目指せ、「遊びをプログラムする哲学者」

2009-6-28 (日)
父親の一周忌も終わり、今日は父親の会社の同僚だった人との追悼会に行く。 もう一年か…。一年という時間の、なんと短く忙しないことか。 それでも、私の意識の中での父親の存在は、物凄く薄まってしまった。 一年という時間の、なんと長く残酷なことか。
そもそも二十歳の頃に私が哲学に興味を持ったのは、 「自分がいつか必ず永遠に失われてしまう」 という現実の、徹底的に不気味な不条理に対する対抗手段を見つけるためだった。 まるで、考えに考え尽くせば、自分だけは不老不死を手に入れられるのでは、 と、夢見ていたかのように。 四十歳になり、私の中では一つの確信に辿り着いた。 素粒子や宇宙が生命や意識を育んだ、という順番で考えることも、 自意識の形式が身体(生命)や環境(物理宇宙)を規定する、という順番で考えることも、 実は同じことの両側面に過ぎない、ということだ。 そのような私なりの真理を手にしたからといって、 不老不死になったわけではないが、 しかし、死への恐怖は少し減じた。 …そうなのだ、死そのものが恐怖なのではなく、 「生を使って、色々なことを知り、自分なりの表現をする」という可能性を、 十分に使い切らずに消えてしまうことが恐怖なのである。 私が知りたいと思うことを全て知り、 表現できるはずのことを全て表現しきったら、 死は恐怖ではなくなる。 だって、「私」という一回限りの生は、それで全うされ、 他には何も残されていないのだから。
父親の死は早過ぎた。知識欲も表現力も、病魔に蝕まれ、 一年間掛けて生への執着はゼロに収束し、穏やかに死んでいった。 早過ぎる死ではあったけれども、不思議と悲壮感は無かった。 ただただ、純粋な、深い深い悲しみだけがあった。 私よりも遥かに偉大な父親が、目の前で、自らの生命を用いて、 「死に方」のお手本を示してくれた。 …そうだ、どんなに凄い人間でも、いつかは必ず死ぬし、 どんなに愛する人々の記憶からも、徐々に失われていくのだ。 どんなに当たり前のように思われていることでも、 本当は分かっていないこともある。 私は少し、「生の一回性」の意味が分かってきたような気がする。
生命の進化と文明の歴史の大きな流れの中で、 「私が私である」と言える時間は、非常に短い。 大きな流れの中にあることを自覚しつつも、 「私が私である」という、この一回限りの“時間”を全うすること。 すなわち、知りたいと思うことを知り、 表現したいと思うことを表現することに、 全身全霊を賭けること。 それが、私に出来る全てのことであるし、 それこそが大きな流れと自分を重ねる唯一の手段である。 一回限りの自分を生き切ることと、 宇宙の真理に迫ろうとすることは、 同じことの両側面に過ぎないのだから。
2009-6-7 (日)
睡眠とは何であろうか。一般には、脳を休めるとか、 記憶を整理するため、と言われるが、果たしてそうだろうか。 ノンレム睡眠時には「遅い揺らぎ」「自発発火」「神経ノイズ」と 呼ばれるような、脳全体に亙る活動が行われている。 入力を処理したり、出力を制御したり、思い出したり思考したり、 といった情報処理はせず、相当のエネルギーを消費しながら 脳の全域で自発変化を行っている。これは一体、何のためだろうか。
私は、これこそが、神経系における「自」の確認なのだと思う。 覚醒時は、脳はひっきりなしに外界とやりとりし、 色々な影響を受ける。 睡眠時には、全身の神経およびその統合交換器である脳は、 ゆっくりと全身で、一見ノイズのような情報を同期させる。 …「自分とは何であるか」を忘れないように…。 それはヘブの法則により、シナプスの結合度を高める。 外界も記憶もオフにして、自分の中に満ちて反響する、 純粋に「自」を表す固有ノイズが、全身に染み渡り、 シナプスに再記録される。
そして、朝、覚醒する。この時、全身の神経細胞系は、 「自分が自分であること」に関する調整を終えており、 外界から流れ込んでくる情報流の全てを、 「それらは自分にとって何であるか」というように 変調させることができるのである。 もしも、睡眠によるこのような調整が無ければ、 生物は入力に対して機械的に反応するだけの情報処理器になってしまう。
私達は、睡眠があるからこそ、「自」を強固に保つことが出来る。 睡眠とは、外界とのやりとりのスイッチを切って、 「純粋な自己確認を行う」ための儀式なのである。
2009-5-16 (土)
物理世界とは、物理法則に従って時間発展する、 ありとあらゆる可能な世界の総体である。 情報世界とは、そのうち、たった一本の枝だけを 選び取り、認識したものである。
2009-5-10 (日)
自循論のエッセンスである情報世界を、漫画的に表現してみよう。 登場するのは、脳内に住む認識主体である「ホムンクルス君」と、 彼が眺めている「意識のスクリーン」である。 誰もが脳内に持っている、このホームシアターが、情報世界の舞台だ。 ところで、このスクリーンに映っているのは、目が見ている景色ではない。 五感が捉えた全ての情報が、シンボルとして組み合わされて表示されているし、 過去の記憶も、その奥に重ね合わされ、透けて見えている。 そして、なんといっても一番の特徴は、「ホムンクルス君」自身も、 「意識のスクリーン」に鏡のように映し出されている、という点である。 従って、この「意識のスクリーン」には、直接的な感覚情報と、記憶と、 自分自身の姿が、渾然と混ぜ合わさったものが、 情報シンボルとして蠢きつつ表示されていることになる。
さて、ホムンクルス君は、ただ漫然と、この「意識のスクリーン」を 眺めているだけではない。スクリーン自体に手を伸ばして触ったり、 映っている内容を直接改竄することは出来ないのだが、 ある場所を注目したり、見る角度を変えたりすることは出来るのだ。 勿論、それによって、次の瞬間、スクリーンに映る内容も変わってくる。 喉が渇いているという感覚情報をクローズアップする。 視界情報の右前方にあるコップに着目する。 水が飲みたいというホムンクルス君自身の姿も映し出され、 「そうだ自分は水が飲みたいのだ」ということが フィードバックされ、強調される。 この数瞬間は、まだ情報が溶け合い強化し合っているだけのようだが、 既にここまでで極めて重大なことが起きている。 この後、何百億の細胞が同期して活動し、眼球を動かしてコップを見つめ、 腕を動かし、コップを手に取る、という、途方も無い大プロジェクトが始まるか、 それともコップのことは忘れてしまうか、この2つの未来の選択の萌芽が ここにあるのである。コップを手に取る未来A、コップを手に取らない未来Bは、 現在の状況Pから発展する物理世界として、いずれも全く問題がない。 P→Aという変化も、P→Bという変化も、物理法則には全く抵触しない。 脳細胞を流れる電子パルスを見ても、手の筋肉細胞の仔細を見ても、 量子力学的な精密さで両者の時間発展を調査しても、 各々は全く機械的に、唯物論的に、運命論的に、それぞれ A、Bという未来に自然と到達している。 何が起きたのだろう。そう、ホムンクルス君が、視線を変えただけなのだ。 Aの方を見たら、物理法則には全く抵触せず、Aに到達した、 ただそれだけのことだ。 見方を変えると、私達にとっては、物理法則に全く抵触しない 無数の未来のバリエーションがあって、 どの路線に乗り換えるのかは、ホムンクルス君の自由である、ということになる。 (この「どこかの路線に乗り換える」ということを、敢えて 物理世界の枠組みで考えようとすると、量子力学における 確率波の崩壊とか、エヴァレットの多世界解釈のような表現になる。)
このホームシアターは、唯一絶対の宇宙の中を、ただ突き進んでいるのではない。 視点を変更しながら、物理法則だけに任せていたら無数に有り得る未来のうち、 たった一つの経路の上を選んで進んでいるのだ。 各プランク時間で許される選択の幅は、プランク長くらいしか無いとしても、 一年後には0.5光年(4.7兆キロメートル)分くらいの差を生み出せるほどの 潜在的可能性がある。(実際には、いかなる物理法則にも抵触せずに 取り得る未来のヴァリエーションにはもっと制限があるが、 一つの決意が人を大富豪にしたり ノーベル賞を受賞させたりする程度の選択の幅は、余裕で存在するだろう。 盲目な日々の努力より、明確な目標の方が重要であると言われる所以である。)
この事情を、高次元から眺め直してみよう。 「ただそこにある円錐」を、 「だんだん大きくなる円」と勝手に解釈できるように、 私達は、10ないし11次元の「ただそこにある世界」から、 「1次元時間軸に沿って3次元空間を眺める」という認識の方法を 自分勝手に採用している。 捨てられてしまった6ないし7の余剰次元は、 空間の最小分解能以下に折り畳まれたカラビ=ヤウ空間として、 四次元時空の時間発展に殆ど影響を与えない膨大な未来のヴァリエーションを 内包している。 私達は、自分の時空認識を自分勝手に狭めておいて、 残りの部分は自分自身でも気付けない余剰次元に押し込めておいて、 その余剰次元のヴァリエーションから好きな未来を選び取っている。 自らの認識を制限したからこそ、自由の余地が生まれるのだ。 全知全能の神に自由は無い。全てが分かってしまうことと、 選択の余地がない、ということは、イコールだからだ。 (あらゆることが必然の結果であり、完璧に予測できる、 という状況では、自由は存在し得ない。)
さて、その「認識」の舞台である、ホームシアターに話を戻す。 ホムンクルス君が出来ることは、わずかに視点を変えたり、 どこに着目するかを選択することだけだった。その結果、 自分が、コップを手に取っている未来Aと、そうでない未来Bの どちらの経路に飛び込むかを決めている。 では、ホムンクルス君は、どうやってそのような選択を行っているのだろうか。 ホムンクルス君の脳内にも、やはり意識のスクリーンがあって、 ミニミニホムンクルス君がいるのだろうか。 ………そうではない。 実は、このホームシアターには、隠れた仕掛けがもう一つある。 それは、意識のスクリーンとホムンクルス君の中間に存在する不動点、 その名も「自」である。 この「自」は、論理的、純粋数学的なシンボルで、 全ての情報世界を通して、たった一つしか無い。 つまり、あなたの脳内のホームシアターにある「自」も、 わたしの脳内のホームシアターにある「自」も、 その核は、全く同じものなのである。 (但し、どこまで純粋、明確な核として形成・維持されているかは、 処理されている情報流の大きさや密度に依る。 小さい子供や、健常者でも睡眠時には、この「自」はボヤけている。 同じ健常者でも、短期記憶量・情報処理量が優れている人は、 より明確な「自」を持っている。 この明確度を計測する単位が「セルフ」であり、 全く自意識を持たない状況が0セルフ、 外来情報に擾乱されず完全に不動な「自」を形成し切った状況が1セルフである。 その中間の値を定量化する方法は、まだ開発中であるが、 人間は0.5セルフ、犬や猫は0.01セルフくらいに位置づくのではないか。 植物も有限のセルフ値を持つとは思うが、ほぼ0セルフと言って良いだろう。)
ここでいよいよ、ホムンクルス君の正体が明かされる。 実は、「意識のスクリーン」は、情報宇宙の法則の不動点(求心点)である 「自」と相互作用し、「自」を安定に維持するように調整される。 つまり、「意識のスクリーン」と「自」は、常に不協和音を奏でつつ、 常にお互いが妥協して変化し、「自」は可能な限り「自」であり続け、 その反作用に相応しい「意識のスクリーン」の状態が選択されるのだ。 実は、この「意識のスクリーン」と「自」の葛藤の様子が、 次の瞬間の「意識のスクリーン」に残された傷跡こそが、 「意識のスクリーンに映ったホムンクルス君」なのである。 スクリーンに像が映っている以上は、オリジナルのホムンクルス君が ホームシアターのどこかにいるはずだ、と考える。 しかし、本当は、ホムンクルス君など、いないのである。 情報世界の中で、「自」の安定を保つ動き、すなわち自己保存のプロセスが、 意識のスクリーンの上に落とした像、影、歪み。 その原因として逆算・捏造されたものが、認識主体としてのホムンクルス君なのだ。
生命は、進化の果てに、高度な抽象化も可能な情報処理を内包できるようになった。 神経や脳が形成された最初の段階では、 「まだ誰にも見られていないスクリーン」があるだけだ。 しかし、そのスクリーンの中に、別格の抽象シンボル、 普遍的・論理的・純粋数学的なシンボルである「自」が登場すると、 状況は一変する。このような「自」を維持するには、 情報世界内での大掛かりな動的平衡が保たれている必要がある。 (このことは、意識を支える生命体が動的平衡を保っていることと相似である。) どこからか弱々しく現れた「自」というシンボルは、 やがて洗練・強化されて、動的平衡の中で一定の位置を主張するようになる。 (むしろ「自」が維持されている状態を「動的平衡」と呼ぶのであるが。) 「自」は情報宇宙の法則下では不動点である。エネルギー準位の最も低いシンボルだ、 と言っても良い。最も公理に近く、抽象的で、普遍的だ、といっても良い。 (純粋数学でトポロジーが境界概念を抽象化した開集合から出発するのと似ている。) 下等動物では、ただ環境に流されるままだった情報流は、 「自」の維持、という新しい情報処理システムに進化することになる。 このように「自」というシンボルは特別扱いされるので、 それ以外の感覚から到来したシンボルや、記憶から到来したシンボルは、 「意識のスクリーン」に残り、「自」だけがその外側にあるように位置づけられ、 「意識のスクリーン」と「自」の相互作用が 再び「意識のスクリーン」に残した傷跡から逆算して、 「ホムンクルス君」の存在が浮かび上がってきたわけである。 このことを以って、「ホムンクルス君は、本当はいないのだ」とか 「自意識とは錯覚なのだ」と考える人がいるが、 そういうことを言う人は、「そもそも、いる/いない、とは、どういうことか」 「錯覚でない、正常な感覚とは、一体何なのか」ということを、 もう少し突っ込んで考えた方が良い。 多分、物理法則で完全に説明されるものだけが真実である、 というような思い込みが意識の根底にあるのだろう。 意味世界そのものが、物理世界と情報世界の妥協の産物であり、 存在とか意識とかは、そもそも物理世界に還元されるものではない。 むしろ、「物理法則だけで完全に説明できる現象」の方が、 ずっとずっと限られているのである。 (そして、物理法則自体も、認識する側の性質の裏返しである、 ということを忘れてはならない。私達が知っている物理法則の全ては、 徹頭徹尾、私達が直接的または間接的に知覚したものだけから成り立っているに過ぎない。)
時間の由来は、「ホムンクルス君」と「意識のスクリーン」の間の距離である。 「ホムンクルス君」が座っている位置が、「今、ここ」であり、 「意識のスクリーン」に映っている、あらゆることは過去である。 つまり、抽象的な情報処理活動が高次化し、ついに「自」というシンボルを 発見・維持できるようになることで、 ホムンクルス君の居場所としての「現在」というポジションまで創造し、 過去→現在、という時間の方向性を獲得するに至るのである。 こうして、その場その場の情報に機械的に反応していただけの動物は、 「自」を中核とした判断や選択を行える知的生命に進化する。 このことは、更に延長され、過去→現在→未来、という時間軸を生み出し、 予め計画することで、より効率的に「自」の安定を図れるようになるのだ。 (情報世界の中で「自」の安定を図る、ということが、そのまま 生命としての自分の安全を確保する、ということに対応している、 ということは極めて重要だ。情報世界内の自我境界線は、 物理世界の身体の表面と対応しているべきだ。 そうでなければ、折角、情報世界でのシミュレーションで「自」の安定化を図っても、 生命としての自分は死んでしまい得る。 「自」というシンボルは、「他との境界」無くして成立しないが、 「自」を獲得するに至るまでに、この境界概念を強化し続けていたのは、 他ならぬ身体性である。 生命の進化には無駄が無い。 自己認識・自意識もまた、自己保存に有利だからこそ採用されている。)
ホームシアターが、どの枝も物理的には全く平等な、無数の未来のうちの どれに乗っかるかを決める「場」であり、 その自由は、余剰次元に隠れていた「遊び」を、一つに決め付けること (確率波を崩壊させて、一つの古典状態にしてしまうこと)として 観測されるとしたら、 これは乱雑さを構成するタネを増やしているようなものだから、 熱力学第二法則とも相関するだろう。 「時間の矢」の問題を、熱力学第二法則に帰着させる考え方もあるが、 それは半分だけ正解、ということになるだろう。 いずれにせよ、時間は、自意識が生み出したものなのである。
真実の世界は、限りなく乱雑で、無限である。 ここに、何らかの理由で「自」なるものが発生すると、 法則と有限性が生まれる。 その制約と引き換えに、「自」は「自由」を獲得できたことになる。 これこそが、無限乱雑空間から、意味のある宇宙が勝ち取られる道筋でもある。 ビッグバンが本当に起こった、というよりも、 私達の意識から見たら、宇宙の時間的端点として ビッグバンがあったように見えざるを得ない、といった方が真実に近い。 誰の頭の中にもある「ホームシアター」にある、 「自」なる隠れた核こそが、無から私達の自意識と、そして この宇宙全体を生み出したのだ、ということが分かった。 「私が私である」というこの不可思議な感覚と、 「宇宙が宇宙としてある」というこの神様がくれたような奇跡は、 全く根が同じなのだ。(アートマンとブラフマンを同一視する 梵我一如の思想ともフィットすると思う。) 自分で自分を見ようとすると、どうしても盲点のような 特異点が生じてしまう。その「自」という、 掴めそうで掴めない、全ての意味の根源を、 私達は「神」と呼ぶのであろう。
以上で、科学、宗教、哲学が、自循論の枠組みで統合される グランドデザインも示せたと思う。
2009-5-3 (日)
自分なりに自循論を整理してから、最近ふと般若心経を読み返してみたら、 以前より深く理解できるようになった気がする。 有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」という部分も、 「色=物理世界」「受想行識=情報世界」 「空=物理世界と情報世界の動的な相互依存関係」 と置き換えて読めば、私には非常にしっくり来る。 仏教における「空」とは、「何も無い」というよりは 「不変の実体が無い」「変化する関係性である」「動的な現象である」 といった意味で捉えた方が分かり易いと思うが、 物理世界も情報世界も、実体ではなく、時間軸の上で互いに縺れ合う 現象そのものである、と言っているように思える。 これは自循論の世界観そのものだ。 「無無明亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡」 では、我々が苦しみに至る「十二縁起」も、悟りの世界では存在しないと言っているわけだが、 無明から始まり老死に至る十二縁起の各段階には味わい深いものがある。
(1)無明「仏教の教えを知らないこと」 (2)行「何かを為そうとする潜在的形成力」 (3)識「心、認識の作用」 (4)名色「名称と形態、精神と肉体」 (5)六処「眼、耳、鼻、舌、身、意」 (6)触「心が対象と接触すること」 (7)受「快不快、美醜などの感受作用」 (8)愛「愛欲、妄執などの根本的欲望」 (9)取「具体的対象への執着」 (10)有「迷いの中に存在すること」 (11)生「迷いの中に生まれること」 (12)老死「無常に老い、死にゆくこと」
私には、「無明、行、識」までが自己の最奥にある“自”という仕組み、時空認識の基礎、 「名色、六処、触」が情報世界から見た物理世界の形成、 「受、愛、取」が物理世界に対する情報世界の反応、 「有、生、老死」が物理世界と情報世界のインタフェースにある生命現象そのもの、 …をそれぞれ表しているように見える。 全て、自循論のマップの上に、綺麗に整理し得る。
もし、般若心経が、仏教の深い世界観を感じることで、 日々の苦悩から解脱することを指向しているのだとしたら、 自循論も、意味世界の成り立ちを「物理世界と情報世界の動的な相互依存関係」と俯瞰し、 迷い無く一回限りの充実した人生を生きることを指向しているので、 両者は非常に良く似ているという気もする。 ただ、私は、最後に「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶」 と唱えて終わりにするのでなく、この世界観を 可能な限り、平易に、論理的に、描写し切りたいと思っている。 そこに宗教と哲学の指向の違いがあるのだと思う。
2009-4-21 (火)
物理世界と情報世界の交差点に生命がある、と言っても なんだかピンと来ないかも知れない。しかし、 生命の本質をオートポイエーシスと捉えて良いなら、 生命とは、「物理世界からの情報の再生」と、 「情報世界からの物質の再生」のサイクルなのだから、 正に情報と物質の自己循環と言って良いはずだ。
2009-4-20 (月)
もしも、この世界の成り立ちが、本当に本質的に 物理世界と情報世界の相互依存関係にあるとしたら、 私達にとっての有意味な世界の全体は、 安定を担保する物理と、自由を担保する精神の、 妥協の産物である、と言っても良いだろう。 (抽象的な意味空間において) お互いが逸脱しないように、靴紐のように 世界を編み上げてきたわけである。 しかし、その関係は完全に厳密に対応するわけではなく、 「緩み」がある。(もし完全に対応するなら、 わざわざ2つの世界を持ち出す必要も無い。) この「緩み」によって、物理世界は、情報に何の影響も与えないような 幾つかのバージョンを取り得る。 例えば、ある質点の、プランク長以下の位置のズレである。 また、情報世界は、物理に何の影響も与えないような 幾つかのバージョンを取り得る。 例えば、全く同じ物理状態の上に実現し得る、 僅かに異なる精神の可能性である。 ここに「自由」なる現象を認めるための根本原理を求めることが出来る。
私達(自意識)は、物理法則に全く抵触することなく、 複数の情報状態を選択することが出来る。 これは単なる比喩だが、コップに半分入っている水を見て、私達は 「まだ半分もある」「もう半分しか無い」という両方の情報を重ねることが出来る。 その思考の元となった全身の粒子運動の僅かな違いは、 身体の挙動や脳内の電気信号の分布の幽(かす)かな違いのどちらかを選ばせ、 それが積もり積もって、最終的には コップを見ているだけの自分と、慌てて飲み干す自分のどちらかに辿り着かせる。 どちらの時系列も、たとえマクスウェルの悪魔が完璧に観測していたとしても、 全く何の矛盾も飛躍も無い、自然な物理現象であるが、 その結果は天と地ほども違う。その原因は、「見る」側の立場にある 情報世界以外には求められない。
実は、物理世界というのは、多数の情報世界(自意識)が形作る 統計的に安定な客観世界という以上のものではないため、 たった一人の情報世界のスーパーヒーローが、 その卓越した思考力と集中力で、一瞬にして物理法則を捻じ曲げる、 …といった事態は確率的に起こらないのだが、 裏を返せばつまり、確率的には起こり得るのである。 多くの人の思念のベクトルが一致したなら、なおさらだ。 『素粒子とは、狂信的な科学者の集団が、物理世界を捻じ曲げて 物理的真実にしてしまったところのものである。』
100人が飛行機を見て「落ちろ」と念じると、 本当に落ちてしまう、という都市伝説は、何故か素通りできない。 車を運転している時、カーブの先のあそこに辿り着こうと思うと、 実際その方向に運転することが出来る。 ある有名な経営者は、「宇宙には強く念じたことは実現するという 絶対法則がある」と公言する。 …もう、私達は、唯物論にしがみついて安心するわけには行かない。 この意味世界は、物理世界と情報世界の妥協の産物である。 私達の一瞬一瞬の決断には、物理的現象を僅かに捻じ曲げ続ける力があるのだ。
2009-4-19 (日)
改めて科学の偉大なる成果を挙げろと言われたら、
  • 相対性理論(特殊相対性理論:1905年)
  • 量子力学(不確定性原理:1927年)
  • 不完全性定理(1931年)
この3つが思い浮かぶ。まだ100年の歴史しか無い これらの発見が、統合されると何を意味するのか。 人類は、まだその詰め将棋を解いていない。 しかし、これらが、ある抽象度においては、 全く同じ意味を表しているとしたらどうだろうか。 すなわち、私達が自意識という仕掛けを核にして時空を眺める時、 共同幻想として確認できる客観世界(物理世界)には、 速度(同じものが別の場所に移る現象)にも上限が出来てしまうし、 ある質量が確かに特定の位置にあると確認できる精度にも 上限が出来てしまう。 そして、論理学や純粋数学も、推論という 同じ記号を別の文脈で扱っていくという流れを根底に持つ以上、 自己循環・自己否定的な構造を持つ命題は証明不可能になり得る、 という制限が出来てしまう。 つまり、この詰め将棋の答えは、一手詰め。 『意識する、という現象から出発する限り、そこから形成される 物理世界にも、情報世界にも、<全てを同時に決定することは出来ない> という本質的限界を見出さざるを得ない』 ということだ。 そして、「自意識」という現象の本質を、 「自分で自分を見る」という関係の連鎖と言い換えるならば、 表現は更にエレガントになる。 『自分で自分を見るという現象を中核とする限り、 そこから形成される世界の全てを、自分が同時決定することは出来ない』 …そして、ふと振り返れば、アインシュタインも、ハイゼンベルグも、ゲーデルも、 狂おしいほどに「自意識」を中核としてしか、物理空間や情報空間を 捉えることは出来なかった。これは、科学的方法論の裏に潜む本質であり、 私達は、『あらゆる意味で、時間に沿ってしか物事を考察できない』 のである。勿論、その時間の源泉にあるものが、 「私が私である」(=現在の私が、その痕跡である直近の過去の私を見ている) という自意識の中核である。 もし、「自意識」という仕掛けを全く使わずに、(もしそれが存在するなら) 「純客観」なるものを用いて、今の物理学や純粋数学があると 断言できる者がいるなら、その者は既に科学者ではなく宗教家である。 私達は、徹頭徹尾、直接的または間接的に、私達が意識したもの“だけ”を対象に、 あらゆる知的活動を行ってきたのだ、という厳然たる事実から、 目を背けてはいけない。 私達は、宇宙を赤いと見ている。何故、宇宙が赤いのかと真剣に考える。 自分が掛けているサングラスが赤いのだとは気付かずに、 延々と考え続けてしまいがちだ。
詰め将棋が解けた後では、世界観も大胆に変わる。 私達は、どうして生命という現象が、進化の果てに、 意識なる現象を内包するに至ったのか、と必死に考える。 そして、進化は、一体どうやって始まり、どこへ向かうのかを ロマンティックに夢想し、しかし、 幾ら考えても進化の先には何の目的も見当たらないことに気付いて愕然とする。 …違うのだ。「自意識」なる現象は、自分の周囲に 時間に沿って物理現象がたまたまもつれ合っている「生命体」を 自我境界の担保として発見せざるを得ないのだ。 生命が意識を育んだのではない。 意識から見ると、自分を包む生命のような現象が見えてしまうのだ。 だからこそ生命の本質は、生命体の構造ではなく、 激しい流れの中に形状を保つ、その動的平衡の方にあると言える。 意識と生命は、「時間」という本質によって繋がっているのである。
最後に、この「自意識」なる現象を、たまたま私達人類が獲得したもの、 すなわち私達が今、こうして世の中を見回しながら、 「あぁ、私は私だなぁ」と感じているもの“だけ”に 限定してはならない、ということを付け加えておこう。 象にも豚にも自意識なる現象はある。それは人間には及びもつかないほど 希薄なものかも知れないが。 …きっと、植物や単細胞生物にすら、化学反応を基盤とする、 死者の意識ほどに薄い、しかし何らかの意味で「自分」と呼べるような感覚を 有していると思われる。 …人間だけを特別扱いする思想は常に解体されねばならない。 そして、外界からの情報をほぼ全く必要とせず、 潤沢な思考力と記憶力で、ほぼいつも自分で自分のことだけを考えているような 超知性体から見たら、我々人類など、植物と大差ない、 環境依存の自動機械と見做されることだろう。 実際、私達は「自意識」と呼べる現象を獲得してはいるが、 行動心理学の一定の成果が指し示す通り、かなりのところ、 機械的に作動しているのである。
以上のように、最先端物理も、純粋数学も、時間の起源も、生命の謎も、 「自意識」という現象を第一原理に据えれば、ひと繋がりのものとして 捉えられることを示した。更に「自意識」の性質を厳密に定義し、 これを各種断面で空間化したものを各種学問分野と捉えることで、 あらゆる「知」が統合される、というグランドデザインを描けたと思う。 意識のハードプロブレムの尻尾を捕まえるには、 これくらいの風呂敷を広げる必要があったわけだ。
2009-4-18 (土)
意識とは「変容し続ける、再現性のない、一体の質」である。 一方、科学は、「時空に固定された、再現性のある、一群の量」を扱う。 私達の経験のうち、純粋な意識の性質を、可能な限り丹念に除外して、 繰り返し現れると認識される現象だけを 「法則」として表現するのが、科学の手法であろう。 だから、意識の問題を科学的手法で解明しようとすることには、根本的な無理がある。 主観を丹念に除外して得た客観的方法で、主観を扱えるはずがあろうか。 意識を顕微鏡の下に置くことは出来ない。 意識とは、二度と同じ状態にはならない、不可分な一体の質なのである。
意識が広がる情報世界を、<自核>を中心とするシンボルの 意味ネットワークとしてモデル化したとしても、 その空間的なモデル化をした瞬間に失われたものがある。 シンボルの相互侵食性や、ネットワーク全体の非局所的・持続的な変化などである。 深い自己省察によって、モデルが「今、私達の感じている、この意識そのもの」の特徴を、 本当にうまく代表できているのか、何度も確認されねばならない。 (単なる上手い比喩なのか、本質を抽象化したのかを、区別せねばならない。) そして、このモデルは、 「なぜ、私達は、宇宙をこのように捉えることしか出来ないのか」 「なぜ、私達は、私が私であるというこの独特の感覚を持つのか」 という2つの疑問に対して、同時に答えることが出来るものでなければならない。 そうでなければ、物理世界と情報世界はバラバラのままだ。 これまで人類が積み上げてきた、あらゆる知的活動の成果を、 少しも損なうことなく、丸ごと活かして、新しい枠組みの中に位置づけるのでなければ、 新しいモデルをわざわざ作成する意味もない。 だからこそ、 自循論では、 世界の成り立ちを、まず、 物理世界と情報世界の相互依存として捉えるのである。 これが、科学・哲学・宗教を統合的に捉えるための地図である。
2009-4-10 (金)
情報とは、「自」を定点とし、相互に浸透し合う「質」の ネットワークである。
情報量とは、2つの情報ネットワークの差異を、 何らかの観点で量化したものである。
2009-4-8 (水)
出会う人も、世の中の状況も、社会情勢も、 プロジェクトの目標も、次々と立ちはだかる課題の数々も、 びっくりするほど「変わり続ける」ものである。 実際、数千年の間に、人類には色々なことが起こった。 だけれど、実は、人間が人間であるということは、 科学や文化の発展に比して、ほぼ何も変わっていない と言って良いほど、安定した事実だ。 『何が変わりやすくて、どこは変わらないか。』 それを見極められれば、私達は、 人間が織り成すものである限り、 未知の状況であっても、踏み入っていく勇気を持てるのだ。
2009-4-6 (月)
私達人類と比較して、生まれながらにして10兆倍の思考能力を持ち、 全人類が3000年かけて培った言語や文化や科学の情報を 何億倍も上回るだけの情報を本能として既に持っており、 外界とのやり取りを殆ど必要とせず、 眩暈がするほど複雑な哲学や数学をアタマの中だけで延々とこなし、 誰からも邪魔されることなく、黙々と考え、決断し、 更に考え続ける生命体がいたとしたら、 彼は自由だろうか。
2009-4-1 (水)
もう新年度。2009年も4分の一が終わってしまった。
2009-3-28 (土)
自らの意志で獲得したもののみが、自らの所有物であるとしたら、 私達は間違いなく自らの意志で生まれたわけではないので、 私達の命は私達自身の所有物ではない。 敢えて言えば、神の所有物なのだろう。
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宿題
2008-1-6 (日)
厄年のお祓いをしなければ。
2007-11-29 (木)
海外に貯金を移したい。
電魂盤
4枚の伝言板を ご用意しました。気分の赴くまま、気軽に書き込んで下さいませ。
   【癒】/ 【理】/ 【駄】/ 【遊】
全ての知を愛する人々へ
「自分とは何か」という、 最も身近で最も難しい問題についてアレコレ考えています。
時間/ ◇意識/ ◇2つの世界/ ◇宇宙の年表/ ◇幻想の年表
らんだむ・めもらんだむ
物理・数学・社会・精神・実用などなど、 様々な分野の知識を手っ取り早く吸収しちゃいましょう。
法則/ ◇主義/ ◇ヒポクラテスの誓詞/ ◇無限
こんぴーたーのお勉強
情報処理技術者試験に役立つメモなど。
おまけ
選んでみてのお楽しみ…
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[個]
[薦] 天体/ 科学/ 法律/ 統計/ 金融/ 翻訳/ 聖書
[笑] ディルバート/ 理系の人々/ やわらか戦車/ ビリッチ/ ササクレパンダ/ 中村屋/ 新橋/ 千葉
[資] 財政赤字/ 経済学入門 産業分類/ 億万長者/ 個人資産/ 般若心経/ 季語/ 役満和了確率/ 自殺率国際比較
[雑] 14日の金曜日/ 私の人生を決めたマイコン ゲームの本/ おしゃぶりをやめさせるコツ/ 「666」が不吉な数字である 由来/ 九塞沟・黄龍
[美] FLE'X/ how/ ID/ metropolis/ nest/ oprah/ print/ realsimple/ karim/ cooper-hewitt/ design exchange/ design museum/ MoMA/ Building/ V&A/ vitra/ eisner

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