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第七話 壊己

 

 

第七話 壊己



2000.9.24



陽が傾き始めた頃。

 

その彩光を黄橙から朱へと変え始めた天空の主がその身を地平へと降ろしつつあるようになった頃合。

 

その降り注いでくるものがようやく少しは穏やかにも緩やかにもなり、それと共に過酷な試練ともいえる猛暑が終わりを告げつつある事をその許にあり、それを受けていた人々は覚え始めていた。

 

静かな閑散とした住宅街の中、人影なく物音もほとんどしない清涼な空気に包まれたそこで、その日の終わりを告げるヒグラシの声が鳴り響く。

 

人の織り成す生活の中の無人の構、時折過ぎ去る車の排気音だけが何かの存在を証すだけのそこ。

 

その無味乾燥とした静寂の中に、一人の少年がいた。

 

僅かに足をもつれさせて、息も絶え絶えという感じで、それでも動く事はやめず、ふらつきながらもそのしじまの中をどこかに行こうとしている。

 

何かに追いたてられるように、そうしなければならないかのようにして動き続けている。

 

その表情には果てのない憔悴と果てきってしまった自身の消耗とが浮かんでいた。

 

全ては乱れきり、髪はばらばらにほつれ、着衣は何かに浸かったかのようにはまり込んだかのように湿りきり濡れそぼっている。

 

その足取りもかつてとは見る影もなく鈍くなり、ただ惰性で動かしているようにもなっている。

 

シンジはそこに、身をおいていた。

 

どこをどう動いてきたのか、走ってきたのかは分からないが、今この時、シンジはそこにいた、行きついていた。

 

あれからどのくらいの時がたっていたのか、シンジ自身には記するところも覚えるところもない事であったが、少なくとも走り始めた時はまだ天道高くその日はあった。

 

それが日の傾きつつある今の今まで続けられていたのだとしたら、どれだけの時の経過の中でそうしていたのかは推して知る事ができた。ひと時やふた時などではありえる筈もなかった。

 

まして黄道の高いこの季節、時計の長針の二回転や三回転程度で済むものではなかった。

 

それが事実であるという事は、シンジがこれまでにしてきた事は、シンジ自身のその様子が何よりも如実に語っていた。彼はどうやら今の今まで間違いなく全力で走り続けていた、駆け続けていたようだった。

 

驚くべき体力の向上というべきだろうか、その線の細さを思わせる体のどこにそんなものが蓄えられているのだろうか。それともその体を突き動かしていたものは、その想いはそれ程までに強いものだとでもいうのだろうか。

 

しかし、そんなシンジのしてきた事とは別にその目指していたもの、目的としていたものは果たされる事も達せられる事もなかったようだ。今のシンジの状態からそれは明白だった。

 

そしてまた、シンジの面に現れている焦りと不安もその事を示していた。

 

自分自身の想いに従いその一歩を記したその時から比してその様子、身なりは余りにも変わり果て過ぎていた。そして、その表情に浮かんでいるものは全く変わりがなかった。それをもってもシンジが自身の求めているものに辿りつけていないのは明らかな事であった。

 

シンジは足取りも重く、今にも倒れてしまうようにしてその歩を進めている。最早走っているとは言えるような状態ではなかった。

 

全く愚かな事と言わざるを得ないが、自身の行動の中で、シンジは何の目的も何の目指すべきものもなくただ無闇に走りまわっていた。

 

自分と行き違う全ての人の中に自身の想いの中にいる少女の姿を求めて、それが見出せるまで、自身の瞳に映るまで決してやめないと、諦めないというようにとそうしていた。

 

ただただ走り続けるシンジに、その愚かな行為にそこにあるもの、平等にもたらされるものは情け容赦なくその報いをその身にもたらしていた。人の情などそのものにとっては何らの関係も斟酌する事でもありはしなかった。

 

実際、シンジ自身打ちひしがれてきていた。その表情も体も遥かな頭上からの仕打ちと自身のなしようにこそぎ落とされ磨耗し、最早自身の中に一欠けらの何かも残されてはいないような状態になっていた。もうシンジには何をどうする事もできないようになっていた。

 

その想いとも自身の意思とも裏腹に身体はもういう事をきかなくなっていた。どうする事もできない限界、それを迎えようとしていた。

 

そんな現実にシンジは、その想いとは別に一時止まる事にしてふらつく足のまま、その向くままに目の前に広がった街の中で穴があいたように開けているそこへと入っていく。

 

そしてそのまま、動かなくなった足を引きずるようにしてその中にある木の許へと挫けそうになりながらも進んでいく。

 

芝生の中に入りそこに辿りついた瞬間、意図するのとしないのと関わりなく膝をついて倒れこんだ。

 

そこは今もまだ照りつけてくる斜陽を遮ってくれる、木々達のつくりだしてくれた陰りの中であった。

 

自分の中の全てを使い果たし、これ以上責められる事を本能的に避けたのだろうか、何を考える事もなしにその足は自然とそこに向かっていたようでもある。

 

そこは街の中にある公園だった。

 

まだ整地のされていない、ある意味自然の姿がそのまま残されているというような人の手が入っていない街の中の隙間であった。

 

何もない、地肌がそのまま剥き出しになっている遊戯具も無いところ、自然なままの公園というよりはただの空き地。

 

自然の薫りのするところではあったが、人々がそこに集い憩うにしては面白味の無い場所。

 

それが証拠という訳でもないだろうが、そこにはシンジ以外の誰の姿もありはしなかった。

 

静かに黄昏の光をそのままに受け、自身の色をそれに倣わせている。

 

ただ、いずれ人の手が入る事が予定されているのか、所々に黄色い四脚がそれぞれ組みになって四角や三角の囲いを作っている。

 

今シンジが身を置いているこの場所も、もう少ししたら公園と呼ぶにふさわしい公園になるのかもしれない。

 

今のシンジには、しかし、そんな周囲の状況に気を配る余裕などありはしなかった。

 

ただ、木の葉が作り出した陽射しを遮ってくれている休息の場で疲れ果てた身体を横たえ、それと共に朦朧としてきた意識の中、焦りと不安を感じている事しかできなかった。

 

気持ちは未だに衰えずシンジ自身をはやらせずにはいなかったが、身体の方は何としてもいう事をきかなくなっていた。

 

強烈な陽射しの中、あれだけの事をしても日射病も熱射病も脱水症状も引き起こさなかっただけでも奇跡というものだろうか。

 

思いとは裏腹に動かない体にシンジは考えを巡らし始める。

 

どうすればいい、どうすれば見つかるのかと。

 

これまでの考えなしの行動からようやく何か成算性のあるものを摸索し始めた。どうすれば自分の目的を達する事ができるのか考えられるようになっていた。

 

ふと、自分の手に触れているショルダーバッグに気がつく。

 

自分の荷物を手放す事でさえも気づかずにいたようであったが、その事がまたシンジ自身の疲労と消耗に拍車をかけていたのは間違いのない事だった。

 

しかし、今のシンジには自分のしてきた事に思いを馳せる余裕などありはしなかったし、その思いは別の方に向いていた。

 

自身の手に触れているものに気がつき、その中にあるもの、そしてそれに伴い少し前の教室でのやりとりが思い起こされてくる。

 

「…洞木さん…」

 

シンジはポツリと呟いた。

 

アスカの事について連絡を取り合う事を約束した級友の事にようやく思いを至らす事ができたようだ。

 

考えてみれば自分はアスカが今どこに住んでいるのかも知らなかった。

 

そんな状態のまま駆けずり回っていたなど今更ながらに自分のやっている事の無意味さ、馬鹿馬鹿しさを思い知らされる気がしていたが、今はその事に自身の考えを沈める事はできなかった。そして、それをしようと思う程の余裕でさえもシンジには残されていなかった。

 

ただ、思う事。

 

それは自分の不甲斐なさ。

 

自分自身の想いであるというのに自分でそれを果たす事ができないだなんて。

 

自分自身の本当に大切なものなのに自分の力だけでそれを遂げる事ができないだなんて。

 

シンジは自分自身に対する悔しさで一杯になっていた。

 

この思いをどうすればいいのか、この沸き上がってくるものをどうすればいいのか、自身の中にあるもの、噴き出しそうになるものをどこに向けてどう吐き出したらいいのか分からなかった。

 

自身の大切な想いだけにこだわりがあった。

 

自分自身だけで、自分の力だけでそれをなしたかった、やりとげたかった。

 

他人の手を借りてそれをしたからといって、成し遂げたからといってそれに一体何の意味があるのか、やろうとしている事そのものに意義も価値もなくなってしまうではないか、そんな思いも抱かずにはいられなかった。

 

でも、とも思う。

 

今の自分では、自分だけではそれをなし得ないのもまた事実。今の自分にそこまでの技量も力量もないのは動かしようもない厳然とした事実であった。

 

ましてこの事は自分一人の事ではない。自分が想い本当に大切にしている、大切に想っている、自分自身の存在そのものともいえる大切な少女の事でもあるのだ。

 

その少女に何かあったら自分はどうするつもりなのだろう。

 

自身のちっぽけな意地や自負のために手遅れになってしまったら何と言って言い訳をするつもりなのだろう、他ならぬ自分自身とその少女に対してどのように再びまみえるつもりなのだろうか。

 

その時そこが、本当に自分はどうしようもない奴になってしまうというのに、自分自身がどうなってしまうのか分からないというのに、少女の存在と共に自分自身も無くなり失われてしまうというのに。

 

何を考えているのだろうか自分は。

 

今自分がしているのは自分自身のため、少女のため。そのためだけに他ならない。

 

そのためにはどのような手段も講じて然るぺきもの。それがまして自分自身の内面の事だけであるのならなおさらのこと。

 

そんなつまらない事にこだわって本当に大切な事を見失ってどうするというのだろうか、本末転倒もいいところではないか。

 

シンジは思う。今の自分にそれだけの力がないのは仕方のない事、それは事実。

 

であるならば今は他者の手を借りるのも、借りなければならないのも仕方のない事。

 

それは自分が未熟な故の報い、当然の事。そんな自分には何を思う事も何を厭う資格も権利もありはしないと。

 

だから今は、素直にそれを認めてその事実と現実に従おう、受け入れようと。

 

シンジはそれを決めた、それは仕方のない事なのだと、当然の事なのだと、自分自身が至らないのだからそうするより他にはないのだと。

 

自分の意図するところ、目的、想いを達して遂げるためにはそうするしかないのだと、仕方の無い事なのだと。

 

シンジはそれを自分に言い聞かせていた、自分で自分を納得させようとしていた。

 

これまでに馬鹿で愚かな真似をした分、今とこれからはせめて冷静でいようとした。現実的で的確であろうと思っていた、そうあろうとしていた。

 

しかし、その思いとは裏腹に光を遮るように双眸にかざされ乗せられている右の掌は力一杯に握り締められていた。

 

その僅か下から覗いている顎は強張り、きつく食いしばられていた。

 

「…いつか…」

 

悔しさに震える声が、僅かに開かれた隙間から漏らされてきた。

 

「…いつかきっと…なってみせる…」

 

それは絞り出すような、心の底からうめき出されているような、そんな響きを持っていた。

 

「…僕が僕自身で…僕自身だけで…僕自身と…僕の想いと…想いの中にいるヒトを…求められるようになるって…守れるようになるって…」

 

それは今の自分に対する宣告であったろうか、無力な自分を思い知らせるための宣言であったろうか。

 

それとも、宣誓であったろうか、これからそうありたいと、そうとなる事への誓いであったろうか。

 

「…でも…でも今は駄目なんだ…今の僕じゃ駄目なんだ…」

 

悔恨の情が、その口元で軋みをたてた。

 

「…今の僕じゃ…僕自身にも敵わないんだ…僕自身の想いも願いも…叶わないんだ…叶える事ができないんだ…」

 

しゃくり上げるようにして顎を上げて、息を呑む。

 

「…だから…だから…」

 

その息は浅く軽く、何度も繰り返され、ひと時の間をおいた。

 

「…ごめん…ごめんね…アスカ…僕はまだ…僕だけで君に会えない…会う事ができないんだ…だから…ごめん…ごめん…ね…」

 

抑える事のできない心が溢れ出して、一筋の流れをつくっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カチャ

 

『はい、洞木です』

『…………』

 

『…もしもし?』

『…………』

 

『…………』

『…………』

 

『…碇君?』

『…………』

 

『…………』

『…………』

 

『…彼女…』

『…え!?』

 

『…彼女の…今の住所…知っていたら…』

 

『……碇君!』

 

『…………』

『…………』

 

『…もう一度だけ…言ってくれる?。誰の、何を知りたいのか』

 

『…洞木さん…』

『…………』

 

『…………』

『…………』

 

『…彼女…』

『…………』

 

『…………』

『…………』

 

『…彼女…アス…カ…が、今どこに住んでいるのか、知っていたら…』

 

『…………』

『…………』

 

『…コンフォートマンション…』

『…!!』

 

『…………』

『…………』

 

『…アスカは…あなた達が一緒に住んでいたところに…』

『…そんな…』

 

『…………』

『…………』

 

 

『…ありがとう…』

 

 

ブツッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シンジ君!、シンジ君!、しっかりして、シンジ君!!」

 

マヤはシンジに呼びかけ続けていた。

 

自身の腕の中に抱いたシンジを包み込み支えるようにして、耳元て叫ぶようにしてその名を呼び続けていた。

 

何かの衝撃を受けていたり、熱に冒されていたりしてはいけないので揺するような事は決してせず、ただ抱きかかえながら意識の有無の確認、あるいはその覚醒を促すためにただひたすらに呼びかけ続けていた。

 

マヤがあげた最初の呼び名、その時に既にしてシンジの意識は朦朧とした中にありながらも失われてはいなかった。

 

そして今も続けられているマヤの呼びかけに、シンジはその瞼を上げようとしていた。

 

「…う…ん…」

 

ゆっくりと、静かにその黒瞳が露になる。

 

それを目にして少し狼狽気味だったマヤの呼びかけも遮られたようにして止められた。

 

シンジは二・三度瞬きをするとゆっくりと首を巡らして前を、今の状態からいけぱ上を向く。

 

マヤは自分の方に向けられてきたシンジの顔にほっと安堵のため息を漏らし、その表情も穏やかな、暖かなものになった。

 

シンジはまだ自分がどうしたのか、今どうしているのか、どこにいるのか分からないかのようにして、どこか落ちつかないようにして再び瞳を二・三度瞬かせる。

 

そんなシンジにマヤはどこか子供っぽさを感じて微かな笑い声と共に微笑みを浮かべた。

 

「お目覚めかしら?、シンジ君」

 

マヤは優しい、慈しむかのような微笑みをシンジに向ける。

 

シンジは目を開いたところで自分に向けられてきた微笑みに戸惑いを隠しきれず、どもった意味不明の言葉を並べ立ててしまう。

 

「…え、あの、その」

 

マヤは、ん?という感じで小首をかしげながらシンジの事を見守る。

 

「…その…マヤさん!?」

「ん、なあに?、シンジ君」

 

マヤは少し意地悪をするようにして悪戯っぽくシンジの事を見つめ微笑みながら応える。

 

少しこの状況を楽しんでいるかのようでもあった、久しぶりに会った少年の反応を確かめてみたかったのかもしれない。

 

「…お久しぶりです…」

 

自身の腕の中にいて自分が見つめて、それに対して見つめ返してきている少年の反応と言葉はマヤの予想の範疇の外のものであった。

 

シンジはまだよく分かっていないという感じでマヤの事を見つめてきている。

 

マヤもまた驚いたような、呆気にとられたような顔のままシンジの事を見つめていた。硬直しているという方がよかったであろうか。

 

少ししてマヤの表情が柔らかくなり崩れ、息を漏らして吹き出した。

 

そんなマヤに今度はシンジの方が驚いたようにして視線を硬直させる。自分が何かしただろうか、そんな感じに見えなくもない。

 

ひとしきり笑い終えた後、一つ吐息をついて自分を落ちつかせてマヤは改めてシンジの方に向き直り瞳と瞳とを合わせた。

 

「相変わらずみたいね、シンジ君。お久しぶり、元気そう…じゃないみたいだけれども」

 

そう言ってマヤは彼女自身の一番と思われる心からの笑みをシンジに向けてきた。

 

そのマヤの笑みはそれを目にする者を魅了せずにはいないものであったが、今のシンジにはマヤの笑顔よりもその言葉の方が意識を刺激した第一であった。

 

自身を探るかのようにして視線をさまよわせると、何かに思い当たったようにして目を見開き身体を起こそうとして身じろぎをする。

 

マヤはシンジが自身の腕の中でモソモソと動いているのを見て感じて、起き上がろうとしている事を悟って回している腕に力を込めてそれを助けてやる。

 

マヤの助けを借りて上体を起こしたシンジはそのまま続いて膝をたてて立ち上がろうとする。

 

そんなシンジにマヤは無理をしているのではないのかと心配になって未だその身体に触れさせている手で遮ろうとしたが、シンジは割と難なく立ち上がってしまった。

 

上半身を起こすだけでも苦労していたシンジにそんな事ができたのはマヤとしては驚きを感じずにはいられなかったが、できてしまっているものは仕方がないのでその挙動に誘われるようにして自身もその傍らで足を地につける。

 

そうした時に再びマヤは驚きを感じるのを禁じえなかった。

 

それまで身体を横にしていたからよく分からなかったが、今目の前にいる旧知のこの少年は自分よりも頭一つ分以上背が高くなっていた。

 

あの時、自分の目から見てもひ弱だった少年が自分を見下ろす程に、今こんなに成長していただなんて。

 

信じられないかのようにして呆然としてマヤは自身の頭の上にある瞳をただ見上げていた。

 

そんなマヤにシンジは訝しげな表情を浮かべる。

 

「あの、マヤさん?」

 

覗うように自分の事を見つめ声をかけてきたシンジにマヤはハッとして気がついたような表情になる。

 

「あ、う、ううん、なんでもないのよ、シンジ君」

 

マヤは誤魔化すようにして両手をパタパタと振って見せた。

 

マヤのその反応にシンジは、はあ、という気の抜けたような返事を返す。それ以外にどうにも言いようがないというような感じで。

 

マヤは未だに驚いたように見惚れたようにして、ため息でももらすかのようにしてシンジの事を見つめていたが、やがて感嘆したかのようにしてシンジに言いかけてきた。

 

「シンジ君、大きくなったわね。背、随分伸びたんでしょ?」

 

言われてシンジは思い当たるフシがないでもないようにして自身の頭に手をやる。

 

「…え、ええ、そうかもしれませんね。服とか靴とか結構変えたりしてましたから」

 

ふーん、という感じでマヤはシンジの事を見やるが、そのシンジの言いようで自分を取り戻したかのようにして再び彼女自身の笑みを浮かべた。

 

「それにしても驚いちゃった。シンジ君、随分と格好よくなっちゃって。見違えたわ」

 

マヤのその他意のない心からの素直な言葉にシンジは、しかし、視線をそらして俯いて、そんな事はないですよ、と小さく答える。

 

そんなシンジにマヤは一瞬表情を厳しくしかけるが、少し叱るかのようなそれに変えてその後を継いだ。

 

「駄目よ、シンジ君。今のはお愛想なんだから、そんなに真剣になられちゃ、会話が続かないでしょう?」

 

マヤのその言いようにシンジが、えっ!?という感じで視線を元に戻すとそこには悪戯を働いたかのような表情があった。

 

そんなマヤにシンジも心と表情を柔らかくして自身の調子もそれに合わせる。

 

「なんだ、お愛想だったんですか。僕、マヤさんがそんな事を言う人じゃないと思っていましたから、本気にしていたのに。なんだか、がっかりしちゃいました」

「あーっ、何よそれ。ひっどいわねぇ」

 

それには少しわざとらしいものがあったが、二人の心を軽くして暖かな柔らかなものでその心と間とを満たしていた。

 

それに包まれて二人はどちらからともなく自然と笑みを漏らし笑い合い、一時の幸福と互いの旧交とを感じ暖めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、今日はどうしたのかしら、こんなところで。急に倒れたりするし」

 

ひとしきり笑い合った後、マヤは改めてシンジに向き直り真剣な表情で問い掛けていた。

 

本当に驚いちゃったわよ、と付け加えながらもその視線も表情も変わる事はなかった。

 

シンジにそれを向けながらも、実はマヤには大体の察しはついていた。

 

倒れた事についてはともかく、こんなところにシンジが現れるなど偶然ではありえない。

 

その倒れた事についてマヤは心配ではないという訳ではなかったが、今現実にシンジは自身の足で立っている訳だし、抱きかかえた時にも呼吸の乱れとか、体温の変化とか特に変調のようなものは感じられていなかった。ただ単に疲労がかさんだだけなのだろうとあたりをつけていた。

 

だからあえてマヤはその事に言い及ぶ必要はないと考えていた。それよりも問題なのは今どうしてシンジがここにいるのかという事。

 

シンジがこの場に来たという事、その事自体はさしたる問題ではないようにマヤには思えていた。

 

それがもしシンジ自身の意思でした事なら、問題どころかとても嬉しい、いい事でしかなかった。

 

シンジが自分の意思をもてるようになったという事、それができるようになったという事、そのいずれもがシンジ自身とおそらくはその想いを向けている、その中にいる存在、少女の双方にとってためになる、いい事以外のなにものでもなかった。

 

マヤの気になる事、確かめたい事、それはシンジがどういうつもりで、どのような思いを抱いてここに来たのかという事であった。

 

ここにいる、マヤ自身の同居人でもある少女に会いにきた、それはいいだろう。

 

しかし、それが一体どういったものに基づいてのものなのか、自身の何がしかの想い、何かを持つ事ができるようになって来たのか、それとも自身の都合だけで、またあの時と同じようにただ逃げてきただけなのか。

 

マヤ自身、余り口うるさい事はしたくなかったし、しようとも思わない。恋愛は自由なものだし問題は当人同士の間で解決すべきものだとも思っている。

 

しかし、今のアスカは普通の状態ではない。マヤ自身、思うところは色々とあるが、少なくともそうおいそれと何でもかんでも通してやる訳にはいかなかった。

 

だから、マヤにはシンジの真意を、そのつもりを、いわゆる覚悟とも言うべきものを確かめる必要があった。

 

これまでに色々とあった訳だしマヤとしてもシンジに対して後ろ暗いものがない訳ではなかったが、それを負い目に感じて今自分が大切にしている、傍にいる存在を犠牲に差し出す事など到底できはしなかった。

 

アスカは今本当に微妙なところにいる、僅かなバランスの崩れでどちらに傾き落ちるか分からない。

 

そんな自分をアスカは自覚しているようであった。そのせいか心を凍りつかせようとしていた。しかし、それがいい事だとはマヤには思えなかった。

 

だから、少しづつ普段の生活の中で話しかけ、語りかけていた。

 

アスカは頭がいいし感受性がものすごく鋭いからきらいやてらいをもって接しようとするとすぐにそれを見ぬいて自身の中に閉じこもってしまう。それはマヤにも分かっていたから、アスカと接する際は本当の自分、自分のままの自分、生のままの自分で話しかけ、それを示していた。自身の心を、想いを見せていた、感じさせてもいた。

 

元々マヤはそんな飾るような事はしない性質だったし、自分を自分のまま見せてそれをそのまま受けとってくれる事が嬉しかった。だからアスカといる事は嬉しくも喜ばしい事ではあっても嫌に思ったり辛いと思ったりした事はなかった。

 

そんなマヤのしてきた事が功を奏したのか、アスカがマヤのした事に応えてくれたのか、そのどちらでもあるのかもしれないが、アスカは少しづつではあるが、微笑みを見せてくれるようになってきていた。

 

それがマヤには嬉しかったし、そんなアスカの事がマヤは好きだった。大切にも愛しくも感じていた。

 

もしかしたら自分に妹がいたのならこんな感じなのかもしれないともマヤは思いもしていたが、現実のものとして自分達に血のつながりはないし、そんな事を言うつもりも抱くつもりも押し付けるつもりもマヤには微塵程もありはしなかった。

 

血のつながりがなくても大切な存在になる事はできる筈だし、そうなる事もある筈の事。実際、自分達はそうなっている筈、少なくともマヤはそう思っていた。

 

でも同じ大切なものではあっても血のつながりがあるのとないのとでは違いもまたある筈。良し悪しではなく、それぞれにそれぞれのものがある筈であった。

 

大切なのはそれを蔑ろにして混同したりしない事、それぞれの事を的確に掴んでそれを守る事だとマヤには思えていた。

 

血のつながりがあれば許せる事でもそれがなければ許せない事もある。どんなに親しく大切に思いあっている間柄でもそこには壁というか節度というものがある。

 

だから今の関係においてマヤはその辺りには気を遣わなければならなかった。それが気苦労といえば気苦労ではあったが、そんなものはアスカが自分にくれたものにくらべれば歯牙にもかからないものでしかなかった。

 

今、アスカの傍には自分しかいない。アスカの受容範囲は極端に狭くて近くにいるものでさえ数える程にもいはしない。

 

だから、守るとまではいかないにしても少なくとも傍にいる自分が見るくらいの事はしなければならない。マヤはせめてそのくらいはしたい、させて欲しいと思っていた。

 

だから今、マヤはシンジを見ていた。

 

その真意が奈辺にあるのか、どういったつもりがあるのか、どのような思いでいるのか、確かめようとしていた。

 

マヤの表情は真剣そのもの、一点の妥協も誤魔化しも認めないし許さない、そう感じさせるものがありありと表れていた。

 

そんなマヤにシンジも表情を厳しくしていた。

 

握り締められた掌は圧迫するようなマヤの気迫に耐えるためか、僅かに唇を噛み締め自分と相対しているその瞳に自身の瞳を合わせている。

 

マヤもそのシンジの瞳を正面から受け止めた。頭一つ分以上も違うシンジに対して自身の全部で一歩も引かないかのようにそうしていた。

 

ふと、シンジは少し困ったような表情になった。自分のつもりとマヤのつもりが食い違っているような気がしていた。

 

そんなシンジにマヤは一層表情を厳しくする。もしかしたらシンジのその表情が逃げのそれに映ったのかもしれない。

 

「…マヤさん、僕の話しを聞いて頂けますか?」

 

不意にシンジはマヤにそう言った。

 

シンジにはこれまでのいきさつをマヤに知ってもらわなければならないような気がしていた。

 

事ここに至っては自分のする事はただ一つしかない。

 

アスカの無事を確かめる事、それ以外にはないし、それ以上の何ものも望むべくもない。

 

それだけが望みなのだから、そのためにこそ今日自分のしてきた事の全ては集約されているのだから、他に何があろう筈もなかった。

 

だからシンジはそれをマヤに伝えたいと思っていた。だから自分の話しを聞いて欲しかった。

 

シンジは今一度表情を戻してまっすぐにマヤの瞳を見つめる。

 

そんなシンジにマヤは幾分態度を柔らかくして、一つ溜息をついた。

 

「いいわ、聞かせてもらえるかしら、シンジ君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

低い唸るような動作音を僅かに響かせながらエレベータが上へと昇っていく。

 

ごく手狭な、密室となったその中にはシンジとマヤの二人だけがいた。

 

四角い箱の対角線上、対になってる角と角にシンジとマヤはそれぞれ身をおいている。

 

マヤがパネルを操作する位置にいてシンジはそこから一番遠い位置にいた。

 

およそ飾り気のない、装飾など全くないその内側。

 

ただ上壁一面を覆うようにとりつれられた照明がその内部の広さには過ぎる明るさを煌々として照らしてきている。

 

無言の静寂、ただそのもの自体が発する機械の駆動音だけがその中を満たしていた。

 

「…そう、そんな事があったの」

 

不意にマヤがシンジの方を振り返る事もせずに、それまでパネルの方に向けていた視線そのままに誰に言うともなしに呟くようにして口を開いた。

 

「…はい、それで僕は…」

 

シンジは自分に向けられたのかどうかも判然としないマヤの言葉にその後を継ぐようにして自身の言葉を発した。

 

シンジも僅かに俯き、その視線はマヤには向けられていない。

 

その短いやりとりは言葉の内容だけを見ればかみ合っているようにも思えるが、それを行った二人の間にそれは認められなかった。

 

互いに互いの姿、存在を自身の中で認識する事はなく、それぞれが勝手に発したものが勝手に、というか偶然やりとりとして認められるものになった、そんな感じであった。

 

そして、二人はそれきり口を閉ざし何も言わなくなる。

 

ごく簡潔に交わされた言葉も微かな動作音の中に紛れて消えていっていた。

 

視線の上、現在の階数を示す電灯の表示が音もなく左から右へと流れていく。

 

「…シンジ君がここに来た訳は分かったわ」

 

マヤはその表示が半ばを過ぎたところで、今度は僅かに首を巡らし流した視線をシンジに向けた。

 

そのマヤに対するシンジの反応は全くなく、変わらぬ状態のまま視線を自分の足下の床に落としている。

 

そのシンジの様を目にしてマヤは僅かに表情を曇らせると視線を眼前へと戻した。

 

「…あなたがここに来た訳は分かったけど、それで、それからどうしたいのかしら?」

 

その言葉にもシンジは何も答えずに変わらずただ黙っていた。

 

「これから何をしたいの?、何を望んでいるの?」

 

マヤも変わらずに問いかけ続ける。

 

そんなシンジの事は構わずに、重ねるように、かぶせるようにシンジに言葉を投げかけていた。

 

シンジの心を、その胸の内を引き出すように、追いたてるようにそれを向け、届かせていた。

 

それでもシンジは何も答えない。

 

それが届いていないかのように、なかった事のようにしてただ俯き、そこに佇んでいる。

 

何も答えない、言おうとしないシンジ。

 

マヤもまた、それ以上の事は何も持とうとはせず、静寂がその内を満たす。

 

今はもう、かなりの高さに昇降機はありつつあった、パネルの表示も間もなく指定されたその位置に到着しようとしている事を示しつつある。

 

扉の上辺リに備えられた電飾の数字は一つ、二つとその数を増している。

 

その間も互いは何も発さぬまま、目に見えないものだけがただ過ぎていく。

 

やがて軽い浮遊感があり、そこに連れてきたものとその中にあるもの達とは動きを止める。

 

そこでの時の終わりを告げる軽い電子音が鳴り、二人の正面を閉ざしていたものが僅かな音をたてて開かれた。

 

外界から僅かに空気が流れてくる。

 

自らの前は開かれたというのにマヤは何かを待つようにしてそこにそのままいた。

 

しかし、それでも何かが変わる事はなく、動く事もなかった。

 

その時は終わったかのようにして、一歩を踏み出す。

 

その身は中から境へ。

 

静かなまま、何も響かない。

 

境から抜けて外へ。

 

その身にもたらされる、かけられるものは何もない。

 

髪が、微かに揺れた。

 

マヤの身体は、線のひかれたそこにあった。

 

背と上からもたらされる蛍光燈の明かりが彼女を映し、そのカタチを作り出す。

 

夜陰の狭間に割り込んだ僅かな光が彼女の内側に暗影を醸し出す。

 

扉が、閉じようとする。

 

彼女を照らす、一方の光が絶えさせられようとする。

 

「僕は!」

 

ガチャリ、と音を立ててそれが止められた。

 

ピクリ、と僅かに肩が動きそちらの方に向けられる。

 

その手が、阻みを止めるきっかけを抑えている。

 

それは、自分の前を塞ぐものを押し止めていた。

 

幾度も扉が音をたててその隔てを遮ろうとする。

 

しかし、その手はそのまま動かされる事はなかった。

 

ただ開き閉じようとしているものだけが動き、無言のしじまの中でその響だけが続いている。

 

「…僕は…」

 

僅かなすき間においての扉のそれが幾度繰り返された後であろうか、今も続けられているその中でシンジはそれを遮るように、その場にあるものを打ち破るようにして声を挙げた。

 

僅かに揺らぎながらも変わる事のないその言葉を発していた。

 

「…僕は…僕はただ…アスカの事が…心配なんです…本当に…ただ…それだけなんです…」

 

自分の心の内を自身の前にいるものに伝えようとするシンジ。

 

しかし、その身は未だ囲いの中にあって外には出ていない、その一歩を踏み出してはいない。

 

そのシンジの言葉にマヤは僅かに身体を巡らす。

 

人の作り出した照らしの中、僅かに向けられたその横顔は陰に隠されて見通す事はできない。

 

シンジはただひたすらに、まっすぐに覗う事のできないその顔に視線を注いでいた。

 

その時、シンジは感じていた。

 

自分が必死になって心から送っているものが受けとめられていると、余す事なく全て届いているという事を。

 

マヤは何も言わないし、何も返してはこない。しかし、シンジにはそう思えてならなかった。

 

自分の事を、思い抱いてくれているような、そんな気がしていた。

 

不意にマヤが体をつま先の方に向け、歩き始める。

 

シンジの事など関係ないように、意識の端にも上っていないように、その歩を進めていく。

 

「っ!。マ、マヤさん」

 

シンジは知らず、飛び出していた。

 

何を考える事もなく体がその中から抜け出ていた。

 

何を思う必要も何を意とするものもないかのように、マヤの後を追って自らの命ずるままに体を進めていた。

 

マヤは待つような事はしなかったが、置いていくつもりもないかのように、ごく普通な淡々とした足取りで自分の目的としているところへと向かっていく。

 

シンジは少し足を早くしてマヤに追いついた。マヤが振りきるとかそういう感じではなかったのですぐに簡単にその傍へと近寄れた。僅かに後ろに身をおきその後をついていく。

 

シンジにはマヤがどこに向かっているか分からなかったが、程なくしてそこに着いた。

 

角を一つ折れたその突き当たり、一番奥の正面にそれはあった。

 

マヤはその直前で足を止め、シンジもそれにならいマヤから変わらぬ位置でその身を止める。

 

ゆっくりと、しかし、シンジの事など気にもしていない、いつもと変わらぬ動作でマヤは手抱えからキーカードを取り出そうとする。

 

ふと、胸元でそれをしていたところで動きが止まった。

 

吹きざらしの廊下に微かに衣服が揺れる。

 

マヤの背中を注視していたシンジは微かに緊張を感じた。

 

「…まだ、聞いていないわ」

「え?」

 

不意のマヤの言葉にシンジは意表をつかれたように問い返す。

 

「あなたがどういう思いでここに来たのかは聞いた、どんな気持ちでいるのかも分かったわ。でも、どうしたいのか、何をしたいのかを聞かせてもらっていない」

 

マヤは再び目線を巡らし、僅かにそれをシンジへと向ける。

 

「シンジ君、ちゃんと聞かせて。あなたが何を思い、何を望んでいるのかを。ちゃんと言葉にして、私に教えて、伝えて」

 

マヤのその言葉は激しくはなかったが、有無をいわさぬ凛としたものがその中にはあった。

 

自分に向けられたマヤのそれにシンジの身体は一瞬揺らぎかける。

 

しかし、何かに支えられるように、抑えられるかのようにして動く事はなかった。

 

その中に何か重しでもあるかのようにして身を留め、その場を押し抱く。

 

何かを現したかのようにして表情を引き締め、その瞳には確たるものが込められる。

 

その手をゆっくりと固く握り締めて正面からマヤと対した。

 

「…僕は…アスカの無事を確かめたい…」

 

シンジは自分のその言葉を一言一言確かめるようにしてマヤに告げる。

 

それはまるで自分の心の内を、本心を確かめるためのようでもあった。

 

「…アスカに会いに来たという事?」

 

一拍の間をおいてマヤが確かめるようにして聞き返す。

 

僅かに体を返して顔をシンジへと向けた。

 

そのマヤの問い返しにシンジは、しかし、見据えた視線そのままに頭を僅かに振る。

 

何も言わずマヤが自分に向けてきたそれが自分の持っているものと相違している事を示すために。

 

「…僕はアスカに…会うつもりはありません…」

 

更に僅かな空白が二人の間に置かれる。

 

マヤは靴音を微かに無人の廊下に響かせ、シンジと正面から向き合う。

 

その表情はこれまでにない程にきつく厳しくなっている。

 

シンジは、しかし、手のひらに更に強く力を込めて握り締め、真正面からそれを受けた。

 

その全てを自身の身体で受けとめ、押し包み、自分の持っているもの、露にしたものを圧し通そうとしているかのように。

 

二人は暫く、互いに向き合い視線を通わせあった。

 

シンジはマヤを受け、自身を受けさせるように。

 

マヤはシンジを感じ、その意思の源がどこにあるのかを見つめようとするかのように。

 

何も変わらぬまま、何の気配もしないまま、そこに停まっていた。

 

何かが引き合い、張り詰めたまま、他の何かが意図してそうしない限り決して崩れぬ均衡がそこにはもたらされていた。

 

それはいつ終わりを告げるともしれぬ、二人を囲む目に見えない檻。

 

決して押す事も引く事もできない捕らわれの中にシンジとマヤは互いの身を置いていた。

 

マヤが再び踵を巡らした。

 

シンジに向けていた表情のままに、その感じさせるものを崩す事なくそのままに路の終焉に再び向き合う。

 

ほんの少しのその挙動、マヤはシンジにその背姿を再び見せた。

 

シンジもまた、何も変わらずに自身をマヤに向け続けている。

 

シンジからは見えなくなったマヤ、何を思い何を感じているのか。僅かに俯き動きを止めた。

 

その意思はどこに定められたのか、何も言わずその場にただその存在がある。

 

シンジはただ、自身の前にあるものに視線を送り続けていた。

 

「…一つだけ聞かせて」

 

マヤがふと、その先にいないシンジに向けて言葉を発した。

 

「…会わないのに、どうやってアスカの無事を確かめるというの?」

 

それが送られ届けられてきたシンジは、その事に対しては僅かに視線を俯かせる。

 

「…マヤさんに…お願いしようと思っています」

 

その言葉にマヤは表情を上げる。

 

「どうして、会わないの?」

 

一つだけではなく、再び投げかけられた質問にシンジは苦しそうに表情を歪め震える両拳そのままに絞り出すようにして自身の真実を答える。

 

「…僕のせいで…僕と会ってしまったから…アスカは様子がおかしくなってしまった…凄く嫌な感じがした…不安になった…心配に…なってしまったんです…段々と…いつからかは分からないですけど…」

 

そこでシンジは息を継ぐようにして一度言葉を区切った。

 

「…だから…来てしまった…動かずにはいられなかった…探さずにはいられなかった…どうしてかは分からないけれども…どうしてもそうしたかった…そうせずにはいられなかったんです…アスカにそうした…そうさせてしまった僕がこんな事をしてもどうしようもないかもしれないけれども…こうする…こうできる訳なんてないのかもしれないけれども…でも…どうしようもなかったんです…僕が…僕自身がそうしたいと…そうする事を決めたんです…そして…僕はここに来た…ここにいる…でも…だから…」

 

声の途切れた事にマヤはその方向に視線を僅かに動かした。

 

「…僕はアスカには会いません…会えない…いえ、会ってはいけないんです」

 

顔を上げたシンジは再び視線をしっかりとマヤに据えた。

 

「こんな事をした、こんな事にしてしまった僕が、当の僕がアスカに会ってはいけないんです。そんな事をしてはいけないんです、駄目なんです」

 

シンジはそれが現実であり絶対の真実であるかのようにして確たる口調でそれを言い募る。

 

「僕と会ったせいでアスカは自分を崩してしまった、その僕と今また会ったりしたら、それこそ…」

 

その先はとてもではないが言えないかのようにしてシンジは唇を噛み締め微かに身体をわななかせる。

 

「だから僕は、少なくとも今はアスカに会ってはいけない、これ以上アスカを乱してはいけないんです。それがたとえ、僕自身の思いがどうであろうと、願いがどうであろうと、望みがどうであろうと」

 

それはシンジ自身を揺さぶり腺が緩みそうになってしまうが、それでも言うのを止めようとしない。

 

「だから、だから、僕のした事は意味のない事なんです。ここに来たのもいるのもない事なんです。でも、でも…だから…せめて…」

 

それだけを言い、シンジは耐えきれないように、こらえきれないかのように声を押し込められ、目線を落とし、自身を強張らせ言葉を詰らせた。

 

そんなシンジにマヤは瞳の色を悲しみのそれに変えた。

 

それはどこか苦しいようなやりきれないような、今とかつてを儚むようなそんな寂哀を感じさせるものでもあった。

 

そんな今のシンジとかつてのシンジを重ね合わせ、それに連なるものを感じているマヤの視線の先でシンジは自身の全てをかけてするように自身の伝えなければならないものを、自身の意を押し出しそれを差し出してくる。

 

「…お願いします…マヤさん…こんな事をしてもどうしようもないって事は分かっています…アスカの事…知ったところで…教えて貰ったところでなんにもならないないって事は分かっています…でも…それでも…せめて…アスカに何かあったら…僕は…」

 

そのシンジの言いようにマヤは僅かに眉をそびやかせるが、しかし、その後に続けられたものにそれは気圧されるものへと変わる。

 

「…僕は…僕は、絶対にそれを止めなければならない、防がなければならない、助けなければならないんです。僕はもう、アスカがどうにかなってしまうなんて、いなくなってしまうなんて、アスカがアスカでなくなってしまうなんて、絶対に嫌なんです、耐えられないんです」

 

マヤは驚いたような、無い筈のものをその目にしたような意外さに討たれたような表情していた。

 

その時シンジは瞳に絶対の意思の煌きを宿し、何があろうとも決してその場から一歩も退かない頑迷なまでに強固な存在をそこに示していた。

 

「だから、だから、お願いします、マヤさん。もしかしたら時間がないかもしれないんです。何もなかったらそれでいいんです、そんないい事はないんです。僕のした事は、ここに来た事、いた事はなかった事になっていいんです。わがままでも、自分勝手でもなんでもいい、これが最初で最後でも、二度とない事でも、何でもいいです、アスカの事を見てきてやってください、会ってあげてやってください、傍にいてやってください、アスカが、アスカが…」

 

そこにその発したものが形としてあるかのような、急き立て動かすかのようなその募りは、最後は泣き縋るような、哀れみを乞うような、なりふりかまっていない、自分の存在すべてが向けているそのものであるかのような、自身の言っている事が聞き入れられなければそれが失われてしまうかのような、それを儚むかのような弱々しい怯えているかのようなものになっていた。

 

「…アスカに何かあったら…僕は…」

 

それは口にするのもおぞましい、自身からそれが発せられただけでさえも自分の内側全てが忌々しい汚泥と化し余すところなく何一つ残さず嘔吐せずにはいられないシンジ自身の絶対の禁事であった。

 

そのシンジにマヤは変わらぬ視線を送っていたが、ふと何かをその心の内で決めたかのようにして表情を改める。

 

そこに現れていたのは先程シンジにその口火をきった時と同じような固い、優しさも甘さも見出す事のできないものであった。

 

「あなたの気持ちは分かったわ」

 

マヤは始めの時と同じ表情で同じ意味の言葉をシンジにかける。

 

「あなたがどんな思いでいるのか、どうしてここに来たのか、どうするつもりなのかも分かった。その事については何も言わない。それがシンジ君の決めた事なら私には何も言えないから」

 

そうした時にマヤはその双眸を微かに緩める。

 

「でも、これだけは聞かせて。あなたが本当にしたい事がなんなのかを」

 

それは問いただし詰問するものではなく、シンジがマヤにそうしたような乞い願うものであった。

 

「何をしなければならない、何をすべきなのではなく、そんな事は考えないで、関係のない事として、無い事として、そうした時にあなた自身がしたい事を、望む事を、するだろう事を私に教えて」

 

それを向けられ伝えられているシンジは俯きそれをただ耳にしている。

 

「あなたがあなた自身として願う事を私に教えて」

 

マヤは自身の得たいもの、受け取りたいものをそのままシンジに捧げた。

 

それを受けた、否応なしに受け取ってしまったシンジはマヤから自分に課せられた求めに対してそれは口にしてはならない、決して表に出してはいけない事だと言い聞かせ、しかし、それを形にしたい、自身の内から外に出して自分のものに、確かなものにしたいという叱咤と願求の狭間で揺れ惑っていた。

 

全てが静止したその中で、相手を待つものと自身のさざめくものはただ互いの存在に相対していた。

 

「僕は…」

 

その果てに、シンジはその噤みを押し開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“コンコン”

 

扉が僅かな音をたてて来訪者の訪れを知らせる。

 

その内側にいるものに応対を促すそれは、しかし、その時はそこで虚しく鳴り響いただけであった。

 

扉の向こう側、訪れた者がその目的としている主は何の返答も返してこない。

 

そこにはまるで何もいないかのように静寂さと空虚さが広がっている。

 

静けさが流れ、暗影がそこにある全てを包んでいた。

 

マヤはそこに佇み少しの間待っていた。

 

扉の前でノックを二、三度した後、その後には何もしないまま、何かが返されてくるのを待っているかのようにしてただそこにじっとしていた。

 

「…アスカ、いる?」

 

しばしの時をおいて、マヤは自身の前にある扉に向かって声をかけた。

 

それはその眼前にあるものに向けてのものではなく、その向こうに通る事を、その向こうにいるかもしれない、いるだろう存在に対して伝わるを事を意図してのものであった。

 

その声は大きいものではなかったが、むしろひそやかなものであったが、中にいるものにそれが聞こえるのには十分なものがあった。

 

しかし、それでもその中から、扉の向こうから何かが返されてくる事はなかった。

 

何かの気配を感じさせる事もなく、返事がある訳でもなく、そもそもそこには何もいないかのよう静寂さだけを感じさせ、何が動く事も返ってくる事もなかった。

 

マヤは一つ吐息をつくとドアのノブに手をかける。

 

「アスカ、いるんでしょ?。ちょっといいかしら」

 

マヤは僅かに手を返し、そっと優しくゆっくりと扉を部屋の内側へと押しやった。

 

無音の中にその微かに軋む音でさえもたてられる事はなかった。

 

僅かに開かれた隙間にその細身の身体を静かに滑り込ませる。

 

窺うように、覗き込むようにして、でもさりげない、乱す事のない自然な動きで中へと入っていく。

 

そこは、全ての動きが止められた完全に調和した空間であった。

 

夏の空気が十分にある筈のそこは、どこか寒ささえも感じさせるかのようでもあった。

 

暗がりの中、何が動く事も意志あるものが存在する事もない、そこにあるものがただそこにある、そこはそんな所であった。

 

誰かがそこにいるのが感じられない、マヤ自身もそんな感覚を受けずにはいられない。

 

しかし、マヤは確信していた。自身が目的としている、そのためにここに来た少女が今この中にいるという事を。

 

そしてそれは間違いではないと、すぐに分かった。

 

僅かに視線を巡らし、部屋の中を見渡すと角の方に、ベッドの上に人影を、その姿を見出す事ができた。

 

確かめるまでもなく、部屋の中を満たしている闇の深いところにその身を沈めているとはいえ、マヤには分かった、見違える筈もなかった。

 

その少女のために、自身のしたい事をするためにこそ今日この日に無理をしてまで帰ってきたのだから。

 

マヤはその身を静かに置いていた。

 

何もかもが変わらない、微かに動く事でさえもないその中で、押し包むものを動かす事なく乱す事もなく、自身の存在をその場においていた。

 

溶かし込むのではなく、倣うのではなく、自分は自分として、存在も意思も消す事なく柔らかく穏やかにその中にいた。動かすのではなく、変えていた。

 

自身の身がそこにあるように、それが自身のいる今のこの場所であるようにしてそこにいた、佇んでいた。

 

空気は変わっていていた、意志あるものがそこにいる。マヤがそこにいた。

 

静かにゆっくりと生あるものとそうでないものとの区別がついていく。それはそこにある全てのものにもたらされ、分け隔てられていっていた。

 

マヤは自分自身の何が変わる事もなく、ゆっくりと静かに、でも間違いのない確かな足どりでその傍へと近づいていく。

 

それは何の不思議もない、ごく自然な当然の事をしているかのようでもあった。

 

その存在が傍にありつつあるというのに何も変わらない少女に、マヤもまた何も変わらない。

 

静かなたおやかな感じのまま、小さく身体を丸めているその存在へと歩み寄っていく。

 

近くも遠くもない距離、そこまで来たところでマヤは動きを止めた。

 

少女のその身があるのと同じ場所に、マヤもまた腰掛ける。

 

僅かにベッドが動いた。

 

それは微かなたわみとなって少女の元にも届いている筈であったが、それでも少女自身は何も返してくる事はなかった。

 

何も変わらないままそこでそのままにいた。

 

そんな少女にマヤもまた何も言わずにいる。

 

謝りの言葉も祝いの言葉もかける事なく、ただ自分の存在を感じさせるように、自身が今ここにいる事を教えるようにしてそうしていた。

 

視線をそちらに送る事もなく、何かを働きかける事もせずにただ傍に居続けていた。

 

自身に応えてくれるようになるまで、感じてくれるようになるまで待つようにしてその身を預け続けていた。

 

ふと、膝元に手を置いて体を少女に向ける。

 

暖かな、いたわるような視線のままその姿を見守る。

 

「…どうかした?」

 

その言葉は心配するような響きはあっても何の隔ても負うところもない、ごく自然な日常会話のようなそれであった。

 

「遅れて、ごめんなさいね。今日の入学式、本当におめでとう」

 

何を言う訳でも応える訳でもない少女。しかし、そんな少女にマヤは言葉を続ける。

 

その時その時の自身の感情と心を少づつ表情に映しながら。

 

少女にそれを押し付けるのではなく、自身の思っている事、感じている事を表すために。

 

「見送る事もできなくて、一緒に行く事もできなくて、本当に残念だった。今度なにか今日のような事があった時は必ず行くわ、楽しみにしている」

 

変わらず流れるマヤの音韻、その言葉の端々には自身の思いを滲ませたものが込められていた。

 

その瞳に少女を映し、今の自分がそのためだけに、その存在のためだけにここにいるかのように、自身の事を感じさせ続けていた。

 

「制服、よく似合っているわ。本当に素敵よ、アスカ」

 

少女のその名、それを含めたその言葉は確かに自身のごく身近にいる存在に向けられてのものであった。

 

それもまた、マヤ自身の感じたものを素直にそのまま表しただけのものであった。

 

そんな自身に向けられた言葉、自身の事を言ってくれている事にも少女は、しかし、何も動くものはないというような感じでただそこでそうしていた。

 

自身に向けられたものも、そんなものはある筈のない事のように、気がついていないように、無視しているように、自身を小さくして固く抱き続けていた。

 

「これからささやかだけれども、お祝いをしたいと思うの。いいかしら?」

 

自身の存在と言葉、それに関わりのない、関係のないようにしている少女のありよう。それを気にした風もなく意にとめた様子も感じもなく、マヤもまた少女がどうであろうと関係のないように自身の意を、その思いを伝え続ける。

 

ただ少女に自身の全てを向けて、その姿を、心を、存在を感じ包み込み、抱くように感じさせるようにそうしていた。

 

その事を少女に伝えたい、感じて欲しいというかのように。

 

自身の傍にある存在、そこに自分だけにしていないモノ、それからもたらされてくるもの、それにも少女は何も言わず何も動かさない。

 

何も感じさせず何も感じない、ただそのためだけにそこにいるかのように、それこそが自分自身であるかのように、だた一人少女のままの少女でいた。

 

マヤは、ふと、立ち上がる。

 

静かに、何の余韻ももたらさぬように、そこにあるものそのままに変えさせる事のないように。

 

その動きでさえも、ごく自然なあたりまえの事であるかのように。

 

「それじゃ、仕度してくるわ。できたら呼びにくるから少し待っててね」

 

変わらぬ視線と表情を向けたまま、仄かに微笑みかけて慈しみをその瞳に深めてマヤはすぐ傍にいる、自身の思いの中にいる少女にそう告げた。

 

それは自分のした事に何が返される事がなくても変わる事のないマヤ自身の心そのものの現れだったのかもしれない。

 

その時も何もないまま、マヤ自身もまた何も変わる事も変えようとする事もないまま、少し名残惜しいように、気にかかるようにして視線を残しながらその場を後にしようとする。

 

そうした時にふと、何かを思い出したようにしてその動きを止めた。

 

そして再び自身を巡らすと、奥にある机に向かっていく。

 

「アスカ、さっきお友達がこれを届けてくれたわ」

 

マヤは自分の小脇に抱えていたそれに目を落としながらアスカに向けてではないが、語りかけるようにしてそれを告げた。

 

「ここに、置いておくわね」

 

何が返されてくる訳でもなく、何を待つでもなくマヤはそれだけを言うと手にしていたものをその上へと置いた。

 

一瞬、視線をアスカの方へと送るとそのまま体を再び巡らし扉の方へと向かっていこうとする。

 

「それじゃ、すぐだから。お風呂にでも入って着替えていらっしゃい」

 

マヤはそれを残して部屋から出ていった。

 

自身の残すものを残して、そこが変わるものをもたらして、自身の存在があり続けているように、居続けているようにしてそこを後にした。

 

アスカはそこに一人、残された。

 

しかし、独りではなくなっていた。

 

望むと望まざるとに関わらずその周りにもたらされたものは確かにあり続けていた。

 

アスカ自身、それと分からぬ程、感じようとしても感じられない程、微かに覆っているものが変わりつつあった。

 

それはそこに居たもののせいであろうか、それともそうあろうとしたせいであろうか。その身に何を思い何があったのかは分からないが、アスカ自身そうありつつあった、なろうとしていた。

 

微かに身体が動かされる。

 

面が僅かに自身から離される。

 

全てが陰りに満たされた表情、頬に遺された流された跡、痛々しさしかない乱れきったその表れを垣間見せる。

 

何も思わず何も心にないその顔、何を意としている訳でもないように、ただ動いているように、それでも何かがそこにあるかのようにして少しだけその目をそちらの方へと向ける。

 

そこにあったのは、白い四角の枠どり、何かを記したもの。

 

アスカ自身の机の上、マヤの残したものは何かを伝えるプリントの束のようであった。

 

アスカは何を思うでもなく、何を感じたようでもないようにして再びその瞳を自身へと落とす。

 

再び動く前と同じになったアスカ。何も変わらず元に戻ったようになるが、僅かな時の流れの後、ふと何かを思うようにしてもう一度その顔を上げた。

 

今度は少しはっきりと、それを意としているようにして先程と同じそこに視線を向ける。

 

暗闇の中、他のものよりも僅かに白くその存在をはっきりとさせているそれを微かにかすむ瞳に映す。

 

虚ろなように、ぼやけたようにしているその双眸は、しかし、そこに引き付けられるように、気にしているようにして動かず定められたままになっていた。

 

一つ、瞬きをするとゆっくりその身体から力が抜けていく。

 

自分で自分を戒めていたその縛りが解かれ、何も込められなくなったその手が緩やかに下に降ろされる。

 

何かを思うようにしてその表情に色が灯された。

 

立てられていた膝が、アスカ自身がそうしようとしているように静かに少しずつ崩れていく。

 

でも、そこから動かずにいられればそれでいいかのようにしてそこで動きをとめて、同じ表情、同じ姿のまま少しだけ意を凝らしたようにして自身を向けているものに視線を注いでいた。

 

しかし、その間に阻むようにあり続けている暗闇はアスカがしようとしている事を満たさせる事はなく、アスカ自身、それと意識はしていないのかもしれないが、それをそのままにはしておかないようにしようとしていた、そうなろうとしていた。

 

腕と足に力が込められ、ゆっくりと少しぎこちなく身体が支えられる。

 

つま先を支点にして上体が先に進み、手と両膝がベッドの上につけられる。

 

細くしなやかな足が床に降ろされ、アスカはゆっくりと立ち上がった。

 

その間も視線の向けられている先は変わらぬまま、表情も変わっていないまま。

 

自身の身体を立ち上げてからも少しの間その場所で佇んだまま机の上にあるそれをただ黙って見つめていた。

 

何か気になる事があるかのように、自身の意識と瞳をそれに向けていた。

 

やがて自分自身で確かめたくなったのか、もっとちゃんとその目にしたくなったのか、一つだけそれに足を進めて机の縁に自身の身を置くようにする。

 

暗い中でもその瞳にその四辺の印刷物ははっきりと映るようになった。

 

記載されている事もそれなりに見て取れるようになった。

 

そうした時、それを映しているものが形を結んでいった時に、アスカの瞳は見開かれ、隠しきれない、止めきれない揺らめきをたたえるようになる。

 

それを見つめるアスカの表情には抑えきれない心の動きが表されていた。

 

それは驚きと不安、怖さの中にも期待と嬉しさを感じているような、それらが不安定に混ざり合いながらさざめきあい表にでているような、そんな感じの複雑な心許ないものであった。

 

ゆっくりと、ためらうように、何かいけない事をするかのように、怯えるようにして、でもそうせずにはいられないようにしてそれに手を差し伸べる。

 

その直前で一度、その動きが止められる。

 

一息の、間が流れる。

 

その後でアスカは、しかし、何か思いきるようにして、辛いように、苦しいようにして最後の隔たりを越えた。

 

ゆっくりと、ためらうようにしてそれを手にして自身の傍へと持ってくる。

 

もう一方の手がそれに添えられ、その瞳は今自分が手にしているそれに、書いてある事に捕らわれた。

 

アスカは、そこで動けなくなった。

 

それは今日アスカも参加する筈であった、入学式とオリエンテーションの時に配られた配布物であった。

 

これからの学校生活で必要なこと、しなければならない手続き等を知らせるためのものであったが、アスカの意はそれらの事とは全く別のところに向けられていた。

 

その瞳には、映されてもいないものになっていた。

 

その紙を埋めている無個性な文字の羅列、整ってはいるがさして面白味もない描かれているもの。

 

乱れのないその文面、それを目にするものに少なくとも不快なものや煩わしさを感じさせない調和のとられた表記。

 

しかし、その中にそれを乱しているものが記されていた。

 

ところどころ、数少なく、思い出したように言葉少なく、元から記述されているものを補足するように書く込まれた手書きのそれ。

 

その書き込まれているものにこそ、アスカの瞳も意識も奪われ、それだけを、それのみこそを心と自分自身に映し出していた。

 

見覚えのある、失う事も忘れる事もできない綺麗に整えられた、自分のよく知っている書き方の字…。

 

かつてと変わらない、自分の心に留め置かれている間違う筈も見誤る筈もない、そんな事など絶対にありえない、アスカ自身の中にあり続けているそのヒトの書いたもの…。

 

それは自分の事など何一つ触れてもいないものであったが、自分に宛てられた、自分のために書かれているもの。

 

そのヒトが自分のためにしてくれた事…。

 

それが例えどんな事であっても、どんなに取るに足りない些細な事であってもそのヒトが自分のために、自分のためだけにしてくれた事。

 

アスカの手も心も小さく震えていた。

 

それが一体なんのためであるのか、なんのせいであるのかは分からなかったが、アスカの瞳もその存在自体もそれと分かる程に揺れ惑っていた。自身でもそれと気づかずに心を露にしていた。

 

それを手にしているそのものが僅かに強張る。

 

微かに圧された紙がその形を僅かに変えた。

 

何かに耐えるように、どちらにするのか迷うかのようにアスカは瞳を瞑り、手にしているそれと共に自身を震わせる。

 

アスカは震えずにはいられなかった、そのどちらにするにせよ自分自身の何かが失われるような気がして、怖くて、切なくて、心も体も震えずにはいられなかった。

 

何かを求めるかのようにして再び瞳を開く。

 

寂しさに彩られ迷いの中に揺れるその蒼氷に宿されたのは、変わる事なくそこにあり続けていたそのヒトがしてくれたもの…。

 

その瞬間、アスカは自分自身が弾けるようにしてそれを抱き締めた。

 

自分の手にしている、手の中にあるそれを、胸の内に抱いていた。

 

自分だけの、自分のためだけのそれを、耐えられないように、何もかもどうでもいいように、全てを振りきるようにして本当に大切に、かけがえのない宝物であるかのように自身の全てで包み込んでいた。

 

僅かに俯き、体を震わせながら、どうする事もできないように、どうしようもないようにして自身と一緒に小さなそれを、愛しむように、慈しむように抱き続けていた。

 

「…どうして?…」

 

心と体と同じように、それの現れも小さく震えていた。

 

「…どうして…どうしてなの?…」

 

その紙の僅かに波打つ、乾いた感触をアスカは感じていた。

 

そうなった訳は分かった、分かってしまっていた。そして、そのヒトの想いを、してくれた事を感じずには、受けとめずにはいられなかった。

 

それを抱いている自分自身と、その胸の内にあるものを届けてくれた今そこにはいないヒトに向けて問いかけずにはいられなかった。

 

「…こんな…こんな事…」

 

背を丸め、自身を小さくして全てでかき抱く。

 

「…アタシ…アタシ…」

 

アスカは自分自身を、定めた事を保てなくなっていた。

 

その枠は、アスカ自身を防ぐ何かにはなりえなかった。

 

想いは溢れ、どうする事もできないまま全てを満たしていく。

 

そして、その想いのまま、自身の全てとなってしまったそのものをアスカは自分自身へと贈った。

 

「…シン…ジ…」

 

その囁きは他の誰に受け取られる事もなく、ただアスカ自身だけにもたらされていた。

 

 

 

 

 

 

<第七話 了>

 

 

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