Re: 高天原は天国(Re: 高天原と常世)

投稿者[ 牛頭 ] 発言日時 [12月20日(金)06時55分15秒]

元の発言 [ Re: 高天原は天国(Re: 高天原と常世) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月18日(水)22時31分37秒 ]

>> 一説によると,キリスト教の場合は異教に不寛容だったので,
>> 徹底して潰したため,西洋では古い民俗などを辿りがたいそうです。

キリスト教も現代では先住民の原始宗教を強制的に排除せず食べ物や物品で釣りながら布教しているようです。
昔は布教だけが目的ではなく,殖民支配も目的であったので結構強制力を持っていたのではないかと思いますが。

>> 日本の場合,仏教や儒教が轢き潰したフシがありますが,
>> 西洋ほど過酷ではなく,逆に寛容な面もあったため,
>> わりあい古い民俗を辿ることができる,とのことです。

>> ただし,戦闘的な神道の場合,いろいろと怖い側面がありそうですけど,
>> それは裏神道とか呼ばれていて,いわば私的な世界であり,
>> 律令の伝統を引く近現代の神社神道からは敬遠されているそうです。

そうですか。裏神道。調べてみます。

>> >> 所謂先住民が鏡とか剣を喜んだとは思えませんが?

>> 嫌った地方もあるでしょうね。

>> >> 食料の生産に関る物なら喜んだでしょうが。
>> >> 先住民にとって剣などは畏怖の対象で逆らうと殺すぞと言われているにひとしい。

>> 「先住民」というか,その辺りは,よく分からないが,
>> 地方の首長層のことです。

こちらは民間伝承の話です。

>> 後発の移住者(新参者)が新天地を席巻したため,
>> 古参の勢力が焦って巻き返しに出たのではないか,
>> とかの推理の様式すら可能ですから,
>> 「先住民」という用語が全ての局面に適切なのか,といった問題もあります。


>> >> 山の上や祠などに鬼、怪物などが住んでいて定期的にやってきて作物、宝物、娘などを貢物として出させると言う話などです。

>> それはだって,ご贔屓・素戔鳴尊の大蛇退治が元みたいなものでしょう。

『句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布、魚、鹽、海中食物、千里擔負致之。又送其美女以爲婢妾、遇之如奴僕。』

で高句麗が沃沮や「ワイ」に対しやっていた事です。
自分のやった悪行を他人のした事にするプロパガンダはよくあります。
ビルマで朴大統領爆殺を狙ったテロを北朝鮮は自作自演と非難しました。
米国の湾岸戦争で重油にまみれた海鳥の姿はイラクがやったのではなく米国のやった事である事が後に解りました。

高句麗人が日本に来てやった事の伝承を地元の悪神のせいにした可能性は十分考えられます。

神社などはこれらの収奪者の出先機関だったかもしれません。

>> >> 恵比寿神などは出雲系の主神の傍らにも祀られています。

>> だから,出雲系では?

主神の下にいる者です。主神はあくまでも出雲系。
白山神社の蛇神も主神は菊里媛(半島系)でそれに従う旁神という扱い。
恵比寿神は現世において御利益を求めてお祭りをし、天照を祀る時御利益を求める事はしないような気がします。
全然違う系統の神さまのように見えます。

>> >> 出雲、スサノオ系はどう考えても高句麗が妥当だし、高天原はケーマ高原でしょう。

今気がついた事ですが「ケーマ蓋馬」と言う名前も「コマ高麗」と言う名前を連想させますね。
高句麗が高麗になる前から高句麗を「コマ」と呼ぶのはケーマが元でしょうか?
新発見??いや大発見かも。(^^)¥

>> >> 白頭山は牛頭山の事で別名を根山とも言うそうです。
>> >> 伽耶山を牛頭山とも言うらしいですが『三国史記』には楽浪牛頭山城などという記事があるそうで新羅の牛頭山のルーツはやはり白頭山じゃないですか?

>> 高天原の件は違うでしょうが,出雲だかスサノヲだか,

>> 比較検討すると,似た一面があるようだ,ということであって,
>> 昔っから,いくつかの研究や際物があるのであり,
>> ここで結論だけ決め付けてみても始まらないでしょう。

>> あるいは,高句麗と取るか,
>> いっそのこと夫与系,いわゆるアルタイ系と取るか,少し違うのか,
>> 元を辿ると,中国の超古代神話,黄河文明,漢の文化に至るのではないか,
>> とかの課題もあることでしょう。

>> あるいはまた,スキュタイとの関連ですとか。
>> 江南の影響は北上したのかどうか,とかすらの。

>> また,NHKによると,縄文人の源は北回りらしい,ということになったわけで,
>> そうすると,シベリア・東北アジア・半島の諸族と縄文人との関連はどうなるのか,とか。

はっきり言って縄文人北回りは大間違いでしょうね。
アイヌが北廻りで来た可能性はあっても縄文人は青森で既に稲作をしていたのですから南方から来たと考えた方が素直でしょう。
アイヌは狩猟民族の風俗を色濃く持っているし、アイヌが縄文文化に近い文化があったとしても縄文人と同一ではない可能性のほうが高い
ような気がします。
縄文文化との接触でアイヌが縄文に近い文化を獲得したか。
あるいは縄文人も前期後期で2,3種類あったかも。

>> >> 宗像あたりは九州がまだ畿内に隷属していなかったころ畿内が半島と交流する為の拠点だったのではないでしょうか?

>> そんなような説もありますが,

私のオリジナルかと思っていたら他にも誰か唱える人がいるんですか。
大和王権高句麗説もネットサーフィンしていたら他にもいいるようです。



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