被爆四〇年の「八・六」へ   (労研通信No.八号 1985・4・20)
松江 澄


「三・二一ヒロシマ行動」は終わった。そこには八二年「三・二一」のおもかげはったが、あのときのはじけるような下からのはずみはなかった。それは情勢と条件またとりくみの厚さと広さの違いがあるとはいえ、この三年間の運動状況の推移が示すものであった。ともあれ、われわれの運動はすでに今年の「八・六」へ向かって出発した。それは被爆四〇年の運動であるとともに、被爆四〇年からの運動でもなければなるまい。この運動はどこへ向かうべきか。
 被爆四〇年はまた終戦四〇年でもある。一〇年(五五年)には早くも第一次高度成長期が始まるなかでいわゆる「五五年体制」がととのえられ、二〇年(六五年)には「日韓基本条約」が結ばれて政府のいう「日韓一対化」の第一歩が始まる。三〇年(七五年)にはその韓国をアジアの反共「第一線」だと日米で確認し、天皇は「原爆投下は戦時中で止むを得ぬ」と発言する。すしていま四〇年(八五年)、中曽根政府は戦後総決算をすすめつつアメリカの極東核戦略体制に日本をまるごと組み入れようとしている。中曽根は四〇年前の敗戦に学び、今度はアメリカと「運命共同体」になることでl新たな「富国強兵」の道を歩み始めている。
 日本原水禁運動は、四〇年前の戦争の背後に落とされた原爆の未曽有の破壊への人間的な怒りから生まれた。それは来るべき地球絶滅の戦争を予見することによって人類普遍の核廃絶の思想となった。だがその破壊の余りの巨大さと悲惨さは、それが「日本帝国」によるアジア侵略戦争のなかであったことさえ忘れさせるほどであった。それは未来を先見したが、果たして過去を深く省みたであろうか。いま中曽根が日米核安保を軸にして「環太平洋構想」で再びアジアに君臨しようとするとき、われわれの何よりの課題はアジア・太平洋の諸国民と深く連帯して日米軍事同盟=極東核戦略体制と闘うことではないか。それは四〇年前の日本の「原罪」を償う道であるとともに、「まどえ、(広島弁で償えという意味)あやまれ」と国の戦争責任を根深く追求する被爆者・被害者の心底の怨念に応える道でもあるのではないか。
 いまニュージランドのロンギ政権は公然と国を挙げて米核艦船の寄港を拒否し、被爆国日本政府のずるい対応をきびしく批判する。中曽根はいまアメリカの「核の傘」のもとで肥えふとった経済大国のツケを」つきつけられ、建前と本音の矛盾に右往左往している。アメリカへ行っては軍事費負担を増大するといいながら東南アジアを回っては軍事大国にはならぬといい、国民に向かっては非核三原則をまもるといいながらレーガンに対してはトマホークの寄港と核戦略基地の建設を約束している。いまこそ「建て前」をつきつけて本音に迫る大衆的な運動をおこし、非核アジア・太平洋をめざす連帯の旗を高く掲げて闘うときではないか。それは被爆者援護法の実現を迫る運動とけっして別なものではない。
(これは「広島原水禁ニュース」のために書いたものを、編集者の了解を得て投稿したものである。)
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