労研定款

  2001年12月1日第18回総会で採択。2006年7月29日の新労研第2回総会で一部改正 発効

 [名称] 第一条 この研究所は、労働運動研究所(以下、労研)と称する。

 [事業]第二条 労研は、国際・国内の社会主義運動、労働、人権、環境、男女機会均等、福祉などの社会運動の理論・政策・方針・歴史の研究会の開催とニュ−ス・研究成果の発行、自費出版事業などを行う。

 [連絡ポスト] 第三条 労研の連絡ポスト、Eメ−ル・アドレス、ホ−ムペ−ジは、次の通りである。
     連絡ポスト 東京都 小金井郵便局私書箱第34号、労働運動研究所

     E-mail: rohken@netlaputa.ne.jp

     URL:http.//http.www.netlaputa.ne.jp/~rohken/

 [会員] 第四条 労研会員の紹介で、労研定款を認め、会費を支払う者を会員とする。

       運営委員会は、会員でなくとも労研の事業に賛同し、協力する者を協力会員および運営委員とすることができる。

       協力会員は、労研の会議に出席し、意見を述べることができる。

 [総会]第五条 労研は2年に1回総会を開催し、活動方針を決定し、若干名の運営委員と会計監査を選出し、決算を承認する。運営委員会は活動方針を遂行し、日常業務を処理する。運営委員会は、編集長と編集委員を選出する。

 [財政] 第六条 経費は事業収入、会費、寄付金などでまかなう。会費は月額1、000円とする。

 [定款の改正] 第七条 定款の改正は、総会において過半数の同意を得て行う。

 [付則]この定款の発効は、2006年7月29日とする。 

      

                              (以上)
 2006年7月29日 労働運動研究所 総会が開かれました。
活動報告、ホームぺ―ジ作成の経過報告、今後の活動方針を採択し、および、定款を一部改定を採択して閉会しました。
詳細は後日に。


休刊のご挨拶

労働運動研究 2001l0 No.384

 

 『労働運動研究』誌は、誠に残念ですが、本号(三八四号)をもって

休刊せざるを得なくなりました。長い間、一方ならぬご協力頂いた読者

や会員の皆様方、とりわけ本年三月の労研第三回理事会以降に新たに読

者になって頂いた方々には心からお詫びし、改めて前納誌代の補償につ

いてご相談をさせて頂きたいと思っています。

 「同時多発テロ」に対するブッシュ政権の報復行動や自衛隊の海外派

兵をめぐる内外情勢が緊迫の中で、本誌の役割がこれまで以上に重要に

なっている時期に、休刊せざるを得なくなったことは編集部として誠に

申訳なく思っています。

 顧みますと、ここ三二年間、労働関係の紙誌が相次いで廃刊される中

で、特別のスポンサーもない本誌が、たびたび財政危機に直面しながら

も、一九六九年一一月の創刊以来現在まで三二年間、一号の休刊もなく

発行を続けることができましたのも、読者や会員の方々のご支援やご協

力のおかげと心から感謝致します。

 本年三月一○日の労研第三回理事会で労研財政危機の突破のために読

者拡大を呼びかけた時も、全国各地の熱心な読者、会員の方々の努力に

より労組、生協、自治体・国会議員などに読者になって頂き、約四〇部

を拡大することができました。また自費出版活動も活発で上半期だけで

約一〇〇万円以上の収入を上げ、財政運営に大きく寄与しました。

 しかし、ここにきて労研運営の最大の弱点が浮かび上がりました。そ

れは以前からたびたび指摘されてきたことですが、労研編集部の高齢化

です。ここ数年来、常任理事の死亡、病気・現役引退が相次ぐ中で経営・

財政・編集の実務が二名の常任理事に集中し、非常に不安定な状態が続

いてきました。若い専従を入れる案も検討されましたが、私たちの後進

育成に対する配慮の不十分さ、人選の困難さや財政的事情から見送られ

てきました。それが最近常任理事の一人が慢性硬膜下血腫で緊急入院・

手術を受け、退院後も再発の恐れがあるため、残りの理事に編集・経営

活動の負担が集中する事態になり、共倒れの危険が強まりました。

 さらにこれまで労研財政を大きく支えてきた地方支局もここにきて活

動家のあいつぐ現役引退と高齢化・病気・死亡などにより、活動力が低

下してきました。第三回理事会の読者拡大の呼びかけは、それに対応す

る方針でしたが、事態は私たちの予想をはるかに上回る速度で進みまし

た。

 こうした事態に直面して九月一五日に開かれた第四回理事会は、@労

研を一〇月号で休刊し、A現在の労研事務所は一一月いっぱいで閉鎖す

る、B労働運動研究所は存続し、労研会則を改正した上で会員を再登録

し、会報の発行、定例研究会の開催、労研eメール・ホームページの充

実、自費出版活動を継続することなどを決定し、一〇月一三日の総会で

この方針を確認致しました。読者の皆様方には私たちの置かれたご事情

をご理解いただいた上、今後とも労働運動研究所の活動にご協力をいた

だければ幸いです。

 最後に読者の皆様方のご健勝を心からお祈りし、休刊のご挨拶とお詫

びに代えます。


『労働運動研究』休刊を決定

           労研第一八回総会開く

労働運動研究 2001.10

 

 労働運動研究所第一八回総会は、一〇月一三日午後二時から東京・杉並区高円寺の労働運動研究所で開かれた。総会には委任状を含め会員が三〇名、オブザーバー二名が出席して成立した。

一〇月号で休刊を決定

 総会は議長に植村邦氏を選出し、まず柴山健太郎氏から九月一五日の第四回拡大緊急理事会の決定を中心に経過報告が行なわれた。この中で、柴山氏は、理事会の決定として@『労働運動研究』誌を一〇月号(第三八四号)で休刊する、A事務所は一一月いっぱいで閉鎖する、B労働運動研究所は存続し、研究会の開催、ニュース・研究成果の発行、自費出版事業などを行う、C定款は改正し、会員の募集と再登録を行う、D連絡ポストとして労研私書箱を設置し、Eメール、ホームページを拡充する、E読者・会員が前納した会員・読者の一一月分以降の会費・誌代は財政状態の許すかぎり返済する。その場合、本年になってからの新規読者の誌代は優先的に返済し、長年の読者・会員には労研の苦しい財政事情を理解して頂き、できればカンパをお願いする、F労研の書類、資料、文献、備品の整理方針などについて提案した。

 次いで村上武史氏が二〇〇一年度収支報告を行なった。この中で村上氏は「二〇〇一年度の営業収支は誌代、カンパ、会費などの営業収入の減少と編集活動費などの営業支出の増加で二四四万円の赤字を計上した。だが植村邦、柴田友秋氏などの著書の自費出版活動と印税収入で前年度の四倍以上の一八八万円の売上げをあげ、営業外収支で二〇〇万円の黒字を出した。そのため経常損益の赤字は約四三万円に減り、特別収入の新民連特別カンパなどで若干だが黒字をだすことができた」と報告した。

 次いで柴山氏は補足報告として労研休刊、事務所閉鎖に伴う特別予算の執行状況を報告し、「移転のための特別カンパは会員、読者の献身的な協力で目標を大きく上回り、本日現在で九二万円のカンパを集めることができた。しかし、大口の滞納誌代・会費の納入が極めて悪く、目標に遠く及ばないので、改めて協力を呼びかけたい」と述べた。

 総会は活動報告と二〇〇一年度収支報告を承認した後、柴山氏が定款改正案と労研の今後の活動方針案について提案し、討議の上、一部修正の上満場一致で承認した。改正定款の発効は付則で本年一二月一日とし、それまで現在の理事会で運営し、改正定款に基づく会員の募集、再登録の上、改めて総会を開き運営委員会を選出する、会費月額は第一回総会で決定することなどが確認された。総会で決定された改正定款は次の通り。

労働運動研究所定款

 第一条 この研究所は、労働運動研究所(以下、労研)と称する。

 第二条 労研は、国際・国内の社会主義運動、労働、人権、環境、男女機会均等、福祉などの社会運動の理論・政策・方針・歴史の研究会の開催とニュース・研究成果の発行、自費出版事業などを行う。

 第三条 労研の連絡ポスト、Eメール・アドレス、ホームページは、次の通りである。

 連絡ポスト 東京都 小金井郵便局私書箱第三四号、労働運動研究所

 E-mail:rohken@netlaputa.ne.jp

URL:http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/

 

 

 第四条 労研会員の紹介で、労研定款を認め、会費を支払う者を会員とする。

 第五条 労研は二年に一回総会を開催し、活動方針を決定し、若干名の運営委員と会計監査を選出し、決算を承認する。運営委員会は活動方針を遂行し、日常業務を処理する。

 第六条 経費は事業収入、会費、寄付金などでまかなう。会費は月額一〇〇〇円とする。

 第七条 定款の変更は、総会において過半数の同意を得て行う。

  付則 この定款の発効は、二〇〇一年一二月一日とする。


労働運動研究 2001.10

『労働運動研究』誌の三二年の歩みを振り返って

編集部 柴山健太郎

 

激動の時代に創刊

 労働運動研究所は一九六九年九月に創立され、同年一一月に創刊号が発刊された。それ以来、本年一〇月の三八四号の発行まで三二年間、}号の休刊もなく発行されてきた。

 この二〇世紀後半の三二年間は、国際的にも国内的にも大変な激動期立った。一九八○年代後半から一九九〇年代初めにかけて冷戦とともにソ連・東欧の現存社会主義も崩壊し、ソ連共産党を先頭にする国際共産主義運動は消滅した。『労働運動研究』誌はこの間に生じた国際・国内の政治・経済・労働・社会運動の・王要な問題はすべて採り上げ論評してきた。

 本誌が創刊された一九六九年は、まさに中ソ対立が中ソ国境の武力紛争にまで発展した時期だった。それ以降、本誌の取り上げたテーマは、国際問題では国際共産主義運動の分裂、ベトナム戦争、中国文化大革命、ピノチェトの軍事クーデタによるチリ人民連合政権の崩壊、ユーロ・コミュニズムの崩壊とイタリア共産党の転換、ポーランドの連帯運動の高揚と戒厳令の施行、ゴルバチョフ政権のペレストロイカ路線の展開、ソ連・東欧現存社会主義の崩壊、欧州統合の発展と新しい欧州社会民主主義の発展、NATOのコソボ紛争への軍事介入、コミンテルンや二〇世紀社会主義の総括など重要な問題は殆ど網羅してきたといえよう。

 国内問題では、一九七二年の沖縄返還交渉の過程での沖縄全軍労の三五日間のストライキ、七五年の公労協のスト権奪還スト、七四〜七五年の戦後最大の恐慌、共産党の綱領改定や部落解放運動、原水禁運動における分裂活動の批判、銀行・郵貯・自治体部門のオンライン合理化、農産物の輸入自由化や米の生産調整、産業構造の転換と反合闘争、均等法後の女性労働、円高・経済摩擦下の日本経済、日本的経営の転換、日本の戦争責任と従軍慰安婦、強制連行者などへの戦後補償、行政改革、バブル崩壊後の日本経済、政官財の腐敗、原発事故、人権問題、高齢者問題、外国人労働者問題、環境危機、リストラ攻勢と日本的経営の崩壊、生産の海外移転と産業空洞化などの諸問題が論じられた。

八五年の労研改革で転換

 『労働運動研究』の歩みを見る場合に注目すべきことは、本誌の性格が一九八五年の労働運動研究所の改革を契機に大きく変わったことである。この改革で、新たにフロント(代表・朝日健太郎氏)、社会主義労働者会議(川副詔三氏)、全逓グループ(大塚正立氏)が加わり、大塚氏が事務局長に就任し、会則も大きく改正され、研究所の性格が大衆化された。

 それまでの労働運動研究所は、反代々木の理論家集団という性格を強く、『労働運動研究』誌の取り上げるテーマも、中ソ論争、日本共産党批判、特にその戦略問題や大衆運動方針の批判、新左翼運動、労働運動の戦術問題、戦前・戦後の共産主義運動の反省、活動家の思い出などが多かった。

 それが一九八五年の労研改革以降は、採り上げる論文のテーマも市民運動、環境保護、フェミニズムなどの大衆運動の比重が大きくなり、執筆者もそれぞれの分野で活動する無党派の活動家に大きく広がった。

 国際問題でもゴルバチョフのペレストロイカ政策の登場を契機に、国際共産主義運動ばかりでなく、欧州社会民主主義政党や国際自由労連の現状分析や、社会党と共産党との国際的交流の現状紹介や社会民主主義の再評価が行われるようになった。それに伴って、研究対象もイギリス、イタリア、フランスなどのユーロコムニュズム共産党だけでなく、ドイツ社民党、フランス社会党、スウエーデン社労党など欧州社会党にまで広がった。利用する文献も政党機関紙、理論誌が中心から『ウエスト・ユーロピアン・ポリティクス』『シュピーゲル』などの学術誌や大衆的な政治・経済雑誌、国際商業紙などが多く利用されるようになった。

 しかし、特に強調しなければならないのは、本誌が創刊以来一貫して反スターリン主義のスタンスを堅持してきたことである。この間に国際共産主義運動の内部に発生した最大の国際的大事件は、一九六〇年代後半から七〇年代にかけて中国を揺るがした文化大革命である。この時期にはベトナム反戦や大学闘争の高揚を背景に、日本の左翼、新左翼を含め、特に知識人の間にはかなり広範に「造反有理」のスローガンが受け入れられ、熱狂的な文革支持の機運が生まれた。その間も『労働運動研究』は一貫して毛沢東と文革批判のスタンスを貫いた。

 文革発生以来、一貫して毛沢東と文革批判、中国経済・社会・共産党の近代化について論陣を張ったのは労研創立以来の会員で、中国研究者の藤城栄だった。彼の論文「二つの路線のたたかいと毛沢東後の中国」(七六・一一)、「毛沢東批判の歴史的意義」(七九・四)、「近代化路線の現代中国の政治と経済」(八〇・一)、「劉小奇復活と中国共産党」(八○・五)、「四人組裁判と中国共産党」(八一・二) 、「毛沢東主義の近代化−六中全会の歴史決議」(八一・一一)など

の諸論文は、彼の政治生命を賭けた現代中国研究の大きな成果で、本誌の誇るべき足跡である。

 『労働運動研究』誌の特徴の第三は、相互批判と論争の自由の保障である。

労働運動研究所は創立に当たり、「意見の相違を隠さず、恐れず、排除せず」という原則を掲げ、その態度を堅持してきた。これは日本共産党だけでなく日本の社会主義運動に戦前から根強いセクト主義と、多数意見による少数意見の排除と圧殺という悪しき伝統を廃絶する闘いであった。その原則にたって本誌は創刊以来、掲載された論文に対する批判の自由を保障してきた。

 本誌で紹介された主な論争は、第一は一九八二年のポーランドのヤルぜルスキ首相の戒厳令施行の評価をめぐる論争、第二は一九八四年の現存社会主義論争、第三は 九九〇年から九一年にかけて九回にわたり連載された中野徹三氏の「コミンテルン七〇周年と社会民主主義の再評価のために」をめぐる論争、第四はコソボ紛争へのNATOの軍事介入に対する論争である。

 第一の論争は、ポーランド戒厳令を社会主義再生を弾圧する軍事クーデタと批判する意見と反革命予防の必要な措置と擁護する意見の論争だった。第二の論争は八四年一月号に掲載された松江澄、長谷川浩、遊上孝→、佐和慶太郎の現存社会主義の「優位性」のテーゼに対する柴山健太郎、藤城栄などの批判をめぐって展開された。第三の論争はソ連型社会主義の失敗の分析と社会民主主義の再評価を論ずる中野論文に対する高桑かおるの反論である。コソボ紛争に関しては、九九年五月号の「焦点」の柴山論文「EU主導でコソボ問題の政治的解決を」に対して、誌上論争はなかったが読者からNATOEU社民党政権の軍事介入を容認するものという厳しい批判が寄せられた。

 この中で第一と第二の論争は、一九八九年以降のポーランドの共産党政権の崩壊、一九九二年以降のソ連・東欧現存社会主義の崩壊で基本的には事実によって決着がつけられたといえる。この一九八四年の論争を今から振り返ると、その時期はソ連のゴルバチョフ政権誕生の前夜で、社会主義の内部矛盾がピークに達した時期で、「社会主義の優位性」を擁護する意見は社会主義の現実を直視しない観念論だった。だが私に関するかぎり、この論争が後のペレストロイカ路線の評価を深める効果があったといえる。

 労研の歩みで重要なのは、産業構造転換に伴い労働運動やフェミズム問題や、農業問題、部落解放問題への取組みである。とくに七〇年代後半から、労働問題では佐和慶太郎氏を中心に自治体、銀行、郵便貯金のオンライン合理化問題が取り組まれ、八○年代後半から均等法後の女性労働問題について中野麻美、山本菊代、柴山恵美子などが論陣を張るようになった。農業問題でも八○年代の政府の米の生産調整政策以降、農産物の輸入自由化政策などに対して横田義夫、神山安雄、一柳茂次が論陣を張り、経済分析では降旗節雄、蜂谷隆らが大きな役割を演じた。

 戦前・戦後の共産主義運動の活動家を多く擁した本誌のもう一つの大きな特徴は、運動史の中での知られざる活動家や秘められた記録の発掘である。特に山本正美「激動の時代に生きて」、小森春雄「逆流の人生」、増山大助「戦後運動史外伝・人物群像」、山本菊代「闘いに生きて」なども本誌の重要な成果である。

 『労働運動研究』誌はこの一○月号(NO・三八四号)をもって三二年の歴史を閉じるが、本誌の発行のために長年にわたり一方ならぬご支援とご協力をいただいた読者、会員、支持者、協力団体の皆さんに対して、最後に改めて心から感謝の言葉を捧げたいと思う。


思い出すことなど

―九六年七ヶ月を生きて―

労働運動研究所 山本菊代

労働運動研究 200110No.384号 

 

末端の一兵卒

 私はすでに九年前に自伝『たたかいに生きて』を柘植書房から出版しましたが、いま九六歳と七ヶ月になり、もう一度過去をふりかえり、また三二年間共に歩んだ私たちの雑誌『労働運動研究』誌が残念にも最後を迎えることになりましたので、お別れの意味も含め、未熟ではあっても共産主義者としての七三年間の思い出、また残しておきたいことを少し書かせていただくことにしました。

 私が入党したとき、党の秘密は他言してはならないと言われました。私の仕事は労働組合全国協議会のレポーターでした。四・一六(一九二九年)の夜、私はいつもの家に行きました。約束の「安全信号」があるので元気よく中に入ったとたんに、オーと言ってがっしりした男の手で両手を握られ、その後の警察での訊問で、私は最後まで何も言わないのに、「共産党員」として起訴されました。また、東京電灯争議で長期間拘留されたために重症の脚気になって療養中の同志まで、このとき検挙されました。聞けば東京都の責任者が街を歩いていて検挙され、家宅捜索の結果、党員の名簿が出たというのです。幹部より末端の一兵卒の方が真剣に闘っていたのです。

転向と石堂著作

 私の未決拘禁も三ヵ年経って一九三二年になり、やっと公判が始まり、その準備として幹部の予審記録が差入れられ、私には佐野学氏の記録が差入れられました。その記録を読んでいるうちに目が釘付けになりました。佐野氏が次のように予審判事に言っているのです。

 「古い党員が留守の時、全国大会を開いて幹部を決めることなど、もっての外だ」

 これでは組織の最高幹部が国家機関の裁判官に内部の不満をもらしていることになる。これで良いのだろうか、敵にこのようなことを言って良いのだろうかと、佐野氏に対する私の信頼の念は一時に消えました。

しかし、三・一五(一九二八年)、四・一六の一審公判は、佐野氏など一〇名の幹部の指導によって、統制を保ち、階級闘争らしく闘うことができ、一九三二年の八月に第一審判決があり、被告たちは控訴の手続きをとり、保釈になったものはそれぞれ非合法活動に入りました。

 ほどなく私は、一九三三年五月、中央部の人々の検挙の際に巻添えになり、二ヶ月の留置場生活の後に保釈を取り消された。その時、佐野、鍋山、三田村の転向をちらっと聞きました。またこの時、モップル(救援組織)の活動家も、解放運動犠牲者のために活動していた弁護士まで、総ぐるみで検挙されたことを、姉が面会にきたときに知りました。

 姉からは控訴を取り下げ、下獄すれば減刑になるとすすめられましたが、そのまま控訴を維持していたところ、名前も知らない弁護士が面会に来て、「私が弁護人になった」と言うので、救援組織も破壊されたと、おおよそのことは察していましたが、佐野・鍋山の転向の実態は刑期満了で一九三六年に出所して初めて知りました。

 四・一六検挙の一九二九年八月には、佐野文夫、浅野晃たちが転向したが、その時、浅野晃の夫人が私と同じ刑務所にいて、獄内から何回か公判のために裁判所にゆき、帰ってくると、私に相談を持ちかけていました。浅野たちは裁判官とかけひきをしているようだ、天皇制を認めた共産党などどうなんだろう、とも話かけられましたが、彼女は心配のあまり遂に発狂し、獄内で「天皇陛下万歳!」を叫んで、獄中の被告たちを驚かせました。

 私は佐野文夫を中心にした転向の内容を多少聞いていたのと、先に少し書いた佐野学の性格から、これをうまく利用され、転向させられた位に、これまで思っていたところ、最近、石堂清倫氏の『わが異端の昭和史』を読んだら、佐野・鍋山転向問題について次のように書かれていました。

 「平田検事は資本主義の変革の運動をある程度許容し、共産党の合法化を認めてもよいと云ったようである。そしてそれを許容する代償として『天皇制反対』のスローガンを取り下げさせようとしたのである。それは平田個人の構想のように見えるが、日本の支配層のうちには、ことに新しい資本主義によって後退させられた勢力のうちには平田を支持する層があったであろう。この平田に誘導されたのが佐野・鍋山の『転向』であったと思われる……平田的な構想がなかったら、あの昭和の大転向運動は生まれなかったであろう。転向が共産主義運動の弱い環からではなしに、その最強部から指導者集団から生まれた事もこの考えを支持すると思われる」

 幼稚な私の頭では言われている意味がよく分からないのです。党中央がスパイの手引で検挙された時期を狙っての転向表明について、共産党だけでなく、社会改革の運動からみて、あの転向とその大々的な宣伝もふくめて、石堂氏がこの転向を肯定されているのか、否定されているのか、分からない。

 また佐野・鍋山の転向とその大宣伝は、当時の社会の動きにどんな役割を果したのか、それは労働者や農民の解放運動にどのような影響を与えたのか、平田検事は労働者、農民の解放運動に理解をもって転向をすすめたのではないか、とも取れば取れるような感じがするのですが、石堂氏の真意はどうなのか、私には分からないのです。

 平田検事は国家権力機関の一人であり、その立場から、特高警察のスパイによって共産党幹部たちが検挙されたこの時期を狙って、転向工作をしたと私は思うのですが、違うでしょうか。

リンチ事件

 私はごく最近、いわゆるリンチ事件に関する竹村一氏の書かれたものを読み、これでは特高刑事の拷問以上だと思いました。それは拷問のためのあらゆる道具を並べたなかでの拷問です。赤く焼けたタドンを手の甲にのせ、お腹の上に燐酸液をたらす、小畑氏は「自分は未熟だから間違いをしているかも知れない、何でも云うから拷問はやめてくれ」と言っている。

 考えてみれば、スパイ大泉は党中央委員として一九三二年から野呂氏の信頼のもとにのうのうとしている。小畑氏も大泉を信頼し、そこから秘密が漏れるというのはあり得ることです。それなのに、拷問によって小畑氏は遂にショック死した。私の知っている海員の永山正昭氏が「当時、自分はアメリカからの野坂氏の文書を預り、日本の党に渡していた。小畑氏にすすめられて入党もした。自分の感じでは小畑氏がスパイとは思われなかった」と言っておられた。

 亡くなった人にはどうしてあげようもないが、こうしてスパイということに疑問をもつ人がいる以上、厳密な調査をして、少しでも疑念があれば名誉回復をしてあげて欲しい。

今は党員でもない私が口幅ったいことを言うのはおかしいけれども、本人はもうやむを得ないとしても、家族の人を考えて気の毒でたまらない。私は小林多喜二のお母さんが自分の気持ちを訴えたものを、涙を流しながら読んだことがありますが、この場合は、息子は階級闘争のなかで敵権力に殺されたのだという慰めがあるが、味方からスパイだとなぶり殺されたのでは、家族にはたまりません。

 あの強権をふりまわしたスターリン後のソ連でさえ、何十年も経過して無実と分かった人には名誉回復をしているのだから、党員でもないものからのまったくのお節介で失礼とは思いますが、竹村氏の本を読んでだまっていられなくなったのです。

反党除名問題

 野坂参三氏は『風雪のあゆみ』()の夫人竜さんの項で、関東婦人同盟の活動家で、共産党に入党し、後に除名された何人かについて書いています。田島ひでは共産党の国会議員になったが、のち反党活動によって

        

除名された、清家齢(とし)、山本菊代も一九六〇年に反党活動をし、除名された、渡辺政之輔の妻丹野せつは診療所活動に参加していたが、中国盲従分子に同調して除名された、などなど。

 ここには書かれていないが、四・一六の時に私と一緒に検挙された西村櫻東洋(おとよ)氏の場合は、福岡で農民とともに活動中、政府の自作農創設特別措置法(一九四六年)に共産党は反対したが、農民は現に耕作している小作の農地が安い土地代で自分のものになるので、みんな買い取りたいと喜んでいる状況のなかで、その間にはさまれた西村さんを、彼女が農民側になったといって党は除名し、それだけでなく、生活のために経営していた食堂に乱入、食器から食卓の机まで叩きこわして営業を不能にさせた。

 野坂氏は何かにつけて反党といわれるが、共産党は中国共産党支持かと思うと、ソ連共産党支持に変わり、日本の国民はいかなる核実験にも反対して平和を求めているのに、中国の核実験は正しいが、ソ連のそれには反対だ、ソ連が部分的核実験停止に賛成し、アメリカと提携すると、それに反対し、部分的核停条約に賛成した党所属国会議員を除名するなど、国民の要望をになって活動した場合にも除名している。私は共産党の方にこそ責任があると信じている。

淋しく逝った同志

 野坂氏は『風雪のあゆみ』()に、戦前の活動家のことを書いていられる。そこに、三・一五事件で検挙され、一九二八年の総選挙に共産党候補として静岡県から立候補した杉浦啓一氏が入っている。彼は一九三九年に亡くなられている。

 三九年の何時だったか忘れてしまったが、ある日、私が当時勤めていた中野の組合病院に、一〇年の刑を終えた杉浦氏が訪ねてくれた。とくに親しくしていたのではないのに来てくれて、私はとても嬉しかった。

いつ牢を出たのかと聞くと、一昨日と言ったように思う。「奥さんは元気だった?」と聞くと、「離婚したから今は一人だ」と言われ、やはり、共産党の幹部で刑務所に入れられたのでは、その家族を雇ってくれるところはどこもない、生きるためには別れる他なかったのだろう、一人ぼっちで淋しいだろうと同情していたところ、それから二、三日後に突然亡くなられたと聞き、刑務所でなくてよかったと痛切に思ったことが、今も忘れられません。

 杉浦氏と同じく、労働組合評議会の幹部だった松尾直義氏は一九二八年に検挙されたとき、可愛い男の赤ちゃんがいました。その松尾さんは獄中で肺結核にかかり、刑の執行停止かなにかで出獄されたが、夫人と子供に会いたいと言いながら亡くなられた。夫人は再婚されていたので、会わすことができず可愛想だったと、当時、野坂竜さんから私は聞いたが、松尾氏とは三・一五前に多少かかわりがあったので、なんとかして会わせられなかったかと、その話を聞いたとき涙が押えられませんでした。

 ついでに、とかく問題になった山本懸蔵氏の日本脱出については、警視庁が見てみぬふりをしての脱出では決してありません。前記の西村櫻東洋さんが苦心に苦心を重ねて下町娘になりすまし、特高の張っているなかを抜けてうまく家のなかに入り、党からのレポを渡すことに成功し、それで脱出したのです。

 私はこのことを直接、櫻東洋さんから聞いて、私にはとてもできない大胆な行動と、大層感心したことを思い出します。

綱領問題

 野坂氏の『風雪のあゆみ』()の三二年テーゼの項には次のように書かれています。

 「山本懸蔵は妻と共にウラジボストークでの仕事をいちおう終えて、モスクワのプロフィンテルン本部に帰ってきた。そして片山やわたしの宿舎から歩いて十分もかからないところにあるプロフィンテルンのアパートに落ちついた。

 こうして片山、山本、わたしの三人の協力態勢ができたかに見えた。そこでヤンソンなどは『このトロイカの(ロシアの三頭立ての馬橇)によってモスクワに初めて強力な日本共産党の海外指導部が作られた』と云って喜んだ。

 トロイカに与えられた任務は第一に前記の政治テーゼ(草案)の誤りを正し、かつ『二十七年テーゼ』を発展させた、精確で新しい綱領的文書の作成に参加することであり、第二には日本帝国主義の中国に対する新たな侵略戦争に反対する日本の人民のたたかいの方針を明らかにすることであった。しかし老齢の片山と肺結核で病みながらの山本との『トロイカ』はヤンソン氏が期待したほどには稼働できなかった」。

 ところが、『日本共産党の六十年』には、「日本帝国主義の中国侵略戦争と、そこにしめされた日本の支配勢力の実態は、天皇制との闘争を革命運動の第二義的な課題にとした『政治テーゼ草案』の誤りをあきらかにした。コミンテルンでは一九三一年から三二年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して日本問題の深い検討が行われ、三二年五月『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』いわゆる『三ニテーゼ』が決定された」と書いてあります。

 野坂氏の『風雪のあゆみ』()とこの『日本共産党の六十年』との記述の相違は何でしょう。私には理解できません。宮本顕治氏に私は、私の夫であった同志山本正美に対する宮本氏の中傷について一言云いたいのです。

 山本の検挙は、一九三三年五月三日であったと思いますが、三船留吉という人聞からメーデーの報告を受けに新宿の中村屋に行き、そこで検挙されました。検挙されるまで山本は不覚にもその三船を信用していたそうです。

 検挙後の山本の態度について、それから五〇年経った一九八三年刊『野呂栄太郎』という本に次の記述のあることを、私は野坂参三氏の『風雪のあゆみ』()を読んで知りました。

 「一九三二年一〇月、スパイの手引きによる弾圧で、指導部が検挙されていた党は、ただちに野呂栄太郎を中心にして党再建活動をすすめていたが、翌三三年一月に帰国した山本を含めた指導部が成立した。……謙虚な野呂は山本を指導部に加えただけでなく、その中心に推したが、日本の党活動の試練でなんらきたえられていない山本のような人間をこのように扱ったのは、山本がコミンテルンから帰ったと云うことにたいする善意の敬意と期待がはらわれていたからだと思う。しかし周知のように山本は(この年の)五月に検挙されるとたちまち警察に屈服してしまった」(宮本顕治「野呂栄太郎の思い出」)

 そういえば山本のところへこの『野呂栄太郎』が送られてきたとき、「僕は誰にも迷惑はかけていない」と云い、「野呂君の論文として、実は僕が書いたものが一つ載っているが、外ならぬ野呂君だからいいわ」と云って本を机上に置いたことを思い出しました。

 一九三三年当時、スパイが二人党内に侵入し、一人は野呂氏の信頼が厚く、何人かの人は感づきながらも手が出せず、もう一人の三船には気づかず、これに山本はやられたのでした。山本は私の知っている範囲では、すぐに屈服したどころか、自分を売ったスパイを摘発するため、留置場にいる人を介して苦労してルポを届け、それが党中央に届いたときには、すでに三船は逃げていたのです。

 私は数年前、小林多喜二のお母さんの本を読んで、そのとき小林多喜二を売った三船をなぜ追求しなかったんだろう、検挙の原因の追求が緩かったのだなと思っていました。山本が検挙されて程なく、三ニテーゼに反対だった佐野、鍋山の転向問題が起き、これが大々的に宣伝され、党内に転向の大旋風が起き、山本としては獄内でできる方法で、これと懸命に闘っていたようです。

 その年一一月の革命記念日には、党の健在を知らせるため、一人で「ロシア革命万歳!」と「日本共産党万歳!」を叫び、刑務所内の特別刑務所に入れられ、鉄の鎖でがんじがらめにされています。

 ついで公開統一裁判を要求し、認められたのは「公開」だけでしたが、当時の傍聴者による山本の公判記録を大学ノート八冊分私は頂いており、日本の実情になれない彼としても、できるだけの努力はしていましたから、私は宮本氏の記述を見て、その真意を疑いました。

 それに宮本氏は、山本の弁護人であった栗林弁護士を紹介してほしいと、夫人の中条百合子さんをわざわざ私のいた板橋までよこして、私が栗林氏を紹介したのです。宮本氏の場合、公選弁護士ではなく、謝礼を払うのですから、何も本に書くまで不信を抱いている山本の妻のところへ、弁護人を頼みにくるなど矛盾も甚だしいと思います。

 宮本氏は山本を中傷する方が自分にとって何か都合がよいから、五〇年も経った一九八三年になってあの記事を書かれたのでしょう。自分の個人的な利益を図るためとすれば、公党の、しかも共産党の書記長として最も恥ずかしい行為だと思います。

 山本は公判が終わった段階で、第二次大戦を予想し、日本にとって有利な条件は失われ、必ず敗北する、その時に備え、労働者階級の党としての取組みなどを考え、非難を承知で、「床の間の飾りを捨てる」と云って転向したことについては、私の『たたかいに生きて』(柘植書房、一九九二年刊)と彼の『激動の時代に生きて』(マルジュ社、一九八五年刊)に詳しく書いてあります。


創刊二〇周年を迎えて

新しい社会の創造をめざしてさらに飛躍を

 

  労働運動研究所は、一九六九年九月に創設されましたので、今年、二〇周年を迎えます。そして同年十一月に創刊された月刊誌『労働運動研究』もその後一号の休刊もなく発行され、二四一号を数えるに至りました。ここに二〇年の長きにわたって研究所の活動を物心両面で支えて頂いた皆様に衷心より厚く感謝致します。

 

研究所の創立

 

  労働運動研究所が創設された一九六九年は、大学闘争、ベトナム反戦闘争、七〇年沖縄・安保闘争などをめぐって日本の変革を目指す運動が一つのピークを迎えようとしている年でした。それらの進路をめぐって、激しい論争や対立があり、研究所の創立もそれらの論争と深くかかわっておりました。

  この論争の背景には、高度成長期の目覚ましい科学技術革命の発展に伴う急激な産業構造の転換の下で、労働者階級や勤労諸階層の構成や意識が急速に変化し、労働運動内部の矛盾が激しくなる中で、当面する運動の諸困難を克服するために新しい潮流をいかにして形成するかという問題がありました。また中ソ対立やチェコ事件などを契機に国際労働運動の内部に深刻な分裂が生じ、労働者階級の中に大きな思想的・政治的混乱をもたらしている現状の下で、国際労働運動の経験を総括し、創造的な科学的社会主義の立場から新しい世界の変革と発展の方向をいかに追及するのかという問題もありました。私たちは、これらの諸問題に全力を挙げて取り組んでみようと決意しました。

 

私たちの目的と課題

 

  私たちは研究所の発足に当って、次のような目的と課題を明らかにしました。

  第一は、独占の合理化攻勢と対決して、職場でたたかっている労働者の経験を集中し、それを理論化して、たたかいの前進に資することです。

  第二は、第一の課題を果すためにも、狭い視野におちいることなく、今日の世界の動向と日本の現状分析を、専門研究者の協力を求めて進めることです。

  第三は、世界と日本の労働運動の歴史的総括を進め、その教訓をあきらかにすることです。

  第四は、以上の研究を通して、わが国労働者階級が、全世界の反帝勢力と連帯し、農民はじめ反独占勢力と同盟し、統一して、自からの解放をたたかいとる事業に奉仕することです。

  第五は、これらの共同研究のための研究会活動、ならびにその成果を発表し、討論を発展させるために、雑誌『労働運動研究』を発行することです。

  第六は、労働運動活動家の結集と労働者教育活動です。

  それから二〇年、私たちは微力ですが、国際、国内の労働運動の提起する様々な理論的・政治的諸問題の解明に努力してきました。その過程で時には一九八一年のポーランドの戒厳令をめぐる論争のように激しい論争や意見の対立も生れました。現在も労働戦線統一や天皇制の問題をめぐって論争が展開されています。しかし、私たちはいかなる場合でも、お互いに対等な立場で論争し、決して異なる意見を排除したり、論争を抑えたりしないで参りましたことは、私たちのいささかの誇りであります。

  一九八六年三月にはこうした研究所の活動をさらに強化するため、創立以来の人々のほかに、新たな若いメンバーが中心に加わり、研究所をもっと大衆化し、国際・国内労働運動の理論的・実践的要請に応えられるよう大幅な改革が行なわれましたQこれにより研究所は第二期とも云うべき段階を迎え今日に至っております。

 

新たな再生めざし

 

  わが国の労働運動は、いま重大な危機に直面しています。

  革新勢力の分裂による労働運動の分裂と右傾化と混迷は、労働者が戦後の長く苦しい闘いのなかでかちとった諸権利の剥奪、労働者の生活水準の停滞を引き起こしています。さらに独占資本が強行しているMEOA合理化は、労働強化、長時間労働、交替制労働、差別雇用などを拡大し、労働者の健康と母性の破壊、家庭の崩壊をもたらしています。

  しかも、技術革新による産業構造と労働者階級構成の変化は、階級内部の多様化をもたらし、労働者の組織化と労働運動の発展を阻害しています。さらに帝国主義間競争の激化に伴う独占の多国籍企業化も、この困難に一層拍車をかけています。

  わが国の労働運動の直面する諸困難は、欧米資本主義諸国にも共通のものであります。しかし、いまやアメリカ、ECとならんで、帝国主義間競争の三大センターの一つとなったわが国の労働条件の劣悪さは、資本主義諸国の失業を増大させ、労働条件を切り下げる要因にさえなっています。

それだけに、労働運動の階級的再生のための闘いは、ひとりわが国の労働者の生活と権利を守るだけでなく、全世界の労働者階級の闘いと連帯する意味をになっています。

  現在の労働運動が、独占資本の長期にわたる計画的な攻撃によって生じたものであることを考えると、その階級的再生が容易な事業でないことはいうまでもありません。しかしたとえ困難であっても、この事業を全力を挙げて成功させなければなりません。

  私たち労働運動研究所は、 九六九年九月発足以来、さまざまな試行錯誤を重ねながらも、階級的立場に立ち、わが国労働運動の困難を打開する新しい潮流を形成する努力をしてきました。二四〇号に及ぶ『労働運動研究』の発行は、その成果のひとつであります。しかし、私たちの活動が情勢の要求に応えたかというならば、きわめて不充分というほかありません。

  新たに参加した人達の積極的な努力が少しずつ実りはじめ、そのことは『労働運動研究』の紙面にも反映し、これまでにない新たな筆者の登場と問題提起が行われ、雑誌の発行部数も最近になって大きく増加の方向を辿っています。このことは、労働運動の混迷と労働者意識の低下という今日的な状況下で、この種の雑誌の発行が困難になっている現在、その責任の重さをひしひしと感じています。

  さらに最近では、「グラムシ・国際シンポジウム」や「フオーラム・新しい社会の創造をめざして」などにも誌面協力し、多くの方からあたたかい励ましの言葉をいただいております。私たち研究所の活動や雑誌の発行が、今日の総評解体と労戦再編という歴史的にも新たな段階、それも労働運動の階級的前進にとって極めて困難な局面にあって、多くの活動家に少しでも寄与することが出来れば幸いだと思っています。

  私たちは労働運動研究所創立二〇周年を記念し、シンポジゥムを企画し、今日の新たな段階での社会主義についての討議を行うとともに、研究所を支え励ましていただいた方々と親交をあたためるためのレセプションを開催するため準備を進めているところです。

  そして、この二〇周年を期に、これまでにも増して皆さんのご支持とご協力を得て、研究所をさらに充実させ、『労働運動研究』の紙面の改善に努力し、困難な状況を切り拓くため各戦線で活動されている皆さんの要求に応えるため努力する決意ですので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

 

一九八九年十一月

労働運動研究所


労研20年の歩み

労働運動研究1989年11月 No.241

一九六九年

 中ソ対立は、この年ついに国境紛争で武力衝突にまで発展したが、六月にモスコーで開かれた世界共産党・労働者党会議には中国、日本などを除く七五党が参加し、反帝国主義闘争への結集を強調した基本文書に六六党が署名。十一月号(創刊号)は、内藤知周「共産党・労働者党国際会議の積極的意義とその批判」、 植村邦「世界革命と国民的な道」で国際共産主義運動の問題点を論じた。

一九七〇―七二年

 この年は政府の「総合農政」 (米の減反、農業構造改善など)が始まるとともに、シアン、カドミウムなど公害問題が全国的に拡大した。また、政治分野では、七月に日本共産党が第十一回大会で「七〇年代の遅くない時期に民主連合政府を」という方針をうちだし、議会主義への転換を明らかにした。国際的には、イタリアの「熱い秋」に代表されるヨーロッパ労働運動の高揚が始まった。七一年一月号は、〔自民党総合農政の本質〕を特集し、遊上孝一「米をめぐる二、三の問題」、横田義夫「食管制度をめぐって激動する農協」、 柴田友秋「鹿島開発闘争の中間報告」、 五月号では横田義夫「新たな段階を迎えた米の『生産調整』と農協」、 七月号では遊上孝一「議会党への転落宣言―日本共産党第十一回大会決議案」批判、九、十一月号では植村邦 「『イタリアの秋』―その戦略と戦術へのノート」を掲載した。

 日米間で沖縄返還交渉が急ピッチで進むなかで、七二年五月に沖縄全軍労・教職員会・自治労など五四単組(七万五千人)が二四時間ストを打つ中で、七月号は沖縄労研の協力を受けて「特集・米軍権力をゆるがした全軍労三五日間のストライキ」特集した。

一九七三―七四年

 一九七〇年十月成立したチリの人民連合政権はアメリカと結託した国内反動勢力の激しい攻撃で非常な困難に直面していたが、植村邦は一、三月号の論文「社会主義へのチリの道」でチリ革命の平和移行の問題点を論じ、九月十一日にピノチェトのクーデタ直後の七四年一月号は「チリ革命挫折に学ぶもの」を特集した。国内では、日本共産党の議会主義への転落にともなって大衆団体内に「政党支持の自由論」や「教師聖職論」、「自治体職員―全体への奉仕者論」などの日和見主義理論が労働運動や大衆運動の中に持ち込まれ、いたるところに分裂が生ずるなかで、八、九、十、十一月号でこのような日本共産党の誤った方針を批判した。

 ■七四年五月、内藤知周理事死去

一九七五―七六年

 世界は一九七四―七五年に戦後最大の恐慌に見舞われたが、長谷川浩は一月号の論文「資本主義体制の腐朽と七四年恐慌」の中でいち早くこれを過剰生産恐慌と規定しその特殊性を論じ、三月号では『ノーボエ・プレーミヤ』誌のエフ・ゴリューノブの論文「七四年の資本主義経済恐慌」、 十月号では『ポリティカル・アフェアーズ」誌のビクター・パーロの論文「経済恐慌は深まる」の論文を掲載した。また日本共産党の部落解放同盟や原水禁運動の分裂活動が激しくなる中で、佐和慶太郎が三、五月号に「部落解放運動の理解のために」、 松江澄が七月号に「原水禁運動の統一とは何か」を執筆。また国際問題ではポルトガル革命の過程が九、十月号で追及されている。 十一月、公労協、国労、動労、全逓、全電通など三公社五現業の労働者は、スト権奪還を要求して八日間、一九二時間にわたるストライキに突入したが、七六年一月号は長谷川浩の「スト権ストは打ち抜かれた」の論文を掲載。また国際婦人年の重要な行事として七五年六月に開かれたILO第六〇回総会の「婦人労働者の機会および待遇の均等に関する宣言」とともに柴山恵美子の論文「母性保護と平等をめぐる問題」が掲載されている。なお七月に行なわれた日本共産党第十三回臨時大会批判の佐久間弘の論文「宮本顕治の『敗北の戦略』」が十一、十二、七十七年一月号に連載された。

 また七六年は、歴史的なスターリン批判を行なったソ連共産党第二十回大会の二十周年にあたり、イギリス共産党機関誌『マルキシズム・ツデイ』に掲載されたジョン・ゴランの論文「社会主義的民主主義の若干の問題」を三、四、五、六月号に連載。さらに二月にフランス共産党第二十二大会でプロレタリアート独裁の規定を党規約から削除したことについて五、六、七、十月号で山本徳二、植村邦、松江澄が論じ、九月号では六月に行なわれたヨーロッパ共産党・労働者党会議最終文書とポルトガル共産党アルバロ・クニアル書記長の発言が紹介されている。

 ■会員・理事の著書発刊 長谷川浩  『二・一スト前後と日本共産党』  (三一書房)、佐和慶太郎『部落解放の歴史と現実』 (三一書房)

佐久間弘(柴山健太郎)『鹿島巨大開発』 (お茶の水書房)

一九七七―七九年

 この時期には、特に政局、労働、農業、技術革新、共産党批判、国際問題ではポルトガル革命、イタリア、中国問題を論じたものが増えている。

 政局では、佐和慶太郎「保革伯仲総選挙の得票分析」 (七七・二)、 長谷川浩「急速に動きだした中道路線」(七七・九)、 山下一郎「八○年代初頭は保守中道連繋か」 (七九・一一)

がある。

 労働では、春闘の連続的敗北、国労、動労、全逓、日教組、自治労など公共企業体や公務員労働者に対する合理化攻撃、造船、電気産業などの労働者への人減らし攻撃の問題が多く論ぜられている。特に七九年になると、OA化の進行を反映して、 「コンピュータ合理化の基本問題」 (七九・二)、山下一郎「核心に迫る杉並の国民総背番号制反対闘争」 (七九・三)、「世界最大の金融機関の合理化―郵便貯金オンライン化問題」 (七九・五)、 小山博「オンライン合理化との闘い」(七九・九)、 剣持一己他「コンピュータ反対闘争の実情を語る」 (七九・一二)などが掲載された。

 農業では、一柳茂次が政府の生産調整に反対して闘っている新潟県の福島潟の農民の闘いを連載し、横田義夫は「史上最大の乳価闘争」(七七・一二)で酪農民の八日間の乳価ストを報告し、更に「日本農業を破壊する米の生産調整」 (七八・二)、 赤木次郎「第二次減反および農業再編成の本質」(七九・五)、 横田義夫「日本帝国主義の農業戦略」 (七九・一一)などで農政批判の論陣を張った。

 この時期に日本共産党批判では、遊上孝一が「日共第十四回大会への疑問」 (七七・一一)、「ユーロコミュニズムと日本共産党」 (七八・七〜八)、津南竜平「レーニンの党組織原則に関連する若干の原則」 (七七・七)、「科学的前衛論か」一〜四(七九・四〜八)、佐久間弘「戦後綱領論争の教訓」一〜四(七八・一〇〜七九・三)などが連載された。

 国際問題では、依然としてポルトガル革命に関連する論文が多く、それにイタリア、フランス、スペインのユーロコミュニズム諸党や、中国やイラン革命、タイのクーデタ、アフガン革命などに関連する論文が増えている。ポルトガルでは、A1・ソボレフ「ポルトガル革命発展の諸局面と革命的前衛の戦略、戦術の諸問題」 (七八・二〜三)、 フォーベット「四年にもなるポルトガル革命」 (七八・八、 一〇)、チリではホセ・カデマルトリ「チリ革命における若干の政治と経済の問題」(七八・五)、 イタリア、フランス、スペインでは植村邦が「長い過渡期の戦略」、「イタリア労働者階級の運動」、「社会主義への第三の道」(七九・七)、「フランス左翼連合の敗北」 (七八・七)、「スペイン共産党第九回大会への道」 (七八・一一)、 山下一郎が「イタリア共産党の"第三の道"とは何か」 (七九・五〜六)、 イギリスでは「イギリス共産党の新綱領草案」(七七・三)、 A・チェスター「イギリス共産党の革命戦略の変遷」 (七九・一})などが掲載されている。またこの時期に重大な問題になりつつあった社会主義国家間の闘争を理論的に解明する論文としてイギリス共産党のモンティ・ジョンストンの「社会主義国家間の闘争」 (七九・一〇〜一一)が紹介された。また中国問題では一貫して文化大革命批判の論陣を張ってきた藤城栄が「華国鋒体制と十一全大会」(七七・一一)、「中国の近代化と全人大会」 (七八・五)、「日中条約と中国の現情勢」 (七八・一一)、「毛沢東批判の歴史的意義」(七九・四)を書いている。

 ■労働運動研究所編『内藤知周著作集』 (亜紀書房) (七七・一一)

佐和慶太郎『差別への転落ー日 本共産党批判』 (解放出版社) (七七・八)、『部落完全解放とは何か』 (三二書房)(七八・七)

■七八年三月二十一日、東京・新宿家の光ビルで『労働運動研究』の百号発刊を祝う会が盛大に開かれた。

■七九年十二月一日、労働運動研究所創立十周年記念の「講演と討論の集い」を開き長谷川浩代表理事が「八十年代の日本帝国主義と階級闘争の諜題」と題して講演を行う。

一九八Oー八三年

 この時期に国際問題で最大の焦点になったのはポーランド問題で、特に戒厳令施行以後は誌上で約一年以上に亘って論争が展開された。論争の発端になったのは、八二年二月号のイタリア共産党のポーランド戒厳令の批判論文「社会主義闘争の新局面を開くために」と三月号の植村邦「ポーラソドの事態と国際共産主義運動」、 モンティ・ジョンストンの「ポーランドの軍事クーデタ」ならびに松江澄「ポーランドの事態から学ぶこと」などの諸論文であった。編集部は、五月号でイタリア、ソ連共産党の論争に関する誌上論争を特集したが、山本正美は「必要なのは全反帝勢力の結集」という論文でイタリア共産党の方針を批判し、植村邦は「具体的な現実の具体的分析を」でイタリア共産党の主張を擁護し、ソ連共産党を批判した。高井正造は、六月号の「『労研』三月号植村論文への疑問」で批判し、津南竜平は「民主主義・国家・プロ独裁」(六、七月号)でソ連共産党のポーランド政策を批判した。植村は七月号に「高井君へのいくつかの回答」で反論したが、鶴崎藤吉は十月号の「複数主義・多元主義・自主管理批判」で植村、津南両論文を批判した。柴山健太郎は「ポーランドの教訓ー社会主義再生と戒厳令をめぐる論争に寄せて」 (八三・一、二、三月号)、 で戒厳令を批判した。ソ連問題では、ロイ・メドベージェフの「ブレジネフ後のソ連」 (八二・.)が掲載されている。

 ヨーロッパ問題では、主としてイタリア、スペイン、フランスなどについてユーロコミュニズムの衰退、フランス左翼連合政府の勝利などについて論じられた。イタリアでは、植村邦が「新しい主体としての労働者―  フィアットの危機と闘争」 (八二年一月号)、「イタリア共産党第十六回大会の課題―『民主主義的交代』の建設」(八三年六、七月号)、 フランスでは「ミッテランの勝利と左翼連合の諸条件」 (八一年七月)、 ダニエル・ペロー「、ミッテランの一年」(八二年七月)、 スペインでは植村の「ポスト・フランコにおける『ユーロ・コミュニズム』の課題」 (八二年十一月)、 パメラ・オマリ「スペイン共産党の危機」 (同上)が掲載された。

 韓国問題では、李明哲の「光州抗争と韓国民衆の闘い」 (八○・七)、 康栄浩の「韓国婦人労働者の闘い」 (八二・三)、 吉松繁の「韓国の現況と政治犯救援の課題」 (八三・一)、 その他アフガン、カンボジア、グレナダ、ニカラグア、イラン革命などが論じられた。

 中国問題では、藤城栄が「現代中国の政治と経済―近代化のジレンマ」(八○年一月号)、「劉小奇復活と中国共産党」 (五月号)、「四人組裁判と中国共産党」 (八一年二月号)、「毛沢東主義の近代化-六中全会の歴史決議」 (十一月号)で中国の文革後の近代化路線を論じた。

 国内政局では、八○年八月号で長谷川浩が「自民党はなぜ圧勝したか」、倉田次郎が「ダブル選挙と労働運動」、山下一郎が「衆参同日選挙の決算表」を論じ、八二年の政変では柴山健太郎が「鈴木政権の崩壊と自民党の危機」(八二・一二)を論じている。この時期も技術革新と労働運動に関する論文や座談会が多く、剣持一己他「コンピュータ反対闘争の実情を語る」 (八○・一)、「これからの反合闘争はいかにあるべきか」 (八〇ニニ〜四)、 小山博「新しい局面を迎えたオンライン合理化闘争」 (八○・三)、 編集部「急迫する大阪"秋の陣"―大阪市役所の住基台帳電算化問題」 (八○・六)、赤砂水無夫「本の総背番号と流通のコンピュータ合理化」 (八○・九)、 編集部「メカ.トロニクスと労働問題―『産業構造の転換と金属機械産業』の危険な考え方―」 (八一・一)、 ガス・ホール「チップとロボットの革命」 (八一・九)、 山下一郎「漢字オンライン計画と荒川区職労の闘い」(八二・一)、 座談会「ロボット・OA化の現場を語る」 (八三∴二)などが掲載された。

 労働運動では、八○年五月号で田中正純が「造船合理を闘い抜いた佐世保重工労働者」、 秋葉甚市が「産業構造転換と全電通労働者」、高井正造が「特別昇給制の協約化に反対するー.全逓第三四回大会に寄せて」 (八一・三)、 編集部「車掌の抵抗―国鉄乗組基準の改悪に抗して」 (八一・七)、野中進「決断迫られる総評労働運動―戦線統一問題に揺れる総評内部の動向」 (八一・八)、 和田新次「官公労労働運動の危機と春闘」 (八三・四)、「公企体賃金抑制の実態」 (八三・七)、 八三年一一月号では、編集部「倒産企業と自主生産闘争」、藤野浩一「"ビラ貼り”で懲戒免職―反処分闘争と国労・鹿児島闘争の教訓」、編集部「敵も大衆も忘れた愚な対立―全逓・池貝・大阪衛都連における労組内紛」、 座談会「恐るべき教育現場の現状」などが掲載された。

 農業問題では、農民の生産調整反対闘争が引き続いて取り上げられ、大富文三郎の「蒲原平野に見る米の生産調整反対の戦い」 (八○・一一、 一二)、竜川圭雄「第二次生産調整と農業・農民」 (八一・三)、 大富文三郎「岐路に立つ福島潟闘争」 (八一・五)、 大野和興「解体化の道をたどる不足払い体制―生産調整下の酪農」 (八一・六)、 一柳茂次「農基法二十年の決算」(八一・七、八)、 西沢江美子「合理化攻勢と農協女子労働者」 (八一・=)、 赤城次郎「独占資本の雇兵としての先進国農業論」 (八一・一二)、 一枷茂次「一五ヘクタール農民と国家―秋田県大潟村の干拓地の土地取り上げ」 (八二・三)、「八郎潟干拓の『大農』の怒り」 (八二・五)、横田義夫「合理化路線を歩む日米農産物交渉」 (八二・七)などがあるが、一柳はこの後も大潟村の問題を追い続けていく。

 女性問題では、八○年三月号に山本菊代の「母性保護と婦人労働の実態―生理休暇の問題を中心に」と資料「婦人労働者の経済的、社会的、文化的権利および労働組合権に関する憲章」 (婦人労働者に関する第四回世界労働組合会議)、 九月号に柴山恵美子の「現代世界と婦人解放」が掲載された。八一年三月号の「特集・婦人の解放」では、山本菊代「共働き夫婦の家族扶養は共同負担―性差別と闘う横浜市職員」、 西沢江美子「農村婦人の現状と運動の方向ー青森県の運動を中心に」、 柴山恵美子「婦人解放をめざすイタリア左翼の実践」、 さらに八二年には柴山恵美子の「調査・統計から見た男女差別の現状」 (八二・七)、「コンピュータ・OA下での婦人労働」(八二・コ)が掲載された。

 ■労働運動研究所編『コンピュータ合理化と労働運動』(三・一書房)  (八○・一一)

 ■原全五『大阪の工場街からー私の労働運動史』 (柘植書房) (八一・二)。 三月二十九日、阪で「原全五の古稀と出版記念会」開く。

 ■八一年四月四日、東京・神田・学士会館で内野壮児代表理事の追悼会。

一九八四―八六年

 この時期の『労働運動研究』は改革への過渡期で、八四年を境にして編集方針に大きな相違が見られることである。八四年には一年間にわたり現存社会主義の優位性をめぐる論争が展開されたが、八五年以降、労働運動研究所が新体制に移行してから編集方針がより大衆化し、特集方式が定着したのが特長である。

 現存社会主義論争の発端になったのは、八四年一月号の松江澄の「現代社会主義の諸問題について」、 長谷川浩の「『社会主義の優位』とは何か」、遊上孝一の「社会主義社会のマルクス主義的分析を」、 四月号の松江澄「八十一力国声明は今でも有効か」などの諸論文で、柴山健太郎は「全般的危機の問題によせて」 (八四・八)、 水沢広志は「『八十一力国声明』批判を批判する」 (八四・九)でそれぞれ松江論文を批判した。また九月号の佐和慶太郎の「独裁とヘゲモニー革命の『平和的移行』に関連して」を柴山は「社会主義への平和的移行とプロ独裁」 (八四・一一)、 藤城栄は「プロレタリア独裁の一考察」(八四・一二)で批判した。松江は八五年一月号の「核戦争阻止の闘いと社会主義への平和的移行」、 佐和慶太郎は「平和的移行と社会主義党」でこれに反論したが、藤城は更に「再びプロレタリア独裁について」 (八六・一)で佐和論文を批判した。

 国内政局では、八三年十二月の総選挙を山下一郎が「野党協力が『伯仲』を生み出した」 (八四・二)、 柴山健太郎が「自民党" すりより連合論"の破産」 (八六・八)、 大野和興「自民圧勝と農村票」 (八六・一〇)でダブル選挙での自民圧勝を論じた。

 労働では、和田新次の「公労協はどこへ行く」(八四・一〇)、編集部「労働権脅かす派遣事業の法制化」 (八五 ・一)、 野中進他の座談会「総評労働運動の危機とは何か」 (八五・〜三)、 座談会「小集団活動の現状を語る」 (八五.一二)、 八六年  号の 「国鉄の分割・民営」特集では広兼主生の「国鉄解体計画を紛砕するために」、 藤野浩一の「困難に屈せず抵抗の持続を」、 佐藤一コ九四九年国鉄闘争の教訓」が掲載されている。

 八六年二月号は「八六春闘読本」として特集され、七月号は「特集・転機の労働運動」として野村昇二「全民労協の動向と『全的統一』」、小森良三 「変動する労働市場の構造」、 松谷澄子「均等法後の女性労働」、 田辺和彦 「企業忠誠心の揺らぎか」、 労働情報運営委員会「国鉄解体法案粉砕に決起しよう」などが掲載された。更に九月号では「特集・国鉄国会をひかえて」で国鉄闘争を特集し、更に一一月号では「特集・階級的労働運動の再生を」で、国労、日教組、公労協の闘争を特集した。

 女性問題では、山本菊代が「看護休暇実施の状況」 (八四・二)、 中島洋子「母子家庭殺しの児童手当を削るな」(八四・六)、内田和子「八四『婦人労働白書』批判」 (八五・一)、「差別と搾取の中の女子労働」 (八五・三)、 ナイロビ世界婦人会議コ一〇〇〇年にむけての婦人の地位向上のための将来戦略」 (八五・一一)、 八六年三月では「特集・均等法実施後の女性労働問題」で柴山恵美子「新段階に入った女性差別との闘い」、 松谷澄子「女の人権と老後保障」、 樽見敏彦「ふれあい条例請求運動から地域ユニオン結成へ」、樫原真理子「パートはどうしてこんなに差があるのか」、杉山加寿子「全逓女子組合員『深夜業解除』を闘い取る」などが掲載された。

 農業問題では、八六年五月号で「労働者と語る日本農業」を特集し、林信彰「日本独占の農業政策」、 柴山健太郎「日本農業は過保護か」、大野和興 「カーギル進出と坪内研修」、 遊上孝 一「日本における農民層分解」、 柴田友秋「農協広域合併問題と農民」など

が掲載された。

 経済では、八六年七月号に降旗節雄「ロン・ヤス仁義の経済的基礎」、 十二月号の「円高・経済摩擦下の日本経済」の特集で鎌倉孝夫「現代資本主義と規制緩和・民間活力の活用」、 宮崎義一「日本経済関係と日本産業の動向」、 伊藤誠「貿易摩擦と円高不況の行方」、 斉藤道愛「経済摩擦と日本農業」、 吉岡啓「造船不況と地域経済」などが掲載されている。

 国際問題では、ヨーロッパではやはりユーロコミュニズム諸党の分析が主となっている。イタリアでは片桐薫「八○年代に挑戦するイタリア・マルクス主義」 (八四・五)、 植村邦「イタリア社会党首班内閣の成立と民主主義的交代の現実性」(八四・八)、 「西欧におけるイタリア・新しい局面へ」(八五・九)が掲載された。フランスでは、福田玲三の「欧州議会選挙結果とフランス共産党の党内論争」(八四・一一)、「社会主義だけが危機脱出の道ーフランス共産一党第二五回大会決議案」 (八五・二)、「仏共産党の総選挙総括と社共共闘派の問題点」 (八六・五)G・ボッファー「J・カナパの遺著―チェコ事件をめぐる仏・ソ・チェコ秘密会談」など、スペインでは植村邦「スペイン共産主義運動の分裂」(八四・七)、「S・カリリョーユ

ーロコミュニズムの衰因を語る」 (八五・三)、 佐治孝夫「スペイン移行期の政党と政党制」 (八六・六)などがある。イギリスでは栗木安延の「イギリス炭鉱労働者の長期ストライキ」(八五・五)、 D・クックの「イギリス共産党の内紛」 (八五・八)、 A・べーカー他「英炭鉱ストに関する討論」、 ペン・ファイン「イギリス労働運動は危機か」 (八五・一一)、 西独では「ドイツ社民党の新綱領草案」(八六・一一〜一二)、 アメリカでは五味健吉「アメリカ農業の危機」 (八五・五〜六)、 H・サボラ「アメリカの農業危機と農民運動の新しい発展」(八五・九)、「アメリカ共産党の労働運動綱領」 (八六・一一〜一二)などがある。ソ連では藤城栄の「ソ連共産党第二〇回大会と中ソ対立」 (八六・三)、 植村邦の「ソ連共産党第二七回大会の問題点」がある。

 ■八四年二月 長谷川浩代表理事死

  去。八五年三月城戸武之理事死

  去

 ■長谷川浩『占領期の労働運動―産別会議最後の対決』(亜紀書房) 上・下2(八四・五)

 ■松江澄『ヒロシマからー原水禁運動を生きて』 (青弓社) (八四・七)

 ■山本正美『激動の時代を生きて』 (社会評論社) (八五・八)

■山口氏康『ヒロシマもう一つの顔―地方議会の生態』 (青弓社) (八六・四)

一九八七―八八年

 この時期の編集では、国内問題では政局、労働、農業、女性、経済、国際問題ではソ連のペレストロイカやヨーロッパの社会主義に関する論文が増えてきたのが特徴である。

 政局では、入七年一月号の「特集・『国際国家』日本を問う」で安藤紀典が「中曽根政治と『国際国家』」、鷲田小弥太が「反動思想の現在姿」、 大崎達也が「新国家主義と中央集権化ー臨調行革の五年を振り返る」、 二月号で柴山健太郎が「京都座会と『国際国[家論』」、六月号では佐和慶太郎が統一地方選挙の結果を「社会党ホドホドの原因」で論じている。労働では、八七年三月号の「特集・円高不況下の八七春闘」で小森良三が「円高不況下の日本経済と八七春闘」、 持橋多聞が「造船雇用合理化の嵐の下で」、 土来生三が「電機労働者は今年も闘わない」、五月号は「特集・労基法改悪に反対する」で近藤昭雄が「労働時間法制の抜本的改悪」、 山口五月が「均等法は職場をどう変えたか」、 篠田二郎が「民営化後のたばこ労働者」、 六月号は

「特集・岐路に立つ日教組運動」で山本馨が「教育現場で進む臨教審の改革・路線」、 福井祥が「たたかう日教組の再生を」、 田中真一郎が「労働慣行破棄攻撃の中で」、 松村健一が「高校教育『正常化』攻撃の中で」などの諭文を掲載している。入八年には、三月号で「特集一・八八春闘とこれからの運動」、「特集二.労働者協同組合の新しい波」、 七月号では「特集・大企業の職場.労働者の抵抗線」、 九月号では「特集.日本的経営の構造変動」などが取り上げられ、テーマも論者も非常に多様になった。女性問題では、八七年四月号の「特集・女たちの今を問う」で久場嬉子が「フェミニズムとマルクス主義」、 小畑精武が「パート労働者の未来を拓く」、 中島圭子が「行き方までが"変形"に」など、八八年六月号の「特集・女の闘い・労働と生活」には石毛鎮子の「混迷する女性労働と保育の商品化」、 阿部裕子の「今必要な女性の主体形成」などが掲載されている。経済問題では、八七年七月号の「特集.緊迫する日米経済戦争」で降旗節雄が「日米経済戦争の底にあるもの」、 箕輪伊織が「日本農業解体のシナリオ」、 小杉一郎が「新前川レポートと日本経済」などのほかに、「日本的経営論」を論じたものにK・ドーゼ他「フォード方式からトヨタ方式へー『日本的経営』は世界に移転できるか」(八八・七)、桐谷仁の「フォード主義からポスト・フォード主義へ」がある。天皇問題では八八年八月号の「特集・現代の天皇制批判のために」で村上重良が「現代の天皇制」、天野恵一が「情報社会の天皇制」、村田稔が「天皇制・民主主義・社会主義」、 佐和慶太郎が「続・私の体験的天皇論」、 山本正美が「天皇制廃止の現代的意義」を論じている。

 ソ連や東欧のペレストロイカでは、F・ブルラツキーの「ソ連社会の構造改革とゴルバチョフ革命」(八七・四)、 富田武の「ゴルバチョフ革命の現局面」 (八七・五)、 八七年十一月

号の「特集・ロシア革命七十周年とペレストロイカ」では松江澄が「われわれにとってのロシア革命」、 中村裕が「ペレストロイカの現在」、 富田武が「ペレストロイカの理論的側面」が掲載されている。八八年には、遊上孝一が「ソ連農業とペレストロイカ」 (八八・四)、 植村邦が「ブハーリンの名誉回復」 (八八・七)、 労研国際部が「第十九回党協議会前後のソ連社会の動向」 (八八・九)、 八八年十一月号の「特集・東欧社会主義の現状と改革」では、石川晃弘が「ペレストロイカに対するチェコの対応」、 家本博一が「ポーランド経済改革の第二段階」、高木雄郷が「ユーゴ・ペレストロイカの現実」を論じている。西欧では、佐治孝夫コ九五六年―イギリス共産党とハンガリー動乱」 (八七・一)、トビアス・アプセ「イタリア共産党第十七回大会」(八七・二)、植村邦「グラムシ死去五十年とイタリア共産党の難局」 (八七・九)、 ドナルド・サッソン「イタリアの色褪せた夢」 (八七二〇)、福田玲三の「フランス・反動に対して広がる怒り」 (八七・三)、植村邦「フランス共産主義者の苦悩」(八八・一)、 桐谷仁「西欧社会民主主義の昏迷―L・パニッチの社会民主主義批判」 (八七・四〜五)、「未来に向かってー『イギリスの道』 (イギリス共産党)草案」 (八八・一二)、柴山健太郎「EC完全統合とヨーロッパ左翼の政治」 (八八・五〜六)、 片桐薫「ヨーロヅパ社会主義の衰退」(八八・一一)、 ドイツ社会主義統一党・ドイツ社会民主党「イデオロギー論争と共通の安全保障」(八七・=)などがある。アジアでは、八七年=一月の「特集・激動するアジア」では、仁科健一「オリンピック後の韓国情勢」、 福好昌治「在韓米軍撤退問題と日米安保」、 南麻記「アキノ政権三年目のフィリピン」、『アジア・ウィーク』の「銃剣制圧下のビルマ」などが取り上げられている。

 理論では、八八年二月号は、前年十一月に開かれたグラムシ・シンポジウムを「特集・グラムシの思想と現代」で特集したほか、藤井一行「不破哲三『スターリンと大国主義』の"方法" への疑問」(八八・二)、中野徹三「日本共産党の現綱領とその論拠」 (八八・三〜四)、 栗木安延「コミンテルンと統一戦線」 (八七・一一〜一二)などがある。

 ■八六年十一月、由井誓編集長死去。八七年十一月『由井誓-遺稿と回想』 (新制作社)発刊

 ■遊上孝一編・小林社人著 『『転向期』のひとびと  治安維持法下の活動家群像』 (新時代社)

一九八九年

 一月号は「特集・いま運動に新しい構想を」で、野中進が「労働運動のこれからー総評中長期方針検討委員会の提言」、島田博明が「テクノロジーと労働運動の課題」、古沢広裕が「新しい社会の構想―共生社会について」、国際問題では「戦略見直しへ進む欧州左翼」の座談会を取り上げている。

 二月号は八八年十二月三、四日の「フォーラム・新しい社会の創造をめざして」の特集を行なっている。

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八二年の階級闘争とわれわれの課題

    労働運動研究19821月 No147

荒川 仁一

椎名  隆

柴山健太郎

長谷川 浩

一柳 茂次

松江  澄

山本 正美

遊上 孝一

司会 佐和慶太郎

 

 司会 きょうは「八二年の階級闘争とわれわれの課題」と題して、新年号のために所内討論会をひらきます。ご承知のように現在の状況は、行革、右寄り労戦統一、コンピュータ合理化問題など、労働運動にとってかならずしも香ばしくない状況にありますが、しかしこの時こそ本当の左翼がヘゲモニーを発揮する時期だと思います。

 それで、問題を三つに分け、第一部は労働運動の当面する問題点、第二部は分立する新旧左翼の問題点、これは共産党、社会党、その他左翼の各セクトをふくめて。第三部はわれわれのめざす社会主義の問題点について。第一部は長谷川浩君、第二部は遊上孝一君、第三部は松江澄君から問題を提起していただき、それにもとづいてみなさんの討論を展開していただきます。

第T部 当面する労働運動の問題点

 問題提起 長谷川 浩

 

労働運動の当面する焦点は右翼的再編の問題だ。いずれにしろ十二月十四日には統一準備会が発足する。

 いろいろ混乱はあったが、『基本構想』が一番重要な問題であったし、これからもそうだと言えよう。

 これは、さしあたっては総評に対して提起されたが、実際は日本の全労働者階級につきつけられた問題である。要するに「ストライキはやらない」 「賃上げは経済整合性の範囲内で」 「合理化・行政改革には協力する」ということで、 『基本構想』の表現からすれば、労働者の生活の向上は資本の高度成長で、はじめて実現された。だから労働者は資本の安定成長のために粉骨砕身しなければならないと言うことにつきる。

 この理念で労働運動を統一しようということは、実際の労働者の要求の統一にもとついて行動を統一し、戦線を統一するという、労働運動それ自体の統一の原則とは基本的に相反する。初めから一つの理念なるものをかかげ、それによる選別ないし分裂を前提にしている。分裂を挑発したものとさえ言える。

 「賃上げを自粛しろ」 「合理化に協力しろ」という『基本構想』が出されたということは、逆に、すべての労働者が共同して闘ってゆく統一目標がはっきりした、ということにもなる。 『基本構想』をめぐって、現時点での階級間の対立の焦点がどこにあるかが明確になった、という感もする。

 とはいえ、現実にこれを克服し、乗りこえるということは、今日の状況では並大抵のことではない。それぞれの産業・企業の条件で多くの困難があり、闘いの条件・戦術は異なるとしても、やはり、それと対決し克服しなければ労働運動の前進はない。したがって混乱はまだ続くだろうし、闘いはむしろこれからだと思う。

 もうひとつ大事なことは、 『基本構想』と関連して、社会党の『道』の再検討なども含めて、全体に右翼的再編成ないし中道路線指向のグループの基本的立論の基礎になっているものが、 「階級概念」の抹殺にあるということ。つまり労働者の頭から階級闘争という概念を取除いていこう、というのが基調になっていることだ。それによって、労働者の基本的な権利という問題を全部剥奪していこう、ということである。

 しかも、労働力の売買という考え方を基礎に、総評の指導部が理解してきた労働基本権、つまり労働力売買のための取引としての団交権、値段が決まらないときの労務提供拒否のスト権、自主的な職場の組合活動を無視し、いっさいを幹部にまかす団結権、そうした権利を前提にする組合運動まで否認しようとしていることである。

 したがって、そこではいままでにもまして、組合民主主義は無視され、一般組合員は完全におきざりにされ、上の方だけでやっていこうということになる。もっとも、このことはなにもJCとか同盟だけに限ったことではなく、 『基本構想』に反対している国鉄や全逓でも同じ傾向にある。

 いま有力な組合の指導が、大方そうなっているにもかかわらず、なおかつ労働戦線の組織的再編成が、なぜ提起されてきたのか。

 現在、独占は大企業の本工にかんするかぎり、ほとんど労務管理体制下におき、労働組合を完全に掌握している。ところが下請企業ないしは社外工、臨時工、パートという部分になると、組織もされていないか、組織されていたとしても全国一般、全国金属、化学同盟や同盟金属などの中小企業組合ということになっている。これを全体的に独占の、大企業の労務管理の下に一括・統合を意図している。中小企業労働者から社外工、臨時工の組織まで全部、あるいは業者までふくめて大企業労働組合が管理していく。そういう体制をつくりあげ、それを産業別に統一していこう、という方針である。

 だから、総評だけでなく、同盟にもいろんな問題がでてきている。

 小松製作所労組が同盟金属から離脱したのは、おのれが中心になって建設機械の産業別組合をつくりJCに参加する、つまり鉄鋼や自動車と同格の立場で右翼再編・新ナショナルセンターに位置を占めよう、と考えてのこととみえるわけだ。

 地域最賃の問題では、矛盾はもっと露骨にでるだろう。地域最賃を決める場合、同盟中小単産の要求と同盟傘下大企業の意見はくいちがう。

大企業労組は地域最賃をおさえようとして中小企業組合に圧力を加える。

 戦線の再編過程で、大企業ないし大企業労組による、こうした労務の統合攻勢は同盟、総評を問わず遂行されるだろう。所属組織がどうなろうと中小下請の労働者は闘わざるをえなくなる。

 それにしても、一一月の総評臨時大会をはさんでの紛議は、やはり階級闘争の基本問題を反映した。 「選別絶対反対」ということで、統一ということについて、理念で統一するか、理念・思想信条の相違をこえて要求の一致と行動の統一を基礎に戦線を統一するか、の問題が争われたからだ。

 その意味では、非常に原則的で大事な問題が争われたと思う。ただし、なぜ混乱したかというと、 「要求と行動によって統一する」という、その要求で行動を統一するということが現実的にはできなかった。だから論議だけになって、結局、混乱せざるをえなかった。

 これが現在の力関係だといえよう。今後の問題は、幹部間の話合いではなく、やっぱり闘争で統一していく以外に道はない、ということになる。したがって、どんな闘争をやるにしても、全体的な統一ということを頭においた闘争方針でなければだめだ。かりに賃金闘争をやるにしても、そこに賃金の要求を、どう全体的な階級的な統一を目指した要求にしていくかが問われることになる。

 平均賃金の額面一率での賃上げ統一要求では本当の要求の統一にはならない。どうしても同一労働同一賃金の原則に立戻って要求を統一することを考えねばならない。合理化についても、やはり原則的にどう闘うのか、ということが明確にされなければならない。いままで合理化については、絶対反対か、条件闘争かという論争が続けられてきたが、ここで技術革新の導入に対して、労働者はどういう対応をするかを明確にしなければならない。

 その一番大事な問題は、事前協議―経営者がどういう機械をどのように導入してくるか、具体的に報告させ、これに対してどういう問題がおこるかを大衆討議で明らかにし、そこで労働者の要求を提起し、それが承認されないかぎり拒否する。場合によって、それが承認されれば導入を認める。いずれにしろ、事前協議権と拒否権ないし承認権を確立することが重要だ。この点が確立されれば、たとえば作業のあり方だとか、公害の問題、職業病の問題だとか、労働密度の問題についても、機械導入後も闘う権利が保証される。

 これは一つの工場内の問題だが、反合理化闘争は、それを基礎にして全体的に統一しようとするなら、大幅な労働時間の短縮と休息と休暇、十分な休養の権利の要求が基本となる。こういう問題で産業別、あるいは全国的な統一闘争をくむ。

 そして、賃金問題についても、反合理化の闘争についても、もっとも重要なことは、労働基本権の問題をもう一度はっきりと階級的な立場から明確にとらえなおすことだと思う。というのは、この問題が非常に曖昧にされているからだ。つまり、幹部取引するのが団体交渉だと思われ、労務提供拒否というのがストライキの基本だと思われている。団結権についても、組合が組合として機能するための職場の活動はすべておさえられている。これは実質的な団結権の否認だ。本来、職場の労働者が生産の場で大衆討議――要求を決定し、経営のトップと交渉し、作業を停止して闘争に入り、また妥結する権利をもっている。それが団交権であり、スト権であり、団結権だ。この基本的権利を職場の労働者がみずからの手にしっかり握るなら、労働者は民主主義の指導権を握ることになる。そして民主主義は発展する。しかし、これを失えば、言論出版の権利はあるように見えても、大衆行動の権利はうばわれ、残るのは議員の投票権だけということになり、議会主義の枠内にとじこめられる。そこに『基本構想』との対決がある。

 いま、レーガン政権の核軍拡競争の挑発によって、新しい政治的緊張が生まれつつある。そのなかで、目本の労働者が労働基本権をうばわれたままでだまっているなら、そして現在の状態が続くなら、政治闘争も議会の中に封じこまれるか、小ブルジョア・ラジカリズムの街頭行動に終るか、どちらかしかない。どうしても労働運動の本質的な再構築が必要であり、労働基本権の再確立を闘いとらなければならない。

討 論

職場からの闘いを

 松江 労戦統一問題を考えるとき、従来の春闘をとらえなおす必要があると思う。春闘は五〇年代の日本独占資本主義の発展にみあうかたちで、産業別というより企業別の統一闘争として進んできた。制度要求というかたちで、社会党を中心に議会に反映させていくというものだった。いまの問題もこの枠組のなかからでていると思う。労働者は、この方針ではどうにもならないと感じ、資本の側も、経済危機のなかで、この方式ではだめだと思っている。ここから右翼的再編成が提起されてきた。

 総評がもとの春闘のラインに戻ろうとしても、どうにもならない。枠組自体をどう破るかの闘いをどう組むかがでてこなければならない。ところで、現実は組織問題としてとらえられている。それも受動的に。ここに一番の問題がある。深まる経済危機のなかで、問題は春闘の枠組を打破るような闘いをどうつくりだしていくかというのに、組織的対応だけではどうにもならない。

 日本の労働組合の特徴は上から下までの企業的一体感だ。「必ずしもイデオロギー的な一枚岩ではない。多くの大衆は理念としてではなく、資本に多少協力しないと、賃金も上がらないだろうということで組織されている。理念の問題でなしに、リアルな問題としてとらえはじめている。

 技術革新に対する闘争は問題提起のとおり、結果として入れるか、入れないか、ということより、どこまで労働者のイニシアチブで階級的な同意点をかちとるかということだと思う。もちろん資本主義社会だから、資本の論理は貫徹するが……。この段階になると、もう労働力の売買という問題ではなく、労働のあり方自体が問われてくる。機能が中央に吸収されて近代化が進んでいるなかで、職場闘争が日本の労働運動のなかでどんな位置を占めるのか、考えなおす必要がある。

 三権まで職場へおろして徹底的に闘った三池は一つの典型であり、組合が職場闘争委員会になっていたという強みがあった。だから資本があわてた。単に労働力の売買だけなら、資本も適当に対応していればよかったが、労働のあり方そのものが問われるような職場闘争だったので、強さもあったわけだ。従来のすんなりした労働組合運動の枠をこえていた。だから要求のもつ経済的性格と行動のもつ政治的性格が矛盾しており、それをどう克服するのか、労働力の売買だけでなく、労働のあり方自体をどう闘いとっていくかが問われていた。労働組合運動の枠のなかだけでなしに、本当の意味で職場の階級的な指導部、つまり党の問題が三池でも問われていたと思う。

深刻な独占の危機感

 山本 労働運動の統一というのは左翼の基本的な課題だ。そのイニシアを独占の側ににぎられてしまった。それは、なぜかというと、共産党が基本的な点で誤りを犯したからだ。独占の全面攻勢に対して彼らは統一労組懇をだしてきたが、あれは労働運動の見地からではなく、党の集票機関を確保しようという、きわめて次元の低いところからでている。

 次の問題は、なぜ独占がいまになって労働運動に全面攻勢をかけてきたか、ということだ。独占には将来に大きな危機感がある。いままでは技術革新に助けられて、減量経営をやっても生産を維持し発展させる可能性があった。しかも、それが首切りなど労働者を直撃するようなことは少なくてすんだ。しかし、これからも同様に資本主義経済を維持していけるかどうか。市揚問題でも内外ともにいままでのように安泰でいられるかどうかわからない。防衛問題など、国際問題もからんできて、はたして軍備拡張の費用も払いきれるかどうかもある。

 生産の拡大を吸収しうるだけの内外市場があるかどうか。いままでは高成長、低成長のいずれでも、日本の独占は特殊な条件で、労働強化などで乗りきってきたが、これからもそれが可能か。変化はすでにおきている。欧米の資本との摩擦は強まっている。アメリカは目本の独占もひそかに望んでいる軍備の拡大、戦争状態への対応を迫っている。ここに西欧とアメリカとの差違が見られると思う。

 こういう条件下で、労働運動の方向をどこへ向けていくか。私の考えでは、技術革新は日本だけでなく、世界の独占を一時生きのびさせるだろう。しかし、日本でも技術革新はむしろしがらみになってくる。これが帝国主義者間、独占資本主義の間の競争を強めていく。当然に労働者階級と資本の対立を鋭いものにしていく要素の一つにもなる。それを先取りして、目本の独占はいまのうちからおさえにかかってきた。行革もそのひとつだ。そういう状況のなかで、われわれはつねに攻勢でいけるわけではない。守勢にたたざるをえない場合もあるが、そのつど対応する戦略や戦術をどうつくっていくか。その一環として、労働基本権を守るとか、民主主義の問題がある。独占、あるいは帝国主義に対する現在の対応策として問題をとらえる必要がある。

 つぎは、長谷川報告にもあるように、なんとなく現在はかなりペシミスティックな状態にあるが、それはそれとして受けとめたうえで、はたして労働運動の統一の問題についても、イニシアチブがとれないものか、を十分考えなければならない。全国センターだけでなく、組合の下部、生産の現揚でもそれを考えなければならない。その意味あいで労働密度の問題もでてくる。賃金も重要な問題のひとつだ。

運動の総括の必要性

 柴山 統一準備会の発足をめぐって、総評内部では四分五裂の状態だ。われわれの側にも、大まかに言って三つの方向がある。公労協・公務員共闘の活動家の間では、準備会参加反対というかたちで統一したという意見が強い。一方、全金などでは、基本構想はアカンが、ここまできたら内部に積極的に入りこんでやるほかないし、やれる、という意見。もうひとつは、選別反対ということで、とにかく、思想信条を問わず、あらゆる労働組合の統一、選別反対ということでやろう、もし向うが拒否するなら、参加はやめようじゃないか、というもの。

 しかし、これらは戦術的対応だけであって、かりに総評全体が参加反対ということでまとまったとしても、現実の賃金闘争をどう構築していくのか、反合闘争をどうしていくのか、という問題についてはなんの解決にもならない。

 総評の戦闘的再生ということもでてくるが、具体的にどうするかということになると、ただ参加反対、選別反対で議論はあまり進まない。

 なぜ、ここまで運動がおちこんでしまったのか、という点について、総括というか、認識の一致がないと、どう変えていくかという方向はでないのじゃないか。その意味では、資本の側は相当系統的に、労働運動を階級的に解体させるための手を打ってきている。歴史的にみれば、現在のような状態に追いこまれたのは、管制高地といわれる金属産業の労働運動が完全に独占の支配下に置かれていることだろう。こうなるには独占は二〇年ぐらいにわたる工作をしてきた。まず五〇年代初めの自動車総連。後半には鉄鋼労連がストライキの失敗から一発回答の支配下におかれた。そのつぎは七〇年代初めの造船部門の全造船が完全な資本攻勢をうけて解体寸前にもっていかれた。最後は電気労連で日立、東芝など重電部門から追いこまれた。金属産業全体が七〇年代中ごろまでに一発回答支配下に属した。これを基盤にして、公労協・公務員共闘に対して総攻撃がかけられた。ここではすんなりというわけではなく、国労、動労、全逓の反マル生闘争でかなりの反撃はできたものの、電通がやられた。

 基本構想賛成、反対を問わず、合理化攻勢のなかで労資協調勢力が組合の指導権をにぎってきた。こんどの同盟、JCの右のイニシアによる労戦統一が総評の内部にもかなりの力を占めてきたのも、このことと無関係ではない。これらの単産がやっぱり積極的推進派になっている。

 この労資の力関係をひっくり返すのには、現在の準備会参加賛否の次元では解決されないだろう。おさえこまれてきた内容について、金属労働運動における運動の再建、公労協・公務員共闘のなかでの再建をどう進めるかだ。八一春闘をみても、民間準拠ということで公労協・公務員土ハ闘は闘っていない。

 この点からしても、ここまで追いこまれた目本の労働運動をどう再建していくか、賃金闘争や反合闘争をどう組みなおすか、いままでの総括をふくめて、討議し、方針をだしていかなければだめだと思う。

労働者のシラケ現象

 長谷川 その点で、そんなに意見の相違はないと思うが……。現実の問題としてはなかなか大変なことだ。しかし、はっきり言えば、いままでのやり方はまずかったからだめだということではなく、それで大衆をシラケさせているということが非常な重荷になっている。いままでのやり方がだめでも、大衆が怒っているのなら、それはやりようがある。第二部のテーマとも関連してくると思うが、労働者のなかには、社共、その他左翼をふくめて、党派に対する大変な不信がある。それが労働組合不信になっている。

ここから克服していかなければならない。そのためにはスジを通し、原則は原則としてつらぬいて、これをどう組織していくのかということが、一番むずかしいことではあるが、基本じゃないか。それがあれば、右がどう動こうが、左がどうあろうが、けんかはできると思う。

 そういう意味では思想問題だ。具体的な問題のなかで、階級とはなにか、階級性とはどうあるべきことか、若い労働者たちをもういちど教育し、彼らの自覚をひっぱりださなければならない。

 一柳 日本の資本主義はアメリカやヨーロッパの先進資本主義とくらべて、どういう特徴があるか、正確につかむことが必要だ。鉄鋼や自動車など金属産業の下請関係は日本の特殊性としておさえる必要がある。そのなかに労働力の編成も分散もあるわけだし、そこの対応関係もあると思う。マルクス経済学は、いま経済学者のなかであまり支持されていない。むしろブルジョア経済学でいう、生産の三要素―資本と労働と土地、この資本と労働がいまの高度成長をつくってきたのだという、右派のイデオロギーが裏付けになっている。

 戦前にくらべ、日本資本主義の科学的分析の面で、戦後のぼくらはずいぶんおそまつだったと思う。戦前の「講座派」の教条がいいとは考えないが、年少のぼくらが運動に入って学んだ日本資本主義の特殊性は、その大筋において実践のなかで検証されてもいたように思う。

 長谷川 その労働と資本―そこでの矛盾を見ないで、その調和によって生産が成長するんだという思想で統合しようというのが基本構想だ。だから向うにしても、いまの若い人たちのシラケをつかみきれないでいるのだと思う。彼らも、そこをつかまざるをえないところにきていると思う。これからの危機を切りぬけていくためには、そこがひとつのせりあいの場になっているのではないか。

階級意識の明確化

 松江 たしかに、日本資本主義の分析というのは大きくおさえていく、階級的な分析が必要だと思う。それともうひとつ、かりものでない、労働運動の総括というか、そこをぴしっとやっておきたい。

 シラケているといったが、職場のなかで、この問題が一番ピンとくるのは、全逓なら、あの二組といっしょになるのかということ、県労や地区労でいうと、同盟といっしょに闘えるかという感性的で即物的なかたちだ。これはある意味では非常にセクト的になりかねないが、ある場合には戦闘性にもつながっていく。そう受けとめている。

 総括の問題としては、もういちど階級的にとらえなおしていこうという動きは職場の活動家のなかにもはじまっている。

 この二つの問題は、労戦統一の問題とは縁遠いようだけど、実はここに原点があると思う。そういう意味で、目本資本主義の階級的な分析と運動の総括の必要性が、いまの危機のなかから提起されてきている。正面から取組んでいくことが必要だ。

 長谷川 セクト性を克服していくという問題もある。つまり日本の労働運動は、戦前から右も左も党派がひっぱりまわしてつくった運動だということが、歴史的なものだ。これがひびいている。

 山本 ぼくはシラケの問題は、シラケているんだでいいと思う。現実に問題はそこから出発する以外にない。その原因とそれがどういうかたちで現れてきたかは、こまかくひろえばいろいろあると思う。以前は労働運動のおかげで賃上げが確保でき、労働条件もある程度の改善はみられたけど、最近は不愉快でも資本の言うことを聞いていたほうが、労組の幹部の言うことより確実に、ある程度の利益が得られるというかたちになってきている。

 もうひとつは、労働運動そのものが官僚化して、労務部的な役割を果たすようになってきている。しかも、それはいままでの話だ。これからも資本がある程度の要求をみたすことができるかといえば、非常に困難になってきている。だからシラケのムードこそ、われわれは労働運動、党の建設についてとりあげなければいけない現実だ。

 遊上 戦前とくらべた場合、どんな労働組合であろうと、労働者の利益を守っているのだと思う。労働組合のあるところと未組織のところをくらべたらよくわかる。だから、いまの労働組合はだめだから、なにもかもはじめから、という問題提起には、一定の限定と前提をおくべきだろう。

 もうひとつの問題は、官庁統計でもいっているように、高度成長のなかで中流意識になった人たちにかげりがでてきている。そこから、スト寸前までいくような多様な動きがずいぶんでてきている。この現実もふまえないといけないだう。

 そういう意味で言ったのではないと思うが、なにもかもスタートからというように短絡しないほうがいいのではないか。極端になると、JCや同盟なんて資本のためにやっていると言うが、実際に同盟でも賃金闘争もやっている。シラケているというのも、いまの指導部の動きに対してシラケているので、自分の生活にシラケているわけではない。

第U部 分立する新旧左翼の問題点

問題提起 遊上孝一

 

 

 労働組合運動の現状について報告があり討論があったが、その労働組合運動がどういう労働者状態の反映なのか、ということは捨象されたままで言われている。

 日本の就業人口の六〇%か七〇%が労働者であり一番大きな比重を占めている。その労働者状態を抜きにして、組合上部の動きだけを見るわけにはいかないと思う。これが一つの問題。

 それから、次に労働者に依拠している政党の動きの問題。十二月号の『世界』に、 「公明・民社の政治算術」という座談会が出ている。これは公明・民社のいまの動き、いわゆる中道問題に焦点を合わせての動きが実によく述べられている。しかし、選挙対応としての動きは精密だが、投票する選挙民の状態とは切り離されたかたちで民社・公明の最近の動きが跡づけられている。

 政党の動向というのは、日本の人口構成からいって、労働者を中心とした人民諸階層の現実の反映であるという側面がある。同時に政党はそれらに働きかける反作用をおよぼす相互関係がある。そういう関係のなかで中道再編成、労働組合における統一問題が、政治のなかで起こっている。中道結集の動向をめぐってそれぞれの対応があるであろう。社会党・共産党・新左翼の動きを中道再編問題の観点から問題点を出してみたい。

 中道問題が現実にすすんでおり、ジグザグのかたちで動いているのに対して、社共はどのような対応をしているか。

 共産党はマルクス主義の政党である。マルクス主義からいうと、選挙は重要であり、選挙の比重は大きいが、他の中道の選挙対策とは別に、大衆の運動を組織し、それを社会主義の方向へいかに発展させていくかという、選挙党だけの対応とは違った反作用の積極面を持っているはずだし、持つべきだろうと思う。

 ところが、共産党の対応は、レツテッテルをはりたくないが、イデオロギー主義的に対応している。つまり、公明党と共産党との対立をみた場合、公明党も選挙民の意志を代表せざるをえない、その公明党の影響下にある人たちと共同でどのような運動を展開するのかという問題提起なしに公明党をやっつける。これが俗にセクト主義とかいわれるものだ。

 つまり統一の観点をまったく欠落したかたちでの対応になっている。これが共産党の問題点の一つだと思う。選挙党として共産党が選挙を重視する結果、選挙民の意志が反映されるという側面と同時に、共産党が現実を変革するという方策は非常に弱い。これも共産党の対応の一つではないか。ある意味で議会主義と評価されるのはそういうところにある。そこから、たとえば労働組合における特定政党支持という問題について、共産党の批判には正しい側面と同時に、つきつめていえば「じゃあ社共支持ならいいのか」あるいは「共産党支持ならいいのか」という問題が出るようなかたちで、大衆組織を選挙対策といった観点からしかみていない。

 第二の問題は、選挙を重視するところから現実に対応した側面としてソフトムードを特徴として、自主独立とソフトムードの政策を打ち出しているが、その党体質はまったく頑固なスターリン的な運営で貫かれている。これも日本共産党の特徴である。

 彼らは複数主義をいいながら、 一面では反党分子論を持っている。反党分子論について、彼らが自信を持っている背景には、 「反党分子」が能力がない、力がないという反映でもあると思う。たとえば神奈川県の長洲知事選挙の場合、共産党は「反党分子」長洲を支持しなければならなかった。この場合には、選挙民の志向を無視できなかった。しかし、それは戦術的な対応であって、独善的な党運営、独善的な思想と行動は変わっていない。中道問題についていうなら、右からの歯止めに持っていくのでなく、反対に左からの歯止めの役割をするような打撃的政策をとっているように思われる。

 共産党にとっていま一つの問題は、現在の資本主義の行き方では解決できない、社会主義的展望と結びつける以外にないという客観事態にかかわらず、社会主義への展望が明確でない。そこでは社会主義と民主主義が切断されたかたちの対応しかできていない。現在の資本主義の危機を社会主義の方向へ対応、展望というかたちで打開すべきところがなされていない。

 社会党の内紛問題は、中道を指向する勢力と中道を否定する勢力が党内に存在して、それが対立しているのだと大雑把に言えると思う。

 社会党内は、マルクス主義者、キリスト教社会主義者、社会民主主義者などさまざまである。左右を区別するのはむずかしいが、党内の一部が中道再編成を指向し、マルクス・レーニン主義を主張する社会主義協会派がこれに反対している。その論争をみると、 「日本における社会主義への道」の改正をめぐって、協会派と反協会派が対立している。その協会派の批判は、 「マルクス主義の危機」とか「社会主義の危機」とかいう現象が現実にあり、それが人民に大きなインパクトを与えているにもかかわらず、そういう「危機」なる現象が存在しないかのように対応している。ここでもイデオロギー主義的にしか対応していない。これは共産党と同様の固定した観念でしか現実に対応できない、イデオロギー主義的なかたちでやられている。

 キリスト教社会主義者も社会民主主義者もマルクス主義者もいる統一戦線党が目本社会党であるとすれば、党内の論議はイデオロギー主義を排して政治方針はどちらが有効な対応なのか、というかたちで分析されなければならないのに、先行しているのはイデオロギー主義である。

たとえば、協会の「道」をめぐる論争では、プロレタリア独裁を主張している。

 「独裁」を認めるか認めないかで、あたかもそれが党内論争の焦点の一つになっているようだ。社会主義政権は自己の体制を維持するために、階級支配をやる、その場合に、法にもとついてやるのかどうか。法のなかに思想を拘束するような、昔の治安維持法のような法を制定して、相手をやっつけるのか、どうか。司法機関は党への従属でなく自立的に運営さるべきなのかどうかが論争されなければ、不毛な論争となり、統一どころか、かえってギクシャクする。むしろ、そうなっているのが、いまの社会党混乱の基本をなしているように思う。

 次の問題は、国際共産主義運動に「多極化」現象が生まれているのは客観的事実である。そこから意見の対立が生まれているのも客観的事実である。それが色濃く反映している、俗にいう中国派、ソ連派、何派という形で。これがイデオロギー主義的に対応してなかなか統一への道をみいだしえていない。これはわれわれをふくめて全部の左翼について言えると思う。

 共産党内部でも多様な意見はあるだろうが、あの党運営の体質から、それが一致しているかの現象が見えるにすぎないように思う。

 この問題はすぐに解決できる問題ではないが、具体的事実の具体的分析を通じて相互に違いを確認しあいながら、合意と寛容の精神で論争することが求められていると思う。たとえば協会派の文書を読むと、現実に存在する七〇年近い社会主義の建設の経験とそこからの教訓は、まったく汲み入れられていない。これは事実だ。そういうなかからは、 「社会主義、マルクス主義の危機」の現象には対応できないと思う。

 目本共産党の場合にも、社会主義は永遠の彼方に持っていって、民主主義と社会主義のあいだはまったく断絶している。この場合、共産党のいう社会主義はまったく抽象化された社会主義で、七〇年に近い社会主義の経験を生かす、それを現実の日本の革命のプロセスのなかにどのように生かしていくのかという姿勢がない。

 それで、社会主義への展望の一つの例としていうと、大きな問題は社会主義建設の批判的総括であり、もう一つの大きな問題はスターリン主義の問題だと思う。ところが、協会派の社会主義論を見ると、そうは言っていないが、スターリンの悲劇は認めているにもかかわらず、おそらくもう五六年で解決しているんだ、と見ているかに見える対応がある。

共産党はスターリン主義をまったくと言っていいほど克服のための組織的努力がなされていない。

 こういう点から、日本のマルクス主義政党、マルクス主義者に致命的な傾向として、統一政策の欠如がある。それは、共産党の場合、中道諸派を支持している大衆とも統一する志向なしに、縦割で選挙地盤化していく傾向が克服されていない。これでは、労働者階級の統一も実現しえないのではないか。言いかえれば、イデオロギー主義的対応では共通点をみつけようというよりも、対立点だけが強調されて、かえって統一の妨げになるような動きになっている。

 その他の左翼、俗に新左翼といわれている諸党派は、これはスターリン批判というかたちで出発しながら、その批判は典型的なスターリン主義的なかたちでしか問題を出していない。それが内ゲバ、彼らの戦闘的対応として端的にあらわれている。

 次の第三部への私の希望は、われわれのなかにもこういう複雑な国際共産主義運動、労働運動の情勢は反映されてくる。その場合に、一枚岩的な一致は虚構でしかないだろう。

一致点だけを強調してできたものは、あまり味のない優等生の作文ができることになる。一致点も大事と同時に、違いも存在しているのだということをお互いに認めあって、違いを克服するための具体的な検討が要請される。

 次に、社会主義という場合に、七〇年近くになる社会主義の経験を、日本の社会主義の道にどのように生かすのかという問題がある。

討 論

前衛党の存在の意義

 山本 遊上氏のいうイデオロギー的というのは観念的、イデオロギーそのものではなく観念論的な対応の仕方ということだろう。具体的な歴史の歩み、情勢、過去の経験、当面している主要な課題は二の次にして、観念論的な立場から代々木の共産党も社会党内の社会主義協会派も対応しているんだ、と。したがって、そういうやり方は、大衆にアピールすることがないんだと、言いたかったんだと思う。

 しかし、イデオロギーそのものは、そんな観念論的なものではない。きわめて具体的で、しかも集約したかたちで、歴史的な運動の諸経験、革命の諸事実のなかから集約されたかたちでみちびき出されたものがイデオロギーであって、イデオロギーなしの政党なんか、自民党までふくめて存在しない。遊上氏の提起は観念論的なやり方だと受け止めて話をすすめたい。

 まず第一に、政党に対する評価をする場合に、政党は敵味方を問わずそれは前衛である。独占資本を代表している自民党は独占資本の前衛であるし、共産主義者の党は立派な前衛であるかどうかは別として労働者階級の前衛である。

 それから政党であるかぎり綱領を持たなければならない。しっかりした綱領を持っているかどうかということ。その次は政策が正しいかどうかということ。その次は組織の問題だが、これは省く。

 八二年の当面する課題をとらえて左翼の問題を論ずる場合は、少なくとも政策、いま労働者階級あるいは国民大衆が当面している政策についてそれぞれの党がどう対応しているかをミニマムとしてとらえなければならないと思う。したがって遊上さんの説のなかには、観念論としてとらえた場合、十分聞きうるものがあるが、八二年を迎えてとしてとらえた場合、具体性がない。

 政策のなかで基本的な点は何かといえば、国内的には労働運動の問題でもはっきりしたように、独占のプログラムが行革に典型的に現れているし、労働運動の政策に現れているし、農業問題でも独占の利益のために農民を犠牲にしている。

 国際的には平和の問題である。レーガンの採っている政策にたいして、目本の左翼はどう対応しているか。

 そこでたとえば共産党は、平和の問題については小ブルジョア的な民族主義の立場に立っており、行革、労戦統一、農業問題についても議会主義である。

思想的対応の弱さ

 柴山 遊上さんの出した問題のうち、現在、政治的再編成が進行している。その基礎には労働戦線の右寄り再編成があり、さらにそれを制約するものとして労資の力関係がある。高度成長期を通じて自民党の支持率は低下してきたが、それが七四、五年恐慌以後、とくに衆参同時選挙以後支持率が上向いてきている。この原因はどこにあるのか。もう一つは、社会党、民社党などの中道勢力が資本主義の危機が深まるなかで自民党の補完勢力というかたちを強くしている。それから、左翼といわれる社共がこの危機的状況のなかでますます対立を深めている。

これらの原因はどこにあるか、などについて、具体的に分析する必要がある。

 七三年の石油ショック、七四、五年恐慌を経てヘゲモニー集団としての自民党は依然として力を失っていない。それは石油ショック、七四、五年恐慌を日本の独占資本は比較的うまく切り抜けたからである。これには労働運動の抵抗が非常に弱かったことが基本にある。そのなかで逆に中間層が労働階級とともに独占に抵抗して自分の地位を守るというよりも、独占に協力しておこぼれを貰うかたちになっているのが中道勢力の動きであると思う。

 そういうなかで左翼が社会主義の展望を打ち出して、独占の提起している政治選択に対して別の政治選択を具体的なかたちで打ち出しえないことが、日本の左翼政党の衰退、青年が既成左翼からますます離れていく原因だと思う。そういう問題を抜きにして、現在の社共の問題は論じられないと思う。

 国際共産主義運動の多極化の問題も、はっきり言ってソ連共産党二〇回大会のテーゼのいくつかの論点で中ソが対立したことから、いまやアフガン問題、カンボジア問題、ポーランド問題などに対立がひろがり、中国のベトナム侵略という深刻な事態まで惹起している。しかも、これらの対立点、問題も、理論的に深く解明されているとはいえない。きわめて曖昧である。

 われわれも、このような点を解明する努力をしないと、独占のイデオロギーに対抗して大衆を社会主義の理想に獲得することはできないと思う。

 荒川 スターリン主義の問題は、社共の責任だけでは論じられない。ここにいる方は戦前戦後を通じて共産主義運動に参加してきているが、一つの政党をつくりながら労働者党はなぜみのりが少なかったのか。そういうことを踏まえて、党と外との関係を討論していかないと、社共が悪いという感じで、ぼくらは全然違う立場にいるような感じを受ける。具体的には身近な党生活にしても、大衆運動とのかかわりあいにおいて、もう一度再検討する必要があるのではないか。そういう意味で、ぼくは十二月号の「本の紹介」で問題意識を出しておいた。

 松江 違った角度から一言だけいえば、社共の問題という場合に、一般的に労働運動との関係だけでなく、たとえば共産党にも多かれ少なかれあるが、社会党は組合党といった状態がある。戦後から戦闘的に闘って社会党を支えてきたのは、職場のなかの戦闘的な民同のリーダーではなかったかと思う。それは職制すれすれの地位にいて職揚の状態をよくつかみ、みんなのいろいろな問題を知っている。それでいて職制ではなく、労組の活動家集団としてたくさん形成されていた。それが技術革新のなかで下級職制とそれに近接していたものが洗い流された。そこでかつては社会党の戦闘的な民同といわれた人びとが、上昇化したり分散していくなかで全体的に戦闘性の薄れというものが出てきているのではないか。これは共産党の場合にもある程度言える。

 そういう意味でわれわれにも、基本的には労働運動との結合のなかで現実に大衆とともに闘っている問題を基礎にした、いわば党の追求という問題は、社共の場合をみても、われわれにとっても一番重要な問題じゃないのか。その辺のところがこっちにないと、社共まずいということだけになってしまう。社共が右翼化してくる基礎をわれわれがもう一回取り直して、そこからつくってゆくことが必要じゃないか。

社会党の運動の弱点

 長谷川 社会党の問題が出てきているが、中道政党も既成左翼も新左翼も、日本の階級闘争の側面である。政党が指導して階級闘争をやっているというより、実際の階級対立の発展が政党をいろいろ動かしているし、その意味で逆に大衆に作用しうる力を持つ。その点でわれわれのことが出たけれども、正直な話、代々木を出てからわれわれは実質的には階級闘争から排除されている。その点では新左翼は階級闘争の本流には乗っていないけれども、ある側面で一定の潮流をつくった。が、本流ではないから限界にきているし、いまや転換せざるをえないところに追いつめられている。そういう苦しさが逆に彼らのなかに内ゲバを発生させる条件も生んでいる。

 社会党について一番重要なことは、労働戦線の問題と関連して、本来のあそこの運動、憲法擁護と平和三原則の運動というものが、いまや独占には許容しきれない問題になりつつある。これが社会党の当面している一つの問題である。

 ところが平和三原則的な運動すらおさえてしまおうという独占の意図に対して、平和三原則に依拠する運動は、大衆を組織的に強力につかんだかというと、総評の民同左派の労働組合指導の範囲内でしかつかんでいない。自主的な大衆の運動として平和三原則を社会党は組織しえなかった。この弱さがこれを守ることにおいて抵抗力が弱いんじゃないか。主として平和三原則の推進力は鈴木茂三郎の系統を引く協会派である。その平和三原則の運動をつぶそうとする主要な社会党の党内闘争は協会派の排除であった。そういう意味での協会派の弱さは露呈している。現在の階級闘争の条件のなかで、軍拡、あるいはレーガン政策に一番よく現れているものは、帝国主義の指導権を守ってソ連と世界的な革命の機運に対して対抗しようという核軍拡競争を煽っていることだ。そういう不安がたかまっているなかで、山本君が言ったように、一人ひとりの住民にとって平和は大切なことだし、みんな平和を願っているが、軍拡が平和を守ることだという思想も、十分はいりうるし、またはいっている。

まさに、その辺のところに、それを克服できない平和三原則的な運動の弱さがある。それは総評左派的、つまり春闘方式的労働運動の弱さと合せて窮地に追いつめられている。だから、平和運動あるいは安保闘争を組織するにしても、もう一度その辺を掘りおこしてやらないと、本当の意味の新しい平和運動、反安保運動、いまの帝国主義政策との対決は組織できないと思う。われわれが志向しているのは、その組織をつくり出すための指導勢力としての党であるのだから。

 われわれはある意味ではゼロから出発したようなものだ。この二〇年は遅々たる歩みだったが、これから階級闘争の本流にどうやってはいりこむかが、われわれにとって主要な課題だろう。

問題は分立の根元

 司会 遊上さんが提起した問題とみなさんのあいだには、かなりかみ合わない面があるようだ。その点で遊上さんには異論があると思う。遊上さんはみんなの論点以前の問題を提起しているように思う。そこを論じないで、戦術的とか政策的とかいう問題で議論が出ているが、それ以前の問題について遊上さんは提起していたように思う。

 遊上 かみ合っていない。おれの提起の仕方が下手でかみ合わないということもあると思うが、気持ちとしては中心問題のつもりで出している。労働組合の政策という場合は、別の問題としてやってもらいたい。政党が、たとえば綱領がどうだとかいうことも、それはそのとおりで異議はない。綱領においては一致点が多いんだ、実際は。核戦争に反対して平和を守るといったら、相当な一致点だと思うんや。それが行動において分岐し、対立しているその問題を討議してくれ、そういうことだ。もう一つの問題は、社会党も共産党も現実に社会的存在として大きな意義を持っている。おれたちと比べたら問題にならない。そういうなかでどう対応するかが問題意識だよ。

 椎名 地域でやっているが、とりわけいろいろな思想傾向の人がいる現実の運動のなかで、どうイニシアチブがとれるかで悪戦苦闘してきた。いくつかの屈折点があり局面があったが、最初は解同の問題、それから公務員聖職論、こうした点で当時の組合内部で共産党とその他の人たちとの相違がかなり明確になった時点で、社会党の協会系以外の人たちと無党派の人たちが、共産党がゴリ押ししてきた諸問題にどう対応するかで、一定のグループづくりをし、その時点では成功した。これは社会党の内部に協会問題が出てきて後に解体した。ぼくらの見通しが甘くて、それなりの影響力を持ちうるのではないか思ったが、そのことをきっかけに社会党が内外に対して非常にセクト的になり、それが原因で無党派の人たちも離れ、つぶれた経験がある。

 それ以後も、統一の母体になる組織をつくろうと努力したが、やってはつぶれ、やってはつぶれのくりかえしであった。主要な原因は、労働運動の現場で階級闘争の反映というか、社会党系の運動なるものが、運動が崩壊してくる過程で運動をどうすすめていくかという段階で、セクト的な対応をし後退していく。現実の運動の問題で統一した議論ができなかったことが、いま考えてみると大きな原因であった。

闘争の本流の形成を

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 松江 遊上さんが出した問題提起に対し、戦術的なものが多かったと思うが、これは大づかみにいえば、やはり政党というものは右からも左からも真中からも階級闘争の反映だと思う。階級闘争とは左からだけでなく、右もある。ある意味では独占資本と労働者階級と小ブルジョア階級、そこに基礎をおいてとらえていかないと、階級闘争が弱ければ小ブルジョア階級が独占に組織されるのは当り前の話だ。結局、いまの問題は、階級闘争の弱さがどう左翼の弱さに反映しているかだ。さっきも一柳さんも言われたように日本の独占資本主義はなまやさしいものではない。それが仕掛けている攻撃の性格を正確に見定めて、それとどう闘うかがはっきりしていないということだと思う。端的にいえば、第一部で問題にされた技術革新についても、それをどう闘うかの点がはっきりしてこないということに現れているように、階級闘争の弱さが小ブルジョアを向うへ引きつけるし、それは独占との闘争の弱さの反映だと思う。

 長谷川さんは本流のなかにはいっていかなきゃと言われたが、階級闘争の本流は弱かろうと何だろうとある。それが鋭い階級的な反映としての政党レベルで本流として形成されて来ていないところに問題がある。現実に自然発生的に起きている階級闘争の本流のなかに、本当に集約を結集できる政党レベルの本流をどうつくってゆくか。これはいまある本流のなかにわれわれがはいってゆくというよりも、小さくても闘う労働者と本流をいっしょにつくってゆくということを課題にしなければならないだろう。

 

第V部 われわれのめざす 社会主義の問題点

問題提起 松江 澄

 

 現在の社会主義革命の途上で、ポーランド問題、中国の問題が出ている。その場合に個別の社会主義の問題としてもとらえていかなければならないが、またあわせてわれわれの革命的前途もふくめて、包括的にとらえてゆく方法論が必要ではないかと思う。

 現在生まれている社会主義の諸問題というのは、革命の世界史的過渡期から生まれた、そしてそれと不可分に結びついている社会主義革命の一国的過渡期の問題としてとらえてゆく必要があるし、そういう意味でわれわれとも深い関係があるのではないか。

 言うまでもなく、帝国主義段階になれば、マルクスの想定とは違って帝国主義が各国間の諸矛盾をひき裂いてゆく。そこからレーニンは一国からでも革命は可能だと提起して、実践的にもロシア革命で証明していった。革命は経済革命でなく政治革命だから、政治的諸矛盾は集積しているが、組織と文化の網の目で反乱をたくみに上から押えつけている発達した資本主義国よりも、矛盾が荒々しく露呈してくる資本主義がかならずしも十分成熟してない中進または後進的な国から革命が起こることはありうることだと思う。現にまた歴史はそれを証明している。その場合には、比喩的にいえば資本主義が仕残した前近代的な残滓の一掃という課題が、社会主義革命、社会主義建設の途上で、その遂行とあわせて解決してゆかなければならないという、非常に困難な二重の任務を負っているというのが現状ではないかと思う。それはまた、中進もしくは後進と言ったけれども、同時に東ヨーロッパの多くの場合のように、第二次大戦のなかで赤軍の強大な援助によって革命的な発展が生まれたという条件もふくめて、そのことをとらえていかなければならないのではないかと思う。

 それでは、これはわれわれと無関係なのかというとそうではない。これも比喩的な言い方になるが、発達した資本主義国において、客観的には十分成熟しきった革命をはらむ胎内で革命を生みだすために闘う問題と、十分成熟していない資本主義国もしくは農業国のなかから生まれた革命のなかで、前近代的な残滓の一掃を社会主義建設のなかで闘っていく問題とは、大きな世界史的発展の上から言えば別のものではないと思う。

 そういう意味で私は、現在の世界の社会主義革命のなかで非常に重要な意味を持ってきていると最近痛感しているのは、 「民主主義の徹底」という課題である。

 よくわれわれは「民主主義から社会主義へ」というけれども、レーニンがくり返して言っているように、社会主義とは本当の意味での民主主義の徹底以外の何者でもない。その問題を抜きに社会主義を考えることはできないし、社会主義から共産主義へと移る過渡のなかで、全世界が避けて通ることのできない民主主義の徹底という課題が、改めて現代の社会主義革命の途上に明確に現れてきているのではないかと思う。

 そういう意味で日本の社会主義革命を考えた場合に、本来の意味の「民主主義の徹底」ということは、少数の民主主義から多数の民主主義へということで、つまり労働者人民が本当の意味の主人公になるという問題にほかならないのではないか。日本の場合には、資本主義は成熟し、腐朽し、社会主義の物質的な基礎は完全にでき上っている。とくに目本のように官僚機構が強い国家独占資本主義の場合、生産の社会化は非常にすすんでいるし、そういう意味で社会主義へ移行する物質的基礎は完全に成熟し切っている。

 そういう状態のもとで、権力を奪取して以後の場合に何が大事かといえば、生産力の問題よりも社会主義的な生産関係をどう組織するのか、そのための上部構造、政治構造をどうつくるのかという問題が、目本の社会主義革命の場合には決定的に重要になるのではないか。

 それは結局、生産の現場から政治まで貫ぬいて労働者階級が主人公になるという問題だし、それはおそらく職場と地域を基礎にしたリコールをふくむ真に民主主義的な代議機関をどうつくるのかという問題にもなってくるのではなかろうか。

 日本の権力の奪取、社会主義革命を考えた場合に、おそらく議会は無視できない存在だろうと思う。だから、われわれは綱領的な提起では議会からはじまるかどうかわからないと書いているが、ありうべき一つの例として言えば、議会における政党連合によって改良主義的な政府、あるいは半改良主義的な政府ができ、そのことが矛盾をいっそう深刻にする、そういうなかでの大衆闘争の発展がその政府を左に追いやるか、さもなければ直接労働者階級を中心とした何らかの形での権力の打倒に向かって前進を開始してゆくかという

ことになるのではないかと思う。

 その場合、われわれは革命の基本戦術として反独占統一戦線ということをくり返し文書でも書いているが、反独占統一戦線というのは、のっぺりした平板な組織論としてとらえるのは間違いであると思う。これは権力に対するある種の闘争連合のようなもので、これが現実に反独占統一戦線という形で明確に出てくるのは、まさに権力を奪取するかしないかという状態のなかで最終的に形成されてくるだろうし、そういう場合にわれわれは、遊上さんが言ったように、その陣列と対象をあらかじめ選別すべきではない。本当に日本の社会主義をめざして闘う諸勢力が、全部連合して一つの統一戦線が形成されなければならないだろう。

 しかし、その場合に大事なことは、大衆的な闘争だろうと思う。先に柴山君も言つた社会主義の展望を画きだす全政策論を提起することも、重要だと思うが、大衆的な闘争が次第に共闘を組みながら発展してゆくという場合に、その要求の高さ、あるいはその政策の鋭さというよりも、要求と体制の激突する軋みの鋭さが、実は社会主義を近づけるのだと思う。政策論的な意味での社会主義の展望と同時に、本当の前衛党というのは、そういう激突の場合に一歩先の行動のスローガン、〃何をなすべきか"ということを的確に冷静に提起することができるような、そういうものでなければならないのではないか。

 そういう点から何よりも大事なことは、労働運動の階級的発展と、大衆運動の政治的発展をどう追求するのか。それがたとえ改良的な、あるいは経済主義的な要求であろうとも、現在の危機のなかでは非常に鋭い軋みを持つ客観的な可能性はますます増えてきているのだから、そういうなかでの大衆闘争の徹底的な追求ということ、もう一つは何と言っても労働者階級がヘゲモニーを握るということだ。日本の場合には、鉄砲を撃ちあって革命ができるわけではなくー部分的にはそういうこともありうると思うがー主要な闘争形態は全生産を制圧すること、それを基礎にした政治ゼネストだと思うので、そのためにどうしても必要なことは生産現場における労働者のヘゲモニーを、もちろん資本主義のなかでは完全には闘い取ることはできないけれども、労働者のヘゲモニーを闘いを通じてどれだけその獲得に迫るかというその闘争だと思う。これは先の技術革新の闘争とも結びついてくるが、そのヘゲモニーをめざす闘いが、当然にも資本主義のなかで制圧されたとしても、その闘争の発展が最終的には生産を統制し、工場を占拠し、政治ゼネストを組織する中核になるということではなかろうか。

 そういう点で、きょう現在の闘いのなかでも、生産の現場における労働者の指導権をめざす闘い、いわば生産の管理=労働の管理をどう闘い取っていくかが、一つの中心的課題ではないか。

 そういう闘いの過程からこそ、権力を奪取した以後における日本の社会主義革命、社会主義建設の労働者のヘゲモニーというものが、本当の意味の主人公というものが、生まれてくるのではなかろうか。

 もう一つはイデオロギー闘争の問題だが、とくに日本の現状では絶えず反革命、反社会主義の宣伝がなされている状態のなかで、徹底的な敵の思想攻撃に対するイデオロギー闘争をどう闘うのかという問題が重要だ。大衆闘争の階級的政治的追求、それから生産現場における労働者のヘゲモニーをめざす闘い、そしてイデオロギー闘争という問題が、どうしても日本の革命をすすめていく上で基本的で基礎的な重要な闘争ではないか。

 そしてもう一つは、国際平和を維持する闘争だと思う。直接介入はしないにしても、いろいろな形での介入はチリの例をみてもあきらかなわけで、そういう意味でわれわれは、何としても平和を破壊する行為に対する徹底した闘いというものが、またそのなかでの国際連帯の問題が非常に重要だと思う。

 こうして見ると、大衆闘争のなかでの労働者の指導権をめざす闘いが、権力奪取後における日本の社会主義建設の、もっとも中心的な基軸になって、名実ともに労働者の徹底した民主主義、労働者人民の主人公が生まれてくるのではなかろうか。

戦後はじめに、共産党が「国営人民管理」というスローガンを出していたのを覚えているが、私は国有化という問題も、生産に対する労働者の完全な統制と結合したものとして提起されなければならないと思う。単なる語呂の問題ではなしにーいまごろ共産党は国営人民管理とは言わないけれども。そういう問題として国有化の問題もとらえていかなくてはならないのではないか。問題は所有の形態だけではなく、その管理と支配の問題なのだ。そうしてそれは、すぐれて生産の現場における労働者のヘゲモニーの問題である。そうしてそれが本来の意味の「民主主義の徹底」なのである。

討 論

民主主義闘争の意義

 遊上 報告の民主主義の徹底という考えは重要な指摘だ。一部の報告と関連して言うと、民主主義の徹底とは労働者が職場で、一般的にいえば主人公になる、そこまでの民主主義の徹底だと思う。しかし、それは権力を取るまではブルジョア民主主義だ。長谷川さんの報告で、ブルジョア民主主義の範囲として、民主主義闘争を低くみている問題提起の発想は、まずいと思う。

 長谷川 おれ、そんなこと言ったかな。ブルジョア民主主義のなかでの闘いの問題として言ったんだ。

 遊上 ブルジョア民主主義の闘いこそが重要なんだよ。それを労働者がおのれのものとし、ブルジョア民主主義ではできない経営のなかにまで持ってくることなんだよ。この過程を経ることが社会主義における民主主義の問題と関係すると、ぼくは思う。そこははっきりしておかないといけない問題だ。

 松江 日本の場合は徹底した民主主義はできない、革命までは。しかし逆に言えば、徹底した民主主義とは名実ともに労働者が主人公になることだ。それは実現できないけれども、それをめざす闘いなしに日本の変革は闘いとれない。片方では、すでに生まれた社会主義は、それを徹底して闘うという点では、別のものではない。その上での前衛党の再建だ。

いままでの諸闘争を見ると、ある場合には非常に戦闘的だけど、その力を蓄めながらヘゲモニーをつくるということがなかなかできなかった。進むことと退くことを知り、戦闘的に闘うと同時に、ある場合には職場や地域のなかにそれを蓄めてゆくことが必要だ。本当の意味の共産主義の前衛は階級闘争と結ひついて組織されてくる。完全な前衛党の再建は、変革の以前にできるか、途上にできるか、後になってできるかわからない。しかし、誠実な共産主義者が、共同闘争のなかからそういうことができる能力をつくることなしに、日本の変革はできない。

分散した力を結集できる党、その戦闘力を強力に展開できると同時に、ある場合にはそれを蓄めることができる党、そして戦闘的であると同時に大胆に妥協ができる党、そういうものと階級闘争の結合が、変革をみちびき寄せる基本的に重要な問題だということを付加えておく。

 長谷川 職場における民主主義という問題は、権力を取らないでも、向うが動揺してるかぎりは相当いけると思っている。とくに終戦後の状態は、驚くほど自由だった。そういう力関係だった。職場のなかで集会も、討議もできた。東芝の堀川町なんかは労働者が管理してるようなかたちで工場長まで労働者の承認なしには、きめられない状態をつくり上げた。だが、そこで抜けていたことは、それが何かという思想的なつかみ方だ。それが何をめざし、どう発展させられなければならないか。その発展の方向性がはっきりみられない、そこが党の問題だと思う。

 松江 ぼくもそうだと思う。

労働者階級の指導性

長谷川 しかもそこまできて、実は一番問題になるのは、本当に権力でそれを保証できなかったということだ。大衆の力と向うの弱さだけで保証している。だから、ブルジョア民主主義のなかでプロレタリアートの指導性という問題はかなりいく、そういうところに限定するなら。しかし、それは全体的な政治的な方向と思想的な指導力を、そこでの指導性を持っていなかったら、それだけでは実を結ばないということも、言っておかなければならない。もう一つ、いまの現実の状態はそれに比べたら本当に惨めで、息もつけないような状態におかれている。たとえば、石川島の田無工場では、およそ左翼的な連中は忘年会にも運動会にも参加させられない、挨拶しても向うが顔をそむける孤立状態におかれている。しかもそういう条件のなかで日本の資本主義の技術水準と競争力はもの凄く強いものとなった。しかし、資材資源という問題はきわめて弱い。だからこそ非常に集約し集中したかたちで体制をもたしているのだと思う。そういう条件がこの矛盾の爆発が客観的に起こる場合、つまり政治的な運動あるいは階級闘争の組織的な運動の先を越して、矛盾の方が先に爆発するという問題は全然ないとは限らない。大衆が自然発生的に決起して、どの政党も後ろに取残される状態が起こりうる可能性がゼロだとはいえない。

 いまのような状態で、全産業的危機が起こり、そのなかでこの間の全逓の反マル生闘争のような闘いになったら、えらいことになる。そこを巻き返されたら、今度は本当にファッショ的な支配がくるだろう。その時に、本当に正しく舵がとれるかどうかが党の任務である。それだけの指導力ある活動家を持っていなければならない。決して革命は考えているような一定のコースで発展はしない。何がいつ、起こるかわからない。それにも対処できる者をつくらなかったら、党建設ではないだろう。

真の前衛党の必要性

 松江 まったくぼくもそう思う。八○年代というのは客観的な矛盾はおそらく一〇年前より一〇年後はもっと激しく出てくるだろう。用意ができない場合には、労働者はいつまでも自然発生的にも黙っているわけはないから、爆発することがある。その場合に、三つの任務に耐えうる党がなければならないと思う。その一つは、先に三池の例を出したが、要求の経済的な性格と行動の政治的性格の矛盾が自然発生的に起こったら、爆発するか敗北するかになる。要求の経済的な性格と行動の政治的な性格を統一的にとらえて、労働者の力にできること。もう一つは、一カ所の闘いを広い視野で全体からとらえて、統一的に発展させる力量を持った党。それから、諸勢力を選別ではなく大胆に、ある場合には妥協しながらでもいっしょに闘える党。党とは、根性と同時に力量を持たなければならない。セクト主義とは、力量がない場合に、しばしば大言壮語かセクト主義になるので、革命性とは根性でがんばるだけでなく、同時に内容を豊富に持つ力量を備えた党ができなければならない。労働者の場合だって、なかなかヘゲモニーなんていかないが、自然発生的にはある、どんな職場のなかにも。だからぼくがいま言っているのは、せめて向うの言いなりに何もかもすんなりとというんでないところからはじめようと言っている。

 山本 レーニンが言った革命が成功する四つの条件とは、第一は客観情勢が変わる、第二は大衆が立つ、第三は敵の内部が危機情勢を処理できなくなって、内部分裂で力を一本にできなくなっている、第四は指導しうる党が存在する、である。今日の情勢で社会主義革命というと唐突に聞こえるが、そうではない。社会主義革命をわれわれが前提にした場合、いくつかの段階における任務、いますぐ下準備しなければならない問題と、途中で各国の経験もこなしながら、創造的にどう生かしていくかという問題。いざという時にバタバタしない党、ボルシエビキだって中国の共産党だって、もともとは小っぽけなグループだった。それをどう鍛え上げていくかが重要な問題である。当面の問題については、階級闘争の問題、社会主義革命そのものが階級闘争の集中集積であって、権力の問題である。同時に創造的な問題である。創造性の問題は、われわれはそれに備えて目ごろから検討をつづけなければならない。

したがって一例を自主管理の問題にあげれば、階級闘争のつながりとしてとらえなければいけない。自主管理そのものは間違ってはいないが、階級闘争のつながりにおいて自主管理あるいは労働者の生産管理が必要の時代というふうにつながっていくので、そういうかたちでとらえた自主管理ならいいが、社会党の大内氏たちが提唱する、何かでき上ったものとしてとらえたら、これは固定してしまう。ブルジョアジーはたくみにこれを利用するわけだ。

 当面の問題は、社会主義云々についてのイデオロギー闘争、これは必要だ。資本家は社会主義を悪いように悪いように宣伝するし、われわれの陣営でも肩身が狭くなるような思いをしている人がいるから、この闘いが必要だ。次に、現実に当面している国際的な課題として平和の問題が第一。その他いくつかあるが、この闘いに積極的に参加してゆくこと。その次の問題は、簡単にいうと前衛をその方向に鍛え上げてゆくこと。そういうことの観点で社会主義革命はつながってくると思う。次の問題は過去の党が経験しているように、社会主義革命というのは政治革命、権力を取る革命、社会主義建設を通じて。フロレタリア独裁のかたちを、これにもいろいろな形態があるから、かならずしもソ連形態とかどこそこの形態とか考えないで、創造的な形態としてとらえ、そのもとで方向は一致していても基本ではどうして実際に生かしてゆくかというかたちで、問題を処理する。

 一柳 日本の農民は社会主義を承認する可能性がもっとも多い帝国主義国の小ブルジョアだと思う。知識水準も高く、中国侵略の戦争経験を持ち、それから都市工業の恩恵と搾取を一〇〇%受けている農民で、子どもがみんなプロレタリアートだ。 一軒に一人や二人かならずいる。公務員だけではない、ブルーもいる。それが自分で闘う形を選んできているのが事実だ。日農がなくなっても。新潟が典型だ。福島潟の農民は土地取上げ闘争で国家と闘っている。福島潟に一〇アール米をつくると、これに対しては政府の割当がこない。政府はこの米を買わない。これは出作だから、自分の村に持 っている田んぼも、そっちの方でも一〇 アール、政府米からはずされる。結局、.政府が一俵も米を買わない農民が、あそこには十何人いて、そのなかの何人かは契約違反だから国有地を返せと言われている。この連中がそれでもやっている。みんなが経済的利益だけでやっているのかというと、経済的要求は基礎にあるが、同時にいまの独占の政策を許さん、農業に対する蔑視だというものがある。そうすると、それでは損じゃないか、政府のいうとおり、作を減らしてペンペン草をはやして補助金をもらおう、と脱落していく者もある。これは農民相互のあいだでイデオロギー闘争をやっているわけだ。農協の理事もいるし、土地改良区の理事長もいるが、農協は国家機関だと言っている。村の農協で理事でがんばっても駄目だ。この農協では駄目で、闘うには農民組台だ。いまの農民組合は弱いから、つくらなきゃいかん。農民組合を大きくつくろうというところに止まっているかというと、そうではない。農民組合が弱くても、主体的に闘っている姿勢だけは崩さない。

 たとえば農業に肥料は欠かせない。しかし肥料をつくるには労働者は必要だが、肥料を支配する独占はいらないという論理を農民は承認する。だから、多様な階級闘争の構築に、決定的に役立つ前衛党が生まれるなら、日本帝国主義というのは社会主義革命の可能性の強いところだと思う。新潟のある農民は、北欧に遊びにいったとき、日本と比べて文化的な施設も貧弱だが、自分の家でバターもチーズもつくり、缶詰も自分の村の範囲でつくって、一年分ぐらい地下室に貯蔵している。それを見て、ああいうのが本当の暮しじゃねえかなと思ったと語っている。非常に多様ですよ、現在の農民の受取り方は。戦後一時期の農民にはストライキ反対の気分が強かったが、いまや息子や孫が労働者だから、非常に分りよくなっている。

プロ独裁は党の独裁か

 司会 松江さんに一つ質問がある。松江さんが冒頭で社会主義は民主主義の徹底だと言われた。ポノマリョフの最近出た訳書によると、彼もこのことを言っている。そして、それは社会主義的民主主義だという。で、社会主義的民主主義は労働者階級と勤労住民層の権力だという。これはプロレタリア独裁でしょ。そして、いまやわがソ連は全人民の権力になっていると彼はいう。だけどね、ソ連の党の〃独裁〃というのは、労働者階級の独裁というより党の独裁としか、ぼくには見えないんだ。そこで、統一労働者党の文書によると、民主主義の徹底を一方に書きながら、プロレタリアの独裁も書いてある。ここのところはどうなんだろう。

 松江 徹底した民主主義とは、文字どおりのプロレタリア独裁ということだ。

 司会 社会主義的民主主義ですか。

 松江 社会主義的民主主義などという言葉はレーニンはつかっていない。徹底した民主主義であって、それは文字どおリプロレタリア独裁であり、労働者人民が主人公になることだ。それに行きつくのは、各民族各社会によって違い、たとえばいま問題になっているポーランドにしても、ぼくらはあれを日本人のわれわれの期待感を尺度にして見たのでは正確ではないと思う。ポーランドにはポーランドの歴史があり、政治があり経済があり生活がある。ポーランドはポーランド人のやり方でその問題を解決するだろうし、中国は中国人のやり方で解決するだろうし、ソ連はどういうやり方か知らないがロシア人のやり方でその問題を解決するだろうし、また解決しなければならないだろう。ただ言えることは、日本のように完全に成熟している資本主義のなかで、日本がプロレタリア独裁、徹底した民主主義になるという場合には、少なくとも代行的なかたちでそれを党に委託するというかたちでは駄目だ。本当の意味で労働者人民が主人公になる、日本人は日本人のやり方で、発達した資本主義国の、しかも日本のやり方でなければ、それは完成できないであろうと思う。

徹底民主主義=プロ独

 司会 そうすると具体的な問題になるが、プロレタリア独裁という言葉の出し方は、われわれは日常具体的に行動しているわけだから、安易にふりまわすと、いま一般の大衆のなかにあるイメージは、スターリン的なものとかヒットラー独裁というように受取っているし、また政府や独占の側はそのように理解させようとつとめているわけだから、徹底した民主主義なんだという点を日常不断に宣伝する必要があると思う。安易にプロレタリア独裁を共産主義者の免罪符みたいに言うのは、よくないやり方だと思う。

 松江 ブルジョア的な支配が、いつのまにか〃独裁〃ということばを政治支配の形態の概念にしてしまった。それで、フランスの党なんかは、ファシズムを連想させるからということでプロ独裁を否定した。本来、プロレタリア独裁は、プロレタリアートが権力を他の階級と分有しないということだ。労働者階級の権力であり、それは文字どおり労働者階級が主人公になるということで、徹底した民主主義とはそれだと思う。しかも、それは日共がいうように、単に平板な労働者権力の解釈ではなくて、国家=権力=民主主義の死滅のためにこそ過渡的に必然的な存在としての「プロ独裁」である。徹底した民主主義は徹底し切ったときには、すでに眠りこんで必要でなくなるのだ。ぼくはそういうものとして、プロレタリア独裁という言葉を躊躇しないではっきりつかうべきだと思う。

 一柳 プロレタリア独裁というのは元来、ブルジョア民主主義という言葉が先にあって、ブルジョア民主主義の本質はブルジョア独裁じゃないかというのが一つあって、それに対してもっと深い民主主義はプロレタリア民主主義、プロレタリア独裁だ。独裁というのは、農民は被搾取階被かといえば、支配階級として同盟するわけだ。そういう苛烈な政治論争、階級闘争のなかでつくり上げてきた概念だ。マルクスはポコッと出すが、そんなにつっこんでない。

 司会 グラムシはブルジョアであろうとプロレタリアであろうと、国家は独裁だとはっきり言っている。ぼくもそのとおりだと思う。だけど、われわれが日常の政治行動、大衆活動をする場合に、いまのように誤って理解されがちな時に、日本共産党のようにプロレタリア独裁をディタツーラとか、執権とか今度はまた何とか、議会主義的に本来の意味を変更してゆくことはまちがいだと思うが、と同時に、松江さんのいうようにプロ独裁の精神を変える必要はないが、そこを大衆にわからせてゆくようにしないで、プロ独裁をかかげなければいかんというかたちでいくのも、これも一種のセクト主義ではないか。これからの新しい運動のなかで改めることではないか。

 松江 ロシア革命の時でも、それはことばや概念ではなく事実で闘いとってるわけで、それを理論化した場合に、そういうものとしてうけとっているわけだ。ついでに言えば、レーニンは、遅れたロシアでは革命は始めるのはやさしかったが、これからが大変だ。しかし、ヨーロッパでは始めるのは大変だが、始まればわれわれを追い越すだろう、と言っている。レーニンが言っているのは単なる革命のスピードの問題ではないと思う。多かれ少なかれ、同じ道を経由するのだが、いま提起している本当の意味のプロレタリア独裁、徹底した民主主義へゆきつく過程の問題として提起していると、ぼくは受取っている。

 山本 根本の問題は社会主義革命をやる場合に、人民がやる意志があって、その処理のために、レーニンの場合はロシア社会民主党、ボルシェビキ派に委せればよい、という方法でやらなければ革命は成功しない。下手すれば、ナチのように大衆が民族主義で沸いている時に、そういうかたちになってゆく。プロレタリア独裁というのは、社会主義のプログラムを遂行するには労働者階級以外にない、ということが前提となって言われている。独裁という言葉がついているものだから、言葉たくみにブルジョアジーは逆宣伝して、いかにもいまは民主主義で独裁になったら、ということがあると思う。社会主義建設の過程で、しばしば前衛が大きな誤りを犯した、スターリンの場合もそうだ。ポーランドのゴムルカ、目前の中国共産党。ソ連の国内でもしばしば官僚主義的な誤りがある。そういう内部の非プロレタリア的な傾向との闘いをやっているかどうかということを、われわれは見ていかなければならない。

 遊上 民主主義の徹底と独裁もふくめて発言するが、統一労働者党の方針書は民主主義が低められている。よう読んでごらん。

重要な職場の権利闘争

 椎名 民主主義の問題は労働組合運動の現場で一番問題になっている。労働者自身が示威と運動によって、どう現状を切り開いてゆくかが問題である。ぼくらの組合では職場が二つに別れるが、強いのは横の連絡だ。たとえば仕事や残業の割り振りまで、上から流れてくるものより労働者の横の連帯の方が強い。横の連絡というのは、お互いに話しあい、問題点を議論しあって、自分たちの職場だか、らというので、抵抗力のある職場は組合としては強い。労戦統一の問題やこれから直面する厳しい条件をふくめて、示威と運動でそれをどう社会主義につなげてゆくかということが問われている。

 柴山 われわれが社会主義のために闘っている相手は日本の独占ブルジョアジーだが、これは世界のブルジョアジーのなかでもきわめて悪賢くて本性は残忍なブルジョアジーの一つだと思う。戦前戦後を通じて世界資本主義でも稀な不均等発展を遂げてきたなかで、彼らは何度か直面した危機をたくみに切り抜けてきた。日本の共産主義者は、日本資本主義の急激な発展の過程で、情勢を的確につかみえないで絶えず混乱し、正確な日本資本主義分析にもとづく正しい革命戦略を打ち出せないで、後手後手にまわってきたし、現在もその状態は続いている。

そこにわれわれが前衛党再建を主張する根拠があると思う。現在もっとも大切なことは、そういう点での政治的、理論的ヘゲモニーを確立する努力と、共産主義諸集団内部の対話を組織することによって統一をかちとってゆく、そのイニシアチブを発揮できる能力をどうつくってゆ

くかということだ。

 荒川 プロレタリア独裁と民主主義の問題が論じられたが、現在概念の問題でも日本のマルクス主義戦線は混乱している。混乱していることを確認して、再追究していく必要がある。そういう意味で遊上さんが出された問題は具体的なテーマだった。

 松江 現代社会主義の問題としての徹底した民主主義、本当のプロレタリア独裁、労働者が主人公になるという道は、アスファルトで舗装された誰でも通れる平坦な大通りではなく、いろいろな道があると思う。世界革命への完成に向う過渡の問題として、その途上には誤りもあるし、失敗もあるし、異なった道もあるし、そういう問題としてとらえておかなければならない。われわれはわれわれなりに日本の道をどうつくるかということが問題だ。その場合に、職場において徹底した民主主義、労働者のヘゲモニーをめざして、どこまで闘いとるかということと合わせて、非常に重要なのは権利闘争である。職場の労働者は白けているとは言っても、金の問題もあるが、権利がじわじわとやられてゆくことについては、知らん顔をしているようでも、もの凄く敏感だ。闘う権利は、いまの日本で徹底した民主主義をめざしてまず闘いとっていかねばならぬ一番大事な問題である。ある意味で権利闘争とは、現在から未来への「徹底した民主主義」をつなぐ根幹の闘いであるともいえると思う。

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 活動  

      労働運動研究所会報    第3号 参照

  ・第3回理事会議事記録及び決定内容

            経済・国際部部会研究会開催 

 

 

   出版活動

               「労働運動研究」毎月発刊
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          電話&fax  03-5377-0840 E-mail rohken@netlaputa



         既刊    山本正美裁判関係記録・論文集   ―真説「32年」テーゼ前後

                B5判・上製・箱入り・714頁・300部限定・定価40000円+税

                コミンテルンと日本共産党の貴重な証言     新泉社

 

        現代史の空白を埋める    
                                   石堂 清倫   

 山本正美は戦前の日本左翼がコミンテルンに送りこんだ活動家のうち最俊英の頭脳であった。「アキ」の執名によるいくつかの評論は、彗星のように現れた画期的な指針として一世の耳目を集めたものであるが、それが無名の青年であることが知れて世間は二度おどろいたのである。

 日本帝国主義はすでに中国侵略を開始しており、その鉾先はつぎの機会に社会主義ソ連に向けられるのであろう。これにたいして日本共産党は戦争の中止と侵略体制の表現である天皇制の廃絶を当面の重要任務としていた。その行動としてコミンテルンは「三十二年テーゼ」を策定したが、その任に当たったコミンテルンの智嚢の一人としてアキを数えることができるのである。アキの言説は今日このテーゼを理解するうえで重要なてがかりを蔵している。
 山本が党運動再建の使命をもって帰国したとき、彼を待っていたのは全国的転向の波であった。国民は天皇制イデオロギーのへゲモニーにたいする対抗ヘゲモニーをもたないまま受動的革命にとらえられていた。山本は運動の拠点としての党の組織的回復をはかる前に検挙された。こうしてテーゼのマイナス面を克服する事業について抱いていたはずの抱負が何一つとして実現されることなく、転向の波のうちに姿を没した。
 コミンテルンの「絶対主義」規定には、三十一年ごろスターリンが密かに持ち出した反トロッキーの道具の一面があり、理論史上の一つの弱点であって今日まで徹底究明を欠いている。それだけにスターリンの思いつきを合理化したクシーネンとともに、ある意味でクシーネンを補強したアキの業績は、マルクス主義の再生のためにも重要な史料になっていると思われる。いいかえれば、アキは日本の共産主義運動におけるコミンテルンのプレゼンスとともにレテイセンスをもあらわすものである。
 この、選集はまた敗戦日本段階の山本の主要な言説をあつめている、敗戦後の日本は、アメリカ帝国主義のへゲモニー体制に組みこまれるとともに、みずからは東アジア諸国群のうちでのヘゲモニーを行使する新しい事態を経験している。古い帝国主義理論にしたがって、日本が軍事占領下の植民地に化したとする論者の多いなかで、二重ヘゲモニーの視角にもとに、そこで可能になる新しい革新の道を説いたのである。ところが日本の左翼は、彼の先駆的主張をとりいれみずからを強化する代わりに、戦前の運動への責任を名として、山本を政策決定の機構から疎外してしまった。したがって彼の言説は主として時論の形でしか可能にならなかった。そのことは日本の左翼だけでなく国民にとっても大きな損害であったと痛歎される。したがって読者はこれらの時論のなかから、戦前の新事態にたいする彼の根本的見地をたしかめ、今後の世界史的転回に彼がどのような展望をもっていたかを明らかにできると思われる。

 遺憾なことに彼の著作は今日すでに多くは入手困難になっている。苦心の結果ここに集められた史料群は二十世紀の三分のニにわたる期間の彼の理論的業績をほぼ網羅し、現代史研究の空白部分を十分に明らかにしているとおもわれる。
                                                                  国際共産主義運動研究者

             申し込みは、新泉社 東京都文京区本郷2−5−12
                           電話 03-3815--1662 FAX 03-3815-1422
             または、労働運動研究所まで
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