『誘惑〜Deduction〜 STAGE-3』

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 今少しだけ忘れずにいて欲しい。
 緩やかに消えていく水面の波紋の様に。
 心の片隅の気付かれない場所に、もう少しだけ。

 眩暈がしそうな程に眩しい存在に、少女は恥じらい瞳を逸らす。自分の醜い思慕に気付かれれば医師は二度と触れてくれないかもしれない、そんな計算の卑怯さに少女は怖じ気付く。心の中で慕いたいだけである筈なのに、どうして貪欲になってしまうのだろうか。
「――ぁ……!」
 恥ずべき場所、いや人に触れさせてはならない場所を深々と貫いている医師の牡槍がずるりと滑り、窄まりにの排泄時のむず痒さに似た通過感を何百倍にもした様な感覚に少女は思わず声を漏らしてしまう。
 自分は異常者なのかもしれない。太い…自分の指では円を描ききれない医師のとても太い幹は迎え入れるだけでも大変であり、身が裂けてしまうのではないかと怯える程で今も確かに苦しいと言うのに、それはとても医師らしく好ましい…いや何もかもをそれをありのまま受け入れたいと願ってしまう。医師の長身が、撓やかな鋼の様な身体が、怜悧な目が、硬質な声が、凶器の様なこの部分が、何もかもが頼り甲斐のある稀有な、世界で一番の、いや他に誰とも比べられないたった一人の特別な人と感じてしまう。これは体格差なのだろうか、医師に不快な思いをさせているのではなかろうか、はしたない、ふしだらな女と嫌悪されたくない…それなのに身体中が、細胞の一つ一つが歓喜してしまう。好き。この人が、好き。全身で求めて悦んでしまう浅ましさに身勝手さに申し訳なさに涙が溢れて止まらない。
 一晩の慰めになれればそれだけでいい、それすら医師の心には邪魔でしかないだろう。愛する人は、自分ではないのだから。
 しかも排泄器官を貫かれる異常な交わりまで選ばせておいて、それを悦ぶ自分など消えてしまった方がよい。
 それなのに。
 医師の舌に口内を舐られ、少女は蕩ける。ぬろぬろとしなやかなよく動く舌が唇の内側の口内粘膜を柔らかくなぞり、微かに零れてしまう喘ぎ声が反響する。さらりとした少女の唾液とは異なる、喫煙家で染み付いているのであろう煙草らしい苦みととろみのある唾液が舌に乗り、深く重ねられる唇を伝わり、少女の口腔を侵す。差し出した舌を舐られているだけで十分過ぎるまでに官能的だった愛撫は、それだけで少女の腰が砕けてしまう程に甘美で、そして淫猥だった。息継ぎが出来ない自分を配慮して医師が唇を僅かに離してくれる度にいやらしい喘ぎ声が溢れ、頭の芯も腰の奥も何もかもがとろとろに蕩けているのを隠せなくなっていく。
 苦しい。医師の長大なものが貫かれる苦しさに身動きも儘ならない状態で、それなのに陶酔してしまうはしたなさを医師に気付かれたくない。どうすれば不快に思われないかを考えたいのに、そう振る舞いたいのに、少女の唇からは甘く蕩けた吐息が音として溢れてしまう。
 医師が両膝の辺りを持ち、ゆっくりと腰を引き戻す。ぎちぎちに張り詰めた窄まりを幹が擦るその純粋な円筒とは異なる歪な形状が、少女に牡の存在を、抽挿の実感を植え付け刻み付ける。
「あ…ああああぁ……っ」
 脳裏に交わる前に医師が自ら牡槍の潤滑油を塗っているあの光景が脳裏を過り少女は小さく首を振る。この男性にそんな事を考えてはならないと言うのに、性的な男性と思ってしまう。失礼な話である。医者であり、大人の男性であり、少女より確実に目上で尊敬する人物に対して感じるべきものではない。それなのに。節張った、とても器用そうな長い指、手の甲の筋、その指先で頬に触れられるだけで心地よく感じてしまう…いや言葉を飾ってはいけないのかもしれない、穏やかでない胸が裂けてしまうのではないか、医師に気付かれてしまうのではないかと不安になる程高鳴り、それだけで蕩けてしまう。――何より、そんな男性のものが、自分を貫いている。貫かれている。緩やかな抽挿により一層牡槍の長大さを実感し、怯え、恍惚としてしまう。
 静かな寝室に少女の抑えようとしても抑えきれない苦悶と甘さの混ざった淫らな息遣いと、潤滑油を絡ませた…だが太い幹と狭い窄まりで削ぎ落としながらじっくりと抽挿を繰り返す執拗な音が籠もる。シーツの上で男の腕と杭の様なものに縫い止められ逃れる事も適わない少女の華奢な身体が密やかにくねり、白い柔肌に無数の吸い跡と噛み跡が付けられた豊かな乳房が緩やかに揺れ動く。あっああっと鳴く自分を見下ろす男の表情は無表情に近い淡々としたものだが、その目に浮かぶ様々なものを見て取る余裕は少女にはない。
 逃げ出したい程苦しいのに、まだ医師の傍にいたい。
 男女の睦み事はこれ程苦しいものなのだろうか、それとも自分の身体がやはりおかしいのだろうか。異常があれば医師が気付きそうだが、逆に異常があると気付いていて敢えて無視をして貰えているのかもしれない。――醜悪なものでも、医師として許容してしまう人を癒やすつもりで慰められているのかもしれない。そう思い至ってしまった瞬間、医師に身を晒す羞恥と後悔に少女は震えそうになった。びくっと震えてしまう身体に、不意に医師が少女の肩をベッドに押し付けた。
「何に怯えている?」
 閨の薄闇を背に自分を見下ろす男に、少女は声も出せずに見上げてしまう。広い肩幅に、硬い、体育会系の威圧的な厚みではなく太過ぎず細過ぎず程よく引き締まった胸板に首筋に腕、無駄を削ぎ落とした精悍な身体付きに鼓動が速まる。彫刻の様な冷淡な整った顔立ちは表情にやや乏しく気難しく思わせるが、密かに盗み見ていると僅かな変化が読み取れ…医師が知れば機嫌を損ねてしまいそうだが少女には不思議と愛しい人物と感じてしまう。自分など不要な成熟した大人の男性なのだが、寄り添えられればどれだけ幸せだろうか。とても支配的で超越しているのに、何故必要とされたいのか。
 求めてなどいないと明言されてしまうのが、怖い。
 だが言葉にすれば鼻で笑われてしまうだろう…実際に必要になどされていないのだから。
 好き、と言う言葉が凍りつく。
 少女は小さく首を振る。泣きたくなる程愛しい人には、思う人がいるのだから。
 医師の眉間に僅かに皺が寄る。不機嫌な表情すら愛しいと感じてしまう浅ましさに身が竦む。見抜かれてしまえば次の瞬間に突き放されてしまうだろう。それなのに唇が動きそうになる。衝動的に思いをぶつけたいと切望してしまうのは、互いに一糸纏わぬ姿で肌を重ねている為かもしれない。病室の様に誰かが訪れるかもしれないと怯えずにいられる、気付かれていないが偶然でも医師の私的な空間に入り込む事を許された事が、少しでも医師に好ましく感じられているのを意味しているのではないかと夢を見てしまう。
「せん……」
 小さく零れかけた声の擦れに思わず口篭もる少女に、身を起こした医師がサイドテーブルの上の蜂蜜酒の瓶を軽く煽り、そして覆い被さる。自然に深く重ねられた口からゆっくりと流し込まれる蜂蜜の甘さと軽いハーブのにおいを含んだ酒に少女の胸がどくりと高鳴った。不慣れな酒精に口内が喉が熱くなり、蜂蜜とハーブの匂いが鼻腔に抜けていく中、医師に注がれる液体を嚥下する少女の伏せた長い睫毛が震える。室温の液体は徐々に人肌の温度へと変わり、流し込み終わるその僅か後に舌がぬろりと滑り込む。
 窄まりを貫かれたままの苦しさに、じわりと内側から身体を火照らせる蜂蜜酒と医師の舌の妖しい蠢きが溶け込む。息を詰まらせ甘く呻く少女の身体を男が絡め取り、大きな手が囁きかける様に柔肌を愛撫する。身体の中央に楔を打たれている白い脚が頼りなく揺れ、男の腰の両脇のその先で爪先がシーツを掻く。微かに、微かに、男の腰が前後に動く。枕を腰の下に差し入れられ男の腰に密着させ易くされた身体に、男の手が這う。背中をなぞり、乳房をそっと捏ね、そして乳首を摘まむ。あっあっあっあっと鳴き声が唇の端から零れ、涙が溢れる。医師の愛撫が優しいのも時に荒々しいのも激しいのも判っている…だが医師の寝室で何の制限もなく穿たれている今、優しく愛撫をされるのは、まるで愛しい人を労っている様で、錯覚しそうになってしまう。
 医師が求める女性の代用でしかない自分が与えられるべきでないその至福が、胸を刺す。

 身体の奥に、深い場所に、自分の知らないものがある。
「ぁ…あああぁぁ……っ」
 汗に塗れた身体を逸らせる少女に乳房がぶるんと激しく揺れる。白い柔肌はびっしょりと濡れ、閨の照明の下卑猥に滑る様に光を弾いていた。身体中の男の噛み痕と吸い痕は更に増え、到底清楚可憐な乙女とは呼べぬ卑猥な姿を男に晒している。月明かりの差し込む角度は変わり、既に瑞穂には時間感覚はない。男女の交わりならば快楽があって当たり前だとは認識していた…医師のモノが締め付けられて多少なりと快楽を得られるのはおかしくはないだろう、だが窄まりは生殖器ではない、それなのに。
 医師がじっくりと責め立てる一点を擦られる度に、ずんと重く痺れる様な堪らない恍惚感が腹部の奥深くから溢れ出し瑞穂は鳴き喘ぐ。病室で医師に愛撫され続けている膣よりも深い場所のそれは突起などを抉られる鋭さはないものの、まるで引かない高潮の様に身体を浸し絶え間なく揺さぶってくる。医師から快楽を得るのは相手を裏切らせる事なのに、と思いかけ瑞穂は混乱した。――医師の行為で勝手に快楽を得ているのだと自分を認識していたのだが、もしかしてこの男性は自分に快楽を与えようとしてくれているのだろうか?遣る瀬ない衝動の憂さ晴らしであっても男性として相手に快楽を与えるのはマナーなのかもしれない…だが少しでも与えようとしてくれているのならば、それは嫌悪ではなく若干の好意なのではなかろうか?
 一瞬過った期待に瑞穂の胸が大きく高鳴った。
「――何を考えている?」
 戸惑う少女は声に視線を向け、そして微かに身動ぐ。自分を見下ろしている医師の彫刻の様な筋肉質な身体に、常は整えられている髪の乱れに、風呂上がりの僅かに濡れた肌に、堪らなく胸がざわめき落ち着いている事が出来ない。医師に広げられている窄まりのすぐ上で膣がはしたなくぐびぐびとざわめき恥ずかしさに鳴き声が溢れてしまう。勘違いの、身の程知らずな思い上がりに舞い上がってしまう罪悪感が蘇るよりも、医師に身を晒している甘い羞恥に少女は赤面したまま首を振る。
「あ…の……これは…、ちがって…その……」急速に膨れ上がる甘酸っぱい好意と羞恥に瞳が忙しなく揺れる。「みない…で…くださ……ぃ」
 逃げ出したいのに離れたくない、そんな理解不能な矛盾に混乱する少女を見下ろしている男がふっと笑う。皮肉そうな嗤いでなく仄かに優しげに細められた目に、思わずぽかんと見蕩れてしまう少女の頬を男の指がなぞり、そしてゆっくりと唇が重ねられる。
 何時喫煙しているのか染み付いているのかじわりと苦い煙草のにおいと味らしいものがある重なる唇から舌から伝わり頭をくらりとさせ、ザラつく舌のとても気持ちのよい動きに瑞穂は緩い喘ぎを漏らしてしまう。もっと舐って欲しい。うっとりとしてしまう身体を抱え込まれ、ベッドの上に座る男に向き合う形で跨ぐ体勢へと変えられ、少女の自重で窄まりの奥まで医師の牡槍が深々と貫いていく。あ…ああああああっと声を漏らしてしまう唇を男が愉しげに貪り、男の腿と胴の間で白い身体がびくびくと痙攣する。恥ずかしい程汗を掻いている柔肌が男の肌に重なりぬるぬると滑り、乳房が男の胸板を淫らに捏ね回してしまう。いや…はずかしいと小さく漏らしてしまう声は甘えを帯び、男に薄く笑われてしまう。
 軽々と抱え込まれた身体が下から緩く突き上げられ、男の手が乳房を捏ね回す。汗で滑る乳房を逃さない大きな手が長い指が少女の乳房に食い込み、柔らかな肉に牙を立てられる様な痛みに少女は鳴き喘ぐ。身体に似つかわしくない胸の大きさが嫌いなのだろうか、ぐにゅりと強く掴まれた乳房が歪みその痛みに仰け反る身体が引き寄せられ、少女の口内をぬろぬろと優しく舌が舐る…優しいのか甚振られているのか判らず混乱する身体を抱え込んでいる男の目は不思議と凪いでいる気がした。
「……」
 自分が齎せる筈のない安らぎを錯覚ででもこの人が感じられれば、それでいい…そうなのだろうか?偽りでも、許されるのだろうか?偽者でしかない自分でも。
「その目をするな」
「?」
「――今にも消えそうな目だ」
 静かなままの医師の目に浮かぶ不快そうな色に、何故か涙が込み上げてくる少女の瞳を大きな手が隠す。
 唇が重なり、舌が捻じ込まれる。ベッドの上に膝を立てて座る男に向き合う形で跨がされている身体をもう一方の手が強く抱き締めた。ぬろりぬろりと口腔粘膜を舌が弄り卑猥な快感が一撫で毎に直接頭の中にまで甘く浸透してくる感覚に瑞穂は鳴く。一糸纏わぬ身体に重なる男の身体の鋼の様な逞しさは酷く性的で支配的であり、快楽にどくんどくんと揺さぶられる華奢な身体を深々と杭の様に穿つ肉槍の存在が苦痛だけでなく、泣きたくなる程の充足感を容赦なく植え付けてくる。
 構わない。医師にとっての一夜の戯れであっても、少女にとっては一生に一度だけの特別な行為である…過保護な父であっても何時かは見合い話はあるだろうが、もうこの人以外に肌を許したいとは思えない。穢されたとも思えない。責任などとは考えられない。ただ、特別な人としか、思えない。――伝える事はない秘めた気持ちに気付かれないまま医師が少しでも楽になれればいい。それがあの女性を裏切り後悔になるものでも、今それが必要だと医師が決めるのならば…卑怯な計算で一時だけ医師に触れる機会を得ようとする自分に怖じ気付きいけない事だと心が悲鳴をあげる。それでも、離れたくなかった。
 消えてしまいそうだと、医師は言った。
 その通り、消えてしまえればいいのに。

 穿たれる。
 身体の奥深くの甘く重い疼きが自分の身体ではない様に大きく脈打ち全身を揺さぶる。太腿を両脇に抱え込まれ、ベッドの上には肩と頭と腕しか接していない状態で膝立ちの医師に大きく抽挿を繰り返される…苦しさは消えない、自分が小さいのか医師が大きいのかは考える意味はなかった、これだけしか知らず、これ以外は不要だった。
 ぎちぎちと広げられた窄まりのすぐ内側まで傘が引き戻され長大な幹が露わになり、次に根本まで押し戻される。肺の中が空になりそうな程、臓器が圧迫される様な圧倒的な存在が貫き突き上げられ、息が絞り出される。声を殺せる回数が減り、鳴き声が唇を割る。激しい突き上げに乳房が暴れる様に前後左右に跳ね、残酷な程緩やかに貪られる時には汗塗れの少女が弱く振る首にふるふると揺れる。膣の更に奥の疼きは途絶える事なく牡を求めるうねりを繰り返し、朦朧とする少女の腰に牝の動きを刻み込んでいく。
 甲高く、密やかに、甘やかに、強請る様に、一突き毎に少女の喘ぎ声が寝室に籠もる。恥知らずな甘い匂いがベッドの上に漂い、シーツは既にぐっしょりと重く濡れていた。サイドテーブルの上の蜂蜜酒の瓶はとうに空になり、重厚な寝室に不似合いなミネラルウォーターのペットボトルが飲みかけの状態で汗を掻いていた。
 四つん這いになり後ろから貫かれている間執拗に噛まれた項と首筋の痕の幾つかは血が滲み、獣に犯された様な様ですらある。怯えてよい筈の激しい行為に確かに泣きじゃくりながら、だが血が滲む程男が噛む度に少女が繰り返してしまっていたのは、怯えと逆の歓喜の絶頂だった。
 絶頂から抜け出せないまま意識出来ないまま繰り返す哀願は、窄まりを抉られながらであり当然それとは異なる行為を望むものだと男に伝わってしまうものである。穢らわしい肛虐でなく完遂を求めてしまう哀願は理性を失い配慮を損なったものであり、蕩けきった少女の切実な願いを止めさせる為の様に男が噛んだ痕は加減を越えていた。
 思考する余裕があれば恥じて逃げようとしていたかもしれないが、与えられる快楽に我を失った少女には貪り溺れさせる男に甘く囀り、絶頂に本能的な恥じらいが剥ぎ取られて無防備に求め甘える恍惚とした素顔を晒してしまう。
 それでも思慕を口にしなかったのは、意識の最後の薄膜の様な理性によるものなのかもしれなかった。――その結果を予想する事が出来ないのを責めるのは酷と言うものである。

 酷く身体が重く痛む。
 うっすらと瞳を開いた瑞穂は晩秋の空が既に明るくなりかけているのに気付く。煙草と消毒液が微かに香る大きな枕に今自分がいるのは自室でも病室でもなく医師の寝室だと認識し、そして昨夜…いやあまり時間を経ていない行為を思い出し赤面する。全身の、特に腰の異常な重怠さと身体中に残る濃密な余韻に鼓動が高鳴り、そして医師の不在に不安が過る。もしかしてこれは夢なのかもしれない。甘美な気怠さと動かない身体と抜け出せない睡魔に、少女は柔らかな褥の中で微睡む。
 そっと身を起こそうとしたものの上半身を起こすどころか寝返りも打てず、まるで子供時代の高熱に浮かされた時の様だった。この部屋は自分の妄想なのだろうか、そうだとしても医師に似つかわしく…昨日一日全てが幸せ過ぎた夢にも思えてくる。医師の事を何も知らない子供の自分が衣服も指輪も贈られるなどまるでシンデレラの様ではないか。城の舞踏会も何もかもが贅沢な夢。その方が納得が出来てしまう。――まだ目覚めたくはなかった。恐らく夢は目覚めれば忘れるか所々欠落してしまう。一つたりと忘れたくはなかった、医師の横顔も私服姿も腕の温かさも汗ばんだ時のにおいも。
 贅沢を言えば夢ならば右腕を治して医師の朝食の用意をしたい。和食派だろうか洋食派だろうか、好き嫌いはないだろうか、お味噌汁の出汁と味噌は何が好きだろうか、トーストの焼き加減は、卵は目玉焼きかスクランブルエッグかオムレツか、付け合わせは温野菜でいいのかサラダか、ドレッシングの種類も、好みを教えて貰えるだろうか?この寝室の様に医師の世界に踏み込ませて貰えれば素敵なのに。夢で知ってもそれは勝手な想像なのに。動けない身体の怠さと熱のせいかもしれない。涙が滲む。幸せで、切なくて、悲しくて、手放したくはなかった。夢ならば贅沢をさせて貰いたい。休ませて貰えたシーツ等は洗濯をして掃除もさせて貰いたい。許して貰えるだろうか?それとも早々出て行くべきだろうか?もう少しだけ夢を見続けたい。医師に、会いたい。

 ふわりと意識が浮かび上がる。やはりこれは夢だと思うのは少女自身が医師の顔を見られるのと、その人の表情がとても穏やかな為だった。甘く優しい夢に、ベッドの上で軽く身を起こされ医師の腕の中にいる少女は思うまま動けない身体を委ねたまま微笑む。
「おはようございます……」
 何故か、まるで知らない言語で話しかけられた様に反応に困る様子の医師に、少女はふわりと笑う。幸せだと伝えていいのかもしれない、これは夢だから。医師の朝の挨拶は違うのかもしれない。おはようだろうか、いや外国語なのかもしれない、恐らく自分が想像しきれないから答えが貰えないのだろう。
 困惑した医師が摘まんでいる苺を口に運ばれ、少女はそれを囓る。蕩けそうな甘味と爽やかな酸味が絶妙な苺はよく冷えてとても大粒で、何度かに分けなければ食べきれない。医師は朝は忙しいだろうに急かさずにゆっくりと待ってくれるのが申し訳ない。夢は何と贅沢なのだろうか。
「待っていて下さい、すぐに服を着て……」
 パジャマやガウンやバスローブ姿ではなく既にワイシャツにスラックスの医師は通勤前なのだろうから、魔法の様に素早く服を着てしまえないだろうか?そう思う少女の頬が優しく撫でられる。
「まだ休め。薬を飲んで、午後までよく眠ってから病院に戻れ」
 そう言い苺の果汁で少し湿った唇を優しく舐めてから医師が含ませた薬の錠剤を、少女は口移しの水でこくんと飲み込む。
 夢は本当に優しい。こんな幸せは許される筈がないのに。医師に、額に口吻けて貰える。まるで大切な宝物の様に。

 ふっと目が覚めた。
 医師の寝室のサイドテーブルに乗せられた一目で骨董品と判る旅行用の携帯時計の刻む時間は既に午後三時を過ぎており、瑞穂は慌てて身を起こそうとして身体の重怠さに蹌踉けてしまう。自分の身体に何があったのか判らず戸惑い、そして昨夜の行為を思い出し頬が一気に熱くなる。何処までが現実で何処からが夢なのか判らず混乱し、不意に左手の指輪に気付き、動けなくなる。
 華美過ぎないが繊細な意匠を施された指輪には綺麗な宝石が填まっており、とても、とても美しい石が柔らかな晩秋の陽射しを反射していた。これを購入した店と売場は気軽に子供に買い与えられる物ではないのを意味している。一切の迷いもなくカードで購入されてしまったが、本当にそれは許される事だったのだろうか?指のサイズが合わなければよかったのかもしれない…もしも気軽な物だったとしてもあの美しい女性の気分は損ねてしまうであろう。――それなのに、指から外したくはなかった。酷く身勝手な我が儘に身が竦む。
 愛されたとは言えないのかもしれない、いや愛されてはいけないのである。時間をかけた丁寧な…いやそれだけではない行為は医師にとっては通常で、特別な事ではなかったかもしれない。どれだけ思考しても結論に辿り着けない予感に、瑞穂は蹌踉めきながらそっとベッドから抜け出しかけ、床にへたりと沈み込む。腰に力が入らない。その原因に顔から火が噴いてしまうのではないかと思う程頬が熱くなり、そして床の上の全裸の自分の身体中にはっきりと残る医師の大量の痕に身を強張らせる。思わずシーツを引き寄せて肌を隠し、余りの恥ずかしさに縮込まり激しい胸の鼓動が荒らしの様に過ぎ去るのを待つ。そんな少女に、不意に後悔が過る。
 自分はここにいていい人間ではないのに。
 医師に選ばれてもいないただのやり場のない気持ちを発散するだけの存在なのに。
 愛されてもいないのに。
 ――身体中が身勝手に医師の余韻に溺れている。
 沢山汗を掻いている筈なのにさらりと綺麗な肌を漆黒の髪が滑り、微かなその感触だけで医師の愛撫が蘇り少女は床の上で自分の身体を抱き締めた。何度も医師に身体を愛撫されていたのに昨夜のそれは全く知らない次元のものだった…触れられている箇所から身体が溶けて一つになる様な甘美な、だが何処か危機感のある陶酔。身体の深い場所を穿たれながら強く抱き締められる感覚は巨木の洞で守られている様で、優美な花と裏腹に相手を締め付ける藤の枝に全身を絡め取られている様で、自分とは格の違う存在に溺れてしまう。支配しようなどとあの男性は考えてはいない。勝手に少女がそう感じているだけである。
 それでも。
 蹌踉めきながら壁へとたどり着き、手を突き漸く立ち上がった少女は腰の重さと力の入らない下半身に泣きそうになった。全身が重怠く、まだ横になっていたいが病院に戻らねば皆に迷惑を掛けてしまう。一晩泊めて貰えたお詫びに掃除をしたいがそれも侭ならない不甲斐なさに情けなくなりながら、ゆっくりと歩を進める度にじわりと情交の余蘊が身体中に広がってゆき少女は頬を染める。
 氷か鋼を思わせる人だった。病院内で見掛ける表情は気難しげで硬質で引き締まった端整な顔は気持ちを読み取らせるものではない…それなのに昨夜自分が見たものは何だったのだろうか。閨の薄闇の中自分を見下ろす男の淡々とした表情は禁欲的でありながらとても嗜虐的で、そして注がれるその目は威圧的ですらあった。男女の関係において皆がそうなのかもしれないが、心の奥底まで見透かされる様な目に浮かぶ肉食獣に似た獰猛さに少女は貪られている錯覚を覚え、確かに怯えながらだがそれ以上に魅せられて身を委ねてしまった。医師に大切な人がいると判っていても止められなくなったのは巧みさだけではない。――自分の残酷さに恐ろしくなる。少しでも医師に触れて欲しい、時間を許して欲しい、そんな欲望を過ちの形で手に入れてしまった。
 今、医師は後悔してはいまいか。一夜の過ちと割り切って忘れてくれただろうか。いや…忘れて欲しくなかった。心の片隅でふと思い出し徐々に消えていくだけでいいから今はまだ少しだけ余韻として残していて欲しい。欲の恐ろしさに少女は怖じ気付く。医師に疎まれてしまう。
 居間への扉を開けた瑞穂はテーブルの上に置かれている封筒に気付く。鞄の隣に並べられたそれは自分宛なのだろう。スマートフォンへのメールか伝言の方が楽なのだが、直筆の手紙なのだとすればそれはとても医師らしい上に、他愛もない事、例えば洗濯物を畳んでおく指示や塵出しであっても大切に残しておきたいと胸が高鳴ってしまう。そっと手に取るとそれは便箋一枚の想像よりやや厚い。宛名もない封筒を開けるのに躊躇い、昨夜にはなく鞄に添えられている以上は自分宛なのだろうと暫し悩んでから留められていない封を開け、少女は凍り付く。
 自分が医師を後悔させてしまうなど、思い上がりに過ぎなかった。浮かれているのは自分だけで医師はもっと冷静に、いや心惑う要素など何一つなく欲望をただ発散させただけなのだろう。かしゃりと金属箔の様なものが心の中で呆気なく潰れた音が聞こえた気がした。
 直筆の言葉もなく、ただ綺麗な高額紙幣が十枚程入っているだけの白い封筒にぽたりぽたりと弾ける熱い涙を、少女は呆然として見つめるしかなかった。

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改訂版202308192319

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