐世保の市民、無党派進歩勢力がこぞって立ち上がったからである。この大衆的な動きに社、共、公明、民社の議会政党も動かざるをえなかった。各党各派の指導部のセクト主義から組織的な行動の統一は達成されなかったとはいえ、大衆は幹部の締付をのりこえ狼狽する彼らと尻目に、警官隊の暴力弾圧に共同行動をもって反撃した。

 わが党は佐世保地区委員会を根拠に、この大衆的な連帯行動を推進することに全力を傾けた。

 エンタープライズ寄港反対闘争の与えた数多くの示唆は重要である。

 それは現行安保条約が締結されて十年、とくにアメリカのベトナム侵略に支配階級が積極的に協力し、直接その基地とされてきたわが国において、急速な産業の高成長と社会生活の近代化にもかかわらず、労働者と勤労人民の不満と政治不信はますます根深いものであることを示した。そしていまベトナム侵略におけるアメリカの敗北とその権威の失墜は、意識されると否とにかかわらず、権力にお対する抗議と反撃の意識を培い、いついかなる契機で爆発するかもしれない闘いのエネルギーを貯え、発展の可能性を秘めている。その点ではいわゆる「体制内化」された総同盟・総評の下部組合員も少しもかわらない。そしてこの力に依拠するなら、広範な市民層をふくめて行動の統一は可能である。

 さればこそ、佐世保の闘争は支配階級とその政府に深刻な脅威を与え、人民の広範な層の勇気を鼓吹したのである。

3、王子野戦病院撤去の闘い

 佐世保の闘争が「七〇年安保闘争」に重要な示唆を与えるとともに、とりわけ米軍基地撤去の闘争課題を改めて提起したのに応じて、わが党は東京北部地区員会を中心に王子米軍野戦病院開設反対の闘争を積極的に取り上げた。

 二月下旬、従来の「米軍ベトナム野戦病院設置反対連絡会議」が代々木共産党の学生・反戦青年委員会に対するセクト的態度から分解し機能を喪失するにいたって、党は二・二〇の統一行動を出発点とするあらたな闘争の組織のイニシャチブをとった。たしかに闘争の初期において行動を激発すえで大きな役割を果たしたものは、ここでも「中核」その他の学生部隊であり、党も自治会共闘の学生、ベイ平連などに動員を訴えた。だが、三月十八日の開院強行と前後して「ゲバルトをただ止めろというだけではだめだ。地元が立ち上がらなければいけないのだ」という声がたかまり、地元区民の自主的な行動と組織が発展した。とくに開院が強行されべトナムからの傷病兵が送りこまれてくると地元の人びとはいっそうベトナム戦争を身近かに感ぜざるをえなかった。「昼は地元保守派ボスの牛耳る町内会主催のエプロンデモに参加し、三派全学連の暴力反対のビラを貼らされ」「夜はそのビラをはがして『反対する会』の『我家は野戦病院に反対する』のステッカーを貼る」「二つの顔をもつ区民」が次第に増していった(以上北部地区委員会ならびに都委員会青対部「中間報告」から)。

 抗議の統一行動が二・二七、三・三、三・八をへて三・二八から四・一にいたる連続行動として展開されるなかで、地区党は何よりもこのような地元区民の自主的な運動と組織の発展のために一貫した努力を傾けた。

 こうして王子野戦病院撤去闘争は「うちなるベトナム」のたたかい(青対部)、「首都に持ちこまれたベトナム戦争」に反対する闘争(北部地区委員会)としてたたかわれた。

 たしかに大衆運動の次元ではそれはベトナム反戦の闘争であった。しかし同時にそれは砂川・板付の基地反対闘争、さらには水戸射撃場撤去と新島移転反対闘争など一連の全国的な基地反対闘争の一環であり、安保条約による日米軍事同盟を撤廃する日本人民の歴史的な闘争を継承・発展させたものである。そしてそれゆえにこそその根底には日本革命への課題とたたかいがある。

 北部地区委員会の中間総括は、全国闘争の一環として現地闘争として、たしかに行動部隊を全国動員して王子に投入したとはいえ「七〇年へ向けてたたかうための党の全国組織の体制づくりにおいて、地域別・戦線別にかなりの不均衡をうみ出し」、また「現地闘争における地域住民の直接民主主義要求運動としての方向付けが指導面で弱かった」と指摘する。

 ここに提起された問題の底には反戦運動を反戦運動としてのみ捉えるというよりむしろ反戦運動をそれ自体を革命運動と捉えて全国的カンパニアの連続的な行動のみを強調し、全国的な闘争のうちにも各階層・各地域に住民を規定しているわが国革命の歴史的条件・諸課題の関連を見抜く党の視点・革命運動の視点の不明確性に対する疑問と批判があると考えられる。

 この闘争の過程において、党は再三活動者会議をひらき、意志統一を行なって組織的な活動を展開することに努めた。しかし、全国闘争と現地闘争の関連は必ずしも明確な結論を得られず、中央常任委員会と都委員会から編成された現地指導部は「固定せず」機能をほとんど発揮しなかった。

 こうして王子野戦病院反対運動は四月八日の集会・デモが禁止されたなかで、果敢な非合法でも遂行しゲイト前に座りこみをたたかいとったが、爾来漸次困難が加重されるようになった。同時に党の主たる関心も六月行動から八月沖縄原水禁大会、米タン輸送反対闘争とカンパニアを追って自然に王子から離れ、たたかいは地元同志のたゆまぬ活動のみに任される状態となった。しかし今日なおこのたたかいがねばり強くつづけられているところに「地元住民の直接民主主義要求運動」のエネルギーがあり、また「七〇年安保」の全国闘争をたたかう原動力ある。そしてこの区民のたたかいを支えるものものとして、経営細胞を基礎に居住の党員を結集した地区党組織が厳として存在したということは、政策上になお問題があったとしても、党の組織上に重要な教訓を与えている。

 

4、「六月行動」の意味するもの

 日高氏らを呼びかけ人とするベトナム反戦の国際連帯行動は、一面では佐世保闘争から王子、三里塚の闘争をへて高揚した昨春の反戦闘争の頂点であるとともに、他面ではそのうちにあっての各派の激しい指導権争いをばくろする最初の契機であった。

 六月行動をもりあげた一要因、三里塚について触れるなら、それは独占資本と政府の全般的産業近代化政策に対する農民の土地と農業を防衛する抵抗を軸とするものであった。わが党は王子の闘争に全力を傾け、この闘争に十分取組まなかったが、そこにはこのような問題の意義と発展方向を明確にする上での立遅れもあった。

 地元農民のこの闘争の支援に最も力を入れたのは「中核」派を中心に“三派全学連”であったことはいうまでもない。そしてその「ゲバ棒」戦術は農民闘争の固有の性格もあって、一定の共感をもってうけいれられ、代々木共産党・民青の合法主義は無惨にその醜態をさらけだした。

 しかし、この時点ですでに激化していた東大・日大を始めとする学園闘争とも関連して、三派全学連・自治会共闘と代々木共産党・民青の対立だけでなく、三派全学連内部の各派の対立・抗争がようやく先鋭化していった。

 六月十五日の統一行動は、こうして昼の部ではベ平連その他の民主団体・各地の進歩的グループの動員を基礎に一万をこえる大衆を結集し、その後においても各地ベ平連グループを生みだす成果をあげながら、夜の部では日比谷野外音楽堂を埋める労働者・学生の面前で「中核」と「革マル」が正面衝突し、デモは全く支離滅裂となった。

 爾来、「中核」「ブント」など対「革マル」「解放」の対立はますます激しく、そのことが積年の代々木共産党・民青のセクト主義との対立・闘争に加えて、その後の学生運動・反戦運動を制約する否定できない一条件となった。

 われわれにとってこの対立の根拠とされているものに余り重要な意識をもたない。しかし、こうした客観的な不統一状態は、自主的な大衆行動の立場から無視することはできない。その意味でわれわれはこうした対立の基礎にある主観主義とセクト的なエリート意識――階級の利益と解放のためにたたかい大衆自身の行動を発展させることに貢献するのではなく自派の主張に大衆を従属させ運動を従属させようとする誤った指導者意識に対してはきびしい批判をもつ。代々木共産党とも共通するこのような自己中心主義は戦線を分裂に導くだけであり、本来労働者階級のものではなく、小ブルジョア思想であり議会主義とラジカリズムの共通の基盤である。

 まさに、このような思想的分岐と戦線の混乱のなかでこそ、労働者の階級的立場を明確にする思想とこれに基づくわが党の政策が要求されるのであり、これを保障する党組織党機関の民主集中的な活動が必要となる。

5、10,21をめぐって

 一昨年秋の羽田における佐藤訪ベト反対闘争で殺された山崎青年の一周年を記念して、共同で抗議と追悼の大衆集会・デモを行なおうという提案が砂川の宮岡氏、三里塚の戸村氏、物理学者の水戸氏らを呼びかけ人として提起され準備される過程で、行動の基本目標をどこにおくか各派の主張が入り乱れるとともに、その指導権争いは一段とすすんだ。だが結局問題の焦点はさきの六・一五問題にあり、「中核」の自己批判を要求する「各マル」「解放」派と「中核」その他が分裂し、各派それぞれ別個の行動をとるにいたった。その中で「五万人合理化反対」闘争を契機に国鉄の現場の労働者・活動家がもりあげてきた「米タン輸送反対」の闘争が大きく浮びあがった。とくに国鉄労組幹部がこれを当局との取引の材料として米タン増発を延期することを条件に闘争を中断するにいたって「民同指導下の組合」に対する不信と企業の外からこれを突破しようというラジカルな空気が急速にたかまった。こうして一〇・八、一〇・二一の新宿における駅占拠と街頭戦が遂行された。国鉄当局と政府は大きな打撃をうけ、遂に騒乱罪を適用して弾圧にのりだした。

 このような行動が一定の政治的条件のもとで一定の目標に対して行なわれる必要がることは確かである。しかしその場合、問題の政治ばくろと行動の意義が徹底的に宣伝されなければならない。新宿の闘争が米タン輸送の危険とその政治的意義を大衆に明らかにしたえたであろうか。それは政府・マスコミ機関の「騒乱」の宣伝にかき消されたのではないか。

 さらにこれは国鉄労働者の自発的な軍事輸送拒否の行動を再組織し発展させる行動とは異なるものであり、従って佐世保の闘争に内在する革命的なものとも性格を異にする。佐世保ではSSKの労働者が総同盟幹部をのりこえて自主的に立上がり組織的に行動した。新宿では労働者はあたかも「路傍の市民」であるかのようにして参加し非組織的に行動する以外になく階級を一般市民に解消する危険さえ感じられた。もちろん、国鉄労働者も動かなかったし、動きようもなかった。

 この闘争はまだ王子の闘争とも性格を異にする。ここでも組織されない市民が学生のラジカルな行動に刺激されて街頭行動に参加した(今日政治に対する不信不満が明確に政治闘争の方向を与えられぬままに堆積している状況のもとでは、こうしたことは何時でも起こりうる。問題はこれに方向を与え組織することにある)。だが、王子の闘争の根底には、少ないといえども、経営を基礎としたわが党の細胞の組織があり、労働者階級の政治的ヘゲモニーの基礎がある。さればこそ、市民一般を組織された市民に成長させる端緒がひらかれ、「野戦病院の移転」ではなく「撤去」でなければならぬという意識を組織的な行動にまで育てあげてきているのである(本年四月一日デモ)。

 このような闘争の質的な相異ははっきり確認されなければならない。労働者の階級としての革命における指導性・政治的ヘゲモニーを保障することにこそ、共産主義的党の第一義的任務があるからである。

 これと関連して、わが党にとってより直接的に重要な問題であったのは、各派の対立と行動の分裂がすすむなかで、党自体の基本的態度と具体的行動方針が明確を欠き、組織全体の意志統一が行なわれぬままに行動スケジュールを追ったということである。

 その結果、下部では「中核」とはげしい党派闘争を迫られているとき、上部では「中核」と共同の集会を組織する、一部の部隊は「革マル」「解放」派と統一行動をすすめるという現象が生まれた。その上、統社同との「前衛党結成」を目指す統一も間近いという話まで伝えられた。

 「一体わが党は何を目指しているのか」という疑問が生まれ「七〇年に向かってどうたたかうのか」という声が上がったのも当然である。それは単なる「ぬきんでた党の旗印」ではなく、実践的なたたかいの指針と独自の原則的立場の明確化の要求である。

 東京都党は九月臨時党会議をひらき、機関紙「統一」の四ページ化に備えるとともに、秋の闘争を控えて、地区細胞ブロック結成を主軸とする党建設と反戦青年委員会活動を職場を基礎に推進する方針を決定していた。

 しかし、集会・デモを相つぎこれに追われて具体的行動の方針・総括を掘り下げて討議する余裕がなく、中間機関はただ闘争スケジュールを伝達するだけに終わった。

 春の闘争では、集会・デモへの動員を組織するうえで活発に活動し、研究・討論集会なども計画的に進めてきた都委員会青対部は、その指導部内の意志不統一の問題も手伝って相つぐ大衆行動の組織的動員体制をとれなくなった。というよりはむしろ、青年労働者党員の活動の発展が、従来の動員組織的性格を主とした青対部の体制を不適当なものにしていたのである。

 さらにこの間の機関紙活動についてみるなら、その読者の三分の一以上を占める東京では、漸次読者層が従来の層から若い層、主として学生、知識人層に移り、経営の部面ではほとんど増部はみられず結局増減差引き一〇部増に止まった。この傾向は全国的にも、労働者層で増さず学生層で増やすという形であらわれているように考えられる。

党員数は、東京では春の王子闘争の時期には漸増していたが、秋にはほとんど入党者を数えことができなかった。

1・17年頭政治集会の教訓

 こうした状態の中で、東京都党では細胞から「独自の大衆集会を開け」という提案が出された。

 都委員会はこの提案をうけて中央常任委員会と協力して十分な準備期間をとって、六九年年頭に千人規模の大衆集会を組織し「七〇年安保闘争」に臨む党の基本方針を打出す計画をたてた。その準備過程で一〇・二一を中心とする秋の闘争の総括をする討論集会を行い都委員会としての「七〇年闘争と七〇年代闘争の展望」に関する討論を行なった。しかし、総括討論集会は討論にならず失敗し、都委員会の討議は一定の基本問題について見解をまとめたまま、具体的な問題に立入らぬまま中断されている。

 そうした条件のもとで、都党の細胞は一・一七年頭集会の動員を成功させるために全力をあげた。

 それと同時に、同志たち、とくに若い同志たちは中央常任委員会との政治的意志の統一をはかるために努力した。「七〇年安保」を日本の社会主義革命との関連においてたたかう党独自の方針を全党の力で作りあげ、年頭集会を党派性ある政治集会にしたいというのがその希望であった。

 年頭集会は動員においてほぼ成功をかちとった。しかし集会の形式と内容に関しては問題を残した。それはこの政治集会に参加した人びとから寄せられた批判の要望が明確に示している。

 「七〇年闘争の日本の民主主義革命・社会主義革命の関連を捉える理論的中核の形成」「七〇年、七〇年代を通じて革命への道を確立する前衛の必要性と労働運動における拠点の必要性」など、党内外の共通の問題意識にもにもかかわらず「七〇年闘争と主体形成についての関連が不十分、すなわち反日共諸派のなかで真に前衛づくりについての方針をぜひ聞かせてほしかった」「生産点におけるたたかいを貴党は職場反戦を軸としてゆくとのことだけど、各種反戦組織全体を容認するのか?統一戦線に対する方針がみられない」「労働者党のカラーがほんとうに打ち出されただろうか。三派とのケジメをはっきりさせてほしかった。」等々。そして最後に「最も前衛党たるうる党でありながら、なれないでいる党」と批判は手きびしかったのである。

 そしてここに提起されている問題こそ、公然ないし隠然と、あるいは党の指導について、あるいは機関紙「統一」編集の基調について各地の党組織から出されている意見・批判などの根底にある問題であり、来るべき第三回大会でわれわれが前進的に解決しなければならない課題である。

7、細胞活動と反戦青年委員会活動

 一・一七年頭集会に参加して、「最も前衛党たりうる党でありながら、なれないでいる党」と感想を書きとめたものは、実はこの集会の動員に全力をあげてきた職場の一同志、ブルーカラーの労働者であった。

 では、こうした職場の同志たちの活動はどうであったか。

 東京都党の青対部が昨春の諸闘争の中で職場と産業別の反戦青年委員会の組織に取組み、デモの動員においても組織の拡大においても一定の成果をあげながら、やがて秋の闘争では中央ならびに都党の基本的な政治的立場、行動方針の不明確さのもとで(青対指導部自体の問題も含みながら)その活動を弱体化したことはすでに指摘した。しかし、そうした条件のもとでも、わが青年党員は着実な活動を続けていたのである。

 たとえば印刷産業の同志は、はっきりした組合組織にさえなっていない会社の御用組合のなかで、とかく会社側に傾く共産党フラクションに対抗しながら、細胞新聞を発行し職場闘争を組織して、賃金体系改善の春闘を準備していたのである。

 また、他の産業の同志は、極端に賃金格差のある会社の賃金制度を改善するために、従業員全体の年齢別賃金を詳細に調査し、その平均額に満たぬ過半数の労務者の要求に応えて格差是正の方針を大衆的に決定し、春闘で九日間のストを打つことに成功した。

 これはそれ自体としては、組合運動であり、経済闘争である。しかもそれは「民同型」指導による「上からのスケジュール闘争」ではない。大衆の要求と自発性を組織するたたかいであり、党の活動である。

 そして党員が先進的な活動家とともにこのような職場の闘争で大衆に責任を負うようになったことそこに簡単に電話一本でデモに出掛けるわけにはいかなくなった理由の一つがあり、政治行動の意義をあらかじめ明確にする大衆討議が必要になっているのである。

 もちろん、細胞ブロックが成立し、地区委員会の機能が一応働いている地区や、闘争の伝統のある職場では、活動は政治的により高度のものがあった。

 北部では、細胞は春闘を準備するとともに国鉄労働者の反合理化闘争、運賃値上げ反対闘争と連帯して宣伝活動を行い、また「王子野戦病院」撤去の闘争を再組織した。そのなかで反安保の行動集団も生まれている。

 都職では「体制内」といわれる今日の組合の諸条件のうちにあって、それをも運用しながら反戦青年委員会が結成された。

 しかし、こうした政治的行動とその組織――反戦青年委員会の発展の基礎に、日常的な職場活動・労働組合活動の積上げがあることを無視することは許されない。若い同志たちが職場の組合活動に取組むようになったことは後退ではなく前進であり、組合の戦闘化と団結の強化のために不断の努力を傾けてこそ、組合員の信頼をかちとり反戦青年委員会活動の拡大の基礎も作られるからである。

 反戦青年委員会は単にいまラジカルになった青年をかり集めて街頭に動員するだけの組織でもなければ、組合を破壊しこれにとってかわる組織でもない。職場の労働者の政治的自覚をたかめ、行動を強化し、労働組合を組合員の圧倒的多数の意志を持って、政治的ストライキ・デモに動員してゆく推進力である。

 こうした反戦青年委員会の性格と任務は「都職反戦」の結成に際しても激しい対立の基礎となった。

 社会党・総評の自主的反戦青年委員会の改組、組合への従属の方針の誤りはおくとして(社会党・「民同」幹部ははじめから組合員の自主的な政治活動を恐れ、今日共産党フラクションまでこれに同調している。しかし、労働組合は本来組合員の政治的活動の自由を保証し資本の攻撃からこれを防衛しなければならない)。そこには二つの方向が対立し激しくせり合った。一つは、反戦青年委員会を集中組織とし指令一本で街頭戦に引出す戦闘部隊としようとするプチブルジョア・ラディカリズムの「街頭主義」の方向であり、他の一つは具体的な政治目標で職場の労働者を結集し、生産点を基礎に政治行動を推進し、これを政治的ストライキとデモストレーションを結合してたたかう原動力としようとするものである。

 反戦青年委員会のこのような性格と任務の規定は明確にされなければならない。そこには「七〇年安保」と七〇年代の闘争に対する基本的な政治方針と闘争戦術の相異が根底にあるからである。

 「職場反戦」の組織はこうして急速に青年労働者の間に拡大しはじめ、総評の改組・組合への従属政策を大衆的に批判攻撃し、自主性を公然と獲得しつつある(四月二十五日日比谷集会)。

 しかし、それとともに反戦青年委員会と党の相異を明確にすることがいっそう重要となる。

 反戦青年委員会は、当面の反戦反安保を政治目標に結集される政治的行動委員会であり、反戦反安保の闘争と日本の革命の関連を必ずしも明確にするわけではない。反戦青年委員会をそれ自体として革命を志向するものとするなら、それはこの組織のセクト的集団にするとともに、党を反戦青年委員会に解消して、それこそ党を「労働者反戦派の党」「職場反戦派の党」に引きさげてしまう。

党は反戦反安保の闘争を推進し反戦青年委員会活動の先頭にたつ。しかし、同時に党はこれをわが国の社会主義革命を実現する展望にたって指導する責任を負う。

党は七〇年安保と七〇年闘争を単に反戦闘争の側面からだけ捉えるのではなく、現代社会の階級矛盾を基礎に、すべての分野の問題を取上げて、そのうちに革命を推進する具体的契機を明確にしその集中点としての権力との闘争――日米帝国主義の軍事的・政治的・経済的同盟の打破、日本独占資本の支配の転覆・労働者階級の領導する新しい政権の樹立を目視してたたかう。

8、国鉄労働者の反合理化闘争の教訓

 以上、われわれは過去一年の主要な政治闘争・反戦闘争と党活動を検討してきた。

 だが、党が現代社会の矛盾をすべての分野にわたって取上げ、革命の発展の契機を追求するという立場つなら、少なくとも国鉄労働者の反合理化闘争、東大・日大を中心とする学園の闘争、そして沖縄県民の日本復帰と基地撤去の闘争を検討し、その意義と教訓を明らかにしなければならぬ。

 すでにわが党の第二回大会の時点で国鉄労働者の反合理化闘争首都を中心に強力な順法闘争で闘われていた。そのなかで実際にたたかいの指導的役割を果たしてきた国鉄の一活動は「われわれは長年にわたって抵抗を続けてきたし、これからも抵抗を続ける。しかし、抵抗の先に何があるのか」と問題を提起していた。

 国鉄の経営が現代の技術的進歩に対応する設備投資のすべてを独占資本の高利の貸付けに依存し、巨額な借金の利払いに追われてその負担をすべて従業員の合理化と乗客の運賃の相つぐ引上げでカバーしていること、しかもその経営は政府・与党の介入により、一方で赤字路線の廃止がいわれているさなかに他方で到底採算の見込みのない新線が建設され開通していることなど、もはや現在の政府と独占資本の体制が国鉄経営の資格と能力を喪失していることを余りにも明白にばくろしている。それは今日日本産業が国際市場で強力な競争力を持ち大型景気を謳歌しているなかで、信用による先行投資に依って達成された高度成長の矛盾を集中的に現すものであり、その基礎には現代の発展した技術――生産力と独占資本主義の生産関係の矛盾の発展がある。

 国鉄労働者の反合理化闘争はこの破綻した国鉄経営とののっぴきならぬたたかいであり、まさにこのような闘争のなかでその戦術・順法闘争が展開されたことに重要な意義がある。それは職場の労働者一人一人の決意と自発的な職場の闘争組織――闘争委員会による行動であり、本来輸送管理の性格を包蔵し、「民同」思想――自然発生的なストライキの思想による「労務拒否」の「上からの画一スト」とは本質敵に異る。その根底にあるものは労働者の生産の主人公としての意識であり、それはダイヤ編成に対する闘争、軍事輸送反対の闘争を発展させ、さらには安保反対・軍事同盟破棄の政治的ストライキをたたかいぬく基礎となる。

 合理化の重要な争点の一つ「二人乗務廃止」問題で国鉄当局がその実施を延期すると引換えに、これを「学識経験者」による「中立的」審議会にゆだねる協定を組合指導部との間に取付けたとき、これをめぐってわが党内には裏切りか否かの論争があったが、そこには一面では現場の強硬な反対に対する譲歩があるとともに、他面反合理化闘争の発展が必然に提起する労働者の経営・管理への介入・規制の要求と闘争に備える用意、これを議会主義的型態にねじまげ協調的企業意識に封じこめる企図がある。

 闘争はこうして順法闘争の内包する思想と戦術型態をいかに前進させるかの問題を提起している。

 しかし、重要なことは国鉄労働者のこの闘争の基礎には一九四九年の定員法による首切り以来二十年にわたる苦闘があり、そのなかで広島のわが党の組織をふくめて沼津その他いくつかの地域に拠点が築きあげられ、実際の指導的役割を果たしてきたということである。そこには不断の地道な闘争で防衛されてきた一定の自由がある。しかし、それは、「解放区」でも「労働者権力」でもない。まさに日々当局の締付とたたかっている拠点であり、今日の困難な反合理化闘争における抵抗の拠点である。

 それを真に「解放の拠点」にするためには、全労働者・全人民を結集して独占資本の集中した国家権力との対決が必要であり、そのために拠点を拡大してゆく不断の努力が必要である。

 「抵抗のさきに何があるのか」という問題提起はこの苦闘のなかから生まれた言葉である。もしこれに「一国革命でない世界革命だ!」と応えるなら、いかに空疎に聞こえることだろう。

 ともかく、この一年間順法闘争をたたかっている国鉄労働者は一人もわが党に加盟しなかった。いつも「いま一歩」というところに止まっている。彼らがか、われわれ自身がか、いずれにしろ、わが党は現在、日本の階級矛盾の焦点にたち、多くの産業の労働者にその行動で大きな影響を与えている国鉄労働者の闘争の外側にいることだけは否定できない。これは真面目に考えねばならぬ問題である。

9、学園闘争とその根底をなすもの

 東大・日大の闘争を中心とする各大学の闘争は、いよいよ中教審の答申に基づく政府の逆攻勢との対決を前にして、重要な段階に入っている。政府は大学当局を叱咤しながら、その頭をこえて容しゃなく警官隊を学内に侵入させ学生を弾圧して、体制の建直しを強行しようとしている。

 これに対して、大学制度の根本的改革ないし変革を志向する側には依然として一致した明確な目標がない。「日本帝国主義大学打倒」のスローガンは、学生の激しい憤慨と破壊的な気分を表現しているとはいえ、具体的な政治的内容は不明確である。

沖縄基地が「核ぬき、本土なみ」となっても、ポラリスを主力とする今日の核戦略のもとではこの点は本質的に変わらない。さればこそ、佐藤政権はいまこれをもって返還交渉の出発点に臨もうとしている。彼らはそのために「即時無条件返還」の大衆行動でさえ一定の限度で利用できると考えている。

 ところが、佐藤政権のこのような態度に対し安保反対を叫ぶ諸党派はかならずしもはっきりした攻撃を加えていない。四・二八におけるわが党の行動といえども問題の政治的対決点を明確にしていたとはいえない。

 あらためて指摘するまでもなく沖縄同胞の「祖国復帰」「軍事基地撤去」の悲願は「復帰」と日米軍事同盟体制――日米帝国主義の階級同盟――打破ることと固く結びつけられてこそ真に達成される。

 沖縄同胞の「祖国復帰」「基地撤去」の闘争が、現実に沖縄がベトナム侵略の基地とされ戦争の負担を押し付けられるとともに、核兵器の持込と関連する脅威が増大するなかで急速にたかまったことは確かである。しかし、その根底に戦後引続くアメリカ帝国主義の直接支配を通しての日米帝国主義の合意の重圧があったことを無視することはできない。それはアメリカの直接支配が佐藤の「施政」となっても本質的に変らない。(日本憲法の適用と日本独占資本の経済的進出によって一定の自由の拡大と物質的条件の改善はあるであろう。日本独占資本がそれによって現在の沖縄同胞の闘争を緩和しようと考えていることも否定できない)

 沖縄同胞の過去二十余年の苦悩と闘争は、それゆえに単なる民族的反戦的なものではなく階級的、革命的な要因をその根底に内包しているのであり、さればこそ「島ぐるみ」の闘争の中に漸次労働者階級の指導性が明らかな姿を視しゼネストが日程にのぼってきたのである。

 二・四ゼネストが所期の発展を示さなかった経緯から、そこになお多くの困難のあることは十分推測できる。だが、まさにそれゆえにこそ、本土の労働者階級の「七〇年安保」と七〇年闘争を、明確な階級的立場にたった社会主義を展望する日米軍事同盟打破の闘争に発展させることが決定的に重要となる。そうしてこそ、沖縄に対する本土の連帯の意義は明確なものとなり、労働者階級のへゲモニーのもと、わが国社会主義革命の過程における民族的課題、反戦的課題の正しい解決を達成する方向と可能性が得られる。(次号へつづく)

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内側からみた日共50年代武装闘争

 

長谷川浩・由井誓の対談

 

 ()、これは、『由井誓遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、1987年、絶版)にある、同題名の対談(P.43〜57)全文です。この原文は、『朝日ジャーナル・1976年1月30日号』に掲載されました。

 

 〔目次〕

     朝日ジャーナル編集部コメント

   1、武装共産党時代とテロ

   2、ゲリラかゼネストか

   3、「権力者」を捜して

   4、どこかにスパイが?

   5、未解決の悲劇

     長谷川浩・由井誓略歴

 

 (関連ファイル)   “『五一年綱領』と極左冒険主義”のひとこま 山村工作隊活動他  由井誓         

  朝日ジャーナル編集部コメント

 

 日本で左翼の「暴力」に何らかの妥当性が認められるか−−−この問題を考えるうえで最大の資料を提供しているのは、一九五〇年代前半に展開された日本共産党の武装闘争である。火炎ビンから爆弾まで、いま新左翼の一部セクトが行使している暴力の原型は、すべてここにあったといってもよい。この闘争がお粗末な失敗に終わったあと、日共は「極左冒険主義」を自己批判し、公式に平和革命を主張するにいたったが、一般市民の目にも触れる形で十分な総括がなされたとはいい難い。なぜ日共がああも空想的な武闘路線を採用し、いかなる経過をたどってこれを放棄したのか、その今日的教訓とは何か−−−あのころ党中央で全政策の形成に立ち会った戦前以来の元党員と、現実に火炎ビンを手にした元中核自衛隊員(元独立遊撃隊員)に話し合ってもらった。 (編集部)

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 1、武装共産党時代とテロ

 

 長谷川浩 昭和五年、いわゆる武装共産党の時代に、ぼくは『無産者新聞』の仕事をしていた。その年の七月に田中清玄の執行部が検挙された。やがて風間丈吉がモスクワから帰国して、同じクートベ(東方勤労者大学)帰りのスパイ松村などといっしょに新執行部をつくった。そのころ、ぼくは入党した。スパイの巣に入ったわけです。松村というのは、なかなか戦闘的な顔つきだったね。

 

 ぼくは昭和六年に逮捕された。昭和一一年に釈放されたときは宮本顕治のリンチ事件のあとで、共産党は壊滅状態。それからコミンテルンの三二年テーゼにそって伊藤律なんかと党再建運動をやり、昭和一五年にまた逮捕されて敗戦まで横浜刑務所にいたんです。いわば党組織の衰退過程を身をもって味わったわけで、極左偏向というものの土壌がよくわかるような気がする。

 

 こないだ早大の学生たちに頼まれて、テロ問題で講演したときにも話したんだが、もともと共産主義なら個人テロには反対するはずです。にもかかわらず共産主義者と名乗る人間がテロに走るのは、党が大衆的基盤を失って孤立するからだ。そこで焦燥感とインテリ党員などのプチブル急進主義が結びつく。田中清玄時代がその典型だね。党がだんだん極左的になる感じがして、何となくおかしいなと思っていたが、この傾向は大衆化の方向を打ち出した風間執行部の時代にも克服されなかった。いろいろ変な事件があったな。

 

 日本の左翼テロには、最近の企業爆破事件であれ何であれ、共産主義者のものとアナキスト系のものがあって、あとの方の論理はぼくにはちょっと理解しにくいんだが、心理的基盤は似たようなものじゃないか。発想の背景に政治的挫折とか孤立というものがある。

 

 由井 一つの挫折が出発点になっているという点では、戦後の日共の極左路線もそうですね。

 

 長谷川 二・一ストの失敗がそれです。そこで米軍による民主改革をちゃんと評価することができな〈なった。土地改革を含めて、戦後のブルジョア民主主義改革はかなり徹底していたんだが、日共は戦前の延長で封建制の残存という考え方にしがみついた。そこに中国革命の成功やら朝鮮戦争やらコミンフォルムによる五〇年の批判やらがからんで、米帝国主義による日本の植民地的支配という規定が加わるわけです。半植民地的、半封建的日本というんで、こうなると論理必然的に五一年綱領の民族解放民主革命路線を突っ走るほかはない。労働運動からはどんどん離れていって「民族独立行動隊の歌」になる。五〇年のレッドパージまでは、日共も労働運動に相当な影響力を持っていたんだけれどね。コミンフォルムの批判は日共に余計な民族主義を吹き込んだと、ぼくは今でも思っている。

 

 由井 当時の日共の論理的水準の低さということもありますね。五一年綱領を討議したときも、農村には相変わらず大土地所有制が残っているといったような幼稚な規定が何となく通用しちゃった。山林地主はいたけれど、これはもうかなり資本主義的な存在になっていたわけです。独立遊撃隊にいたころ、私は小河内でこの目で確かめましたよ。それでも「獄中一八年」の権威は圧倒的だった。いわば新しい天皇ですね、執行部が。こういう弱さは新左翼にもあって、戦後民主主義の評価をいまだに誤っている部分がある。

 

 それはそうと三位一体説というのがありましたね。第一にソ連型の武装蜂起。第二に中国型の民族解放闘争。第三に国外からの解放軍の来援。この三つで日本革命があすにも成就するといったような幻想が一時期、日共党員の意識を強く支配した。

 

 

 2、ゲリラかゼネストか

 

 長谷川 敗戦直後、徳球(徳田球一)は共和政府の樹立ということをとなえた。労働者の工場委員会、農村の農村委員会と、食糧難解消などを要求する市民委員会で人民協議会をつ〈り、人民民主主義を実現するという構想で、いわばソビエト方式だね。これに対して野坂参三が党内で主張したのは、天皇制に触れない民主人民政府の構想なんだ。つまりブルジョア民主主義を前提とする人民戦線方式。この根本的な戦略の違いが、コミンフォルムの批判のあと形を変えて出てくるんです。

 

 レッドパージの予感がつのってきたころ、野坂がぼくに軍事方針を書いてくれといった。ぼくが断ったら、紺野与次郎にお鉢が回った。彼は戦前の風間委員長のころに軍事委員長をやっていたからね。で、彼は全国の五万分の一の地図を集めて、農村ゲリラ活動と根拠地建設の一大プランをつくったんだな。ぼくはびっくり仰天した。

 

 これほど権力の集中した資本主義国の日本で、中国のような解放区なんてできやしない、やっぱり本命は労働者のゼネスト・武装蜂起じゃないかと、ぼくは紺野に反論したんです。これには賛成者が多くて、紺野の方は政治局で孤立した。志田重男は最後まで黙っていた。ところが、五一年の四全協で出た軍事方針案を見たら、農村ゲリラとゼネスト・武装蜂起の折衷案なんだ。折衷案とはいうものの、ゼネスト・武装蜂起の方は遠い先の話だから、武闘をやるとすれば現実には農村ゲリラ型の地域解放闘争だけになってしまう。中国流の解放区づくりみたいなことになるわけだ。

 

 ぼくと紺野の論争は、単なる軍事方針をめぐる論争じゃなくて、戦後の日本資本主義をどうとらえるか、プロレタリアートと農民のどちらを重視するかという、実に根本的な戟略問題をめぐる路線論争だったんだね。それ以後、ぼくと志田は一貫して対立することになる。

 五〇年にマッカーサー指令が出て執行部(所感派)が地下にもぐった。ぼくも五一年から五五年まで非合法生活に入って、もっぱら九州の党活動を指導していた。志田の軍事方針が全盛を誇った時代で、むろん九州でも中核自衛隊は組織されたけれど、ぼくは炭鉱労働者の闘争の方に力を入れた。九州では軍事行動らしい軍事行動はゼロで、警察のでっちあげた菅生事件のほかにめぼしい事件はありません。中核自衛隊は丸腰で、阿蘇地方の基地新設反対の合法集会なんかに出てきていましたよ。

 

 由井 日共武装闘争の経過を簡単にまとめておきましょう。五〇年一〇月に武装闘争を最初に呼びかけた論文「共産主義者と愛国者の新しい任務」が出ます。それから五一年二月の四全協で軍事方針が決まる。国際派が空中分解するのは、その直後ですね。そして五一年の八月の二〇中総で新しい綱領の草案が出て、一〇月の五全協で採択されます。

 

 長谷川 当時の指導部は在日と在中国の二つに分かれていた。在中国の徳球たちが五一年綱領を決めて、軍事の方も志田の方針でいいということになり、五二年一〇月の二二中総で最終的な意思統一がはかられるわけだ。

 

 由井 「武装闘争の思想と行動の統一について」ですね。ここで労働者階級のゼネスト・武装蜂起、農民の武装闘争、農村および都市のパルチザン闘争の統一という方針が固まる。長谷川さんのおっしゃる折衷案です。中核自衛隊は武装組織の基礎形態ということになる。

 

 もっとも、中核自衛隊は五一年から山村工作隊の延長のような形のものも含めて組織されていて、やがて独立遊撃隊もつくられる。具体的な武関の指針を示したのは五一年二月の『球根栽培法』第三一号(「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」)で、時限爆弾や火炎ビンの製造法などを教える『栄養分析法』だの『料理献立表』だの『新しいビタミン療法』だのという非合法出版物が続々出されます。

 

 長谷川 ああいう軍事方法の当否を別にしていえば、『球根栽培法』はゲリラ活動の指針としては実によくできていますよ。武器のつくり方もなかなかのもので、党中央の技術部には相当な人材をそろえていた。

 

 由井 この軍事方針が現実の火炎ビン闘争として実行に移されるのは、五二年一月の白鳥事件から八月の横川事件までです。わずか半年余りだった。やがて中核自衛隊は各地で孤立する。多くの隊員が食うや食わずで、栄養失調から結核になったりノイローゼになったりする状態では、相当数の隊員が自然消滅したのは当然ですね。

 

 五二年一一月には総選挙で日共候補が全員落選し、五三年には伊藤律の除名や徳球の死があって、党内にようやく批判の空気が流れる。徳球自身も五二年七月の論文で極左冒険主義の行き過ぎを批判しています。それでも軍事指導部は既定方針を捨てないで、逆に武器の強化をはかったりするのですが、五五年に遂に命脈が尽きる。七月の六全協で軍事方針が最終的に放棄きれてしまう。むろん中核自衛隊などのY組織(軍事組織)もご破算です。この過程で批判さたり、自己批判のあげく自殺したり、何とも悲劇的な末路をたどった関係者も少なくなかったですね。

 

 

 3、「権力者」を捜して

 

 長谷川 あの軍事方針を生んだ一要因は朝鮮戦争なんだな。当時、日共には今の新左翼と同じように「戦争を内乱へ」という発想があった。ぼくは不干渉を主張したんだが、あのころ祖国防衛隊を組織した在日朝鮮人の動向もあって、党は朝鮮人民支援ということを火炎ビン闘争に結びつけた。米国の始めた朝鮮戦争を失敗させる政治的決定打が全面講和闘争で、この闘争が武装闘争と一体視されたわけだ。日共と在日朝鮮人の運動が組織的に分離されるのは六全協以後です。

 

 由井 米軍に追われた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の一兵士が日本へ密航して、私といっしょに日本人になりすまして小河内で軍事活動をしていましたが、去年つかまりましたよ。いずれにせよ朝鮮戦争とのかかわり合いは複雑でしたね。

 

 ところで、私の早大入学は五〇年で、その年の夏から軍事方針が学内でも話題になった。私は五二年に早大の軍事責任者に指名されました。前年に大学職員と乱闘したのが早大細胞指導部の目にとまったからというたわいのない理由で、まるでその後の武装闘争の内実を暗示するような話でしたが、ともかく、Y(軍事)をやるからにはプチブル根性をなくさなければということで春休みに一カ月ほど小河内で山村工作をやり、四月から学内で中核自衛隊を編成しはじめた。五二年のメーデー事件にも関係して、警官隊に石を投げたり催涙弾を投げ返したりしたものです。

 

 メーデー事件直後の五・三〇闘争のとき、初めて火炎ビンを投げた。新宿駅東口で破防法粉砕総決起大会が開かれ、交番などを襲撃した。投げた瞬間に、うしろから腕をつかまれましてね、私服にやられたと思ったら、労働者風のおじさんが「やった、やった」というわけです。これはあとで大衆がいかに日共の軍事行動を期待しているかの例証とされたんだが、何だかむずがゆくて……。

 

 六・二五の朝鮮戦争勃発二周年には、市谷の在日米軍総司令部(現自衛隊駐屯地)を攻撃した。手づくりの爆弾で構内のドラム缶を爆発させようとしたんですが、実際は中身がなくて戦果は事実上ゼロ。独立遊撃隊の隊長になって小河内に入ったのは、その直後です。中核自衛隊の行動の限界を突破するためには、山岳と農村を根拠地とするゲリラ活動が必要だという。そこで早大から私ともう一人が出かけた。

 

 日本初のパルチザンというわけですが、実態はチャンバラ映画の助っ人みたいで、地元の細胞やシンパに迷惑をかけた遊撃隊も多い。ある村で一番悪いやつはだれだと捜し回ったあげく、ちょっとした富農に目星をつけコメ一俵をかっぱらった。ところが、それを手伝った村内のシンパが消防団具に追っかけられ、川に落ちて死んだという不幸な事件もあります。

 

 平野部にはもう封建的地主がいない。で、地主を捜し求めてヤマに入ったという面がある。とにかく、いたるところに権力の体現者がいる、農村には農村権力があり、大学には大学権力がある。これらをやっつけろという発想なんだな。それで大学の総長や課長クラスの職員を売国奴といって糾弾したりする。こういう傾向は新左翼にもありますね。

 

 長谷川 これほど交通の発達している国で、パルチザン闘争なんてできやしないよ。

 

 由井 実際、ばかばかしい話が多かったですね。第二次の小河内事件のとき、独立遊撃隊はトンネルの出口で警官隊のトラックに上から石を落として一挙に撃滅しようということになった。ところが、石がころがり落ちていく間にトラックはスピードをあげて通り抜けるんです。逆にこっちが追っかけられる。峠の上には警官隊が待ち構えている。逃げるのに苦労しました。

 

 やはり小河内にいたころのことですが、奥多摩の方ヘアメリカ兵がジープに売春婦を乗せて遊びに来る。これを昔の忍者が使ったようなパンク針で襲撃したけれども、ジープはそんなものがタイヤにささっても平気です。そこで今度は連中が抱き合っているところへ脅迫にいったら、逆にピストルでおどされる始末です(笑い)。朝鮮戦争が終わると、アメリカ兵が家族連れで来るようになった。しかし子供までは巻き添えにできない。あとで子どもは可愛いなあと発言したら、アメ公は絶対にやらなければならん、お前は民族的憎しみが足らんと批判された。討論にならないわけです。ただし基本的には、個人テロはやらない方針でした。

 

 長谷川 それは建前で、実際に動き出すと、そうはいかないよ。

 

 

 4、どこかにスパイが?

 

 由井 しかし、今の新左翼の諸君と違っていたのは、観念的にもせよ大衆との結合ということを重視した点ですね。劉少奇の『共産党員の修養を論ず』などを読んで、大衆のものは針一本借りても返すほどモラリッシュでしたよ。隊内の批判と自己批判も、そういう問題に関するものが多かった。だから暴発しても半年余りで終わったと思うんですが、これが日共党員の思考を矮小化し、権威主義的にしたことは否定できない。

 

 長谷川 福岡の米軍板付基地で日本人従業員が朝鮮へ行くアメリカ降下兵のパラシュートをカミソリで切り裂いておくという事件があって、見事な軍事行動の一つとして党中央で誇大に評価された。ああいうのも当時の軍事方針の欠陥を示しているんだが、それは別として、行動のパターンについていうと、由井君の参加した新宿の破防法粉砕総決起大会にしろ、六八年の新宿騒乱事件にしろ、群集心理を利用して市民を実力行動に巻き込もうとする点は今も昔も同じようだね。これはやはり邪道だけれど、その心情はわかる。

 

 日韓闘争のころから通常のデモは機動隊の盾に封殺されて、にっちもさっちもいかなくなった。社共両党は動かない。そうなると、人の集まる場所をねらって一揆的な行動を起こしたくもなるだろう、一種の挑発行為だけれど。

 

 由井 日共の火炎ビン闘争の背景には、レッドパージで労組方面の活動家が一万二千人も根こそぎにされ、日共系の革命的労働運動がしばらく窒息したという事情もあったと思うんです。そこで火炎ビンで突破口が開けるんじゃないかというような心理状態に陥る。

 

 長谷川 やはり大衆からの遊離に問題があるわけだ。六〇年安保闘争のあと、大ざっぱにいって左翼運動はテロの方向に走る部分と正統の労働運動に戻る部分に割れていった。いま爆弾闘争のようなテロを支えているのは、恐らく主にアナキストとブント系の若者でしょう。分散孤立した彼らは、大衆をどう組織するかという地味な課題に取り組むことができないで暴発する。大衆は最初は日和見なんですよ、家族をかかえてね。これがまともに相手にできないようじゃ仕方がない。

 

 由井 全部とはいわないけれど、ブントは過去の歴史と決別したところから発したでしょう。それで日共のマイナスをマイナスとして謙虚に学ぶ姿勢が欠けていますね。

 

 長谷川 闘争が孤立すると、組織内部にも病的な傾向が生ずるんだ。指導部は不安になり、人が疑わしく見えてくる。戦前のリンチ事件がそうです。戦後は極左冒険主義の末期に総点検運動という形で現れた。

 

 由井 どこかにスパイがいるということで……。

 

 長谷川 そう。小河内で活動していたグループの中に、そういう疑いをかけられて自殺した人がいたね。それから五二年から六全協まで、たった三年ほどの間に、東京都の地区委員会の責任者が一三回も交代した。

 

 由井 民主的機能がなくなりますからね。上からの命令で、都合の悪いのはいとも簡単に更迭されてしまう。

 

 長谷川 中央指導部は頭の中で闘争方針をひねり出す。これが失敗すると、実施面を担当した者がおかしいということになる。査問、場合によってはリンチ、それから飛ばされるか除名。これがほぼ全国に広がった。運動に疑問を持った善意の人間がやられているんだ。

 

 由井 連合赤軍は私たちが二〇年前にやった武闘の方式を繰り返してみせた。交通も警察機構も飛躍的に発達した今の段階で、うまくいくはずがないんです。で、ああいう悲劇的な同志殺しをやった。

 私も第三次小河内事件のとき査問されたことがあるんです。ダム工事の現場へ工作に行って暴力団に追い出された。あすは連中が本格的に逆襲に来るという。それでも仲間がどうしても飯場へ工作に行くというので、敵の中へ飛び込むつもりかと反対したら、お前は日和見だと一晩問い詰められた。結局、ひとりで岩かげに残っているところへ飯場の用心棒が来たので、大げんかをして、二、三日警察に留置されましたがね。

 

 

 5、未解決の悲劇

 

 長谷川 軍事方針の行き詰まりがどうしようもなくなったので、在中国指導部からも志田のやり方はおかしいという声が出て、六全協の決定になるわけです。しかし、本当の意味で階級的に問題を解決したわけじゃない。左から右へ、無原則的に揺れたということですね。これが六〇年安保闘争での共産党の日和見につながるんだ。

 五九年一一月八日の国会突入のあと、新左翼は国会再突入、共産党は請願デモという考え方に立った。ぼくは政治ストの準備を提案したんだが、党中央に一蹴された。

 

 由井 そこでますます新左翼との距離が開いてゆく。

 

 長谷川 若い人は一層ラジカルになるし、しにせは右へ右へと動〈わけです。しかし、このところ新左翼を卒業して、セクトを離れて地道に労働運動と取り組んでいる若い人たちが出てきてもいる。こういう自主的なグループは、まだ本物の革命的細胞とはいえないけれども、それを代行しているんだ。これはたいへん貴重だと思う。こういうのを中央委員会が吸収できないようでは共産党の再建はむずかしいね。

 

 ソ連や中国に共通しているのは党即国家、国家即党ということだ。封建的要素の強い国々の革命が持つ負荷ですね。日本は違う。それはもう常識でね。ただ、ぼくはベトナムだけは高く評価したいんだ。あの国では新しい国家形態を大衆自身の統一戦線が支えている。そこで考えるんですが、日本のようなブルジョア民主主義国で、党が将来にわたって大衆団体を支配しないという保証があるかどうか。

 

 これは日共の極左冒険主義が提起した問題の一つでもある。党が国家機関を握って君臨しないという実効性のある保証は、杜共両党はもちろん、新左翼からも与えられていない。イタリア共産党の歴史的妥協の方針について、新左翼の人々は右翼日和見主義だというけれども、大衆自身の統一戦線を追求しているという点でぼくは大いに学ぶべきものがあると思うんだ。

 

 由井 本来なら暴力革命であっさり片づけるのが簡単だと思うんだけどね(笑い)。それにしても内ゲバというのは、私たち四〇代の人間にはとてもついていけない感じですね。思想的、哲学的次元の問題と運動の次元の問題を混同したら、ああいう形にならざるをえない。殺し合いを自賛するようなことは、六全協以前の共産党にもなかった。何をやるにも一人よりは二人の方がいい。これは子どもでもわかる運動の鉄則です。

 

 長谷川 革命勢力内部の争いということになると、ぼくは日共で二度経験した。戦前と戦後と。本来ならば有力な活動家になるはずの若者たちが、ああいうことでだめになる。大衆から離れて、自分の意識だけの世界を構築しようとするからですね。

 アラブの先進分子を武装闘争の面だけで評価してはいけない。彼らは砂漠の開拓といったような課題にも、専門の非合法組織をつくって取り組んでいるんだ。視野が広い。アラブに奉仕するために出かける日本の若者たちも、そういうものから学ぶ過程で健全に育ってくれればと思うんですよ。

 

 由井 火炎ビンを投げたり、ヤマで討伐隊に追われたり、いま思えば変なことをしたものですが、それはそれで私としては時代に対する精一杯の対応だったと思うんです。生まれなければよかったなんて絶対にいいたくありませんね。六全協で万事精算というわけにはいかない。軍事活動に全生活を捧げた人たちは、みんなそうでしょう。横川事件のように、現地へ派遣されたとたんに逮捕されて七年間も服役した東大の独立遊撃隊員もいれば、妻子とも別れたまま蒸発した人もいる。ちゃんとした総括はまだなされていませんね。運動の犠牲者たちにとっては、万事は未解決です。

 

 二〇年前は火炎ビンがやっとだったけれど、今は武器も進歩したし、テロは国際的に拡大してもいます。それがいいことか悪いことかを形式的に論断する前に、私は変革者の魂ということを強調したい。この魂なしには、ろくな行動が生まれない。

 

 長谷川 ぼくは六全協のとき、九州の活動家から受け取った手紙のことをよく覚えている。極左冒険主義の時代に、革命家は子どもをつくるべきではないということで、細君に赤ちゃんをおろさせたというんだな。ぼ〈は暗然として、彼に答える言葉もない。全党が彼の苦悩を苦悩したかどうか、ぼくは今でも疑問に思っているんです。  (『朝日ジャーナル』一九七六年一月三十日号)

 

 

 長谷川浩・由井誓略歴

 

 長谷川浩

 一九〇七年生まれ。父は三菱財閥の執事。浩は東大法学部に在学中『無産者新聞』に関係し、一九三〇年に共産党に入党した。しかし、逮捕されて大学を中退。その後もたびたび検挙されて敗戦まで服役。戦後、再建共産党の中央委員、政治局員として労働運動の指導に専念。五〇年に徳田球一らとともに公職追放にあい、いわゆる「主流派」として地下へ潜行。六全協では中央委員を辞退。六〇年の安保闘争では党青年学生部長として羽田空港でのハガチー来日抗議のデモを指揮。六一年に党の綱領に反対して除名処分を受けた。六七年に共産主義労働者党に参加したが、「極左方針」に反対して労働者党全国連絡協議会を結成。八一年に労働者党を結成して全国委員として活動していた。八四年死去。

 

 由井誓

 

 一九三一(昭和六)年 長野県南佐久郡川上村大深山、由井虎夫同志津以の次男として生まれる。

 一九四三年 長野県立野沢中学入学。旧制野沢中学、新制野沢北高校時代は陸上競技部所属、応援団団長。

 一九五〇年 早稲田大学第一政経学部政治学科入学。レッド・パージ反対闘争の中、学生運動と政治活動に入る。日本共産党に入党。

 一九五二年 血のメーデーを契機とする早大事件後、半非合法活動に従事、小河内村山村工作隊に入る。小河内で検挙、釈放後地下活動に入る。三多摩地区、都内、栃木県下等で活動。

 一九五五年 『アカハタ』編集局に入る。以後、砂川闘争、警職法闘争、安保闘争等にかかわる。とくに六〇年安保闘争では、記者の立場をこえて他政党、労働団体、学生団体との橋渡し的役割を果たす。

 一九五八年 富原守義の次女晶子と結婚。

 一九六一年 党内論争で構造改革路線をとり離党(実際は、共産党が離党届を認めず、除名処分にした)。社会主義革新運動に参加。新聞『新しい路線』編集長となる。

 一九六七年 共産主義労働者党結成に参加、後に新聞『統一』編集長となる。

 一九七〇年 労働運動研究所に参加、以降常任理事。一九八五年より雑誌『労働運動研究』編集長。

 一九八六年十一月十七日 死去。(五五歳)


●未決の現代史 伊藤律

 

戦時下における党再建運動

*同志・長谷川浩を偲んで*

伊藤

労働運動研究 19912月 No.256

 

〔まえがき〕

 以下に掲載するのは伊藤律氏が、尊敬していた長谷川浩氏の戦時下の活動について語った記録である。長谷川浩氏が代表となって創刊された本誌上で、伊藤律特集を編集するに当って、記念にもっともふさわしいものと考え、石川島労働運動研究会のご好意によって転載する。講

演は一九八七年十月十一日、徳田墓参会当日、多摩霊園大野屋本店において行なわれた。         (編集部)

 

 一九二八年三月十五日、日本共産党に対する一斉検挙の大弾圧が加えられ、三・一五、四・一六事件の統一公判が開かれ頃、私はまだ十八歳で旧制二尚の学生でした。

 「公判の傍聴に行きたい」というと「非合法活動の仕事の性質上危険だ」と級友にいわれ、仲間の一人が傍聴に行きました。仲間は帰って来ていったものです。

 「おい、徳球というのはすごい奴だぞ……。肩をいからせ噛みつくように裁判長を叱りつけるんだから!どっちがどっちを裁いているのか判らないようだ。」

 これが徳球に対する私の第一印象です。

 その頃、一高の先輩の中で、何人も共産党の幹部になっていたことが判っていたけれども、獄中にあって非転向で闘い続けていたのはただ二人だけでした。今ここにおられる志賀義雄さん、それから四・一六事件後間もなく逮捕された長谷川浩さんです。二人は尊敬の的でした。

 同時に先輩の中には検事だの裁判官になった者も何人かいます。敵、味方に別れたのです。

 一九三三年、私は市ヶ谷に盗れた政治犯の中に混じって中野の豊多摩刑務所の第八舎に移されました。この第八舎という建物は終戦直前まで徳田、志賀、そこにおられる椎野悦朗さん達が予防拘禁で投獄されていた十字形の二階建で、独房ばかりの獄棟でした。

 その南側の独房に入った私は偶然の機会に浩さんがそこにいて、刑が決まってから寒い北海道の釧路の監獄に送られたことを知りました。そして、その前年のメーデーか、ロシア革命記念日かに、浩さん達が同志と示し合って、朝起床の鐘が鳴るのを合図に一斉に「日本共産党万

歳! ソビ工トを守れ!」のスローガンを叫んで騒ぎを起こしたという話を、以前から近くの独房にいた同志から聞きました。

 それから二年余り、一九三六年の初めに浩さんは満期で釧路の監獄を出ると、亡くなるまで住んでいた三鷹の家に帰ってきました。私はすぐ浩さんを訪ねて浩さんに逢いました。まだイガ栗頭で頬や手に黒紫の霜焼けの跡が残っていたのを今でも覚えています。それ迄のこと、私の転向の経緯やそれについての反省を述べて浩さんから批判を受けました。そしてかかわりのある職場や革命グループについて報告し、これからの活動について相談しました。

 徳球さんが弁護士を始めた時、属していた山崎今朝弥弁護士の法律事務所が、その頃まだ虎の門近くの二階家にあり、つてを得てそこへ出入りしました。当時、山崎弁護士は袴田里見の弁護を無料で引き受けており、その調書の写し、これに関連して宮本顕治の調書もこっそり見せてくれました。宮本が現在、戦前最後の中央委員会と誇るものが、実は工場・農村に殆ど地盤のない、いってみれば街頭分子の連絡会にすぎなかうた実態がよく判ったのです。

   そうしたことを含め、党のこれまでの闘争経験の中から我々なりの教訓を汲みとって出直すことに努力しました。

   間もなく浩さんが岡部隆司と連絡をつけて、その頃"木材通信社"に勤めていた岡部自身の語ったところによれば彼は「かつて産業労働調査所で、まあ小使走りみたいな仕事をしていて、三・一五の煽りで検挙された時、まだ子供で何も判らないと言い張って出てきた」とのことでした。

   後で判ったことですが、岡部はコミンテルンから日本の党再建のために帰国し逮捕され、京都で獄死した小林陽之助と連絡があったのです。

  そんなことから弾圧当局が我々のグループに党再建委員会というレッテルを張りつけた訳です。

   こうして岡部、長谷川を中心に我々のグル!プの活動が始まりましたが、この頃弾圧と取り締まりが厳しくなるにつれ、革命的考えを持つ人達は、ともすれば密室に籠もって国際情勢、国内情勢、テーゼ、戦略などの討議に明け暮れする傾向ガ強くなりました。

 我々はこうした傾向を自戒して大衆の中に入ることに全力を集中する方針を決めたのです。基幹産業に大衆闘争を発展させ、そこに細胞の根をおろすこと、これを基本的方針としたのです。だから職場とつながりがないインテリや学生は当面吸収しないことにしました。

 その頃我々のグループは、テーゼだの、綱領だの、規約などについては一切討論しませんでした。勿論内外拾勢については討論はしたけれど、当面の闘争の必要に応じて、とりわけ職場闘争の発展、前進方向を見定め職場の労働者に宣伝する必要に応じて意見の統一を図ったにすぎません。

 前年、中国共産党が発表した抗日民族統一戦線の呼びかけが、中国人民の広大な支持と熱烈な歓迎を受けたことは我々の励ましの一つでした。

 またコミンテルン最後の第七回大会における反ファッショ統一戦線の方針に基づく岡野、田中、すなわち野坂参三、山本懸蔵の連名になる「日本の共産主義者への手紙」も受けとっていました。その頃はまだ野坂理論なるものの誤りと危害について、はっきりとした認識はありませんでした。野坂が延安へ行って天皇と天皇制を切り離したり、日本の侵略戦争の責任を軍閥、財閥のみに負わせて天皇を免罪にすることを言い出したのは、それから後一九四二年以降のことです。

 我々は岡部の主張に基づいて、この「日本の共産主義者への手紙」を統一戦線戦術についての示唆であると理解しました。なぜなら我々は三二年テーゼの方針を守っており、革命の戦略目標を天皇制打倒におきましたが、この手紙はそれに論及していない。何より肝心な党の建設と強化について触れていない。

 統一戦線について云うなら目の前に一つの事件が起こっている。戦後日本社会党に合流した社会民主主義諸党派を中心として形成された統一戦線が天皇制政府の一撃のもとに潰されてしまった。いわゆる人民戦線事件です。いかなる統一戦線も労働者階級とその党を主柱とせずしては成功し得ないという厳粛な教訓を目の前に見せつけられたのです。だからこそ統一戦線戦術を運用する主体、労働者階級を結集し、党を再建することが当面の緊急な任務だと我々は考えたのです。

 その当時、党の再建を目指すグループが幾つか生まれていました。関西における春日庄次郎を中心とする共産主義者団、常磐炭鉱の労働者・山代吉宗を中心とするいわゆる京浜グループ、神山茂夫を中心とするいわゆる旧刷同グループ、進歩的知識分子や若手官僚の集まりだったいわゆる企画院グループなどです。この"いわゆる"というのは各グループがそう自称したのではなく弾圧当局が勝手に名付けて貼りつけたレッテルだからです。我々の場合、テーゼだの綱領・規約だのさえ討論しないのだからグループの名前など話にも出なかった。

 日本共産党は獄中に存在している。残酷な迫害にもかかわらず徳田球一、志賀義雄、市川正一、国領伍一郎等の指導者は、日本共産党の旗を守って英雄不屈に闘い続けている。その直接の指導なしに、また基盤となる細胞の全国代表者会議を開くことなしに、勝手に共産党を名乗るべきではない、と我々は考えたのです。他のグループの人達もおそらく同様な考えだったと思います。

 おそらく我々のグループを最後に他のグループも相前後してそれぞれ弾圧されてしまいました。その意味で私の、いや未熟な私の挫折に終わったこの報告は、とりわけ若い労働者の皆さんの反面の教訓として受け止めて頂ければ幸いです。

 それらのグループが弾圧された後に、細川嘉六を中心とした良心的なインテリや知識分子の、グループとさえ云えないゆるやかな付き合いが、残酷な特高の拷問によって"日本共産党再建準備委員会〃と称する事件にデヅチあげられています。

 それらのグループのメンバーでもないのに誰彼と個人的付き合いのあった者まで組織メンバーであるかのようにデッカイ組織図を画き出したことは、共産主義の脅威を宣伝すると共に革命陣営内に相互の疑心暗鬼を掻き立てるための陰謀でした。

 さて、当時は活動歴のある者が職場の労働者と付き合うことさえ特高に見張られていました。そして我々は誰も職場、工場に身を置いていない。労働者の側から云えば我々と付き合うことさえ半ば非公然であることを余儀なくされました。そうした困難を押して職場に根を下ろすと一口に云っても容易なことではなかったのです。

 当時、最大の軍需工場であった三菱重工を攻め落とすためにとった方法がそのよい例です。山形地方で動きがとれなくなった革命的青年の池田勇作が労働者になろうとして上京して来ました。そこで進歩的サラリーマンや学生から定期的にカンパを集めて、彼の生活と旋盤工になる勉強を援助しました。

 池田勇作は旋盤学校を出ると運動経歴を消すために、まず蒲田のダイガストと云う鉄工場に入り、そこで労働者仲間と付き合いをつくり、それを通じて近くの下丸子の三菱重工に入ることができました。

 その間、池田勇作は、当時急速に増えつつあった若い旋盤工を主な対象とする『機械工の友』という雑誌の発行に協力し、座談会などを中心に交際を広めました。その『機械工の友』の発行に関係していた一人が、現在宮本体制のもとで副委員長をしている戎谷春松なんです。

 池田勇作は職場で、個人別の衣服箱や下駄箱を作ろうというような初歩的な要求を取り上げて職場闘争を続けているうちに、長伊作という青年を同志に参加させました。最初の根が下り始めたのです。

 その段階で私は別の事件で逮捕されてしまい、あとは浩さんが直接指導し、文書を入れたりしました。

 当時国鉄には労働組合がなく、現業委員会という官製組織があって、そこへ職場要求を持ち込んだり、地域的なサボなどが起こると、現業委員会がこれを潰してしまう。軍需輸送のために国鉄関係は警戒が厳しく容易に手が着けられなかったのですが、省線と云った国電は比較的に社会人の通勤が多いので、それを狙って渋谷の小荷物係にいた野本伸という指導者が職場闘争を展開して、我々の組織に参加しました。

 池田勇作は敗戦直前、喀血して獄中で犠牲となりましたが、野本は敗戦で獄を出ると共産党本部へ来て、徳田のもとで国鉄オルグとして国労の建設に着手した同志です。

 その頃、比較的活発な活動グループが幾つかあり、纒まった細胞の根がおり始めていたのは残っていた労組の中で比較的戦闘的だった東京交通労働組合の職場です。

 当時、東京市の主な交通機関は国電の他は市電の路面電車とバス、それに併行する青バスでした。地下鉄の労働者はしばらく前に激烈なスト闘争をやっていますけれど、その頃はまだ関通区間が短かったのです。……で、電車部門で比較的活動が活発で、グループが纒まって動いていたのは電車では早稲田、広尾、巣鴨の車庫、バスでは渋谷、浜松町でした。同時にそれを通じて青バスにも連絡がついていました。

 御存知のように路面電車には出入口が二つあります。それを一つの出入口を車掌、一つの出入口を切符も金も持たない運転手が管理するわけです。しかも天皇制ファシズムが強化されるにつれて業務規程が厳しくなった。例えば業務中に自分の金を持っていてはならない、もしポケットに金が入っていれば、それは公金、乗車賃を誤魔化したんだと受け取られる。

 ダイヤが非常に厳しくなり、業務規程が厳しくなり、それでラッシュアワーに、なにしろ電車の場合乗車賃が七銭で大抵のお客が十銭玉を出す。三銭払って、渡したり貰ったりする。中には五十銭玉、一円札を出す人も少なくない。ひどく厳しい勤務です。

 ところが当時、市の電車、バスを管理していたのは電気局ですが、そこには密行制度と云うのがあった。公然と密行と称する私服がこっそり乗り込んできてそれを見張る。少しでも違反があれば乗務から降ろして処罰する。これは表面上、電気局に属しているが実際は警視庁の特高の一部です。彼等は組合活動家、戦闘的分子を狙い打ちにして処分したものです。

 当時、市バスの車掌も青バスの車掌もみんな独身の若い女性でした。その活動家を狙って、疑いがあると云って車から引きずり降ろして、裸にして検査するという暴行まで起こったんです。だから青年・婦人労働者の不満は一番激しかった。その職場闘争がつねづね一番行われていた渋谷支部から本部の青年部長も婦人部長も選出されていました。

 部長と云っても今の組合と異なって専従ではない。同じように乗務するんですから、組合幹部としての活動時間に制限はあっても大衆との間に隔たりはなく、大衆そのものであり、職場闘争の先頭に立っていたので信頼があり、かつ活動の影響は大きかったものです。敵もさるもの、その青年部長を真先に召集して戦線へ送ってしまいました。

 侵略戦争が拡大し、壁にぶつかるにつれ、のさばり出た軍部を先頭とする当時の天皇制政府は、労働者階級をひと纒めにして丸め込む陰謀を開始しました。それがいわゆる産業報国会です。すべての職場、経営に報国会なるものを作り、労働組合は全部それへ解消です。労働者の要求はすべてそこへ持ち出して、労資協調の話し合いで解決するというのが建前です。

 ところが実際に産業報国会を牛耳っていたのは警察権力です。私が入れられていた目黒署の留置場で、或る日、特高達が折詰など持って、いい機嫌で外から帰って来たのを偶然見ました。後で聞いて判ったのですが、その日は管轄内最大の工場、恵比須ピール本工場の産業報国会の発会式だったのです。主賓は何と所轄署の特高主任で、大きなピール樽を幾つも抜いて労働者に大盤振舞いをしたのはいいけれど、労働者の一切の要求は特高に握られるわけです。

 その頃、近くにあった七浦というラジオの組立工場の若い青年工が、確か四人留置場に入れられて来た。窃盗容疑です。ところが豚箱で聞いてみると、みんなが云うには「子供だと思ってひでえ使い方をしやがるから、シャクに触っておしゃかを作っても盗んだことはない。産業報国会というのが出来て何でも言えと云うから、どんどん云ったら、それが警察に筒抜けになって引っ張られた。」

 近頃、全民労協を産業報国会の現代版という声も挙がっています。確かに似た点はあります。けれども反動権力は今のところ裏で操っても正面には出て来ていません。各団体、単産、労組は大会を開いて決意を決める自由はあります。勿論、日教組に見られるように頑固な右派幹部が大会を阻止しているところもあります。

 それにしても考え方はどうであれ、闘う一切の労組勢力が結集して国労を守り、総評解体に反対し、全民労協の指導部を孤立させ、安保を容認する労資協調路線を弾劾することは十分に可能だと思います。仮に自治労に見られるように、全民労協への解体を一応は隠した組合にあっても、内部の左派勢力は組合の統一を守って、全民労協の中に残って同じ方向で闘うことも出来るはずです。

 ところが当時の産業報国会とぎたら問答無用です。労組を産業報国会に解消するのは天皇の命令だというわけです。当然その頃、組合活動家、革命的なグループは勿論のこと、多少とも進歩的な評論家や学生たちの間でこの産業報国会にどう対応するかが一番の問題になりました。

 大勢止むなし、無駄に抵抗して怪我をするより積極的に中へ入って行って、中で活動すべきだと云う意見が大勢を占めました。圧倒的でした。我々はこれに反対し、あくまで労働組合を守り、内部から変革していくために闘うべきであると云う方針を採ったのです。そのためには組合の幹部の、指導部が、どんな社会民主主義の手に握られていようとも彼等と可能な限り協力して、組合を守り発展ざせるために必要であると考えたのです。

 その頃になると、プロフィンテルンの指導する労働組合ー全国協議会、いわゆる全協も、一番大きな農民組織であった全国農民組合の中に形成されていた共産党の指導する全国会議派も消滅していました。けれども我々は戦闘分子だけを切り取って来て、もう一度小さく固めなおす方針は採らなかったのです。こうした情勢の中にあっては、労働組合を守り、社会民主派に協力すべきだと考えたのです。

 全国農民組合は、当時前まえどおり形式上本部は大阪にあったけれど、実際の全国機能の指導の仕事は関東出張所と呼ばれる東京の事務所にありました。そこに"大西俊夫"ど云う古い活動家がいて、ドテラを着て椅子の上にあぐらをかいて各地方からやって来る農民活動家と話しをしていた状態でした。そして『土地と自由』と云う機関紙を出していました。『土地と自由』これは天皇制反対の具体的な要求です。ここでは若い革命的活動家が活動していました。我々は出来る限りの方法でこれに協力したのです。

 その大西俊夫は、全国会議派などからは本部派の大ボスなどと云われていたけれど、その実、革命分子と判っている若い活動家を職員に入れていました。その一人が山口武秀です。ご承知のように山口さんは、戦後、敗戦直後の農民闘争の高まりの中で最も戦闘的とされた茨城の「常東農民組合」の組織者であり、そして代議士にもなり、そして日本共産党に入党され、今はこの徳田記念の会の理事です。

 その頃、日本の全人口の中で労働者より農民の方が多かった。現在は約七割が労働者ですが、その頃は逆に農漁民が七割でした。革命における農民闘争は今よりもはるかに重要な意義を持っていたのです。だからその農民闘争における業績と手腕、人望を買って、戦争が終わると社会党は彼を引き入れるために副委員長の椅子まで出して、入党を執拗に迫ったのです。しかし大西俊夫はそれを拒否して日本共産党に入党したのです。

 戦争直後、徳田の強力な指導の下で政治、政党支持の自由だけを条件として初めて全国農民統一戦線として日本農民組合が結成された時、運動方針を述べたのはこの大西俊夫です。その冒頭の一句は、あとしばらくの間農民闘争の主要なスローガンになりました。

 「農民解放の道は労農同盟あるのみ」で、戦後最初の総選挙で、ろくに選挙運動もやらずに大西は参議院全国区に当選しました。惜しいことに四八年に胃癌で亡くなりました。

その時、社会党・共産党・日本農民組合三者合同の、当時としてはごく盛大な合同葬儀が日比谷公会堂で開かれたものです。そして社会党を代表して党首・片山哲が弔辞を述べています。

 戦後社会党は、特に初めほど戦犯松岡駒吉、西尾末広、田原春次らが牛耳っていたためわが党との共闘を一貫して拒否して来た。にもかかわらず党は大衆運動の中で社会党員との共闘に努力して下からの統一戦線に努めた。そうした統一戦線への配慮から大西の党籍は伏せてありました。その後、彼が亡くなり党内の状況の変化のために、それがそのまま今日に到っています。

 この席を借りて、大西俊夫は徳田の下で日本共産党員として闘い、倒れて行ったと云うこの事実を明らかにしておぎます。宮本指導部にも大西の党籍を知る者がいる筈だけれど、あれだけ大きな仕事をしたのにこの土臭い革命戦士が、彼等にはてんで理解も評価もできないのです。

 最も肝心な労働運動について云いますと、そうした天皇制権力、警察権力が前面に出てきて直接干渉の圧力をかけたために、労働組合が日に日に産業報国会に解消して行く中で、比較的頑張ったのはやはり交総、つまり交通労働組合総連合……、といっても主体は東京交通労働組合と大阪交通労働組合、ところが当時大阪に跋扈していた西尾末広一派が介入してきたために、大交はやはり産報に喰われてしまった。

 最後に残ったのが東交です。東交は前に、再度全市ゼネスト闘争を敢行した経験を持っており、その参加者が全部幹部になっていました。そして本部の席は島上善五郎(その頃は本部顧問でした)。 この島上さんはご存知のように戦後社会党の統制委員長をされていますが、この徳田記念の会の理事です。

 島上さんと云い、山口さんと云徳田と一緒に木崎争議に参加された稲村隆一さんと云い、それらの方々が、その志賀さんと並んで徳田記念の会の理事になっておられるというこの事実は、一時の考え方はどうであれ、階級的な大衆闘争の流れは必然的に徳田に合流するものだと云うことを物語っています。

 当時、東交の幹部はだいたい社民的な考え方でした。けれども何と云っても根は労働者です。最近の労働組合に見られるように、どこにも大きな事務局があり、進歩的考えを持つ高級インテリが、大学を出ると就職半分に事務局に入りポストを重ねて組合官僚となった幹部とはわけが違う。だから程度の差こそあれ、みんな産報には反対であり、組合を守ろうとしたわけです。

 けれども当局よりも、むしろ警視庁・警察権力が逮捕、検挙の脅しをもって東交の産報への解消を迫ってきました。そしてじりじり退却せざるを得なくなった。そこで青年部・婦人部は「組合の存否にかかわる問題である以上、大会を開いて大衆の意思で決定すべきだ」と主張したのです。

すると警視庁側、当局側は間髪を

入れず東交の解消を申し入れてきました。最後通牒です。そこで最後案として、大会に代わる拡大執行委員会を開いて決定することになりました。まあ共産党で云えば拡大中央委員会です。

 その席上、婦人部の代表が逮捕覚悟で、 「労働組合がなくなれば、我々は完全な奴隷になってしまう。あくまで労働組合を守るべきである」という提案をしたけれど、少数で敗れました。やがて弾圧です。なぜなら、この大会自身、警察の立ち合いというよりも包囲の中で開かれたものだからです。

 言わば戦時中における日本労働組合の最後の決戦を、身をもって指導したのは長谷川浩です。

 今思うと冷汗ものですが、行動の上では、社会民主主義者であろうと、とにかく労働組合を守ろうとする人々とは極力協力するために努力しながら、時には裏では、陰口ではこれまでのようにダラ幹などと呼んだものです。残り少なくなった労働組合、農民組合つまり組織大衆の主流を横目に見て、気の合った者だけが小人数で小さく固まると云う、こうした独善主義的な、今のことばで云うと,セクト主義"、この伝統的な弱点は容易に抜けないものでした。

 その頃、徳田の思想に対する、思想や行動に対する理解は浅いものでした。それにもかかわらず浩さんが大企業に大衆闘争を発展させ、細胞の根をおろし、それを基礎に党を建設するという道を追求したのは結局、徳田の道でした。だから戦後浩さんが、徳田の指導を腹の底から喜んで受け入れ、貧るように学んだのは理の当然でした。

 それを示す笑い話を一つだけさせて頂きます。

 敗戦直後、嵐のような革命運動の発展の中で産別会議が結成されることになり、議長、事務局長に予定されていた新聞単一の聴濤克己と小林勝之が産別本部機構について相談するために本部へ来て浩さんと話し合っていた時のことです。

 その頃アメリカで比較的進歩的な労組とされたC10の活動家が何人もGHQへ来ていて、英語の達者な聴濤が彼らから話を聞き、それに倣って「産別会議にも政治部を置こう」という話になったのです。

 同じ部屋にいた徳田が飛んで来て、突然「そんなものをつくっては駄目だ」と云い出したのです。 「それは今アメリカでは共産党が解体状態にある。だから労組が政治問題を処理するために政治部を置くのは判らなくはない。だけど日本ではそんなものは有害だ。それにCIOだって幹部はみんなダラ幹だ。労働組合は判っているとおり考え方や信仰のまちまちな労働者が資本に向かって全部が団結する大衆組織なんだ。それに強いて政治的立場を固定しようとしたら、どうしたって社会民主主義的になる。そうでなくても労組幹部というものはしばらくポストに、椅子に座っていると組合第一主義になり、独自性を主張し社民的になりがちなものだ。我々はそれを防がねばならない。だから事務局はなるべく小さくして真面目に事務だけやっていればよろしい。大きな事務局を作って、事務局が組合を支配したら官僚になるに決まっている。そうした条件をこちらから作るようなことをしたら駄目だ。」と云うのです。

 近くにいた私も「何をボヤボヤしているんだ!」と叱られたものです。みんながシュンとなった。すると大男の浩さんがピシャリと首筋を叩いて、天を仰いで「また一本やられたなあ」と云って子供のように嬉しそうに大笑いしたのです。みんなが吹き出し、徳田も笑ってしまった。浩はそれで終わりです。浩さんの著作のあとがきに「この本を読んで欲しい人がもう一人いる。亡き徳田書記長だ。もう一度こっぴどく叱られたい。」と。

 徳田というのはガミガミ言うだけで理論もなく、怒鳴りつけて意見を押し付けるなどと宮本達は云うが、それは労働者の階級的感情と云うものを全く判らない者の言い草です。

 革命の陣頭に立った徳田の激励叱咤には、労働者と人民に対する限りない慈しみと励ましの迫力がすごく隘れていました。丁度、雷雨が上がった後の澄み切った青空のように、底ぬけに明るく爽快でした。

 浩さんはそれが楽しくてならなかったのです。宮本路線に別れを告げて、党を出てからも、浩さんはこの道を歩むために、大衆のためにあらゆる努力をしました。それは困難な道でした。その苦難の中に倒れて逝きました。

 浩さん! この多摩の墓地で、徳田書記長の傍らで、永遠に安らかにお休み下さい。

 当時、メモを残すことは出来なかったし、官庁報告は当てにはならないので、私のこの話には事実と出入りがある点があるかも知れません。直接関係された方の訂正を頂ければ嬉しく存じます。

 有り難うございました。

 

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