山下芳太郎について

1871年(明治4年)11月13日に,愛媛県の氏族,山下興作の長男としてうまれた. 1892年(明治25年),いまの東京商大の前身である東京高等商業学校を卒業して外務省にはいり,ボンベイ,ロンドンその他の地を外交官として歴任した.
1901年(明治34年),実業界に転じ,住友本店副支配人となり,1906年(明治39年),第一次西園寺内閣の首相秘書官となり,翌々年,官を退いて住友神戸支店支配人および住友銀行神戸支店支配人となった. そののち,住友総本店理事になった.
1914年(大正3年)に時事新報にカナモジ論を寄稿している. 日本語の表記を左横書のカタカナに統一し,漢字をやめるべきというもので,活字の試案もかかげられていた. 個人的に国字問題をかんがえ,字体などを研究していたのは,そのかなり以前からのようであるが,ようやく確信をもち,1920年(大正9年)11月1日をもって「仮名文字協会」を設立した. これが現在の財団法人カナモジカイの前身である.
1922年(大正11年)4月,住友総本店理事の職をしりぞいた. 後半生をカナモジ運動にささげる決意であった. その年の8月,国際労働会議に日本の資本家の代表として出席することになり,ジュネーブにおもむいた. ところがその会期中,健康が不調となり,診断の結果,胃ガンと判明した. 医師は絶対安静を宣告したが,山下は会議の最後まで参加したあとさらにアメリカにわたり,1923年(大正12年)1月4日にニューヨークについた. 病苦をおして,アンダーウッド社と連日,カナモジ・タイプライターをつくることのうちあわせをし,発注をすませて2月9日帰国した. そのまま福岡医科大学病院に入院し,ただちに腹部切開をうけたが,すでに病状が進行していてなすすべもなかった. 執刀の三宅博士がそのことをつげたら,山下は自分の患部を鏡にうつしてみせてもらい平然としていたという. そのあと,死を目の前にした人として兵庫県芦屋の自宅にかえり,1923年(大正12年)4月7日に52歳の生涯をとじた.
山下は外交官時代に,西洋の機械化・システム化された事務をみて感銘をうけた. また,漢字習得が教育におおきな負担をかけているという認識から,漢字制限・カナモジ運動をとなえた. 遺言はカタカナで国字改良をうったえており,開腹前にかかれたものである. 神奈川県鶴見の総持寺にある墓には,俗名が平尾式カナモジ(平尾善治が設計した字体)でかかれている.

参考資料: カナモジ論(カナモジカイ)
日本語大博物館(ジャストシステム)
ぶっくれっと(三省堂)

homepage