反原爆・反原発行動の統一のために!

八・五広島集会基調提起

         一九八五年八月五日

                    八・五集会実行委員会

労働運動研究 198510月 No.192号 掲載

                  報告 松江 澄

 被爆四○年、《八・六ヒロシマ》の

         原点をとりもどそう!

 

被爆四〇年を迎えるいま、私達は もう一度原点にもどり、<八・六ヒロシマ>を闘うことの意味について考えてみよう。

 生き残った原爆被害者が四〇年間背食い続けた苦しみ・悲しみと、死んでいった被爆者の無念さにまず目を向けよう。両親、兄弟柿妹を失って一人で生きて行かなければならなかった幼い子供たち。愛し子を失い、連れ合いを奪われ、あとに残された人達の気持ちは、生きるも死ぬも無念であり、残念であり、言葉に尽くせぬ思いであっただろう。この思いは、だだ自分だけのものでなく、多くの戦争被害者も同じであると気づくのに時間がかかったとしても、それを責めることはできない。しかし四○年たった今こそ、十分に整理する必要がある。

 原爆被害者のこのような苦しみに対して、戦争遂行の責任者たる国は、なんら具体的補償を行ってこなかった。のみならず、被爆者・被爆二世を切り捨て無視して、新たな核開発の踏み台にしてしまった。原子爆弾を実戦使用された唯一の経験は、「核を無くすために先頭に立つ国」としてではなく、核開発のデータを示し、「核先進国」となるために利用されたのだ。

 さらに政府は、原爆被害者だけでなく、多くの戦争被害者を切り捨ててきた。沖縄戦で東京・大阪・呉・大竹・・・・・・・・・と全国各地の空襲で、多くの民間人が殺されていった。この膨大な数の人達に対して、政府は一切その戦争着任をとっていない。

 また、朝鮮を侵略し、朝鮮人を強制連行し、被爆させ、被災させたことについては、その歴史的事実すら認めようとしていない。朝鮮・中国をはじめ、アジアに侵略し、虐殺した歴史を抹殺しようとさえしている。明治以来のアジア侵略の歴史を省みることなく、再び侵略と抑圧・戦争への道を歩み続けているのだ。私達は、今<八・六ヒロシマ>を通して歴史と現実を鋭く見つめ直し、見抜き、行動をおこさなくてはならない。

 

 原爆被害者の『まどえ、あやまれ』の

        怒りを紬にした闘いを!

<八・六ヒロシマ>を闘おうとするとき、この運動の視点と内容をはっきりさせることは、不可欠である。この点を曖昧にしてきたことが、「八・六ハの風化」といわれるものをもたらしたともいえる。私達は、原爆被害者が「まどえ・あやまれ」と怒りの言葉を発することの意味をしっかりととらえ直す必要がある。

 原爆被害者の言うに言われぬ苦しみの経験にたいして、戦争遂行の責任者である国は一体何をしたのか。国は原爆被害者の苦しみに対して、その責任をとるべきである。政府が「二度と国民にこんな思いをさせる戦争はしない」と頭をさげなければ、たとえいくら「金」を出しても絶対に許せない。人民の苦しみに対して何の責任もとらない国だから、今また戦争への道を歩むことになるのだ。その結果苦しめられるのは、いつも人民なのだ。原爆被害者のこの声は、今日の日本の状況を鋭く突いたものであるといえる。

 生き残った原爆被害者に対して、どんなに補償してもしすぎることはない。年老いた被爆者への補償を直ちに闘い取る運動を進めなくてはならない。同時に、被爆者の(既に死んでしまった人も含めて)思いと願いを現実化する課題!核のない世界をつくり、戦争のない世界をつくる――をなおざりにすることは、原爆被害者「援護」の闘いを矮小化し、ねじ曲げることになる。生き残った原爆被害者が、どんな思いをもって今を過ごしているのか、また死んでいった人達は何を思い、何を願いながら死んでいったのかを私達の闘いの軸にすえて、その実現のために闘うことを抜きにしては、原爆被害者「援護」の運動としては決定的に不十分ではなかろうか。

 原爆被害者への補償を闘い取る運動と、核と戦争のない世界を築くためにあらゆる核の開発と戦争準備の政策を止めさせる運動は同時に進められなくてはならない。どちらか一つだけが強調されたり、一方が切り捨てられたりした運動は敵の側に取り込まれ、中途半端なものでごまかされてしまうことになる。

 私達は「被爆者援護」の運動を、原爆被害者の「金でもない、物でもない。まどえ、あやまれ」の怒りを基軸にすえながら、@原爆被害者の生活の補償 A国にあやまらせ、償わせる B朝鮮人・韓国人をはじめとする外国人被害者への補償を闘い取るものとして進めなくてはならない。

まどえ・・・・・・広島弁で「元に戻せ」とか「弁償しろ」という意味。

 

 反原発を闘う八・六を!

 原子力発電の登場の歴史を考えてみれば、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>の極めて重要な課題であることは明らかである。

一九五四年三月、第五福竜丸がビキニ水爆実験の死の灰を裕びるという事件が起きたが、その二週間後には、衆議院で「原子力の国際管理と平和利用、そして核兵器と核実験の禁止」決議がされた。その一方で、核実験反対の運動が大きく盛り上がっていた一九五五年一月、イェーツ米下院議員は「広島への原発建設法案」をアメリカ下院に提出し、三月には「原子炉予算」二億三千五万ドルが国会を通過した。こうして、「核の軍事利用」に反対する声が一番大きい時、アメリカ・日本政府は核兵器と「平和」利用とをことさらに区別する策動をすすめた。核開発を進めるために、「核の軍事利用」に反対するポーズを取り、ヒロシマをも利用して核先進国になる道を歩んできた。 「イェーツ案」!広島原発一号炉にたいして、浜井市長は「死のための原爆が生のために使われることに市民は反対しないだろう」と賛成の意向を示し、日本政府・広島市は受け入れようとした。だがこれに対して、当時の「原水禁運動広島協議金」は、@原水爆に転化される恐れがある A放射性物質が心配である B米国の下で運営される、という理由から直ちに反対の声をあげ、原爆被害者をはじめ、平和運動を闘う人達の力でその意図を打ち砕いた。

 日本政府は当初から、国民の意志を無視して核開発に乗り出すために、「核兵器反対」を唱えた。一方、日本の「原水禁運動」は、もっぱらヒロシマ・ナガサキ・ビキニの「原体験」によりかかるあまり、核全体についての科学的追求が十分できなかったがために、「平和利用」の名のもとでの核開発政策に抗し切れないできたといえる。

 戦争終結直前の一九四五年八月、広島・長崎に原爆が投下された。兵器としての核の威力を知ったアメリカは、軍事的優位性を確立するために、さらなる核の研究・開発を続けようとした。膨大な研究費を必要とする「核」の研究・開発・実験を続けるために、アメリカは、原爆を「金もうけ」にも利用する方法を模索した。発電、推進動力(原子力潜水艦・原子力空母)など核の「熱だけの利用」、すなわち「平和」利用(商業利用)を計画したのである。兵器のためのウラン濃縮、処理にかんする周辺技術をはじめ、様々な核の施設の開発・研究が、民間の「金」を使って進められることになった。非人間的殺戮兵器である原爆は、一九五六年には発電の道具として姿をかえて再び私達の前に現れた。あくなき核兵器の開発はこうして原発と衣がえし、人民の目をごまかしながら進められた。

 <八・六ヒロシマ>は、核兵器に反対すると同時に、「平和利用」という名のあらゆる核にも反対するという重大な課題をかかえていた。しかしこれまでの運動が、十分に反原発に取り組めたとはいいがたい。そういう意味では、いま、反原発の運動は<八・六ヒロシマ>において非常に重要な役割を果たすことになる。

 反原発の運動は、原発の建設に反対するだけではなく、核燃料サイクルの各分野で核政策に反対してゆく運動であるため、「原発建設反対」「再処理施設反対」「廃棄物処理反対」等々、表面的なスローガンは地域によって一見別々であるかも知れないが、核の開発に反対し、人間と核との同居を拒否する反核運動の重要な運動である。しかし、各地の闘いのなかには、所によっては地域主義的傾向もあるかもしれない。一方では、中国地方の反原発・反火電の運動体のように、電力資本と対決して大きく連携して闘う動きも起きている。

 しかも、核燃料サイクルは全世界にまたがっている。採掘はカナダ・オーストラリアで行われ、再処理をイギリス・フランスに委託したり、核廃案物の太平洋海洋投薬を計画するなど。反原発の闘いは、広く世界の人達と団結した闘いでなくてはならない。

 

 国際連帯で核戦争の脅威と闘う

       反トマホークの運動を!

アメリカの核戦争戦略の「先制第一撃」戦略への転換にともなう、トマホ―ク・バーシングUなとの戦域核兵器の開発と実戦配備は、核戦争の危機を一挙に現実のものにした。小型核弾頭をもったこの種の核兵器は、地上・海上・海中・室中あらゆる所から発射可能であり、しかも驚くべき命中精度をもっている。いったん使用されれば人類の滅亡を招くために実際の使用はないと思われていた核兵器は、いまや通常兵器と同様に実戦使用され、核戦争はいつでもおこりうる状態になっている。そのために、実際に核戦争が起きた時でも、アメリカだけは生き残る準備として、SDI(スター・ウォーズ)計画も進められようとしている。

 このようなアメリカの核戦略にもとづくトマホークの極東配備を認め、艦船の寄港を認めることは、非核三原則を公然とないがしろにするだけでなく、日米安保体制をつうじて日本をアメタカの核戦争戦略のアジア・太平洋地域での最前線にしていくことでもある。実際すでに安保条約は「集団安保」として機能しはじめており、日米合同演習が大規模に行なわれ、自衛隊も韓国軍とともに米軍の指揮下に組み込まれている。

 核兵器の使用を可能にしたもうひとつのことを見落としてはならない。C3Tとよばれる通信システムをはじめ、大型コンピュータ・レーダーなどの通信施設・技術などこれまで一見兵器に見えなかったものが、情報の収集・命令の伝達等をささえ、兵器の精度をあげ、その使用を可能にする童要な役割を担うようになっている。さらに、核戦争を戦ってアメリカだけが生き残るなどという非現実的なSDI計画がもたらす膨大な資金と先端技術に群がる資本家は、まさに「死の商人」として、核戦争の準備を日々進めている。地球全体を戦場とする核戦争は、私達の身近なすみずみのところにはいりこんで準備されつづけているのだ。

 したがって、反トマホークの闘いは、トマホ−クの極東配備に反対する闘いにとどまらず、全国各地にちらばる自衛隊・米軍の基地・施設、通信・レーダー基地などあらゆる軍事施設に反対する闘いとして日常的に取り組まれなくてはならない。私達は、反米・反日・反独裁の闘いに立ち上がる韓国・フィリピンをはじめとするアジアの民衆と共に、アジア・太平洋地域におけるアメリカの核戦争体制としての日米安保体制を打ち破る闘いを作り上げなければならない。ANZASNATOを直撃したニュージーランドやアイスランドの闘いと連携して日米安保を揺るがす国際連帯の運動を強め、アメリカの軍事同盟の国際的な連鎖を断ち切っていかなければならない。身近な課題への闘いから始めながら、それを全国の力へ結集させ、アメリカの国際政策を一つひとつ打ち砕くことによってこそ、核戦争の危機から世界を救い、核兵器を完全に廃絶することができるのである。

 このように、反トマホークの運動は、様々な具体的な課題をもちながら、それらの課題を結び合わせていく運動の焦点としてすすめられるはずである。たとえば、自治体に「非核宣言」を出させるだけでなく、労働者や市民が実際に核の有無を監視する核チェックの運動をどのように作っていくのか、さらにそれを核兵器だけでなく原発にも広げ、「被爆

者援護」の闘いともつなぎ、一つの大きな反戦・反核の運動としてどのように作ってゆくのか――私達はいま大きな課題をかかえている。核兵器を完全に廃絶するための確実な手がかりが、反トマホークの運動として始まっていることを確信しながら、私達はこの大きな課題に取り組んでいくために力を合わせなければならない。全国各地での運動の経験をだしあって具体的にどのような運動が取り組めるのか、どんなことが出来るのかをお互いに学び合っていきたい。

 

  ま  と  め

 

 最後に私達日本人が「反戦・平和」の運動を国際連帯を求めて闘おうとするとき、残された大きな問題を提起しなくてはならない。

 日本の支配階級は明治維新以来、「近代化」の道を西に求め続け、アジア・太平洋地域に対しては、一貫して侵略政策をとる帝国主義への道を歩んできた。原爆被災はその侵略の歴史の帰結であったともいえる。すべてその責任が我々人民にあるとはいわないまでも、帝国主義侵略国の「国民」であったことを不問にすることはできないだろう。「八月五日」までの自分達を見直し、軍都広島の繁栄のもとでどのように生きてきたのか、どのようにして侵略戦争に動員されていったのかを明らかする必要がある。

 八・六の被害があまりにも大きく、与えられた精神的打撃も大きかったが故に、「被害者意識」だけが残ったことを責めるつもりは毛頭ないが、四〇年たった今日こそ、国際連帯をかちとるために、この点を整理しておく時であるといえる。私達は日本という「先進資本主義国」に生きる人民であり、ただちに帝国主義的侵略者になりうる危険性を帯びていることは肝に銘じておく必要がある。私達は、アジア・太平洋地域の民衆と真に連帯をかちとるためにこそ、日本の侵略政策にたいして闘い切らなければならない。

 <八・六ヒロシマ>を、その「瞬間」のなかに閉じ込めることなく、それ以前と以降の歴史の中でとらえるとき、これまで見落とされてきた多くのことが浮かび上がってきた。原爆被害者の「まどえ、あやまれ」とする声は、私達の反戦・反核の闘いの基底にすえられなければならないことが明らかになってきた。私達は反原発の闘いにも、反トマホークの闘いにも、それを貫いていく。そこからアジア・太平洋地域の民衆と連帯する反戦・反核の大きな闘いを作り、核のない世界を私達のものにしていく。

 私達は、被爆四○年の<八・六ヒロシマ>を、かつてない質と内容で闘い取ろうとしている。言葉とムードだけの反戦・反核から抜け出し、反原発・反トマホークという具体的課題を一つひとつ実現していく運動を日常的に闘うことをもって、反戦・反核の運動を作り上げよう。反原発・反基地などの一つひとつの具体的運動課題を「反戦・反核・平和」の内容としてとらえかえし、運動の位置づけを明確にし、日本と世界の状況と結びついた運動として作り上げよう。いろいろな運動課題を生みだしている根底を明らかにし、それに対する共同の「反戦・反核・平和」の闘いを追求しよう。原爆被害者の怒りを軸に、世界中の人々とりわけアジア・太平洋地域の民衆との国際連帯を求める闘いを作り上げよう。

 これまでの四〇年間、ヒロシマ・ナガサキは権力からも利用されてきた。原爆被害者は「被爆者」に切り縮められ、「被爆者」は核開発のために利用されてきた。「平和宣言」を読み上げる平和祈念式典は、軍拡を進める中曽根の同席を許す場になっている。人間のいない模型、生活感の無い物理的被害を陳列する原爆資料館は、はたして原爆の実情を伝えているといえるのだろうか。

 被爆四〇年。今年こそ、私達は<八・ハヒロシマ>を私達自身の手にとりもどさなくてはならない。

 

 八・五広島反戦反核集会報告

 

 八・五広島反戦反核集会は、地元広島をはじめ全国各地から多様な活動をつづける活動家三五〇名が参加して、八月五日午後四時半から広島市社会福祉センターの二階ホールでひらかれた。それは被爆四〇年を期に、日本における反核反戦運動の新たな活路をきりひらくため、被爆地広島の活動家集団が四月以来準備を重ねて意志統一を固め、全国世話人の支援のもとに各地各運動の活動家に呼びかけたものであった。近くは上関反原発運動の先頭に立つ主婦から、遠くははるばる沖縄からかけつけた反基地闘争の活動家まで、いま全国各地で反核・反戦・反原発・反トマ・反基地闘争を闘っている人々が、党派と立湯の相異も認めつつ一堂に結集した最初の「八・六」集会となった。

 会議はまず広島実行委員会の桝谷代表(電産中国地本副委員長)の経過報告と挨拶からはじまり、議長団に同じく広島実行委代表の松江澄(広島原水禁常任理事)と木原省ニ(原発はごめんだ市民の会)、宇田隆(トマホーク配備反対呉市民の会)の三氏を選んだ。議長団はとくにこのたびの集会の目的が単なる運動交流だけでなく、運動の根底についての共通認識を共同で獲得することにあることを強調して協力を要請した。

 会議はまず青田正裕事務局長による基調提起(別掲)の報告からはじまった。広島実行委員会がニカ月以上にわたる討議を通じて共同でつくり上げたこの基調は、今日の反核反戦運動を四〇年前の侵略戦争と被爆の原点からとらえ直し、「まどえ、あやまれ」と戦争・原爆・国家を告発する原爆被害者の心底深い憤りを拠り所に目前の反核反戦闘争を闘うとともに、現代の核を総体として把握することによって反核闘争と反原発闘争の一体化をつよく求め、切迫する情勢のもとで反トマ反基地闘争のいっそうの発展を訴えたものであった。

 基調報告につづいてそれぞれの立場から三人による副報告が行なわれた。まず最初に立った近藤幸四郎氏(広島市原爆被害者の会世話人)は、軍人、軍属、動員学徒など国と一定の身分関係をもつ者は戦災について国家の補償を受けながら、原爆や戦災で殺され傷つき身内を失った一般大衆の遺族は、どんな国家補償もなく切り捨てられていることを、原爆被害者の立場から激しい憤りをこめて告発し、援護法の実現にしつように固執する所以を強く訴えた。またそうした立場からいえば、基調文中被害者要求の第二項「死者への弔意の表明」は明六日再び慰霊式典に参加してうわべだけの「弔意の表明」でゴマ化す中曽根を免罪することになると指摘し、明確で厳密な用語に改めることを求めた。

 次いで報告に立った桝谷暹氏(電産中国副委員長)は、今日原子力発電が全電力の二〇%、日本産業全動力の三〇%を占めていることに留意をうながしつつ、いまや「平和でクリーンな原発」「コストの安い原発」という原発推進論の根拠が事実を通じて破産し、資本の内包する矛盾が深刻化しつつあることを強調した。さらに同氏は、今日もっとも憂慮されているものが大規模な事故の発生であるとのべ、廃炉にともなう既存設備の処分、労働者被曝線量基準、再処理などの問題が最大のネックとなっていることを指摘した。おわりに同氏は、核兵器と原発との一体化を再認識しつつ、核の軍事利用と「平和利用」との分離分断攻撃と闘うことの重要性を訴えた。

 最後に報告した舞田宗孝氏(トマホーク阻止京都連絡会)は、まず世界の人々の「死」とわれわれの「生」が同居していると警告し、トマホ−ク寄港、在日米軍指揮・通信・情報基地が核戦争で果す役割と意味を改めて強調した。同氏は、一〇年間に七〇〇〇発のトマホーク等戦域核兵器を極東の艦船に配備する計画こそ同時多発報復戦略から、進んで限定核戦争の勝利をめざすレーガン世界核戦略の重要な一翼であると指摘した。また同氏は、「京セラ」のように一見平和産業と見えるものが、いつの間にか核戦略体制の部品をつくる軍需産業になっている現代日本の「日常」を告発し、反トマ反基地闘争の追求と合せて、日常周辺の再点検と核チェックの運動を強く訴えた。

 三氏の報告を受けたのち、六時三〇分、会議は休憩に入ったが、この頃には参加者は会場にあふれ、再開された会議は人々の熱気で冷房もきかなくなったなかで討論に移った。議長団は討論に先立って、三つの問題に分けて討議するよう要請して人々の賛同を得た。

 第一のテーマである「被爆と反核反戦」については、多くの人々が討論に参加した。とくに東京空襲の被爆者から、戦争被害と原爆被害とはけっして別のものではない。たしかに原爆被害の比較を絶する傷の深さはあるとしても、歴史的には十五年戦争・太平洋戦争の帰結としての原爆投下であったことを忘れてはならないと、被害の共通なつながりにもとづく連帯を強調する意見は、多くの人々の支持を受けた。また京都から参加した広島原爆の被害者からは、原爆の被害が、いま多くの人々を日常的に殺し傷つけつづけているさまざまな公害とも、けっして無縁ではないことが訴えられた。議長の要請によって発言した沖縄の活動家は、長期にわたって米軍基地と闘う「一坪地主」の闘争を報告しつつ、運動が核兵器だけに限定するのでなく、支配と抑圧を強制する戦争準備体制との全面的な闘いであるべきことを強調し、すでに加害者となっている日本の現状に鋭い眼を向けるべきだと訴えた。

 第二のテーマ「反核と反原発」については、正面から対立する意見も出され、この問題の深い背景をうかがわせた。この問題で最初に口火を切ったのは、大阪で活動する反原発科学者会議から参加した活動家の意見で、副報告の桝谷発言のなかで、すでに原発推進論が根拠を失い、撤退作戦に入っているということへの反論であった。彼は、桝谷意見は原発の自動崩壊論に通じるときびしく批判し、電力資本にとって原発はまだまだ有効性をもつもので、今後さらに推進されると強調した。また同氏は下北半島の核燃料サイクル基地建設の重要性を指摘し、社会党内容認路線の抬頭を強く批判した。こうした討論は「日中原子力協定」と社会党内容認路線という相関する現実的な問題点について、どう対応するかということを強く意識したものであった。だが、この問題や資本の動向についての討論は、改めて機会をもつこととして、再び本来のテーマに帰り、科学者として反原発運動の先頭に立つ高木仁三郎氏の包括的な発言で締めくくられた。同氏は、現代がヒロシマの「キノコ雲」から始った「核」の時代であることを正確に認識し、軍事利用と「平和利用」とを問わず、「核」を生活の総体から受けとめ、原点に還って反核・反原発一体の闘いにとりくむべきだと強く訴えて満揚の拍手を受けた。

 このとき、かねて要請していた李実根氏(広島県朝鮮人被爆者協議会会長)が出席、予定していた朝鮮人被爆者の立場からの特別提起を受けた。季氏は戦前戦後を通じる朝鮮人の日本帝国主義による被害について語った後、靖国神社公式参拝、防衛費一%ワク撤廃など日本の危険な現状に言及しながら、いまこそ備狭なセクト主義や意見の相異による対立を克服して、ともに闘う広い戦線をつくることの必要性と重要性を訴えて満場の拍手を裕びた。

 議長団は時間が残り少なくなったことを告げ、第三のテーマである反トマ闘争と合せて総括的な意見、是非発言したい人々の意見の発表を求めた。このなかで上関原発反対運動で闘っている若い主婦が、子供を抱いて立ち、運動の経過を住民の立場から報告しながら、広い心でともに闘うことを訴えて熱心な拍手を受けた。また、反トマ報告をきいて、何でもない平和産業と思っていた 「京セラ」が、いつの間にか米核戦略の一端をになっていたという指摘に強い衝撃を受け、今さらながら無意識のうちにつかっている「日常」の再点検の重要なことが身にしみたと語る発言には、多くの人々が共感を表明した。時に八時半、まだまだ意見はあったが、会場の関係で止むなく討論を打ち切り、直ちに議長団の集約とまとめに入った。会演の集約と討論のまとめは、議長団を代表して松江議長から発表された。

(会議の集約と討論のまとめ)

(一) 基調提起と副報告を原則的に承認する。

(二) 報告と意見による基調報告の修正

 (1) 被爆者援護の要求第二項目「死者への弔意の表明」を「国にあやまらせ、償なわせる」と改める。

 (2) 反トマホーク運動のなかで「安保条約は集団安保として機能しはじめ・・・・」の集団安保をカツコに入れる。

(三) 討論のまとめ

(1) 初期の運動に「被爆者」ということばはなく、広く原爆の被害者から戦争被害者への連帯の意味をこめて「原爆被害者」ということばで呼んだ。しかし被爆者医療法制定後、原爆被害者を被爆障害をもつ個々の患者としての被爆者に解体し、このことばはいつとなく運動の中に入り込んで通称となった。改めて原爆被害と戦争被害との一体的な把握が重要であることをとらえ直すことによって、いま新たに加害の道に足をふみ入れている中曽根政府にたいする反核・反戦の闘いと原爆被害者の「まどえ、あやまれ」という怨念をはらす闘いとは、けっして別なものではないことを確認する。あの日ヒロシマの時計は八時十五分で永遠に止まったが、歴史の針はそれ以前もそれ以後もたゆみなく動いている。

 

(2)広島の最初の運動は、一九五五年ヒロシマに原発を建設しようとする米日反動の謀略を打ちくだいた。″ヒロシマを焼いた火でヒロシマを照らすことは絶対に許さない″と。 当時の本能的直感的な拒否は、今日 では科学的な追求によって理論的にも実際的にも確かめられた。あのヒロシマの「キノコ雲」から始まった新しい核の時代を生活の総体から受けとめるなら、反核兵器と反原発はけっして別のものではない。だから                                                                                                                         こそ、資本と政府は分離分断によってまず「核」を承認させ、ついで反核運動を反原発運動との分断でやわらげようとしている。われわれは、こうした分離分断攻撃と闘って反核 反原発運動一体化の闘いを押し進めることを確認する。

 

(3)時間の関係もあって、討論は充分発展させることができなかったが、反トマ、反基地、核チェックの運動は、それ自体米日極東核戦略体制と闘う共闘体制として、アジア・太平洋人民との連帯を要求している。また平穏無事と見える「日常」のなかにひそむ戦争と侵略への加担を再点検しつつ、告発することが極めて重要であることを確認する。

 全体を通してとくに強調されたのは、運動の統一であった。李実根氏の特別報告、上関の主婦の発言にあったように、闘うものの統一こそ運動の最大の武器である。同じ意見の  ものがともに闘うことは当然であって、統一ではない。異なった意見をもつものがともに闘うことこそ統一である。今後とも異なる意見については、大胆な討論を深めながら、反核・反戦・反原発・被害者援護をめざし統一して開かおう。

 

 

 以上のまとめを集会にはかり、満場の盛んな拍手で一致して確認した。さらに議長は、この会議の行動的な集約として、翌六日八時半から中電本社前で行なわれる電産中国地本の反核・反戦・反原発ストによる座り込み抗議に皆で参加しようと提案し、全員の拍手で確認し、八時四十五分集会を終った。

 (附記)

 このたびの集会は、いくつかの点で重要な意味があった。その第一は、この集会を準備する過程で広島の統一的な運動主体が形成され、また各運動の全国的な連帯をきりひらく端緒が生れたことである。広島では、いままでもいくつかの「八・六」集会が何度となく行なわれてきたが、今度のように広い範囲で統一的に結集したのは初めてであった。それは被爆四〇年ということもあったが、それ以上に現在の状況と運動への危機感がそうさせたともいえる。

 八月十八日ひらかれた広島実行委員会の総括会議でも、この結びつきを積極的に受けとめ、全実行委員の参加を求めて会議をひらき、ひきつづき県内反核運動のゆるやかな連絡組織をつくって統一的な運動の発展を共同できずこうという提案を確認した。

 既存の原水禁運動に再び分岐と停滞が生れはじめているとき、それと並んで自立的な活動家集団による反核の諸運動が、連帯しながら統一的に活動を展開することは被爆地ヒロシマの反核運動にとって、きわめて重要な役割を果すに違いない。また、今回は必ずしも充分ではなかったが、全国的な労働運動活動家集団、反トマ全国運動をはじめ、各運動各組織からの参加によって、今後の運動の深まりと広がりの基壌をきずいたといってもいいのではないか。

 第二に、集会のもち方に従来と異なる新しい提起をしたことである。従来、このようなテーマで集った幅広い集会では、とかく運動交流に終りがちで、それはそれとして重要な意味があるとしても、かみ合った討論にはなりにくかった。しかし今回は運動の節目でもあり、日本の反核反戦運動がいままでのような被爆の原体験によりかかるだけの受動的国民主義的なものから、いっそう深い根拠と国際性を獲得し、米日極東核戦略体制と対時するアジア・太平洋の反核民衆連帯に一歩ふみ込むためにも、この運動の根底について共通の認識を獲得しようとした。そのため、まず地元広島から共同の基調提起をつくり上げるため、全く平等で自由な討論で努力した。この基調をつくり上げる過程のなかに、古い経験と若い追求の新しい結合があった。

 第三は、この度の集会のなかで不充分ながら討論を通じて獲得した内容である。それは二つの問題に集約できる。その一つは、反核と反戦が四〇年前の歴史からとらえ還すことによって、反核・反戦・反侵略とことばを連ねるだけでなく、被害者の心底深い無言の告発から、日本帝国主義の侵略戦争によるアジア・太平洋民衆への加害と原爆被害・戦争被

害とを、内実において統一的に把握し、いま進められようとしている新たな加害を阻止する闘いと反核・被害者援護の闘いを一つのものとして追求することができたことである。もう一つは、反核と反原発とのかかわりについての追求である。広島の初期の運動としては、一体としてとらえなから、その直後から軍事利用と「平和利用」の分離分断が進められ、原水禁運動内部に「平和利用」についての賛否両論が生れた。それはこの運動の分裂にひきつがれ、「原水協」は条件付反対だが、実際には結果として原発賛成となり、「原水禁」も内部で意見が微妙に二分していた。その後、反原発運動の高まりのなかで「原水禁」はようやく反原発の立場を鮮明にしたが、いままた運動の後退のなかで社会党内に原発容認路線が生れた。それは「日中原子力協定」の問題と深くかかわっている。それは、一般的には資本主義国の原発と社会主義国の原発を、原理的な方法論として統一的にとらえるという問題であり、特殊的には日本における実践的な反原発運動と社会主義運動における原発問題を、どう統一的にとらえるのかという問題である。このたびの集会の討論は、こうした問題意識を内包しつつ新たな探求をはじめる端緒となった。

 反トマ闘争の討論の弱さは、問題が討論の余地なく明確であるということにもよるが、それ以上に実践の弱さの反映でもあつたのではないか。

(一九八五・八・二九 松江 澄

△ 集会の記事は議事録のテープ起し が間に合わず、私のメモにもとづいて書いたので、意見の集約について発言者の意図にそわない点や、重要な意見と問題点を落したこともあるのではないかと懸念している。

 

 広島実行委員会 (○印は代表)

 

宇田  隆(トマホークの配備を許すな呉市民の会)

沖 美保子(公害をなくす三原市民連絡会)

小田原栄子(全金中国工業支部)

川田 澄(全港湾中国地方部会長)

川出 勝(岩国基地監視連絡会)

木原 省二 (原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)

草刈 孝昭(トマホークの配備を許すな呉市民の会代表)

栗原 貞子(詩人)

好村富士彦(広島大学教授)

近藤幸四郎(広島市原爆被害者の会世話人)

伊達  工(全逓広島中央支部長)

塚原 華子(呉YWCA

中田 慎治(原爆擁護ホーム労働組合委員長)

林 修二(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座)

平桜 直之(労働情報広島支局)

広兼 主生(労働運動研究所)

福井 善之(芸南火電阻止連絡協義会)

○桝谷 暹(電産中国地本副委員長)

○松江 澄(広島原水禁常任理事)

 松山 家芳(医師)

 宗像 基(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座代表)

 山崎 一男(大久野島毒ガス障害徴用者協議会会長)

 山田 忠文(全造船三菱広機分会委員長)

 山本 恵司(南民戦事件破弾圧者を救援する広島の会)

 吉田 正裕(原発はごめんだヒロシマ市民の会)

 

全国世話人

市川 誠(総評顧問)

梅林 宏道(トマホークの配備を許すな全国運動)

佐伯 昌和(京都反原発めだかの学校)

清水 英介(前電産中国地本委員長)

西尾 漠(プルトニウム研究会)

樋口 篤三(労働情報編集人)

前野  良(長野大学教授)

横山 好夫(全国労組連事務局長)

 

 「核の冬」を招く爆発量 米ソ兵器の1%程度

 核爆発による地球の寒冷化、いわゆる「核の冬」の研究を続けている米国の天文学者カール・セーガン博士(コーネル大教授)は「核の冬」をもたらす核爆発の規模はこれまでの予想よりはるかに小さく、米ソの戦略・戦域核兵器の一%程度が爆発しただけで到来するという新しい研究結果をまとめた。

 「核の冬」は、米ソが核戦争に突入し、北半球の都市や工業地帯で核爆発が起きた場合、大気中に巻き上げられる紛じんで太陽光線が遮られ、地球上は氷点下の世界になるという現象。

 博士たちは昨年十月、シンポジウムでこのシナリオを発表するにあたって、米ソが保有する戦略・戦域核兵器一万八千発のうち、五分の一が爆発したと想定してデータを処理した。しかし、その後、ソ連の科学者と協力してさらに精密な計算をしたところ、一%程度の爆発でも十分「核の冬」が到来することがわかったという。

 博士は「核爆発による粉じんが攻撃された国から攻撃した国に届くのに十日しかかからない。米ソ両超大国はいずれも、奇襲攻撃によって相手国を破壊すれば、必ず自国をも滅ぼすことになる」といっている。   (朝日新聞から

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 松江澄さん               

共同で追求する反戦・反核の針路

85ヒロシマ集会から

 

 八六年八・五反戦反核広島集会は昨年にひきつづいて八月五日、広島市東区民文化セソターで全国から三〇〇名が参加してひらかれた。

 まず広島大学文学部の好村富士彦教授が開会の挨拶をのべた。同氏は、昨年の十二・八(太平洋戦争開戦)以来、今年の二・一}(紀元節)、四・二九(天皇在位六〇年)、六・一五(チェルノブイリ)とカンパニアをつづけて八・五を準備してきた広島実行委員会の経過を報告。その提案にもとついて吉田正裕(原発はごめんだヒロシマ市民の会)、湯浅一郎(トマホークの配備を許すな/呉市民の会)、中川浩史郎(ストップ・ザ・戦争への道ひろしま講座)の三氏を議長団に選出した。

 最初に基本提起者の一人として桝谷逞氏(電産中国地本元副委員長)は「反原発運動からの提起」と題し、チェルノブイリの原発事故が反核運動にもたらした重大な衝撃と影響についてのべた。同氏は巨大技術に不可避の事故と、一旦おきた事故の影響がいまや一国のワクを越えた地球的規模での被曝をもたらしたことを指摘し、もはや原子力は科学技術ではないと断言して全原発の即時停止を要求した。また桝谷氏はヒロシマの被曝とチェルノブイリ被曝の同質性を強調し、原爆のヒロシマが反原発運動を闘うことの特殊に重要な意義をのべるとともに、豊北、上関など中国地方反原発運動の共同戦線による原発新規設置を阻止する勝利的な展望を説いて、反核運動と反原発運動の共同闘争を訴えた。

 つづいて梅林広道氏(トマホークの配備を許すな!全国運動)は「非核の実質化」をめざし、日本の現状から出発して非核の空間を拡大する闘いの追求は日本の現状そのものの変革の有効な手がかりになると確信をもって訴えた。同氏は、そのため`に必要なことはニュージーランドの教訓から学び、"あきらめ"からの脱却を闘いとることを強調。そして核艦船拒否の世界的運動潮流の重要な一環としての非核太平洋運動の新たな局面のもとで、住民の圧力による非核自治体運動の自立的な活動の重要性を主張した。梅林氏はそのため、日本政府のアキレス腱である米核船寄港にょる非核三原則の空洞化を衝く「非核コード・ヒロシマ」(核有無の判定基準)を提案した。

 基本提起の最後に松江澄氏(広島原水禁常任理事)は「ヒロシマからの提起」を報告し、明年の八・五に向け新ヒロシマ宣言をめざして運動を進めようと呼びかけた。

 このあと特別参加者として二人の外国人活動家が登場。オーストラリアの反核活動家ジョー・ヘイターさんは太平洋の民衆による海の非核連帯を訴えた。

 つづいての討論のなかで、沖縄からかけつけた花城自動車労組委員長の沖縄=ヒロシマをめざす運動の報告と、韓青同広島県本部尹副委員長の米帝国主義への怒りと日韓民衆連帯のアピールは参加者から大きな共感の拍手を受けた。また「原発はごめんだヒロシマ市民の会」の木原省治氏は、中電の圧力をはね返し今春の町会選挙で一人だった反対派を七人に拡大した上関の闘いを報告した。また関西の全逓組合員は、七、八人の職場の仲間とともに、ともかく行動しようと大阪から反核サイクリングで広島へ来たと報告し、激励と連帯の大拍手を受けた。

 終りに八月二十四日に迫った米核戦艦二叶一ージャージーの佐世保寄港に抗議し、ともに闘う緊急決議を拍手で採択、宗像基氏(ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座〉の挨拶で閉会した。(八・九松江記)


八・五反戦反核集会ヒロシマからの提起

核文明に対抗する人間宣言に向けて

                                          労働運動研究掲載

一、チェルノブイリとヒロシマ

チェルノブイリの事故は広島に新しい衝撃を与えた。それは、髪の毛が完全に抜け落ちたチェルノブイリの被爆者をテレビで見た瞬間、「いままたヒロシマが!」と、背すじを走った戦傑であり、幾千キロもの距離をいっきょに越えて結び合った共通の感情でもあった。

それが原爆投下直後の熱線による巨大な破壊−業火とは違って音もなく静かに地を這う放射能の流れであるだけに、ヒロシマ以上の影響があると聞かされても容易には信じ難いほどであった。

もしチェルノブイリが遠い世界のことのようにしか思えなかったとすれば、それはチェルノブイリが遠いからではなく、四〇年来のヒロシマの苦しみが広島の私たちからも遠くなっていたからではないか。「まどえ、かえせ」という被害者のふかいためいきのような声を私たちの耳がきき分けることができなかったのだ。

二、現代の核危機はいま

この事故のもつ音心味は、原爆と原発がけっして別のものではないことを知らせてくれただけではなかった。

「チェルノブイリ」は私たちに教えている。現代の核危機はヒロシマのように、何時かある時ある所での爆発的な破局としてだけでなく、昨日と同じ今日、明日の生活の日常のなかに、徐々に、ゆっくりと、その破局が準備されていることを。そうしてまた、放射能に国境がな

いことも。

いまレーガンの核戦略に日本をしばりつける中曽根政府のもとで、横須賀、佐世保には一年に二百数十回も核疑惑の米艦船が寄港し、上瀬谷、依佐美などの通信・情報基地からはペンタゴンの指令が日々近海深く潜行する原潜に送られ、沖縄、岩国などの基地からは核装備のととのった爆撃機が飛びたつ準備が行われている。

そのうえ、陸海空自衛隊をそのまま米軍に統合した日米核安保はいま韓国の全斗燥とむすび、極東における日・米・韓の軍事一体化は急速にすすんでいる。北の海と朝鮮半島にいつ危機が爆発しても不思議でない緊張が目にみえない所で毎日毎日つづいている。

私たちは改めて、あたりまえのようにすごしている日常を見つめ直し、とらえ返し、一つ一つの核と闘わなくてはならない。

三、タテの運動とヨコの運動を

非核自治体宣言の運動は、反核・非核運動の新しい領域を獲得した。それは住民が誰でも参加できる非核運動の第一歩である。しかし、すでに全国で九五〇をこえた非核自治体のほとんどは、宣言を出させるまでの広い帯のような住民の運動が解かれ、安堵感とともに運動の空白が生まれていないだろうか。

私たちは非核宣言の内実を点検し、空と港、工場と学園から一切の核を追及追放しなければならぬ。そうして日本の全土を一区画ずつ再点検、再調査し、核とのどんな小さな関わりも許さぬ非核の網でおおいつくさなくてはならぬ。

こうしたヨコの運動とタテの運動――反トマ、反基地、反原発の運動がかたく組み合わされるとき、諸運動はその独自の性格をいっそう強めつつその同質の根拠を共有することができるだろう。なにより重要なことは、核まみれの日本のなかに非核の陣地を作るための反核運動の共同戦線をタテとヨコの両面から追求することである。

四、非核の思想と反核の闘い

そのためにも必要なのは、巨大な科学技術の体系の上に居座って人間を見下し、目にみえぬ管理と支配を通じて浸透する「核」の思想と正面から対抗する、非核の思想である。それは「核」と人聞が共存でぎないことを改めて確認しつつ、核廃絶のもとでのみ実現できる平和で人間的な共同社会をめざす思想である。

かつて広島の栗原貞子は、原爆で傷ついた人間の呻きに満ちた地獄の地下室で、死んでいく人々の協力によって産み落された新しい生を「生ましめんかな」とうたい、峠三吉は原爆で引き裂かれた痛みに喘ぎながら「私につながる人間を返せ」とうたい込んだ。これこそは非核の思想の原点ではなかったか。その意味で、非核の思想とは現代の核文明に対抗する人間の思想である。それは四十一年前ヒロシマの地獄から生まれたが、いまでは核時代に生きる人間の思想として多くの人々をとらえ℃いる。いまは少数でも近い将来にはきっと多数の、そうして人間らしく生きようとするすべての人々の思想となるだろう。それは反核の闘いを導き、反核の闘いは非核の思想をますます拡げるであろう。

五、非核国際連帯の発展のために

反核の闘いは一国だけでは成就できない。現代の戦争は前線と銃後、戦闘員と非戦闘員を区別しないだけでなく、戦時と平時の区別をなくさせ、一切の国境を否定する。核兵器はその所有者と意図の相違を趣えて人類絶滅の兇器となり、攻撃と防御を憎悪と報復に変える。

反核の闘いも非核の陣地も、国境を越えた統一行動と国際連帯によってこそ実現される。いまこそすべての核を包囲するため「人間の鎖」を大洋から大陸まではりめぐらさなくてはならない。そのとき私たちにとってアジア・太平洋の民衆と連帯することは非核国際連帯の最も身近な第一歩である。

しかしそこはすでに早くから米日極東核戦略の基地とされ、核の実験と廃棄の墓場にされていた。ここでは反核の闘いは民族自決の闘いと固く結び合わされている。何故ならば核の支配は民族の自由を奪い取るからである。

かってこれらの地を奪い、いままたアメリヵ帝国主義のパートナーとして極東、核基地を共有している日本の私たちにとっての非核国際連帯とは、闘うアジア・太平洋の民衆と連帯しつつ日本政府とのきびしい闘いを自らに課することでなくてはならない。

六、今後の運動の展望のもとに

いまきびしい情勢のもとで日本の反核運動は新しい画期を迎えている。歴史的な原水禁運動を長期にわたってになってきた巳本原水協と原水禁国民会議は、とりわけ日本共産党の独善的な本流意識とセクト主義によってその提携を断った。

他方では核兵器廃絶運動連帯、反核千人委員会などの新たな全国運動も生まれ、全国各地で運動を続けている自立的で多様な草の根運動と合わせて、いま日本の反核運動は新たな運動の創造と統一をめざして転換期にある。

この背景にはすでに早くからすすめられていた労働戦線の再編成問題がある。近く予定されている全民労協の労連(ナショナル・センター)への移行にともない、とくに終始総評が重要な支柱となってきた原水禁運動なかでも原水禁.国民会議は、新たな選択を迫られるだろう。いま始まっている模索もこうした情勢を見すえながら動いている。

しかしこの運動には主流も支流もない。必要なことは、それぞれの多様な運動がいっそう独自な追求をつづけながら共通の課題のもとでともに闘う行動の統一であり、自立を前提とした広く深い連帯である。私たちはこの転換期にあって新しい情勢と動向を見定めつつ、きびしい核状況と対峙して闘う全国各地の諸運動、また各分野の諸運動と連帯して下からの統一運動の強力なバネとならなければならぬ。

そのためにも重要なことはいっそう多くの労働者、労働組合に呼びかけ、市民運動と労働運動の結び合いによる新しい型の反核運動を追求するなど、運動の新たな展望をきりひらくことである。

七、新ヒロシマ宣言をめざして

いまから三十六年前の今日――八月五日、私たちは朝鮮戦争下最初の八・六闘争を、二重権力の弾圧と数千名の機動隊による厳戒のなかで貼準備していた。この闘いをになったのは広島を中心とした日本人青年労働者達と中国地現から結集した朝鮮人活動家達であった。

それから五年目の今日――八月五日、私たちは明日に迫る初めての原水爆禁止世界大会の準備に忙殺されていた。「ビキニ」以来の爆発的な反原爆国民運動は世界と全国から集まった数千名の代表者達に新しい運動の針路を託し、被爆者ははじめて「生きていてよかった」と訴えた。しかしこの大会では朝鮮人被爆者のことは一言も語られなかった。

私たちは、かつてヒロシマが世界最初の核の被害者だと思いこんでいた。しかしいま私たちは知っている。アメリカやオーストラリアの先住者達がウラン採鉱の最初の被害者であったことを。そうして日本の原水禁運動が始まる端緒であったビキニ実験ではその直下に人々が住んでいたことを。そうしてまたアメリカをはじめとした各国の工場と実験場で多くの人々が傷ついていることを。さらにまたスリーマイルとチェルノブイリの今後の核の被害者のことを。

いま広島はヒロシマであってヒロシマではない。ヒロシマはいまなお、ここ広島で、南太平洋で、チェルノブイリでつづいている。私たちは地球からヒロシマを終わらせるために闘いつづけている。そのために、四十一年前のヒロシマではなく、反核を闘いつづけ非核をかちとるための、いまのヒロシマの宣言として旨本と世界の人々に呼びかけることを提起する。

明年のこの集会を期して、ここに集ったすべての人々とすべての運動の展望と針路を「新ヒロシマ宣言」に結実させよう。それは核時代における最初の人間宣言となるだろう。

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特集 核文明に抗して反核・反戦を

自立と連合への再出発を

―原水禁運動の歴史に学んで―

 

松江

労働運動研究 198610

 

戦後40年の闘いから

 

  すでに戦後四〇年たった。この間、反核反戦運動はさまざまな曲折をへて、いま重大な関頭に立っている。

  戦後日本の反戦平和運動は、世界平和運動が情勢の変化と発展にもとつく新しい質と広さをもつようになったことが理解されず、占領下著しく出発が立ち遅れ、反核運動も一九五〇年前後になってようやく開始された。日本で最初に核兵器禁止を大衆集会で要求決議したのは四九月十月二日(国際反戦デー)にひらかれたた平和擁護広島大会であった。ひきつづき五〇年には核兵器禁止を世界に訴えるストックホルム・アピールの署名運動が日本でも広く組織されて六四五万に及び(世界で五億)、朝鮮戦争下では弾圧に抗して反戦反核集会や武器輪送に反対する闘争が闘われた。

  こうした闘いの流れは講和後、各地で大衆的な反基地闘争として発展した。なかでも五三年の内灘米軍試射場反対闘争、砂川の立川墓地拡張反対闘争は、もっとも大衆的で戦闘的な反戦闘争として、折から「プライス勧告」に反対して立ち上った沖縄の米軍基地反対闘争とともに、五〇年代反戦闘争の頂点を形成した。しかしこうした戦後初期の反核・反基地・反戦の闘いは、五四年「ビキニ」から始まる爆発的な反原爆運動の大衆的な高揚の大波に呑まれて、次第に影をひそめることになった。  その後、六〇年代後半から七〇年代初期にかけて、国際的な運動の高揚と呼応してベトナム反戦運動、米原子力空母エソタプライズ佐世保寄港阻止闘争、沖縄闘争などが急速に発展し、戦後二度目の大衆的な反戦反核闘争が激しくたたかわれた。その主体は対立する各急進派セクトを中心とした学生部隊と戦闘的な労働者部隊に加えて、社・共・総評による動員部隊であった。だがこうした闘いも七〇年闘争の終焉とともに後退し、再び数十万の反核大衆集会が組織されるのは八○年代ヨーロッパ反核運動を媒介に、総評が呼びかけたとぎだった。

  一方、五四年以来の原水禁運動は、当初から官民一体の国民運動として左から右までの幅広い大衆が奔流のように全国を浸したが、六〇年安保闘争を前に右から分裂し、つづいて六三年日本共産党による体制論の持込みにより「いかなる」をめぐって「左」から分裂し、以来「原水協」「原水禁」という二大潮流に分.岐して今日に至っている。それを主.要に支えてきたのはそれぞれ日本共産党と総評であった。

  他方、六三年の分岐とともに運動の戦列を離れた婦人、青年などの既存の市民諸団体は七七年からの統一世界大会に参加することで再び戦列に復帰したが、その世界大会が今年再び破産することによって二大潮流とは別に第三の潮流として登場した。

  こうした日本における反核反戦運動の歴史は、われわれに重要な教訓を教えている。その第一は、初期のきわめて具体的で戦闘的な、そうして時として数千数万の労働者を組織する反戦反基地闘争が「ビキニ」反原爆運動のような大衆的で包括的な運動と併存提携しながら独自に癸展するのでなく、国民的な原水禁運動に埋没させられ、ひきつづく怒濤のような六〇年安保闘争の大潮流に押し流されてしまったことである。その後、七〇年闘争に向って再び激発するが、それは反核平和の運動というよりも政治的な反戦闘争というべきであろう。結局、時として激発する反戦闘争はしぼしば高揚したとはいいながら、反核反戦を独自に追求する運動がいつしか大運動、大組織に統合、併呑されてその自立性を失ってきたことは日本の運動に特殊な性格を刻印している。

  したがって第二の教訓として重要なことは、こうした大組織への統合によって具体的な問題意識と運動課題が次第に抽象化されることである。情勢の変化と緩急の要求する運動課題の変化と運動形態の多様性にもかかわらず、原水禁運動の課題と運動は十年一日の如くほとんど不変であり、年中行事のようになっている。それは単なる惰性というだけでなく、方針を異にする諸組織・諸政党がそれぞれ独自の方針で闘いながら行動を統一するのではなく、大団体に統合されるなかで内部の指導権を争う結果、その行動は常に許容される最大公約数の課題に集約される。そこには主体を前提とした連帯、独自の方針と活動を追求しながら共通課題での行動の統一だけが可能とする開かれた自由な行動は生れない。それは行動の統一を組織的な統合で代替する特殊日本的な運動の綾小化に外ならない。

  第三に、その大運動の主要な支柱は常に大労働組合あるいはそのナショナル・センターであり、地方にあっては県労、地区労である。そこでは労働者の参加する運動と市民の運動はほとんど交わらない。そのうえ労働者の参加する運動は、労働者一人ひとりが自主的に参加するというよりも労働者を組織している労働組合の参加による間接参加であり、組合員はその集会に参加することだけがほとんど唯一の反核平和の運動となる。結局、原水禁運動は労働組合あるいは政党の平和運動部となって市民の自立的参加を疎外しつつ、実は労働者階級の独自な反核反戦闘争を疑似市民的な運動で代行することになる。こうした運動と組織の状況はそれを支える労働組合や政党の力の度合に応じて運動の強弱と緩急がきめられることになる。

 

「チエルノブイリ」は何を教えたか

 

  ヨーロッパ反核運動に触発された八二年の広島ー東京ー大阪の連鎖的な反核大集会以後、日本の反核反戦運動は核情勢の緊張にもかかわらず労働組合運動の停滞を反映して再び後退しはじめた。この集会と運動のなかで芽ばえたと思われた自立と連帯の新しい契機もいつとなく土に埋もれようとした。

  こうした情勢のもとで運動の危機感をもつ活動家によって「トマホークの配備を許すな!全国運動」が組織され、各地の反トマ反基地活動をすすめつつ「ュニークな核チェック運動から非核自治体運動など大衆的な基盤の獲得へと運動を前進させた。

  また七〇年代後半の反公害運動から生まれ、その後きびしい資本と権力の弾圧のなかで運動をつづけてきた反原発運動は、中国地方の共同闘争による豊北から上関への勝利的な展望の獲得を拠点に新たな発展を追求しつつあった。その四月もおし迫った下旬、ヨーロッパからの第一報はソ連のヨーロッパ西南部で原発事故が起り、すでに放射能を含んだ雲は西流してヨーロヅパ北部を襲いつつあることを伝え、世界の耳目を聳動させた。やがて一日ごとに新しい情報が伝えられるなかで、人々は改めて重大な事態に直面していることを知った。

 こうしてチェルノブイリ原発事故は世界の人々と国際的な反核運動に、重大な影響を与えることになった。  一九四五年八月六日のヒロシマの「きのこ雲」が新しい核時代の始まりを告げる象徴であるとすれば、チェルノブイリの目に見えない放射能の雲は、現代における恐怖を国境を越えてまざまざと人類に開示する象徴であった。この事故のなかにはスリーマイル事故と合せて、戦後四〇年間のはげしい核開発競争と巨大な技術革新が陰画のようにはめこまれている。それは人類に改めて次のような重大な事実の確認を迫っている。

   その一つは、核のもたらす放射能の影響の巨大さである。ヒロシマの数百倍の放射能がヒロシマのように突然の爆発と巨大な炎ではなく、静かな日常の生活のなかに音もなくしのび込んできたのだ。ヒロシマの被害の大きな部分が瞬時のすさまじい爆発による死傷であったのに比べてチェルノブイリのそれは、いわば「純粋」な放射能の被害であるだけに底知れぬ恐ろしさを思わせた。それはいっきょに全ヨーロッパを襲って大きな影響を与えた。核と放射能

に国境はない。予想される「核の冬」を垣間見る思いである。

  そうして二つ目には改めて原爆と原発―核兵器の爆発と原子力発電所の事故が、種類は違っても全く同じ放射能による影響と被害を与えるということである。それが同じ核の利用の仕方の相違にすぎず、その素材はいつでも相互に転化できることが暴露されてはいたものの、チェルノブイリ事故はその被害が全く同じものであることを改めて事実で証明した。四〇年前、被爆後まもなく頭髪が抜け落ちた経験を持ちながら生きながらえた広島の人々が、モスクワの病床にあるチェルノブイリ被害者の頭を見た瞬間、思わずゾヅとしていまわしいあの"" を思い出したのであった。

  さらに最も重要なことは現代における核危機が、ヒロシマのようにある日ある所を突然襲う爆発的な破局としてだけでなく、昨日と少しも変らぬ今日の生活のなかに、徐々に、ゆっくりと破局が準備されていることである。しかしそれはチェルノブイリだけのことではない。

  「チェルノブイリ」が人類に与えた予兆は世界の反核運動の新たな視野を拡げ、人々に核危機の警鐘を乱打しつつ運動の新しい対応を迫っている。その意味で、ヒロシマ以後がヒロシマ以前と区別されるように、チェルノブイリ以後はチェルノブイリ以前と区別される核時代の新しい画期をつくり出した。

 

核艦船同時寄港の意味するもの

 

  そうした新しい状況のなかで八月二十四日、ニュージャージーをはじめ米核艦船による佐世保・横須賀・呉の旧軍港同時寄港は日本をめぐる核状況の新たな緊迫を告げている。

  すでに米・仏により五〇発を超える原爆・水爆を実験のために投下されて深刻な被害を受けている太平洋諸島の人々はひきつづき米極東核戦略の基地を押しつけられ、いままた日本を含む核廃棄物の捨て場の犠牲にまでされようとしている。われわれは太平洋諸国人民の闘いを通じて核の支配体制が民族の自由を奪うことを知らされた。

  ここで反核非核を闘うことは民族の自由を奪い返す闘いとけっして別のものではない。一九八○年ベラウはアメリカの圧迫を人民投票でしりぞけて非核憲法を採択し、バヌアツは人民の闘いで独立をかちとった。同年同地の非核太平洋会議で採択された「非核太平洋憲章」はまた民族の自由をめざす闘いの宣言でもある。その後ニュージランドはついに日米安保に匹敵するANZUS条約からの事実上の離脱と引き替えに米核艦船寄港拒否をつらぬいた。フィリピンの「二月革命」と韓国民主革命をめざす闘いはますますアメリカ極東核戦略体制の基盤を揺がしている。

  いまアメリカが広い太平洋沿岸で頼りにできるのは、かつての敵でありながらいま「運命共同体」を誓う口本だけである。四〇年前にアジア・太平洋をはげしく奪い合った日米帝国主義はいま軍事同盟を結んで再びアジア・太平洋を今度は核の戦場にしようとしている。自衛隊の米軍への完全な統合のもとに核基地・核通信情報基地がつくられ、日々ペンタゴンの指令は近海を遊ざするアメリカ太平洋艦隊に送られ、いままたかつての日本海軍三大軍港に同時寄港を強行した。国際的な反核運動が再び高揚の兆を見せ、アジア・太平洋の非核をめざす解放運動が進めぼ進むほど、途上国への威嚇をその主要な目的のなかに秘めつつ日米両軍のいっそうの緊密化が進められる。

  三軍港同時寄港は明らかに海上自衛隊と米太平洋艦隊のかつてない共同軍事作戦の準備を意味している。

  それはまた中曽根による新国家主義と一連の軍事化、反動化政.策をすすめる自民党がともかく三〇〇議席を超えたことを重要な政治的支えとしている。それはまた日本人民の反核感情に制約されず、むしろ威嚇的に核慣れを強制することによって半ば公然と「非核三原則」を反古にするためでもある。そのため彼らははじめてヒロシマの隣地―呉港にあえて寄港し、大胆な「聖地」踏み込みを強行した。そこには労働運動の鎮静化と大衆運動の停滞を見定めたうえで進められた彼らの計算がある。

  かつて世界の平和運動のなかで独特の反核運動で際立っていたはずの日本がいま、アジア・太平洋諸国とヨーロッパの反核運動が発展しているのとは逆に、世界反核運動の弱い環になろうとしている事実をわれわれは直視しなければならない。滔々たる後退の流れをわれわれはいかにして塞き止めるべきか。いかにして新たな反撃に転ずべきか。

 

新たな展望をめざして

 

  いま労働戦線の再編成がすすみ新しいナショナル・セソターが生まれようとしている。かつて日本の労働組合運動をリードしてきた国労が分割・民営化攻撃で引き裂かれつつ悪戦苦闘し、行革攻撃によって官公労・公労協がかつての勢いを失った。

  産別以後、あれこれの批判はあったにせよ戦闘的な牽引力であった総評の前途が危ぶまれるとき、それはただ資本主義世界経済の危機を前にした資本の経済的対応というだけでなく、危機のいっそうの顕在化を恐れる支配階級の政治的階級的な制圧にほかならない。それはまた世界で一、二を争う経済構造の発展に比べ、アメリカの「核の傘」で代行してきた軍事構造とそれに見合う政治構造の弱さをいま補強するためのものでもある。総評を支柱とした諸運動は新たな選択を迫られている。

  今年の八・六をめぐる諸清勢はすでにそれを先取りした徴候が表われている。「禁」「協」による駆け引きという細い糸一本でつながれていた「統一」世界大会が破産し、新たに名乗りをあげた「核廃絶運動連帯」がかげから総評=同盟の旗をちらつかぜながら広い知識人の呼びか

けで登場して、一方の「世界大会」を代行し、ますます「本流」をもって任ずるセクト主義的な共産党の「世界大会」と競合している。また八○年代全国的に開花した草の根反核運動はそれぞれ自立的な追求で展望を模索しながらその寄るところを迷っている。こうしたなかで「反トマ運動」「反原発運動」など各地域の自立的な反核反戦組織が新たな連合をめざして共同闘争をすすめ、核艦船寄港闘争ではその先頭で闘った。

  いま、かつてのような大労働組合の主導による反核運動の時代は終った。労働組合が主軸となった三〇年来の運動は新たな運動にその席を譲るときがきた。その運動の担い手は各分野、各地域の自立的な反核反戦組織とその連合になるだろう。労働組合は上から運動に動員されるのではなく、下から組合員の自主的参加が組織されるだろう。

  われわれはいま、大組織による上からの動員の時代が終ったことを確認しつつ、下からの自主的な運動による連合と統一の時代を迎えなければならない。その場合何よりも、大衆との結合を前提にその方向を定め運動形態を選択しなければならない。問題は組織の大小ではなく、その運動のもつ質の大衆性にある。かつて経験したようなエリート代行主義とキヅパリ訣別し、たとえいまその量は少くともその質において新たなる大衆的な展望を獲得するものでなくてはなるまい。さらに重要なことは労働組合員の参加を下から組織することである。一人ひとりの組合員が自らの意志と行動でこの運動に加わることによって、労働者の参加は準備される。強い労働組合が弱い反核運動を上から牽引するのではなく、強い反戦反核の活動が職場を励まして強い労働組合を創るのだ。こうしたなかで生れる下からの労働運動と自立的な市民運動との結合による新しい型の運動こそやがて日本の反核運動をリードするに違いない。

  いま必要なことは、こうした独自な闘いを追求する課題別の運動や地域で組織された自立的な反核市民運動の共同闘争を軸に地域的な反核統一戦線をつくることである。核艦船寄港をめぐって新しい端緒が生れた非核自治体宣言運動の継続的な追求と再点検運動は新たな運動領域を拡げるに違いない。国のことばではなく、その自治体自らのことばで反核非核を主張するか否かは、国に支配される市町村の自治と自立をとり返す重要な試金石である。

  いま非核をめざして反核を闘うことは、すなわち人間の自由と独立をまもることであり、共同体の自治と民族の自由をとり返す闘いでもある。それは一つ一つの闘いによって裏づけられながら一つ一つの闘いを超えてそれをつつむ非核の思想によって鼓吹されなくてはならない。それは人間の回復と解放の思想であり、人類が生きるための思想でもある。

 キューリ夫人が今日の原子力の源となるラジウムを発見したのが前世紀末から今世紀初頭であった。すでにその二〇世紀も暮れようとしている。「ミネルバの梟は日暮れに飛ぶ」とすれば、いま非核の思想は人類と地球をおおいつくして飛翔するときではないか。


特集 一九八九年ヒロシマから

・反戦反核運動の再構築のために

広島原水禁常任理事 松江

  労働運動研究 19898月 No.238

 

一、 八・五反戦反核広島集会の歴史から

 

  八・五反戦反核広島集会は今年で第五回目を迎える。ふりかえれば一九八五年、それまで十年近くも続いていたいくつかの運動の流れを統一して集会をひらこうという計画が生まれ、それが成功して八五年の八月五日、第一回の八・五集会がひらかれた。この年の主題としたのは、一九四五年八月六日の原爆被害を歴史的断絶としてではなく、侵略戦争の歴史のなかで広島・長崎が出会ったかつてない惨虐な被害としてとらえ直すことであった。そうしてその視点から改めて被爆者の心の奥深く潜む「まどえ、もどせ」という怨念をくみだすことからこの運動ははじまった。

  二年目には五月に発生したチェルノヴイリの原発事故とその広くて深い被害を追及することから、余りにもまざまざしい被害の相似は直ちにヒロシマ=チェルノヴイリを共通の恐怖で結びつけた。それはヒロシマから始まった核時代がもたらす惨虐な被害がまさしく国境を完全に越えたことを確認しつつ、新しい核時代の「ヒロシマ宣言」を人類の人間宣言として追求すべきことを開示した。この二年間にわたる追求は私達の反戦反核運動に新しいまなこを開かせた。それはヒロシマの核被害が十五年戦争と分ち難く結びついていることから、日本と日本人の歴史的な加害と被害を目をそらさずに見据えるという見方を運動として確立することができた。それはまた広島・長崎に体現された核被害を一国主義的な立場ではなく、世界的視野からとらえ直すという国際的な立場を運動として確認することができたことであった。

  三年目からはこうした基礎的な視野のなかで、日本の民衆の一人として日本帝国主義がかつて侵略、殺鐵、支配したアジアの民衆と結ぶために、東アジアと日本との歴史的な接点でもある沖縄との結び合いを求め、双互の怨念を確かめあった。この結び合いを媒介したのは、当時、国体最後の訪沖によって過去一切の免罪をあがなおうとした昭和天皇訪沖反対の闘いだった。それは天皇自らが国体護持のために降伏を引き延すことで沖縄の「集団自決」(「虐殺」)と広島の原爆被害(虐殺)を招きながら、戦時中だから仕方がなかったとうそぶくことによって両者に対する負の媒介となった。私達はこの年の追求のなかで、天皇(天皇制)と直面してたじろがぬ運動の思想を確かめ合うことができた。天皇(天皇制)、それはいつの時代―戦前も戦後も―にもすべての民衆運動にとってその思想が問われる試金石なのである。

  こうしてようやく四年目の昨年八・五集会には、東アジアのなかで日本人として過去・現在を通じてもっとも恥ずべきかかわりの深かった韓国から、はじめて闘う民衆運動の息吹きを迎えることができた。この年の追求を通じて私達はアジア・太平洋の民衆と正面から向き合い、ともに手をとり合って反戦反核を闘うことができることを確信したのだった。

  こうして今年一九八九年の八・五集会はこの四年間の総括をこめて、「ヒロシマは核と軍備と天皇を拒否するーアジア民衆の連帯をめざして」と提起することができた。今年の主題は総括討議のなかから今までこの集会に参加してきた反トマ・反基地闘争、反原発・脱原発運動、反天皇運動、被爆者(原爆被害者)運動の交り合った討論を求めつつ、東北アジアの海と陸の核の米ソせめぎ合いの事実を確かめ、東アジア民衆の連帯をめざして反戦反核運動の新たな展開を追求することを目標としている。

  もう一つの重要な主題は総評解散後の日本の反核運動の前途と、私達の主体的な運動の建設との新たな展望を討議することである。私達が五年前この統一集会をはじめたとき、今日の原水禁運動が重要な歴史的役割を果たしてきたことを前提としてなおこの運動の思想と構造にあきたらぬ思いがあった。しかしそれはまた、当時すでに問題になっていた総評解散による労働戦線の再編成のなかで、今まで総評がその骨格的役割を果してきた歴史的な原水禁運動はどうなるのか。もしこの運動が直ちにではないにせよ回復しがたい打撃を受けるとすれば、広島の運動はどうなるのか。いや日本の反核反戦運動はどのような展望を持ち得るのか、というよそごとでない主体的に切実な課題への思いがあったからである。

 

二、日本原水禁運動とは何であったか

 

  いま目前に総評の解散を迎えようとしている。かつては「もし」という仮定のうえでの展望であったものが、いまは明日の現実となった。私達はそれを必須の前提として日本の反戦反核運動を闘わなければならない。そのためにも過去の運動を総括しつつ新しい運動の再構築をめざして多くの人々と連帯して追求しなければならぬ。

  もし私達が新しい可能性について追求するとしたら、過去の原水禁運動についてたとえ一定の批判と保留があるとしてもなお、日本の反核反戦運動に極めて重要な役割を果してきたこの運動を省みて再追求する必要がある。なぜならば、一つの運動の歴史的転換期には、過去の運動の卒直な分析と批判のなかからこそ新しい運動が創造されるし、そのことによってその運動の積極的な部分もまた継承することができるからである。それは運動者にとって果さねばならない義務なのである。

  総じて私達にとって是非とも明らかにする必要があるのは、日本原水禁運動を今日まで支えつづけてきたこの運動の思想と組織と行動である。私達がかつて漠然とこの運動についてあきたらなく思っていたものは何であったのかをさぐり出さねばならない。それは私達にとってだけでなく日本と世界の運動にとっても是非とも必要なのである。それはその時に生きてその運動のただなかに在る者に課せられた歴史的な責任なのだ。

  私達がこの運動を見きわめるためには、この運動の出生にさかのばらなければならない。日本原水禁運動が生まれたのは一九五四年三月一日の「ビキニ」被災からである。三月十三日、第五福龍丸の帰港以来すばやく流れたビキニ岩礁における米核実験による放射能汚染(「死の灰」)の惰報につづいて、その周辺の海一帯で獲れた「水爆マグロ」の恐怖は日本中の台所を一瞬にしてかけめぐった。それはまた占領下ではタブーとして封印されていた九年前のヒロシマ・ナガサキの惨虐な破壊と殺戮の相をいっきょによみがえらせた。

だがそれはすでに広島、長崎、焼津という一つ一つの町の問題ではなかった。それは三たび原水爆に被災した日本人(日本国民=日本民族)による「世界で最初の受難」であり、ヒロシマ・ナガサキはその国民的な原点とされたのであった。

  五月から始まった多くの都市や町の婦人会、青年団、学者、文化人などによる自然発生的な抗議集会につづいて誰からということなく核実験禁止の署名運動が始まり、広島では急いで百万人署名運動連絡本部がつくられた。婦人会から町内会へ、会社から官庁まで運動は炎が焼きつくすようにたちまち日本列島を燃えあがらせた。労働組合はおどろいて遅ればせに署名運動にとりくんだ。広島ではこの年の八月六日、慰霊碑前の市民大集会に参加する労働組合は婦人会からの申し入れで組合旗を持参しなかった。結局広島では六月から八月半ばまでのニケ月半の間に全県二〇〇万人のなかで百万人の署名が集まり、全国では五五年八月三日、第一回世界大会直前までに三一五八万三一二三名の署名が集まった。

  私の経験のなかで今日まで、この運動ほど〃すばやく""日本中の殆んどの人々"を龍巻きのようにまぎこんだ運動を見たことも聞いたこともない。右から左まで、年寄りから子供まで、女性も男性も、あらゆる階層と職業の人々が参加し、官も民も既存の組織と団体がそのまま運動をになった。それはどこからの指導も動員もない巨大な自然発生的な奔流であった。知事や市長、町長や村長、およびすべての議会の議長もタスキを掛けて先頭に立ち、政府も協力を約した。それは大衆運動というよりもまさしく日本の「国民運動」であり、核実験禁止は日本の「国民的悲願」であった。だがそれは、中央からでもなく、政党党派からでもなく、組織からでもなく、まったく地方から始まった大衆自らの運動であった。組織や団体の中央機関や各政党が目的意識的にとりくみ始めたのは初期の運動の大波がすぎ、各地方毎に署名運動の連絡本部が生れるころから、翌年一月全国署名運動連絡協議会の主催で全国総会がひらかれ第一回世界大会の開催が決議されるまでの間であった。それは総評も例外ではなかった。

  しかし、世界大会を重ねるうちに総評(労働者)は地婦協(主婦)日青協(青年)とともにこの運動の重要な階層的な主柱となった。しかしこの運動が生れたときの国民主義的な「胎盤」はその後もひきつづきこの運動の性格を深部で規定しつづけた。一九七七年の森滝・草野会談による「五・一九合意」―総評・日共合意―統一世界大会の流れはそれを示している。

 

三、「国民」合意の思想と運動

 

  「ビキニ」反核運動とその噴出したエネルギーが盛られていた構造のなかに国民主義的な性格があったとすれば、この運動の内部から長期に亘る朝鮮半島の植民地収奪、十五年にひきつづく中国への侵略戦争などアジアの民衆にたいする侵略、殺戮、支配の反省と謝罪は自然発生的には生まれるはずもなかった。第一回世界大会(一九五五)で被爆者が、「生きていてよかった」とむせびながら語ったとき、その被爆者のなかには最も身近なはずの在日朝鮮人被爆者は唯の一人もふくまれていなかった。それが初めて問題になったのは、被爆三十一周年(一九七六)の原水禁世界大会開会の開会総会で広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長がその報告のなかで日本帝国主義の二重の犯罪的凌辱を告発したとき初めて正面からつきつけられ、この運動の重要な課題となったのであった。

  当時の運動は、天皇の戦争責任はもとより、侵略と殺戮に加担させられた日本民衆の責任を問題にする歴史的国際的立場とは程遠いところに在った。そこに在ったのは加害も被害も見逃さぬ歴史的視点ではなく、「ビキニ」と「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆にのみ時の刻みをとどめた、かつてない核被害への民族的怨念であった。またそこには、日本人以外の被害者まで眼のとどく間もないほど切実な「最初で唯一」の核被害を受けた日本国民の怒りと悲願があったのである。

  このような思想的わく組みのなかで進められる運動と組織はかつてない強大なものであった。日本最大の労働者組織である総評と、全国の主婦や女性を組織する地域婦人団体協議会(地婦協)、当時はまだ活発な活動によって地域に大きな発言権をもっていた日本青年団協議会の三団体はこの運動の主要な支えであり、日本の主要な諸階層を結集していた。当初の一時期は参加していた自民・民社=同盟が離脱してからは、専ら社共が指導権争いを展開しつつ六三年の第九回大会でついに原水禁(三県連)と原水協に分岐した。その後地婦協など市民団体が分離したが、総評=原水禁という骨格はいささかも変わらなかった。かつての国民的構造は次第に労働組合的構造に変わったが、絶えずこの運動の原初に還る回帰的な流れを通じて、この運動の国民主義的な「胎盤」は容易に離れ難かった。そうしてその思想的性格はこの運動の組織と行動を長く規定しつづけた。

  日本原水禁運動の年次行動の主要なものは、年に一回、八月六日前後にヒロシマ・ナガサキに結集し、討論し、新しい年度の運動目標と主要なスローガンを確認する。しかしその目標に向かう行動は参加者それぞれと各地方の現場に委ねられ、この巨大な組織がそのまま目標に向かって行動することはなかった。それは行動のためというより毎年の八・六集会でその強大さを原水協と競って示威することが主要な目的となった。もちろん私達は、毎年一万人内外の労組組合員―かつては婦人会員をはじめ市民団体の人々も―が、広島・長崎に結集して被爆の実相にふれて反核の決意を固めることの重要さをいささかも軽視するものではない。それどころか、こうした感動的な認識と灼きつけられた記憶こそが長くその人々の胎内に生きつづけ、何時の日かそれが機会を得て行動に転化する源泉になることを固く信頼している。しかし反核運動体としての日本原水禁運動が、いつも大会に大動員するように基地にたいし軍港にたいして全力で大行動が組織されたことはない。

  かえりみれば「ビキニ」までの運動は、占領下でも講和後でも、米軍基地反対闘争を展開したのはけっして大組織・大運動の連合ではなかった。日本中で注目を集めた一九五二年の内灘米軍試射場反対闘争もまず内灘村の農民が座り込み、ついで北陸鉄道労組の労働者がかけつけてともに闘い、その呼びかけで全国各地方から労働者・農民と市民が一万人近くも結集して闘ったのだ。それは当時頻発した反戦反基地闘争がたどった発展過程であった。もちろん「にわとり」から「あひる」に替り、平和四原則を掲げなおした総評の熱心な支援があったことは見逃してはならない。たしかにそこには大組織・大連合の大集会ではなく、無数の小組織・小運動のただひたすらな行動する連合があった。

  また世界でもこのように巨大な運動体はない。一九八○年初頭のヨーロッパをおおいつくした数万、数十万の米軍中距離ミサイル設置に友対するデモや行動も、またニューヨークの国連前を埋めつくした百万人の世界の民衆も、けっして大組織・大運動の大動員ではなく数百数千に及ぶ小組織・小運動の巨大な連合であったのだ。一九八二年の広島(三〇万)=東京(四〇万)=大阪(五〇万)の春から秋にかけての連鎖集会もたしかに総評の呼びかけには違いないが、いまその人々はどこに消え失せたのか。

  だが「ビキニ」反核運動の「国民」的な性格は当然この運動の要求と行動を決定する。さまざまな切実で具体的な反核要求は「国民」的な統一のために圧縮された最大公約数の抽象的なスローガンにまとめられる。「統一」世界大会の準備過程に見られるように、大団体が一致した「核廃絶をめざして」という統一スローガンのもとで反原発、反トマホーク等切実で具体的な要求や行動は「国民的一致」を乱すものとして切り捨てられる。それは何一つ要求を切り捨てず共通の課題では大異を残して小同に就く諸外国の運動と対照的である。こうした運動の性格は、総評=原水禁という労働組合反核運動となったここ十年来の運動をなお深部で規定している。結局この運動の国民主義的性格は、この運動の思想と組織と行動をとらえて離さなかったのである。

 

四、「ビキニ」反核運動を超えるために

 

  しかし、いま「ビキニ」型大組織・大運動の時代は終った。すでにかつての「国民」的大連合は遠い夢となった。だがこの数年来、いや今年になっても「ビキニ」の亡霊はさまよい歩いている。「ビキニ」型運動構造の組み合せを替え、「禁」=「核禁」連合、「禁」=「協」一日共闘、あるいは社・公・民(連合)系列の新しい反核大組織・大運動がくり返し模索されている。「ビキニ」幻想はとりわけ一部の学者、全国労組指導者、知名士などにとりついて離れぬらしい。

  だが私達は、どこで運動をしていようとーこの大運動とは全く縁がないと思っていてもー世界でも稀有なこの大運動がもっていた「大衆的自然発生性」という積極的な財産とともに、「国民主義的性格」という負の遺産も歴史として継承していることを忘れてはなるまい。私は一九六五年、分岐後まもない原水禁代表団の一人としてヘルシンキ世界平和集会に参加した。私達は主題であるベトナム反戦に集中しながらも、休会や休憩を利用して被爆二〇周年世界大会のバッジを胸に世界大会への参加を呼びかけ説得して廻った。

その時、ナチズム闘争勝利二〇周年記念バヅジをつけたヨーロッパの代表たち、また長い間帝国主義の戦車に苦しめられ殺され、いまなお差別と闘いながら反帝闘争を続けているアフリカの代表たちとどうしてもいま一つなじみきれないものを心の奥で感じていた。いまにして思えば、私達がもっぱら広島・長崎の被害をアピールするとき、彼等は日本人の戦前と戦後を二つの眼ではっきり見据えていたのだ。

  日本人にとっては居心地の良い「国民」的社会は、内側では異端をたくみに排除しながら、外側から見ればまるで気持の悪いほど相似的な同心円の閉鎖的な共同体に見えるに違いない。「ビキニ」反核国民大運動もまたその共同体とけっして別なものではなかったのではないか。三年前に広島にきて私と会ったフィリッピン反核運動の青年活動家は、毎年八月六日前後に行なわれる儀式や集会を一年だけでも休んだらどうですか、と私に迫ったことがあった。

きっと彼はこの運動のどこかに、戦前も戦後も大集団でなぐさみや遊びにフィリッピンへ押かげてくる日本人達と同じ匂いをかぎとっていたのかも知れない。

  しかしいま広島ではその共同体神話が破られつつある。その端緒はヒロシマの被害だけをアピールする平和公園の原爆資料館などにたいする心ある人々や団体から修学旅行の生徒たちまでの鋭い指摘、また公園の一歩外におかれている韓国人原爆犠牲者慰霊碑の問題や朝鮮人・韓国人慰霊碑の公園内建立をしぶる広島市民のかたくなな態度への批判と追及からであった。つい最近あきらかになったかつての広島の強兵―第十一歩兵連隊によるマレーシヤ住民の虐殺を知って矢もたてもたまらずマレーシヤに出かけて現地の人々と交わった被爆者、韓国へ謝罪と交流の訪問に旅立つ被爆者たち。またそうしたことの重さと深さを心から確認しつつ、なおそのことであの悲惨な八月六日と今日までの苦しみの伝達が弱められ、ひいては反核をめざす運動や被爆者援護の闘いが忘れられはしないかと懸念する被爆者もけっして少なくない。かつて軍都でもあった広島はいま、戦前の原罪と戦中戦後の受難をめぐってゆれ動いているが、それは広島の運動が新しい思想と運動を創り出すための産みの苦しみではないか。いま広島は新しい道を求めて歩み始めたのである。

 

五、新しい運動の創造をめざして

 

  「八・五運動」はいままでの運動が自然のうちに持たされていた古くて新しい国民主義的な思想を超えるところから始まった。しかし一方で広島の大衆的な反核運動はすでに書いたようにいまその問題をめぐってそのただなかにある。というよりもいま始まったばかりである。だからといって私達が一歩先んじていると思ったらとんでもないうぬぼれではないか。私達の思想と運動が的を射ているか否かは、私達の仲間うちだけではなく、大衆的な運動とのふれ合いと行動の実践のなかで試されるのではないか。

  いま日本のなかでも広島地方でも多様な自立的諸組織が生れ、みなそれぞれが生々と活動している。それはけっしてデモンストレーションやアピールに終っているのではない。

むしろその反対に、行動主義とでも云えるほどすばやい実践で運動が展開されている。核艦船寄港阻止行動、基地の変化にすばやく対応する抗議行動、各地の原発にたいする反対運動と重大な事故にたいする即時の行動、また何ごとにつけても外すことのできない地方自治体への抗議と要請など。だが私達はこうした運動がどうしたら勝利できるかを考えたことがあるだろうか。

  最近反トマ全国運動が中心となった全国の多くの反核反戦活動家の呼かけによる「北西太平洋に軍縮の流れを作り出そう」というアピールが静かに広がっている(本誌前号、梅林宏道論文を参照)。このなかで重要なのは、今日の日米軍事同盟がっくり出している北西太平洋の軍事的危機をとりのぞいて軍縮の流れを作り出すために、何らかの中期的な実現目標について話し合おうと訴え、いくつかの具体案を提起していることである。いま私達の運動にとって最大の弱点は、勝利へ近ずくための長期に亘る体系的な戦略戦術が無いことである。一歩一歩時間をかけて平和の勝利をたぐりよせるための実践的で効果的な計画目標の選定と行動こそが何より必要なのだ。

  こうした追求を行なうためには一つや二つの運動体ではなく多くの運動体がネットワークをつくって検討しなくてはならない。私達は日本の反核兵器運動、反・脱原発運動などの発展をめざして流れをかえる転機をつくり出すために、共同の追求と共同の行動が是非とも必要なのだ。

もはや大組織・大運動の時代ではない。いまこそ小組織・小運動の計画し行動するための大連合が必要なのである。


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