目指せ、「遊びをプログラムする哲学者」
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- 2012-1-11 (水)
- 自我濃度 ( self concentration ) [単位:self] の定義を、
『自我境界線内の全情報処理量のうち、
直接的または間接的に
自我核(イマココ)の演算に参与している処理量の割合』と
定義してみよう。
もしも自我境界線の外部とは一切の情報のやり取りをせず、
内部の情報処理が全て自我核の演算に参与しているなら、
このような存在は 1[self]となるだろう。
自己の存在を意識し続け、自問し続ける、観想的生活者だ。
宇宙は1[self]の存在であろうか?
宇宙は外部との情報とのやり取りが無いから、
1[self]の存在者の候補ではある。
実際、宇宙は内部観測者を含んでおり、
宇宙とは何かということを宇宙自身が分散並行的に
思考していると言える。
しかし、これらの思考が統合されて、宇宙自身の
自我核(イマココ)の計算を行っていると言えるだろうか。
情報伝播速度には光速度という条件があり、
それに比して宇宙は非常に大きいから、
仮に自我核を計算しているとしても、
それは人間にとっての0.1秒が何億年にも相当するような
非常にゆっくりしたものとなるように思われる。
宇宙は膨張し続けているので、自我核の計算は
事実上不可能かも知れない。
もしくはビッグバンによる宇宙開闢から数分以内のどこかで
宇宙は1[self]を経験したかも知れない。
銀河や地球は、これに比べると、
安定した自我境界線の候補を持っている。
だがしかし、自我核(イマココ)の計算を行っていると言えるかが問題だ。
生命進化の淘汰圧も無く、神経系のような情報処理機構も無い、
ただの物質のカタマリである地球の内部に、
偶然に、たとえばその重心を計算し続けようとする部分回路が成立しており、
その重心が自体が地球の外側と比較した内側としての地球のシンボルとして扱われ、
更にはそのシンボル自身よりも内側のシンボルを求め続けるような計算回路が、
どんなに希薄であれ、どんなに不完全であれ、
含まれているという可能性は、ゼロでは無い。
もしそのような計算回路があったとしても、
地球は「人間にとっての一秒」を数千年かけて体験するような
非常に緩慢で希薄な自我濃度しか持たないだろう。
しかしここでは、そのような体験速度は問題にしない。
自我濃度で重要なのは、自我境界内の全情報処理量のうち、
自我核の計算に使われる情報処理量の割合だけだからだ。
地球にとっては地質年代的スケールで時間の流れを感じているとしても、
自我濃度が高ければ、ありありと「自分が自分である」という
ナマ体験感を、地球自身は(もしかすると人間よりも強く)
持っているかも知れないのである。
人間の自我濃度はどのくらいだろう。
60兆の体細胞のうち、1000億の脳細胞が、自我計算に直接的または
間接的に参与している、と大雑把に考えれば、
10-2[self]くらいが
人間の自我濃度になるだろう。
これには無意識の情報処理も含まれているが、
外部からの物理的な応力に対して反応する、たとえば皮膚を強く押すと
その部分が少々凹む、といった計算そのものは、
自我計算には参与していない、と考えている。
(およそ物理的な存在のうち、計算をしていない、というものは無い。
従って物質であれば何らかの情報処理はしている、と
ここでは考える。)
人間以外の動物でも、1kgの身体には1兆個の体細胞があるとして、
体重に占める脳の重さの割合(脳化指数)で先ずは自我濃度を考えてみよう。
イルカ(0.64)は人間に近く、チンパンジー(0.30)、犬(0.14)、猫(0.12)、
ウマ(0.10)は一桁少ない10-3[self]に
分類されると思えば良い。
脳という中央処理装置がある場合には、
先ずはこのようなイメージで大雑把に自我濃度を計算してみよう。
但し、脳が小さくなると、重心→自我シンボル→自我核(イマココ)の連続計算、
という高次処理が機能的に組み上がる可能性は低く
(言語を扱えない可能性が高く)、
自我濃度をより低く見積もるような補正係数が必要になるかも知れない。
脳のような自我核(イマココ)の計算に適した明確な構造が無い場合は、
偶然、そのような計算が持続するような(自我核の焦点を結ぶような)
計算回路が安定して生じる確率が重要になってくるだろう。
そのような計算回路が安定して生じたと仮定して、
自我境界内部の全情報処理量に対する自我核の計算に参与している
情報処理の割合を求めれば良いのだが…。
これは海水の中の水分子の連なりが、偶然、人間の脳と同じくらいの
高次の情報処理を行う構造を作り、しかも偶然、これが十分長い時間
安定したとするならば、海水の中に
10-2[self]
くらいの自我が発生した、ということを主張するものであるが、
この低い確率を、単に自我濃度値に乗じて良いものかは別問題である。
(そもそも海水の中では安定した自我境界線が定義できず、従って
自我濃度自体も定義できないかも知れない。)
ある程度明瞭な自我核を計算し続けることができる回路が組みあがる確率は、
ある自我濃度値を明瞭に維持できる確率と同様である、
と解釈できるだろうか。
(多くの同様な領域のうち、幾つの個体が自我を持っているか、
という確率を、どの個体も希薄ではあろうが自我を持っている、
という希薄さに、摩り替えるのは確かに無理があるだろう。
このことが言えるためには、プランクサイズ以下には無限の計算回路があり、
どの個体にも安定した自我計算を行う回路(可塑的な情報伝達経路)が
ゼロでない確率で含まれる、という前提が必要になってくる。)
もし、任意の領域には(外側から見てもプランク長までの仕組みしか
分からないが、内側に無限の計算プロセスが潜んでおり、
そのうちの一部がゼロで無い確率で自我計算を行えるとし)
ゼロでない自我濃度があるとしたら、もしかすると、海水の全体は、
恐ろしく希薄で限りなくゼロに近くはあるが、
有限のある値を持つ意識が生じたり薄れたりしているのかも知れない。
明確な自我境界線の候補を持つ生命と、非生命の場合では、
自我濃度の計算で乗じる係数は異なってくるだろう。
非生命の場合は、無数の計算処理プロセスのうち、
たまたま自我核の計算を維持する確率、という、
限りなくゼロに近い係数を乗じなければならない。
しかし、分子、原子、素粒子といえども、純粋にゼロになることは無い。
(1量子時間内に、どのような複雑な情報処理が行われていても
構わない。それは人間には不可知であるというだけで、
素粒子がいかなる意味でも意識を持っていないことを
保証するものではない。
プランクサイズ以下には無限の計算量があっても構わない。)
実際、素粒子の自我濃度は10-10100000[self]
のように馬鹿げて小さい値であるかも知れないが
(いや、この値でも大き過ぎるのかも知れないが)、
ともかく、ゼロでない有限の値を持ち得る、と
ここでは考えたいのである。
人間の意識だって多元草稿モデルのような意識のモトネタが
焦点を結んでいるだけと言える。
(確かに脳という有限の境界が焦点を結びやすくしている。)
ありとあらゆる意識現象とは、素粒子が持っている僅かな意識のタネが
うまく焦点を結んでいるだけ、と考えることも可能であろう。
「外側から観られる物質」(客観)と、「内側から観る精神」(主観)は、
どこまで行っても交わらない、そもそも別種の存在だ。
物質である脳が、どのように物理的に機能すれば、
意識現象が因果的に生み出されるか、ということは、
いずれ科学的に解き明かされるだろう。
しかし、そうなったとしても、どうしてこの「内側から観る」という感覚が
生じてくるのかは、そもそもその観点を切り捨てた物理から
説明されることは原理的に有り得ない。
その説明は、素粒子ですら「内側から見る精神」を、殆どゼロに近かろうが、
宿している、と仮説するところまで行き着く。
この仮説を否定しても、「どの程度複雑な情報処理から意識が生じるのか」
という線引きが出来ないという問題に直面するだけだ。
宇宙とは、無限乱雑場たる<実在>の一部が、
原時空・原論理(言語)で切り取られて、
物質的宇宙(外側から観られる性質)と
内部観測者(内側から見る性質)が
丁度重ね描かれるようバランスを取っている奇跡的な領域である。
そして、極小の素粒子から極大の宇宙そのものまで、
自我濃度は定義できる。どのレベルであっても
(時間や空間のスケールは様々だが)
何らかの意味で、「私は私である」というクオリア、
ナマ体験感を持っている、と考えることも可能なのだ。
- 2011-12-23 (金)
- 素粒子にも意識がある。
「物質」に過ぎない脳が動作することで、
因果的に「意識」なる現象が生み出されていることは、間違い無い。
しかしそれは、物質的なプロセスに、外部からヒョッコリと
霊的なものが加わって生じるようなものでは無かろう。
そうであれば、「意識」のタネになるような性質が、
もともと既に、真空と素粒子の在り方にも含まれている、
と考えるしか無いだろう。
物理学は、これまでの全ての成果を保存したまま、
「意識」が説明できるように、拡張されねばならないわけだ。
意識の中核にある自のクオリア、すなわち
「自分が自分である感じ」は、
外界のあらゆる対象「ではない」極限として、
つまり「より内側」を計算し続ける極限として、
「イマココ」が求められるプロセスであった。
この時に生じてしまう独特の質感が、
既に素粒子にも埋め込まれている、と考えるのである。
素粒子Aは、
宇宙からその素粒子Aを除いた残りの全てでは無いものとして、
素粒子A自身を再発見するような
情報処理プロセスを内包している、と考えてみよう。
素粒子が集まり、原子になり分子を形成し、
生命(DNA)のような高密度な情報パッケージを経て、
更に脳にまで至った時、
「もともと全ての素粒子が持っていた薄い意識が、
集団的に機能し、
少なくとも人間程度の濃度の自己意識を実現した」
ということである。
逆に言えば、うまく組み合わせて焦点を結べば
濃度の高い自己意識を発生させ得る物質というものは、
どこまで割っても、その自己認識なる性質を
僅かには持っている、ということだ。
(うまく組み合わせて焦点を結ぶために、生命とか
神経網とか脳が必要なのだろう。)
この自己認識密度という考え方を、単位<セルフ>によって
定量的に考察することで、
人間よりも自我の濃い存在を想定したり、
人間の睡眠から覚醒に至る意識の濃さを比較したり、
猫や犬の意識の程度を量的に比較したり、
植物にも意識があるのかということを考察したり、
ウイルスや非生命の意識というものを定義したり、
果ては原子や素粒子にまで意識を考えることが出来るようになる。
おそらく、このような階層を一つ下るごとに、
<セルフ>は何桁か薄まっていくようなものであろうが、
素粒子においても純粋にゼロにはならないのではないか、
というのが、ここでの発想である。
なぜ、僅かではあっても、素粒子にまで、
自己認識を付与できるのであろうか?
これは勿論、巨大な謎なのであるが、
物理宇というのは、その内部に生み出した内部観測者が見返した姿である、
という原理原則を踏まえるなら、
素粒子といえども自己認識を持ったものとしてしか見返されない、
すなわち万物は意識されるものであると同時に、
意識するものとしてしか発見されようがないからではないだろうか。
世界というものは、そもそも内部観測者をもつという一点で
自己完結的な世界としての資格を自らに与える、
という原理原則を踏まえるなら、
その存在の全ては即自的なだけでなく対自的でも
あらざるを得ないのではないか。
おそらく、平行線を辿るしかないように思われる
唯物論者と唯心論者が、出会うことが出来る地平(境界線)というのは、
ここであろう。
お互いのイイトコドリでもなく、
お互いの潰し合いでもなく、
お互いを丸ごと認めて底から支えあうような、
新しい種類の心身二元論。
自循論が目指している世界観とは、これである。
- 2011-12-17 (土)
- そもそも自循論とは何なのであろうか。
自循論では、先ず時空以前に無限乱雑場なる実在があり、
ひとたび「自」と言い放つことが可能であるとしたら、
そこに原空間、原時間、原論理が一挙に成立する、としている。
そして、存在を成立させる自我なる性質を含む精神相、
存在を持続させる法則と定数を含む物理相、
存在を限定し意味や価値を与える生命相、
これらの相が等しく「自」を実装し、
お互いを底から支え合い、依存し合う、
そのような各相の相互循環運動、すなわち極大の自として、
世界は自己完結的に存在するのだった。
このように自循論では、無意味な実在から、
意味のある存在が浮上する、
世界の根源的な第一原理として、自という
抽象的な形式を置いている。
だがしかし、「自」という概念は、
時間、空間、論理から説明される二次的なものであって、
第一原理などでは無い、という批判も、当然、有り得る。
一方、私は、世界というものを、
凍りついて時間が流れない単なる広がりとしての空間であるとは考えない。
ただ雑然と全てが蠢き変化する時間だけの流れであるとも、
何かと何かが等しいとか等しく無いとかを論理的に言えない混沌とした場だとも、
考えられない。
私には、時間だけとか、空間だけとかの「世界」は、考えられないのである。
「自」を根拠として、原時間・原空間・原論理が、
分かち難く一挙に成立していることを、
世界という存在が成立する最低限の要件であると、私は考えている。
だから、「時間とか空間とか論理が別の原理として既に個別に存在していて、
それらの混ぜ物として『自』が説明される」
という機序を放棄した。
ここが自循論の根底を為す大方針である。
だがしかし、無限乱雑場に於いて、先ず「自」とだけ言い放たれた状態があり、
どのようにして原時間・原空間・原論理が一挙に成立するのか、
という機序を示さねば、この大方針が説明されたことにはならない。
ところが、出発点となる無限乱雑場、すなわち時空成立以前の何者かを、
私たちは想像することもできない。
想像できない場の中に「自」が成立した瞬間というものも、
当然、想像することができない。
つまり、自循論は、根本原理となる一番大切な「自」の成立について、
論証を始めることすら出来ないことになる。
仕方が無いので、「無限乱雑場において、
ひとたび『自』と言い放たれたならば」というような言い方で
誤魔化しているのだ。
どこまでも乱雑な場が無限に広がっている―。
そうイメージした瞬間に、もう、空間のイメージを使ってしまっている。
更に言えば、どこまでも広がる、という無限性は、
視点をどこまで動かしても境界が見えないだろう、という
未来への運動を含意してしまっている。
さらに、境界とは、ある意味で等質な内側と、それとは異質な外側、
という意味で、論理性も含意している。
無限乱雑場は、空間・時間・論理が成立する以前の絶対混沌であり、
存在の様式とは全く独立な実在であるべきなのに、
少しでもこれを想像しようとすれば、
無限乱雑場は存在性に汚染され、
実在としての純粋性、独立性が、失われてしまうのである。
この事情を無視して、無限乱雑場を恣意的にイメージし、
そこに「自」を導入して、然る後に時間・空間・論理が一挙に成立することを
いくら論証しても、それは最初から無限乱雑場のイメージに
組み込まれていたものを、「自」を経由して再提示しただけであり、
何ら「自」の根源性を示したことにはならないであろう。
自循論は、スタート地点から、一歩も動けないのだ。
そもそも、広義の、もしくは最も一般的な意味での「言語」は、
必ず概念空間を前提とし、語るという行為の内に時間を前提し、
伝わるという目的に論理が前提とされている。
だから、言語を用いて無限乱雑場を語るということ、
それ自体が、初手から失敗を運命づけられた行為なのだ。
仮に、まっさらな無限乱雑場が想像できたとして、
そこに抽象的な「自」なる構造を描きこむために、
円を一つ描いて、自の外側と内側の区別が生じることが
原空間である、と主張してみる。
また、隣にもう一つ円を描いて、こちらを円A、
先ほどの円を円Bと名づけて、円Aから円Bに矢印を引いて、
これが一瞬過去の自分を参照するという自己認識の原型であり、
すなわち原時間である、と主張してみる。
だが、今、なぜ、そもそも「自」を、円として描けたのか。
それはもともと、キャンヴァスである無限乱雑場が、
空間として想定されていたからだ。
今、なぜ、円Aと円Bの間に矢印を引けたのか。
それはもともと、キャンヴァスである無限乱雑場において、
視点の移動という運動、すなわち時間経過が可能であると
想定されていたからだ。
図示も広義の言語であるが、とにかく、言語で伝えようとする限り、
伝えようとしているものは既に時空概念で汚染されているので、
どう足掻こうとも、時空成立以前の「無限乱雑場」と「自」を
伝えることは出来ない。
ただ単に、存在してしまった側、すなわち世界の側から、
その根本原理を追求していった時、その極限の先に、
「自」なる焦点が仮想的に仮置きされ、
その「自」すら突破した先には、完全な無意味としての
無限乱雑場が仮置きされる、ということに過ぎない。
このように、「自」は、極限の焦点、世界のカナメとして
要請されるものではあるけれど、
それは世界のあらゆるものでは無い(なぜなら世界の
成立原因であるから)という、純粋な絶対無という性格を持ち、
言語で直接指し示すことが出来ない。
はい、これが「自」です、と、いかなる方法でも
直接的に示すことができない。
(自循論における自循構造とは、開始点となる自0があって、
これを参照する自1があって、順次自2、自3…と変化し、
最後に自Nとなって完了する(自N=自N+1となって以降は変化しない)、
という単純な連鎖であるが、このような連鎖の中にあって、
自発的に連鎖を生み出している「自」そのものについては、
自己同一性(原論理)、自他の区別(原空間)、
自己参照(原時間)を生み出す何者か、としか言いようが無い。)
そのようなものを第一原理に置く自循論は、
本当に“論”としての体裁を成しているのだろうか。
「自」を直接指し示すことが出来ない以上は、
現に存在してしまい、言語でしか思考できない私達の側から、
どのように「自」という焦点が極限の彼方に結ばれ得るのかを示し、
そして、その「自」という概念からのパースペクティブ(景観)によって、
「私が私であるというこの感覚」とか
「世界が現にこのように存在してしまっているという事実」とかが、
整合的に捉え直される、ということを示すしか無い。
例えば、「この私が私であるという不思議な感覚、自己意識」が、
あらゆる外部情報や思考概念の内側の極限としての自我核(イマココ)の
維持として説明される時、それは「自」の実装と言えるだろう。
相対性理論が時間と空間を別々に考えず、
時空連続体として世界を捉えるのは、
時空上の各点に平等に「自」を配置するためであり、
時空連続体は「自」の実装と言えるだろう。
量子力学の不確定性原理において、厳密に時空上の点を指定できず、
精度の限界が示されているのは、存在そのものの自己言及性、
自分で自分を指し示す輪を引き絞る限界の表れであり、
「自」の実装と言えるだろう。
現代数学が拠って立つカントールの集合論も、要素と集合から
境界概念(内側と外側)を導いていくのであり、
「自」の実装と言えるだろう。
このように、世界の成り立ちの背後を探っていくと、
全ては「自」という焦点を指し示しているように見えてくる。
これが、自循論が与えるパースペクティブ(景観)の一例である。
自循論は、「自分とは何だろう」「世界とは何だろう」
という素朴な疑問から始まって、
その素朴な疑問から離陸してしまわないことを旨としてきた。
抽象的な言葉遊びではなく、現に生きている私、
現に在る世界、これらを見通す哲学を標榜している。
あらゆる存在の裏返しとしてしか仮構できない「自」に、
いかに焦点を結び、
その「自」の実装としての精神相(自己認識)、物理相(自己保存)、
生命相(自己生成)が説明され、
スッキリと世界(自己完結)が理解できる、
という説明が得られて初めて、
先ず、「自」の居場所と有効性が傍証されるのである。
その極限感を維持しながら、
無限乱雑場において「自」と言い放たれたならば
原時間・原空間・原論理が一挙に成立する、
という機序を、より厳密に説明していかねばならない。
これは、本質的には言語では言えないことが明々白々な概念に向かって、
言語を用いてどこまで迫れるか、どこまで接近できるか、という、
終わりの無い知的挑戦でもある。
その接近によって「自」が深まるほど、
「自」を原理とした世界のパースペクティブ(景観)も鮮やかになるのだ。
- 2011-11-30 (水)
- ミクシィは基本的にクローズドなSNSだけれど、
ミクシィページはオープンなので、
ちょっと使ってみようと思い、
自循論のページを
取り敢えず作ってみた。
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電魂盤
- 4枚の伝言板を
ご用意しました。気分の赴くまま、気軽に書き込んで下さいませ。
【癒】/
【理】/
【駄】/
【遊】
- ■
全ての知を愛する人々へ
- 「自分とは何か」という、
最も身近で最も難しい問題についてアレコレ考えています。
◇新書『自循論』/
◇アプレット『意識壱号』/
◇小説『海底の神』
◇小説『神への挑戦』
- ■
らんだむ・めもらんだむ
- 物理・数学・社会・精神・実用などなど、
様々な分野の知識を手っ取り早く吸収しちゃいましょう。
◇法則/
◇主義/
◇ヒポクラテスの誓詞/
◇無限
- ■
おまけ
- 選んでみてのお楽しみ…
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