近藤幸四郎著作リスト


No. 1
標題:「援護法」と被爆労働者のたたかい/副標題:全電通被爆協の結成から自衛隊パレード阻止闘争まで/No:
著者:近藤幸四郎/誌名:月刊全電通
巻号:13-6/刊年:1974.2/頁:69〜78/標題関連:


No. 2
標題:電電拡大七カ年合理化計画と電通労働者の立場/副標題:No:
著者:近藤幸四郎/誌名:労働運動研究
巻号:15/刊年:1971.1/頁:44〜47/標題関連:電電職場からの二つの報告


No. 3
標題:「援護法」と被爆労働者の闘い/副標題:No:
著者:近藤幸四郎/誌名:労働運動研究
巻号:48/刊年:1973.10/頁:4〜13/標題関連:


No. 4
標題:全電通労働者の生活と賃金意識/副標題:中国地本のアンケート調査から/No:
著者:近藤幸四郎/誌名:総評調査月報
巻号:20/刊年:1968.5/頁:11〜19/標題関連:


No. 5
標題:近藤幸四郎と松江澄との対談 ドイツ・フランスを訪問して副標題:力強い大衆の反核運動/No:
著者:近藤幸四郎/誌名:労働者
巻号:84/刊年:1992.1.5/頁:4〜5/標題関連:

(02/07/31)
 一九四五年八月六日、広島デルタの上空約五百八十メートルでさ く裂した原爆に遭い、生き抜いてきた被爆者の平均年齢は七〇・八 歳になった。未曾有の被爆体験から何を学び、未来につなげていく か。ヒロシマの歴史を受け止め、刻んできた人の伝言を聞く。(西本雅実)
 
死没者悼む心 忘れるな  反核 被爆者が示そう

 被爆体験を風化させてはならないと声を大にして言いたい。原爆 死没者への哀悼の気持ちが薄らぎ、広島市の平和記念式典も形式的 になっている。風化は常に内部から始まり、広がる。死没者の気持 ちをくむ、生き残った被爆者や遺族の話を聞くことがますます大切 だと思いますよ。

 平和運動の先頭に立ってきた。今、がんと闘う。胃を全摘出した 後は五月に膵臓(すいぞう)への転移が見つかった。現在も住む爆 心二・三キロの南区皆実町の自宅で被爆。中学一年生だった。

 広島市役所近くでの建物疎開作業がたまたま休みとなり、助かっ た。三年生の兄貴は袋町にあった広島中央電話局に出て、どこで死 んだか分からない。両親は長男を失ってがっくりくる。僕と同世代 の息子や娘を失った隣近所の親たちからはねたましそうに見られ る。負い目が残ったね。

 大学を卒業して五五年、電電公社広島電話局(現・NTT西日 本)に入り、電通遺族会の結成に参加。十五歳で被爆死した兄の欣 次郎さんをはじめ、地方採用職員の遺族にはなかった弔慰金の支給 を求めていく。その年に原水爆禁止世界大会が始まり、被爆者運 動、原水禁運動に深くかかわっていく。

 藤居平一さん(日本被団協初代事務局長、九六年死去)の「国は 償(まど)え」との言葉を聞いて、ひざを打った。死没者への弔 意、遺族への補償がなかった怒りが、僕の運動の原点です。後に学 生や新左翼が、戦争の加害責任を掲げて参加してきたけど、死没者 や遺族に対する哀悼の念がなく短絡的で、去るのも早いこと、早い こと。

 原水禁運動の主導権をめぐる政党の対立に端を発し、広島の被爆 者団体も分裂。七四年に各地域・職域の十四団体をつなぐ被爆者団 体連絡会議が結成される。以来、事務局長を手弁当で務め、各団体 や行政との綱渡りの調整に心を砕いてきた。

 組織同士での話となると大げんか。それで森滝先生(森滝市郎・ 広島県被団協理事長、九四年死去)からクッションになってくれと 頼まれたんです。あの年、フランスの核実験に抗議して森滝先生と 初めてヨーロッパを回り、勉強になりました。魂の安売りをせず に、理念を言い続けようじゃないか。その考えに共鳴し、国家補償 に基づく被爆者援護法を訴えてきたわけです。

 被爆者援護法(九四年制定)に基づく、国の原爆死没者追悼平和 祈念館が一日、広島市中区の平和記念公園で開館する。被爆者の高 齢化は進み、運動の担い手が課題となっている。

 国の弔意とは何か。一人ひとりの死没者に、遺族の前で二度とあ のような戦争はしない、核兵器はなくすと誓うことだ。誤った戦争 で亡くなった死者を悼む人間的な感情を大事に、原爆許すまじ、つ まり非核三原則を貫く。放射線後障害という原爆の特殊性を訴え、 沖縄など他の戦争被害者との連帯も強める。被爆者が最期まで反核 ・反戦を生き方で示せば、後継者は出てくる。親の背中を見ている んだと思います。
広島被爆者団体連絡会議事務局長 近藤幸四郎さん(69)
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「被爆者が身を持って平和を訴えれば、意思を引き継ぐ者は必ず 現れる」。点滴を続ける自宅で近藤さん
 

被爆61周年原水爆禁止世界大会
「広島大会実行委員会」参加・賛同の呼びかけ

ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下から61年を経ようとする現在も、私たちはその被害の深刻さを十分に語り尽くすことはできません。ヒバクシャとその体験を共有しようとしてきた私たちは、「核兵器廃絶」と「ヒバクシャ完全救済」「新たなヒバクシャをつくらない」という強い願いをもって今日まで運動を続けてきました。
しかし、ヒバクシャは十分な救済措置のないなかで高齢化する一方、エネルギー政策の名目で新たな再処理工場の建設、プルサーマルなどにり、大量ヒバク・大事故の危険をむかえようとしています。
世界では、3万発を超す核兵器が存在するなか、新たな核保有国、疑惑国の出現が続き一方イラクでは、米軍侵攻によって暴力と報復の連鎖が続いています。さらに武力紛争は世界に広がろうとしています。こうした状況のなかで私たちは、世界に向かって平和・反核・脱原発・ヒバクシャ援護を訴えるために、8月、被爆61周年原水爆禁止世界大会を開催します。
今年は、チェルノブイリ原発事故20年目をむかえました。今年の大会で私たちはヒバクの深刻な影響についてあらためて考えるため、ヒロシマ・ナガサキの実相のさらなる解明とともに、被爆体験の継承、未解決の諸課題(在外被爆者、被爆二世・三世、認定訴訟)への取り組み強化、ヒバクシャ援護の一層の充実を求めていきたいと考えます。このためヒバクシャや全国被爆二世団体連絡協議会、連合などとの協力も強化していきます。
また、昨年NPT再検討会議がアメリカなどの核大国の横暴によって、成果なく終わったことを受け、これまで提起してきた東北アジアの緊張緩和、非核地帯化へ向けた運動と討論を深め、核軍縮・核廃絶の方向を明確にしていきたいと考えます。いよいよ配備が始まろうとするミサイル防衛も大きな課題となります。
さらに日本におけるプルトニウム利用政策の転換を求めるため、再処理・プルサーマル・「もんじゅ」に焦点をあてていきます。なかでも六ヶ所・再処理工場問題は、アクティブ試験が開始されましたが、稼働阻止に向けた最重要な時期にきており、運動の強化に結びつけたいと願っています。
これら課題を中心に、昨年に引き続き連合・核禁会議や市民団体との協力を深めながら、幅広い人々が結集できる原水禁世界大会をめざし、核と戦争のない社会を創る運動を世界に発信したいと考えます。つきましては、5月16日(火)18時から、自治労会館3階で広島大会実行委員会結成総会を開催します。
みなさんの積極的な実行委員会への参加・賛同をお願いします。

原水爆禁止広島県協議会
代表委員 片山春子 向井高志 桑原知己

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ヒロシマの実相を世界に そして継承を

前事務局長 坂本 健

広島県原水禁の事務局長への就任の話はまさに唐突だった。 当時、10年前は福山市の小学校の現場で5年生を相手に楽しく過ごしていた。

 「8・6」を中心に平和教育は進められていた。内容は原爆・戦争・平和を題材にした文学作品の学習、子どもたちなりに考える平和集会など毎年工夫された学習が行われていた。8月6日前後は登校日が設定されていた。私と平和問題との関わりもこの範囲であったように思う。それが広島県原水禁の事務局長の話。しかし、事務局長がどんなものか知らないんだから、「わかりました」と受けてしまった。平和教育推進を自負している広教組の要請なら仕方ないというのが本音だったのだろう。こういう自分だったので、人との出会いを何よりも大切にしてきた10年だったと振り返ることができる。

右も左も上も下も分からないので、中垣八朗さん(平和・民主・労組会議議長)近藤幸四郎さん(県被団協副事務局長)横原由紀夫さん(労組会議事務局長)等とよく打ち合わせをしていた。

「2.11紀元節復活反対」「3.1ビキニデー」「3.21平和のためのヒロシマ行動」「4.9反核燃の日」「4.26チェルノブイリデー」…と8月の原水禁大会までメモリアルデーのとりくみが続き、その後も続く。中央の集会・学習会へ参加したり出席すると「ヒロシマ」への期待はずっとずっと大きかったし、何かを求められている(運動の提起)ことをひしひしと感じ、がんばらなくてはといつも気持を新たにすることができた。

原水禁運動の原点は二度とヒバクシャを作らないこと、被爆者支援にある。私が事務局長だったときは被爆50年後から被爆60年までということになり、成果といえば、前者は核兵器の廃絶・原子力発電を認めない核廃絶のたたかい。そして後者は国家補償による被爆者の支援、そして、在外被爆者、被爆二世・三世問題。核兵器廃絶のたたかいは、2000年のNPT会議で核保有国に「核廃絶の明確な約束」を表明させることができた。原子力発電を止め、脱原発のとりくみは日本におけるもんじゅの事故、JCOの臨界事故、福井原発の死亡事故、電力会社の原発事故隠しなどによって反原発の動きは大きく前進した。

しかし、地球温暖化防止のために、原子力発電は有効との動きがでたり、核燃料を有効に使うために再処理工場の稼動を強行する動きがある。そして一方では使える核兵器、小型核の開発へ米国は突き進んでいる。なぜこうなるのか、核絶対否定の立場から考える必要があると思う。
 非核三原則を国是としながら、核抑止論の立場をとる大矛盾。さらに核兵器廃絶をいいながら核兵器に直結するプルトニウムを取り出し、原子力発電に利用する態度は信用がおけない。アジアの国々からは日本がかつての軍国主義に逆戻りするのではと疑惑のまなざしが注がれている。

未だ世界は小型核兵器は「強力な兵器」ということで保有すべきとの考えであることにおどろかされた。パキスタンに核実験反対を被爆の実相を伝えながら行動していたときに、火傷を負い半死状態の被爆者の写真を見て、われわれは強い兵器がいるんだと叫ばれた。そのとき、原爆の恐怖、その後の影響、被爆の実相はほとんど伝わっていないと思った。

平和運動や反原発運動を進めている市民グループの人たちは理解されているのだろうが、他の人たちにはほとんど知られていないのではとショックだった。原子力発電所で一度大きな事故が起きると広島型の原発の数倍もの放射能が放出され、放射線の被害が大きく長くつづくことを忘れてはならない。

原水禁運動は社会の要請から、運動の幅が大きく広がっている。10年の経験から、いま一番何をすべきかといわれればやはり、ヒロシマの実相を世界にていねいに語り伝えることを被爆者とともに進めること。そして国内では非核三原則の徹底と核抑止論からの脱却をすすめること。幸い、原水禁大会のメッセージfromヒロシマや子どもの広場が毎年充実しており期待できる。ともにがんばりたい。 

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チェルノブイリ原発事故から20年・・・あの大惨事を忘れまい!放射能障害は今も続く!

(1)「チェルノブイリ原発事故から20年」記念講演会

4月21日の「チェルノブイリ原発事故20年記念講演会」には、作家の広瀬隆さんを招いて「チェルノブイリ原発事故から20年〜中国地方の原発・高レベル放射性廃棄物処分場問題」についてお話しいただきました。広瀬さんは、1978年頃から自らが調査・研究し、そして各地での反対闘争に参加してきた経験など豊富な内容で、90分があっという間に過ぎるほど多くのこと学習することができました。

広瀬さんは、まずチェルノブイリ原発事故についてふれ、20年たってもその被害は継続していること、「すでに過去のこと」という認識がとりわけ報道に携わる人たちに増えていることへの危惧、チェルノブイリの放射能汚染の範囲を日本地図に示し、ひとたび事故が起これば驚くほど広範囲(単純計算で日本の面積の2.7倍)にわたり汚染されることになり、100万kwの原子炉一基が大事故を起せば日本は住めない土地になってしまうこと、地震の多い日本での震災による原発事故の危険性は非常に高いことなどが話されました。

また、高レベル放射性廃棄物の処分場問題について、市民からの情報公開請求で昨年ようやく開示された核燃料サイクル開発機構の秘密資料によれば、驚くことに、候補地を探すため広島県内県北部を中心に19もの自治体(合併前)で調査されていることが報告されました。(⇒高レベル放射性廃棄物の最終処分場として調査されていた市・町の地図)

最後に、広瀬さんのもとに最近送られた手紙を紹介しながら、「原子力に関わる人も本当に懸念を抱いている、原子力必要論の『ウソ』にだまされず現実を多くの人に広げ、希望を持って新たな原発の建設・再処理・プルサーマルの反対運動をあきらめずに継続していこう」とまとめられました。


(2)4・26 チェルノブイリデー 街頭ビラ配布、座り込み

旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故から20年目となる4月26日、県原水禁と平和運動センターの呼びかけで、原爆慰霊碑前では「4.26チェルノブイリデー 原発事故から20年 今も続く放射能障害 ストップ!再処理・プルサーマル」の横断幕を前に60人、東広島市役所前では17人が参加して座り込みを行いました。

慰霊碑前では主催者を代表して向井高志・県原水禁代表委員から「チェルノブイリの健康被害者は700万人に及ぶ。安全性に疑問がある使用済み核燃料再処理工場が日本でも稼働し、プルサーマル計画など危険な状況にありなんとしても止めなければならない」とあいさつしました。大惨事となったチェルノブイリ原発事故を忘れることなく、世界の流れに逆行する日本の原子力政策の転換を求める下記の「アピール」を採択しました。アピール文は、小泉首相、二階経済産業相、各政党に送付しました。

この日の朝は、チェルノブイリ原発事故の恐ろしさと今なお続く放射線障害の実情、日本における原発建設や再処理・プルサーマル計画反対を訴えるチラシを広島市内4カ所で配布しました。

アピール

旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発で史上最悪の事故が起き、今日で20年を迎えました。原子炉の爆発で、広島型原爆の300発とも言われる放射性物質が放出され、広範な放射能汚染は今も続き、放射能障害による身体への影響は、事故後子どもたちの甲状腺がん、白血病などが多発し、事故の被災者は、ウクライナ西部とベラルーシで700万人と当局は発表し、今もなお苦しみが続いています。放出された放射性物質の中には半減期が数百、数万年のものもあり事故の影響に終わりがないことをあらためて肝に銘じなければなりません。しかし、これだけの大惨事であったにもかかわらず20年の歳月とともに忘れ去られようとしています。
日本の状況はどうでしょうか。現在55基の原発が稼働していますが、老朽化や震災による原発事故の危険性は高まっています。青森県六ヶ所村再処理工場は3月31日にアクティブ試験が開始され、大気中や太平洋に放射性物質の放出が始まり、本格稼働では需要のないプルトニウムを年間8トンもつくり出します。そして「六ヶ所再処理工場を稼働させるためのつじつま合わせ」のプルサーマル計画は、相次ぐ事故やトラブル隠し、データ改ざんなどの問題によって計画自体破綻しているにもかかわらず、佐賀県玄海原発、愛媛県伊方原発、そして島根原発でも実施に突き進もうとしています。プルサーマルはふつうの原発より危険性が高くなります。
日本は世界の脱原発政策に逆行し、危険性・コストも高く、放射能のゴミ処分も明らかにならないまま、核燃料サイクルをはじめ原発政策を強引に推進しています。
あの20年前のチェルノブイリ原発事故を私たちは忘れない。繰り返してはならない。新たなヒバクシャを生み出すことを、ヒロシマの私たちは断固許すことはできません。日本の原子力政策の転換を強く求めるとともに、上関原発建設反対!プルサーマル計画阻止!再処理工場停止!のためにねばり強く闘うことを、チェルノブイリ原発事故から20年を迎えた今日、ここ原爆慰霊碑前で決意します。


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公開研究会の案内 新刊本の紹介 へ

仮題『被爆動員学徒の生きた時代』  小畑弘道著 出版に寄せて 評者 米澤鐵志(高雄病院元事務長)

出版社 たけしま出版  定価1500円 (4月出版予定)

 

広島の小畑弘道さんが故近藤幸四郎氏の原水禁,被爆者運動を軸に書かれた本が出版される。

著者の小畑氏に始めて会ったのは、彼が同志社大学在学中時の、ある集会だった。彼が「私は政治にはあまり興味がないが、いいだももに興味をもっている」と言うような発言をしたのを聞き、彼は文学青年だなと感じたのと、広島出身で私と同郷だと知り好感を持ったのが最初だった。

先日労研編集部の室崎氏から「今度、小畑氏が近藤幸四郎氏の本を出すので書評を書け」と依頼された。

私が「まだ見てもいない本の書評は書けない」と言うと、「小畑さんに言って原稿を送らせるから、とにかく書け」と押し付けられた。

間もなく小畑氏からA5サイズ 百二十七枚のコピーが送られてきた。

原稿を読んでみると、その中身が豊富で、近藤幸四郎氏への愛情と彼の運動への信頼感が溢れていて素晴らしい本になると感じた。

私が近藤氏に会ったのは、この本にも述べられているが、広島駅前の小さなビルの二階に置かれていた松江澄の事務所だった。私が帰郷したとき事務所を訪ねたところ、たまたま近藤氏がいて、松江さんか久保田さんに紹介された。

その時は全電通の活動家で、ここの家主の息子さんと言うことだったが挨拶程度で終わったと思う。

二度目は山口氏康氏が宮崎安男氏と近藤氏を連れて、当時私の勤めていた京都の高雄病院に二泊三日の検査入院したときだった。帰広する前の晩は、私の手作りの醸造酒を飲んでよもやま話(もちろん運動や政治の)をして大いに意気投合した。

話の中で「明日の帰りは、途中で金閣寺によって金箔を少し剥いでいこうか」などの冗談も出て検査とはいえ入院中の患者との会話を遥かに超えていた。

その縁もあって、会えば「てっちゃん」「近ちゃん」と呼ぶ仲になり、八・六に帰広するたびに近藤氏と一緒に食事をしたりした。近ちゃんは忙しい人で、いっしょにいるのが原水禁大会に来た外国代表であったり、国連の事務局職員であったり、又本書にも登場するデルタの会のメンバーだったりが一緒で実に多彩な話が聞けた。

九十九年だったと思うが八・六集会のあと平和会館に寄ったら石田氏(原爆投下の時、爆心七百五十米の地点で私と同じ電車に乗っていて、氏は兄を、私は母を喪うという奇跡の生き残り同志)と、これも旧知の朝被協会長の李実根氏と近ちゃんと私の四人がそろい、「七日の午後一杯やろう」という話が出た。私は七日の昼迄には京都に帰らねばならず、またの機会ということになったが、残念ながら実現しなかった。

本の中身に入るが、彼が本格的に組合活動に参加する契機になったのは共産党との関係だった。

《六十二年当時の全電通広島県支部大会は執行部側と共産党系代議員側との対立が極度に先鋭化し、荒れた大会になった。

その背景には、前年、共産党中央指導部の方針を批判して共産党を離党した林田史朗副委員長に対する理不尽とも言える個人攻撃が行われていた。

彼は、電通細胞のリーダーで「林田学校」といわれて人々の信望を集めていた存在であったが、硬直した組織による人身攻撃の横行を嫌っていた。

大会での議論は合理化、生理休暇、政党支持、国際問題に至るまで事案ごとに蒸し返され、聞かされた側の代議員はうんざりだったというが、この中で行われた役員選挙で異例なことが起こる。

支部役員の定数通りの立候補で信任投票になったが共産系の候補者(屋敷代議員、後に日共広島市議)が不信任になり再投票、再々投票でも不信任に終わり、欠員になった専従役員の補選は次期委員会に持ち越された。

屋敷は共産党系代議員が多数を占める支部委員会で信任を得ようとして再び立候補した。

近藤は所属する分会の有志と相談して負けを承知で対立候補として出ることにした。

支部大会で三回にわたる投票で信任されなかった人が少数の委員会で信任されることは、どうしても我慢できなかったである。

立候補に当たっては、相手陣営から厳しい攻撃にさらされたが、投票結果は、意外にも彼が当選したが、彼にしては予想外の当選で、家族、職場の仲間にも賛成してくれる者がなく困難な状況であったが、止むなしとして、専従役員として活動することになった。》

しかし党の独善的方針で、運動で敗北し、職場で孤立した党員を論功行賞で市会議員にする日共の姿勢は一般には理解できないことだろう。

翌六十三年が激動の年だった。日本の平和運動は、前年の原水禁大会でソ連の核実験をめぐってゆれにゆれ、全電通内部も対立と決別の渦に巻き込まれていた。

いわゆる、いかなる国の核実験問題に対する共産党系の態度は、原水禁運動を分裂させ被爆者団体も分裂させられた。

近藤は「ヒロシマ」の体験者として、核実験およびその被害を絶対に許すことが出来ず、ソ連の死の灰なら喜んで浴びるとか、ソ連の原爆は放射能がないなどの暴論を許すことが出来なかった。

近藤は政治に強い関心を持っていた訳でもなかったが、それでも全電通の組合員になって以降は共産党にシンパシーを抱くようになり、選挙では共産党の候補者に投票していた。

共産党の硬直した、独善的路線が近藤幸四郎という稀有な活動家を生み出したことは間違いないと思う。

またこの本の特徴は、近藤の本分である現場主義をあらゆる章で紹介していることだろう。

彼が全電通被爆者運動を下からの運動に広げた動機に、ある女性の夏期手当てが異常に低いのに驚いて当局にただすと、「その女性は上司にも無断でよく休む」と言われた。近藤が当人に聞くと、彼女は被爆者で、肉親を喪い自身も肝機能障害や無力症で原爆病院に入退院を繰り返しており、職場に知れたら首になると悩んでいた。それを知った近藤は反核運動が職場の被爆者を置き去りにしてカンパニアに走っていたと反省した。他にも職場の中で悩みを持った被爆者がいるに違いないと考え、全電通広島の「被爆者対策結成準備会」を結成し、被爆者がどのくらいいるか調査した。

当時多くの被爆者は結婚問題や被爆者差別を恐れ、内緒にしていた。被爆手帳の申請をしない人も多かったし、実態調査も困難を究めたが、彼は運動を通じて被爆実態を明らかにし、当局に被爆者の健康管理を求めて「全電通広島被爆者連絡会」を結成し交渉を始めた。

しかし当局は当然の如く、「それは国の問題だ」として一蹴されるが、国や自治体が被爆者援護法の問題として知らんといっても、現に電電公社に働く被爆職員が健康に不安を持ち、病弱で職務遂行にも支障をきたしている以上、公社は責任を持って問題解決にあたれと迫った。まして公社は政府機関の一つであり、国家の戦争責任、補償の要求に答えよと交渉を続け、72年には被爆者、被爆二世の健康管理の充実、二世を含む実態調査の実施などを勝ち取った。

いち早く国労は被爆者対策協議会を設置し、当局に入院する被爆職員を「公傷扱い」にすることを当局に認めさせていた。

広島被爆協は、一、被爆体験記の募集 二、実態調査と被爆者手帳申請の呼びかけ 三、略 四、運動を全国化する を決めた。ついには七十三年、全電通被爆者協議会が結成され、近藤は事務局長になる。

同じ頃広島県教組も「被爆教師の会」を結成した。長崎県にも呼びかけ、同じく「被爆教師の会」が結成され、間もなく「全国被爆教職員の会」に発展する。以後、動力車労組、自治労、全専売、高教組、全水道、放影研、広和労などに次々と被爆協が設立された。各組織の全国化と、総評被爆連に発展し援護法作成のため「政府に直接交渉できる総評を窓口に、統一要求として取り組む」ことになる。

近藤が取り組んだ一女性労働者の、被爆者の悩みが対政府交渉にまで発展したのだ。

近藤の仕事で凄いのは広島被爆者団体連絡会議の結成とその事務局長に就任する。

国労広島地本の呼びかけにより広島県教組と全電通広島の三者で、被爆二世について地域で輪を広げながら共同で取り組むことを確認し、「被爆二世問題連絡会議」を発足させた。この連絡会議に十年前に分裂した広島県被団協(原水禁系、森滝理事長 原水協系、田辺理事長)が被爆二世問題で同一のテーブルに着いたことであった。

連絡会議は県、市に対し被爆二世の健康診断の無料検診の実施と一部治療費の援護措置として具体化させた。

当初七団体でスタートした連絡会議は、二つの県被団協も正式参加し、最後には十三団体となり、消極的だった行政を被爆二世問題に前向きにさせていった。

「被爆二世連絡会議」はフランスの核実験抗議の座り込み、被爆者援護法のシンポ、援護法制定中央行動への派遣、ABCC問題での同労組との相互討論、自衛隊十三師団の広島市内パレードに対する抗議行動をおこなった。「広島被爆者団体連絡会議」準備会が「広島被団連」になり近藤事務局長の腕の見せ所となった。援護法制定のための知事交渉、市長交渉、中央交渉への参加、広島県警の教組弾圧、平和教育への弾圧抗議、核保有国の相次ぐ核実験に対する慰霊碑前の抗議の座り込みなどなど多岐にわたる共同行動がおこなわれたが、中でも特筆すべきは広島市民を巻き込んだ「自衛隊市内パレード阻止闘争」だった。

自衛隊は六十五年から創立記念日として市中パレードを行ってきたが、年々これに抗議する人が増え、七十二年には県労会議など労働者、市民三千人が抗議したにもかかわらず、翌七十三年、来栖師団長は例年通り開くと発表した。これに対し広島被爆者団体連絡会議準備会(近藤幸四郎事務局長)が「陸上自衛隊が予定している広島市中パレードは被爆市民の心を踏みにじるものだ」と中止を求める抗議声明を発表し、「私たちの親、兄弟の血が流され、おびただしい白骨が眠っているこの地を軍靴と戦車が踏みにじるのを黙ってはいられない」とした。

知事への申し入れ、市長室前の座り込み、数多くの団体の師団長への抗議など運動は広がり、パレード当日は自衛官一七〇六人、戦車七台など車両一九三台、航空機十二機が参加した。県警は二千百人体制で臨んだが、対する総評系組合員や被爆者、学生ら一万二千人、さらに、これを取り巻く市民四万五千人余が詰めかけ騒然としたなかで終わった。

翌年、来栖に代わった新しい師団長は「交通事情への配慮」を理由にパレードの中止を発表、隊内で行うとした。

この闘いは広島の平和運動の中でも画期的な出来事で、多くの新しい平和の担い手が作られ、多様な形で運動が繰り広げられている。

近藤の被爆死者と被爆者への哀悼の念は誰もが認めるところであり、その私心なき運動は、十余年前役員選挙で手痛い打撃を受けた日共さえ人民の敵近藤を運動のなかで認めざるをえなかった。

原水禁運動の分裂と七十三年の中央から頭ごなしの統一という、現地を無視した問題についても、この本は詳しく触れている。「運動は地域から起き、具体的課題で大衆の行動から進んだが、分裂は中央の党派や大労組、団体などのセクト主義が無理やり現地無視で強行されたが、今また現地を無視して中央からの統一という運動の規制(組織統一の条件に一致したこと以外の行動、たとえば反原発運動は認めない)が始まろうとした」と鋭く批判している。

これに関連し、ミニコミ紙で「被爆列車と統一列車」と題しての原稿に、七十五年二月に広島、長崎から被爆者、被爆二世が夜行列車を仕立てて大挙上京し中央行動を展開したときのことを書いている。

「大成功の中央行動の総括会議の後の雑談で、総評のA氏と原水禁中央のH氏と単産本部のO氏が異口同音に広島、長崎現地代表に「被爆列車はすんだ、次は統一列車だ、今度は東京から統一列車を仕立てて広島、長崎に向かうからよろしく」だった、しかし問い返した、「誰と誰がのってきますか」と、返事は今のところまだはっきりしてないが、同乗の誘いを二、三かけている。なんとか統一列車を走らせたい」ということで、どうも統一列車を走らせることが目的のように思われた(中略)広島、長崎の痛みと訴えを知りすぎる程知る者にとって、このようなことが批判、反発なしに受け入れられるはずがない。以後、不統一列車が走り、来たり、来て“統一世界大会”と銘打つセレモニーが開かれた(中略)がその間、老いた被爆者が苦しみつつ命を奪われていく、と痛烈に結んでいる。

また近藤は国際的活動についても数度にわたる渡米訪欧で現地の運動と交流し具体的行動の経験をし、自らの現地主義(西ドイツの緑の党など)に自信を深めた。

交友関係でマスコミのことにも触れているが、毎日新聞宇治支局の記者も近藤さんに貴方のことを聞いたと私を訪ねてきた記者も数人おり、中には記事で紹介したりもした。

広島の被害と加害については、八十年代から加害責任の問題がクローズアップされたが、これに対して八十九年八月の「毎日新聞記者の目」に「語り部を問い詰めないで」という記事が載った。内容はある中学生グループが平和公園周辺を歩いて「平和学習」をした時のことだった。語り部のAさんが韓国人原爆犠牲者の碑の前で碑とそれに関する日本の加害責任、民族差別に触れなかったとし、A子さん宅にA子さんの“不勉強”を責める手紙が数多く来た。

A子さんはそれ以後語り部活動を殆どしていない。(中略)

記者は被爆者が体験を人前で語るに至るまでの心の葛藤は大変なものだとし、他の語り部の言葉を紹介している。

「被爆者であると同時に、加害者の立場にあったことは免れない。でも、自分の被爆体験を語ることだけで精いっぱいで加害責任は?と問われたら、何も答えられない。」(中略)老いた被爆者には「八月六日、九日に起きた事実」さえ語ってもらえば、それでいいのではないか。

格時代の原点で人間は何をしたか、その悲劇を干からびさせることなく、生々しく後世に伝えるという一点で被爆者と若い世代が結びつくことがまず第一だ。

「広島は加害者か被害者か」という検証を被爆体験のない側から押し付けるのは慎むべきだろうとし、戦争の根元=加害責任を問いただす姿勢が原水禁運動や平和運動に課せられているのは当然だが、それを語り部に求めるのは筋が違うと思う、と結んでいる。

近藤はこの意見に賛成し、加害責任や差別の問題は大切で勉強しなければならない。

「だが、最近まで家庭の主婦として沈黙を守ってきた証言者もいる、そんな人に加害について語れとは私は言えない。三十六万人の被爆者のなかで、増えたとはいえほんのひと握りの人がようやく重い口を開き始めたに過ぎないことを考えて欲しい」『一億総懺悔』は責任をあいまいにするだけである。

被爆者はまず被害者である。そこに立脚して、問題を掘り下げていくことによって被害者同士が連帯できるはずである。そこにこそ、国を超えて結び合うことが出来るであろう」

被爆者援護法の問題はこの運動の中では原点であり「国はまどえ(補償と謝罪)」を五十五年頃から一貫して主張してきた。

この本は、野党四党で被爆者援護法を国会提案させ、村山内閣で被爆者援護法というまがい物が出るまでの長い道のりを近藤の活動を通して紹介している。

国家に謝罪させる、戦争の責任を取らせるという被爆者の願いは、村山内閣でも果たされず、当時社会党広島県本部委員長石田明(全国被爆教師の会会長)氏は次のように批判している。

《政府与党が「決着した」被爆者援護法案は、悲憤の声とともに社会党村山内閣への不信感をヒロシマに巻き起こした。村山総理は、政府与党案を「最善のもの」だと言った。しかし、この法案が出来るまでの社会党や政府内の動きを見てきた私は、とうてい同意できない。「核兵器廃絶」というヒロシマ、ナガサキの純粋な願いは、政争の具とされ、社会党政権維持のために利用された。私はヒロシマの地の社会党委員長として、戦後最大の耐え難い憤怒の念を心に抱いている。広島、長崎の生き地獄は何であったのか。》

被爆者援護法の大きな壁であった、国との雇用関係や官僚の言い分に対する批判も随所に出されている。

近藤は国が慰霊碑の横に造った国立原爆死没者追悼平和記念館に対し「核廃絶、平和への政府の決意を感じさせる建物でないと作る意味がない、また、外国人被爆者にも触れるべきだと主張」し、執拗に被爆七団体の事務局長として数度の癌手術で余命が見えていたが、最後の力を振り絞った。建設理念を示す説明に「この館に納められた遺影が、誤った国の政策の犠牲者であること。核兵器廃絶を国家が誓うこと」と明記させた。

《単なる追悼記念館ということだけでなくて、国があそこで死者に対する、きっちとした謝罪をして、今後、反戦、反核を誓うという館にしたかったのだ。

ちょっとニュアンスが薄れたけれども僕はそれで満足している。だからアジアの人がきても、日本はこういうことをしてくれたんだ。国が負の遺産である戦争と原爆を刻んだということが大きな意義があると思う。(中略)記念館は、人間の心、亡くなった人の心の問題に踏み込んでいる。そういう意味では破壊力と違う意味での重みがある。原爆の破壊力はよく知られているがそれによってどれだけ家族崩壊が起きたのか、個人個人がどんなに苦しい思いをして亡くなったか、遺族はどれだけ悲しんだか追悼記念館に行くことによって分かると思う。『風化』は最大の犠牲者である死没者に対する慰霊の気持ちが薄れたときから始まる。国の施設として、日本の過去に対してどのような認識を国の内外に示すことが適切なのか。国民みずからが戦争犯罪を考えることなく『全体』の責任があいまいにされてきた》と近藤は語っている。

また原水禁運動が始まって以来の多くの人たちや近藤と運動をともにした組合の仲間についても、その運動の紹介とともにヒロシマの運動史とも言える詳しい紹介がされている。

ただ、この本で紹介が洩れていると思われるのは五十七年から十数年広島原水協、原水禁の事務局次長として活躍した故板倉静夫氏に触れられていないことだ。私は五十八年、六十年と平和会館に板倉氏を訪ねたが森滝、伊藤満、伊藤壮先生に囲まれて平和会館を仕切っていた感じがする。

訪ねてきた被爆者や大学の偉い先生の中でいつもニコニコ人の話を聞き、相談に乗り、いろんな人と酒を酌み交わし信頼されていた。近藤も、伊藤さかえさんも、高橋さんも日詰さんも当時平和会館に出入りしていた人で彼と話をしなかった人はいないと私は思う。藤居平一氏も然りで信頼できる次長で、家業に専念するときも板倉氏に期待し任せたのではないかと思う。

また日共系が勝手に自分たちだけで被団協をおん出て分裂したときも、多くの人は板倉氏を信頼して日共の執拗な分裂工作も、彼の説明で多くの人が跳ね除けたのではないかと思う。

その他戦後処理の問題でも、軍人・軍属・一般戦災者、外国人被爆者、在外被爆者のそれぞれ差別についても詳しく触れている。

最後に、近藤さんが亡くなったとき山口氏康氏が「日本の平和運動は、いや世界の反核平和運動にとっても大きな痛手である」と嘆いたのを紹介しておく。(引用は原稿(草稿)に拠る)(2007.2.14)


アサート No.355(2007年6月16日)

 

【書評】 「被爆動員学徒の生きた時代―広島の被爆者運動」
            
(小畑弘道著・たけしま出版・1365円)

 


 本書は広島被爆者団体連絡会議の生みの親で初代事務局長、近藤幸四郎(二〇〇二年死去)の生涯をたどる一冊だ。遺言で託された被爆者運動関係の一切の資料、広島平和会館の移転に際して広島県被団協から寄贈された大部の資料、これを労働運動の仲間の小畑弘道がまとめたものである。
 ぼくも松江澄(元広島県原水禁常任理事、二〇〇五年死去)を通じていつのころからか、近藤を知ることになる。最後に会ったのは、秋葉忠利が広島市長に立候補した八年前、その決起集会の場だったことを思い出す。
 小畑は宮崎安男(元広島県原水禁事務局長、二〇〇七年死去)らの近藤評を引いて「タテの発想になりがちな労働組合において、彼は徹底したヨコの発想で異色な存在であった」「タダ酒を拒否し、完全な割り勘主義で、地位や身分ではなく、どんな立場の人とも対等に接し、一対一の人間の絆を求めた」と書いている。ぼくはあまり深い付き合いではなかったが、そんな人なんだ、と今思い返している。
 近藤は一九四五年八月六日、修道中学一年の時に被爆。建物疎開作業に動員されていたが、この日は休みをもらっていた。このことが生き残ったうしろめたさとして、原水禁運動にのめり込む原体験になるのだろう。
 電電公社に就職し、全電通の労働運動を通じて被爆者援護法運動にかかわる一方、電通被爆者協の結成を通じて現地の職域被爆者組織結成にかかわった。原水禁運動の形成と分裂という複雑な情勢の中で被爆者援護法の制定、フランスの核実験抗議、陸自第一三師団市中パレードに対する抗議、原爆慰霊碑前での座り込み、原爆の「加害と被害」問題への取り組みなど、戦後の被爆者問題で近藤がかかわらなかった問題はなかったと言ってもいい。
 近藤は労働組合幹部によくある「天下り」の道に進まず、晩年は広島駅前で「ギフト・コンドウ」という商いをしながら運動を続けた。もともと父親が組合長をしていた駅前商業協同組合という個人商店が集まった木造建屋の二階には松江らの事務所があったという。父親も松江らの運動にシンパシーを感じ、カンパしていたという。筆者が初めて広島に来た七〇年代後半、「広島市民新聞社」という看板が駅前に見えたが、それがこの事務所だったのだろう。むろん、今はその看板を見ることはない。
 松江は旧満州の戦線を経験し、復員して朝鮮戦争までの五年間、占領軍と対峙した日鋼争議の指導や「原爆廃棄」を初めて訴えた平和擁護広島大会の開催など運動のうねりの渦中に身を置く。レッドパージで勤務先の中国新聞を追われ、路線対立から六一年に共産党を離れ、社会主義革新運動(社革)に参加。二十数年後の八四年、社会主義の優位性を批判する論文を発表した。ソ連の崩壊はその七年後だった。「神のごとく尊ぶ」という批判的な言い回しをよく使っていた。その対象が天皇制であり、「前衛党」だった。最後にたどり着いたのは「もっと民主主義を」だった。
 個人的に思い起こすと、共産党の中国地方の指導部にいた松江はいわば広島の運動の「プリンス」あるいは「カリスマ」だった。それに対し、労働運動たたきあげの近藤はある意味で畏怖された汚れ役であり、また黒子だったのだろう。しかし、その語り口には人間の実があったと思うし、小畑が「新人記者の教育係と言われたことがある」と書いているように辛抱と目配りの人だった。そう言えば、そんな「記者の教育係」が、つい二十年ほど前の広島には何人もいた。
 ここ五年で、近藤、松江、宮崎と相次いで広島県原水禁の古参の活動家たちがなくなった。今年に入って亡くなった宮崎の葬儀に参列した。参列者の一人が「迷ったら現場に帰れ」が宮崎の口癖だったことを披瀝した。近藤も終生現場の人だったし、松江もむしろ晩年は若い市民運動家とつながりを深めた。
 本書の主題、副題、或いは帯に「近藤幸四郎」の名前がないのは残念だ。一般的な被爆者運動通史ではなく、一人の被爆者・運動家の生きざまに光を当てた書だということを関係者に知ってほしいとも思う。(広島・S)