片桐薫著作リスト


No. 918
標題:イタリアにおける労働運動・大衆運動の前進/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:31/刊年:1972.5/頁:2〜18/標題関連:


No. 975
標題:発達した資本主義国における革命/副標題:「社会主義へのイタリアの道」の展開/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:75/刊年:1976.1/頁:9〜15,36/標題関連:


No. 1011
標題:イタリア資本主義の危機と労働者階級の統一/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:96/刊年:1977.10/頁:2〜9/標題関連:


No. 1121
標題:社会主義闘争の新局面を開くために/副標題:ポーランドの劇的事態への反省/No:
著者:イタリア共産党指導部 訳:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:148/刊年:1982.2/頁:15〜21/標題関連:


No. 1188
標題:八〇年代に挑戦するイタリア・マルクス主義/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:175/刊年:1984.5/頁:18〜23,42/標題関連:


No. 47
標題:ヨ−ロッパ社会主義の衰退/副標題:その背景と展望/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:229/刊年:1988.11/頁:23〜27/標題関連:(フォ−ラム 新しい社会の創造をめざして)


No. 135
標題:イタリア共産党の「第二の脱皮」/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:247/刊年:1990.5/頁:30〜33/標題関連:


No. 181
標題:大いなる賭け/副標題:イタリア共産党から左翼民主党へ/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:258/刊年:1991.4/頁:29〜33/標題関連:


No. 212
標題:いまグラムシをどう見るか/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:266/刊年:1991.12/頁:2〜7/標題関連:


No. 427
標題:グラムシ思想の新たな広がり/副標題:最近の訳書2冊を手にして/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:317/刊年:1996.3/頁:34〜35/標題関連:


No. 530
標題:グラムシ−この一〇年/副標題:没後50周年から没後60周年へ/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:335/刊年:1997.9/頁:14〜17/


No. 603
標題:最近のグラムシ研究の新動向粗描/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:347/刊年:1998.9/頁:22〜25/標題関連:


No. 628
標題:トロツキーとグラムシ(シンポジュウム報告)/副標題:その歴史と知の交差点/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:351/刊年:1999.1/頁:20〜23/標題関連:


No. 672
標題:植村邦著『イタリア共産党転換の検証 左翼民主党への再編成とその意義』(書評)/副標題:No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:363/刊年:2000.1/頁:32〜33/標題関連


No. 718
標題:石堂清倫先生の思い出/副標題:グラムシ思想へのかかわり/No:
著者:片桐薫/誌名:労働運動研究
巻号:384/刊年:2001.10/頁:21〜24/標題関連:


グラムシ歿後70周年記念〜いま、その思想を読む(1)

 

  グラムシへのアプローチのために

 

片桐 薫

 

 グラムシは「獄中ノート」で、ダンテとマキァヴェッリを対比しながら、ダンテの政治論はその伝記的要素によってとらえることができると書き、伝記的要素からのダンテ政治論の把握の重要性を指摘した。

 同じようなことはグラムシについてもいうことができる。私の狭い経験からしても、グラムシへの伝記的側面からのアプローチは、彼の思想鉱脈へのより深い理解を助けてくれるように思われる。

 

 「見捨てられた」サルデーニャ出身者として

 そうした意味で、グラムシの思想的原点としておさえておく必要があるのは、イタリア近代化の苦しみのなかで、「本土から見捨てられた」サルデーニャに生まれ育ったということである。

 イタリアの近代国家統一(1861)は、サルデーニャをふくむ南部にたいする北部の覇権として進められた。その結果、北部は南部を犠牲にして肥え太り、北部の経済的・工業的発展は、南部経済と農業の後進化・貧困化に直接つながっていった。

 こうした政策に、多くのサルデーニャ人は本土への憎悪を感じ、サルデーニャ州のイタリア国家からの独立という分離主義が育まれていった。中学高学年(10代半ば)にさしかかっていたグラムシも、「その頃、私は、サルデーニャ州独立のための闘いを考えるようになり、"本土人を海へたたき込め!"と何度もくりかえした」と後に回想している。

 こうした彼の感情も、イタリアを代表する近代的大工業都市トリーノの大学文学部に進むことで、ジグザクの過程をへながら変わっていった。

 トリーノに出てきて知ったのは、南部「貧困」が、南部人の無能、未開、生物的劣性等によるもの説明され、南部という「鉛の足かせ」がなければ、北部イタリアの工業文明はもっと大きな進歩をとげていたはずだという考え方が、社会学者や社会主義の論客たちによって支持されていることだった。

 それに強い反発を感じながらグラムシは、他方ではサルデーニャ語なまりが気がかりで、人前ではなるべく口をきかないようにし、大都市の片隅の下宿に独り閉じこもって読書とタバコで過ごす「二重・三重の田舎者」だった。

 そうした状況からの脱出の契機となったのが、若い言語学者マッテオ・バルトリ講師との出合いだった。生きたサルデーニャ語を話すグラムシは、『サルデーニャ語小論』を出していたこの言語学者の目にとまり、研究への協力を依頼された。それに応えるなかで、サルデーニャ語は方言ではなくて独立した言語であるというバルトリ先生の話は、グラムシに強い衝撃を与え、サルデーニャ再考の契機となっていった。

 こうしたサルデーニャ語の新発見は、さらに彼をして言語問題を社会的・歴史的・文化的現象として考察するようにさせ、それは後に獄中での主要研究の一つにイタリア言語問題をあげ、それとの関わりで「知識人問題」や「南部問題」や「民間伝承問題」などにとり組むことによって、彼の革命思想に幅と深みをもたせることとなっていった。

 もう一つ、「サルデーニャ主義」からの飛翔の契機は、同学部で一つ年下のA・タスカとの接触である。大学に入って友達のなかったグラムシに近づいてきたタスカは、すでにトリーノ周辺の社会主義のリーダーで、グラムシを当地の労働者ストライキ闘争を見に誘った。

 そうしたなかでグラムシは、近代工業都市の労働者の闘争を知ることで資本主義の激しい鼓動を感じ、それまでの彼自身の「反本土的」サルデーニャ主義のあいまいさを自覚するようになっていった。社会党に入党したのも、その頃と見られている。

 

貧困家庭の出として

 

 P・アンダーゾンは『西欧マルクス主義』でこう指摘する。

「マルクス、エンゲルスをはじめ、20世紀にかけての西欧マルクス主義の主な理論家はいずれも、ブルジョワ階級出身だった。……そうしたなかでグラムシだけが唯一の例外で、貧困家庭の出だった」。

 そのへんのところを、もう少し詳しく見てみよう。

 一時の職を求めてナポリからやってきた彼の父親は、サルデーニャの片田舎のギラルツァの登記所に就職し、母親は村の税吏の養女で裕福な家庭の部類に属していた。そして男子を頭に女、女そしてアントニオ、男、女、男と7入の子供をもうけ、父親もサルデーニャ永住を決めていた。その一家の平穏で幸福な暮らしは長く続かなかった。

 生まれた時には元気だったアントニオが、1歳半頃のカリエスがもとで突然、背中にコブ状のものができて大きくなり、周期的な発作や貧血に悩み、村医者の数々の治療の甲斐もなく、身障者としての生涯がはじまった。これについては後で見ることにする。

 その不幸に輪をかけたのが、父親の投獄だった。勤め先での職務上の不正行為から逮捕され、58ヵ月の禁固刑に処されたからである。

 母親は、相続した土地を処分して弁護士への謝礼にあて、下宿人をおいたり衣服の仕立てなど、身を粉にして働いた。子供たちもそれぞれ手助けし、11歳のアントニオも登記所で割の合わないアルバイトをした。こうして力を合わせて家族の危機を乗り切った経験は、家族の絆をより強めることになった。

 とはいえ彼の幼少時を知っている人は、「彼の笑いは子供らしいものではなく、彼が嬉しそうに笑うのをみたことがありません」と語っている。グラムシの内心は複雑で、子供心にも鋭敏な感覚で受けとっていたのである。

 母親は夫が刑務所にいるという事情を14歳になる長男だけには説明したが、他の子供たちには、「お父さんは遠い祖母さんのところにいっている」と話して、隠しておこうとした。そんな子供だましが、狭い田舎で通用するはずはなかった。大人たちのさりげない言葉の端などから何かを感じとっていたグラムシにとって、最大のショックは、遊び仲間から嘲りという形で事実を知らされたことだった。

 その結果、母親への信頼と不信、愛情と反抗のあいだを揺れ動きながら母親に強く当たることで内心のもやもやのはけ口を見いだし、手のつけれない子供になっていった。

 夫の投獄後、女手ひとつで7人もの子供をまもり育ててきた母への思いは、大人になるにつれて強くなっていった。しかしながら、今度は彼自身が逮捕・投獄され裁きを受ける身になったのである。最大の気がかりは、その知らせを母がどう受けとるかだった。それを考えるとペンが進まなかったが、こう書き送った。

 「この数日間、ずいぶんお母さんのことを考えました。お母さんはこれまでいろいろ苦労を重ねてきたのに、ここでまたお母さんに新しい悲しみを与えてしまったことや、お母さんの歳のことを考えました。そうしたことがあっても、私が強いようにお母さんも強くあってください。そしてお母さんの深い愛と優しさで私を許してください」。

それとともに、もう一つの気がかりは、幼い子供たちにそれをどう伝え、理解させるかだった。彼は自分の「在獄」という真実を隠すことなく、「すでに分別をそなえた者として扱い、真剣に話してやる」ことを家族たちに求め、「そうすれば、子供たちも深い感銘を受け、性格も強くなるでしょう」と書き送った。

 

 公正さ・誠実さ求める姿勢は、対家族関係だけでなく、彼の現実の政治活動にも見られた。グラムシが党運営において、「党内に分派ではなしに、最大のイデオロギー的等質性をもたらし、したがって実践的行動において最大限の指導上の統一を刻印できるような中核をつくりだす」ようつねに求めた。

 有名な「ソ連共産党中央委員会への手紙」で、同党中央委員会内の論議が、権力闘争の様相を示しはじめていたときに書かれたものだった。

 

 身に負った障害者として

 

 身障者の彼は、「私自身余りにも多くの犠牲を強いられたし、自分が家族のなかでさえ厄介者、余計者だと信じずにはいられないほど虚弱だった」と後に手紙に書いている。反面、彼なりに負けん気でもって不運な境遇に立ちむかっていった。それが発揮されるのは獄中においてだった。

 獄中から彼が凝視していたのは、ソ連共産党指導体制におけるスターリン的官僚化、イタリア・ファシズムにおける軍事的・警察的な権力ブロック、アメリカにおける巨大な生産力の発展による資本主義的再編……。そうしたうえに、妻からの音信不通、とだえがちな家族からの便り、コミンテルンとそれに従っていったイタリアの党指導部の方針との食い違い、それに起因する同獄の同志たちとの対立、その結果としての中傷や誹謗::・。

 

 こうした精神的苦痛や孤立感によって、グラムシは落胆しふさぎ込んでしまうことはなかった。弟にこう書き送っている。

 「私が確信しているのは、いつも自分自身と自分の力だけを当てにしなければならず、万事窮するように思われるときでも、落ち着いて再び仕事に着手し、はじめからやりなおさなければならないということです」。

 それは、彼のたんなる気分的な強がりの表明ではなかった。

「獄中ノート」では「状況を変えたいと望むならば、ありのままの現状に注意力を集中しなければならない」と書き、また別のところでは、「現状を変革する具体的イニシアティヴにおいては知的意志と知的能動性豊かな構想力をともなうものである」

と書いている。

 ここには、現実の諸事態に背をむけることなく、真っ正面で受けとめながら、精神的主体性でもって逆に押し返していくというグラムシの強靱な人間主義がうかがうことができる。

 つまり「知のペシミズム」から「意志のオプティミズム」への逆転である。

 グラムシの真面目はここから先だった。それは現実から逃避することでも、「マルクス」主義」の公式に処方箋を求めることでもなかった。ファシズム体

 

制のもと、同意のない権力、大衆の側からのイニシアティヴの欠如……、だが、そこでは国家と大衆の関係は、一方的で硬直したものとはいえ、従来とは比べものにならないほど深くかつ広範なものとなっており、そこで大衆は国家と出合い、国家的基盤のうえにますます直接的な位置を占めるようになっている。

 そうしたなかでプロレタリアートは、従来のような「機動戦」とは異なった「陣地戦」の展開という新たな条件を見いだすことができる。大衆は、政治から疎外されながら、別の次元の政治的・文化的闘争という新らしい条件を見いだすことができる。

 こうしてグラムシは独り獄中で、20年代後半から30年代半ばにかけて、歴史的転換の可能性を探っていたのである。

 

片桐薫さんの最新刊

 

 ファシズムとスターリン主義が支配した狂気の時代。没後70周年に際し、新資料に拠って生きたグラムシ像に迫る。

●第1部 出会い

●第2部 獄中から・獄外から

●第3部 グラムシ没後と今日

 新資料にもとつく最新の評伝。獄中生活を物心両面から支えた義姉タチャーナと親友スラッファとの交流をはじめて詳細に紹介。  (日本評論社/5040)

(GEKAN SENKU2007.07より)

 



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