『誘惑〜Induction〜改訂版 STAGE-2』

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 例えば、つり橋を渡らないといけないとする。
 その時、つり橋の先に人が待っていてくれていると、つり橋を渡る事に興奮するのか、それとも待っている人に興奮するのかを混同して人の心は混乱するものらしい。
 ――では、これは……?

 ベッドの上で瑞穂はちいさく溜め息をついた。
 初めての交通事故による右腕の骨折は既に治療を施されているものの、全身を打ちつけた鈍い痛みは華奢な身体を動かすのも躊躇われる状態で襲っていた。だが痛みを無視して動かそうとすれば何とか出来なくもない状態であり、少女は不安と淋しさと何より急いで父親の赴任先である京都から戻ってきてくれた母親を見送ろうと重い身体で隠れて旧館の屋上へと向かい……、
 その医者と出会ってしまった。
 嗅ぎ慣れない煙草と消毒液のにおい。抱え上げられた腕の予想外の逞しさ。彫像の様な整った顔立ちに浮かぶ冷淡な表情と、まだ若い、三十代半ばであろう外見には不釣り合いな重厚感。症状を問われ答える間に感じたこの人ならば任せて大丈夫と感じた医師としての信頼感。異性に疎い少女にとっては抱きかかえられる距離感は羞恥と困惑以外の何物でもなく、しかし医師への信頼もあってか怯える事はなかった。
 ぼんやりと横たわっていた少女の指がゆっくりと動き、自身の唇に触れた瞬間、びくりと震える。
 舌の動き。言われるままに差し出した舌をくちゅりと舐め上げる生々しく淫らな動きの舌先。至近距離の息遣い。左手首を軽々と抑え込む大きな手。とろりと伝わる唾液のぬめり。差し出す舌の部分に行われる愛撫は舌を少しでも逃がせば唇に行われてしまいそうで、まるで舌への愛撫を更にねだるかの様に瑞穂は男へと舌を差し出し、そして男の舌を受け入れてしまう。絡む様に、撫でる様に、くすぐる様に、繊細に執拗に這い回る男の舌は、肌を指で撫でる愛撫すらよく判らない少女の舌に食事以外の秘めやかな恍惚を与え、徐々に淫蕩な感覚を根付かせていく。
 くちゅくちゅと絡まる舌に、呼吸が震え、鼓動が乱れる。舌の動きが背筋からじわりと足の爪先まで、全身の血流に乗ってやがて胸の先と下腹部へと熱を伝え、発散される事なくもどかしく処女を疼かせた。初めての接吻は当然好きな異性と交わしたい…だが長い時間舌を絡まされているうちに、少女の思考は甘く淫らに蕩かされ抵抗など思い浮かばず、逆に男に流されて受け入れる事すら期待する様になっていく。自らねだる事など到底出来ないまま、全身の力が抜けていき、やがて強打した全身の痛みだけでなく骨折の痛みすら抜け落ちて柔肌を火照らせる甘い疼きに支配される。
 はぁ…っと漏れる甘い吐息に、瑞穂はキツく瞳を閉じた。あれから数時間経っても医師の余韻から抜け出せられない。もしかしてキスよりも淫らで深い行為をしてしまったのではないかと思うものの、羞恥心が強く性知識の乏しい少女はキスとは唇を重ねる行為だという認識から脱却出来ず、唇より外側で行われた行為が紛れもなくそれよりも淫らな行為だと認識出来ずにいた。頭の芯から真っ白になってしまうあの愛撫はやはりキスには到底及ばないのだろうか…だが思い出すまでもなく絡め取られた精神は医師の体温に、声に、溺れてしまう。
 舌だけであれだけの状態になる自分はおかしいのだろうか、いや、これが大人の世界では当然なのかもしれない。――少し揶揄われただけだからこそ、唇を奪わないのだろう。
 ずっと火照りの抜けない身体に、瑞穂は緩慢な動作でベッドの上で起き上がる。
 医師と共にあった時の痛みの麻痺は消え、全身の軋む様な痛みと骨折の痛みは戻っていたが、うっすらと掻いた汗の感触に少女は溜め息をついた。午前中に蒸しタオルで全身を拭われていたが、明日までの半日このままの状態である事は避けたかった。入浴の禁止などを特に言われていないのは全身の強打もあり少女がそこまで動かないと考えてのものなのだが、それを本人は知らない。
 入院が長引いていれば色々と雑貨も揃い、個室付属のシャワーで右腕のギプスを濡らさない為のビニールなども手に入れているかもしれないが、まだ洗顔セットなどの準備しかない少女はわずかに首を傾ける。昨日の朝のシャワーの後、夜に事故に遭い今日の午前中に清拭されてはいる。入院中であり全身打撲と骨折あっては仕方のない状態だと判っていても清潔に保っておきたい理由を考え、不意に医師の顔が脳裏に浮かび少女の頬が桜色に染まる。自分の担当医は他であり、入院中であってもさして会う可能性は低いであろう相手に次に出会う事態を一番に考える必要はない筈だった。だが母親や同級生の見舞いよりも先に思い浮かんでしまったのは出会ったばかりの大人の異性の顔であり、瑞穂は小さく首を振る。大人の男性が子供を揶揄っただけの事であり、恐らく気にしているのは自分だけなのだから早く忘れるべきなのだ…だが医師の顔や声や温もりを思い出すと胸が高鳴り頬が紅潮してしまうのが自覚してしまう。
 つまり、自分は医師に次に会う時の為に少しでも綺麗にしていたいのだろうか…まるで恋慕の様な精神状態に瑞穂は困惑する。相手は入院中の病院の医師である事以外は何も知らない、読書の傾向も好きな音楽も宗教も好物も何を好きで何を嫌うかも判らない相手に惹かれるなど少女にとっては理解出来ない状態だった。何を知って惹かれたかと問われれば顔と声と身体の逞しさと温もりと…そして舌と手の巧みさだけであり、それに惹かれたのであればそれは己がふしだらであるとしか思えない。揶揄った医師に罪はなく、己の浮つく精神の在り様が悪しきものなのだ。そう自覚した瞬間、少女は耳まで赤く染まり縮込まろうとして全身の痛みにベッドに倒れ込む。
 丁寧に育ててくれている両親への罪悪感と、自分のはしたなさへの嫌悪感に泣きそうになりながら、まだそれでも医師の顔が脳裏から離れない。それだけ衝撃的な行為だったのだろう、そう考えても戯れだと自分自身に言い聞かせても焼き付いた姿は消えそうになく、午後から徐々に上がってきた熱によるものなのか、身体の芯が熱く火照り湿った吐息が唇から零れる。
 せめて顔だけでも洗おうと軋む身体を起こして個室内のユニットバスへ向かいかけた瑞穂は着替えも済ませてしまうか考え、そして異変に気づく。煩悶とは違う事柄で顔が赤く染まり、そして夕食前に母親が持ってきてくれてクローゼットにそのまま仕舞っておいた大振りの旅行トランクから下着を取り出し、緩慢な動きの中での精一杯の早足でユニットバスへと進み、扉を締める。
 数日前に終わっている生理が事故の衝撃で乱れたのかと思いつつ下着を下した少女は、予想と異なり下着を汚している透明な液体に戸惑う。
 事故の衝撃でも粗相はなく昼前以降催した感覚もなかった筈なのだが何故下着を汚してしまったのか、障害が後で見つかる可能性を医師の言葉で思い出す。下半身が麻痺している自覚はないが強打の痛みに紛れて何かの異変に気づけずにいるのだろうか、まだ事故から一日経ったばかりで臓器の損傷が後々判明する例ならば医療系TV番組でいくつか少女も見聞きしており、緊張でこめかみの辺りが激しく脈打っているかの様な錯覚が身体を襲う。まだ精密検査前の為に表面化していないのか、自己申告をした方がよいのか…だが下着を汚す症状は例え女性看護士にであっても報告は躊躇われた。
 ――他にかすかに過るものがあったのだが、それは少女の想像の中ではキスですらない行為で生じる筈がない反応であり、未知の世界への羞恥もあって熟考を避けられていた。
 とりあえず下着を脱ぎ、洋式便座に坐った少女は溜め息をつき下腹部をトイレットペーパーで拭いびくりと身体を震わせる。ごく当たり前の行為である筈が、かすかに異変があった。普通は粘度のない液体を拭う筈なのだが、微妙に、ぬるりとするまではいかないものの若干気づくか気づかないかの粘り気を感じ、思わず少女はトイレットペーパーを見てしまう。特に血が混ざらず色もないが粘液質特有の光沢をわずかに帯びており紙への吸収が遅く、葛湯程重くはないその見慣れない液体に少女の顔が不安なものになる。誰に相談すればよいのか判らないまま何度か拭い、迷った後、生理用品を貼り付けた状態の新しい下着に少女は足を通す。
 院内のクリーニング店を利用している患者が多いとは聞いているものの、下着までクリーニングに出すのは少女の感覚では奇異な行為であり、右手だけで何とかユニットバスのカランで下着を洗い大して水を切れないまま空いているタオル掛けに干すと、小さな白い布からはぽたぽたとひっきりなしに水が垂れていく。
 ふぅと小さく息をつき、ベッドへと戻り力なく沈み込んだ瑞穂は不安と同時に襲う睡魔に瞳を閉じた。午後遅くからの発熱などもあり思いの外身体は疲れているのか一度力を抜くと抵抗する間もなく意識は深い場所へと吸い込まれてしまう。
 事故は自分が庇わなければ恐らく子供は死亡していただろうと聞いており、庇った事に後悔はなかった…だからこそ加害者も被害者も気に病まない様に出来るだけ早く完治して皆を安心させなければならない。これが事故の後遺症ならば隠すのではなく誰かに打ち明けなければならない、しかし二〜三日で収まる事なのかもしれない、そう沈みかけた意識で考えた瞬間に思い浮かんだ異性の顔に戸惑いながら、少女は眠りについた。

 ゆるやかに脈打つたびに左腕に痛みが走る。
 暑い。身体の負担にならない様に温かく設定されている室温は個室であっても患者が変更出来るものではなく、夏場の様な暑さではないものの、晩秋の気温に慣れている身体にはかなり高温に感じられる上に、空気が淀む直前の様な微風はその熱気を払うには弱すぎた。
 瞼が重く眠りの淵で微睡む中、消灯後の暗さを瑞穂は感じる。検温などがあった筈なのだが記憶は曖昧だった。
 静まり返った病室の中、廊下を歩く看護士だろうかワゴンのキャスターの音がかすかに聞こえてくる。昨夜は感じる余裕もなく殆ど眠ってしまっていたのだが、病院の個室の夜は静かで、静けさ故に周囲の音がはっきりと聞こえてくる。
 誰かがいる。
 声をかけるでもなく、ベッドの脇にいる人物が寝汗で額に貼り付いている前髪を整えてくれる感触がしたが、夢なのかもしれないあやふやな感覚に確証を得られない。額に触れない繊細な動きと、かすかな消毒液と煙草のにおい。前髪を整えられた後、不意に頭を上げられアイスノンが枕と後頭部の間に差し込まれ、発熱している頭への堪らなく心地よい冷たい感覚に少女は緩い息をつく。
 指が頬を撫でた。
 誰、と問いかけずとも相手は判っている気がした。
 看護士ならばまだしも医師による特定患者への手厚い看護などある筈がなく、ならばやはりこれは夢なのだろう…だがそんな夢でも少女の胸の奥に温かな火が灯る。指先から漂う煙草のにおい。周囲に愛煙家のいない少女にとっては慣れないにおいであり、確かに健康に支障を生じさせそうな気がするものの、不思議と煙草のにおいへの嫌悪感はなかった。
 不意に額に熱い物が触れる。蒸しタオルらしい熱い物が汗ばんだ額を拭い、そして瞼に、こめかみに、ただ表面を滑るだけでなく力を込め過ぎるでもなくタオルが絶妙な力加減で撫でていく。深夜であっても看護士に頼めば氷枕を準備して貰えるのだろうが、汗を拭うまではしてはくれないだろう。丁寧な動きの心地よさと拭われた後の爽快感に瑞穂は緩い息を漏らす。
 腕や全身の痛みは変わらず続いていたが心が満たされ、そして騒ぎ、顔を見たいと思いながら確認しようとした途端に夢が醒めてしまいそうで怖くなる。
 汗、つまりは汚れを異性に拭われると気づき、気恥ずかしさに自分で拭いたいと思うものの、触覚は明確でも身体が重く指一つ動かせない。その間も蒸しタオルは耳を拭い…そして少女はその丁寧さに気づく。午前中の介護士による清拭は的確で一通り速やかに拭われるだけなのだが、今少女を拭う蒸しタオルはまるでマッサージを施している様な時間をかけて繰り返されるものだった。耳の窪みなどもゆっくりと何度も熱いタオルが撫で、そして何本か蒸しタオルを持ってきているのか冷えてくると新しい熱いタオルに交換される。
 熱いタオルが心地よい。それは生理的なものであり爽快感である筈だったが、どこか異なる気がした。丁寧な動きが耳朶を、耳の裏を、まるで骨董品を磨く様な、いやそれより遥かに丁寧で艶めかしい動きで拭われる柔肌が火照っていく。糊の効いた袖がそっと枕と頭の間に差し込まれ、逞しいが引き締まった腕に抱えられうなじが拭われる。
 不意に、ネグリジェの第一ボタンに誰かの指が触れた。白い木綿の小さなくるみボタンを焦らす様に二・三度転がした後、ゆっくりと外され胸元深くまで拭われた瞬間、びくりと身体が震えた。
「――……」
 唇のすぐ近くに誰かの囁きを感じはするものの、その言葉は思考まで届かず、だが煙草と消毒液のにおいは鼻孔と薄く開いた唇の間から肺の奥まで浸透していく。はだけた胸元のその先で、仰向けの乳房の先端がむずむずともどかしい痒みに近い感覚を訴えてくる。鼓動が脈打つたびにかすかに布が擦れ、少女の唇がかすかに震え吐息がこぼれ至近距離からの湿った息と溶け混ざり合う。
 指が前髪を優しく摘まむ。
 しばしの間の後優しく寝衣を整えられ、そしてその人物は静かに眠りを覚まさぬ様に退出していった。
 病室の気温は変わらないままでありながら、不思議な程身体が楽になった感覚の中少女は緩い寝息を漏らす。翌朝、この曖昧な記憶が夢か現実か判らず困惑するなど予想もつかないまま、少女は拭われた心地よさに身を委ね深い眠りに落ちていった。

 茫然としたまま過ごした入院三日目は気づけば昼をとうに過ぎていた。
 全身の痛みは若干和らいだもののまだ自由と呼ぶには程遠い状態であり、午前中に全身のCT検査と採血も済みベッドの中でうとうとと微睡む時間が多いのは予想外に身体の負担が大きかったのかもしれない。事故関係者からの精密検査の薦めもあって入院が長引き、入院中の勉強の遅れも気になる所なのだが差入れられた教科書と問題集はあまり捗っていなかった。利き手が不自由な為なのも否めないだろう。
 微睡んでいる間に夢と現実が曖昧になっていく…もしかするとあの医師の存在も夢だったのかもしれない、と思えてくる程に。
「食欲がないのかしら?」
 昼食のトレイを下げに入室してきた看護婦に不意に話し掛けられ瑞穂は慌てて首を振る。
「あの、動かない為でしょうか…あまり入らなく…申し訳ありません」
「寝てばかりだとそんなものかもしれないわね。歩き回れる様になったら自然と食べる様になると思うわよ。――あら?」
 食事を残してしまう申し訳なさに頭を下げる瑞穂に看護婦が明るく笑いかける。元からやや食が細い為動ける様になってもそうは入らないのだろうが…曖昧に頷く瑞穂の前で不意にベッドの脇で身を屈め、拾い上げた物を差し出した。
「?」
「落とし物どうぞ」
「え…あの……」
「夕御飯は食べられるといいわね、じゃあ」
 差し出された万年筆を反射的に受け取ってしまった瑞穂は、返事も待たずに軽快に退出していく看護婦に一礼してから掌に乗せられたものを見つめる。
 見覚えのない万年筆はありがちな葉巻に似た太いシルエットでなくどちらかと言えば細身で、模様などのないシンプルなデザインだが思いの外ずしりと重い。一見黒に見えるが光を当てると群青と判る胴といぶし銀の金具が上品でまだ高校生の少女であっても高価な品物と判る。
「でも……」
 入院してから数人見舞いに訪れているが瑞穂は万年筆の主を思い浮かべようと首を傾げる。事故の車の所有者の代理人、子供の両親、同級生、母親…と、昨日の夕食直前に部屋の清掃があり彼らはそれ以前の見舞いだったのを思い出し落とし主である可能性から消去し、そして昨夜の夢を思い出し頬を染めた。
 夢ではなかったかもしれない。だが、看護婦が紳士用万年筆を使用していてもおかしくはない。愛用している筆記具を紛失したのならば不自由であろうと考え、守衛か看護婦に届けるべきかとゆっくりとベッドから起き上がろうとし、瑞穂は予想以上の身体の軋みにちいさな声を漏らす。二日目よりも身体の痛みが増している気がして不安を感じつつ上半身を起こし、少女はじっと万年筆を見つめた。
 検温の際に看護婦に落とし物として渡せば持ち主に届くのかもしれない。だがあの医師の物ならば昨日にしても表立ってこの病室に訪れてはいない異性として迷惑をかけてしまう可能性がある…担当医でなければ病室に入ってはいけない決まりがあるとは思えないが、患者の舌を舐めてしまうのはあまり一般的ではない筈であり、瑞穂が医師を訴えるつもりはなくとも疾しい後ろめたさは秘め事としての処理を促す。
 ただ一人、医師に確認だけ出来ればあとは落とし物として看護婦に届けてしまっていいだろう…清掃業者の物でも看護婦の物でもそれでいい。そう考えつつ少女はおずおずと万年筆を胸の前で握りしめる。病院はシフトなどがあり土日以外は毎日出勤するサラリーマンと異なり平日ならば必ず出勤しているとは限らない、だがシフトを確認する手段は少女にはない。サイドテーブルの上の文庫本に挟んでいる名刺の裏面に書かれていた携帯番号を思い出すが、医師の物か確実でない落とし物を確認する為に電話をかけるのは何故か躊躇われた。少しだけ数十秒だけ時間を貰い、確認するだけでいいのならば電話でも同じ筈なのだが。
 そっとスリッパに足を通し、瑞穂はゆっくりと立ち上がった。全身が軋む様に重いが動けない程ではない…安静の意味ではこれは決してよい事ではない、そう感じているのだが心の中の理解不能な衝動が行動へと促している。病院内から抜け出すでもなく、先刻の看護婦との話でも寝たままでは食欲が湧かないとあったのだから、少しだけならば歩くのも許されるだろうと内心言い訳をして瑞穂はネグリジェの上にショールを羽織り病室から抜け出した。

 救急で搬送されたのもあり自宅からもやや離れている病院内に疎い瑞穂は、エレベータで降りた一階のロビーの人の多さに困惑してしまう。
 大勢人のいる場所にネグリジェ姿で出てしまった気恥ずかしさに病室へ戻ろうと振り向いた時にはエレベータの扉は既に閉まっており、仕方なく少女はロビーの近くから離れようと逆方向へと歩き出す。所々にある案内図を見れば整形外科の場所も判るであろう。
 平日の午後にも外来診察があるのか人気の絶えない通路から新棟と旧棟の間の中庭へと出、ざわめきから遠ざかり瑞穂は安堵の息をつく。背後の扉に手を添えたまましばし急ぎ足の疲れによる呼吸の乱れを整え、目の前の中庭に視線を向けた少女の大きな瞳が柔らかに和む。
 晩秋の庭は春夏の華やかさを失い芝の色もくすみ寂しげだが穏やかな黄金色に染まっていた。小さな噴水から池に注ぐかすかな水音と、新館屋上庭園とは異なりやや手入れを怠った感のある常緑樹のどこかに隠れているであろう鳥のさえずりに耳を傾け、ゆっくりと力を抜いた時不意に少女の胸に何かが過る。
 胸が締め付けられる感覚に和んでいた瞳が揺らぎ、風が遮られる為か屋上よりも暖かい中庭で不意に寒さを感じた少女は自分の腕を抱いた。晩秋の屋外なのだから寒いのは当然なのだが感じるものは温度的なものとはどこか異なる気がする。
 古くからのものだろう小さな庭園の隅のベンチに腰を下ろし、瑞穂はゆっくりと息をつく。本調子ではない身体には病室内の暖められた空気の方が良いとは判るものの、自然な微風のかすかな冷たさと日差しの暖かさが心地良い。
 普通ならばまだ授業を受けている時間である。ごくありふれた校舎、窓際の席から見下ろすグラウンド、古い黒板にあたるチョークの乾いた音。坂の途中にある戦前からの古い洋館、飴色に染まった木の桟に縁取られたサンルームに面した居間、祖母の代からのアップライトピアノ。身体を治して早く戻らねばならない場所が脳裏に浮かぶが、戻らねばならない場所であって今自分が希望するものとはどこか異なる違和感に少女は独り小首を傾げた。
 不意に近くで鳴ったぱきりと乾いた小枝の折れる音に、瑞穂は驚いて瞳を開き、そして黄金色の風景に溶け込みそうな白衣姿に更に瞳を大きく見開く。
 病棟のオフホワイトの外壁から様々な琥珀色と柴色と鈍色の木の葉と幹、まだ昼間であっても煙る様な色合いに染まる景色の中、白衣姿の医師の服と漆黒の髪が晩秋の陽射し光を受けた場所だけ蜜色に溶ける。広い肩幅と均整のとれた長身に冷淡な印象を与える端正な顔立ちを認めた瞬間、瑞穂の鼓動が一つ大きく鳴った。
「思ったより従順ではない娘だな」
 夢だったのではなかろうかと考えかけてすらいた深い硬質な声音にしばし呆然としていた瑞穂は、医師のわずかに笑いを含んだ声に我に返り、次に医師に何を咎められたのかが何度か瞬きを繰り返す。
「あの……?」
「歩き回っているが要安静と言われなかったのか?」
「いいえ、特に安静とは……」歩き回れるまで少しかかると言われたのは事実だが特に行動の制限をされていないのは事実である。「――もしかしていけませんでしたか?」
 病状の悪化と後遺症を連想し、直前までの夢を見ている様な高揚から一転不安になる少女に医師が少し悪戯っぽい嗤いを口の端に浮かべた。
「そうだとしたら?」
「困ります」
 揶揄われている事も判らず即答する少女に医師がかすかに笑う。冷淡な表情を浮かべている時は超然として年齢不詳な落ち着いた風情なのだが、笑うと年齢相応な面持ちになる…が、それでも皮肉屋な印象なのは整った顔立ちと鋭い目元の為かもしれない。
 何故笑われたのか判らず戸惑いながら小首を傾げた少女の視線に気づいたのか医師の顔からすっと笑いが消え、再び冷淡なものに表情が変わる。
「一応カルテを見させては貰ったがまだ全ての検査が終わってはいないからな。用心に越した事はない。無理でないならばいいが、まだ歩くのは辛かろう」
「ぁ……、それ…は……はい……」
 昨日の見送りの後に疲れが一気に増した感覚があったのだが、それは医師の悪戯に精神的に消耗した面も否めない気がして瑞穂は口篭もる。それと同時に医師の舌の感触を思い出した瞬間顔が熱くなり反射的に口元に指先を当てる少女には、その姿に嗜虐的に目を細めた男の表情は判らなかった。
「それで、ここまで降りてきたのは何かあったのか?」
 その問いに少女の腿の上に乗せられたギプスに包まれている腕がぴくりと揺れる。ギプスとネグリジェの間には持ち主不明の万年筆があるのだが、何故かそれを目の前の人物に差し出す動きに繋がらず、少女は内心混乱し戸惑った表情のまま医師を見上げた。
「あ、あの……。万年筆が、部屋に落ちていて…何方の物か判らないので……」
「ああ、どこに置いてきたかと思っていた」
「先生はなくされて……?」
 どきりと高鳴る胸の鼓動に少女の頬が熱く染まる。昨日の夕方以降医師が部屋に訪れている筈はない、いや検査で部屋から離れている間に回診か何かで立ち寄って貰えたのかもしれない。だが、昨夜誰かが病室に訪れていた曖昧な記憶が招く羞恥心と困惑と胸の高鳴りに医師から視線を逸らせ俯いてしまう。
「受け取りに行けばいいか?」
「……。は……はい……ぁ……ぃ、ぃいえ、あの、お届けに……」
 医師は昨晩自分が汗を拭って貰えたと気付いている前提で話しているのだろうか?確認してお礼をせねばならない筈だが恥ずかしさに問いかける事が出来ない。
「歩き回らず大人しくしていろとはっきり命令しないと判らないのか?」
「すみません……」
 冷淡な響きの声音に疎まれているのではないかと不安になりながら、だがその声を聞き続けたい気がして瑞穂の唇が頼りなく震える。あの舌の愛撫を嫌でも思い出してしまう身体がほのかに火照り、桜色に上気する肌が甘い香りを漂わせる中、縮こまらせてしまう身体の奥から温かい物がとろりと染み出す感覚にびくりと強張る。
「どうした?」
「な…んでも…、ないで……す」
 粗相をしてしまったかと耳まで真っ赤に染まる瑞穂の頬に医師の手が触れ、そっと促す様な力で小指が顔を上げさせる。小刻みに震える全身と恥ずかしさのあまり涙の滲む瞳に医師のやや憮然とした表情が映り、瑞穂は触れている医師にしか伝わらない小さな動きで何度も首を振る。
「すみません……っ、自分でも判らなくて…は……はずかしくて、変……なんです」
 医師に触れられたら瞬間から更に激しくなってしまった動悸に、瑞穂は泣きそうになりながら説明しようとするが言葉が冷静に紡げず弱く首を振る。万年筆を早く医師に返さない自分の疚しさがいけないのだろうか、自分の行動が判らず、それでも手元の品物を医師に差し出すという簡単な行動が何故か出来ず少女は長い睫毛を揺らす。
「何がおかしいのか?」
 嗜虐的なものでなく医師としてのものらしい穏やかな問いの声音に瑞穂は何度も深呼吸を繰り返すが、その間も急かされず優しく待たれている少女の髪を微かな風が撫でていく。
「お医者様としてきいてくださいますか……?」
「当然だ」
 看護婦に言う方がまだハードルが低い筈なのだが…しかしやはり分泌物の話は異性にすべきではない気がしてならないのは十七歳の少女として当然であっても、不思議と医師への信頼感が背を押していた。それでも医師の顔を見上げて話す事など出来ず、少女は直接的な表現を避けて説明を始める。

 婉曲な説明を我慢強く聞き続け時折問い返す医師に、徐々に病状の申告なのだと落ち着きを取り戻してきた少女の頬を不意に医師の指が撫でた。
「――っ?」
「とりあえず痛みが特別になければ…そうだな勉強に集中出来るかを試せ」
「勉強、ですか?」
「苦手か?」
「いいえ。欠席で授業に遅れるのも怖いですし必要とは考えておりました」
 骨折と打撲が由来らしい痛みがあっても、頭痛などの脳に関しての問題は意識していなかった瑞穂は医師の提案に表情を引き締める。全身の痛みと切り離して認識出来るものがあるならばそれは確かめてみるべきなのだろう。
「出来るだけ長時間。そうだな夕食後から消灯時間までがいいか。清拭などをしたいのならば夕食前に済ませて、後は歯磨き程度に。問題があればすぐに中止。あとは…様子見だが場合によっては検査を」
「はいっ」
 具体的な指示に瑞穂は安堵の息を漏らす。自分だけで悩んでいた間は解決法など一切思い浮かばなかったのが嘘の様だった。気恥ずかしい状態の説明よりも症状の始まりや周期や痛みの有無などの確認が主観的でなく診察室と違うのは触診や検査のないだけの問診そのものだった事が羞恥心を払拭してくれている。
「安心したのならば病室に戻れ。ここは少し寒い」
 差し出された医師の手に手を乗せ、わずかに腰を上げかけた瞬間、腿の上に乗せていた万年筆がネグリジェの上から足下へと滑り落ち煉瓦の上で硬い音を立てた。
 説明の間に忘れてしまっていた秘密に凍りつく瑞穂の前で医師が長身を屈ませて細い万年筆を拾い上げ、興味深そうにそれを見る。
「あ……」
「落とし物、か」
 先刻の話から考えればそれは本人の物で間違いない筈だったが、凍り付いてしまった少女の反応を確かめる様に薄い嗤いを医師は口元に浮かべつつ指先で万年筆を揺らせた。呆然と立ち尽くす瑞穂の前でクリップの先をくいと拭い、少女の唇の下にあてる。
「あ…の……これは……」
「すぐには無理だが、受け取りに行けばいいのだろう?」
 恥ずかしさに婉曲な表現ばかりになってしまった症状を根気良く聞いてくれていた医師のものとは異なる意地の悪い表情に、少女の顔がかぁっと熱くなった。
 もしかしてこの万年筆は医師の物でなく、他の万年筆が部屋にあるのだと認識しての行動なのかもしれない。そうなのだとすれば無くした万年筆が見つかったと喜ぶ医師は糠喜びになってしまう。それは避けなければならない、だが何故か告げられずに少女は魅入られた様に医師を見上げたまま動けなかった。全身が脈打つ様にどくどくと早い鼓動が鳴り響き、医師の切れ長の目に意識が吸い込まれてしまう感覚に頭の芯が白くなるのは、万年筆の事を告げられないのが嘘をついている事になってしまうからだろうか。
「あの……」
 何を口にすればいいのか判らないままかすかに唇を動かす瑞穂の手が医師の手に引かれ、よろめく様に立ち上がった華奢な身体がふわりと抱き上げられた。反射的に縮込まる少女は至近距離に医師の首筋や顔を感じてキツく瞳を閉じる。昨日と同じ消毒液と煙草の臭いを嗅いだ次の瞬間に身体の芯が熱くなり、胸と下腹部がきゅっと締め付けられる感覚に更に顔が火照り吐息が震えた。
「あ、あ…歩けます……私、あるけます……」
 情けない程細い声しか出ない少女の制止を無視して男は小さな中庭を歩き出す。歩くと言ってもたった数十歩で終わってしまう距離だが、男の腕の中で揺られる少女にとってはその一歩一歩の振動と異性の腕の力の入り方の微かな違いだけでも眩暈を起こしそうな程悩ましい。
「力が入らない上に熱がある」
 扉を肩で開け通路に入りながら冷淡な口調で言う医師に、瑞穂はそろそろと瞳を開けてその顔を見ようとしてまた気恥ずかしさに瞳を閉じる。中庭ならばまだしも、建物内に入った途端に蘇った人の気配は異性の腕の中にある気恥ずかしさで少女から一切の行動を奪ってしまう。
 通路の窓際に並ぶソファの一つにそっと下ろされた瑞穂の膝の上に万年筆を乗せ、医師が離れてしばらく経ち、見覚えのある看護婦が空の車椅子を押して迎えに現れた時、その胸に浮かんだのは安堵ではなく少し物足りない何かだった。――冬の訪れを感じさせる秋風が足下を抜けていくのに似たその感覚の正体が、瑞穂には判らない。

 看護婦を発熱で心配させてしまった為に病室に戻ってからはベッドで暫くの間大人しく横になっていた瑞穂は、サイドテーブルの上の万年筆をじっと見つめる。
 実際にこの万年筆は誰の物なのだろうか? 何故医師に別人の物と言えず、看護婦にも質問が出来なかったのか自分でも判らず、少女は小さな溜め息をつく。
 病室に戻ってすぐにハンカチで磨いたそれをじっと見つめても答えは出ず、また溜め息をついた瑞穂は時計を見て夕食の時間まであと一時間を切っている事に気づいた。
 夕食後は就寝まで勉強に充てるのだから今のうちにせねばならない事は意外と多い。逆に夕食後から就寝直前までの学習時間はそれなりに長く、授業の遅れが気になる立場としてはちょうど良い機会と考えられなくもなかった。
 父親の赴任先に一旦戻った母親への安否報告と、本日の授業内容と試験の範囲等をメールで送ってくれていた友達への返信などを済ませてみるともう三十分を切っており、少女はやや戸惑った表情を浮かべてユニットバスへと向かった。
 市民病院の新館の中でも上位のランクと聞く個室のユニットバスは瑞穂が考えていたより広く、車椅子のままでも入る事の出来るバリアフリーな広い床と介護し易い様にか所々に手摺りが付いている。広いフロアには洋式便座と大きな洗面台の他に、同じくバリアフリーで浴びられるらしい広いシャワー空間が付いていた。湯船がないのは些か物足りない気がするのだが、介助しつつの入浴はもっと空間が必要になるかもしれないし、瑞穂の様な要介助でない患者が湯船で入浴中に溺れる危険性を考えて設置されていないのかもしれない。
 ユニットバスと称するにはかなり広い贅沢な空間でしばし悩んでから瑞穂はネグリジェをするりと脱ぎ、下着を下ろした。一瞬不安だった緩い粘液が生々しく生理用品に溜まっている様子はなく、だが表面のシートの下には何か液体を吸収しているらしい跡が見え、少女は小さく溜め息をつく。医師に相談したのだし腰痛も腹痛も…打撲由来の物以外は特に感じていない状態であり、現状緊急性はないだろうと言われていても、やはり慣れない事態は少女を困惑させる。
 腰までの漆黒の髪は事故後しっかりと洗えてはおらず、水不要の整髪料の様な物で一応洗われたに近い状態だったが、少女にとっては毎日の洗髪が出来ないのは辛い状態だった。今度母親が見舞いに訪れる時には何とか洗える様に頼んでしまうかもしれない程度にはストレスになっているが、やはりギプスをどうにか濡らさない対策がないとこっそりと一人で洗う事は出来そうにない。
 翌日の午前中には清拭があるとは判っていたが、生理用品の跡を見た瑞穂は堪えきれずに髪を結い上げてシャワーへと向かった。
 ギプスを濡らさぬ様に意識して右腕を手摺りに添え、温度を高めに設定したシャワーを浴びた瞬間、心地よさに小さな緩い息が漏れる。熱い蒸しタオルによる清拭も心地よくはあるものの、熱い湯を直接浴びる恍惚感には残念ながら及ばないだろう。
 入浴用のスポンジやブラシの準備はしていない為、しばしシャワーを浴びた後、ハンドタオルと備品の使い切りタイプの石鹸で身体を洗い始める。油断をすると右手も使おうとしてしまう中、打撲痛もあってぎこちなく身体を洗っている間に少女の頬に赤みが差す。
 医師の手の感覚。昨日の医師の戯れの間、ただ舌を絡ませただけではなく医師の身体は少女に何度となく触れていた。つい動いてしまいそうになる顔に指が顎を捉え、指に指が絡まり、医師の身体がベッドの上で少女の身体に覆い被さり、そっと、ネグリジェの上から指が身体をなぞる。
 熱い吐息が小さな唇から零れ、少女の初々しく清楚な顔立ちが悩ましさと困惑の混ざったものになる。
 手首や腕や腰を強く捉えられたのは無意識に瑞穂が大きく動いてしまう時ばかりであり、抱き締められたのとはどこか違う。いっその事、はっきりと医師の手が乳房や腰を揉みしだいてしまっていればそれを淫らな愛撫と断定出来たのだが、あくまでも医師の明確な愛撫は舌に集中しており、身体へのものは少女が意識し過ぎていたのだと言われてしまえば納得せざるを得ない気がした。――それこそ疼かせる技術だとは思いも寄らなかった。
 医師の動きを思い出してしまう少女の瞳が光を失い、ハンドタオルを操る手が微かな圧力を真似て乳房の上で弧を描く。華奢な姿態と比べると豊かに形よく膨らんだ乳房の上で石鹸の泡が乗ったハンドタオルが滑り、そっと、だが同じ刺激を求める様に何度も乳房をなぞる動きが繰り返され、石鹸の匂いと少女の匂いが徐々にユニットバス内に篭もっていく。
 考えてはいけない事がぼんやりとする少女の思考に浮かぶ。――異性と結ばれるとは、どういう事なのだろうか。全裸で肌を寄せ合い、絡め合い、そして唇を許し……。
 びくんと少女の身体が跳ねる。
 下腹部の奥を洗おうとした瞬間、明らかに今迄と異なる明確な刺激に全身が跳ね、だが何故か打撲痛は襲ってこない。それよりも強い堪らない刺激が爪先まで一気に駆け抜けて足腰が砕けそうになる上に、ハンドタオル越しの滑る感触は石鹸とは異なる葛湯の様な慣れないものだった。
「ぁ……」
 ハンドタオル越しに感じる違和感と一瞬の強い刺激の後はいつまでも引かない波の様に腰に残る甘い感覚に、何をどうすればいいのか判らず呆けてしまう少女の腰が床に落ちる。即座に脳裏に浮かんだ医師の顔は、処置法を確かめたい不安と甘い感覚のまま縋りたい不謹慎な疼きの両方からのもので更に少女を混乱させる。
 シャワーの湯を止めておいてよかったと、とりあえずぼんやりと思考の隅で考えた少女はユニットバスの外の音に凍り付く。
 しばしの間の後、ユニットバスの扉がノックされ、恐慌状態に陥りそうな状態で身動き出来ない少女の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
《室生さーん、夕御飯テーブルの上に置きましたよー?》
「は、はいっ。ありがとうございます」
 反射的に返事をした少女は微かな物音と気配を感じなくなるまで固まり続け、やがて全身で息をつく。
 直前まで感じていた甘い感覚が憑き物が落ちたかの様に急に怖いものに変わり、やがて恐る恐る動かしたハンドタオルの向こう側の滑りは不安を掻き立てる方ばかり強くなっていた。泣きたい気持ちで石鹸で入念に洗い、それが疲れを招いたかの様に全身の打撲痛が甦る。
 石鹸を洗い流してバスタオルで身体を拭いていた瑞穂は、大型洗面台の大きな鏡の中の自分の不安と困惑ばかりの顔に小さな溜め息をついた。

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初校9811040156
改訂版1402030448

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