目指せ、「遊びをプログラムする哲学者」
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- 2010-3-7 (日)
- やっと管が抜けました。
あとは原則的には普通の表面的な傷跡の治療と変わりありません。
傷口を清潔に保ち、毎日ガーゼを取替え、完全に傷が塞がるのを待つだけです。
本人的には「治ったも同然」という気持ちですが、
ここで油断して、また傷口が膿んだりするようなことになったら
馬鹿馬鹿しいので、気を抜かず、しっかり治療したいと思います。
(注意:以下の写真は少しグロいです。)
患部写真4
ドレーンを抜いた後の傷口。
人工物が刺さっていないので、本当にただの傷跡、という感じ。
まだ血が滲み出ているけれど、痛みもなく、
傷口自体の大きさも少しずつ小さくなっている。
それにしても、健康というのは、ある日突然失われ得るものだし、
場合によっては取り戻すのが簡単ではない、ということを、本当に実感した。
いずれは死によって全てを失う、この「人生」というものに、
どのように向き合えば良いのか。
いずれ失うものならば、些細なことに拘ったりしがみついたりすべきでないし、
だからこそ絶対に譲れない目標や矜持が際立ってくるはずだ。
人生における「選択と集中」を、見直すべき時期なのかもしれない、
などと思ってしまった。
- 2010-2-28 (日)
- 2/6(土)の入院以来、色々な事があったが、やっと確かな回復基調に乗った。
これまでの状況を以下に時系列で整理しておこう。
- 2/6(土):従来の喉風邪に加えて、朝から腹痛を覚える。
昼一杯、睡眠を取るも改善せず、夕方、タクシーで病院へ。
虫垂炎(盲腸)と診断され、そのまま入院。
- 2/7(日):未明に手術。麻酔が切れると傷口周辺が激しく痛む。
手術跡以外の下腹部まで全体が痛い感じ。
- 2/8(月):激しい痛みは徐々に和らいでくるも、38度前後の高熱が続く。
お医者さんに盲腸付近以外の下腹部を指でグッと押され、
離す時に内部が傷むか聞かれたので、痛む、と答える。
内部に炎症がある可能性があるが、様子を見るしかない、とのこと。
痛み止めや抗生物質などは処方されず。
- 2/10(水):痛みはあるものの、傷跡は綺麗で、
熱も37度前後 まで下がったため、退院の許可が下りる。
- 2/13(土):抜糸。熱は37度前後。傷口周辺を指でグッと押しパッと離す、
というのを、またやられる。「炎症は残っていますが、
悪化してないなら大丈夫でしょう」とのこと。
- 2/15(月):痛みは相変わらずだが、傷口周辺が全体的に腫れあがっており、
その傾向は強まっているように見える。
- 2/17(水):安静にしているも、腫れは収まらず、
どうも月曜日以来、痛みの和らぎ方も遅くなってきている気がする。
- 2/18(木):ネットで調べてみると、私の現在の状況は
手術後に菌が繁殖しており、板状硬など、限局性腹膜炎の症状に
良く似ている事が分かる。
ついでに、指でギュッと押してパッと離すと痛いのは、
『ブルンベルグ徴候』といい、腹膜炎の典型的な徴候らしい。
- 2/19(金)8:30 手術跡の痛みは、範囲は狭まっているものの、
あまり回復しないと感じていた。念のためタクシーで出社。
- 2/19(金)15:00 会社の40階にある、革張りの椅子がズラッと並ぶ
ディシジョンルームでの重要会議に出席。
第一部が終わったところで便意を催し、トイレに行って、大を出す。
傷口は少々痛んだが、リキんでしっかり最後まで出す。
便器を見ると、真っ赤な血が大量に浮かんでおり、ギョッとする。
何が起きたのか最初は分からなかったが、程なく、
傷口から血やら膿やらがドプドプと盛大に出ているのを発見する。
- 2/19(金)15:30 トイレの個室で、
トイレットペーパーで、必死に血やら膿やらを拭き取る。
もう大丈夫かなと思って立ち上がると、またドプドプと出てくる。
これを何度か繰り返して、やや落ち着いたところで
トイレットペーパー10枚重ねくらいで傷口を押さえ、
ディシジョンルームに戻る。
丁度、私の報告の順番だったので、まぁいいか、と報告実施。
その後、議長に「傷口開いちゃいました、てへっ♪」と告げ、会議室を出る。
うちの会社の歴史の中でも、ディシジョンルームで
手術跡の傷口が開いたままプレゼンした阿呆は、
おそらく私だけであろう。
- 2/19(金)16:30 かかりつけの病院にタクシーで到着。
まずは細菌の状況を調べるため、傷口に針を突っ込んで
検体を取ったり、血液を二箇所から採取されたりした。
実際には一箇所はうまく血が採れず、三箇所、針で刺された。
腸に穿孔が無いか調べるため、レントゲンも3枚撮った。
- 2/19(金)17:30 若い外科の先生がやってきて、
「あぁ、傷口が開いちゃいましたか。でも、これで膿も出ちゃうし、治るよ」
と明るい対応。
いきなり麻酔無しで傷口にハサミを入れてくる。
声は「ぐうっ」「ひぐあっ」という程度に抑えていたけど、
心の中では「うっぎゃあああ!」と叫んでいた。マジ痛い。
「痛いけど、僕にしか出来ないし、これが一番早く治るから」と、
傷口周辺をこれでもかと圧迫して膿を搾り出される。
神様、私は何の罰で、こんな痛い目に遭っているのでしょう。
その後、ドレーン(誘導管)を突っ込まれ、
針で腹にブスリと縫い付けられた。激痛。
確かにこの程度の処置でイチイチ麻酔なんてしないんだろうけれど、
それにしても痛かった。
最後に、この管が腹に潜っていかないように安全ピンで固定。
- 2/19(金)19:00 一通りの処置を終えて、
抗生物質(クラビット)を3日分もらい、家に帰る。
入院の必要が無くてホッとする。
- 2/20(土)10:00 再度病院へ。まずは採血し、菌の状況などを測定。
- 2/20(土)11:00 凄く冷たく感じる生理食塩水で傷口を洗ってもらい、
ガーゼなどを当て直してもらう。
単刀直入に、傷口はトイレできばったくらいで開くのか、と聞く。
「外部から菌が着く場合と、内部に残留していた菌が繁殖する場合があって、
傷口が弱ることも…」と、一般論を述べ始めたので、
ここぞとばかりに私もガツンと言わせて頂いた。
「今回の場合、入院中から傷口以外の部分の痛みを訴えてきましたし、
入院中も、抜糸の時も、先生はブルンベルグ徴候を確認されてましたよね。
痛みが増していないなら処置は不要、と繰り返されていましたが、
手術時の洗浄や、術後の対応に不十分な点があったのではないですか。」
私が「ブルンベルグ徴候」などと専門用語を使ったので、あぁ、
こいつは勉強してきたな、と観念したのだろう。
「確かに、炎症が残っていることは確認していた。
予防的に抗生剤を処方するなどしていたら、ここまで酷くは
ならなかったと思う。その点については申し訳なく思う。」
…と、比較的あっさり認めてきたので、私としては矛を収めた。
- 2/20(土) 13:00 タクシーで自宅近くの薬局まで帰ってきて、ガーゼとテープを買う。
今までの膿が溜まっていた時の、腹の奥が痛む感覚とは異なり、
表面の傷口周辺がひっぱられるように痛む。
- 2/21(日) 10:00 自宅でガーゼを取り外す。
20枚重ねくらいのガーゼを膿は貫通しており、
傷口近くの6枚分くらいは血と膿でぐっちゃり重くなっている。
よくもまぁ、これだけ盛大に出るものだな、と思いつつ、
一通り拭き取ってシャワーに行く。事前に先生に言われていたので、
遠慮なく傷口にシャワーをジャージャー掛けて清潔にする。
(注意:以下の写真はグロいです。)
患部写真1
傷口部分を胸のあたりから見下ろす感じで撮影したもの。
右下腹部に、横方向の傷口がパックリと開いており、
そこから短い管が飛び出ているのが分かる。
管が腹の中に戻らないように安全ピンで留めてある。
なかなかワイルドな処置だと思う。
患部写真2
傷口部分の拡大写真。シャワーを浴びて綺麗にした直後の写真だが、
既に傷口には黄色い膿も写っているし、管からは血液混じりの膿が
零れ落ちそうになっている。
一晩経過すると、10枚重ねのガーゼを貫通するほど、この黄色い膿が出てくるのだ。
- 2/27(土) ひたすらガーゼを替え続ける一週間が過ぎ、再度の通院。
血液検査の結果は非常に良好。抗生物質無しでも殆ど全ての測定項目が
正常範囲に収まっている。
但し、まだ膿は出続けている。
これまでのチューブは一度抜いて、もっと細いチューブを入れ、
もう一週間様子を見ることになった。
(注意:以下の写真はグロいです。)
患部写真3
傷口部分の拡大写真。パックリ開いた傷に血が溜まっていて痛々しそうだが、
その周辺の赤みは随分引いて、炎症範囲が狭くなっていることが分かる。
今回のチューブ(ドレーン)は一回り細くなっている。
うまく行けば来週は抜管できるだろう。
医師によると、「現状でも膿の範囲は十分狭くなっているので、
普通に日常生活を送ってもらって良い。傷口も、普通の擦り傷と同じだと思えば良い。
患部を清潔に保ち、衣服が汚れない程度にガーゼを当てれば十分。」とのこと。
総じて、今回のような事態になった背景としては、
医者側の予防的措置や状況説明の不十分さがあったと思うが、
敢えて私自身が反省するとすれば、
抜糸時にもっと痛みの状況を克明に訴え、傷口以外の部分の痛みや腫れについて
納得するまで医師に説明を求めるべきであったのかも知れない。
医師は患者に状況をきちんと説明する責務があるが、
患者にも完全に状況を理解するまで説明を求める責務があるのだ。
- 2010-2-12 (金)
- 2月6日(土)に腹痛で外来に行ったら虫垂炎と判断され、そのまま緊急手術、入院。
10日(水)に退院するも、まだ手術跡が痛くて、マトモに歩けない状況です。
前厄の時に父親が他界し、後厄の時に盲腸で入院。
やはり、厄年ってのは本当に何かあるものだなぁ、と実感。
- 2010-1-21 (木)
- 「自循論」は、大きく2つの観点から掘り下げられてきた。
一つ目は、「自分が自分であるという、この不思議な感覚」の解明。
これは、入出力の無い(睡眠状態に相当する)脳内定常波が
自のクオリアを形成する、という方向性で一応の解決を見た。
二つ目は、「森羅万象を貫く究極の原理」の探求。
これは、物理法則が生み出した生命と知性が、その物理法則を再発見する、
という自己完結的な自己循環そのものとして見出された。
ところで、この両者は、「自循論」の中で、どういう関係にあるのだろうか。
相互には関係のない二つの理論なのだろうか。
実はそうではない。宇宙と自我が時空という形式を(たまたま)共有する時、
意味のある宇宙(自覚する宇宙)になる、という考え方を基に、
両者は「実は同じこと」と言いたいのである。
そうしないと、自循論は一つの理論として完成できない。
安定した自意識は、先ず意識と同時発生的に内的な原時空を形成し、
次いで、自らが身体性に包まれていることと、
周囲に他者と環境があることに気付き、その更に外側に物理法則を再発見するであろう。
一方、安定した物理法則は、物理時空において、唯物論的・運命論的な確かさで、
生命の進化と知性の発生を説明できるであろう。
この両者がたまたま噛み合う時、すなわち、
どちらがより根源的であると言えないような自己循環性、自己完結性を持つ時、
初めて差異=意味=情報が発生するのである。
それでは、ミクロな意味での“自”意識と、マクロな世界構造の“自”己完結性を貫く
“自”なる現象とは、一体何なのか。
そのギリギリまで贅肉を削ぎ落とした論理的な最抽象概念である“自”こそが、
自循論が定式化したい不変量なのである。
この定式化が完了すれば、私達は、
ありとあらゆる有意味な宇宙を予言できる。
この宇宙以外の、宇宙内に知性を宿す全ての宇宙のバリエーションを予言できるようになる。
そして、あなたの世界と私の世界の違いと共通性についても定式化できることになる。
自循論は、ホモサピエンスや地球や、この宇宙だけに興味があるのではない。
有り得る全ての宇宙に共通する性質に興味があるのだ。
- 2010-1-8 (金)
- 【歪自検知ニューロン】
脳は睡眠中も活発に作動して、「ヘブの法則」により、
脳自身のことを最もうまくクルクルと考え続けられるように
脳神経回路網を調整する。
最適に調整が終わった動的平衡状態で脳内を巡る脳波を
『基底自己循環信号』と呼ぼう。
この循環信号は、覚醒時においても、
無意識の奥底で持続しているが、
何かを見たり聴いたりすることによる入力信号によって
どんどん歪んで変調される。
ここで、この歪みを検知してスパイクする神経細胞がある、
という仮説を置こう。
仮にこれを『歪自検知ニューロン』と命名しておく。
このニューロンは、睡眠中に基底自己循環信号に同期して調整され、
理想的な動的平衡状態では発火することが無い。
ところが、覚醒時に外界から様々な情報が到来して
基底自己循環信号に歪みが生じると、
歪自検知ニューロンは、その歪みの大きさに応じて
活動電位になる(スパイクする)という機能を持つ。
この仮想の神経細胞の役割は、
基底自己循環信号の歪みを元に戻すように働いて
自我の安定化を図ったり、
知覚の反作用としての自意識の元を為したり、
自我を乱されることによる感情の原信号を発したりすることである。
基底自己循環信号の形成と、この変調に感応する
歪自検知ニューロンの組み合わせによって、
脳内に、能動的に「自己」を知覚・維持するシステムが
出来上がってる、と考えるのである。
とにもかくにも「自意識」なる現象は、
現に存在しているのだし、
明瞭な一対一対応ではなくとも、これに対応する
何らかの物理現象があるはずだ。
一方で、個々の脳神経細胞に出来ることは然して多くない。
霊魂や量子脳仮説を持ち出さずに自意識を説明しようとすれば、
とにもかくにも何らかの持続と、
自意識を主題的に捉える際の仕掛けが無ければ
何も始まらないであろう。
そのような観点からは、脳内に
「基底自己循環信号」と「歪自検知ニューロン」が存在する、
という仮説は、確信的推測に部類される。
- 【自のクオリア】
基底自己循環信号それ自身は、外部との入出力が無い場合に
脳内を静かに巡る電気信号でしかなく、
これ自身が直接「自のクオリア」(自分が自分である感じ)を
形成しているわけではない。
また、現実の脳内においては、この基底自己循環信号それ自身も、
全く理想的な動的平衡にあるわけではなく、
ゆらぎながら、刻々と変化し、その痕跡を記憶回路に残していく。
基底自己循環信号が残した痕跡自身が、
基底自己循環信号に与える影響、
すなわち自分の残像が自分に与える歪みが、
自のクオリア(自分が自分である感じ)である。
(「基底自己循環信号」こそが、
永遠に対象としては捉えられない無味無臭な自aの正体である。
これが記録されて対象化された短期記憶が自bである。
自bが自aに影響を与えるというフィードバックが
「自のクオリア」ということになる。
自意識の根源にあるのは、この、自aと自bの緊張関係である。)
(勿論、外来の視覚情報、例えば赤色の周波数を持つ光線に由来する
入力信号が自aに与える影響は「赤のクオリア」であり、
このような感覚クオリアは、「自のクオリア」よりも
明瞭かつ主題的に捉えられるものである。)
- 【自と時空】
さて、自aと自bの関係が、主観時間の起源となっていることは
容易に想像できるであろう。
自bは、もともと自aの痕跡(一瞬過去の自aのコピー)なのだから、
自bが自aを大きくは歪めまい。
(だから通常、自aと自bの緊張関係は、
歪自検知ニューロンにも滅多に見つからず、
従って「自のクオリア」が主題的に意識されることは無い。
「自分の自分という感じ」を意識的に見詰めようとしても難しく、
通常は「物を見る」「音を聴く」という知覚の反作用として、
「物を見ている自分」「音を聴いている自分」
に気付くのが関の山である。)
しかし、視覚や聴覚の入力によって基底自己循環信号(自a)の一部が歪むと、
その直接的な歪みが(入力の反作用として)大きく検知されるだけでなく、
伝播された基底自己循環信号全体の僅かな歪みが自己干渉し、
自aと自bの間にモアレのような干渉パターンを形成するだろう。
歪自検知ニューロンも、全脳的に独特な発火パターンを見せるだろう。
おそらく今の脳波測定技術では、
基底自己循環信号は、脳内全域に広がる背景雑音のようにしか見えず、
覚醒時の明瞭な信号によって歪んだり、全能的に影響が波及したり、
その結果、独特の分布で歪自検知ニューロンがザワザワと発火したりする、
その様子を捉えたりすることは出来ないだろう。
しかし、もし、このような舞台裏の脳波の様子まで
克明に観測できるようになったならば、
脳内で自意識が維持され、時間感覚を生じている
そのメカニズムも、かなりのところまで
物理的に解明することが可能になるだろう。
そして、人類が知る限り最も複雑な構造物である脳が、
このように精妙かつ重層的な情報処理を実現していることに、
奇跡を感じずにはおれなくなるだろう。
まさに、このような奇跡を実現した場合にのみ、
脳内に自覚が生じ、情報世界が構成され、「意味」が生まれる。
物理法則が宇宙と星と生命と知性を育み、
その知性が物理法則を再発見して意味を持たせている、
この奇跡的なバランス、すなわち物理世界と情報世界の相互依存こそが、
それ以上の理由や説明を受け付けない、究極の真理なのである。
- 2010-1-7 (木)
- 【神経細胞の機能】
神経細胞(neuron)は、以下の3つの部分から構成される。
- 本体の細胞体
- 複雑に枝分かれした樹状突起
(他の神経細胞からの入力信号の受信部)
- 本体から一本だけ出て末端で多数に枝分かれする軸索
(他の神経細胞に信号を出力する送信部)
神経細胞は、多くの入力信号を重み付けして総和し、
信号を出力するか否かを決める、
多入力一出力の情報処理素子であると言える。
- 【神経回路の基本動作】
個々の神経細胞は、このような単純な機能しか持たないが、
幾つかが組み合わさることによって、多彩で高度な機能を実現する。
例えば、入力の特定の空間パターンにのみ反応したり、
入力刺激の特定の時間間隔や速度に反応したりする
神経回路網を構成することが可能である。
ミラーニューロン(Mirror neuron)は、
「自らの行動認識」と、
「他の同種個体が同じ行動を行っているのを観測した時」とで、
同じように活動電位を発生させる神経細胞であり、
脳内情報世界への他者性の取り込みや、
他者への共感の形成、
また、他者の身振り等の理解から言語獲得に繋がる
重要な機能を担っていると考えられている。
このように、神経細胞は、多段に構成していくことで、
極めて高度な機能を実現できるのである。
- 【神経回路の学習機能】
神経回路の今ひとつの特徴は、学習機能である。
2つの神経細胞A、Bを考えよう。
Aの軸索からBの樹状突起に接続するシナプス(Synapse)は、
特定の条件で強化される。
つまり、A→Bへの情報が伝わりやすくなる。
その条件とは、A→Bの順番で、
ほぼ同時に活動電位が発生(スパイク)することである。
これを「ヘブの法則」と言う。
Bの方が直前にスパイクしてしまうと、
逆に、A→B間のシナプスの結合強度は弱まってしまう。
神経細胞A、Bを擬人化して、この様子を見てみよう。
Aがスパイクした時に、
Bが「そうそう、オレも丁度スパイクするところだったんだよ」
という場合は、結合強度が強まる。
もしかすると、AとBは、
別々の理由でほぼ同時にスパイクしただけかも知れないが、
このように「気が合う」と、
A→Bへのダイレクト・パスが強化されるのである。
一方、Aがスパイクした時に、
Bが「遅いよ、オレは今さっきスパイクしちまったよ」
という場合は、結合強度は弱まる。
BがスパイクするためにAからの信号はいらなかったわけで、
こういう「ワンテンポ遅い奴」は、
非効率な奴だ判断され、疎遠にされてしまうのである。
つまり、「ヘブの法則」は、複雑に絡み合った神経回路が
さまざまな偶然を含みながらスパイクしている状況の中で、
繰り返しA→Bといった順序で発火するパターンを持つ部分を発見して、
その結合を強化する。
こうして、入力から出力へ繋がる、より効率的な回路だけを残し、
継続的な最適化を実現するのである。
- 【睡眠による自己の定着】
ところで、脳は睡眠中も活発に活動している。
この時、視覚情報の入力や、筋肉などへの出力は、ほぼ全く無いので、
全身の神経系、特に脳の中で、信号がグルグルと回っている状態だと言える。
この時も勿論「ヘブの法則」は働いている。
脳の中を静かにノイズが駆け巡り、あらゆる情報伝達経路が試される。
「気の合う奴」からの経路は強化され、
「ワンテンポ遅い奴」からの経路は閉じていく。
こうして、脳は、脳が脳自身を考える経路を最適化するのだ。
一晩眠ると記憶が定着するというが、実際、昼間に体験したことは、
睡眠中のこの自己最適化作業の中で、
脳が脳自身を考える情報循環の連鎖の中に定着していくだろう。
つまり、一本の主観時間の繋がりの中に組み込まれるのである。
(強いトラウマは、主観時間に組み込まれずに遊離し、
思い出すことが出来ない記憶として、無意識的な強迫観念になりうる。
カウンセラーの誘導による自由連想法で、主観時間との繋がりを回復すると、
この手のトラウマは解消されることがある。)
睡眠は、脳の純粋な自己確認の時間であり、
言わば脳神経回路の最新状態を最適化し、新たな神経回路に焼き込む、
つまり脳に脳自身をハッキリと書き込む儀式なのである。
こうして、脳は、外界から得られた知識を含めて、
常に自分自身を更新し、断片的な体験のツギハギではなく
滑らかに連結して最適化された一体である脳内情報世界の基盤を維持する。
この、最適に効率化された脳内情報循環の動的平衡状態が、
「自のクオリア」、つまり「自分が自分である感じ」の正体である。
- 【覚醒時の自意識】
脳は、入出力を遮断した睡眠状態において、
脳自身を考え続ける基底状態としての「自のクオリア」を確立する。
覚醒時には、ここに様々な変調が齎される。
絶えず視覚、聴覚、触覚からの情報が入力されてくる。
新しい入力と出力のパターンが繰り返し発生すると、
「ヘブの法則」により、
新たな入力→出力の結合強化が起こるかも知れない。
睡眠時に最適化された「自のクオリア」は、
このようにして外界とのやり取りで乱され、変調され、
自己に粗く刻み込まれた状態になる。
そして、睡眠時に、再び最適化が行われ、
滑らかに自己に組み込まれるのである。
さて、基底状態である「自のクオリア」は、覚醒時においても
無意識の奥底でずっと続いている。
視覚や聴覚を遮断し、脳内にモノローグすら響いていない、
無色透明・無味無臭な自己参照の連鎖に相当する
信号の循環が継続している。
例えばここに、視覚情報が入ってきたら、何が起こるだろうか。
最適化されたはずの循環は、乱されるであろう。
何か赤いものを見た時、私たちの脳は、
単なる「赤い」という情報を受け取るだけの電気回路では無い。
脳内に満たされた「自のクオリア」なる電気信号の循環への干渉、
もしくは外部擾乱として、この信号を認識するのである。
この時、無色透明だった「自のクオリア」が、言わば“意識”される。
「赤い」という入力によって、「自のクオリア」が、
最適な循環状態から歪むことで、その弾力から、
「あぁ、自のクオリアがあったんだ」と気付くのである。
殆ど無意識ではあるが、私たちは、リンゴを見た時に、
リンゴという対象物の知覚と、その知覚によって歪められた自分を、
同時に感じている。
あるメロディーを聴いた時に、
そのメロディーの知覚と、その知覚によって変調された自分を、
同時に感じている。
作用反作用の法則のように、どんな入力を受け取っても、
それに反発する「自のクオリア」を(殆ど無意識に)感じる。
(現時点では「反発する」というようなイメージで述べているが、
将来は、この具体的な物理的挙動が解明されるであろう。
おそらく、最適に調整された自のクオリアが循環している状態では
反応しないように調整されている神経細胞が、
その循環が乱されることでスパイクする、
言わば「擾乱検知ニューロン」のような形で発見されるであろう。)
景色を見れば、その景色ではない、
景色を押し付けられて反発している「自分」を感じる。
美味しいものを食べれば、その味ではない、
味を押し付けられて反発している「自分」を感じる。
つまり、私たちは、覚醒時には、
あらゆる知覚された対象だけではなく、それでは無いものとして、
何かを感じ続けているのである。
これこそが「自意識」の正体である。
私たちはそれぞれ、個別の脳と身体を持ち、個別の体験を経て、
個々人に特有の「自のクオリア」の動的平衡状態を持っている。
感覚クオリア、例えば「赤のクオリア=赤の赤い感じ」とは、
この、各人各様の「自のクオリア」が、
赤いという視覚情報の入力に対してどう歪むか、
という変調の様態のことであり、
それは個々人によって異なるものだろう。
あなたの赤のクオリアと、私の赤のクオリアが同じである保証は無い。
なぜなら、あなたの自のクオリアと、私の自のクオリアは、
(身体も経験も違うので)同じではないからである。
- 【コトとしての自意識】
私たちが覚醒時に通常「自意識」と思っているものは、
言わば知覚情報への反作用の総体であろう。
なぜそのような反作用が生じるのかといえば、
脳は常に脳自身のことを考え、
特に睡眠時において、その自己循環が最適化され、
無色透明の基盤を形成しているからなのだ。
このようにして維持される動的平衡の連鎖が、
あらゆる知覚情報を「自己という一本の繋がり」に関連付けながら、
エピソード(体験)として記憶していく。
そして、記憶されたものは、再度連想して思い出されることにより、
追体験(再体験)を私たちに与えてくる。
(この意味で「思い出す」というのは知覚の一種であり、
やはり「自のクオリア」に変調を齎す、自己発生的な入力である。
極めて大雑把に言えば、「見る」ことと「思い出す」ことには、
本質的な違いは無い。)
(レム睡眠時にも脳内で「思い出す」という回路が働くことはあり、
最適化中の「自のクオリア」に影響を与えることがあるだろう。
これが「夢」であろう。)
一旦、記憶として対象化された知覚は、
既に「モノ的」である。
一方、知覚や想起が動的平衡状態にある「自のクオリア」に影響を及ぼす時、
まさにこの動的な関わり合い、変調、反作用それ自体、
つまり体験が「コト的」である。
自意識をモノ的に捉えようと思っても無理である。
自意識は「自のクオリア」という動的平衡を基盤とする
コト的事態だからだ。
自意識とは、最適化を図り続ける「自のクオリア」と、
これを乱す入出力信号との間の緊張関係の持続そのものなのである。
- 2010-1-2 (土)
- 今回の年末年始は、母親の実家である石川県の田舎町で、
のんびりと過した。
もうすぐ102歳になる母方の祖母にもお会いした。
持参した息子、娘の写真(つまり祖母にとっては曾孫の写真)を、
何度も何度も見て、「かわいいねぇ、かわいいねぇ」と、
満面の笑みを浮かべていた。
同じことを何回も言い、何回も聞くので、それなりにボケているようなのだが、
その受け答えの品格や笑顔は素晴らしかった。
母親の友達が祖母を尋ねた時、「天使様のようだ」と言ったそうだ。
同感だ。
その夜。静かな雪の中、加賀の銘酒を飲みながら、ぼんやりと
紅白歌合戦を見る。
東京にいると、たとえ土日でも、会社の仕事のことを考えてしまうが、
この時間だけは、本当に何も考えていなかった。
コタツで新鮮な魚介とコシのある年越しソバを食べながら、
クリスマスパーティーのBINGOで当たった任天堂DSiLLで
「立体ピクロス」を解きつつ、
70歳になる母親と、とりとめの無い話をし、
ぼんやりとテレビの熱唱を聴いていた。
翌朝、一面の銀世界。一人で外に出て、
人っ子一人いない広々とした真っ白な田舎の景色の前で、
雪混じりの冷たい強風に吹かれて、ただ呆然と立っていた。
高い常緑樹の森の上を、羽を動かさずに悠然と滑空する鳶が見えた。
その時、私は、突然、ある強い感情の波に襲われた。
その感情は、あまりに強く、「言葉」の姿を持たなかった。
大洪水の後、少しずつ水が引いていき、倒壊した建物や木々が姿を現すように、
その感情が引いていった後、私は、自分の心の中の何がダメージを負ったのか、
詳細に調査を行った。
私は酷く傷付き、そして歓喜に溢れていた。
これまでの「私の生き様」が否定され、より高次の救いを、
全脳的な体験として悟ったような感覚が残っていた。
更に感情の洪水が引いて行くと、それはようやく
「ただ、こうして、時間を過すこと、それ自体の奇跡的な輝き」
という「言葉」の姿を表し始めた。
そうなのだ。
…明確に目標を定めて、突破する。
次により高い目標を設定して、それを達成する。
その繰り返しこそが人生だと思っていた。今でもそう思っている。
しかし、それによって、全ての時刻は、単なる通過点になってしまったのではないか。
「目標は悪である」…いや、そんなことは無いはずだ。
しかし、その言葉は、私の心に降り立って、そのまま沁み込んでいってしまった。
私は、ただ単に、年末の時間を楽しいと思って過したのでは無かったか。
祖母は、記憶や目標に縛られず、一瞬一瞬を楽しんでいるのでは無いか。
鳶は、計画を持たず、その場その場を最大限に把握しながら飛んでいるのではないか。
子供は、与えられた時間の中で、精一杯、その遊びそのものを遊んでいるのではないか。
だからこそ、時間の一粒一粒は、「無根拠に輝く」のではないか。
「メメント・モリ」(死を忘れるな)という教訓の対比として、
だからこそ生きている今を輝かせよう、などと言う理屈は、
既に偽造品のような説教臭さを帯びてしまった。
サルトルが言う通り、人間は「自由の罪に処せられている」のであり、
その自由性の故に、ありもしない絶対的な目的や意義を探して永遠に苦しむのである。
ニーチェの永劫回帰では、人生は無限乱雑空間の中で無限回繰り返されることで、
特定の起源を一切持たないことになる。だからこそ一瞬一瞬を「前提無しに」
最大限に肯定できるのであろう。
ヴィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
という言葉で、むしろ、この高貴な一瞬一瞬を、言葉で汚されることを防ごうと思ったのだ。
フッサールは、超越論的還元によって、この一瞬一瞬から出発する視野と世界観を
学問の基礎にまで高めようと奮闘努力したのだ。
………そうだ、彼らは皆、「無垢に生きよう」という心境に至ろうとしたに違いない。
私たちは、地面に両足をつけて直立し、重力に逆らって脊椎が重い脳を支えている。
その脳は小脳から大脳基底核を経て、地面から遠くへ遠くへと発達し、
ついに前頭葉で終端する。
この全身が、神経系を前頭葉まで発達させるために、
今こうしてこのような姿になっているのだ。そこに無駄は無い。
こうして構成された1000億という途方も無い数の脳細胞は、
一つ一つは単純な挙動しか示さなくても、全体としては
抽象化や比較や記憶といった情報処理を担えるようになり、
その果てに、ついに脳の全てを使って、
脳の中に「私自身」なる幻影を維持できるまでになったのだ。
全ての思考は、直接的または間接的に(主題的または非主題的に)
「私自身」に関わっている。
そして、世の中の全ては、この「私自身」を不動点とした
言語や記号として体系化・序列化され、一つの脳内世界を形作る。
このシミュレーション・ワールドが、記憶の想起、現在の知覚、未来の計画を可能にした。
この瞬間から、人間は、生存競争において圧倒的に有利になると同時に、
自由であるように呪われてしまったのだ。
「この私」にこだわって生きる限り、私は、
脳内世界の奥に引っ込んだ一点の幻影以上にはなれない。
自分を一度壊して、過去も未来も関係なく、
ただ純粋に、今を無垢に生きることが、尊いのではないか。
真にそういう生き方が出来ている人だけが、心の底から
「いつ死んでも後悔は無い」と言えるのではないか。
「人生全部」などという説教臭いものは後回しにして、
一瞬一瞬の時間の粒を味わい尽くすような生き方が美しいのではないか。
自意識を獲得した私たちにとって、名声や成功は、呪われた側面の延長にある。
そうではなく、「いま・ここ」を自覚できるという奇跡、
その祝福された側面を最大限に楽しむことも大事なのではないか。
………そうだ、新年だった。今年の抱負を語らねばならない。
「無垢に生きる」………今年は、これで行こう。
その意味を、言葉で語るのでなく、体現できるようになろう。
少なくとも、それを目指そう。
- 2009-12-26 (土)
- 連続と離散は、時間と空間に対応するだろうか?
大雑把にいって、空間とは、異なるものを並べて置くための形式である。
区別し、相互外在的に並置するために、広がりを有する。
従って空間は、本質的に「離れている」ことから成り立っているのであり、
本来はそこに「連続」という概念は含まれていないように思われる。
ある直線が、連続した点から成っている、と考える時、
私たちは必然的に「どこまで分割しても、その間がある」といったような、
極限を用いて「連続」をイメージする。
しかし、この「どこまで行っても」という解析的な考え方は、
時間の連続性と無限性を借りてきて補完されているのではないか。
つまり、純然たる空間は、本来、どこまで行っても離散的なものであり、
空間を空間として考える限り、それが隙間無く詰まっている連続なものだ、
と考える必要はない。
ところが一方、人間は思考の節約のために、理想を求めたがる。
ホンモノの宇宙空間ですら、プランク長以下では長さ自体を定義できないのに、
「どこまでも滑らかな空間」という、気味の悪い偽造品を脳内に発生させ、
それを支えるような実数とか連続といった概念を、
時間から借りてきて、でっちあげているのではないか。
ベルクソンは、時間を空間の中に展開することによって、
その持続の純粋性が分断され、汚され、もともと一体の質である体験が、
各時刻の状態の寄せ集めという無残なものにされてしまった、
と主張しているように思われる。
つまり、時間の連続性に、空間の分離性を持ち込んだことで、
時間の「持続」の純粋性が損なわれた、と言っているように思われる。
一体の質である体験が、バラバラに崩壊してしまったのだと。
では、こうも言えないだろうか。空間の分離性に、時間の連続性を持ち込んだことで、
空間の「分離」の純粋性が損なわれたのだと。
確固たる実在の居場所が、グチャグチャに攪拌されてしまったのだと。
- 2009-11-6 (金)
- 世の中には、本当は無限や連続なんて実在は無くて、
全ては有限で離散しているからこそ、
今そこにあるものの大きさはその通りの大きさで存在し、
今過ぎ去りつつある時間はその通りの速度で流れるのだ。
それでも、開かれた可能性に対する自由と、
宇宙の一体性と時間の純粋持続のために、私たちは、
本質的に無限や連続に支えられていなければならない。
無限から有限を切り取ったのは【私たち】自身なのに、
【私たち】は【私たち】の存在基盤として無限を必要としている。
物理世界に有限を押し付け、情報世界に無限だの連続だのを押し付けた、
その真犯人は誰だ?
…【私たち】だ。
■宿題
- 2008-1-6 (日)
- 厄年のお祓いをしなければ。
- 2007-11-29 (木)
- 海外に貯金を移したい。
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- ■
電魂盤
- 4枚の伝言板を
ご用意しました。気分の赴くまま、気軽に書き込んで下さいませ。
【癒】/
【理】/
【駄】/
【遊】
- ■
全ての知を愛する人々へ
- 「自分とは何か」という、
最も身近で最も難しい問題についてアレコレ考えています。
◇新書『自循論』(永遠の工事中)/
◇意識/
◇宇宙の年表/
◇幻想の年表
- ■
らんだむ・めもらんだむ
- 物理・数学・社会・精神・実用などなど、
様々な分野の知識を手っ取り早く吸収しちゃいましょう。
◇法則/
◇主義/
◇ヒポクラテスの誓詞/
◇無限
■
こんぴーたーのお勉強
情報処理技術者試験に役立つメモなど。
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選んでみてのお楽しみ…
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