◇宗教の宝庫

Last update 2006.10.7
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【宗教】経験的・合理的に理解・制御できない対象に 積極的に意味や価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。 たとえば、神または何らかの超越的絶対者、 あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する 信仰や行事。また、それらの連関的体系。
キリスト教/ 仏教/ イスラム教/ ユダヤ教/ ヒンズー教/ バラモン教/ ゾロアスター教/ 神道

■キリスト教

Christianity (A.D.1c 〜)
神の愛を信じれば、最後の審判で永遠の命が与えられる!

ユダヤ教から派生した、ユダヤ人のイエス・キリストが始めた宗教。 神の絶対的な「愛」が、信者の原罪を赦し、永遠の命を与えるとする。


■仏教

Buddhism (B.C.5c 〜)
煩悩を捨て、無の境地へ至る「悟り」を開け!

インド北部、釈迦族の王子「釈迦」(ゴータマ・シッダールタ) が創始者。 この世は儚(はかな)く、全ては無(無我)である、 ということが「真理」であると提唱。 煩悩を捨てて静かな心境へ至る「悟り」を推奨する。


パーリ語に見る「怒り
仏教においては 「怒り」は内因性(自分の心に原因と責任を求めるべきもの)であり、 自らの幸福を失わせ、他人に容易に伝染し、 自らと世界を破壊する真に避けるべきものとされている。 怒りを制御できない人間は動物以下の存在であり、弱者である。 内観により怒りを解消し、常に問題を客観的・合理的に見れる人は 真の強者であり、勝利者である。 パーリ語は釈迦の言葉を忠実に伝える古代インド語であり、 人を堕落させる「怒り」に関係する言葉も多様に存在する。
パーリ語意味説明
ドーサ (dosa)暗鬱 穢れ、濁った暗い感情。喜びや幸福感とは両立し得ない。
クックッチャ (kukkucca)後悔 過去の失敗や過失を思い返しては悩み続けること。
ヴェーラ (vera)怒り 暗い感情が鬱積して、身体的にも硬直し、じっとしていられなくなる。
ウパナーヒー (upanahi)怨み 心の中に長期間滞留し続ける怒り。思い出しては怒りを新たにする。
マッキー (makkhi)侮蔑 他人の長所を軽視し、自分の能力を高く評価しようとする。
パラーシー (palasi)挑発 他人に対して挑戦的で、競争し倒そう、張り合おうとする。
イッスキー (issuki)嫉妬 他人の長所を認めず、心の中で相手を責めようとする。
マッチャリー (macchari)吝嗇 物惜しみする。ケチ。自分のものを使用して喜ぶ他人への怒り。
ドゥッバチャ (dubbaca)反抗 他人からの指導や指摘に対する拒絶反応。
ビャーパーダ (byapada)激怒 強烈な怒り。人を殴ったり殺したりするような異常な怒り。

このような感情を制御できず、怒るがままにしている事は人間性の放棄である。 これらの感情が芽生えた時に、すぐさまこれを自覚し、客観的・合理的に分析し、 自然に受け流したり建設的な行動に移れるよう、普段から意識を高めることが大事である。 世の中の成り立ちを理解し、これらの感情が発生する根本原因を突き止め、 怒りの感情自体が発生しないまでに磨かれた心の状態が、悟りの境地である、 とも言えるだろう。

  • 故人への宗教的儀式は、「生きている我々自身が、 生きているということの意味を再確認する」意味がある。 実在しない死後の世界を思い描かせる宗教の方法論は、 本質的に対置記号のない「自分自身の生」について、 強制的に目を向けさせる巧妙な概念装置としても働く。
  • 「一周忌」は故人が亡くなって1年後の法事だが、「七回忌」は6年後のこと。 七回忌などの法要は、故人が、より位の高い仏となるよう 現世に残されたものが祈りを捧げるという意味がある。 「南無阿弥陀仏」「卒塔婆」は古代インドのサンスクリット語に由来。 「卒塔婆」の板の形は、釈尊を埋骨した後に弟子が建てた塔(ストゥーバ)が発展し 「五重塔」などとなったものを様式化した「五輪塔」を、更に簡略化したもの。
  • 浄土真宗では、亡くなった方は「浄土」で仏様になるとされ、 「冥土」は魂が迷い込む暗くて苦しい世界のことを指す。 だから冥福を祈ってはならない。 「冥」は「暗い」という意味で、「冖(おおう)+日+六(入の字の変形)」つまり 日が入り、何かに覆われて光が無いという会意文字。 ちなみに「黄泉(よみ)」は、日本神話に出てくる「黄泉国(よもつくに)」のことで、 「夜見」「闇」「山」のいずれかが転じたものとされ、諸説ある。 『孟子』に「黄泉」は地中の水(地上に湧き出る泉)の意味で出てくるが、 この場合の「黄」は単に土の色と思われる。

2008年7月6日。父親の火葬の間、導師さまから色々なお話を伺った。 仏教の哲学は人類の知恵が最も深まったものであり、 それ自体はアタマで理解できるものでもないし、 容易に体得できるものでもない。 「色即是空、空即是色」という考え方も、極めて奥深いもので、 特に“空”は、empty (からっぽ)と考えると本質を見失い、 極小と考えるべきものだそうである。 私には、仏教は、観念論を基礎に置く 宇宙システムの表現形の一つであるように思われる。
ところで、その中心教義はあまりに難解・抽象的であるために、 その教えを汲む形で、様々な物語が編み出されたそうだ。 死者が六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の いずれかに転生先を決定されるまでの 十段階の審理を司る十王のシナリオも、その一つだそうだ。

真の姿 審理日 審理内容
泰廣王 不動明王 初七日 生前の状況の確認。
この後、三途の川を渡る。
初江王 釈迦如来 二七日 殺盗の罪
宋帝王 文殊菩薩 三七日 邪淫の罪
五官王 普賢菩薩 四七日 身体と言葉で為した罪
閻魔王 地蔵菩薩 五七日 善悪の計量
変成王 弥勒菩薩 六七日 五官王、閻魔王の報告を精査
泰山王 薬師如来 四十九日 転生先の決定
平等王 観世音菩薩 百ヵ日 三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)から 主に子女を救う
都市王 勢至菩薩 一周忌 三悪道から亡者を救う
五道転輪王 阿弥陀如来 三周忌 各王の報告をもとに全ての魂の救済を図る

私には、以下のような点が新しい発見だった。
  • 三途の川は、初七日と二七日の間にある。即ち、 生死の境をさ迷ったばかりの人が 見ることが出来るものではない。
  • 閻魔大王は地獄にいるのではなく、五七日を司る裁判官で、 その本地仏(本来の姿)は、あの慈悲深い地蔵菩薩である。
  • 七七日(四十九日)を過ぎた後も救いの手が差し伸べられている。
  • 「南無阿弥陀仏」(阿弥陀さまに帰依します、の意) で知られる阿弥陀如来は、全ての魂を極楽に導こうとしている。
  • 悟りを開いた「如来」、修行中の「菩薩」が 審理に現れる順番はまちまち。 現世で仏教を開いた釈迦の、仏陀(悟りを開いた者)としての姿 「釈迦如来」は、(私にとってはちょっと意外だったが) 三途の川を渡って直ぐの二七日に現れる。
  • 観音信仰では、六道輪廻の迷いから魂を救い如来界へいざなう とされる「観音菩薩」が、このシナリオでは百ヵ日に三悪道から 特に子女を救う役割になっている。
この他、教典や宗派により、仏の地位や役割は 実に様々に描かれている。 重要なことは、その差異を矛盾や誤りと捉えることではなく、 これらの姿は、仏教の本質を現実世界に擬えて、 凡夫である私達にも分かり易く伝えるために編み出された 物語なのだ、という点を忘れないことであろう。

■イスラム教

Islam (A.D.7c 〜)
唯一神「アッラー」のために善い行いをせよ!

アラビア半島メッカに生まれたマホメットを創始者とする。 全知全能、唯一絶対の神「アッラー」のために全力で尽くし、 最後の審判で救われることを主題とする。 神の前では人類はみな平等であり、 人類は神の限りない恩寵に感謝しなければならない。
キリスト教では「父なる神、キリスト、聖書」の三位一体を神としていたり、 悪魔の存在を認めているが、イスラム教は「アッラー」以外の神を 一切認めない純粋な一神教。
ユダヤ教やキリスト教の延長線上にあるが、マホメットは 「我こそが“最後の”預言者である」と宣言した。 即ち、アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエスといった預言者の後に現われ、 人類に最も確かな預言をもたらす者と位置づけた。 聖典「コーラン」も、旧約聖書、新約聖書を含みきる 唯一正当な聖典と位置づけられており、 「神(アッラー)の言葉の記録」とされる。


■ユダヤ教

Judaism (B.C.6c 〜)
世界宗教であるキリスト教、イスラム教のルーツ

エホバ(ヤハウェ)を唯一神とするユダヤの民族宗教。 聖典である「旧約聖書」「タルムード(律法集)」は、 世界宗教であるキリスト教イスラム教の土台となっている。 ユダヤのモーゼが神から授かった石板「十戒」を起原、基本とする。
ヤハウェ(Jahve)は形・姿の無い唯一で万物の創造主である。 モーゼ(Mose)が民族に与えた律法は、古くから、民族の生活を規定し続けた。


■ヒンズー教

Hinduism (B.C. 5c 〜)
修行で「転生輪廻」を断ち切り「解脱」せよ!

インド教とも言われる民族宗教。 現世の善行が来世の地位をより良いものにするという「輪廻思想」を持つ。 最終的には、延々と続く輪廻を断ち切り、 死ぬことの無い状態に至ること、すなわち「解脱」を目標とする。 瞑想を通して解脱に至る修行形態が「ヨーガ」。
聖典の一つ「カーマ・スートラ」には、生命と豊穣を重視し、 夫婦間の深いセックスを指南する詳細な記述もある。 このため「性愛の宗教」と呼ばれることがある。


■バラモン教

Brahmanism (B.C.13c 〜 )
宇宙と個人の根本原理を同一視し、アジア諸民族に大きな影響を与える

古代インドの宗教であり、今日のインドにおける ヒンドゥー教の源泉と考えられている。


■ゾロアスター教

Zoroastrianism (B.C.7c 〜)
斬新な二元論で各宗教に影響を与えた。

開祖ゾロアスター。古代ペルシャ帝国の国教であった。 「光と闇」「善と悪」といった「二元論」の思想は、 キリスト教にも影響を与え、「神と悪魔」といった対立図式を生んだ と言われる。
現世は、善神「アフラ・マヅダ」と悪神「アングラ・マインユ」の 壮絶な戦いの場であり、終末には善神が勝利し、宇宙は天国と地獄に分離する。 その時、最後の審判で、我々が天国に行けるかが決まる。
「火」を、天使が地上に現れる神聖な場所と考える。


■神道

Shintoism (B.C.600 〜)
日本国民の生活文化そのものであり、精神生活の基本となっている

日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教。 アニミズムやシャーマニズムなどから発し、 外来信仰である仏教に対して形成された概念で、 多くの神道理論が生まれた。 特定の教祖・開祖を持たず、 キリスト教の聖書や イスラム教のコーランのような教義・教典も無い。 神道の祭りには、稲作を中心とした共同体の平安を祈るものが多い。 神道に属する神々を祭神とする社を神社と呼び、 伊勢神宮を筆頭に全国津々浦々の小さな村村に至るまで存在している。




参考文献:
■未整理
2009-5-3 (日)
自分なりに自循論を整理してから、最近ふと般若心経を読み返してみたら、 以前より深く理解できるようになった気がする。 有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」という部分も、 「色=物理世界」「受想行識=情報世界」 「空=物理世界と情報世界の動的な相互依存関係」 と置き換えて読めば、私には非常にしっくり来る。 仏教における「空」とは、「何も無い」というよりは 「不変の実体が無い」「変化する関係性である」「動的な現象である」 といった意味で捉えた方が分かり易いと思うが、 物理世界も情報世界も、実体ではなく、時間軸の上で互いに縺れ合う 現象そのものである、と言っているように思える。 これは自循論の世界観そのものだ。 「無無明亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡」 では、我々が苦しみに至る「十二縁起」も、悟りの世界では存在しないと言っているわけだが、 無明から始まり老死に至る十二縁起の各段階には味わい深いものがある。
(1)無明「仏教の教えを知らないこと」 (2)行「何かを為そうとする潜在的形成力」 (3)識「心、認識の作用」 (4)名色「名称と形態、精神と肉体」 (5)六処「眼、耳、鼻、舌、身、意」 (6)触「心が対象と接触すること」 (7)受「快不快、美醜などの感受作用」 (8)愛「愛欲、妄執などの根本的欲望」 (9)取「具体的対象への執着」 (10)有「迷いの中に存在すること」 (11)生「迷いの中に生まれること」 (12)老死「無常に老い、死にゆくこと」
私には、「無明、行、識」までが自己の最奥にある“自”という仕組み、時空認識の基礎、 「名色、六処、触」が情報世界から見た物理世界の形成、 「受、愛、取」が物理世界に対する情報世界の反応、 「有、生、老死」が物理世界と情報世界のインタフェースにある生命現象そのもの、 …をそれぞれ表しているように見える。 全て、自循論のマップの上に、綺麗に整理し得る。
もし、般若心経が、仏教の深い世界観を感じることで、 日々の苦悩から解脱することを指向しているのだとしたら、 自循論も、意味世界の成り立ちを「物理世界と情報世界の動的な相互依存関係」と俯瞰し、 迷い無く一回限りの充実した人生を生きることを指向しているので、 両者は非常に良く似ているという気もする。 ただ、私は、最後に「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶」 と唱えて終わりにするのでなく、この世界観を 可能な限り、平易に、論理的に、描写し切りたいと思っている。 そこに宗教と哲学の指向の違いがあるのだと思う。