広兼主生著作リスト


No. 1
標題:国労運動の発展のために/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労働運動研究
巻号:214/刊年:1987.8/頁:39〜41/標題関連:JR移行後の労働運動


No. 2
標題:「四〇年」を躍進のステップに/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労研通信
巻号:9/刊年:1985.5/頁:2〜4/標題関連:


No. 3
標題:国鉄はなぜ赤字副標題:大資本と政治家がよってたかって食いもの/No:
著者:広兼主生/誌名:ひろしま市民新聞
巻号:136/刊年:1982.9/頁:4〜6/標題関連:


No. 4
標題:国鉄分断・民営化と大量解雇に反撃するために/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労研通信
巻号:15・16/刊年:1985.12/頁:2〜5/標題関連:


No. 5
標題:まずやってみて次の手を/副標題:政権交代を展望する/No:
著者:広兼主生/誌名:新時代
巻号:245/刊年:1993.4/頁:3/標題関連:


No. 5
標題:重要な議会選挙対策副標題:松江案についてNo:
著者:広兼主生/誌名:新時代
巻号:242/刊年:1993.1/頁:3/標題関連:

 


   まずやっみて次の手を―政権交代を展望する―

  広兼主生  「新時代」   1993.4.15245      PDFファイルからでも見れます

【一】

 第七回臨時党大会は新規約を採択し「『マルクス・レーニン主義』の時代は終わった」と宣言した。これは誠に重い決定で、私の周囲の同志間でもその解釈は様々である。

 私は二年ほど前、「偉大なマルクスやレーニンもすでに歴史的存在となった。その卓越した学説も時代を超えて通用しえない。」と本誌コラムに書いた。だが、ふり返れば十年近くも前により斬新な意見はすでに出会っていた。

 「発達した資本主義国における革命の問題は、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東の系譜では、未解決の問題である。先進的な資本主義国に住むわれわれは、その革命過程を模索しながら、自由と民主主義の問題の創造的解決を迫られているのである」(『労働運動研究』八四年九月号「独裁とヘゲモニー」佐和慶太郎)。そこにではプロ独裁に代わるグラムシ、トリアッティの「知的道徳的ヘゲモニー」を基礎とする民主的な社会主義像が探求されている。

 もちろん党内外に早くからグラムシやローザ・ルクセンブルクを評価する立場からの意見も多かったが、この前年に起きた大韓航空事件についてさえ党全国委の一致した評価が得難い状況の当時、共産主義者として「マルクス、レーニン・・・・・の系譜」と距離を置いての明確な立論は卓見であった。

 マルクスの天才的学説は、実験室で初期資本主義のエキスを分析して標本にしたような貴重な教材である。この偉大な教典も、そのままで次元の異なる現代の生きた政治的・社会的指針とはなりえない。これはレーニン主義や毛沢東思想についても同様だ。これを取り違えると『事実は真理の敵だ』と嘆くことになってしまう。

 冷戦は形を変えた第三次世界戦争だったと言える。四十年以上も続いた戦いが終わり、世界はいま新たな戦後を迎え、戦中と異なる新秩序、東西対立に代わる新時代に移行しつつ、その陣痛に喘いでいる。民族抗争、宗教対立等々いっきょに噴出した諸矛盾の交錯するなかで、帝国主義の世界支配も「国連中心主義」のベールの下で再編成されつつある。

【二】

 すべての政治組織は、基本的に、それぞれの階級的利益を代表しているが、現代の「民主政治」は、当然のことながら広汎な世論に依拠せざるをえない。したがって大衆的支持が政党の生命であり、「大衆との結合」はどんな党にとっても重要なのである。国民は決して『衆愚』ではなく同時に賢者の集まりでもない。そこに代議制を原則とする近代政党の役割があり、へゲモニー争奪戦がある。そしてしばしば「金と権力」が介在することも・・・・。

 わが国の政治・経済・社会全般にわたる民主的改革を求めるとき、その第一歩として、一党独裁にも等しい自民党政権の力を弱め、さらにその打倒を目指するのは当然だ。が、それは多様な政治勢力の協力共同を抜きにしては不可能だ。

 だが、それぞれの政治的力点も時間と共に動く。「左翼」の場合、長らくその根底にあった“親ソ・反米”は消え、安保、自衛隊、原発さらにPKOも条件つき容認に移りつつあり、改憲問題さえタブーでなくなった。反核、反安保、反独占人民解放を掲げ続ける私たち共産主義者との落差は大きい。それでも尚、反自民統一戦線という戦略目標に献身することは当面の重要課題だ。「難題だが、今この多様な運動、理論、異質な経験を包容し、統一を探る英知と粘っこい活動が求められるとき」(本紙三月号、火花)であろう。

 古い話で恐れ入るが、三十数年前、日共の「綱領論争」で、当時の構造改革論を宮本派は「なし崩し革命論」だと攻撃した。革命を食うか食われるかの決闘ととらえるkぁ、民主的改良の積み上げに求めるか。古くて新しい問題だ。周知のように日共はやがて方向転換するが、「なし崩し」路線に不可欠な統一の思想やそのための妥協や寛容さを日共に求むべくもなく一層孤立化を深めている。まさに「他山の石」だ。

 問題は、新しい政治的潮流が有力な反自民勢力を創り出し、仮に「政権交代」が実現したとしても、それが直ちに民主的革新の推進力となるかどうか、それは予測できない。だが、いまは先ずやってみて次の手を考えると云うことである。

 終わりに、私ごとで恐縮ですが、全国委の末席を汚しながら長期療養のため皆様にご迷惑ばかりおかけしており、心からお詫び申しあげます。


重要な議会選挙対策  松江案について

   広島 広兼主生

                「新時代」1993.1.15 242

 

本議案は難しい内外情勢を簡潔によくまとめられており、基本的に異議ございませんが、「(4)当面する日本情勢とわれわれの緊急の課題」について意見を述べさせて頂きます。

 現在わが国において政治的課題に取り組む場合、現実に国および地方の議会を無視することはできません。だが私たちは長い間「議会の役割を重視する」としながらも、その「革命的観点」から、これを決して第一義的なものとして位置付けたことはありませんでした。しかし現代の民主的改革路線では中央・地方議会の任務は決定的となりました。緊迫した今日の情勢から、直ちに大衆行動と世論喚起を組織することはもちろん重要ですが、そのためにも「党」としての直接的な議会対策(選挙を含む)がなによりも必要ではないでしょうか。また少なくとも「政党」である以上、それは大衆に対する責務でもあります。

 総選挙を来年に控え、国と地方の議員選挙対策(独自候補、共同・推薦候補を問わず)全国委として(また全代会議において)ぜひご検討頂きたいと存じます。そのため極めて少数ですが、貴重な党の現議員の経験と教訓を組織的に生かして行く

方途を講じる必要があるのではないかと痛感しております。


No. 6
標題:新しい質の運動を/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労働運動研究
巻号:299/刊年:1994.9/頁:48/標題関連:


新しい質の運動を    広島 広兼主生

本誌八月号(第298号)で松江 澄氏は、今年が日清戦争一〇〇周年にあたり、その後日露戦争、第一次大戦、日中戦争から太平洋戦争へ経て敗戦に至る「五○年戦争」を概括し、その侵略戦争基地としての軍都広島の「加害者責任」を鋭く指摘しています。これは今後の運動の重要な指針となるでしょう。
 また長崎市長の本島等氏は「二〇世紀とは・・・・前半は戦争と革命の時代で、後半は米ソの際限のない核開発の時代、地域紛争の時代・・・・・。(この間に)五千万人が虐殺された、人間のごう慢の時代」(毎日新聞)であったと述べてます。
 二一世紀を目の前に、誰しも「この二〇世紀とは?」と考えざるをえませんが、私はロシア革命からソ連邦崩壊に至る国際共産主義運動の壮大な(同時に悲劇的な)実験の歴史だったことが頭から離れません。わが国の場合だけ見ても、来るべき社会の解放と発展を目指した幾多の有能な人材がその生涯を捧げて祟った闘った現実。それは極めて貴重な教訓だと思います。
 もちろん、これらは簡単に総括できるものではありませんが、そこには凝縮された崇高な人間の生命がかくされております。いま戦後半世紀、二一世紀を目前にして、こうした足跡を大切に、それが新しい質の運動として人類の未来に正しく生かされることを願ってやみません。諸同志の御健闘をお祈りします。病床にて。


No. 7
標題:全人類の危機―核軍拡の現状とわれわれの課題/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労働運動研究
巻号:186/刊年:1985.4/頁:2〜7/標題関連:


No. 8
標題:佐和論文への疑問/副標題:No:
著者:広兼主生/誌名:労働運動研究
巻号:193/刊年:1985.11/頁:48/標題関連:


佐和論文への疑問 広兼主生

労研九月号の佐和論文―昨年九月号から今年一、三月号に連なる労作―に深く敬意を表します。「プロレタリア独裁」についてはフランス共産党のその放棄(一九七六年)以来、労研誌上しばしば論じられた重要問題でこんごも究明して戴きたいものと思います。以下略



追悼・広兼主生氏

     労働者階級解放の鬼だった

                   松江 澄   

労働運動研究 1995.3 No.305

 

 広兼はついに逝った。ついに、というのは理由がある。彼は悪性腫瘍を除去して胃をつり上げて食道の代わりにされ、そうでなくても小食な彼はますます食が細くなり、術後五年近くを通じてやせ細り、ときに入院をくり返して点滴などで栄養を補いながら一年また一年と生きつづけてきたのだった。それでも私たちは術後五年経てば、という素人の楽観に期待していたがついに逝ったのだった。医師で実兄の話によれば手術の余後はあまり良くないと担当医師は語っていたらしい。だから体重は常に三五キロ前後で体力はおとろえる一方だった。

 足かけ五年前の七月末、アルマ・アタの核実験禁止国際会議からの私の帰りを待ち切れず入院したという彼をすぐ病院にたずね、意外に元気な顔を見て安心したのだった。やがて手術も成功ときいて一日も早い回復を期待したのだった。→年も経った頃、彼の希望もあって退院後は通院の帰り道に一月に一回は時に病院で、または彼の家で、またときには喫茶店で、必ず会って話すのが習慣となった。

 この間彼の問う課題は、「社会主義とは何であったのか」「社会主義はもはや私たちの目標ではなくなったのか」「ほんとうの社会主義とは」「私たちの進むべき道は」と、矢継ぎ早だった。彼の真剣な追求は私の模索を加速した。会うたびに殆ど私が話しながら彼のつかれを気づかった。 時間が限度だった。

 もう一つ彼との交わりのきずなはCDの音楽だった。クラシックは苦手だった彼に、本が長く読めぬ代わりに一○枚から二〇枚、やがて三〇枚、五〇枚と静かな室内楽を選んで送った。

彼は次第に好きになり、何より心が安まると喜んでくれた。彼との間に想像もしなかった音楽の交わりが生れたのだった。

 しかしもちろん彼が何より望んだことは再び運動に復帰することだった。とくに昨年暮れから、「五年目になる今年の八月には元気になって事務所に還る」と、会うたびに私に話した。彼は十二月になって二十七日にひらく党の忘年会に一寸だけでも出席して皆の顔が見たいと言い出した。それは病気になって以来はじめてのことだった。私は言いつのる彼をさとすようにそれをとどめた。

 当日私がその報告をして会が始まってまもなく、広兼が奥さんとタクシーで来て一人で姿を現わした。私は思わず狼狽した。彼は挨拶しようとし、胸がいっぱいになって言葉にならず、皆の話をききながら私と同じ椀の湯豆腐を少しつついただけで、二〇分後には名残り惜しそうに奥さんとともにタクシーで帰っていった。彼が亡くなったのはその日から二六日目だった。神を信じぬ私もあまりにも不思議なこの符合におどろいた。

 ふり返れば私が彼と出合ったのは日鋼争議(→九四九年)の直後だった。一○代で海軍の飛行機特攻隊を志願して一九歳で敗戦、広島駅前の闇市で白いマフラーをなびかせながらカッ歩したらしいが、やがて国鉄に入り、かって広島工業に学んだことで、「通信」に勤務しつつ労働組合運動に参加し、国労広島の拠点第二支部で頭角をあらわした。やがて共産党に入党し国鉄細胞を創り上げる中心的な活動家となった。

 私と知り合った最初の大闘争が、あいつぐ処分で「長期低姿勢論」に逃げ込もうとする当時の「民同」に抗して闘った一九五七年の第二支部車掌区闘争だった。当時県委員会の労対部を担当していた私は上京中の内藤さんと連絡し、広兼君たちと協議して細胞が中心となって下から職場の大衆的な闘争を組織して列車を止める大闘争に発展した。この闘いは松山大会後の新潟闘争―グループによる上からの組合指令による大闘争―と比較され、党内外の論議の的となった。

 彼はその後も闘いつづけて首を切られ、すでに年を重ねていた久保田さんに代って県委員会の書記長となり、八○年代のきびしい党の分岐の中で広島の党を支えて一〇余年、献身的に党の再建のために全てをささげた。また彼はその後全国委員に選出され党の発展のために寄与した。彼は若い頃の戦争への「献身」から深く省みて転進し、労働者階級の鬼となってその解放のために献身した。

 広兼君、君がいなかったら私は責任者としての任務を果たし得なかっただろう。君あっての党だった。私たちは君の目標を胸に抱いて今後も闘う。主ちゃん安らかに眠れ。(二月七日夜)

 


労働運動研究 1984.5 No.175
読者だより

 長谷川浩さんの通夜や葬儀の様子を聞いて、晩年を「種蒔く人」に徹した浩さんのその種子は、すでに立派に五月の新緑のように爽やかに逞しく育っていることを知り深く感動しています。そこで私は、労働運動研究誌は今後とも浩さんの遺訓をうけつぎ、すすんでこの新鮮なカに依拠し、またお互いに協力して研鎭を積む揚となっていただきたいし、この若い活動家がさらにもっと新しい深紅の種を蒔くための道具となってほしいと念願しております。

     (広島 広兼主生)

表紙へ書けて

公開研究会の案内 新刊本の紹介 へ