どうすればいいんだろう。
夏休み直前の高校は午前中で授業も終了して、試験も終了しているから部活動で残っている人はグラウンドや部室で活動していて、無所属な人はすぐに下校して各々夏休み前の自由時間を謳歌しているのだろう。とても暑いであろう屋外からの風が開け放ったままの窓や昇降口から廊下へと流れ込み、事務室から三メートル程離れた場所に隠れている私はふっと昇降口の外を見る。省エネで廊下の照明は全て消灯されていて、昇降口の外は白く眩しくてまるで灼かれているみたいだなとぼんやり考える…風が吹き抜けた後しばらく経つと静けさと中途半端な涼しさが廊下に戻ってきて、私はこつんと額を壁に当てる。冷たい壁が気持ちいいけれど頭の回転が急に良くなってくれるわけもなく、私は情けない目を事務室に向けた。
香取君の連絡先はどうすれば判るんだろうか。
個人的な面識は学習会で何と言うかあったけれどそれでもメールアドレスも何も教えあっていなかったし、同級生に香取君の連絡先を聞いてしまうと下手をすると学習会の存在に繋がりかねないし、一番知っていそうな神津君達にはとてもではないけれど聞けない。いや、もしかして絶交してしまったのかもしれない…でも絶交ならまだマシかもしれない、香取君は私を、もしかして神津君や須藤君を恨んでいるかもしれない。でも神津君に暴力を振るう香取君は許せないし怖いし、結局どうすればいいのか判らないまま連絡先だけとにかく判ればいいなどと動こうとするのは馬鹿なのかもしれない。いやきっと馬鹿で…でもどうすればいいのだろう。
「槇原さん。変な事考えてない?」
「ふひゃあ!」
不意に背後から掛けられた声に飛び跳ねそうな位驚いた私は少しの間の後恐る恐る振り向いて、柔らかく微笑んでいる佐々木君を見て泣きそうになった。
球技大会の時に昇ったコンクリート製の非常階段の四階部分はやっぱり人気が無くて、そして前と同じでグラウンドは部活動で賑わっていた。
「香取君と連絡とろうとか考えてるよね?」
「……」
抜ける様な青空が眩しくて、でも非常階段は校舎の影になっていて冷たいコンクリートの階段に座った私の頭の上にぽこんと乗せられた苺牛乳の紙パックはもっと冷たかった。そのまま乗せられっぱなしになる紙パックを落とさない様に恐る恐る見上げる私を困った顔で見ている佐々木君は小首を傾げた子犬みたいで、ほんの少し気持ちが緩んでしまう。きっと駄目な事なのだけれど、でも佐々木君は香取君とは正反対で優しくて穏やかできっと香取君に恨まれていなくて……。
「でも会って何が出来るの?」
連絡先よりも一番の問題を指摘されて途方に暮れる私の手に、佐々木君が頭から持ち上げた苺牛乳の紙パックを載せてくれた。これはくれると言う事なのかだろう?と首を傾げる私にこくんと頷いた佐々木君がもう一方の手に持っていた紙パックの烏龍茶を飲む。どんなに自販機で売切が出まくっていても最後まで残っている悪名高い紙パック烏龍茶をちょっと困った顔で飲んでいるのは私の無策の為なのか烏龍茶の味の為なのかどちらなのかなと考えかけて、私は苺牛乳の紙パックにストローを挿して一口飲む。冷たくて甘くて気持ちいい。
「香取君が神津君に何かしないのを確認出来るだけで、いい…けど」
「折角沈静化した問題を引っ掻き回す可能性は一応自覚してるんだよね」
穏やかだけれど少しだけ突き放したみたいな口調に私はこくんと頷いた。引越しで全て終わった話なのにわざわざ私が出しゃばって香取君の怒りを再燃させてしまう可能性は確かにある、でも香取君の怒りがもう収まっている確信もない。だからどうすればいいのか判らない、判らないけれどどうにかしたくて、でもどうすればいいのか判らない。
「……。香取君から『もう手出ししない』って聞けたら安心?」
佐々木君の言葉に私は驚いてそして何度も頷いてしまう。もしかして自分は除外された状態で平和に解決したのだろうか?確かにあの場で生意気な事を言ってしまった私がいない方が香取君も意地を張らないで済むかもしれない…でもそれならそれで一言教えて貰えれば嬉しいのになどと考えながら手の中の苺牛乳の紙パックを見ていた私は佐々木君のとても小さな呟きにぴくっと顔を上げた。
《――けないのに》
何て言ったのだろうか。それは子犬みたいな佐々木君の穏やかで優しい口調と違って恐ろしく硬く冷ややかで別の人の声みたいで、私はきょろきょろと周りを見るけれど遠い歓声以外の声は聞こえなくて恐る恐る彼を見上げる。にこっと微笑む佐々木君はいつも通りの子犬みたいな雰囲気で、今の声は気のせいかもしれない。
「行ってみる?」
佐々木君に小さく首を傾けながら問い掛けられ、私は釣られて同じ様に首を傾げてしまう。話が飛んでいる?もしかして聞き逃してしまったのかなと途方に暮れて、でも事務室で問い合わせるのは私より佐々木君の方が適任だと思い何度も頷いてしまう。佐々木君ならば友達だし男子同士だし誰も不思議に思わないだろうし、見栄えのいい香取君に好意的な女子は多かったから私が問い合わせたら何処からかばれてしまったらおかしな事になりかねないし、そもそも職員さんに連絡先を教えて貰う事自体が少し躊躇われるからこの申し出はとても有り難い。
「じゃあ…ちょっと待って」
ポケットからスマホを取り出して何やら操作する佐々木君に私はぽけーっと見上げながら首を傾ける。もしかして佐々木君の急用の邪魔をしてしまったのだろうかもしれない可能性を考えるけれど、この場所での話を選んだのは佐々木君で、事務室での問い合わせはそんな時間はかからない気がするのだけれど…そんな事を考える私ににこっと佐々木君が微笑んだ。
「明後日空いてる?」
「はい」
学習会の予定かな?と考えて私は即答した。
「……」
あまり乗り慣れていない座席に腰掛けた私は落ち着けずに周囲を見回す。窓際の座席だけれど窓はまるで飛行機みたいに小さくて奇妙な圧迫感があって、始発駅から次の駅まではすぐだったけれど今はもう列車はスピードが出ていて窓からの景色は看板の文字を読み取るのも難しい。親類の法事以来かもしれない新幹線で私は場違い感にきょろきょろしてしまう。
「槇原さん『はじめてのおつかい』みたい」
隣の通路側席でくすくすと笑う佐々木君が引き合いに出したのはちびっ子観察番組だったので私は少し頬を膨らませてしまう。私は確かに中学生以下と間違われてしまうけれど、それを言ってしまえば佐々木君もかなり若く見えてしまう方だろう。下手をすれば二人とも高校生未満な外見で、そんな二人で新幹線なんかに乗ってしまうのだからこれは緊張せざるを得なかった…と言うより行き先を聞いていなかった私が悪いのだけれどまさかそんなに遠くへ引っ越ししたとは思っていなかった。
手持ちの交通費もお小遣いそのままで、郵便局ATMへ行かなければ旅費も出せないしその貯金も正直ちょっぴり厳しい。そんな私に既に購入済みの往復の乗車券や指定席券を二組見せて佐々木君は当たり前の様に「じゃあ行こう」と言った。香取君とは喫茶店で会うだけだと聞いていたのだけれどやっぱりどこか怖くて、遊びに行く気分ではなく畏まったモノトーンのワンピースとボレロは余所行きの服装で車内でも浮いてはいないつもりだった。そして佐々木君は最初から遠出だと判っていたからなのかまるで社会人の様なスーツ姿で、でも奇妙な事にそれは制服姿より佐々木君に似合っている。年齢よりも若作りなのにスーツを着こなしているのは何故だろう。細い身体にしっくりと馴染む細身のスーツも学校での物と違う腕時計や靴もまるで浮いていない。まるで丁寧にトリミングされたばかりの高級な子犬みたいで、何だか戸惑ってしまう。
「少し休んでおく?僕もアラームかけて寝るかもしれないし」
「あんまり眠れそうになくて……」
「これ飲んで少し目を閉じておくだけで違うかもしれない」
そう言って佐々木君が鞄から取り出したのは英語表記の薬だった。学習会で佐々木君のくれる薬は何度も飲んでいるけれどそれらとは違い、受け取ってから小首を傾げる私に彼は笑顔を浮かべる。
「これは?」
「ビタミン剤。寝不足でちょっと血色悪い状態の槇原さん連れ出したって神津にバレると僕怒られるし」
「いただきます」
不安で眠れなかったのが急に眠れるとは思わなかったけれど血色が悪いと聞いて私は素直にそれを飲む事にする。肌も荒れているのだろうか?神津君に会う前に治しておきたい。
錠剤を飲み目を閉じていると不思議とすぐさま眠気が柔らかに押し寄せてきた。もしかして香取君の引っ越し先が思いの外遠かったので安心したのかもしれない。ふらっと偶然遭遇する距離でなければ喧嘩になってしまう可能性も低くなるだろう。
――あれ?
この前は偶然須藤君がいて香取君を抑えてくれたけれど、今日これから香取君と会うのに佐々木君だけで平気なのかな?と不意に心配になる。もし香取君と喧嘩になったらどうなるのだろう。佐々木君より香取君の方が体格も恵まれているし、逃げようにも地理に疎いし……。
「ごめんね」
柔らかいけれど急速な眠気に逆らえずとろとろと座席に沈んでいく中、何とか口にした言葉に、佐々木君が頭を撫でてくれた感じがした。
新幹線移動した先の大都市でもやっぱり夏は暑いのだなと実感しつつ駅前大通に出た私は空を見上げる。遠くまで来た筈なのに大都市の駅前はあまり代わり映えしないのが少し残念で、でももうすぐ香取君と会うのだと思うと不意に自分の居場所が判らない不安が押し寄せてきた。
「槇原さん、こっち」
「来た事あるの?」
「ううん。でも地図見たから」
何事にも準備万端な佐々木君らしくまったく迷いのない様子で歩くその隣をはぐれない様に気をつけて歩く私に、彼はくすっと笑う。何かあったのかなと首を傾げた私に、佐々木君は立ち止まって思案顔になる。
「どうしたの?」
「うーん…。長めのリボンでもあれば良かったかなって考えてた」
「リボン?」
「槇原さん迷子になりそうだから」
「え?あ、あの?え?え?」
学習会で冗談なのか首輪を着けられた事を思い出して私は赤面してしまう。あれはそういう場だからであって、まさか旅の恥はかき捨てであっても昼日中の大通りで首輪とリード着用の真似は常識的にやってはいけない気がして途方に暮れる私に、佐々木君は苦笑いを浮かべて首を振った。
「僕の鞄にでもリボン結んでそれの逆端持って貰う位ならいいかなって話」
「あ、え……えっと、いや、そこまで危なっかしくはない、気が」
「ちっちゃな子犬を外に連れて来ちゃった気分」
「そもそも子犬は小さいのに」
子犬みたいな佐々木君からの子犬扱いで更に小さいと言うのは生後何週間扱いなのだろうかとやや情けない気分になった私に佐々木君は困った様に目を細める。
「神津なら手を繋げるんだろうけどね」
観光名所の城跡近くにある喫茶店は落ち着いた紫檀色の腰壁や柱と白い壁の対比がとても綺麗で大正浪漫と言う言葉が似合っていて、そこに窓の外の公園の緑が鮮やかでゆったりとした時間が流れている印象だった。窓側に座る私の隣の席の佐々木君は静かに紅茶を飲んでいて、いつ香取君が現れるかと緊張している私に少し困った笑顔になる。ここで喧嘩になる事はないだろうなと思えるのは店内の落ち着いた雰囲気と、あと近くの席のサラリーマン風の男性達が目立つ為だった。ここで暴力沙汰になったらすぐに止めて貰えると思うのは他人任せな気がするけれど、でも精神衛生的には有り難い。
「ミルクティー、冷めるよ?」
「あ、はい。――わぁ……」
佐々木君に促されて一口飲んだミルクティーはコクがあるのに濃厚な香りが広がって思わず私は嬉しくなってしまう。この喫茶店が遠いのがかなり惜しい。そう言えばこの店を指定したのは香取君なのだろうか?佐々木君がこの街に詳しいとも聞いていないので香取君の通いのお店なのだとしたら…でもそういう場所にトラブルの可能性を持ち込む事はないだろう。どうしても色々と考えてしまって落ち着けなかったけれどミルクティーの美味しさが嬉しくてふっと身体の力が抜けて、そして神津君の少し怒った顔が頭に浮かぶ。神津君を巻き込みたくなくて内緒で来てしまったけれど、バレてしまったらきっと怒られるだろう、でも神津君が怪我をする可能性は絶対に避けたかった。それでも神津君に秘密を作るのが少し苦しい。
「――怖い?」
「ううん…。ごめんね巻き込んじゃって」
考えてみれば佐々木君は踏んだり蹴ったりの状態ではなかろうか?交通費は分割で返させてと申し出ても受け付けてくれないし、休日が潰れてしまうし、メインイベントは雲行きの怪しい訳の分からない話し合いなんて一つもいい事がない。
「連れ出したのは僕だよ」
穏やかに微笑む佐々木君は迷惑そうな様子が一切なくて、本当に優しくてとってもいい子の子犬がお座りして自分を見てゆっくりと尻尾を振ってくれているみたいで、嬉しさと申し訳なさがまぜこぜになる。もし本当の子犬ならぎゅっと抱き締めてしまっていただろう。いい人だなぁ。須藤君は頼りがいがあるし、二人とも素敵な彼女が出来るんだろうなぁと考えて、でも学習会でその機会を損なっているのならば申し訳ないなとふと思い至る。
カランカランと入口の扉に付いているベルが鳴り、反射的にそちらを見た私は数日ぶりの同級生の姿にティーカップを手にしたまま凍り付いた。
「――で?」
この人は香取君なのだろうか?そんな疑問が頭の中でぐるぐると巡る位に目の前の同級生の雰囲気は教室で見たものともあの公園でのものとも異なっていた。酷く苛立っている。いつの間にティーカップをソーサーに戻せたか記憶が飛んでしまっていて、私は腿の上のワンピースの布地をぎゅっと握っていた。
「え……え…その……、か、か、香取君に、話が、あって……」
本当は逃げ出したい。でも神津君に何かがある方がもっと怖い。少しでも気を緩めれば俯いて泣きだしてしまいそうな怯えを封じ込めて毅然として話そうとするけれど、香取君の顔から目を逸らさずにか細い震える声を出すのがやっとだった。
喫茶店には穏やかなピアノ曲が流れていて声が香取君に届くか自信がなくて私は深呼吸をする。深呼吸で冷静になれる筈もなく、いつでも貧血で倒れてしまいそうな感覚と微かに滲んでいる冷たい汗をエアコンの風が更に冷やしていくのが気持ち悪い。それでも逃げたら駄目だった。
「まだ、復讐……する予定、ですか?」
「――お前馬鹿じゃないか?」
香取君が静かな喫茶店内では些か大きい声を出した。その口調は嘲笑うものとは違い、でもあの時の行為に罪悪感を憶えているものとも違っている…例えれば、投げ遣り。どうでもいい面倒事の様な口調に私は戸惑う。確かに無策でただ復讐しないで欲しいと言う願望しかない何をどう言えばいいのか纏められない上に、たった数日しか経っていなくて捨て台詞を残した香取君の怒りが収まっているかも判らないのだから馬鹿な真似だとは思う、けれど、何だろうか、香取君の様子は何かがおかしい。まるで……。
「復讐なんてしないよね。誰も得をしない」
不意に穏やかで滑らかな声がした。
佐々木君の声だと判っているのに、内容もそれこそ私の言いたい事なのに、いつもの優しい声なのに、すぅっと何かが変わった気がした。空気に何か重い粒子が紛れ込んで私の隣の席から滲んで場を侵食していく。酷く冷たい様でいて一瞬で灼かれる烈しい炎の熱さの様でもあり…いいや温度と言うよりまるで空気が全て無くなった様な息苦しさ。毒とか悪意とかそう言うものではない重圧か重たいガスみたいな何かが広がって世界が無彩色に変わっていく…それは私にとっては足元から世界が崩れていく様な貧血の立ち眩みの感覚にも似ていて、もしかして佐々木君の援護に気が緩んでしまったのかと思うけれど、でもどこか違う。
恐怖。
香取君が何かに怯えている、それが一番近い気がした。ここでは須藤君に投げられる事もないのに。でも隣はあの佐々木君で、何故?もしかして香取君の大きな声でサラリーマン風の人達が怒っているのだろうか?いや私はそんなに敵意とか悪意と言ったものを読み取るのは得意ではなくて、ではこれは何なのだろうか?怖くて佐々木君方面を見る事が出来ない。気付くと全身に鳥肌が立っていた。
「これは、その確認」
佐々木君の言葉の後、ふわりと空気が変わり店内に穏やかなピアノ曲が戻ってくる。視界の隅で佐々木君の手がティーカップへ延び、ゆったりと紅茶を飲む気配がした。そして目の前の香取君の顔色は紙の様に白くなっている。炎天下まではいかないけれど初夏の陽気は寒気を覚えるものではないし、席に着いた時の香取君の顔色はここまで悪くはなかった…貧血かなと一瞬心配してしまうけれど、私が心配していると知ったら彼は嫌がる気がして言葉に出来ない。
「――馬鹿じゃないか?」少し上擦った声を真っ白な顔色のまま香取君が振り絞る。「こいつよりも美人も色っぽいのもこちらには大勢いるのにわざわざ新幹線乗ってどうこうするだけの価値がある訳ないだろう?自意識過剰なんだよチビの分際で」
確実に色香不足なのは事実でも何となく微妙に胸に矢が刺さった気分になってしまうけれど、香取君の生活基盤や興味がもうこの街に移っているのが判ってほっとする。どこに引っ越しをしたか判らなくて不安だったけれど確かに新幹線で移動する場所では復讐も馬鹿らしくなってしまうだろうし、新しい友達を作る方が建設的で、不安がっていた自分が馬鹿なのだろう。
注文を聞きに来たウエイトレスに「もう帰るから」と返事して、そのまま香取君は席を立ち別れの言葉も口にせず店から出て行ってしまう。それでいいのか判らず隣を見た私に、佐々木君は穏やかに微笑んだ。
「背が低いのは事実だけれど、槇原さんは美人と言うより可愛い系だし実際可愛いのにね」
「え?いやそんな…でもあの佐々木君は、いいの?」
「別に。僕は男同士で旧交を温めるより女の子とお茶を飲む方がいいと思うし」
「……。香取君の顔色悪かったし……」
差し出がましいかな?と思いつつも佐々木君が私が一人ぼっちになるのを避けている可能性を考えて暗に追ってもいい事を提案してみる。
と、ぷにゅと頬を指で押された。
「ふにゃ?」
「槇原さん人が善すぎ」
そう言い佐々木君はティーポットから二杯目の紅茶を注いだ。
帰りの新幹線の切符も既に購入済みでまだ時間に余裕があるとの事で、喫茶店を出た私と佐々木君と目の前の城址公園をゆっくりと歩いていた。香取君問題が解決した安堵か、とても鮮やかで綺麗に見える木々の緑と草木の匂いが心地良い。
「お土産買って帰ると…勝手に来ちゃった事、バレちゃうよ、ね?」
「確実にバレるね」
折角遠くまで来たのだから神津君にお土産を買いたいなと考えてしまうのは少し緊張の糸が切れ過ぎているかもしれない。でも秘密だけれど嬉しい話だしお土産は喜ばれるものだから結果オーライで大目に見てくれないかななどと思う胸の奥で、しゃらっと漂う物がある。実験で使うプレパラートに乗せる薄くて小さなカバーグラスの様な、よく見ないと見逃してしまうとても小さくて薄くて軽くて周囲に紛れ込んでしまう様だけれど、指を突けば血の玉が浮いてきそうな鋭い辺の硝子が胸の底近くで漂っている。正体不明な綺麗だけど怖くて見えそうで見えない物。これは何なのだろう。意識しなければ気付けなくて、多分胸の底に沈んで紛れてしまいそうで、でも触ろうとしてはいけない何か。
暑過ぎない初夏の風がさぁっと流れて木々の葉を鳴らす。
「風が気持ちいいね」
「うん」隣をゆっくり歩きながら子犬みたいな笑みを浮かべている佐々木君に、私はよく息を吸って立ち止まった。「あのね。――佐々木君、ありがとう」
子犬としか思えない小首の傾げ方をして振り向いた佐々木君に、私は深く頭を下げる。
佐々木君は不思議な人だなとつくづく思う。女子相手でも人見知りをしてしまう駄目な私が素で話せる男子は佐々木君くらいで、お兄さんみたいな須藤君でも敬語が混ざる。学習会の一人だから当然そう言う関係なのに近くて遠い気がする…ちなみに田中君達はそう言う関係だけれど遠い人で当然敬語が抜けない。でもそう言う時に抱きつきたい人かと言えば違って、私は神津君以外とはやっぱり本当はそう言う事はしたくない。でも微妙に怖じ気づかずにいられるのはこの子犬みたいな笑顔のお陰かもしれない。
「あんな短い言葉で私の聞きたかった事を言ってくれて、香取君に会わせてくれて、ここまで一緒に来てくれて……えーっと…その……交通費は絶対に払います。でも本当に何て言っていいのか判らない位に、ありがとう」
「だって放っておくと槇原さん突撃しそうだったから。気にしないでいいよ」そう言い佐々木君が子犬みたいな笑みを浮かべる。「それに僕としても休日に女の子と歩けて楽しいし」
色気もないし美人でもないと香取君に酷評されたばかりだからか女の子扱いをしてくれる気配りに、本当にいい人なんだなぁと感動しつつ私は佐々木君に微笑み返してそして歩き出した。
しゃらしゃらと胸の奥で硝子片がゆっくりと揺れながら沈んでは浮かび上がる。何かに気付いていない問題がある様な気付いてはいけない様な、不思議な違和感に少しだけ眉が下がっている気がする。こんなに快適な陽気なのに、問題が解決したのに。
初夏としては穏やかな日差しの中、木々の緑を背景に不意に佐々木君が振り向いて、子犬の様な笑顔を浮かべる。
「槇原さん、どうかした?」
「ううん……」
何故だろうか、戸惑いと怖さの混ざったどきんとした感覚に、私は首を振った。
在来線からの乗り換えもなく新幹線乗場へと向かっていた私は、そこに居る筈もない人の姿に大きく瞳を見開く。神津君。上品な露草色のサマーセーターにスラックスの私服姿なのが引き締まった長身な身体の線を引き立ててまた素敵だなぁとうっとりしてしまいそうだったけれど、その表情は無表情に近い苛立ったもので私の嬉しさは急速に萎んでいく。
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初校20170421147