ここに連載している「Bossa Nova History/ジョアン・ジルベルト物語」は、宝島社『ボサノヴァの歴史』(ルイ・カストロ著/国安真奈訳/廃版。2001年1月音楽之友社より再版。本についての詳細は、翻訳者:国安真奈さんのホームページをどうぞ)を参考文献として、ボサノバ・バチーダの産みの親であるジョアン・ジルベルトを軸にボサノバの歴史を綴っているものです。 さあ、あなたも一緒にボサノヴァの誕生を追ってみませんか? |
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Vol.21 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「Bossa Nova」になった夜〜 | |||
フッキスはこのコンサートのプログラムを印刷して会員にに郵送し、準備は着々と進められました。 |
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Vol.22 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「デザフィナード」は誰が歌う?〜 | |||
1958年後半、トム(アントニオ・カルロス・ジョビン)とニュウトン・メドンサは ニュウトンのアパートで彼の職場のナイトクラブが休業する月曜の夜に作曲をして いました。 彼等は自分たちが伴奏させられていた下手な歌手をネタに酒を飲み、笑い転げながら ”音痴を弁護するようでいて、実は複雑な仕掛けが随所にあって、連中が歌えば窮地に陥るようなサンバを書こう”と、あの「デザフィナード」を創ったのです。 曲ができあがると、さぁこれを誰に歌わせようかということになりました。 まず、2人はイヴォン・クリーという強力なレコードセラーを思い浮かべました。 彼は時々意識せずに滑稽な部分を見せる所がいいとニュウトンは特に考えていたのです。 でも、それなら毎週土曜日に14年も放送され続けていたラジオ番組を持っていたセーザル・ヂ・アレンカールでもいいかな、とトムは思います。 そして実際にセーザルに曲をみせに行ったのですが、彼の反応はいまひとつ。 イヴォンの方も社交辞令的に褒めはしたものの、内心では大した曲だとは思っていなかったようです。 数日後、ルーシオ・アルヴェス、ルイス・クラウヂオ、ジョアン・ジルベルトの3人の歌手がトムの家で「デザフィナード」を聴きました。 結果、ルーシオとルイスも録音したがったにもかかわらず、ジョアンは2人を制し「僕の曲だ!」と叫んで「デザフィナード」を自分のものにしてしまいました。 その頃のジョアンはまたもや居候を追い出された所でした。 5カ月間住まわせてくれたチトにも愛想をつかされ、ジョアンが出ていかないのならとチト自身に引っ越しをされてしまったのです。 そしてジョアンは「デザフィナード」のレコーディングが決まっていたにもかかわらず、トムがなかなかアレンジを書いてくれないのでイライラもしていたし、彼を取り巻く状況はあまり良いとはいえませんでした。。 宿無しの彼は「想いあふれて」であれだけひどく渡り合ったトムの家にまで、寝場所を探していると訪れました。 しかしトムは仕事以外ではそんなにお人好しではなく、妻のテレーザに 「トムが留守だって言ってくれって言ってるわ」と言われ傷つきます。 でもそんなことでめげるジョアンではありません。 いつものように「次の落ち着き先が見つかるまで」という条件で、今度は歌手であり2枚目俳優でもあるセルジオ・リカルドのアパートへ潜り込みました。 あとは、早く「デザフィナード」をレコーディングするたけ... 曲はナイトクラブ「ポスト5」ですでに有名になりつつあったのです。 |
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Vol.23 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「デザフィナード」そしてLP完成〜 | |||
1958年11月10日、「デザフィナード」の録音スタジオは揉めに揉めていました。 前回の事もあるので、トムはアレンジを極力シンプルにし、ミュージシャンの人数も できるかぎり減らしていました。にもかかわらず、トムとジョアンの間では激しいバトルが繰り広げられました。 怒りで卒倒しそうになるトムをなんとかアンドレ・ミダニがなだめ、13 回もテイクを重ねてやっとのことでA面が終わっても、まだB面があります。 しかし、そのB面の「オバララー」は、パーカッションとコーラスが「デザフィナード」よりさらに増えていたのにとてもスムーズに事が進んだのです。 なぜなら、その2人はジョアンが指名したミュージシャンだったからでした。 パーカションには義足ながら素晴しい演奏をするグアラニー、そしてコーラスはジョアンが前にいたボーカル・グループのガロットス・ダ・ルアのミルトン、アシール、 エヂガルドの3人。こうして「デザフィナード」のレコードは完成しました。 ジョアン・ジルベルトの「想いあふれて」はサンパウロでの成功を収め、次なる地・リオでも大ヒットをとげていました。 まだボサノヴァという言葉とジョアンの音楽は結び付けられて認知されてはいなかったものの、彼のあまりに正確すぎる音感と、今までにない歌い方には注目が集まりました。 「こいつは音痴なのか?」 「彼は結核患者の耳を持っている」(当時、結核患者は耳が鋭いと思われていた) 「ヒット曲が出なければ、彼は音叉の調律をやって生計を立てるだろう」...etc. 発売から2ヵ月が立った1959年1月、それまでの辛辣な出来事を消化したトムは、 いよいよジョアンにLPを録音させる決意します。 12曲入ならもうすでに4曲はある。あと8曲をなんとかすれば...と、アロイージオを説得すると、その月の内に早速レコーディングに入ったのでした。 ジョアンは、最初の2曲は1週間に1度のペースでスタジオへ現われました。 1月23日にトムとヴィニシウスの「喧嘩にさようなら」。 1月30日にアロ・バホーゾの「黄金の口のモレーナ」。 この調子では完成はいったいいつになるやら、先が思いやられる進捗状況でした。しかし、その後の2月4日に、ジョアンはなんと残りの6曲を一度に録音したのです! リラとボスコリの「馬鹿な狼」、「サウダージがサンバを作った」、リラの「マリア・ニンゲン」、カイミの「ホーザ・モレーナ」、アリ・バホーゾとルイス・ペイショットの「エ・ルッショ ・ソ」、マリーノ・ピントとゼー・ダ・ジルダの「十字架のもとで」。 なぜなら、この6曲は伴奏はパーカッションだけだったのです。 他の楽器は多くてもフルートとトロンボーンが入ったくらいで、ジョアンを悩ませるオーケストラはいませんでした。 そしてできあがったLPのタイトルは当然ながら『想いあふれて』となり、1959年4月に発売されたのです。 |
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Vol.24 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ジョビンの確信〜 | |||
LP『想いあふれて』のジャケットは、同じ年の2月に写真家シコ・ペレイラによって撮影されました。 |
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Vol.25 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜黒いオルフェ〜 | |||
「ジョアンを家に入れたら最後、生活が一変するぞ。 ジョアンに口を開かせたら最後、至高の知能に支配される喜びを知ってしまうぞ...」 これは、メネスカルがボスコリに警告していた言葉。 それをまともに受け取っていなかったボスコリは、気が付くと完璧にジョアンのペースにはまりこんでいました。 完全なる夜昼逆転のジョアンに付き合わされる生活に、ボスコリの他2名;シコ・フェイトーザ、ルイス・カルロス・ドラガォンもまもなく慣れ、それに舞台監督をしていたルイス・カルロス.ミエリもしょっちゅう加わって、今や彼の家は大所帯となっていました。 いつものようになぜか1円の生活費も負担することなく暮らすジョアンは、時々、自分が好物のタンジェリン・オレンジを持って帰り、みんなにふるまうくらいでOKだったのです。 1958〜1959年。この頃のトム・ジョビンは溢れる才能を余すことなく使ってたくさんの曲を書きヒットさせ、リオのナシメント・シルヴァに家と車を手に入れていました。 共作をしていたヴィニシウスがモンテビオに赴任している間、トムはニュウトン・メドンサやアロイージオ・ヂ・オリヴェイラ、マリーノ・ピントなど他の作家との共作も進め、これらの作品の多くはシルヴィーニャ・テーリスの歌によって発表されています。 また、作曲の他にも、テレビ番組でオーケストラの指揮をしたり、司会をしたり、ミレーヌ・ドモンジョ主演のイタリア映画「コパカバーナ・パラス」のサントラを作曲したり、ジョアンのLPを制作したり...と文字通りの大活躍でした。 そんな仕事のひとつに、「黒いオルフェ」がありました。 この映画の原作はギリシャ神話を元に1956年にトムがヴィニシウスとリオで上演した作品「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」。オリジナルの挿入曲はどれもヴィニシウスとトムが書いたものでしたが、映画はフランス・イタリア・ブラジルの共同作品で、フランス人の映画プロデューサー、サーシャ・ゴルディーヌは 「オリジナルは使わないからすべて書き直せ」と命じたのです。 トムとヴィニシウスはこの大仕事を訳もわからずもう1度こなすハメになり、「フェリシダージ」を含む3曲を仕上げましたが、監督のマルセル・カミュはそれでは満足せずに、追加の曲をルイス・ボンファに頼みました。 こうしてボンファの「カルナヴァルの朝」と「オルフェのサンバ」が加わり、今度は主演俳優たちの吹き替え役を探す段階になりました。 オルフェ役のブレーノ・メーロは歌手ではなく、ユーリディゼ役のマーペッサ・ドーンはアメリカ人だったので、彼らにポルトガル語で歌わせることはどうしてもできなかったのです。 ユーリディゼの吹き替え役は、ビニシウスのお気に入りだったエリゼッチ・カルドーゾにすぐ決まりましたが、オルフェ役は? そう!ここで名が上がったのは、あのジョアン・ジルベルトだったのですが... |
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Vol.26 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・ムーブメント1〜 | |||
映画「黒いオルフェ」のオルフェ役のブレーノ・メーロの吹き替え役候補に上がったジョアンでしたが、「彼の声は黒人らしくない」という理由であっけなく却下され、アゴスチーニョ・ドス・サントスに決まってしまいました。 |
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Vol.27 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・ムーブメント2〜 | |||
コンサートの計画がほぼ決まってきた頃、ミダニがノルマ・ベンゲルという歌手も 出演させてはどうか、と持ちかけてきました。 というのも、ミダニにはオデオンに借りがあったのです。 数カ月前、彼はいわゆるゴーストのレコードに無断で色香たっぷりのノルマの写真を使い、訴訟沙汰になりかけたのでした。 しかし、ノルマは取引きで事をおさめても良いという考えだったので、オデオンはその話に乗る方針に出ました。 その取引きの内容とは「ノルマのレコードをオデオンから出す」というもの。この当時、彼女はすでに映画やショーにも出演している有名人で、決してオデオンにとっても損な話ではありませんでした。 早速、オデオンは外国モノの有名なスタンダード曲に加え、トムのボサノバ、そしてジョアンの「オバララー」まで録音したレコードを制作し、エロチックの象徴といわんばかりのジャケット写真で、ノルマを売り出す準備を始めたところでした。 だから、このPUCのコンサート...レコード会社主催ではないイベントは、彼女を売り出す絶好のチャンスだったのです。 しかしながらこのようなキャラクターの歌手が出演するとなると、PUCのラエルシオ神父が許可するはずがありません。 コンサートを企画したカカー、ジュリオは学長室へ呼ばれ...結局このコンサートの開催は極めて難しいものになったことがはっきりしたのです。 この話は各新聞にも大々的に報道され、もはやノルマは昇りかけたスターへの階段を転がり落ちるがごとくスキャンダラスな女性として扱われ始めました。 しかし、せっかくのコンサート。なんとしてでも実現できないかということで会場をプライア・ヴェルメーリャ地区にある、より自由な校風の建築大学へ移すことで話は再度動きだしました。 そして9月22日。入場無料、夜8時半開演のコンサートには3000人もが押し寄せたと言われています。 この時の様子はシコ・ペレイラによって録音され、今も貴重な音源となっています。 また、このサンバ・セッションは新聞でも大きく報じられ、一般の人々に 「この音楽は何なのか?」という文化的な問題を巻き起こしました。 そしてボスコリたちにはあちこちからの出演依頼が殺到し、11月には海軍士官学校 でのコンサートが実現しました。 この時、もうフェスティバルの名前は「ボサノバ・オペレーション.コマンド」。 ボスコリはステージで、 「これは今のブラジル音楽でもっともモダンで、完全に新しく、アヴァンギャルドなものなのです」と説明しました。 そして12月2日、ラジオ・グローボのホールで行われたコンサートが初めて生中継され、多数の人々の耳にボサノバが浸透し始めました。 でも、その生みの親、ジョアン・ジルベルトは学生のお祭り騒ぎにかかわっている暇などありませんでした。なぜならそれは... |
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Vol.28 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜演奏旅行〜 | |||
学生たちの間に急速にボサノバが認知され始めた頃、ジョアンは演奏旅行のためにベロオリゾンチ市に来て、2回もコンサートを行っていました。 これは友人であるパシフィーコ・マスカレーニャスの口利きによるもので、最初の夜はクラブ「アウトモーヴェル」で行われました。 パシフィーコがまず挨拶をして、ジョアンが紹介されます。 観客が拍手をして.... しかしジョアンはステージに現れません。 気を取り直してもう一回。しかしまたジョアンは登場しません<BR> どうしたことかと幕間からパシフィーコが覗いてみると、ジョアンは自分のヴィオラォンを疑い始めてしまっていて、調弦し直してもらいたくて彼を待っているのでした... 少し遅れて開演となったものの、ここでのコンサートの評判はまずまず。 でもこれはジョアンの腕前のせいではなく、ベロオリゾンチ市の観客がまだ「ボサノバ」をよく理解していなかったからのようです。 そして、次の会場である「ヨット・クラブ」でコンサートが行われる夜になりました。しかし、ジョアンは滞在先のホテルのバスルームに閉じこもり、開演2時間前に なっても出て来なくなってしまったのです。 (このエピソードは、私自身がライブをやる時の緊張の克服にいつも思い出すものです。ライブの前はあのジョアンだって色々と考えて出ていけなくなってしまうんだから...と思えば、青二才の自分が逃げ出したくなるのは当然のこと。そう思うだけでも、いくらか開き直り?に似た安心感が沸きます。弾き語りはバンドと違ってまったく逃げ場がないので、強い強い精神力も必要です) パシフィーコはドアを蹴破りたい気持ちをぐっと押さえて、根気強くジョアンを説得。結局、開演ギリギリになってジョアンは静かにドアを開け、会場へ向かったのでした。 また、こんなエピソードも「ボサノバの歴史」には書かれています。 ベロオリゾンチ市に滞在中、盲目のミュージシャンがジョアンに会いにホテルへ やってきたことがありました。 ジョアンと彼は数時間ヴィオラォンを弾き、帰り際に盲目の青年は何気なくジョアンのヴィオラォンを誉めたのです。すると、ジョアンはなんのためらいもなくそれを持って帰るように青年にすすめました。しかし、青年はなかなか受け取ろうとしません。ジョアンは再び、<BR> 「どうしてももらって欲しいんだ。記念に持って帰ってくれよ」 と言うので、青年は繰り返しお礼を言って、喜びいっぱいにそのヴィオラォンを持って帰ったのでした。 しかし、驚いたのはその一部始終を見ていたパシフィーコ。 なぜなら、そのヴィオラォンはジョアンのものではなく、パシフィーコのものだったのですから...! そして、この旅ではもうひとつ、グループ・サンバカーナのメンバーだった学生ロベルト・ギマランエスとの出会いという収穫もありました。 ジョアンは彼が披露した「ぴったりの恋」をすっかり気に入り、この曲を自分が完全に覚えるまで、軽く50回はロベルトに弾かせたのでした。 そして、これはジョアンの次のLPに録音されることになったのです。 |
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Vol.29 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・サロン 〜 | |||
ちょうどその頃、パラーシオ・シャンゼリゼのナラ・レオンのアパートはボサノバ仲間のサロンになっていました。 |
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Vol.30 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバと過去の音楽との対立〜 | |||
すっかり市民権を得たボサノバは、上院議員や弁護士、著名な詩人など、ハイソな人々の邸宅でのパーティーでも、演奏されるようになりました。 |
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