ここに連載している「Bossa Nova History/ジョアン・ジルベルト物語」は、宝島社『ボサノヴァの歴史』(ルイ・カストロ著/国安真奈訳/廃版。2001年1月音楽之友社より再版。本についての詳細は、翻訳者:国安真奈さんのホームページをどうぞ)を参考文献として、ボサノバ・バチーダの産みの親であるジョアン・ジルベルトを軸にボサノバの歴史を綴っているものです。 さあ、あなたも一緒にボサノヴァの誕生を追ってみませんか? |
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Vol.01 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ジョアン18歳の旅立ち〜 | |||
ブラジルのバイーア州の片田舎町ジュアゼイロで育ったジョアンは、なかなかの商売人でサックスなど音楽の趣味もある父ジュヴェニアーノ氏と、母パトゥ夫人の間に5人姉弟の2番目として生まれました。 |
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Vol.02 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜サルヴァドールでの日々〜 | |||
サルバドールへやって来たジョアンは、母親の親戚がPRE-4のディレクターであるオドリーコ・タヴァーレスと親しかった関係で、ホールからの生中継番組でオーケストラをバックに歌ったりしていくらかのギャラをもらって生活することになりました。 しかしなかなか定職にはありつけず、従兄弟の家に居候させてもらって苦労していたようです。 でも楽しみはありました。 ニューヨークでルーシオ・アルヴェスの友達だったクラヴィーニョが帰国し、ジョアンと知り合いになってから、ふたりは意気投合。クラヴィーニョが持ってきたアメリカ歌手やオーケストラやヴォーカルグループの素晴しいレコードを聴きまくったのです。 その中にはサラ・ヴォーンの『ピンキー』やパステルズの『アフター・ユー』、 ビリー・エクスタインの『エヴリシング・アイ・ハヴ・イズ・ユアーズ』などがありました。クラヴィーニョはニューヨークでこうしたスターたちを全部ナマで聴いていました。 なんといっても、二人の憧れは、ブラジル人のオルランド・シルヴァでした。 しかしオルランドは40年代のある時期に声を失ってしまい人気は下降線に... それからはふたりとも関心がルーシオ・アルヴェスに高まります。 偶然でなく、ルーシオはオルランドの後継者と言われていました。 そんな中、チャンスを求めてラジオ・ソシエターヂの廊下をふらついていたジョアン にある日、リオのラジオ・ツピーに雇われているヴォーカルグループ、ガロット・ダ・ルアからお呼びがかかりました。 ジョアンは自分のギャラに従兄弟たちの(またまた)カンパを足して、リオ行きの切符を買いに行きます。また、叔父のヴァルテルが下院の書記として使ってもらえるようにという紹介状までもってきてくれたのでした。 才能のある人には、運命も味方するんですね。そしていざリオへ! |
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Vol.03 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜初めてのリオ〜 | |||
初めてリオへやってきたジョアンは早速ガッロトス・ダ・ルアの待つラジオ・ツピーへ向かいます。なぜジョアンがボーカル・グループのガッロトス・ダ・ルアに呼ばれたのかというと... リオのヴェネズエラ通りにあったラジオ・ツピーは、ラジオ・ナシオナルと共に人気の高いラジオ局でした。それは1946年にナシオナルを作り上げたジルベルト・ヂ・アンドラージによってすべてが再建されたからです。そのため、ディレクター達も真剣に仕事をするようになり、契約ミュージシャンに対しても同じように本物の才能が求められるようになりました。 そんな中、現在のリストラさながら、解雇の対象グループのひとつにガッロトス・ダ・ルアも入ってしまったのです。 ガッロトス初期のメンバーはジョナス、ミルトン、ミゲル、アルビーニョ、アシールの5人。ペルナンブッコ出身のジョナス・シルヴァと同郷のミルトンとミゲルが共に南部を目指す途中、バイーア出身のアルビーニョとアシールに出会い意気投合し、ガッロトス・ダ・ルアが生まれました。 2年後にミゲルが脱退し、もともとリオに住んでいたトニーニョ・ボテーリョが参加。グループはラジオでの仕事を探しますが、なかなかチャンスがつかめず、1年以上も貧乏暮しを余儀なくされます。 ジョナスとアシールはマーレイ(町で一番の輸入レコード店)店網の店員として働き、ジョナスはまもなく海外のレコード会社と取り引きをする公認バイヤーになり(これがのちのち彼を助けるキャリアになる)、他のメンバーは色々と小遣い稼ぎをして食い繋ぎ、練習を重ね、1974年にやっとスタートをきることができたのです。 しかしジョナスの声は俗にいう”ささやき声”でした。 当時ボーカル・グループの基準と考えられたのは声量も自慢のルーシオ・アルヴェスだったため、ディレクターのアントニオ・マリアにジョナスは問題ありと判断されてしまいます。 今でこそボサノヴァによく合うとも言われ、人気の高いウイスパー・ボイスですが、当時のリオではカルヴァナル(カーニバル・・・つまりサンバ)の曲が歌えないグループなんて役立たずだったのです。 グループがボーカルを替えるか、ラジオ局がグループを替えるかの選択となった時、 中途参加のトニーニョがジョナス追い出し作戦を指揮しはじめました。 しかしミルトン、アルヴィーニョとアシールは、同じ釜の飯を食って苦労を共にした友人をそう簡単にクビにすることなんてできません。 悩む毎日が続く中、友人に会うためにふとサルヴァドールへ帰郷したアルヴィーニョはラジオ・ソシエターヂ・ヂ・バイーアで、ジョナスの後任ボーカルとしてジョアンを紹介されることになったのです。 ・・・スタジオに入ってきたジョアンを見て、ガッロトス・ダ・ルアのメンバーは彼がどれほどの逸材なのか好奇心ではちきれんばかりでした。何かやってみてくれといわれて、ガッロトスの曲を1曲も知らなかったジョアンはオス・カリオッカスの「誠実」を歌いました。そして皆は本当に逸材だと確信、納得したのです。 ジョナスの運命は?? |
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Vol.04 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜新メンバー ジョアン〜 | |||
こうしてジョアンはガロットス・ダ・ルアの新メンバーになりました。 そして仲間に裏切られたジョナスはというと、それがとても冷静だったそうです。 「こんなことなら自ら辞めたのに」と。 体裁を繕うためにメンバーは、ジョナスは喉を悪くしたので、代わりを探して欲しい と自ら頼んだ、という筋書を考えていました。 なんだか残酷な話ですが、ジョナスはまだ21歳と若かったし、レコード店のバイヤーとして充分やっていける才能を持っていたので、グループを辞めても経済的には困りませんでした。 そんなこんなで色々あった彼等ですが、ジョナスはそれからもガロットス・ダ・ルアのメンバーたちと前と変わらぬ友情をもって接しました。 ジョアンはまずは落ち着き先が決まるまで、アルビーニョの家に居候となり、 こうしてガロットス・ダ・ルアは1951年、トダメーリカ・レコードで『君が思い出す時/会いすることはよきこと』『冷酷な天使/彼女なしでは』のレコードをリリースし、再出発したのです。 さて、ジョアンがリオに来る時に、叔父のヴァルテルに下院の書記として働けるように紹介状を持たせてもらったのを皆さんは覚えていますか? この下院議員はジョアンの母の妹の旦那だったのですが、ジョアンは雇ってはもらえたものの、あまりの勤務態度の悪さに、早くも解雇されることになってしまいました。しかもガロットス・ダ・ルアにおいてもその勤務態度は同じで、こっちのほうも危うくなり始めていたのです。 ジョアンはあまりにもリハーサルや本番に遅刻することが多く、その代わりに前任者のジョナスが入ったこともあったほどで、1951年に放送を開始したTVツピーの出演や、出すレコードも好評とまさに波にのり、破竹の勢いで進むガロットス・ダ・ルアの足を、ジョアンは引っぱることにもなり兼ねなくなってきたのでした。 そんな中、コンチネンタル・レコードのミキサーで、クラブの理事長だったノリヴァルに出演を依頼され、マドゥレイラ・テニス・クラブでのショーの仕事の際、ついにジョアンは現われませんでした。 メンバーは「これを最後にしよう」と決心したのです。ジョアンはどうなる? |
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Vol.05 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ジョアンの恋〜 | |||
マドゥレイラ・テニス・クラブでのショーに来なかったジョアンは、翌日恋人のシルビーニャとレコード店「マーレイ」に現われました。そこでアシールにひどく責められ、ついにガロットス・ダ・ルアをクビになりました。 他のメンバーもアシールを味方し、ジョアンの代わりの歌手が見つかるまではトニーニョが代役を勤め、その後エヂガルド・ルイスという歌手がメンバーになりました。 しかしジョアンの前のボーカル、ジョナスと同様に、ジョアンはガロットスのメンバーとは友人付き合いを続けることができました。 が、アシールとだけはそのあと5年も話をしなかったようです。 周りからは、ジョアン自身は今回のことをさほど気にとめているようには見えませんでした。彼はアルビーニョのアパートを出て、今度はフェチマ区に他のメンバーとまたまた落ち着き先が決まるまで、という名目で住みはじめました。 そしてその頃のジョアンは、恋人のシルビーニャと甘美な時も過ごしていたのです。 彼女はジョアンの親友マリオの妹で、18歳。 ジョアンはマリオと「マーレイ」で知り合い、ボーカル・グループのたまり場になっていたマリオの家で、シルービーニャに出会ったのでした。 彼女はバレエやピアノ、歌にも堪能で、まさにジョアンを夢中にさせるに充分すぎる 女性でした。しかしその当時のしきたりでは、友人の姉妹との恋愛はタブー、もってのほかだったのです。でも好きになってしまったら、しかも相手も同じ気持ちなら、そんなしきたりなんぞに構っていられないのはいつの世も同じですよね。 マリオとジョアンは絶交し、ふたりの恋は走り始めました。 その数ヵ月後、ジョアンは結婚の申込を代理の者に伝えさせるという無礼を彼女の父親にはたらきました。自分で行ってもどうせ門前払いをくらわされると恐れたジョアンは、自ら出向かず友人に頼んだのです。 この行為はジョアン自身にも非難が浴びせられました。 そしてシルビーニャとの仲は引き裂かれたのです。 しかしそんな踏んだり蹴ったりのジョアンにもはじめてソロでレコーディングをするというチャンスがめぐってきました。 バックバンドには豪華な弦楽器セクションまで付けられ、有名アーティストが目白押しでした。ジョアンは「マーレイ」をうろついていた仲間の作曲家たちの曲を2曲選び、レコーディングに臨みました。 その曲とは、アルベルト・ジェズスとロベルト・ペンチアードの『彼女がでかける時』、そしてイアント・ヂ・アルメイダとジョアン・ルイスの『メイア・ルス』。 録音は順調に進み、レコードは発売されました。さて、その評価は? |
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Vol.06 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜意外な評価〜 | |||
1952年に録音されたこの2曲の入ったレコードがジョアンのソロ・デビュー作だと 知る人はとても少なく、現在のディスコグラフィーでも、皆さんよくご存じの『シェガ・ジ・サウダーヂ/ビンボン』(6年後に録音)がジョアンのデビュー作となっています。 ではなぜ評判が芳ばしくなかったのか? 『ボサノヴァの歴史』では、ジョアンがオルランド・シルヴァを意識した歌い方をしすぎていたことや、ギターのない伴奏などを理由に挙げていますが、本当の所はどうなのでしょう... その後、ジョアンは崇拝していたルーシオ・アルヴェスを紹介してもらうチャンスに 恵まれます。 4歳年上のルーシオはジョアンの才能をすぐに見抜き、様々な応援を買って出てくれたのでした。>そしてガロットスとの仲が具合悪くなっていたジョアンは、ルーシオの誘いで今度はルーシオのアパートに居候をすることになりました。 ある時ラジオ・ナシオナルが『ジャスト・ワン・モア・チャンス』をドラマのサントラに使うことにしたので、ジョアンにポルトガル語ヴァージョンを依頼して来ました。ジョアンはそれを『ウン・ミヌト・ソー』という曲に作り替え、その歌手にルーシオを推薦しましたが、ルーシオはこういうのを歌うのがもともと嫌いだったので、ジョアンを逆に紹介しました。 そこでジョアンはルーシオそっくりの歌い方でそれを録音したのです。 オルランドにもなれる、そしてルーシオにもなれるジョアン・ジルベルトが、強烈な個性を放つ日は近い?! しかしルーシオの反応は冷ややかなものだったのです。 |
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Vol.07 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜新しい恋、厳しい現実〜 | |||
ルーシオの真似をしてレコーディングをしたジョアンは、 その後ルーシオにアパートを追い出されてしまい、今度はまたまた友人であるシコのアパートに居候することになりました。 そしてジョアンはもう1年以上も失業状態で、音楽で”食べるための仕事”を探す毎日を過ごしていました。そんな時、彼がルッソ・ド・パンデイロと共作した『僕の彼女に会ったかい?』という曲がある1人の歌手 マリーザのデビュー曲として使われることになりました。 パーティーでマリーザと知り合ったジョアンは、彼女に「歌手にしてあげる」(これがジョアンの口説き文句!そして彼女を恋人にもしてしまいます)と約束し、これが商業的にも成功。しかしながら音楽的にはジョアン自身にはなんの関心も集まりませんでした。 でも、あっちが駄目でもこっちはOK。ジョアンにはミュージシャン仲間が多く、(特にジョアン・ドナードと仲良しだったらしい。ドナードもかなりの変わり者だったようです)そして1954年、どうにもならなくなったジョアンはまた仲間に助けを求めます。そしてルッソ・ド・パンデイロに再度泣き付き、カルロス・ド・パンデイロのショーに出演するという仕事にありつきました。 これがすごいショー。ジョアンは4回もの衣装替えをし、挙句の果てにはピエロの格好で歌ったりしなくてはならなかったのでした(でもこのショーはお客にはなかなか好評だったそうですよ)。 マッシャードはマリーザにも仕事を与えてくれましたが、彼女は彼女でまた大変な役どころ。裸同然のような格好で歌を歌うということは彼女のプライドが許さず、ジョアンの説得にもかかわらず2週間でこの仕事も、ジョアンの恋人であることもやめてしまいました。 対してジョアンは2カ月間、一度の遅刻もなく、不満も言わずにこのショーをやり遂げたのです。 あえなく終わった恋。そしてショーという仕事も終わってしまい、ジョアンはこれから... |
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Vol.08 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜失意のリオを離れて〜 | |||
ショーを終えたジョアンは、その後また、カルロス・マッシャードの世話でデビューしたキタンヂーニャ・セレナーデルスというボーカル・グループと共に活動することになりました。 このグループのメンバーが凄いんです。 ルイス・テーリス、アルベルト・ルッシェル、フランシスコ・・パッシェコ、そして ルイス・ボンファ。ジョアンは正式なメンバーだった訳ではないのですが、ほとんどメンバーかと思われるほどこのグループと一緒に行動していたようです。 そして後にルイス・ボンファがソロとなった時、ジョアンが正式に入るか?と思いきや、彼は残りの3人と色々な面で合わず(ルイス・テーリスがたいていもめ事の仲裁をしていた)、結局アルベルトの兄弟のパウロ・ルッシェルが後任となりました。 ・・・そして何もかも失くなってしまったジョアンは、よくナイトクラブの前の歩道でただ立っていたといいます。家族からの送金も止まり、だからといって音楽をやめて別の職業に就く気もなく、夜の街を彷徨う日々が続きました。 マリファナに魂を売ってしまいかけていたジョアンを何とかしようと立ち上がったのは、ほとんど保護者代わりだったルイス・テーリスでした。 ジョアンは彼の勧めでポルト・アレグリ市で休むことにし、1955年の1月から約9カ月間をここで過ごすことになったのです。 ルイスは自分の家族がほとんど軍人だったこともあってジョアンを居候はさせず、豪華ホテル『マジェスティック』に泊めることにしました それから彼をポルト・アレグリ市中のナイトクラブへ連れ回し、その才能を営業しまくったのです。ここは、もともと天才肌のジョアンのことですから、たちまち有名となり、ラジオ・ガウーシャの生番組に出演するほどの人気者になってしまいました。 また、ルイスはこの地でジョアンをアルマンド・ヂ・アルブケルケに紹介しました。 リオ・グランデ・ド・スル州の音楽界の重鎮でピアノ演奏家、教授、そしてラダメス・ギナターリの友人という超大物のアルブケルケ老人はジョアンを高く評価し、ジョアンもこの老人のもとをよく訪ねました。 しかし幸せな日々にもまた影が...ジョアンの奇行についての噂が街で目立つようになったのです。ルイスがキタンヂーニャ・セレナーデルスの再編成のためにリオへ戻ることになった時に、もはやジョアンをポルト・アレグリに置いて行く訳にはいかなくなっていました。 でも一緒にリオに連れて行くのも元の木阿彌。そう考えたルイスは、ジョアンの一番上の姉ダダイーニャを頼ることを思いつきました。 |
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Vol.09 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜バスルームで産まれたヴァチーダ 〜 | |||
テーリスとリオへ戻って来たジョアンは、しばらくテーリスのアパートに泊まり、その後、姉のダダイーニャを訪ねることになります。突然の来訪にもかかわらず、娘のマルタ・マリアを産んだばかりの姉は暖かくジョアンを迎かえ入れてくれました。そしてジョアンは8カ月間をここで過ごします。 その間、彼は家にひきこもり、自分の部屋とバスルームとの往復くらいにしか部屋すらも出ませんでした。1日中ギターを弾き続け、夜更けにはマルタ・マリアの枕元で歌うという毎日が続きました。 その中でジョアンはバスルームが格好の練習場所となることを発見しました。 適度なリバーブ効果の得られるタイルの壁を相手に、ビートのシンコペーションや発声法等についてとことん実験を繰り返しました。そう、これがボサノバのヴァチーダの原形。まさにジョアンはこうしてボサノヴァを作り上げていったのです。 ところが姉夫婦には、こんな弟の様子が、正気の沙汰とはとうてい思えませんでした。黙って弾いているだけならまだしも、彼は時々狂喜の声を上げて、新しく産まれたばかりのヴァチーダを披露しにリビングへ踊り出てくるのですから、ビックリです。姉夫婦はジョアンをジョアゼイロの実家に帰そうかと話し合いました。 しかしジョアンにとっては、リオでの敗北の上に帰郷するなんて、これ以上の屈辱はありません。だからと言って、ジョアンにはお金も何もなく... そこで、姉夫婦は「マルタ・マリアを両親に見せに帰る」という名目で、共に故郷であるジョアゼイロに向かうことにしたのです。 案の上、故郷はジョアンにとってつらい所でした。 もともとミュージシャンになることに大反対だった父親は、25歳にもなってふらふらしている息子に対する怒りでいっぱいでした。 なのでジョアンは家族に逆らわずじっと耐えることにしましたが、ジョアゼイロにはギターを練習する場所すらなかったのです。 部屋ではリビングに音が漏れてしまい、よけいに父親の神経に触れました。 かといって町でも、公園でも、彼の作ったボサノヴァは誰にも受け入れられることなく、ひんしゅくを買うだけだったのです。それでも音楽をやめない彼の様子をみて、またも周囲は『彼はアタマがおかしいんだ』と言い出しました。 そこで家族はジョアンを「病院で治療してもらわなければ」と考えるようになりました。しかし同じ町で精神病院の世話になるのは世間体が悪すぎるということで、ジョアンの従兄弟で精神科の医師だったデヴィルソンがサルヴァドールの病院へ連れて行くことにしました。 彼等はふたりで汽車でサルバドールへ向かいましたが、意外にもジョアンは平静でした。なぜなら彼はたとえ行き先が精神病院でも、ジョアゼイロを抜け出せるならその方が嬉しかったのです。 |
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Vol.10 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜2年ぶりのリオ〜 | |||
従兄弟で精神科の医師だったデヴィルソンとサルヴァドールの病院へやって来たジョアンはジョアン・ダス・ボッダス街のサルヴァドール・クリニカス病院へ入ることになりました。 |
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