2017梅雨時リハビリ『差し込む光』

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 窓辺に吊るされている南部風鈴がちりんと鳴った。
 荷物の少ない八畳間の窓際に敷かれた布団に横たわったまま私はぼんやりと空を見上げる。簾越しに見えていた夏らしい深い青空は、夕焼け前になって蜂蜜を溶かしたサイダーの様な透明な金色に徐々に変わりつつある。ここに来るまではお寺などでしか見た事がなかった木で出来た古びた窓枠と桟の窓は下二枚が模様硝子で上の一枚だけが普通の透明な硝子。部屋の隅で炊かれている蚊取り線香と畳の匂いが混ざっている空気はどこか懐かしい。額に乗せられている大きな水風船は氷嚢と言う物らしい…熱を出している身体には気持ちいいのだけれど、アイスノンみたいな枕状でなくて額に冷たい物が乗せられているのはバランスを崩すとずるっと落ちていってしまい、一度落ちるとなかなかいい場所に収まってくれない。ちゃぽんと氷嚢の中で水と氷が揺れる音が聞こえてプールを思い出す。
 何をしてるんだろう。お母さんから何万円もお小遣いを貰ってここまで来たのに。
 小学五年生の夏休み。始まってまだ四日。宿題と着替えを詰め込んだリュックサックは部屋の隅に置いたままで、私はこの部屋の住人のお兄ちゃんの布団で寝込んでいた。
《遠出で疲れたんだね》
 優しく頭を撫でてくれたお兄ちゃんは今は大学に行っている。お兄ちゃんと言っても元お隣のお兄ちゃんで、今は朝早くに家を出て夕方前にようやく到着出来るこの遠い地方に住んで大学に通っている。一人暮らしなんて格好いいなと想像していたのだけれど、到着した場所は想像していたよりも遥かに…田舎だった。駅前にコンビニすらない各駅停車駅からバスもない山間を車で移動した先はアスファルト舗装も街灯もない道の突き当りのとても古いアパートで、エアコンの付いていない八畳間に台所が貼りついた変な間取りで、トイレは廊下に共同のものがあるだけ。到着した時は途方に暮れたけれど、こうして横になっていると具合が悪いのもあって力の入れようもなく楽でこれはこれで有りかもしれない。
 他の住人さんも大学の学生さんで今日は他に誰もいないそうで、多分周囲百メートルにたった一人。途中の森で凄かった蝉時雨は山間の川沿いなのもあってかほんの少しだけ音量が下げられていて、でも熱っぽい頭の芯に篭って少し怖い。怖いし、熱っぽいから、仕方ないんだ。じわっと込み上げてくる涙を手の甲で拭うと氷嚢が額から落ちた。
 お兄ちゃん、氷嚢なおして。
 甘えてお願いしたい人は今ちょっと離れた大学にいて、出来るだけ早く帰ってくると言ってくれたけれどここにはいない。
「ふえ……っ」
 まるで頭の熱が溢れたみたいな涙の熱さに、私は赤ん坊みたいにしゃくりあげる。何の為にここに来たのだろう。
 カレーを作ってあげようとか来る途中で色々考えていたのに、何も出来ずに泣いている自分が情けない。
 でも、お兄ちゃんに頭を優しく撫でて欲しかった。

 私の家の居間のテラス窓の外から見えるバラはそろそろ見頃が終わってきて、私は安心する。
 私の家族は、おかしかった。お父さんとお母さんが楽しげに笑っている所をあまり見た事が無い。無視しあっている訳ではないけれど、でも物心が付く頃から仲が良い夫婦に見えた例がない。喧嘩はしない。でも、お母さんは泣く。とても美味しいビーフシチューを丁寧に作ってくれて、綺麗なセーターを編んでくれるけれど、私がお母さんにまっすぐ見て貰えた回数は多分両手で足りてしまう。昔抱き締めて貰った…気はするけれど、でも憶えていない。とてもいい匂いがする綺麗なお母さんの横顔と後姿をいつも見て、そして私はエプロンや袖を引っ張って声をかけて甘えようとして、そしてお母さんがびくっと大きく震えたのが指先に伝わる。酷い事は言わない。ぶたない。とても優しいけれど、でも、徐々に徐々に判っていく。――私が甘えると、お母さんは困ってしまう、と。
 お隣は日向の匂いがした。絵本から抜け出た様なお婆ちゃんと小父さんと小母さんと、そして優しいお兄ちゃん。お隣はいつも私を優しくしてくれて、まるで家族の様にたくさん話をしてくれた。お兄ちゃんは勉強を教えてくれて、沢山の本の中から私が興味を持ちそうなものを探してとても丁寧に教えてくれる。花の名前、星の名前、向日葵の育て方。向日葵はお隣で育てた。私の家はバラしかなくて、バラはお母さんにとても似合っていたから。
 そんなある日、お兄ちゃんは地方の大学に進学してしまった。寂しいなんて言ってはいけないのは判っていて、おめでとうと言えた。それからほんの少し経ったある日、お婆ちゃんが亡くなって、私には暖かな場所がなくなってしまった。お葬式では私はお隣の子でしかなく、ずっとお婆ちゃんの傍にいる事は許されなかった。小母さんも小父さんも優しいままだけれど、ある日突然大切なものが消えてしまう不安に、ただのお隣でしかない見えない壁に、私は戸惑いどうすればいいのか判らなくなってしまった。生きているのに、窒息している様な苦しい不安。それなのに平気な顔で暮らしている自分。俯くと自分の影が真っ暗な世界への入口の様で、どこにいてもいつでも離れなくて、不意に引きずり込まれてしまいそうで立ち竦む。春から夏へどんどん濃くなっていく影。夏休み。学校は休み。どうやって家から出ればいいのだろう。考えてはいけない。家にいるのが苦しいなんて。
 判っている。お母さんは傷つけようとしている訳じゃない。でも、大きくなって判る、怯えた目で私を見る人に、どうやって甘えればいいのだろう。
 夏休みになって三日、ずっと悩んで、お兄ちゃんの所に遊びに行きたいと言った私に、お母さんは背中を向けたまま同意をしてくれて、後でお兄ちゃんに渡す封筒と、交通費とお小遣いをくれた。賛成してくれたのに悲しくて、悲しくて、リュックサックに服と宿題を詰めながら私は泣いた。お婆ちゃんならどう言っただろう。お兄ちゃんはどんな顔をするだろう。お母さんは、我侭を窘めてもくれなかった。
「お母さん、行って来ます」
 今朝、出発前に居間のテラス窓から声をかけた私に、凍り付いたお母さんの手から散りかけで切られたバラが落ちた。

 どんどん熱が上がっていくのは泣いている為かもしれない。
 布団の中から見上げる窓は古くて、木の窓枠と桟も模様硝子もとても古くて、お婆ちゃんを思い出す。お婆ちゃんは泣いている私をよく抱っこして背中をぽんぽんと優しく撫でてくれた。窓が古びているからお婆ちゃんを思い出すのは失礼で、でも、この部屋は泣いている私を優しく包んでくれている気がした。
 もう夜で暗くなってきた部屋には照明が灯っていなくて、川沿いのずっと遠く離れた場所の街灯の明かりもここまでは届かない。窓から差し込むのは月明かりだった。月はこんなに明るいんだと大泣きして腫れた瞳で見上げて、また涙で視界が滲む。模様硝子が月明かりの中でとても綺麗で、涙が出る。
 ふうっと息をついた瞬間、心臓がどきんとした。枕からお兄ちゃんの匂いがした…男性用シャンプーのすっきりした匂いだけど、それだけの匂いとはどこか違う、お兄ちゃんの匂い。でもそれは嬉しい気持ちと少し違った。何故かこのどきどきは秘密にしておかないといけない気がする。理解不能。すぐに大学から帰って来てくれると言ってたのにと拗ねたいのは甘えたいからなのと、そして夏休みなのに大学に行かなければいけないお兄ちゃんにすぐに帰ると言わせてしまった申し訳なさ。こんな田舎で一人暮らしで大変なのだと思うと、寂しさと皆みんな大変で置いてけぼりな気持ちでぐちゃぐちゃになる。
 氷嚢冷たくしてとか、我侭言わないから帰ってきて。帰ってきてくれたら、もう何もいらない。
 寝汗で重たくなったタオルケットを抱き締めて私は窓を見上げる。
 お兄ちゃんの顔が見たいのは、許してもらえるよね?お婆ちゃん。

 美味しい。生姜と鶏肉をくつくつに煮込んだお粥は私が熱を出した時にお婆ちゃんが作ってくれた味だった。でもきちんと食卓についてる気がしない。まるで鳥の雛がご飯を貰っているみたいに口に運ばれてるお粥。夢かもしれない。お婆ちゃんを思い出す窓の部屋だから。熱いか寒いか判らないぼんやりとした感覚で何がなんだか判らない。
 夜だからか蝉時雨は聴こえない。南部風鈴の綺麗な音。あの窓は閉められたのだろうか。

 温かい…と言うか熱い。すうっと熱い感触が肌を撫でた後はとても気持ちいい涼しさが広がる。
 ぼんやりと見えた気がしたのは、一番上の窓硝子の向こう側の白い月と、お兄ちゃんの静かな顔。
 ただいま、と言ったのは私かお兄ちゃんか。どちらか判らない。

 目が覚めて初めて映ったのは古びた窓だった。飴色の窓の窓枠と桟はどこか柔らかくて、朝日の中、模様硝子が綺麗。
 最初どこにいるのか判らなくてぽけーっとしていた私は自分が大きなTシャツ一枚だけの姿になっているのに気付いて真っ赤になる。寝ていた時は到着時と同じワンピース姿の筈だったのに靴下も下着も身につけていない。Tシャツは多分男物でお兄ちゃんならちょうどいいサイズでつまりこれは多分お兄ちゃんのTシャツで…でも絶対と言えるけれど私が無意識にお兄ちゃんの箪笥を漁って勝手に着るのはありえない。
 勢いよく跳ね起きて隣を見ると、お兄ちゃんが二つに折った座布団を枕にまだ眠っていた。反射的にぽこぽことぶってしまいたくなって、私はお兄ちゃんの寝ている姿を初めて見たのに気付く。お隣に泊めてもらった時でもいつもお兄ちゃんは私より遅く寝て早く起きていた。着替えを強行したのがお兄ちゃんだとして、夢の中で食べたお婆ちゃんのお粥はお兄ちゃんが作ってくれたのだろうか。いつ大学から帰ってきて、いつ眠ったのだろうか。家にいるのが辛くて逃げ出した私はどれだけお兄ちゃんに迷惑をかけたのだろう。
 甘えたいけど、駄目なのかな。
 また涙が出そうになって手の甲を当てるともう涙が溢れていて温かく濡れた。
「――おはよう」
 穏やかな声の後、ふわりとお兄ちゃんの手が私の頭を撫でる。
「おはようございます。でも着替えはちょっと恥ずかしいです」
「そんな事言われても僕はおしめ換えた事もあるんだけどね」
 反射的にお兄ちゃんの膝をぽこんと叩く私に構わずお兄ちゃんは頭を撫で続けてくれた。熱は下がった?などの問いがないのは私の熱が下がったのを知っていたからで…どれだけ私の看病をしてくれたのだろう。交通費などを出してくれたお母さんも、私を思ってくれているのだと、思いたい。寝汗が酷くて拭ってくれるのは看病に過ぎなくて、いつものお兄ちゃんならわざわざ私にぶたれる様な物言いなどしない。叩かせてくれているのだと判るともっと涙が出た。甘えていいんだと示してくれているのだろうか。甘えていいんだろうか。
 頭を撫で続けるお兄ちゃんと泣き続ける私に窓から朝日が差し込んで包む。古い窓から差し込む光はまだ夏の暑さを感じさせないものの明るくて模様硝子が綺麗で、まるで私の我侭を許して撫でてくれるお婆ちゃんの手の様だった。

END
FAF201707031154

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