私の昭和思想史()   松江 澄  「労働者」

 

 いままで三〇回(一九一九年〜1970年)か書きつづけてきました『労研通信』がこのたび休刊になりますので、編集委員会の御好意によってこの一文の書き続き(一九七一年から)本紙に載せて頂くことになりました。ついてはその第一回の一部をここへ再掲させて頂くことで、この手記を書き始めた私の意図を理解して頂ければと思ってます。今から二〇年間を書きつづけるつもりでいます。どうか宜しくお願いします。

 

自我のめざめ

 

 私が標題のようなものを書いておきたい、と思い始めてからすでに数年になる。少なくとも七〇歳になるまでにはと思い定めていたが、すでに来年になった。もっとも、いまどき「古希」などというものは掃いて捨てるほどある。誰も気にしない。私も、そんな年か、とおどろくが、それは自分にとっての相対的な時間の問題で、いっしょに活動している広島の反戦反核の若者達は少しばかり年寄の仲間としてつき合ってくれる、と思うのは私のひいき目か。

 それでも私がこういう一文を書いておきたかったのは私の周辺の大先輩は何れも戦前からの革命家であり、私より少し若い人達は敗戦善後に二〇歳を越えた人が多い。いま日本の革命運動のなかで恐らく最も層が薄いのは私達の年代であろう。大正の中期に生まれ、大正の末年=昭和初年に小学校に入った私は敗戦のとき二十六歳であった。これはもう一人前の青年として充分な年である。しかも私の戦前は生徒であり学生であった。学校の塀の中に多少残っていた断末魔の自由がやがて根こそぎ奪いとられ、徴兵猶予が取り消され徴兵検査を受けて二等兵で在学のまま召集され、寒い冬の最中に当時の「満州」牡丹江のまだ奥にある部隊へ送られた。それは私にとって正しく戦後読んだ野間宏の「真空地帯」であった。

 旧制高校に入ってようやく自我にめざめた晩生の私は、手当たり次第に文学・思想・哲学の本を読み漁り、結局行きついたのは国家・社会と断絶したカント的個人主義的人格主義哲学であった。しかし、折から強まる軍国主義的風圧はいつまでも「わが内なる自由」を自由のだせてはくれなかった。天皇も差別される人々も同じ人間ではないかと疑う素朴なヒューマニズムを何よりの宝だと思う私を国家は巨人のようにほんろうした。「満州」から内地に帰ってやっと見習士官になり、本が買える「自由」がうれしくて富士山麓から沼津へと胸をおどらせて本屋を探し、僅かしかない思想書の中から武市健人の「ヘーゲルの弁証法」を買いこんだ。それはヘーゲルにならって戦争に「人間的契機」を見出すことによって国家の「相対性」と取引するためだったのだ。

 

富士山麓で敗戦

 

 こうしてやがて富士山麓で敗戦を迎え、軍隊から解放された私が後になって知ったことは、私の原隊であった牡丹江重砲連隊はソ連の参戦によって瞬時に壊滅し、原隊に残った戦友達はすべて戦死、それまでに南方へ転属になった友人達も沖縄などでその多くは戦死したことだった。すり抜けるように助かった私が広島に帰ったとき、私は二週間前に投下されたと聞いいた原爆の破壊した廃墟に直面しなければならなかった。そうして私がまもなく知ったのは兄が爆心地近くで遺体も分からず原爆死したことと、三年後には血を失って亡くなった母がかなり弱って三原の親戚で病の床にあることであった。

 三原に帰って父母から状況をきき、軍医に召集されていた兄の部隊を探して遺骨を受取り、三原で葬ったがそれは兄のものではなかった。年暮れようやく落着いた頃、三原の新しい友人達とともに「文学城」という雑誌を出す企画に参加し、私も一文を書くことになった。翌二十一年六月号を創刊号にして出発したその雑誌に私が書いた戦後最初の文が、「人間存在の本質と限界」であり、第二号に書いたのが「ヒューマニズムの政治思想」であった。もって廻った難解なその長文を最近発見して読み返し、それが戦前のカント哲学の呪縛をとき放ちつつ唯物論哲学へと模索する苦闘の文であり、カントへの決別の文であることを思い返した。私にとって進むべき道はマルクス以外なかった。

資本論をはじめ手に入る本を読みながら一年近く充電して中国新聞に入社したのは四六年(昭和二十一年)十月であった。そのときすでに十月闘争は始まり、以来嵐のように進む労働組合の真唯中に身をおいて四八年(S二十三年)、私は自らの思想と行動を整合することの重要さを納得して自らの選択で、ちゅうちょしていた日本共産党への入党を決意した。

 カントから瞬時のヘーゲルを経て行きついたマルクスは私にとってすべてのように思われた。しかしそれを体現しているはずの日本共産党は私にとって次第に目指していたものではないように思えてきた。青春時代、主体としての自我のめざめに有頂天になり国家と社会をうつろな眼でしか見ることができず、やがてその国家に自らを呑みこまれた私が、二度と誤ちをくり返すまいと固く誓って自らが進んで参加した日本共産党の組織は、やがて批判の自由を圧殺し、自立を奪って上から「共同」を強制しはじめた。それはかつてどこかで出会ったことのある絶対主義的なものであった。今度こそはと、自己をかえ返しつつぶつかった結果が、二度、三度に亘る除名と機関罷免であった。すべての批判を弾圧して自由を抑圧する組織はまさしくかつて経験した国家の相を呈していた。いや、それは単なる相ではなく、その党のめざすスターリン的社会主義「国家」の原型だったのだ。ヘーゲルは再び私の前に大手をひろげて立ちふさがった。しかし私にとってそれは二度と従順に服従すべきものではなかった。

 限りない矛盾

 ついに離党して除名された私は喜んで社会主義革新運動―共産主義労働者党へと歩み始めた。それはまた、私が生涯かけて贖罪の運動だと心に定めた反核反戦運動―原水爆禁止運動の分裂とちょうど時を同じくしていた。党と大衆運動と、何れも同じ批判の自由と統一という問題は以後わたしのとって最大の課題となった。それは、自立を重んじて国家と社会を失い、国家・社会に心を奪われて自らを失った私にとって限りない矛盾を追求する果てしない旅であった。その後、結集をめざして分裂し、分裂のなかから統一を模索しつつ今に至るまで二十七年、真理の荒野にさまよって帰する所を知らず、なおあるべき道を探してよわい七〇に至る、とふり返って長い道を思う。

 今にして思えば、それは日本の近代との長い悪戦苦闘ではなかったか。明治の近代化は自由民権運動の左を弾圧して右を懐柔し、残った勢力をナショナリズムでその思想を萎えさせてついに国家のヘゲモニーを確立する。しかし大正の新しい時代はこうした時代に反逆し抵抗する。この時期、日本で始めて農村人口が五割を割り発展する大都会へと人口は集中し始める。都会の資本主義的喧騒が生む孤独はやがてしたたかな自立を誕生させる。一度漬えたかに見えた近代的自立は土を衝いて立ち上がる新芽のように頭をつき出す。しかし又しても余りにも早い「共同」=国家の圧力は新芽を奪って服従を強制し、「近代相の超克」の名の下に戦争を鼓吹する。げに近代とは狂気の時代なのか。自らの生んだ自立を再び絞め殺すことによって帝国主義的近代を完成する。

 

大正の名残り

 

 しかしこの間にあって大正の時代は新しい可能性を模索する。そこでは大正デモクラシーと呼ばれるブルジョア左派の民主主義運動と合わせて、社会変革の根幹ともいうべき労働運動・農民運動・部落解放運動として革命運動の基礎が据えられる。大正―それは単に明治に反逆しつつ昭和をはらむ矛盾激突に時代であり、それはまた明治に始まる東アジア民衆と日本帝国主義との対立と闘争を自らの内にきびしく胚胎する過渡の時代でもあった。

 大正の半ばに生まれて幼年期をこの時代に送った私の裡に刻み込まれた無意識の心音は時として音高く私の胸に鳴りひびくことがあった。自らの人生の最初の時代は新たに私に何かを語りかけるように思える。こうした時代の子が思い、行動したことは、私達の先輩とも後輩とも後から来る人達とも違う独特なものがあるのではないか。私が書き残そうと思った理由はそこにある。

 

 


私の昭和思想史(三二) 松江 澄 「労働者」(1971年からの分)

 

 世界的転換のきざし―「ニクソン・ショック」

 置く縄は七一年六月に返還協定が結ばれ、七二年五月復帰することになった。しかし、沖縄の戦後はけっして終わらずそれは「第三次沖縄処分」と呼ばれた。まず何よりも在日米軍きちの七五%を占める尨大な基地は依然として居座り貪欲な本土大資本は一斉に殺到して自然を破壊し沖縄経済を蹂躓しつつ「開発」に狂奔した。私は最初の訪沖のときに嘉手納期地を巡ってその途方もない広大さに驚き、基地の町に米軍占領下の広島を見た。二度目の旅では活動家の案内で沖縄戦跡を目の当たり見て、激烈な沖縄戦とそのなかで無惨に命を奪われた人々を偲んだ。

 一九七一年、中国「文化大革命の成功」を讃えた中国共産党はその功績者として軍の責任者である林彪を毛主席の後継者として指名したが、林彪は翌七二年ク―デタ―で毛沢東打倒に失敗して逃走する飛行機がモンゴ―ルで墜落して死亡した。七一年の夏、世界は二つの「ニクソン・ショック」に驚かされた。その一つは七一年七月に発表されたニクソン大統領の訪中計画である。ベトナム戦争泥沼から足の抜きようもなく、アメリカと世界の青年や民衆の不正義、不公正なベトナム戦争を撃つ声はいっそう高まっていた。この四月、湾岸戦勝に勝利したブッシュ大統領が「ベトナムの亡霊はいま湾岸に埋められた」―と誇らしげに語るほど以来今日まで二〇年間「ベトナムの亡霊」はアメリカの青年ばかりでなくその支配層を悩ましつづけたのであった。

 そのアメリカが中ソ対立を利用しつつ台湾確保を中心とするアジア戦略から中国に接近する戦略へと転換し、中国もまたソ連との対立、第三世界戦略の孤立から思い切った対米接近路線へと飛躍したことは世界の耳目を聳動させた。このとき以来、米中の接近と疎隔とはソ中の対立と協調に逆比例しながら今日に至っている。

 もう一つのショックはその翌月ニクソンによる新経済政策の発表であった。ドルと金の交換の一時停止である。世界の基軸通貨として「パクス・アメリカーナ」の経済軸であったドルの放慢な流出は、フランス等の換金要求によって金の国外流出を無制限にすすめ、そのうえベトナム戦費のたれ流しはいっそうドル不足=金不足に活車うぃかけた。この交換停止によって戦後来のIMF体制は崩壊し、以来通貨危機は今日に至るまで資本主義世界経済を襲い続け、やがてベトナムからの「名誉ある撤退」によってついに「パクス・アメリカーナ」は幕を閉じるのであった。

 

 日本に忍びよるひそかな変化

 日本はこの頃からアメリカと対照的に経済大国への歩みを開始し、やがて始まる「石油ショック」を減量経営で切り抜けて八〇年代のME革命でいっきょに各国をしのぎ、飛躍的な産業構造転換のもとで今日の基礎をつくった。七二年六月に登場した田中内閣は日中国交回復をはかり、始まった経済成長に依拠して「列島改造」に血道をあげ、土地価格騰貴ブームの端緒となった。

 広島の党は七一年四月の統一地方選で、県議選では前回の雪辱をはたして一〇三〇一票一四名中第九位で当選し、山口君は市議選で四七六一票四八名中第一三位で初当選した。平和記念館でひらいた祝賀会にはかってない多くの人々が結集して、二つの当選を祝う歓声は館中にこだました。この年の労働者党全国代表委員会は勝利に因んで広島で、開き、私が全国委員会議長に就任することになった。内藤さんは東京で病後を養っていたが、上京の折訪れる私に、現代帝国主義の探求を求めていたことが今にして思い返される。

 七二年二月には県・市議会選の勝利に勢いづいた市民運動・住民運動は新たに市民運動の共同推進母体として広島市民会議を結成、以来、不当水道料金返還要求運動、森永砒素ミルク中毒の子供を守るための運動など広島における市民運動の拠点として活動を開始した。

 しかしこのときすでに労働組合運動に新しい変化の兆しがしのびよっていたのだが、私はやがて大きく変化する情勢と条件をはっきりと見とうすことができなかった。それは世界の最先端をゆく技術革新が生産と労働にもたらした新しい変化とそれが労働組合運動に及ぼす深刻な影響である。

 日本にIMFJC(国際金属労協日本協議)が設立されたのがすでに一九六四年である。以来あらたな「戦線統一」へ胎動が陰に陽に始まっていた。一九七〇年から国労、全逓の「マル生」に反対闘争で高揚しつつ「スト権スト」にひきつがれるが、それは戦後来つづいてきた戦闘的労働組合運動の最後の闘いであった。

 戦後来の資本と労働の対立と闘争のなかで、資本の戦略の巧妙さをいま改めて思う。彼らはまず「レッド・パージ」で民間労働組合という外堀を埋めつつ戦後闘争の先陣をさきがけてきた官公労の息切れを待ってこれを制圧した。後に残ったのは国労、全逓などを中心にした公労協であった。しかし、社会党=総評による反合理化路線のゆきつくところ、「上からの」事前協議制が資本の先制攻撃によって崩されて全戦線が後退しはじめ、七〇年には「全民懇」による労線統一世話人会が生まれ、反対の極には新左翼による春闘討論集会(全労活)が始まった。労線統一をめぐるその後の対極の構図である。(つづく)


私の昭和思想史(三三) 松江 澄 「労働者」掲載

二度目のソ連

 ちょうどこの頃、一年に一度、全国県議会議長会が主催する国外行政視察旅行に「年期」によって議会事務局から私に参加要請があった。県委員会で相談したが、みんなよい機会だから勉強してこいという。私ばかり行くのも気にひけるが、この度の旅費は公費なのでカンパも不用だし何よりも二度目のソ連と初めての東欧が含まれているので私は参加することに決めた。

全国総数二九人が羽田空港を出発したのは七三年四月二十六日の午前一一時、私には初めての長距離航空機(ターボブロッホ)だった。実飛行時間は一〇時間近くだったが時差修正でモスクワに到着したのは一五時五分だった。シレメチボ空港にはかねて打ち合わせていた広島の山田君(私が大原代議士に頼んで当時モスクワ民族大学在学中)が迎えに来ていた。いっしょにバスにのってホテル・インツーリストに同行し、彼の家から彼の注文でことづかってきたラジ・カセを渡してコニャックを飲みながら久しぶりで話した。彼の話では、モスクワの町にも東京や広島と変わらぬ「夜の町」があるようだった。

別れぎわになって彼は、好きな女性と近く結婚すると白状した。二八才で先夫との間に女の子が一人いるという。父親さんやお袋さんがどういうかな、と問うと、まだ内証にしておいてくれと頼む。こうして私は彼の大切な秘密をあずかる羽目になったが、やがて彼の同伴帰国で見事にばれて私は家族に会わす顔がなかった。

翌日あちこち御仕着せの視察のあいだをぬって、私はゴリキー大通りに並ぶ大きなショップを見て歩いた。たしかに商品は六五年当時に比べて出廻っていたが、デザインは単調で高いものは余り売れていない。機会あるごとに労働者にきいてみると、住宅や生活必需品は安いが白黒でも三〇〇〜四〇〇ルーブルするテレビや、五〇〇〇〜九〇〇〇ルーブルもするモスクビイッチ(国産小型自動車)は、月額一三〇ルーブル内外の給料では手が出ない高根の花だという。つい最近行なわれた党大会についてきいて見ても、前回のときと同じように当たりさわりのない返事しか返ってこない。とても「労働者階級が主人公」とは思えない。地区党の幹部は五〇年代生まれの青年たちの動向がいちばん気になるようだった。

モスクワからレニングラードへ行くころはメーデーの直前で、町中に赤旗がひるがえり準備に忙しかったが、指導者の大きな顔の看板はどう見ても私にはいただけなかった。ちょうどメーデーの日の午後六時頃ストックホルムに着いた。こことコペンハーゲンは何れも一泊二日で、初めてのスエーデン、デンマークも束の間だった。ただ一つ、いまでも「豊かな社会主義」といわれているこれらの国々が、「高課税・高福祉」で先へ進むか後戻りするかの岐路に立って行きなやんでいると現地の活動家は話していた。

初めての東欧

コペンハーゲンから一転してワルシャワに入ったのが五月四日だった。私はソ連と違った意味で東欧社会主義の実態に少しでもふれようといささか緊張していた。二泊三日の確かな滞在のなかで、当時の私のメモ帳の冒頭に次の一行がある。「なんとなくソ連と異なって自由の空気がある」と。それは町を歩き市民と話した私の第一印象であった。その頃は個人商店が一定の限度内で認められ、農業も集団農場は少なく個人農が多かった。たびかさなる動乱の跡はうかがうすべもなかったが、会う人々はソ連とは反対に遠慮なく政府を批判していた。

朝早く起きて労働者が出動前に立食するスタンドで私もいっしょにパンと肉をほほばりながら話をすると、だんだん打ちとけて話がはずむ。そのうち一人の労働者が私に、ワルシャワの町の中で一番景色のよいながめはどこから見た景色か知っているか、と問う。もちろん私は知るはずがない。あっさりかぶとをぬいできくと、あの窓から見るワルシャワの景色だという。その窓のある建物とは、スターリンがこの町に寄贈した彼好みの大規模で天に向かってそそり立つ尖塔を中心にした大宮殿であった。何故その窓から見る景色がよいのか分からぬ私に彼は、「その建物が見えないからさ」といってニヤリと笑う。やられたなと思ったが一瞬それはスターリンに対しだけ向けられたジョークではなくソ連そのものに向けられているなと私は思った。

その夜この大宮殿の地下にある巨大なカフェーでひらかれたパーティで、私は「夜の女」と自称する女性に会った。移民の多いポーランド人は外国の親戚に行きたくとも金がないのでドル稼ぎだという。だがその裏に生活のきびしさとともに、外に出て見たいという強烈な欲望があると思われた。

プラハも同じように二泊三日だった。かつてビザンチン文化の都だったこの町を流れるブルタバ(ボルドウ)河にかかる一五世紀時代の橋や、おとぎの城のようにくつきりと立つプラハ城のすばらしさに私は心を奪われた。しかしここでも私達はジョークばりの皮肉の針でさされた。それは私達がバスでプラハ城を下りたあたりにソ連の旗をかかげた駐留軍司令部を見つけたときだった。誰かが、どうしてソ連軍が駐留しているのかと皮肉まじりにきいたとき、私達の案内人は切り返すように、「貴方方の国にもアメリカ軍が駐留しているではないか」と答えてニヤリと笑った。

私は昼食のとき二、三人の活動家らしい青年達とつれ立って同じテーブルを囲んだ。私は自らがコミュニストだとことわって「プラハの春」の弾圧を批判し、率直な意見を求めた。しばらくの沈黙ののち一人の青年が党員だと名のって、ソ連の云いなりになる政府を遠慮がちに批判した。「プラハの春」が東欧五ケ国軍の戦車で蹂躓されてからまだ四年目だった。(つづく)


私の昭和思想史(三四) 松江 澄 「労働者」

チリ社会主義革命の挫折

 

 一九七二年は重要な事件があいつで起こり、広島にとっても重大な闘争が闘われた年であった。広島の運動としてこの年に画気的なのは、被団協・原水禁が被爆者援護法に必死の思いをこめて大挙上京、全国的な支援のもとで首相官邸に座り込んだことだった。

 他の一つは、郊外の海田第十三師団が新任の師団長を迎えて強引に広島の中心部でパレードを強行し、中国地方からも労働者、労働組合が結集して抗議闘争を闘ったことである。このときの第十三師団長は奇しくも私と一高が同期で、内務省から警察予備隊に入り後に幕僚会議議長となって「有事立法」を主張して職を辞した栗栖弘臣であった。

 この二つの闘いは、「被爆地を自衛隊の軍靴で汚すな」=「被爆者援護法の即時実現」という意味で別なものではなかった。首相官邸の座り込みは長時間に及び、出て来ぬ田中首相に代わって二階堂官房長官が会見することになり、ともに座り込んでいた私も選ばれて被爆者代表とともに交渉に参加した。

 自衛隊パレードに間に合うよう急遽帰広して抗議闘争に加わったが、当日パレードが通貨する県庁前大道には万を越える労働組合員と市民が旗とのぼりをなびかせて待機していた。

 やがて自衛隊の隊列が見えると歓声をあげて一斉に抗議のシュプレヒコールを浴びせて、突出する部隊もあって緊迫した空気になった。結局、戦車を交えたパレードは大急ぎで通過し早々に引きあげたが、この闘いの盛り上がりは広島の運動の気勢を大いに鼓舞することになった。

 だが地方では八月八日、来日中の金大中氏が白昼東京の中心部のホテルから韓国KCIAによって誘拐される事件が起き、その行方を追って連日騒然としていた。しかし何といっても私達にとっての最大の関心事は、その一月後に起きたチリの反革命クーデターによって期待されていた社会主義への展望が挫折したことであった。

 これはアジェンデ大統領就任以来、議会内少数派の与党連合を軸に権力の基盤を一歩一歩奪取しようと、チリ共産党が中心となって進めていた国有化政策への武力反撃であった。

 アジェンデ大統領は闘って仆れ、軍部が実権をにぎって以来一〇数年にわたってテロリズムが荒れ狂い、昨年になってようやく民族民主勢力が大統領選挙に勝利して民主主義回復の第一歩がきづかれた。

 この事件は議会と政府を通じる社会主義への移行過程の事件として世界の革命運動に多くの問題をなげかけた。『労働運動研究』でも時を移さず柴山、植村両君が論陣を張ったが、私は翌年四月から『労研』に書きはじめた「新しい革命と新しい党」のなかで、「フランスの『五月』とチリ革命」と題してチリ共産党を批判した。

 それは、「マルクス主義の歴史的経験は、少数派による『強力の道』から多数派形成による『民主主義的=合法的な道』へとその探求を続けながら、いままさにそのことの成否が問われている」(前述松江論文)状況のなかで、まず「平和的な道」を第一義的な前提として軍隊を中立的に評価したことの批判だった。重要なことはまず「民主的な道」を選択し、必要に応じて「急流で馬を乗り換える」準備が必要だと主張したが、それは八〇年代に始まる私の「新しい革命」への探求のいとぐちとなった。

 内藤さんの急死

 一九七四年の四月には、広島県党の『労働者新聞』を『広島労新』と改題し、新たに『ひろしま市民新聞』を発行することにした。その理由は労働者闘争と住民闘争を二つの武器で分け持つことでいっそうの発展を期することにあった。

 この年の四月十一日、かねて準備されていた「スト権スト」が八一単産六〇〇万組合員による交通ゼネストとして闘われた。だが残念ながらスト権は勝ちとれず、さしもの大ストライキが得る所なく終わったことはその後の運動後退の第一歩となった。

 この年、ニクソンがウオーターゲート事件で辞任を余儀なくされ、田中内閣がロッキード事件等の金権問題で総辞職するなど、内外で汚職による重大な政変があったが、私にとって何よりも重大な知らせだったのは内藤さん急死の電話だった。それは、五月十六日のことで、長男といっしょに山に登るために出かけた国電のなかで心筋梗塞に仆れ、病院にかつぎこまれたがすでに駄目だったということであった。

 かねてから療養中ではあったが大分よくなって時には山に出かけたりしているときいていたが、この知らせは広島のわれわれにとってまさに晴天のへきれきであった。私はとるものもとりあえず上京して通夜の席に連なり、翌日は葬式のあと焼場に送って帰り内野邸で酒をあふったが一向に酔えず万感こもごも至って呆然とした。

 帰広して六月十九日、市内大手町の常念寺で党員とシンパ、友人八〇余名が追悼会に集い、十月十六日には東京の私学会館で「内藤知周を偲ぶ会」をひらき、内藤さんの古からの友人や交わりのあった各党派の人々と思い出を語り合って彼を偲んだ。

 私にとって内藤さんは師であり友であり兄のようだった。一九四八年国労ストのスキップ阻止の闘争で逮捕立件された公判の法廷で、当時地区労委員長として支援活動をしていた私は廷内側を越えて握手したのが初めての対面だった。

 以来日鋼争議も五〇年分裂も終始近くに在って相談し合いただ一度だけ離れていたのは極左冒険主義時代だけで、六全協以後は中国地方常任委員として毎日彼と仕事をともにし、綱領論争では一心同体となって追求した。彼は私より五才うえだったが大分年上のような気がしていた。彼は細心な反面きわめて大胆なところがあり、綱領論争ではその全生命をかけて闘い、宮本の矛盾をつく論鋒の鋭さは定評があった。


私の昭和思想史(三五) 松江 澄  「労働者」

 

 前衛党再建のために

前号(三四)で私は七四年四月の交通ゼネストと七五年十一月の「スト権スト」とを混同していた。「さしもの大ストライキが得る所なくして終ったことはその後の運動後退の第一歩となった」のは、七五年十一月の闘いであった。この年はまた私のとっても党にとっても重要で多忙な年であった。

 私は県会4期目、山口君は市会2期目の選挙がせまっていた。私達は前年の秋から本格的にとりくみ、年が明けてから急速に活動のテンポを早めて必勝を期した。しかし私は八六七九票―六四差で次点、山口君は四七六一票―五九名中一二位の好成績で二期目の当選を果たした。

かつては二八票で辛うじて当選し今また六四票で落選、小勢力の闘いにとってやむを得ぬ時の運であった。だが山口君の当選によって私達は広島の議会に労働者党の旗を掲げつづけることができたのである。

この選挙がすむと私は休むひまもなく党の重大な作業に集中しなければならなかった。それは前年来検討していた「前衛党再建」に向けて友党によびかけるための提案を起草することであった。草案はまず手分けして分担執筆したのち私がまとめることになっていた。

巣で何回もの討議をつくした私達は最後の集約のため九月中旬長野県野尻湖畔の学者村にある内野さんの小さな別荘で合宿することにした。但し宿舎はこの村の丸太造りの集会所だった。連日の討論で激論もあったがどうやら原案をまとめ、一日のんびりと秋色濃い野尻湖をたずね、近くの旅館で大きな岩魚の生きのよいのをさしみにして一杯飲んで疲れをいやした。

十月、全国代表者会議をひらいて討議、ここでもきびしい批判でいささか難航したがようやくまとめて原稿をととのえ、「『前衛党の再建のために』―私たちの提案」を十一月『労研』に発表した。提案にあたっての一文の中で強調しているのは変革主体の創造であり、前衛党の再建であった。「ブルジョア民族主義と議会主義に転落」している日共をひはんしつつ、日本共産主義運動の再建と統一をめざす諸勢力の共同を求めて提起したものであった。

本文では「独善主義とセクト主義をすてて共同闘争を発展させ、一つの革命的な戦線に結集しつつ日本のおける唯一のマルクス・レーニン主義の党を建設するという目的を共同で追求することこそ、今日の共産主義運動に与えられた第一義的な課題である。」と強調した。以来、内容に変化はあっても、自らを捨てて統一を求めることを唯一の存在理由とする私達の追求がはじまったのである。

この提案をあずさえて私達は手分けして各党派と会ってその真意を訴えたが、分断している各組織の共同を創り出すことは思いの外に困難であった。未だ機は熟していなかったのである。

 

「プロ独裁」をめぐり

 

 七六年四月五日、文化大革命で追放されたが先年首相に帰り咲いたケ小平が、周恩来元首を慕う民衆による「天安門事件」の黒幕だとして再び解任され、その後釜に華国鋒が座った。九月九日には巨星毛沢東が病死し、江青などの四人組が突如逮捕され華国鋒が党主席となった。

他方四月三十日にはベトナム解放軍がサイゴンに入城しここに長期にわたったべトナム戦争は終結し全土は解放された。日本では七月、田中首相がロッキード事件で逮捕され内外ともに大きな変化が訪れようとしていた。

この年九月三十日、天皇は訪米しアメリカとの関係修復に一役買った。ところがその帰国後十月三十一日の記者会見で質問を受けた彼は、「戦争責任」については「そういう言葉のアヤ」は分からぬと逃げ、「原爆」については戦争中だから気の毒だが「やむを得ないし」と公言した。

私は心底から憤激した。戦争と原爆を経た者にとっては何としても許せぬ暴言であった。広島原水禁、広島被団協は直ちに会議をひらいて公開抗議質問状を宮内庁経由で送ったが、まともな回答はなかった。

この年八月二十二日、労働者党全国委員会の呼びかけで、東京市ヶ谷の私学会館で「プロレタリア独裁問題シンポジュウム」がひらかれた。この会議には東京はじめ関東地方、大阪、京都、名古屋および広島はじめ中国地方と九州から、「日本のこえ」「新時代」「デモクラート」「共産主義者団」「共産主義革命党」「労働者党」の代表四三名が出席した。

この会議は、当時フランス、スペイン、日本などの共産党による「プロ独裁」概念の放棄があいつぐなかで、「プロ独裁」の内容を積極的に追求しようとするものであった。

まず私が、「『プロレタリア独裁』概念の放棄に対する批判と日本における『プロレタリア独裁』の展望について」と題して基調提起を行い活発な議論が行なわれた。そののち党は私の報告などを集録してパンフを発行したが、その中で私は日共の不破論文を批判しつつ、「職場と生産の主人公」をめざす労働者のヘゲモニーこそ「プロ独裁」の基本形態であり“細胞”であると強調した。

この号の原稿を書いた後でソ連のクーデターから党の解散についてのニュースを聞いた。それは正しく「プロ独裁」と「唯一前衛党」の最終的な崩壊であった。私の原稿と現実との逆な符合にわれながら歴史的因縁を思った。だが私の思想史は今日まで苦闘の一五年を必要とする。


私の昭和思想史(三六)  松江 澄 「労働者」

 

<戦前派と戦後派の逆転>

一九七六年といえば、戦後生まれの人々が日本人口の半数を超えた年である。私は五七才になっていた。統計局の発表はただの数字以上のものを私に考えさせた。

 二六才で敗戦をむかえた私にとって、その青春時代のすべては一五戦争の渦中にあった。とはいっても、私が直接感覚的に戦争のなかにあると感じたのは一九四一年の太平洋戦争からであった。それまでは戦争でありながら感覚的には「平和」であり「自由」であった。今考えて見入ると犯すことはあっても犯されることのなかった日本人の戦争への感性は、被害体験からしか考えられなかったのではないか。

 四一年以降はそれ以前の日常生活と違って急速に変わっていった。シュタインでドイツ・ビールを飲ませてくれた銀座のミュンヘン“から学生は閉め出され、それまでは質量とも満足していた食事もやがてトーフ一丁で「一膳飯」を喰ったり、肉のないライスカレー「一時腹」をゴマ化すようになり、四三年 にもなればキップがなければ外食もできなくなった。

 私の小学校六年のときに始まり中学卒業の年に全面戦争となった中国への侵略戦争も「被害感」のない日常生活の外にあった。この戦争の真実が隠されていたにせよ、戦争の正確な認識については感性のではなく理性の媒介が必要だった。文学者で私より一つ年下の安岡章太郎「僕の昭和史」も同じ理由で、「『十五念戦争』という云い方に実感としてなじめないものがある。」と述べ、「僕の実感として戦争が本格的にはじまったのは、この年(四〇年からである。」と記している。

 戦後生まれが過半数ともなれば、被害感さえ次第にうすらぎ、加害感はますます遠のくに違いない。残るとしても理念的な加害感と感性的な被害感の距離はますます遠くなる。ただいちずに反戦反核を闘ってきた私は、生年の戦前・戦後の逆転にいいようようのない不安を覚えた。

 しかも、この年十一月十日、天皇在位五〇年を祝う式典が全国の市町村で花々しく行なわれた。広島の祝賀実行委員の名簿は官公庁の長と各級の右派議員、知名会社の社長たち二〇〇人で埋められていた。その後の年号法、スパイ防止法案(廃案)、「日の丸・君が代」強制に至る反動化への開始の合図であった。

 天皇についての私の思想的原点は、すでに書いたように「人間に上下なし」という素朴な戦闘的ヒューマニズムであった。戦後マルクス主義の洗礼を受けながら、やはり私の天皇観の根底は変わらなかった。その天皇が戦後もひきつづいて「象徴」として再び「人心収攪の中心」(福沢諭吉)になることを憎んだが、いま生年の逆転が始まる年にそのカンパニアが進められることに私は二重の不安と焦りを覚えたのである。

<労働者党第一回大会―一九七七年九月>

 私たちは「前衛党再建のために」を発表して二年後に、それまで労働者党全国協議会という協議会であった組織を単一の党として形成することになった。それは共産主義者の結集をはかるためのも自らの党的主体形成が必要であったからである。

 そのうえ「提案」発表後急速に変化しつつあった情勢のもとで、そのいくつかの命題を補足する必要があった。この大会は、大阪部落解放センターの大会議室を借りて二日間に亘ってひらかれた。

新しい情勢としてはまず一に、ベトナム戦争におけるアメリカの敗北と、それが最終的にもたらしたドルの減価、国際通貨体制の崩壊、また世界的危機インフレと恐慌という資本主義世界経済の構造的危機についての分析であった。

第二には、五〇年代後半から年率10%を超えるめざましいテンポで国民総生産を増大させ、資本主義世界第二の「経済大国」にのし上がった日本資本主義の分析であった。

大会はとくに四〇〇〇億ドルを超えるアジア諸国への「援助」が単なる経済援助ではなく、アジアの反共軍事同盟をめざすアメリカ世界戦略に協調しつつ再びアジアの「盟主」になるための帝国主義的野望であると指摘するとともに、こうした日米帝国主義の針路に対立するベトナム戦争勝利に励まされたアジアと世界における民族解放運動の昂揚と発展がることを確認した。

そのうえで日本独占資本が自らの勢力の補完的役割として中道主義、新労使協調主義の育成にとくに留意していると指摘し、労働運動を始めとした各階層の運動、自然と環境を守る闘い、日韓連帯運動、部落解放運動についてそれぞれの重要な課題を提起した。

またこの大会は初めて「社会主義への変革をめざして」という一文で「日本革命の発展過程をあらかじめ図式的に断定しることはできないが、一定の政治的危機のもとで反独占統一戦線政府をめざす闘いが議会を通じて始まることはありうることである。」と議会を革命的にダイナミミズムのなかに位置づけたことをいま顧みる。この大会の追求は今日の情勢にも耐えうるものを残している。

この大会は最後に、「前衛党再建のために」というテーマのもとで、「共産党がありながら前衛党を再建する必要が具体的実践的な課題としてつきつけられているという日本の階級闘争と革命闘争の特殊性」を確認しつつ、前衛党の再建と労働者党の強化を統一して進めることの重要性を強調した。(つづく)


私の昭和思想史(三七)  松江 澄  「労働者」

原水禁運動の「統一」問題

 一九七五年から一九七九年頃までの反核運動にとって最も重要な問題となったのは「原水禁運動の統一」であった。この問題は私自身が四九年来の反核反戦運動から五四年の原水禁運動へと一身を投じていただけに私のとって避けて通れぬ問題であったし、それはまた私と日共との思想の闘いでもあったという意味で忘れることのできぬものであった。

 この問題については当時の『労働運動研究』に四回にわたって書いた「原水禁運動の統一について」の一文に詳しいし、それはまた私の、この運動について執筆したものに加えて書き下ろしたものを含めて一書にまとめた「『ヒロシマから』―原水禁運動に生きて」(青弓社 刊)のなかにすべて書きとどめておいた。いまそのなかで私の思想史にとって最も重要だと思うことだけは整理して書きとめておきた。

 原水禁運動の『統一』問題がおきたのは、この運動が六三年に分裂して一〇年後の七二,七三年、日共がいわゆる「統一三原則」によって解体統一を提唱したころから始まった。それが実際に具体的な動きとして日共・総評の会合などが行なわれたのは、それから二年の七五年ころであった。以後、統一議論が激しく沸騰し「統一」世界大会が模索された。私にとって、この運動の分裂と統一はもとより、さらに労働組合運動をはじめとするすべての大衆運動の統一と分裂を追及することが求められていた。それは戦後来広島でこうした運動のただなかにいた私に、改めて「運動の統一」とは何かということについて深い考察を迫るものであった。

 私は『労働運動研究』七七年六月号に「再び原水禁運動の統一について」という論文を書いてこの問題を究明したが、それは私の思想史にとって重要な一頁であり、この問題についての追求を総括する格好の機会となった。私は、このとき「運動の統一」とは何かということが運動にとって最も根底的な課題であることを直感していた。それは原水禁運動だけでなく、近代以来の日本の大衆運動、とりわけ戦後日本の諸運動をつらぬく「統一と分裂」についての総括であった。そこで私がゆきついた結論は「意見が同じものが、ともに闘うことは『統一』ではない。異なった意見や方針をもつものが一致する課題で、ともに闘うことこそ運動の統一である」(前述論文)ということであった。

 

 主体と連帯あるいは個と共同

 

 だが、私の模索は、そこに留まることを許されなかった。つづいて私は書いた。「統一の思想は個々の組織の主体性の確立と矛盾するどころか、それを前提としてのみ成立しうるものであり、・・・・・・・・その意味で統一の思想は思想の主体性と表裏一体のものであってけっしてその逆ではなく・・・・・・統一の思想の弱さは思想の主体性の弱さと別のものではない」ことを確認した。そうして、日本の運動の主体性の弱さ=統一と連帯の弱さは「ブルジョア民主主義をかけ足でと通りすぎた日本の大衆運動の自立性の弱さの反映でもある。」と総括した。

 この追求は、その後十数年を経てさらに私の内部で新しい模索を生んだ。それは私がたどたどと総括し直すことによって日本の近代の内部に暗く澱んでいる「日本的集団主義」であった。集団の権威の前に沈黙することによって異端でないことのアリバエにする思想である。それは戦時中には極めてろこつ通用し、「日本的集団主義」は草の根ファシズムに転化して、あの戦争を支えることになった。いや、それは戦後消え去ったわけではない。いま現に職場と地域で充分に生きのびて運動の足を重くひきすえている。

 私はこの問題は日本の近代社会のなかでの「個と共同」の関係であると考えはじめた。それは、八九年以来の現存社会主義の崩壊のなかで、かねてから追求されていた新しい社会への展望とも重なるものであった。マルクスの言う「ひとりひとりの自由な発展がすべての人々の自由な発展にとっての条件である。」(共産党宣言)のような「一つの協同体」とは、「個」の自立を前提にした自然体によって個と共同が相互につい合いのとれた協同組合のような社会ではないのか。ところが崩壊した現存社会主義のなかに私が見出したものは、これとは似ても似つかぬ上からたばねられ個を抹殺した集団主義の社会ではなかったか。この模索は私のなかで今日もつづいている。

 再び当事の現実に帰ろう。私が提起した「統一の思想」と運動は広島原水禁に受け入れられ、森滝さんは「主体と連帯」ということばで呼応した。しかしそれから一ヶ月もたたぬ七七年五月十九日、秘かに唯一人上京した森滝さんは学者などのあっせんで「協」の責任者である草野氏とのトップ会談をして、「禁」「協」の「組織統一」を展望する「五・一九会談」に署名した。私たちにとって全く寝耳に水だった。森滝さんの帰広を待って開いた非公開の常任理事会で私はきびしく批判した。平和運動にとって「カリスマ」は不用である。この運動こそ一人一人からなる民衆の運動と討議によってのみすべては決定される。ともに長く運動してきた尊敬する森滝さんを批判するのはつらかったが、あえてしなければならなかった。

 ※ この合意書には、この年「八月の大会は統一世界大会として開催する」など五項目にわたっているが、その第三項では「年内をめどに、国民的統一組織を実現する」となっている。


私の昭和思想史(三八)   松江 澄  「労働者」掲載

 

反動派の攻撃と選挙の勝利

 

 一九七八年は血なまぐさい反動が始動を開始した年だった。まず七月には「有事立法」が公然と国会の舞台に登場した。これはすでに書いたことではあるが、私と一高同期の栗栖が幕僚会議議長になるとまもなく「有事立法」の必要を公然と発言、主張して大いに物議をかもしたことからおきた。

 彼は学生時代に私と同じように軍隊に召集され、フィリピンなどに転戦し敗戦を迎えて内務省に入り、その後五〇年に創設された警察予備隊(陸上自衛隊の前身)に転じて次第に頭角をあらわし、ついに幕僚会議の議長になった。彼が「有事立法」発言で職を辞したころ東京で開かれた同期の一高会であったことがある。

 彼の話を聞きながら私が気がついたのは、栗栖はただ一人はじめて文官出身で武官の最高位に任じたゆえに、武官以上に武官達の立場に固執したなということであった。

 つづいて「三矢研究」が国会の中で暴露、追及されて大問題となり、制服組の独走だとして大いに非難されることとなった。これは朝鮮半島への軍事展開について作戦研究したもので、自衛隊作戦戦術の方向がどこに向けられているかを明らかさまにしたものとして国会内で左右激突したが、自民党も武官の独走はシビリアン・コントロールをやぶるものとしてしぶしぶ認めなければならなかった。

 「有事立法」といい「三矢研究」といい、安保闘争後しだいにあらわれ始めた自衛隊肥大化の波にのっていっきょに禁忌の一線を越えようとして失敗したもので、自民党政府や自衛隊の志向の方向をはからずも暴露することになった。

 こうして翌七九年四月には自民党と右翼勢力がかねてからもくろんでいた「年号法」が国会を通過して成立した。これは、以後展開される靖国法案、同公式参拝、スパイ防止法案など一連の反動化への口火を切る合図となった。

 そうしてちょうどこの四月全国一斉に統一に地方選挙が行われ、広島では雪辱を期する私と三期をめざす山口議員がそれぞれ県市議選に立候補、勝利をめざして闘った。

 とくに県議選は政令市をめざして合併拡大中のためかつてない大選挙区で大変苦労した。その結果、私は一〇三四七票を獲得して二二人中一八位で当選で五期目の議席を確定し、山口議員は3978票を獲得して三九人中三四位で当選して三期目の議席を守った。こうして四年ぶりに県市のコンビを回復し、広島県党の意気は上がった。

 

労戦統一と党の組織統一と

 

この頃、労戦統一への動きはしだいに進み、こうした「右翼再編」に反対する日共は七四の暮、統一労組懇を結成して、七九年十一月には彼らの「ナショナル・センター」を結成しようとしていた。このような情勢のもとで、「労戦統一問題」がにわかに労働運動の前途を展望する最も重要な課題となった。

わが党は日共のセクト主義的対抗路線には一致して批判したが、「労戦統一」そのものについては東京と大阪とで意見がきびしく対立していた。そこで私はこの年の暮れ、長谷川(浩)さんとともに大阪に出かけて原さんを初めとした労対部とこの問題を討論することになった。ところがなかなか意見は一致しない。

大阪の主張は労働組合にとって最大の力は統一であり、一時は後退してもそのなかでの時間をかけた実践的な運動によってこれを変えていかなければならぬという。東京の浩さんは、その統一が明らかに右翼分子の主張によって労働組合運動の右傾化をねらうものであるとしてきびしく批判する。

私は双方の意見を聞いていて、これは一時の意見の相違や単に「労戦統一」だけの意見のでは対立ではないと思った。それはそれぞれ長い歴史をもっている首都圏と関西の労働運動の歴史的な相違であると思った。関西労働運動はその歴史が示すようにプラグマティック戸さえ思えるほど徹底的な現実主義で、理念や思想よりも具体的な実践課題とそれを獲得するための力を何より重視する。

それに比べて首都圏では、もちろん現実に立脚しながらもなお思想・理論を重視し、時には現実を越えてなお理念を追求するところがあるように思える。これは双方の戦前来の党風を伝えて戦後の今日に至る歴史の相違だと私は思った。

そこで私はこの相違をいっきょにまとめることは不可能で、理屈や理念だけでは解決できないと思った。そこでまとめることができたのは労戦統一の階級的発展を追求し日共のセクト主義路線をきびしく批判することであった。

労戦統一にもまして重要な課題は前衛党再建をめざす第一歩としての党の組織統一の問題であった。なかでも組織統一について基本的に合意した「建設者同盟」とわが党がいかにして統一を実現するかということであった。七九年の労働者党第二回大会は両組織の統一をめざして、各対応細胞毎の統一会議と統一行動を基礎に両党の組織統一を八一年の早い時期に実現することを期した。

私はさっそく両組織の合同夏期合宿に参加してともに討論した。私はそのなかで、ソ連や国際情勢の見方にかなり相違があることにすぐ気がついた。それは「平和と社会主義」に参加していた建設者同盟の人々と戦前・戦後の経験のもとに比較的に自由に追求してきた私達との相違でもあると思った。


私の昭和思想史(三九) 松江 澄 「労働者」

 

グタニスクのスト

 

 一九八〇年夏、ポーランドではかねてから生活必需物質の決定的な不足による大衆の不満がつもっているなかで、七月一日、政府が発表した食肉等の値上げにたいし全国各所でストライキが発生した。なかでも八月十四日、グタニスクのレーニン造船所の労働者による二一項目の要求をかかげたストライキは、ポーランドのその後の重大な変革過程への最初の第一歩となった。それは戦後、社会主義体制に移行して以来ほとんど毎年のようにつづいていた労働者の闘争や蜂起が党=政府=官僚との決定的な対立に高まり、以後八年間に亘る抗争ののち今日のポーランドを生み出す端緒となった。またそれは、ただポ−ランドだけでなくハンガリー、チェコスロバキアをはじめとして全東欧の民衆決起によって党=政府の一元的な支配体制がまたたく間に崩壊するという東欧圏における驚天動地の合図となった。

 グタニスクのストライキは工場間ストライキ委員会の指導を中心に闘われた、その委員長にえらばれたのがワレサであった。このストライキの成功によって党=政府側はついに讓歩、8月三十一日には政労合意の協定が締結された。そののちいったん結ばれた協定についてふたたび対立が生まれるなかで自主管理労組「連帯」が結成されてわれさが議長となり、グタニスク協定は完全に労働者のものとなった。(この項つづく)

なによりも、党=政府の権威がかつてなく失墜したことと、党と権力に束縛なれない自由な労働組合が生まれたことは、ソ連東欧圏における画期的なできごとであった。八一年二月三日、ギエレクに代わってヤルゼルスキーが首相となり、さらにこの年の十月にはカニアに代わって党第一書記を兼ねることになった。

 こうして私達にとっては、はるかに遠いポーランドがにわかに身近な存在となり、彼の地におけるどんな会議も文章も情報も見逃すことなく、大きな変革の遠雷をきくように一喜一憂しつつ新しい変革の性格と今後の展望について話し合い摸索し合うのであった。

 その一方で、かねて計画していた建設者同盟との統一大会は八一年九月、伊豆でひらかれた。この大会では、それまでに激しい討論と思いきった妥協をくり返しながらつくられ、いささか教条的な政治方針と党の改正規約・前文がきびしい賛否の討論を経て多数で採択されたが、元労働者党の学生細胞は最後まで反対した。

 

戒厳令と「連帯」

 

 この年十二月十一日からグタニスクで「連帯」全国委員会と政府との交渉が難航し、「連帯」は自由選挙制、政権の正当など正面から権力の在り方を国民投票に問うことを提案し、これを拒否する党=政府と重大な対立に直面した。ヤルゼルスキー政府は十二月十三日ついに戒厳令に踏み切り、ワレサら中心的幹部は逮捕され、活動家達は一斉に地下に潜行した。

 こうした情勢のなかで一九八二年二月十五日、激論ときびしい対立を経て第四回全国委員会は、妥協の産物として「ポーランド問題について」という短い声明を機関紙に発表した。それは次のように述べている。「・・・・・国際情勢との関係、グタニスク政労合意の政治的意義、『連帯』の評価と社会主義のもとでの労働組合との関係、政労合意以降の経済的政治的社会的危機の内容、『軍政』それ自体の評価、国際共産主義運動としての課題などの諸問題を真剣に追求する。・・・・」と。

 しかしこの問題はこうした中途半端な声明ではすまされなかった。全国委員会はひきつづき三月に伊豆で全国党員学習会を開き、ポーランド問題について自由な討論を行なうことにした。私はこの集会の冒頭報告として「ポーランド問題の教訓」を提起することになった。これは三月五日付の機関紙に掲載され、また「労働運動研究」には八二年一月号(一四七号)の「八二年の階級闘争とわれわれの課題」のついての座談会のなかでの第三部「われわれのめざす社会主義の問題点」についての提起(松江澄)につづいて、四月号(一五〇号)には「ポーランドの事態から学ぶこと」(松江澄)と題して学習会報告を補足して問題を提起した。私は労研一月号では「『民主主義の徹底』ということは少数の民主主義から多数の民主主義へということで、つまり労働者・人民が本当の意味の主人公になるという問題」である、と報告した。

 ポーランドについての報告と論文ではこれを一歩進めて、「社会主義とはある意味で“徹底した民主主義だと思う」と提起しつつ、「グタニスク政労合意」によって「先験的な『前衛党』は存在しないことが公然と明らかにされた。」と断定した。もし「主人公」であるべき「労働者階級」が理想化されることによって抽象的な概念におきかえられて、その本質を体現する唯一のものが前衛党であると合理化されるなら、「主人公」は労働者階級から党に転化される。しかし労働者とその意志は、現存する分節した労働者、勤労者の諸組織の意志の複合的な総体でなければならぬ、と主張した。

 こうした私の考え方は、そののち波多然らとの思想闘争のなかで憑かれたように書き続けた現存社会主義と唯一前衛党への批判の最初の直接的なきっかけとなった。(つづく)


私の昭和思想史(四〇) 松江 澄 「新時代」1992.3.15233

初の中国訪問

 前々回(三八)で私は大きな誤りをおかした。私と同期だった栗栖の「有事立法」発言と「三矢研究」問題とは確かに一連のつながりはあったが、それを同じ時期のように書いているのは全くの間違いであった。「三矢研究」問題は「有事立法」発言の一五年前の一九六三年六月のことである。私がこの思想史のためにいつも作っている年代記自体が間違っていた。改めておわびする。

 もう一つ、書くべくして書き残したのが初めての中国行きである。一九七九年十一月、広島県議会で初めての訪中使節団に加わり、学生時代の「満州」を除いては生まれて始めて関心の深かった中国をたずねたことだった。この訪中団は各党が加わって全部で十数名になった。特に印象が深かったのは私と二人の団員が、RCCの手引きにより広島文理大在学当時被爆した元北京工業大学教師の由明哲さん(訪中当時六五歳)と南京大学教師の王大文さん(同五四歳)に、日本人とりわけ広島人として初めて会って「原爆」を話し合ったことだった。私達は蛸安博中日友好協会顧問にこの二人の広島再訪問を要請したところ善処するとの約束を得た。彼等は翌々年の七月来日して三六年ぶりに広島を訪れ、かつての親しかった人々との旧交をあたためた。

 私達が訪中する十数日前、当時の副主席であった葉剣英による「文化大革命」の中間総括が発表され、いらい「文化大革命」批判が急速にすすむ最初の公式の発端であった。中国を訪問してどこに行っても感じるのは、言葉こそ違え結局は同文同種の民族同志であることだったが、帝国主義の「義」が「叉」と略されているのには驚いた。と同時に日本のセクトの諸君が切ったガリ刷りのビラの中で見る「叉」が中国の略字だと直感した。当時この大国が悩んでいる最大の文化の問題はことばの不統一だった。そのことばの相異は青森と鹿児島の方言の相異どころではなかった。「道路」ということば一つが北京と上海とではまるで違うのだった。

 しかし、どこに行っても変わらないのは中国共産党に対する無条件の信頼と服従であった。私は終始ついてくれた若い党活動家の通訳にたずねた。「君にとって党とは何か」と。その答えは「すべて絶対」であった。私は旅行中彼の党への絶対主義的な忠誠心をくつがえそうと理論的にいささか挑発したが、ついに彼は思想堅固に挑発をしりぞけた。これも中国革命の社会的性格の限界ではなったか。当時の中国でいちばん印象的だったのは、「文化大革命」から放り出された青年達の問題だった。私達は行く先々で絵などを売りにくる青年達に出会った。

 この旅行で少し風邪ぎみだった私は乾燥した空気にやられ、帰ってから声がかれて困った。この秋、私は四〇年以上吸ってきたタバコときっぱり絶縁して以来一本も吸ってない。

 

小選挙区で落選

 

 八二年の後半にはもっぱら翌年の県・市議選の準備に集中した。とくに私は前回のかつてない大選挙区制から政令市による小選挙区制へと急激に変える条件にとまどった。私の選挙は党員、労働組合活動家と住民運動の人々が全市的に活動する広い選挙活動に支えられ「ドブ板」選挙は苦手だった。とくに中区は中心部で官庁、銀行、企業事務所と飲食店等の商店街で、昼はにぎやかでも夜は空っぽだった。

 革新に不利な小選挙区闘争というので社会党と共闘することになり、市会議員候初候補の鈩谷君子さんと組んだ。しかし私自身はとても難しい(当選予想票一万五〇〇〇票で定員3名)と思っていた。だが妙なもので選挙が始まると、ひょっとしたらと思い始めていた。投票二日前に中国新聞に近い知人に情勢を聞いて当選を断念した。結局私は五位七〇八〇票で落選、私の下には三〇七〇〇票の共産党候補だけだった。鈩谷市会議員候補は上位で当選したが、西区で頑張った山口議員は一二位三四五九票で惜しくも四九票差で落選した。結局小選挙区制は「ドブ板」と町内会選挙が勝利したのだった。それにしても今までの二〇〇〇票台だった中区で三倍以上伸びたとは改めておどろいた。後援会の人々の必死の努力のたまものだった。みんなくやし涙を流して残念がった。私は皆をなぐさめながら内心ではさばさばしていた。これで議員ともお別れで、これからは運動に集中しようと思った。

 私は一九五九年以来の在任二〇年間(一回落選)をふりかえった。私がこの間いちずに追及して今日まで残るものは、原爆被害者、大久野島毒ガス傷害者、森永砒素ミルク中毒の子供と親達の救援と、福島町の新しい町づくり、基町土手(「原爆スラム」と呼ばれていた)の住宅闘争であり、他の半分は不正、不当な県政のバクロと追及だった。それぞれが十年もかかる運動をダブって闘った思い出はつきない。私はこのなかで、国=県とつらなる行政の馴れ合いやゴマ化しをいやというほど見たし、多くの被害者とともに闘うことで今まで私が何も知っていなかったことを思い知らされた。苦痛と苦労に耐えて健康と生活のために長い間闘うことすらできなかった多くの人々が居ることを知ったことは、私にとって重い衝撃であり大きな教訓であった。ともすると理論第一と考えがちな私が経験を通じて、事実とその変化を闘いとることこそ最大なものであるあることを初めて身に沁みて大切だと思った。(つづく)

 


私の昭和思想史(四一)  松江 澄 「新時代」1992.4.15 第234

 

世界平和集会へ

 

 選挙がすんでひと休みするまもなく、広島原水禁の誘いで私は八三年六月二一日から開かれるプラハ世界平和集会(「核戦争に反対し平和と生命を守る世界平和集会」)に原水禁を代表として唯一人参加することになった。この集会は、アメリカのヨーロッパ対ソ前線基地として西ドイツを始め欧州に配置されている中距離核ミサイルの撤去を要求して始まった数百万人に上るデモや集会を受けて準備された平和集会であった。

 チェコスロバキャは二度目であるのと、「プラハの春」いらい何となく私にとってなじみ易い国でもあったので引き受けることにした。東京と名古屋から民学同系団体の若い幹部が二,三人参加するのでさそわれるまま同行することにした。

 大急ぎで準備するなかで、何といっても重要なのはどういう主張と提起を発言するかと云うことだった。私は思い切って決意したのは、少し前から私の中で熟し始めていた提起―社会主義国による「一方的核軍縮」であった。これは何時止むとも見押しのない核軍拡競争のなかで、私が、戦後四〇年間の反核反戦運動の結論として思いつめた提起であった。それはまた現存社会主義のあり方についての私の批判的集約の一つでもあり、この頃始まっていた党内のソ連絶対主義を主張する人々との論争のなかから私の胸中深く根ざし始めたソ連批判でもあった。

 私はこの考え方を広兼君に話して同意を得たうえで、ちょうど所要のあった京都に立ちより山本徳二君とも会って意見をきき、賛同と激励を受けて決心はきまった。帰広してひらかれた広島原水禁の理事会でも承認された。私はこの提起をソ連とか社会主義にせず、「平和を愛する何れかの核大国が」という表現にした。それは「世界で最初に核兵器を使用する政府は」という第一次ストックホルム・アピール(一九五〇年)から「いかなる国の核兵器・核実験にも」という原水禁運動分裂のときの私たちのテーゼ(一九六二年)へと結ぶ反核反戦運動の延長線上にある大道であると確信したからである。それは主体の選択を問う大衆的な路線でもある。六月の始めに私を送るための松江後援会の総会がひらかれ、地元をはじめ全域から多くの会員が参加してくれた。選挙のくやしさを世界平和へと向う私への激励に替えて支援され、六月十九日広島を出発した。

 

ソ連代表団に迫る

 

 通訳を含めて同行五名はパリに一泊してプラハに入った。ところが集会の始まる前の夜の会議で、彼らが是非にと提案したのは彼らのキャップを世界平和評議員に推薦したいということであった。私は怒った。それは私が同じ若い頃とはいえ今の彼らよりもっと運動を重ねた四十七才のとき、志賀さんのたっての要望で浜井市長に世評評議員の推薦をもらったことを思い出すたからである。私は経験の浅い彼らが運動より地位を望むことをきびしく批判せざるを得なかった。それはソ連=世評という図式から出たものだけになおさらだった。会期中彼らは「廊下トンビ」で世評の幹部たちにオルグしたようだだが問題にならなかった。

 私は第三分科会(平和と軍縮の分科会)が中心とみて参加した。そこには十名ばかりのソ連代表団  

表団が私のテーブルのすぐ近くに、また中国代表団をはじめ社会主義諸国の中心幹部たちも参加していた。私は指名をうけていささか上気しながら思いきって提案した。私はまずこの前の戦争に参加した学徒から被爆二週間後の広島に帰った体験を手短に紹介しながら、いまの核軍拡競争を停止させるためには真に平和を求める核大国の何れかがまず自ら一方的核軍縮を開始するという道徳的倫理的イニシャチーブ以外ない、と断言してソ連代表団にじっと目をそそいで迫った。拍手一つない会場は一瞬異様な空気につつまれた。ソ連代表団は無言で下を向いたまま何一つ態度を表さなかった。

 この集会には資本主義国内の反核反戦運動、第三世界の反定反戦運動、社会主義諸国の平和代表団など飛躍百三十数ヶ国一八四三名の国際的民間団体代表が結集したかってない規模の世界的な大集会であった。この大集会は最終の全体総会で、「ヨーロッパの新型核ミサイル配備反対!ヨーロッパに配備されているすべての種類の核兵器の削減に関する現実的な交渉!」に加えて、「すべての核兵器庫の凍結!」を呼びかけて終わった。

 この集会から1年半後にゴルバチョフが書記長に就任してまもなく、ソ連政府は五ヶ月間の核実験一方的停止を声明してアメリカにも同調を呼びかけた。それはその後に実現する米ソ核軍縮の扉をひらくものだった。この集会にはもう一つの重要な副産物があった。それは「七七年憲章に」結集する三〇〇人の市民集会が、世界平和集会代表団の歓迎集会と同じ広場でひらかれた。政府は弾圧できなかった。それはこのときから六年後に噴出する民衆ほう起の最初のシグナルだったのだ。

 集会が終わった夜、ドボルザーク・ホールで聞いたノイマンの振るチェコスロバキア・フィルの響きの何とすばらしかったことか。会が終わり通りすぎた雨にぬれたい石段を踏み出したとき、モルドウを越えてそびえ立つプラハ城はおとぎの国の城のようだった。(つづく)


私の昭和思想史(四二) 松江 澄  「新時代」1992.5.15. 第235

「一放的核軍縮」論

 

八三年七月末、私がプラハから帰国するとすぐに佐和さんから集会の報告を『労働運動研究』に書いてくれと頼まれ、私もこの際思いきって私の考えているところを発表しようと決心した。大いそぎで書いたこの原稿は八三年九月号に、「世界平和の前進のための提案」と題して掲載された。私はすでに書いた「一放的核軍縮」提案の一文の終わりに、この立場を発展させて次のように書いた。「資本主義国の中で変革をめざして闘っている私たちにとって社会主義国がとりでであるとすれば、それは軍事援助や資金援助ではなく、社会主義の実生活の実例を通ずるその知的道徳的ヘゲモニー、また国際的諸問題にたいする知的道徳的ヘゲモニーではないか。」と。

 この九月号の文章と、つづいて書いた「八一ヶ国声明は今でも有効か」という一文がもっぱら反対派の人々の私に対する批判の的になったようである。だが私としてはこのあとつづいて八四年九月号に書いた「いかなる社会主義か」(『労研』一七九号)こそ、私の現存社会主義と唯一前衛党批判の核心であった。だがそれは後にゆずろう。

 というのは、まさにこのとき重大な事件が発生したからである。それは「大韓航空機事件」であった。九月一日、ソ連の勧告を無視してその北方領空を侵犯した大韓航空がソ連空軍機によって撃墜され、日本人二八名を含む二六九名の乗客が死亡するという世界を震撼させた大事件であった。党は九月二〇日付の機関紙の第一面で、「政治的挑発の犯人は誰か!―大韓航空機事件の徹底解明を!」という論文で大韓機の責任とその背後に見えかくれする米日軍部の責任をきびしく追及するとともに、撃墜したソ連機の性急な措置にたいしてもあえて遺憾の意を表した。だがこれが問題になった。

 十月一日の全国委員会では波多委員が、ソ連に遺憾だとは日共の態度と同じだ、ときびしく批判したが、会議は最終的にこの「主張」を承認した。こうした対立はすでに党内のきびしい空気の反映でもあった。またこの委員会では第二回大会草案は「松江骨子」にもとづいき在京常任委員が参加して作成することになったが予想以上に難行した。国際情勢の見方について意見が対立し、いわゆる「総路線」支持派と批判派が相互にゆずらず激論したが、ともかく統一のためにということで第一次草案という異例の方法で提案することになった。

第二回大会―長谷川の死

 

 この年十一月十九日第二回大会が京都の宇治でひらかれた。この大会は私にとって戦後来はじめて痛苦に満ちた大会となった。今度の方針案は第一回大会の方針とちがうというきびしい批判とともに、一同志の行動にたいする非難が問題となった。会場は次第にけわしくなりつつあった。私はたまりかねて発言を求めた。立ち上がった私は、意見の相違はあっても統一して闘おう、過ちを犯した同志への批判はきびしくとも同志的友情は忘れまい、ということばの半ばから何とも言えぬ感情がこみあげ、不覚にも涙がながれるままに座した。後にも先にも私はこのような体験ははじめてであった。

 この大会で草案の起草責任者である私はついに独断で提案撤回を宣言した。これ以上続ければ分裂必至と思ったからである。ともかく大会を終えて全国委員会をひらき、私は議長辞任を申し出たが許されなかった。柴山事務局長とともに総括とまとめを準備することになり八四年一月全国委員会で総括討議を行なった。この「総括」は、大会が方針を決定できなかった責任はあげて旧全国委にあるとし、議長自ら提案をとり下げたことは重大な誤りであると指摘した。また党内意見の集約の努力が不充分であるとし、意見の異なる者がともに闘うことこそ真の統一であると集約して臨時大会の開催を決定した。私は針のむしろにすわっているようだった。

 この年の二月二十五日、長谷川浩全国委員が自宅から労研事務所に向かう途中、自宅から余りと遠くない路上で心筋梗塞の発作で倒れ、救急車で三鷹中央病院に運ばれたが、まもなく急性心不全で亡くなった。私は急をきいて唖然とした。十年前には内藤さんが電車の中で心筋梗塞を起こして急死、いままた尊敬する先輩の長谷川さんが同じ病で逝った。私は愕然としてその訃報におどろくとともに心の底からくやしかった。昨年の大会後、長谷川さんを広島に招き労働運動についての講演会をひらいた後ひさしぶりにのんびりと先輩を囲んで一杯呑みながら話し合ったのだった。

 私は急きょ上京して長谷川さんの宅にかけつけた。すでに多くの同志や友人、また浩さんに傾倒していた若い人達が集まり、心からその死を悼み、在りし日の姿を偲ぶのだった。私と長谷川さんは以前から「国家=党」というドグマこそ現存社会主義の諸悪の良いラグビー部で、がっしりした体格だったのでまさかこんなに早くとは夢にも思わなかった。その死は私にまた一つの山を越えるように志を固めさせた。『労研』三月号の長谷川さんの最後の論文「『社会主義の優位』とは何か」は、私が追求していた現存社会主義批判と志を同じくしているものだった。


私に昭和思想史(四三)  松江 澄   「新時代」1992.6.15 第236

 

論争はじまる

 

 一九八四年という年は私にとって忘れ難い年である。私はこの年一年間に、労研の一月号、五月号、九月号から八五年一月号と四つの論文を書きまくった。それは私の内から奔流がほとばしるように流れでたものであった。それは私が戦後来まなんできたマルクスの思想から、また実践的には四度にわたる現実の見聞から、どうしても書かなくてはならぬという私自身の内なる命令に抗し切れなかったからである。それはソ連絶対主義の立場からの批判は衝動的に私の心底から引出したものでもあった。

 しかし一方では私はわが党の責任者であった。それは組織の統一をまもることを無条件に私に要求した。組織の統一と自らの良心と、私は二つの対立する矛盾に悩んで夜も寝られなかった。しかし統一の名のもとに妥協できぬものがあると私は思った。たとえ統一の名の下においても自己の共産主義者としての良心をいつわることは、私たちの運動の冒?だと思った。それは私の戦前以来の教訓―戦争と軍隊のもとでみじめに崩壊したとはいえ、私のこの運動への戦後の出発に際して私の原点ともなった自らのいつわらぬ自主・自立の心であった。それあればこそ日共のなかで闘うことができたのだった。その原点を組織の統一ということであいまいにすべきでないとおもった。

 私は一月号の「現存社会主義の諸問題について」で、総論的にでいささか抽象的ではあるが、マルクに習ってブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義の不可分の論理をまず確認した。プロレタリア民主主義とはブルジョア民主主義とあい容れるものではなく、ブルジョア民主主義をいっそう全面的に発展させ実生活のすべてに貫徹される―ブルジョジーはけっして許容しないが―ことであるという思想であった。また、今日の現存社会主義国家はまだロレタリア国家ではなく、ブルジョア的な国家―軍事官僚国家―の残存形態であると断じた。

 五月号の「八一カ国声明は今でも有効か―全般的危機論と平和共存論―」は、私自身でさえいま読み返していささか挑発的だと思うほど断定的にきびしく批判したものであった。それだけにこの論文は批判派の諸君から、国際共産主義運動の裏切りであり謀反であるときびしい糾弾を受けたが私は動じなかった。

 

論争の焦点

 

 この当時の論争の第一の焦点は「八一カ国声明」(一九六〇年)にもとづく国際情勢の分析に従うか否かにあった。それは当時ソ連を中心にした国際共産主義運動の不変の教条でもあったのだ。この声明は「資本主義世界体制は衰退と腐朽の深刻な過程にあり」、いま「戦後最大の危機的震撼の局面」だと分析していたが、私はこの時代が資本主義の高度成長期から技術革新時代へとつづくことを指摘してきびしく批判した。そうしてこのような非科学的で不正確な分析の根源は「この文書の基調と方法のなかにある観念的な誇張から生まれる独善的な楽観主義と社会主義万能論」にあると指摘した。そうして「平和共存論と全般危機論とは相互補完してソ連第一主義を「理論」化している同腹の双生児である。」と断言した。

 振り返ってみればこの「声明」の路線は「社会主義革新運動」が出発したとき(一九六一年)の大前提であったし、共産主義労働者党結党のとき(一九六七年)にもこの「声明」を私も誰もおおやけには疑わなかったのだった。だがその後の日本経済の発展や、六五年、六六年、七二年とつづいてソ連や東欧を見てきた私にとって、それまでは心中深く秘められていた疑いが論争のなかでいっきょに吹きあがってきたものだった。

 しかし私にとって最大の問題として集中して追求したのは次の九月号論文「いかなる社会主義か―唯一前衛党と社会主義的民主主義―」であった。私は九ページにおよぶこの一文のなかで、いままでたまっていた腹中を全て吐き出すつもりで書いた。その第一は、当時としては革新的なソ連科学アカデミー・シベリア総支部の「ソ連経済社会の活性化」のなかになお根強い痕跡を残す労働者間理論であった。「勤労者の人間的発展水準」が本質的に高度化したことは、勤労者が以前と比べてかなり複雑な管理対象になったことを示している。」という一文はけっしてこの報告の片言雙語ではなくその主題であった。そこにみられるのは労働者による国家と生産の管理ではなく、「労働者」の「国家による労働者管理であるという逆転の論理が前提となっている」と、私は書いた。

 第二に私が強調したのは唯一前衛党批判であった。「『一枚岩の党=唯一前衛党=国家』という定義こそ、どんな批判ものみ込んでしまう不変のタブーである。そうしてこれこそ『スターリン主義』の基礎であり、したがってまた現存社会主義における諸矛盾の根源ではないか。」と。そうしてソ連の選挙の機構を批判して、複数党による選挙は彼らが乱暴に批判する「民主主義ごっこ」ではなく、「対立・競争―批判・選択」を通じる民主主義の重要な一形態であると主張した。だが不思議にもこの論文へも反論はついにあらわれなかった。だがこの論文の出た九月、党分岐の最初の危機がはじまったのだった。


私に昭和思想史(四四)  松江 澄   「新時代」1992.7.15 第237

 「ヒロシマから」

 八四年七月、前年来準備してきた私の最初の著書ができ上がった。これは私がプラハから帰ってきてまもなく、広島から京大に学んだ室崎君が新進出版社の青弓社―その社長が広島と縁があった―と連絡して、私が「労研」などに書いてきた原水禁運動についての文章をまとめて出版しないかという話を持ち込んできた。

 この頃までに私が折にふれて書いてきた反核反戦運動についての文章も大分たまり、七八年には全国委員会の発行として大阪で印刷し、「原水禁運動の統一と発展のために」という題名で六四ページほどのパンフにして、八・六カンパニアのなかかなり売りさばいたことがあった。今度は、その後書いたものやプラハ集会での発言も加え、総論的な書き下しに運動の年代記をつけて一書にしようということであった。私もしばらく考えたが、ここらで「原水禁運動」の追求をまとめて整理したいという気持もあったので同意した。

 そこで八三年の秋から準備をはじめ、出版社のすすめで、かねて知り合いの丸木さんに表紙カバーの絵をたのんだら「原爆の図」をつかえといわれ、喜んで表紙を飾ってもらったばかりか章ごとの小見出しにもその一部を使わせてもらうことになった。いまでもこの本を見ると、表と裏につづく「原爆の図」第八部「救援」の原画を最初に見たときのこを思い出す。丸木さんには「ヒロシマから」という題字まで書いて頂き、わたしとしては望外の喜びであった。

 私はこの巻頭の書き下し論文を「三十五年をふりかえって―戦後反戦反核運動の歴史―」と題して書いた。そのなかで私は、「運動にとつて統一こそ最大の武器であり、統一とは意見の違うものがともに闘うことである。」―意見がおなじものがともに闘うのは当たり前のことで、統一ではない―と書いた。

 それはベトナム戦争から学び、世界の運動から学び、日本の運動の分裂から学んだ私の運動哲学であり、それはすべての運動に通ずる「統一」の原点であると思った。そうしてそれはまたやがて始まる党の統一と分裂についての苦渋に満ちた教訓ともなったのである。

 それはさておき、この本は広兼書記長と相談して計画を立て、広島や全国の同志、友人や友党の人々、また広島では多くの友人、知人および労働組合、平和団体などのおかげで二〇〇〇部も売れた。

 

全国委員会の凍結

 だが一方で九月の全国委員会は今まで以上にきびしい会議となった。それは恐らく私の労研論文がつきつけた彼らの教条への真向からの批判のせいもあったに違いない。私は個人の論争と組織の統一とはきびしく分別しているつもりでも、人から見ればそうはいかなかったようである。意見の対立はますますきびしくなり、波多委員は全国委員会の機能を停止すべきだと強硬に主張した。反対意見もあり各委員の意見も微妙に異なっていたが、いつしか重苦しい空気が会議をおおった。私もついに一存で全国委員会の一時「凍結」をはかり断言的に決定した。しかしこれは私の大きな不覚であった。このままでは分裂がさけられないと思ったが、「凍結」は帰って危機を増幅させるだけだった。

 「凍結」後の十月、十一月は各地方を廻って同志たちに情況を報告し意見をきいて歩いた。だが何といっても東京都党が重要であった。東京都には波多氏らと同調する人々がかなりいた。私は十一月十八日開かれた都党会議に招かれ、全国委員会の報告と合わせて事態を解決するための提案を提起した。それは「(一)大会に提案する政治方針は、日本帝国主義の現状分析と日本の階級闘争の任務を中心とする、(二)これにかかわる国際情勢については、意見の不一致点は保留し、一致できる点について明きらかにする、(三)前衛党再建については不一致点を保留する」ということであった。対立点としては、@世界革命過程における社会主義世界体制とりわけソ連の位置と役割、社会主義国内の諸問題および現時点における国際的な革命と反革命との力関係、A日本革命と世界革命とのかかわり合い、B前衛党再建のより深い内容、これらについての事実究明を共同で追求する、と確認した。

 こうした提案が確認されれば五全協以降の不正常な状況(凍結)を解除して第三回大会開催の準備をすすめることができる、というものであった。この提案はさいわい東京都党会議で承認され、つづいて京都、大阪、広島などでも承認された。

 こうした状況を含んだうえで全国委員会を翌八五年の一月二十日東京でひらいた。会議では私が東京都党会議で承認された提案と確認を報告したうえで、前回以来の不正常な状況(凍結)を解除してその機能を回復して第三回大会の準備を進めることを提案した。

 しかし水沢委員は「この提案は重大な論点をタナ上げし、党を協議体にするものだ。」と強く反対し、採択すれば退場すると確言した。そこで慎重を期するため一時休会し、各都道府県党会議で討論したうえで、二月十七日の続会全国委員会で討議することにした。

 私はこの一カ月たらずのあいだも悶々としてすごした。私には悪い予感がぬぐいきれなかった。

寒い冬の夜、眠れぬ夜がつづいた。


 

私に昭和思想史(四五)  松江 澄   「新時代」1992.8.15 第238

ついに党の分岐

 二月の続会全国委員会では、分岐をさけるために努力した在京全国委員による事態収拾のための苦心の提案も出されたが、波多全国委員は「この組織は世界革命路線からそれているので私は手を引く」と云って退場した。つづいて三人の全国委員も退場した。状況はついに最悪の事態に立ち至った。そこで全国委員会は、「意見の相違を隠さず、忘れず、排除せず」というわが党の統一のための原則を再確認し、いっそう党の統一を固め組織の総括と今後の方向を明らかにするため三月十六、十七両日東京で第三回緊急臨時大会をひらくことを決定し、その準備を東京都委員会に委任した。

 その後東京都委員会は分岐のただなかにあって慎重な配慮と結集への断乎とした決意によって、分岐を最小限にとどめるため全力をあげて苦闘した。結局離党者は在京一二名となり、三月十五日付けで彼らは「結党のよびかけ」を発表して社会主義統一党(仮称)準備委員会を結成した。

 この「よびかけ」は殆ど統一労働者党というよりも私へのひぼうと批判に通夜されていた。私はかつて日共「前衛」の“広島県党小史”のなかで二〇数回名指しでひぼうを受けたことはあるが、このたびの「よびかけ」では短い文中で一三回も名を挙げて糾弾を受けることになった。その対象を大きく分ければ、第一に「八一ヶ国声明」にたいする私の批判(『労研』)であり、第二には私の「一方的核軍縮」提案(プラハ世界平和集会、『労研』)であり、第三には私の執筆した党の政治方針案(第二回大会第一次草案)および意見の相違を収拾するための私の提案であった。だがかんじんの彼らの新党についてはレーニンの引用よ前衛党再建(共産党再建=松江)についての抽象的な決意だけであった。

 第三回臨時大会はきびしい大会となった。大会決議は、ポーランド問題、アフアガニスタン問題、スペイン併行党問題、など国際共産主義運動をゆるがす重大な対立が発生するなかで、いままで従属的なものとして保留されていた意見の相違が主要なものとして基本的な対立に転化したことを、全国委員会が見抜けなかったとするどく批判した。そのうえで全国委員会の「凍結」は階級闘争の任務を放棄するものだともきびしく批判し、統一のための積極的な努力の欠除を全国委員会の責任として自己批判を要求した。私はただただ責任を痛感するのみであった。

 昨年(一九九一)秋広島をおそったかつてない台風の嵐のさなか、東京から帰りに広島駅で降ろされた波多さんが駅から私に電話して一泊のホテルを懇請された。ようやく空室を探し出し、しょんぼり待っていた彼を駅から連れ出したとき、話らしい話もしなかったが、彼の態度と考え方は当時と少しも変わっていないと私は直感した。

反核反戦運動の統一

 この年、広島では前年から話が始まった八月の市民運動の統一が急速に進んだ。から以前から八月の広島では原水禁集会の前後に二,三の独自な市民・労働者集会があった。その一つは電産を拠点とした反原発集会でありすでに一〇年近くも会を重ねていた。もう一つは私が呼びかけて七、八年も続いていた集会であった。これには原水禁集会に参加しながら追求し足りない課題をつっこんで討議したいという人々が集っていた。これはわが党と「フロント」と「人民の力」が協力してひらいてきたもので、次第にこうした組織以外の活動家が参加し、時には原水禁に参加したドイツ「緑の党」の書記長が飛び入りしたりするなど活発な議論を重ねてきたものだった。

 この項すでに労戦統一への動きが強まるなかでやがて将来には総評解散が見とされ、そうなれば総評が組織的には大支柱だった原水禁にも大きな影響を与えることは必至であった。もちろん私も常任理事の一人である広島原水禁はどんな情勢、どんな事態になろうとも毎年の集まりを停止することはないが、今までのような大組織大運動というわけにはゆくまい。そこでこの際市民運動が統一して追求をつづけていれば、労働者集団の運動と市民運動が手をとり合って運動を支えることができるのではないかと考えた。幸いに他の諸集団も同意見なので、「八・五反戦反核広島集会」ということでともに運動を進める合意が成立し、「二・一一」(「建国記念日」)「四・二九」(「天皇誕生日」)のカンパニアを経て八月の準備をすすめることになった。

 この年の春、京都の全国委員会のあと、私は高雄病院の米澤君のすすめで休養をかねて久し振りにドックに入った。ところが私の心臓に異常があることが見つかった。そこで病院の同志たちの世話で設備のある大きな病院でくわしく調べてもらったら、重大な異状の懸念があるから広島に帰ったら然るべき病院で「カテーテル検査」をぜひうけけるようにと指示された。きけば、太ももの根っこから心臓に至る大きな動脈に、カテーテルに逆通させて、レントゲンで直接心臓の冠状動脈を診るという、いささか危険そうな検査なので、やりそこなえば死ぬか大きな障害が出ることもあり得ないないとはいえない。もっとこのままでも生きたいと思う私は検査を受ける気はしなかった。

 広島に帰って友人の医師に専門医を紹介され、ひととおりの一般検査を受けたがいまのところ格別な異状はないようであった。


私の昭和思想史(四六) 松江 澄  「新時代」 1992.9.15 第239号

 

新しい連帯と自立

 この年、私は八・五集会を前に自らの運動の歴史をふり返って総括するため『労研』五月号に、「被爆四〇年のヒロシマから」を執筆した。それはさきの著者『ヒロシマから』の立場よりいま一歩ふみこんでこの運動にたいする反省と追求の一文であるとともに、やがてひらく第一回反戦反核広島集会で提起しなければならない運動の総括への第一歩でもあった。

 このなかで私は、「近代への離陸に非西洋社会の中で例外的に成功」という「中曽根臨調報告」を、福沢諭吉「脱亜論」に重ねて、その「脱亜論」が「征亜」に進んだ所以を追求したが、それは「和魏洋才」の道でもあったと指摘した。「戦後民主主義の総決算をすめることによって再び『和魏』を地底から呼び戻し、新たな『脱亜入米』をめざしてイデオロギー的再統合をすすめようとしている。ここにわれわれの新たな闘いの戦場がある。」と。

 私は「私たちの運動に残されている国民主義的な“母斑”」をかえりみつつ、「いま広島の平和公園のなか慰霊碑に近い林の端に、毎日毎日高く風にひるがえっている日の丸の旗が被爆者と遺族の手で降ろされるとき、はじめてアジア・太平洋の人々とヒロシマは、心から手をとり合えるのだ。被爆四〇年はわれわれに新しい課題を提起している。」と書いた。

 これはおくればせに私の内心を衝いて、今日に至るこの運動の痛切な反省の最初の出発点であった。ふりかえってみれば、戦後日共の中で戦争に反対して闘ったのは日共だけだったというキャンペーンは党の内外でくりかえされたが、あの侵略戦争を阻止できなかった所以をたずねて自らも深く反省することはなかった。そのうえ自前の占領軍や資本との闘いに振り廻されて、深く歴史を省みる余裕がなかったことを今でもはずかしく思う。

 私は六月頃から全力をあげて若い人たちとともに初めての八・五集会の準備に没頭した。当日午後五時には会場の広島市福祉会館の集会場は、私たちの予想を越えて二五〇名内外の人々で満席となった。この集会では夏のヒロシマではどこでもきかれる原爆被害アピールではなく、「かえせ、まどえ」という被爆者の怨念から出発して、「八・六」を歴史から抜き出すのではなく歴史のなかに返して、一五年戦争と原爆をひとつづきのものとしてとらえ直すことが提起された。それは活発な討論を通じて深められ、集会は新しいヒロシマの運動を宣言した。私はまとめの議長として結語をのべたが、何とも云えぬ感慨が私をひたした。この宣言は今日につづく八・五集会の源流となった。

胸の痛み―入院

 八・五集会が成功のうちに終わり、秋になると全国委員会が開かれた。そのころ全国委員会では労研改革の問題が重要な課題となっていた。旧来のようにわが党だけでなく、他党派とも共同して新しい情勢や条件に応えられるような誌面刷新を断行することによって『労研』を発展させようという提案には私も主要にかかわっていた。だが全国委員会では意見が対立し思ったより難行し、それも私の腐心の種だった。十一月京都で全国委員会をひらいたときも『労研』問題をめぐって会議は曲折した。夕方会議を終えて外で食事をすませて帰る道で、胸部に何とも云えぬ胸苦しさを覚えてついゆっくり歩くので、広兼君がいぶかってどうしたのかと心配してきれた。だが、一晩眠ればなおると思ったが、果たして次の日はさほどのこともなかったのでそれ以上気に止めなかった。

 だがこの会議を終えて広島に帰り、「そごう」百貨店内の紀伊国屋書店で書物を見ているとき、突然、胸になんとも云えぬいやな鈍痛を感じた。五月尾とき友人の医師が私にくれた「二トロール」をなめてみると痛みがなおったので、これは何かあるな、と思った。しかし翌日は、広島一高会を私が準備した会場で初めて開くことになっていたので責任上私は出席した。何となく飲む気にもなれず、適当につきあって寮歌を歌ったのち早目に帰宅した。

 その翌日の明け方四時頃、突然胸が押さえつけられるようなかつてなくいやな痛み―いまにも死にそうな恐怖感―を覚えた。私はとりあえず「二トロール」で押えて、朝早く宮西内科に行くとすぐ心電図をとり、検査のため採血されたが、医師の診断では心筋梗塞の恐れがあると云われた。

 二日後、心筋梗塞の疑いがあるということで彼の弟子が部長をしている土谷病院でカテーテル検査を受けるようにと連絡があった。数日後待つって十二月初旬に入院した。私は中学校のとき大腿部にオデキができて、兄が勤務していた広島県病院に一週間入院したことはあったが、一高時代の肺浸潤のときも入院したことはなかったのに、内臓の病気で入院したのは初めてだった。県会議員のとき年に一回はドッグに入ったことはあったが、患者として重大な病気で入院したのは初めての体験だった。病院の特有のにおいと患者のノロイ動きがいかにも「病人の館」だなと思われた。

 私は必要最小限の衣類とともに、当分ゆっくり読むための書物を持って入院した。今まで現気に走り廻っていた者が急に入院すると日常の生活がすっかり変わったように思えた。朝から晩までベッドに寝ているのが当たり前になるとわれながら人が変わったようであった。


私の昭和思想史(四七) 松江 澄 「新時代」1992.10.15 第240

心筋梗塞の診断

 私の部屋は平和公園を見渡せる建物の六階の南側だった。入院した日の夕方、若い看護婦さんが頭ならぬ所を坊主にしてくれたので、明日はいよいよカテーテル検査だなと思った。

 裸になってマナイタの鯉のように寝台に寝ると、カテーテルを差込む太ももつけねだけ穴のあいた布切れがかけられた。よく分からぬまま―局部麻酔が―いつの間にかカテーテルが入ったらしい。少し胸があたたかくなると、レントゲンで見ているらしい主治医が「大分心臓がくたびれていますぞ」と宣告した。

 まぎれもない心筋梗塞で冠動脈三本のうち二本が中途で梗塞したらしいが、自然にできていたバイパスで持ちこたえていたらしい。そう云えば今でも時に歩く途中で胸が痛んでしゃがみ込んだこともあった。ラッシュでやむなく近くの小路を抜けて目的地にゆく自動車のようにバイパスのしくみができたらしい。

 だが後にレントゲン写真を見せてもらったとき、これがバイパスだと指さされた血管は細くよなよなとして今にも切れそうに頼りなげであった。手術するかバイパスを育てるか相談があったようでだが、結局折角のバイパスを尊重することになった。

 梗塞の原因はこの病にありがちな高血圧ではなく―上が一三〇下が七〇の理想的な血圧―医師団はストレスと判断した。それは一年以上に亘る組織的危機への心労からきたものであると私にはよく分かった。心筋梗塞といえば一応は「死に至る病」である。私は生まれて初めて死を意識した。

 医師がこれからの希望や意見を書けといって用紙をくれたので、つい書いているうちにいささか感情的になり今日まで私の総括と合わせてやり残した課題を急ぎたいと記した。いまでこそ病気と仲良くつき合ってすぶとくなったが、そのときにはまことに初々しく、遅かれ早かれさけられぬ死に直面したような気負った思いがあった。

 しかし楽天主義の私もこれから先のことを考えるといささか心細くなった。いつどこで梗塞がおきるか分からないからである。しかし考えようでは苦しまず一瞬のうちに終わるというのもまた良しと思った。しかし慣れるとは妙なもので、六年目になると二週間に一回主治医の診断を受けながらも、時には薬を飲むのを忘れたりもするものである。

 いつの間にか病気と気心の知れた友人となって仲良く共生できるようになり、気管支の拡張やストレスにも良いと勝手な理屈をつけて焼酎の茶割りと離れぬつき合いをつづけている。

あいつぐ友の死

 私が土谷病院から退院して正月を迎えたとき、山口議員が一方かたならぬ世話になっている後援会会長の大崎さんが大きな鯛をかかえて私の見舞いにきてくれた。

 ところが自分ものどがおかしくて食物が通りにくく、酒が一番良いと、らいらくな彼は冗談半分に話していた。また一月の二十日頃になると久保田さんがどうも調子が悪いので県病院に入院したいということで、さっそくいっしょに行って診てもらうと医師も判断を下し手すぐ入院することになった。そのうち大崎さんも広大病院に入院したときいて私も見舞いにいった。

 何よりも私より年上の親しい二人がそろって入院されたことに私は何となく不吉な予感を感じた。結局二人は四月二十九日、五月一日と一日おきに亡くなることになる。大崎さんは咽喉ガン、久保田さんは肝臓ガンであった。

 もう一人私たちの同志であり広兼君の義弟でもあった半川君がその一日前に亡くなった。国労の活動家であった彼は、その頃国鉄の長距離自動車の運転手として山陰からの帰途、可部で運転中胸の痛みで半ば失神しながら無意識のうちにブレーキをかけて自動車をとめ、道にころがりおちたところを発見された。直ちに病院には運ばれたが昏睡から醒めずついに四月二十八日に亡くなった。

 こうして近く親しい人々三人が三日の間にあいついで世を去ったのだった。大崎さんは草津のかまぼこ会社(大崎水産)の社長であり業界のリーダでもあった。頭の秀れた、それでいて太っ腹な、山口君のこよなき理解者であるとともに支援者で、酒好きな彼とは私もよくいっしょに飲んで気を許した仲であった。

 山口県出身の久保田さんとは日共中国地方委員会で知り合い、彼は『アカハタ』の広島支局長としてお互いに辛酸をなめながらともに離党し、社革から共労党―統一労働者党へと苦労を共にした仲で、年とってからも広兼君が常任をするまで事務所をあずかってもらっていた。戦前からの活動家として多くの人に知られていたが機関紙編集にかけては年期の入ったベテランであった。

 この年の四月二十六日には思いもかけずチェリノヴィリ原発が事故で爆発し、放射能を含んだ雲がソ連西北部から北欧・中欧にかけて襲いつつ日本まで風にのって飛来し、世界的な大事件となった。とくにウクライナ、ベロロシアでは多くの被害者を出して世界的な救援が広がった。

 その直後、モスクワの病院でのテレビで床の上に座った患者の頭を見て私はがく然とした。それは原爆後に私が帰広したときに見た親戚の女性の頭と同じように髪の毛が一本もない坊主頭だったのだ。この年の八・五集会では国境を越えた核被害を追求して新しい時代の「ヒロシマ宣言」を提起したのだった。


私の昭和思想史(四八) 松江 澄 「新時代」1992.11.15 第241

 

ゴルバチョフの登場

 私が心筋梗塞になりかけている間に、世界的な大変動の最初の端緒が始まっていた。

ソ連では二〇年もつづいたブレジネフ時代が終わり、その後は短命の書記長がつづいた。八三年の暮れに亡くなったアンドロポフはある意味では改革派として秀れた人物だったが、高齢で病気がちだった。つづくチェルネンコも老齢にして無能で、終りには手がふるえ、ものも満足に云えなかった。

 一九八五年三月、前任者の死亡によって後を引き継いだのがゴルバチョフだった。彼はそのとき五四才、モスクワ大学法学部卒業以来エリートの道を歩んでアンドロポフに目をかけられて次第に頭角を表わした。彼は書記長になって数ヶ月後、はじめてペレストロイカということばをつかって自分の新しい「改革」の意図を表明した。

 もっともこのことばは「立て直し」「再建」というほどの意味で、これまでは普通に使われる 用語であった。ところがこのことばは魔法のマントのように飛躍して、あたかも新しい革命的な意味をもつかのように内外に宣伝された。

 私はこの前年ソ連批判を書き、八三年の秋には国際会議の報告として核兵器・核実験の「一方的な廃棄・停止」を要求したが、はからずもゴルバチョフはまもなく核実験の1年間「一方的停止」を発表した。だがペレストロイカの提起については大切なことはどのようにして「立て直す」かということであった。しかしこのことばはソ連国内を座巻し世界をかけ歩いた。

それはジャナリズムのせいだけでなく、ゴルバチョフのさっそうとした臨機応変、才気煥発の大胆なポーズによるところが大きかった。ただ私には彼のすばらしい才能と人をひきつけるあのおしゃべりのなかに、いささか自信過剰の気配が感じられるところが気にかかった。

 それから七年後の今年の五月、広島に来たゴルバチョフをはじめて肉眼で視た。彼は平和公園の国際会議場の大広間に集まった被爆者・平和運動活動家と各界の人々を前にお得意のおしゃべりをした。彼の話すことばのなかにはあいかわらず機知に富んだユーモアとジョークはあったが、話す内容にはどんな精彩も見出し得なかった。それは魔法のマントを失って窓から堕ちた「天使」のようで、私は失望以上に気の毒に思えて少し早目に会場を出た。結局はスターリンの王朝の最後の「皇帝」だったのだ。

グラスノスチと新思考外交

 ゴルバチョフがペストロイカにつづいて口にしたことばはグラスノスチ(情報公開)だった。私はこのことばはペレストロイカ以上に内容のある重要な提起だと思った。それはゴルバチョフ改革のもつ「上から」の限界を超えて人民による「下からの」ペロストロイカにするための通路を開くものだからである。真実を誰もが知ることこそその真実を権威の衣でかくしてきた唯一「前衛党」国家を下から改革する民衆の目であり耳であり行動の源泉だと思った。だがペレストロイカもグラスノスチもウクライナの「チェルノブイリ事故」までは届かなかった。これほどの大事件も官僚廣造の固い装置を破ることはできなかった。

ゴルバチョフ改革が国内、連邦内ではまだ固い表層におおわれてなかなか内芯に届かぬとき、殻の弱い部分である外に向けての外交政策が突出しはじめた。それが「新思考外交」であった。ゴルバチョフもまた内より外を飛び廻って新しい活路を開くのが生き生きと得意そうであった。 きわめて単純に云えば階級より人類的なテーマをまず解決しょうというこの姿勢は世界から受け入れられた。「核兵器による共通の死、環境災害、貧しい地域と富める地域の間の矛盾というグローバルな問題に直面している。」という彼の提起は正しかった。これにいきなり噛み付いたのが、階級ということばさえ忘れてしまったのではないかと思っていた日共であった。その反批判については彼の総括的な批判のときにゆずろう。ともかく「新思考」外交は諸外国の多様な運動や各国の民衆から支援を受けた。これはやがてシュワルナゼという秀れた外交家によって発展されられ、世界の人々から深い信頼をうけた。

この年の七月に私たちの第四回党大会を開いたが、ここでは当然ゴルバチョフ改革を論じなければならなかった。私は大会方針原案を書くなかで冒頭の一文で三つの問題点を提起して承認された。

それは第一に「いま重大な歴史的転換に直面」していることであり、第二には改めて「社会主義とは何か、いかなる社会主義か」を問い直そうということであり、第三には「前衛党再建」を再追求しょうというものであった。そうして本文の終わりの党に関する章では、先験的な唯一前衛党はり得ないと断じたが、これは中途半端な提起であった。

一方で「前衛党を否定」しながら、他方でその理由をその先験的な性格とすることは、原則として唯一前衛党をなお否定していないことになる。

いまふり返って、私はこの問題を党組織論のワクのなかで追求していたので、その党を中心にした活動と結果の総点検と総括をしていないからだと気がついた。共産主義運動の総括こそ必要なのである。(つづく) 


私の昭和思想史(四九) 松江 澄 「新時代」1992.12.15 第242

アキノ大統領と中曽根と

 一九八六年二月、フイリッピンの大統領選でマルコスに対峙するアキノ候補の人気は高く、首都マニラではマルコス配下の軍隊や戦車に対して民衆が抵抗して撃ち合い全市が騒然とした。いわゆる「二月革命」の始まりであった。私はテレビに釘付けになりながらこの「革命」の性格と行方を探った。

 さんざん権力汚職を重ねて巨万の富をきづき、汚れた椅子に座り込んで権威的な支配をほしいままにしたマルコスにいきどおる民衆は、マルコスに暗殺された夫に代わって闘うアキノ夫人にかっさいを叫んで支援した。私もアキノの勝利を心から喜んだ。しかし万歳を叫ぶ首都の市民だけでなく、大多数を占める島々の農民達が期待するのはまず何よりも農地の改革・解放であった。それがフイリッピンの当面する民主主義革命の中心課題なのだ。しかし地平線まで自分の農地であるような大地主に農地改革ができるのか。私にはそれがいちばん気がかりだった。結局、秋の大統領の短命―終わりには将軍たちや大企業のボス達の綱引きのなかで終った―は、農地解放ができなかった大地主の政治的限界なのであった。しかし、「二月革命」はすでに噴出しつつある農地解放がやがて展開する民主主義革命の序幕となるに違いない、と私は思った。

 この年、国内では前年にひきつづき売上税の問題が政治的対決の焦点となった。自民党は強引に衆参同時選挙を強行して圧勝し、七月二二日第三次中曽根内閣が成立した。私より一つ年上の中曽根はすでにふれたように根っからの国家主義者で、その上戦前は短期現役の海軍主計中尉を大尉から少佐まで好きで昇進した軍国主義者でもあった。

 ところが、「勇将の下に弱卒なし」とはよく云ったもので、九月五日就任したばかりの藤尾文相が、「日韓併合は韓国にも責任がある」と表明したことで大問題となり、韓国では朝野こぞっての抗議運動が起きた。このことばは「泥棒にも三部の理屈」どころではない暴言で、歴史を曲げ正義をふみにじるものと国内からもきびしい批判と抗議があいついだ。もちろん藤尾文相は辞任した。ところが今度は九月二二日自民党研修会で当時の中曽根が「黒人やプエルトリコ人などがいるアメリカは知的水準が低い。」と発言して前にも増して重大な問題となった。もとよりアメリカの黒人団体を先頭に議会でも問題となり、国内でも激しい非難と抗議がつきつけられた。中曽根は大慌てで弁解と陳謝に大童だった。しかし私は、この男の性根は昔から少しも変らぬと見た。

 この年の暮、次年度予算で防衛費はGNPの一%ワクを突破することが決定された。

 国際的な経済・政治的変動

 翌八七年、バブルの胎動が始まった。地価は高騰して東京の住宅地・商業地は前年比で七六%も上昇し、過去最高となった。またニュウヨークノ株式市場ではドルが二二.六%も大暴落して「二九年恐慌を上回った。(「暗黒の日曜日」)。しかし大変動は経済だけではなかった。ソ連のペレストロイカに勢いを得た東欧の民衆は次第に体制への批判を高め、大変動の兆しが表われはじめていた。

 ハンガリーではこの年の九月には「民主フォーラム」を結成し、ポーランドではヤルゼルスキーが党内の改革派を登用して「連帯」との提携を探り始めた。またチェコスロバキアでも長い間権力を握り続けてきたフッサ―クがついに辞任し、「プラハの春」弾圧二〇周年をめざして抗議のデモが準備され始めた。だが中国では改革の先頭に立ってきた胡耀邦がケ小平の逆鱗に触れて総書記を免じられ、首相の蛸紫陽がこれに代わって任命された。

 社会主義改革の旗手としてあらわれたゴルバチョフも内政には手を焼き改革は曲折を重ねた。この間右派のリガチョフと対立するエリツィンが、仲をとってまとめようとするゴルバチョフを激しく批判し、怒ったゴルバチョフはエリツィンをモスクワ市党第一書記から罷免した。

 こうした書状況はこの当時すでに今日に至る変化と状況を先取りすることになった。ことにソ連・東欧改革路線と中国改革路線とは真反対に異なるものであった。上からの政治改革から開始したソ連にたいして中国は政治改革を押しつぶして経済改革(経済開発)から始めた。政治改革と経済改革はおそかれ早かれやがては照応する。とりわけ市場経済は必然的に一対一の商品交換をとして個の自覚をうながして政治的民主主義の要求に進む。しかし政治改革は必然的には経済改革(市場経済)を求めない。それどころか頑強な保守的党・国家官僚集団にとってはばまれる。私はそう思った。結局、事態は私の推定通りに動き始めた。

 この年(八七年)ブハーリンの復権が行なわれた。彼は革命以来から経済理論家として党の指導的な地位にあった。私もかつて彼の「過渡期経済論」とレーニン「評伝」を読んだことがあるが、レーニンは批判しつつほめていた。しかしその後、路線論争に敗れてスターリンに追放されたが後に復権し、今度はトロツキーとブロックを組んで一九三八年についに処刑された。スターリンの強引な農業改革、国有化を批判して時間と経験を通じて緩やかな移行を主張して敗れたが、それはゴルバチョフがねらう市場経済と無関係ではなかった。


 私の昭和思想史(五〇) 松江 澄 「新時代」1993.1.15 第243

天皇病気の「自粛」

 八八年、長くつづいた二つの戦争の和平協定が結ばれた。一つはアフガニスタン戦争で、ソ連の進攻によって国内の種族反乱をいっそう激しくしたが、まるで「ベトナム戦争」のように若いソ連軍兵士達に青春の荒廃をもたらした。九年にわたって出兵し続けたソ連軍の撤退というゴルバチョフの決断は適切であった。

 またアジアにおける最大の戦闘であったイラン・イラク戦争が八年間のきびしい戦争を経て停戦協定が結ばれ、西アジアの人々もようやく戦乱から解放された。

 日本でこの年もっとも問題になったのは、前年腸の障害で手術した天皇がこの年五月に吐血して皇太子明仁に国事行為が委任されるとともに、容態悪化で全国をおおう「自粛」ムードがまるで伝染病のように蔓延したことである。

 私は各地各職場から頼まれるままに講演して、私自身の全生涯を通して体験した天皇の位置と役割と現在の「象徴」の意味を説き、とりわけ「自粛」フィーバーこそ「神」としての天皇を復活させるための「人間の精神」にたいする侵犯であると強調した。

 私にとって昭和天皇とは一五年にわたる侵略戦争のために「人心を収攬」(福沢諭吉)「帝室論」した大罪の責任者であり、アジアの人々を殺し、日本人を殺し、わが友わが肉親を殺した侵略戦争の罪深い精神の支配者であった。

 ところがマネキン人形の衣裳をあわてて「赤い服」から「黒い服」に着せ変えるなどという児戯に類する権力への擦り寄りに、連日いやな思いが続いた。

 このとき、私の一高時代同室の学友だった森井 眞(明治学院大学長)が学長として公然と声明を発表して訴えたことはほんとうにうれしかった。

 それは「@現天皇個人の思い出を美化することにより、昭和が、天皇の名によって戦われた侵略戦争の時代であったという歴史の事実を、国民が忘れることになるような流れをつくってはならぬこと。A現天皇個人の意思や感情がどうあれ、『天皇制』を絶対化しこれを護持しょうとする主張が、どれほど多くの無用な犠牲をうみ惨かをもたらしたかを、今後いよいよ明らかにせねばならないこと。B『天皇制』の将来を国民がどう撰ぼうと、それが神聖化されてはならないこと。国の体制は人間の精神を抑圧し、思想・信仰・表現・行動の自由を損なうような陰謀からできるだけ遠いものでなくてはならないこと。」と。

 私はこの声明に感動した。それが私の高校時代の親しい学友であるだけに肝に銘じて共感した。それは彼が「あとがき」で書いているように、「力づくりでひとびとの精神をねじまげ、作りかえ、押し流していった」わたしたちの時代とその統帥者へのもっとも純粋な糾弾であった。私は百万の味方を得た思いであった。先日、私たちは久しぶりで会って昔を偲びつつ、これからを思いあった。

東欧の「反乱」

 ポーランドではかねて「連帯」が主張していた「円卓会議」が実現され、大統領制がきまった。六月の国会選挙では「連帯」が圧倒的に勝利して統一労働者党は僅かに下院で二名当選しただけであった。

 チェコスロバキアでは、私が十六年前「七七憲章」派の非合法デモと遭遇した同じバツラフ広場で「プラハの春」弾圧二〇周年デモに万余の人々が公然と旗を掲げた。ハンガリーでもカダール書記長が遂に失脚し改革派のクロースが選ばれた。東欧ではもはや避け難い勢いで新しい波が広がった。

 またソ連では六月の第十九回党協議会でゴルバチョフが保守派をうまく取り込んで制度改革としてのペレストロイカを認めさせ、これを機会に党内では改革派が優勢になった。その反面では双方の対立はきびしく、リガチョフは新思考外交の旗手シュワルナゼに真っ向から対決した。

 九月ゴルバチョフはシベリアのクラスノヤルスクで政策を発表してアジア諸国との友好関係の再開を提案した。この年の九月、長年ソ連外交の主であったグロムイコが政治局員を解任されて最高会議議長のポストを明け渡し、ゴルバチョフが国家の最高の位置についた。

 またリガチョフはイデオロギー担当を解かれ、メドヴェージェフが政治局入りして後をおそった。だがゴウバチョフが党と国家のトップを兼ねることで、党=国家(連邦)を個人的にも確認することになった。

 かつて私が現存社会主義についてもっとも問題にしたのは党=国家であり、「唯一前衛党」であった。今現存社会主義の中心であるソ連の大改革のなかでその党=国家を確認し、この改革の天下り的性格を思って一抹の不安を抱いた。

 天皇であろうとスターリンであろうと誰であろうと、人間の「精神の自由」を犯す上からの強制であるかぎり、どんな「善政」も「悪政」に劣らぬことを改めて考えざるを得なかった。

 この年の十二月、かねて自衛隊員の夫の靖国合祀を「信教の自由」に反するとして提訴上告していたクリスチャンの妻の訴えを最高裁が多数で却下した。ところが私や森井の学友で最高裁委員をしていた伊藤正巳ただ一人が「内心の自由」擁護の少数意見を提出していたことを知り、ここにも友ありと心から喜んだ。

 この年、奇しくも同じ釜の飯を喰った二人の学友の良心と再会したことは私を大いに勇気づけた。(つづく)


私の昭和思想史(五一) 松江 澄 「新時代」1993.2.15 第244

昭和天皇の死

 年が明けて天皇裕仁の病気はます篤く、「自粛フィーバー」はいよいよ激しく、新年宴会も大売出しも祭りも一切、派手なことはつつしむようにとのオフレに商売はすっかり上がったりとなったり、みんなかげではぶつぶつ云っていた。それはかつて明治天皇の病が重いとき、政府が恒例の両国の花火を禁止したことを夏目漱石が批判して、下町の商人たちのことを案じた一文を私に思い出させた。

 このたびはそれどころか、日本のあらゆる分野で一斉に「自粛フィーバー」が舞い狂ったのだ。私はそのころ民放のあるテレビが朝早く呼びかける「皆さん、お元気ですか」という挨拶を中止したのをきいて、怒るより呆れてものが云えなかった。結局天皇は八九年一月七日に八七歳で亡くなった。テレビは朝から晩まで、新聞は全紙特集で一斉に昭和の「御代」をたたえ、一日中裕仁ムードに終始した。

 私は朝の内に家を出て、近くの町内を廻って弔旗の有無を確かめた。ところが私の予想に反して、けっして進歩的と云えぬわが町内に弔旗は少なかった。となりの町もそうだった。そこで足をのばして繁華街の本道理に出かけて見た。ところが驚いたことには、まだ人道りも少ない本と通りは軒並みに弔旗がひるがえっているではないか。なかでも大企業・大銀行の支店門前には大きな弔旗が見事に交差して掲げられていた。

 私はこのとき改めて思った。戦前には天皇制を支えるものが多く存在した。まず天皇を神聖とする帝国憲法をはじめとして、治安維持法と不敬罪(刑法)があり、内面から天皇を支えていたのは家父長制家族と古い封建的な村落共同体であった。そうして直接的に「大元帥」を守るのは何よりも国民皆兵の「天皇の軍隊」であった。いまそれらはすでにない。新憲法では戦前の天皇「大権」はすべて奪われた。戦前の天皇制の牙城は外堀・内堀を埋められて、残っているのは「象徴」という怪しげなことばと儀礼権である。

 福沢諭吉は「帝室論」で、天皇は日本人の「精神を収攬」する中心であり、そのためには、「政治社外」に置くべしと説いている。彼によれば、それはけっして「虚器」ではないという。正に今日の「象徴」に外ならない。それは神格化された「象徴」なのだ。それが実は戦前・戦後を問わず天皇制の真髄なのである。それは私の生まれた時からから今日に至るまで日本人の精神の自由を腐食しつづけている。

 戦前の私は一高時代に初めて自覚した精神の自由を何よりも大切な宝と思い、それを犯す「神」としての天皇を内心では密かにおぞましく思った。しかしやがて学生兵とされ、「真空地帯」にほうりこまれて何もできぬまま自ら内心を密封し、唯々諾々と天皇の命令に従って侵略戦争に奉仕したのだ。私の戦後はこうした私の戦前の総括であり、そこにのみ私の戦後があった。その昭和天皇が亡くなったことは、私にとってやはり一つの区切りであった。

「昭和」は終わったか

 「昭和」は終わった。しかしいま、またしても一九五九年の「美智子フィーバー」に優るとも劣らぬ皇太子とその思いの人との忍ぶ恋路が、まことに人間らしく繰り広げられている。しかしそれは果たして真に人間としての恋愛なのか。

 私はたった一度だけ二人で話したこのとのある中野重治の「五勺の酒」(一九四六年)を思い返した。そのなかで中野はその独自の天皇感を自由に展開しることによって、当時の日共の天皇にたいする悪篤ぶりがけっして実りのある天皇制批判にならないことを暴露した。中野は書いている。「つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれはないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これがかれらの最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙された個があっただろう。」と。

 そして彼は断言する。「個として彼等を解放せよ。・・・・・・・恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること。そのことなしにどこに半封建制からの国民的解放があるのだろう。」と。私も彼と同じように、「天皇を鼻であしらうような人間がふえればふえるほど、天皇制が長生きするだろう」と思う。それはしょせん「左翼」のことばだけの強がりにすぎないのだ。罵詈讒謗は、何一つできぬ腹立たしさを、ののしることで自ら慰めているにすぎない。天皇制とはそれほどしたたかなのだ。結局私の一生は、ある意味では天皇制との、時としてひそやかな、時として烈しい戦いでもあると思う。

 

 ところで編集者は、昭和が終わったが後をつづけろ、と云う。いやそもそも「昭和思想史」と名付けることが私らしくないという。たしかにそうかも知れぬが、私にはすでに書いたこだわりがあったのだ。しかしここまでクルとこのままでは終わるわけには行かなくなった。それはちょうど昭和の終わる頃から私の思想史にとって避けられぬ現存社会主義の崩壊が始まったからである。そこでそれにふれつつわが思想の形成の総括をするまでつづけることにした。読者の御了承を乞う。(つづく)


私の昭和思想史(五二) 松江 澄 「新時代」1993.3.15 第245

天安門の弾圧

 一九八九年は中国にとって忘れられない年であった。それは中国の反定解放闘争の口火を切った学生たちの「五・四」運動がはじまって七〇周年であり、また新中国が誕生して四〇周年にも当たった。そうしてこの年はまた自由・平等・友愛をかかげて闘ったフランス革命の二〇〇周年であった。

 この年の四月十五日には胡耀邦前党書記の急死をいたむ党中央委員会主催の追悼大会が天安門広場の人民大会堂で行なわれた。だが彼は党の政治局会議の論争中憤死したとも伝えられ、彼を慕う青年・学生たちがその死を心から悼み憤る運動はまず四月十七日の五〇〇人のハンストから始まった。

 折りしもソ連のゴルバチョフ書記長が五月中旬訪中して五月十九日までの日程で中国共産党首脳部とりわけケ小平と会って中ソ和解を結ぶことになっていた。天安門前では好機到れりとばかり学生たちのカンパニアは一日一日と熱気が高まり燃え揚がった。

 こうして日に日に増す人々の結集が一段と画期的に発展したのは五月十七日の「百万人デモ」であった。それはただ数だけでなく、この運動の質がはっきりと飛躍したことを示していた。いままでの学生、知識人たちに加えて国家、党機関、報道機関などで働く党員、活動家たちに広範な民衆が加わった百万人の抗議デモは、かたずを飲んでテレビを見守っていた私にもはっきりと運動の質が新しい段階―抗議と要求から政治の変革をめざす段階に移行しはじめたことを思わせた。量は質に転化した。

 そうして同時にこの瞬間から党と政府の方針と対応もまたはっきりと質を変えたのだった。天安門の運動は反革命とされ、そのデモと集会を武力で排除することであった。五月二十日、戒厳令が発令された。それまで党・軍と学生、活動家集団、民衆との間を右往左往していた蛸紫陽は斥けられ、在米中で帰国が待たれていた万里全人代委員長もあえて「火中の栗」を拾わず、李鵬以下の党官僚はケ小平首領の命令一下弾圧を決定し、その軍団は全国から北京へ天安門へと肉薄し、六月四日ついに内部対立を押し切って学生と民衆に襲いかかった。

 六月四日の夜から朝へ、世界のテレビに映し出された光景はもはや見ることはるまいと思われていた大国の「革命」と「反革命」の対決であった。しかしひとたび立った巨大な軍の前にはどんな抵抗も歯がたたなかった。こうして無残にも多くの若者たちの命を奪い、「反逆者」たちを武力で排撃しつつ天安門広場は制圧された。

中国の社会主義

 私は、いったい中国の社会主義とは何であったのか、と考えざるを得なかった。このたびの天安門事件の背後にあるもの、人々の声の奥に横たわっているものは何であったのか。インフレの進行のなかで「官僚」といわれる役人の不正は人々のうらみの的となり、政治改革は叫ばれても何一つ進まなかった。しかし、こうした現状にたいする不満と批判だけでなく、そこには一党独裁に満足できない新しい政治意識が成長していたのだ。

 それは「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」という飾り文句に集約される党の指導に、唯々諾々と従うことを拒否する新しい民主的な政治意識がハンストやデモのなかで育っていたのである。

一九五六年のフルシチョフによる「スターリン批判」(ソ連第二〇回大会)にたいして当時の中国共産党は「プロレタリアートの独裁の歴史的経験」についての二つの文書で対応した。私はこのたび読み返してみたが何らの格別な視点は見出し得なかった。ただ「民主主義的集中制」をふみはずしたと指摘しながらその原因としくみ何一つ追求してはいなかった。

 その「民主集中制」とは何であったか。それはたしかに形態としてはマックス・ウエーバーの云うような「伝統的支配」と「カリスマ的支配」をかね合わせたようなものであった。しかし私はこうした形態をマルクスに対置して、一定の支配を非歴史的な固定的形態になぞらえるわけにはゆかなかった。

 だが中国のこの状況と原因を「マルクス・レーニン主義」の体系のなかだけに求めるのは無理である。私は、人間の生きてきたそれぞれの民族と地域の生活と活動の長い歴史が人々の意識と思想に与えつづけてきた深い影響を考えざるを得なかった。

 それは高々半世紀にも満たぬ政治経験によって容易に変えられることのない、この民族の四千年にもわたる長く輝かしい歴史、そうしてときには苦しく屈辱的な歴史が祖父から父へ、父から子へと幾代にもわたって一人一人の人間にあたえつづけてきた生き方と考え方なのである。

 それは中国の人々が深く培われてきた社会観、価値観にかかわっている。そこには日本人とは違った意味で家族、宗族の繁栄を願う中国の歴史的な集団主義がるのではないか。そこには当然にもその集団の中心となって人々の運命と前途を預かり指導する家父長が必要だったのだ。それはフィクションとしての聖人=有徳人の啓示なのである。

 マルクス主義が歴史を変えるのではなくて、歴史がマルクス主義をも変えるのである。しかし「易性革命」は不変である。「天安門事件」は今後再び姿をあらわすに違いない。

 


私の昭和思想史(五三) 松江 澄 「新時代」1993.4.15 第246

東欧改革運動の高まり

 一九八九年になるとすでに始動していた東欧改革の嵐はいっそう吹き荒れた。ポーランドで「円卓会議」の合意で連合内閣の首相は「連帯」から出すことになり、ハンガリーでは自ら社会党に衣替えした元共産党のイニシャチーブで複数政党制のもとで「政治協商会議」が指導権をにぎり、オーストリアとの国境の鉄線を除去することによってハンガリーに流出した東独の難民は一挙に西ドイツに入ってベルリンの「壁」撤去の端緒をつくった。

 またブルガリア、チェコスロバキアでは何れも今まで指導権をにぎっていた共産党書記長がその地位を追われ、ルーマニアではチャウシェスク元大統領は反乱の中で逮捕されて妻とともに処刑され、ほしいままに私腹を肥やしていた独裁者の時代は終わった。

 こうした東欧の変革に共通しているのは、何れも政治的には党の「民主集中制」の名のもとに行なわれていた独裁を廃止するとともに唯一前衛党それ自体も終わりを告げ、集会、結社、言論、宗教の自由を回復してすべての情報を公開し、経済的には中央集権的な計画経済から自由な市場経済への転換を宣言し、私的所有を認めて国営企業の民営化への移管を決定したことである。

 ハンガリーではすでに早くから経済改革を追求しながらコルナイの指摘する「不足の経済学」を克服できず、暗中模索しながら思い切った経済改革をめざしたがポーランドとおなじようにその転換は困難だった。

 市場経済とは封建経済のなかから生まれて資本主義経済をはぐくんだ母体であり資本主義の原型なのだ。中央集権のもとで人為的な計画を命令で追求する「社会主義」経済を「自由」な市場経済に転換することは宣言一つで実現できるものでもないし、またそれが経済困難のすべてを解決する特効薬ではけっしてないのだ。

 それは「不足の経済学」が求めている「満足の経済学」ではないのである。たしかに「不足」は「満足」を求める。しかしそのためには豊かさ代償として「貧困の経済学」も受入れなければならないのだ。だが「不足の経済学」に長い間なやんできた人々には、強制から解放されればすべてが万事片づくと思っていたのではないか。

 だが「自由」ということは生活を豊かに楽しむ人もつくり出すが、明日の生活に苦しむ人々も沢山つくり出すということも知らなければならぬ。真の豊かさは資本主義や市場経済の中にではなく、働く者が資本主義の矛盾を運動で止揚することによって始めて実現することができるのだ。長い時間かけて。

マルタからクリミアまで

 八九年十二月、ゴルバチョフとブッシュは地中海のマルタ半島で会い、全面軍縮への画期的な第一歩をふみ出した。それはまた新しい世紀を前にして冷戦終結へ向う歴史的な第一歩でもあった。それは内政ではペレストロイカが思うように進まぬまま外交では「新思考外交」で見事に花を咲かせる一幕であった。

 九〇年三月、党の指導力低下を見越したゴルバチョフにとってバルト三国独立問題は重大な試金石であったが、ここで彼の本音がはからずも暴露された。彼はリトアニアの首都で自信たっぷりともみ合う群衆の中に入り自由な会話を試みた。

 ところが彼を恐れず一人の市民がリトアニアは独立すべきだと直言した。彼は激怒して「お前は誰だ!」とヒステリックに激しく詰問した。ライサ夫人はおどろいてとりなおしたが、彼は夫人に「黙れ!」とどなりつづけた。この一幕をテレビで見ていた私は、このごうまんさはやはり唯一前衛党の書記長だと思った。彼は無意識の内に、いつでも自分が正義なのだと思っていたのだ。唯一前衛党=民主集中制を自らが破壊しながら、スターリンの幻影は彼にまつわりついていたのである。

 ところが彼のライバルであるエリツィンがロシア共和国最高人民会議の議長に選出された。ロシア革命四年目につくられたソビエト連邦の最も重要な基盤であるロシア共和国がゴルバチョフの手から離れようとしたのだ。

 そのうえ軍産複合体の幹部を先頭にした「保守派」はロシア共和国の独立共産党を創設することによって、ゴルバチョフの「新連邦」と対抗して昔に還そうとした。連邦党大会でシュワルナゼは危機感をこめて「独裁」の到来を予告して退場した。エリツィンは大会終了間ぎわに離党宣言を行なって会場を去った。連邦とロシア共和国、党と最高会議との分裂は目前だった。ゴルバチョフのもう一人の盟友ヤコブレフも彼から離れはじめた。危機は迫りつつあった。

 九一年八月、ゴルバチョフはつかれてクリミアで暑中休暇をとり、新連邦条約の調印を待機していた。まさにその前日、モスクワでク―デターが起きた。彼にとってそれが果たして寝耳に水だったのか。そうとも思えぬふしがある。だが彼はクーデター計画には組みしなかった。

 彼は「天安門」を拒否した。だが「天安門」は彼の背を越えて始まった。私たちは「天安門」から二年目に、またしても大国の「革命」と「反革命」の対決をテレビで見ることになった。しかし今度は市民が勝利した。市民とともに戦車の上に立ったエリツィンは英雄のように見えた。だが果たしてそうだったか。(つづく)


私の昭和思想史(五四) 松江 澄 「新時代」1993.5.15 第247

アルマ・アタへ

私は少し先を急ぎすぎたようだ。

 前号でひとことふれた九一年夏のモスクワ・クーデターからちょうど一年ばかり前、経済改革は進まず国内政治は不安定で、ゴルバチョフの人気が低下しているのに対して、エリツィンがロシア共和国最高人民会議議長に選出された頃であった。ゴルバチョフも大統領を兼ねることで党から連邦(国家)へと重心を移し、連邦(ゴルバチョフ)とロシア共和国(エリツィン)がライバルとしてしのぎを削ろうとしているとき、私は医師の許可を得て、四度目の旅でロシア共和国に次ぐカザフ共和国の首都アルマ・アタへ行くことになった。

 それは国際医師会議の呼びかけで、九〇年五月二十五日から開かれる核実験禁止国際市民会議に出席するためであった。今までのような世評系とは異なるこの会議の重要さに加えて、大きな変化が予感されるモスクワとアルマ・アタの現地を見聞きしたいと思ったからでもあった。プラハの会議以来七年ぶりの飛行機の中でスピーチ原稿の準備に追われながら、モスクワに到着したのは五月二十一日午後二時過ぎだった。宿舎のクレムリンそばにあるロシア・ホテルに着いてしばらくして夕食をとったが、この著名なホテルの食事は乏しくまずかった。

 そこで翌日の夕食は広島の人々を誘って二階に見つけておいたレストランで会食したがとてもよかった。ワイン二本にサラダ、フィッシュ、スモーク・サーモン、トマト・サラダなどを美味しく食べかつ飲みながら支払いを気にしたが、締めて二九ルーブル一四人で割れば日本円で一人二百円余りで、安いのにびっくりした。きけばルーブルはすでに円にたいして十分の一に切り下げられていたのだった。結局ものがないのではなく、ルーブルでは高くて手がでないうことだった。その晩、部屋に帰って風呂をわかそうとすれば風呂桶の底栓がない。幸い同室の物理学者が陶器の小さな茶碗を見つけてきて、脱水口にお尻をのせて水の圧力で湯をたっぷり入れて入ることができた。

 この風呂の栓はアルマ・アタでも同じだった。不足勝ちの生活のなかに使われてるのか、売って金に換えるのか、何れにしても以前に比べてかなりモラルも荒れているなと思った。しかしモスクワと違って随分田舎のアルマ・アタでは美味しい川魚や野菜がたっぷりで皆ようやく落ち着いたようだ。

メミバラチンスクへ

 二十三日午前一〇時にモスクワを発って、アルマ・マタに着いたのは午後二時過ぎだった。この夜ホテルの大広間で世界の代表たちの歓迎集会が開かれ、立食で食事と会話を楽しんだ。この時、「広島から来たのは誰か」と会場を尋ね廻る老人がいた。やっと私を探し出した彼はいきなり抱きついて頬にキスしながら共感の感動を表した。彼はメミバラチンスク実験場で村民を殺され、今は無人になったカラウル村で七人ほど生き残ったなかの一人だった。私たちは通訳を通じて話し合い、反核の堅い握手を交わした。彼は老人にみえたがどうやら私とあまり変わらぬ年のようだった。

 私たちの泊まっているホテルの前が会議会場の「政治センター」で、その階段から見ると南方にまだ雪をかぶった高い連峰がすぐそこのように見えた。それが中国の天山山脈ときいて改めて地図で確かめ、遙けくも来たなと思うとともに、この大国と中国は隣り合わせ名のだと気づいた。総会から分科会へと出席してかねて準備してきた英文原稿を読み上げ、私の体験から参会者に反戦反核を訴えて満場から共感の拍手を受けた。大会が終わった翌日の二十六日は天山山脈の見える大競技場で市民を含めた反核大集会が開かれ、「ポリゴン・ジョアスィ」(核実験場やめろ)!の声が空高くひびいた。

 二十七日は飛行機でメミバラチンスクに行き、そこから自動車で遠路を強行してカラウル村の向こうまでバスで行くことになっていた。私は心臓が気がかりでどうしょうかと迷ったが、会議事務局が市長の車に乗って是非行ってくれと云われて折角だから参加することにした。三時間ひた走りに走って草原の大テントに準備された昼食をとって、ふたたび人一人居ない草原を走って無人のカラウル村を経て集会場についた。広島県と同じ面積のこの大平原では一九四九年以来四〇年間に亘って三二〇回も核実験が行なわれたのだ。「ヒロシマ=ネバダ=メミバラチンスク」の慰霊碑の前で再び「ポリゴン・ジョアスィ」!を叫んで核との闘いを宣言した。

 やがて日が暮れるなかで交流会も済んで、たくさんつくられたパオで三々五々御馳走になった。現地の人々は背丈といい皮膚の色といい私たちとよく似ていて、彼らこそ日本人の先祖ではないかと思った。

 夜中にホテルに帰り明朝早く発ってモスクワに帰った。ホテルの前の「赤の広場」では幾組ものグループがこもこご旗を立ててアピールしながら、近く発表される人民代議員選挙を前に興奮した面持ちで競い合っていた。「赤の広場」にそそり立つグム百貨店も町の店も店内の棚の中には軒並に殆んど何もなかった。通りではあちこちに食品や生活必需品を買うための行列が見られ、以前三度の旅行とは違う風景は何かが起こりそうな気配を伝えていた。今にして思えば危機は迫りつつあったのだ。


私の昭和思想史(五五) 松江 澄 「新時代」1993.6.15 第248

万難こもごも至る

 私がソ連から帰ってきたのは九〇年六月の初めだった。私は帰るとすぐ広兼君の入院をきいてびっくりした。彼は私が出発する前に少し体調をくずしていたが、まさか入院とは思いもよらなかった。彼は私が帰るまで待つつもりだったが、医師の判断で入院させられたらしい。早速病院に行って見たら元気そうに見えたが、いま検査中ということだった。検査の結果は食道の腫瘍だという。岡山大学の医学部から医師が来ることになり、手術したのが忘れもせぬ八月二日だった。手術は無事終わったので一安心した。

 ところがこの八月二日こそ新たな戦争の火種が蒔かれた日だった。イラクのフセイン大統領がクェートに侵攻し、たちまち全土を制圧・占領した。六日には国連安保理事会が全面的な経済制裁を決議し、明七日にはブッシュ・米大統領が早々と米軍のサウジアラビア派兵を決定し、緊迫した空気が西アジアと世界をおおった。

 これがやがて十一月末にはアメリカ主導で国連安保理が武力行使容認の決議を行い、一九九一年一月十七日についにアメリカを主力とした多国籍軍が攻撃を開始し、湾岸戦争が始まることになる。

 私は広兼君の手術後を案じつつ秋から冬にかけて海外派兵をめざす第一次PKO法案に反対して原爆ドーム前の座り込みに参加した。この法案は危機感の高まる世論に支援された国会内外の闘いでついに廃案にさせることができた。

 だが翌一月に始まった湾岸戦争はアメリカ軍が最新の科学兵器を駆使することでかってない一方的な科学戦になった。アメリカ軍部検閲済みのテレビの画面はただ光線と火花が交錯するだけだった。

 それはボードリヤールが云うように、「熱い戦争のあとから、冷たい戦争のあとから、やってくるのは死んだ戦争―解凍された冷戦」であった。

 アメリカはすでに八八年の暮、冷戦後の戦略として世界各地域の紛争に対する「選択的抑止戦略」を決定していた。それは今までの「起こりそうにもない戦争」(米ソ戦争)から「もっとも起こる可能性の高い戦争」(民族紛争)への対応戦略であった。それはアメリカ等大国が石油をはじめとした重要な資源と市場をむさぼり奪っていた開発途上国への先制的制圧に外ならなかった。アメリカは今までの東西の対抗軸をいまや改めて南北にきりかえたのである。

モスクワにクーデター

 広兼君は九〇年八月末に退院したが、体重がなかなか元に戻らなかった。聞けば食道だけでなく、念のため胃も大分切り取ったらしい。そうでなくても小柄でやせている彼の体重が四〇Kを割る状態のもとで、これからの病闘生活が大変だなと思った。だが何としても元の身体に一日も早くなってもらいたい。それまでは事務所を守り切らなくてはと決心した。

 湾岸戦争は居丈高なアメリカの攻撃によって、一ヶ月ばかりのうちにフセインは敗北し、以降いわゆる「中東問題」をめぐる駆け引きが始まった。それからまもなく、又もや九一年の八月十九日、モスクワでクーデターがおきたときいてびっくりした。

 その推移如何ではペレストロイカはもちろん、社会主義ソ連へのどんな迂回的な再生のための試みも危うくなるのではないかと思った。それはヤナーエフ副大統領をはじめとしたソ連の幹部=軍産複合体の幹部が休暇中のゴルバチョフを軟禁し、軍隊の力で政権を奪取しようとするものだった。しかし戦車はモスクワに侵攻したが民衆が決起し、武器を持たぬ数千数万の市民達が戦車を包囲して首都を自衛することによってこのクーデターは一両日にして瓦解した。

 このク―デターは一体何であったのか。革命なのか反革命なのか。否、そのどちらでもなかった。民衆たちにとってはゴルバチョフのペレストロイカも彼らを救わず、クーデターも結局昔の共産党絶対支配時代を復活させるものでしかなかったのだ。ただこの「革命」と「反革命」の隙間の中でエリッインは戦車の上でアピールすることで名をあげることになったが、結局それだけであった。どこにも成算はなかったのである。

 共産党は党内外から見離されて瓦解し、国境を越えて指導中枢であった共産党の崩壊は、名目上の構成共和国を支配していた連邦「国家」を崩壊させた。残されたのは名実共に自由になった各共和国だった。

 それは帝政の打倒以来、革命の名の下に70年刊凍結されてきた「民族自決」の解放だった。しかしそれは七〇年間閉じ込められていた民族主義をいっきょに噴出させた。また連邦の解体によって分離されていた産業分布の下で一国的な経済の創出というきびしい試練に直面しなければならなかった。「唯一前衛党こそ諸悪の根元」と規定した私も、これほどもろい唯一前衛党の崩壊のもとでこれからソ連はどうなるのかと呆然とした。

 いま各国共和国とりわけ最大国のロシア共和国では「市場経済」論が横行し、三百日、五百日 案なるものが取り沙汰されている。笑止の至りとでもいうものだ。それは日本でも何百年もかけて発展し、資本主義を準備してきたものである。他所の花はキレイに見えるものだ。だが歴史は決して一挙に変わることはない。


私の昭和思想史(五六) 松江澄  新時代 1993.8.15 第249

 

なぜ現存社会主義は崩壊したか

私はモスクワ・クーデターの年の二月三日、大阪で準備された”91フォーラム関西“(「社会主義・その根底を問い直す」)で呼びかけ人の一人となり、当日は最初の提起者としてこの課題について報告した。それは私にとって、すでに崩壊の過程にあった現存社会主義について改めて公表する最初の分析と意見であった。

だが、いま読み返して見て、ここで発表した考え方の基本はいまでも少しも変わっていない。クーデターは何一つこのときの意見を変えるものではなかった。

私がここで提起した意見の前提は、私自身の精神史と思想史であった。私は戦前・戦後の私の七〇年間の成長と断絶の過程を、社会主義の生成・発展・衰退・没落の諸過程と重ね合わせた。オクテの私は二〇才前後の高校時代にようやく自覚的に獲得した自由と自立の重さを知った。

それは日中全面戦争が始まったばかりの頃、辛うじて許された―先輩たちが最後に私たちに伝え残してくれた「断末魔の自由」でもあった。しかしそれはその後の私の一生のなかで決して忘れ得ぬ宝物ともなった。

しかしその自由はやがて太平洋戦争下の大学のなかでは、ごく一部の教師を除いては無残にも自壊しつつあった。だが、やがて私は在学中二四歳にして「満州」牡丹おくの銃砲兵部隊に投入されるなかで、心中深くあったはずの自立と自由は音を立てて崩壊したこと知った。いや私は獲得した束の間の自由を自ら胸中深く封じ込め、生きるために唯々諾々と真面目な兵士を演じたのだった。

敗戦で解放された私は天皇に屈服した自らの総括をしなけばならなかった。しかしそれは思想的な追求に留まるべきでなかった。戦争と原爆で命を奪われた学友と戦友、家族と友人に代わって日本を侵略戦争に至らしめた者との闘いは、私を日共に入党させ、マルクス主義探求に熱中させた。

そうした私を天は再び試練の波にさらしたのである。この党こそは時間をかけて思い定めた日共のなかで、かつて青年学生時代の私から自由と自立を奪った力が、再び私をおそったからである。それはかつての天皇制国家権力にも似た絶対主義権力であった。私は二度、三度にわたって意見の自由を闘ったあげく新しい天皇制と分岐しなければならなかった。

しかしその後、私が多くの同志とともにめざした新しい道も依然としてその根底に在るのは「新しい前衛党」でしかなかった。しかし現存社会主義の唯一前衛党を信奉する同志との論争のなかで、八〇年代初頭に至って私はようやく体内に残存していた教条主義から解放され、「唯一前衛党」こそ諸悪の根源であると党=国家の絶対主義批判を公表することができた。

それから一〇年にして「社会主義」は崩壊したのだった。私は七〇年をかけてようやく何を求め、何を求めざるか、を自己検証を通じて知ることができたのである。

社会主義とは何か

私は戦後未だに一途に社会主義を追求してきた。しかし戦後私がふれ合うことができたソ連・東欧の社会主義はけっして私がめざしたきた社会主義―人間の到達すべき最後の理想社会の前身―とは思えなかった。そこにあるのは指導者の絶対的な権威であり、人々はただその指導者に従うのみであった。そこには自由も民主主義もなく、もし名付ければ国家社会主義とでもいう外なかった。

そうしてその縮小化されたモデルが日共の宮本「天皇制」であり、祭り上げられているのが野坂名誉議長だった。いま野坂が過去の背信で糾弾されるなかで、かって盟友でもあり政敵であった宮本は、野坂を除名追放させながら「われ一人清し」と、何の自己批判もない。これほど醜悪な図は世界でもまれに見るものだろう。

しかし戦後私がそれ以上に残念に思うのは、そうした党のなかで疑うことを知らず、上からの指導と指令に従って、あいもかわらハンコで押したような日共の自画自賛をくりかえしていることである。それはまさに真理を探究する人間の自由な精神に対する冒?なのだ。

だがそれは彼らの問題とともに私の問題でもあるあるのだ。そのためには社会主義とは何であるかという根元的な問いかけを徹底的につきとめなければならなかった。

そうしたとき、私に重大な示唆をあたえてくれたものが二つあった。その一つは改めて読み直した。マルクスの最初にその共産主義思想に到達した著作とでもいうべき「ドイツ・イデオロギー」である。私は何度か読んだこの著作を読み直して、思わず自らウロコが落ちるような気がした。それは次の一節であった。

「共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提から生まれてくる。・・・・」と。

私はやはり「青い鳥」を探していたのだ。私は青年時代から心中深く根を降ろしていた理想主義的世界観に思い到った。もう一つ私が探り直すための指針となったのはグラムシの追求だった。彼はフランス革命からパリ・コミューンまでの八〇年間を一つの歴史的文脈としてとらえている。フランス革命なくしてパリ・コミューンはなかったのである。そうしてパリ・コミューンはフランス革命の仕上げだった。


私の昭和思想史五七)松江 澄  新時代 1983.9.15  第250

 

マルクスと「マルクス主義」

社会主義体制の総崩れなかで、スターリン・レーニンはもとより、マルクスまで含めてすべてがあやまりだったという風潮さえ広まっている。たしかに今まで社会主義論を形成してきたのは「マルクス主義」「レーニン主義」あるいは「マルクス・レーニン主義」と呼ばれてきたものであった。

 だが、かつてマルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と語ったことがあるし、レーニンもただの一度も自らの追求を「レーニン主義」と呼んだことはない。彼らは「主義」ということばで「思想のカン詰」をつくることが誰よりもきらいだった。

 こうした「主義」をつくりあげたのはスターリンとその亜流に外ならなかった。彼らはそうすることによって多くの活動家がその重要な知的探求と実践的な勇気に深い信頼を寄せていたマルクスやレーニンの名を借りて自らの体系を広めることで、ヘゲモニーをつくり上げたのである。それは、まさに「スターリン」主義だったのである。

 その教科書にされたのがスターリンの「レーニン主義の基礎」であった。一九二四年に発表されたこの書はまたたく間に世界革命運動の教科書となった。私も戦後日共に入ってこの書を読み、簡潔にマルクスとレーニンのエッセンスを定式化した小さくて薄い本が座右の書となった。

 当時党機関からの命令で私は若い学生、青年党員たちにこの書をテキストに講義させられたこともあった。いま思えばまことに汗顔の至りである。この講義をきいた人々のなかには、当時県東部の高校を卒業したばかりの若い棗田君(現在・亜紀書房社長)がいる。彼は時にその話を私にすることがある。

 たしかに当時マルクスやレーニンの原点もなかなか手に入らぬ頃、この書は「マルクス・レーニン主義」のバイブルのようなものであった。今ふり返ってみると、あの書に代表される歯切れのよい裁断的な叙述が若いものの魅力だったのだ。

 中野重治がかつて「レーニンの素人の読み方」のなかで、レーニンの文章は「農民的」だがスターリンの文章は「工業的」だと名づけたことがあったが、まさにそれは機械のように「正確」で小気味がよいほど早分かりするとこにこそ落とし穴があったのである。

 ここ始まって四〇年近く経ったころ、何べんもよんだはずの「共産党宣言」第二章の最後の文、「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件となる。」という提起が私の眼を開かせた。

 

 時代によって変わるものと変わらぬもの

 

 どんなすぐれた人でもその生きた時代と場所によって制約されることはいうまでもない。後進資本主義国ドイツの人マルクス、帝国主義とはいえ皇帝も居れば農奴も居る後進帝国主義ロシアの人レーニンと、それぞれ時代と条件の制約はあるが、マルクスの資本論とレーニンの帝国主義論がいまなお原理的な意義を失うことはないと私は思っている。

 そうしていま求められているのはこうした基礎の上に戦後の大きく変化した情況のなかで、資本主義、独占資本主義はどのように発展し、変化したかを探求しなくてはなるまい。

 私がいまでも忘れることができないのは、若くして亡くなった内藤さんが東京に在るとき、会議の為に上京するたびに泊めてもらっていた大崎の家で、彼が幾度となく私のいいつづけたのは戦後帝国主義についての探求であった。そうしてそれは私への遺言となったのである。

 少しばかりは勉強しながらもまだその責を果たすことできぬ私にとって、彼の言葉はいつまでも私の頭の中で鳴りつづけている。そうして私の知るかぎり、マルクスもレーニンも死ぬまで立ちとどまる新しい探求に力をつくしている。

 それにつけても私が思いおこすのはロシア革命直後の「戦時共産主義」から「ネップ」へかけてのレーニンの探求である。この当時の主要な著作ともいうべき「食糧税について」(レーニン)を読むと、「戦時共産主義」という革命的過渡期を早く終わらせるとともに「市場経済」を主要な経済的ウクラードとしつつも、やがて転換しなければならない社会主義建設への移行がいつ始められるべきか、その速度と長期展望は、という諸問題については少しもふれていない。

 いやそれどころか「ネップ」をいつまで続けるかについてさえ、あまり明確な展望を出していない。そこにはレーニンの困惑と躊躇さえ感じるのは私のひが眼であろうか。

 やがてレーニンが銃弾がもとになった病に倒れるや否やスターリンは国有化・計画化に突入する。それは富農の殲滅と強引なコルホーズの建設、有無をいわせぬ徹底した計画化による重工業建設だったのである。

 ゴルバチョフは「ネップ」の再導入を提起し、ほとんどの指導者たちは「市場経済」を叫びながら、彼らは過去の「ネップ」から「計画経済」へ移る時期の対応について一度でも歴史的総括をしたことがあるだろうか。ただゆき当りばったりで右往左往するばかりではないのか。

 今のロシア経済を「疑似資本主義」と呼ぶ人もあるが、何れにしても特効薬はないはずである。いつまでもつづく「国家=軍事企業団」グループと「民主主義」グループとの綱引きからは何も生まれぬ。(つづく)


私の昭和思想史(五八) 松江 澄  新時代 1993.10.15 第251

 私と天皇あるいは天皇制

 私が戦後追求してきた社会主義に次いで、いや対照的にその本質と権威の源泉を探りつづけてきた天皇ないし天皇制の総括が是非とも必要である。だがしかし社会主義論も天皇制論もそれぞれが重大な問題であり、この小文でつくせるものではない。何れ私なりにまとめたいと思っているが、七四歳ともなればそれが果たして仕上げられるかどうかわからぬ。この昭和史が終わりに近づくに当たって、社会主義論とあわせて天皇制との格闘を思い返してみる必要があると思ったので若干の提起をしておきたいと思う。

つい先日、私は出版されたばかりの「学徒出陣」(「わだつみ」会編・岩波書店)を買ってきて、安川名古屋大学教授の「教育史の中での十五年戦争と学徒出陣」を読んだ。そこにはまず一九一一年から一九二六年までに生まれた人々の戦中における思想世代についての時期区分の分析があった。

 その区分によればa一九一一〜一九一九年(マルクス主義思想残光期)b一九二〇〜一九二二年(自由主義思想残光期)c一九二三年〜一九二五年(自由主義思想消滅期)d一九二六年以降(軍国主義思想純粋培養期)ということであった。「マルクス主義思想残光期」と短い「自由主義思想残光期」とが密接に結び合いつつすぐに消滅期に連なっているのが、いかにも日本的特徴のように思える。「自由」が革命と反動の合間に辛うじて息ついているのだ。

 この分類は多少の批判はあるもののおおむね当たっているように思う。但し一九一九年生まれだが奥手の私は一高入学前後にごく一部のマルクス主義文献を読んだがよく分からず、「残光」にさえ浴しなかった。ふり返って見ると「a世代」はもう少し前まで含めて戦後私が尊敬し指導を受けてきた先輩たちの世代である。そうして私はと云えばbの「自由主義思想残光期」に属すると云った方がよいと思う。私が一高時代むさぼるように読んだ思想・文学と当時の私たちの生活は今にして思えばまさに自由と自立が一定の範囲で残された最後の時期であった。その意味で短いbの時期は私にとってちょうど一高の三年間であった。

 そうしてこの世代区分はほぼ天皇感の推移とも重なるのではなかろうか。a世代と少し前の先輩たちは高校時代から大学にかけて非合法活動で天皇制打倒を闘っていた。しかしこの時代の終わりになるとそれもできなくなっていた。私たちの高校時代には社会科学研究会ですら禁止されていた。わずかに来校した「ヒットラー・ユーゲント」を罵倒して追い出したり、寮を警察官講習に貸すのを代議員会で拒否したり、教練に草履をはいて出ることで軍事に抵抗するのがせきの山だった。それは青年の衒いでもあった。

 天皇制とは何であったか

 この課題について云えば、西欧政治学の成果を駆使しつつ日本的特殊に挑んだ丸山真男、藤田省三らとともに、それにあきたらず天皇制に内包される日本的暗部に内側から光を当てようと追求した神島二朗や橋川文三らの業績もきわめて重要だと思う。

 神島は年は私より一つ上なのに一高では私より一年下らしく、たっぷり高校時代を享受している内に学徒兵としてフイリピンに派遣されて生死の境をさまよい、ようやく生きて帰ってからは再び学究として「近代日本の精神構造」に全力を注いだ。彼は敗戦による「憤りと屈辱」のなかでやがて天皇の「無倫理性」をはっきり見て、もはや「民族の良心」はそこにはないと、自らの内心の痛みをもって認識したという。こうして彼は「自らの償い」として、「天皇制ファシズムと庶民意識の問題」を追求する。

 また橋川は中学と高校を通じて私より二年下で、よく知っている仲である。彼が若くして亡くなる少し前、神田の駿河台で久しぶりバッタリ会った。彼は弟が日本製鋼所広島工場で働いて日鋼争議の時お世話になったと云いながらぜひ一度ゆっくり話したいといった。私も橋川の探求も知りその書も読んでいたし、彼の研究に惹かれるものがあったのぜひ会おうと約束した。だがその約束を果たさぬうちに彼は亡くなり、私は会えなかったことを悔やんだ。私は人間的にも彼が好きだったし、ほんとうにその早世が惜しまれる。

 思えば二人共私とともに正に「自由主義思想残光期」に青年学生時代をすごしながら学兵として出陣し、敗戦によって過去の償いとしてそれぞれの追求に没頭したのだった。それはひとたび「自由」と出会いながら、瞬く間にその「自由」を失った者だけが知る悲しみと怒りから探求が始まっているのだった。戦後マルクスを学びつつ追求をつづけてきた多くの人々の思想的経路は多様である。私の場合はどうしても越えなければならなかったハードルは「自由」であった。私はその「自由」をつきつめた社会こそ社会主義社会だと思った。

だが日共の中には真理探求の自由はなかったことで分岐の決意を固めたのは一九六一年であったし、訪れる度に失望する現存社会主義とようやく思想的な分岐ができたのは、八三年であった。その後の社会主義崩壊による立証は私にとっては苦い思い出となった。いったい私の生涯をかけた思想的実践的追求にとって戦後五〇年は何であったのか。それはまた私の青春期以来の未知数の問題でもあったのだ。(つづく)


私の昭和思想史(五九) 松江澄 新時代1993.11.15 第252

「天皇制」と三度の出会い

 私が最初に出会ったのはもちろん日本の天皇制である。この絶対主義は私の幼年から学生兵に至る二〇年間、すでに書いたように何らかの形で私の精神生活にかかわっている。ところが、戦後どう変わったのであろうか。それは日本人自らが一五年戦争の総括と決着を通じて改革したものではない。占領米軍(アメリカ政府)と天皇を中心とした宮廷、政財界の有力者を含む取巻きとの談合・取引によって、かつての神権天皇制は象徴天皇制に変わった。

 しかし私が重視するのは天皇制の形態ではない。天皇制に含まれる政治的実権やその支配形態は変わっても、変わらぬものはその天皇ないし天皇制が人々の内面に浸透する精神的支配である。それは決して外からの強制ではなく、国民一人一人の「自主的」内心から魂を抜き取り、精神的な「私」を奪い去るカリスマとしての天皇である。それは明治の天皇再建に当たって西郷や木戸をはじめとした重臣たちがもっとも腐心したところであった。

 徳川権力がかつての勢力を失う時、新しい近代日本国家の大黒柱はかつての軽輩士族であった明治の元勲たちには無い、先験的で国民的な信仰を誘うことのできる新しく古い権威でなければならなかったのである。

 彼らにとって重要なことは、天皇といえば泣く子もだまるだけでなく批判的な者でも「触さわらぬ神に祟りなし」と避けてとおる神々しい偶像をつくり上げることであった。

 かくして若い酒好きな青年陸仁を、東北の荒地に馬車で引き廻すことから鍛え上げた彼らの努力は報われた。明治天皇が病気だということで両国の火花を禁止したことをきびしく批判した夏目漱石にして、その死を聞くや「明治は終わった」と嘆声をあげさせる創世記の天皇であった。それは大正を経て昭和に至り、自由を求める私の心に陰影を投じた。

 私の二番目に出会ったそれは戦後進んで身を投じた日共における天皇制であった。そこでは党中央の幹部たちは「マルクス・レーニン主義」の名の下に一枚岩という擬制によって自由な個を内面から奪い取り、指導者のことばが真理であるような錯覚を組織するのであった。彼らにとって最後の決め手は、党中央への反逆は「反革命」だということにあった。それはあえて苦難も道を選んだ献身的で誠実な党員たちに、恐れを抱かせることによって、服従を強いるものであった。それは第三番目に出会ったソ連と相似形であった。

 私は戦前のトハチェフスキー元帥から戦後のチェコ事件に至る被処刑者の心情を思う。誤った処刑を「革命のために」あえて甘受するという恐るべきことが生まれたのだ。だがどうして彼らを責めることができようか。そこにあるのは「神」の如き清純無垢の精神である。それだけにそうした心を逆用した支配者を私は心から憎む。それは人外の精神的搾取者である。

「国家」から「社会」へ

 封建社会は経済の発展とともにやがて近代的な統一国家を形成する。しかしそれはやがてまたその国家の壁を内側から破って新しい社会を目指す。社会―国家―社会という弁証法的発展によって新しい社会が世界に向かって開く。従って私は「一国社会主義」論はそれが完結的であることによって「偽造」国家でしかないと思う。しかしスターリンは「レーニン主義の諸問題」の中で、社会主義が発展するほど、国家は強化されなければならないと説いた。これはマルクス=レーニンによる国家死滅論の逆転である。ここに「スターリン主義」のもっとも本質的な誤りがある。

 こうしてソ連社会では国家がすべてに優越して、個はその前にひざまづかされることを私は訪ソするたびに知ることができた。それは一八〇度違うはずの戦時中の日本国家とどこか似ていた。彼ら一人一人は底抜けにお人好しで差別がなく、美しい魚でウオッカを飲むことを無上の喜びとする開け広げの正直な人々なのに、党=国家にかかわることになると辺りを見回しおずおずとたじろいで口を閉ざす。まさに社会主義国家は国家社会主義に転化したのだった。

 日本でもまだ近代統一国家が完成されず半国家の過程にあった明治一〇年代から二〇年代にかけて、自由民権運動に徹した人々や幸徳秋水など先覚的な思想家たちの何と大らかで自由なことか。それがやがて明治国家と完成したあとで幸徳らは無罪の大逆罪で処刑される。ようやく創り上げた国家にとって、自由な「個」は獅子身中の虫であり、憎むべき仇敵なのである。明治ナショナリズムから大正デモクラシーの弾圧に次いで、侵略戦争の一五年ののち敗戦を迎えるが、国家は滅亡せず平然として生き続けて今日に至る。その機軸は「神権」から「象徴」天皇へと変わったが、多くの国民の心底には何となく依然として昔の天皇が生き続けている。

 私は七四才の今日までその中に生きてきた日本資本主義国家においても、戦後半世紀に近く追求してきた社会主義国家に対しても、人々の心中に侵入して自立・自由の「個」の壁を食い破る精神的な破壊者と、時に隠然と、時に公然と対立した。結局、国家と正面から対立して個と自由の旗を高々と掲げることからこそ、新しい社会をめざす闘いは始まる。私の目指すところは唯一つ、社会から国家でなく、国家から社会への道である。


私の昭和思想史(六〇)  松江澄 新時代 1994.1.15 第253

 終わるに当たって

 今回でこの稿も終わりになる。書き始めたのがちょうど今から五年前、私が六九才の時だった。京都の若い友人たちが編集発行する「労研通信」に一九八八年六月号から寄稿したことで始まった。その通信誌が二年半後残念ながら廃刊になったので、一九九一年四月から私たちの機関紙『労働者』にひきついでもらうことになった。翌年機関紙の題名は『新時代』と改められ、一九九二年二月号以来引き続いて連載。今日に至った。結局五年間六〇回に亘って書き続け、四〇〇字詰原稿用紙で約六五〇枚ばかりになった。

 それは私の生まれた頃から今日の七四才までの生涯の記録であり、戦前の二六年間と戦後の四八年間を含んでいる。大正の中期に生まれて小学校六年に「満州事変」、中学校卒業の年に日中全面戦争、高等学校卒業の年に太平洋戦争が始まり、大学在学中に徴兵猶予が取り消され学徒兵として入営して敗戦まで軍中に在った。こうして戦前は物心つく頃から血生臭い戦争の中で育ったことになる。高等学校までは何とか「自由」の残り宰が私の心と身体の中でふくらのも束の間、大学では戦争の渦中に投ぜられ多くの学友、戦友を失いながら一命を永らえた。だが敗戦で広島へ帰れば原爆で焦土と化した故郷で兄と多くの親戚知人を失い、やがて母は二年後原爆症で亡くなり同じように被爆した父も七〇才を超えて老い、無傷で生き残ったのは私だけだった。こうして私の進むべき道は唯一つ、迷わず労働運動、反戦反核運動から革命運動へと進み入った。

 だが私にとって何故か戦後を短く感じるのはどいうわけだろうか。今にして思えば、戦前はさまざまな社会現象にまだ受身の若い世代であり、心中に葛藤を覚えたのが高等学校から大学にかけての頃だった。軍隊に至ってはその間わずかに一年一〇ヶ月なのに、何と長く感じたことか。それにひきかえ戦後を短く感じるのは、戦後の混迷のなかから運動にかかわってきたために、社会的現実に直面してそのすべてに正面から主体的にかかわろうとしたからではないか。そこではいつも時間の短さを嘆息したものだった。いま一九四五年から今日までの四八年間を振り返れば、それは一日として同じ日はなく走馬灯のように転回する時代であった。

 私は四八年に日共に入党したが五〇年には「コミンフォルム批判」で分裂して国際派に投じ、五二年には復党しながらやがて第七回大会の綱領をめぐって宮本らと対立して排除され、離党して社会主義革新運動の創設に参加した。その後「総結集」で共産主義労働者党の創立にかかわったが六九年にはいいだ君たちと対立して分岐し、七五年には労働者党創設に参加した。八〇年には若い諸君と合流して統一労働者党を結成したが現存社会主義をめぐって意見を異にして分岐が生まれ、九二年には新・民主主義連合に再結集して今日に至った。それは戦後共産主義運動の波乱に満ちた模索の一環であり、長くて短い闘いと自省との厳しい道程であった。

 しかしそれはまた一九一九年生まれの一人の人間が戦中、戦後を生きてきたなかでの一つの道程であった。そこには哲学や思想や理論だけでなく、一人の人間が生き続けてきた生身の生涯の思いがある。それを痛感したのは「三〇代が読んだ『わだつみ』」(堀切和雄・築地書館)という一冊の書を見てのことであった。私も「わだつみ」の一人としての思いもあるがこの書を読んで憤然とした。そこには三〇代の若いがたしかに彼等より年の若い「わだつみ」族の死を前にした決別の書に、当惑しながらもひたむきにその心底に迫ろうとする努力と追求のありのままが書かれていた。

 あの『わだつみ』(岩波書店)の書の中には私の高校時代の学友もいる。それだけに私と同じ七〇才を越えた同時代人としてしか見えなかったし、その文は私の青春と同じ時代の文としか思えなかったのだ。しかしそれは私の錯覚であった。彼は死に、私は現に生きている。私は七四才だが彼等はいつまでも二二才であり二五才なのだ。それを読んだ三〇代の青年が彼等より若い人々の死を前にした心情に肉薄しようとした。そうして彼はそれを自らの肉身にひきつけてつかもうとしている。彼は、「過ぎ去った悲劇と定まらぬ未来との間に通路がひらかれる。彼等の死を賭けた経験がわれわれの進路を照らす。それがいま『わだつみのこえ』を読むことの意味なのだ。」と。

 私はE・カーの「歴史とは何か」を思い出した。彼は、歴史とは過去と現在との対話であり、過去を主体的に把握することによってのみ未来の展望をひらくことができる、という。その通りなのだ。あの死んでいった学友や戦友たちは私と同じ年齢ではなく、いまの若い人たちと同じ青年なのだ。そうしてその若い身で死に直面したのだ。それを今の若い青年がまともにふりかえりながら自分たちの生きるかてにしようとしている。それは私にとって初めて知る驚きであった。そうしてそれは戦後私たちがたどった道についても同じことが云えるのではないか。

 次から次ぎへと私たちを通利越してゆく若い人々は私たちの若い頃を自分たちと同じも目線で見ながら何かを学ぼうとしている。そこから私はいま、逆に学ぼうとしている。(終わり)

 


 

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私の昭和思想史         松江 澄  

   「私の昭和思想史」 社会評論社発行の本には収録されていないものを集めました。