いま、なぜ「日の丸」「君が代」なのか(パンフより)

             

                   松江 澄
                                          1990年12月1日

目次

原爆との出会い

苦い青春の思い出

日本的ファシズムの思想

「君が代」「日の丸」 


戦後の天皇制

新国家主義とは何か

教育臨調との闘い

「荒れ野の四〇年」―ヴァイツゼツカー

過去に目をつぶるな

いま、われわれは何を

私は、戦前も戦後も呉には随分来たことがありますが、ここ最近は来たことがありませんでした。今日は久し振りに呉にまいりました。

 私は、広島でも高校の先生達といろいろ話をする機会を持っています。 先程紹介していただいた吉田きん、この古田さんのお父さんとは戦後当初、労働組合運動で――「一緒に闘った仲です。今日は主催が呉の教労研で、それ以外の多くの高校の先生方もお見えになっていると思いますが、私も広島で教労研の人達と15年戦争の勉強会を一緒にやったり、いろいろな話し合いを34年ばかり続けています。今日は、呉の高校の先生方――恐らく初めてお会いする方がほとんどだと思いますが、いま問題になっている“なぜいま君が代、日の丸か”“なぜいま天皇か”。こういう問題についてお話し申し上げて皆さんの学習の参考にしていただければ幸いだと思います。初めての方も多いわけですから、私は自分の体験からまずお話を申し上げてみたいと思います。

 

          <原爆との出会い>

 

 私は1919年生まれです。元号で言えば大正8年生まれです。従って原爆と敗戦の年には26歳でした。 当時学生兵として軍隊にひっぱられておりました私が、原爆の後の広島に帰ってきたのがちょうど2週間位後でした。815日の敗戦になって、富士山のふもとにいた私達学生兵は比較的早く復員することができました。ほとんど一昼夜かけて、走ってはとまりとまっては走るような文字通りポロポロの汽車に乗って広島をめざしたのです。それ以前私は、私のいる部隊で「広島は特殊な爆弾で全滅になった」という情報を聞いていました。うつらうつらしながら満員の列車に揺られていますと、汽車が止まって「ひろしま」という駅の人の呼び声にあわててとび起き、人々の背をかき分け泳ぐようにして破れた窓からプラットホームに降り立った私の目にいきなり飛び込んで来たのは、崩れたプラットホームを通して見えた己斐の山でした。そして、こに至るあの全市は完全に焼け野原で、ところどころビルの残骸がわずかに残っているだけでした。

私は全くばうぜんとしました。そしてまず、駅の川向こうにある私の自宅を捜し求めましたが、勿論そこにほ何にもありません。そこで市内をあちこちさまよい歩きました。死体はほとんど片付けられていましたが、何かしらまだブスブスと燃え残っているような感じでした。みゆき橋の方へ向かってちょうど日赤の前まで行きました。あの日赤の中にたくさんの被爆者達がうめき苦しんでいるのも見ました。また引き返して己斐の方へ行きましたら、鉄橋がくずれ落ちて、誰も乗っていない電車が線路の上で傾いているのがいかにも残骸のようでした。

 そうしてほとんどまる一日さがして歩きましたが、勿論私の身内の者も友人も誰ひとり知った人はいません。そこでまた、僅かしかないバスを捜して戸河内の兄嫁の里まで行ってみました。そこで私は初めて、たったひとりの兄弟で、医者をしていて軍医に招集され、どうやら当日郊外の分院からしだいに爆心地の病院をめざして所用のために来た兄がやられたらしいということを聞きました。そして、父親と母親は親戚の者が助けに来て、いま三原にいるということも分りました。それからまた広島へ帰り直して汽車に乗り、三原に着いて父や母に会ったのは、広島へ帰ってから34日後だったと思います。父はもう70を越えていましたがまだ比較的元気でして、母の方がだいぶ弱っており、3年後に―当時ほまだ「原爆症」という言葉はありませんでしたが―髪の毛が抜け、血を失って死にました。

 私ほ三原にしばらくいましたが、しばしば広島にきてあの原爆の焼け野原に立ちました。そうして私はつくづく思いました。一体、この原爆に対して、或いは原爆を落とした今度の戦争に対して、私は何をしたのだろうかと。

 

勿論その当時、戦争に反対することがどんなことであり、果たして反対してもそれがどうなるかということも明白でした。ただ「平和」を口にするだけで憲兵隊にひっぱられたり、警察にひっぱられて留置されるのはまだいい方で、時によると何日でも留置場にぶちこまれるということくらい私も知っていました。 しかし私にとって大切なことは、私があの戦争に対して何が出来たかということではなしに、何をしようとしたのかということでした。そしてまさしく私は、具体的に何一つしようとしなかった。二度とこの原爆を落とさせてはいけない、再び戦争を繰返させてはいけない、しかし同時に、戦争に対して何も出来なかった私を”二度と繰返してはならない”、そんな思いで多くの人々の戦列に伍して、戦後広島の反戦・反核運動、あるいは労働組合運動、そして日本の社会を変革するためにたたかってきたのでした。

 私と中曽根は一つ違いで、謂わば同時代・同学です。私が見たのと同じようなあの戦争のあとの日本を中曽根も見たに違いありません。そしておそらく彼は、悔恨の涙にくれたに違いありません。もっと日本の軍隊が強かったら、もっと日本が金持ちだったら負けはしなかったのにと彼は思ったに違いありません。彼は故郷へ帰って右翼の青年塾、青雲塾を率いて第一回の選挙に出ました。彼は権力の側に立ち、私は権力とたたかう側に立ちました。私はつくづく思いました。同じようなあの戦争の体験、そこに立ちながら人間というものはひとつの事実を全く正反対の立場でとらえることが出来るのだということを。

 

          <苦い青春の思い出>

 

 私がいまふりかえってみて少しでも皆さん方のお役に立つことがあるとすれば、払の体験を通して皆さんに伝えるのが私の責任であり義務であると考えています。その意床で私は、私の吉年時代なぜ戦争に反対出来なかったのかということをもう一度考え直してみたいと思います。 と申しますのは、70年賀保鴇争の時でした。私は若い活動家の諸君達に呼ばれて、戦後広島の反戦・反核運動の話をしたことがあります。話をした後の座談会でその若い人に「いったい、松江さんはどうして戦争に反対しなかったのか。我々は戦後こうして反対しているが、どうして反対しなかったのか」と問いただされました。その問いはまさに正しいと思いました。なぜあのような状態をつくったのか、あるいはつくることを手伝わされたのか、それを率直に皆さんに申し上げる必要があると思います。

 

 私が広島の中学校を出て当時の旧制第一高等学校へ入ったのが昭和13年でした。昭和11年に226事件がありまして、私もたまたま東京にいて日のあたりに見ました。昭和12年は、昭和3年から始まった15年戦争が全面的な侵略戦争になった年でした。その翌年に私は旧制高等学校へ入りました。すでに左翼に対する大弾圧が行われた後で、私たちの学校の中ではどんな小さな社研サークルも一切禁止されていました。皆さんにその当時の状況をよく知ってもらうために申し上げますと、私が高等学校に入った1年の時にはまだあった岩波の白帯―それが2年になりますと、自帯の中でマルクスものと言われている左翼の本は、岩波書店が自発的に発刊をとりやめました。 それでもまだ2年の時には古本屋にありました。ところがわたしが3年の時には、古本屋からも一切のマルクス主義の本がなくなってしまいました。いやマルクス主義だけではなく左翼的な本がなくなってしまったのです。たったわずか3年の問に、そういう急激な変遷のあった時代に、私はちょうど二十歳の自分の青春時代を送っていたのです。

 世の中はすでに軍国主義の嵐が急速に吹きすさみ始めていました。しかし学校の塀の中ではわずかながら、断末魔の酸素吸入のような「カツコ」つきの自由が残っていました。当時教練があって、配属将校が来てうるさく言っていましたが、払はぞうりをはいて、ゲートルのかわりに上と下を赤い紐で括って、「伏せ!」といっても伏せず、「走れ!」といっても走らず、演習が済んだら鉄砲を放りだしていた。,まだ12年の間はそういうことさえ学校の塀の中では出来た時代でした。ちょうど2年の時でしたが、寮を外務省の巡査講習に貸せという申し入れがありました。当時寮の委員長をしていました男は、それを代議員会にはからずに許可しました。 それがわかって、緊急代表員会を開いてケンケンガクガクの議論をして拒否することに決定しました。その自治会長は辞任しました。 その男が実は、自民党の田中派でだいぶ前に防衛庁長官をやった山下元利でありました。また海田の13師団師団長で、広島でパレードをやって問題になり、とうとう逃げ帰った元幕僚会議議長の栗栖弘臣、彼も私たちと一緒の当時の学生仲間でした。

 

 その学校の塀の中にわずかながらあった自由も大学へ入りましたら急速になくなりました。そうして、何とか戦争に行くまいと思って、当時学生の特権だった徴兵延期をしつづけていましが、勅令でその延期が取消されていやおうなしに徴兵検査を受けさせられ、下関の重砲兵隊に放り込まれたのが昭和1810月でした。

 

 そこで私が皆さん方に申し上げたいのは、確かに私たちは苫年時代にずいぶんいろんな本を読みました。むつかしくてわかったかわからないか、わからないような、カントを読んだりヘーゲルを読んだり、二一チェだほショーペンハウ工ルだ、といろいろ読みました。友人と大いに論議もしました。確かに勉強しました。そうして外なる権威は一切否定してわが内なる自由をこそ私たちは讃えあったものです。しかし、その内なる自由がひとたび軍隊の中に放り込まれ、戦争の中に放り込まれたら、まことにみじめに一挙に崩壊しました。そこにあるものはなまやさしい観念ではなかった。私は軍隊の中で見習い士官になった時に、後から続いてきた大学出の学生兵たらに、まわりに誰もいないのを見すかして言ったことがあります。「君たちは軍人であるより前に日本人なんだ。しかし、日本人であるより前に人間であることを忘れるな」と言いましたが、それは私の観念であり、私の言い訳にしかすぎませんでした。文字どおりあの軍隊と戦争は、そういった私たちの青春の観

 

念的な感傷を一挙に崩壊させ、押しつぶしてしまったのです。結局私が思うのに、確かにいろんな本を読んで勉強もした。 しかし、結局それは個人の思想の探求であり、個人の哲学の追及ではなかったのか。社会的なものに対して立ち向い、それを変えたりそれと闘ったりするのではなくて、そういう社会的なものをいつの間にか自分が受け入れて、そのなかで自分がいかに生きるか、自分がいかに死ぬべきかということを捜し求めた。それは結局個人の哲学でしかなかったのではないかと私は思います。

 

 皆さん方は読まれたことがあるかも知れませんが、岩波文庫で最近『きけわだつみの声』がまた出版されました。皆さん方の日教組では「教え子を再び戦場に送るな」。これが反戦の合いことばであったと思います。そして私たちは、その先生方のまたず―つと前の先生方に教えられ、軍隊に放り込まれ戦場に送られた一人でした。謂わば私も「わだつみの声」の一人です。このなかには私たちと親しくしていた者もいます。多くの同世代の者、私よりもっと若い者もいます。そういう仲間たちが書いた遺書がたくさん集められています。

 

 私はこれを読んで思いました。確かにみんな勉強はしている。私たちと同じように考えもした。そして最後には、まことに静かに自分の死を迎えています。しかしそのなかに私が読みとるのは、それがまことに苦しみに満ちたうめきの声であり、また絶叫の声でもあるということです。結局、自分だけの生と死を追い求めた1個の青年が、最後には社会の大きな力の中でつぶされていく、それに対する絶叫の書ではなかろうかと私は思います。

 

 私たちは、いまも新しい危険な動さが始まろうとしている時に、いろいろ勉強することも必要です。考えることも必要です。しかし、私たちがあの青春に行ったようなことを是非二度と繰り返きないでほしいということです。自分たらだけのことではなく、私たちを取り巻く社会はどのように動いていこうとしているのか、それに対して私たらは何をすればいいのか。それが大切なのです。もしそういうことでなく、ただ自分だけの哲学であり、自分だけの人生観であるとするならば、それはまた新しい危検な動きを素通りさせることになりはしないかということです。私たちが自分たちの殻の中に閉じこもって、自分たちの哲学・自分たちの人生しか考えない時に、戦争は足音をひそめて静かに私たちの思想のなかに入ってくるということを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

 

         <日本的ファシズムの思想>

 

 先程、私は1919年生まれだと言いました。自分はまだ若いつもりで、若い人と一緒に活動していますが、いつの間にかすでに67才になりました。私が物心ついて小学校に入ったのが大正15年ですから、まさに昭和の世代とともに生きてきた一人です。私はいわば、今日の主題である「日の丸」と「君が代」に、生まれた時から包まれながら育ってきたと言っても間違いではありません。勿論だからといって、私たち子どもの時に、「天皇」という

神さんがいてそれが一番偉い、などと思ったことはありません。私たちの頃には、学校の校門を入りますとたいがい右の方に「御真影」と称して天皇の写真をかざってある、見ることのできない奉安庫なるものがありました。校門を入る時に、気をつけをしてそっちへ向いて最敬礼しないで入るのを先生に見つかろうものなら、こっぴどくしかられました。「日の丸」はいつもそこに翻っていました。式になると、黒いフロックコートを着た校長先生がうやうやしく日の上に「御貞影」と数奇勅語をささげて私たちの前で朗読して

聞かせました。そうしてその勅語を暗唱させられました。

 

 しかし、小学校の頃悪童たちは後を向いてベロを出したり、あちこちよそ                           

見をしては怒られたものでした。 そういう悪童たちといつも一緒に歩いて帰つたのですが、ある時彼等は私にこう言いました。当時私はどうやら成積が良くて優等生らしく、級長か何かやっていたように思います。

 

「おい松江、天皇は神さんじゃいうが、天皇にゃ子どもがおろうが。どうして生まれたか知っとるか?」それが悪童どもの私に対する質問でありました。私は、「そりゃあ天皇じやいうても人間じゃないか。そりゃあ同じことよ」と答えたのを今でも覚えています。それを聞いたいたずら連中は、大声をあげて喜んで手を叩いてくれました。どうやらそれから私は、彼等の仲間入りを許してもらえたような気がします。

 

 しかし、そういったことがだんだん笑い事でなくなるような時代が、しだいしだいにやってきました。 もう「日の丸」とか「君が代」というのは、いつの場合でもそれを見る人ぞれを聞く人は直立不動で迎えなければならないという時代がやって来たのでした。

 

 こういう時代の中で、日本的なファシズムと言われる抑圧の構造というものは一体何であったのか、私は考えてみました。それは、決してナチスとかムッソリーニと同じではない。確かに共通の民族主義的な排外主義でありましたし、人権や権利一切奪い去るものでした。上から下へ締めあげる体制でしたけれども、そこには独特の日本的な構造があったように私は思います。それは一口で言えば、“集団的無意識”とでも言いましょうか。 例えば隣組でも、地域でも、一定の集団の中でもし誰かが「日の丸」とか「君が代」とか「天皇」について、あるいは「戦争」について、決してひどくはないがちょっと一口でも、批判とまではいかないまでも少しばかり遠慮がちな疑問を出したときにどういう状態がうまれるか。それに対して先頭を切って糾弾するのは当時の学校の先生であったし、或いは近所の床屋さんであったし、或いは神社やお寺の神主さんやお坊さんでもありました。或いは町内ではばのきく町内会長でもありました。そういう人達が、そういうことを言った人を糾弾したときに、他の多くの人々はどういう態度をとったか。自分がみずからそれに対して声を出して批判はしないけれど、それを糾弾することに暗黙の同意を与えていたということです。つまり、そうすることによって自分が批判者ではないというアリバイをつくっていた。 私は、これを仮に“集団的な無意識の思想”とでも言っていいのではないかと思います。そういう行動が紛れもなくあったと私は思います。

 

 あの当時、日本人のすべて一人ひとりが、自らすすんで「戦争万才!」と言って叫び歩いた訳ではありません。戦争に反対することがどんなことになるかということは、誰しも知っていました。しかし必ずしも、すべてがいいとは思っていない人もたくさんいました。しかし、ひとたびそれが口に出されて「異端者」とされた場合、周囲にいる者がみんな一緒になって暗黙の同意を与える、そのことによって自らのアリバイが立証されて自分が罪を免れる、そういう構造があったということです。そしてそういう暗い日本的なファシズムの頂点にあったのがタブーとしての「天皇」であり、その象徴が「日の丸」であり「君が代」であったのです。

 

 私は軍隊に放り込まれたと言いましたが、私はあの軍隊の構造をいま振り返ってみて、先程払の言った“集周的無意識”の、自己のアリバイ立証のために異端者糾弾に暗黙の同意を与えるというあの行動の極限が軍隊にあるのだということを経験を通じて直感しました。少しでもメシを多く食った兵長だとか上等兵だとかが“いじめ”をやる。その”いじめ”の対象とされるのは、どちらかというと人の良い者でした。それに対して、多くの者が黙っていながら実はそれに同意を与えて、一緒にいじめに参加させられる。軍隊の場合ほ強制的にいじめに参加させられたものでした。私は、軍隊の中にそういう暗い日本的なファシズムの構造の極点を見たような気がしました。

 しかしそれは果たして昔の事であろうかということです。いま日本は世界で最高の貿易黒字でどんどん成長を遂げてきた。世界で一番の技術革新。今富士山のふもとではロボットがロボットをつくっている工場がある。世界の産業用ロボットの半分を日本がつくつている。そういう日本の国の産業の中で、企業の中で、こういう“集団的な無意識”によって異端者を村八分にするような構造はないであろうか。或いは、皆さん方の学校の中で、そういう構造がまた息を吹き返してはいないだろうかということです。

 よく学校教育で問題になります”いじめ”。この“いじめ”というものはやはり同じような、形を変えたものでほなかろうかとさえ私は思います。そこでは、決して一人の子どもが一人の子どもをいじめるのではない。必ずそこには集団が形成される。そこに払いじめのリーダーがいる。しかし私が一番問題だと思うのは、リーダーではなく暗黙の同意を与えている子ども達です。そこにこそ戦前から潜んでいた暗い日本的な抑圧の構造がありはしないかということです。そして私たちは、戦前その対極にあつた「日の丸」と「君が代」、「日の丸」と「君が代」によって象徴される「天皇」、この問題をもっと検討してみなければならないと思います。

 

       <「日の丸」と「君が代」>

 

「日の丸」というのは皆さんもご承知でしょうが、「日の丸」の前身といぅのは、太陽をかたどった旗であると言われています。この太陽をかたどった「日の丸」の前身が権力の象徴として出来上がったのは紀元7世紀頃日本の古代天皇制が成立した時期です。それから先、いろいろこうした旗が使われましたが、古代天空制の崩壊と共にやがてそれはなくなりました。この「日の丸」が再び息を吹き返すのは、幕末です。一番最初に使われたのは、商業用だったかも知れません。改めてはつきり公で使われたのは、当時幕府に献上するため、島津藩が日本ではじめてつくった大型船の「昇平丸」が「日の丸」の旗を掲げて品川に入港した時でした。(1854年一安政元年三月)

しかし、この「日の丸」 がはっきり権力の象徴として、天皇のシンボルとして決められたのは明治3年の太政官布告です。そして早くも明治5年には、祝日・祭日に小学校で一斉にこの旗を掲げるよう文部省から通達されたのです。

 

 「君が代」はいったいどうなのか。「君が代」は本来『古今和歌集』にあった歌です。「わが君は/千代に八千代に/さざれ石の/巌となりて/苔のむすまで」「君が代」ではなしに「わが君は」という歌です。これは天皇を含む当時の上流階級、貴人達の個人的な祝い歌でした。それが普及して、多くの人々の中で歌われた祝い歌のようです。

 

 それが再びはっきりと 「天皇の聖なる歌」として復活したのは、明治政府樹立後です。 明治3年、天皇が観兵式をした時、それを迎えるためにフランス人フェントン作曲のこの歌が最初にうたわれました。そうして10年後には、天長節にうたわれるようになった。 そして、日清戦争の前年から一斉に、文部省の通達で小学校が祝日・祭日にうたうことになりました。

 ですから「君が代」「日の丸」は、あの明治革命の結果できあがった明治の政府とその中心にかつぎ上げた近代天皇制、その樹立と共にその歩みが始まったのです。そして始めは緩やかに、しかし次第にあからさまに激しく、この「日の丸」と「君が代」ほ絶えず侵略戦争の先頭に立ち、国民抑圧の旗印として使われるようになったわけです。

 今振り返ってみても、明治以来の80年は、殆ど戦争から戦争でした。台湾征討、つづいて日清戦争、日露戦争。大正に入ってからは、第一次世界大戦に便乗して中国の山東省を攻略する。それ以前に朝群半島に対する侵略が始まる。やがて日韓合併が行われる。またロシア革命への干渉戦争。そうして昭和3年には「満州事変」の火ぶたが切られる。宣戦布告のない15年戦争が始まる。そうして、昭和12年には全面的な中国侵略戦争が開始される。

昭和16年にはアジア・太平洋戦争へと一路突入していった。こうした数々の侵略戦争の先頭に掲げられていたのがこの「日の丸」であり「君が代」です。

 よその国にもいろいろ国歌があり、国旗があります。例えばフランスの国旗と国歌は、フランス革命の中でつくられました。あの三色旗は、そのフランス革命の象徴の旗色です。「ラ・マルセーズ」はその時のたたかいの歌です。アメリカは、新しくあの大陸で独立する戦いの中でつくられた国旗と国歌を持っています。イギリスでさえも、「神よわが皇帝を守り給え」という日本訳で始まるあの国歌でさえ、3節目では「神よ、わが王が法律を守るようにさせ給え」という歌になっています。それは、幾度か国王を死刑に処してきたイギリスの歴史がつくった歌であります。そして、あのヒットラーの時につくられたドイツの国歌、「世界に冠たるドイツ民旗…」という言葉で始まるドイツの国歌。今では、12節は歌わないで第3節以降を歌うようにしているのです。そしていずれも、このような近代国家は法律で国旗と国歌を定めました。

 しかし日本は、「日の丸」も「君が代」も明治以来法律で定めたことはありません。儀礼の歌として「君が代」は始まり、「日の丸」は外国の船と識別するために使われてきました。侵略の血に塗られた真赤な「日の丸」の旗。

それはまだ一回も法律で国旗として制定されたことはまありませんし、また戦後も制定されたことはありません。「君が代」もまたしかりです。特に「君が代」に至っては、あの時代錯誤の歌を、彼らはさすがに国歌として提案することにいささかの躊躇を感ぜざるを得なかったということもあります。

 国旗にしろ国歌にしろ、一口に「国民」の旗、「国民」の歌という形でひとなでにすることはできません。最近さかんに「国民」的ということばが使われます。しかし、「国民」 という言葉が使われ出したのは、日本が侵略戦争を始めてからです。明治初期の自由民権運動の時代に多くの人々が「われわれのための憲法を作れ!」と言った時、彼等は 「人民」という言葉を使いました。天皇は、「臣民」という言葉を使っていました。そして大正に至って「国民」という言葉が普及しました。戦争をすすめるのは「国民」的な課題である。それをしない者は「非国民だ」と言うわけです。戦後「国民」ということばが再び復活しました。私は未だにメーデーの挨拶で「国民」ということばは使わないことにしています。「人民」 ということばを使うことにしています。 なぜかしら今では「人民」というと特別な人間が使うように見なされ始めているのではないでしょうか。では 「国民」という言葉は一体何なんだろうか。「国民的な」ということは一体どんなことだろうか。結局、「国民」ということばは、支配と被支配ということをゴマ化して「君民一体」の共同体的な同一性を表現することばです。ナショナリズムの主体であり、中曽根のいう“日本人のアイデンテイ”のうつわなのです。それは、どの階級がいつ提起するかということによって異なるのです。 戦時中、日本の軍部と支配者たちはその「国民」という名を使ってあの「大東亜戦争」、15年戦争をすすめました。その時の「国民」とは、まさに彼らの立場からの「国民」でした。従って、それに反対して平和のためにたたかう者は「非国民」とされたのです。フランス革命では、当時の新しい階級が自らを解放するためにたたかった、そういう形で彼等はフランスの 「国民的な」課題を提起したのです。 しかし日本では、あの戦争中侵略戦争のために掲げた「日の丸」そのためにうたった「天皇を称える聖なる歌」、それを今あたかも国旗と国歌であるかのように、彼らのいわゆる「国民的な」ものをわれわれ人民に押しつけようとしているのです。

 

        く戦後の天皇制は>

 

 中曽根はつい先だってもテレビでしゃべっていました。「勝っても国家、敗れても国家、栄光と汚辱を一身に裕びるのが国民だ」と。そうして日本人のアイデンティティを説きました。国家のために死ねるもの、それが国民なのだと彼は言いました。いったい、彼によって代表されるこの思想はどこから来たのか。 今日までどのような変遷をたどって来たのか。今なぜいわゆる“新国家主義”の思想が押しつけられようとしているのか。

 

 先程、私は中曽根と一つ違いで同時代だと言いましたが、はからずもある一人の教授を通じて私と中曽根が真反対の立場から関わったということを、つい最近若い政治学者が調べて教えてくれました。当時私たちのいた大学に矢部貞治という政治学者がいました。 彼はまもなく近衛新体制、つまりヒットラーのナチスを頁似た一党独裁の体制を貴族の総理大臣である近衛が考えた当時そのブレーンになった男です。私たちは、この矢部貞治の政治学の講義を聞きました。 それはまさに、大東亜共栄圏の政治学でした。私たちのグループは彼をボイコットすることに決めました。以後、二度と彼の講義は聞さませんでした。 ところが最近わかったのは、中曽根はこの矢部貞治の愛弟子であったということです。だから、中曽根が戦後最初に自分の郷里から衆議院に立候補した時に、矢部貞治は駆けつけて応援をしていますし、又、中曽根は矢部貞治の著作集の編纂委員長もやっている。そして矢部貞治がやった後を受けて、中曽根も拓大の総長をやりました。 つまり、彼と矢部貞治は切っても切れない関係にあるということを、つい最近私は知ることができたわけです。

 そこで矢部貞治の思想とは何か。一口で言えば国民共同体論であり、共同体国家思想とでも言いましょうか。 つまり、国家というものは国民一人ひとりの共同体としてのみ真に国家でありうるのだという考え方です。それが矢部貞治の国家思想であり共同体論です。彼はその政治学を使って、大東亜共栄圏政治学を作りあげました。それで結果中曽根は、この矢部貞治の共同体国家思想を継承しながら、それを焼き直して、いま日本の支配者たちが必要としている新しい国家主義を作ろうとしているのです。

 ところがこの共同体論は、中曽根が戦後初めて言い出したわけではないのです。それ以前がある。ぞれはいつか。 815日の敗戦の直後です。815日、みなさんご承知のようにポツダム宣言を無条件に認めて降伏した。

しかし、無条件と言われるあの降伏の中に、たった一つだけ条件があった。それは「天皇」の護持です。「国体」護持です。神権天皇制を中心とした国体を護持する、この一点だけが当時の支配層が守ろうとした条件でした。 そして、マツカーサーもアメリカもそれを受け入れて、条件付きの無条件降伏を認め、やが′て戦争は終わったのです。

 あの815日当時の支配層のやり口は、まさにク−デタ−です。 日本人のすべてが途方に暮れて自分が何をしていいのかわからない。 そういう空白状態の中で、被らは何とかして戦前の天皇制、戦前の憲法をそのまま継承しながら、その一点だけをとどめてほかはすべて連合軍の言いなりになる。無条件降伏と言いながら、実はそういう条件つきの無条件降伏で、再び自分たちの支配を続けようとしたのです。そして、天皇や国にたてつく者を処罰する治安維持法を依然としてつづけていこうとした。 815日から1カ月もたたない時に山崎内務大臣がそのことを記者団に対して明確に話しています。

それは、当時日本の支配層が、下からの支配階級に対する批判や闘争が起きることを恐れて、いちはやく自分たちの主導権で新しい日本を、彼らにとって一番大切な神権天皇制を中心としたその体制をそのまま引き継いでいこうとしたクーデターでした。 そのクーデタ一は、やがて占領軍からの反撃を受けました。と同時に、日本の国内の労働者・人民の闘いによって反撃を受けなければならなかった。その時に登場したのがこの共同体国家思想・国民共同体論でした。

 結局どういうことなのか。今までは天皇が日本の人民を治めていた。それではいけない。君民一体である。天皇も国民の一人である。天皇を含めた一人ひとりが新しい日本の国をつくる。それが、神権天皇制から象徴天皇制へとなしくずしに転向していった図体護持論の行先だったのです。一部の右派は、一生懸命無条件の団体護持をやろうとしました。反対に、労働者・人民からは反撃が起こりました。当時最初の食料メーデーでは、「朕はたらふく食っている。汝、人民飢えて死ね」と書いたプラカードが立ちました。「天皇空の台所を襲え」という声もありました。そういうなかで当時の支配層は、この国民共同体論によって神権天皇制から象徴天皇制へと転向することにより、「非政治的」な天皇によって政治的に統合する、こういう新たな支配のシステムを作り出したわけです。

 当時の記録に載っていますが、衆議院議員をやっていた自民党の北玲吉が「これで天皇も皇室も安泰になった」と語っています。それが実は国民共同体論でありました。それは、危機に陥った天皇と天皇制を、象徴天皇制へと転向させることによって、一見「非政治的」な天皇でありながら、実はその天皇によって新たにイデオロギー的、政治的な国民統合をすすめようというものでした。そうしてこの考え方は、当時の支配層だけではなしに、革新という名前で実はいつでも支配層と野合する一部の右翼的な「革新」の指導者たち、それを含めた思想的な共同戦線として出来上がったものでもあったのです。こうして「神権天皇制」はみごとに「象徴天皇制」として救い出されました。彼らがまず天皇にやらせたことは、地方をまわるということでした。

広島にも来ました。 そうすることによって、「人間天皇」と称する「非政治的」なシンボルにしたのです。その後隠忍自重して40年、いま彼らはどうしても必要となったこの象徴天皇制を、改めて政治的な統合のシンボルとし公然と担ざ上げなければならなくなったわけです。

 

         <新国家主義とは何か>

 

 確かに日本の資本主義はずいぶん発展しまし。 技術もずいぶん発展しました。しかし、いま彼らが一番困っているのは、どうして支配の方向に日本の人民を統合するのかということです。戦前は、天皇という統合のシンボルがありました。次第に経済的な危機が深まり、矛盾が潜行し始めている。労働者や多くの人民が今は静かにしているが、もうどうにもならないという経済の危機の深まりがしだいしだいに拡がっていくという状態のもとで、たたかいが起きたらどうするか。予防的に先制的にそういう動さを封じるために彼らはシンボルを必要としたのです。そこには、「神権天皇制」から転向した「象徴天皇制」があります。「非政治的」な天皇制があります。彼らは、自分たちの低下してさたイデオロギー的な権威の補強装置としてそれを使わなければならなかったのです。そのために中曽根はいくつかの操作をしました。私たちは中曽根の“新国家主義’’を戦前と同じだと考えたら間違いです。

また、昔のファシズムがやって来たたといえば、余りにも単純過ぎます。彼らはそれほど単純ではありません。何故ならば、今日日本の資本主義経済はすさまじく発展しています。先程も言ったように、技術的にも世界の12位を争うようになっています。貿易も大黒字です。

 そういう状態のなかで中曽根は、一方では昔の国家主義の形を変えた天皇制を担ぎ出すと同時に、片方では、高度に発達した管理社会があります。そういった管理社会と古い.天皇制思想或いは国家思想を混ぜ合せて、新しい国家主義をつくる必要に迫られたのです。もし彼らが高度に発達した技術を中心とした管理社会を完全に無視して、昔と同じような天皇制をかつぎ出そうとするならば、恐らく一見おとなしく見えるいまの現状でさえ、はっきりした批判が吹きでるでしょう。彼らは巧みに、現代の高度な管理社会と結合した新しい国家主義としてそれを生み出そうとしているのです。

 もう一つ彼らは手直しをしました。 戦前の日本は、アジア・太平洋の国々を侵略してきました。しかし、いま彼らはそれを昔のようにはすることができない。しかし実際には、経済的に侵略している。それをもっと甘い砂糖でまぶさなければならない。 そこに彼らは“国際国家”という概念を持ち出しました。高度管理社会と旧式の国家主義とを融合・結び合わせた“新国家主義”、それを日米核軍事同盟と矛盾がないように繁ぎ合わせるためには、彼らのいわゆる“国際国家”という道貝を持って来なければなりませんでした。そういうものとしていま中曽根は、“新国家主義”を振りまいているわけです。

 そういう立場から彼は、栄光も汚辱もすべて国民が一身に担わなければならない、敗北しても国家、勝利しても国家、まさに日本人のアイデンティティを我々は明らかにしなければならないというのです。彼は、そのアイデンティティの象徴・シンボルとして、あの転向した天皇制を再び政治的な統合のシンボルにしようとしているのです。それが、今日天皇制が再び担ぎ出され、「日の丸」と「君が代」が再び打ち振られ、歌われようとしている理由です。

 

 そのためにも中曽根は、レーガンやサツチャーの真似をしながら、急いでいま首相権限の強化を行っています。いま、国際的にも経済危機が深まるなかで、政党の政策媒介機能が非常に低下しています。従ってまた議会の地位が低下しています。高度成長時代には、政党の訳活躍によっていろんな予算がばらまかれました。経済危機になりますとなかなかそんなことはできない。

危機の深まるなかで、予算を手段にして政策を媒介する機能が低下する。議会地位が低下する。そういう状態の中で、レーガンもサツチャーもトップの権限強化をしているのです。明らかにレーガンも、アメリカの国家に対して自らの権限を強化していますし、サツチャーもしかりです。それを“新保守主義”というふうに呼んでいます。中曽根はまさに“新国家主義”に基づいて、国際的な“新保守主義”の日本版を作ろうとしているのです。

 皆さんもよくご存じの行革がそうです。 教育臨調がそうです。今まで予算編成は大蔵省が中心でした。しかし、「行革」というかけ声で作った行革審。

中曽根の好みで適当に人を集めて、答申に従っているようで実は中曽根が吹き込んだ思想を裏返しにして答申させ、道具として審議会を使いながら次第に大蔵省のお株を奪い、首相権限で予算を左右するという傾向が強まっています。また、今度は教育臨調を作ることによって、文部省の機能を、同じような選り好みの審議会を通じて自らの首相権限の中に取り込もうとしています。

 

 いま中曽根は、国家にとって最も重要な行政と財政と教育、この三つを一手に握りしめようとしているのです。それはまさに今日の経済危機を始めとして、世界全体が安泰のように見えて実はは多くの波乱が予想される、そういう新しく変化していく情勢の中で、いざという時の予防反革命的な立場から首相権限、大統領権限を一層強化していく。そういう動さの一環として、彼は“新国家主義”を位置づけようとしているのです。そして彼は、それを着々と進めてきました。

 それは、中曽根が総理大臣をやめたら全部御破産になると思ったら大間違いです。中曽根は明らかにレールを敷きました。 しかし、それは単なる中曽根個人の好みではない。戦後40年経った日本。アメリカの傘の下でそのお陰でもっぱら儲け、諸外国に経済的な侵略をすすめてきた日本。その被らの日本がいま新しい矛盾に直面しようとしている。その内の一つは、辞済の発展にも拘らずそれに見合う政治的、軍事的な構造が弱い。これを何とか強めねばならぬ外国からどんどんお呼びがかかる。日本も仲間入りしないと困る。そういう声を巧みに彼らは利用しながら、何としても日本で世界の12位を争う経済発展にみあうような政治梼造と軍事構造をつくりあげようとしています。 経済と軍事のギャップを彼らはいま埋めようとしているのです。

これは単に中曽根だけではありません。中曽根を個人的に非難する多くの派閥の領袖たち、いや財界の諸君や日本の支配層は、場合によっては中曽根を切っても中曽根が切り開いたこの新しい水脈を何としても守り、もっと拡げていかなければならないと彼らは考えています。それは、戦後40年経った日本の国家のいわば矛盾であり、いま国際的な危機を前に、新たに再構築しようとしている彼らの本来の国家でもあるわけです。彼らはこうして新しい国家主義を国民全体のものにしようとしているのです。私たちは、そういう状態のなかで一体何をしなければならないかを考えねばなりません。皆さん方に一番身近な間題は、今度の教育臨調の問題があります。いったい今日の数育の問題は、何から生まれて来たのか。

 

 

          <教育臨調との闘い>

 

 今日、日本の多くの労働者、その多くの労働者が携わっている日本の生産過程の中で一体どんな状態があらわれているか。そこでほ、昔のような働の連帯はありません。働く者の労働はズタズタに分断されています。 そこでは何がいったい出来るのかはっきりわからないままに、細かく細かく分断された仕事を、ただ結論的に果たしていくだけの仕事を迫られています。彼らにとっては、全体を知る必要はないのです。 自分の労働と他人の労働がどうつながっているかを知る必要もないのです。ただ自分に与えられたごく小き556を過ぎています。昔は良かった。仕事も皆でいっしょにやった。78人で仕事を一緒にやった。仕事が済んだら呉線で通う人も含めて駅の近くの一杯飲み屋に行っ皆でいっしょに焼酎をひっかけたものだ。ところが今はそうじやない。さあ仕事が済んだ、一杯行くかと言うと、ある若者はひとり下宿へ帰ってギターをひくと言うし、ある者は仲間と一緒にマージャンをやると言い、またある者ほ好きな人とデートすると言う。そこには仕事の連帯もないし、人間の連帯もない。下請けの中小企業ですらそういう状態が生まれてきている。それが今日の技術が生んだ日本の産業社会、それを中心にした日本の社会です。そういうなかで生まれ育った子どもたち。ある時には「自殺」という形で現れたり、ある時には「暴走族」という形をとって現れる。そうして自分のアリバイのために集団で人を差別することによって、何かしら自分で安心感を得なければならない程、せっぱつまって追いやられている子どもたち。これは子どもたちの世界であって、実はその奥底に大人の世界があるのではないでしょうか。

 そういうなかで今回の臨調イデオロギーの中心は、「自由」と「個性」 です。いったいどこに「自由」 があるというのでしょうか。どこに「個性」というものがあるのでしょうか。結局それがないが故に、被らは言葉として概念として擦りかえることによってゴマ化そうとしているのです。 教員研修を強化しながら、適格審査によって、まず教員のなかに資本主義的な競争原理を持ち込もうとしているのです。それはまた彼等にとって組合つぶしの最上の手段でもあるのです。

 私たちは、行革の闘いのもたらした教訓を決して忘れてはなりません。彼らはまず、やり方や進め方はいろいろ意見があるだろうが、行政改革は必要なのだ、これは誰しも反対ではないであろうということで、まず、国民的な合意を取り付けました。外堀を埋めたのです。そして次には、いつの間にか行革を行う主体としての行革審を作り上げました。今度の場合にも、ともかくいろいろ意見はあるだろうが、教育の改革が必要ないという者がおるであろうか。こう言って、彼らはまず国民的な合意を取付けようとしています。 そして、今度は文部省がなるか新たに審議会をつくるかは知りませんが、教育臨調を実践するための行政主体を作ろうとするに違いありません。

 しかし私たちにとって必要なのは改革一般ではないのです。何をどのように改革するのかということです。大変な課題ではありますが、皆さん方が毎日の教育実践のなかで現場を基礎にして、今までの教育を内から乗り越える新しい教育の体系の構築を目ざして運動をすすめられることを心から期待するものです。

 

   <「荒れ野の40年」−−ヴァイツゼツカー―>

 

 私は最後に皆さん方に申し上げたいことがあります。皆さんはご覧になったことがあると思いますが、これは『荒れ野の40年』というヴァイツゼツカー西独大統領の演説の全文です。『世界』に一部出たことがありますが、岩波がブックレツトのなかでこれを出しました。これは割合に広く読まれているものです。この中で必要な箇所をごく簡単に皆さんに紹介しておきます。

このヴァイツゼッカーという人は、1920年生まれですから私より一つ若いのですが、彼もまた私と同じように、ドイツの軍隊に学生兵として動員されました。そうして戦って私と同じように兄を殺されました。彼はキリスト教民主党出身です。いわば保守党です。そこから選出された現在の西ドイツの大統領です。

 ドイツの終戦は58日です。彼はこの日国会で、ドイツ人だけではなしにヨーロッパの人々に向かってこう呼びかけています。「たいていのドイツ人は自らの国の大義のために戦い、堪え忍んでいるものと信じていました。ところが、一切は無駄であり、無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであったということが明らかになったのであります。彼ははっきりとこう言い切っています。

「きょうというこの日、我々は勝利の祝典に加わるべき理由は全くありません」194558日が、ドイツ史の誤った流れの終点であることを彼は確認しています。そうして彼が誠実且つ純粋に思い浮かべることを提起している多くの人々がいます。それは、ドイツがつくり出した暴力支配の中で倒れたすべての人々を悲しみのうちに思い浮かへることです。彼があげているのは、600万人のユダヤ人、次にはソ連・ポーランドの無数の死者です。

次には兵士として倒れたドイツ人の同胞、そして虐殺されたジプシー、殺された同性愛の人々、殺害された精神病者、宗教或いは政治上の信念のために死ななければならなかった人々、それから銃殺きれた人質。そうしてまた、広くドイツに占領されたすべての団のレジスタンスの犠牲者に思いを馳せると彼は言っています。そうしてドイツ人としても、レジスタンスをたたかった人々、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス、これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ敬意を表します。良心を曲げるよ

りはむしろ死を選んだ人々を思い浮かべます。

 彼はこうして、あのドイツ軍の行った暴力的な支配が虐殺した多くの人々に敬戮な祈りを誠実なキリスト者として棒げているのです。彼は決して革新ではありません。 彼はドイツの保守党から選ばれた大統領です。

 私たちは、これを彼の特別な個人的な性格の故だとするわけにはいきません。いったい、日本のかつての総理大臣が一人でも、南京の虐殺を始め何百万という中国の民衆を殺したことを思い浮かべ、或いは東南アジアまたは南太平洋で殺 した人々や焼き払った町々のことを心から思い浮かベて悔いを新たにした人があったでしょうか。彼等のなかで、長い間しいたげ、抑圧し、虐殺した朝鮮や韓国の人々に心からの詫びをあらわしたものが一人でも居るでしょうか。 誰一人としていないのです。それどころか中曽根は、あの日を期して、栄光も汚辱もすべて国民だ、勝っても負けても国家だと言いながら、再び靖国神社を公式に奉ろうとしているではありませんか。私たちはこのようなことを決して許してはなりません。

 

         <過去に目をつぶるな>

 

 かつて広島は、40年前に原爆を受けました。私もたった一人の兄を殺され母を殺されました。私の知ってる多くの知人や親戚も失いました。多くの広島の人々或いは呉の人々も空襲で人々を殺されたに違いありません。しかし、今までの私たちの反核運動はいったいどうだったのか。私は今でも思い出しますが、第一回世界大会の時に、あの平和公園で公会堂が満員になって

開かれたあの第一回の時に、「被爆者は生きていて良かった」と言われました。人々は涙を流して、この被爆者のことばを味わいかみしめました。しかし、あの第一回世界大会の中でただの一人でも朝群人被爆者のことを口にした者がいたでしょうか。いなかったのです。それほど、あのビキニの運動は非常に広く大きなものでしたが、国民主義的な性格をもったものでした。だからこそ官民一体であり、右も左も一緒に運動がすすめられたのです。朝鮮人被爆者のことが問題になったのは、70年代になって、戦後はじめから私達と一緒にたたかい続けて来た被爆者協議会の会長をしている李実根君が、原水禁開会総会の時に初めて二度にわたる日本帝国主義の犯罪を告発した時でした。

 私たちはもう一度、払たち自身の反核運動を考え直さなければなりません。

いつの問にか私たちは、歴史の中からあの86日を分断して取り出していたのではないでしょうか。あの原爆の巨大な破壊は、いつの間にか我々から歴史を奪ったのではないか。あの原爆が落ちる1分前に広島の人々は何をしていたのか。 我々は何をしていたのか。呉は大空襲を受けてた。その寸前まで多くの人々は一体なにをしていたのか。私たちはそれを考えなければなりません。あの空襲もあの原爆も、15年以上にわたる日本の侵略戦争の歴史的な帰結であることを。もしそうであるならば、私たちほ再び86日を歴史のなかに返さなければなりません。歴史から分断しないで。

 あの原爆と戦争をもたらしたファシズムの主要な支柱の一つであった日本帝国主義が過去に犯した多くの罪、アジア・太平洋の人々を虐殺し、多くの町々を焼いたそのことを、私たちは(私はあの時すでに26才でしたけれど)経験のない人々に伝えなければならないのではないでしょうか。ヴァイツゼツカーもそれを言っています。確かに今の若い人達は、個人的体験的に言えば責任はない。しかし、それがもしドイツ人の歴史であるとするならば、私たちは経験した者も経験しない者も一緒になってその責任を考えねばならないのではないか。伝えていかなくてはならないのではないか。その思いが、ヴァイツビッカーにあの演説をさせたのです。

 彼は最後にこう言っています。「過去に日をつぶる者は今が見えなくなる」と。確かにその通りです。私たちは、いまのためにこそ決して過去に目をつぶってはいけない。日本帝国主義がどんなに残虐に人々を殺したのか、私たちほその思いをこめて反戦・反核を闘わなければならないと思います。もしそうでないとしたら、私たちは中曽根と同じことになるのではないか。勝っても負けても国家だと言い切る中曽根、栄光も汚辱も一身に浴びるのが国民だと言う中曽根、中曽根の言う国家と国民の枠の中に連れ去られてしまうのではないか。 私たちは、私を含めて過去に皆さんの先輩たちが犯したあやまちを二度と繰り返してはいけない。過去に決して目をつぶらず、私たちはいま次代に向かってはっきりと大地を踏み出さなければならないのではないか。

 

 <いま、われわれは何を>     

 

 もし日本的なファシズムが、私が先程言ったように異端者を無意識のうちに糾弾することによって自己のアリバイを立証しようとするようなそういうものであるとすれば、それほ一人ひとりの自覚的な自立がないところから生まれたと言わなければならないでしょう。近代を駆足で通り過ぎた日本の歴史がもたらしたそういう構造、その構造をそのままにして世界第一の技術革新の国になろうとしている。そういうなかにいる私たちがあやまちを犯すまいとすれば、私たちは、改めて一人ひとりが自立しながら新しい連帯をつくっていかなければならないのではないか。団結も結構です。大切です。しかし、その団結が一人ひとりを擦りつぶすようなものであるならば、場合によつては同じあやまちを繰り返さないとは限らない。

 

 大切なのは結果ではない。どんな方法でどんな過程で、私たちが新しい私たちの砦をつくるかということです。しかしそれは、決してお先真暗ということではありません。中曽根がやっていることをごらんなさい。彼はアメリカヘ行ったら軍備を拡張すると言います。しかし東南アジアをまわった時には、決して日本は軍事大国にはならないと言っています。彼は日本の国民には非核三原則を守ると言います。国連へ行けば核廃絶と言います。そうして、アメリカヘ行けば軍備を一層強化すると言い、日本の国内に軍事基地をつくつているのです。

 今日の日本の支配体制のアキレス鍵は、残念ながら日本の国内というよりかあのアジア・太平洋の民衆です。だから彼は、靖国参拝を中国から指摘されるとあわててすぐ引っ込める。 南京大虐殺の扱いがおかしいと言われると、またその書き直しをする。何故それがアキレス鍵なのか。彼らは今まで、アジア・太平洋を暴力の限りを尽くして支配してきた。そっくりそのままの構造を今後も引き継ぐことによって日本の人民を支配し、また新たな経済侵略、軍事同盟をつくろうとしているからです。だからこそ私たちは、アジア・太平洋の民衆としっかり手を結びあいながら、中曽根の“新国家主義"を打ち倒すために闘わなければなりません。それが私たちの任務ではないでしょうか。

 今日の厳しい情勢の中で、労働運動が発展しているというわけではありません。停滞しています。一人ひとりが首を上げてみては、どこも持っていないと思ってまた首を引っ込めています。いま我々は、何とかしなければならないと思う自覚的・自立的な人々がお互いに横に手を取り合って、新しい砦を築かなければならない大切な時だと思います。特に教育戦線にある皆さん方は、また新たな臨調の教育攻撃に対して、皆さん方の教育現場を砦にしながら横に連帯を深めてたたかっていかれることを心から期待するものです。

 私も67歳だとは言いましたが、まだまだ元気です。明日も反トマの闘争で呉に来ようと思っています。今後とも、広島でも呉でも、若い皆さん方と一緒にたたかい続けるつもりでいます。

 

 どうぞ皆さんが今後一層連帯を深めて、いまの困難な情勢の中で一歩でも二歩でも、私たちの砦を拡げてたたかってゆかれることを心から期持して私のつたない話を終わることにいたします。   (1986628講演in呉)

 

 

  ★★★ 関係図書の紹介 ★★★

 

『ファシズム』 山口定著 (有斐閣選書) 1500

『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』 (地歴社) 1200

『天皇・天皇制の慶史』 井上活著 (明治清書店) 980

『日本の思想』 丸山真男著 (岩波新書) 480

『現代日本の思想』 久野収・鶴見俊輔共著 (岩波新書) 430

『日本史(現代)』 大江志乃夫著 (有斐閣新書) 560

『昭和史年表』 神円文人鳥 (小学館) 950

『昭和時代年表』 中村政則著 (岩波ジュニア新書) 650

 

 

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