ここに連載している「Bossa Nova History/ジョアン・ジルベルト物語」は、宝島社『ボサノヴァの歴史』(ルイ・カストロ著/国安真奈訳/廃版。2001年1月音楽之友社より再版。本についての詳細は、翻訳者:国安真奈さんのホームページをどうぞ)を参考文献として、ボサノバ・バチーダの産みの親であるジョアン・ジルベルトを軸にボサノバの歴史を綴っているものです。
さあ、あなたも一緒にボサノヴァの誕生を追ってみませんか?

**Back number** Vol.01〜10  Vol.11〜20  Vol.21〜30

Vol.21 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「Bossa Nova」になった夜〜

フッキスはこのコンサートのプログラムを印刷して会員にに郵送し、準備は着々と進められました。
実は、このコンサートはひとつのポイントとなるのです。
というのも、”ボサ・ノヴァ”という言葉はいったい誰がいつから使い始めたのか?
これはいまだよくわかっていませんが、そのきっかけがこのコンサートにあったという見方が、有力視されているのです。

bossa(ボサ)は傾向、素質、nova(ノヴァ)は新しいという意味を持ち、”bossa nova”という表現はひとつの形容句として、それまでにもいくらでも使われていました。それが「Bossa Nova」になった夜...それがこの日だったようなのです。

コンサートの日、会場となったホールは80人も入ればいっぱいの狭い場所で、集まった200人近いユダヤ人学生たちは入りきれずにホールの外で演奏を聴くことを余儀なくされました。
その人々が、会場入り口で受付の女性事務員が黒板にチョークで書いたある1文を目にしていました。
”今晩の催し物。
シルヴィーニャ・テーリスと新しい傾向(bossa nova)のグループ”!!

しかしながら、残念な事にこの催しの様子を写真撮影したり録音したりしている者は
誰もいませんでした。
出演者のうち、すでにプロとして活躍していたシルヴィーニャと若きベテランだった
メネスカル、エッサ以外はこの日以前に10人以上の客の前で演奏したことがなく、必要以上に神経質になっていました。いわば緊張でメロメロの状態になってしまったのです。
でも、たとえ演奏が不安定でも、若者たちはこの新しい音楽が気に入りました。
フッキス編集のタヴロイド紙ですらコンサートの告知をしていなかったのにもかかわらず、口コミで各高校・大学の学生たちが集まって来ていたし、女性事務員の書いた”新しい傾向(bossa nova)”の表現にも彼らは納得。
初めて聴くヴィオラォンのバチーダに酔いしれたのでした。

フッキスのプログラムの文章が「新しい傾向の夜」=つまりボサ・ノヴァを意味するようなものであった事は確かであったにせよ、この新しい音楽のジャンルを指す言葉が本当はいったいどこから来たのかは今となってはもう確かめようもありません。
結局、この女性事務員が誰だったかも、わからずじまいだそうです。
でもその何か月か後、トム・ジョビンとニュウトン・メドンサが「デザフィナード」の中で「Que isto e' "bossa nova"(これがボサノバなんだ) 」と歌った時、若者たちは極めて自然に受け止めていました。

Vol.22 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「デザフィナード」は誰が歌う?〜
1958年後半、トム(アントニオ・カルロス・ジョビン)とニュウトン・メドンサは
ニュウトンのアパートで彼の職場のナイトクラブが休業する月曜の夜に作曲をして
いました。
彼等は自分たちが伴奏させられていた下手な歌手をネタに酒を飲み、笑い転げながら
”音痴を弁護するようでいて、実は複雑な仕掛けが随所にあって、連中が歌えば窮地に陥るようなサンバを書こう”と、あの「デザフィナード」を創ったのです。

曲ができあがると、さぁこれを誰に歌わせようかということになりました。
まず、2人はイヴォン・クリーという強力なレコードセラーを思い浮かべました。
彼は時々意識せずに滑稽な部分を見せる所がいいとニュウトンは特に考えていたのです。
でも、それなら毎週土曜日に14年も放送され続けていたラジオ番組を持っていたセーザル・ヂ・アレンカールでもいいかな、とトムは思います。
そして実際にセーザルに曲をみせに行ったのですが、彼の反応はいまひとつ。
イヴォンの方も社交辞令的に褒めはしたものの、内心では大した曲だとは思っていなかったようです。

数日後、ルーシオ・アルヴェス、ルイス・クラウヂオ、ジョアン・ジルベルトの3人の歌手がトムの家で「デザフィナード」を聴きました。
結果、ルーシオとルイスも録音したがったにもかかわらず、ジョアンは2人を制し「僕の曲だ!」と叫んで「デザフィナード」を自分のものにしてしまいました。

その頃のジョアンはまたもや居候を追い出された所でした。
5カ月間住まわせてくれたチトにも愛想をつかされ、ジョアンが出ていかないのならとチト自身に引っ越しをされてしまったのです。
そしてジョアンは「デザフィナード」のレコーディングが決まっていたにもかかわらず、トムがなかなかアレンジを書いてくれないのでイライラもしていたし、彼を取り巻く状況はあまり良いとはいえませんでした。。

宿無しの彼は「想いあふれて」であれだけひどく渡り合ったトムの家にまで、寝場所を探していると訪れました。
しかしトムは仕事以外ではそんなにお人好しではなく、妻のテレーザに
「トムが留守だって言ってくれって言ってるわ」と言われ傷つきます。
でもそんなことでめげるジョアンではありません。
いつものように「次の落ち着き先が見つかるまで」という条件で、今度は歌手であり2枚目俳優でもあるセルジオ・リカルドのアパートへ潜り込みました。

あとは、早く「デザフィナード」をレコーディングするたけ...
曲はナイトクラブ「ポスト5」ですでに有名になりつつあったのです。
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Vol.23 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「デザフィナード」そしてLP完成〜
1958年11月10日、「デザフィナード」の録音スタジオは揉めに揉めていました。
前回の事もあるので、トムはアレンジを極力シンプルにし、ミュージシャンの人数も
できるかぎり減らしていました。にもかかわらず、トムとジョアンの間では激しいバトルが繰り広げられました。
怒りで卒倒しそうになるトムをなんとかアンドレ・ミダニがなだめ、13 回もテイクを重ねてやっとのことでA面が終わっても、まだB面があります。
しかし、そのB面の「オバララー」は、パーカッションとコーラスが「デザフィナード」よりさらに増えていたのにとてもスムーズに事が進んだのです。

なぜなら、その2人はジョアンが指名したミュージシャンだったからでした。
パーカションには義足ながら素晴しい演奏をするグアラニー、そしてコーラスはジョアンが前にいたボーカル・グループのガロットス・ダ・ルアのミルトン、アシール、
エヂガルドの3人。こうして「デザフィナード」のレコードは完成しました。

ジョアン・ジルベルトの「想いあふれて」はサンパウロでの成功を収め、次なる地・リオでも大ヒットをとげていました。
まだボサノヴァという言葉とジョアンの音楽は結び付けられて認知されてはいなかったものの、彼のあまりに正確すぎる音感と、今までにない歌い方には注目が集まりました。
「こいつは音痴なのか?」
「彼は結核患者の耳を持っている」(当時、結核患者は耳が鋭いと思われていた)
「ヒット曲が出なければ、彼は音叉の調律をやって生計を立てるだろう」...etc.

発売から2ヵ月が立った1959年1月、それまでの辛辣な出来事を消化したトムは、
いよいよジョアンにLPを録音させる決意します。
12曲入ならもうすでに4曲はある。あと8曲をなんとかすれば...と、アロイージオを説得すると、その月の内に早速レコーディングに入ったのでした。

ジョアンは、最初の2曲は1週間に1度のペースでスタジオへ現われました。
1月23日にトムとヴィニシウスの「喧嘩にさようなら」。
1月30日にアロ・バホーゾの「黄金の口のモレーナ」。
この調子では完成はいったいいつになるやら、先が思いやられる進捗状況でした。しかし、その後の2月4日に、ジョアンはなんと残りの6曲を一度に録音したのです!

リラとボスコリの「馬鹿な狼」、「サウダージがサンバを作った」、リラの「マリア・ニンゲン」、カイミの「ホーザ・モレーナ」、アリ・バホーゾとルイス・ペイショットの「エ・ルッショ ・ソ」、マリーノ・ピントとゼー・ダ・ジルダの「十字架のもとで」。
なぜなら、この6曲は伴奏はパーカッションだけだったのです。
他の楽器は多くてもフルートとトロンボーンが入ったくらいで、ジョアンを悩ませるオーケストラはいませんでした。

そしてできあがったLPのタイトルは当然ながら『想いあふれて』となり、1959年4月に発売されたのです。
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Vol.24 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ジョビンの確信〜

LP『想いあふれて』のジャケットは、同じ年の2月に写真家シコ・ペレイラによって撮影されました。
日本と季節が逆になるブラジルでは、2月は真夏。30度を悠に越えるスタジオで、ジョアンはロナルド・ボスコリに借りたセーターを着て、撮影に臨みました。
こんな状態の中でジョアンがセーターを着たのは、一張羅だった縞模様の半袖シャツがお世辞にも写真映りがいいとは思えなかったからで、ただそれを隠すためでした。
しかもジョアンはその後も、ボスコリにセーターを返すのを忘れてしまいました。

しかし、ボスコリもまたそれを催促するようなことはしませんでした。
なぜなら、ジョアンは居候させてもらっていたセルジオ・リカルドにまたもや出ていって欲しいと頼まれて、次の居候先にボスコリの家を選んでいたからです。いまやジョアンは、ボスコリのタンスの中のものを自由に着ることができたのでした。

ボスコリの家には、ジョアンの他にもシコ・フェイトーザ、ルイス・カルロス・ドラガォンが暮らしていました。
この頃のジョアンは幸せでした。
何の制限もなく自由に暮らせる居候先、そしてLPの発売。すべてが薔薇色でした。
とはいえまだ、ボサノヴァが全てに影響を与える新しい音楽であるということは、人々に完全には認識されてはいませんでしたし、ジョアン自身が、
「敵が多すぎて無駄だ」
とボスコリに語っていたように、ボサノヴァの成功=ジョアンの成功は誰にも保証
できなかったのです。
でも、ジョビンはそれが訪れるということを確信していました。
だからこそ「想いあふれて」の裏ジャケットに、このような予言とも言えるライナーノートを書き記したのです。

(「ボサノヴァの歴史」より抜粋)
**ジョアン・ジルベルトは27歳、バイーア出身のボサノヴァだ。
**彼は瞬く間に、1世代まるごとのアレンジャー、ギタリスト、
**ミュージシャンや歌手に影響を与えた。
**我々の最大の関心事は、自由や自然な身軽さ、個性的なやり方や
**自発性を損なうアレンジから ジョアンを解き放つところにあった。
**ジョアン・ジルベルトはこのLPのアレンジに積極的に参加した。
**彼の意見、アイディアなどが、残らずここの生かされている。
**ジョアン・ジルベルトが伴奏する時、ヴィオラォンは彼自身だった。
**オーケストラが伴奏する時は、オーケストラも彼自身だった。
**彼は新しく、他とは違っていて、純粋なものには、
**常にそのための場所があると信じている。
**当初はそうは見えなくても、いつかきっと、
**業界語でいうように極度に商業的となるものだ。
**追伸 カイミもそう考えている。

そして実際、音楽業界関係者がボサノヴァを認めるのにそれほど時間はかかりませんでした。

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Vol.25 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜黒いオルフェ〜
「ジョアンを家に入れたら最後、生活が一変するぞ。
 ジョアンに口を開かせたら最後、至高の知能に支配される喜びを知ってしまうぞ...」
これは、メネスカルがボスコリに警告していた言葉。
それをまともに受け取っていなかったボスコリは、気が付くと完璧にジョアンのペースにはまりこんでいました。
完全なる夜昼逆転のジョアンに付き合わされる生活に、ボスコリの他2名;シコ・フェイトーザ、ルイス・カルロス・ドラガォンもまもなく慣れ、それに舞台監督をしていたルイス・カルロス.ミエリもしょっちゅう加わって、今や彼の家は大所帯となっていました。
いつものようになぜか1円の生活費も負担することなく暮らすジョアンは、時々、自分が好物のタンジェリン・オレンジを持って帰り、みんなにふるまうくらいでOKだったのです。

1958〜1959年。この頃のトム・ジョビンは溢れる才能を余すことなく使ってたくさんの曲を書きヒットさせ、リオのナシメント・シルヴァに家と車を手に入れていました。
共作をしていたヴィニシウスがモンテビオに赴任している間、トムはニュウトン・メドンサやアロイージオ・ヂ・オリヴェイラ、マリーノ・ピントなど他の作家との共作も進め、これらの作品の多くはシルヴィーニャ・テーリスの歌によって発表されています。
また、作曲の他にも、テレビ番組でオーケストラの指揮をしたり、司会をしたり、ミレーヌ・ドモンジョ主演のイタリア映画「コパカバーナ・パラス」のサントラを作曲したり、ジョアンのLPを制作したり...と文字通りの大活躍でした。

そんな仕事のひとつに、「黒いオルフェ」がありました。
この映画の原作はギリシャ神話を元に1956年にトムがヴィニシウスとリオで上演した作品「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」。オリジナルの挿入曲はどれもヴィニシウスとトムが書いたものでしたが、映画はフランス・イタリア・ブラジルの共同作品で、フランス人の映画プロデューサー、サーシャ・ゴルディーヌは
「オリジナルは使わないからすべて書き直せ」と命じたのです。

トムとヴィニシウスはこの大仕事を訳もわからずもう1度こなすハメになり、「フェリシダージ」を含む3曲を仕上げましたが、監督のマルセル・カミュはそれでは満足せずに、追加の曲をルイス・ボンファに頼みました。
こうしてボンファの「カルナヴァルの朝」と「オルフェのサンバ」が加わり、今度は主演俳優たちの吹き替え役を探す段階になりました。
オルフェ役のブレーノ・メーロは歌手ではなく、ユーリディゼ役のマーペッサ・ドーンはアメリカ人だったので、彼らにポルトガル語で歌わせることはどうしてもできなかったのです。

ユーリディゼの吹き替え役は、ビニシウスのお気に入りだったエリゼッチ・カルドーゾにすぐ決まりましたが、オルフェ役は?
そう!ここで名が上がったのは、あのジョアン・ジルベルトだったのですが...
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Vol.26 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・ムーブメント1〜

映画「黒いオルフェ」のオルフェ役のブレーノ・メーロの吹き替え役候補に上がったジョアンでしたが、「彼の声は黒人らしくない」という理由であっけなく却下され、アゴスチーニョ・ドス・サントスに決まってしまいました。

ジョアンは悔しさを晴らすかのように、映画が封切られた翌年の8月、「カルナヴァルの朝」「フェリシダージ」「私たちの愛」の3曲を完璧に歌い、45回転の2枚LPとして発売しました。
もし、「黒いオルフェ」でジョアンの歌が聴けたなら、あの映画の価値はさらに上がっていたことでしょうね。

1959年「黒いオルフェ」は大ヒットしました。
ボサノバと言えば「カルナヴァルの朝」と言われて久しいけれど、あの曲も映画も今あらためて観ても、=ボサノバだとは感じられません。
でも、制作者サイドでみれば、その要素は充分にありました。
トム、ヴィニシウス、そしてホベルト・メネスカルのヴィオラォンのバチーダ...
そしてだんだん、彼ら当事者たちも、自分たちがボサノバを作っていることを気付き始めたのです。

そして所変わって同年の8月。
リオのカソリック大学で、カカ−・ヂエーギスという学生が率いる学内サークルのメンバーたちは「第1回 サンバ・セッション・フェスティバル」を開催すべく、準備を始めていました。
初めて「bossa nova 」という言葉が使われたと言われているユダヤ人学生グループによるコンサートがちょっと前に行われたばかりでしたが、若者たちの間にはこの言葉はまだまだ浸透はしていませんでした。
よって、このコンサートにはボサノバという言葉は使われず、「サンバ・セッション・フェスティバル」と名付けられたのです。

しかし、学生たちの興味は、間違いなくその「ボサノバ」にありました。
カルロス・リラとメネスカルのヴィオラォン教室で教えているらしいモダンな音楽...ボサノバは、ちょっと前から学内で評判になっており、学生たちにとって、それを始めて生で聴ける絶好のチャンス。7月に発売されていたジョアンの「想いあふれて」のLPを聴いた彼らは、これは自分たちも参加しているムーブメントだと考え、ちょっとした騒ぎにもなっていました。

法学部の学生だったジュリオ・ウングーリアは、女友達のレネジーニャの家で知り合ったメネスカルとルイス・カルロス・ヴィーニャスを通じて、すでにプロとして活動していたのシルヴィーニャとアライヂ・コスタを加えて、コンサートを開催する話を具体化させたのです。

シルヴィーニャとアライヂの他にも、リラ、ナラ・レオン、ノルマンド・サントス
、シコ・フェイトーザが歌手として、バンドとしてはメネスカルのバンドとカストロネーヴィスの兄弟バンドが出演することに。しかも、みんなノーギャラで!
司会にはホナルド・ボスコリ、そしてガロット・ダ・ルアの出演交渉まで進んでいました。しかも、トム.ジョビン、ビリー・ブランコ、ヴィニシウスにドローレス・ドゥランまで...

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Vol.27 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・ムーブメント2〜
コンサートの計画がほぼ決まってきた頃、ミダニがノルマ・ベンゲルという歌手も
出演させてはどうか、と持ちかけてきました。
というのも、ミダニにはオデオンに借りがあったのです。
数カ月前、彼はいわゆるゴーストのレコードに無断で色香たっぷりのノルマの写真を使い、訴訟沙汰になりかけたのでした。
しかし、ノルマは取引きで事をおさめても良いという考えだったので、オデオンはその話に乗る方針に出ました。
その取引きの内容とは「ノルマのレコードをオデオンから出す」というもの。この当時、彼女はすでに映画やショーにも出演している有名人で、決してオデオンにとっても損な話ではありませんでした。

早速、オデオンは外国モノの有名なスタンダード曲に加え、トムのボサノバ、そしてジョアンの「オバララー」まで録音したレコードを制作し、エロチックの象徴といわんばかりのジャケット写真で、ノルマを売り出す準備を始めたところでした。
だから、このPUCのコンサート...レコード会社主催ではないイベントは、彼女を売り出す絶好のチャンスだったのです。

しかしながらこのようなキャラクターの歌手が出演するとなると、PUCのラエルシオ神父が許可するはずがありません。
コンサートを企画したカカー、ジュリオは学長室へ呼ばれ...結局このコンサートの開催は極めて難しいものになったことがはっきりしたのです。

この話は各新聞にも大々的に報道され、もはやノルマは昇りかけたスターへの階段を転がり落ちるがごとくスキャンダラスな女性として扱われ始めました。
しかし、せっかくのコンサート。なんとしてでも実現できないかということで会場をプライア・ヴェルメーリャ地区にある、より自由な校風の建築大学へ移すことで話は再度動きだしました。

そして9月22日。入場無料、夜8時半開演のコンサートには3000人もが押し寄せたと言われています。
この時の様子はシコ・ペレイラによって録音され、今も貴重な音源となっています。
また、このサンバ・セッションは新聞でも大きく報じられ、一般の人々に
「この音楽は何なのか?」という文化的な問題を巻き起こしました。
そしてボスコリたちにはあちこちからの出演依頼が殺到し、11月には海軍士官学校
でのコンサートが実現しました。
この時、もうフェスティバルの名前は「ボサノバ・オペレーション.コマンド」。
ボスコリはステージで、
「これは今のブラジル音楽でもっともモダンで、完全に新しく、アヴァンギャルドなものなのです」と説明しました。
そして12月2日、ラジオ・グローボのホールで行われたコンサートが初めて生中継され、多数の人々の耳にボサノバが浸透し始めました。

でも、その生みの親、ジョアン・ジルベルトは学生のお祭り騒ぎにかかわっている暇などありませんでした。なぜならそれは... 
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Vol.28 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜演奏旅行〜
学生たちの間に急速にボサノバが認知され始めた頃、ジョアンは演奏旅行のためにベロオリゾンチ市に来て、2回もコンサートを行っていました。
これは友人であるパシフィーコ・マスカレーニャスの口利きによるもので、最初の夜はクラブ「アウトモーヴェル」で行われました。

パシフィーコがまず挨拶をして、ジョアンが紹介されます。
観客が拍手をして.... しかしジョアンはステージに現れません。
気を取り直してもう一回。しかしまたジョアンは登場しません<BR>
どうしたことかと幕間からパシフィーコが覗いてみると、ジョアンは自分のヴィオラォンを疑い始めてしまっていて、調弦し直してもらいたくて彼を待っているのでした...

少し遅れて開演となったものの、ここでのコンサートの評判はまずまず。
でもこれはジョアンの腕前のせいではなく、ベロオリゾンチ市の観客がまだ「ボサノバ」をよく理解していなかったからのようです。

そして、次の会場である「ヨット・クラブ」でコンサートが行われる夜になりました。しかし、ジョアンは滞在先のホテルのバスルームに閉じこもり、開演2時間前に
なっても出て来なくなってしまったのです。
(このエピソードは、私自身がライブをやる時の緊張の克服にいつも思い出すものです。ライブの前はあのジョアンだって色々と考えて出ていけなくなってしまうんだから...と思えば、青二才の自分が逃げ出したくなるのは当然のこと。そう思うだけでも、いくらか開き直り?に似た安心感が沸きます。弾き語りはバンドと違ってまったく逃げ場がないので、強い強い精神力も必要です)
パシフィーコはドアを蹴破りたい気持ちをぐっと押さえて、根気強くジョアンを説得。結局、開演ギリギリになってジョアンは静かにドアを開け、会場へ向かったのでした。

また、こんなエピソードも「ボサノバの歴史」には書かれています。
ベロオリゾンチ市に滞在中、盲目のミュージシャンがジョアンに会いにホテルへ
やってきたことがありました。
ジョアンと彼は数時間ヴィオラォンを弾き、帰り際に盲目の青年は何気なくジョアンのヴィオラォンを誉めたのです。すると、ジョアンはなんのためらいもなくそれを持って帰るように青年にすすめました。しかし、青年はなかなか受け取ろうとしません。ジョアンは再び、<BR>
「どうしてももらって欲しいんだ。記念に持って帰ってくれよ」
と言うので、青年は繰り返しお礼を言って、喜びいっぱいにそのヴィオラォンを持って帰ったのでした。

しかし、驚いたのはその一部始終を見ていたパシフィーコ。
なぜなら、そのヴィオラォンはジョアンのものではなく、パシフィーコのものだったのですから...!

そして、この旅ではもうひとつ、グループ・サンバカーナのメンバーだった学生ロベルト・ギマランエスとの出会いという収穫もありました。
ジョアンは彼が披露した「ぴったりの恋」をすっかり気に入り、この曲を自分が完全に覚えるまで、軽く50回はロベルトに弾かせたのでした。
そして、これはジョアンの次のLPに録音されることになったのです。
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Vol.29 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバ・サロン 〜

ちょうどその頃、パラーシオ・シャンゼリゼのナラ・レオンのアパートはボサノバ仲間のサロンになっていました。
しかし、ここにはボサノバの創始者であるジョビンやジョアン・ジルベルトはあまり顔を出さず、ロナルド・ボスコリやホベルト・メネスカルら中心のボサノバ・サロンで、ヴィニシウスにいたっては1963年になるまで、この場所を訪れたことはなかったようです。

ナラの父親は弁護士で、ナラはいわゆる「お嬢様」でした。
ボサノバのミューズと呼ばれた彼女の家には夜な夜なカリーニョス・リラ、ノルマンド、シコ・フェイトーザ、シルビーニャ・テーリス、エルシオ・ミリート...などたくさんのミュージシャン達が訪れ、ヴィオラォンを奏で合ったのです。
時々ジョアンが訪れた時には夜中までそれは続き、ナラの母親はまだ17歳だったナラに生活の時間を守らせることも難しかったのでした。

1959年、人気週刊誌「オ・クルゼイロ」がボサノバの特集を組むことになりました。
この手の企画としては初めての大特集で、ジョアン・ジルベルトはルイス・ボンファ、パシフィーコ・マスカレーニャスと共に車でガーヴェア地区のピアニスト、ベネー・ヌネスの家へ向かいました。
この日、ベネーのアパートに顔を見せたアーティスト達...それはボサノバに関わる全ての人々でした。ジョビン、ジョアンはもちろんのこと、ナラのサロンに集まっていた面々までとにかく全員と、そしてアリ・バホーゾでした。

”アリは新しいボサの若者達を認める古典のボサを象徴する人間としてそこへ呼ばれた”と「ボサノバの歴史」にはあります。ウィスキーですっかり酔いしれたアリはカリーニョス・リラに「ボサノバとは何だ?」と問いかけました。
答えられなかったリラはロナルドにその役目を渡しました。
ロナルドはここで、後の名文句となる言葉を発します。
「哲学的には、ボサノバはあるひとつの精神状態なんです。」

そしてトムは「フォトグラフ」を弾いて実例を示し、アライヂ・コスタは「私はフラットやシャープが入る音楽はみんなボサノバだと思います」と答え...
アリは深呼吸をして一言。「あー、それでわかった...」。

その後、全員がアリと理論、そして演奏を繰り広げ、「オ・クルゼイロ」のための企画であった集会は何時間にも及びました。こうしてこの日を含めて、ベネーの家では何度もボサノバ連中の集会が開かれたのです。
「オ・クルゼイロ」に10ページのボサノバ特集として大々的にレポートされた記念すべきこの日の集会は、その中でも一番重要なものになりました。

ベネーとその妻ドゥルシは、このボサノバ・ムーブメントを最初に後押ししたいわばボサノバの育ての親とも言える存在で、ボサノバ連中たちからもとても慕われていました。この後、たくさんのボサノバ・サロン・オーナーたちが生まれることになろうとも。

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Vol.30 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ボサノバと過去の音楽との対立〜

すっかり市民権を得たボサノバは、上院議員や弁護士、著名な詩人など、ハイソな人々の邸宅でのパーティーでも、演奏されるようになりました。
ボサノバ・ムーヴメントの中にいた青年たち... ジョアン・ジルベルト、トムやヴィニシウス、ボスコリやカリーニョス・リラ、ミルトン・バナナ、ナラをはじめとした人々、つまり真面目な音楽家から酸いも甘いも知っている夜のミュージシャン、一介の少女などなどのごちゃまぜの集団は、いまだかつて経験したことのないような豪勢で上品ななパーティーに招かれては、ボサノバ演奏を聴かせてまわったのです。

しかし、これに眉をひそめる人々も存在しました。
ヴイアォンの作曲家・ウンベルト・テイシェイラは、客が床に座って聴くこともあるこの音楽を、軽蔑を込めて「絨毯にこぼれた音楽」と呼び、ボサノバの人々がインタビューのたびにボサノバ以前の音楽を「憂鬱で陰気な音楽」とけなしてばかりなのに腹を立てたアントニオ・マリアは、ことあるごとにボサノバを攻撃しはじめました。

こうなってくると、面倒はごめんだと、トム、ジョアン、ボスコリ、メネスカルたちは次々とこのいざこざから逃げ出しました。結局、矢面に立たされたのはアンドレ・ミダニ。
ミダニとマリアの戦争はしばらく続きましたが、それはこのあと繰り広げられることになるボサノバVS他のブラジル音楽、の対立の序章でしかありませんでした。

確かに、以前の音楽を否定されれば、古い音楽をやっているミュージシャンたちが黙っている訳がありません。ボレロにいたっては、ボサノバ連中は完全な田舎者扱いにし、またボレロ連中はボサノバに対し「ジャズの影響を受けているくせに」と反撃に出る...というありさま。ボサノバには、ジャーナリズムから音楽界に至るまで、ありとあらゆる場所に敵がうようよといる状態になってしまったのでした。

しかし、ボサノバの基盤を作ったジョアンには、そんなことはどうでもよかったのです。ボレロの代表的な歌手であったアニージオ・シルヴァは、ボスコリに野暮だとか悪趣味だとか散々な言われようで、まわりもそれに同調せざるを得なかった中、ジョアンだけはこう言いました。
「僕はアニージオが好きだよ、他の人とは違うから」
しかも、別のミュージシャン、ダルヴァ・ヂ・オリヴェイラに対しても
「ダルヴァは完璧な音程をしている」
と高く評価していたので、ボスコリはそれを苦々しい思いをしながら聞くしかありませんでした。

しかし、そんなことをいつまでもしていても、何にもなりません。
ボスコリやメネスカル、トムが中心となってだんだん亀裂もふさがり、関係は修復へ向かいます。何より、古い音楽の代表的な作曲家であるアリ・バホーゾとドリヴァル・カイミは、ボサノバの味方でした。

そして、ジョアンがこの年の3月に録音を始めたレコードには、ドリヴァル・カイミの曲「ドラリッシ」が入り、彼は密かに、次回レコーディング用の曲の練習に励んでいたのです。その曲とは?続きはVol.31〜で。

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