ここに連載している「Bossa Nova History/ジョアン・ジルベルト物語」は、宝島社『ボサノヴァの歴史』(ルイ・カストロ著/国安真奈訳/廃版。2001年1月音楽之友社より再版。本についての詳細は、翻訳者:国安真奈さんのホームページをどうぞ)を参考文献として、ボサノバ・バチーダの産みの親であるジョアン・ジルベルトを軸にボサノバの歴史を綴っているものです。さあ、あなたも一緒にボサノヴァの誕生を追ってみませんか?

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Vol.31 『ジョアン・ジルベルト物語』 〜ジョアンの結婚〜

ジョアンが録音したくてたまらなかった曲...それは「O pato(アヒル)」でした。
「O pato」はジャイミ・シルヴァという作家がラジオ・ツピーにいたミルトンの元へ持ち込んだ曲。ガロットス・ダ・ルアのレパートリーとしてさんざん歌われていたものでしたが、録音はされていませんでした。

ジョアンはこの曲を、6カ月くらい前からずっと練習していたのです。
その方法というのが、ロナルド・ボスコリのアパートの廊下をメガフォンの用に使って、どこまで小さな声で歌っても聞こえるか、というもの。
ロナルドをうんざりさせたのはもちろんのこと、ロナルドの隣人たちも
大の男が廊下の端に立って「アヒル、アヒル」と繰り返すのを最初こそ奇妙に感じたものの、そのうち慣れてしまうという始末...
ロナルドはすっかりまいってしまい、同居人たちにこう漏らしたそうです。
「早くレコーディングしてやらなくっちゃ、あのアヒルは老衰で死んじまうよ」

そしてちょうどその頃、ジョアンはロナルドに連れられて行ったナラのアパートで、
アストラッド・ワイナートを紹介されていました。
彼女の生まれはバイーア、8歳の時にリオに移り住み、引退して英語の家庭教師を
やっていたドイツ人ワイナート氏の3人娘のうちの1人でした。
ジョアンはすっかりアストラッドに夢中になりましたが、当時の彼女はまだ20歳。
数いるライバルの中で、ジョアンが特別有利とはいえませんでしたが、
彼女が「歌うことが好き」だったことが、ジョアンに優位に働きました。
口説き文句の1つは「チェット・ベイカーと3人で永遠に歌い続ける想像以上の
ヴォーカルトリオを結成しよう!」。
そしてジョンアンには、まだすごい切り札がありました。
当時、ジョアンが少なくともタダではもうほとんどやっていなかった
”ヴィオラォンで歌の伴奏をしてあげる”ことを、アストラッドのためにやったのです。
他にも色々な努力が報われ、2人は1960年初めに晴れて結婚することになりました。

式はコパカバーナの公証人役場で、人前式で行われました。
代夫役はなんと、あのジョルジ・アマード(バイーア出身の大変著名な作家)
が務めたそうです。

そして2人はヴィンコンヂ・ヂ・ピラージャ街のアパートに住む事になり、
ジョアンは安定した生活のために、当時はまったく人気のなかった
「テレビ番組に出演して歌う」ということをやり始め...

続きは次回にて。