意外と不完全性定理に関係あるメモ
last update 2006.2.5
リシャールのパラドックス(1)/
リシャールのパラドックス(2)/
証明不可能性/
不完全性/
神の存在論
- ゲーデルの不完全性定理 Godel's incompleteness theorems
- 第1不完全性定理 first incompleteness theorem
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、
証明も反証もできない命題が存在する。
- 第2不完全性定理 second incompleteness theorem
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、
自身の無矛盾性を証明できない。
以下、まずは理解しやすい「シャールのパラドックス」を紹介し、続いて
自己否定により論理的に論理式の真偽が定まらなくなる現場を捉える。
更に、「真偽」を「証明可能性」と読み替えることで
不完全性定理の言わんとする事に迫っていく。
ゲーデルが「帰納的関数」や「ゲーデル数」のアイディアにより
超数学の範疇で「最高の完全性」を以って「数学の不完全性」を証明した偉業はさておき、
ここではあくまで感覚的に数式抜きで不完全性定理の雰囲気を感じることを目標とする。
■リシャールのパラドックス(オリジナル版)
- 0から1の間にある実数を、論理的な言葉で正確に指定できる文を
「リシャール文」と呼ぶことにする。用語の数は高々有限個なので、
それらを組み合わせたリシャール文の個数も有限個である。
そこで、リシャール文に番号をつけて、
R1、R2、R3…と並べる。
- 今ここで、次のようなルールで、0から1の間にある実数を、
論理的な言葉で正確に指定してみよう。
(*1)「小数点以下第n位の数は、
n番目のリシャール文が指定する実数の
小数点以下第n位(ann)が0の時に1、
0以外の時に0、とする。」
- この言葉自身も0から1の間にある実数を正確に指定しているので
リシャール文であり、R1、R2、R3…
と並べたどこかに存在している。その順番をbとする。
図1 リシャールのパラドックス Richard's paradox
- さて、Rbを具体的に構成してみよう。
例えば小数点以下第1位は、1番目のリシャール文が指定する実数の
小数点以下第1位の数(a11)を見て、
それが0なら1、0以外なら0と決める。
同様に、小数点以下第2位、第3位………と、
順次各桁が0か1かに決まっていく。
- しかし、小数点以下b桁目を決めようとした時に問題が生じる。
Rbの定義から、小数点以下第b位の数は、
自分自身のの小数点以下b桁目の数abbを見て、
それが0なら1、0以外なら0と決めなければならず、
結局、どちらにも決めることが出来ない。
- 論理的に全てが厳密に決定できるように定義してきたのに、
何故このようなパラドックスが生じるのであろうか?
■リシャールのパラドックス(吉永良正版)
- 今、論理的な言葉で、自然数nについて言及する表現 W(n) を考える。
用語の数は高々有限個なので、それらを組み合わせて作られる表現の個数も
高々有限個であるため、これらに番号をつけて
W1(n)、W2(n)、W3(n)…と並べる。
- 今ここで、次のように自然数nについて言及した表現を作ってみよう。
(*2)「nについての表現で、n番目にあるもの」
- この表現もnについて言及したものであるので、
W1(n)、W2(n)、W3(n)…
と並べたどこかに存在している。その順番をaとする。
図2 論理的文章(自己言及性)
- さて、具体的に見てみると、Wa(1)は、定義から
「自然数1についての表現で、1番目にあるもの」だから、
W1(1) のことを指し示している。
同様に、Wa(2)は、
「自然数2についての表現で、2番目にあるもの」だから、
W2(2) のことを指し示している。
- 続けて見ていくと、a番目に来た時に
「自然数aについての表現で、a番目にあるもの」すなわち
Wa(a)と、自分自身を指し示すことになる。
この事自体は、自然数nについて言及する表現であるという決まりに対して
特に問題は無い。
- 次に、自然数nについて以下のように言及した表現を作ってみよう。
(*3)「nについての表現で、
n番目に無いもの」
- この表現もnについて言及したものであるので、
W1(n)、W2(n)、W3(n)…
と並べたどこかに存在している。その順番をbとする。
図3 論理的文章(自己言及性+否定性)
- さて、具体的に見てみると、Wb(1)は、定義から
「自然数1についての表現で、1番目にないもの」だから、
W2(1)、W3(1)……… のことを指している。
同様に、Wb(2)は、
「自然数2についての表現で、2番目にないもの」だから、
W1(2)、W3(2)……… のことを指している。
このように、Wb(n)は、対角線上の表現Wn(n)
以外の表現を指している。
- 続けて見ていくと、Wb(b)は、
「自然数bについての表現で、b番目にないもの」を指し示している。
Wb(b)は、
もともと「自然数bについての表現で、b番目にあるもの」であるのに、
その指し示している内容は「自然数bについての表現で、b番目にないもの」と、
反対の意味であり、明らかに矛盾している。
- 論理的に全ての表現が明確に定まるように定義してきたのに、
何故このような矛盾が生じてしまうのだろうか?
■証明不可能命題の存在証明(廣瀬健・横田一正版)
- 論理学の記号を用いて構成可能な自然数nを一つの変数として持つ全ての論理式を考える。
論理記号はたかだか有限個なので、それらを組み合わせた論理式も有限個である。
そこで、全ての論理式に番号をつけて、
P0、P1、P2…と並べる。
- 今ここで、(*4)「Pn(n)が証明できる」
という表現を考えてみる。
「証明できる」という表現も論理記号の組み合わせであるので、
P0、P1、P2…と並べられた論理式のどこかにあり、
ここではa番目にあるとする。
例えば、Pa(0)は、「P0(0)が証明できる」という事を表現している。
(論理式で書けば ├P0(0)。)
- 同様に、(*5)「Pn(n)が
証明できない」という論理式も存在可能であり、
これがb番目にあるとする。
例えば、Pb(0)は、「P0(0)が証明できない」という事を表現している。
(論理式で書けば ├¬P0(0)。)
図4 証明可能性(自己言及性+否定性)
- さて、Pb(b)に着目してみると、これは
「Pb(b)は証明できない」ということを意味する論理式になっている。
しかし一方で、Pb(n)はもともと「Pn(n)は証明できない」ことを意味するので、
全体では「『Pb(b)は証明できない』は証明できない」という形になっている。
「証明できないという事が証明できない」ということは証明できるという事になる。
かくして、Pb(b)は、証明できるとも証明できないとも決定できないことになる。
■ゲーデルの不完全性定理
- 以上見てきたように、自然数1、2、3…という数学の基本概念(ペアノの公理系)を含む
算術の体系が論理的に正しいものであると認める限り、その正しさと厳密性ゆえに
証明できるとも証明できないとも決定できない命題が抱え込まれてしまうことが分かる。
このような問題が発生する根源的な原因は、
「自己参照性」「否定」の概念と「排中律」にある。
「リシャールのパラドックス」は、
リシャール文の中から他のリシャール文を参照するという自己参照性と、
参照先の数値でないという否定の概念を
定義の中に持ち込むことにより引き起こされている。
また、この考え方を論理的な真偽、論理式の証明可能性に拡張した時に、
「命題は真か偽かのいずれかで、その中間は無い」
「命題は証明可能か証明不可能かのいずれかで、その中間は無い」
という排中律を前提としているために、
その論理体系内では自己否定を扱うことができず、
決定不能な命題となってしまうのである。
(ここで、命題とは、真か偽のいずれかを表現するものであり、
証明とは、真の命題から別の命題を真のものとして導くことをいう。)
- 対角線論法は、
事象を1つ2つと数える算術を基礎に含む論理体系が、
自己参照と否定と排中律を含む時に、
ある命題が不可避的に自己否定の刃を突き付けられることを
視覚的に鮮やかに示している。
つまり、「変数nについての論理式である」という事と
「n番目の論理式である」という事が
有限のマトリックス内の対角線上で必ず具体的に定まった自己言及性を生み、
論理的に(厳密に)自分が自分自身の反対のことを述べているケースが
作れてしまうということである。
なお、このような命題がどこかに必ず存在してしまうことは示されたが、
任意の形式的論理体系において、
どの命題が決定不能なのかを具体的に特定することは
容易ではない。
- このように、数学が証明も反証もできない命題を本質的に抱え込んでしまうという事が
「第1不完全性定理」であるが、
このような命題をひとたび抱え込んでしまうと、
数学という体系全体の無矛盾性までも証明できなくなってしまうことが導ける。
これが「第2不完全性定理」である。
- 数学から自然数の概念を除去できようはずも無いし、
自己参照性や否定の概念を取り去れば、
極めて貧相な体系しか残されないことも明らかである。
また、排中律についても、ヒルベルトは、
『数学者から排中律を奪うのは、天文学者から望遠鏡を、
ボクサーから拳を奪うようなものだ』と言っている。
だから、数学が数学であり続ける限り、
数学は、この本質的な不完全性を抱え込み続けなければならない。
数学は、この本質的な不完全性を孕みつつ、
厳密では無いのかも知れないが豊穣な有意義らしい成果を求め続ける学問
………となってしまったのである。
■神の存在論証明
- ここで、不完全性定理を導く方法のエッセンスを用いて
神の存在を論理的に証明できるか否かを検討してみる。
- まず、人間が認識できる事物で論理的に扱える具体的な対象を
コード化して自然数nに対応付ける。
(具体的に認識できる対象としては「100個の蜜柑」「受話器」
「白色矮星」などがある。
抽象的な概念は含まず、人間が具体的に指定できる対象のみを範疇にするので、
その対象の数はたかだか自然数の濃度である。)
- 次に、任意の事物nに対する論理的な言及をS(n)とする。
人間が論理的な言語を用いて具体的な事物に対して行える言及の組み合わせは、
高々可算有限個しかない。そこで、これらの言及を
S1(n)、S2(n)、S3(n)…
と並べることを考える。
(論理的な言及は例えば「nは存在する」「nは証明できない」
「nは電荷を有する」などである。)
- 今、『事物nについての言及Sn(n)は、
人間の論理的な言語によって証明できない』
という言及を考えると、
この言及自体も、事物nに対する論理的な言及であるので、
S1(n)、S2(n)、S3(n)…
という並びのどこかには存在するはずなので、その項番をbとする。
(人間が論理的に証明できない、ということは、
人間の理性による判断の範疇を超えている、ということである。)
- 具体的には、Sb(1)は、『1番目にコード化された事物に対する
言及S1(1)は、人間の論理的な言語によって証明できない』
ということを意味している。S1(1)は、コードをもとに戻せば、
『100個の蜜柑が存在する』といった内容となる。
論理的な推論や公理(定義)によって、『100個の蜜柑が存在するという言及は、
人間の論理的な言語によって証明できない』という言明自体の真偽は
具体的に定めることが出来るであろう。(数学的帰納法や、
蜜柑の物理的物体への還元や、存在(物理的実在)の定義などが定まっている上で、
この言明は偽である、すなわち証明できる、という結論が導かれ得るだろう。)
- ここで、Sb(b)に着目する。この言及は、定義から字面は
『事物bについての言及Sb(b)は、
人間の論理的な言語によって証明できない』という事を表現している。
この文章の中に現われるSb(b)は自分自身であるので、
これを展開すると、
『事物bについての言及【事物bについての言及Sb(b)は、
人間の論理的な言語によって証明できない】は、
人間の論理的な言語によって説明できない』ということを意味するようになる。
論理的な世界での“証明”は、出来るか出来ないかのどちらかであるので、
“言及Sb(b)は証明できない事が証明できない”、すなわち
証明できることになってしまい、定義に反してしまう。
(cf. この論理展開への批判については
直感主義を参照。)
- 従って、事物bについての言及Sb(b)は、
論理性が完全に正しい限りは、証明できるとも証明できないとも決めることが出来ない。
論理構造自体が未決定性、不完全性を呈している以上、
推論規則や公理の完全性や強度に関係なく、この命題は未決定である。
- この事情は、事物一般の自然数への対応付け(コード化)の方法に依らず
成立するので、
任意の事象nについての「論理的に証明できる/証明できない」すなわち
「人間の理性の限界を超えていない/超えている」という言及それ自体は、
どちらとも決定できない。
従って、人間理性を超える神の存在は、理性によって証明・到達できるところには無い。
以上より、人間は「人間自身の限界」「人間自身の限界の補集合としての神」を、
明晰に知ることは出来ないという事が、明晰に示された。
これはつまり、世界の全てを
明晰に知ることは出来ない、という事が明晰に示されたということである。
- なお、哲学的な側面からの
神の存在証明には、
目的論的証明、本体論的証明、宇宙論的証明、道徳論的証明がある。
参考資料
- BLUE BACKS「ゲーデル・不完全性定理 〜理性の限界の発見」