2012残暑見舞『7/17・Troubled Fish』(『絶対温度+α』より)

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 考えてみると男の子とプールに来るのは初めてかもしれない。私はあまり運動神経がよい方ではないし、母が忙しい母子家庭で家事をこなそうとするとTVを見る時間も少なくなるから、誰かが真面目に泳いでいる姿を眺める事自体が珍しかった。しかも、今目の前で泳いでいるのは今月出来たばかりの私の義弟である。
 熟年再婚である私の母と義父は地味な結婚式はあげたものの新婚旅行は仕事の都合で来月になってしまっていて、せめてたまには二人きりにさせてあげたいのと、引っ越す時に新聞屋さんがくれたプールの無料券の有効期限がそろそろ終わりになっているのを思い出したのが昨日で、私も義弟も友達を誘うには急な話だった為だった。
 プールサイドのデッキチェアで私はころんと寝返りを打つ。
 私がスクール水着以外はかなり古ぼけた水着しか持っていないのを知った義父が軍資金を出してくれたお蔭で、プールに隣接した一流ホテル内のお店で可愛らしい水着を買えたのが申し訳なくも嬉しい。義弟と水着選びをするのは恥ずかしいと思ったのだけれど意外と気まずさを感じる事もなく冗談めかして付き合ってくれる辺り、義弟は女の子の扱いに慣れているのかもしれない。
 本当は少し怖かったかもしれない。
 私は大学二年で、弟は大学一年。もうお互いの世界観が出来上がっている社会人寸前の人間同士がある日突然義理の姉弟になったとして、普通の生まれついての仲睦まじい姉弟になれる筈がないと身構えていたのは否めない。でも、大人だからこそ割り切って距離感を保ってくれる事もあるのだな、と残暑の強い日差しを反射する眩しいプールを眺めながら考える。いい子が義弟になってくれて助かった。
 ――それにしても……。
 ざん、と音を立てて綺麗なフォームで泳ぐ義弟の背中を遠目に見つつ、私は少し溜め息をつく。
 どちらかと言えば運動音痴に近い私と正反対らしく、義弟は水泳が得意らしい。軽く遊びに来るつもりの私と異なり、最初私に付き合って流れるプールを少し廻ってくれたが競泳用プールが気になって仕方ない様子なので奨めてみた所、スイッチが入った様に物凄いピッチで泳ぎ始めてしまった。それでも何度も私の所に戻ってきてくれたのだが、聞けば元水泳部との事で好きな様に泳いで貰うのが義姉として正しいだろうと判断して、私はのんびりと競泳プールの隅を軽く泳ぐのとデッキチェアで甲羅干しとを繰り返している。
 工学系と聞いていたのだけれど予想外に体育会系な義弟のタフさに、私は少し圧倒されていた。ちょうど再婚先で飼っている雑種犬がかなりいや物凄く力が強く大きめで散歩でも引きずられてしまうその感覚に似ている。いや義弟は無理に私に競泳させようとはしないけれど、でも同行者の泳ぐ姿は格好いいなと感じると同時に眺めていると不思議と体力を奪われてしまうらしい。
 結構、いやかなり格好よくて気遣ってくれる義弟や、経済的に厳しくて初めて訪れた巨大プールの居心地の良さにリラックスと言うよりも溶けてしまう。少し泳いだ疲れの心地よさもあるだろう。
 とろんと重くなる瞼に、たまに首を振る。義弟の姿を眺めていないと義姉として少し示しがつかない…いやあの泳ぎっぷりだと急に溺れる事はないと思うけれど、でも弟と言うキーワードは保護欲をとても掻き立てて……。

 こくんこくんと冷たい液体が喉を流れていく。
 何だろう、とても気持ちがいい。ぞくぞくする位に綺麗な映画のキスシーンを見ている様な、甘く溶けそうな溜め息が漏れてしまう陶酔感が唇から全身に広がっていく。でも煙草のにおいが少し不快感で、でも、それを上回る極上の快感。額を触る指だけでも恥ずかしくなる位に……。
「――どう?」
 聞き覚えのない涼やかな男の人の声が、唇のすぐ近くから聞こえた。目を開けている筈なのに視界を何か冷たい物が塞いでいて、そして首から脇の下、あと腰の辺りも冷たい、恐らく冷やした濡れタオルか何かが乗っているらしい。
「……。誰……?」
 ぼんやりとした意識の中で、今恐らく介抱してくれていたであろう人が義弟ではない事に私は安堵していた。今の口移しが義弟のものだとしたら物凄く女慣れし過ぎていて怖くなってしまう。
「通りすがりの大学生。で、先刻言ってた家族…――は!」
 空気が裂ける音がして、すぐ近くで誰かが素早く動く気配と、遅れてべこんとペットボトルが落ちた音が鳴る。額から目の辺りに乗っていたタオルがずり落ちていき、残暑の空に目が眩む中、人影が二つ。
「俺の連れに何をしてる」
「ああ、ご家族の登場か」
 回し蹴りは恐らく初対面に相応しくない挨拶だけれど、でも私の至近距離にいてそれを軽く避けてしまうのも何かとんでもない。
「匠君、違うの、この人手当てしてくれたの」
 ぼうっとしているのだけれど流石にこれは説明せずにはいられない。逆光なのだけれど、気のせいかはっきり見えない義弟の表情が厳し過ぎて怖くなる。
「恐らく軽い熱中症…熱射病だと思うけどあまり水分を取っていない様子だし水分補給も出来そうだったから一応少し飲んで貰った状態」
 監視員かと思ったけれどやはり違うらしい。熱中症と熱射病の違いが判らない私は、回し蹴りの強襲を軽々と避けた人の横顔を初めて見た。義弟よりも少し大人びているその人は自称通りの大学生か社会人だろうか、助けて貰った恩人に対して失礼な第一印象かもしれないけれど『頭のいい遊び人』と言う評価が頭に浮かぶ。
「――すみま…いや、ありがとう」
 義弟の声の硬さは苛立ったままなのだけれどその表情は微妙なものに変わっていた。
「なる程、先刻からずっと競泳プールの人気者になってた君が…弟君?」
「人気者とか関係ないけれど、何か?」
「大切なお姉さんを放って泳ぎに熱中していたら危ないよ」
 何だろうか義弟の機嫌が直らなくて不安になる。義弟は義弟で義姉に対しての保護責任を感じているのかもしれない。確かに水分摂取を怠っていたのは私のミスで…少し情けないけれどホテル付きのプール相場でもったいなくて飲み物を買うのは後回しにしていた、など誰にも言えない。
「姉さん、ちょっと泳いできていいかな。――一本で片付けてくるから」
「俺が乗ると思うかい?」
「相当鍛えてる身体だし…女の前で格好つけずにいられないタイプだろ、あんた」
「シスコンだねぇ」
 義理の姉弟だから普通の姉弟よりも気遣ってしまうなんてこの人が知る筈もないから変な表現になってしまうのだろう。
 それにしても……。
 この二人が並んでいると何と言うか目の保養だなぁ、などと暢気に考えてしまった。

 落ちていたけれどキャップを締めていたから無事だったペットボトルのスポーツ飲料をちびちびと飲みながら、私は何本目かの間にプールサイドの人達が賭けを始めてしまった二人の競争を眺めていた。先に何本もずっと泳いでいた義弟は体力が落ちている筈で、でもそれでも速いらしいのは周囲の反応を見れば伝わってくる。
 これはあれだろうか、体育会系男の子の喧嘩にありがちな友情の芽生えというものが来るのかな?などとぼんやり考えているけれど、義弟の機嫌は相変わらず悪いままなのはノリよくタイムを測ってくれている係員に毎回確認するたびに相手を睨んでいる表情で判っていた。それでも最初程険悪でないのは、相手がいつの間にかショー感覚で観客に応えているその様子に怒りの勢いを削がれているからだろう。多分、義弟には悪いけれどちょっと相手が悪い。
「あ。終わった…のかな……?」
 係員に確認した後の義弟の反応を見るとまた同着らしいけれど、今回は何か相手と会話をした後、義弟はプールから上がってこちらに向かってきた。
「御疲れ様」
「姉さん、調子は?」
「だいぶ楽になったし静かにしていたから平気。ごめんなさい心配かけちゃって」
「それは俺の言う台詞だ。泳ぐのに熱中してた」一本で片付けると言うからには勝つ自信があったのだろう、不機嫌なままの義弟が少し乱暴に私の横たわるデッキチェアの隅に腰を下ろす。「ごめん。色々、煽られた」
「匠君、結構血の気が多い所があるのね。ちょっと意外」
「いや油断してた。これからはちょっと勝利条件整えるよ」あれだけ泳げれば十分な気がするのだけれど、本当に男の子は勝ち負けを気にするのだなと少し呆れる私の口元を義弟の指がぐいと強く拭った。「――タオル濡らしついでに、顔洗ってくれ。医療行為だろうが何だろうが…胸糞悪い」
 一瞬迷ってからそう言えば先刻そんな事があったなと思い出して恥ずかしくなる。私の方が一つ年上なのにどこまで義弟に気を使わせてしまっているのだろうか。
「ごめんなさい。お詫びに何か飲み物買わせて。――あ!」
「どうした?」
「あの人にもお礼とお詫び言い損ねちゃった」
 そう言った次の瞬間、義弟の指がきゅっと私の鼻の先を摘まんだ。

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