新しい連帯と自立をめざして

  ―被爆四〇年のヒロシマから―

   労働運動研究  1985年5月  No.187号 掲載

松江 澄

 

被爆四0年のヒロシマ

 

 広島は今年の八月六日で被爆四〇年を迎える。被爆四○年はまた日本帝国主義の敗北四〇年でもある。そこでいままでの一〇年ごとに何があったかと思い返す。一〇年(五五年)には第一次高度成長期がはじまるなかで、いわゆる「五五年体制」がととのえられ、日本資本主義は政経ともに戦後発展の基礎をきずく。二〇年(六五年)には日韓基本条約が結ばれ、複活した日本帝国主義による日韓一体化の第一歩がほじまる。三〇年(七五年)には日米共同声明で″反共の壁″としての韓国の位置が確認され、天皇は初めての記者会見で「原爆投下は戦時中でやむをえぬ」と発言。それは昨八四年秋、来日した全斗換大統領と手をとり合って過去の「遺憾なできごと」を水に流したことと照応する。そうしていま四〇年(八五年)、中曽根は行革から教育臨調へと戦後総決算をすすめ、アメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。われわれの被爆四〇年は何から始まるのか。

 八月六日が近づくと、被爆ヒロシマは毎年毎年「あの日」の追憶からはじまる。それは四○年のヒロシマが「八・六」をどのようなかたちで迎えようとも変らない。広島の人々の「八・六」は理念や理論ではなく、四〇年前の情念からはじまる。私もその一人である。学生兵から解放された私が被爆二週間後の広島に帰り、空洞になった駅から見たあのヒロシマは変色した古い写責のように、いまでも私の眼低に焼きついている。そうして、つづいて次々に近しい人々の写真が私のまぶたに浮ぶ。西から東へ探しまわっても見つからなかった兄の遺骨を二つもらったとき、それが兄のものではないと分っていても、改めて兄が殺されたことを実感した。

 たった一人の兄弟で一〇歳も違う兄は医者であったが、絵を画き短詩を創った。物心ついた私が漁った兄の蔵書のなかには、××がたくさんあるプロ文学の何冊かがあった。中学の頃、兄が買ってきた『改造』を便所のなかでこっそり読んだこともあった。彼は私にとって兄であるとともに、最もたよりになるやさしい庇護者であった。

 その兄の中学時代の同期に峠さんという人がいた。彼は、その後の学生時代から昭和初年の「左翼運動」にとびこんで、ときに逮補されていた。昭和十二年、上京する私に母がくれぐれも論したのは、「峠さんのようになるな」ということだった。その峠さんの弟の峠三吉と戦後まもなく出会い、ともに反原爆と革命を語るようになろうとは思いもしなかった。

 その母は被爆三年後、髪の毛が抜け血を失って死んだが、明治七年生れの父は同じ所で被爆しながら九二歳の天寿を全うした。小心で律気な、それでいてどこかキッとしたところのある父を、原民喜「夏の花」の第一部「壊滅の序曲」のなかで発見したのは、父の死後、二度目に読んだときだった。民喜は父の名をとって自らを「正三」と呼びながら、被爆四〇時間前の原商店の日常を書いたこの文章のなかで、私の父を「三津井老人」と名づけていた。そこには、私の思い出のなかにある父のもっとも父らしいところが、短い文のなかで書きつくされていた。

 明治の頃から深いつながりがあったらしい原の家と私の家とのつながりは忘れたが、私が生れたとき父はすでに原の店(ロープやテントを扱っていた)を手伝っていたように思う。家も近所だった原家の子供たちとはよく遊んだが、私より一まわり以上も多い民樹は大学の休暇で時に帰省したとき垣間見るだけで、透きとおるような眼で遠くを見ているよ

うな顔がなにか幻のように見えたのを子供心におぼえている。

 私のことを書きすぎたが、広島にもとから住んでいるものにとって、原爆とは、原爆で失った人々と別にはけっして憶い出すことはない。それはいっきょにこの世を焼きつくし、懐しつくし、人間という人間とその結び合いをすべて無惨に切りさいなむ地獄の悪魔のように思えるのだ。死ぬ前の母は、私に「ピカドンはその目に会った者でなければ分らん」とつぶやいた。このことばは、原爆のすぐ近くにいると思っていた私を無限の遠くにとき放す。それはまた非被爆者である私を、かえって反原爆の運動につきすすませたものでもあった。それは階級や体制という媒介な抜きに私に追ってきた憎しみであり、また切断された人間のつながりを求めるヒロシマの思想でもある。峠三吉が、「人間をかえせ……私につながる人間をかえせ」と詩う理由がそこにある。そうして、その人間を奪ったものこそ原爆であり戦争であり、そのなかに人々をつきやった国家なのだ。まどえ(広島弁で″償え″という意味)、あやまれ、と国に要求する被爆者の心底深い憤りは、声にならずにのみこまれてしまう。

 こうした怨念とでもいうようなものこそ核廃絶の思想であり、後年、「いかなる国の」ということばを呼んだ理由でもある。それは「絶滅兵器」といわれるこの核兵器を、地球上から根だやしにすることであるとともに、この兵器で奪い奪おうとする人間と人間とのつながりを求める、強い欲求でもある。それはまた今日多くの人々が、反核運動のなかで指摘する「核」と人間の、けっしてあい容れない闘いの思想の原型ともいえる。それは未曾有の世界を見た人々のまたとない思念である。

この思想がいまもなお、風の冷たい冬も灼くように暑い夏も、十二年一日のように慰霊碑の前に坐り込みつづける核実験抗議の根底にある。この坐り込み抗議はいま、市内で八カ所、県内で二八ヶ所、県外は山形から長崎まで十三ケ所、最近ではアメリカからヨーロッパまで拡がっている。慰霊碑前では、七三年七月から昨年暮までで通算二八四回目となった。この毎一時間ごとの坐り込みのなかで、その年の「八・六」は準備され、迎えられる。

核廃絶思想とは何か

 

 日共は昨年十二月、ソ連共産党と核兵器について両党会談をひらいて「共同声明」を発表した。宮本議長は、この会談と声明で確認された「核兵器全面禁止・廃絶協定のすみやかな締結とその実現」を、恥ずかしげもなく「反ファッショ統一戦線をつくったときと同じような歴史的意義がある」と自賛している。宮本は帰国後、日共国会議員団での報告で、社会主義国による一方的核軍縮や核廃棄のイニシアチーブは「門外漢」のいう非常識なことだと否定しつつ、「すべての核兵器保有国の同時廃棄」を強調し、「世界全体が核兵器を捨てることに意味があるのです」と、いまはじめて分ったことのように主張する。まことに「常識的」な卓見である。ところでそれはどうすれば実現できるのか。

 同じく日本記者クラブでの講演では、ソ連が賛成したのだから「アメリカがイエスといえば当然核兵器廃絶がすぐできる政治的可能性がある」。その前提条件を今度つくってきたと胸を張り、削減交渉と比べて「廃絶の方が早い。同時安全の原則といいますか、双方がゼロ、ないのがいちばん平等です。もっていることを前提にしたら、どこで『均衡』かということはなかなかむつかしいこととなります」と強調する。

 これはおどろくべき発見である。持っているからつり合いがむつかしい、ないのがいちばん平等だ、とは。シーソーゲームを止めるのにいちばんよい方法は、シーソー自体をとり去ることだとは子供でも思いつかない名案である。そのうえ、アメリカは先般日本の国会ですでに廃絶を確言しているから、じゆうぶん可能性がある、と彼はいう。アメリカがイエスといえば、すべては手品のように解決するというわけだ。

 私はこれを読んで、子供のころ誰でも必ずいちどは聞かされるたとえ話――「猫の首に鈴をつける」という名案を考えだしたねずみたちの話――を思い出す。いま日共が熱心に売り込んでいるこのパンフレットを、ソ連共産党の諸君が読んだら何というだろうか。しかし、この宮本の話は笑いごとではけっしてすまされぬ。それは「核兵器廃絶」を茶飲み話にすることで、ヒロシマの思想を陵辱しているばかりでなく、世界のきびしい現実を戯画化することで大きな罪悪を犯している。

 レーガンに代表されるアメリカ支配階級保守派のもっている反ソ反共思想の根深さを、宮本はいとも軽やかに語っている。彼らはその表向きの宣伝扇動にもかかわらず、すべての帝国主義国の政府がそうであるように、ソ連が実際に核攻撃をしかけてくるとは思っていない。彼らにとって何よりも気がかりなのは、次第に足下に迫る革命と解放の新たな潮流なのだ。中南米、中東、アジアにおける反米反帝運動の胎動は、彼らの恐怖心をそそる。そうしてその火つけ人、扇動者、組織者は、すべて社会主義大国としてのソ連に見えてくる。自らの帝国主義的な支配と収奪が、大地から水が湧き出るように解放と革命の流れを生み出していることが彼らには分からない、いや分るまいとする。それよりも、その張本人をすべてソ連とすることで、一九一七年以来の憎悪の体系は完結する。

 レーガンは、いま「自由」の女神をもって自らを任じつつ、帝国主義陣営の盟主として世界の「自由と民主主義」を防衛するためには、核戦略が必要だと説きまわっている。彼らは核戦略を頂点とする緊張関係をつくり出すことで、離れ勝ちな帝国主義同盟諸国をつなぎとめようとするばかりではない。彼らはいままでどこに原爆をおとし、いつ核兵器を使うとおどしたことか。ヒロシマ・ナガサキにつづいて朝鮮戦争、ベトナム戦争ではなかったか。彼らは対ソ核戦略のかげで、全世界とりわけ解放への途上にある国々を胴喝している。

 しかしまた、この恐るべき「絶滅兵器」は、通常兵器のように繰り返す戦闘ではなく、その一回性――ただ一回の勝負にすべてを賭ける――の思想の故に、競争の当事者を同質化させる。それは「絶滅兵器」の故に、通常兵器と違って国土をまもるという消極的な意味での防衛を許さない。そこでは防衛は報復に転化する。それは一瞬の交戦が壊滅をもたらすからである。ヒロシマとナガサキは、それを「あの日」みずからの都市で先見した。しかしいま、それは全世界に拡がり、やがて″核の冬″は地球のすべてを根絶やしにするという。核兵器は、すでにその所有と使用形態の相異を超えて人類の脅威となり、核兵器を頂点とする軍事的体系の緊張は、階級的な対立を軍事的な対立に変える。

 ちょうど原水禁運動が分裂する前夜、ソ連核実験をめぐって広島の世論がその是非で湧いたとき、日共県委員会の幹部が「社会主義国の死の灰なら喜んでかぶる」と街頭で演説して、人々の嘲笑を買ったことがあった。それは帝国主義軍隊の思想ではあっても、少なくとも社会主義の思想ではない。日共はかつて社会主義と帝国主義を同列視すべきでないと主張しつつ″いかなる″を否定したが、いま宮本は社会主義と帝国主義を同列視して″すべて″を平等にゼロにしようという。

 彼らはいま、全世界の民衆が日夜闘っている反核運動を高みからながめながら、米ソ交渉の道具立てにしようとしている。そこには、深刻な困難さを空想的な安易さですりかえる「指導者」の思想はあっても、人間と人間との結び合いのぬくもりのなかから、新しい反核と解放の力をつくり出そうとするヒロシマの思想はない。だからこそ、旗一つで反核平和の大行進がつくり出そうとする連帯を破壊し、宮本の旗を掲げない「三・二一ヒロシマ行動」は、分裂集会だとレッテルを張って参加を拒否する。それは核廃絶の思想ではない。

 

国際主義と国民主義

 

 広島の反核闘争はまず詩・文学から始まり、五〇年に至ってようやく行動へ継承される。朝鮮戦争下二重権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。

権力の弾圧のもとで、日朝青年活動家たちによって闘われた反戦反原爆の行動である。それから四年後、「ビキニ」被爆がおきる。この「ビキニ」から始まる運動は広島と杉並からおこり、またたく間に全国をおおった大衆的国民的な運動である。朝鮮戦争下の闘いがすぐれて戦闘的で国際主義的であったとすれば、「ビキニ」反原爆運動はすぐれて大衆的で国民主義的な運動であった。前者の闘いに結集した人々が階級的な志をもった左翼の活動家であったとすれば、後者の運動に結集した人人は左右を問わず核を否定するまじめな日本人のすべてであった。そこには十五年戦争の反省は全く必要ではなかった。

一方のそれが現状の変革を求める少数派の闘いであるならば、他方のそれは現状の安定をおびやかす「死の灰」への激しい憤りにもえた多数派の運動であった。以来、この二つ

の流れは、継承者は変っても交わることなく今日までつづいている。運動の主流は、もちろん「ビキニ」反原爆運動を継承する日本原水禁運動である。この運動は、その後右と「左」から二度の分裂を重ねたが、この運動のもっている国民主義的な性格は変らなかった。

 私は、原水禁運動が二度目に分裂した直後の一九六五年――それはちょうど被爆二〇年であった――、原水禁を含む日本代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。この集会の主題はベトナム反戦であった。私たち広島からの参加者は、被爆二〇周年原水禁世界大会のバッジをつけ、会議の内でも外でも諸外国の代表に核兵器の恐しさを訴え、世界大会への参加をアピールした。それは多くの代表たちから心のこもった同情と共感で迎えられたが、何かもう一つ心を通わせることができなかった。

 ヨーロッパの代表たちの多くは、何れも戦争とファシズムとの勝利二〇周年記念のバッジをつけていたし、アジア・アフリカの代表たちのなかには私たちを政府の顔とだぶら

せて、その経済的なナショナリズムをきびしく批判した人たちもいた。最後の集会決議をめぐつて、運営委員会から日本代表団にきびしくつきつけられたのは、ベトナム戦争の基

地であり、アジア・太平洋における米核戦略の「かなめ石」としての沖縄基地にたいする日本人民の闘いであった。それは、日本人民がベトナム反戦を闘ううえで、欠くことのできない国際主義的な連帯の任務であった。しかし、この提案を受け入れるために、日本代表団はしはらく時間をとってきびしい論争をしなければならなかった。この集会で、私た

ちの代表団を分裂集団としておしのけようとする原水協系代表団の激しいセクト主義は、各国代表の眉をひそめさせ、意見と組織を異にしても運動の統一を主張する私たちの態度

は圧倒的に多くの代表たちの支持を受けた。

 しかし、私たちの運動に残されている国民主義的な″母斑″は疑いようもなかった。「世界で最初に原爆の惨禍を被った唯一の被爆国民」ということばのなかに、ヨーロッパの人々もアジア・アフリカの人々も、かつての日本帝国主義と、いままた高度成長の波にのってわが物顔に市場で幅をきかす経済大国の″かげ″を見たのではなかったか。それはいまなお広島に残っているもう一つの国際主義的潮流――抽象的で観念的な呼号以外の何物でもない―――によって克服されるようなものではもちろんなかった。この運動が改めて問い直される機会をもったのは、八〇年代世界反核運動とのふれ合いからであった。

 八〇年代以降、広島の運動はしばしばヨーロッパ反核運動との交流を行ない、私もまたプラハ世界平和集会に参加した。

 まず最初にふれ合った西独の運動との交流で、私たちをおどろかせたのはこの運動に参加する人々の膨大な数であった。米ソ両大使館をかこむ「人間の鎖」の壮大さは、「ビキ

ニ」の比ではなかった。しかし、それ以上に私たちを考えさせたのは、それがけっして労働組合や大衆団体の上からの動員によるものでなく、自らの自発的意志にもとづく「下から」の参加であることだった。それでいて、弾圧には柔軟に、しかし不屈に闘う連帯の強さはどこからくるのか。

 もちろん彼らの運動の基礎には、日本と違って、白昼公然とその町に据えつけられようとする核ミサイルがつくり出す現実的な核戦争の脅威があり、そのためのヒロシマ・ナガサキの具体的な研究もあった。しかしなお、乳母車を押しながら、まるでピクニックにでも出かけるように「人間の鎖」に参加する婦人たちを動かしているものは何か。それは、いま体制がうみ出している、失業とイソフレをはじめとしたもろもろの圧迫にたいする、反体制的な感情を含めての闘いであるとは分っていても、なお解き切れない問題であった。

 そうしてそれは、ロンドソ郊外のグリナムコモン基地に搬入されるアメリカの核ミサイルと、女性だけで闘っている婦人活動家の一人が私に語ったことば――「平和は女性の固有の権利」――でいっそう鮮明になった。彼女たちは、日本の基地闘争や反軍闘争で見られるような悲壮感の一かけらもなく、きびしく明るく闘っている。そこにあるのは西欧的近代をとおってきた自立的な市民の顔であり、それはまた自立的なものだけが綯うことができる縄のような連帯であった。

 こうしたヨーロッパ反核運動との交流は、私たちに改めて日本の運動のもっている他律的包括的な性格への反省を迫るものであった。一九八二年の広島「三・二一」、東京「五・二三」、大阪「一〇・二四」 の反核大集会は、当時ヨーロッパからアメリカヘと拡がる世界反核運動と、国連軍縮総会へ向けての運動のなかでひらかれた。それはなお上からの動員という従来の性格を残しながら、集会の形態はかつてなく自立的なものとなった。しかし今年の「三・二一ヒロシマ行動」には、日共系のボイコット、また急いで準備されたということがあったにしても、なお再検討を迫るものがあった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはあったとしても、あのときに見られた活気あふれる自発性はすでに影をひそめていた。

 八二年当時とは状況と条件が違うとはいえ、上からの包括的な運動の性格のもとで、上からの包括性が薄れたとき、いっそう鮮かに見せたわれわれの運動の断面ではないのか。この国民主義的な″母斑″はどうして克服することができるのか。それは西欧から学ぶことで得られるのか。もう一度、西欧的近代へ後戻りすることで、運動の新たな自立と連帯は生れるのか。被爆四〇年は再びその課題を提起している。

 

 欧州からアジアへ

 

 中曾根は首相になる前の行政管理庁長官時代、土光会長とあいたずさえて臨調第一部会をつくったときの報告で、「今回の行政改革は、明治維新以来百余年の近代化の歴史と、戦後三十余年の民主化の歴史をあらためて振り返り、国民と国家の歩むべき方向を新たに設定するための、全面的改革の一環をなすもの」だと強調した。一世紀をへだてた二度の「開港」による近代化と民主化の歴史を、中曾根はわれわれとは違った意味で振り返っている。

 当時中曾根は、行政改革を明治絶新、「戦後マッカーサー改革」につづく「第三の維新」と名づけた。しかし彼は、戦後民主改革の総決算を行い、行革を明治の近代化が敷いたレールと接合することで、再び現代的な「富国強兵」の道を歩むために国民のイデオロギー的再統合の契機にしようとしている。もちろん、この総決算の中には、戦後日本人民が獲得した民主的な諸権利から憲法そのものまで含まれている。中曾根にとって、明治の近代化は継承すべき国民的土台であり、戦後民主改革は克服されるべき「外」からの行き過ぎた「改革」なのだ。そこにわれわれとの根本的な対立がある。それを明らかにするためには、明治の近代化が何であり、何をもたらしたかをもう一度ふり返る必要がある。

 幕末の傑出した思想家である佐久間象山は、「東洋の道徳、西洋の芸術」を説いた。芸術とは科学・技術のことであり、東洋とは結局日本を指すことはいうまでもない。つまり、日本の道徳と西洋の科学・技術との結合によってこそ救国済民の道は成る、ということである。こうした考え方は、象山のみならず、明治維新を思想的に準備した当時の開明的な思想家たちすべてのものであった。象山の弟子で、いっそう国粋主義的な吉田松陰があえて米艦に投じようとしたのも、この思想ではなかったか。たしかに「和魂洋才」の哲学こそ、明治の変革と民近化を押しすすめる原動力ではあったが、それはやがて必然的に「脱亜論」(福沢諭吉)に行きつかざるを得なかった。「西洋の風に倣い、亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現するほどの大英断」を決意することによって、臨調報告がのべるように、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」したのであった。

 明治初年、一年十カ月にも及ぶ岩倉欧米視察団による法律・行政・文化全般にわたる西欧型近代の移植によって、「国家目標としての追いつき型近代化に成功した」(臨調報告)。「和魂洋才」による「脱亜入欧」は、見事に日本をアジアから離陸させたが、離陸が必ず土けむりをあげて草木を強風で押しなびかせるように、「脱亜」は必然的に「征亜」にすすまなければならなかった。

 軍事的で前近代的な性格を残しながら、急速に発展する日本資本主義は、目清・日露の両戦争を経てまたたく間に帝国主義への発展を遂げる。この過程で、大規模な反政府運動であり、自前の権利獲得をめざす最初の闘いでもある自由民権運動を弾圧と懐柔で分裂させながら、最後には日本的ナショナリズムでその思想を萎えさせ、上からの欽定憲法に収斂する。また大正デモクラシーの波頭から始まる階級的、人民的な闘いを、天皇制ファシズムの弾圧とテロルで押しつぶし愛国的ナショナリズムをあおりたてることによって十五年戦争から第二次大戦に突入し、アジア全域への侵略と略奪をほしいままにした。「脱亜」はついに帝国主義的「大東亜共栄圏」にまで、膨張して壊滅した。

 それはただ支配的な軍部と財閥の責めにだけ帰することはできぬ。彼らに、結局はその国民的基盤を提供し利用させたという意味で、それは明治以来の脱亜近代化の帰結ではなかったか。それは大正の中期に生れて軍都広島に育ち、昭和十年代の前期東京に学んで西欧的近代を模索しつつ、最後には帝国主義軍隊に動員された一学徒だけの感傷ではあるまい。

 「和魂」とは、結局、日本的ナショナリズムであり、それは「洋才」としての西洋型近代を自らのなかにとりこみながら、ついに「洋才」を生み出したが「洋魂」を探り得なかった。いやそれどころか、最後には、卑しむべき「洋才」をかなぐりすてて、「和魂」にふさわしい竹槍で本土決戦を呼号しながら、原爆という最英新鋭のアメリカ科学技術兵器の前に敗北した。戦後民主主義闘争は、正面からこの「和魂」=日本的ナショナリズムと対決して、これを地底に封じ込めた。こうして「和魂洋才」は二重の意味で敗れ去った。

 しかしいまそれは、新たな「脱亜」の武器として蘇ろうとしている。戦争による生産手段の破壊は、改めて欧米の近代技術を呼びこむことで急速な日本資本主義の復活と発展を促し、いまでは世界一の技術大国として列強と覇を競いつつ、その経済ナショナリズムはアジア・アフリカから中南米に至るまで、帝国主義の食指をのばしている。中曾根は、戦後民主主義の総決算をすすめることによって、再び「和魂」を地底から呼び戻し、新たな「脱亜入米」のためのイデオロギー的再統合の武器にしょうとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。

 日本原水禁運動はヒロシマ・ナガサキから生れた。それは反戦運動を媒介とするのではなく、帝国主義戦争の背後に落された原爆による、余りにも無惨な破壊への憤りから生れた。それは来るべき人類絶滅の戦争を予見することで、核廃絶と人間回復の思想となり得たが、その破壊の余りの巨大さは、それがアジアの諸民族を殺戮し、その郷土を破壊する太平洋戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。未来を先見したが、過去を省みることができなかった。被爆者と残された者の国家への怨念は、ついに噴出することなく、その声は胸底深くしまい込まれた。

 いま運動の自立といい、国民主義の″母斑″の克服上いうとき、何よりも必要なことは、いまアメリカ極東核戦略に組みこまれて、その生贄にされようとしているアジア・太平洋諸国の人々とともに手をとり合って、日米軍事同盟と闘うことではないか。われわれは再び欧米に学び、その近代的自立のあとをなぞるのではなく、「脱亜入米」によって再びアジアを征覇しょうとする中曾根ナショナリズムと闘って、アジアの民衆と連帯を固めるとき、はじめて自らの自立をかちとることができるのではないか。そうしてそのことは、被爆者の根底にある国家への怨念を晴らすこととけっして別ではない。

 いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降されるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。

 

新しい連帯と自立を

 

 いま中曾根は、日米軍事同盟を強化しつつ、アメリカの核戦略に日本をしばりつけ、対ソ戦の不沈空母にしようとしている。その中曾根がもっとも関心をもっているものに「環

太平洋構想」がある。それは米核戦略の保障のもとに、経済と政治を含む安定した帝国主義的秩序を太平洋につくり出そうと企むことである。

 しかしその試みはキット失敗するに違いない。彼らはすでに太平洋とアジアを敵にまわしている。南太平洋諸国の人々は、核の基地となることも、核の墓場となることも拒否し、ベラウ共和国は米国の圧力を住民投票でハネ返し、「非核憲法」を成立させた。一九七五年フィジーから始まる非核太平洋会議は、毎回ヒロシマの参加を求め、年ごとにその連帯を固めて米極東核戦略と対決し、いまニュージーランドのロンギ政権は公然と米核艦船の寄港を拒否し、オーストラリア政府は米「SDI」への参加をことわった。フィリピン人民はすでにマルコスに見切りをつけ、アメリカ帝国主義からの解放の旗を掲げて人民の民主主義を奪い返そうと闘いに立ち上っている。最も身近な韓国では全斗換の弾圧と懐柔にもかかわらず、民主主義革命の声は地底から次第に音高く響き、日韓人民の連帯のきずなはまだ細くとも鋼線のように張って、どんな妨害をも寄せつけない。

 いまこそわれわれは、旗幟を鮮明にして何よりもまずアジア・太平洋の人々と連帯し、反核反軍事同盟を闘うときである。それはいままで、日本の運動がただひたすらに追求してきた核廃絶の思想とけっして別のものではない。それは被爆者の心底深くいかりを下している、反戦反国家の怨念を受けて闘うとき、必ず向うべき戦場である。われわれはこう

した視点を基軸にして、反トマホーク・反原発・被爆者援護法を一つの闘いとして追求しなければならない。

 反トマホークは何よりも当面する反核闘争の具体的な焦点であり、それはすでに指揮・通信・情報システムを通じて核戦略に組みこまれている自衛隊のそれとともに、反基地核チェックの広い運動と合せて戦線を拡大しなければならない。また反原発闘争はもう一度被爆の原点に還って、被曝と被爆の連続性を確かめ、軍事的な転用とあわせて、日常的な核殺人と闘う反核闘争の前線の位置をとり戻す必要がある。そうしてその根底に、金でもない物でもない、ただひたすらに国家の責任と死者への謝罪を要求する被爆者援護法を据え直すとき、過去の被爆との闘いと未来の被爆との闘いは一つのものとなる。

 戦後日本は「賢明」な吉田茂によって、アメリカの核の傘のもとで日本資本主義を再建して帝国主義復活をなしとげ、いま経済大国として世界の市場を荒し回っている。アメリカ帝国主義は積年の「安保ただ乗り」をとがめつつ、その付けの清算を求め、貿易で取引しながら軍事負担の思い切った増大と核艦船の寄港・全土核基地化を要求している。

 中曾根はいま、戦後民主主義の総決算ばかりでなく、戦後支配階級四〇年の付けを背負わされて決算を迫られている。しかし、前大戦のもたらした破壊、とりわけヒロシマ・ナガサキの記憶は、けっして消えることはなく、ましてアジア・太平洋の人民は十五年戦争と太平洋戦争をひとときも忘れることはない。

 中曾択はいま、アメリカへ行っては軍備を拡大するといいながら、東南アジアを回ってはけっして軍事大国にはならぬと弁明し、国民にたいしては非核三原則をまもるといいながら、アメリカにたいしてはトマホーク寄港を進んで受入れ、ひそかに核基地を建設している。

 いまほど四〇年の矛盾をこめて、″建て前″と″本音″が歴然と分離しているときはない。いまこそこの矛盾を衝いて闘うときである。″建て前″をつきつけて″本音″に迫る大衆的な闘いを進める好機である。

 アジア・太平洋の人々と連帯を固めて共同闘争を強めつつ、日本反核運動の再建と再活性化をはかるときはいまをおいてない。それはいま、日本における労働運動と大衆闘争の閉塞状況をつき破る結節点でもある。この闘いのなかからこそ、自由な民族としての運動の自立を闘いとることができるだろう。新たな連帯と自立をめざして闘おう。被爆四〇年はそれを要求している。                                  
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