ここに連載している「Bossa Nova History/ジョアン・ジルベルト物語」は、宝島社『ボサノヴァの歴史』(ルイ・カストロ著/国安真奈訳/廃版。2001年1月音楽之友社より再版。本についての詳細は、翻訳者:国安真奈さんのホームページをどうぞ)を参考文献として、ボサノバ・バチーダの産みの親であるジョアン・ジルベルトを軸にボサノバの歴史を綴っているものです。
さあ、あなたも一緒にボサノヴァの誕生を追ってみませんか?

**Back number** Vol.01〜10  Vol.11〜20  Vol.21〜30

Vol.11 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜トムとの出会い〜

サンパウロに着いたジョアン.... しかし、彼はあっという間にまたリオへ戻ってきてしまったのです。ここで何があったのか、詳細はわかりません。でも、またフラフラしていることはルイス・テーリスが許しません。
そこでジョアンは「テキサス・バー」でかつての恋人シルヴィーニャ・テーリスの伴奏をするという仕事を見つけました。

しかし昔とはまるで逆の立場。いまやシルヴィーニャはスターであり、伴奏をするのにもオーディションがありました。そしてその判断を下していたのは、兄マリオだったのです。
ロベルト・ナッシメント、カルリーニョス・リラ、バーデン・パウエルなど錚々たる顔触れがそれまでにそのオーディションに合格していましたが、もちろんジョアンもシルヴィーニャに手を出さない限り、腕には狂いはありませんから合格でした。
でもまたジョアンはその仕事を辞めてしまったのです。
そしてテーリスはジョアンを見放しました。

テーリスの苦悩の選択にもかかわらず、ジョアンはその後さっさと次の居候先を見つけていました。それはラフィータというブラジルに来たばかりのアルゼンチン人の画家で、彼等は以前にマリア・ルイーザのアパートで会っており、いつもの如く次の落ち着き先が決まるまでという名目で彼はジョアンを泊めてくれることになりました。
でもやっぱりジョアンは何日たっても出てはいかなかったし、相変わらずギターを一日中弾き続ける生活をしていました。画家であるラフィータは自分の創作活動にも支障をきたすことに気付き始めました...

しかし、ジョアンはこの頃、また色々な仲間たちとの交流を始めてもいました。
トリオ・イラキタンの友人エヂーニョにメネスカルというギター教室を開いている青年に会うよう勧められ、その流れでカリーニョス・リラとも知り合います。
そしてその中に当時のオデオンレコードのジャケットをほとんどすべて撮影していた写真家シコ・ペレイラがいて、彼はジョアンの才能に深く惚れ込んでしまったのです。そしてジョアンのレコードを出そう!と意気込んだ彼は、ジョアンをアントニオ・カルロス・ジョビン(通称トム・ジョビン)を訪ねることを強く勧めました。

でもジョアンは気が重かったのです。
トムとはこれまで「プラザ」などの店で”互いに知っている”程度の間柄でしたし、しかも今、彼は作曲もするただのピアノ弾きではなく、著名なアーティストになっていましたので...ジョアンが躊躇するのも仕方のないことでした。

そしてジョアンはトムの前で「ビンボン」と「オバララー」を披露することに。
さて、トムの反応はいかに?

Vol.12 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜想いあふれて〜
アントニオ・カルロス・ジョビンはギターを弾いて歌うジョアンにすっかりのめり込んでしまいました。
こんなバチーダは聴いたこともない。これなら自分が考えていたハーモニーに合うかもしれない。そう考えたトム(アントニオ・カルロス・ジョビンの通称はトム)は、引き出しの中から完成後出番がなく1年以上も眠らせていた「想いあふれて」を取り出たのです。

今やブラジル人なら誰でも歌えるとまで言われ、ボサの代名詞のようになっているこんな名曲がどうしてタンスの肥やしになっていたのでしょうか。
トムとヴィニシウスの作った「想いあふれて」は、本来レプーブリカ劇場での興行で使う予定になったはずでしたが、それには完成が遅すぎてしまったために実際には使われず、保留になっていたのでした。

何が幸いするかはわからないものです。
トムが気紛れから作曲したと言われるこの曲は、後にエリッゼッチ・カルドーゾのアルバム『カンサォン・ド・アモール・ヂマイス』に収録されることになります。

そしてジョアンはある日、とうとうラフィータに家を追い出されることになってしまいました。彼の家に居候していた5カ月間、ジョアンが働いていたのはたったの1カ月で、あとは家事もせず、食費も出さず、夜な夜な町に繰り出し、明け方には酔っ払ったジョアン・ドナードを連れ帰ってくるのでラフィータはおちおち眠ることもできなかったのです。

ジョアンが1カ月だけやっていた仕事というのはホテルでのヴァンジャ・オリーコのバックバンドで、評判は良かったにもかかわらず、ギャラは雀の涙。しかもショーが終わってしまってはまたもや失業者となるのみでした。

ラフィータの家をあとにしたジョアンは、今度はボタフォーゴ地区の木賃宿で、新しいオス・カリオッカスの専属歌手になったルイス・ロベルトとその友人ロームロ・アルヴェスと相部屋暮らしをすることになりました。

でも、ジョアンは確実にまた有名になりつつあったのです。
ジョアン・ジルベルトが来るとわかれば、ホテル「プラザ」のナイトクラブには多くのミュージシャンたちが集まるようになりました。その中にもちろんトムの姿も。
このバチーダをどうやって生かそうか... 彼は考えます。
そして1957年はボサ創作の年となったのです。
- BACK
Vol.13 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「想いあふれて」誕生〜
...こうしてジョアンはエリッゼッチ・カルドーゾのアルバム『カンサォン・ド・アモール・ヂマイス』というLPにギターで参加することになりました。
このアルバムは1958年4月にフェスタというレーベルから出たものですが、たった2000枚しかプレスされませんでした。
それは、このレーベルが配給ルートを大きなレコード会社に頼むような零細企業のレコード会社のものであり、しかもアルバムのプロモーションもされず、そして営利を目的としないという状況下であったことに起因します。

フェスタのオーナーであったイリネウ・ガルシアは外国の著名人たちと交流するという、なかば趣味でレコード出版を行っており、外務省の友人たちとそれを実現させるべく、自作の詩の朗読LP(著名人に朗読してもらう)などを出していたのです。今でいうインディーズに近いですね。そして今回は音楽ではありますが外交官でもあったヴィニシウスの作品でもあるし、レコードを出すことになんの問題も生じませんでした。
歌手には初めドローレス・ドゥランを考えていましたが断わられたため、エリゼッチを選び、まだあまり知られていなかったトムとの友情の共演であることを全面に押し出して発売されることになりました。
そのためのヴィニシウスの気遣いがジャケットの裏に書いたテキストに表われているそうですよ。

ジョアンの出番はたったの2曲。しかもクレジットに名前すら掲載されませんでした。(もちろんそれはジョアンだけではなく、他の錚々たるミュージシャンたちの名前も日の目をみることはなかったのですが...)
しかしジョアンはエリゼッチに曲を教えるためにトムたちが集まる場にどうしても同席することを希望しました。そしてエリゼッチがヴィニシウスに敬服するあまり、あまりにも丁寧に曲を歌うことに納得がいかず、度々口出しをしたのです。いわゆるジョアン流...リズムを遅らせたり早めたり、その曲にその歌詞に合うように自由に歌うことを彼女に強要し、あげくにエリゼッチに口を出すなと言われてしまいました。
それからジョアンは気分を害し、リハーサルに顔を出す回数も減りました。

一方、トムはジョアンのレコードを出すために東弄西走していました。
そしてまたもやジョアンは相部屋暮らしをしていた木賃宿から追いだしをくらっていたのです。しかも今度は滞納している宿代のかたとして、ボストンバックまで取り上げられていました。ジョアンは今度は何処へ?
- BACK
Vol.14 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜望まないオーディション〜

またもや宿なし状態になってしまったジョアンは、今度はチト・マジーという人物に泣き付きました。今まで一緒に相部屋暮らしをしていたルイス・ロベルトとその友人ロームロ・アルヴェスに、ジョアンを助けてやれるほど金銭的余裕はなかったのです。
チトは滞納料金を全額支払ってボストンバックまでちゃんと取りかえし、その上自分のアパートに一緒に住もうとまで言ってくれたのでした。
そのチトのアパートの近所にはルイス・クラウヂオが住んでおり、この3人にパシーフィコ・マスカレーニャス(ジョアンの姉:タダイーニャの家で会ったことのあった学生)が加わって仲良く新生活がスタートしたのでした。

この頃、ベロ・オリゾンチ市でパシーフィコはサンバカーナというグループを率いてサンバとジャズのあいのこのような音楽を作り出そうとしていました。
彼等はみんなディック・ファーネイを崇拝している若者たちで、ピアノとギターが少しできるパシフィーコは経済的にも裕福であり、ベロ・オリゾンチの町(現在のサヴァシー区)を彼等とともに夜な夜な尋常でないセレナーデを奏でて廻っていました。
その際、トラックの荷台にはピアノを積んでまわっていたというからビックリです!

そんなある日、ジョアンはリオの街でカルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂという詩人とすれ違ったことがありました。
この人物は知る人ぞ知る詩人で、ジョアンの憧れの人のひとりだったのです。
カルロス・ドゥルモンを見つけたジョアンは急に彼に駆け寄り、舞い上がりながらも封筒を差し出してサインをもらいました。(当時、彼にサインをもらうというのはとても難しいことだったようです)なのに数分後、ジョアンはその封筒をオデオンの事務所にしっかり置き忘れてきたのでした。

そんな日々の中、ジョアンはルイス・クラウヂオの勧めでコロンビアのオーディションを受けることになります。
でも彼は本当のところあまり乗り気でなかったのです。既にトム・ジョビンがオデオンの説得を進めていたため、最初ジョアンはその返事を待つつもりでいました。
しかし当時ルイス・クラウヂオはチト・マジー作の「見て、言って」という曲をコロンビアと契約しており、彼の熱心な勧めで大物ディレクター:コルチ・レアルに歌を聴いてもらうことになりました。
コルチ・レアルはマイーザを発掘したりしている権力の強いディレクターでしたが、ジョアンには何の期待もよせていませんでした。
もちろんジョアンに会う前に彼のギター(エリゼッチの歌う『カンサォン・ド・アモール・ヂマイス』)を聴いてはいましたが、歌ばかりでギターにまで神経は行き届いていませんでしたし、あくまでジョアンに会うのは自社アーティストのルイスが勧めるからという理由でしかなかったのです。

そういう空気のスタジオでジョアンは『ビンボン』を歌い、雰囲気はさらに悪くなりました。
聴き終わったあとでコルチ・レアルは「E' so' isso o meu baiao」という歌詞の部分についてトンチンカンな指摘をしたのでした。
「とってもいいけど、これはバイアォンじゃないだろう。僕の歌はこれだけさとかいうように変えてみたらどうかな?」
それに対してジョアンは何も言いませんでした。
baiaoと聞いて、コルチはアデライヂ・シオーゾ(バイアォンを得意とするアーティスト)のことだと思ってしまったようです。ところがジョアンの歌ったbaiaoとはそういう意味ではなかったのです。(ちなみに辞書にはbaiaoは「民謡、踊りの一種・バイヨン」と出ていますが、現在の『ビンボン』の歌詞カードにはそのままバイアォンという言葉が使われています。正確な訳は難しいし意味をなしませんが、皆さんにもジョアンの言わんとしているところはわかりますよね?これをcancao(カンサォン)としてしまったらダサイ!私だってやりませんよ)
その何時間か後、仲間と一緒のバールで、ジョアンは言いました。
「あのコルチ・レアルとかいうのは嫌な奴だよ」。

そしてこのコルチ・レアルとの面談のあとに、コロンビアの社内でジョアンはオス・カリオカッスに出会いました。彼等はまさにちょうど、『想いあふれて』をレコーディングしに行く途中だったのです。
彼等はオス・カリオカッスの専属歌手ルイス・ロベルトからこの曲を教わって、また『カンサォン・ド・アモール・ヂマイス』のジョアンのギターを聴いてすっかり気に入ってしまっていたのです。
でも皮肉なことにルイス・ロベルトに曲を教えたのはこのジョアンでした。

当時ボレロやアメリカングループのカヴァーばかりやらされていたオス・カリオカッスは反逆に出ようとも考えていたのですが、問題が1つありました。
いざ『想いあふれて』を録音する段階になっても、ギター担当のバデッコはジョアンのようにギターが弾けなかったのです。
そこでこの録音は、なんとジョアンがかわりに匿名でレコーディングしたのでした。

それにしてもいつになったらジョアンのレコードは出るのか... がんばれジョビン!

- BACK
Vol.15 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜もめ事だらけのレコーディング〜
この頃、ジョビンはジョアンのレコードを録音するために文字通り東奔西走していました。
ジョビンはジョアンの「想いあふれて」を以前ジョアンと共作したこのとあるルッソ・ド・パンデイロのスタジオをタダで借りてアセテート盤に録音し、アロイージオ・ヂ・オリヴェイラに聴かせたのです。

しかし、アロイージオの求める歌手像というのは”ヴィブラートをたくさん使い大声で歌う”歌手であり、彼はジョアンのような所謂小声でボソボソした感じの歌い方に納得できず、商業的に成功するなんてことを、どうしても考えられなかったのです。
しかしながらアンドレ・ミダニ、ドリヴァル・カイミなどの協力な推薦と、ジョビンのコストをできるだけ切り詰めるという約束、説得...
ついにわきで話をきいていた販売部長のイズマエル・コヘイアがOKを出し、まさにジョアン・マジックにかかった人々を相手にもう抵抗のしようもなくなったアロイージオは、ジョアンの78回転盤を録音するためにオデオンのスタジオを自由に使っていいという全権委任状までを与えたのでした。

こうしてやっとのことでジョアンのレコーディングが実現する運びとなりました。
コスト削減のため、ジョビンは「想いあふれて」のアレンジをエリゼッチの時よりも簡単にし、大げさな楽器のパートはとにかく無しにして、裏面の「ビンボン」に関してはもっとシンプル=経済的にすると約束していました。
ところがスタジオに入ったジョアンはまずヴォーカルとギターに1本ずつ、計2本のマイクを要求しました。
オデオンは英国系の会社で、それは当時ケチを意味しました。
にもまして無名の新人にマイクを2本も使わせるなんて!ということで厳格な録音技術部長はしかめ面でしたが、アロイージオの全権委任状がものをいい、ジョアンの要求は通りました。

が、それだけで事は済みません。
次にはジョアンと他のミュージシャンの間でもめ事が起こりました。
録音といえば今でこそデジタルレコーディングで1小節刻み、またたった1語でも取り直しや継ぎ剥ぎのできる時代ですが、当時はプレイバックなしの生録音。ということは一度間違えたら全部最初からやり直しなわけです。
そんな中でジョアンは誰も気付かないようなミュージシャン達の間違いを聴きとがめ、ほぼ1小節ごとに演奏を中断しました。
また、ジョアンはパーカッションに4人もの人間を要求していました。
やり直し、やり直し、そしてまたやり直し...が続き、そうこうしているうちにとうとう数人のミュージシャンたちが怒りだし、楽器を持ってスタジオを飛び出し始めました。
彼等が説得されて戻ってきたころにはジョアンの方がもう嫌だと言いだし始め、ジョビンはその間中、ピアノの前に座ったものやら、オーケストラの指揮をとればいいものやら、はたまたスタジオ中を走り廻って太鼓持ちをすればいいものやら途方に暮れたのでした。

しかももめ事はまだありました。
4時間に3曲録音するというのが普通の歌手の平均レコーディング時間でしたが、
ジョアンの場合、たった2曲を録音するのにこの有様。
スタッフにはジョアンの異常なまでの完璧主義が理解できませんでした。
そしてジョアンは他のミュージシャンたちにいっさいの妥協は許さず、我を張り通すのに加え、ジョビンにはコードに対してもさんざん文句をつけたので、ついにはジョアンとジョビンの間にも険悪なムードが漂い始めました。
しかしジョアンがジョビンに向かって言った「トム、あんたはブラジル人だね、怠け者なんだよ」の一言がスタジオ中の誰もを吹き出させ、とりあえず緊張状態は終わりとなったそうです。

そして結局、トムがアレンジをし、ジョアンと自宅でリハーサルをし、ジョアンとパーカッションが合わせる練習をし、さらにオーケストラとのリハをして、それから全部の録音をするという段階を踏んで行く方式に変え、レコーディングが終了したのはそれから1カ月も後の7月10日のことでした。
さあ、発売後の反響はいかに?
- BACK
Vol.16 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「想いあふれて」販促計画〜

オデオンはやっとのことでジョアンのレコードを完成させたのですが、さてこれをどうしたものか...というのが本音でした。
なぜならジョアン・ジルベルトは同社の看板歌手でも有名でもない、ただの歌手の1人にすぎなかったからです。
結局、8月にトリオ・イラキタン、レニータ・ブルーノ、ファファー・レモスらの曲と一緒にこの「想いあふれて」は収められ、リオで発売されることになったのですが...

発売後2〜3カ月たってもぜんぜんこの曲は話題にもなりませんでした。
でもそれはジョアンの実力のせいではなく、当時ブラジルの音楽市場はサンパウロのマギ・ダギ&ラウという3人組がオス・チトゥラーレス・ド・リチモと歌っていたブラジル選抜サッカーチームの応援歌に独占されていて、他の歌など誰も聴いちゃいなかったのです。
ブラジルはスェーデンのワールド・サッカー杯で優勝し、人々の陶酔はいまだ覚めやらず、いくらジョアンの歌が素晴しくても、どうにもならなかったのでした。

しかし、情勢はどうであれ、このレコーディングに太鼓判を押していた販売部長のイズマエルは気が気ではありません。
でもあきらめずにこの騒ぎが静まるのを2カ月待ち、今度はサンパウロでレコードをリリースするという手段に出ました。

1958年のサンパウロはブラジル最大の音楽市場で、最大のレコードと家電の販売網を持つアスンサォン商会がありました。
アスンサォン商会はサンパウロと裕福な農村部に25の支店を持ち、宣伝が成功すればそれだけでレコードのヒットを作り上げられる力を持っていました。
しかもラジオ業界で聴取率ナンバー1の番組「ヒット・パレード」のスポンサーでもあったので、ここのDJエリオ・ヂ・アレンカールがレコードを気に入ったとさえ言えば、あとは簡単でした。

そしてこのサンパウロのオデオンで権力をふるっていた販売部長オズヴァルド・グルゾーニは、ジョアンの「想いあふれて」と「ビンボン」のレコードを聴いて卒倒しそうになり、営業担当者の前で
「これが、リオがよこしたクソだ!」
と叫んでこのレコードをぶち割った...という話がボサノバ歴史上、大変有名です。でも真実はちょっと違うようですよ。

イズマエルはレコードをアセテート盤にコピーしてサンパウロのグルゾーニに送りました。それにはアロイージオの”リオでの失敗を繰り返さないようにサンパウロでは販促に力を入れるように”という社命が添えられていました。
グルゾーニはジョアンのことはそんなによく知らなかったので一応その命令をメモし、事務所で販促スタッフを集めてレコードをターンテーブルにのせたのです。
ラジオ局にA面とB面をかけさせようとするコソクな手段で、グルゾーニ本人の提案によりオデオンはレコードに”A面B面”の記載を廃止していました。
作者の欄にジョビンとヴィニシウスの名前を見たグルゾーニは「想いあふれて」がA面だと思い、こちらを先にかけました。

聴きはじめると、これがなぜサンバ・カンサォンに属する音楽なのかさっぱりわかりません。このリズムは何だ? どうして歌手に声量がないのだ?
彼は次にB面「ビンボン」をかけました。
新たな失望が彼を襲いました。なんだこれは?馬鹿みたいな歌詞で意味がないじゃないか!
販促スタッフも同じ意見でした。しかし中にひとりだけ、アダイル・レッサという人物はジョアンの才能に感激していました。

グルゾーニは確かに怒りはしましたが、レコードを割ったりはしなかったのです。
そして販促スタッフ皆で好き嫌いを論じても、もはやしょうがないのでした。
リオからの社命には逆らえません...

最初の仕事はアスンサォン商会の総支配人アルヴァロ・ラモスを説得することでした。とにかく、ラモスに気に入ってもらえなければどうにもなりません。逆に、気に入ってもらえれば成功したも同然でした。
アスンサォン商会の店で1日中「想いあふれて」を流し続ければ、客は自分の探しにきたレコードとともに、店内で流れているレコードも買っていったのです。

グルゾーニはオデオンの事務所にラモスを招待しました。
そしてラモスはこの新人のレコードを聴いて、冷やかされたものだと思い、
「なんだって風邪をひいている歌手をレコーディングさせたりするんだ?!」
と吠えました。
もう最後まで聴いてる価値なんかない。「ビンボン」にいたっては聴きもせず、レコードをターンテーブルから取り上げるとあの一言、「つまりこれが、リオがよこしたクソか?」を発して会議テーブルの端でレコードをぶち破りました。
グルゾーニとアダイル・レッサは震え上がり、でもただちにラモスをなだめ、諭しはじめました。
でも、もっともグルゾーニにもどうしてよいかわかりませんでした。
これではレコードのヒットなどありえない...

- BACK
Vol.17 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜これがジョアンのやり方だ!〜
とんだ展開になってしまったことにも、アダイル・レッサはめげませんでした。
「これは今までにない新しい音楽で、頭の固い人達は怒るかもしれないが、若者を惹き付ける力のある、モダンな音楽なんだ」
と、ラモスに一生懸命訴えました。
それを聞いたラモスは、頭が固いとか考えが古いとか言われてもそんなのはまったく
構わないが、うまい商売を逃したと笑われることは我慢がならない!
それならちょっと考え直してみるか...と思い、グルゾーニとレッサの
「ジョアン本人を紹介したい」という提案に乗ることにしたのです。

早速、その週末にはラパ区にあるラモスの自宅でジョアンとグルゾーニとレッサは昼食を一緒にするということになりました。
ジョアンはリオからサンパウロまで汽車でやって来て、迎えに出たレッサと共に
ラパ区の邸宅へ向かいました。
ラモスの妻であるイネス夫人はごちそうを作ってもてなしましたが、ジョアンはそれをちょっとつついただけだったので、料理の腕を侮辱されたと夫人が気を悪くして、音楽とは関係ないところでこの話がぶち壊しなることを恐れ、グルゾーニとレッサはさっさと本題へ入りました。

ヴィオラン(ギター)が運ばれて来て、ジョアンは歌い始めました。
が、すべての人の期待を裏切ってジョアンが歌ったのは「想いあふれて」でも「ボンボン」でもなく、1942年にゲーハ・ペイシェという人が作曲した合唱曲「フィブラ・ヂ・エロイ」でした。
この曲を4回も歌ったジョアンを見て、ラモスは心底感激感動してしまったのです。

しかも帰りにジョアンは家の前の歩道に子供がいるのを見て、イネス夫人の花壇から
薔薇びの花をへし折ると、その子供に差し出しました。
その様子をみたグルゾーニたちはあっけにとられ、ラモスは金縛りにあったように
立ち尽くすことしかできなかったそうです。

こいつは天才か、気違いが...もしかして両方か。ラモスは唸ります。
しかし結果、ジョアンの「想いあふれて」「ボンボン」のレコードはアスサォン商会でその年のベストセラーになりました。

そしてシナリオ通り、ラジオ業界で聴取率ナンバー1の番組「ヒット・パレード」で
DJエリオ・ヂ・アレンカールはこのレコードを流しました。
その際、エリオは「このレコードはサンパウロで一度ぶち割られた」と言ったので、あっという間にそれをやったのはなぜかグルゾーニだということになって、広まってしまったのです。
エリオは誰が割ったと言った訳ではなかったのですが、グルゾーニは別に自分のイメージはどうでもよかったし、ジョアンが世の風潮に逆らう異端児というイメージで売れて行くのは好都合だったので、あえて自分の悪評をそのままにしていたのでした。
今日に至るまで、まったくとんだ悪者にされてしまったと笑うグルゾーニにと共に、
実際にレコードを割った張本人のラモスもそれを面白がっていて、
「あの時は本当に風邪をひいてるんだと思ったんだよ」
と、罪の意識はないようです。

こうしてデビュー曲とは関係ない歌を4回歌って、スンサォン商会の総支配人アルヴァロ・ラモスを説得してしまったジョアンは、若い世代を中心に急速に受け入れられていったのです。
- BACK
Vol.18 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ヒット・チャートに登場〜
ジョアンのデビュー曲『想いあふれて』は、ラジオ・バンディランチスの「キツツキのピック・アップ」という番組で何カ月間かオープニング・テーマ曲として使われました。
そして、メロディーか歌詞、区切りを完璧に歌えた人にはLP10枚プレゼントという企画まで催されていたのです。

でもこの番組を12月に始めたディスクジョッキーだったヴァルテル・シルヴァにいわせれば、当初このラジオ局では、ジョアンの曲の使用には乗り気ではなかったそうです。それは、いわゆる「大衆向けの安物歌手と呼ばれるような人々のファン」がリスナーの大半を占めていたからで、同局の営業部長は、そういう耳にジョアンの曲は合わないと考えたからです。

しかしながらヴァルテルの実力もあって、人気は鰻登り。
ついには聴取率であの「ヒット・パレード」を追い抜いてしまいました。
どちらの番組でも圧倒的な人気を得ていた『想いあふれて』はジョアンをサンパウロのちょっとした有名人にのし上げたのです。

でもその裏にはもちろんジョアンの努力がありました。
オデオンの50人アーティストの1人として自発的に出演したピラチニンガ劇場の音楽会では歌い始めるや否や罵声でステージを追われたり、うんざりするような販促活動を文句も言わずこなし、ラジオ局やテレビ局を駆け回りました。

無駄に多い有名司会者に囲まれた番組収録などにグチをこぼしながらも、意味のあるテレビ出演もありました。
数年前までTVリオの1Fでは、トムとヴィニシウスが知り合ったナイトクラブ「クルービ・ダ・シャーヴィ」が営業していましたが、閉店してホールに改装され、そこはパウロ・グラシンドが司会をするバラエティー番組を収録する場所になっていました。
その番組は日曜夜のゴールデンタイムにリオで高視聴率を取っていた「プログラマ・パウロ・グラシンド」で、ジョアンはその日の強力な企画であるブラジル初のロックグループボラォン&ロケッツの出演と、犬の仮装コンクールに挟まれて歌ったのです。

こうして『想いあふれて』はヒット・チャートに登場し、リオでもジョアンの未来は明るいものとなってきました。
当時のオデオンでは、新譜を出す度に今日の100万枚に相当する10万枚の78回転盤を売っていたアニージオ・シルヴァとオルランド・ヂアスがスターで、彼等のおかげでオデオンは他のルーシオ・アルヴェスやシルヴィーニャ・テーリスなど、上品でそこそこ売れる歌手をもかかえることができました。
ジョアンもこの部類の歌手であったのですが、長期的に見ても1万枚に満たない売り上げのルーシオやシルヴィーニャを超え、『想いあふれて』の78回転盤は1958年8月〜12月までの5カ月間に1万5千枚も売れたのです。
- BACK
Vol.19 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜「想いあふれて」の影響 〜

『想いあふれて』の78回転盤ができあがった時、ジョアンはそれを持って、かつて師匠と仰いだルーシオ・アルヴェスの住むコパカバーナのアパートへ行きました。
ルーシオは尊大な様子で
「そうだ、ジョアン。君はやったね。」と言ったそうです。
実際、彼はそれをとんでもなく新しいものだとは思わなかったけれど、とてもいいと思ったのです。

ジョアンはもともと当時の流行りでもあった”大きな声で朗々と歌うタイプの歌手”でしたが、今やそんな歌い方は影を潜めていました。
ルーシオや、オルランド・シルヴァを真似して歌っていた昔のジョアンはもういなかったのです。
そして彼はジョアンの不意に音のフレーズを切る歌い方(フレーズを個性的に区切るやり方は元ナモラードス・ダ・ルアのメンバーの特技だった)に感動しました。
皆さんもジョアンの歌をよ〜く聴いてみてください。ジョアンはびっくりするほど息継ぎまでが長いのです。このフレーズ区切りの術は、”ボサノバであること”に深く関係していると思います。

また、ルーシオにとってはギターのバチーダがジョアン・ドナードやのアコーディオンやジョニー・アルフのピアノのように感じられたようです。ルーシオからの賛辞は、ジョアンにとって終生大事にしてよいありがたいものでした。

”チャールトン・ヘストンが「十戒」を抱えてシナイ山を降りてくる””ボレロ的時代を一蹴するもの”と表現されたジョアンの『想いあふれて』は、聴くすべての人々に強い光明を投げかけ、若者たちの心を確実に捉えていきました。
『想いあふれて』ほど、多くの若者にヴィオラォン(ギター)で歌ったり、演奏したり、作曲したりしてみたいと思わせたブラジルのレコードはなかったのです。

当時、国民的楽器として天下をとっていたのはアコーディオンで、その頃のブラジルでは、リオに限らずマリオ・マスカレーニャスという人物がブラジル国内でアコーデイオンの普及に全力を上げていたため、いわゆるサンフォーナ(東北部の音楽)呼ばれる田舎臭いアコーディオン(ジョアン・ドナードが演奏する垢抜けたものや、今、cobaが弾いているようなやつとは違う)が大流行りでした。
彼のアコーディオン教室では、学校で反抗的な態度をとったための罰としてレッスンを受けさせられているたくさんの生徒がいて、毎年暮れに市立歌劇場で恐怖の「1千台のアコーディオン・コンサート」を開いていました。1957年にはマルコス・ヴァーリやエドュ・ロボもそこの生徒だったそうですよ。

でも、彼らの夢はアコーディオンを早くやめて、女の子にモテる楽器・ヴィオラォンを弾くことでした。
そんな時に彼らはジョアンの『想いあふれて』に出会ったのです。

(ここで、ちょっとひとこと)
今まで私は、ボサノバを奏でる楽器を”ギター”と表記してきましたが、これからはポルトガル語である”ヴィオラォン”と表記することにします。
...というのも、本当は”ギター”という訳表記はちょっと違うのです。
日本語で”ギター”と聞くとクラシックギター、フォークギター、エレキギター、そしてジャズギターなど区別なく、何でもイメージしますよね。でも、ブラジルではギターといえばヴィオラォン=クラシックのガットギターが当たり前で、フォークギターやエレキギター、ジャズギターなど他のものは一切含みません(その他の種類のギターにはそれぞれ別の単語があります)。
ボサノバはヴィオラォンでなければ弾けません。そこで限定する意味で、今後は”ヴィオラォン”に統一します。

- BACK
Vol.20 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ヴァチーダにとりつかれて〜

『想いあふれて』のレコードがラジオを占領する前に、ジョアンの歌とヴィオラォンを聴くことができたのは録音機を持っていたごく少数の人に限られていました。
というのも、この時代はまだカセットテープより前の時代。リオの南部地区で廻し聴きされていたジョアンも、家庭用のオープン・リールテープで、その貴重なテープを所有していた1人は写真家シコ・ペレイラ、そしてもう1人は歌手のルイス・クラウヂオでした。

偶然にもこのテープを聴いた彼等の山ほどの友人たちは、新しいジョアンのバチーダを習得するのに躍起になりました。
”アレ”と呼ばれていたジョアンのバチーダができるようになるまで眠らないという者までいたほどです。
そしてリラとメネスカルのヴィオラォン教室でも、ジョビンとヴィニシウス、ジョビンとニュウトン・メドンサの曲などの練習曲とともに、このバチーダが教えられていました。

こうして無名の新人ジョアンは、限られた南部の若者の間ではすでに有名な歌手となっていました。
その後、『想いあふれて』のレコードが発売になると、今度はもっとよく聴いて思いきり練習できると、リオの高校や大学の生徒たちは、レコードを持って行ったり来たりを始めました。
パーティーを開くという口実で集まってはジョアンを聴き、レコードがなっている間は誰もしゃべらず、発見した新しいコードを互いに教え合いました。
知っていながらも隠すというのはもう古い人間のすることで、もうジョアンのバチーダ以外でヴィオラォンを弾くことなんてダサくて話にならなくなりました。
まさにリオ南部は”アレ”一色。
そして熱烈なバチーダ信者たちは昔のシルヴィーニャ・テーリスやオス・カリオカッスの音にジョアンのバチーダの痕跡を発見したりしはじめました。
ただ、このファンたちの間にはグループ同士の交流がなく、『想いあふれて』を知っているのはどのグループともに”自分たちだけだ”と思っていたそうです。

この頃、モイゼース・フッキスという人物が「ウルチマ・オーラ」紙に挟みこまれていた娯楽情報版タブロイドの編集長をしていました。
この編集部ではシコ・フェイトーザとナラ・レオンが働いていて、ロナルド・ボスコリが寄稿者としてなんでもありのコラムを書いたりもしていました。
フッキスは同時に在ブラジル・イスラエル人学生協会の会員のためのコンサートを企画するという厄介な仕事も請け負っていました。
なぜ厄介だったかというと、このコンサートでは有名なミュージシャンを雇えるほどの財力はなし、かといって民謡を演るようタイプのものでは受け入れられなかったからです。

でもフッキスの妹の1人がメネスカルのヴィオラォン教室へ行っていて、彼女が家で弾く練習曲「馬鹿な狼」「マリアニンゲン」「遅かったらごめんなさい」等を聴く機会がありました。
その後、実際にナラのアパートなどで彼らが歌うのも聴き、彼は感激してしまい、
そして「ユダヤ人学生グループのホールでコンサートをしないか」と持ちかけたのです。
さすがにバチーダ産みの親のジョアン・ジルベルト本人は都合が悪く出演することはできませんでしたが、すでにプロでスターでもあったシルヴィーニャ・テーリスが歌手として出演。フェイトーザとナラ。カルロス・リラとノルマンドが助演者、伴奏にメネスカル...と他にもピアノ、ドラム。サックス、ホルンと錚々たるメンバーが集まることになりました。

そしてついにボサノヴァという言葉が誕生です。続きはVol.21〜30で。

- BACK